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2015/08/31

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (三)

 

        三

 

 さて、今度は庭先の川端から、手を拍つ音が起つてくる――一囘、二囘、三囘、四囘。その手の持主は植込に遮ぎられて見えない。しかし、對岸の埠頭の石段を下りる男や女が見える。銘々帶に小さな靑い手拭を插んでゐて、顏と手を洗ひ、口を漱ぐ。これは神道の祈を捧げる前に、必ず行ふ潔齋である。それから顏を朝日に向け、四たび手を拍つて拜む。白色の長い高い橋の上からも、他の拍手の音が反響の如くに出でてくる。遠くにある、輕い優美な、而して新月の如く彎曲した小舟からも出ででくる。この頗る異樣な恰好の舟の上から、手も足も裸の漁師が、黃金色した東雲の空を拜んでゐるのだ。最早拍手の數が增加して、殆ど鋭い音の連發となつた。それは人々が今皆、朝日――お日樣――天照大神を拜んでゐるからだ。『いとも貴き、日の造主よ。この心地よき日光を賜ひて、世界を麗はしくなし玉ふことを謝し奉る』言葉はこの通りでないまでも、これが無數の人々の衷心だ。朝日に向つてだけ手を拍つ者もあるが、大概は西の杵築大社へ向つてもさうする。顏を東西南北へつぎつぎに向けて、群神の名や・低聲微唱する者さへ隨分ある。天照大神を拜した後で、一畑山の高峯を眺めて、盲人の眼を開き玉ふ藥師如來の大伽藍のある處に向ひ、佛教の儀式に隨つて、掌を合はせ乍ら、輕く擦るのもある。しかし日本で最古のこの國では、佛教徒も亦神道信者であるから、誰も古風な神道の祈の文句を唱へる。『拂ひ玉へ、淨め玉へと神忌たみ』

 佛數渡來前に勢力を有した最古の神々、して、今も猶、その神々の本來の國なる此處――豐葦原の國の出雲――では稜威依然たる神々。混沌界と原始の海と世界開闢期の諸神――長い奇異な名を帶びた群神、最初の泥土の主なる宇比地邇神、最初の砂土の女神なる須比智邇神など。それから後の諸神――力と美の神、世界創造の神、山や島の造主、郎ち天津日嗣と稱せらるゝ歷代天皇の先祖。日本國中三千の神、高天原にまします八百萬の神々、これ等の神々へ祈を捧げる。

 

[やぶちゃん注:「杵築大社」正しくは「きつきのおおやしろ」と読む。島根県出雲市大社町杵築(きづき)東にある出雲大社の別称である。

「一畑山」直後に「藥師如來の大伽藍のある處に向ひ」とあるから、これは山名というよりも、薬師瑠璃光如来本尊を本尊とする島根県出雲市小境町に醫王山(いおうざん)一畑寺(いちばたじ)のことと思われる。ウィキ一畑によれば、縁起には寛平六(八九四)年に漁師の与市(のち出家して「補然」と称した)が海中から引き上げた薬師如来像を本尊としてここに「医王寺」という名の天台宗の寺院を創建したという。正中二(一三二五)年に石雲本竺が臨済宗南禅寺派寺院として再興、寺号を「成徳寺」と改め、さらにその後の承応二(一六五三)年に現在の「一畑寺」に改名、寛政二(一七九〇)年になって妙心寺派に転属した、とある。但し、この寺の直近(南百六十九メートル附近)にあるコテージの名称は「一畑山コテージ」である。近くのピーク自体は寺の東方一キロほどのところにある出雲市鹿園寺町内の「焼山」である。

「稜威」これは「りようゐ(りょうい)」或いは「いつ」と読み、神聖であること・斎(いつ)き清められていること、或いは、勢いの激しいこと・威力が強いことから更に転じて、天子の威光の意も持つ。「嚴(厳)」とも書く。

「宇比地邇神」「須比智邇神」前者は「うひぢにのかみ」、後者は「すひぢにのかみ」と読む。ウィキの「ウヒヂニ・スヒヂニに、『ウヒヂニ・スヒヂニは、日本神話に登場する神で』神世七代(かみのよななよ:日本神話の天地開闢の際に生成した七代の神の総称及びその神々の時代)の第三代の神で、『ウヒヂニが男神、スヒヂニが女神である。それまでは独神であったが、この代ではじめて男女一対の神となった』。『神名の「ウ」は泥(古語で「うき」)、「ス」は沙(砂)の意味で、大地が泥や沙によってやや形を表した様子を表現したものである』とある。

「天津日嗣」「あまつひつぎ」と読む。日本で天皇の位或いは天皇の位を継承することを指す。天津日神(天照大神)の勅命により歴代受け嗣がれるという思想から出た語で、一説には「日給」で、大神から斎庭(ゆにわ:清めた所)の穂を給せられるとの意から出た、ともすると、中経出版の「世界宗教用語大事典」にはある。]

 

 

Sec. 3

And now from the river-front touching my garden there rises to me a sound of clapping of hand,—one, two, three, four claps,—but the owner of the hands is screened from view by the shrubbery. At the same time, however, I see men and women descending the stone steps of the wharves on the opposite side of the Ohashigawa, all with little blue towels tucked into their girdles. They wash their faces and hands and rinse their mouths—the customary ablution preliminary to Shinto prayer. Then they turn their faces to the sunrise and clap their hands four times and pray. From the long high white bridge come other clappings, like echoes, and others again from far light graceful craft, curved like new moons—extraordinary boats, in which I see bare-limbed fishermen standing with foreheads bowed to the golden East. Now the clappings multiply—multiply at last into an almost continuous volleying of sharp sounds. For all the population are saluting the rising sun, O-Hi-San, the Lady of Fire—Ama-terasu-oho-mi-Kami, the Lady of the Great Light. [3] 'Konnichi-Sama! Hail this day to thee, divinest Day-Maker! Thanks unutterable unto thee, for this thy sweet light, making beautiful the world!' So, doubt-less, the thought, if not the utterance, of countless hearts. Some turn to the sun only, clapping their hands; yet many turn also to the West, to holy Kitzuki, the immemorial shrine and not a few turn their faces successively to all the points of heaven, murmuring the names of a hundred gods; and others, again, after having saluted the Lady of Fire, look toward high Ichibata, toward the place of the great temple of Yakushi Nyorai, who giveth sight to the blind—not clapping their hands as in Shinto worship, but only rubbing the palms softly together after the Buddhist manner. But all— for in this most antique province of Japan all Buddhists are Shintoists likewise—utter the archaic words of Shinto prayer: 'Harai tamai kiyome tamai to Kami imi tami.'

Prayer to the most ancient gods who reigned before the coming of the Buddha, and who still reign here in their own Izumo-land,—in the Land of Reed Plains, in the Place of the Issuing of Clouds; prayer to the deities of primal chaos and primeval sea and of the beginnings of the world—strange gods with long weird names, kindred of U-hiji-ni-no- Kami, the First Mud-Lord, kindred of Su-hiji-ni-no-Kanii, the First Sand-Lady; prayer to those who came after them—the gods of strength and beauty, the world-fashioners, makers of the mountains and the isles, ancestors of those sovereigns whose lineage still is named 'The Sun's Succession'; prayer to the Three Thousand Gods 'residing within the provinces,' and to the Eight Hundred Myriads who dwell in the azure Takamano-hara—in the blue Plain of High Heaven.

'Nippon-koku-chu- yaoyorozu-no-Kami-gami-sama!'

 

 

3 Ama-terasu-oho-mi-Kami literally signifies 'the Heaven-Shining Great- August-Divinity.' (See Professor Chamberlain's translation of the Kojiki.)

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (二)

       二

 

 明方のこんな物音に醒されて、私は二階の障子を開け、河畔の庭から、伸びた春の若葉の軟かな綠の雲越しに、朝景色分眺めやる。大橋川の幅廣い、河口が、遠くの方では、わなゝくやうに、萬象を映寫して、微かに光つてゐる。この川は宍道湖に向つてを口を開け、湖は右手へ擴がつて、杳乎たる連丘に包まれてゐる。私のすぐ對岸には、靑く目塗してある日本の家屋は、戸が皆閉つてゐるので、恰も箱を閉ぢたやうだ。夜は明けたが、日はまだ出ないから。

 幽靈のやうに捕捉し難く、戀愛のやうに深い早朝の色が、睡眠の如くふんわりした水煙に浸つてゐたのが、拔け出でて、明かに蒸氣となつて騰つて行く奇觀絶景!遙かに見渡すと、薄色の霞が湖水の盡端に長く渡つてゐる――星雲狀の長帶だ。それは讀者が、日本のの繪本に見る通りであつた。實際の現象を眺めたことがないと、繪本の景色も、畫工が奇を衒つたとのみ思はれたらう。山といふ山の裾を、この霞が蔽ふてゐる。して、高い峯のいろいろの高さの處で、際涯知れぬ長さの紗のやうに横に延びてゐる(この妙な有樣を日本人は『棚引く』と名ける)だから、湖水は實際よりも遙かに大きく見え、而して眞の湖でなく、昧爽の空と同じ色で、且つ空と入り交つた、美しい幻の海となつて見える。山山の嶺は、霧に俘んだ島嶼となり、夢のやうな一帶の丘陵は、果てしのない堤道かと怪まれる――巧妙優美な混沌界だ。霧が立ち上がるにつれて、絶間なくその趣はゆるゆる變幻を極める。旭日の黃色な綠が見えてくると、今までのよりは更に強く細やかな光線――分光鏡の紫と靑貝色――が水面を射す。梢の上は弱い光を受ける。水のかなたにある、ペンキを塗らぬ高い建物の正面は、その木地の色が、美しい靄の色のために、蒸汽の立つ黃金色へと變はる。

 朝日の方へ向くと、澤山橋杭が並ぶ木造の橋のかなた、長い大橋川の方に、高い後甲板のある一艘の船が、今しも帆を揚げようとしてゐる。私はこんな奇異な恰好で、美しい船を見た例がない。――正にこれ蓬萊の夢だ。霞のために何とも云へなく醇化されてゐる。船の精だ。が、この幽靈は雲と同樣に光線を受けていゐるので、一見半透明な、黃金の霧で出來た一個の實體となつて、薄靑い光の中に懸つてゐる。

 

[やぶちゃん注:「蒸氣」「蒸汽」は孰れもママ。

「杳乎たる」老婆心乍ら、形容動詞「えうこ(ようこ)たり」の連体形で、深く広いさま、遙かなさまを言う。

「昧爽」「まいさう(まい そう)」と読み、「昧旦」とも言う。「昧」は「暗い」、「爽」は「明るい」の意で、一般には暁(あかつき)を指すと辞書にあるが、日本語に於ける暁とは、朝であるが真っ暗で、薄らと白んでくる曙(あけぼの)の前段階を指す語であって、以下のハーンの叙述はそんな真っ暗な暁では、とても見てとれない情景である。原文は“the dawn-sky”で、この“dawn”は「夜が明ける・空が白む」の意であり、ここは寧ろ、そうした光の変化を微妙に示し出すところの広義の夜明け方の有意な時間帯、暁の終りから曙そして東雲(しののめ)にかけてと考えた方が私は相応しいと思う。平井呈一氏は『夜明けの空』と訳しておられる。

「私はこんな奇異な恰好で、美しい船を見た例がない」私は何となく訳がヘンな気がして、なじめない。これでは「私はこんなだらしのない格好――寝乱れた浴衣姿――で、こんなに美しい船を見たことがなく、何とも気恥ずかしい思いをした」という意味にも読めてしまうからである。英文を見ても私には細部はよく分からないものの、無論、ここは、「こんな奇異な恰好」の船と、「美しい船」という並列する形容なのであって、「私はいろいろな国を放浪して来たけれど――この眼前にある和船の奇妙な形からそこに張られつつあり、風をはらみつつある奇体な白い帆に至るまで――こんな不可思議千万な恰好のこの世の物とも思われない美しい――曙と東雲の微光によって夢幻的に輝く――船を見た例(ためし)がない」と讃歎しているのである。平井氏はここを『夢のようなこんな美しい舟を、私はまだ見たことがない』と訳しておられ、一歩も躓かずに読める。

「蓬萊の夢」原文は“a dream of Orient seas”。平井氏は『東瀛(とうえい)の夢』と訳されている。古代中国に於いて仙人の住むとされた東方の三神山(他は蓬莱と方丈)の一つであった。そこから転じて、日本を指す雅称や、中国大陸から見て東方の大海である東海をも指すようになった。少なくとも蓬莱は海の遙か上に浮遊するラピュタのような仙山とされる。参照したウィキ東瀛には『現在でも漢民族は日本のことを東瀛とも言う』とある。平井氏の訳の方が英語の意味(東方の大海群)に忠実だが、最早、若い読者には注を附さなければ難解で分からぬ。高校古典で蓬莱は未だ頻繁の登場するから、まだ落合氏の「蓬萊の夢」の方がすんなり腑に落ちるはずである。

「醇化」老婆心乍ら、「じゆんくわ(じゅんか)」と読む。ここでは、余分なものを取り除き、混じり気のない純粋なものに変化させることを言う。因みに、別に「手厚い教えによって感化すること」の意もあるので注意されたい。]

 

 

Sec. 2

Roused thus by these earliest sounds of the city's wakening life, I slide open my little Japanese paper window to look out upon the morning over a soft green cloud of spring foliage rising from the river-bounded garden below. Before me, tremulously mirroring everything upon its farther side, glimmers the broad glassy mouth of the Ohashigawa, opening into the grand Shinji Lake, which spreads out broadly to the right in a dim grey frame of peaks. Just opposite to me, across the stream, the blue-pointed Japanese dwellings have their to [1] all closed; they are still shut up like boxes, for it is not yet sunrise, although it is day.

But oh, the charm of the vision—those first ghostly love-colours of a morning steeped in mist soft as sleep itself resolved into a visible exhalation! Long reaches of faintly-tinted vapour cloud the far lake verge—long nebulous bands, such as you may have seen in old Japanese picture-books, and must have deemed only artistic whimsicalities unless you had previously looked upon the real phenomena. All the bases of the mountains are veiled by them, and they stretch athwart the loftier peaks at different heights like immeasurable lengths of gauze (this singular appearance the Japanese term 'shelving'), [2] so that the lake appears incomparably larger than it really is, and not an actual lake, but a beautiful spectral sea of the same tint as the dawn-sky and mixing with it, while peak-tips rise like islands from the brume, and visionary strips of hill-ranges figure as league-long causeways stretching out of sight—an exquisite chaos, ever-changing aspect as the delicate fogs rise, slowly, very slowly. As the sun's yellow rim comes into sight, fine thin lines of warmer tone—spectral violets and opalines-shoot across the flood, treetops take tender fire, and the unpainted façades of high edifices across the water change their wood-colour to vapoury gold through the delicious haze.

Looking sunward, up the long Ohashigawa, beyond the many-pillared wooden bridge, one high-pooped junk, just hoisting sail, seems to me the most fantastically beautiful craft I ever saw—a dream of Orient seas, so idealised by the vapour is it; the ghost of a junk, but a ghost that catches the light as clouds do; a shape of gold mist, seemingly semi-diaphanous, and suspended in pale blue light.

 

1 Thick solid sliding shutters of unpainted wood, which in Japanese houses serve both as shutters and doors.

2 Tanabiku.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一)

 

 

 

       第七章 神國の首都――松江

 

 

 

        一

 

 松江で朝の夢を破る最初の物音は、丁度耳底で緩やかな大きな脈が搏つやうに響いてくる。それは太い柔かな鈍い衝擊の音だ――その規則正しさと、その掩ひかくしたやうな深い音と、その聞えるといふよりは寧ろ感ぜられるやうに、枕元から搖れてくる點からは、心臟の鼓動に似てゐる。それは單に米搗の太い杵の音なのだ。杵は一種の巨大なる木槌で、長さ約十五尺の柄が樞軸の上に水平に載せてある。米搗の男は柄の一端を強く踏んで、杵を擡げる。それから、足を放せば、杵はその重量によつて米の臼の中へ落ちる。杵の落ちる響が一定の拍子で洩れてくるのが、日本人の生活に伴ふあらゆる音響の中で、私には最も哀れに思はれる。米搗の音は日本といふ國土の脈搏だ。

 それから禪刹洞光寺の大きな鐘が、洞然と響渡つて、市の上空を撼がせる。續いて私の宿に近い材木町の地藏堂から、太鼓の淋しげな音が晨の勤行を告げる。最後には、早く出掛けた行商人の物賣の聲。『大根やい!蕪菁や、蕪菁!』『薪(もや)や、薪(もや)や!』――炭火を燃やすための、小さな細い薪木の片を賣る女の悲しげな聲。

 

    譯者註。松江に來られた最初、先生は

    末次本町字緣取町の富田屋といふ旅館

    に宿つて居られた。富田屋から一町ば

    かり東北に榎藥師の地藏堂といふのが

    ある。本章の松江の記事は、富田屋滯

    在時代から始つて、やがて先生が家を

    構へられた頃までの見聞記である。世

    界を放浪し來つて、こゝで始めて家庭

    生活の人となつて持たれた家は、末次

    本町、織原氏の離座敷で、宍道湖を見

    渡して景色のよい處であつた。その家

    は以前には縣令の宅となつてゐたこと

    もあつた。後には中學校の寄宿舍にも

    用ひられた。最後に皆美館に合併され

    たが、燒失の後、その跡には現在該旅

    館の一部、東端の諸室が建つてゐる。

 

[やぶちゃん注:松江の旅館大橋館(後述する)公式サイト内の「小泉八雲ゆかりの地」によれば、ハーンは明治二三(一八九〇)年八月三十日午後四時、『対岸の港に船で着いた』とあり、貴重な詳細情報である。

「十五尺」四・五四五メートル。

「樞軸」「すうぢく(すうじく)」と読み、「樞」(枢)は元来は「くるる」で、開き戸を開閉する装置のことを指し、「軸」は車の心棒を言うが、そこから転じて、物事の中心となる重要な部分、枢要の意となった。ここは杵の搗くという主機能を持つところの足踏み式の横杵(よこぎね)の杵の部分(横に出る部分は「柄」)を指している。平井呈一氏は『軸木』と訳しておられる。

「洞光寺」少なくとも現行でも「とうこうじ」と濁らない(原文参照)。現在の島根県松江市新町にある曹洞宗松江金華山洞光寺。後に出る旅館富田屋のあった位置からは凡そほぼ南に一・四キロメートルほど離れた位置にある。

「撼がせる」「震撼」という熟語から想像出来るように、本来は「動かす・ゆする」、「動く・揺(ゆ)らぐ・揺れる」の意であるから、ここは落合氏は「ゆるがせる」と訓じておられるものと思われる。

「晨」「あさ」と訓じておく。

「大根」原文から、「だいこん」ではなく「だいこ」と叫んでいることが判る。

「蕪菁」やはり原文から、「かぶら」ではなく「かぶ」と叫んでいることが判る。

「薪(もや)」「日本国語大辞典」を見る限り、『たきぎにする小枝や木の葉。粗朶(そだ)。ぼや』とあり、本来は方言というよりも近世以降の古語のように思われる。以下に細い枝の焚き木としの方言の項もあるにはあるが、採集例は関東から四国まで極めて広域で、限定的な方言とは思われないからである。最後に「大言海」「綜合日本民俗語彙」から、語源は「燃やす」の意か、と記してある。

「末次本町」「すえつぐほんまち」と読む。松江市末次本町として現存する町名である。

「緣取町」「へりとりちやう(へりとりちょう)」と読む(後述)。この字(あざ)町名はネット検索では引っかからず、現行では最早、用いられていない模様である。但し、()今岡ガクブチ店の「松江絵葉書ミュージアム Matsue Postcard Museum」の「大橋正面の景(第16代)」の絵葉書とその解説に『当時このあたりは通称縁取町(へりとりちょう)といわれていた』。この名称は『界隈に畳の業者が集まっていたからである』とあり、読みと由来が分かった。但し、この富田屋については『この旅館は昭和6年の末次町大火にて消失』、『その後新築されたが現在は大橋館に売却されてない』(大橋館は島根県松江市末次本町四十(松江大橋北詰)の東側直近数十メートル圏内に現存する旅館)とあって、落合氏の言う「皆美館」(松江市末次本町十四に現存する旅館であるが、これは大橋北詰の西百メートル圏内にある、少なくとも名前も場所も全く別な旅館である。同皆美館の公式サイト内の「文人墨客に逢う」にははっきりと小泉八雲が『来館し』たと記されてある)とする叙述と齟齬がある。識者の御教授を乞うものである(次注も参照されたい)。

「富田屋から一町ばかり東北に榎藥師の地藏堂といふのがある」これは現在の東本町一丁目に現存する薬師如来堂である(江波潤一氏のブログ「江波文學塾」の「町の歴史が消えていく」を参照されたい。それによれば残念なことに榎の大木は昭和六(一九三一)年五月十六日の大橋北詰を出火元とする大火で焼失して現存しないとある)。「一町」は約百九メートルであるからこれで富田屋が同定出来るかと思いきや、前注に出した大橋館では五十メートル弱、皆館では百六十メートルと、実に悩ましい距離なのである。

「織原氏」ラフカディオ・ハーン 日本海の浜辺を読むと、この家主が小泉セツをハーンに住み込み女中として紹介したことが判る。この記事は富田屋旅館を出るところから始まり、ハーンの複数の住居での暮らしぶりが実によく判る優れた記載で必読である。特に彼が富田屋旅館を出た理由が、意外にも激しい(といより、ハーンらしい真直な)義憤によるものであったことが知れて興味深い。]

 

 

Sec. 1

THE first of the noises of a Matsue day comes to the sleeper like the throbbing of a slow, enormous pulse exactly under his ear. It is a great, soft, dull buffet of sound—like a heartbeat in its regularity, in its muffled depth, in the way it quakes up through one's pillow so as to be felt rather than heard. It is simply the pounding of the ponderous pestle of the kometsuki, the cleaner of rice—a sort of colossal wooden mallet with a handle about fifteen feet long horizontally balanced on a pivot. By treading with all his force on the end of the handle, the naked kometsuki elevates the pestle, which is then allowed to fall back by its own weight into the rice-tub. The measured muffled echoing of its fall seems to me the most pathetic of all sounds of Japanese life; it is the beating, indeed, of the Pulse of the Land.

Then the boom of the great bell of Tokoji the Zenshu temple, shakes over the town; then come melancholy echoes of drumming from the tiny little temple of Jizo in the street Zaimokucho, near my house, signalling the Buddhist hour of morning prayer. And finally the cries of the earliest itinerant venders begin—'Daikoyai! kabuya-kabu!'—the sellers of daikon and other strange vegetables. 'Moyaya-moya!'—the plaintive call of the women who sell little thin slips of kindling-wood for the lighting of charcoal fires.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (五)(六) / 第六章~了

 

        五

 

 寺の蔭から踊手の列が月光の中へ繰り出して、また突然止まつた。すべてい若い女や娘で、銘々最上の服を着飾つて、一番丈の高いのが先頭に立ち、ぞれから身長の順に續いて、十歳乃至十二歳の小娘が、行列の殿を承つてゐる。彼等は鳥の如く輕さうに身體の平衡を支へて、何となく或る古代の花瓶の周圍に繪かれた形狀の夢を想起させる。膝の邊に緊然縋り附いてゐる、美しい日本の着物は、もし奇怪な大きく垂れ下つた袖と、着物を緊める珍らしい、幅の廣い帶がなかつたならば、ギリシヤ或はエトルリヤの藝術家の畫に基いて意匠を凝らしたものと思はれるだらう。それから、太鼓が今一囘鳴つでから、演藝が始まつた。言葉では寫し難く、想像も及ばない、夢幻的なもの――舞踊であり、驚異であつた。

 皆一齊に草履を地面から揚げないで、右足を一歩前へ滑らせる。して、不思議な浮いたやうな動作と微笑を帶びた、神祕的な敬禮をし乍ら、兩手を右へ伸ばす。次に右足を後ヘ引く。兩手を振ることと、神祕な辭儀とを繰り返へす。次に皆左足を前へ進め、半分左ヘ向き乍ら、先きの動作を繰返へす。それから、一囘輕く手を同時に揃へて拍つて、すべて二歩前へ滑つて出る。して、最初の動作が右と左へ交互に繰返されて、すべての草履を穿いた足は一齊に滑り、すべでのしなやかな手は揃つて動き、すべての柔軟な身體は同時に前へ屈んで、同時に一方へ傾く。して、極めて徐々と、奇異にも行列が大きな圓に變つて、月の照つた境内と、聲を忍んだ見物人の群をぐるぐる廻はつて行く。

    註。本篇を書いてから後、私は日本の
    諸方で盆踊を見たが、これと全然同一
    種類の踊を見たことがない。實際、私
    は出雲、隱岐、鳥取、伯耆、備後、そ
    の他の處に於ける私の經驗からして、
    盆踊には場所が異れば必ず踊り方を異
    にするものと判斷したい。只單に動作
    身振が地方に隨つて變ずるだけでなく、
    歌はれる歌の調子までも相違してくる
    ――このことは文句が同一でもさうだ。
    或る處では調子が遲くて、莊嚴
である
    し、ある處では急速で、陽氣で、
また
    奇異な、急にひねるやうな、名狀
し難
    い調子を特徴とする。が、何處で
も動
    作と曲調は珍らしく、心地よくて、

    時間でも見物人を魅する力がある。
    たしかに是等の原始的舞踏は藝者の所
    作よりも遙かに興味が多い。佛教はこ
    れを利用し、またこれに影響を及ぼし
    たであらうが、これは疑もなく佛教よ
    りは非常に古い。

 して、いつも白い手は、交互に行列の輪の内側と外側に於て、掌を或は上に向け、或は下に向け、恰も魔怯を仕組むかの如く、一齊に蜿蜒たる波動を打たせて搖れる。して、すべての小鬼のやうな袖は、翼の作る陰影の如く薄暗く、同時に翺翔する。して、すべての足は非常に複雜な拍子の動作を以て、揃つて平衡を取る。注視してゐると、催眠術を被つたやうな――水が流れたり、閃いたりするのを注視しようと努力する際のやうな感を覺える。

 また、この催眠的魅力は死んだやうな靜肅のために強められる。誰も物を言はない。見物人さへ默々としてゐる。柔かく手を拍く音の長い合間には、樹間に喧しい蟋蟀の聲と、輕く砂塵を攪きあげる草履のしゆうしゆういふ音だけ聽える。これは何に譬へられるだらうかと、私は自問を發した。一つもこれに譬へられるものは無い。が夢に飛んでゐると思ひ、歩き乍ら夢みてゐる夢遊病者の空想を幾分暗示する。

 して、私は邈乎たる古代、未だこの東洋生活の記錄なき初期、不可思議な、薄暗い神代に屬するもの――數へ難き年月の間、その意味の忘れられたる象徴的動作を眺めてゐるのだといふ考が、私に起つてきた。しかしヽ光景はますます現実を離れたものに見えて行つて、無言の微笑と沈默の稽首は、恰も無形の見物人へ對して敬禮を捧げる趣があつた。それで、私がもし一つの囁きを發すれば、一切悉皆消滅して了つて、その跡には、たゞ灰色な頽廢せる境内と、淋しげな寺、それから、今私がこれ等の踊手の顏に見るのと同じ神祕的な微笑を、いつも湛へつゝある地域の壞はれた像だけ殘りはしないだらうかと疑つた。

 行列の輪の眞中で、旋轉する月の下に立つた私は、魔法の圓内に入つてゐる人の感があつた。實際それは恍惚魅惑であつた。私は不思議な手振りや、拍子を取つて、滑るやうな足の運びや、就中驚くべき袖の輕搖飛舞によつて魂を奪はれたのであつた。熱帶地方の大きな蝙蝠が飛ぶ如く、幽靈の如く音はなく、天鵞絨の如く滑かであつた。否、私が夢みたことのある何物も、これに譬へ得られるものは無い。私の背後にある古い墓揚、その燈籠の人を招くやうな凄い光り、この時刻と場所の恐ろしげな信仰などを意識して、私は幽靈に襲はれてゐるといふ、何とも名狀し難い、ちくちく痛むやうな感じの徐々に迫まるを覺 えた。しかし、否!是等の優美な、無言で、搖れて、輕く動く動いてゐる姿は、今夜白い火を點じて迎られた冥途から來た人々ではないのだ。忽然、鳥の呼び聲のやうな、美はしく朗かかな顫動に滿ちた一曲の歌が、ある娘らしい口から起つた。すると、五十人の柔かな聲が、それに和した。

   揃ふた、揃ひました、踊り子が揃ふた、揃ひ着て來た、晴れ浴衣。

 再びまた蟋蟀の喧しい聲、足のしゆうしゆういふ音、穩かな、手む拍つ響に戻つた。して、搖れ動く舞踏は沈默の中に、催眠的緩除を以て、進んで行く――奇異な優美さは、その無邪氣のために、周圍の山々の如く古いもののやうに思はれた。

 彼方に、白い燈籠のある灰色の墓石の下に、長い世紀間に亘つて眠れる人々、その親達、そのまた親達、それより久しき以前の、今では墓も忘れられた時代の人々も、必ずこのやうな光景を眺めたことだらう。否、それどころか、是等の若い足で攪まぜらるゝ砂塵は、人間の生命であつたのだ。して、今夜の月と同じ月の下で、足と足を織り交はし、手を振り合つて、このやうに微笑し、このやうに歌つたのだ。

 突然深い男聲の歌が靜けさを破つた。二人の大男が踊りの輸に加つてきて、音頭を取つた。兩人とも殆ど裸體で、若い、立派な體格の山間の百姓だ。頭も肩も群を拔いて聳えてゐる。着物を圓めで腰の邊に帶の如くに廻はし、赤銅色の兩手と胴を露はしたまゝで、その外には大きな藁帽を被り、また祭のため特に白足袋を穿いてゐるのみだ。これまで私は未だこの邊の人民の中で、かやうな男、かやうな筋肉を見たことがない。それでも彼等の微笑せる髯のない顏は、日本の子供のそれのやうに可愛らしく、親切さうだ。兩人は兄弟らしく、體格も、動作も、聲の音色も非常によく似てゐた。

   野でも、山でも、子は生み置けよ、

   千兩藏(くら)より子は寳。

と兩人は聲を揃へて歌つた。

 すると、子供の亡靈を愛する地藏樣が、ひつそりとした場所の向うから微笑してゐた。

 眞に大自然の靈に近い靈を持つた人々だ。彼等の思想は、彼等が祈願を掛ける鬼子母神の崇拜の如くに、無邪氣で可憐なものだ、それから、沈默の後に、女達の美しく細い聲が答へた。

   思ふ男に、添はさぬ親は、

   親で御座らぬ、子の敵。

 かやうに、歌が歌につゞいた。踊りの列の圓形は、段々大きくなつた。して、知らぬ間に時刻は過ぎ去つて、月輪は徐々と夜の靑い坂を轉下して行つた。

 低くて深味のある洞音が、不意に境内に轟き渡つた。ある寺の深い鐘の音が、十二時を報ずるのであつた。即座に魔術は了つた。物の音に、不思議な夢が、破れたやうであつた。歌は止んだ。踊りの輪は忽ち解けて、わつと起る樂しい笑聲となり、賑かな話聲となり、やさしい母音で花の名――娘達の名――が連呼され、『左樣なら!』の別れの叫びが交はされてから、踊り子も見物人も一樣に、家路に向つて、下駄のころころを響かせた。

 して、群集と共に動いて行つてゐる私は、突然睡眠から醒まされた人が感ずる困惑のやうな、面白からぬ氣分であつた。今私の側を、騷々しい小さな下駄を履いて、ちよこちよこ進んで、外國人の私の顏を一瞥しようと歩を早めて行く、これらの銀のやうな笑聲を發する人達は、僅か少刻前には、古代美の空影、妖術の迷想、愉快なる幻像であつた。それがかやうに全くの田舍娘に形態化したのに對して、私は漠然たる憤懣を感じたのであつた。

[やぶちゃん注:私はこれと次の章がこの上なく好きである。ここでハーンは当時の日本人の顕在意識から忘れ去られかけらていた、ユングが言うところの集合的無意識を美事に体感していると言える。その映像は、如何なる邦人作家にも描き出せない、優れて日本的な幻想的でありながら、強烈なリアリズムとフェテイシズム的耽美性を表現したクロース・アップのモンタージュなのである。

「殿」「しんがり」と訓じておく。

「緊然」見慣れない熟語だが、下が「縋(すが)り附」くというであるから、ぴたっと張り附くようにフィットして、の意であろう。帯できゅっと締められていて、下部がスカートのようにぱぁっと淫らに開かない、といった印象を表現しようとしているように私には思われる。「きんぜん」と読んでおく。

「エトルリヤ」紀元前八世紀から紀元前一世紀頃、イタリア半島中部にあった都市国家群。各都市国家は宗教・言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの、十二都市連盟と呼ばれゆるやかな連合を形成し、祭司・軍事で協力することもあった。参照したウィキの「エトルリア」によれば、『古代ギリシアとは異なる独自の文化を持っていた。当時としては高い建築技術を持ち、その技術は都市国家ローマの建設にも活かされ』、『鉄を輸出し古代ギリシアの国家と貿易を行っていた』とあり、更に『夫婦と思われる男女の横たわる石像が残っており、男女平等の考えを持つ稀な民族だった』ともある。私などは前に「花瓶」が出ているので、「カルメン」で知られる、一八三〇年作のフランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)の暗澹たる自伝的嫉妬心理小説「エトルリアの壺」(Le Vase étrusque)を思い出してしまうのだが。

「翺翔」は「かうしやう(こうしょう)」と読み、原義は鳥が空高く飛ぶことで、転じて思うがままに振る舞うことの意である。

「邈乎」は「ばくこ」と読み、遠く遙かなさまを言う(参考までに、別に、人を軽んずるさまの意もあるので注意されたい)。

「顫動」「せんどう」と読み、小刻みに震え動くことを言う。

「緩徐」老婆心乍ら、「くわんじよ(かんじょ)」と読み、緩(ゆ)やかで静かなさま、動作などがゆっくりしているさまを言う。] 

 

Sec.5

   Out of the shadow of the temple a processional line of dancers files into the moonlight and as suddenly halts—all young women or girls, clad in their choicest attire; the tallest leads; her comrades follow in order of stature; little maids of ten or twelve years compose the end of the procession. Figures lightly poised as birds—figures that somehow recall the dreams of shapes circling about certain antique vases; those charming Japanese robes, close-clinging about the knees, might seem, but for the great fantastic drooping sleeves, and the curious broad girdles confining them, designed after the drawing of some Greek or Etruscan artist. And, at another tap of the drum, there begins a performance impossible to picture in words, something unimaginable, phantasmal—a dance, an astonishment.

   All together glide the right foot forward one pace, without lifting the sandal from the ground, and extend both hands to the right, with a strange floating motion 
and a smiling, mysterious obeisance. Then the right foot is drawn back, with a repetition of the waving of hands and the mysterious bow. Then all advance the 
left foot and repeat the previous movements, half-turning to the left. Then all take two gliding paces forward, with a single simultaneous soft clap of the hands, 
and the first performance is reiterated, alternately to right and left; all the sandalled feet gliding together, all the supple hands waving together, all the pliant bodies bowing and swaying together. And so slowly, weirdly, the processional movement changes into a great round, circling about the moonlit court and around the voiceless crowd of spectators. [5]

   And always the white hands sinuously wave together, as if weaving spells, alternately without and within the round, now with palms upward, now with palms 
downward; and all the elfish sleeves hover duskily together, with a shadowing as of wings; and all the feet poise together with such a rhythm of complex 
motion, that, in watching it, one feels a sensation of hypnotism—as while striving to watch a flowing and shimmering of water.

   And this soporous allurement is intensified by a dead hush. No one speaks, not even a spectator. And, in the long intervals between the soft clapping of hands, one hears only the shrilling of the crickets in the trees, and the shu-shu of sandals, lightly stirring the dust. Unto what, I ask myself, may this be likened? Unto nothing; yet it suggests some fancy of somnambulism—dreamers, who dream themselves flying, dreaming upon their feet. 

   And there comes to me the thought that I am looking at something immemorially old, something belonging to the unrecorded beginnings of this Oriental life, perhaps to the crepuscular Kamiyo itself, to the magical Age of the Gods; a symbolism of motion whereof the meaning has been forgotten for innumerable years. Yet more and more unreal the spectacle appears, with its silent smilings, with its silent bowings, as if obeisance to watchers invisible; and I find myself 
wondering whether, were I to utter but a whisper, all would not vanish for ever save the grey mouldering court and the desolate temple, and the broken statue 
of Jizo, smiling always the same mysterious smile I see upon the faces of the dancers.

 

   Under the wheeling moon, in the midst of the round, I feel as one within the circle of a charm. And verily this is enchantment; I am bewitched, bewitched by the ghostly weaving of hands, by the rhythmic gliding of feet, above all by the flitting of the marvellous sleeves— apparitional, soundless, velvety as a flitting of great tropical bats. No; nothing I ever dreamed of could be likened to this. And with the consciousness of the ancient hakaba behind me, and the weird invitation of its lanterns, and the ghostly beliefs of the hour and the place there creeps upon me a nameless, tingling sense of being haunted. But no! these gracious, silent, waving, weaving shapes are not of the Shadowy Folk, for whose coming the white fires were kindled: a strain of song, full of sweet, clear quavering, like the call of a bird, gushes from some girlish mouth, and fifty soft voices join the chant:

          Sorota soroimashita odorikoga sorota,
          Soroikite, kita hare yukata. 

   'Uniform to view [as ears of young rice ripening in the field] all clad alike in summer festal robes, the company of dancers have assembled.'

   Again only the shrilling of the crickets, the shu-shu of feet, the gentle clapping; and the wavering hovering measure proceeds in silence, with mesmeric lentor—with a strange grace, which, by its very naïveté, seems old as the encircling hills.

   Those who sleep the sleep of centuries out there, under the grey stones where the white lanterns are, and their fathers, and the fathers of their fathers' fathers, and the unknown generations behind them, buried in cemeteries of which the place has been forgotten for a thousand years, doubtless looked upon a scene like this. Nay! the dust stirred by those young feet was human life, and so smiled and so sang under this self-same moon, 'with woven paces, and with waving hands.'

   Suddenly a deep male chant breaks the hush. Two giants have joined the round, and now lead it, two superb young mountain peasants nearly nude, towering head and shoulders above the whole of the assembly. Their kimono are rolled about their waistilike girdles, leaving their bronzed limbs and torsos naked to the warm air; they wear nothing else save their immense straw hats, and white tabi, donned expressly for the festival. Never before among these people saw I such 
men, such thews; but their smiling beardless faces are comely and kindly as those of Japanese boys. They seem brothers, so like in frame, in movement, in 
the timbre of their voices, as they intone the same song:

          No demo yama demo ko wa umiokeyo,
          Sen ryo kura yori ko ga takara.

   'Whether brought forth upon the mountain or in the field, it matters nothing: more than a treasure of one thousand ryo, a baby precious is.'

   And Jizo the lover of children's ghosts, smiles across the silence.

   Souls close to nature's Soul are these; artless and touching their thought, like the worship of that Kishibojin to whom wives pray. And after the silence, the sweet thin voices of the women answer:

          Oomu otoko ni sowa sanu oya wa,
          Oyade gozaranu ko no kataki. 

   The parents who will not allow their girl to be united with her lover; they are not the parents, but the enemies of their child.'

   And song follows song; and the round ever becomes larger; and the hours pass unfelt, unheard, while the moon wheels slowly down the blue steeps of the 
night.

   A deep low boom rolls suddenly across the court, the rich tone of some temple bell telling the twelfth hour. Instantly the witchcraft ends, like the wonder 
of some dream broken by a sound; the chanting ceases; the round dissolves in an outburst of happy laughter, and chatting, and softly-vowelled callings of 
flower-names which are names of girls, and farewell cries of 'Sayonara!' as dancers and spectators alike betake themselves homeward, with a great koro-koro 
of getas.

   And I, moving with the throng, in the bewildered manner of one suddenly roused from sleep, know myself ungrateful. These silvery-laughing folk who now toddle along beside me upon their noisy little clogs, stepping very fast to get a peep at my foreign face, these but a moment ago were visions of archaic grace, illusions of necromancy, delightful phantoms; and I feel a vague resentment against them for thus materialising into simple country-girls.

 

5
   Since this sketch was written, I have seen the Bon-odori in many different parts of Japan; but I have never witnessed exactly the same kind of dance. Indeed, I would judge from my experiences in Izumo, in Oki, in Tottori, in Hoki, in Bingo, and elsewhere, that the Bonodori is not danced in the same way in any two provinces. Not only do the motions and gestures vary according to locality, but also the airs of the songs sung—and this even when the words are the same. In some places the measure is slow and solemn; in others it is rapid and merry, and characterised by a queer jerky swing, impossible to describe. But everywhere both the motion and the melody are curious and pleasing enough to fascinate the spectator for hours. Certainly these primitive dances are of far greater interest than the performances of geisha. Although Buddhism may have utilised them and influenced them, they are beyond doubt incomparably older than Buddhism. 

 

        六 

 

  寢床に就いてから、私はその簡單な農民の合唱によつて喚起された、奇異な感情の理由を自ら問ふて見た。奇怪な合間や、短音を有するかの歌曲を思ひ起すことは全然不可能であつら。鳥の囀りを記憶に留めようとするやyなものだ。それでも、その形容し難い妙味は、まだ彷彿として殘つてゐた。

 歐洲の旋律は、私共が發表することの出來る感情を、私共の心に呼び起す。それは私共 の背後のあらゆる年代から傳つて來て、國語の如くに親しみのある感情だ。が、西洋の旋 律の如何なるものにも、徹頭徹尾類似してない原始的な歌に因つて喚起さるゝ感情を、ど うして説明しようか?西洋の音樂語の文字である譜音で、書くことさへ不可能なのだ。

 して、その情緒――それは何だ?私には分らぬ。が、私の身よりは無限に古い古いものだと、私には感ぜられる――に或る特定の一時處に屬するものではなく、大宇宙の太陽の下、到る處のあらゆる生物の苦樂に共鳴するものだと思ふ。それから、また私は、かの歌が、教へず、求めずしておのづから大自然の最も古い歌と調和してゐること、荒野の音樂――かの偉大なる地上の美しき叫びに混じて、その一部を成す、夏季の生物のすべて の顫聲と、無意識に緣戚たることに、最奧の祕密は存するではないかと思ふ。

[やぶちゃん注:「顫聲」「せんせい」と音読みしているものと思われる。原文は“trillings”でこれは “trill”(トリル)、歌などを震え声(ビブラート)で歌う、或いは楽器などでトレモロで奏する、或いは小鳥などが鳴き声を震わせて囀るの意の動詞を一種の現在進行形的(“trill”の綴りでも普通に名詞があるのであるが、ここは現に寝床にいるハーンの耳に聴こえてくるそれとして)に名詞化したもののように私には思われる。大方の御批判を俟つ。] 

 

Sec.6

   Lying down to rest, I ask myself the reason of the singular emotion inspired by that simple peasant-chorus. Utterly impossible to recall the air, with its fantastic 
intervals and fractional tones—as well attempt to fix in memory the purlings of a bird; but the indefinable charm of it lingers with me still.

   Melodies of Europe awaken within us feelings we can utter, sensations familiar as mother-speech, inherited from all the generations behind us. But how explain the emotion evoked by a primitive chant totally unlike anything in Western melody,—impossible even to write in those tones which are the ideographs of our music-tongue?

   And the emotion itself—what is it? I know not; yet I feel it to be something infinitely more old than I—something not of only one place or time, but vibrant 
to all common joy or pain of being, under the universal sun. Then I wonder if the secret does not lie in some untaught spontaneous harmony of that chant with 
Nature's most ancient song, in some unconscious kinship to the music of solitudes—all trillings of summer life that blend to make the great sweet Cry of the Land.

2015/08/30

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (四)

 

        四

 

 たうとう大きな隆起の崖から、道が急に下つて、高く尖つた藁葺の屋根や、綠苔の生えた軒の連る通景の中へ出でてきた――廣重の浮世繪の中にあるやうな村、廣重の風景に誠によく似た色彩を有する村。これは伯耆の國、上市(かみいち)だ。

 私共は靜かな、薄黑い小さな宿の前で停つた。非常に年老いた亭主が出でて迎へた。すると、無言で温和な村民が、大概は子供と婦人てあるが、外人を見たり、不思議がつたり、または内氣な微笑を帶びた好奇心て着物に觸つたりするため、車の周圍に集まつた。私は宿の老主人の顏を一目見ただけで、彼の案内に應ずることに決めた。私は明日までここに留まらねぱならぬ。車夫があまりに疲れてゐるから、今夜はこれより先きへ行けない。

 小さな宿は、外見は風雨に古びてゐるが、室内は心地よかつた。その磨いた怪談や緣側は淸らかで、鏡面の如くに女中の素足を映した。その明るい室は、始めて疊を敷いた時の如くに、新鮮で、よい香がしてゐた。私の室の床柱は、黒い良材に花と葉が彫られて、驚歎すべきものであつた。床に懸つてゐる掛物の畫は、幸福の神なる布袋が、舟に乘り夢のやうな流れを下つて、朦朧神祕な暮色蒼然裡へ去つて行く、一個の田園詩であつた。この小部落はあらゆる藝術的中心から遠く隔つてゐるけれども、この家には日本人の形象に關する美感を示さないものは、一つも見られない。金色花模樣の古い漆器、驚くべき菓子器、透通つた陶器の酒杯に、跳つた海老を一匹、金色で現したもの、靑銅製茶托の、蓮の葉が捲(ちゞ)れた形をしたもの、また龍や雲の模樣ある鐡瓶、唐獅子の頭の形をした、取手の附いた眞鍮の火鉢などが、眼を欣ばし、空想を驚かせた。實際、今日、日本の到る處で、陶器でも、金屬製品でも、全然妙味のない、平凡で、醜いものに接した場合には、その嫌なものは外國の影響の下に作られたのだと大抵決定してよろしい。しかし、私は今こゝでは舊日本の中にゐるのだ。多分いかなる歐洲人の眼も、未だこれ等のものを眺めたことはないだらう。

 心臟形の窓が庭に向つて覗いてゐる。小さな立派な庭園で、小さな池と小型の橋と矮樹があつて、荼椀に畫いてある風景に似てゐる。また固より二三の恰好のよい石と、寺の境内にあるやうな優美な燈籠もある。して、是等の景物を越えて、暑い薄暮の中に、愛する亡靈の訪問を迎へるため、各戸の前に吊られた、盆燈籠の彩色を帶びた燈光が見えた。何故となれば、この古風な士地で、今猶用ひてゐる舊曆によると、今夜が盆祭の初めであつた。

 私が泊まつたすべての他の田舍の小村に於ける如く、こゝの人民が私に對する親切と慇懃は、想像し難く、名狀し難いほどで、他の國には存在しない。日本に於ても内地にのみ見らるゝものであつた。彼等の質朴な丁寧さは技巧ではない。後等の親切さは絶對に無意識の親切である。二つとも本心から來るのだ。して、私がこれらの人々と交はつて、二時間も立たない内に、彼等の私に對する待遇と、かゝる親切に酬ゐることは到底不可能だといふ考がそれに加つて、途方も無い願が私の心中に起つた。是等の愉快な人々が、ある豫想外の邪曲、驚くべき惡事、獰猛に不親切なことを私に加へて呉れたい。さうすればこの人々と袂を別つのを惜しく思ふことはなくなるだらう。私は去つて行くや否や、殘念に感じ出すにきまつてゐるから。

 老主人が私を湯殿へ案内して、私を子供扱ひに主人自から強ひて、私を洗つてくれた間に、主婦は米、卵、野菜、菓子などの旨い小さな、御馳走を私のために訓理した。私が二入前ほど貪べた後でも、披女は私に滿足を與へなかつたかといふことをひどく氣にして、もつと澤山料理を作りかねたことを大いに詫びた。

 彼女は『今日は十三日で、盆祭の初めの日で御座いますから、魚がありません。十三日、十四日、十五日には誰も精進致します。十六日の朝は、漁師が漁に出かけますので、兩親とも生きてゐる人は、魚を食べてもよろしいのです。しかし、片親のない人は、十六日でも食べられません』と云つた。

 善良な主婦が、かやうな説明をしてゐる際、私は戸外から奇異な遠い音が聞えてくるのに氣が付いた。私は熱帶地方の舞踏の記憶によつて、それは拍子を取つて手を打つ音だと悟つた。が、この拍く音は頗る柔かで、また間(ま)が長かつた。して、もつと間を置いて、寺の大きな太鼓を叩く音の重げな、包んだやうな洞音が響いた。

 『是非見物に行きませう』と、晃が呼んだ。『これは盆踊です。こんな盆踊は都會では見られませんよ。これは昔踊、そのまゝです。こゝは習慣が變つてゐませんが、都會では一切變化してゐますから』

 そこで私はたゞ周圍の人々と同樣に、すべて日本の宿屋で男の客に貸してくれる、輕い、寛袖の夏服――浴衣――だけを着けて、急いで外へ出た。が、かやうに輕い衣をきても、非常に暑いので、私は少々汗を流してゐた。して、夜は美しかつた――靜かで、晴れて、歐洲の夜よりも廣やかで、大きな白い月は、彎曲した軒や、突出した破風や、ゆつたりした服を着けた日本人の面白い形などの影を投じてゐた。宿の主人の孫に當る少年が、紅色の提燈を携へて道案内をした。下駄の朗らかなころころといふ響が町内に一杯であつた。踊を見るため、私共の行く方へ澤山の人々が行くのであつた。

 霎時私共は本通りについて進んだ。それから二軒の家の間の狹い通路を越えると、滿面月光の漲つた廣場に出た。これが踊場であつた。しかし、踊は一時停んでゐた。あたりを見廻はすと、私共の居る處は、古い佛寺の境内であつた。寺の建物はそのまゝ殘つて、星の光に低い、長い、瘠せた影を見せてゐるが、内部は空虛で暗黑、俗用に供せられて、校舍になつてゐるとのことであつた。僧侶は去り、大きな鐘も失せ、佛陀や菩薩は無くなつて、たゞ月の下で、閉ぢた目許に徴笑を含める、手の損はれた石地藏だけに寺り名殘を留めてゐた。

 境内の中央には、竹の枠に大きな太鼓が載せられ、その周圍に、學校から持出した長椅子を並べて、村の人々が憩んでゐた。ある莊嚴なことを豫期するかのやうに、低く語り合ふ聲の囂音や、折々は小兒の泣聲、娘達の柔かな笑聲が聞えた。して、境内から遙か奧の方、薄暗い常盤木の低い墻の彼方に、私は柔かな白い燈火と無數の丈高い灰色の形のものが長い影を投じてゐるのを見た。して、私は燈火は唯だ墓所にのみ吊される白い燈籠で、灰色の形は墓であることがわかつた。

 不意に一人の娘が立上つて、大きな太鼓を一囘叩いた。これが盆踊の合圖であつた。

 

[やぶちゃん注:この旧暦行われている盂蘭盆の叙述によって、これがこの明治二三(一八九〇)年の旧暦の七月十三日、即ち、新暦の八月二十八日(木曜)の晩の光景であることがはっきりするのである。

「伯耆の國、上市」「伯耆の國」は現在の鳥取県中部及び西部に当たり、「上市」は現在の鳥取県西伯(さいはく)郡大山町(だいせんちょう)上市(山陰本線刺下市駅の海側の字名として残る)であるが、これは「うはいち(うわいち)」と読むのが正しい。ここから旧山陰道を忠実に実測してみたところ、松江市外まで、約五十五キロメートルあり、まさに一日遅くとも一日半(八月二十九日か三十日、遅くとも三十一日)あれば到着出来る距離と思われ、和田和夫氏がハーンの松江到着を『八月末』とし、島根県立松江中学校(現在の島根県立松江北高等学校)へは『九月、初登校』とあるのに、ぎりぎりセーフである。その後、松江の旅館大橋館(次の第七章の注で後述する)公式サイト内の「小泉八雲ゆかりの地」によれば、ハーンは明治二三(一八九〇)年八月三十日午後四時、『対岸の港に船で着いた』とあるのを見出した。貴重な詳細情報である。

「邪曲」「じやきよく(じゃきょく)」と音読みし、心が捻くれて、素直でないことや、不正・不道徳であることを意味する。しかしどうも音読みは気に入らない。私は「よこしま」と訓ずる。

「洞音」私は「ほらね」と訓じたい。洞穴で木霊するような低い響きの意であろう。

「霎時」既注であるが再掲する。「せふじ(しょうじ)」と読む。「暫時」に同じい。暫くの間。ちょっとの間。「霎」はさっと降っては直ぐ止む小雨、通り雨を原義とし、そこから瞬く間、しばしの意となった。

「囂音」「がうおん(ごうおん)」と音で読むしかあるまいが如何にも佶屈聱牙である。かまびすしいこと。騒がしいことを言う。平井呈一氏はここを『低い声でごやごや話しあっている声』と訳しておられる。]

 

 

Sec. 4

At last, from the verge of an enormous ridge, the roadway suddenly slopes down into a vista of high peaked roofs of thatch and green-mossed eaves—into a village like a coloured print out of old Hiroshige's picture-books, a village with all its tints and colours precisely like the tints and colours of the landscape in which it lies. This is Kami- Ichi, in the land of Hoki.

