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2015/08/31

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (三)

 

        

 

 さて、今度は庭先の川端から、手を拍つ音が起つてくる――一囘、二囘、三囘、四囘。その手の持主は植込に遮ぎられて見えない。しかし、對岸の埠頭の石段を下りる男や女が見える。銘々帶に小さな靑い手拭を插んでゐて、顏と手を洗ひ、口を漱ぐ。これは神道の祈を捧げる前に、必ず行ふ潔齋である。それから顏を朝日に向け、四たび手を拍つて拜む。白色の長い高い橋の上からも、他の拍手の音が反響の如くに出でてくる。遠くにある、輕い優美な、而して新月の如く彎曲した小舟からも出ででくる。この頗る異樣な恰好の舟の上から、手も足も裸の漁師が、黃金色した東雲の空を拜んでゐるのだ。最早拍手の數が增加して、殆ど銳い音の連發となつた。それは人々が今皆、朝日――お日樣――天照大神を拜んでゐるからだ。『いとも貴き、日の造主よ。この心地よき日光を賜ひて、世界を麗はしくなし玉ふことを謝し奉る』言葉はこの通りでないまでも、これが無數の人々の衷心だ。朝日に向つてだけ手を拍つ者もあるが、大槪は西の杵築大社へ向つてもさうする。顏を東西南北へつぎつぎに向けて、群神の名や・低聲微唱する者さへ隨分ある。天照大神を拜した後で、一畑山の高峯を眺めて、盲人の眼を開き玉ふ藥師如來の大伽藍のある處に向ひ、佛敎の儀式に隨つて、掌を合はせ乍ら、輕く擦るのもある。しかし日本で最古のこの國では、佛敎徒も亦神道信者であるから、誰も古風な神道の祈の文句を唱へる。『拂ひ玉へ、淨め玉へと神忌たみ』

 佛數渡來前に勢力を有した最古の神々、して、今も猶、その神々の本來の國なる此處――豐葦原の國の出雲――では稜威依然たる神々。混沌界と原始の海と世界開闢期の諸神――長い奇異な名を帶びた群神、最初の泥土の主なる宇比地邇神、最初の砂土の女神なる須比智邇神など。それから後の諸神――力と美の神、世界創造の神、山や島の造主、卽ち天津日嗣と稱せらる〻歷代天皇の先祖。日本國中三千の神、高天原にまします八百萬の神々、これ等の神々へ祈を捧げる。

[やぶちゃん注:「杵築大社」正しくは「きつきのおおやしろ」と読む。島根県出雲市大社町杵築(きづき)東にある出雲大社の別称である。

「一畑山」直後に「藥師如來の大伽藍のある處に向ひ」とあるから、これは山名というよりも、薬師瑠璃光如来本尊を本尊とする島根県出雲市小境町に醫王山(いおうざん)一畑寺(いちばたじ)、通称「一畑薬師」のことと思われる(ここ。グーグル・マップ・データ)。ウィキ一畑によれば、縁起には寛平六(八九四)年に漁師の与市(のち出家して「補然」と称した)が海中から引き上げた薬師如来像を本尊としてここに「医王寺」という名の天台宗の寺院を創建したという。正中二(一三二五)年に石雲本竺が臨済宗南禅寺派寺院として再興、寺号を「成徳寺」と改め、さらにその後の承応二(一六五三)年に現在の「一畑寺」に改名、寛政二(一七九〇)年になって妙心寺派に転属した、とある。但し、この寺の直近(南百六十九メートル附近)にあるコテージの名称は「一畑山コテージ」御(グーグル・マップ・データ)である。近くのピーク自体は、寺の東方一キロほどのところにある出雲市鹿園寺町内の「焼山」である。

「稜威」これは「りようゐ(りょうい)」或いは「いつ」と読み、神聖であること・斎(いつ)き清められていること、或いは、勢いの激しいこと・威力が強いことから更に転じて、天子の威光の意も持つ。「嚴(厳)」とも書く。

「宇比地邇神」「須比智邇神」前者は「うひぢにのかみ」、後者は「すひぢにのかみ」と読む。ウィキの「ウヒヂニ・スヒヂニに、『ウヒヂニ・スヒヂニは、日本神話に登場する神で』神世七代(かみのよななよ:日本神話の天地開闢の際に生成した七代の神の総称及びその神々の時代)の第三代の神で、『ウヒヂニが男神、スヒヂニが女神である。それまでは独神であったが、この代ではじめて男女一対の神となった』。『神名の「ウ」は泥(古語で「うき」)、「ス」は沙(砂)の意味で、大地が泥や沙によってやや形を表した様子を表現したものである』とある。

