日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 元箱根から静岡を経て名古屋へ到着
図―649
翌朝は八マイルを駕籠で行く可く、夙(はや)く出発した。この運輸の方法は、如何に記述しても、それがどんなものであるか、まるで伝えない。第一、一台の駕籠に人が三人つき、彼等はかわり番に仕事をする。四年前の旅行記に、私は日本人が使用する普通の駕籠の写生をした。箱根には――恐らく他の場所でも同様であろうが――外国人向きにつくった、余程長く、そして重い特別な駕籠がある。彼等は駕籠を担って、道路を斜に行く(図649)。更代は屢々行われる。二人がかつぎ出して、坂路では約九十歩、平地では百四十歩を行き、そこで持っている竹の杖で駕籠を支えて肩を更え、再び同じ歩数を進むと、予備の男が前方の男と更代し、更に肩を更えた後、前に駕籠を離れた男が、後方の男と更代する。坂を下りたり、平地を行ったりする時には、彼等は一種のヒョコヒョコした走り方をし、連続的に奇妙な、不平そうな声を立てる。各人の肩にかかる重さは、すくなくとも百斤はあるが、これで休みなく、坂を上下して、八マイルも十マイルも行くのだから、体力も耐久力も、大きにある訳である。
[やぶちゃん注:この649図面白い。図だけを示して「何が書いてあるか?」ってちょっと人に質問してみたくなる。
「八マイル」十二・八七キロメートル。
「四年前の旅行記に、私は日本人が使用する普通の駕籠の写生をした」「第三章 日光の諸寺院と山の村落 9 モース先生駕籠に乗る――その決死のスケッチ!」を参照。
「百斤」既注。原文“a hundred pounds”。約四十五・三六キログラム。
「十マイル」十六・〇九キロメートル。]
この陸路の旅の旅程記を記憶することは困難であった。我々にはある日が一週の何曜日であるか一月の何日目であるか、判らなくなって了った。ある時駕籠旅行は素晴しく、ある時は飽々させた。美しい景色を見た。広くて浅いい河にかけた長い橋をいくつか渡った。興味のある茶店で休んだ。そしてあらゆる時に、この国民を他のすべての上に特長づける、礼儀正しい優待を受けた。我々は随所で、古い陶器や絵画やそれに類したものを探して、一時間前後を費し――浜松と静岡には一日いた――名古屋には数日滞在した。この旅行で気のついたのは、我々が泊った旅舎の部屋が、標語或は所感で装飾してあることで、そしてそれ等は翻訳されると必ず自然の美を述べたものか、又は道徳的の箴言、訓戒かであった。酒を飲む場所にあるものでさえ、これ等の題言の表示する感情は、非常に道徳的なものである。私は日本では酒場は見たことが無いが、これ等の上品な所感や、道徳的な格言を見た時、我国に於る同程度な田舎の旅籠(はたご)屋と、公開の部屋部屋で普通見受ける絵画とを、思い出さずにはいられなかった。このような所感の多くは、支那の古典から来ている。四つか五つの漢字が、如何に多くを伝えるかは、驚くばかりである。一例として、ここに
Facing
water shame swimming fish なる五つの漢字を並べたものがあるが、これを我々の言葉で完全に述べると、「魚が平穏と安易とを以て泳いでいる水のことを考えると、我々がこのように忙しい人間であることを恥しく思う」ということになる。これがどこ迄正しいか私は知らぬ。翻訳は我々の通辞がやったのである。
[やぶちゃん注:「Facing water shame swimming fish なる五つの漢字を並べたもの」「魚が平穏と安易とを以て泳いでいる水のことを考えると、我々がこのように忙しい人間であることを恥しく思う」この五字から成る漢文(詩文?)は一体何だろう? いろいろ考えてはみたのだが、完全にぴったりくるものを私は想起し得ないのである。「荘子」みたような、禅語みたような……さても識者の御教授を切に乞うものである。]