We halt before a quiet, dingy little inn, whose host, a very aged man, comes forth to salute me; while a silent, gentle crowd of villagers, mostly children and women, gather about the kuruma to see the stranger, to wonder at him, even to touch his clothes with timid smiling curiosity. One glance at the face of the old innkeeper decides me to accept his invitation. I must remain here until to-morrow: my runners are too wearied to go farther to-night.

Weather-worn as the little inn seemed without, it is delightful within. Its polished stairway and balconies are speckless, reflecting like mirror-surfaces the bare feet of the maid-servants; its luminous rooms are fresh and sweet-smelling as when their soft mattings were first laid down. The carven pillars of the alcove (toko) in my chamber, leaves and flowers chiselled in some black rich wood, are wonders; and the kakemono or scroll-picture hanging there is an idyll, Hotei, God of Happiness, drifting in a bark down some shadowy stream into evening mysteries of vapoury purple. Far as this hamlet is from all art-centres, there is no object visible in the house which does not reveal the Japanese sense of beauty in form. The old gold-flowered lacquer-ware, the astonishing box in which sweetmeats (kwashi) are kept, the diaphanous porcelain wine- cups dashed with a single tiny gold figure of a leaping shrimp, the tea- cup holders which are curled lotus-leaves of bronze, even the iron kettle with its figurings of dragons and clouds, and the brazen hibachi whose handles are heads of Buddhist lions, delight the eye and surprise the fancy. Indeed, wherever to-day in Japan one sees something totally uninteresting in porcelain or metal, something commonplace and ugly, one may be almost sure that detestable something has been shaped under foreign influence. But here I am in ancient Japan; probably no European eyes ever looked upon these things before.

A window shaped like a heart peeps out upon the garden, a wonderful little garden with a tiny pond and miniature bridges and dwarf trees, like the landscape of a tea-cup; also some shapely stones of course, and some graceful stone-lanterns, or toro, such as are placed in the courts of temples. And beyond these, through the warm dusk, I see lights, coloured lights, the lanterns of the Bonku, suspended before each home to welcome the coming of beloved ghosts; for by the antique calendar, according to which in this antique place the reckoning of time is still made, this is the first night of the Festival of the Dead.

As in all the other little country villages where I have been stopping, I find the people here kind to me with a kindness and a courtesy unimaginable, indescribable, unknown in any other country, and even in Japan itself only in the interior. Their simple politeness is not an art; their goodness is absolutely unconscious goodness; both come straight from the heart. And before I have been two hours among these people, their treatment of me, coupled with the sense of my utter inability to repay such kindness, causes a wicked wish to come into my mind. I wish these charming folk would do me some unexpected wrong, something surprisingly evil, something atrociously unkind, so that I should not be obliged to regret them, which I feel sure I must begin to do as soon as I go away.

While the aged landlord conducts me to the bath, where he insists upon washing me himself as if I were a child, the wife prepares for us a charming little repast of rice, eggs, vegetables, and sweetmeats. She is painfully in doubt about her ability to please me, even after I have eaten enough for two men, and apologises too much for not being able to offer me more.

There is no fish,' she says, 'for to-day is the first day of the Bonku, the Festival of the Dead; being the thirteenth day of the month. On the thirteenth, fourteenth, and fifteenth of the month nobody may eat fish. But on the morning of the sixteenth day, the fishermen go out to catch fish; and everybody who has both parents living may eat of it. But if one has lost one's father or mother then one must not eat fish, even upon the sixteenth day.'

While the good soul is thus explaining I become aware of a strange remote sound from without, a sound I recognise through memory of tropical dances, a measured clapping of hands. But this clapping is very soft and at long intervals. And at still longer intervals there comes to us a heavy muffled booming, the tap of a great drum, a temple drum.

'Oh! we must go to see it,' cries Akira; 'it is the Bon-odori, the Dance of the Festival of the Dead. And you will see the Bon-odori danced here as it is never danced in cities—the Bon-odori of ancient days. For customs have not changed here; but in the cities all is changed.'

So I hasten out, wearing only, like the people about me, one of those light wide-sleeved summer robes—yukata—which are furnished to male guests at all Japanese hotels; but the air is so warm that even thus lightly clad, I find myself slightly perspiring. And the night is divine -still, clear, vaster than nights of Europe, with a big white moon flinging down queer shadows of tilted eaves and horned gables and delightful silhouettes of robed Japanese. A little boy, the grandson of our host, leads the way with a crimson paper lantern; and the sonorous echoing of geta, the koro-koro of wooden sandals, fills all the street, for many are going whither we are going, to see the dance.

A little while we proceed along the main street; then, traversing a narrow passage between two houses, we find ourselves in a great open space flooded by moonlight. This is the dancing-place; but the dance has ceased for a time. Looking about me, I perceive that we are in the court of an ancient Buddhist temple. The temple building itself remains intact, a low long peaked silhouette against the starlight; but it is void and dark and unhallowed now; it has been turned, they tell me, into a schoolhouse. The priests are gone; the great bell is gone; the Buddhas and the Bodhisattvas have vanished, all save one—a broken-handed Jizo of stone, smiling with eyelids closed, under the moon.

In the centre of the court is a framework of bamboo supporting a great drum; and about it benches have been arranged, benches from the schoolhouse, on which villagers are resting. There is a hum of voices, voices of people speaking very low, as if expecting something solemn; and cries of children betimes, and soft laughter of girls. And far behind the court, beyond a low hedge of sombre evergreen shrubs, I see soft white lights and a host of tall grey shapes throwing long shadows; and I know that the lights are the white lanterns of the dead (those hung in cemeteries only), and that the grey shapes are shapes of tombs.

Suddenly a girl rises from her seat, and taps the huge drum once. It is the signal for the Dance of Souls.

2015/08/29

甲子夜話卷之一 45 池田三左衞門、永井傳八郎へ始て對面の事

45 池田三左衞門、永井傳八郎へ始て對面の事

池田輝政〔三左衞門〕、神祖の御親緣となりて後、申上らるゝは麾下の士に永井傳八郎と申上らるゝは、某が父勝入を討候人に候。何卒對面いたし度と云。神祖さらば迚御許あり、因て初て對面す。此時人々思ふは、父を討たりし敵なれば、對面のうへ何(イカ)がならんと思ひゐたるに、輝政先禮義を正くして申には、先年父勝入を長久手にて討玉ひしとき、某は年少にて、得と其樣體を辯ぜず候。冀くば父討死の有さま、委く語り聞せ玉へと云へば、永井承候とて、勝入其時の有さまを委く申述たれば、輝政落涙して承り、さても忝存候。始て分明に承り候とて別れぬ。夫より又、神祖え言上するには、永井へ其父討死の樣子承り候に、武道に恥ざる振舞に候を、かく討取候ことは、實によき武士にて候。其父の面目にも候へば、加祿し給り度と言上す。神祖肯じ玉ひて、萬石の列になし下されしとなり。それ迄は五千石許の采地にて有しとなん。

■やぶちゃんの呟き

「池田輝政」(永禄七(一五六四)年~慶長一八(一六一三)年)は安土桃山から江戸前期にかけての大名。「三左衞門」は通称。美濃池尻城主・同大垣城主・同岐阜城主・三河吉田城主を経て、播磨姫路藩初代藩主となった。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られ、「姫路宰相」と称された(詳細な事蹟は参照したウィキ池田輝政」を読まれたい)。

「神祖の御親緣となり」輝政の継室督姫(とくひめ 永禄八(一五六五)年~慶長二〇(一六一五)年)は徳川家康の次女であった。文禄三(一五九四)年に秀吉が仲人役となって池田輝政に再嫁した(再嫁時は夫輝政より一つ下の数え三十であった)。彼女の最初の夫は後北条氏第五代当主北条氏直であったが、秀吉の小田原攻めで敗北、最後は疱瘡(推定)によって病没している。

「麾下」大将の指揮の下(もと)の意から、将軍直属の家来、直参旗本のこと。

「永井傳八郎」旗本から後に大名となり、上野小幡藩主・常陸笠間藩主・下総古河藩初代藩主であった永井家宗家初代永井直勝(永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二五)年)の通称。美青年であったという。参照したウィキ永井直勝によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『永禄六年(一五六三年)、長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)に生まれる(東浦町緒川の説もある)。はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正七年(一五七九年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正八年(一五八〇年)、家康に召し出されて再び家臣となる。天正一二年(一五八四年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された』。『文禄三年(一五九四年)、池田恒興の次男池田輝政が家康の次女の督姫を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。このとき、輝政が直勝の知行を聞くと五千石であった。輝政は父を討ち取った功績の価値が五千石しかないのかと嘆息したという』(下線やぶちゃん。数え三十二、池田輝政は一つ下の三十一歳であった)。『文禄五年(一五九六年)二月七日、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている。慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いの後に近江国に二千石を加増され、七千石を領』し、『大坂の陣にも参戦して戦功を上げ』、元和二(一六一六)年には『上野小幡藩一万七千石に加増。翌元和三年(一六一七年)には常陸笠間藩三万二千石を与えられ、後に二万石を加増される。元和八年(一六二二年)、笠間を浅野長重に譲って、代わりに下総古河において七万二千石を与えられた』とあり、『子孫に作家の永井荷風や三島由紀夫などがいる』ともある。

「勝入」「しようにふ(しょうにゅう)」と音読みする。池田輝政の実父で尾張犬山城主・摂津兵庫城主・美濃大垣城主であった池田恒興(つねおき 天文五(一五三六)年~天正一二(一五八四)年)の出家後の法号。ウィキ池田恒興によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『天文五年(一五三六年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生』、『母の養徳院は織田信長の乳母であり、信長の父の織田信秀の側室となっている』。『幼少の頃から小姓として織田氏に仕え、桶狭間の戦い、美濃攻略などで戦い、元亀元年(一五七〇年)の姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり一万貫を与えられた。以後も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、長篠の戦いなど信長の主だった戦に参陣、天正八年(一五八〇年)には信長に抵抗し摂津花隈城に籠もる荒木村重を破り、その旧領を領する。天正十年(一五八二年)、甲州征伐では、二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命令されるも、あっけなく武田氏は滅亡。密かに落ち延びた武田勝頼の三男・勝親を匿い保護した。天正十年(一五八二年)、甲州征伐では、二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命令されるも、あっけなく武田氏は滅亡。密かに落ち延びた武田勝頼の三男・勝親を匿い保護した』。『同年、本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流。山崎の戦いは兵五千を率いて(太閤記による。実際は兵力を二倍くらいに誇張されていると谷口克広は指摘している)右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立し、領地の再分配では摂津国の内大坂・尼崎・兵庫において十二万石を領有した。翌天正十一年(一五八三年)の賤ヶ岳の戦いには参戦していないが、美濃国にて十三万石を拝領し大垣城主となる』。『天正十二年(千五百八十四年)、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦。勝利が成った際には尾張一国を約束されていたという。(池田家文庫文書)緒戦で犬山城を攻略した後、途中で上条城に立ち寄り、三好信吉・森長可(恒興の婿)・堀秀政と共に家康の本拠三河国を攻めようとしたが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬したことが災いとなり、長久手にて長可と共に戦死。戦死の状況は、床机に座って陣中を立て直している所に永井直勝の槍を受けてのものだといわれている。享年四十九。嫡男の元助も共に討ち死にしたため、家督は次男の輝政が相続した』とある(下線やぶちゃん)。

「さらば迚御許あり」「さらば、迚(とて)、御許(おゆるし)あり」と読む。

「先」「まづ」。

「冀くば」「ねがはくば」。

「委く」「くはしく」。

「忝」「かたじけなく」。

「神祖え」はママ。

「それ迄は五千石許の采地」「采地(さいち)」とは領地・知行所(特に旗本の場合にかく呼称した)のこと。「采邑(さいゆう)」とも称する。通常は石高一万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩主のみが「大名」であり、一万石に満たない者はその下の「旗本」でしかなかった。

譚海 卷之一 越中國五箇莊の事

 越中國五箇莊の事

同國期箇(ごか)の庄(しやう)といふ所は、飛驒にちかき深山中の村にして、居人千軒程有(あり)、前田家の領地なり。凡(およそ)此(この)村に至るには深谷のかけ橋などをあまたへていたる事故、同地のものといへども往來する事稀也。尤(もつとも)加州より猥(みだり)に他國の人を入る事を禁じ、番所ありて人を改む。ゆるしをえざれば往來する事あたはず。九山八海と稱する地にて、一山をこえて一山に入(いり)、その際はみな平(たひら)か成(なる)路也。第八山までの人家は千軒の外也。外郭八山迄五十萬石耕作する所といへり。一山の周匝(しふさふ)三十五里づつ有(あり)といへり。其(その)道中百間(けん)或は二百間、谷むかふよりこなたへ藤かつらの繩を引(ひき)わたし、其繩に籃(かご)をくゝりつけ、往來の人は籃の内に坐し、此方(こなた)の岸に人有(あり)て籃ををしやれば、籃四五十間もはしりて中間にしてぶらぶらととゞまる。それより自身籃の中にて繩をたぐり向ふの崕(がけ)に至り、籃より出て途につく事也。繩斷絶すれば深谷へ暴死(ぼうし)す。危嶮(きけん)言語同斷也。如ㇾ此(かくのごとき)谷を十六こえざれば庄に至りがたし。然して村中の人みな壽考(じゆかう)也。百歳已上(いじやう)の人まゝあり。八十歳已下にて死する者をば、夭折のごとく覺えたり。村中煙硝を産す。悉く加州城中へ運びとる。凡壹年に二千金ほどの價也。それを加州より給すれば、千軒高下(かうげ)なく平分(へいぶん)に分(わか)ちとるゆへ、貧富貴賤の家なし。家々同等なれば他を願ふ情なく、七情(しちじやう)薄き故に壽考も多き事としられたり。又貧富なきゆへに奉公する人なし。他國の人(ひと)來住する事なければ、僕從(ぼくじゆう)といふものなし。親子兄弟のみにてかせぐ所也。此期箇の庄に神宮皇后の御所と稱するもの今にありとぞ。すべて常人の宅も結構美麗にして、他邦になき所、別世界のごとし。日本開闢已來一度も兵革の憂に逢(あひ)たる事なき所ゆへ、居人の言語も古代のものいひにて、平安の人よりはものいひやさしく聞ゆるといへり。千軒の人の給は、七年づつの糧をもみにて加州より運送すと云(いへ)り。中央の地に瑪瑙(めなう)の山あり。流水の水上(みなかみ)也。黄金にて鑄たる龍の口より水をはくといへり。居人みな白き衣に白き袴を着る。即(すなはち)其地にて織出(をりいだ)す五條きぬと云(いふ)もの也。輕くて奇麗なる事いふべからず。婦人袴を着て髮はから子(こ)にて瓔珞(やうらく)をさぐると云(いふ)。淫欲甚(はなはだ)しといへり。男子は總髮(そうはつ)にて袴を着るといへり。此山の内外みな淨土眞宗にて餘宗なし。第八山までに淨刹百五十箇(か)寺ありとぞ。中央の事は寺數しれず、前田家入部の時一囘巡見せらるゝ事とぞ。

[やぶちゃん注:「越中國五箇莊」富山県の南西端にある南砺市の旧平(たいら)村・旧上平(かみたいら)村・旧利賀(とが)村を合わせた五箇山(ごかやま)地域のこと。参照したウィキの「五箇山」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の五つの谷からなるので「五箇谷間」となり、これが転じて「五箇山」の地名となった。この名称が、文献に出てくるのは約五百年前、本願寺住職第九世光兼実如上人の文書が最初である。これ以前には、荘園時代に坂本保、坂南保、坂上保、坂下保、坂北保の五つの領に区別し「五箇荘」とも呼んだ。この五箇と呼ばれる地名は全国に約百二十ヶ所程度あると言われ、中国の故事より「五を一括り」を由縁とするらしい。日本で「五穀豊穣」や「五人組」「伍長」との語句などである。平家の落人伝説が「五箇」が多いとの所以は、「五箇」が山間地に多いことや落人が山間に逃げることから源平合戦の近隣の地域に伝説が多い』。『平家の落人が住み着いたと伝えられて』おり、寿永二/治承七(一一八三)年、現在の『富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と平維盛(平清盛の孫)が戦った(倶利伽羅峠の戦い)。この時、義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされる。物的証拠はないが、一部の五箇山の民家の家紋として残っているとされている』。『また、南北朝内乱期に、吉野朝遺臣によって地域文化が形成されたとも伝えられており、「五箇山誌」』(昭和三三(一九五八)年刊)『には「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からである。養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは後醍醐天皇第八皇子、天台座主宗良親王によってである。」という説もある』。『白山信仰による天台宗系密教の地域であったが、一四七一年(文明三年)浄土真宗本願寺八世蓮如が現在の福井県吉崎に下向し、北陸一帯が一向宗の勢力となりこの地域も浄土真宗に改宗したようである。北陸一帯の地名には「経塚」なる地名が残っているが、この地域にも天台宗系のお経を埋めた地を、こう呼んでいる』。『江戸時代には、加賀藩の流刑地とされ、加賀騒動の大槻伝蔵もこの地へ流された。流刑地である五箇山には当地を流れる庄川に橋を掛けることが許されず、住民はブドウのつるで作った大綱を張り、籠をそれに取り付けて「籠渡し」として行き来した(現在でも残っており、人の代わりに人形が川を越える)』。『五箇山の合掌造りの屋根は茅葺である。五箇山の茅葺はコガヤ(チガヤ)』(単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ Imperata cylindrica )『を材料とすることが特徴となっている。なお、現在はチガヤの採取量が全ての合掌造りに必要な分を満たせず、重要文化財や世界遺産を除く合掌造りは大茅(ススキ)で屋根が葺かれている家屋がある。昭和三十年代までは「結」、集落の共同作業にて葺き替えを行っていたが、現在は富山県西部森林組合(旧五箇山森林組合)が屋根の葺き替え、茅場の管理・刈取りを行っている』。『この地域は世界的にみても有数の豪雪地帯であり、そのような風土から傾斜の急な大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれた。現在も南砺市(旧平村)の相倉地区や同市(旧上平村)の菅沼地区には合掌造りの集落が残っており、それぞれ一九七〇年十二月四日、「越中五箇山相倉集落」「越中五箇山菅沼集落」として国の史跡に指定され、一九九四年には重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、隣接している岐阜県大野郡白川村の白川郷(荻町地区)とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として一九九五年一二月、世界遺産に登録されている』。『「五箇山は民謡の宝庫」と言われ、発祥や伝播の経緯が定かでないものが数多く存在する。「お小夜節」は伝承ではお小夜(おさよ)という遊女と関係が深いという。加賀騒動の首謀者と遊女たちが輪島に流刑になったが、お小夜は輪島の出身だったため、意味がないということで、小原(上平)に流され、歌を教えたとされる。口頭で伝承され発展してきた文化遺産であり、麦屋踊は、国の助成の措置を講ずべき無形文化財に選定された経過にある。代表的な「こきりこ節」や「麦屋節」を含む多くの民謡は、一九七三年(昭和四十八年)十一月五日に「五箇山の歌と踊」として、国の選択無形民俗文化財に選択されており、多くの五箇山民謡保存団体が存在し、唄い踊り続けることによって守られて』おり、現在、『こきりこ(こっきりこ)節・麦屋節・長麦屋節・早麦屋節・小谷麦屋節・古代神・小代神・四つ竹節・といちんさ節・お小夜節・なげ節・五箇山追分節・神楽舞・古大臣・しょっしょ節・草島節・輪島節など』が伝承されている、とある。

「居人千軒程有」戦後の人口流出により、二〇一四年の統計では人口(戸数ではない)二千四百人ほどと思われる(瀧澤侑加(ゆか)氏の論文「五箇山の念仏道場と仏教行事の変化に関する研究―利賀地区を中心として―」(PDF)の「五箇三村の人口の推移」二〇一四年四月現在の住民基本台帳人口の表からの推定)。戸数は越中城端善徳寺公式サイト内と思われる「五箇山史雑記」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『五箇山の戸数は、享保十七年(一七三二)では、千三戸、しかし、同十九年(一七三四)では、九百十七戸に減少、幕末の慶応二年(一八六六)では千二百九十六戸と増減した。人口は、同年で九千八百三十二名であった。享保十九年に、戸数、人口が減少した理由は凶作だったことが当時の記録から伺える』とあり(下線やぶちゃん)、『文化十年(一八一三)の江戸時代の記録では、「春は雪遅く消え、秋は雪霜早く降り、諸作物実りかね、稲作は累年実り申さず」とあり、凶作の年は、「飢饉、谷中百姓共、過半飢死申」とあり、五箇山住民の多くが餓死したという』。『幕末の人口から計算すると五箇山での食糧自給率は換算すると六十%で、不足する米は城端から搬入された。日当たりの良い斜面は桑畑となった。加賀藩には年貢の多くは塩硝で納められた』。『旧上平村の世帯数を見ると、明治二八年』(一八九五年)『には四〇五戸あったのが明治三十四年には三百十一戸まで急減している。これは旧平村でも同様で、実は村民の多くが北海道に移住したのである』。『これは開拓地が与えられる屯田兵制度という明治政府の方針もあったが、北海道に移住しなければならなくなった理由には、五箇山の主要製品であった塩硝が、明治三年に加賀藩から買い上げ中止となったこと等、加賀藩に支えられ安定していた五箇山の産業構造が急変したことが背景にある』とある。『そして更に人口の減少が進み、かつての平、上平、利賀を併せて、二〇〇〇年では旧三村の人口は三四〇〇人を下回っているようだ』とあり、前の瀧澤氏のデータからはさらに深刻な減少が起っていることが窺える。因みに本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙って書かれたものであるから、享保十九(一七三四)年に凶作で九百十七戸に減少した後、少しだけ回復した様子が窺える。

「加州」加賀国。

「九山八海」本来は「くせんはつかい(くせんはっかい)」と読み、仏教の世界観で金輪際の中心である須弥山(しゅみせん)を順に取り囲む九つの山と八つの海のことを指すが、ここはそれに擬えた半ば隔絶した一小世界の謂いと思われる。但し、以下の叙述を見る限りでは現地では古くは実際に九つの山については具体的な山(ピーク)が当てられていたは読める。

「五十萬石」不審。加賀藩でさえ百二万五千余石ある。先の「五箇山史雑記」には、『江戸時代の五箇山の石高は、正保三年』(一六四六年。家光の頃である)『「五ヶ山高物成田畠帳並びに高付帳」では』七十ヶ村合計で五千八百三十六石とある。

「周匝」現代仮名遣では「しゅうそう」。ある対象の周りを取り巻くこと。また、その廻り・巡りの意。

「三十五里づつ」三十七・四五キロメートル四方であるが、これはかなり大ドンブリの感がある。現在の行政区分による実測であるが、南北に長い旧利賀村でも三十キロメートル弱ほどと見られ、東西に至っては多く見積もっても二十五キロ弱ほどしかない。南北については現在の庄川上流のやはり合掌造で知られる岐阜県内の白川村まで含めるならば、少なくとも南北はこれくらいにはなるが、白河郷は江戸時代から飛騨国である。

「百間或は二百間」凡そ百八十二~三百六十四メートル。

「谷むかふよりこなたへ藤かつらの繩を引わたし、其繩に籃をくゝりつけ、往來の人は籃の内に坐し、此方の岸に人有て籃ををしやれば、籃四五十間もはしりて中間にしてぶらぶらととゞまる。それより自身籃の中にて繩をたぐり向ふの崕に至り、籃より出て途につく事也」「富山県民生涯学習カレッジ」公式サイト内の廣瀬誠氏の「テレビ放送講座 平成2年度テキスト 第3回 川は暮らしを支える 越中の川と文化」の「籠の渡」(以下に見る通り「かごのわたり」と読む)に、『山間峡谷には籠(かご)の渡(わたり)が架けられていた。両岸に張り渡した綱に籠をつるし、その籠に乗って繰り綱を引きながら谷を渡る施設。神通川の越中・飛騨国境の籠の渡が古来有名で、元禄の頃、俳人凡兆が「越より飛騨へ行くとて、籠の渡の危き所々道もなき山路をさ迷ひて」と前書きして鷲の巣の名吟をとどめた。この籠の渡は多くの紀行歌文に紹介され、広重の版画にもなって全国に知られた』。

『五箇山の庄川の谷にも下梨はじめ十三カ所の籠の渡があって、蓮如上人や赤尾道宗の伝説にいろどられている。俳人路通は元禄八年(一六九五)「ふらふらと籠の渡りやほととぎす」と詠み、『二十四輩順拝図会』(文政七年、一八二四)は見事な木版画を載せている。籠の渡の下に牛渡り瀬があって、牛は荷物をはずして谷川を渡らせられているが、その光景は交通運輸史の一こまとして興味深い』。『神通川の籠の渡は明治五年木橋に架け替えられ、庄川の籠の渡は明治八年以後次々鎖(くさり)橋(鎖で吊るした頑丈な吊橋)に架け替えられた』。因みに、『常願寺川湯川谷の籠の渡は、明治二十六年』(一八九三年)、『ウエストンがこれを利用し、蛙飛びのような格好で籠乗りしたことをユーモラスに書いている。明治三十八年、若き日の山田孝雄(よしお)が立山から下山して雨の湯川谷を通った時、橋が落ちていたため、山の人達が急造りの籠の渡を架けてくれ、これに乗って激しい濁流を渡ったという。そのような技術が山民の間に伝えられていたことは注目すべきであろう』とある。他にも「川渡りの苦難」の章には、『一本の大竹竿(さお)につかまって急流を渡った』という記載があり、『登山家が一本のザイルに何人もつかまって谷川を渡るのと同じ方法であろう』とあって、誠に興味深い。必読である。

「暴死」急死・頓死の意。遺体を引き上げることも出来なかったに違いない。

「壽考」「考」は老人の意で、長寿・長命のこと。

「煙硝を産す」やはりウィキの「五箇山」の「塩硝」の項によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦(一五七〇年(元亀元年)~一五八〇年(天正八年))の織田勢との戦いにも五箇山の塩硝が使われた。また、黒色火薬自体を製造していたとされる。日本古来から、古民家の囲炉裏の下には自然と塩硝は製造されていたが、五箇山では、自然の草(ヨモギ、しし独活、麻殻、稗殻など)と、蚕の糞などで製造する「培養法」を使って、より多くの塩硝を製造した。十六世紀後半には、前田家が加賀一帯を統治し、一向一揆が沈静化したころより、加賀藩に召し上げとして買い付けられる。加賀藩は、外様大名として百万石の経済力をもち徳川家の二分の一の石高を持っていたので、取り潰しの危機にあったが、裏では五箇山での火薬の原料を調達していたのである。しかし、この塩硝も、日本が鎖国を解いてから南米のチリからの硝石(チリ硝石)の輸入によって廃れてしま』ったとある。

「七情」七種の感情。「礼記(らいき)」では、「喜」「怒」「哀」「懼(く)」「愛」「悪」「欲」とし、仏教では「喜」「怒」「哀」「楽」「愛」「悪(お)」「欲」を指す。

「僕從」下僕。小国寡民で貧富の差がないから、賤職としてのそれが居ないのである。

「神宮皇后の御所」底本には編者により「宮」の右に『(功)』と訂正注がある。三韓征伐で知られる仲哀天皇の皇后神功皇后(じんぐうこうごう 成務天皇四〇(一七〇)年~神功皇后六九(二六九)年)であるが、彼女は実在性が疑われており、ネット上でも五箇山の神功皇后の御所という記事は縦覧した限りでは見当たらない。識者の御教授を乞う。

「瑪瑙」現在でも石川県・富山県で多く産出するようである。

「五條きぬ」不詳。識者の御教授を乞う。

「から子」「唐子」であろうが、元来は頭の左右に僅かに髪を残して、他は完全に剃り上げる江戸時代の幼児の中国風の髪形のことである。しかしそれではおかしいのでこれは「唐子髷(からこまげ)」 で先の唐子のように髻 (もとどり) から上を二つに分けて頭上で二つの輪に作った、近世の女性の髪形となった。「からわ」と言う。

「瓔珞をさぐる」「瓔珞」現代仮名遣では「ようらく」で珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具のこと。「さぐる」はまさぐるの意か?

「總髮」「そうがみ」「そうがう(そうごう)」とも読む。男子の結髪の一つで、月代(さかやき)を剃らずに伸ばした髪の毛全部を頭頂で束ねて結ったもの。近世では主に儒者・医者・山伏などが結った髪形。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (三)

 

        三

 

 さて、すべての稻田に奇異な形のものが見え出した。私は到る處に、白羽の矢の如きものが熟しかけ稻の穗の上に突出ででゐるのを見た。祈禱の矢!私は一本を引拔いて調べて見た。莖は薄い竹で、その長さの三分の一ほど下まで割つてある。その裂け目の間へ、一枚の文字を害いた、強い白紙――御符――を插んで、それから、裂けた部分を合はせ、上の方で結んである。少し遠くから眺めると、全體恰も長く、輕い、しつかり羽根を附けた矢の觀を呈する。初めに調べたのには、『湯淺神社講全村中安全』と書いてあつた。次には『美保神社諸願成就御祈禱修行』とあつた。進んで行く處、どこにも綠の田の上にちらちらする白い祈禱の矢が見えて、段々數が增してきた。眼の達する限り、それが散布してゐるので、靑々たる一面の野に、白い花が點々たるやうであつた。

 また時としては、小さな田の周圍に、竹竿を連ねた一種の魔法的な棚があつた。竿と竿は長い繩を支へて、繩からは一定の間隔を置いて、總(ふさ)の如き長い藁と、御幣が垂れてゐる。これは神道の神聖な象徴の注連繩である。これを繞らした尊い地域内へは、いかなる害蟲も入らない。いかに焦がすやうな日も若芽を凋らせない。して、白い矢が光つてゐる處では蝗が繁殖しないし、餓ゑた鳥も害をしない。

 が、今や佛像は、探しても見當らなくなつた。大きな寺、釋迦、阿彌陀、大日如來は最早ない!菩薩さへ後方に殘されてしまつた。觀音とその神聖な縁戚も見なくなつた。道路の神なる庚申はまだ私共の傍にゐた。しかし、それは名が變つて神道の神となつてゐる。こゝでは猿田彦尊なのだ。して、それは尊の使者なる、三匹の神祕な猿の像でのみ表現されてゐる――

 見猿(ざる)は、兩手で眼を蔽つて、惡を見ざる。

 きか猿(ざる)は、兩手で耳を蔽つて、惡を聽かざる。

 言(い)は猿(ざる)は、兩手で目を蔽つて、惡を云はざる。

 しかし、否!唯一つの菩薩が、この魔力的神道の雰圍氣の裡にも生きのこつてゐる。依然路傍に、餘程の間隔を置いて、死兒の可愛らしい伴侶なる地藏樣の像があつた。が、地藏もまた少々變化しでゐる。六地藏【註】の彫像に於て、地藏は立つた姿でなく、蓮華に坐して現されてゐる。して、私は東方の國々に於ける如く、その前に積み上げられた小石を見なかつた。

 

    註。何故に五又は三或は他の數でなく

    て、六地藏であるかと。讀者は質問を

    發するだらう。私自身も聽いてみた。

    恐らくは次の傅説が最も滿足すべき説

    明を與へるだらう――

    大乘法師愍行念佛傳といふ書によれば、

    地藏菩薩は既に一萬劫を重ねた女であ

    つて、六趣四生の一切有情を教化しよ

    うとの念願を起した。彼女は不可思議

    力によつて其身を分かつて、同時に地

    獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の

    六趣界に現れて、そこに住めるものど

    もを救濟した。〔これを成就するために

    は、地藏は初めに先づ人間となつたに

    相違ないと。或る友人は主張した〕

    地藏の多くの名、假へば「不休息地藏」

    「讚龍地藏」「金剛悲地藏」「放火王地

    藏」などの中に「無量體地藏」いふ意

    義深き稱號がある。

 

[やぶちゃん注:「湯淺神社」不詳。講中を作って全村祈願のために選ばれた村人が祈禱護符を貰いに行く所からは、かなり遠く離れているが、湯浅城主土豪湯浅権守藤原宗重が湯浅村に遷座させて信仰し紀州徳川家初代藩主頼宣を始めとする歴代藩主が崇敬した、現在の和歌山県有田郡湯浅町大字湯浅にある、出雲の主神大国主命を主祭神とする通称「湯浅大宮」、「顯國神社」のことか? 識者の御教授を乞う。

「美保神社」現在の島根県松江市美保関町美保関に鎮座する、大国主神の子事代主神及び大国主神の后三穂津姫命(みほつひめのみこと)を祀る美保神社。参照したウィキの「美保神社」によれば、事代主神系とされる「えびす社」三千余社の総本社であると自称している(但し、「三千余社」というのは蛭子神系の「えびす」社を合わせた数であって正確でな、「えびす」云々ではなく事代主神を祀る神社の総本宮の意と思われると注する)。ともかくも「えびす神」の神社として栄え、『商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める』とある(下線やぶちゃん)。ここでハーンが見たものは恐らくこの神社の祭事「青柴垣神事」で奉られる「波剪御幣(なみきりごへい)」と呼ばれるものである。これは「住吉神社」公式サイト内の『月刊「すみよし」』の風呂鞏氏の『美保神社の青柴垣(あおふしがき)神事』(リンク先の下方にある記事)の中に、まさにハーンのこの箇所を引用、そこに注して『「美保神社 諸願成就 御祈祷修行」と書かれたお札は、波切り御幣と呼ばれ、今も海運業者や船長達が貰い受けて帰るそうだ』と書かれてあることから明らかである。例大祭である「青柴垣神事(あおふしがきしんじ)」は同ウィキによれば、四月七日午後に行われるもので、『国譲りを決めた言代主神が船を青柴垣に変えてその中に身を隠すが、再び神として甦る様子を再現している』一年の間、主祭神事代主が嫌いとされる『鶏肉鶏卵を避け、毎日海で身を清めた』二人の当屋(とうや:「頭屋」とも書き、神社の祭祀や講に於いて神事・行事を主宰したり世話したりする人或いはその家を指す。年毎に輪番制で交替するのが普通である)が『前日から断食し、青柴垣を飾った』二隻の『船に乗り、港内を一周後、美保神社に参拝、奉幣する』とあり、恐らくその後にこうした一般向けの御幣が配布されるのであろう。美保関地域観光振興協議会公式サイト内の「青柴垣神事」に詳しく、下方には当屋を実際に勤めた方の記録もあり、必見である。因みにその「波剪御幣」には『海難はもとより水の災い、火の災い、病など突然降りかかる人生の厄災を除いてくれる御幣として幅広く信仰され、授与されている』とある。

「凋らせない」「しぼまらせない」と訓じておく。

「三匹の神祕な猿の像でのみ表現されてゐる」猿田彦云々はたまたまの「猿」絡みのありがちな習合に過ぎない。ウィキ猿」より引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『三猿(さんざる、さんえん)とは3匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠している意匠である。三猿は世界的にも"Three wise monkeys"として知られ、「見ざる、聞かざる、言わざる」という叡智の三つの秘密を示しているとされる。英語では"see no evil, hear no evil, speak no evil."という』(以下のハーンの原文参照)。『日本語の語呂合わせから日本が三猿発祥の地と思われがちだが、三匹の猿というモチーフ自体は古代エジプトやアンコールワットにも見られるもので、シルクロードを伝い中国を経由して日本に伝わったという見解がある。「見ざる、聞かざる、言わざる」によく似た表現は古来世界各地にあり、同様の像も古くから存在する。しかしそれぞれの文化によって意味するところは微妙に異なり、またその起源は未だ十分に解明されておらず、今後の研究と調査に委ねるところが大きいのである』。『「論語」に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」(礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ)という一節がある。一説に、こうした「不見・不聞・不言」の教えが八世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わったという。三猿のモチーフは、庚申信仰の伝播とともに近世以降広く用いられるようになり、主尊の青面金剛を描く際、その足元に三猿が添えられた例が多い。また庚申塔にも多く三猿が彫り込まれている。天台宗は比叡山の鎮護社の日吉大社と密接な関係にあり、日吉大社を本尊とし、猿を神使とする山王信仰が、庚申信仰と習合した結果ともいう』。『南方熊楠によれば青面金剛と猿の関係はインドに起源があり、青面金剛はインドのラーマーヤナ説話の主人公・ラーマの本体たるヴィシュヌ神の転化であり、三猿はラーマに仕えたハヌマーンの変形という。また庚申の「申=さる」である、庚申信仰で人の悪事を監視して天帝に報告する三匹の「三尸虫」』(さんしのむし)『を封じるため、悪事を見聞きせず、話さない三匹の猿を出したなどの説もある。江戸中期に出版された『和漢三才図会』の「庚申」の項を見ると三猿の挿絵が添えられており、「庚申=三猿」のイメージが定着していたことを伺わせる』。『江戸初期の左甚五郎作と伝える日光東照宮のレリーフは、明治時代になると海外にも紹介されて、やがて世界的に最も有名な三猿のひとつとなった』。『インドのマハトマ・ガンディーは常に三匹の猿の像を身につけ「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたとされており、教科書などに「ガンディーの三猿」が掲載されている。また、アメリカ合衆国では教会の日曜学校などで三猿を用い「猥褻なものを見ない」「性的な噂を聞かない」「嘘や卑猥なことを言わない」よう諭すことがあるという』ともあり、最後の方は一寸、吃驚り。

「大乘法師愍行念佛傳」不詳。識者の御教授を乞う。「大乘法師」とは玄奘三蔵のことか?

「一萬劫」仏教では極めて長い時間を指す語で、珍しく特に数値換算(比喩は別として)されるものではない(因みに、ヒンドゥー教では1劫(カルパ)は現世の四十三億二千万年とするから、その一万倍となる)。

「六趣四生」「六趣」の趣はそれぞれの業報によって趣き住む処という意でハーンも述べている「六道」のこと、「四生」は「ししやう(ししょう)」と読み、仏教に於けるこの世の生きとし生けるあらゆる生物(衆生)の、それぞれの生まれ方によって四つに分類した考え方で、「胎生(たいしょう)」「卵生(らんしょう)」「湿生(しっしょう)」(蚊・蛙など湿気の中から生まれるとされる)「化生(けしょう)」(見かけの観察上では前の三つに見えないもので、外界の影響と無関係に自身の力、「業(ごう)」によって忽然と生まれ出る、出現するとされるもので、例えば仏菩薩が人形(ひとがた)に変じて出現することや、天人や地獄・中有(ちゅうう)への転生、妖怪や幽霊や物の怪全般もこれに含まれる)の四種を指す。

「不休息地藏」修羅道に自律的に化生した地蔵の名。

「讚龍地藏」我々の世界である人間道(じんかんどう)に化生した地蔵の名。以上の二つは埼玉県草加市の真言宗泉蔵院公式サイト内の「泉蔵院の仏様」の「六地蔵尊」の解説に、『泉蔵院に所在する六地蔵は、六道別各尊名を刻してあります。元享釈書の惟高に依ったもので、右側より、地獄道=光味尊、餓鬼道=辨尼尊、畜生道=護讃尊、修羅道=不休息尊、人道=讃龍尊、天道=破勝獄尊とあります』という解説を参照した。「さんりょうじぞう」と読むか。調べたところ、六地蔵の名称については一定していないことが判った。

「金剛悲地藏」サイト「飛騨観光 陽山亭」の「佛教尊像の解説」の「地蔵菩薩」の項によれば、『地蔵菩薩は釈迦入滅から弥勒菩薩が出現するまでの間、人々を救済するために現れた菩薩。六道に輪廻する各界の衆生すべてに救いの手をさしのべてくださるという。このため「六地蔵・預天賀地蔵(天)、金剛願地蔵(地獄)、金剛幢地蔵(修羅)、放光王地蔵(人)、金剛宝地蔵(餓鬼)、金剛悲地蔵(畜生)」といわれて六体の地蔵尊が祀られている事が多い。この菩薩が「比丘」(僧侶)の姿をして、錫杖と宝珠をもっているのは、常に六道を巡錫して人々を救済していることを表わしている』という前注の名称とは一部異なる記載を確認出来る。それによればこれは餓鬼道に化生した地蔵の名ということになる。

「放火王地藏」前注引用によれば、これも先の「讚龍地藏」と同じく人間道の地蔵の名ということにある。

「無量體地藏」これは地蔵菩薩がありとあらゆる世界や場所場面に同時に出現することをシンボライズした地蔵の総称名ではないかと推定される。所謂、千体地蔵と同義ではあるまいか? 識者の御教授を乞う。]

 

 

Sec. 3

And now strange signs begin to appear in all these rice-fields: I see everywhere, sticking up above the ripening grain, objects like white-feathered arrows. Arrows of prayer! I take one up to examine it. The shaft is a thin bamboo, split down for about one-third of its length; into the slit a strip of strong white paper with ideographs upon it—an ofuda, a Shinto charm—is inserted; and the separated ends of the cane are then rejoined and tied together just above it. The whole, at a little distance, has exactly the appearance of a long, light, well-feathered arrow. That which I first examine bears the words, 'Yu-Asaki-jinja-kozen-son-chu-an-zen' (From the God whose shrine is before the Village of Peace). Another reads, 'Mihojinja-sho-gwan-jo-ju-go-kito-shugo,' signifying that the Deity of the temple Miho-jinja granteth fully every supplication made unto him. Everywhere, as we proceed, I see the white arrows of prayer glimmering above the green level of the grain; and always they become more numerous. Far as the eye can reach the fields are sprinkled with them, so that they make upon the verdant surface a white speckling as of flowers.

Sometimes, also, around a little rice-field, I see a sort of magical fence, formed by little bamboo rods supporting a long cord from which long straws hang down, like a fringe, and paper cuttings, which are symbols (gohei) are suspended at regular intervals. This is the shimenawa, sacred emblem of Shinto. Within the consecrated space inclosed by it no blight may enter—no scorching sun wither the young shoots. And where the white arrows glimmer the locust shall not prevail, nor shall hungry birds do evil.

But now I look in vain for the Buddhas. No more great tera, no Shaka, no Amida, no Dai-Nichi-Nyorai; even the Bosatsu have been left behind. Kwannon and her holy kin have disappeared; Koshin, Lord of Roads, is indeed yet with us; but he has changed his name and become a Shinto deity: he is now Saruda-hiko-no-mikoto; and his presence is revealed only by the statues of the Three Mystic Apes which are his servants—

Mizaru, who sees no evil, covering his eyes with his hands, Kikazaru, who hears no evil, covering his ears with his hands. Iwazaru, who speaks no evil, covering his mouth with his hands.

Yet no! one Bosatsu survives in this atmosphere of magical Shinto: still by the roadside I see at long intervals the image of Jizo-Sama, the charming playfellow of dead children. But Jizo also is a little changed; even in his sextuple representation, [4] the Roku-Jizo, he appears not standing, but seated upon his lotus-flower, and I see no stones piled up before him, as in the eastern provinces.

 

 

4 Why six Jizo instead of five or three or any other number, the reader may ask. I myself asked the question many times before receiving any satisfactory reply. Perhaps the following legend affords the most satisfactory explanation:

According to the Book Taijo-Hoshi-mingyo-nenbutsu-den, Jizo-Bosatsu was a woman ten thousand ko (kalpas) before this era, and became filled with desire to convert all living beings of the Six Worlds and the Four Births. And by virtue of the Supernatural Powers she multiplied herself and simultaneously appeared in all the Rokussho or Six States of Sentient Existence at once, namely in the Jigoku, Gaki, Chikusho, Shura, Ningen, Tenjo, and converted the dwellers thereof. (A friend insists that in order to have done this Jizo must first have become a man.)

Among the many names of Jizo, such as 'The Never Slumbering,' 'The Dragon-Praiser,' 'The Shining King,' 'Diamond-of-Pity,' I find the significant appellation of 'The Countless Bodied.'

2015/08/28

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (二)

 

       二

 

 山脈の眞中で、稻の田を見下ろした絶壁の緣に沿つて車が駛せ行くとき、私は道路の上へ張出でた崖の凹所に小祠を發見した。祠の兩側と傾斜せる屋根は、扁平な天然石をそのまゝ用ひたのであつた。祠内には粗末に彫つた馬頭觀音の像があつて、その前に野草の花束、素燒の線香立、ばらばらに撒いた米粒などが捧げてあつた。奇異な名が示すのとは異つて、この觀音の像は、馬の頭を有しないで、馬の頭が觀音の冠に彫つてある。して、この象徴の意は、祠側に立てられた大きな卒塔婆に、『馬頭觀世音菩薩、牛馬菩提繁榮』と書いてある文字で充分説明された。馬頭觀音は百姓の牛や馬を保護する。それで百姓はその啞者たる奴隸が、單に病氣に罹らないやう觀音に祈るばかりで無く、更にまた死後牛馬の魂が一層幸福な境遇に入るやうに祈るのだ。卒塔婆の側に四尺四方ほどの木造の枠が立つてゐて、それには澤山の小さな松板の札が相並んで、一枚の滑かな面をなしてゐた。何百も列んだ。是等の木札の上に、像と祠堂のために醵金した人々の名が書かれて、その人數は一萬人と發表してあつた。しかし全部の費用は拾圓を越さないだらうから、銘々の寄附者が一厘より多くは出さなかつたらうと私は推量する。何故といふに、百姓【註】は非常に貧乏だから。

[やぶちゃん注:ここに出る馬頭観音、いろいろ調べて見たが、今も残るものかどうか、何処のどの馬頭観音かも分からず仕舞いであった。小泉八雲の研究家の御教授を切に乞うものである。なお、馬頭観音の濫觴はウィキの「馬頭観音」によれば(注記号を省略した)、『梵名のハヤグリーヴァ(音写:何耶掲梨婆、賀野紇哩縛)は「馬の首」の意である。これはヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもあり、馬頭観音の成立におけるその影響が指摘されている。他にも「馬頭観音菩薩」、「馬頭観世音菩薩」、「馬頭明王」、「大持力明王」に加え、チベット密教のニンマ派では『八大へールカ法』の「パドマ・スン」(蓮華ヘールカ)、一般には「タムディン」(rta mgrin)、「ペマ・ワンチェン」。中国密教では「馬頭金剛」、「大持力金剛」など様々な呼称がある。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩である』。『転輪聖王の宝馬が四方に馳駆して、これを威伏するが如く、生死の大海を跋渉して四魔を催伏する大威勢力・大精進力を表す観音であり、無明の重き障りをまさに大食の馬の如く食らい尽くすというところから、「師子無畏観音」ともいう』。『他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、一般に馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒(ふんぬ)相である。このため、密教では「馬頭明王」と呼ばれて仏の五部で蓮華部の教令輪身(きょうりょうりんじん)であり、すべての観音の憤怒身ともされる。それゆえ柔和相の観音の菩薩部ではなく、憤怒相の守護尊として明王(みょうおう)部に分類されることもある。 また「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらには、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされていて』、「六字経」を典拠とし、『呪詛を鎮めて六道輪廻の衆生を救済するとも言われる「六観音」においては、畜生道を化益する観音とされる』とあり、更に『馬頭観音の石仏については、馬頭の名称から身近な生活の中の「馬」に結び付けられ、近世以降、民間の信仰に支えられて数多くのものが残されている。また、それらは「山の神」や「駒形神社」、「金精様」とも結びついて、日本独自の馬頭観音への信仰や造形を生み出した』とあり、『近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。特に、このような例は中馬街道』(中馬街道は「ちゅうまかいどう」と読むと思われ、江戸時代の信濃国及び甲斐国で発達した陸上運輸手段を指し、徳川家康によって作られた尾張名古屋と信州飯田を結んでいる現在の国道一五三号(愛知県名古屋市~豊田市~長野県飯田市~伊那市~塩尻市)である旧飯田街道等を指すものと思われる。詳しくはウィキの「中馬」を参照されたい)『などで見られる。なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものである。また、千葉県地方では馬に跨った馬頭観音像が多く見られる』とある。]

 

    註。百姓といふ言葉を作つてゐる二個

    の漢字の「百」と「姓」から推して、

    それは『彼等の名は大軍團である』〔無

    數といふも可なり〕といふ英語の成句

    に殆ど等しいだらうと論じたくなる。

    そしてある日本人の友は、この推論は

    左ほど誤つてゐないと斷言した。昔、

    百姓は姓を有たなかつた。銘銘自分の

    個人的名稱に、その所有者又は支配者

    たゐ領主の名を添へて名乘つたのであ

    つた。だから或る一つの領内に於ける

    百人の貧農は、すべて彼等の領主の名

    を帶びてゐた。

    譯者註。大軍團とは昔、羅馬に三千乃

    至六千人といふ多數を以て一團を編成

    せる軍隊があつたので、一集團で數の

    多いものを表すため、右のやうな成句

    がある。

 

 かゝる人里遠く淋しい山中で、その小祠を見出したことは、嬉しく安全の思を起させた。牛馬の亡魂【註】のために祈るほど優しい心を有つた人民からは、たしかに親切の外、何を期待し得られないだらう。

 

    註。この動物らのため祈る習慣は、必

    ずしも一般ではない。しかし、私は西

    部日本の諸國でかやうな祈願の述べら

    れた家畜の葬式を幾つも見た。いづれ

    の場合にも、土に埋めてから線香を墓

    の上に立て、火を點じ、祈りが囁き聲

    で繰返された。東京の友人は、私に次

    の珍らしい報告を送つてくれた。「東

    京」の回向院では、動物の位牌の預け

    られたのに對しては、其菩提のため、

    毎朝祈りが捧げられる。料金三十錢を

    納めると、すべて小さな愛養の動物を

    寺院境内へ葬つて貰ひ、簡短の式を營

    んで貰ふことが出來る』屹度、同樣の

    寺が他にもあるだらう。人間に取つて

    啞の友人であり、啞の奴僕であるもの

    に對して、苟も愛情を惑じ得る人々は

    是等の優美なる習慣を嘲笑することは

    出來ない。

[やぶちゃん注:「簡短」はママ。

「三十錢」この明治二三(一八九〇)年当時白米一升が九銭であるから、決してはした金ではないことに注意されたい。因みに、ネット上で現代のペットの供養料を探ってみると、合葬料(火葬料は別・読経料込み)で下はだいたい五千円、卒塔婆や個別建墓料(火葬料別)で一万五千円、私の知人(横浜市内)のケースでは二~三万円(火葬料別)したようである。ここに出る両国の回向院を調べてみると、公式サイトには出ていないが、とある個人の二〇〇八年のブログ記事を見ると、火葬費用は重量別で、遺体重量が三キログラムまでは個別葬の場で三万円+供養料心附けとある(なお、その方の住まうところの市の火葬場の動物用での個別収骨料金は三千円だそうである)。]

 

 私共が急に傾斜を下るとき、車夫があまり突然に、一方へ逸れたので私は喫驚した。何故と云へば、道が數百尺の深谷を見おろす處であつたからだ。車夫の行爲は、單に道を横切つて進んでゐた無害の蛇を傷めないためであつた。蛇もあまり人を怖れないで、道の緣に達してから、頭を轉じて私共を見送つてゐた。

[やぶちゃん注:「喫驚」音は「きつきやう(きっきょう)」だが「吃驚」と同義で、おどろくこと、びっくりすることであり、ここは「喫驚(びつくり)した」と訓じてよかろう。

「數百尺」「百尺」は三十・三メートルであるから、高低差百八十二~二百十二メートルほどの渓谷と思われる。]

 

 

Sec. 2

In the very heart of a mountain range, while rolling along the verge of a precipice above rice-fields, I catch sight of a little shrine in a cavity of the cliff overhanging the way, and halt to examine it. The sides and sloping roof of the shrine are formed by slabs of unhewn rock. Within smiles a rudely chiselled image of Bato-Kwannon—Kwannon-with- the-Horse's-Head—and before it bunches of wild flowers have been placed, and an earthen incense-cup, and scattered offerings of dry rice. Contrary to the idea suggested by the strange name, this form of Kwannon is not horse-headed; but the head of a horse is sculptured upon the tiara worn by the divinity. And the symbolism is fully explained by a large wooden sotoba planted beside the shrine, and bearing, among other inscriptions, the words, 'Bato Kwan-ze-on Bosatsu, giu ba bodai han ye.' For Bato-Kwannon protects the horses and the cattle of the peasant; and he prays her not only that his dumb servants may be preserved from sickness, but also that their spirits may enter after death, into a happier state of existence. Near the sotoba there has been erected a wooden framework about four feet square, filled with little tablets of pine set edge to edge so as to form one smooth surface; and on these are written, in rows of hundreds, the names of all who subscribed for the statue and its shrine. The number announced is ten thousand. But the whole cost could not have exceeded ten Japanese dollars (yen); wherefore I surmise that each subscriber gave not more than one rin—one tenth of one sen, or cent. For the hyakusho are unspeakably poor. [2]

In the midst of these mountain solitudes, the discovery of that little shrine creates a delightful sense of security. Surely nothing save goodness can be expected from a people gentle-hearted enough to pray for the souls of their horses and cows. [3]

As we proceed rapidly down a slope, my kurumaya swerves to one side with a suddenness that gives me a violent start, for the road overlooks a sheer depth of several hundred feet. It is merely to avoid hurting a harmless snake making its way across the path. The snake is so little afraid that on reaching the edge of the road it turns its head to look after us.