「天津日嗣」「あまつひつぎ」と読む。日本で天皇の位或いは天皇の位を継承することを指す。天津日神(天照大神)の勅命により歴代受け嗣がれるという思想から出た語で、一説には「日給」で、大神から斎庭(ゆにわ:清めた所)の穂を給せられるとの意から出た、ともすると、中経出版の「世界宗教用語大事典」にはある。] 

 

Sec. 3

   And now from the river-front touching my garden there rises to me a sound of clapping of hand,—one, two, three, four claps,—but the owner of the hands is screened from view by the shrubbery. At the same time, however, I see men and women descending the stone steps of the wharves on the opposite side of the Ohashigawa, all with little blue towels tucked into their girdles. They wash their faces and hands and rinse their mouths—the customary ablution preliminary to Shinto prayer. Then they turn their faces to the sunrise and clap their hands four times and pray. From the long high white bridge come other clappings, like echoes, and others again from far light graceful craft, curved like new moons—extraordinary boats, in which I see bare-limbed fishermen standing with foreheads bowed to the golden East. Now the clappings multiply—multiply at last into an almost continuous volleying of sharp sounds. For all the population are saluting the rising sun, O-Hi-San, the Lady of Fire—Ama-terasu-oho-mi-Kami, the Lady of the Great Light. [3] 'Konnichi-Sama! Hail this day to thee, divinest Day-Maker! Thanks unutterable unto thee, for this thy sweet light, making beautiful the world!' So, doubt-less, the thought, if not the utterance, of countless hearts. Some turn to the sun only, clapping their hands; yet many turn also to the West, to holy Kitzuki, the immemorial shrine and not a few turn their faces successively to all the points of heaven, murmuring the names of a hundred gods; and others, again, after having saluted the Lady of Fire, look toward high Ichibata, toward the place of the great temple of Yakushi Nyorai, who giveth sight to the blind—not clapping their hands as in Shinto worship, but only rubbing the palms softly together after the Buddhist manner. But all— for in this most antique province of Japan all Buddhists are Shintoists likewise—utter the archaic words of Shinto prayer: 'Harai tamai kiyome tamai to Kami imi tami.'

   Prayer to the most ancient gods who reigned before the coming of the Buddha, and who still reign here in their own Izumo-land,—in the Land of Reed Plains, in the Place of the Issuing of Clouds; prayer to the deities of primal chaos and primeval sea and of the beginnings of the world—strange gods with long weird names, kindred of U-hiji-ni-no- Kami, the First Mud-Lord, kindred of Su-hiji-ni-no-Kanii, the First Sand-Lady; prayer to those who came after them—the gods of strength and beauty, the world-fashioners, makers of the mountains and the isles, ancestors of those sovereigns whose lineage still is named 'The Sun's Succession'; prayer to the Three Thousand Gods 'residing within the provinces,' and to the Eight Hundred Myriads who dwell in the azure Takamano-hara—in the blue Plain of High Heaven. 

   'Nippon-koku-chu-yaoyorozu-no-Kami-gami-sama!' 

 

3
   Ama-terasu-oho-mi-Kami literally signifies 'the Heaven-Shining Great- August-Divinity.'(See Professor Chamberlain's translation of the Kojiki.)

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (二)

 

       

 

 明方のこんな物音に醒されて、私は二階の障子を開け、河畔の庭から、伸びた春の若葉の軟かな綠の雲越しに、朝景色分眺めやる。大橋川の幅廣い、河口が、遠くの方では、わな〻くやうに、萬象を映寫して、微かに光つてゐる。この川は宍道湖に向つてを口を開け、湖は右手へ擴がつて、杳乎たる連丘に包まれてゐる。私のすぐ對岸には、靑く目塗してある日本の家屋は、戶が皆閉つてゐるので、恰も箱を閉ぢたやうだ。夜は明けたが、日はまだ出ないから。

