ある風 村山槐多
ある風
空に響く不思議な物音
細い喇叭の鳴る樣な
それはある風の横ぎる音だ
凉しい美しい顏の飛びゆく音
それを絶えず寒い野蠻な風が追ひまくる
小鳥の樣に綺麗な風はにげ廻はる
空に響く美しい物音は
それできこえたりきこえなかつたのだ
美しい眞晝
私はそのある風の音に耳澄まして
一日野原で寢そべつた
×
春のひぐれに眼がかすむ
心もかすむ
そぞろ歩くうら若い女たちも
空も地も
みんなかすむ
私の心が殊にかすむ
飛んで消える樣なさみしさに
ああ、なんてさびしいのだららう
ちつともうれしくない
洒の樣に強い春の空氣の中の
このさびしさはなんだい
ああ眼も心もかすむ
かすんで消えて入る
ひぐれの空に
いつのまにやら私は
はてしらず物ういかすみの中へ落ちてゆく
×
物はこまの樣に私のまはりにまひめぐる
私は見つめて居る
モナリザの笑ではないか、その時の私の笑は
靑いこま
赤いこま
黄ろいこま
みなくるくるくると舞つて走る
私はこまつかいだ、
×
善い藝術には面と會つた事がない
所が善い女には會つた
そこで私は夢中になる
藝術以上に
何んの不思議があるのだ、
×
藝術を作り藝術の悦樂に身を沈めて送る月日こそ黄金時代だ
自分は未だその時代は知らぬ、自分はいま哀れなる身だ、何故なれば未だ
その法悦に浸り得ない多くのぼんのうを持つて居る、
いつかはそれを解脱しやう
要は魔羅の鎭まる時をまつ事だ、
魔羅と藝術との戰はいつ果てる事か、
×
ぶどう酒を盛つた樣な顏の
うつくしい生きた女はどこに居る
×
心と肉とはいつまで和せずある事か
われその惱みをつづく
×
惡者は薔薇の園にかくれて泣けり
美しく可愛ゆく照る物の中に
その身を埋めてひた泣きに泣く
この惡者こそわれなりき
ジゴマよりも惡き者、
×
神よ君はわが身を靜に見て居給へりや
澄みし眼をもて
美しき君よ
君の凝視ある故に
惡業を重ねてなほわれは生き永らふ
伏してあやまる君ある故に
われは絶えざる惡業をつづけ得
神よわれを許し給へ
いつもいつも淸く美しき無心の眼もて
叱るともとがむるともなく見つめ給ふ
美しき神よゆるしませ
惡業はわが幸なり
わが身の惡業の日重なるにつれて
われは君の美しさを更に深くも感ずれば
×
心の底よりわれ悔いて
澄みたる神の眼を仰ぐ
許し給へ
過去を許し給へ
君の眼の如くわれ澄みわたらん
この今、
たとへ明日はまた罪を犯すとも。
[やぶちゃん注:本詩中に、「春のひぐれに眼がかすむ」とある。これが共時的な嘱目吟であるとすれば、私は、恐らくは彼が最初の結核性肺炎の症状を呈する直前の創作ではないかと推理する。「全集」年譜の大正七(一九一八)年の四月の条によれば(下線やぶちゃん)、『美術院第四回秀作展に「樹木」「自画像」「九十九里の浜」「男の習作」外二点を出品し、美術院賞金(甲種)を受く。大作「風船玉をつく女」未完成に終る』とあり、その頃、『根津六角堂』(本来は現在の台東区谷中にあった東京美術院所有の建物で明治三一(一八九八)年九月に竣工した木造二階建て。同院が明治三九(一九〇六)年十二月に茨城県五浦に移るまでの活動拠点であったが、これは移築されているはずから、所謂、その「六角堂」に後に建てられた同名の建物か)『中に山崎省三と再び共同生活をはじめる。槐多は毎日一枚はコンテの自画像を描いた。神に祈るような敬虔な槐多と、生殖器を描いた絵の反故のなかで眼を光らせている槐多とが激しく交替する日々の連続であった』(この文は実に本詩篇を髣髴とさせる)とあるが、次に『四月中旬』(原本もゴシック太字)として『突然、結核性肺炎におそわれる。友人、知己の看護で治る』とある(「治る」というのは無論、急性の肺炎状態は取り敢えず小康状態にという謂いである)。以降の詩篇には既にあった魂の形而上的死の傾斜にも増して宿痾たる結核による現実的な死のイメージが陰影を加えてゆくことになるのである。