 

2 Hyakusho, a peasant, husbandman. The two Chinese characters forming the word signify respectively, 'a hundred' (hyaku), and 'family name' (sei). One might be tempted to infer that the appellation is almost equivalent to our phrase, 'their name is legion.' And a Japanese friend assures me that the inference would not be far wrong. Anciently the peasants had no family name; each was known by his personal appellation, coupled with the name of his lord as possessor or ruler. Thus a hundred peasants on one estate would all be known by the name of their master.

3 This custom of praying for the souls of animals is by no means general. But I have seen in the western provinces several burials of domestic animals at which such prayers were said. After the earth was filled in, some incense-rods were lighted above the grave in each instance, and the prayers were repeated in a whisper. A friend in the capital sends me the following curious information: 'At the Eko-in temple in Tokyo prayers are offered up every morning for the souls of certain animals whose ihai [mortuary tablets] are preserved in the building. A fee of thirty sen will procure burial in the temple-ground and a short service for any small domestic pet.' Doubtless similar temples exist elsewhere. Certainly no one capable of affection for our dumb friends and servants can mock these gentle customs.

2015/08/27

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (一)

 

       第六章 盆踊 

 

         一

 

 山を越えて、古代の神國、出雲へ行く。太平洋から日本海へ、強い車夫に車を曳かせて四日間の旅。何故といふに、私共は最も人の通らぬ、最も遠い道【譯者註】を取つたから。

 

 

    譯者註。山陽道から中國山脈を越えて

    山陰道へ行く從來の道筋は、行先に從

    つて姫路、岡山、尾道、廣島をそれぞ

    れ起點とする。ヘルン先生は岡山より

    津山へ入り、それから烏取街道へ出で

    て、更に轉じて松江へ向はれたのであ

    る。

 

 この長い道筋の大部分は、谷間を通じてゐる。道が上つて行くと、谷は更に高い谷に續 いて、兩側の山と山に挾まれた稻の田は、堤坡を築いた高臺を連ねて傾斜が昇つて、大きな綠色の階段の如く見える。谷の上には、松や杉の薄暗い森があつて、森に蔽はれた絶巓の上には藍色の遠山がぬつと聳えて、灰色な水蒸氣の瘠せた影法師が、またその上に浮いてゐる。空氣は生温るくて風が無い。遠方は細かい霞が、紗を張つてゐる。して、この極めて優美な靑空、私が從來見た如何なる空よりも高いやうに私の目に映ずる。この日本の空には、毎日たゞ僅かの纎絲の如き、幽靈の如き、透明な、白いぷらぷら迷つてゐるものがあるのみだ。雲の精ともいふべきものが、風に乘つてゐるのだ。

 道が昇つて行くにつれ、折々稻の田の無くなることがある。大麥、藍、燕麥、綿などの 畠が暫くの間、道路に沿つで續く。それから、道はまた森の影へ突入する。何よりも時々路傍にある杉の森は驚異だ。熱帶以外では、私は未だ濃密と垂直の、これと比較すべき森 を見たことがない。幹は一本々々柱の如く眞直で露骨だ。前前全體は、高く聳えた靑白い柱の無限な習合が、うす暗い簇葉の雲の中へ沒してゐる觀を呈する。頭上を仰ぎ見れば、 暗中に消え失せる枝の外には、何も識別されぬほど、葉が繁つてゐる。して、靑白い樹幹 の柵に折々開いた隙間から向うを見ると、奧は夜の黑さで、ドーレーの樅の森の畫のやうだ。

 

    譯者註。ドーレーは十九世紀後半期の

    佛國畫家。

 

 もはや大きな町は無い。たゞ山隈に巣籠つた草葺き家の村ばかりだ。村毎に、佛教の寺 が灰靑色の瓦を疊んだ、彎曲せる屋根を、茅屋の群がる上から現し、また、神道の祀祠の前には、石又は木で造つた一大文字のやうな鳥居が立つてゐる。しかし、佛教の方がまだ 優勢だ。山の頂上には寺があつて、佛陀や菩薩の像が、里程標の如く精確に路傍に立つて ゐる。往々、村の寺が非常に大きいので、周圍の農民の小舍が納屋のやうだ。かゝる賤し い村で、何うして、かほど費用のかかる祈願の堂宇が支へて行けるだらうかと、旅人は不 思議に思はざるを得ない。また到る處に優しい信仰の象徴が見える。その經文や記號が岩 の面に刻んである。その聖像は路傍の蔭から微笑してゐる。加之、時には山水の恰好まで も、信仰の靈によつて形成されたやうで、丘陵が祈りの如く柔かに昇つてゐる處もある。或る山の絶頂は釋迦の頭の如く圓屋根形をなして、そこに生ぜる黑い盛り上つた葉狀體は、釈迦の捲毛(ちゞれげ)の叢とも見えた。

 が、日を經て、私共が次第に西の方の奧へ入るに從つて、段々と寺が減じて來た。私共 が通り過ぎて行く邊の寺は、小さくて、貧乏らしく、路傍の佛像は稀になつた。しかし、 神道の象徴が次第に多くなり、宮の構造も大きく高くなつた。それから、鳥居が到る處に 見えて、一層高く聳えた。村の入口や、奇怪な石造の獅子と狐によつて守護された境内の入口や、神聖な森の薄明かりの奥に鎭座する、寂びた社祠へ、老松古杉の繁つた間を通じ行く苔蒸す石段の前などに、いつも鳥居が立つてゐた。

 ある一小村で、大きな神社の鳥居をくゞつた處に、特異な小祠があつたので、好奇心に 驅られて、それを探討させざるを得なかつた。鎖された戸の前には、澤山の短い瘤の多い 杖、即ち小型の棍棒が立てかけてあつた。晃が大膽にもそれを取除け、戸を開けて、私に内部を見せた。たゞ面――天狗の面があるのみであつた。巨大な鼻を有し、何とも云へなく怪奇で、私はそれを眺めたことを悔ひた。

 棒は献納の品である。それ宮へ寄進すると、天狗が敵を撃退して呉れると信ぜられてゐる。すべて日本の繪畫彫刻では、惡鬼の形に現してあるけれども、天狗樣は低級の神なので、擊劔並びに一切武道の守護神である。

 それから、また他の變化も次第に明白になつた。晃は最早土地の人の言葉を理解し得な  いと不平をこぼした。私共は方言の地域を通過してゐるのだ。家屋の作り方もまた日本の 東北部の田舍と異つてゐる。高い藁葺屋根には、屋背の棟木に平行して、一尺ほど高めた竹の柱に、藁束を附けて、珍異な飾が施してある。百姓の皮膚の色も東北部に於けるよりは黑い。また東京附近の女に見るやうな美しい薔薇色の顏は見られなくなつた。百姓の帽 子も變つてゐる。奇妙にも庵笠と呼ばれて、路傍の小さな庵寺の藁屋根の如く尖つてゐる。

 天氣が暖か過ぎるので、着物が重苦しくなつた。小さな村を通るときに、私は健康さうな、さつぱりした裸體を澤山見受けた。綺麗な裸の子供や、腰に一枚の柔かな狹い白布を纏つたまゝで、疊敷の床の上に寢てゐる褐色の大人や少年を見た。微風を入れるため、家の障子は悉皆外づしてある。男子の體格は輕やかに軟靭らしく、筋肉には角が立たないで、輪廓はいつも滑かだ。大抵何れの家の前にも、小さな藁莚の上に藍を擴げて、日光に乾してあつた。

 田舍の人達は驚異の目を張つて、外人を注視した。私共が立佇つたいろいろの所で、老人が近寄つてきて、私の衣服に手を觸れては、恭しく敬禮したり、人懷かしい徴笑を浮べたりして、彼等の極めて天眞爛漫たる好奇心に對する詑びを表した。また私の通辯人に向つて、さまざまの寄異な質問を發した。これほど温和で、親切な顏を私は未だ見たことがなかつた。して、その顏は裏面の精神を反映してゐた。一聲も怒りの言葉を聞かなかつたし、また一つの不親切な擧動も目擊しなかつた。

 

 旅行して進むほどに、毎日々々土地の景色が美しくなつた――火山國にのみ見出される、あの變幻奇怪な風景美なのだ。暗い松や杉の森、この遠く微かな夢の如き空、柔かな白い光線を除けば、この途中、私は再び西印度にゐて、ドミニカ島や、マルチニーク島の峯巒を、迂餘曲折して登つて行くやうに想像した場合があつた。また實際、私は地平線のかなたに棕櫚樹や木綿の形を探し求めたこともあつた。が、森の下の谷や傾斜面の一層輝ける綠色は、若い籐のそれではなく、稻の田のそれであつた。農家の庭園位な、小さな稻の田が、何千といふほど狹い迂曲した堤坡で、互に界をして連つてゐた。

 

[やぶちゃん注:ハーバー社と絶縁する前後にハーンは横浜海軍病院勤務の米国海軍主計官ミッチェル・マクドナルド(既注)の紹介で知り合った東京帝国大学教授バジル・ホール・チェンバレン(既注)と、かつてアメリカでの記者時代に知遇を得ていて当時は文部普通学務局長の地位に就いていた服部一三(嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)の斡旋によって、島根県立松江中学校英語教師に着任することが決まっていた。参照した上田和夫氏の年譜(新潮文庫昭和五〇(一九七五)年刊「小泉八雲集」)では、松江への出発を八月末とする。但し、平井呈一氏の恒文社一九九八年刊「対訳 小泉八雲作品抄」末に載る略年譜では出発を八月上旬としている。しかし、平井氏の説を採ってしまうと、前章の盆市体験の説明がつかなくなる。私は現時点ではあくまで上田氏の八月末説を採る。なお、ここで落合氏の注を参考に推定実測すると、二百四十キロメートルもの道のりを人力車で四日間で走ったことになる。一日六十キロメートル、人力車の時速は八~十キロメートルであるから可能ではあるがしかし、途中、中国山地越えをしており(しかも通訳兼書生の真鍋晃も同道)、これはなかなか尻の痛くなるハードな旅である。

「堤坡」「ていは」と読み、「坡」は傾斜地或いは傾斜を持った堤(つつみ)のことであるから、所謂、畦(あぜ)・畦道のことである。

「ドーレー」フランスの画家ポール・ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré 一八三二年~一八八八年)。彼はダンテ・バルザック・ラブレー・ミルトン・バイロンといった巨匠の挿絵画家としても知られ、イギリス版聖書やエドガー・アラン・ポー「大鴉」等の挿絵も手がけ、生前から国際的にその名を知られていた(ここまではウィキの「ギュスターヴ・ドレ」に拠った。平井呈一氏の訳の割注には、彼の描いた『バルザックの「風流滑稽譚」の挿絵は有名で、八雲はこよなく愛好した』とある。彼の風景画と言っても頗る幻想性や宗教性が強く、何とも言えぬ陰鬱怪奇なものが多いように私は感じる。そういう点では八雲が偏愛したというのは多少は分からぬではない。

「小型の棍棒」私は天狗信仰には詳しくないが、これは直感的には天狗の鼻から導かれる陽物崇拝に基づく男根をシンボライズしたもののように思われるが如何? 識者の御教授を乞うものである。

「庵笠」不詳。平井呈一氏は『あんがさ』とルビを振る。かなり南であるが佐賀県で「甚八笠(じんぱちがさ)」と呼ばれるものが形態的には似ているように思われる。グーグル画像検索「甚八笠」をリンクしておく。思うにこれは晴天のサン・バイザーと同時に降雨時の雨笠の両実用性を考えた形状のように私には見える。識者の御教授を乞う。
 
「ドミニカ島」カリブ海の西インド諸島を構成する小アンティル諸島南部ウィンドワード諸島(西インド諸島南アメリカ大陸寄りの最南方部分に連なる小規模な島々)最北部に位置する島。当時はイギリス植民地であった。一四九三年にコロンブスが来島、その日がたまたま日曜日(スペイン語:
domingo ドミンゴ)であったことからドミニカ島と命名されたとする。一六三五年にフランスが植民地化、一七六三年、パリ条約によりフランスからイギリスの植民地と決まったものの、両国間で領有権が争われ続け、実に四十二年後の一八〇五年になってイギリスの植民地となった。その後、一九五八年に西インド連邦に加盟するも、四年後の一九六二年には西インド連邦自体が解体され、一九六七年にはイギリス領西インド連合州の一州となり、この時、遂に自治を獲得、一九七八年に晴れてイギリス連邦加盟国として独立、ドミニカ国となった(以上は主にウィキドミニカ国」を参照したが、注意されたいのはドミニカ島の東北東、千キロメートルも離れた西インド諸島大アンティル諸島中のキューバ島に次ぐ巨大な島イスパニョーラ島東部(島の西2/3。残りの東1/3はハイチ)に位置するドミニカ共和国とこのドミニカ国は全く別な国であるので注意されたい)。ハーンは三十代の後半、一八八七年(本邦は明治二十年)三十七歳の時に未知の新天地を求めて西インド諸島を彷徨した。次注も参照のこと。

「マルチニーク島」カリブ海に浮かぶ西インド諸島の中のウィンドワード諸島に属する島で、フランス植民地(ハーン訪問時も同じ)。現在も海外県(飛地)の一つである。海を隔てて北にドミニカ国が、南にイギリス連邦加盟国セントルシアが接する。参照したウィキマルティニークによれば、『「世界で最も美しい場所」とコロンブスに呼ばしめ、彼を魅了したマルティニーク島の語源は島に住んでいた、カリブ人の言葉でマディニーナ(Madinina、花の島)、またはマティニーノ(Matinino、女の島)がマルティニークの語源になっている』とある。上田和夫氏の年譜によれば(新潮文庫)、ハーンは前述の放浪の際、同年七月にこのマルティニーク島を訪れ、その熱帯独特の美しさに魅せられ、一度ニューヨークに戻った後(九月)、十月には再びマルティニークへ渡島、それより一年半(離島は来日する一年前の一八八九年五月)に亙って当時の県庁所在地で「カリブの小パリ」と賞された島の北西部のサン・ピエール(Saint Pierre)に住み、紀行・見聞記・小説を書き続けた(但し、サン・ピエールは後の一九〇二年五月八日、町の近くにあるプレー山が噴火、火砕流によって崩壊、死者は約三万人に達し、陸上にいた人の内で生存者はわずか三人のみだったという。この噴火後、マルティニークの県庁は島の中西部のフォール・ド・フランスに移されている)。ハーンは来日する前月(明治二三(一八九〇)年三月)にこのマルティニークの優れた紀行文十六篇を納めた「仏領西インドの二年間」を公刊している。

「峯巒」山の峰或いは山。

 

 

Chapter Six

 

Bon-odori

 

Sec. 1

Over the mountains to Izumo, the land of the Kamiyo, [1] the land of the Ancient Gods. A journey of four days by kuruma, with strong runners, from the Pacific to the Sea of Japan; for we have taken the longest and least frequented route.

Through valleys most of this long route lies, valleys always open to higher valleys, while the road ascends, valleys between mountains with rice-fields ascending their slopes by successions of diked terraces which look like enormous green flights of steps. Above them are shadowing sombre forests of cedar and pine; and above these wooded summits loom indigo shapes of farther hills overtopped by peaked silhouettes of vapoury grey. The air is lukewarm and windless; and distances are gauzed by delicate mists; and in this tenderest of blue skies, this Japanese sky which always seems to me loftier than any other sky which I ever saw, there are only, day after day, some few filmy, spectral, diaphanous white wandering things: like ghosts of clouds, riding on the wind.

But sometimes, as the road ascends, the rice-.fields disappear a while: fields of barley and of indigo, and of rye and of cotton, fringe the route for a little space; and then it plunges into forest shadows. Above all else, the forests of cedar sometimes bordering the way are astonishments; never outside of the tropics did I see any growths comparable for density and perpendicularity with these. Every trunk is straight and bare as a pillar: the whole front presents the spectacle of an immeasurable massing of pallid columns towering up into a cloud of sombre foliage so dense that one can distinguish nothing overhead but branchings lost in shadow. And the profundities beyond the rare gaps in the palisade of blanched trunks are night-black, as in Dore's pictures of fir woods.

No more great towns; only thatched villages nestling in the folds of the hills, each with its Buddhist temple, lifting a tilted roof of blue-grey tiles above the congregation of thatched homesteads, and its miya, or Shinto shrine, with a torii before it like a great ideograph shaped in stone or wood. But Buddhism still dominates; every hilltop has its tera; and the statues of Buddhas or of Bodhisattvas appear by the roadside, as we travel on, with the regularity of milestones. Often a village tera is so large that the cottages of the rustic folk about it seem like little out-houses; and the traveller wonders how so costly an edifice of prayer can be supported by a community so humble. And everywhere the signs of the gentle faith appear: its ideographs and symbols are chiselled upon the faces of the rocks; its icons smile upon you from every shadowy recess by the way; even the very landscape betimes would seem to have been moulded by the soul of it, where hills rise softly as a prayer. And the summits of some are domed like the head of Shaka, and the dark bossy frondage that clothes them might seem the clustering of his curls.

But gradually, with the passing of the days, as we journey into the loftier west, I see fewer and fewer tera. Such Buddhist temples as we pass appear small and poor; and the wayside images become rarer and rarer. But the symbols of Shinto are more numerous, and the structure of its miya larger and loftier. And the torii are visible everywhere, and tower higher, before the approaches to villages, before the entrances of courts guarded by strangely grotesque lions and foxes of stone, and before stairways of old mossed rock, upsloping, between dense growths of ancient cedar and pine, to shrines that moulder in the twilight of holy groves.

At one little village I see, just beyond, the torii leading to a great Shinto temple, a particularly odd small shrine, and feel impelled by curiosity to examine it. Leaning against its closed doors are many short gnarled sticks in a row, miniature clubs. Irreverently removing these, and opening the little doors, Akira bids me look within. I see only a mask—the mask of a goblin, a Tengu, grotesque beyond description, with an enormous nose—so grotesque that I feel remorse for having looked at it.

The sticks are votive offerings. By dedicating one to the shrine, it is believed that the Tengu may be induced to drive one's enemies away. Goblin-shaped though they appear in all Japanese paintings and carvings of them, the Tengu-Sama are divinities, lesser divinities, lords of the art of fencing and the use of all weapons.

And other changes gradually become manifest. Akira complains that he can no longer understand the language of the people. We are traversing regions of dialects. The houses are also architecturally different from those of the country-folk of the north-east; their high thatched roofs are curiously decorated with bundles of straw fastened to a pole of bamboo parallel with the roof-ridge, and elevated about a foot above it. The complexion of the peasantry is darker than in the north-east; and I see no more of those charming rosy faces one observes among the women of the Tokyo districts. And the peasants wear different hats, hats pointed like the straw roofs of those little wayside temples curiously enough called an (which means a straw hat).

The weather is more than warm, rendering clothing oppressive; and as we pass through the little villages along the road, I see much healthy cleanly nudity: pretty naked children; brown men and boys with only a soft narrow white cloth about their loins, asleep on the matted floors, all the paper screens of the houses having been removed to admit the breeze. The men seem to be lightly and supply built; but I see no saliency of muscles; the lines of the figure are always smooth. Before almost every dwelling, indigo, spread out upon little mats of rice straw, may be seen drying in the sun.

The country-folk gaze wonderingly at the foreigner. At various places where we halt, old men approach to touch my clothes, apologising with humble bows and winning smiles for their very natural curiosity, and asking my interpreter all sorts of odd questions. Gentler and kindlier faces I never beheld; and they reflect the souls behind them; never yet have I heard a voice raised in anger, nor observed an unkindly act.

And each day, as we travel, the country becomes more beautiful— beautiful with that fantasticality of landscape only to be found in volcanic lands. But for the dark forests of cedar and pine, and this far faint dreamy sky, and the soft whiteness of the light, there are moments of our journey when I could fancy myself again in the West Indies, ascending some winding way over the mornes of Dominica or of Martinique. And, indeed, I find myself sometimes looking against the horizon glow for shapes of palms and ceibas. But the brighter green of the valleys and of the mountain-slopes beneath the woods is not the green of young cane, but of rice-fields—thousands upon thousands of tiny rice-fields no larger than cottage gardens, separated from each other by narrow serpentine dikes.

 

1 The period in which only deities existed.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (六) /第五章~了

 

       六 

 

 商人の群集と喧囂と無數の燈火の上に高く立ち、輝ける町の終端にある眞言宗の大寺院が、其丘の上から星空の中へ夢の如く凄く聳えてゐる。その彎曲した屋根に沿ふて吊るされや提燈のために異樣に光つてゐるのだ。して、人込みの流れが私をその方へ運んで行つた。參詣者の群集の頭や肩と思はれる、徐々と動いて行く黑い塊團の上へ、寺の廣い入口から、一幅の黄色な光が射してゐる。まだ唐獅子に護られた石段に達しない内に、私は寺の銅鑼が絶間なく響くのを聞いた。それは一度毎に賽錢と祈念の信號である。貨幣の雨が大きな賽錢櫃に注ぎ込むに相違ない。今夜は靈魂の醫者、藥師如來の緣日なのだ。たうとう石段まで運ばれてきた私は、群集の押合ふにも係らず、暫らく立停まる乙とが出來た。それは私が見た内で最も美しい燈籠を賣つてゐる臺の前であつた。紙で作つた大きな蓮華の形の燈籠で、微細の點に至るまで、全くよく出來て、大きな生きた花を新しく引拔いてきややうであつた。花瓣は底の方が紅く、先端に至るに從つて白い。萼は瑕瑾なき自然の疑似で、下方に綺麗な紙片の總(ふさ)が垂れてゐる。總は花と同じ花で、萼の直下は綠、中部は白、末端は紅である。花の中心に粘士燒の豆洋燈が置かれて、火を點ずると、花が滿面明かるく、透き通つてくる。――紅白の火の蓮華だ。これを掛けるために金色に塗つた、細い木製の輪が附屬してゐる。しかも代價は四錢!驚くばかり物價の低廉なこの國とは云へ、こんな品を四錢で製造して、どうして暮らして行けるだらうか?

 晃は明晩點火される百八の迎ひ火のことを、少しく私に話さうとした。それは百八煩惱と譬喩的の關係がある。しかし、藥師如來の堂へ上つてくる、參詣者の下駄と駒下駄の響のために、晃の言葉は聞取れない。貧民の輕い草履や草鞋は音を發しない。大きながちや がちやいふ響は實際、女や娘の優しい足のためだ。彼等は騷がしく響く下駄の上に身を托 して、用意深く平衡を取つて歩く。して、その小さな足には大抵、白蓮の如く白く、淸らかな足袋を穿いてゐる。多くの靑い着物をきた小さな母達が、綺麗な穩かな赤ん坊を背負つて、辛棒強く微笑を湛へながら、佛陀の山へと上つてくる。 

 

 して、私は彩色せる提燈の光にたよつて、温和な騷がしい人々と一緒になつて、大きな 石段を上り、更に他の提燈を並べたり、造花を高く生墻の如く積んだ間を通つて逍遙し乍 ら、私の心は不意に、あの貧しい主婦の室の、小さな破れた佛壇に戻つて行つて、その前 に吊るした賤しい玩具と、笑ひつゝ廻轉するお多福の面を思つた。私はお多福の眼の如く斜めに切れて、光澤ある影に蔽はれた、幸福らしく、可笑しげな小さな眼が、常にその玩具を眺めてゐたことを目のあたりに見るやうに思つた。この世に生まれ出でてから、まだ新鮮な兒童の感覺は、私が漠然としか想像し得ない、一種祖先からの遺傳的な妙味快趣をその玩具に見出したことであらう。丁度今夜のやうな生温かな明かるい夜、丁度このやうな平和な群集の中を、必ず幾度も運ばれたであらうやうに、あのかよはい小兒が細い手で母の頸に柔かくすがり乍ら、運ばれてゐるのが目に見える如くであつた。

 何處にか、この群集の中に彼女――あの母はゐるのだ。彼女は今夜再び小さな手の微かな接觸を感ずるだらう。しかし、以前のやうに背後を振り向いて見たり、笑つたりしないだらう。

[やぶちゃん注:最後の二段落は限りなく哀しく美しい幻想映像である。ここでハーンが言う「彼女」は無論、晃の母のこと――亡くなった娘である妙容童女の母――を指しているのであるが、一種、慄然とさえする、驚くべきリアリスティクなカメラ・ワークである。それは実は「彼女」は実は子を失った晃の母の若き日であると同時に、満三歳のハーンを残してギリシャへと去った永遠に忘れ難い若き母ローザでもあるからである。「あのかよはい小兒が細い手で母の頸に柔かくすがり乍ら、運ばれてゐる」さまが「目に見える如くであ」り、「彼女は今夜再び小さな手の微かな接觸を感ずるだらう」と述べる時、そのか弱い手と指とは、頑是ないハーン自身の腕(かいな)と指先の感覚として読み換えられているからでもあるのである。……ハーンには殆んど母の記憶がなかった。しかし彼は母を永遠に愛した。同時に母を言わば見捨てた形となって離婚した父をハーンは遂に許さなかったのであった。……

「喧囂」「けんがう(けんごう)」と読み、「喧喧囂囂」と同義で、喧しく騒ぐことであるが、どうも荒っぽくてしっくりこない。平井呈一氏の訳の『喧噪』の方が遙かによい。

「大寺院」既出の藏德院であろう。

「塊團」団塊と同義であろう。音なら「くわいだん(かいだん)」であろうがどうもしっくりこない。「かたまり」と私は訓じておく。

「藥師如來の緣日」現行、通常の薬師如来の縁日は毎月八日(八日・十八日・二十八日とする寺院もある)で、中でも一月八日を「初薬師」、十二月八日を「納めの薬師」と称し特に多くの参詣客で賑わう。私は本章冒頭「一」の注で、この「盆市で」は最終的には明治二三(一八九〇)年の新暦八月十二日(火曜)以前の一日と考えざるを得ないと判断した。すると最も直近だと新暦の八月八日であるが、これでは盆市として明らかに早過ぎておかしい。盆市はお盆の前夜祭のようなもので旧暦七月十二日の夜から翌十三日の朝にかけて古くは(現在でも地方によっては旧暦のこの日に)行われていた(いる)から、ここでそれを現在のように新暦の八月十二日と十三日と読み換えてみると、これは旧暦で六月二十七日、二十八日に当たることが判った。しかもやっと調べ上げた中の、こちらのデータ(PDF)によれば、この増徳院の薬師堂のそれは「色薬師」と呼ばれて、開港以来、外国人も好んで参拝、しかもこの増徳院の色薬師の縁日は月に三回あったとあるから、私はこの盆市はまさに明治二三(一八九〇)年の新暦の八月十三日(旧暦の六月二十八日)のことであったと推定するものである。大方の御批判を俟つ。

「生墻」「いけがき」と読む。生垣と同義。] 

 

Sec.6

High above the thronging and the clamour and the myriad fires of the merchants, the great Shingon temple at the end of the radiant street towers upon its hill 
against the starry night, weirdly, like a dream— strangely illuminated by rows of paper lanterns hung all along its curving eaves; and the flowing of the crowd bears me thither. Out of the broad entrance, over a dark gliding mass which I know to be heads and shoulders of crowding worshippers, beams a broad band of yellow light; and before reaching the lion-guarded steps I hear the continuous clanging of the temple gong, each clang the signal of an offering and a prayer. Doubtless a cataract of cash is pouring into the great alms-chest; for to-night is the Festival of Yakushi-Nyorai, the Physician of Souls. Borne to the steps at last, I find myself able to halt a moment, despite the pressure of the throng, before the stand of a lantern-seller selling the most beautiful lanterns that I have ever seen. Each is a gigantic lotus-flower of paper, so perfectly made in every detail as to seem a great living blossom freshly plucked; the petals are crimson at their bases, paling to white at their tips; the calyx is a faultless mimicry of nature, and beneath it hangs a beautiful fringe of paper cuttings, coloured with the colours of the flower, green below the calyx, white in the middle, crimson at the ends. In the heart of the blossom is set a microscopic oil-lamp of baked clay; and this being lighted, all the flower becomes luminous, diaphanous—a lotus of white and crimson fire. There is a slender gilded wooden hoop by which to hang it up, and the price is four cents! How can people afford to make such things for four cents, even in this country of astounding cheapness?

Akira is trying to tell me something about the hyaku-hachino-mukaebi, the Hundred and Eight Fires, to be lighted to-morrow evening, which bear some figurative relation unto the Hundred and Eight Foolish Desires; but I cannot hear him for the clatter of the geta and the komageta, the wooden clogs and wooden sandals of the worshippers ascending to the shrine of Yakushi-Nyorai. The light straw sandals of the poorer men, the zori and the waraji, are silent; the great 
clatter is really made by the delicate feet of women and girls, balancing themselves carefully upon their noisy geta. And most of these little feet are clad with spotless tabi, white as a white lotus. White feet of little blue-robed mothers they mostly are—mothers climbing patiently and smilingly, with pretty placid babies at their backs, up the hill to Buddha.

 

And while through the tinted lantern light I wander on with the gentle noisy people, up the great steps of stone, between other displays of lotus-blossoms, 
between other high hedgerows of paper flowers, my thought suddenly goes back to the little broken shrine in the poor woman's room, with the humble playthings hanging before it, and the laughing, twirling mask of Otafuku. I see the happy, funny little eyes, oblique and silky-shadowed like Otafuku's own, which used to look at those toys,—toys in which the fresh child-senses found a charm that I can but faintly divine, a delight hereditary, ancestral. I see the tender little creature being borne, as it was doubtless borne many times, through just such a peaceful throng as this, in just such a lukewarm, luminous night, 
peeping over the mother's shoulder, softly clinging at her neck with tiny hands.

Somewhere among this multitude she is—the mother. She will feel again to-night the faint touch of little hands, yet will not turn her head to look and laugh, as in other days.

2015/08/26

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (五)

 

       五

 

 奇異な狹い通りは、一筋の長い燈光の火焰であつた。看板提燈や、松明や、洋燈の燈光が、兩側の店先き前に並んだ、小さな臺や小屋掛けの珍らしい列を照らしてゐた。その眞中を群集が動いて行く。下駄の音が商人の叫びや、通行人の潮の如きざわつく聲をも消して、夜の空に響き渡る。しかし、その動作の何といふ穩かさ!押し合ひもなく、亂暴もない。誰人も、どんなにか弱い者も、一切のものを見得る機會がある。して、また見るべきものが澤山あるのだ。

 『蓮の花!――蓮の花!』こゝには墓や佛壇に捧げる蓮の花、佛さまの食物を包む蓮の葉を買る者が居る。葉は疊んだ束を小さな臺の上に積み、花は蕾も花も交ぜて、大きな束に竪に插したのを、輕い竹の架に凭せてある。

 『麻殼!麻殼!』皮を剝いだ長い枝條の白い束。これは麻の木條だ。細い方の端を引裂いて、佛さまの箸に使ひ、その餘は迎ひ火に焚く。箸は松で作るのが當り前であるが、この地方の貧乏人に取つては、あまりに稀少、且つ高價なので、麻殼を代用する。

 『かわらけ!かわらけ!』佛さまの土器、釉藥を施さない土器の赤く淺い小さな盤である。原始的の燒物で、今日ではたゞ死人のためにのみ存在してゐる――佛教より更に傳統は古い。

 『やあ、盆燈籠は要りませんか?』佛さまの歸つて來る足を照らす燈籠。皆綺麗だ。大寺院の燈籠のやうに六角形のもあり、星の形のもあれば、また大きな光つた卵のやうなのもある。蓮華の立派な繪で飾つたり、また精巧な色の紙の總(ふさ)を垂れたり、或は幅廣い紙の紐に、面白く蓮華の形を切拔いたのを附けてある。それから、月の如く圓い、眞白の燈籠もある。これは墓に用ひる。

 『お飾り!お飾り!盆祭の裝飾品一切を賣る者。『莚(こも)でも!何でも!』こゝに佛壇用の新しい、白い、藁の敷物がある。それから死人が乘るための小さな藁馬、死人のため用役をつとめる小さな藁牛もある。すべて『お安い!』また佛壇に供へる樒と、施餓鬼に水を灌ぐみそ荻の枝もある。

 『お飾りものは要りませんか?』米粒を連ねた絲の紅白の總(ふさ)、數珠玉のやうなもの。それから、種々珍らしぃ紙で作つた、佛間の裝飾品。一束二錢の安物から、一圓の高價品まで各種の線香――長い輕いチヨコレート色の長い枝條で、鉛筆の心のやうに細い。一束毎に、金色やその他の色紙の紐で卷ぃてある。一本を引拔いて、一端に火を點じ、他端を垂直に柔かな灰を盛つた容器に立てる。その薰香が空氣に漲り、全く燃え盡きるまで燻ぶつて行く。

 『螢に蟋蟀!お子供衆のお慰み!安くまけます!』何!これは一體何んだ!番小屋の形をした、全部木摺で作れる假小舍を、赤と白の碁盤縞の紙で蔽つてある。この脆弱な建物の中から、湯氣の漏れるやのやうな鋭い叫びが發する。『それはたゞ虫類です。盆祭には關係ありません』と晃は云つた。左樣、虫類だ!籠に入れてある!鋭い叫び聲は、一匹づつ小さな竹籠に入れた、綠色の大きな蟋蟀が幾十も鳴くからだ。晃は續けて、『これは茄子と瓜の皮を食べさせて、飼つてゐます。子供の弄ぶために賣るのです』といつた。また螢の充ちた美麗なる小籠もあつた。その籠には褐色の蚊帳網を張つて、簡單ではあるが、派手な色で綺麗な意匠が、筆勢よく畫いてあつた。蟋蟀一匹と、籠を合せて二錢。螢十五匹と籠共に五錢。

 こゝには町の一隅に、靑い着物をきた少年が低い木卓の後ろに坐つて、マツチ箱ほどの大いさで、赤い紙の蝶番ひを附けた木箱を賣つてゐる。卓上に此小箱の堆積と並んで、淺い皿に淸水が滿されて、非常に薄い扁平狀のもの――花鳥樹木小舟男女などの形――が浮んでゐる。箱の直段はたゞ二錢である。開いてみると、内には一端は石竹色で、圓いマツチの軸木のやうな、小さな靑白い木條の束が、薄葉に卷いたのがある。一本を水に投ずると、忽然開け蓮華の形に擴がる。今一本のは魚に變はる。第三は小舟になる。第四は梟に、第五は葉と花に蔽はれた茶樹になつた……是等のものは頗る纖細なので、一度水に浸してから手を觸れると、壞はれてしまう。海草で作つてあるのだ。

 『造花!造花は要りませんか?』造花を賣つてゐる。紙製の驚嘆すべき菊花や蓮の花など、蕾も葉も花も餘りに巧妙に出來上がつてゐるので、眼で見ただけでは、美しい手管を看破し得ない。これに對する生きた眞物より、造花の方が更に高價であるのは、尤もな次第だ。

[やぶちゃん注:第九段落目に出る水中花様の細工を私は残念なことにまともに見たことがない。偏愛する伊東静雄の以下の詩が大好きなのにも拘わらず、である。

   *

 

 水中花

 

水中花と言つて夏の夜店に子供達のために賣る品がある。木のうすいうすい削片を細く壓搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の變哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤靑紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都會そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。

 

今歳水無月のなどかくは美しき。

軒端を見れば息吹のごとく

萌えいでにける釣しのぶ。

忍ぶべき昔はなくて

何をか吾の嘆きてあらむ。

六月の夜と晝のあはひに

萬象のこれは自ら光る明るさの時刻。

遂ひ逢はざりし人の面影

一莖の葵の花の前に立て。

堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。

金魚の影もそこに閃きつ。

すべてのものは吾にむかひて

死ねといふ、

わが水無月のなどかくはうつくしき。

 

   *

私は何時か、この少年が不思議な小箱に入れて売っているのに出逢いたいのだ。何時か、必ず……

「海草」原文は“seaweed”であるから、絶対的に誤訳とは言えないが、この原材料が何であるか分からない以上、「海藻」とする方が無難である(平井呈一氏は『海藻』と訳されておられる。何に拘るのかといえば、生物学的和名としての総称では「海藻」はあくまで有意に多量に棲息する海産性藻類の総称であり、「海草」は非常に少ないが海産(淡水産も存在する)の種子植物で顕花性の植物類――代表種はアマモ(単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ Zostera marin 別名リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(龍宮の乙姫の元結の切り外し)など)――を限定的に指す語だからである。]

 

 

Sec. 5

The curious narrow street is one long blaze of lights—lights of lantern signs, lights of torches and lamps illuminating unfamiliar rows of little stands and booths set out in the thoroughfare before all the shop-fronts on each side; making two far-converging lines of multi- coloured fire. Between these moves a dense throng, filling the night with a clatter of geta that drowns even the tide-like murmuring of voices and the cries of the merchant. But how gentle the movement!- there is no jostling, no rudeness; everybody, even the weakest and smallest, has a chance to see everything; and there are many things to see.

'Hasu-no-hana!—hasu-no-hana!' Here are the venders of lotus-flowers for the tombs and the altars, of lotus leaves in which to wrap the food of the beloved ghosts. The leaves, folded into bundles, are heaped upon tiny tables; the lotus-flowers, buds and blossoms intermingled, are fixed upright in immense bunches, supported by light frames of bamboo.

'Ogara!—ogara-ya! White sheaves of long peeled rods. These are hemp- sticks. The thinner ends can be broken up into hashi for the use of the ghosts; the rest must be consumed in the mukaebi. Rightly all these sticks should be made of pine; but pine is too scarce and dear for the poor folk of this district, so the ogara are substituted.

'Kawarake!—kawarake-ya!' The dishes of the ghosts: small red shallow platters of unglazed earthenware; primeval pottery suku-makemasu!' Eh! what is all this? A little booth shaped like a sentry-box, all made of laths, covered with a red-and-white chess pattern of paper; and out of this frail structure issues a shrilling keen as the sound of leaking steam. 'Oh, that is only insects,' says Akira, laughing; 'nothing to do with the Bonku.' Insects, yes!—in cages! The shrilling is made by scores of huge green crickets, each prisoned in a tiny bamboo cage by itself. 'They are fed with eggplant and melon rind,' continues Akira, 'and sold to children to play with.' And there are also beautiful little cages full of fireflies—cages covered with brown mosquito-netting, upon each of which some simple but very pretty design in bright colours has been dashed by a Japanese brush. One cricket and cage, two cents. Fifteen fireflies and cage, five cents.

Here on a street corner squats a blue-robed boy behind a low wooden table, selling wooden boxes about as big as match-boxes, with red paper hinges. Beside the piles of these little boxes on the table are shallow dishes filled with clear water, in which extraordinary thin flat shapes are floating—shapes of flowers, trees, birds, boats, men, and women. Open a box; it costs only two cents. Inside, wrapped in tissue paper, are bundles of little pale sticks, like round match-sticks, with pink ends. Drop one into the water, it instantly unrolls and expands into the likeness of a lotus-flower. Another transforms itself into a fish. A third becomes a boat. A fourth changes to an owl. A fifth becomes a tea- plant, covered with leaves and blossoms. . . . So delicate are these things that, once immersed, you cannot handle them without breaking them. They are made of seaweed.

'Tsukuri hana!—tsukuri-hana-wa-irimasenka?' The sellers of artificial flowers, marvellous chrysanthemums and lotus-plants of paper, imitations of bud and leaf and flower so cunningly wrought that the eye alone cannot detect the beautiful trickery. It is only right that these should cost much more than their living counterparts.

 

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (四)

        四

 

 老人町は町幅が非常に狹い。手を伸ばすと、兩側の小さな店肆の前に垂れてゐる看板模樣を染拔いた暖簾に、直ぐ觸れるばかりだ。して、是等の箱形の家は、實際玩具の家のやうに見える。晃の住んでゐる家には、店もなく、また小さな二階もなくて、他の家よりも更に小さい。それは全く閉まつてゐた。晃は入口になつてゐる處の木造の雨戸を繰つた。それから、そのつぎに閉まつてゐる障子を開けた。かやうにして開け放された小さな家屋は、輕げな素木の木細工や、著色の紙屛などで、大きな鳥籠のやうに見えた。が、地上から高くしてある床に敷いた葦の疊は、新鮮で、心地よい香を放つて、淸らかであつた。して、そこへ上がるため靴を脱ぐ時に、私は室内すべて小綺麗なことを見た。

[やぶちゃん注:この「老人町」の叙述は私が先に推定した現在の横浜市中区翁町とよく一致する。]

 『主婦(おかみ)さんは外出したのです』と、晃は云つて、室の眞中へ火鉢を据ゑ、その傍に私が坐るため小さな敷物を擴げた。

 『これは何です?』壁に紐でぶら下がつてゐる薄い板を指して聞いた。それは枝の中央から切つて、兩緣に沿つて樹皮が殘され、その表面には、二列の不思議な記號が美しく繪いてある。

 『それは曆です』と、晃が答へた。『右側は三十一日ある月の名、左側は、小さな月の名です。さあ、ここに佛壇が御座います』

 日本の客間の構造上、是非無くてならぬ凹間に、飛島を繪いた簞笥が置いてあつて、その上に佛壇が立つてゐた。それは漆と金泥塗りの小厨子で、寺の門のやうな恰好の小さな戸が附いてゐる。餘程奇異な、非常に破損した厨子で、片方の戸は蝶番ひが失せ、漆には罅隙(び)が入り、金色は褪めてゐても、雅致あるものであつた。晃は一種の憐み深さうな微笑を呈し乍ら、それを開けた。して、私は佛像を見ようと、内を覗いて見た。佛像は一つも無い。たゞ木牌に紙片を張り着けて、假名の文字――死んだ女兒の名――が書いたのと、萎れかかつた花を插せる花瓶、觀音像の小さな版畫、線香灰の入つた鉢だけがあつた。

[やぶちゃん注:こうした暦は、日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大小暦に出る「図―495」が参考になろう(リンク先は私の電子テクスト)。]

 『明日、主婦さんは、これを飾つて、小さな佛さんに、食物を供へるでせう』と、晃は云つた。

 

 室の向側に、佛壇に面して、天井から垂れた珍らしく、可愛らしい、をかしげな、白色と紅色を帶びた假面があつた。丸ぽちやの笑ひ顏をしで、顯の上には二個の神祕的な點が印されてゐる。これはお多福【註】の顏だ。開けた障子から入込む柔かな氣流につれて、ぐるぐる囘はる。すると、笑のために半ば閉ぢた可笑しげな黑眼が、私の方を眺める毎に、私も徴笑を禁じ得なかつた。して、更に高く吊つてあるのは、神道の小さな御幣、神樂の時に被るやうな小さな冠、神々の手に持つ如意寳珠を厚紙で眞似たもの、小さな人形、少しの風にでも囘轉する小さな風車、その他、緣日に社寺の境内で賣つてゐるやうな、主もに象徴的な、名狀し難い玩具など、すべて死んだ幼兒の遊び道具であつた。

 

    註。幸運の神。

[やぶちゃん注:「お多福」ウィキおかによれば(下線やぶちゃん)、『古くから存在する日本の面(仮面)の一つで』、『丸顔、鼻が低く、額は広く、頬が丸く豊かに張り出した(頬高)特徴をもつ女性の仮面であり、同様の特徴を持つ女性の顔についてもそう呼ぶ』。『お亀、阿亀(おかめ)とも書き、お多福、阿多福(おたふく)、文楽人形ではお福(おふく)、狂言面では乙御前(おとごぜ)あるいは乙(おと)ともいう』。『この滑稽な面の起源は、日本神話の女性、日本最古の踊り子であるアメノウズメであるとされ』、アメノウズメは七世紀の『律令制下の神祇官に属し神楽等を行った女官、猿女君の始祖で』あるという(「猿女君(さるめのきみ/「猨女君」とも書く)」は古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族の一つで、アメノウズメを始祖とするとされる。姓は「君」は姓であり、日本神話においてアメノウズメが岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から鎮魂祭での演舞や大嘗祭における前行などを執り行った猿女を貢進した氏族。氏族の名前は、アメノウズメが天孫降臨の際にサルタヒコと応対したことにより、サルタヒコの名を残すためにニニギより名づけられたものであると神話では説明され、実際には「戯(さ)る女」の意味であると考えられている。本拠地は伊勢国と想定されるが一部は朝廷の祭祀を勤めるために大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移し、稗田姓を称した。他の祭祀氏族が男性が祭祀に携わっていたのに対し、猿女君は女性、すなわち巫女として祭祀に携わっていた。それ故に他の祭祀氏族よりも勢力が弱く、弘仁年間には小野氏・和邇部氏が猿女君の養田を横取りし、自分の子女を猿女君として貢進したということもあったとウィキ猿女君にはある)『素顔を原則とする狂言において、仮面を使用するのは老人、醜女、神・仏、鬼、動植物の類であるが、「乙」(乙御前)は醜女に当たる』。『狂言面の起源とその時期について、詳細は不明であるが、能面と関係しており作者もほぼ共通しているとみられている』。『したがって、能面なるものが完成をみる室町時代から江戸時代初期にかけての時代』(十四世紀から十七世紀)に、『狂言面としての「乙」(乙御前)も完成をみると考えられ』ている。『「乙」(乙御前)の狂言における役割は、男に逃げられる醜女、姫鬼、福女で』、『「乙御前」とはもともと「末娘」の意味であり、狂言『枕物狂』ではその意味に用いられたセリフが存在』し、そこから『転じて「醜女」の意になり、狂言面「乙」(乙御前)となった』 とし、「乙御前」が登場する狂言としては「釣針」「仏師」「六地蔵」等である。『「おたふく」という名称は、狂言面の「乙」(乙御前)の「オト」音の転訛ともいわれ』、『ほかにも「福が多い」という説と、頬が丸くふくらんだ様から魚の「フク」(河豚・ふぐ)が元という説もある』(但し、ここの引用元には要出典要請がかけられてある)。『「阿多福」は、「阿多福面」(おたふくめん)の略であり、醜い顔であるという意図で女性に対して浴びせかける侮辱語として使用されることがある』。「おふく」は室町時代(十四世紀から十六世紀)には『すでに出現していた大道芸、新春の予祝芸能を行う門付芸「大黒舞」で、大黒天を中心に、えびすの面を覆った人物とともに、同様に覆面で、連れ立って現れたキャラクターであり、『「おふく」という名称は、とくに江戸時代初期』(十七世紀)『に大坂(現在の大阪府大阪市)で生まれた文楽でとくに使用されるもので、文楽人形の首(かしら)の一つの名称でもある』。『下女、あるいは下級・端役の女郎役のもので』、近松門左衛門の浄瑠璃『傾城反魂香』(宝永五(一七〇八)年初演)にも、『「姫君はさて置き、たとへ餅屋の御福でも」というフレーズで、姫君と「餅屋の御福」を比較し、つまり餅屋の店員の不細工な女であっても、という扱いで登場している』。文政二(一八〇五)年発刊の「扁額軌範」所載の正徳二(一七一二)年の銘を持つ「七福神戯遊之図」には、『七福神に加えて、布袋に酌をする』八体目の『女神が描かれており、これが「お福」または「乙御前」であるとの説明書きが付随しているという』。文化年間(一八〇四年から一八一七年)に『発表された『街談文々集要』によれば、「お福」は父を「福寿」、母を「お多福」とし、「西ノ宮夷」(現在の西宮神社、兵庫県西宮市)支配下の「叶福助」の妻だという設定が記載されている』。『宮田登によれば、近世に流行する、福助、お多福、福太郎、福太夫、そして「お福」は、狂言の世界には先行して登場しているとい』い、『同じころ、京都の陶芸家・仁阿弥道八が、「お福」の土人形をつくっている』。『「おかめ」という名称は、それらに比較して時代は新しく、とくに近世』(十七世紀から十九世紀)の江戸の里神楽(一般的に「神楽」と言われるもので「里神楽」という語は「御神楽(おかぐら)」と対比して用いられ、狭義には関東の民間の神楽を指す)で使用されるものである。『名称の由来は、顔と頬の張り出した形が「瓶」(かめ)に似ていることから名付けられた、とされるが、室町時代の巫女の名前からという説もあるため、はっきりしない。里神楽等で道化やモドキ役の女性として使われることもあり、男性の仮面である「ひょっとこ」と対に用いられる』。『その役どころから人気が高く、熟練芸能者の演じるところとされ『「おかめ」は、近世以降の民間芸能に使用され、日本各地の田遊における「はらみ女」、愛知県北設楽郡に現在も伝わり重要無形民俗文化財に指定されている霜月神楽である「花祭」では「巫女のお供」、獅子舞や各種の祭礼行列では道化として登場する』。『「福を呼ぶ面相」であるとして愛され、酉の市の大熊手にも取り入れられている』。『本来古代において、太った福々しい体躯の女性は災厄の魔よけになると信じられ、ある種の「美人」を意味したとされている。だが縁起物での「売れ残り」の意味、あるいは時代とともにかわる美意識の変化とともに、不美人をさす蔑称としても使われるようになったとも言われている』とある。下線部と「お多福」という漢字表記(ただの当て字の可能性もある訳であるが)からも福の神(ハーンの注する「幸運の神」として認識されていたことは間違いないと思われ、正月の福笑いもそうした福を呼び込むための予祝行事の遊戯化と推理すると、私は腑に落ちるのである。]