 幽靈のやうに捕捉し難く、戀愛のやうに深い早朝の色が、睡眠の如くふんわりした水煙に浸つてゐたのが、拔け出でて、明かに蒸氣となつて騰つて行く奇觀絕景! 遙かに見渡すと、薄色の霞が湖水の盡端に長く渡つてゐる――星雲狀の長帶だ。それは讀者が、日本のの繪本に見る通りであつた。實際の現象を眺めたことがないと、繪本の景色も、畫工が奇を衒つたとのみ思はれたらう。山といふ山の裾を、この霞が蔽ふてゐる。して、高い峯のいろいろの高さの處で、際涯知れぬ長さの紗のやうに橫に延びてゐる(この妙な有樣を日本人は『棚引く』と名ける)だから、湖水は實際よりも遙かに大きく見え、而して眞の湖でなく、昧爽の空と同じ色で、且つ空と入り交つた、美しい幻の海となつて見える。山山の嶺は、霧に俘んだ島嶼となり、夢のやうな一帶の丘陵は、果てしのない堤道かと怪まれる――巧妙優美な混沌界だ。霧が立ち上がるにつれて、絕間なくその趣はゆるゆる變幻を極める。旭日の黃色な綠が見えてくると、今までのよりは更に强く細やかな光線――分光鏡の紫と靑貝色――が水面を射す。梢の上は弱い光を受ける。水のかなたにある、ペンキを塗らぬ高い建物の正面は、その木地の色が、美しい靄の色のために、蒸汽の立つ黃金色へと變はる。

 朝日の方へ向くと、澤山橋杭が並ぶ木造の橋のかなた、長い大橋川の方に、高い後甲板のある一艘の船が、今しも帆を揚げようとしてゐる。私はこんな奇異な恰好で、美しい船を見た例がない。――正にこれ蓬萊の夢だ。霞のために何とも云へなく醇化されてゐる。船の精だ。が、この幽靈は雲と同樣に光線を受けていゐるので、一見半透明な、黃金の霧で出來た一個の實體となつて、薄靑い光の中に懸つてゐる。

[やぶちゃん注:「蒸氣」「蒸汽」は孰れもママ。

「杳乎たる」老婆心乍ら、形容動詞「えうこ(ようこ)たり」の連体形で、深く広いさま、遙かなさまを言う。

「昧爽」「まいさう(まいそう)」と読み、「昧旦」とも言う。「昧」は「暗い」、「爽」は「明るい」の意で、一般には暁(あかつき)を指すと辞書にあるが、日本語に於ける暁とは、朝であるが真っ暗で、薄らと白んでくる曙(あけぼの)の前段階を指す語であって、以下のハーンの叙述はそんな真っ暗な暁では、とても見てとれない情景である。原文は“the dawn-sky”で、この“dawn”は「夜が明ける・空が白む」の意であり、ここは寧ろ、そうした光の変化を微妙に示し出すところの広義の夜明け方の有意な時間帯、暁の終りから曙、そして、東雲(しののめ)にかけてと考えた方が私は相応しいと思う。平井呈一氏は『夜明けの空』と訳しておられる。

「私はこんな奇異な恰好で、美しい船を見た例がない」私は何となく訳がヘンな気がして、なじめない。これでは「私はこんなだらしのない格好――寝乱れた浴衣姿――で、こんなに美しい船を見たことがなく、何とも気恥ずかしい思いをした」という意味にも読めてしまうからである。英文を見ても私には細部はよく分からないものの、無論、ここは、「こんな奇異な恰好」の船と、「美しい船」という並列する形容なのであって、「私はいろいろな国を放浪して来たけれど――この眼前にある和船の奇妙な形からそこに張られつつあり、風をはらみつつある奇体な白い帆に至るまで――こんな不可思議千万な恰好のこの世の物とも思われない美しい――曙と東雲の微光によって夢幻的に輝く――船を見た例(ためし)がない」と讃歎しているのである。平井氏はここを『夢のようなこんな美しい舟を、私はまだ見たことがない』と訳しておられ、一歩も躓かずに読める。

「蓬萊の夢」原文は“a dream of Orient seas”。平井氏は『東瀛(とうえい)の夢』と訳されている。古代中国に於いて仙人の住むとされた東方の三神山(他は蓬莱と方丈)の一つであった。そこから転じて、日本を指す雅称や、中国大陸から見て東方の大海である東海をも指すようになった。少なくとも蓬莱は海の遙か上に浮遊するラピュタのような仙山とされる。参照したウィキ東瀛には『現在でも漢民族は日本のことを東瀛とも言う』とある。平井氏の訳の方が英語の意味(東方の大海群)に忠実だが、最早、若い読者には注を附さなければ難解で分からぬ。高校古典で蓬莱は未だ頻繁の登場するから、まだ落合氏の「蓬萊の夢」の方がすんなり腑に落ちるはずである。