駿河の国の静岡に到着した時、そこでは虎列刺(コレラ)が流行して、一日に三十人も四十人も死んでいた。大きな旅館は閉鎖してあり、我々は大分困難した上で、やっとその一つに入ることが出来た。主人は、万一虎列刺に因る死人が出ると、それが大きに彼の旅館の名声を傷つけるといった。我々は人力車を下りもしない内に、既に手早く消毒されて了った。人々は誰でも、簡単な消毒器を持っているらしかった。これは石炭酸の薄い溶液を入れた、小さな鉄葉(ブリキ)の柄杓の上部に、ハンダで鉄葉の管をつけた物である。他の場所でも我々は、まるで我々が病毒を持って来たかの如く消毒液の霧を吹きかけられた。ドクタア・ビゲロウはある所で、一軒の家の入口に立っていた男が、彼に向って、宛かも刀で彼を斬り倒すような、力強い身振をしたといった。このような敵意のある示威運動は、極めて稀にしか行われぬことである。私はたった一度しか、これに似た敵意を含む身振を経験していない。東京で娘と一緒に歩いていた時、ゆっくりと千鳥足で歩いて行く三人の男を追い越した。我々は人に追いつき、そして断らずに彼を追い越すことが、失礼であるとされているのを知らなかった。我々の無礼を憤った一人は、先へ走って行き、振り向いて路を塞ぎ、我々を斬り倒す如く、空想的な刀を空中に振り上げた。彼の二人の仲間は、笑いながら彼を引き捕えて、連れ去った。明かにこの男は、多少酔っていたのである。ドクタアがこの経験をした直後、田舎路を歩いて行くと、二人の中年配の、相当な身なりをした日本人が、通り過ごす我々に向って、非常に丁寧なお辞儀をした。有賀氏は、この行為は彼等の外国人に対する尊敬を示すものであるといった。
我々は静岡で二泊し、まる一日を蒐集に費した。私は目的物がありそうな所へは、どこへでも入り込んだ。悪疫の細菌を持っていそうな物を決して食わず、また、これは元来日本ではめったにやらぬことだが、水を飲まぬように、常に注意している私には、この流行病はすこしも恐しくなかった。翌朝夙く我我はバネの無い、粗末な、ガタガタした駅馬車で出立し、およそこれ以上の程度のものは想像も出来ぬ位ひどく揺られた。正午、高い丘の脈の頂上に達した時、ドクタアは愛想をつかして馬車を思い切り、私もまたよろこんで彼の真似をした。フェノロサと有賀とは旅行を続けたが我々は午後三時迄仮睡し、各々二人引きの人力車をやとって、遠江の浜松までいい勢で走らせ、そこで我々は泊った。その晩我々は富士の頂上へ向う多数の巡礼の、奇妙な踊を見た。彼等は道路に面して開いた大きな部屋を占領して、円陣をつくっていた。一人一人、手に固い扇子を持ち、それで拍子を取ってから、妙な踊と唱歌とをやったのであるが、先ずある方向を向き、次に他の方向を向き、円陣は一部分回転した。それは気味の悪い、特異的な光景であった。踊り手達は、我々が彼等の演技に興味を持ったことをうれしく思ったらしく、私に一緒に踊らぬかとすすめた。彼等は白い布で頭をしばっていた。この踊をする前に、私は彼等が二階の一室で、跪き、踊り、歌を唄うのを見たが、これは明かに富士の為に下稽古をするものらしかった。
[やぶちゃん注:「遠江の浜松までいい勢で走らせ、そこで我々は泊った」の「我々」は先に着いていたフェノロサと有賀と合流した「我々」である。
「富士の頂上へ向う多数の巡礼の、奇妙な踊」この人々の恰好は確かに富士講のそれであるが、この踊りは何だろう。山王を祭るものや時宗の踊り念仏にも似ているように思われるが、私にはよく分からない。こうした祝祭の踊りが当時の富士講での成就歓喜の当たり前のものであったものか? 識者の御教授を乞うものである。]
幾分、憂欝な雰囲気で気をめいらせながら、虎列刺に襲われた浜松を後にした我々は、途中急な溪谷へさしかかり、車夫達は人力車を曳き上げるのに苦しんだ。半分ばかり登ったところで我々は、如何にも山間の渓流と見えるものが、谷の側面を流れ落ちるのに出合つた。フェノロサと私とは、誘惑に打ち勝つことが出来ず、ドクタア・ビゲロウがその水を飲むなというのも聞かず、僅かではあるが咽喉を通した。すると水は、如何にも気がぬけていて、美味でない。やがて谷の頂上に達すると、そこには広々とした水田があり、我々が山間の溪流だと思ったのは、この水田の排け水だったのである! 我々がどんなに恐れ驚いたかは、想像にまかせる。