 

 『今晩は!』と、頗るやさしい聲が私の後から叫んだ。主婦は彼女の佛間に外人が興味を持つのを嬉しがつてゐるかの如く微笑を洩して、そこに立つてゐた。極めで貧しい階級の中年頃の女で、美しくはないが、極めて親切さうな顏をしてゐた。私共は彼女の挨拶に應答をした。して、私が火鉢の前の小さな敷物の上に坐る際、晃が彼に何か囁いたので、すぐに湯を沸かすため、小さな藥鑵が焜爐の上に掛けられた。私共は茶を薦められるのであつた。

[やぶちゃん注:「晃が彼に何か囁いたので」原文は“Akira whispers something to her”であるから、この「彼」は「彼女」(晃の母)の誤りである。]

 晃が私に面して火鉢の向側に坐つたとき、私は彼に質ねた。

 『位牌に書いてあつたのは何といふ名でした?』

 晃は答へた。『あれは眞の名ではありません。本名は裏に古いてあります。死んでから僧侶が別の名を與へます。死んだ男兒は良智童兒、女兒は妙容童女となつてゐます』

 私共が話をしてゐると、主婦は佛壇に近寄り、戸を開き、中のものを整頓し、燈明を點じてから、合掌稽首して祈念を始めた。私共が側に居るのも、喋つて居るのも一向無頓着の樣子は、世間の思惑が何うであらうと介意せずに、正しいこと、美はしいことを行ひ馴れた人の如くであつた。彼女の祈りの天晴れ飾り氣の無い誠實さは、世の中の貧しい人々、ラスキンが賞賛して『これらの人々こそ世の中で最も神聖だ』と云つた人々のみ有する種類のものであつた。私は彼女の心が如何なる言葉を囁いてゐるかをしらなかつた。たゞ時々靜かに唇で息を吸ひ込む、柔かなシユーシユー響く音を聞くのみであつや。それはこの親切なる國民に取つては、人を悦ばせようとする最も謙遜なる願望を示すのである。

[やぶちゃん注:「ラスキン」原文は“Ruskin”。これは十九世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家であったジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)のことか? 彼は『芸術家のパトロンであり、設計製図や水彩画をこなし、社会思想家であり、篤志家であった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、『近代画家論』を著した。また、中世のゴシック美術を賛美する『建築の七燈』『ヴェニスの石』などを執筆した』と参照したウィキジョン・ラスキンにはある。夏目漱石の「三四郎」の第二章にもラスキンの名が登場するように、日本では明治末から大正にかけて彼の建築やデザインに関わる芸術論は一世を風靡したらしい(ここはネット上の情報に拠る)。私は彼の作品を親しく読んだことがなく、ハーンの引用の出典は不詳。ただ、附言しておくと、彼は来日経験はなく、また少なくとも日本美術に対しては頗る冷淡であったらしい(やはりネット上の情報に拠る)。]

 

 この優しい、些やかな儀式を見守り乍ら、私は私自身の生命の神祕内に、朧ろげ乍ら動いてくる或るものを感じた――漠然と、云ひやうなくも親しみの感ぜられる、先祖傳來の記憶の如く、二千年間忘れられてゐた感覺の復活の如くであつた。それは不思議にも私の微かな古代世界の知識と混じ合つてゐるやうに思はれた。古代世界でも家庭の神として、生前に愛した死人を祭つたのであつた。して、こゝにはラーリーズ【譯者註】が影をさしてゐる如く、この世のものならぬ奇異な優しさがあつた。

 

     譯者註。羅馬の家庭の神。

[やぶちゃん注:「ラーリーズ」原文は“Lares”。古代ローマ時代の守護神的な神々(複数)である「ラレース」(Lares/古い綴りは Lasesのこと。ウィキの「ラレース」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『単数形はラール(Lar)。その起源はよくわかっていない。家庭、道路、海路、境界、実り、無名の英雄の祖先などの守護神とされていた。共和政ローマの末期まで、二体の小さな彫像という形で祭られるのが一般的だった』。『ラレースは、その境界内で起きたあらゆることを観察し、影響を与えると考えられていた。家庭内のラレース像は、家族が食事中はそのテーブル上に置かれた。家族の重要な場面では、ラレース像が必須となっていたと見られている。このため古代の学者らはこれを「家の守護神」に分類していた。古代ローマの作家の記述を見ると、ラレースと同様の家の守護神とされていたペナテースを混同している場合もある。ローマ神話の主な神々に比べると守備範囲も力も小さいが、ローマの文化には深く根付いていた。アナロジーから、本国に戻るローマ人を ad Larem (ラレースに)戻ると称した』。『ラレースはいくつかの公けの祭りで祝福され礼拝された。中には vici(行政区)全体を守護するとされたラレースもある。また、ラレースを祭った交差点や境界線にある祠(コンピタレス; Compitales)は、宗教、社会生活、政治活動の自然な焦点となっていた。これらの文化はローマ帝国初期の宗教・社会・政治改革に取り込まれた。ラレースを家庭内に祭るという文化は変化しなかったようである。これらは少なくとも紀元四世紀まで持ちこたえた』。『ラールは小さく若々しく活発な様子で、一見したところ男性である。踊り子のように、爪先立ちしているか、片脚で軽くバランスを取っている。片手に角杯(リュトン)を持って掲げ、乾杯か献酒をしているように見える。もう一方の手は低く構え、浅い献酒皿(パテラ)を持っている(稀にシトラと呼ばれる鉄製のワインバケットを持っていることもある)。服装は、短いチュニックに帯を締めた形で、プルタルコスによればそのチュニックは犬の毛皮でできている』(「チュニック」(英:tunic/仏:tuniqueとは、衣服の名称の一つ。丈が長め(腰から膝ぐらいまで)の上着を指す。チュニックの語源は古代ギリシャ・ローマや中世の東ローマ帝国で用いられていた「トゥニカ」(羅:tunicaであり、これは貫頭衣から発展した筒型衣全般を指す。その長さも地面に達するものから膝丈程度の長いものが主であった、とウィキの「チュニック」にある)。『ラールの像や絵画はどれもこの基本形に忠実で、若干のスタイル上の変化が見られるだけである。現存する祭壇の絵画には、同一の二体のラレースが描かれている。そのためオウィディウスのころにはラレースは双子の神々だと解釈されていたが、常にそうだったという証拠はない』。彼らラレースや他の家庭の神々を祭祀した家庭内に設けられた小さな祭壇を「ララリウム」(複数形はララリア)と呼ぶが、『考古学上の証拠から、その家族の守護神を含めた複数の下級の神々を祭っていたことがわかっている』。現在でも『ポンペイのものはほぼ最高の状態で保たれて』おり、『神々の絵の周囲には古代の寺院を模した石造りの枠がある。周囲の壁にも神々と神話の場面が描かれており、見るものに強烈な印象を与える』。『ララリウムは住居内の様々な部屋、寝室、今では用途が不明な部屋、特に台所や店舗などにあり、そこにラレースと共にペナテースが共存していた。その多くは小さな壁龕であり、稀に壁から突き出したタイル張りのものもあった。どちらも装飾は簡素だが大事にされていた』ことが良く判る。『家庭内のラレースは、外に対して演劇的にディスプレイする役割も持っていたが、文献によればもっと親密な守護神的役割も持っていた。家庭内のララリウムは、家族の変化と連続性のシンボルのための神聖な保管所でもあった。少年が成人すると、ラレースにお守り(ブラ)を捧げてから成人用のトガを着用し、最初の髭は切り落としてララリウムに保管した。少女は成人して結婚する前の夜に、幼少期に遊んだ人形やボールなどをラレースに捧げた』。『結婚の日、花嫁は花婿の家の神に忠誠を誓った。結婚によって主婦となる場合、夫とともにその家庭の礼拝の共同責任者となった』。以上を読んだだけでも、晃の母親が家のささやかな仏壇に敬虔な作法で祈りを捧げる様を見て、この遠き古きローマの家庭神ラレースを思い出したことは、すこぶる納得出来ると言える。]

 

 短い祈念を了へてから、彼女はまた焜爐の方へ向つた。彼女は晃と語つたり、笑つたりして、茶を入れ、小さな湯呑に注いで、私共に薦めた。跪いた優美な姿勢は、六百年來日 本婦人が茶を進めるときの傳統的態度であつた。實際、日本の婦人の生活の少からざる部 分は、このやうに小さな湯呑で茶を饗するために費されるのだ。幽靈としてさへ、歸人は 通俗の版畫の中に茶を薦める有樣に畫いてある。日本の幽靈の畫の中で、私が最も哀れを 催ふしたのは、女を殺してから、悔恨に惱まされた人に、その女の幽靈が恭しく跪いて小さな茶椀を薦めてゐる圖であつた!

[やぶちゃん注:この幽霊が誰の如何なる怪談絵であるか、思い至らない。多量の近世怪談画集を所持はしているが、前頭葉損傷後はどうも緻密に精査する気力が減衰した。是非とも識者の御教授を乞うものである。]

 

 晃が起ち上つて、『それでは、盆市へ行きませう。主婦さんも、やがて盆市へ買物に出かけねばなりません。それにもう日も暮れかけました。左樣なら!』

 私共が小さな家を出かける時は、實際殆ど暗かつた。町筋の上空に連つた星は、細長い 天の一片を塗つてゐた。折々生温い微風が吹いて、長く續いた軒頭の暖簾を搖り動かし、散歩によい美しい夜であつた。市場は町外づれの挾い通りにあつた。藏德院の丘の麓で、僅か十町ばかりを隔てた元町にあつた。

[やぶちゃん注:ハーンは恐らく、「ある」ことに吃驚している。それは盆市の場所が「第三章 地藏」で既に訪れた馴染みの「藏德院」のすぐ傍であり、しかもそこは彼の泊っていたと考えられるグランド・ホテルの直近でもあったからである。夜も暗くなって遠くからホテルに戻る(仮に人力車を求めてもつかまらない場所の可能性もある)というのは、晃が付き添っていてもハーンには未だ治安上の不安があったに違いないからである。

「十町」凡そ一・一キロメートル。但し、旧徳蔵院(現在の元町プラザ)を起点として一キロでは、少なくとも現在の元町地区からはどこも外にはみ出してしまう。寧ろ、ここは文脈から考えると、晃の家(現在の寿町と推定)からの距離ではあるまいか? そう仮定して徒歩実測を試みると、丁度、現在の元町商店街の中央辺り、元町三丁目か二丁目附近が同距離となるからである。しかもここは丘の麓である。この盆市の行われた場所を御存じの方は是非とも御教授を乞うものである。]

 

Sec. 4

It is so narrow, the Street of the Aged Men, that by stretching out one's arms one can touch the figured sign-draperies before its tiny shops on both sides at once. And these little ark-shaped houses really seem toy-houses; that in which Akira lives is even smaller than the rest, having no shop in it, and no miniature second story. It is all closed up. Akira slides back the wooden amado which forms the door, and then the paper-paned screens behind it; and the tiny structure, thus opened, with its light unpainted woodwork and painted paper partitions, looks something like a great bird-cage. But the rush matting of the elevated floor is fresh, sweet-smelling, spotless; and as we take off our footgear to mount upon it I see that all within is neat, curious, and pretty.

'The woman has gone out,' says Akira, setting the smoking-box (hibachi) in the middle of the floor, and spreading beside it a little mat for me to squat upon.

'But what is this, Akira?' I ask, pointing to a thin board suspended by a ribbon on the wall—a board so cut from the middle of a branch as to leave the bark along its edges. There are two columns of mysterious signs exquisitely painted upon it.

'Oh, that is a calendar,' answers Akira. 'On the right side are the names of the months having thirty-one days; on the left, the names of those having less. Now here is a household shrine.'

Occupying the alcove, which is an indispensable part of the structure of Japanese guest-rooms, is a native cabinet painted with figures of flying birds; and on this cabinet stands the butsuma. It is a small lacquered and gilded shrine, with little doors modelled after those of a temple gate—a shrine very quaint, very much dilapidated (one door has lost its hinges), but still a dainty thing despite its crackled lacquer and faded gilding. Akira opens it with a sort of compassionate smile; and I look inside for the image. There is none; only a wooden tablet with a band of white paper attached to it, bearing Japanese characters—the name of a dead baby girl—and a vase of expiring flowers, a tiny print of Kwannon, the Goddess of Mercy, and a cup filled with ashes of incense.

'Tomorrow,' Akira says, 'she will decorate this, and make the offerings of food to the little one.'

Hanging from the ceiling, on the opposite side of the room, and in front of the shrine, is a wonderful, charming, funny, white-and-rosy mask— the face of a laughing, chubby girl with two mysterious spots upon her forehead, the face of Otafuku. [2] It twirls round and round in the soft air-current coming through the open shoji; and every time those funny black eyes, half shut with laughter, look at me, I cannot help smiling. And hanging still higher, I see little Shinto emblems of paper (gohei), a miniature mitre-shaped cap in likeness of those worn in the sacred dances, a pasteboard emblem of the magic gem (Nio-i hojiu) which the gods bear in their hands, a small Japanese doll, and a little wind- wheel which will spin around with the least puff of air, and other indescribable toys, mostly symbolic, such as are sold on festal days in the courts of the temples—the playthings of the dead child.

'Komban!' exclaims a very gentle voice behind us. The mother is standing there, smiling as if pleased at the stranger's interest in her butsuma— a middle-aged woman of the poorest class, not comely, but with a most kindly face. We return her evening greeting; and while I sit down upon the little mat laid before the hibachi, Akira whispers something to her, with the result that a small kettle is at once set to boil over a very small charcoal furnace. We are probably going to have some tea.

As Akira takes his seat before me, on the other side of the hibachi, I ask him:

'What was the name I saw on the tablet?'

'The name which you saw,' he answers, 'was not the real name. The real name is written upon the other side. After death another name is given by the priest. A dead boy is called Ryochi Doji; a dead girl, Mioyo Donyo.'

While we are speaking, the woman approaches the little shrine, opens it, arranges the objects in it, lights the tiny lamp, and with joined hands and bowed head begins to pray. Totally unembarrassed by our presence and our chatter she seems, as one accustomed to do what is right and beautiful heedless of human opinion; praying with that brave, true frankness which belongs to the poor only of this world—those simple souls who never have any secret to hide, either from each other or from heaven, and of whom Ruskin nobly said, 'These are our holiest.' I do not know what words her heart is murmuring: I hear only at moments that soft sibilant sound, made by gently drawing the breath through the lips, which among this kind people is a token of humblest desire to please.

As I watch the tender little rite, I become aware of something dimly astir in the mystery of my own life—vaguely, indefinably familiar, like a memory ancestral, like the revival of a sensation forgotten two thousand years. Blended in some strange way it seems to be with my faint knowledge of an elder world, whose household gods were also the beloved dead; and there is a weird sweetness in this place, like a shadowing of Lares.

Then, her brief prayer over, she turns to her miniature furnace again. She talks and laughs with Akira; she prepares the tea, pours it out in tiny cups and serves it to us, kneeling in that graceful attitude— picturesque, traditional—which for six hundred years has been the attitude of the Japanese woman serving tea. Verily, no small part of the life of the woman of Japan is spent thus in serving little cups of tea. Even as a ghost, she appears in popular prints offering to somebody spectral tea-cups of spectral tea. Of all Japanese ghost-pictures, I know of none more pathetic than that in which the phantom of a woman kneeling humbly offers to her haunted and remorseful murderer a little cup of tea!

'Now let us go to the Bon-ichi,' says Akira, rising; 'she must go there herself soon, and it is already getting dark. Sayonara!'

It is indeed almost dark as we leave the little house: stars are pointing in the strip of sky above the street; but it is a beautiful night for a walk, with a tepid breeze blowing at intervals, and sending long flutterings through the miles of shop draperies. The market is in the narrow street at the verge of the city, just below the hill where the great Buddhist temple of Zoto-Kuin stands—in the Motomachi, only ten squares away.

 

2 A deity of good fortune

2015/08/25

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (三)

 

        三

 

 佛説孟蘭盆經に載つてゐる施餓鬼の由來は斯うだと晃が語つた。

 佛陀の大弟子、大孟健蓮は功績によつて六神通力を得た。その力に因つて餓鬼道にある母の魂を見ることが出來た。そこは前生に犯した罪を贖ふために、亡靈が飢餓に苦しまねばならぬ世界である。孟健蓮は母が甚(いた)く惱んでゐるのを見た。彼は母の苦痛のため大いに悲しんで、最も美味の食物を椀に盛つて、母に送つた。母がそれを食べようとするのが見えた。が、食物を唇まで持ち上げようとする度毎に、それが火と變はり、餘燼となつて、食べることは出來なかつた。そこで、孟健蓮は母の苦しみを救ふ法を佛陀に尋ねた。佛が『七月十五日に、諸國の大僧侶達の亡靈に食物を供へよ』と云つた。孟健蓮がその通りにすると、母は餓鬼の狀態から解放され、欣舞するさまが見えた。これがまた日本中、盆祭の第三日の夜に行はれる盆踊の起源である。

 

    註。同書にまた、孟健蓮の母に、何う

    して餓鬼道に苦しむやうになつたかと、

    阿彌陀が佛に訊ねた時、佛がそれは彼

    女が前生にて、貪慾のため、或る旅僧

    に食を施すことを拒んだからであると

    答へたことが、記されてある。

 

 第三日の夜、即ち最後の夜に、施餓鬼よりも一層哀れで、盆踊よりも更に珍らしい、奇異に美はしい式――お別れの式がある。

 生きてゐる人たちが、死んだ人々を欣ばせる爲めに盡くし得る、有らん限りのことが、既に盡くされたのだ。幽冥界の主宰者が、亡靈のこの世を訪れる爲めに許した時間も、殆ど盡きてきたので、遺族友人はそれを見送らねばならない。

 亡靈に對して一切の準備が整つてゐる。どこの家にも、麥稈を細かく編んで作つた小舟にに、精進した食物、小さな燈籠、信仰と愛の文句を書いたものなどが積んである。舟は二尺より長いことは殆どない。しかし死者には、あまり廣くなくてもよろしい。それから、纎弱な小舟は運河、湖水、海、或ひは河に流される――それぞれ船首には小燈が輝き、船尾には香が炷かれて、空の晴れた夜には、遠方へまで航路をつゞけて行く。長汀曲浦を下つて、まぼろしの小艦隊は、ちらちら光つて海へ行く。して、海は滿目、死人の光りで水平線の際涯まで閃き渡り、海風は香煙で芳ばしい。

 が、殘念!今頃は大きな港では精進舟を流すことが禁ぜられた。

 

[やぶちゃん注:「佛説孟蘭盆經」略して単に「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」とも言う。ウィキの「盂蘭盆経によれば、只管に父母の恩に報いることを説く儒教的人倫の教えを説く偽経「仏説父母恩重難報経(ぶっせつぶもおんじゅうなんほうきょう」(略して「父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」ともいう)等と同様に中国で「孝」の倫理を中心にして成立した偽経。ハーンの注にある『釈迦十大弟子の一人である目連尊者が餓鬼道に堕ちた亡母を救うために衆僧供養を行なったところ、母にも供養の施物が届いた、という事柄が説かれている』というが、『死者に対する廻向の思想そのものはパーリ語経典『餓鬼事経』にも見られる』とあってトンデモ偽経とは言えないようである。概要はハーンの語る通り、『安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった』。『哀れに思って、釈迦に実情を話して方法を問うと、「安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行い、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも入った』とある。

「大孟健蓮」大目犍連(だいもくけんれん)或は単に目連(もくれん)とも言うが、正しくは「目犍連」、略して「目連」の称で現行では知られる。釈迦十大弟子中「神通第一」と賞された。以下、ウィキの「目連」によると、「目連」は梵語で“Maudgalyāyana”(マウドゥガリヤーヤナ)/パーリ語で“Moggallāna”(モッガラーナ)。漢字音写では「目犍連」「目健(腱)連」、漢訳では「菜茯根」「采叔氏」「讃誦」など。また仏弟子中筆頭あったことからその称号である“Mahā”(漢字音写:「摩訶」/漢訳:「大」)を附して「摩訶目犍連」や平井呈一氏の訳にある「大目犍連」などとも記されるらしい。但し、ここに出る落合氏の「大孟健蓮」という漢訳は現行では見られない。『マガダ国の王舎城北、拘利迦(コーリカ、或いはコーリタ)村の Moggaliya というバラモン女性の子で、もとは拘律多(コーリタ)といった。なお『盂蘭盆経』では父を吉懺師子(きっせんしし)、母を青提女(しょうだいにょ)』(別に「せいだいじょ」とも読まれる)『というが、これは中国において作成された偽経とされている(後述)』。『容姿端麗で一切の学問に精通していた。幼くから隣村ナーラダの』舎利弗(しゃりほつ)と『仲がよく、ある日、人々が遊び戯れている姿を見て、厭離の心を生じ出家を共に決意し合ったという。彼らは当初』、五百人に及ぶ『青年の仲間達を引き連れて』六師外道(ろくしげどう:ゴータマ・シッダッタ(ブッダ)と同時代にブッダが布教に力を入れたマガダ地方に於いて活躍した六人(或いは集団)の異端思想家達を指す卑称)の一人でインド懐疑論者の巨魁『サンジャヤ・ベーラッティプッタに弟子入りしたが満足せず、「もし満足する師が見つかれば共に入門しよう」と誓った』とされる。『後に舎利弗が阿説示(アッサジ)に出遭い釈迦とその法を知るや、目連に知らせて共に五百人のうち半分の弟子衆を引き連れて竹林精舎に到り仏弟子となった』。『目連は後に証果(悟り)を得て、長老といわれる上足の弟子に数えられ、各地に赴き釈迦の教化を扶助した。彼は神通によって釈迦の説法を邪魔する鬼神や竜を降伏させたり、異端者や外道を追放したため、多く恨みをかったこともあり、逆に迫害される事も多かったという。特に六師外道の一とされるジャイナ教徒からよく迫害された。提婆達多の弟子達に暗殺されかかったともいわれている』。『また釈迦族を殲滅せんとしたコーサラ国の瑠璃(ビルリ、ヴィドゥーダバ)王の軍隊を撃退しようとして、釈迦から制止されたりしたこともあった』。『伝説では、釈迦の涅槃に先だって上足の二弟子がまず涅槃するのは、三世(過去現在未来)諸仏の常法といわれる。また』「阿毘曇八健度論(あびどんはっけんどろん)」巻二十八には、『目連と舎利弗が釈迦に先んじて滅したのは、釈迦の説法が正しいことを証明するために成仏の実相を示した、と説かれているが、彼の臨終の模様については』、以下のように伝わる。『舎利弗と目連は、釈迦が涅槃せんとするのを知り、夏坐竟』(げざおわり)『てまさに涅槃とす。この時目連は羅閲城に入って行乞した。外道である執杖梵士は彼を見て、「これは沙門瞿曇(釈迦)の弟子だ、かの弟子中でも目連の上に出るものはいない。我等が共に囲んで打ち殺そう」と言った。諸の梵士共に囲って之を打ち捨てて爛尽し苦悩甚だしく、この時目連は神通で脱し祇園精舎に還り舎利弗の所へ至った』。『舎利弗は「世尊第一の神通の弟子であるのに、なぜ神通を以って避けられずや」と問うと、「我が宿業極めて重く、我れ神の字に於いて尚憶ふと能わず、況(いわん)や通を発せんをや、我れ極めて疼痛を患う。来たって汝に辞して般涅槃を取る」といった。舎利弗は「汝、いま少し停(とどま)れ、我れまさに先ず滅度を取るべし」といった。舎利弗は釈尊の所へ至り辞して、去って本生処に至り説法して滅度を取った」(「増一阿含経」)』、『阿闍世王は、目連が梵士に打ちのめされ瀕死となっているのを聞き、極めて瞋恚して(怒って)大臣に「かの外道を探索してこれを焼き殺せ」と命じた。目連はこれを聞き報じて曰く「尊命違い難く、もし捉え得れば但国を出でしむべし」』と言い放ったという(「毘奈耶雑事」)。然るに目連には二人の弟子があり、『いわゆる六群比丘』(ろくぐんびく:釈迦弟子中で悪事を働いた釈迦や仏弟子らを困らせた六人を言う。彼らの存在故に釈迦の僧団に於いて多くの戒律が制定されたとも言い、また「摩訶僧祇律」によれば彼らは皆、「提婆達多派」の徒であったとする)の『馬宿と満宿が、師である目連の撲殺されるを聞き、憤怒に堪えず、身毛悉く堅ち、大力士の力を以って尽し執杖梵士を捕えて殺した』という。『後にある弟子(比丘)が釈迦にこの件について質問した。聖者目連は何の業があって外道にその身を粉砕せられたのかと問うと、「目連はかつて過去世に、バラモンの子となりその婦人に婬溺して母に不幸した。ある日母を怒り悪語を発す、曰く如何ぞ勇力の人を得てかの身形を打たんと。この麁悪語に依って五百生の中に於いて当に打砕せられ今日聖道を証し神通第一なるも、なおこの報いを受く」と説明した』(「毘奈耶雑事」に拠る)。『また、彼は昔、弊魔たる時、しばしば拘楼孫仏(過去七仏の一仏)の上足の弟子尊者・毘楼を触嬈し、化して小児となり大杖を以って彼の首を撃ち血を流した。その時に地獄に堕した。その宿業に依って今日釈迦文仏の上足となり外道の為に撲殺された』のだとも記す(「魔嬈乳経(まじょうにゅうきょう)」に拠る)。以下、「目連と盂蘭盆」の項がありそれによれば、『下記に記す盂蘭盆の逸話により、目連が日本におけるお盆及び盆踊りなどの行事の創始者として受け取られている』という。『目連がある日、先に亡くなった実母である青提女が天上界に生まれ変わっているかを確認すべく、母の居場所を天眼で観察したところ、青提女は天上界どころか餓鬼界に堕し地獄のような逆さ吊りの責め苦に遭っていた。驚いて供物を捧げたところ供物は炎を上げて燃え尽きてしまい、困り果てた目連は釈迦に相談する。釈迦は亡者救済の秘法(一説には施餓鬼の秘法)を目連に伝授し、目連は教えに従って法を施すとたちまちのうちに母親は地獄から浮かび上がり、歓喜の舞を踊りながら昇天した』ことを盂蘭盆の濫觴とするという(下線やぶちゃん)。]

 

 

Sec. 3

Now this, Akira tells me, is the origin of the Segaki, as the same is related in the holy book Busetsuuran-bongyo:

Dai-Mokenren, the great disciple of Buddha, obtained by merit the Six Supernatural Powers. And by virtue of them it was given him to see the soul of his mother in the Gakido—the world of spirits doomed to suffer hunger in expiation of faults committed in a previous life. Mokenren saw that his mother suffered much; he grieved exceedingly because of her pain, and he filled a bowl with choicest food and sent it to her. He saw her try to eat; but each time that she tried to lift the food to her lips it would change into fire and burning embers, so that she could not eat. Then Mokenren asked the Teacher what he could do to relieve his mother from pain. And the Teacher made answer: 'On the fifteenth day of the seventh month, feed the ghosts of the great priests of all countries.' And Mokenren, having done so, saw that his mother was freed from the state of gaki, and that she was dancing for joy. [1] This is the origin also of the dances called Bono-dori, which are danced on the third night of the Festival of the Dead throughout Japan.

Upon the third and last night there is a weirdly beautiful ceremony, more touching than that of the Segaki, stranger than the Bon-odori—the ceremony of farewell. All that the living may do to please the dead has been done; the time allotted by the powers of the unseen worlds unto the ghostly visitants is well nigh past, and their friends must send them all back again.

Everything has been prepared for them. In each home small boats made of barley straw closely woven have been freighted with supplies of choice food, with tiny lanterns, and written messages of faith and love. Seldom more than two feet in length are these boats; but the dead require little room. And the frail craft are launched on canal, lake, sea, or river—each with a miniature lantern glowing at the prow, and incense burning at the stern. And if the night be fair, they voyage long. Down all the creeks and rivers and canals the phantom fleets go glimmering to the sea; and all the sea sparkles to the horizon with the lights of the dead, and the sea wind is fragrant with incense.

But alas! it is now forbidden in the great seaports to launch the shoryobune, 'the boats of the blessed ghosts.'

 

1 It is related in the same book that Ananda having asked the Buddha how came Mokenren's mother to suffer in the Gakido, the Teacher replied that in a previous incarnation she had refused, through cupidity, to feed certain visiting priests.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (二)

       二

 

 死んだ人々のお祭――盆祭又は盆供養――西洋人は燈籠の祭とも呼んでゐる――は、七月十三日から十五日に亘つて行はれる。が、毎年二回、それが行はれる地方も澤山ある。といふのは、まだ太陰曆を守る人々は、盆祭は舊暦七月十三、十四、十五日に當るべきだと考へてゐる。その日取りは太陽曆では、もつと遲くなるのだ。

 十三日の朝早く、祭のため特に編んだ、最も淸らかな稻の莚を佛壇の上や、佛間の中ヘ敷く。佛間といふのは、信仰を有つ家庭では朝夕そこへ祈を捧げる處だ。厨子と壇とは、また色紙や花や或る種類の神聖な植物の枝で綺麗に裝飾される。蓮華が獲られる場合には、いつも眞の蓮華を飾り、さもなくば、紙製の蓮華や、樒やみそ荻の枝を用ひる。それから、小さな漆塗りの膳――普通日本の食物を載せるもの――が壇前に据ゑられ、食物の献げものがその上に陳べられる。が、家庭の比較的小さな厨子では、供物は單に新しい蓮の葉に包んで、稻の莚の上に置く方が多い。

 是等の供物は、西洋索麪に類する素麺、米を煮た御飯、お團子、茄子、季節の果物――多くは瓜、西瓜、梅や桃などだ。菓子や美味の加はることも毎々だ。時には料理をしない御精進供のこともあるが、者た食物の御料供のことが普通だ。しかし勿論、魚類獸肉又は酒を含まない。淸水が幽靈の客に捧げられ、また絶えずみそ荻の枝に浸して壇上又は厨子の中に灑がれる。茶も毎時注がれ、一切のものを生きた客に對する如く小皿や、荼碗や鉢に行儀よく盛つて、箸を供へてある。かやうにして三日間、死んだ人々は饗應される。

 日沒に當つて、亡靈の訪れ來るのを導くために、各戸の前の地中に差し込んだ松の炬火に火を點ずる。また盆祭の初めの夜、村や町に近い海邊、湖畔、または河岸に、迎ひ火を點ずることがある。火の數は百八個に限る。この數は佛教の哲理上、幾分神祕的意義を有する。それから、毎夜戸口には綺麗な提燈が吊られる――盆祭の提燈――特異の色と形を有し、風景花卉などが美しく畫かれて、いつも特別な紙製の吹流しの總(ふさ)を附けて飾つてある。

 また、その夜は、死んだ知人の墓へ行つて、供物を捧げ、冥福を祈り、香を炷き、水を献げる・。花は墓毎に傍らに備へてある竹筒に活けて置く。して、墓前に提燈を掲げて火を點ずる。しかし是等の提燈には畫がない。

 十五日の夕だけ、日沒の頃、施餓鬼といふ式が寺で行はれる。その時、餓鬼道といふ圈内に居る亡靈に食物が供せられる。また死後追善を營んで呉れる遺族知人もない亡靈にも、僧侶が食物を供する。神佛へ供へるのと同じく、その供物は極めで分量が少い。

 

[やぶちゃん注:「みそ萩」バラ亜綱フトモモ目ミソハギ科ミソハギ Lythrum anceps ウィキミソハギによれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『湿地や田の畔などに生え、また栽培される。日本および朝鮮半島に分布。茎の断面は四角い。葉は長さ数センチで細長く、対生で交互に直角の方向に出る。お盆のころ紅紫色六弁の小さい花を先端部の葉腋に多数つける』。『盆花としてよく使われ、ボンバナ、ショウリョウバナ(精霊花)などの名もある。ミソハギの和名の由来はハギに似て禊(みそぎ)に使ったことから禊萩、または溝に生えることから溝萩によるといわれる』。『近縁のエゾミソハギとも、千屈菜(せんくつさい)と呼ばれて下痢止めなどの民間薬とされ、また国・地方によっては食用にされる。千屈菜(みそはぎ)は秋の季語』である。『近縁のエゾミソハギ L. salicariaはミソハギより大型で、葉の基部が茎を抱き、毛が多い。九州以北の各地(北海道に限らない)、またユーラシア大陸や北アフリカにも広く分布する。欧米でも観賞用に栽培され、ミソハギ同様盆花にもされる』が、実はこちらの種は世界レベルでの「侵略的外来種ワースト百選定種」の一種でもあることをも知っておきたい。

「西洋索麪」「せいやうさうめん(せいようそうめん)」と読んでいよう。原文は“vermicelli”。イタリア語語源の英語で、音写すると「バーミチェリ」「バーミセリ」。所謂、スパゲッテイ(spaghettiよりも細いパスタを指す。イタリア語の原義は「細長い虫」の意味である。

「素麺」は無論、「さうめん(そうめん)」と読む。「素麺」は外に「索麺」「索麵」「素麪」そして前に出るように「索麪」とも書き、これらは総て同一物を指す。落合氏は細いスパゲッテイと本邦の素麺を差別化するために敢えて異なった漢字表記を用いたものであろう。

「御料供」「おりやうぐ(おりょうぐ)」と読んでいる(原文参照)。「霊供(りょうぐ)」と同義で、霊前に供える、通常生臭物を避けた総てに何らかの火を加えられた――料(れう/りょう)られた――食物である。平井呈一氏の訳では後に『お料供(煮た食物)』とあってルビで「(お)りょうぐ」と読ませている。但し、「御霊供膳」と書くと、現行では「おりくぜん」と当て読みで訓じているケースが頗る多いことを附言しておく。

「炬火」は「こくわ(こか)」或いは「きよくわ(きょか)」と読み、本来は松明(たいまつ)の火或いは篝(かが)り火のこと。ここは各家庭での盆の送り火で、現行では家の門口や辻に於いて「おがら」(皮を剥いだ麻(あさ)の茎)を折って積み重ねて着火するのが最も一般的であって、一見、「炬火」は大袈裟な表現にも見えるが、大文字焼きなども同じ送り火であることを考えれば、「炬火」こそは逆に本来的に正統にして正当な表現とも言えると私は思う(因みに平井呈一氏は『松明(たいまつ)』と訳しておられる)。

「施餓鬼」は「せがき」と読み、仏教に於ける法会(ほうえ)の名で「施餓鬼会(せがきえ)」とも言う。参照したウィキ施餓鬼によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『訓読すれば「餓鬼に施す」と読めることからも分かるように、六道輪廻の世界にある凡夫の中でも、死後に特に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼を指』し、ここでハーンも述べているように、現行でも『法会の時期は、盂蘭盆として旧暦の七月十五日(中元)に行われるのが一般的である。日本におけるお盆の場合、お精霊さま(おしょらいさま)と呼ばれる各家の祖霊が、一年に一度、家の仏壇に還ってくるものとして、盆の期間中、盆供として毎日供物を供える。それと同時に、無縁仏となり、成仏できずに俗世をさまよう餓鬼にも施餓鬼棚(せがきだな)、餓鬼棚(がきだな)や精霊馬(しょうりょううま)を設ける風習がある』。『さらに広義には、施す対象は餓鬼神に限らず、三界万霊十方至聖『大施餓鬼集類分解(原古志稽著)、立牌』にも及』び、『(上は三宝を供(くよう)し、下は万霊を済えば、其の福百倍なり。単に施鬼神食に局(かぎ)るべからず。後学、焉(こ)れを知れ。『大施餓鬼集類分解、施食の時節』)』『また、万霊とは生魂をも含』み、『(万霊というは、万は且(しばら)く大数を挙ぐ。衆生無辺なり。豈に啻(た)だ万のみならんや。霊は謂く、含霊、即ち有情なり。『釈要鈔』に云く、「含霊は即ち衆生の異目(べつめい)なり」と。『大施餓鬼集類分解、立牌』』。『施というは、梵語には檀那、此には施と曰う。但だ鬼道の飢渇に施すのみにあらずして、上は十方の諸佛に供(くよう)し、下は六道の群生に施す。故に無遮の大会と名づく。又た施食と曰い、又た水陸会と曰う。『大施餓鬼集類分解、題目』)』が、『但し、浄土真宗においては、施餓鬼会は行われない』ので注意が必要である(ハーンの記載から晃の家の宗旨も彼の学んでいる真言宗と考えてよい)。『曹洞宗においては、俗に盂蘭盆会施餓鬼と言っているが、施す者と施される者の間に尊卑貴賤の差があると、厳に戒むべきものだとして、「施餓鬼会」を「施食会」(せじきえ)と改めて呼称している』。『また、施餓鬼は盂蘭盆の時期に行われるのが通例となっているが、本来は特定の時期(つまり盂蘭盆)の時だけに限定して行われるものではない。これは、目連尊者の伝説と、阿難尊者の伝説が似ていることから、世間において誤解が広まったものとされている(後述)』。『また、水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養を「川施餓鬼」といい、夏の時期に川で行なわれる』。『目連の施餓鬼は「盂蘭盆経」によるといわれる。この経典によると、釈迦仏の十大弟子で神通第一と称される目連尊者が、神通力により亡き母の行方を探すと、餓鬼道に落ち、肉は痩せ衰え骨ばかりで地獄のような苦しみを得ていた。目連は神通力で母を供養しようとしたが食べ物はおろか、水も燃えてしまい飲食できない。目連尊者は釈迦に何とか母を救う手だてがないかたずねた。すると釈迦は『お前の母の罪はとても重い。生前は人に施さず自分勝手だったので餓鬼道に落ちた』として、『多くの僧が九十日間の雨季の修行を終える七月十五日に、ご馳走を用意して経を読誦し、心から供養しなさい。』と言った。目連が早速その通りにすると、目連の母親は餓鬼の苦しみから救われた。これが盂蘭盆の起源とされる(ただしこの経典は後世、中国において創作された偽経であるという説が有力である)』。『これに対し、阿難の施餓鬼は「救抜焔口陀羅尼経」に依るものである。釈迦仏の十大弟子で多聞第一と称される阿難尊者が、静かな場所で坐禅瞑想していると、焔口(えんく)という餓鬼が現れた。痩せ衰えて喉は細く口から火を吐き、髪は乱れ目は奥で光る醜い餓鬼であった。その餓鬼が阿難に向かって『お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるだろう』と言った。驚いた阿難が、どうしたらその苦難を逃れられるかと餓鬼に問うた。餓鬼は『それにはわれら餓鬼道にいる苦の衆生、あらゆる困苦の衆生に対して飲食を施し、仏・法・僧の三宝を供養すれば、汝の寿命はのび、我も又苦難を脱することができ、お前の寿命も延びるだろう』と言った。しかしそのような金銭がない阿難は、釈迦仏に助けを求めた。すると釈迦仏は『観世音菩薩の秘呪がある。一器の食物を供え、この『加持飲食陀羅尼」』(かじおんじきだらに)を唱えて加持すれば、その食べ物は無量の食物となり、一切の餓鬼は充分に空腹を満たされ、無量無数の苦難を救い、施主は寿命が延長し、その功徳により仏道を証得することができる』と言われた。阿難が早速その通りにすると、阿難の生命は延びて救われた。これが施餓鬼の起源とされる』。『この二つの話が混同され、多くの寺院において盂蘭盆の時期に施餓鬼が行われるようになったといわれる』とある。但し、前章注で述べた通り、この後のハーンの行動日程から、ここで行われている施餓鬼会は新暦八月十五日に行われるととらないとおかしなことになる。

 

 

Sec. 2

From the 13th to the 15th day of July is held the Festival of the Dead— the Bommatsuri or Bonku—by some Europeans called the Feast of Lanterns. But in many places there are two such festivals annually; for those who still follow the ancient reckoning of time by moons hold that the Bommatsuri should fall on the 13th, 14th, and 15th days of the seventh month of the antique calendar, which corresponds to a later period of the year.

Early on the morning of the 13th, new mats of purest rice straw, woven expressly for the festival, are spread upon all Buddhist altars and within each butsuma or butsudan—the little shrine before which the morning and evening prayers are offered up in every believing home. Shrines and altars are likewise decorated with beautiful embellishments of coloured paper, and with flowers and sprigs of certain hallowed plants—always real lotus-flowers when obtainable, otherwise lotus- flowers of paper, and fresh branches of shikimi (anise) and of misohagi (lespedeza). Then a tiny lacquered table—a zen-such as Japanese meals are usually served upon, is placed upon the altar, and the food offerings are laid on it. But in the smaller shrines of Japanese homes the offerings are more often simply laid upon the rice matting, wrapped in fresh lotus-leaves.

These offerings consist of the foods called somen, resembling our vermicelli, gozen, which is boiled rice, dango, a sort of tiny dumpling, eggplant, and fruits according to season—frequently uri and saikwa, slices of melon and watermelon, and plums and peaches. Often sweet cakes and dainties are added. Sometimes the offering is only O-sho-jin-gu (honourable uncooked food); more usually it is O-rio-gu (honourable boiled food); but it never includes, of course, fish, meats, or wine. Clear water is given to the shadowy guest, and is sprinkled from time to time upon the altar or within the shrine with a branch of misohagi; tea is poured out every hour for the viewless visitors, and everything is daintily served up in little plates and cups and bowls, as for living guests, with hashi (chopsticks) laid beside the offering. So for three days the dead are feasted.

At sunset, pine torches, fixed in the ground before each home, are kindled to guide the spirit-visitors. Sometimes, also, on the first evening of the Bommatsuri, welcome-fires (mukaebi) are lighted along the shore of the sea or lake or river by which the village or city is situated—neither more nor less than one hundred and eight fires; this number having some mystic signification in the philosophy of Buddhism. And charming lanterns are suspended each night at the entrances of homes -the Lanterns of the Festival of the Dead—lanterns of special forms and colours, beautifully painted with suggestions of landscape and shapes of flowers, and always decorated with a peculiar fringe of paper streamers.

Also, on the same night, those who have dead friends go to the cemeteries and make offerings there, and pray, and burn incense, and pour out water for the ghosts. Flowers are placed there in the bamboo vases set beside each haka, and lanterns are lighted and hung up before the tombs, but these lanterns have no designs upon them.

At sunset on the evening of the 15th only the offerings called Segaki are made in the temples. Then are fed the ghosts of the Circle of Penance, called Gakido, the place of hungry spirits; and then also are fed by the priests those ghosts having no other friends among the living to care for them. Very, very small these offerings are—like the offerings to the gods.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (一)

 

       第五章 盆市にて

 

       一

 

 丁度午後五時過ぎだ。夕嵐が立つて、私の書齋の開いた戸から吹込んで、卓上の書類を 亂し始めた。それから、日本の太陽の白熱光も薄い琥珀色になりかけて、日中の暑さが終はつたことを告げた。碧空に一片の雲もない――この世界中最も淸淨靈妙な空には、極めて乾燥の天候に於でも、絹の如き浮滓の幽靈とも見ゆる、美しい白い纎維のやうなものが、いつも浮遊してゐるのであるが、今日はそれさへ見えない。

 戸の處に不意に影が差した。佛教の靑年學生の晃が敷居に立つて、室に入らんとして白い足から草履を脱ぎ、地藏の如く微笑してゐた。

 『やあ、今晩は、晃君』

 『今夜盆市が開かれますが、御覽になりますか?』と、晃は蓮座の佛陀の如く床に坐つて云つた。

 『晃君、私はこの國のものは何でも見たいのだ。が、盆市は何んなやうなものです?』

 晃は答へた。「盆市は死んだ人々のお祭に要る一切の品物を買る市場です。そのお祭は明晩から始まります。寺々の佛壇、善良な佛教信者の家々の厨子が、皆飾られるのです』

 『それでは是非盆市を見たい。また家庭の佛壇をも見たいものだ』

 『承知致しました。私の室へお出で下さいませんか?』と晃が聞いた。『それは遠くはありません。石川町を越えて、永久町に近い、老人町です。そこには佛間があります。して、途中で盆供養のことをお話申上げませう』

 かやうにして、始めてこれから次に書かうとする事どもを教へられた。

 

[やぶちゃん注:次の章の冒頭で分かるが、この盆市は旧暦で行われている。従って、これは旧暦七月十三日よりも前と考えるべきであろうと考えている。実際に横浜では現在でも旧暦で盂蘭盆を行う習慣が旧家には残っているとも聴くからである。因みに明治二三(一八九〇)年の旧暦の七月十二日は新暦八月二十七日水曜日、参考までに同年の新暦八月十五日金曜日は旧暦では未だ六月三十日である。その後、私はこの日程推定には無理があることが判って来た。何故というに、実はハーンが松江に到着したのは八月三十日(土曜)であることが知れたからである。さればここは素直に新暦の八月十二日(火曜)以前と考えざるを得ないことになった。

「浮滓」「ふし」と読み、浮遊する白っぽい綿のような塵芥を指す言葉と考えるが、ハーンの来日が四月四日でここまでは総て横浜市内での行動であることから考えると、彼が不思議に浮遊するゴーストリーな、霊的な、魂のような白っぽい微かな綿のようなものというのは、ヤナギ科ヤナギ属の柳類の種子である綿毛であろう(熟した種子はこの附帯する綿毛とともに風に乗って飛散して分布を広げる)。この綿毛が降るように飛ぶ様は漢詩にも「柳絮(りゅうじょ)」として出、お馴染みである。タンポポの綿毛でもよいのだが、だったらハーンは知っていて、また、同じく知っている英語圏の読者向けにもそう書くはずである。そう書かなかったのは如何にももっと違った形、人玉のようにふうわりしたものだったからに違いないと私は考えるのである。

「石川町」現在の横浜市中区石川町。現行の行政上の町は中村川に沿って字(あざ)一丁目から五丁目で形成されている。元町・山手町・打越・南区中村町、中村川を挟んで吉浜町・松影町。寿町・長者町と隣接しているが、実はこの前年である明治二二(一八八九)年の市町村制施行によって横浜市に編入されたばかりであった(ずっと後であるが、昭和一〇(一九三五)年には町界町名整理の際に石川仲町を併合している)。現在は昭和三九(一九六四)年に根岸線が開通して「石川町駅」が設置され、お洒落な元町商店街や中華街に向う一ルートとして繁華な市街という印象が強烈であるが、駅のなかった当時は、山手や元町への通り道としての石川町、特に一丁目付近((駅の元町口は石川町二丁目で、そこから商店街へ向かった凡そ九十メートルの一から商店街入り口の元町交差点を北側とし、山手トンネルの東側上の山手五十番館辺りまでのやや南北に長い町)はそれまで非常に寂しい町外れであった。後で「老人町」(私は翁町(現行では「おきなちょう」と読む)のことと推定する)が出るので、試みに現在の石川町駅が『周辺には女子校が多く、女子中高生の利用が多いため「乙女駅」の異名がある』ことも偶然とは言え、面白いので言い添えておく(引用部を含めて主にウィキ町駅等を参照した)。

「永久町」不詳。但し、前後の町名同定が正しいとすれば、その間にある「永久」に近似した町名とすれば、旧「ドヤ街」の名で知られる「寿町(ことぶきちょう)」がある。ここか?

「老人町」翁町(おきなちょう)のことと思われる(実は底本てい国立国会図書館近代デジタルライブラリ部分画像を視認すると、大昔の不届き者――恐らく鈍愚な職業的翻訳家であろうと思われる――がこの右に鉛筆で『オキナ』、左手に『翁』と勝手に書き込みをしている(!)のが判るのである)。現行の横浜市中区翁町はJRの関内駅の東南手前から西南に細長く延び、線路を挟んだ反対側が横浜スタジアム、西北が横浜体育館を有する不老町、東南が扇町、南西で伊勢佐木長者町に接する。]

 

 

Chapter Five At the Market of the Dead

 

Sec. 1

IT is just past five o'clock in the afternoon. Through the open door of my little study the rising breeze of evening is beginning to disturb the papers on my desk, and the white fire of the Japanese sun is taking that pale amber tone which tells that the heat of the day is over. There is not a cloud in the blue—not even one of those beautiful white filamentary things, like ghosts of silken floss, which usually swim in this most ethereal of earthly skies even in the driest weather.

A sudden shadow at the door. Akira, the young Buddhist student, stands at the threshold slipping his white feet out of his sandal-thongs preparatory to entering, and smiling like the god Jizo.

'Ah! komban, Akira.'

'To-night,' says Akira, seating himself upon the floor in the posture of Buddha upon the Lotus, 'the Bon-ichi will be held. Perhaps you would like to see it?'

'Oh, Akira, all things in this country I should like to see. But tell me, I pray you; unto what may the Bon-ichi be likened?'

'The Bon-ichi,' answers Akira, 'is a market at which will be sold all things required for the Festival of the Dead; and the Festival of the Dead will begin to-morrow, when all the altars of the temples and all the shrines in the homes of good Buddhists will be made beautiful.'

'Then I want to see the Bon-ichi, Akira, and I should also like to see a

Buddhist shrine—a household shrine.'

'Yes, will you come to my room?' asks Akira. 'It is not far—in the Street of the Aged Men, beyond the Street of the Stony River, and near to the Street Everlasting. There is a butsuma there—a household shrine -and on the way I will tell you about the Bonku.'

So, for the first time, I learn those things—which I am now about to write.