「醇化」老婆心乍ら、「じゆんくわ(じゅんか)」と読む。ここでは、余分なものを取り除き、混じり気のない純粋なものに変化させることを言う。因みに、別に「手厚い教えによって感化すること」の意もあるので注意されたい。] 

 

Sec. 2

   Roused thus by these earliest sounds of the city's wakening life, I slide open my little Japanese paper window to look out upon the morning over a soft green cloud of spring foliage rising from the river-bounded garden below. Before me, tremulously mirroring everything upon its farther side, glimmers the broad glassy mouth of the Ohashigawa, opening into the grand Shinji Lake, which spreads out broadly to the right in a dim grey frame of peaks. Just opposite to me, across the stream, the blue-pointed Japanese dwellings have their to [1] all closed; they are still shut up like boxes, for it is not yet sunrise, although it is day.

   But oh, the charm of the vision—those first ghostly love-colours of a morning steeped in mist soft as sleep itself resolved into a visible exhalation! Long reaches of faintly-tinted vapour cloud the far lake verge—long nebulous bands, such as you may have seen in old Japanese picture-books, and must have deemed only artistic whimsicalities unless you had previously looked upon the real phenomena. All the bases of the mountains are veiled by them, and they stretch athwart the loftier peaks at different heights like immeasurable lengths of gauze (this singular appearance the Japanese term 'shelving'), [2] so that the lake appears incomparably larger than it really is, and not an actual lake, but a beautiful spectral sea of the same tint as the dawn-sky and mixing with it, while peak-tips rise like islands from the brume, and visionary strips of hill-ranges figure as league-long causeways stretching out of sight—an exquisite chaos, ever-hanging aspect as the delicate fogs rise, slowly, very slowly. As the sun's yellow rim comes into sight, fine thin lines of warmer tone—spectral violets and opalines-shoot across the flood, treetops take tender fire, and the unpainted façades of high edifices across the water change their wood-colour to vapoury gold through the delicious haze.

   Looking sunward, up the long Ohashigawa, beyond the many-pillared wooden bridge, one high-pooped junk, just hoisting sail, seems to me the most fantastically beautiful craft I ever saw—a dream of Orient seas, so idealised by the vapour is it; the ghost of a junk, but a ghost that catches the light as clouds do; a shape of gold mist, seemingly semi-diaphanous, and suspended in pale blue light.

 

1
   Thick solid sliding shutters of unpainted wood, which in Japanese houses serve both as shutters and doors.

 

2
   Tanabiku.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一)

 

       第七章 神國の首都――松江

 

         

 

 松江で朝の夢を破る最初の物音は、丁度耳底で緩やかな大きな脈が搏つやうに響いてくる。それは太い柔かな鈍い衝擊の音だ――その規則正しさと、その掩ひかくしたやうな深い音と、その聞えるといふよりは寧ろ感ぜられるやうに、枕元から搖れてくる點からは、心臟の鼓動に似てゐる。それは單に米搗の太い杵の音なのだ。杵は一種の巨大なる木槌で、長さ約十五尺の柄が樞軸の上に水平に載せてある。米搗の男は柄の一端を强く踏んで、杵を擡げる。それから、足を放せば、杵はその重量によつて米の臼の中へ落ちる。杵の落ちる響が一定の拍子で洩れてくるのが、日本人の生活に伴ふあらゆる音響の中で、私には最も哀れに思はれる。米搗の音は日本といふ國土の脈搏だ。

 それから禪刹洞光寺の大きな鐘が、洞然と響渡つて、市の上空を撼がせる。續いて私の宿に近い材木町の地藏堂から、太鼓の淋しげな音が晨の勤行を告げる。最後には、早く出掛けた行商人の物賣の聲。『大根やい! 蕪菁や、蕪菁!』『薪(もや)や、薪(もや)や!』――炭火を燃やすための、小さな細い薪木の片を賣る女の悲しげな聲。

    譯者註。松江に來られた最初、先生は
    末次本町字緣取町の富田屋といふ旅館
    に宿つて居られた。富田屋から一町ば
    かり東北に榎藥師の地藏堂といふのが
    ある。本章の松江の記事は、富田屋滯
    在時代から始つて、やがて先生が家を
    構へられた頃までの見聞記である。世
    界を放浪し來つて、こゝで始めて家庭
    生活の人となつて持たれた家は、末次
    本町、織原氏の離座敷で、宍道湖を見
    渡して景色のよい處であつた。その家
    は以前には縣令の宅となつてゐたこと
    もあつた。後には中學校の寄宿舍にも
    用ひられた。最後に皆美館に合併され
    たが、燒失の後、その跡には現在該旅
    館の一部、東端の諸室が建つてゐる。