[やぶちゃん注:この場所を特定出来る方、よろしく御教授下さい(藪野直史)。]
翌日は人力車で豊橋まで行き、次の朝には陶器狩りをやって、よい品をいくつか手に入れた。その次の朝は十時に出発し、夕方大都会名古屋に着いた。ここで我々は四日滞在し、ドクタア・ビケロウは漆器と刀の鍔を、フェノロサは絵画をさがし、私は陶器を求めて、あらゆる場所を探索した。私が陶器いくつかを買い求めた、権左と呼ぶ人のいい老人は、私の探索に興味を持ち、我々をこの都会の一軒の骨董屋から他の骨董屋へと案内する役を買って出た。物を買うごとに口銭を取ったかどうか私は知らぬが、とにかく彼は我々の包みを持ち、あまり高いと思うものは値切り、彼が連れて行ってくれねばとても判らぬような場所へ我々を案内し、商人共に彼等の宝物を我々の部屋へ持って来させ、最後に私が買った陶器を荷づくりすること迄手伝った。これは二つの大きな箱に一杯になったのを、東京へ送った。我々が泊った旅館には、大きな卓子(テーブル)や椅子があり、非常に便利だった。商人達はしょつ中我々の部屋へ来たが、同時に八人、十人と来たこともあり、そして商品を床の上にひろげた。我々はいよいよ出発という時まで買物をした。そして私は陶器の蒐集に、いくつかの美事な品を附加した。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、七月二十七日に元箱根を発った一行は、その日とその翌日と静岡で二泊、『ついで浜松と豊橋にそれぞれ一泊したのち、八月一日の夕方に名古屋についたらしい。名古屋では四日間滞在、知り合いになった骨董屋の桜井権三に案内されて、モースは多くの陶器を仕入れている。』とある。
「口銭」原文“a commission”。老婆心乍ら、「こうせん」と読み、売買の仲介をする際の手数料を言う。]
権左は私を名古屋の外辺に住んでいる、彼の友人のところへ連れて行った。この男はフジミと呼ばれる窯の創業者であるが、私はここで午前中を完全に賛した。儀式的な茶が私のために立てられ、この陶工が私の面前で茶を挽いた。彼が見せた古い陶器の蒐集中には、見事な品も多く、又彼は私に絵を画いてくれ、その代りとして私にも彼の為に絵を画くことをたのみ、私をその翌日茶の湯(茶の礼式)へ来いと招く等、我々は興味ある数時間を送った。家族の人々は私をこの上もなく親切に取扱ってくれ、私が坐っていた張出縁には冷水を充した、大きな浅いい漆塗の盥(たらい)を置き、娘がこの水越しに私をあおいでくれた。このようにして出来た涼風は、誠に気持がよかった。
[やぶちゃん注:この最後のシーン、まさに文章から少女の仰ぐ冷風が肌に感じられるほどに心地良い。なお、以下、その翌日に招待された茶の湯の観察記載が実に邦訳の段落数で十段も続く。
「フジミ」底本では直下に石川氏による『〔?〕』という割注が入るが、これは現在の名古屋市中区大須上前津の不二見焼、この陶工は初代村瀬八郎右衛門と断定してよいと思われる。通称八郎右衛門こと村瀬美香(びこう 文政一二(一八二九)年~明治二九(一八九六)年)は旧尾張名古屋藩藩士の陶芸家。義父市江鳳造(ほうぞう)に陶法を学び、嘉永五(一八五二)年に自宅に窯を開いて茶器を焼いた。「不二見焼」と称し、銘は「望岳」「不二山人」(ここまでは講談社「日本人名大辞典」に依る)。愛知県陶磁資料館公式サイト内の仲野泰裕氏の「窯場今昔100選」の「(20) 不二見焼 (ふじみやき)」によれば、この上前津の自宅は「風月双清村舎」と称した別邸で、その『庭に窯を築き、瀬戸から招いた技術者4人と父子併せた6人で製陶業を開始した』とあって、その後の経緯などが実に詳しく語られているので必見であるが、そこに『美香の趣味のやきものからこの頃までの作品の一部が、ボストン美術館のモースコレクションの中に茶碗、水指、花器など17点が認められる』とある。これはまさにこの時、じかにモースが美香から買い求めたものに違いない。因みに、ここは指物師であった私の義母の父の家のごく近くなので非常に驚いた。]
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