2015/08/24

長女藪野マリア満29歳

今日は長女藪野マリアの満29歳の誕生日であった。
マリア、誕生日、おめでとう! Maria 彼女の頭の後ろ、遠い昔の僕の書斎の本棚にある黒々としたものは――ルイ・フェルディナン・セリーヌの全集……   彼女の誕生日は1986年8月24日…… これは鎌倉の古美術商から僕の所へ養女に来た日である。と言っても無論、買ったもので、当時のボーナスの半分以上が消えたんである。 シモン&ハルビック社製ビスクドール。 ヘッドNo.1909。 因みに、よく、欲しいから是非売ってくれとという人がいるのだけれど……この人形、遠い昔に昔の教え子に僕の遺品として贈ると約束した。 だから悪いけれど、誰にもあげないよ……   因みに、彼女の美しい金髪はこれ――総て一人の西洋の少女の人毛製である……   写真のドレスの他に、オリジナルのステキな刺繡が施された純白の着せ替え用のワン・ピース附――因みに附言しておくと、俳優で人形師としても有名な四谷シモン氏の「シモン」という名は、実にこの尊敬する人形師に由来するんである――

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (九) / 第三章~了

 

       九

 

 晃は壁間の棚から、餘程破損せる靑表紙の本を取つて云った。『に地藏の和讃があります。讃美歌のやうなものです。これは二百年も古い「賽ノ河原口吟(くちずさみ)の傳(でん)」といふ本です。して、これが和讃です』それから、彼は歌の如く拍子を取って、私にそれを讀んで聞かせた――

 

         是は此世のことならず

         死出の山路の裾野なる

         賽ノ河原のものがたり

         聞くにつけても哀なり

         二つや三つや四つ五つ

         十にも足らねみどり兒が

         賽ノ河原に集りて

         父戀し母戀し

         戀し戀しと泣く聲は

         この世の聲とはこと變はり

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

         ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 

[やぶちゃん注:piicats 氏の膨大な仏教サイト「仏教の勉強室」の中の地蔵和讃に、ここで不完全に途注を省略して抄録されている(ハーンの注でさえも不完全である)「西の川原(賽の河原)地蔵和讃」の全文が示されてあるので、是非お読みあれかし。因みに平井呈一氏は原典に対する誠実な忠実性を示して(但し、ご覧の通り、全文を平仮名化してある。しかし和讃としてはこれはこれで頗る正しいと私は思っている)、以下のように訳しておられる。リンク先の原典と以下の原文と是非、比較されんことを(恒文社版底本原文は全体が三字下げポイント落ちの二段組であるが、意図的に同ポイント一段で示した。歴史的仮名遣の誤りが異様に多いが、拗音も含めて表記は総てママである)。

   《引用開始》

 

  さいのかわらのじぞうそん

 

これはこのよのことならず

しでのやまじのすそのなる

さいのかわらのものがたり

きくにつけてもあわれなり

二つや三つや四つ五つ

十にもならぬみどりごが

さいのかわらにあつまりて

ちちうえこいしははこいし

こいしこいしとなくこえは

このよのこえとことかわり

かなしさほねをとおすなり

かのみどりごのしょさとして

かわらのいしをとりあつめ

これにてえこうのとうをつむ

一じゅうつんではちちのため

二じゅうつんではははのため

三じゅうつんではふるさとの

きょうだいわがみとえこうして

ひるはひとりであそべども

ひもいりあいのそのころは

じごくのおにがあらわれて

やれなんじらはなにをする

しゃばにのこりしちちははは

ついぜんざぜんのつとめなく

ただあけくれのなげきには

むごやかなしやふびんやと

おやのなげきはなんじらが

くげんをうくるたねとなる

われをうらむることなかれ

くろがねぼうをとりのべて

つみたるとうをおしくずす

そのときのうけのじぞうそん

ゆるぎいでさせたまいつつ

なんじらいのちみじかくて

めいどのたびにきたるなり

しゃばとめいどはほどとおし

われをめいどのちちははと

おもうてあけくれたのめよと

おさなきものをみころもの

もすそのうちにかきいれて

あわれみたもうぞありがたき

いまだあゆまぬみどりごを

しゃくじょうのえにとりつかせ

にんにくじひのみはだえに

いだきかかえてなでさすり

あわれみたもうぞありがたき

      なむあみだぶつ

   《引用終了》

因みに、個人的にはこの章句の内の「ついぜんざぜんのつとめなく」の「ざぜん」は「さぜん」(作善)の誤りと思うであるが如何? 実際、ネット上に散見される伝空也上人作「西院河原地蔵和讃」の別ヴァージョンではここは「追善作善(ついぜんさぜん)の勧めなく」などとなっている。空也の時代に「追善坐禪」というのはどうもしっくりこないのである(リンク先でも当該類似箇所は『追善供養のその暇に』とあって、『供養』ならば私個人としては頗るしっくり来るのである)。大方の御叱正を俟つ。]

 

 

Sec. 9

'Now there is a wasan of Jizo,' says Akira, taking from a shelf in the temple alcove some much-worn, blue-covered Japanese book. 'A wasan is what you would call a hymn or psalm. This book is two hundred years old: it is called Saino-Kawara-kuchi-zu-sami-no-den, which is, literally, "The Legend of the Humming of the Sai-no-Kawara." And this is the wasan'; and he reads me the hymn of Jizo—the legend of the murmur of the little ghosts, the legend of the humming of the Sai-no-Kawara- rhythmically, like a song: [8]

  'Not of this world is the story of sorrow.

  The story of the Sai-no-Kawara,

  At the roots of the Mountain of Shide;

  Not of this world is the tale; yet 'tis most pitiful to hear.

  For together in the Sai-no-Kawara are assembled

  Children of tender age in multitude,

  Infants but two or three years old,

  Infants of four or five, infants of less than ten:

  In the Sai-no-Kawara are they gathered together.

  And the voice of their longing for their parents,

  The voice of their crying for their mothers and their fathers—

  "Chichi koishi! haha koishi!"—

  Is never as the voice of the crying of children in this world,

  But a crying so pitiful to hear

  That the sound of it would pierce through flesh and bone.

  And sorrowful indeed the task which they perform—

  Gathering the stones of the bed of the river,

  Therewith to heap the tower of prayers.

  Saying prayers for the happiness of father, they heap the first tower;

  Saying prayers for the happiness of mother, they heap the second tower;

  Saying prayers for their brothers, their sisters, and all whom they

      loved at home, they heap the third tower.

  Such, by day, are their pitiful diversions.

  But ever as the sun begins to sink below the horizon,

  Then do the Oni, the demons of the hells, appear,

  And say to them—"What is this that you do here?

  "Lo! your parents still living in the Shaba-world

  "Take no thought of pious offering or holy work

  "They do nought but mourn for you from the morning unto the evening.

  "Oh, how pitiful! alas! how unmerciful!

  "Verily the cause of the pains that you suffer

  "Is only the mourning, the lamentation of your parents."

  And saying also, "Blame never us!"

  The demons cast down the heaped-up towers,

  They dash the stones down with their clubs of iron.

  But lo! the teacher Jizo appears.

  All gently he comes, and says to the weeping infants:—

  "Be not afraid, dears! be never fearful!

  "Poor little souls, your lives were brief indeed!

  "Too soon you were forced to make the weary journey to the Meido,

  "The long journey to the region of the dead!

  "Trust to me! I am your father and mother in the Meido,

  "Father of all children in the region of the dead."

  And he folds the skirt of his shining robe about them;

  So graciously takes he pity on the infants.

  To those who cannot walk he stretches forth his strong shakujo;

  And he pets the little ones, caresses them, takes them to his loving bosom

  So graciously he takes pity on the infants.

Namu Amida Butsu!

 

8 These first ten lines of the original will illustrate the measure of the wasan:

  Kore wa konoyo no koto narazu,

  Shide no yamaji no suso no naru,

  Sai-no-Kawara no monogatari

  Kiku ni tsuketemo aware nari

  Futatsu-ya, mitsu-ya, yotsu, itsutsu,

  To nimo taranu midorigo ga

  Sai-no-Kawara ni atsumari te,

  Chichi koishi! haha koishi!

  Koishi! koishi! to naku koe wa

  Konoyo no koe towa ko to kawari..

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (八)

 

       八

 寺は小さく、淸らかで、障子を廣く開けた中へ、明るい光がさし込んでゐた。晃は僧侶達とよほどの識り合ひに相違ない。彼等の挨拶が非常に慇懃だ。私は少しの寄進をして、晃は私共の訪問の目的を告げた。すると、私共は建物の一方の翼にある、明るい大きな室で、可愛らしい庭園を見おろす處へ招ぜられら。座布團が運ばれ、煙草盆が出され、また八寸許今の高さの漆塗りの小机が据ゑられた。して、一人の僧が押入れを開けて、掛物を探す内に、今一人の僧が茶と一皿の菓子を進めた。菓子は砂糖と米の粉を煉り合はせて作つた、種々の美しい形のものから成る珍しい糖菓であつた。一つの形は菊花そのまゝで、今一りは蓮華の形、その他のものは面白い意匠――飛んでゐる鳥、水を渉つてゐる鶴、魚類、小型の風景さヘ――を現した、大きな琢い薄紅色の菱形であつた。晃は菊花を挾み取つて私に食べるやう強ひた。私はかゝる美麗なものを傷めるのを痛惜しつゝ、砂糖の花瓣を一片づゝ壞はし始めた。

[やぶちゃん注:落雁様の干菓子であろうか。]

 やがて四幅の掛物が持出され、擴げて、壁上の懸釘から吊るされた。して、私共は立つて眺めた。

 非常に美しい掛物で、線畫と色彩の奇蹟である。日本藝術の最盛期の色なる和らいだ色を呈してゐる。餘程の大幅で、高さ優に五尺、幅三尺以上、絹本である。

[やぶちゃん注:「五尺」凡そ一メートル五十一・五センチメートル。

「三尺」九〇・九センチメートル。]

 掛物り畫譚は次の通りである。

 第一の掛物は――

 畫の上部には、私共が現世と呼ぶ人間の世界「娑婆」の一場面がある――墓地に花の咲いた樹木があり、哀悼者が墓前に跪いてゐる。空はすべて柔かな靑い光の日本日和。

 下部は幽冥界で、地殼の中を亡靈が降つて行く。墨のやうに暗い中を眞白く飛んでゐる。もつと先きの方では、氣味惡い薄明りの中で、三途の川の流を徒渉してゐる。右の方に待受けてゐるのが、相貌凄く、灰色で夢魔の如く丈高い、三途の老婆である。彼女に衣服を奪はれてゐるのもあつて、先きにこゝへ來た亡靈どもの衣類が、その邊の樹木に重げにかかつてゐる。

[やぶちゃん注:「重げ」はママ、「おもたげ」と訓じておく。]

 更に下の方では、逃げて行く亡靈が惡鬼に追ひつかれてゐる。怖しい血の如き赤鬼で、獅子のやうな足と、半ば人間の顏、半ば牛の顏を有ち、怒れる『人身牛首(ミノトール 譯者註)の怪物』の形相である、一つの鬼は亡靈を寸斷に裂いて居る。今一つの鬼は、亡靈どもを驅り立てて、馬や犬や豚に、化身させてゐる。して、かやうに化身したものは、暗影の中へ飛んで逃げる。

    譯者註 希臘神話の怪物。

[やぶちゃん注:「人身牛首」の含む原文一文は“Farther down I see fleeing souls overtaken by demons—hideous blood-red demons, with feet like lions, with faces half human, half bovine, the physiognomy of minotaurs in fury.”。当該語句は“the physiognomy of minotaurs in fury”で、「怒れる」が最後の形容部で、辞書を見る限りでは英文法上は、不定冠詞を伴って“in a fury”の方が一般的で正しく、そうでなければ行儀の良過ぎる冠詞を使いたくないならば、“like fury”若しくは“with fury”(但し、孰れも口語的表現である)として、本邦の「烈火の如く怒って」の意となる。“minotaurs”はギリシャ神話に登場する牛頭人身、悪の権化としてしばしば象徴されるところの残酷無惨神ミノタウロス(ラテン語:Minotaurus)の英語転写“Minotaur”の複数形である(ミノタウロス/ミノトールは通常、一体の奇形神に対する固有単数名詞であるが、牛頭馬頭の獄卒どもは地獄に無数に居るので、ここでの複数形は頗る正しいという点に注意されたい)。ミノタウロス神系譜上では便宜上、クレタ島のミノス王の妻パシパエーの子とされるが、実際には、ミノス王が後で返すという約束でポセイドンに願って神への生贄とするための「美しい白い牡牛」(一説では黄金とも)を得るものの、こ牡牛が余りに美しいが故に夢中になったミノス王はポセイドンとの約定を破ってこれを生贄として捧げることなく、代わりの贋の牡牛を生贄として捧げて本物の白い牡牛は己が物としてしまう。これを知ったポセイドンは激怒し、ミノスの最愛の后(きさき)パシパエーの方に呪いをかけ、彼女は白い牡牛に性的な欲望を抱くようにさせてしまう。自己の性欲を制御出来なくなったパシパエーは創作神ダイダロス(大工土木の守り神として知られる)に命じ、実物大の牡牛の模型を作らせた上で自らそのレプリカの中へと裸体のままで入り、遂に雄牛との性行為に及んだ。その結果としてパシパエーが産み落としたのがおぞましき牛頭人身のミノタウロスであった。奇形神であった。ミノタウロスはミノス王によってクレタ島に建造された「ラビュリントス」(「迷宮」の濫觴)に幽閉されてはいたものの、当時、ミノス王によって支配されていたアテナイ(現在のアテネ)には、ミノス王から毎年それぞれ七人の若者と乙女をこのミノタウロスに対して生贄として指し出すことが厳命されていた。以下、ウィキの「テーセウス」によれば、このおぞましい事実を知った怖いもの知らずの科学特捜隊みたような怪物退治の専門家青年であったテセウスは、このミノタウロス退治のためにクレタ島に自ら生贄を志願、ラビュリントスへの侵入にまんまと成功する。しかし『ミーノータウロスが幽閉されている』このラビュリントスは名工ダイダロスによって築かれた文字通りの『脱出不可能と言われる迷宮であった。しかし、ミーノース王の娘アリアドネーがテーセウスに恋をしてしまい、彼女はテーセウスを助けるため、彼に赤い麻糸の鞠と短剣をこっそり手渡した。テーセウスはアリアドネーからもらった毬の麻糸の端を入口の扉に結び付け、糸を少しずつ伸ばしながら、他の生贄たちと共に迷宮の奥へと進んでいった。そして一行はついにミーノータウロスと遭遇した。皆がその恐ろしい姿を見て震える中、テーセウスはひとり勇敢にミーノータウロスと対峙し、アリアドネーからもらった短剣で見事これを討ち果たした。その後、テーセウスの一行は糸を逆にたどって、無事にラビリントスの外へ脱出する事ができた。テーセウスはアリアドネーを妻にすると約束し、ミーノース王の追手から逃れてアテーナイへ戻るために、アリアドネーと共に急いでクレータ島から出港した』のであった。『しかし、彼は帰路の途中、ナクソス島に寄った際に、アリアドネーと離別してしまった。これは、アリアドネーに一目惚れしたディオニューソス(バックス/バッカス)が彼女をレームノス島に攫ってしまったために、行方が分からなくなり、止むを得ず船を出港させたとも、薄情なテーセウスがアリアドネーに飽きたため、彼女を置き去りにしたとも言われている』。『テーセウスは生贄の一人としてクレータ島へ向かう時、無事クレータ島から脱出できた場合には喜びを表す印として船に白い帆を掲げて帰還すると父王アイゲウスに約束していた。しかし、テーセウスはこの約束を忘れてしまい、出航時の黒い帆のまま帰還した。これを見たアイゲウスは、テーセウスがミーノータウロスに殺されたものと勘違いし、絶望のあまり海へ身を投げて死んだ。その後、アイゲウスが身を投げた海は、彼の名にちなんでエーゲ海と呼ばれるようになった』とある。因みに、ウィキの「ミーノータウロス」には別に『ダンテの『神曲』では「地獄篇」に登場し、地獄の第六圏である異端者の地獄においてあらゆる異端者を痛めつける役割を持つ』断罪神として描かれ、『この怪物の起源はかつてクレーテー島で行われた祭りに起源を求めるとする説があり、その祭りの内容は牛の仮面を被った祭司が舞い踊り、何頭もの牛が辺り一帯を駆け巡るというもので、中でもその牛達の上を少年少女達が飛び越えるというイベントが人気であった。また、古代のクレーテー島では実際に人間と牛が交わるという儀式があったとされる』ともあって頗る興味深い。因みに、高校時代に読んだ受験用の英語表現書に小泉八雲は英語を習う日本人に対して、「日本人は現在の英語圏では最早使うことも少なく、しかも相手に理解し難くなっている難語(一語で或る性質状態を示すところの長ったらしくて如何にも覚え難い古式の英単語)を殊更に崇拝する悪い癖がある」と批判していたという記載を読んだことがある。二十代の頃、半期留学で勤務校に来たオーストラリアの美少女(アニタと言った)に日本語を少し教えたことがあったが、彼女がガッチガチの当時の高校のグラマーの授業を受けて一言、「こんなものは今の国際英語の実践上に於いては何の役にも立ちません」と笑いながら一蹴したのを思い出した。正しい英文法よりも正しく相手に「烈火の如く怒っている」様を伝えることこそが生きた言語の正しい使い方であろう。]

 第二の掛物は――

 潛水者が深海で見るやうな暗く靑白い薄明かり。その眞中に黑檀色の王座、その土に憐憫のない怖ろしい、死者の王、亡靈の判官なる閣魔が坐つて、周圍には武裝せる鬼が、番兵として徘徊してゐる。王座の下の前方、左方に當つて、靈魂の狀態と世の中の一切の出來事を反映する、不思議なたばりの鏡が立つてゐる。今しも鏡面には、ある風景の影が射してゐる。絶壁と沙濱と海が見え、沖には船がある。沙濱の上に刀で斬り殺された死人が倒れてゐて、殺戮者は逃しつゝある、この鏡の前に、鬼に摑まれて恐怖戰慄せる亡靈がゐる。鬼は亡靈に迫つて、否應なしに顏を上げて、鏡面の殺戮者を見て、自身の顏であることを認めさせる。王座の右に當つて、寺院で供物を載せるさうな、高い脚のついた、扁平な臺の上に、奇異なものが見える。新しく斬つた兩面の顏のある頭を、斷餘の頸の上に眞直に立てたやうだ。二つの顏は證人で、『視る目』といふ女の顏は、娑婆で行はれる一切萬事を見、『嗅ぐ鼻』といふ髯男の顏は、一切の臭氣を嗅いで、人間の所業を知るのである。その側の文机の上に、一大書册が開かれてあるのは、所業の記錄帳である。して、鏡と證人の間に、戰慄せる白い亡靈が審判を待つてゐる。

[やぶちゃん注:「たばりの鏡」浄玻璃(じょうはり)の鏡のこととしか思えないが、「たばり」という呼称は私は初耳である(しかし確かに“Tabarino-Kagami”とある)。「日本国語大辞典」を縦覧しても今一つピンとくる類語は見当たらない。是非とも識者の御教授を乞うものであるが、私は実は、これは日本語の「じやうはりのかがみ」(Jyauharino-Kagami)をローマ字転写する際に単に誤って綴ってしまったか、アメリカの植字工が発音不能の「Jyauharino」を勝手に「J」を「T」の誤り、「Jyau」という不気味な呪言のような綴りの「y」「u」を意味不明の誤字とし、しかも悪筆であった「h」を校正者が勝手に「b」と読み違えて出来上がったトンデモ語である可能性もあるやに思われるのである。大方の御批判を俟つ。]

 もつと下の方には、最早宣告を受けた亡靈の苫痛を甞めてゐるのが見える。娑婆で虛言者であつたものが熱した釘拔で鬼に舌を拔かれてゐる。他の亡靈どもは、數十となく火の車に抛り込まれて、苛責の場所へ引かれて行く。車は鐡製であるが、形狀は通常跣の日本の勞働者が街頭で『ハイダ、ヘー、ハイダ、ヘー』と、同一の哀れげな、折返へしの言葉む交互に發し乍ら、引いたり押したりする荷車に似てゐる。しかし、眞裸かで、血の色をして、獅子の足と牛の頭分有てる、是等の鬼の車夫共は、火炎の車を人力車夫の如くに引いて走る。

[やぶちゃん注:「抛り込まれて」老婆心乍ら、「抛(はふ)り込まれて」(ほうりこまれて)と読む。]

 以上の亡靈は、皆成人のであつた。

 第三の掛物は――

 亡靈を燒く爐火が、暗黑の空へ燃え上つてゐる。鬼が鐡捧で火をかきまぜる。暗黑の上空から、眞倒さまに他の亡靈が炎の中へ墜ちてくる。

 この光景の下に、漠然たる風景が擴つてゐる――淡靑淡灰色の山や谷の連つた處を賽ノ河原が迂曲してゐる。靑白い川の堤に群がつた子供の亡靈が、石を積上げようとしてゐる。非常に綺麗な子供達で、実際の日本の子供等の如く綺麗である。(日本の畫家が、いかにもよく子供の美を感じ、旦つ現すのは驚くばかりだ)子供は銘々、短い小さな白衣をつけてゐる。

[やぶちゃん注:「白衣」老婆心乍ら、ここは「びやくえ(びゃくえ)」と読みたい。]

 前面に、鐡棒を持つた恐ろしい鬼が、今しも一人の子供の築いた石の山を打ち碎いて散らしてゐる。小さな亡靈は、その廢墟の邊に坐つて、綺麗な兩手を眼に當てて泣いてゐる。鬼は嘲笑してゐるらしい。他の子供等らも傍で泣いてゐる。が、そこへ輝いて美しい地藏が、大きな滿月のやうな後光を照らし乍ら來て、錫杖――強い神聖の錫杖――を伸ばす。すると、子供等はそれを捉へ、それにすがり附いて、地藏の保護圈内へ引入れられる。それから、他の幼兒どもは地藏の大きな袖を摑む。また地藏の胸まで抱き揚げられるのもある。

 この賽ノ河原の場面の下に、別に冥界の竹林がある。たゞ女の白衣の姿が、その中に見えるだけだ。女達は泣いてゐて、指先から血が出でてゐる。彼等は爪をもぎ取られた指で、綠の鋭い竹の葉を永遠に摘んで行かねばならぬ。

[やぶちゃん注:この竹林の女達の絵は私は実際には見たことがない。私の偏愛する「地獄草紙」も再度点検してみたが、ない。ところがネットでpansy
氏のブログ「悠遊・楽感雑記帳」の「今日は地獄の釜が開く日です。」という二〇一四年一月十六日附日記
に、『川崎市中原区・安楽寺(中原区下小田中)に於いて、年2回公開される「六道地獄絵」の絵解きに参加しました』と始まる文章の中、地獄の一パート・セレクションの竹林で泣く裸体の女性群像の絵があり、その解説に、『火車に乗せられ、自分の髪の毛で竹林の根を掘る女性達』の亡者というのがある。恐らくはこれであろう。「往生要集」辺りに出るか? 目の前に同書はあるが、前頭葉が探すことを拒否している。その内、典拠を探し当てて、その独自の地獄の名(私の経験上、こういう独特の「地獄」には必ず固有の地獄名があるものなのである)もお知らせ出来ればと思っている。]

 第四の掛物――

 光耀の中に浮んだ大日如來、觀音、阿彌陀佛。それから地獄と極樂が隔たるほど遙かの下方に亡靈の浮んだ血の池が波立つ。池畔の絶壁には、鮫の齒の如く、密に刀身が林立してゐる。鬼は裸の亡靈をこの刀劍の山へ追ひ上げる。が、赤い池から麗はしく淸らかな噴水のやうに、一種の透明なものが出でる――一莖の花――不思議な蓮華が――一個の亡靈をもたげて、崖端に立てる僧の足許へ出す。僧の祈念の功德によつて、この蓮華が現れて、苫しめるものを救ひ上げたのである。

 惜しいこと!もはや掛物はこれだけである。まだ他に數幅あつたが、逸失したのだ。

 否、それは幸にも誤であつた。寺僧は或る隱れた隅から、更に一つの大きな掛軸を發見して、それを展べて、他のものと並べて吊るした。更に一幅の美景!が、これは信仰又は亡靈と、何の關係がある?前景は洋々たる一大碧湖に沿つた庭園――神奈川にある庭園の如く濕布、洞窟、燕子花の池、石に刻んだ橋、雪のやうな花樹、靜かな靑池の上に突き出でた瀟洒な亭など、美しい山水の小景に富んでゐる。背景には、輝いて柔かな雲の長い帶が棚引いてゐて、その上の方には、夏の蒸氣の如く輝いた靄の中から、屋根の上に屋根が重つて、不思議に華麗な、夢の如く輕い、靑い宮殿が泛んでゐる。庭園には客――可愛らしい日本少女――が遊んで居る。が、彼等は後光を帶びてゐる。彼等は幽冥界の女達である。

[やぶちゃん注:「燕子花」これは、

単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata

の漢訳の異名を指すが、私は実は本当に江戸時代までの日本人が――というよりも現代の日本人でさえもが、

アヤメ属アヤメ Iris sanguinea(綾目)

アヤメ属ハナショウブ(花菖蒲)Iris ensata var. ensata

 (但し、「菖蒲」と書いて「あやめ」と読ませる例が古代より異様に多い)

本種カキツバタIris laevigata

 (杜若/本邦での漢字表記ではこちらが一般的)

の三種を真に識別している或いは識別出来るかどうかについては甚だ疑いを持っている。従って、ここでハーンや晃や坊主がそれを正しく花の中に井の字に見える綾目模様がなく、しかもすんなりと長く伸びた葉の中肋(ちゅうろく)が存在しない真正のカキツバタであると認識しているかどうかを激しく疑っていることを表明しておく。そもそもが実際、そうした種としての識別比定は菖蒲類の好事家や近代以降の植物学者のみに必要な知識ではあった。しかし、小学生でも誰でもすぐに覚えられるので紹介しておく。

 まず、花を真上から覗いてみよう。

 綾目模様があれば、それ一発で「アヤメ」である。

 それがなければ、次に葉を手で触れてみよう

 触ってみて、葉の中央部分に明らかにゴリっとした葉を有意に支持する硬い筋目があれば、それは「ハナショウブ」である。

 葉に、そうした筋(植物学では「中肋」という)が全くなく、支持力を凡そ感じさせないただの視認出来る筋が、ほぼ均等に葉に平衡してあって、葉全体が弱々しくペランとしていれば、それはカキツバタなのである。

 因みに以上の比定法は高校二年の時、植物フリークの化学の先生が授業の脱線中に教えてく呉れた識別法――有機化学は今一つ好きになれず、遂に私の人生に於いて化学の授業でただ一つだけ有益な智となった法――である。

   *

「泛んでゐる」老婆心乍ら、「うかんでいる」と訓読する。]

 といふのは、こゝは極樂なのだ。是等の神々しい姿のものは、菩薩である。して、もつと近寄つて見てから、私は初め氣が付かなかつた美しい奇異なものを認めた。

 是等の美しい菩薩どもは、園藝を營みつゝあるのだ!蓮華の蕾を撫でさすり、何とも知れぬ天土界のものを花瓣に灑いで、花の開くやう手傳つてゐる。して、また何といふ蓮の蕾!色はこの世のものでない。蕾の破れたのもある。その輝いた花瓣の、黎明の如き光耀の中に、小さな裸の幼兒達が各々小さな後光を帶びて坐してる。是等は亡靈が新たに佛となつたので、極樂に生まれた佛である。非常に小さいのもある。大きいのもある。皆目に見えて成長して行くらしい。それは彼等の愛らしい乳母は、一種の神仙の食物を以て彼等を養育するからである。ある一人、蓮華の搖籃から立出で、地藏に導かれて、遙かにかなたの一層華麗な城へ行くのが見える。

 最も上方の蒼空に、佛教天國の天使、鳳凰の翼ある少女、所謂天人が浮んでゐる。その一人は、舞妓が三味線を奏でる如く、或る絃樂器を象牙の撥で奏でてゐる。他のものは、今猶ほ大寺院の聖樂に用ひる十七管の唐笛を鳴らしてゐる。

[やぶちゃん注:「十七管の唐笛」とあるから、これは現在では主に雅楽に用いられる和楽器である笙(しょう)であろう。ウィキの「笙」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『日本には奈良時代ごろに雅楽とともに伝わってきたと考えられている。雅楽で用いられる笙は、その形を翼を立てて休んでいる鳳凰に見立てられ、鳳笙(ほうしょう)とも呼ばれる。匏(ふくべ)と呼ばれる部分の上に十七本の細い竹管を円形に配置し、竹管に空けられた指穴を押さえ、匏の横側に空けられた吹口より息を吸ったり吐いたりして、十七本のうち十五本の竹管の下部に付けられた金属製の簧(した:リード)を振動させて音を出す。
音程は簧の固有振動数によって決定し、竹管で共鳴させて発音する。パイプオルガンのリード管と同じ原理である。いくつかの竹管には屏上(びょうじょう)と呼ばれる長方形の穴があり、共鳴管としての管長は全長ではなくこの穴で決まる。そのため見かけの竹管の長さと音程の並びは一致しない。屏上は表の場合と裏の場合があるが、表の場合は装飾が施されている。指穴を押さえていない管で音が出ないのは、共鳴しない位置に指穴が開けられているためである。
ハーモニカと異なり、吸っても吹いても同じ音が出せるので、他の吹奏楽器のような息継ぎが不要であり、同じ音をずっと鳴らし続けることも出来る(呼吸を替える時に瞬間的に音量が低下するのみ)。押さえる穴の組み合わせを変えることで十一種類の合竹(あいたけ)と呼ばれる和音を出すことができる。通常は基本の合竹による奏法が中心であるが、調子、音取、催馬楽、朗詠では一竹(いっちく:単音で旋律を奏すること)や特殊な合竹も用いる。
その音色は天から差し込む光を表すといわれている』。『構造上、呼気によって内部が結露しやすく、そのまま演奏し続けると簧に水滴が付いて音高が狂い、やがて音そのものが出なくなる。そのため、火鉢やコンロなどで演奏前や間に楽器を暖めることが必要である』。『現代では雅楽だけでなく、クラシック音楽の作曲家によって管弦楽や室内楽のなかで、あるいは声楽の伴奏楽器として活用されることもある』。『笙よ一オクターブ低い音域が鳴る竽(う)という楽器もある。これは雅楽の伝統では一度断絶したものの、正倉院の宝物等を参考に、戦後になって復元された楽器の一つである。現代において蘇演(復曲)された作品や、新作の現代雅楽、例えば黛敏郎の「昭和天平楽」などで用いられている』。『中国には北京語でション
shēng、広東語で「サン」いう、同じ「笙」の字を書く楽器がある。これは笙より大型で、音域は日本の笙の倍以上あり、素早い動きにも対応している。もともと奈良時代に日本に伝わった時点では、日本の笙もパイプのような吹き口が付属していたが、現在ではそれをはずし、直接胴に口をあてて演奏する形に変わっている』とし、また、ラオス・タイ王国の北東部ではこの笙と同じ原理のケーン呼ばれる類似楽器があり、『一説では、これが中国の笙の原型であると言われる』ともある。]

 晃はこの極樂は餘り下界に似てゐると云った。庭園は極樂の蓮華あるにも拘らず、寺院の庭園のやうであるし、宮殿の靑い屋根は西京のお茶屋を想出させると彼は斷言した。

 が、結局如何なる信仰の天國も、幸福なる經驗の理想的反覆と、延長に外ならぬではない?――往日の夢を私共のために復活させ、永遠的にしたものではない?若しこの日本の理想は餘に簡單、あまりに初心(うぶ)であつて、天國の光景を描くには、日本の庭園や寺院やお茶屋に於ける經驗よりも、もつと適はしい物質作活の經驗があると云ふ人があらば、それは、その人が日本の優美な靑空、その柔かな水の色、その晴れた日の穩かな輝き、その何とも云へぬ魅惑的な内地――そこでは些細な物品でも、製作したのでなくて、愛撫の餘、發生せしめたのだといふ美感を與へる――を知らぬからであらう。 

 

Sec.8

The temple is small, neat, luminous with the sun pouring into its widely opened shoji; and Akira must know the priests well, so affable their greeting is. I make a little offering, and Akira explains the purpose of our visit. Thereupon we are invited into a large bright apartment in a wing of the building, overlooking a lovely garden. Little cushions are placed on the floor for us to sit upon; and a smoking-box is brought in, and a tiny lacquered table about eight inches high. And while one of the priests opens a cupboard, or alcove with doors, to find the kakemono, another brings us tea, and a plate of curious confectionery consisting of various pretty objects made of a paste of sugar and rice flour. One is a perfect model of a chrysanthemum blossom; another is a lotus; others are simply large, thin, crimson lozenges bearing admirable designs—flying birds, wading storks, fish, even miniature landscapes. Akira picks out the chrysanthemum, and insists that I shall eat it; and I begin to demolish the sugary blossom, petal by petal, feeling all the while an acute remorse for spoiling so beautiful a thing.

Meanwhile four kakemono have been brought forth, unrolled, and suspended from pegs upon the wall; and we rise to examine them.

They are very, very beautiful kakemono, miracles of drawing and of colour-subdued colour, the colour of the best period of Japanese art; and they are very large,
fully five feet long and more than three broad, mounted upon silk. 

And these are the legends of them:

First kakemono:

In the upper part of the painting is a scene from the Shaba, the world of men which we are wont to call the Real—a cemetery with trees in blossom, and mourners kneeling before tombs. All under the soft blue light of Japanese day. 

Underneath is the world of ghosts. Down through the earth-crust souls are descending. Here they are flitting all white through inky darknesses; here farther on, through weird twilight, they are wading the flood of the phantom River of the Three Roads, Sanzu-no-Kawa. And here on the right is waiting for them Sodzu-Baba, the Old Woman of the Three Roads, ghastly and grey, and tall as a nightmare. From some she is taking their garments;—the trees about her are heavily hung with the garments of others gone before.

Farther down I see fleeing souls overtaken by demons—hideous blood-red demons, with feet like lions, with faces half human, half bovine, the physiognomy of
minotaurs in fury. One is rending a soul asunder. Another demon is forcing souls to reincarnate themselves in bodies of horses, of dogs, of swine. And as they are thus reincarnated they flee away into shadow.

Second kakemono:

Such a gloom as the diver sees in deep-sea water, a lurid twilight. In the midst a throne, ebon-coloured, and upon it an awful figure seated— Emma Dai-O, Lord of Death and Judge of Souls, unpitying, tremendous. Frightful guardian spirits hover about him—armed goblins. On the left, in the foreground below the throne,
stands the wondrous Mirror, Tabarino-Kagami, reflecting the state of souls and all the happenings of the world. A landscape now shadows its surface,—
a landscape of cliffs and sand and sea, with ships in the offing. Upon the sand a dead man is lying, slain by a sword slash; the murderer is running away. Before
this mirror a terrified soul stands, in the grasp of a demon, who compels him to look, and to recognise in the murderer's features his own face. To the right of the throne, upon a tall-stemmed flat stand, such as offerings to the gods are placed upon in the temples, a monstrous shape appears, like a double-faced head freshly cut off, and set upright upon the stump of the neck. The two faces are the Witnesses: the face of the Woman (Mirume) sees all that goes on in the Shaba; the other face is the face of a bearded man, the face of Kaguhana, who smells all odours, and by them is aware of all that human beings do. Close to them, upon a reading-stand, a great book is open, the record-book of deeds. And between the Mirror and the Witnesses white shuddering souls await judgment.

Farther down I see the sufferings of souls already sentenced. One, in lifetime a liar, is having his tongue torn out by a demon armed with heated pincers. Other
souls, flung by scores into fiery carts, are being dragged away to torment. The carts are of iron, but resemble in form certain hand-wagons which one sees every day being pulled and pushed through the streets by bare-limbed Japanese labourers, chanting always the same melancholy alternating chorus, Haidak! hei!
haidah hei! But these demon-wagoners—naked, blood-coloured, having the feet of lions and the heads of bulls—move with their flaming wagons at a run, like
jinricksha-men.

All the souls so far represented are souls of adults.

Third kakemono:

A furnace, with souls for fuel, blazing up into darkness. Demons stir the fire with poles of iron. Down through the upper blackness other souls are falling head downward into the flames.

Below this scene opens a shadowy landscape—a faint-blue and faint-grey world of hills and vales, through which a river serpentines—the Sai- no-Kawara. Thronging the banks of the pale river are ghosts of little children, trying to pile up stones. They are very, very pretty, the child-souls, pretty as real Japanese
children are (it is astonishing how well is child-beauty felt and expressed by the artists of Japan). Each child has one little short white dress.

In the foreground a horrible devil with an iron club has just dashed down and scattered a pile of stones built by one of the children. The little ghost, seated by the ruin of its work, is crying, with both pretty hands to its eyes. The devil appears to sneer. Other children also are weeping near by. But, lo! Jizo comes, all light and sweetness, with a glory moving behind him like a great full moon; and he holds out his shakujo, his strong and holy staff, and the little ghosts catch it and cling to it, and are drawn into the circle of his protection. And other infants have caught his great sleeves, and one has been lifted to the bosom of the god.

Below this Sai-no-Kawara scene appears yet another shadow-world, a wilderness of bamboos! Only white-robed shapes of women appear in it. They are weeping; the fingers of all are bleeding. With finger-nails plucked out must they continue through centuries to pick the sharp-edged bamboo-grass.

Fourth kakemono:

Floating in glory, Dai-Nichi-Nyorai, Kwannon-Sama, Amida Buddha. Far below them as hell from heaven surges a lake of blood, in which souls float. The shores of this lake are precipices studded with sword-blades thickly set as teeth in the jaws of a shark; and demons are driving naked ghosts up the frightful slopes. But out of the crimson lake something crystalline rises, like a beautiful, clear water-spout; the stem of a flower,—a miraculous lotus, hearing up a soul to the feet of a priest standing above the verge of the abyss. By virtue of his prayer was shaped the lotus which thus lifted up and saved a sufferer.

Alas! there are no other kakemonos. There were several others: they have been lost!

No: I am happily mistaken; the priest has found, in some mysterious recess, one more kakemono, a very large one, which he unrolls and suspends beside the
others. A vision of beauty, indeed! but what has this to do with faith or ghosts? In the foreground a garden by the waters of the sea, of some vast blue lake,—a garden like that at Kanagawa, full of exquisite miniature landscape-work: cascades, grottoes, lily-ponds, carved bridges, and trees snowy with blossom, and dainty pavilions out-jutting over the placid azure water. Long, bright, soft bands of clouds swim athwart the background. Beyond and above them rises a fairy magnificence of palatial structures, roof above roof, through an aureate haze like summer vapour: creations aerial, blue, light as dreams. And there are guests in these gardens, lovely beings, Japanese maidens. But they wear aureoles, star-shining: they are spirits! 

For this is Paradise, the Gokuraku; and all those divine shapes are Bosatsu. And now, looking closer, I perceive beautiful weird things which at first escaped
my notice.

They are gardening, these charming beings!—they are caressing the lotus-buds, sprinkling their petals with something celestial, helping them to blossom. And
what lotus-buds with colours not of this world. Some have burst open; and in their luminous hearts, in a radiance like that of dawn, tiny naked infants are seated, each with a tiny halo. These are Souls, new Buddhas, hotoke born into bliss. Some are very, very small; others larger; all seem to be growing visibly, for their lovely nurses are feeding them with something ambrosial. I see one which has left its lotus-cradle, being conducted by a celestial Jizo toward the higher splendours far away.

Above, in the loftiest blue, are floating tennin, angels of the Buddhist heaven, maidens with phoenix wings. One is playing with an ivory plectrum upon some
stringed instrument, just as a dancing-girl plays her samisen; and others are sounding those curious Chinese flutes, composed of seventeen tubes, which are used still in sacred concerts at the great temples.

Akira says this heaven is too much like earth. The gardens, he declares, are like the gardens of temples, in spite of the celestial lotus- flowers; and in the blue
roofs of the celestial mansions he discovers memories of the tea-houses of the city of Saikyo. [7]

Well, what after all is the heaven of any faith but ideal reiteration and prolongation of happy experiences remembered—the dream of dead days resurrected for us, and made eternal? And if you think this Japanese ideal too simple, too naive, if you say there are experiences of the material life more worthy of portrayal in a picture of heaven than any memory of days passed in Japanese gardens and temples and tea- houses, it is perhaps because you do not know Japan, the soft, sweet blue of its sky, the tender colour of its waters, the gentle splendour of its sunny days, the exquisite charm of its interiors, where the least object appeals to one's sense of beauty with the air of something not made, but caressed, into existence.

7 Literally 'Western Capital,'—modern name of Kyoto, ancient residence of the emperors. The name 'Tokyo,' on the other hand, signifies 'Eastern Capital.'

 

 

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (七)

 

       

 

 『地藏のこと、賽ノ河原の子供の靈魂のことを、話してくれ玉へ、晃君』

 『もう澤山は話することが御座いません』と、晃は私のこの面白い佛に對する興味を笑ひ乍ら答へた。「しかし、久保山へ御一緒に參りまして、そこの或る寺にある、賽ノ河原と地藏と靈魂の審判の繪を御目にかけませう』

 そこで私共は二臺の人力車を連ねて、久保山の琳琳寺へ向つた。狹い、種々の色を帶びた日本の町を一哩、それから兩側には庭園が並んで、その刈込んだ生籬の後ろには、柳枝細工の籠のやうに瀟洒な住宅が見える綺麗な郊外を半哩、走つてから、車を捨てて徒多で、迂曲した路を經て綠丘に上り、野や畠を越え、暑い日の下を長いこと歩いてから、殆ど社寺ばかりの或る村に着いた。

[やぶちゃん注:「久保山の琳光寺」現在の横須賀線保土ヶ谷駅から東北に直線で約八百十三メートルの丘陵上にある久保山墓地及びその複数管理寺院の一つである臨済宗建長寺派林光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のことであろう。「横浜市史」によれば、明治二二(一八八九)年五月に、ここに伽藍を建て、その竣工を俟つて、翌二十三年三月に野毛から移転している。ハーンの来日は同年四月四日である。

「二哩」+「半哩」凡そ三・二二+〇・八=四・八二キロメートル。但し、旧居留地(グランド・ホテル前)から墓地入口までを最短距離を実測してみると、五キロメートル強は確実にあるから、最後、徒歩で二、三百メートルは歩いたものと考えられる。]

 

 境内とは離れて三個の建物が一つの竹垣に圍まれた靈所は、眞言宗に屬する。入口の右に當つて、小さな開放した堂が先づ私共の目についた。それは駐棺所で、一個の日本式棺架があつた。が、殆ど門と相對して、驚くべき諸像を載せた壇があつた。

[やぶちゃん注:「眞言宗」不審。久保山墓地の南西外に真言宗大聖院があるが、これは昭和二八(一九五三)年に野毛から移転したものだから違う。後に廃寺となったか、或いはハーンの聴き違いかも知れない。]

 忽ち注意を惹いたのは、多くの小像の上に聳ゆる、滿面朱色の怖ろしい像――洞穴の如き巨眼を有つ惡鬼であつた。廣く開いた口は怒つて物を言つてるやうで、激しく眉を蹙めてゐる。赤色の長髯が、赤色の胸に垂れてゐる。頭に被つた異樣の帽は、黑と金色で、三葉の寄異な裂片がある。左片には月の形、右片に日の形をつけ、中央の片は眞黑である。が、その下の深く金緣をとつた黑紐に、王といふ意を示す神祕的の文字が輝いてゐる。また、この帽紐の下端の左右兩角から、金塗りの笏の形のものが二つ突出してゐる。この王は片手に更に大きな笏を持つてゐる。それから晃が説明した。

 『これは冥界の主、靈魂の判官、死者の王なる閣魔王です。怖しげな顏を日本では「閻魔のやうな顏」と申します』

 

    註 梵語の閻摩王(ラマラージヤ)。

    しかし、印度思想は日木の佛教によ

    つて、全然變化してゐる。

[やぶちゃん注:ウィキの「閻魔」によれば、サンスクリット語及びパーリ語の「ヤマ」の音訳であり、「ヤマラージャ」(「ラージャ」は「王」の意味)とも言う。音訳は「閻魔羅闍(えんまらじゃ)」、意訳は「閻魔大王」、略して「閻羅王(えんらおう)」或いは単に「閻(えん)」とも呼ぶ。但し、おどろおどろしい響きや目視印象の強い「閻魔」とは、縛・雙世・雙王・静息・遮止・平等などと和訳されるとあり、「縛」は罪人を捕縛するの意、「雙世」は彼が在世中に常に苦楽二様の報いを受けた意、「雙王」は兄と妹一対で二人並び立った王であったの意、また「平等」は罪人を平等に裁く、との意からの和訳とある。ここではハーンの理解を慮ったものか、少なくともここまで、閻魔王が仏教やヒンドゥー教などに於ける地獄や冥界の主宰王として死者の生前の罪を裁く神であるものの、日本仏教では速やかに習合されてしまって、こともあろうにハーンの偏愛する地蔵菩薩の化身とされているという、驚天動地の本地垂迹的伝承に就いては、晃は一切話していない様子で、私はすこぶる面白いと感じている。]

 

 その右には、白い地藏樣が多瓣の紅蓮の上に立つてゐた。

 左には、老婆の像があつた。幽界を流れる三途川の堤畔で、亡者の衣を奪ひ取る、凄い三途の老婆である。衣は靑白く、髮も皮膚も白く、顏は異樣に皺がよつて、細い鋭い眼は險しい。像は頗る古く、彩色が處々剝げて、蒼然たる癩病人の態を呈してゐる。

[やぶちゃん注:ここで語られるのは「奪衣婆(だつえば)」である。『三途川(葬頭河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる』。また、『俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあ』り、『江戸時代末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の百日咳に効き目があるといわれた。東京都世田谷区の宗円寺』、『新宿区の正受院が奪衣婆を祀る寺として知られる。正受院の奪衣婆尊は、咳が治ると綿が奉納され、像に綿がかぶせられたことから「綿のおばあさん」「綿のおばば」などとも呼ばれた』ともある。

「癩病人」今や差別用語であるから、ハンセン病患者と読み替えられたい。]

 また海の女神の辨天と觀音樣の美しく彩色を施した像が、珍らしい排置の小規模な山水頂上に坐つてゐる。この風景が納めてある堂の前面に沿つて、強い金網を張つて、不注意な指觸りを拒いである。辨天は八本の腕を有つて、二本は合掌祈願、他は高く揚げて種種の物――刀劍、車輪、弓矢、鎖鑰[やぶちゃん注:「さやく」。錠と鍵。]、魔力の寳玉――を持つてゐる。彼女の玉座の下、山の傾斜面には長い衣をつけた十人の侍女が、祈願の態度で立つてゐる。更に下方には白の大蛇が胴體を露はし、一つの岩孔から尾を垂れ、他の岩孔から頭を出してゐる。山麓には辛棒強い牛が臥てゐる。觀音は千手觀音で、彼女の無數の慈悲の手から、種々の贈物を捧げてゐる。

 が、これを私共は見ようとて來たのではない。地獄極樂の繪が、すぐ近くの禪宗の寺で私共を待つてゐる。そこへ私共は足を向けた。

[やぶちゃん注:先の林光寺ととっておく。]

 途中で私の案内者は、次の話をした。

 『人が死ぬると、死體を洗ひ、髮を剃り、巡禮姿の白衣を着せるのです。それから、頭のまはりへ三衣袋を掛け、三厘の錢を入れます。この錢は死體と共に葬るのです。

 『その譯は、亡者はすべて、子供の外、三途の川で三厘を拂はねばなりません。亡靈がその川へ達すると、葬頭婆が待つてゐます。この女は夫の天達婆と共に、その川の土手の邊に住んでゐまして、もし三厘を貰はないと、亡者の着物を剝いで木にかけるのです』

 

    註 葬式及びそれに關聯せる信仰は、
    日本の各所で餘程異る。東國のと西南
    諸國のとは異つてゐる。棺中へ貴重品
    ――婦人には金屬製の鏡とか、武士に
    は刀劍など――を納める古風は、今で
    は殆ど廢れた。しかし、棺へ錢を入れ
    る習慣は、依然として行はれる。出雲
    では金額が六厘で、六道錢(ろくだう
    がね)と呼んでゐる。

 

 

Sec. 7

'Oh, Akira! you must tell me something more about Jizo, and the ghosts of the children in the Sai-no-Kawara.' 'I cannot tell you much more,' answers Akira, smiling at my interest in this charming divinity; 'but if you will come with me now to Kuboyama, I will show you, in one of the temples there, pictures of the Sai-no-Kawara and of Jizo, and the Judgment of Souls.'

So we take our way in two jinricksha to the Temple Rinko-ji, on Kuboyama. We roll swiftly through a mile of many-coloured narrow Japanese streets; then through a half-mile of pretty suburban ways, lined with gardens, behind whose clipped hedges are homes light and dainty as cages of wicker-work; and then, leaving our vehicles, we ascend green hills on foot by winding paths, and traverse a region of fields and farms. After a long walk in the hot sun we reach a village almost wholly composed of shrines and temples.

The outlying sacred place—three buildings in one enclosure of bamboo fences—belongs to the Shingon sect. A small open shrine, to the left of the entrance, first attracts us. It is a dead-house: a Japanese bier is there. But almost opposite the doorway is an altar covered with startling images.

What immediately rivets the attention is a terrible figure, all vermilion red, towering above many smaller images—a goblin shape with immense cavernous eyes. His mouth is widely opened as if speaking in wrath, and his brows frown terribly. A long red beard descends upon his red breast. And on his head is a strangely shaped crown, a crown of black and gold, having three singular lobes: the left lobe bearing an image of the moon; the right, an image of the sun; the central lobe is all black. But below it, upon the deep gold-rimmed black band, flames the mystic character signifying KING. Also, from the same crown-band protrude at descending angles, to left and right, two gilded sceptre- shaped objects. In one hand the King holds an object similar of form, but larger his shaku or regal wand. And Akira explains.

This is Emma-O, Lord of Shadows, Judge of Souls, King of the Dead.' [5]

Of any man having a terrible countenance the Japanese are wont to say,

'His face is the face of Emma.'

At his right hand white Jizo-Sama stands upon a many-petalled rosy lotus.

At his left is the image of an aged woman—weird Sodzu-Baba, she who takes the garments of the dead away by the banks of the River of the Three Roads, which flows through the phantom-world. Pale blue her robe is; her hair and skin are white; her face is strangely wrinkled; her small, keen eyes are hard. The statue is very old, and the paint is scaling from it in places, so as to lend it a ghastly leprous aspect.

There are also images of the Sea-goddess Benten and of Kwannon-Sama, seated on summits of mountains forming the upper part of miniature landscapes made of some unfamiliar composition, and beautifully coloured; the whole being protected from careless fingering by strong wire nettings stretched across the front of the little shrines containing the panorama. Benten has eight arms: two of her hands are joined in prayer; the others, extended above her, hold different objects -a sword, a wheel, a bow, an arrow, a key, and a magical gem. Below her, standing on the slopes of her mountain throne, are her ten robed attendants, all in the attitude of prayer; still farther down appears the body of a great white serpent, with its tail hanging from one orifice in the rocks, and its head emerging from another. At the very bottom of the hill lies a patient cow. Kwannon appears as Senjiu- Kwannon, offering gifts to men with all the multitude of her arms of mercy.

But this is not what we came to see. The pictures of heaven and hell await us in the Zen-Shu temple close by, whither we turn our steps.

On the way my guide tells me this:

'When one dies the body is washed and shaven, and attired in white, in the garments of a pilgrim. And a wallet (sanyabukkero), like the wallet of a Buddhist pilgrim, is hung about the neck of the dead; and in this wallet are placed three rin. [6] And these coin are buried with the dead.

'For all who die must, except children, pay three rin at the Sanzu-no- Kawa, "The River of the Three Roads." When souls have reached that river, they find there the Old Woman of the Three Roads, Sodzu-Baba, waiting for them: she lives on the banks of that river, with her husband, Ten Datsu-Ba. And if the Old Woman is not paid the sum of three rin, she takes away the clothes of the dead, and hangs them upon the trees.'

 

5 In Sanscrit, 'Yama-Raja.' But the Indian conception has been totally transformed by Japanese Buddhism.

 

6 Funeral customs, as well as the beliefs connected with them, vary considerably in different parts of Japan. Those of the eastern provinces differ from those of the western and southern. The old practice of placing articles of value in the coffin—such as the metal mirror formerly buried with a woman, or the sword buried with a man of the Samurai caste—has become almost obsolete. But the custom of putting money in the coffin still prevails: in Izumo the amount is always six rin, and these are called Rokudo-kane, or 'The Money for the Six Roads.'