[やぶちゃん注:松江の旅館大橋館(後述する)公式サイト内の「小泉八雲ゆかりの地」によれば、ハーンは明治二三(一八九〇)年八月三十日午後四時、『対岸の港に船で着いた』とあり、貴重な詳細情報である。

「十五尺」四・五四五メートル。

「樞軸」「すうぢく(すうじく)」と読み、「樞」(枢)は元来は「くるる」で、開き戸を開閉する装置のことを指し、「軸」は車の心棒を言うが、そこから転じて、物事の中心となる重要な部分、枢要の意となった。ここは杵の搗くという主機能を持つところの足踏み式の横杵(よこぎね)の杵の部分(横に出る部分は「柄」)を指している。平井呈一氏は『軸木』と訳しておられる。

「洞光寺」少なくとも現行でも「とうこうじ」と濁らない(原文参照)。現在の島根県松江市新町にある曹洞宗松江金華山洞光寺。後に出る旅館富田屋のあった位置からは凡そほぼ南に一・四キロメートルほど離れた位置にある。

「撼がせる」「震撼」という熟語から想像出来るように、本来は「動かす・ゆする」、「動く・揺(ゆ)らぐ・揺れる」の意であるから、ここは落合氏は「ゆるがせる」と訓じておられるものと思われる。

「晨」「あさ」と訓じておく。

「大根」原文から、「だいこん」ではなく「だいこ」と叫んでいることが判る。

「蕪菁」やはり原文から、「かぶら」ではなく「かぶ」と叫んでいることが判る。

「薪(もや)」「日本国語大辞典」を見る限り、『たきぎにする小枝や木の葉。粗朶(そだ)。ぼや』とあり、本来は方言というよりも近世以降の古語のように思われる。以下に細い枝の焚き木としての方言の項もあるにはあるが、採集例は関東から四国まで極めて広域で、限定的な方言とは思われないからである。最後に「大言海」「綜合日本民俗語彙」から、語源は「燃やす」の意か、と記してある。

「末次本町」「すえつぐほんまち」と読む。松江市末次本町として現存する町名である。

「緣取町」「へりとりちやう(へりとりちょう)」と読む(後述)。この字(あざ)町名はネット検索では引っかからず、現行では最早、用いられていない模様である。但し、()今岡ガクブチ店の「松江絵葉書ミュージアム Matsue Postcard Museum」の「大橋正面の景(第16代)」の絵葉書とその解説に『当時このあたりは通称縁取町(へりとりちょう)といわれていた』。この名称は『界隈に畳の業者が集まっていたからである』とあり、読みと由来が分かった。但し、この富田屋については『この旅館は昭和6年の末次町大火にて消失』、『その後新築されたが現在は大橋館に売却されてない』(大橋館は島根県松江市末次本町四十(松江大橋北詰)の東側直近数十メートル圏内に現存する旅館)とあって、落合氏の言う「皆美館」(松江市末次本町十四に現存する旅館であるが、これは大橋北詰の西百メートル圏内にある、少なくとも名前も場所も全く別な旅館である。同皆美館の公式サイト内の「文人墨客に逢う」には、はっきりと小泉八雲が『来館し』たと記されてある)とする叙述と齟齬がある。識者の御教授を乞うものである(次注も参照されたい)。

「富田屋から一町ばかり東北に榎藥師の地藏堂といふのがある」これは現在の東本町一丁目に現存する薬師如来堂である(江波潤一氏のブログ「江波文學塾」の「町の歴史が消えていく」を参照されたい。それによれば残念なことに榎の大木は昭和六(一九三一)年五月十六日の大橋北詰を出火元とする大火で焼失して現存しないとある)。「一町」は約百九メートルであるからこれで富田屋が同定出来るかと思いきや、前注に出した大橋館では五十メートル弱、皆館では百六十メートルと、実に悩ましい距離なのである。

「織原氏」ラフカディオ・ハーン 日本海の浜辺を読むと、この家主が小泉セツをハーンに住み込み女中として紹介したことが判る。この記事は富田屋旅館を出るところから始まり、ハーンの複数の住居での暮らしぶりが実によく判る優れた記載で必読である。特に彼が富田屋旅館を出た理由が、意外にも激しい(といより、ハーンらしい真直な)義憤によるものであったことが知れて興味深い。] 