「それできこえたりきこえなかつたのだ」はママ。
「こまつかい」はママ。あれほど歴史的仮名遣に潔癖な「全集」が、これはママである。実に訝しい。弄ることを確信犯とするならテツテ的にせよ、洩らすなら、やるな! と言いたいのである。
「解脱しやう」はママ。
「要は魔羅の鎭まる時をまつ事だ、/魔羅と藝術との戰はいつ果てる事か、」この箇所、「魔羅」を伏せていない。結局、底本は他も、神経質に伏せる必要はこれ、なかったんじゃないのかなぁ……。当時の出版事情にお詳しい方の御意見をお聴きしたいものである。
「ぶどう酒」はママ。
「ジゴマ」怪盗ジゴマ。これはこの大正七(一九一八)年の五、六年前、本邦で爆発的人気を誇った悪漢映画の主人公の名である。以下、ウィキの「ジゴマ」から引く。「ジゴマ」(Zigomar)は、元はフランスの作家レオン・サジイ(Léon Sazie 一八六二年~一九三九年)の書いたピカレスク・ロマン、怪盗小説シリーズで、ここでのそれは、それを原作とした映画の方の主人公で、明治末から大正初期の『日本で爆発的なブームとなり、多くの独自の映画・小説も作られ、子供への影響から映画の上映禁止にまで及んだ』。一九〇九年に『ル・マタン』紙に新聞連載小説(ロマン・フィユトン Roman- feuilleton)として掲載、連載後に単行本化されて全二十八冊が刊行された。『パリを舞台に変装の怪人ジゴマが、殺人、強盗などの犯罪を繰り返す』もので、早くも二年後の一九一一年には『映画化され、また同年に日本でも公開された。小説の邦訳は』後の、昭和一二(一九三七)年の久生十蘭訳『新青年』四月号別冊付録(『長篇探偵小説』と銘打って掲載された)が嚆矢らしいが、これは翻訳と言うものの、『ストーリーが原作とは変えられている部分も多い』とある。映画化は一九一一年エクレール社製作、ヴィクトラン・ジャッセ監督・脚色の「ジゴマ」(Zigomar)であったが、ストーリーは原作と大きく異なる。続編として同監督で翌年に「ジゴマ/後編」(Zigomar contre Nick Carter)が、翌々年に「ジゴマ/探偵の勝利」(Zigomar, peau d'anguille)が製作されている。『豊富なアクションシーンで、後に作られた「ファントマ」とともに、アメリカで流行する連続活劇の原形と言われる。また撮影トリックによる瞬間的な変装シーンなども先駆的な表現だった』。本邦では、映画「ジゴマ」が「探偵奇譚ジゴマ」の邦題で明治四四(一九一一)年十一月に福宝堂が買い付け、『浅草の金龍館で封切られ(弁士加藤貞利)、封切り当初から大評判となる。劇場には観衆が殺到し、客を舞台に上げるほどだった。これは日本における洋画の最初のヒットともなった』。気をよくした福宝堂は続いて「シリーズ第二弾」と称して、何と『女賊の活躍するまったくの別作品を『女ジゴマ』の題で』同年十二月から『公開、これも大ヒットとな』って、翌年(明治末年)三月まで上映された。第三弾は正規の『ジゴマ後編』(公開時は『ジゴマ続編』)を同五月より公開、「ジゴマ」「女ジゴマ」も再映し、続いて「第四弾」と謳って同六月(翌月大正に改元)にはまたしても類似の凶賊と探偵の対決物である「悪魔バトラ」を、第五弾として十月(既に大正元年)には女賊ソニヤの活躍する「ソニヤ」を公開した。以下、「和製ジゴマ登場」の項。