 

2015/08/23

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十一章 瀬戸内海(全)

 

 第二十一章 瀬戸内海

 

 我々は八月十日、京都を後にして瀬戸内海へ向った。途中大阪で二日を送ったが、ここで我々は、陶器と絵画を探っているフェノロサ、有賀両氏と落ち合った。河上でお祭り騒ぎが行われつつあったので、ドクタアは大きな舟をやとい、舞妓、食物、花火その他を積み込んだ。我々はグリノウ氏も招いた。それは大層楽しい一夜で、河は陽気な光景を呈した。遊山船は美しく建造され、底は広くて楽に坐れ、完全に乾いている。そしてゆっくりと前後に行きかう何百という愉快な集団、三味線と琴の音、歌い声と笑い声、無数の色あざやかな提灯(ちょうちん)、それ等は容易に記憶から消えさらぬ場面をつくり出していた。米国の都邑の殆どすべてに、河か入江か池か湖水かがある。何故米国人は、同様な祭日を楽しむことが出来ないのであろうか。だが、水上に於るこのような集合は、行儀のいい国でのみ可能なことではある。

[やぶちゃん注:以前にも少し記したが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースは陶器の窯や名匠らとの邂逅、さらに現実的要請としての陶磁器蒐集のため、『京都には訪ねるべき場所が山ほどあった。しかし、それを後回しにした一行は十日に京都を出て、大阪で二日を過ごしたのち、小さな汽船で瀬戸内海を広島へ向う。広島でも陶器あさりをしたモースは、ここでフェノロサおよび有賀と別れ、八月十吾にビゲローとともに和船で岩国に向け出発。ここから先はかつてのモースの教え子、田原栄が通訳の役目を果たした。田原はのち東京専門学校(現早稲田大学)で理科を教えた人である』とある。

「河上でお祭り騒ぎが行われつつあった」祭り嫌いの私には不詳。現行の八月十日・十一日に行われている「法善寺横丁まつり」のことか? 識者の御教授を乞う。因みに、大阪でのモースの具体的な動向は良く知られていないらしい。]

 

 我々は朝の五時、小さな汽船で、安芸国の広島に向って、京都を立った。我々は汽船の一方の舷側に、かなり大きな一部屋を、我々だけで占領した。この船は日本人の体格に合わせて建造されたので、船室や通路が極めて低く、我々は動き廻る度ごとに、間断なく頭をぶつけた。航海中の大部分を我我は甲板で、美しい景色に感心した。午後六時広島の沖合に着き、我々を待っていた小舟に乗りうつって、一時間ばかり漕いで行ったというよりも、舟夫たちはその殆ど全部を、浅い水に棹さして、河の入口まで舟をはこばせた。それは幅の広い、浅い河で、我々は堂々と積み上げた橋の下を、いくつかぬけて、ゆっくりと進んで行った。両岸には、多く黒塗りの土蔵をのせたしっかりした石垣が並んでいた。まだ早いのだが、あまり人影は見えず、灯も僅かで、河上の交通は無い。この外観は我々に、非常な圧迫的な、憂欝な感を与えた。大阪の商業的活動と、この陰気な場所との対照は、極端なものであった。これは人口十万人の都会である。而もその人々は、虎列刺(コレラ)が猖獗を極めているからでもあろうが、みんな死んで了ったかの如くである。

[やぶちゃん注:「我々は朝の五時、小さな汽船で、安芸国の広島に向って、京都を立った」の「京都」には底本では直下に石川氏による『〔?〕』という意味が齟齬してよく意味が解らないことを意味する割注が入る。前段の私の注を参照。但し、ここはモースがメモ類や日記などを参考にしながら、かなり自由に書いている感じがあり、その際、単純に時間と場所に齟齬が生じたものと私は考えている。

「人口十万人の都会」広島市公式サイト内の記載に明治二一(一八八八年)四月の市制町村制公布があり、翌二二(一八八九)年四月一日に広島は全国で最初の市の一つとして市制を施行したとあり、その時の面積は約二十七平方キロメートル・戸数は二万三千八百二十四戸・人口は八万三千三百八十七人であったとある。広島県公式サイトでは、この明治二三(一八九〇)年十二月三十一日時点での広島県の実質総人口に近い推定値(各県の入出寄留者の差数を各県別の入出寄留者数の比で各県に按分修正して算出し、それによって統計的補正を加えたという現住推計人口を言う「現住人口 (乙種)」数値)は百三十一万八千三百人で全国四十二位であったともある。これから考えると、モースの明治十五年段階での人口十万人というのはどう見ても大ドンブリとしか思われない。]

 

 我々は旅館を見出すのにとまどった。あすこがいいと勧められて来た旅館は、虎列刺で主人を失ったばかりなのである。で我々は飢えた胃袋と疲れた身体とを待ちあぐみながら、黒色の建物の長い行列と、背の高い凄味を帯びた橋と、いたる所を支配する死の如き沈黙とに、極度に抑圧されて、一時間ばかり舟中に坐っていた。最後に我々を泊めてくれる旅館が見つかったので、河を下り、対岸に渡って、その旅館の裏手ともいうべき所へ上陸した。荷物を持ち出し、石段を上って、長い、暗い、狭い小路を歩いて行くと、我々はいまだかつて経験しなかった程小じんまりした、最も清潔な旅館に着いた。フェノロサと有賀とは、西洋料理店があることを聞き、我々を残して彼等がよりよき食物であろうと考えるものを食いに行ったが、ドクタアと私とは、運を天にまかせて日本食を取ることにし、実に上等の晩飯にありついた。

 

 翌朝私は早くから、古い陶器店をあさりに出かけた。旅館の日本人の一人が私の探求に興味を持ち、親切にも私を、私が求める品を持っていそうな商人のすべてへ、案内してくれた。彼はまた商人達に向って、彼等が集め得るものを持って、私に見せるために旅館へ来いといった。その結果、その日一日中、よい物、悪い物、どっちつかずの物を持った商人の洪水が、我々の部屋へ流れ込んだ。前夜の、所謂西洋料理に呆れ果てたフェノロサは、広島と、これから行こうとする宮島及び岩国に対する興味をすべて失って了い、有賀と一緒に大阪と京都とへ向けて引き返した。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『大阪で二日を過ごしたのち、小さな汽船で瀬戸内海を広島へ向う。広島でも陶器あさりをしたモースは、ここでフェノロサおよび有賀と別れ、八月十日にビゲローとともに和船で岩国に向け出発。ここから先はかつてのモースの教え子、田原栄が通訳の役目を果たした。田原はのち東京専門学校(現早稲田大学)で理科を教えた人である』とし、『モースは今回日本に来てまもなく、元岩国藩主吉川経建(きっかわつねたけ)』(「吉川経健」が正しく、「第十九章 一八八二年の日本 石人形」や前章の「第二十章 陸路京都へ 箱根峠越え」に登場する。それらの私の注を参照されたい)『の東京の邸宅に招かれたことがあった。その吉川の世話で、岩国の多田窯』(多田焼は岩国藩の藩窯として栄えた焼き物で元禄一三(一七〇〇)年に当時の藩主(年代からは第五代領主吉川広逵(ひろみち)である)が京都から陶工を招いて多田の住人に陶技を伝授させたのが始まりとされる。白土に青磁釉がかかって表面に細い罅(貫入)が入るのを特徴とする。寛政年間に途絶えてしまったが、第二次世界大戦後の昭和四七(一九七二)年に陶芸家田村雲溪の手によって多田焼の火が甦り、昭和五六(一九八一)年には美川町河山に登り窯を移転、現在が二代雲溪が窯を継承している)『の跡を尋ね、また多田の陶器そのほかを集めるために岩国を訪問したのである。モースはこのとき、その地にあったマニファクチュア的な紡績場も見学した。これは、維新後の藩士の生活を救うために吉川経建などが援助して建設したもので、ほかに製紙場と印刷工場も同じ目的でつくられたという。その紡績工場には、三〇名の男性と一〇〇人以上の女性がいたが、男性はみな元藩士で、袴(はかま)を着けて働いていたとある。女性はその子女であろうか。機械はすべて木製で、屈強な元武士二人が踏み車を踏んで機械に動力を与えていたなど、当時の模様をよく伝える』。『モースとビゲローは岩国から宮島をまわって広島に帰り、広島から汽船で神戸に戻った。モースが宿の部屋に所持金と懐中時計を残したまま遍間留守にしたが、金と時計に他人が手を触れたあともなかったという話を前に記したが、それはこの広島の宿でのことである』。『神戸に戻ったのは八月二十二日頃、その神戸で三日間過ごしたのちモースは大阪へ行き、ついで和歌山へ向った』とある。]

 

 八月十五日、ドクタア・ビゲロウと私とは、清潔な新造日本船にのって、瀬戸内海の旅に出た。旅館を退去する前に、ふと私は日本の戎克(ジャンク)なるものが、およそ世界中の船舶の中で、最も不安定なものであり、若し我々が海へ落ちるとしたら、私の懐中時計は駄目になって了うということを考えた。それに、岩国では日本人達のお客様になることになっているのだから、そう沢山金を持って行く必要も無い。そこで亭主に、私が帰る迄時計と金とをあずかってくれぬかと聞いたら、彼は快く承知した。召使いが一人、蓋の無い、洗い塗盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品を入れる物だといった。で、それ等を彼女が私に向って差出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いた儘で、出て行った。しばらくの間、私は、いう迄もないが彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。然し下女はかえって来ない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと質ねた。彼女は、ここに置いてもいいのですと答える。私は主人を呼んだ。彼もまた、ここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も、他の品物も持っていないのであるといった。未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂(かんぬき)も見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。

[やぶちゃん注:「八十ドル」は変動相場であるが、明治時代の相場の一つの指標とされる一ドル=二万円換算なら、実に百六十万円に相当する。それに金時計となれば、マワシ方によれば恐らく二百万円ぐらいにはなりそうな感じがする(!)。その場に私が居なくてよかった。私ならゼッタイ盗んでる。]

 

 我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。米国や英国の旅館の戸口にはってある、印刷した警告や訓警の注意書を思い出し、それをこの経験と比較する人は、いやでも日本人が生得正直であることを認めざるを待ない。而も私はこのような実例を、沢山挙げることが出来る。日本人が我国へ来て、柄杓が泉水飲場に鎖で取りつけられ、寒暖計が壁にねじでとめられ、靴拭いが階段に固着してあり、あらゆる旅館の内部では石鹸やタオルを盗むことを阻止する方法が講じてあるのを見たら、定めし面白がることであろう。

 

 閑話休題、我々の戎克には舟夫四人に男の子一人が乗組み、別に雑用をするために旅館から小僧が一人來た。我々は運よく、以前私が大学で教えた田原氏に働いて貰うことが出来た。彼は通訳として、我我と行を共にしたのである。時々風が落ちて、舟夫達は長い、不細工な櫓(ろ)で漕いだ。世界中で最も絵画的な、葉しい水路を、日本の戎克で航行するという経験は、まさに特異なものであった。船室の屋根の上に座を占めたドクタアが、如何にもうれしそうに楽々としているのを見て、私も実によろこばしかった。マニラ葉巻の一箱を横に、積み上げた薦(こも)によりかかった彼は、その位置を終日占領して、居眠りをするか、実に実しい変化に富んだ景色に感心するかであった。宮島を通過する時、田原氏は我々にこの島に関する多くの興味ある事実を物語った。我々は島の岸に大きな神社が、廊下の下に海水をたたえているのを見た。また海中からは、巨大な鳥居が、その底部を半ば潮にかくして立っていた。これ等はすべて、はじめは海岸を去る地点の島上に建てられたのである。この効果は素晴しい。島が、砂浜を除いては海中から垂直に聳え、相当な高さの山が甚だ嶮しく屹立しているからである。人は比較的新しい時代に於て、海岸線のこの低下を引き起した、途方もない震撼が、如何なるものであったかを考えることが出来る。沿岸いたる所に、人は隆起と低下のかかる証例を見受ける。

 

 晩方になると風が出た。舟はその風に吹かれて、やがて小さな漁村に着き、我々はそこで十時に上陸した。我々の主人役は、我々を出むかえる役の人をそこに終日いさせたので、彼はいく度もお辞儀して我々に挨拶し、一人ずつの為に車夫を二人つけた人力車を用意していた。荷物のことですこし暇取った後、我々はそこから数マイルはなれた、美しい谷間にある岩国へ向った。それはまことに気持のよい夜であった。すべての物が目新しく見えた。棕櫚(しゅろ)やサバル椰子(やし)は茂り、亜熱帯性の植物は香を放ち、車夫は狂人のように走り且つ叫んだ。一日中戎克の内に閉じこめられた後なので、実に気持よかった。それは忘れられぬ経験であった。

[やぶちゃん注:「数マイル」一マイルは凡そ一・六キロメートルであるから、九・六~十キロメートル強か。

「サバル椰子」狭義には単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科タリポットヤシ亜科タリポットヤシ(サバル)連サバル亜連サバル属サバル椰子 Sabal Adans を指すが、本当に本種であるかどうかはやや疑問な気がする。]

 

 我々が岩国の村へ入ると、人々はまだ起きていた。彼等が町に並び、そして私がそれ迄に見たことのないようなやり方で、我々をジロジロ見たところから察すると、彼等は我々を待ち受けていたものらしい。最後に外国人が来てから、七年になるという。群衆から念入りに凝視されると、感情の奇妙な混合を覚える。ある点で、これには誠に面喰う。あらゆる動作が監視されつつあることを知ると共に、吾人は我我の動作のある物が、凝視者にとって如何に馬鹿げているか、或は玄妙不可思議であるかに違いないと感じる。吾人は無関心を装うが、而も凝視されることによって、威厳と重要さとが我身に加ったことを自認する。我等は特に彼等の注意心を刺戟するような真似をする。一例として、我国の現代の婦人と同様に、日本人はポケットなるものを知らぬのだが、何かさがしてポケットを裏返しにしたり、又、如何にもうるさそうな身振をして、笑わせたり、時に自分自身が、愚にもつかぬ真似をしていることに気がつくが、而もそれは、冷静で自然であることを示すべく、努力している結果なのである。

 

 吉川氏の使者は我々を公でない旅館に案内した。ここは昔は、大名家の賓客に限って招かれ、そして世話された家なのであるが、今や我々のために開かれ、吉川家の宝物の中から美しい衝立やかけ物がはこばれて、我々が占めるべき部屋にかざられた。美味な夕餐が出た後、午前一時、我々は床についた。障子の間のすき聞から覗くと、大きな一軒の小屋がけに薄暗い光が満ち、芝居が行われつつあった。その他にも小屋が数軒見え、呼売商人が叫んでいたことから、私は何等の市か祭礼かがあることを知った。それ等の後と上とは、完全な闇であった。

[やぶちゃん注:「何等の市か祭礼かがあることを知った」不詳。次段の景観から見て錦帯橋の鵜飼か?]

 

 翌朝、障子を押し開いた我々の日に接した景色は、この上もなく美しいものであった。目の前は広い河床で、その底に丸い石や砂利は完全に姿を現し、その向うには絵画的な山が聳え、右にはあの有名な、筆や言葉では形容出来ぬ、彎曲した桁構(けたがまえ)の橋がある。朝飯が終ると、吉川家に雇れている各種の役人が、敬意を表しに来たが、その一人の三須氏は、吉川氏がここに設立した原始的な木綿工場の支配人で、古い木版画に見るような顔をした、昔の忠義な家来の完全な典型である。また吉川家の遠縁にあたる吉川氏は、万般の事務を見る人だが、ニコニコした気持のいい、最も愛想のよい顔をしていた。その他名前を覚え切れぬ多数の人が来たが、皆我々の気安さに甚大の注意を払ってくれた。彼等はいう迄もなく日本服を着ていたが、それは完全なものであった。事実、この訪問期間を通じて、我々は外国風なものは一切見なかった。若し彼等が帯刀していたら、我我は封建時代に於ると同様の日本を見たことになったのである。動作、習慣、礼譲……刀を除いてはすべて封建日本であった。そしてそれは田園詩の趣を持っていた。

 

 朝我々は町をあちらこちら、骨董屋を見て歩いた。正午正餐が終ると我々は屋根舟で、河上数マイルのところにある多田の窯の旧跡を見に連れて行かれた。これは百八十年前に出来たのだが、久しく廃れている。一人の男が舳に立って竿を使うと、別の一人が前方の水の中に入り、長い繩で舟を引く。そして我我は柔かい筵によっかかって、寒天菓子や砂糖菓子や生菓子やお茶の御馳走になるのであった。我々は早瀬をのぼり、何ともいえぬ程美しい景色の中を、暗い森林の驚く可き反影が細かく揺れる穏かな水面を、静に横切った。最後に、最も絵画的な場所で上陸すると、そこにはすでに数名の人が待っていて、我々に此上もなく丁寧なお辞儀を、何度もくり返した。すこし歩くと、窯の跡に出たが、今やまったく荒廃し、竹の密生で覆れている。ここの最後の陶工の一人であった老人が、我々に多田陶器とその製作順序とに就て話をし、しばらくあたりを見た後我々は一軒の家へ行き、そこで昼飯が出された。どうも二時間に一度位ずつ、正餐か昼飯かを御馳走になっているような気がする。この場所には多田、味名、亀甲等の標本があり、そのある物は我々に贈られ、他のものは機会があって私が買った。

[やぶちゃん注:「百八十年前」モースの訪れたのが明治一五(一八八二)年、伝承では多田窯創成は元禄一三(一七〇〇)年であるから百八十七年前となり、まず合致する。

「味名」焼き物或いは窯の名らしいが場所も形状も不詳。識者の御教授を乞う。

「亀甲」亀甲焼。現在の大阪市十三(じゅうそう)の焼き物で「吉向焼」とも呼ぶ。文久元(一八六一)年頃に吉向治兵衛が大阪の十三に開いた窯で、彼の通称であった亀次に因んで「亀甲焼」といったが、大阪寺社奉行水野から「吉向」を拝領したという。陶技・意匠に優れており、近世屈指の名工に数えられて後に江戸に移って文久元(一八六一)年に没した。五代目の時に二家に分かれて現行の東大阪市日下町の十三軒と、杖方市の松月軒がそれを継承するという(個人ブログ「娘への伝言」の全国の焼物一覧のこちらの記載に拠った)。]

 

 八時頃舟へ向った。屋根の辺には派手な色の提灯がさがり、我々は岩国へ向って速く、気持よく舟を走らせた。侍者達は我々の到着を待ち受けており、すぐ我々をある建物へ案内したが、そこでドクタアと私とは風致に富む小さな茶の部屋で行われた茶の湯の会に参加し、美味な粉茶を飲んだ。この儀式的なことが終ると我々は隣室で正餐の饗応を受けた。それが済むと、今度は地方劇場の一つへ行ったが、観客は劇その物よりも我々の方を余程面白い見世物と思ったらしく、老若男女を問わず、私がそれ迄日本で経験したことが無い仕方で我々を凝視し、そして我々の周囲に集った。最後に我々は、その一日の経験で疲れ切って寝床に入った。この日の経験はすべて新奇で気持よく、もてなし振り、礼譲、やさしい動作等で、我々に古い日本の生々とした概念を与えた。

 

 翌朝我々は、またしても忙しい日を送る可く、夙く起きた。十時、三須氏が、前に書いた木綿工場へ我々を案内するためにやって来た。将軍家がくつがえされた一八六八年の革命後、吉川公は東京に居を定めた。この地方の政府はミカドの復興に伴ういろいろな事件で混乱に陥り、家臣の非常な大多数が自力で生活しなければならなくなり、この大名の以前の隷属者達のために何等かの職業を見つける必要が起った。吉川公の家来であるところの紳士が数名、仲間同志で会社を組織し、そして紡績工場を建てた。この計画は吉川公も奨励し、多額な金をこの事業に投資した。今日では広い建物いくつかに、木綿布を製造するすべての機械が据つけてある。これ等は粗末な、原始的な、木造の機械ではあるが、而も皆、我国の紡績工場にある大きな機械に似ている。

 

 百人以上の女と三十人の男とが雇れているが、男が全部袴をはき、サムライ階級に属することを示している。糸以外にこの工場は、一年に十万ヤードに近い木綿布を産出する。二人の強そうなサムライが、踏み車を辛抱強く踏んで、機械のある部分に動力を与えているのは、面白かった。また外にある部屋には、ある機械を動かす装置があり、これもまたサムライが廻転していたが、彼等は、我々が覗き込むと席を下りて丁寧にお辞儀をした。事実、建物の一つの二階にある長い部屋を歩いて行くと、事務員が一人残らず――事務員は多数いた――我々にお辞儀をした。部屋のつきあたり迄行くと、そこには床の上に大きな絨氈(じゅうたん)が敷いてあり、我々にお茶が出た。そこで事務所に雇れている事務員その他四、五人ずつやって来て、我々が膝をついた位置にいたので、膝をついてお辞儀をした。我々が工場の庭に入った時から、工場を見廻っていた最中、人々は皆三須氏と我々とにお辞儀をしたが、三須氏が職工に対して如何にも丁寧で親切であるのは興味深く思われた。彼はドクタアの強力な郭大鏡を借りて職工達に、織物は郭大するとどんなに見えるかを示した。

[やぶちゃん注:「十万ヤード」九十一・四四キロメートル相当。]

 

 事務所の入口には、事務員、職工、従者等の名前がかけてあった。彼等は互助会を組織し、病人が山来た時に救うために少額の賦課を払う。我々をこの上もなく驚かしたのは、埃や油がまるで無いことであった。どの娘も清潔に、身ぎれいに見え、誰でも皆愉快そうで、この人達よりも幸福で清潔な人達は、私は見たことがない。ラスキンがこれを見たら、第七天国にいるような気がするだろう。

[やぶちゃん注:「ラスキン」十九世紀のイギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家であったジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)のことであろう。ラスキンには建築に対する基本的な考え方を示す「建築の七灯」という定言があるが、その七は「服従の灯」で――ここでモースが皮肉たっぷりに言っているのがそれを暗示する揶揄であるかどうかは別として、それは――建物とは英国国家やその文化及び信仰を体現するものでなくてはならない――というものであった。]

 

 このような興味ある経験の後、我々は大きな部屋へ招かれた。そこには職工全部が、クエーカー教徒の集会みたいに、娘達は部屋の一方側に、男達はその反対側に席を占めていたが、驚いたことには、私に田原氏を通訳として、一場の講演をしろというのである。私は蟻を主題に選んだ。黒板は無かったが、彼等は皆非常に興味を覚えたらしく見えた。私の以前の学生の山県氏もそこにおり、六角敷(むずかし)いところへ来ると手伝ってくれた。

[やぶちゃん注:「六角敷(むずかし)い」はママ。]

M665

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 それが終ると我々は、この建物の三階の、一種の展望台になっているところへ登った。ここからは川の谷と附近の素晴しい景色が見られる。あたりに椅子を置いた食卓から、気分を爽やかにするような正餐が供され、数人のハキハキした娘が、奇麗な着物を着てお給仕をしてくれた。また三人の美少年も同様に給仕したが、その一人は、前日私につききり、持っている扇子で屢々私を扇いだ。その日すでに二度食事をしたにかかわらず、正餐は誠に美味であった。まったく日本料理が何度でも食えることは、驚くばかりである。私は田原氏から、どこか遠くの方にいる有名な料理番が特に呼ばれ、そしてこの地方で出来る最上の材料が集められたのだと聞いた。食卓と皿との外見は、実に芸術的であった。殊にある皿は、その中央から樹齢四十年という美しい矮生の松が生え、また刺身を入れた皿は、その中央に最も優雅な木の葉の細工を持つ、長さ五フィートの竹の筏(いかだ)の上にのっていた。それ等は両方とも、漆塗の台で支えてあった。図665はそれ等を非常に乱暴に写生したものである。これは我々の送別宴で、この芸術的な、そして気持のいい事柄が行われた場所は、紡績工場の三階なのである!

[やぶちゃん注:「五フィート」約一・五メートル。]

 

 綿工場の外に製紙工場と、それに関係した印刷工場とがある。ここでは書物、冊子、その他印刷に関係のある仕事がすべて行われる。

 

 四時、我々は工場を退去し、数名の紳士に伴われて宿舎に帰った。そこには人力車が待っていたので、最後のさよならを告げた。白い木綿の大きな四角い包が我々の各々に贈られた。ドクタアは、岩国の有名な刀鍛冶がつくった、木の箱に入った刀を二振(ふり)手に入れ、私は数個の古い岩国陶器を貰った。我々は世話をしてくれた二十二人の人々に、僅かな贈物をすることが出来た。旅館の勘定をしてくれというと、それは既に支払ってあるとのことで、更に海岸までの人力車も、支払済みであった。事実、我々は文字通り、これ等のもてなし振りのいい人々の掌中にあったのである。その後、我々は吉川氏が、我々をむかえる準備のために、人を一人、東京から差しつかわしたことを知った。最後に我々は、何百というお辞儀に取りまかれて出発した。そして日本民族、殊に吉川公と、政治的の変化があったにもかかわらず、吉川公に昔と同じ忠誠をつくす彼の忠義な家来達に対する、圧倒的な感謝の念と愛情とを胸に抱いて、速に主要街路を走りぬけて田舎に出た我々を、好奇心の強い沢山の顔が、微笑を以て見送るのであった。

 

 気持よく人力車を走らせながら、牧場や稲田から静かに狭霧(さぎり)が立ちのぼり、暗色の葺屋根が白い霧に影絵のように浮び、その向うには黒い山脈が聳えるという、驚く可き空気的の効果の中で、我々は我々の顕著な経験を、精神的に消化した。海岸の小村に着くと、驚く可き庭園の中にある小さな茶店へ連れて行かれ、ここで茶菓の饗応を受け、最後に戎克に乗りうつるや、いくつかの箱に入った菓子箱が贈られた。

 

 次に我々はそこから十二マイル離れた、日本で最も絵画的で且つ美しい景色の一とされている宮島の村へ寄った。風がまるで無いので、舟夫達は十二マイルにわたって櫓を押した。香わしい南方的の空気の中で、甲板に坐って八月の流星を見ながら、我々が楽しんだ特異的な経験を思い浮べることは、まことに愉快であった。ある、特に美し流星は、私がドクタアの注意をそれに引いてからも、まだあきらかに姿を見せていた。

[やぶちゃん注:「十二マイル」凡そ十九・三メートル。]

 

 真夜中、宮島に着いた我々は、古めかしく静かな町々を通って、深い渓間にある旅館へ行き、間も無く床について眠た。翌朝(八月十七日)障子をあけた我々は、気持のよい驚きを感じた。目の前が、涼しくそして爽快な、美しくも野生味を帯びた谷なのである。鹿が自然の森林から出て来て、優しい目つきで我々を見た。その一匹は、我々の部屋の前のかこいの中にまで入って来て、西瓜の皮を私の手から食った。私は、これ等の鹿は一定の場所に閉じ込められ、餌馴されているのだろうと考えたが、数時間後町を歩いていると、そこにも彼等はいて、そして私は、彼等が幽閉されているのでもなければ、公園にいる標本でもなくて、山から下りて来たのであることを知った。換言すれば、彼等は一度も不親切に取扱われたことの無い、野生の鹿なのである。

M666

666

 

 有名な神社には、いろいろな画家の手になる絵で装飾した長い廻廊がある。絵の、ある物は非常に古く、その細部が部分的に時代による消滅をしているが、我々はそれ等を二時間もかかって調べた。古い竹根の形をした珍物や、六才の男の子が描いた興味の深い竹の絵や、目につく鹿の彫刻等もあり、その彫刻の一つには彫刻家が使用した鑿(のみ)がぶら下がっていた。神社は古さ七百年程、廊下の一つの近くに立っている石灯籠も七百年を経たものである。図666はそれである。谿谷に近い町には、家々に水を供給する、奇妙な構造の導水橋がある。我々の旅舎の近くにあるものの構造は、非常に原始的である。石を大きく四角に頼み上げたものの上に、これも大きな木造の水槽があり、その側面に開いている穴から出る水流が竹の導水管に流れ込むこと、図667に示す如くである。これらの導水管は、村の各家に達する地下の竹管に連っている。また別の谿谷では、竹の樋が水を遠距離にわたって導く。ある場所には、668に示すように、箱に入れた竹の水濾しが使用してあった。これ等各種の装置に依て、この上もなく清冽な山の清水の配給を受ける。

[やぶちゃん注:「七百年前」厳島神社の社伝によれば、同社は推古天皇元(ユリウス暦五百九十三)年に当地方の有力豪族であった佐伯鞍職(さえきのくらもと)が社殿造営の神託を受けて勅許を得、御笠浜に社殿を創建したことに始まるとされているから、この明治二三(一八九〇)年からだと千二百九十七年前、「七百年前」なら(一一九〇)年、文治六・建久元年となり、っこは旧主平家滅亡後も源氏を始めとして時の権力者の崇敬を受けているから、境内内建築物としては別におかしな感じはしない。]

M667

667

M668

668

 

 門を自動的に閉じる簡単な装置を図669で示す。上方の横木から錘(おもり)が下っていて、その重さによって門は常に閉じてあるが、人が入る時には、錘が数回、門にぶつかって音を立て、かくて門鈴の役もつとめる。村の主要街を自由にぶらつき廻る鹿が、ともすれば庭園内に入り込みやすいので、この装置をして彼等の侵入を防止する。

M669

669

 

 宮島は非常に神聖な場所とされているので、その落つきと平穏さとは、筆舌につくされぬ程である。この島にあっては、動物を殺すことが許されなかった。数年前までは、人間とてもここでは死ぬことが出来なかったそうである。以前は、人が死期に近づくと、可哀想にも小舟にのせられて、墓地のある本土へと連れて行かれた。若し、山を登っている人が偶然、血を流す程の怪我をしたとすると、血のこぼれた場所の地面は、かきとって、海中に投げ込まねばならなかった。これは召使いや木彫工や、店番や、その他どこにでもいるような村民が構成する村である。如何なる神秘に支配されて、彼等は行儀よく暮すのか? 何故子供達は、常にかくも善良なのか? 彼等は女性化されているのか? 否、彼等は兵士としては、世界に誇る可きものになる。

 

 私は小さな舟にのって、広島へ帰る可く本土へ渡った。ドクタアは、もう一晩宮島で泊ることにした。沿岸を航行する人は、石で出来た巨大な壁が数マイルにわたって連り、海上からは防波堤のように見えるものがあるのに気がつく。広島への帰途、その上を人力車で走るにいたって、我々は初めてこれ等の構造物が持つ遠大な性質、換言すれば意味が判った。百年も前に建てられたこれ等の壁は、海底を、農業上の目的に開墾するためのものなので、かくて回収した土地の広さは、驚く程である。沿岸は截(き)り立っていて山が高く、山の尾根が海から岬角(みさき)のようにつき出て、その間々に広い入江をなしている。壁はこれ等の岬角の先端から先端へと築かれ、かこい込んだ地域には土を入れて、今や豊饒な耕作地となっている。壁の上には広い路があり、そこを人力車で行くことは愉快であった。八時に広島へ着いた私は、いう迄もないが、先ず時計と金とを求めて私の部屋へ行ったが、それ等は前にもいったように、そのままでそこにあった。

 

 風邪を引いた上に、腹具合まで悪くなったので、翌日は終日床匠についていたが、骨董屋達が古い陶器を見せにやって来て、私は私の蒐集を大いに増大させた。通弁なしでも結構やって行ける。私は、日本中一人で旅行することも、躊躇しない気でいる。翌日ドクタアが到着して、群り来る商人相手に一日を送った。出かけるばかりの時になって我々は、商人達が大きな舟を仕立て、五マイル向うの汽船まで我我を送り度いといっていることを知った。舟にのって見て、これはとばかり驚いた。それは見事な遊山船で、芸者、立派な昼飯、その他この航行を愉快にするものがすべて積み込んである。このようにして彼等は、我々に対する感謝の念を示そうとしたのである。別の舟には我々の数名の日本人の友人が乗って送りに来たが、その中には数年前、私が大阪に近いドルメンを調べた時知り合いになった天草氏もいた。出発するすぐ前に、田原氏の知人が敬意を表しに来たので、私は私が提供し得る唯一の品なるブランデーを、すこし飲みませんかとすすめた。すると彼は、普通の分量よりも遙かに沢山注いだので、私は彼に、それが非常に強く、そんなに飲んだら参って了うと警告したが、彼は「ダイ ジョーブ、ヨロシイ」といった。彼が如何に早くこの酒の影響を受けたかは、興味も深く、また滑稽であった。我々が乗船した時には、彼はすでに怪奇的ともいうべき程度に酔っぱらって了い、最後に、河岸に上陸させねばならぬ程泥酔したが、そこで彼は、我々が見えなくなる迄、笑ったり、歌ったり鳴吐(どな)ったりした。

[やぶちゃん注:「五マイル」凡そ八キロメートル。

「天草氏」第十七章 南方の旅 八尾の高安古墳を調査するに出る『大阪専門学校の』『天草両教諭』である。]

 

 我々は間もなく汽船に着き、気持のいい主人役の人々に別れを告げてから、明かに最も矮小な日本人の為につくられた、小さくて低い代物に乗りうつった。その結果、我々はすこしでも動き廻れば背中がつかえるか、頭をぶつけるかで、ドクタアはこの背骨折りの経験中、絶えず第三の誡命を破った。

[やぶちゃん注:「第三の誡命」底本では直下に石川氏による『〔「汝の神エホバの名を、妄(みだり)に口にあぐべからず」〕』という割注が入る。原文は“and the Doctor repeatedly broke the third commandment during his back-breaking experiences.”。この訳文と原文からお分かり戴けると思うが、日本人が「伊弉諾(いさなき)」とか「いさなみ」とか「やまとたける」、或いは「釈迦」と「阿弥陀」平気で口にして何とも思わないが、これは世界宗教的に見れば極めて異様奇体なとんでもないことなのであって、通常のキリスト教徒は濫りに神の名である「ヤハゥエ」「ヤーベ」「エホバ」という語を発音したり、書いたりはしないのである。トンデモ本の王者にして明らかに智慧の足りない発言しか出来ないボロクソ超常研究家飛鳥昭雄の著作に、古くから人気のある似非科学の、太陽を挟んで地球の真反対位置に(だから絶対見えないし観測出来ないというのだが)地球と全く同様の惑星が存在し、その惑星、公転周期や軌道は地球と位置が違う以外は地球と全く同じであってヒトと同等或いはそれ以上の知性や科学力を有して、同様の生物群が棲息している、しかも宇宙を致命的に汚損し続けている地球を監視している、なんどという「反地球」をぶち上げ、その惑星は以前から世界中のその真相を知る人々によって太陽系第十二番惑星反地球「ヤハウェ」と呼ばれて広く知られている、とこの狂人は一九七〇年代以降よりずっと主張し続けているのであるが、この阿呆な本の題名を当時中学生であった私は見た瞬間、「こんな名前、欧米のキリスト教徒がつけるはずがないよ」と幼い乍らに鼻でせせら笑ったのを鮮やかに思い出すのである。]

 

 我々は夜の十一時に出帆し、その翌日と翌夜、時時止りながら航行を続け、朝神戸に着いた。この航海ぐらい惨めなものは無かった。たいてい雨が降り続き、我々は日本人の一家族と共に小さな室に閉じこめられていたが、隣の部屋には日本人が十八人入っていた。彼等は皆礼儀正しく、静かだった。彼等が他の国の住民であったなら、我々はもっと苦しんだ――これ以上の苦痛があり得るものとすれば――ことだろうと思う。寝台も椰寝床も無いので、我々は床にねむり、日本食は言語同断であり、私は広島に於る病気から回復していなかった。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『神戸に戻ったのは八月二十二日頃、その神戸で三日間過ごしたのちモースは大阪へ行き、ついで和歌山へ向った』とある。明治一五(一八九〇)年八月二十二日は金曜日である。この文面から察するに、モースが最も恐れていたのは、コレラ(当時の死亡率は相対的にはかなり高いものと認識されていた)への罹患で、そうした意味でも過度にナーバスになっていたのではあるまいかと察せられる。]

 

 神戸に着くと、我々は何かを食う為に、英国流の旅館へかけつけた。二週間以上も、我々は日本食ばかりで生きていたのである。その多くは最も上等であったが、それが如何によくっても、朝飯は我々を懐郷病(ホームシック)にする。で我々は、殆ど狂気に近い喜悦を以て、英国流の食事をたのしんだ。

 

 ここ一週間、私は物を書くことと、食うことと以外に、大した仕事はしなかった。

 

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (六)

       六

 

 して、私共は墓地の端の大きな森の庭へきた。

 森の彼方には、何といふ愛撫するやうな、やさしい日光、何といふ靈的に美はしい姿!熱帶の空は、低く懸つてゐて、どこの屋根から手を伸ばしても、その生温い液體のやうな靑色の中へ指が浸るばかりに、いつも私に思はれたが、こゝの空は、もつと柔かで、色が淡く、一層大きな遊星の天かと思はるゝほど、廣漠渺茫たる穹窿に亘つてゐる。それから、雲さへ名雲でなくて、靄然として、たゞ雲の夢である。雲の幽靈、透明な怪物、幻影!

 突然私の前に一人の子供が立つてゐるのに、私は氣がついた。極、若い娘が不思議さうに、私の顏を見上げてゐる 彼女の輕い跫音は、鳥の聲と木葉の囁きのために聞えないほどであつた。服裝こそぼろぼろの日本服であるが、眼眸とゆるやかな金髮は、日本風のみではない。他の人種――恐らくは私と同じ人種――の幽靈が、彼女の美しい碧眼から覗いてゐる。この子供に取つて、こゝは奇異な遊び場に相違ない。この周圍一切の事物が、その小さな魂に取つて、いかにも不思議と見えないか知らん。が、否、彼女には私がたゞ不思議に見えるだけだ。この子供は前生とその父の世界を忘れてゐる。

 この異國の港に於て、美しくて、貧しい、混血兒!御身のためには、こゝの墓中の人人と共にゐた方が更によからう!この輝いだ柔かな靑空の下にゐるよりも、暗黑界が更によからう!そこでは、柔和な地藏が御身を守護り、大袖の下に匿して、禍を避けしめ、一緒に遊んでも呉れるだらう。それから御身のために今私に慈善を乞ひに來た、夫に捨てられたる御身の母親は、忍耐強い日本人の微笑をたゝへ乍ら、御身の珍らしい美しさを無言で指示しつゝ、御身の平安のための、地藏の膝の上に小石を積み上げるだらう。

[やぶちゃん注:ここでハーンが辿りついたのは、現在の「港の見える丘公園」附近ではあるまいか? 事実上の一般人の入ることの出来る公園としての開園は、ウィキの「港の見える丘公園」によれば戦後のアメリカ軍による接取解除後の昭和三七(一九六二)年十月二十五日以降のことであるとある。但し、この箇所には要出典要請が掛けられてあるので無批判には信じ難い。ただ、私はその二年後の鎌倉市立玉繩小学校二年生の時(昭和三十九年)の春か秋の遠足に於いてここを訪れた明確な記憶があるから、その時には既に公園化されていたことは確かではある。また、ルートそのままを素直に信ずるならば、現在の外人墓地の南端、元町公園の最上部附近ともとれなくはないが、あそこでは当時でもここでモースが感じたような開けたロケーションは今一つ望めないように私には思われるが、ただこれは、現行の立て込んだ私の感ずる状況印象によるものでしかなく、事実的な確信と言うわけではない。実際にここであっても可笑しくはないであろう。しかし、あそこでは今は無論、当時も遠景にさえ「港」は見えかったはずで、それだけで本シーンのロケ地からは心情的に敢えて外したくなる暗鬱な場所である。これは個人的にあの場所が思い出したくない私的経験のある一瞬を自動的に引き出してしまい、実はある種の強い不快感と嫌悪感を絶対的に引き起こさせるからでもあることを自白しておく)。地元の郷土史研究家の方の御指導を切に乞うものである。ともかくも地蔵信仰に感銘したハーンが、ここでまさにこの混血の、美しい、故にこそ救われねばならないと思う、「ぼろぼろの」和服を着た少女に出逢ったということは、霊の国日本という不可思議な力を彼が強く感じたと考えることに難くない。短いが一読忘れ難い、とても印象的なシークエンスであると言える。

「穹窿」老婆心乍ら、「きゆうりゆう(きゅうりゅう)」と読み、原義は「弓なりを成す」で、そこから大空の意となった。原文は“arches”であるが、そもそもこの「穹窿」自体が西洋の特に教会等の半球状天井や丸天井、弓形を基本形として構成構造されたワインや食料品の長期地下貯蔵室などをも含む曲面天井の総称として特に“vault”(ボールト)とも呼ばれ、まさにキリスト教に於ける(但し、ハーンは大のキリスト教嫌いであることに注意されたい。私は実は――ハーンにとっては如何にも無抵抗主義や人生の有り難味をこれ見よがしに見せつけているような架刑のイエス像やぷくぷくと豊満にして処女を称する気持ちの悪いマリア――だいたいからして性行為なしに子が出来るというのは今も昔も永遠に絶対失笑物の大馬鹿話である――因みに私の知る限りでは双子の胎児が体内残っていた奇形の二重体症による擬似出産様の事例、及び、二人の幼い妹に対して変態の兄が睡眠中に自慰行為を毎夜仕掛け、その精液が両妹の子宮内に美事に侵入、目出度く二人とも妊娠してしまったというおぞましい異常性欲事件ケース以外には全く聴いたことがない。婚約者ナザレのヨセフの種でなきゃ、マリアの不倫相手としか考えられないのが普通である。タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」を最初に見た二十の頃――その頃の私は未だ女性を知らなかったが――ロシアを蹂躙したタタール人が、手引きしたツアーリの弟から処女マリアの懐胎の話を聴くや、目を剝いて嘲笑したシーンで、私は心中、快哉を叫び、事実、映画館で大声を出して笑ったことを鮮やかに思い出す)像なんぞよりも、遙かに奇体なガーゴイルの方が怖れつつも親密な存在だったのではないか? と勝手に信じている人間である)天空としての「アーチ」状の「ドーム」をも指すから、英訳の和訳としては頗る的を射ているものと私は思う。因みに偏愛する平井呈一氏の訳では『無窮の弓形』とされるが、私のような日本人には如何にもこなれ切れていないキリスト教に媚びた半可通な日本語のように思われ、珍しく好きになれない。

「混血兒」彼らが如何に恐るべき仕打ちを受けたかは、横浜の桜木町直近の大岡川に架かる……ほら! 君も普通に渡ったことのある弁天橋だよ!……実は明治四(一八七一)年に架けられた初代の木造の橋が直きに朽ち果ててしまってね……二年後の明治六(一八七三)年に二代目の「弁天橋」が再架橋(木造アーチ橋。現在の物は四代目)されたんだがねぇ……私のブログ記事のアクセス数の特異点である「明治6年横浜弁天橋の人柱をお読みぃな……当時の異人相手のラシャメンが産み落とし、不良として逮捕され西戸部監獄に収監されていた混血少年四人が縛られた、そのままに……当時の竣工間近であった弁天橋の工事現場まで大岡川を小舟で送られたんだ……そうして……橋脚(推定)に四人全員が……秘かに……橋の安全祈願として――「人柱」として生き埋め(推定)にされた――んである……。知ってたかい? この話?……

「輝いだ」はママ。]

 

 

Sec. 6

And we come to the end of the cemetery, to the verge of the great grove.

Beyond the trees, what caressing sun, what spiritual loveliness in the tender day! A tropic sky always seemed to me to hang so low that one could almost bathe one's fingers in its lukewarm liquid blue by reaching upward from any dwelling-roof. But this sky, softer, fainter, arches so vastly as to suggest the heaven of a larger planet. And the very clouds are not clouds, but only dreams of clouds, so filmy they are; ghosts of clouds, diaphanous spectres, illusions!

All at once I become aware of a child standing before me, a very young girl who looks up wonderingly at my face; so light her approach that the joy of the birds and whispering of the leaves quite drowned the soft sound of her feet. Her ragged garb is Japanese; but her gaze, her loose fair hair, are not of Nippon only; the ghost of another race—perhaps my own-watches me through her flower-blue eyes. A strange playground surely is this for thee, my child; I wonder if all these shapes about thee do not seem very weird, very strange, to that little soul of thine. But no; 'tis only I who seem strange to thee; thou hast forgotten the Other Birth, and thy father's world.

Half-caste and poor and pretty, in this foreign port! Better thou wert with the dead about thee, child! better than the splendour of this soft blue light the unknown darkness for thee. There the gentle Jizo would care for thee, and hide thee in his great sleeves, and keep all evil from thee, and play shadowy play with thee; and this thy forsaken mother, who now comes to ask an alms for thy sake, dumbly pointing to thy strange beauty with her patient Japanese smile, would put little stones upon the knees of the dear god that thou mightest find rest.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (五)

 

       五

 

 蔭のさした阪道を下りると、三尺位の高さの六個の小さな像が、一枚の長い臺石の上に、一列に立つてゐるのに、私は出逢つた。第一の像は佛教の抹香函、第二は蓮華、第三は巡禮の杖を持ち、第四は數珠を爪繰り、第五は合掌祈禱の姿、第六は頂端に六個の輪の附いた錫杖を片手に持ち、他の片手には諸願成就の力ある神祕的な、如意寳珠を持つてゐる。が、六つの顏はすべて同じい。各たゞ姿勢と標章の性質が異るだけだ。して、皆同じ樣な微笑を洩らしてゐる。いづれの像の頭にも白木綿の嚢が下がつてゐて、皆小石が一杯入つてゐる。して、像の足許にも、膝の上にも、肩の上にも、小石が高く積み上げてある。石造の後光の上にまで、細い小石が落ちないやうに載せてある。すべて是等のやさしい子供らしい顏は、古風で、不思議で、しかし、何とも云へなく人を感動させる。

[やぶちゃん注:「三尺位の高さ」原文は“about three feet high”。「三尺」は九十センチメートルで、三フィートは九十一センチメートルほど。]

 

 これは普通六地藏と呼ばれ、かゝる群像は幾多日本の墓地に見られる。これは日本の通俗信仰に於て、最も美はしく優しい像、子供の靈魂の世話をして、心配な場所で慰め、惡鬼から救つて呉れる、あの殊勝な佛を現したものである。『しかし、あの像のほとりに積み上げた小石は、どうした譯です?』と私は問うた。

[やぶちゃん注:「六地藏」墓地の六地蔵は極めて一般的であり、当時は未だ海龍山本泉寺増徳院の墓地であったそこに六地蔵があって全くおかしくない。多大実在したか、今もするか、それがまたハーンの見たものと同一像であるかどうかを私自身が容易に検証出来ずにいるだけのことである。何方か、出来れば検証して戴きたいというのが、身動きの取れない私の正直な本音なのである。因みにウィキの「地蔵」には(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『日本では、地蔵菩薩の像を六体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は六種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを六種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道・餓鬼道、畜生道・修羅道・人道・天道の順に檀陀(だんだ)地蔵・宝珠地蔵・宝印地蔵・持地地蔵・除蓋障(じょがいしょう)地蔵・日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵・金剛宝地蔵・金剛悲地蔵・金剛幢地蔵・放光王地蔵・預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。像容は合掌のほか、蓮華・錫杖・香炉・幢・数珠・宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに六体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である』とある。因みに私は鎌倉六地蔵の側の高浜虚子の娘が嫁に行った先の隣りで生まれた。――私を守っている地蔵はきっとあの鎌倉時代の処刑場の跡に建てられた六地蔵に違いない――と勝手に思っている人間でもあることを告白しておく。]

 

 『それは、或人の説に、子供の靈魂は、死後に子供が行く場所の賽ノ河原で、懺悔の苦業として、小さな石塔を建てねばならぬからです。鬼が來て、子供が塔を築くや否や倒すのです。して、鬼は子供を嚇したり、苫しめたりしますが、子供達が地藏の方へ走つて行くと、地藏は大きな袖の下へ子供を隱して、慰めてやつて、鬼を去らせます。だから、誰でも心から祈つて、地藏の膝や足の上ヘ一つの石を置く毎に、賽ノ河原のある子供の靈魂の爲めに、長い苦行の助けをしてやる譯になります』

 地藏の笑の如く優しい笑を帶びて、右の話を私に語つた佛教の靑年學生は、また云つた。

 『すべて子供は、死ぬると、賽ノ河原に行かねばなりません。そこで地藏と一緒に遊ぶのです。賽ノ河原は私共の下、土地の下にあります。』

 

   註一 地藏及び他の神佛の前へ石を積む

   習慣の眞正の起原には、解かつてゐない。

   それは有名なる法華經の一節に基く。

     若於曠野中   積土成佛廟

     乃至童子戯   聚沙爲佛塔

      ――妙法蓮華卷第一、方便品第二

   註二 地藏はもと梵語のクシテイ・ガル

   パ(地藏)だと東洋學者は云つてゐる。

   チエムバリン氏の説の如く、地藏と耶蘇

   (ジーザス)の音が類似せるは、『全くの

   偶合』に過ぎない。しかし日本では、地

   藏は全然變化してしまつて、正しく日本

   の諸佛中での最も日本的なものと云ひ得

   る。「賽ノ河原口吟之傳(クチズサミデン)」

   といふ佛教の珍らしい古書によると、賽

   ノ河原傳説は悉く日本に起原を發し、西

   曆九百四十六年に崩御された朱雀天皇の

   御宇、天慶六年に空也上人が初めて書い

   たものでゐる。空也上人が京都に近い西

   院といふ村の賽ノ川〔現今の芹川だと云

   はれる〕の河原で、一夜を過したとき、

   冥界に於ける子供の狀態につき御告げを

   受けたのだといふ。〔その書には、傳説が

   斯くの如くに載つてゐる。が、チエムバ

   リン教授は現今書かるゝ賽ノ河原といふ

   文字は、『靈魂の河原』を意味することを

   説いてゐる。また現代の日本の信仰では、

   その河を冥途に置いてゐる)この神話の

   眞正の歷史はどうであらうとも。これは

   正しく曰本のものであゐ。して、地藏を

   死んだ子供の愛護者、遊び相手とする觀

   念は日本のものである。

   通俗的形式の地藏は、まだ他にいろいろ

   ある。最も普通のは姙歸が祈願をかける

   子安地藏である。日本の道路に地藏の像

   の見られないのは殆ど稀だ。地藏はまた

   巡禮者の守護者だから。

[やぶちゃん注:「註一」は以下の原文注(注番号は「2」)と照応させると分かるが、「法華経」経文の一部が省略されてしまっている。これは厳密には「法華経」巻第一の「方便品第二」の「第二過去佛章」の「人天開會」にある、

   *

諸佛滅度已

供養舎利者

起万億種塔

金銀及頗梨

車渠與瑪瑙

枚瑰瑠璃珠

淸淨廣厳飾

莊校於諸塔

或有起石廟

栴檀及沈水

木櫁幷餘材

甎瓦泥土等

若於曠野中

積土成佛廟

乃至童子戲

聚沙爲佛塔

如是諸人等

皆已成佛道

若人爲佛故

建立諸形像

刻彫成衆相

皆已成佛道

或以七寳成

鍮石赤白銅

白鑞及鉛錫

鐵木及與泥

或以膠漆布

嚴飾作佛像

如是諸人等

皆已成佛道

綵晝作佛像

百福莊嚴相

自作若使人

皆已成佛道

乃至童子戲

若草木及筆

或以指爪甲

而晝作佛像

如是諸人等

漸漸積功德

具足大悲心

皆已成佛道

但化諸菩薩

度脱無量衆

 諸仏滅度し已(を)はりて

 舍利を供養する者

 万億種の塔を起てて

 金銀及び頗黎(はり)

 車渠(しやこ)と碼碯(めなう)

 枚瑰(まいくわい)・瑠璃珠(るりしゆ)とをもつて

 淸淨に廣く嚴飾し

 諸の塔を莊校し

 或ひは石廟を起て

 栴檀(せんだん)及び沈水(ぢんすゐ)

 木樒(もくみつ)並びに餘の材

 甎瓦(せんぐわ)・泥土等をもつてするあり

 若しは曠野の中に於いて

 土を積んで佛廟(ぶつみやう)を成し

 乃至(ないし)童子の戲れに

 沙を聚めて佛塔を爲せる

 是くのごとき諸人(しよにん)等(ら)

