紫の微塵 村山槐多 付 村山槐多画「稻生像」
紫の微塵(稻生の君に捧ぐ)
紫の微塵となりてわがなさけ
小春の靑き空に散る
麗はしの火花こそ散れ
薄靑き山春の空に
紫の微塵となりしわが戀よ
いづこに君をとらふとて
心の上に散りしぶく
噴水か花粉の如く麗はしく
紫の微塵は君にもつれつつ
君は派手なる燭めきて見え
空にはめたる寶玉の
面はしばし打霞む
紫の微塵となりてわがこころ
小春の空に散りしきぬ
なげきと空とすすりなく
火花と君といでかくる
紫の微塵となりて片戀は
玻璃をくだきて君に散る
いづこに戀をとらふべき
ただ微塵なれ綺麗なれや
紫の微塵となりてわが思ひ
君が姿のきらめきに
心耐へせず泣きめぐる
小春の空の麗しき靑き光に。
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そは紫にかきみだされし
美しき園の日かげなり
われらふたりくちつけし
ふたり薄紅く泣きしは
[やぶちゃん注:「稻生君」京都府立第一中学校の一級下の稲生澯(きよし)。槐多の、本篇を髣髴とさせる印象的な彩画が残る、槐多の熱愛した美少年の一人で槐多の短歌に「光の皇子」「プリンス」などと出る人物である。草野心平の「村山槐多」(昭和五一(一九七六)年日動出版刊)によれば、槐多が満十五、中学三年(明治四四(一九一一)年)の頃からと推測している。槐多は当時、鷗外・漱石・上田敏・ボードレール・ランボーを片っ端から読破、『特にエドガ・アラン・ポウの怪奇小説に心酔し、グロテスクな仮面を自分で作り、それをかぶって神楽岡辺りをぶらつい』たが、先の詩篇にも出たこの神楽岡(吉田山)にまさにこの稲生の家があったと記す。但し、草野はその後にまさに本篇全篇を引いた後、『われらふたりくちつけし/ふたり薄紅く泣きしは」そんなことは先づなかった。それは槐多が卒業するまで「美少年」と立話したのも三度位しかなかった筈である』と記すが、この主張には私は微妙に留保を表明したい(そもそも槐多より七つ下の草野は生前の槐多と交流があったわけではない。また、草野は別な箇所で『私自身は同性愛的世界にひどく冷淡』である旨を記した上で、槐多の同性愛傾向を『ひどくパルナシアン的なそしてプラトニックな同性愛だった為に、全く独自な浪漫の短歌が生まれた』などという、私に言わせれば本末転倒な論理を弄んでいるからである。草野が一般的同性愛感情に批判的でありながら、槐多の場合は純化されたそれであったが故に珠玉の詩や短歌を生み出せたなどと言っている、この謂いは、本質的に同性愛者を理解出来ない(潜在的に差別している)結果として引き出されるところの、ありがちな、頗る浅薄な、おぞましいステロタイプな似非文芸評にしか見えないからである)。
これは大正二(一九一三)年頃の画家村山槐多の手になる水彩「稲生像」である(彌生書房版全集からスキャンした。文化庁見解によって絵画作品を平面的に撮影しただけの写真には著作権は認められていない)。]