『福宝堂のヒットに続こうと他の興行会社はジゴマ映画を日本』での製作にいち早く乗り出し、大正元年(一九一二)年八月には『吉澤商店製作の『日本ジゴマ』が公開、これは千人の手下を持ち日本ジゴマと呼ばれる怪賊荒島大五郎と探偵の追走・対決劇で、房総半島での当時としては珍しい大掛かりな実地ロケを行い、また外国映画の手法も取り入れたものだった。さらに続編として『ジゴマ改心録』、『大悪魔』を』九月に公開、エム・パテー商会も「新ジゴマ大探偵」なる作品をを同月に公開、『いずれも連日大入りの大ヒットとなった』。『東京でのヒットに続き、福宝堂の全国の上映館でもジゴマを公開。また弁士駒田好洋の巡業隊がジゴマのフィルムを番組に加えて』、同時に『地方巡業を行い、「頗る非常大博士」の名で知れ渡っていた駒田の人気も相まって、これも大入り満員続きとなった』。『映画のヒットに続き』、同年中に『映画の翻案や、独自ストーリーによる、舞台がフランスのもの、日本のものなど様々なジゴマの小説化も相次』ぎ(リンク先に類書二十三冊のリストが載る)、『これらは映画の人気に加え』、七月の『明治天皇崩御による演劇興行自粛による読書ブームの影響もあって多くの版を重ね、また他にも探偵ものバトラ、ソニヤ、大悪魔などのシリーズも刊行された。読者は主に小中学生で、書店、図書館、貸本屋を通じて読まれた』とある。ところが、こうした『ジゴマブームの中、少年層に犯罪を誘発するという説や、ジゴマの影響を受けたという犯罪の報道、泥棒を真似たジゴマごっこの流行などがあり、東京朝日新聞では』同大正元年十月上旬、『ブームの分析や影響』が八回連載で『取り上げられた。こういった世論の高まりの中』、同十月九日には、『警視庁により、犯罪を誘致助成する、公安風俗を害するとして、ジゴマ映画及び類似映画の上映禁止処分がなされた。これは内務省警保局も決定に関わっており、続いて各府県に対しても警保局から同様の通牒が送られ、上映禁止は次第に全国に広まっていった。この件を機に、それまで各警察署が行っていた映画等の興行の検閲が、制度的に整えられていくこととなった』。『しかしジゴマブームによって』、大正元(一九一二)年の映画を含めた東京市内の観物場入場者数は前年の三倍の千二百万人に達し(そのうち映画は八百五十一万人)、『活動写真界の大きな成長をもたらした。また探偵小説についても禁止処分を訴える論調が新聞などに出たが、これには処分は下されなかった』。『その後は、ジゴマの名を隠したジゴマ映画が散発的に上映されることはあったが、ブームは下火になり』、大正二(一九一三)年には『ジゴマ探偵小説の出版も無くなる。類似書としては、ジゴマの残党が登場する』、押川春浪「恐怖塔」(大正三(一九一四)年刊)や同年刊の江見水蔭「三怪人」などがあった。『また当時出版された探偵小説は、貸本屋、古本屋などを通じて読まれ続けた。』一方、この上映禁止は大正一三(一九二四)年になってやっと『解禁となったと、吉山旭光『日本映画史年表』には記載されている』とある。更に、『ジゴマは当時「ジゴマ式」「ジゴマル」(横暴、出没自在の意)などの新語も生み出し』た。大正四(一九一五)年には『「ヂゴマ団」を称する犯罪事件なども起きた』。なお、その後では、一九八八年の『映画『怪盗ジゴマ
音楽篇』(寺山修司脚本)や、同年の怪盗ジゴマの登場するテレビドラマ『じゃあまん探偵団 魔隣組』(石ノ森章太郎原作)などがある。江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズにも、ジゴマの影響があると言われている』とある。]