 皆已に佛道を成(じやう)じき

   *

の下線部分(やぶちゃん)が原注には引かれているのである。なお、引用原文と訓読は作家隆慶一郎氏公式サイト「隆慶一郎わーるど」の「文献資料室」内の「法華経」を参考にしつつ、私の流儀に基づいて恣意的に正字化し、改訓読している(脱線も甚だしいのでもう二度と言わないが、例えば私は漢文の訓読では本邦の附属語である助動詞と助詞は必ず平仮名でなくてはならないと信ずる人間である――そうした絶対的規則性を示さなければ高等学校で漢文は絶対に教えられない、受験生の安心するような絶対的セオリーはいっかな構築出来ないからである――ので、「如き」「也」「哉」などがそのままに威厳あり気に鎮座しているなどというのは到底ゼッタイに許し難い訓読文だからなのである)。因みに「頗黎」は、赤や白などの鮮やかな異色彩の水晶を指し、時に仏教の「七宝」の一つとされる宝玉である。「莊校」は恐らく「しやうきやう(しょうきょう)」と読み、「莊」は謂う所の「厳かに仏像・仏塔・寺院建築などを荘厳(しょうごん)」する、「厳かに飾り立てる」の意であり、また「校」の方も全く同じく「正しく厳かに飾る」の意であるから、風化毀損したりした石塔・供養塔――というよりも原義本来の「スツーパ」――を綺麗に浄化し崩れ擦れ隠れた梵字彫琢などを再刻したり復元したりすることを言っているものと思われる(全くの勝手な推理であるが)。他に注したい語句もないではないが、五月蠅くなって、何時までも終わらなくなるので、ここは読者各自の自己研究として丸投げすることにする。悪しからず。私の如きアンチ・アカデミストに頼り切っては、あなたの智は何時までも借り物でしかない、愚昧なものである。心せられるがよい。

「賽ノ河原」「三途川の河原」を別に「賽の河原(さいのかわら)」とも呼ぶ。「賽の河原」と呼ばれる場所も、後述の恐山のものをはじめとして日本各地に実在する。ィキの「三途川」によれば、『賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない』。『賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)』(「塞」とも書く)『の神が習合したものであるというのが通説である』。『中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった』とある。

「賽ノ河原口吟之伝」私は見たことも聴いたこともなく、標題も如何にも民間布教のための頗る怪しいものであるが、個人ブログ「takusankanの周易占いノート」の「さいの河原の地蔵尊 『賽ノ河原口吟之伝』」に注とともに示されてある。御興味のある向きはどうぞ。私は個人的にこうした面妖な宗教書には興味がない。そもそもが地蔵信仰や地獄信仰は中国で書かれた偽経に基づく極めて道教色の濃い現世利益道徳経みたような噴飯物としか考えていないからである。

「芹川」不詳。現在の京都府京都市伏見区下鳥羽西芹川町を流れる川か? 但し、本文にある西院からは南南東に七・五キロメートルも離れており、位置が合わない。識者の御教授を乞う。ウィキの「三途川」には『実在の川』として(それがモデルというのではなく、あくまで同名称の川の意ではあるが)、現在の群馬県甘楽郡甘楽町を流れる利根川水系白倉川支流の小河川(さんずがわ)千葉県長生郡長南町を流れる三途川宮城県刈田郡蔵王町を流れる三途川(さんずのかわ)青森県恐山を流れる三途川を挙げ、最後のそれに就いては、『青森県むつ市を流れる正津川』(しょうづがわ)『の上流部における別名。青森県むつ市の霊場恐山は、宇曽利山湖を取り囲む一帯のことであるが、この宇曽利山湖から流出する正津川を別名で三途川と呼ぶ。河川名の「正津川」も、仏教概念における三途川の呼称のひとつである。宇曽利山湖の周辺には賽の河原と呼ばれる場所もあり、積み石がされている』とあるが、「芹川」という名は見当たらない。識者の御教授を乞うが、全くの直感乍ら、原文は確かに“Serikawa”ではあるものの、「芹」は実は賽の河原のモデルの一つとされる「加茂川」の「茂」といやに似て居るのが気にかかるのである。

「西曆九百四十六年に崩御された朱雀天皇」第六十一代天皇朱雀天皇(延長元年七月二十四日(ユリウス暦九二三年九月七日)~天暦六年九月六日(ユリウス暦九五二年八月七日)の在位は満七歳の延長八年十一月二十二日(西暦九三〇年十二月十四日)から満二十二の天慶九年四月十三日(西暦九四六年五月十六日)は参照したウィキの「朱雀天皇」によれば、『治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多く、また皇子女に恵まれなかったこともあってか、朱雀天皇は早々と同母弟成明親王(後の村上天皇)に譲位し、仁和寺に入った。しかしその後、後悔して復位の』祈禱をしたともいうとあって、天暦六(九五二)年には出家し、その年の内に満二十九歳の若さで崩御している。

「天慶六年」ユリウス暦九四二年。朱雀帝数えで二十の時である。

「空也上人」(延喜三(ユリウス暦九〇三)年~天禄三(九七二)年)は天台宗空也派の祖。皇族の出とする説もあるが出自不詳。常に市中に立って庶民に念仏を勧め、貴賤を問わず幅広い帰依者を得、「阿弥陀の聖」「市の聖」と尊称された。諸国を巡礼しつつ道路や架橋などの社会事業にも尽くした。京都に疫病が流行した際には西光寺(後の六波羅蜜寺)を建立して平癒を祈った。光勝。時宗の一遍は空也を「わが先達」として敬慕した。比叡山を中心に行われた所謂、「山の念仏」に対して一般庶民の中に自らを潜ませて念仏を広め、後に口称念仏の祖或いは民間に於ける浄土教の先駆者と評価されている(他にも踊念仏や等の開祖とも仰がれるものの空也自身がこうした後の踊念仏を修したという事実は資料にはない。ここはウィキの「空也」に拠った)。朱雀帝の在位と合わせると、ここでハーンが言っていることが事実とすれば、帝となった延長八(九三〇)年十一月二十二日(空也は数え二十八歳)から天慶九(九四六)年四月十三日(空也四十四歳)の間ということになる。但し、同ウィキに延喜二二(九二二年)頃(数え二十)に『尾張国分寺にて出家』、「空也」と名乗ってより『在俗の修行者として諸国を廻り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得』た後、天慶元(九三八)年には『京都で念仏を勧め』、十年後の天暦二(九四八)年には『比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある』とし、『貴族や民衆からの寄付を募って観音像や四天王像を造立』天暦四(九五〇)年より金字大般若経書写を始め、天暦五(九五一)年には『十一面観音像ほか諸像を造立(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)』、応和三(九六三)年、『鴨川の河原にて、大々的に金字大般若経供養会を修する。この際に三善道統の起草した「為空也上人供養金字大般若経願文」が伝わる。これらを通して藤原実頼・藤原師氏ら貴族との関係も深』まったとする。天禄三(九七二年)に『東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において』数え七十歳で示寂とある(下線やぶちゃん)。この下線部の箇所こそが私はここに出る賽の河原空也伝承のルーツではあるまいかと私は思ったのだが、朱雀帝は既に没していて齟齬する。となると、今一つの可能性はそれより以前の、京で大々的に空也が念仏行を勧めた天慶元(九三八)年、朱雀帝在位八年目の数えで十六の時のことではなかったか?(記載がその五年後であるのは京での人脈が未だ形成されていなかったからではないか?) ただの憶測ではある。大方の識者の御批判を俟つ。]

 

 『して、地藏の衣には、長い袖がついてゐますから、子供達は遊ぶとき袖をひつぱります。それから、地藏の前へ小石を積んで面白がります。あの御覽の通り、像の邊に積んであるのは、子供達のために人々が置くのですが、大抵死んだ子供の母親が、地藏に祈願する際積むのです。尤も大人は死んでから、賽ノ河原へ行きません』

 

   註 結婚しなかつた人は例外である。

[やぶちゃん注:ウィキの「三途川」に、十世紀中頃の『日本の俗信として、「女は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る」というものがあった』とされ、また、「蜻蛉日記」の作者として知られる藤原道綱母には、三途の川を女が渡る時には初めての男が背負うて渡る、といった意味の歌を詠んでいることなどから、『こうしたことからも、平安時代の頃より三途の川信仰が多様に日本でアレンジされていたことが分かる』とある。無論、これは変成男子(但し、これは釈迦も実際に差別的にはっきりと説いているのであるが)と同じく、仏教の致命的女性差別の悪信仰に他ならない。信仰がなかったりいい加減であったりする若い男女――特に女でその特異的使命としての子を産むという衆生(人)としての必要最低限の絶対実行義務履行していないと考えられた処女――は地獄にさえ落ちることが出来ず、この賽の河原で訳も分からず石を積む子らの亡者とともに居続けねばならないという、とんでもない話(こちらは恐らくは変成男子説に基づく偽経的説話と私は考えている)なのである。因みに言っておくと、お馴染みの死後の「地獄」に相当するものついても釈迦は具体的には述べておらず(但し、方便としての譬えではあるようにも聴くが)、彼はただ――そこは永遠に続く闇の世界があるのみ――とだけ述べているのであって、その実相の中に、現世的因果応報の復元たる刀剣・針・血膿・火焔・冷凍・灼熱や臼挽き溶銅吞ませ、といったような奇体失笑の責め苦あれこれなどはこれ、一切口にしていないはずである。]

 

 六地藏を去つてから、靑年學生は墓の間を案内し乍ら、他のさまざまな奇異な彫刻の像を示してくれた。

 中には妙に可憐なのもある。何れも皆面白い。數個の極めて美しいのもあつた。

 大抵光背を持つてゐる、古い基督教藝術に於ける聖徒の像に酷似した合掌の狀を現し、跪いてゐるのが澤山ある。あるものは、蓮華を持つて、冥想の夢に入つてゐる。大蛇のどぐろをまいた上に安坐せるもの、冠冕のやうなものを被つて、手が六本、一對は合掌祈願、他の手を擴げて、諸種の物をさし出し、平伏せる惡鬼の上に立てるものなどがある。今一つは、淺い浮彫の像で、無數の腕を持つてゐて、第一對の手は掌を合はせ、兩肩の背後から影が差した如くに、數へ切れぬほどの腕が諸方に朦朧と伸び出でて、詣種の物を示してゐる。これは祈願に對する答と、また恐くは全能の慈悲を象徴したのである。これは慈悲の女神、人の魂を救はんが爲めに涅槃の安樂を捨でた温和なる觀音の、諸形式の一つであつて、よく日本の綺麗な少女の姿に畫いてある。こゝのは千手觀音となつて現れてゐるのだ。すぐ側の大きな扁板に、その鑿削を加へた面の上部には、蓮座冥想の佛陀が浮彫になつて、下部には、兩手で目を塞いだのと、耳を塞いだのと、口を塞いだのと、三頭の奇怪な猿が刻んで現してある。『これは何の意味だらう?』と私が質ねた。私の友は三個の彫像の恰好を、一つ一つ眞似ながら、不明瞭な聲で答へた。

 『私は惡いものは見ませぬ。私は惡いことを聽きませぬ。私は惡いことを言ひませぬ』

 

 再三の説明のお蔭で、段々と私は一見して、幾らか色々の佛像の見分けがつくやうになつた。手に劍を持ち、ぴかぴか光る火に圍まれつゝ、蓮華の上に坐せる像は不動樣である。劍は智、火は力を示してゐる。こゝには片手に一ト卷きの繩を持つた冥想の像がある。これは佛陀であつて、繩は情慾を縛するのである。また最も穩かな優しい日本人の顏――小兒の顏――をして、眼を塞いで、頰に手枕をもたせ乍ら、涅槃の中に、眠れる佛陀もある。美しい處女の像が百合の上に立つたのは、日本の神聖處女(マドンナ)の觀音樣である。こゝに端然と坐つて、片千に瓶を持ち、片手を教師の態度らしく擧げたのは、靈魂の醫者、一切を癒す佛の藥師樣である。

 それから、また私は動物の像をも見た。佛陀誕生譚の鹿が、いかにも優美に雪白の石に彫られて、燈籠の頂上にゐる。ある墓には立派に彫つた魚、と云はんよりは寧ろ魚の觀念を、希臘藝術の海豚の如く、彫刻の目的上、美しく奇怪に作つたのが、石柱の頂を飾つてゐる。廣く開いて鋸齒を示せる顎は、死人の戒名を書いた石の上に載つて、背鰭と振り立てた尾は、企及し難き粧飾的意匠を凝らしてゐる。晃が木魚だといつた。僧侶の讀經の際、褥片を卷いた木槌で叩く、あの深紅と黄金色に塗つた、木製の空洞狀のものと同種の象徴である。最後に、ある處で私は、獵犬の如く、たわやかな形をした神話的種類の一對の動物が坐つてゐるのを見た。晃が狐だと云つた。成るほど今、その像の目的が解つてから眺めて見ると、狐であつた。理想化され、靈化されて、云はん方なく優美な狐である。灰色の石で刻まれ、細長く意地惡い、輝いた眼を有ち、啀んでゐるやうに見える怪獸である。米の神、お稻荷樣の從者で、正當に云へば、佛教の偶像ではなくて、神道に屬する。

[やぶちゃん注:「啀んでゐる」は「いがんでいる」と訓じている者と思われる。「啀(いが)む」とは獣などが牙を剥いて嚙みつこうとする意である。]

 これらの墓に刻んだ文字は、決して西洋の碑銘に似てゐない。ただ家族の名――死者及びその緣類の名と紋章だけだ。普通は花の紋章である。卒塔婆には、たゞ梵經の文字がある。

 更に進んでから、私は他の數個の浮彫の地藏を見た。一つの像は、餘りに立派な作品なので、私はそこを通り過ぎて了うのが苦しかつた。この死兒の伴侶を白い石で刻んだ、夢のやうな像は、美しい小兒の如くに、親切な眼を半ば閉ぢ、佛教藝術のみが想像し得たやうな微笑、無限の愛らしさと最上の柔和を持つた微笑を湛へて、天人らしい顏を見せてゐるのは、たしかに如何なる基督の像よりも美はしい。實際、地藏といふ理想は、極めて優れたものであるから、通浴の言葉に於ても、美麗な顏を地藏に譬へて、『地藏顏』と云つてゐる。

 

[やぶちゃん注:再度言うが、ここで主体となる六地蔵は現存するのか、するとすれば何処にどのようにあるのかは、後の宿題とする。この考証を始めると何時まで経っても先に進めぬからである。悪しからず。]

 

 

Sec. 5

Descending the shadowed steps, I find myself face to face with six little statues about three feet high, standing in a row upon one long pedestal. The first holds a Buddhist incense-box; the second, a lotus; the third, a pilgrim's staff (tsue); the fourth is telling the beads of a Buddhist rosary; the fifth stands in the attitude of prayer, with hands joined; the sixth bears in one hand the shakujo or mendicant priest's staff, having six rings attached to the top of it and in the other hand the mystic jewel, Nio-i ho-jiu, by virtue whereof all desires may be accomplished. But the faces of the Six are the same: each figure differs from the other by the attitude only and emblematic attribute; and all are smiling the like faint smile. About the neck of each figure a white cotton bag is suspended; and all the bags are filled with pebbles; and pebbles have been piled high also about the feet of the statues, and upon their knees, and upon their shoulders; and even upon their aureoles of stone, little pebbles are balanced. Archaic, mysterious, but inexplicably touching, all these soft childish faces are.

Roku Jizo—'The Six Jizo'—these images are called in the speech of the people; and such groups may be seen in many a Japanese cemetery. They are representations of the most beautiful and tender figure in Japanese popular faith, that charming divinity who cares for the souls of little children, and consoles them in the place of unrest, and saves them from the demons. 'But why are those little stones piled about the statues?' I ask.

Well, it is because some say the child-ghosts must build little towers of stones for penance in the Sai-no-Kawara, which is the place to which all children after death must go. And the Oni, who are demons, come to throw down the little stone-piles as fast as the children build; and these demons frighten the children, and torment them. But the little souls run to Jizo, who hides them in his great sleeves, and comforts them, and makes the demons go away. And every stone one lays upon the knees or at the feet of Jizo, with a prayer from the heart, helps some child-soul in the Sai-no-Kawara to perform its long penance. [2]

'All little children,' says the young Buddhist student who tells all this, with a smile as gentle as Jizo's own, 'must go to the Sai-no- Kawara when they die. And there they play with Jizo. The Sai-no-Kawara is beneath us, below the ground. [3]

'And Jizo has long sleeves to his robe; and they pull him by the sleeves in their play; and they pile up little stones before him to amuse themselves. And those stones you see heaped about the statues are put there by people for the sake of the little ones, most often by mothers of dead children who pray to Jizo. But grown people do not go to the Sai-no-Kawara when they die.' [4]

And the young student, leaving the Roku-Jizo, leads the way to other strange surprises, guiding me among the tombs, showing me the sculptured divinities.

Some of them are quaintly touching; all are interesting; a few are positively beautiful.

The greater number have nimbi. Many are represented kneeling, with hands joined exactly like the figures of saints in old Christian art. Others, holding lotus-flowers, appear to dream the dreams that are meditations. One figure reposes on the coils of a great serpent. Another, coiffed with something resembling a tiara, has six hands, one pair joined in prayer, the rest, extended, holding out various objects; and this figure stands upon a prostrate demon, crouching face downwards. Yet another image, cut in low relief, has arms innumerable. The first pair of hands are joined, with the palms together; while from behind the line of the shoulders, as if shadowily emanating therefrom, multitudinous arms reach out in all directions, vapoury, spiritual, holding forth all kinds of objects as in answer to supplication, and symbolising, perhaps, the omnipotence of love. This is but one of the many forms of Kwannon, the goddess of mercy, the gentle divinity who refused the rest of Nirvana to save the souls of men, and who is most frequently pictured as a beautiful Japanese girl. But here she appears as Senjiu-Kwannon (Kwannon-of-the-Thousand-Hands). Close by stands a great slab bearing upon the upper portion of its chiselled surface an image in relief of Buddha, meditating upon a lotus; and below are carven three weird little figures, one with hands upon its eyes, one with hands upon its ears, one with hands upon its mouth; these are Apes. 'What do they signify?' I inquire. My friend answers vaguely, mimicking each gesture of the three sculptured shapes:-'I see no bad thing; I hear no bad thing; I speak no bad thing.'

 

Gradually, by dint of reiterated explanations, I myself learn to recognise some of the gods at sight. The figure seated upon a lotus, holding a sword in its hand, and surrounded by bickering fire, is Fudo- Sama—Buddha as the Unmoved, the Immutable: the Sword signifies Intellect; the Fire, Power. Here is a meditating divinity, holding in one hand a coil of ropes: the divinity is Buddha; those are the ropes which bind the passions and desires. Here also is Buddha slumbering, with the gentlest, softest Japanese face—a child face—and eyes closed, and hand pillowing the cheek, in Nirvana. Here is a beautiful virgin-figure, standing upon a lily: Kwannon-Sama, the Japanese Madonna. Here is a solemn seated figure, holding in one hand a vase, and lifting the other with the gesture of a teacher: Yakushi-Sama, Buddha the All- Healer, Physician of Souls.

Also, I see figures of animals. The Deer of Buddhist birth-stories stands, all grace, in snowy stone, upon the summit of toro, or votive lamps. On one tomb I see, superbly chiselled, the image of a fish, or rather the Idea of a fish, made beautifully grotesque for sculptural purposes, like the dolphin of Greek art. It crowns the top of a memorial column; the broad open jaws, showing serrated teeth, rest on the summit of the block bearing the dead man's name; the dorsal fin and elevated tail are elaborated into decorative impossibilities. 'Mokugyo,' says Akira. It is the same Buddhist emblem as that hollow wooden object, lacquered scarlet-and-gold, on which the priests beat with a padded mallet while chanting the Sutra. And, finally, in one place I perceive a pair of sitting animals, of some mythological species, supple of figure as greyhounds. 'Kitsune,' says Akira—'foxes.' So they are, now that I look upon them with knowledge of their purpose; idealised foxes, foxes spiritualised, impossibly graceful foxes. They are chiselled in some grey stone. They have long, narrow, sinister, glittering eyes; they seem to snarl; they are weird, very weird creatures, the servants of the Rice-God, retainers of Inari-Sama, and properly belong, not to Buddhist iconography, but the imagery of Shinto.

No inscriptions upon these tombs corresponding to our epitaphs. Only family names—the names of the dead and their relatives and a sculptured crest, usually a flower. On the sotoba, only Sanscrit words.

Farther on, I find other figures of Jizo, single reliefs, sculptured upon tombs. But one of these is a work of art so charming that I feel a pain at being obliged to pass it by. More sweet, assuredly, than any imaged Christ, this dream in white stone of the playfellow of dead children, like a beautiful young boy, with gracious eyelids half closed, and face made heavenly by such a smile as only Buddhist art could have imagined, the smile of infinite lovingness and supremest gentleness. Indeed, so charming the ideal of Jizo is that in the speech of the people a beautiful face is always likened to his—'Jizo-kao,' as the face of Jizo.

 

2 'The real origin of the custom of piling stones before the images of Jizo and other divinities is not now known to the people. The Custom is founded upon a passage in the famous Sutra, "The Lotus of the Good Law."

'Even the little hoys who, in playing, erected here and there heaps of sand, with the intention of dedicating them as Stupas to the Ginas,- they have all of them reached enlightenment.'—Saddharma Pundarika, c. II. v. 81 (Kern's translation), 'Sacred Books of the East,' vol. xxi.

 

3 The original Jizo has been identified by Orientalists with the Sanscrit Kshitegarbha; as Professor Chamberlain observes, the resemblance in sound between the names Jizo and Jesus 'is quite fortuitous.' But in Japan Jizo has become totally transformed: he may justly be called the most Japanese of all Japanese divinities. According to the curious old Buddhist book, Sai no Kawara Kuchi zu sams no den, the whole Sai-no-Kawara legend originated in Japan, and was first written by the priest Kuya Shonin, in the sixth year of the period called TenKei, in the reign of the Emperor Shuyaku, who died in the year 946. To Kuya was revealed, in the village of Sai-in, near Kyoto, during a night passed by the dry bed of the neighbouring river, Sai-no-Kawa (said to be the modern Serikawa), the condition of child-souls in the Meido. (Such is the legend in the book; but Professor Chamberlain has shown that the name Sai-no-Kawara, as now written, signifies 'The Dry Bed of the River of Souls,' and modern Japanese faith places that river in the Meido.) Whatever be the true history of the myth, it is certainly Japanese; and the conception of Jizo as the lover and playfellow of dead children belongs to Japan. There are many other popular forms of Jizo, one of the most common being that Koyasu-Jizo to whom pregnant women pray. There are but few roads in Japan upon which statues of Jizo may not be seen; for he is also the patron of pilgrims.

 

4 Except those who have never married.

 

2015/08/21

ブログ710000アクセス突破記念 火野葦平 魚眼記 

 

魚眼記 火野葦平

[やぶちゃん注:一昨2015年8月19日の宵の口に、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、710000アクセスを突破した。その記念として何時もの通り、火野葦平の「河童曼荼羅」から記念テクストとして「魚眼記」(「ぎよがんき(ぎょがんき)」)を公開する。単行本初出は小山書店昭和一六(一九四一)年五月刊「傳説小説集」かと思われるが、初出はそれ以前、前年中のことと推測される(以下の宮本百合子の書評初出を参照)。宮本百合子は日本の河童――火野葦平のことなど――という評論ともエッセイともつかない奇体な短文で(初出が『日本学芸新聞』昭和一六(一九四一)年一月十日号)、『一人の作家の動きとして火野葦平氏をみる。するとそこには「糞尿譚」の作者があり、つづいて麦と土と花と兵隊の作者があり、やがて河童の「魚眼記」が現れている。この過程に何が語られているだろう。「土と兵隊」の作者に「魚眼記」の現れたのは誰そのひとだけにかかわった現実であって、私たちには他人のことだと云えるのだろうか』と自他を指弾対象にするような言いをし乍ら、『日本の近代の文学に河童が登場することについては考えるべき何事かがある。周知のとおり、芥川龍之介は死の数ヵ月前、昭和二年の二月、小説「河童」を書いた。漁師のパック、詩人トック、音楽家クラバックなどの活躍する芥川の河童の国には、生活と判断とが溌溂と盛られていて、作者の社会批評と人生と芸術への気持が、積極な熱をもって流れている』。『それにもかかわらず、河童の国へ墜ちなければ、クラバックの直情をも描けなかったところに、作家芥川としての悲しい河童性があった。河童とは詰まるところ日本の前時代的な物の怪なのである』。『火野葦平の河童は、一九四〇年の日本に現れて、「土と兵隊」「石炭の黒きは」の後に現れて、何と自足した自身の伝説の原形をさらしていることだろう。実際上は歴史的な経験を生きた筈の一個の作家が、今日河童を語り、文学上に変化の変化たる所以の諷刺の通力さえ失ったまま、唯濃い墨の色と灰色との画面の色彩をたのしんで描き眺めるというようなことの裡には、文学として何かの不健全がある』。『河童が幻想の生棲物だからというのではなく、それを扱う作者火野の態度の本質は、芥川よりも文学のこととして不健全な低下を示していると云えるのである』。『これは、作家の個人としての問題でもあり同時に今日という時代の傾斜の問題でもある。人々の現実にたえる作品を生み出して行こうという作家の希望が偽りでないならば工夫をこらしその斜面にピッケルをうちこんで、着実に抵抗して、進んで通過しなければならない角度なのだと思う。何によってその雪崩れでそぎとられた斜面にピッケルをうちこむべき地点を判断してゆくかと云えば、先ずその岩の性質の鑑識に立つということを答えない登攀者はないだろうと思えるのである』(引用はリンク先の青空文庫版から)。この似非文学批評的戯れ言は私のイカれた前頭葉から尻小玉の出っ張りまで、おぞましい生理的不快感を引き起こす。文学批評(特に文学を革命の手段と堕させたプロレタリア文学の『不健全』なる思想というそれ)という宿痾たる病根の様態が実に手に取るように分かる悪文なれば、敢えてここに示しおくこととする。因みに私は宮本百合子の如何なる一文にも五十八年間、一度として感動したことはなく、今後もないと断言出来る。それほどあの女が文学者として私は大嫌いなのである。民衆の伝承をマルクス主義から非科学的と一蹴する彼等は結局、現代文学の潮流に生き残ることが出来なかった。これはまっこと目出度いことであると私は心底、感じている人間である。

 底本の傍点「ヽ」は太字に代えた。注は当該語句を含む各段末で簡潔に対応した。

 前頭葉の一部挫滅のために偏頭痛がずっと続き、何時ものようにテキパキと出来ず(特に夕食後は仕事が殆んど出来ないほど痛む)、遅れたことを深くお詫びする。【2015年8月21日 藪野直史】] 

 

   魚眼記 

 

 だいぶん風があるやうですが、わたしの聲が聞きとれますか。わたしはあまり大きな聲を出すことはこのまないので、どうぞもつと近くに寄つて下さい。そこの石には錢苔(ぜにごけ)がたくさんくつついてゐますから、用心をしないと着物が穢(よご)れます。この椎の實でも嚙(かじ)りながら聞いて下きい。月の出にはまだすこし間がありませう。

 わたしが昔この里に住んでゐた頃、やつぱりこの大きな椎の木がこの庭に立つてゐて、枝がはびこり、鬱蒼と葉が茂り、椎の實の熟(な)る時分、風のある日を選んでこの樹の下に來ると、雨の降るやうな音を立てて椎の實が無數に落ちて來たものでした。子供であつたわたしは竹の竿を持つて行つて椎の實を落すことを考へつきましたが、わたしのその計畫を母が顏色を變へて怒り、折角わたしが氣味の惡い思ひをして淋しい裏山の竹藪から切つて來て拵へた竿を、父がほとんど四寸おき位に微塵にへし折つてしまひました。一節づつ碎かれて行く靑竹の音を聞きながら、小さいわたしは悲しみで胸がいつぱいになりましたが、無口な父母はただ怒つただけでわたくしにその理由を聞かせてくれませんでした。夕方になると、向かふの地藏山の巓邊(てつぺん)の峰の間から眞横にさしかけて來る太陽の光りのために、數知れぬ椎の實は蓊鬱(をううつ)と繁茂した梢の間から無數の寳石のごとくきらきらと光ります。その美しい椎の實を得るためにはいつとも知れぬ風の日を待たなくてはならぬといふことは、なんといふ賴りないことでありましたらう。しかし、わたしは或る日、もう壽齡をずつと昔に越えて今は自分も人もその年を覺えてゐることが出來なくなつてゐたわたしの曾祖母から、椎の木についての言ひ傳へを聞かきれたのです。その椎の木には古くから河童が棲んでゐるといふのです。さうしてこの椎の木に熟る無數の椎の實はこの樹の持主である河童の食餌であつて、その椎の實を取るものは河童の怨みを買ふことがある、ただ風の日に吹かれて落らる椎の實が河童の食膳から除かれてしまふけれども、やつぱりその地上に落ちた椎の實すらも心ある人はこれを拾はうとはしないのだ、といふのです。それを話しながら曾祖母はがくがくと齒のない口を袋のやうに開けたり閉ぢたりしながら、その椎の木を見るのももつたないといふやうに、それだけの話をする間中、ただ最初にちらと一瞥しただけで、その後は一度も樹の方を振りむかうとしませんでした。その語を聞くとすぐにわたしはそつと土藏の中に入りました。生意氣な小さいわたしは、科學者のやうにその曾祖母のをかしな語を信用せず、古い侮蔑が曲りくねつた平假名やけばけばしい色彩の江戸繪などで書きあらはされた、たくさんの古ぼけた書物が土藏の長櫃(ながびつ)の中に藏つてあつたことを思ひ出し、曾祖母の學説をくつがへすやうな反證を得るために土藏の階段を登つたわけでありました。黴(ばび)くささと根太(ねだ)のゆるんだ天井裏の板の間に辟易しながらも、わたしは丹念に數千卷の古書を繙(ひもと)きました。するとわたしは次第に曲りくねつた平假名の字や原色あざやかな江戸繪の世界に惹きこまれ、やがて表が暗くなつて來て、わたしが掌にのせてゐる寫本の大きな文字も判讀し難くなつた時、わたしは曾祖母(おんばあ)ちやんは噓つきではなかつたと思はず歎息を洩らしたのであります。さうして太い鐡鋼の鎖格子も見わけがたくなつた鎧窓の方を見た時に、ほんたうはそんなに太陽が落ちてゐたわけではなく、鎧窓のすぐ際に椎の木があつて、その密生した葉のために窓が蔽はれてゐたことを知りましたが、その時わたしは椎の木が少しの風にぎわめき幾つかの椎の實がぱらぱらと落ちる音を聞いて、逃げるやうに蟲の食つて撓(たわ)む土藏の梯子段を降りたのです。

[やぶちゃん注:「四寸」訳十二・一センチメートル。「地藏山」不詳乍ら、これは以前河童封地蔵尊のあ塔山のことではあるまいか? 識者の御教授を乞う。「蓊鬱」草木が盛んに茂るさまを言う。「江戸繪」浮世絵版画の前身となった紅彩色の主に江戸歌舞伎の役者をモデルとした絵のこと。江戸中期から売り出され、当初は二、三色刷りのものから次第に多彩豪奢なものとなり、錦絵として爆発的な人気を博した。「紅摺絵(べにずりえ)」「東(あずま)錦絵」等とも称した(対するのが京坂で刊行された同じような役者絵を中心とした浮世絵版画の「上方絵(かみがたえ)」「大坂絵」である)。]

 わたしは或る日近くの町に行つて魚を求めて來ました。そのやうな祕密な計畫を家の者に覺られないやうに注意しながら、貰ふたびに蓄めておいた小遣錢をそつと土壺の貯金箱を割つて取り出し、市場に行つたのです。わたしの家は相當の舊家で、女中も何人も居ることなのに、市場に魚を買ひに行つたわたしを市場の人たちははじめは不思議さうにして居りました。しかしわたしが學校で有圖畫の寫生に使ふのに自分の好きな魚を自分で買ひに來たのだといつたので、はじめて市場の人も納得し、そこにあつたたくさんの魚のうちで一昔美しい鱗の剝げてゐないめばるを選んでくれました。買つて來た魚をわたしは小さい竹籠に入れて紐をつけ、椎の木のわたしが背のとどく枝の一番高い枝に吊しました。わたしは土藏の中の文獻によつて得た知識によつて、河童といふものがおほむね水中に棲むものではあるが、何かのために樹木に棲息するやうになつても、生理的に木の實よりも魚類の方を好むに違ひないといふことを信じたからです。わたしが魚を河童に進呈したことを曾祖母が見つけましたが、わたしの頭を撫でて笑ひながら、昔自分たちの小さい時分によく河童が出て來て自分たちと遊んだものだが、今はもう居るかどうかねえ、といひました。曾祖母の小さい時にはよく線香遊びといふことをやつたさうです。この椎の木の下の水たまりに火をつけた線香を立てる。それから十間ばかり離れてこちらから、河童さん河童さん出ておいで、と聲を揃へて呼ぷ。するとその線香の火がふつと見えなくなる。それは河童が兩手で火を包んでしまふからだ。それからまた、河童さん河童さんお歸りよ、といふ。すると今まで見えなかつた線香の火がまたぱつと赤く見えて來る。河童が兩手を開けるからだ。曾祖母はそんな話をしましたが、最後に今はそんな遊びを誰も忘れてしまつて、果して河童が今でも居るものやら居ないものやら自分も知らないといふのでした。翌る朝になつてわたしはまた背伸びをしながらその魚籠を下して見ました。その籠の中には昨日入れておいた魚の姿はなく、ただ底の方に硝子の玉のやうに二つの眼玉だけが殘されて居りました。もう河童がこの椎の木に今もなほ居るといふことは疑ふ餘地がありません。さうして父母が血相を變へてわたしが竹竿で椎の實を叩き落さうとしたことを咎めたことの意味がはじめてはつきりと諒解されました。それからわたしは毎日のごとく市場に通ひ魚を買つて來ては椎の木の梢に吊しました。魚は或る時は鰯(いわし)になり鱸(すずき)になりひこぜになり鯉になり茅渟鯛(ちぬ)になり鯖(さば)になり秋刀魚(さんま)になりました。さうしてわたしが籠を下してみるたびに、必ず魚の眼玉だけが食ひ殘されて居りました。河童が魚の眼玉が嫌ひであることは、私が黴くさい土藏の中で得た知識と全く一致して居りました。

[やぶちゃん注:「十間」十八・一八メートル。「ひこぜ」きらびやかな磯魚のベラの一種である顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ベラ科ササノハベラ Pseudolabrus sieboldi の異名。グーグル画像検索「Pseudolabrus sieboldiをリンクさせておく。「茅渟鯛(ちぬ)」スズキ目スズキ亜目タイ科ヘダイ亜科クロダイ Acanthopagrus schlegelii の異名。]

 さあ、椎の實をたくさんおあがりなさい。甘くて齒にあたらず嚙みわるとよい音がするでせう。こんなおいしい椎の實はよそでは食べられませんよ。風が出たせゐか、いくらでも椎の實が落ちて來ます。

 さて、もう秋もかなり深く風なども時折、膚に冷く感ぜられるやうになつた頃の或る夜、わたしは深い眠りに落ちてゐたのですが、ふと誰かわたしを呼ぶ者があるやうな氣がして眼を醒ましました。天井には薄暗い電燈が點(とも)り、寢る前に枕元にひろげたままにしてあつた小學校の諸本があるほかには、別に誰もゐる樣子はありません。外にはいろいろな秋の蟲の鳴いてゐる聲がします。わたしはなにか思ひ違ひであつたと思つて、ふたたび寢床の中にもぐりこみますと、また確かにわたしの名を呼ぶものがあります。それがどうも家の中ではないやうに思ひましたので、何氣なく開き窓の方を見ますと、竹のつかい棒で屋根のやうに半分開けた窓の向かふに誰かがゐるのがわかりました。外は月が明るく煙つたやうな月光の中に、頭を振りみだした妙に口の尖つたものがゐて、小首を振りながら、小さく皿をたたくやうな聲を立てて何かいひ、しきりに手まねきをしてゐるのです。わたしはすぐにそれが椎の木に棲んでゐる河童であることがわかりましたので、着物を着なほし帶を締めてその開き窓の方に行きました。河童はわたしを見ると身體ごとお辭儀をするやうに二三度屈みましたが、皿をたたくやうなからんからんした聲で、日頃から度々魚の御馳走になることの禮を述べ、今宵は月もよいし海の方に出てみたいと思ふのだが、いつしよに行きませんか、といふのでした。なんによらず河童の申し出を斷るとよいことがないといふことをわたしは知つてゐましたし、それでなくともわたしは河童の勸誘をうれしく思ひましたので、それはたいへん愉快なことだといひますと、河童はそれではわたしがおんぶして行つてあげますから、この開き窓の閾(しきゐ)にお上んなさいといひます。小さいわたしはその高い窓に上ることが出來ませんので、襖を開けて脚達(ふみつき)を出し、窓の下まで引きずつて來て、やつとのことで開き窓の閾に乘ることが出來ました。さあといつて河童が向かふをむきましたので、わたしは背中に負ぶさりました。河童は見たところそんなに大きくはなく、どちらかといふと子供のやうに小柄であつたので、わたしは果して子供としては大柄であつたわたしを河童が負へるだらうかと危ぶんでゐたのですが、わたしが負ぶさつても河童は別に重さうにはせず、それどころではなく、まるで背中に乘つた瞬間に突然わたしの身體の重量といふものがすつかり消えてなくなつてしまつたやうに、河童は樂々として居るのでした。今夜は海岸に出て海をわたり島まで行つて見ませう。まあこれでも嚙りながらついておいでなさい、と河童はいつて、わたしの掌にひと摘みの椎の實をのせて月光の中を歩きだしました。歩くといひますが、足が地についてゐるものやらゐないものやら背中のわたしにはわかりません。それよりもわたしは河童の背中の甲羅がわたしの身體の蕊(しん)にまでも傳はつて來るやうなきびしい冷さで、その上生ぐさい臭氣のある靑黑い苔のやうなもので一面に掩はれ、うつかり手をゆるめるとずるりと、辷り落ちてしまひさうなのに閉口しながらも、月光の中にあらはれる景色にうつとりとなつて、無意識のやうに椎の實を嚙つてゐたのです。河童はなんにもいはずに進んで行きます。野をわたり川をすぎ丘を越えて行くうちに、煙のやうに霞む竹林が爽やかに鳴つてゐる音を聞き、空には月光を受けた雲がちぎれながら走るのを見、やがて白絹のやうに光る海濱に出ました。河童は汀(みぎは)にうちよせて飛沫をあげてゐる波の中にどんどん入つて行きましたが、やがて渚の音も後の方に遠ざかり沖へ沖へと出て行きます。河童は海の上を歩いてゐるのですが、足はいくらか水の中に入つてゐるのか時々下の方で水を切るかすかな音がします。月に霞む水平線にぽつんと一つの島が見えますが、そこまでが今夜の旅の行程のやうです。海上を渡る風がさわやかに頰をなぶり、なんともいへずよい氣持です。河童はときどき突然のやうに身體を跼(かが)めます。そのたびにわたしは落ちさうになつて、慌てて河童の肩をしつかりと摑みますが、河童は進んで行くうちに水面近くを泳いでゐる魚を見つけるとそれを捕へるために跼むのでした。時には捕へ損じて皿をはじくやうなペちペちといふ舌打を洩らしますが、概ねはうまく捕へそのまますぐにむしやむしやと食べてしまひます。やはりわたしが信じたやうに河童といふものは椎の實のやうな植物よりも生臭い魚類の方が比較にならぬほど好きなのです。河童は魚を頭から尾から骨まで殘らず丹念に食べてしまふのですが、眼玉だけは棄てて行きます。とぽんとぽんと眼玉の落ちる音が波の上でします。わたしは曾祖母から聞いた話を思ひだしました。昔古い頃の漁師は海上に魚の眼玉が浮いてゐるのを見ると、それは河童が魚をとつた場所であることを知つてゐて、早速そこの附近に網を入れると必ず大漁があつたといふことでした。星が降り落ちるやうに輝いてゐることが、周圍にはなにもない迥(はる)かな海原に出て來た時に珍しいもののやうにわたしの眼にうつりました。こんなにも天に多くの星があるといふことをわたしはそれまで知らなかつたのです。水平線の上の島影がだんだんせり出して來るやうに大きくなつて來ます。河童は相かはらずなんにもいはず、まるでわたしが背中にゐるといふことを忘れてしまひでもしたやうに、一心に魚を捕へることに熱中して、時々わたしを駭(おどろ)かせては身體を曲げて魚を捕へ、これを食べて眼玉をすてながら波の上を行きます。

 ところが次第にわたしは困惑の頂上に達して來ました。はじめのたのしさはもはやすつかりなくなつて、わたしはほとんど色靑ざめて來ました。それはわたしの腹の中が妙に張つて來るとともに、わたしは迂潤(うかつ)にもそれまで忘却してゐた嚴しい傳説の掟に愕然として氣づいたのです。それは河童がなによりも人間の放屁が嫌ひであるといふことでした。それはわたしには嘗ては笑ひだしたいやうな飄逸(へういつ)な傳説でしたが、今この海上に來て河童の背の上で現實となつてあらはれて來た時に、わたしはほとんど膚に粟を生じ心は冷え切る思ひでありました。無意識のやうに口に含んでは嚙んだ椎の實がわたしの腹の中で次第に瓦斯(ガス)を釀成しはじめたことにわたしはやつと氣づいたのですぐこの時にならねばこの恐るべき掟を想起しなかつたとは、なんといふ迂愚なことでありましたらう。河童はいかに親しくして居るものであつても、ひとたび放屁の音を聞く時には最大の冷酷の仕打をするといふことは、わたしは充分に知つてゐたのです。わたしが今ここで放屁をすれば河童は怒つてたちまちわたしを海中に放棄して顧みないことは火を見るよりも明らかであります。わたしは腹を押へ、いかにしても島まで我慢しなくてはならぬと思ひました。河童はそんなことは無論氣づく筈もなく、しづかな水かきの音を立て相かはらず魚を捕へるために屈伸しながら月光に光る海上を進んで行きます。しかしながら人間の身體の生理はいかなる運命を誘致するとも避けがたいものでありませうか。わたしはもはや齒を喰ひしばり色靑ざめて我慢して居つたにもかかはらず、もうあまり遠くないと思はれる沖の島が眼前に大きくあらはれて來た時に、遂に最後の忍耐を失ひました。わたしは腹をしつかりと押へ、月と星との光る天を仰いで涙をたらし、父母と祖父母との名を呼び、遂に全く自分の意志がそこになかつたにもかかはらず放屁をしてしまひました。河童はふと立ち止り、ちらとわたしの方を振りかへりましたが、その時わたしはもう河童の背中から振ひ落され、海中深く人事不省になつて沈んで行つたのです。

 氣がついた時にわたしは足にうすい水かきが出來てゐることを知り、噎(む)せるやうな強い椎の實の匂ひにおどろくと同時に、わたしはまつくらなわたしの周圍で騷雨(しうう)のやうにはげしい音を立てて椎の實の落ちる音を聞きました。

 さあ月が出て來たやうです。これから沖の島に遊びに行きませう。椎の實をだいぶん食べましたね。殘りは持つて行つた方がよろしいでせう。わたしの背中に摑まんなさい。しつかり摑まつてゐないとわたしの背中の甲羅はずるずるしてゐるから辷りますよ。

 

2015/08/20

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅵ) 昭和元(一九二六)年 (全)

 

 昭和元年(一九二六)

 

 

 

 一月一日 金曜 

初東風や神代も同じ松の音

 

[やぶちゃん注:「初東風」老婆心乍ら、「はつごち」(濁音化するのが一般的)と読む新年の季語。年初になって初めて吹く東風(こち)、東からの風を指す。「東風(こち)」という響きには古来より春の訪れを感じさせる語感を強く含むものの、鑑賞上、通常実際には未だ冷たい風であることが多い点に注意が肝要なところではあろうが、この元日の日記冒頭には『天氣よく暖し。白雲棚引き、東風松の梢を渡る。暖き日の下小鳥なき渡る』とあり、午後にはごった返す香椎宮(かしいぐう:現在の福岡県福岡市東区香椎にある当時の官幣大社香椎宮。縁起によれば仲哀天皇九(二〇〇)年に神功皇后自ら祠を建てて仲哀天皇の神霊を祀ったのを起源とし、次いで神功皇后宮が元正天皇の養老七(七二三)年に皇后自身の神託に拠って朝廷が九州に詔りして社殿の造営を始め、聖武天皇の神亀元(七二四)年に竣工したもの。古えは両宮を併せて「香椎廟」と称したが、戦後の現在は単に「香椎宮」と称する。以上は香椎宮公式サイト内の記載に拠る)に初詣でし、句の前には『夜に入りて益々あたゝかし』とあるから、この句に限っては殊更に東風に冷気を感ずる必要は、ない。]

 

 

 

 一月十二日 火曜 

 葦津宮崎宮司胃癌治療先日見舞に行きしに、本朝葉書來る、和歌一首

 

  九女と猶都貴努惠の露にぬれて

   川良御忘るゝ日を暮しをり。

 

  うれし、わが返し

 

 まもります神の心をきそめせみ

  枕近き筥松の風

 

 病まば病めゐえなはゐえよ武士の

  矢竹の心にたゆみならめや

 

 みいたつきなぞゐえざらむ神松の

  綠を守る君にしあれば

 

 君が爲祈る心をうけ給へ

  心つくしの筥崎の神

 

 うつくしげ筥崎の松吹く風は

  世をすゝしめの神のこえこえ

 

[やぶちゃん注:全文掲載。最後の一首の「こえ」はママ。「こえこえ」の後半は底本では踊り字「〱」。「葦津宮崎宮司」は底本注に『葦津洗造、杉山家の氏神である筥崎宮の宮司』とある。現在の福岡県福岡市東区箱崎にある「筥崎宮」は「筥崎八幡宮」とも称し、宇佐・石清水両宮とともに「日本三大八幡宮」の一つに数えられる神社。旧筑前国一宮で当時の社格は官幣大社(現在は神社本庁別表神社)。筥崎宮公式サイト内の記載によれば、『御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である』延喜

二一(九二一)年に醍醐天皇の神勅により宸筆の「敵国降伏」が『下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立』、延長元(九二三)年には『筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました』とする。『鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り』、明治一八(一八八五)年には官幣中社に、大正三(一九一四)年には『官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています』とある。因みにこの筥崎宮楼門にある、元寇襲来の際の戦勝を祈願して亀山上皇が書いたとされ、戦前最後の幻の十銭切手で奇体な高値(三百万円とも)がつく「敵国降伏」という宸筆額で知られるが、この「敵國降伏」という宸筆はこれ以外に現在『伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれて』おり、縦横約十八センチメートルで『全部で三十七葉あ』ると筥崎宮公式サイトには書かれている。『社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録があります。特に』文永一一(一二七四)年の『蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山(かめやま)上皇が納められた事跡は有名で』、『楼門高く掲げられている額の文字は文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、謹写拡大したもの』とあるから、実はレプリカということであることが判る。]

 

 

 

 一月二十五日 月曜 

 餘は社に、久良は子供を迎へに通町へ。姉やはそのお供して、午前十一時四十八分和白發新博多へ。天氣よくあたゝかし。

 夜、崇福寺にて赤泥社短歌會、初め竹雨、選風、余僅三人歌十四首、選評中禪僧數名傍聽に來る。森太郎來る。夜、十一時通町へとまる。

 

街に住めば物音多く思ひ多し

  シミシミの花は咲けども

 

[やぶちゃん注:「」=「艹」(上)+{「並」から上部の一画及び二画を外したもの}(下)。意味も読みも不詳。「草」の異体字かと考えて中文サイトも縦覧したが見当たらない。「シミシミグサ」「シミシミサウ(シミシミソウ)」といった和名の顕花性植物(藻類を含む水棲性植物(様)類の可能性もあるか)も見当たらない。福岡固有の方言和名か? 一つだけふと浮かんだのは、仏事に供えるところの知られた被子植物綱アウストロバイレヤ目  Austrobaileyales マツブサ科に属するシキミ Illicium anisatum である(因みに本種は全草有毒で、種子に多く含まれるアニサチン等はヒトを死に至らあせる極めて高い強毒性の植物であることは、あまり知られているとは思われないので特に記しておきたい。詳しくは以下のリンク先を参照されたいが、例えばシキミを挿した仏前の水が腐りにくいのもこれによるものであろうと思われる)。これならば季節的には開花が一致する(葉の付け根から一つずつ出て春に咲き、花びらは淡黄色で細長く、やや捩じれたような印象を与える)。また、佐賀県唐津のJA直売所の関係者の記載の中に『当店でも、菊や、ユリ、シバ、しきみ(シミ)など取り揃えています』とあり、少なくとも佐賀唐津ではシキミを「シミ」と呼称していることが判った。また、ウィキの「シキミを見ると、中国では「莽草」、厳密には「日本莽草」と呼ばれ、『生薬としては日本でも莽草(ボウソウ)の名称を使う』とあるのであるが、この「莽」という漢字は見れば見るほど、ここに出る奇体な「」【=「艹」(上)+{「並」から上部の一画及び二画を外したもの}(下)】の字とよく似ているようにも私には見えるのである。ただフローラ系は私の守備範囲でなく、最早、これ以上の新発見は望めない(正直、関心が及ばないからである。悪しからず)。どうか、識者の御教授を乞うものである。

「崇福寺」位置的に見て現在の福岡県福岡市博多区千代にある臨済宗大徳寺派横岳山勅賜萬年崇福禅寺(そうふくぜんじ)であろう。福岡藩主黒田家の菩提寺としても知られ(夢野久作の先祖は杉山姓を称してより代々、黒田藩公侍臣御伽衆馬廻役を仰せ遣った旧藩の名臣名家でもあった)、嘗ては寺域も広大で海岸の千代の松原まで続く壮麗な伽藍であったが、福岡大空襲によってほぼ灰燼に帰したとウィキの「崇福寺福岡市にある。

「赤泥社」西原和海編「夢野久作著作集 1」の解題から察するに、夢野久作が勤務していた『九州日報』社内の短歌同好会の名と思われる。私の『夢野久作詩歌集成 始動 「赤泥社詠草」1』以下及び私の注等を参照されたい。底本の別注には『加藤介春。夢野久作等の詩の会』とはある。

「森太郎」不詳。]

み佛もゆるしてたもれ月のよさに

  み寺の庭に尿するなり

 

[やぶちゃん注:「尿する」老婆心乍ら、「すばりする」と読む。]

 

思ひ無く松原ゆけばいつしかに

  冬の日落ちて小鳥鳴き渡る

 

 お寺にて、キナコ餅を喰ひたるにつかえたり、胃散を飮む。

 

[やぶちゃん注:以上、関連性を考えて日記全文を示した。]

 

 

 

 二月一日 月曜 

縣廳にゆき、水産新聞の證書を受け取る。

豐吉君に皷をことづける。

――朝、朝鮮の伯父とナマコとオキユートを喰ふ。

 

[やぶちゃん注:「皷」これは実際の鼓のことではなく、後の推理小説「あやかしの鼓」のことであろう。この一月(初出は一月十日で『終日「皷」の原稿を書く』とある)より熱心に執筆、この後の五月には本作を『新青年』の創作推理小説募集に応募し、美事、二等に入選している(この時初めて夢野久作のペン・ネームを用いた)。

「豐吉」恐らくは夢野久作妻クラの弟である鎌田豊吉のことと思われる。底本注に『社会主義運動に入り、八幡製鉄所のストライキを指導し、浅原健三と共に活躍、治安当局の追及を受け』たために、この昭和元年頃には父鎌田良一とは関係が悪化していたとある。ここは草稿であった「あやかしの鼓」を読んで貰ったということのようにも読める(実際、これ以前に親族等に読んで貰うシーンが出る)が、しかし「ことづける」というのはどうもそうではないらしい。事実、この後、五月八日の二等当選の手紙まで「あやかしの鼓」についての記載は日記中に、ない。ということはこれは既にして決定稿であって、理由は不明乍ら、どうもこの鎌田豊吉を介して、この後に『新青年』に応募されたものと読むのが正しいように思われる。別な底本注によると、彼は後に実家から遂に『廃嫡され、困窮の中に死』んだとある。

