『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 窟堂
●窟堂
窟堂は松源寺の西山の根にあり。巖窟の濶(ひろさ)三間許。高七尺。其中巖面に不動の像〔弘法の畫く所と云〕を彫るのみ。今は堂宇なし。
[やぶちゃん注:妙にあっさりしている。「新編鎌倉志卷之四」を私の注ごと掲げる。……実はここは……私の個人的な記憶の中にある、ある苦い思い出の場所で、そこで自分が発した愚かな言葉なんどもよく覚えているのである……さればこそ……恐らくは二度と行かない……場所である。……
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〇巖窟不動 巖窟(いはや)不動は、松源寺の西、山の根にあり。巖窟の中に、石像の不動あり。弘法の作と云ふ。【東鑑】に、文治四年正月一日、佐野太郎基綱が窟堂(いはやだう)の下の宅燒亡。鶴が岡の近所たるに因て、二品〔賴朝。〕宮中燈に參り給ふとあり。此の處の事ならん。此前の道を巖窟小路(いはやこうぢ)と云ふ。【東鑑】に、大學の助義淸、甘繩(あまなは)より、龜谷(かめがやつ)に入。窟堂の前路を經るとあり。此路筋(みちすぢ)ならん。【東鑑】には、窟堂とあり。俗、或は岩井堂(いはゐだう)と云ふ。巖窟堂(いはやだう)、今は教圓坊と云ふ僧の持分なり。昔しは等覺院の持分なりけるにや。岩井堂日金事、可被立卵塔之由承候、先以目出候、然者、自御万歳夕、至于三會之曉、留慧燈於彼地、可覆慧雲於他界給之條、殊以令庶幾候之間、以彼所、限永代奉避渡候了、兼又同以被申方候之由承候、其段可令存知候也、恐々謹言、應永卅三年七月十七日、等覺院法印御房へ、尊運判とある〔尊運は、今河朝廣(いまかはともひろ)の子なり。〕状あり。又岩井日金事、如來院僧正、任證文、成敗不可有相違候、恐々謹言、五月九日、等學院へ、空然判とある状あり〔空然は、古河(こが)の源の政氏(まさうぢ)の子。〕
●「巖窟不動」は現在の窟不動を祀る窟堂(いわやどう)。現在の小町通りを八幡宮方向へ突っ切り、鉄(くろがね)の井の手前を扇ヶ谷へ向かう左の小道に折れて窟小路を行くと、横須賀線の踏切の手前にある。
●「教圓坊」は「鎌倉攬勝考卷之七」の「巖窟不動尊」では「散圓坊」とし、尚且つ、僧名ではなく小庵名とする。
●「等覺院」とは鶴ヶ岡八幡宮寺の十二箇院の内にある等覚院のこと。「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」を参照。
●「尊運」は当時の鶴岡八幡宮寺別当(応永二十四(一四一七)年~永享三(一四三一)年在職)。八条上杉朝広の子(本文の「古河」姓については調べ得なかったが、この朝広の実母が今川上総介泰範室であることと関係するか)、扇谷上杉家当主上杉氏定の養子となった。尊運書状は「鎌倉市史 資料編第一」所収の文書第七七号で校訂した。以下に、影印の訓点に従って書き下したものを示す(送り仮名を補訂した)。
岩井堂日金の事。卵塔を立てらるべきの由承り候ふ。先づ以て目出(めでた)く候ふ。然れば、御万歳夕べより、三會の曉に至りて、慧燈を彼の地に留して、慧雲を他界に給ふべきの條、殊に以て庶幾せしめ候ふの間、彼の所を以て、永代を限り避り渡し奉り候ひ了んぬ。兼て又、同じく以て申さるゝ方候ふの由承り候ふ。其の段、存知せしむべき候ふなり。恐々謹言。
應永卅三年七月十七日
等覺院法印御房へ
尊運判
以下、空然書状を影印の訓点に従って書き下したものを示す(送り仮名を補訂した)。
岩井日金の事。如來院の僧正、證文に任じて、成敗相違有るべからず候。恐々謹言。
五月九日
學院へ
空然判
●「源政氏」は足利成氏の子で、第二代古河公方。その子である「空然」(「こうねん」と読む)は足利義明(?~天文七(一五三八)年)のこと。若くして法体となり、鶴岡八幡宮若宮別当(文亀三(一五〇三)年~永正七(一五一〇)年在職)にあった。永正の乱で父政氏と兄高基(後の第三代古河公方)の抗争が勃発すると還俗、父兄双方と対立して自ら「小弓公方」を称した。北条氏綱との国府台合戦で戦死。]
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「三間」五・四五メートル。
「七尺」二・一二メートル。]
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