「オキユート」現行では「おきゅう」「おきうと」と表記発音するのが一般的な、福岡県福岡市を中心に食されている海藻の加工食品である。「お救人」「浮太」「沖独活」等とも表記されるらしい。成分の実に九十六・五%は水分で、残りの内、タンパク質が〇・四%、炭水化物が三%、灰分が〇・二%と栄養は頗る低いが、独特の食感などが評価される。かく言う私も好物である。参照したウィキの「おきゅうと」によれば、『伝来は諸説あるが、「佐渡の『いごねり(えごねり)』が、博多に伝わった」とする説がある。江戸時代の『筑前国産物帳』では「うけうと」という名で紹介されている。もともとは福岡市の博多地区で食べられていたようだが、その後福岡市全体に広がり、さらには九州各地に広がりつつある。福岡市内では、毎朝行商人が売り歩いていた。福岡市内を中心に、おきゅうと専門の製造卸は』昭和七二(一九九七)年頃でも凡そ十店はあったらしい。一方で一九九〇年(昭和六十五年)代以降、福岡県内では原料である紅藻類の一種エゴノリ(アーケプラスチダ界  Archaeplastida 紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属 Campylaephora エゴノリ Campylaephora hypnaeoides)の不漁が続いており、二〇〇〇年代に入ってからは、現地では有意な大量生産が困難となり、『石川県の輪島市などから仕入れている。また、主食が米飯からパンなどに移っていることからかつてに比べて消費が低迷している』。『作り方は、原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」とも呼ばれる)と沖天(イギス、博多ではケボとも呼ばれる)をそれぞれ水洗いして天日干しする』(但し、状態を見ながら一~三回、これを繰り返す)。この時の歩留まりは七割程度であるが、『この工程を省くと味が悪くなり黒っぽい色のおきゅうとができるため、手間を惜しまない事が重要である。次に天日干ししたえご草と天日干しした沖天をおおよそ』七対三の割合で『酢を加え煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し常温で固まらせる。 博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られている』。『おきゅうとの良し悪しの見分け方として、あめ色をして、ひきがあるものは良く、逆に悪いものは、黒っぽいあめ色をしている。また、みどり色をしたものは、「おきゅうと」として売られているがまったくえご草が使われていないものもあり、天草が主原料の場合は「ところてん」であり「おきゅうと」ではない』。『新潟県や長野県では、えご草のみを原料としたほとんどおきゅうとと製法が同じ「えご(いご)」「いごねり(えごねり)」が食べられている。 おきゅうととの製法上の相違点は、えご草を天日干しせず、沖天を使用しないところである』。食べ方は、五ミリメートルから一センチメートルの『短冊状に切り、鰹節のうえに薬味としておろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油で食べるか、または芥子醤油やポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的である。もっぱら朝食の際に食べる』。変わった呼称であるが、この『語源については諸説あ』って、『沖で取れるウドという意味』・『キューと絞る手順があるから』『享保の飢饉の際に作られ、「救人(きゅうと)」と呼ばれるようになった』・『漁師に製法を教わったため、「沖人」となった』といった説があるそうである。『第二次世界大戦前、博多の町では明け方より、他の地方の納豆売りしじみ売りのように、おきゅうと売りが売り歩いたとい』い、その『掛け声は『おきうとワイとワイ、きうとワイ』というものだったと』ある。『山形県、秋田県、新潟県、長野県安曇野地方で食べられている「えご」(「いご」「えごねり」「いごねり」ともいう)や宮崎県の「キリンサイ」も、形は少し違うが紅藻類の海草を使う点で共通しており、同様の食品である』(個人的にはキリンサイの食感は堪えられない。石垣島で食して以来、大好物なのだが、本土ではまず入手困難である)。『えごは飢饉の際、漁師が見つけた海草を煮詰めて固めたもので、飢えをしのいだ事が由来とされ』、『福岡出身の実業家・出光佐三など、味を懐かしんで東京まで取り寄せて食べていたという例も多い』ともある。]

 

日本中豆子はお酌にきまつてる

 

[やぶちゃん注:句意不詳。識者の御教授を乞う。]

 

豆を撒くたんびに子供飛び上り

 

獨物豆も撒かずに寢てしまひ

 

女房が死水を取るいゝ役者

 

胎毒の後家の弗箱喰ひ破り

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「弗箱」は「ドルばこ」である。]

 

私は渡者ですがと渡者云ひ

 

 

 

 二月十八日 木曜 

[やぶちゃん注:前略。]

 夜、石井宅にて千代子の送別宴、出たらめ句會を催す。田中、中村、板東、榊、杉山叔父、石井、千代子、我。

 

[やぶちゃん注:「千代子」姻族の一人。夢野久作の異母妹たみ子の夫石井俊次の末妹。最後の句に「丸髷」とあることから、婚姻離福の送別会と推察する。]

 

渡場にカラ傘一つ春の雨

 

ヒザとヒザ物音もなし春の雨

 

君去りて初丸髷は癪のたね

 

等、夕吟出づ。

 

 二月二十日 土曜 

 

海苔そだやどこかひそかに夜の音

 

何を見にやどかりのぼる海苔の竹

 

海苔にまじる小魚も春の光り哉

 

ストーブの灰はくづれぬみつめ居る

 おのが心の何かくづれぬ

 

 

 

 二月二十二日 月曜 

 春さめのふる。

 

傘さして松原ゆくたれ誰やらむこの暮さめのしつかなる夕

 

野鼠の黑き姿の見えかくれ春のひろ野のはてなく光る

 

縣廳の玄關の靴ぬぐひ靴ぬぐふわれの小さき心

 

往來まで洩るゝ何かのアンコール何故となく唾はきてゆく

 

小夜を汽車過ぎゆけば驛長はサフランの鉢抱えてかへる

 

鐵砲を打つてみたいと思ふ心春靑々とたそがれてゆく

 

 

 

 二月二十五日 木曜 

 五時五十分の汽車にて歸る。

 

川端のまひるの月のつゝましや水の音にも湯ぬべく見えて

 

[やぶちゃん注:下の句「湯むべく見えて」読みも意味も不詳。識者の御教授を乞う。]

 

山々はまだあかるきにおのがじゝねむりて春の月を迎へぬ

 

町中でお月樣がと立ちとまる吾が兒を叱りふと涙ぐむ

 

煙突の煙がどうしても書けないといふこどもは偉大なる藝術家なるかな

 

何故に兒を叱るかと妻のいふそれを叱りてふと涙ぐむ

 

春の海石垣の上を白猫のあゆみあゆみてたそがれてゆく

 

[やぶちゃん注:「あゆみあゆみて」の「あゆみあゆみ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

何やらむ白き煙の立ちて居り消えんともせず春の山暮れぬ

 

春の月東の山に浮かみ出でぬ紡績の如く雨の長さよ

 

星まばらすみ渡る春の月の下雪化粧ひそやかに眠る

 

 

 

 二月二十七日 土曜 

 昨日よりの頭痛(何かの中毒らし)絶食のためやつと止みたり。されども午后二時に到り仕事進まざるため、パンと乳を攝れり。

 加藤君の詩集、眼と眼の評を書く。加藤君喜び詩を入れる。

 午后四時二十分妻子と共に、新博多發和白にて牛肉を買ひて歸り、ニンニクと共に煮て喰ふ。美味し。

 

輪轉機轟とまひ出すたまゆらを危く昂ふる吾が心かな

 

落日のなやみさらはう崖のかなた靑くうるめる春の月出づ

 

 

 

 二月二十八日 日曜 

 朝七時半起床。雨戸を開けば春霞棚引きたり。香椎郵便局長に會ひて、電話のこと相談。箱崎にてテニス。朝食林檎一つ。

 夜、靜かに耳鳴る。

 

わが昔の心見出でし悲しさよ、わが妻の弟父を怨める。

 

おろかなる戀なりけりとわが傍に、ねむれるものゝ鼻息をきく。

 

[やぶちゃん注:一首目は以前にも少し注したがここの底本注にも、『夢野久作の妻の実家、鎌田家において、父鎌田昌一と』、社会主義運動にどっぷり身を投じてしまっていた『弟鎌田豊吉の間に思想上、家庭上の』深刻な『対立があり、大きな激しい闘争が行われていた』ことに基づく一首であるとある。]

 

 

 

 三月三日 水曜 

 

輪轉機轟ろまひ出すたまゆらの、おさな心はひとり悲しも。

 

 

 

 三月十八日 木曜 

 朝、伊藤君と筥崎にてテニス。

 午后四時二十五分新博多發列車にて、妻と落ち合ふ。

 

花をやつたあとから札を勘定し

 

櫛卷の素顏であるくニクラシさ

 

髮一つあだにほつれぬ美人也 

 

 

 四月二十三日 金曜 

 石井にゆき、ひるねし、香椎へ歸り、うたひの原稿書く。雨ふる。

 

吾家の朝の光りに、裏畠の苺の花の數へられつゝ

 

汽車の窓に並びて蜂の一つ飛ぶ、春の光りのたまゆらなりけり



 四月二十六日 月曜 

 

けふも亦あだに暮しつ限り無き、生無身と思ひ知りつゝ。

 

[やぶちゃん注:「生無身」全くの勝手乍ら、私は「しやうむしん(しょうむしん)」と読み、「父母未生以前 (ぶもみしょういぜん)」と同義と読。自我の存在しない仏教世界に於ける絶対無差別無二の境地である無我の境地、即ち真の実相たる「空」の識界と採る。大方の御批判を俟つ。]

 

 

 

 五月八日 土曜 

 

苺の花一つ一つにたそがれて、やがてみそらに生いでにけり。

 

[やぶちゃん注:「一つ一つ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

 

 

 五月十一日 火曜 

 朝、風強く。午后凪ぐ。

 終日、精神生理學の原稿を書く。

 

正夢の話をきけば寢小便

 

夢ばかり見てゐると書く噓ばかり

 

夢に見たが眞綿で首のしめ初め

 

何だいとよくよく見れば瞳のゴミ

 

[やぶちゃん注:「よくよく」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

思案ごと忘れて瞳のゴミを取り

 

夢を見るやうな眼つきで暗を掘り

 

夢の場面やる本人の馬鹿らしさ

 

人間萬事夢だと坊主錢を取り

 

[やぶちゃん注:「精神生理學の原稿」言わずもがな乍ら、後の「ドグラ・マグラ」の初期稿のことを指す。因みに「ドクラ・マグラ」は(松栢館書店からの単行本出版)実にこの九年後の昭和一〇(一九三五)年一月のことであった。]

 

 

 

 五月二十日 木曜 

 午后三時五十三分本線にて出福。河原田にて原稿紙を買ひ、梅津を見舞ひ古賀にゆき、柴藤にてうたひうたふ。

 

 

 

 五月二十三日 日曜 

[やぶちゃん注:前略。]

 朝來雨模樣、暗雲西に去る。密柑の花白く香氣甚し。觸るればバラバラと落つ。

 

空暗く思ひも暗きたそがれを、みかんの花のホロホロと落つ

 

[やぶちゃん注:「バラバラ」「ホロホロ」の後半は底本では孰れも踊り字「〱」。]

 

 

 

 六月六日 日曜 

 晴天。家のねづみふえたり。トマト芽立ち、蛇出て空靑し。秋蟲の聲はやきこゆ。

 午前原稿。

 チソ、タデ、トマトを植ゆ。

 

永き日の夕日ざししみじみふりかへり、

 縞ある蛇の笹の集わたる。

 

蚊多し。

 

[やぶちゃん注:「原稿」はここのところほぼ毎日記している「狂人」という作品、即ち、後の「ドクラ・マグラ」の初稿である。]

 

 

 

 六月十四日 月曜 

 

大あくび待合室をねめまはし

 

大あくび前の美人をふとにらみ

 

あくびして睨んでもまだ座つてゐ

 

湯のぬるさあくびの尻が歌になり

 

おいしさうにあくびをたべてニツコリし

 

きんたまがのどまであがる大あくび

 

基督の先祖に八つのコブがあり

 

大あくびガマ口だけは握つてゐ

 

標本になつたが瘤の名譽也

 

瘤つきになつて嬶のお伴をし

 

終電車あくびとあくび二人切り

 

 

 

 六月十七日 木曜 

 

永き日を蟻のあゆみのもどかしさ、

 切れ凧の枝にかゝりて又しばし

 

 

 

 六月二十日 日曜 

 終日蒸し暑く、夜に入りて曇る。トマト等に水をやる。原稿を書き。夕食にカン詰めのハムライスとジヤガ芋をたべる。龍丸にお話しをして寢る。

 

友のくれしくるはしき花咲きいでぬ

 名を思ひ出でず夏の夕ぐれ

 

痛々しくダリヤしぼみぬ狂はしき

 姿おはりぬ風無き夕ぐれ

 

高くかける信天翁のみ目にしみて

 スコナーの海にくれ果てむとす

 

君は君が悲しみのため涙ながす

 われはわがために吐息するなる

 

[やぶちゃん注:「スコナー」英語に“scorner”があり、発言又は表情によって軽蔑を表す人を指すが、三首目の意はそれでは私には汲めない。識者の御教授を乞う。]

 

 

 六月二十一日 月曜

 土赤く、山綠に空靑く、風無く雲亦無し、何とも云へぬ好晴なり。

 終日原稿書き、夕方より畠に灌水す。

 夕食、ニラとキヤベツ卷き。龍丸又話をせがむ。

 

更くる夜をうちつれてなく雨俺ひとり淋しく眼をとづれば

 

月出でず蛙もなかず只一人ひろ野のはてに來は來つれども

 

妻子にも告げ得でありぬ年毎につばなのゆらぐ吾家の淋しさ

 

吾好む夏の夕べの甘ずゆきトマトの葉に赤き日しづむ

 

土に居てトマトをしやぶりながむれば夏の夕日の甘ずゆきかな

 

[やぶちゃん注:「つばな」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica の初夏に出る穂のこと。細長い円柱形を成し、葉よりも高く伸び上がって、ほぼ真っ直ぐに立つ。分枝はなく、真っ白の綿毛に包まれており、よく目立つ。種子はこの綿毛に風を受けて遠くまで飛ぶ(ウィキの「チガヤに拠った)。個人的に私の大好きな花である。]

 

 

 

 六月二十二日 火曜 

 

山つゝじ赤々咲きぬ薄ら日に鳥の遠音のさす丘の上

 

まんまんと汐滿ち足らひ鐵橋のはるかに赤く春の陽しづむ

 

[やぶちゃん注:「まんまん」の後半は底本では孰れも踊り字「〱」。]

 

ましろなる煉瓦の家を建てをへて工科大學に秋早く來ぬ

 

曇り日の下に立ち並ぶ材木のにほひしみじみ春闌けにけり

 

[やぶちゃん注:「しみじみ」の後半は底本では孰れも踊り字「〲」。]

 

初夏の靑空嬉し馬の香のひそやかにして材木並べり

 

 

 

 六月二十三日 水曜 

 

寢苦しく曉かけてながめしが鐵錆色の雲に入る月

 

砂ほこりポプラ並木のゆらぐ見ゆ春のおはりの町の行手に

 

いつしかに桐の花咲き靑空のそこはかとなく雲の漂ふ

 

吾が心狂ひ得ぬこそ悲しけれ狂へと責むる鞭をみつめて

 

實直なるズボンの裾の悲しさよともしびしげき眞夏の夕暮れ

 

靑空より直線に來る光り海岸にある吾家うれしも

 

 

 

 六月二十四日 木曜 

 

乞食僧のおろかなる顏よぎりゆく石南花の咲く門の晝過

 

萬卷の書物も悲し圖書館のま夏まひるを人のゐねむる

 

 

 

 六月二十八日 月曜 

 昨今、今日より田植えの爲學校休み也。

 終日雨ふる。

 

小さき蟲ら悲しき聲をして死ぬる

 燈を見れば夜ふけわたる。

 

 

 

 七月三十一日 土曜 

 

物かけばペンの響きに蟲の音に秋の音する夏のたそがれ

 

はるかなる月の影かなしづかなるわが心悲しく靜かに

 

 

 八月十五日 日曜 

 關門の大空に、月はるかなり。

 

われふるさとに春はるかなり

 

明日開く朝顏の數夢に入る

 

朝顏の數をつくして小雨哉

 

朝顏や誰が蒔き捨てし野雪隱

 

 

 

 八月十六日 月曜 

 

朝顏の數を數ふる吾が兒哉

 

夕顏や眞上に光る一つ星

 

朝顏の名を思ひつかず水を遣る

 

 

 

 八月十七日 火曜 

 

朝顏や今年も隣から咲いて來る

 

朝顏や九尺二間を幾並び

 

[やぶちゃん注:「九尺二間」これは縦横で「九尺」は約二百七十センチメートル、「二間」三百六十センチメートルであるから、二・七×三=九・七二平方メートルとなり、通常の一坪は凡そ約三・三平方メートルであるから、この朝顔を植えたスペースは凡そ三坪はあったことになる。]

 

云はぬとして云ひ得ぬ心筆取りて

 

つながりもなきことば並ぶる

 

 

 

 八月十八日 水曜 

 

風狂ひ草なびき伏し雲かけり、わがさけぶ聲きえきえとなる。

 

山も海もまぶしく光り小蒸氣の、潮に逆ひゆるゆるとゆく。

 

[やぶちゃん注:「きえきえ」「ゆるゆる」の後半は底本では孰れも踊り字「〱」。]

 

 

 

 八月十九日 木曜 

 

お前さんが馬鹿だからと嬶云ひ

 

利口なら歸りはせぬと亭主云ひ

 

 

 

 八月二十日 金曜 

 

秋の夜更け蟲一つなき、わが眼玉いよいよ大きく開きゆくかな

 

わがあゆみたゆみがちなりゆく道の、ましろく遠く秋の目しづむ

 

あの星まで何里あるかと忰きゝ

 

東京へ來ると電車に乘らぬ也

 

タキシーさなど忰は口で吹き

 

 

 

 八月二十三日 月曜 

 朝、梅津正保君と博多驛より出發。正保君戸畑下車。余、小倉下車。森安雄君の處に行き綾子以下に會ふ。

 綾子曰く、安雄さん默つて家を建てた。

 安雄君曰く、我性分也。安雄君ビールを飮みて氣焰を擧ぐ。余又擧ぐ。

 釜關連絡船景福丸にて朝鮮に向ふ。月淸く風無し。

 

  明月の關門の空はるかなり、われ故郷に又はるかなり。

 

[やぶちゃん注:この日から八月二十九日に下関に帰着するまで実質滞在五日ほど、大韓民国の釜山などを夢野久作は訪問している。特異点であり、最後の一句も詩文調なれば、全文を掲示した。]

 

 

 

 十月十五日 金曜 

 朝、空一面に灰色の雲、土と草葉濡れてかゝやき、コスモス白く美しく淋し。

 

曇り日のコスモス白く美しく

 されどさみしく亂れ咲く哉

 

 小菜を負ひて香椎より出福福。中野邸に到りテニス。午后、安田にてけいこ。鶴原、權藤、安田、戸次、佐藤。

 夜、幼稚園にてけいこ。猩々、羽衣。

 

コスモスの白く亂るゝ淋しさよ

 

降るみふらずみ暮るゝたそがれ

 

 

 

 十月三十一日 日曜 

 修猷館にて先生と庭球、四組をたふす。山口のコートにてテニス。

 柴藤にとまる。柴藤、熊坂の形のけいこ。

 

ほんとうに彼は彼なり醉ひしれて

 或る夜の溝に落ちて死にけり

 

 鎌田一家來られ、家の山の松茸をとらる。喜ばれし由。

 

[やぶちゃん注:以下、この年は総じて「十二月三十一日 金曜」迄、実に小まめに日記が記されているが、以上以外には、私が詩歌と断ずる章句は認められなかった。くれぐれも底本を熟読されんことを。]

2015/08/19

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十五年(全) 薬師寺/お水取/唐招提寺/K病院 

 

 昭和三十五年

 

 薬師寺

 

強白(こはじろ)の息ぬくぬくと吉祥(きちじやう)讃

 

人香に仏香勝てり吉祥会(きちじやうゑ)

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三五(一九六〇)年に、『三月、東大寺二月堂の修二会(お水取)を拝する。二月堂の内陣の裏にある局(つぼね)から、桟窓(さま)格子を隔てて見る、東大寺独特の古格のあるいおおらかな声明』(しょうみょう)『を聞き、「走りの行法」や「ダッタンの行法」を見る』とある。後にも出る「桟窓格子」はよく分からない(興味なく、特に調べたくもない)。興味もないのでグーグル画像検索「桟窓格子をリンクしておく。「走りの行法」は三月五日からの三日間及び三月十二日からの三日間、後夜の悔過作法の前に行われ、本尊十一面観音の十一の面の内の頂上仏面を「南無頂上」「南無最上」などと呼称して礼拝、須弥壇の周りを回りながら一人ずつ礼堂に出て五体投地する。だんだんと歩調が早くなり、はじめは木の沓(さしかけ)を履いているが、やがてそれを脱いで最後に裸足で走るようになる、とウィキ修二会にはある。「ダッタンの行法」同前のウィキの「咒師作法(しゅしさほう)と達陀(だったん)の行法」の中に、『咒師作法は咒師が須弥壇の周りを回りながら、清めの水(洒水)を撒き、印を結んで呪文を唱えるなど、密教的な儀式である。鈴を鳴らして四方に向かって四天王を勧請するのもその一環で』、三月十二日以降の三日間は、後夜の咒師作法の間に達陀の行法が行われるとし、達陀(だったん)の行法は、堂司以下八人の『練行衆が兜のような「達陀帽」をかぶり異様な風体で道場を清めた後、燃えさかる大きな松明を持った「火天」が、洒水器を持った「水天」とともに須弥壇の周りを回り、跳ねながら松明を何度も礼堂に突き出す所作をする。咒師が「ハッタ」と声をかけると、松明は床にたたきつけられ火の粉が飛び散る。修二会の中でもっとも勇壮でまた謎に満ちた行事である』とある。国家鎮護をのみ主体として衆生を救わない東大寺祭祀儀式には私は全く興味がない。ご自分でお調べ戴きたい。なお、『その日の全ての行法を終えて参籠宿所に戻るときには「ちょうず、ちょうず」と声を掛け合いながら石段を駆け下りる。「ちょうず」とは手洗い、トイレのことである。ある時、行法を終えて帰ると、烏天狗たちがやってきて行法のまねをしていたことがわかったので、ちょっと手洗いにゆくのだと思わせるためにこういうのだそうである』と付記されてあることは引いておこう。「強白」不詳。興味なし。なお、東大寺法華堂には重要文化財塑造の吉祥天立像がある破損は激しいが日本最古級の吉祥天像として貴重とされる)。「吉祥讃」吉祥天を祀る呪言と思われるが不詳。興味なし。前注参照。「吉祥会」修二会でも特に前記の吉祥天を祀る祭儀と思われるが不詳。興味なし。]

 

   *

 

炉より立ちひとりの刻をさつと捨つ

 

炉框の方形の方待ち時間

 

熾る炉火その上言葉ゆききする

 

ただ寒き壁大仏の背面は

 

冬晴の影ふかぶかと伽藍の溝

 

森をゆく頭上に遠き秋の晴れ

 

湖北に寝てなほ北空の鴨のこゑ

 

右傾直せば左傾不機嫌耕耘機

 

心底より深杢ゆるす冬泉

 

うつむくは堪へる姿ぞ髪洗ふ

 

前燈に枯野枯道行方知らぬ

 

線虫載せおのが手相をおのが見る

 

蜂もがく生きるためにか死ぬためにか

 

溺るゝとも蜂一匹の死に過ぎず

 

霞む山引つかへさざる鴉の翼(はね)

 

山火の夜光りもせずに溝流れ

 

紅と方向楷示器吹雪の中の意志

 

雪とけて凍る靴底一直路

 

暗くふかく家裡見えて雪深道

 

 

 

 お水取

 

火がついて修二会(しゆにゑ)松明(たいまつ)たちまち惨

 

火の修二会闇に女人を結界して

 

修二会の闇われ方尺の女座を得て

 

桟窓(さま)格子透きてへだてて修二会女座

 

火を滴々修二会松明炎えほろぶ

 

   走りの行法

 

刻みじかし走りて駆けて修二会僧

 

修二会走る走る女人をおきざりに

 

飴ふくむつばとくとくと修二会の闇

 

一睡さめ身が覚めきつて修二会女座

 

   ダツタンの行法

 

水散華火散華修二会僧たのしや

 

西天に赫きオリオン修二会後夜

 

   *

 

椿華鬘(けまん)重し花蕊をつらぬきて

 

[やぶちゃん注:「華鬘(けまん)」は通常、仏前を荘厳(しょうごん) するために仏殿の内陣や欄間などに掛ける仏具で、金銅・牛革製の円形又は楕円形のものに唐草や蓮華  を透かし彫りにして下縁に総状の金物や鈴を垂らしたものを言うが、ここは椿の花全体のそれを華鬘に譬えたもの。]

落椿くもる地上の今日の紅

 

二タ雲雀鳴きあふ低き天もたのし

 

 

 

 唐招

 

散りづめの桜盲眼もつて生く

 

嘴(はし)こぼる雀の愛語伽藍消え
 

[やぶちゃん注:「愛語」は「あいご」で、仏語。優しい、相手の気に入る、相手の心に訴える、暖かい心の籠った言葉をかけることを指す。仏教を実践する人が人々を惹きつけるために具えているという四種の美点たる「四摂事法(ししょうじぼう)」(他に分かち合う「布施」・相手のために相手を利する「利行(りぎょう)」・平等に接する「同事」)の一つで、「愛語(あいご)摂(しょう)」とも言う。ここはそれを多佳子は雀の囀りに聴いたのである。]

 
    *

 

こゑ断つて虻が牡丹にもぐり入る

 

牡丹畑はげしき雨に雨衣頭巾

 

生きてゆく時の切れ目よ藤垂りて

 

青嵐ガラス戸ひらき何招ず

 

青嵐危ふきときは身を屈し

 

静臥の上巣藁一本づつ加はる

 

静臥の上巣つくり雀しやべりづめ

 

蟻殺し殺し身力を信じくる

 

青嵐静臥の椅子に身を縛し

 

おとろへて生(せい)あざやかや桜八重

 

病蝶を一蝶の翅うちうちて

 

蝶蜂の薊静臥の主花として

 

眼つむれば泉の誘ひひたすらなる

 

静臥飽く流泉のこゑ蜂のこゑ

 

ほととぎす叫びをおのが在処(ありど)とす

 

 

 

 K病院

 

走馬燈昼のからくり風にまはる

 

   天神祭

 

病院の壁に囚はれ祭囃子

 

鉄格子天神祭押しよせる

 

   *

 

九月来箸をつかんでまた生きる

 

九月の地蹠ぴつたり生きて立つ

 

朝より暑汝も飢ゑ顔煤雀

 

虫のこゑベツド鉄脚つつぱつて

 

ちちろ虫寝よ寝よとこゑ切らず

 

深青の天のクレパスうろこ雲

 

人恋へり鱗つばらにうろこ雲

 

起きて見る木床秋日が煮つまつて

 

軽々と抱きて移さる秋日和

 

紅き実がぎつしり柘榴どこ割つても

 

深裂けの柘榴一粒だにこぼれず

 

雀・仔猫病院やつと露乾く

 

点滴注射遠く遠くに木の実落つ

 

露ベツド人の言葉を瞼で享け

 

しやぼん玉吹いてみづからふりかぶる

 

雁のこゑわが六尺のベツド過ぐ

 

[やぶちゃん注:「六尺」一・八メートル。]

 

病み勝つて日々木の葉髪木の葉髪

 

忘れゐし花よ其白き枇杷五瓣

 

柿・栗吾にもたらし食べよ食べよ

 

秋の蝶病院のどの屋根越え来し

 

綿虫の浮游病院の屋根越せず

 

病室に柿色かたまる柿もらひ

 

蝙蝠がゆきて病院燈がともる

 

晴れて到る人の訃シベリヤ高気圧

 

霧の太陽すずめの中の病院鳩

 

病院の六十年史子連れの油虫

 

   十二月十日退院す

 

退院車入りてまぎれて師走街

 

藁塚が群れて迎ふる退院車

 

臥して見る冬燈のひくさこゝは我家

 

[やぶちゃん注:多佳子はこの昭和三五(一九六〇)年七月に胆嚢を病み、大阪中之島の大阪回生病院に入院しているから、「K病院」とはそこを指す。句中に出る「柘榴」は見舞った俳人大喜多冬浪の持参したもの。句にあるように、年譜によれば多佳子はベット上でシャボン玉を吹いて遊んだりした(実にお目出度い入院生活である)。この入院期の句群を年譜記者堀内薫は、『多佳子俳句の真声、新境地の句』で実に『自由な表現の写生句』とし、『誓子の内部構造俳句を必死に勉強した』結果、この期に及んでそれが遂に『多佳子の血肉と化し、多佳子の気息を通して、新らしく生まれ出た表現の句である』と手放しで絶賛している(言っておくが、私は全くそう感じない)。因みに、実際の退院は、前書より五日後の十二月十五日で入院は実に六ヶ月に及んだ。]

 

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十四年 長浜/薪能/壬生大念仏/桜狩/由布 昭和三十四年~了

 

 長浜

 

夕冴ゆる雪嶺ちりめん織られゆく

 

灰削げば真紅な炭火ちりめん織る

 

冬日移るちりめん白地一寸織られ

 

機絲の凍て柔指にほぐれ出す汐

 

ちりめん織る冬の一日の時間の量

 

寒き光織子の頰の総生毛

 

絲の継傷ちりめんの白地冴え

 

織子寒し千の縦絲一本切れ

 

凍て機の縦絲を搔き鳴らして検(み)る

 

雪嶺下藍つぼ紅つぼ深し深し

 

  湖北尾上

 

沈み友禅寒水の流れゆるみ

 

鴫群の鴨翔つ従ひしは数羽

 

雪明りこゑももらさず餌場の鴨

 

鴨毟る雪降らざれば止まぬなり

 

鴨浮寝はぐれし一羽降り来たり

 

はぐれ鴨加はりすぐに夜の鴨

 

春雷のあとの奈落に寝がへりす

 

[やぶちゃん注:底本年譜昭和三四(一九五九)年一月の条に、『琵琶湖の長浜で、ちりめん工場を見学する、清子同伴』とある。ここ滋賀県長浜市を中心に製される縮緬は「浜ちりめん」と称し、高級絹織物の総称で滋賀県の地場産業である。「丹後ちりめん」とともに古えよりの縮緬の二大産地の一つである。ウィキの「浜ちりめん」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『古文書(『古事記』及び『風土記』)によれば、古く元明天皇の和銅五年(七一二年)に『近江国他に令を始めて綾絹を織らしむ』。光孝天皇の仁和三年(八八七年)には『近江等の国より絹を貢す』と記されている。又、平安時代の記録では蚕糸生産において上糸生産の筆頭の国とあり、近江では太古より絹織物が織られ、上質の糸を生産していたことがわかる』。近世の天正年間(一五七三年~一五九一年)には『大明国の職工が泉州堺に渡来し、日本に伝えられたとされる。豊臣秀吉による天下統一後『ちりめん』生産の中心は堺から京(西陣)に移り』、享保年間(一七一六年~一七三五年)になると、縮緬技術は丹後の加悦谷や峰山にも伝えられたという。『『浜ちりめん』の始まりは江戸時代中期に、近江浅井郡大郷村(現滋賀県長浜市)の中村林助と乾庄九郎により丹後より技術がもたらされ、大郷村の南浜、中浜、八木浜で手工業として織られていた『ちりめん』が長浜に集荷され、京・大阪方面で販売されたものとされる。長浜の『ちりめん』であることから浜ちりめん(長浜ちりめん)と呼ばれた』。名織師であった『中村林助と乾庄九郎が生まれた大郷村難波は、度々起こる姉川と高時川の氾濫による水害によって年貢米も納めかねるほど疲弊していた。水害に強い桑を植え養蚕に力を入れていたが、江戸時代中期には生糸の値段が下がり、大郷周辺の村々は困窮の極みに達していた。林助と庄九郎はこの状態を何とかしたいと考えていたところ、近隣の上八木村に蚕紙を買いに来た丹後宮津の商人庄右衛門から、「丹後では『ちりめん』織りを始めてから農民にも余裕ができるようになった」との話を聞き、早速『ちりめん』織りの技術を学びに丹後に行き、又、丹後から庄右衛門に来てもらい、村の人達に技術を伝えた。林助と庄九郎は宝暦二年十二月(一七五三年一月)領主である彦根藩に届を出した上で、農閑期に『ちりめん』を織りそして販売することを始めた。これが『浜ちりめん』の最初と伝えられ、中村林助と乾庄九郎の二人は『浜ちりめん』の創始者と言われ』ているという。その後、縮緬織の『生産はすぐに大郷村周辺から長浜全域へと広がり、琵琶湖を通って京でも販売されるようになった。これに対して京の業者達が「自分たちの営業を妨げるもの」として京都町奉行に訴えでたことから、林助と庄九郎は「(浜ちりめんを京で売ったのは)私利ではなく、村の困苦を救うため」と弁解したが、許されずに京での販売を禁じられた上、捕縛・入獄させられてしまった。村人の嘆願や領主である彦根藩からの働きもあり、漸く四年後解き放たれると共に、『浜ちりめん』の京での販売も認められることになった。この時、林助と庄九郎は大変喜び、西陣に勝ったことから、自分たちのちりめんを『西勝ちりめん』と呼んだ。彦根藩は林助と庄九郎の功績を称え、二人を『浜ちりめん』の織元に任じ、製品の検査を行わせ検印料徴収の特権を与えた。これにより、織元の検印を得られない粗悪品は販売できないことから、製品への信用力を得ることができ、彦根藩は『浜ちりめん』を年貢の対象とし、藩が保護した結果重要な特産品として発展』、浜縮緬は近江商人特に湖東地区の商人によって全国的に売られるようになった。しかし、『明治時代に入り、彦根藩による保護、統制が無くなると粗製乱造されたため、一時全国において信用を大いに失った』。しかし、明治十九年(一八八六年)三月の農商務省令によって『近江縮緬絹縮業組合が創設され、同組合による統制と県の支援による指導研究と機械化推進により、現在まで重要な地場産業の一つとして発展した。滋賀県は大正四年(一九一五年)サンフランシスコで開かれた万国博覧会に『浜ちりめん』を出展し輸出を志向したが、輸出が盛んになることはなかった』。浜縮緬の特徴は、『強撚糸を用いシボ(さざ波のような生地上の皺)の高い重目の無地織物を主体とする。『丹後ちりめん』は平織地に文様を織り出した綸子などの紋織物を主体と』し、『種類としては、シボの高い最高級の『一越ちりめん』、『古代ちりめん』、縦糸横糸を撚糸の工程で変化させた『変わり織ちりめん』、絹の紡織糸を使って織った『浜つむぎ』がある』とある。

「湖北尾上」現在の滋賀県長浜市湖北町尾上地区。JR北陸本線の長浜駅から西北へ凡そ十キロメートルの位置にある琵琶湖畔にある温泉街、琵琶湖漁業の古くからの漁港でもある。嘗ては縮緬工場も多くあったという。]

 

 

 

 薪能

 

薪能枝を入日に枯桜

 

春夕べ舞の女面の狭き視野

 

咽喉笛を女面の下に薪能

 

薪能執しあひつつ二夕火焰

 

薪能雑色のみに火の熱気

 

薪能火焰熱しと眼に観じ

 

薪能悔過の女面を火の粉責め

 

[やぶちゃん注:何処の薪能か不詳。識者の御教授を乞う(年譜に記載なし)。最後の句の「悔過」は「けか」と読み、仏教用語で罪や過失を懺悔すること、或いは儀式の上で仏菩薩等の前で自らが犯した身体的行動上の罪悪・言動上の罪悪・心理的精神的罪悪意識を懺悔することを指す。]

 

 

 

 壬生大念仏

 

   「壬生念仏」は黙劇で、鉦・太鼓・笛につれ

   て口中念仏を唱へつつ、狂言が演ぜられる。

   中でも「抱烙割」が代表的。

 

目つむれば鉦と鼓(こ)のみや壬生念仏

 

壬生念仏とても女(め)なればみめよき面(めん)

 

壬生念仏身振りの手足語りづめ

 

壬生念仏「喰はれ子」鬼に抱へられ

 

炮烙割れし微塵の微塵壬生念仏

 

春の日を壬生念仏が牽きとどむ

 

天に蝶壬生念仏の褪せ衣

 

[やぶちゃん注:「壬生大念仏」壬生狂言(みぶきょうげん)のこと。元来は大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)の一種で、濫觴は融通念仏(大念仏)の中興者円覚上人による念仏の教えを無言劇化したものとされる。融通念仏は、摂津国の大念仏寺(大阪市平野区)を根本道場として良忍(聖応大師)によって始められたもので、これはその方便してその教化のために創作された念仏狂言という。後に京の清凉寺や壬生寺などでこれを発展させた融通念仏が盛んになり、壬生寺・清凉寺・千本閻魔堂・神泉苑には円覚上人による原初に近い大念仏狂言が伝えられているという(ここはウィキの「大念仏狂言」に拠る)。ウィキの「壬生狂言」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、これは毎年節分と四月及び十月に京都市中京区の壬生寺(みぶでら)で演じられる無言劇である(現在は重要無形民俗文化財指定)。約七百年の歴史を持ち、演目は現存三十曲に及ぶ。『仮面をつけた演者が、鉦・太鼓・笛の囃子に合わせ、無言で演じる。演目は全部で三十ある。演目には、勧善懲悪などの教訓を伝える話や、平家物語・御伽草子などに取材した話がある。煎餅を観客席に投げる(愛宕詣り)、紙でできた糸を観客席に投げる(土蜘蛛)、綱渡りをする(鵺)(蟹殿)、素焼きの皿(焙烙)を割る(炮烙割り)といった派手な見せ場を持つ演目もある。鉦と太鼓の音から「壬生寺のカンデンデン」の愛称で親しまれている』。『壬生狂言を伝承し演じるのは、壬生大念仏講中の人々である。地元の小学生から長老まで約四十人が壬生大念仏講中を構成し、学校通い、会社勤め、商いなどの本職のかたわらに練習をし、公演をして』おり、現在の公演は年三回で、二月の節分前日と当日の二日間の節分会、四月二十九日から五月五日までの七日間の大念仏会、十月の「体育の日」までの三日間の秋の特別公開に限られている。多佳子はわざわざ「壬生大念仏」という標題を掲げているから、この四月二十九日から五月五日までの七日間の大念仏会での嘱目吟と思われるが、年譜には記載がない。既に述べているが、鎌倉末期の正安二(一三〇〇)年、『融通念仏宗の円覚上人によって創始されたと伝えられている融通念仏の狂言』で、『拡声器のない時代に、仏教を群衆にわかりやすく説くために、大げさな身ぶり手ぶりで表現する無言劇の形態が採用されたという。念仏狂言が無言劇化した理由については、本来、大衆が念仏をする前で行なわれたものであったために、台詞を発しても念仏の声にかき消されて伝わらないので無言になったとする説もある。なお、同じ念仏狂言でも、千本閻魔堂のものは、台詞入りで行なわれている』とあり、『江戸時代になると、布教活動としての色彩が薄れ、大衆娯楽として発展した。能や狂言、物語に取材し、新しい演目が考案された』とも記す。以上の引用や多佳子が特に挙げる演目「炮烙割(ほうらくわり)」は特に『四月の大念仏会の公演では、必ず毎日の最初に催される演目であり、二月の節分会の際に奉納された』多量の炮烙が』、この演目の最後に派手に割られることで知られる(私は同寺へ行ったこともなく、未見)。『炮烙が割れると願い事が成就するとされている』と解説にある。当該壬生狂言演舞をSankeiNews 氏のアップした「炮烙割」の動画で見られる。かなり豪快に割られるのが判る。必見。

『壬生念仏「喰はれ子」鬼に抱へられ』という句は何の演目を言っているのかよく分からない。鬼子母神を考えたが、演目一覧から見るとそれらしいのは「安達が原」ぐらいか? 識者の御教授を乞う。]

 

 

 

 桜狩

 

つづみうつ肉手丁々都踊

 

修学旅行緘黙紅き都踊

 

桜狩葬煙をいぶかりもせず

 

   *

 

花桐や城址虚しき高さ保(も)つ

 

城址の記憶落窪と金鳳華

 

密集の金魚に選別手網(たも)入れる

 

幣ひらひら夜も水口(みなぐち)の神います

 

まくらせる北の空にてほととぎす

 

暁の雨蛙また枕ひびく

 

ひた翔くるこゑほととぎす鳴いて過ぐ

 

仰臥する胸ほととぎす縦横に

 

噴き出づる汗もて汗の身を潔め

 

麦の秋無縁の基に名をとどめ

 

十薬の匂ひにおのれひき据ゑる

 

[やぶちゃん注:底本年譜に、この昭和三十四年の『初夏、「七曜」吟行句会で、大和郡山市の郡山城址、金魚養池等を吟行』と記す。私は行ったこともなく、興味もないのでこれ以上の注は附さない。正直、晩年の多佳子の句柄には全体に彼女らしいキレがなくなってしまっている。目の止まる句も頗る少ない。セレブ女流俳人の好き勝手我儘放題なアバンチュール嘱目吟にはどうも親近感が湧かぬというのが本音である。悪しからず。]

 

 

 

 由布

 

  NHK・二六会の仲間とこがね丸にて別府・

  由布原へ旅立つ。

 

炎天に冥きこゑごゑ蜂巣箱

 

翅のうなりが蜂の存在青裾野

 

近づき過ぎバスに由布岳青胴のみ

 

青双丘乳房と名づけ開拓民

 

  志高湖

 

湖底に合す鶴見青裾由布青裾

 

昼浴衣地獄げむりを身に纏きて

 

過去見るかに老婆泉を長眺め

 

蜜まづき花のかぼちやに遠来し蜂

 

[やぶちゃん注:底本年譜に『七月、NHK二六会員と、こがね丸にて、別府、由布原へ旅行。由布高原をドライブ、志高湖へ』とある。「NHK二六会員」不詳。興味なし。「こがね丸」不詳。同前、興味なし。「由布原」由布高原の旧地域名と思われるが不詳。同前、興味なし。「志高湖」「しだかこ」と読む。現在の大分県別府市内の鶴見岳南東側山腹にある湖。現在は「阿蘇くじゅう国立公園」に含まれ、戦前は「別府三勝」の内の一つとして有名であった別府を代表する観光地の一つ。海抜約六百メートルの高原にあり、周囲約二キロメートル・湖面積約九万平方メートル・水深約二~五メートル。貯水量約二百五十キロトン。『キャンプ場、管理釣り場、貸しボート等の施設が整備されており、湖には白鳥が遊び、鯉が放流されている。また、南東側に位置しハナショウブの名所として名高い神楽女湖とは、遊歩道で結ばれている』。『この湖には流入する川がないため、ポンプで汲み上げた地下水を給水している。しかし、アオコの発生により水質が悪化することがあるため、湖水の浄化のために琵琶湖固有種のイケチョウガイの試験的な導入が進められている』ものの、グーグル画像検索「志高湖を見ると景観としては実に美しいが、現況の観光事業開発としては誘致その他に大失敗した部類に入る状況下にあることが参照したウィキ志高湖から判る。]

 

   *

 

踏みゆるめばすぐに低音稲扱機

 

豊年や走れば負ひ子四肢をどる

 

三つ星がオリオン緊める新刈田

 

乳母車坂下りきつて秋天下

 

噴水を白らめ川霧とどこほる

2015/08/18

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅴ) 大正一三(一九二四)年 (全)

 

    大正一三(一九二四)年

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一二)年から大正一二(一九二三)年の日記は底本にはない(実在しないかどうかは不明。ただ、一月四日の記事に『此年になつて日記をつける事になつた氣が知れぬ。若返つたのか年のせいか』という自嘲の言葉を記しているところを見ると、ある有意な期間、彼は日記を書いていなかった可能性が頗る高い)。この間、大正二年に慶応大学文学部を退学(基本的に父親の厳命に拠る)福岡県香椎の杉山農園経営に従事することとなった(経営実状は惨憺たるものであった)が、各地を気儘に放浪、大正四年六月二十日、突如自己意志によって東京文京区本郷の喜福寺にて剃髪、禅僧として出家して法号を泰道と称した(継母及び実父杉山茂丸側近内に長男である直樹(久作の本名)を廃嫡する策動を察知して自ら先手を打ったものらしい)。翌年にかけて行雲流水の行脚に出るが、大正六年に僧名のまま還俗、杉山家を継承して再び杉山農園に戻った(父茂丸の命と継母の願いに拠る。この頃より執筆活動が開始され始める)。大正七年二月二十五日、鎌田クラと婚姻、この頃、喜多流謠の教授資格を伝授され、鎌倉郡長谷三〇五番地より杉山農園に正式に転籍、大正八年には長男龍丸出生し、農園経営に力を入れ始めている大正九年、父のコネで玄洋社系の『九州日報新聞』記者として入社翌大正十年には福岡市荒戸町杉土手に転居し、次男鉄児が生まれている。大正十一年には同新聞社社会部から家庭欄担当に配置換えとなって、童話を多く執筆し始める(十一月には代表作の一つ「白髪小僧」を杉山萠圓名義で誠文堂より出版)大正十二年九月一日の関東大震災では同新聞社震災取材特派員記者として八面六臂の活躍をしつつ、童話執筆も旺盛であった。以下、本大正十三年には、三月一日附を以って『九州日報』を退社(震災取材の疲労甚だしきに拠る休養を理由とする。但し、翌大正十四年四月一日附で再入社し、凡そ一年後の大正十五年五月に再度、退社している)するが、この頃より本格推理小説の執筆が既に始まっていた模様である(同年十月博文館の探偵小説公募で杉山泰道名義で「侏儒」が選外佳作となっているからである)。]

 

 一月一日 火曜 

◇ニツコリと云ふも事も無い幸福さ

 

◇ゆつくりと急いで娘道を問ひ

 

◇今年からコスモスを蒔く幸福さ

 

◇晴れ渡るあとから下駄を提げて行く

 

[やぶちゃん注:元旦らしい祝祭句群であるが、生活感がリアルに出ていて好ましい。]

 

 

 

 一月二日 水曜 

 

◇煙よ煙よデモ五圓借せ二圓借せ

 

[やぶちゃん注:「煙よ煙よ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

◇ふりかへる煙の中の月一つ

 

◇殘る煙癪は癪だがなほる方

 

◇煙つたい奴に生憎金があり

 

[やぶちゃん注:ここは次の川柳と間に有意な一行空けがある。]

 

◇借りる丈け借りて急用思ひ出し

 

◇大急ぎお辭儀が角を折れまがり

 

◇先生がドテラを召していらしてよ

 

◇先生がかはつて居るで又睡り

 

◇晴やかに笑つて扨と暗い顏

 

[やぶちゃん注:久作に金をたかってくる青年達(思想左右不詳)の影が、何とも彼の心にどんよりとしたものを落している感じが強く感じられる。この蠅どもに就いて御存じの識者の方の御教授を乞うものである。]

 

 

 

 一月三日 金曜 快晴 寒 

[やぶちゃん注:この「金曜」の記載はママ。久作の誤り。事実は木曜である。]

晴れ渡る田舍をとぼとぼ歩みくれば

 いつか思ひに頭うなだる

 

秋の夕日眞赤に海を渡り來るを

 笛吹き乍ら汽車よぎり行く

 

[やぶちゃん注:前年(或いはそれ以前)の秋の回想吟であることが判る。ここから前後の詩歌群も嘱目吟と読むととんだ誤読を仕出かすかも知れないので、御用心。]

 

 

 

 一月四日 金曜 

 

空の煙地上の煙かぐやかに

 わが見晴らせる秋の神聖よ

 

間引きする吾が二の腕に春の陽は

 いつとしも無くうすれ行くも

 

手術室のヱンジンの音ひそやかに

 白雲一つ窓よぎり行く

 

硝子窓おびゆる如く音たてゝ

 晴れ渡りゆく秋の曉

 

 

 

 一月五日 土曜 晴 

 

電鐡のポールが窓をよぎり行く

 あとより秋の雨晴れて行く

 

街ゆけば思ひめぐらす事多し

 三十のわれ早老いけるか

 

[やぶちゃん注:当時、夢野久作、満三十五歳であった。]

 

長崎に明日着く船のしみじみと

 海わたりゆき秋の日暮れぬ

 

何處からか見知らぬ犬がついて來る

 秋のまひるの街のしづけさ

 

笑ひ出すあとよりすぐに眞面目になる

 何か彼女の氣にかゝるらし

 

 

 

 一月六日 日曜 

 

 クラと博多より歸るさ柴藤とつれ立つ。女づれなり。

 博多發四時十三分の汽車を待つ間立石氏の處へよる。川流作者六人われもまじりて作る。

 講談雜誌二百圓懸賞の題「まけぬ氣」十分間吟也。一分間二十圓これ程のかねまうけはあるまじと古野しやれる。

 

 惚れたのと戀との區別人にきかれ

  あはれなるわれ頭かくのみ

 

 近い中にマント買へると云ふことが

  心うれしく幾月かつとめぬ

 

 わが兒等を海に連れ來て幾度か

  石投するうち淋しくなりぬ

 

 進物のチョッキわざっとスイタ樣

 

[やぶちゃん注:全文表示。最終川柳の「チョッキわざっと」はママ。「クラ」は久作の妻。「芝藤」は芝藤精蔵と言い、喜多流能楽師範で芝藤醤油店社長。彼は久作と喜多会問題で大喧嘩をした人物と底本注にある。]

 

 

 

 一月七日 月曜 晴 

 

◇安いねと笑つたら先づ買はないの
 

◇茶を嗅いでお菓子を嘗めていづれ又

 
◇もういけませんと云ふ程婆でなし

 
◇大變よ坊ちやまの手に赤インキ

 
◇銀紙に腰を拔かした譯を云ひ

 
◇赤い夕日にんじん花にしみぐとしみつき光り秋高晴るる

 

 

 一月八日 火曜 晴れ 

今の思ひ今限りかと思はるゝ

 夕日眞赤し夕日眞赤し

 

はるかなる雲路の鳥を見送りて

 しばし佇む秋老いし心

 

歸路みちうなだれて行く物思ひの

 絶え間絶え間に蟲すゞろ泣く

 

 

 

 一月九日 水曜 夜急雨 

 

思ひ絶え思ひ絶えつゝ物思ひく行く秋の野の風

 

秋の風彼の山の草吹枯らせ靑さに絶えぬ吾思ひなれば

 

赤土を切り開かれし山の端に今年の秋より汽車通るてふ

 

消しゴムで消え相な雲が空を行きサアと雨ふる秋の夕暮れ

 

何やらむ心の底に飢えかわき秋の一日の靜かに暮るゝ

 

鼠なき姐御ジロリとふりかへり

 

信越線で日本大陸横斷すれば兩方に秋の梅見えたるわ

 

人間よ汝は無用のものなる哉靑空をじつと見つめる心

 

 

 

 一月十日 木曜 

月の中に又月のあり月のあり吾が涙つひにあふれ出でしかな

 

吸殼を河に投げすてふと思ふわれにわかれて消えてゆくもの

 

 

 

 一月十一日 金曜 

 

エスペラントと英語とまじりヒラヒラと秋の夕浪暗くなりゆく