 

Chapter Seven

The Chief City of the Province of the Gods



Sec. 1

   THE first of the noises of a Matsue day comes to the sleeper like the throbbing of a slow, enormous pulse exactly under his ear. It is a great, soft, dull buffet of sound—like a heartbeat in its regularity, in its muffled depth, in the way it quakes up through one's pillow so as to be felt rather than heard. It is simply the pounding of the ponderous pestle of the kometsuki, the cleaner of rice—a sort of colossal wooden mallet with a handle about fifteen feet long horizontally balanced on a pivot. By treading with all his force on the end of the handle, the naked kometsuki elevates the pestle, which is then allowed to fall back by its own weight into the rice-tub. The measured muffled echoing of its fall seems to me the most pathetic of all sounds of Japanese life; it is the beating, indeed, of the Pulse of the Land.

   Then the boom of the great bell of Tokoji the Zenshu temple, shakes over the town; then come melancholy echoes of drumming from the tiny little temple of Jizo in the street Zaimokucho, near my house, signalling the Buddhist hour of morning prayer. And finally the cries of the earliest itinerant venders begin—'Daikoyai! kabuya-kabu!'—the sellers of daikon and other strange vegetables. 'Moyaya-moya!'—the plaintive call of the women who sell little thin slips of kindling-wood for the lighting of charcoal fires.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (五)(六) / 第六章~了

 

        

 

 寺の蔭から踊手の列が月光の中へ繰り出して、また突然止まつた。すべてい若い女や娘で、銘々最上の服を着飾つて、一番丈の高いのが先頭に立ち、ぞれから身長の順に續いて、十歲乃至十二歲の小娘が、行列の殿を承つてゐる。彼等は鳥の如く輕さうに身體の平衡を支へて、何となく或る古代の花瓶の周圍に繪かれた形狀の夢を想起させる。膝の邊に緊然縋り附いてゐる、美しい日本の着物は、もし奇怪な大きく垂れ下つた袖と、着物を緊める珍らしい、幅の廣い帶がなかつたならば、ギリシヤ或はエトルリヤの藝術家の畫に基いて意匠を凝らしたものと思はれるだらう。それから、太鼓が今一囘鳴つでから、演藝が始まつた。言葉では寫し難く、想像も及ばない、夢幻的なもの――舞踊であり、驚異であつた。

 皆一齊に草履を地面から揚げないで、右足を一步前へ滑らせる。して、不思議な浮いたやうな動作と微笑を帶びた、神祕的な敬禮をし乍ら、兩手を右へ伸ばす。次に右足を後ヘ引く。兩手を振ることと、神祕な辭儀とを繰り返へす。次に皆左足を前へ進め、半分左ヘ向き乍ら、先きの動作を繰返へす。それから、一囘輕く手を同時に揃へて拍つて、すべて二步前へ滑つて出る。して、最初の動作が右と左へ交互に繰返されて、すべての草履を穿いた足は一齊に滑り、すべでのしなやかな手は揃つて動き、すべての柔軟な身體は同時に前へ屈んで、同時に一方へ傾く。して、極めて徐々と、奇異にも行列が大きな圓に變つて、月の照つた境内と、聲を忍んだ見物人の群をぐるぐる𢌞はつて行く。

    註。本篇を書いてから後、私は日本の
    諸方で盆踊を見たが、これと全然同一
    種類の踊を見たことがない。實際、私
    は出雲、隱岐、鳥取、伯耆、備後、そ
    の他の處に於ける私の經驗からして、
    盆踊には場所が異れば必ず踊り方を異
    にするものと判斷したい。只單に動作
    身振が地方に隨つて變ずるだけでなく、
    歌はれる歌の調子までも相違してくる
    ――このことは文句が同一でもさうだ。
    或る處では調子が遲くて、莊嚴
である
    し、ある處では急速で、陽氣で、
また
    奇異な、急にひねるやうな、名狀
し難
    い調子を特徴とする。が、何處で
も動
    作と曲調は珍らしく、心地よくて、

    時間でも見物人を魅する力がある。
    たしかに是等の原始的舞踏は藝者の所
    作よりも遙かに興味が多い。佛敎はこ
    れを利用し、またこれに影響を及ぼし
    たであらうが、これは疑もなく佛敎よ
    りは非常に古い。

 して、いつも白い手は、交互に行列の輪の内側と外側に於て、掌を或は上に向け、或は下に向け、恰も魔法を仕組むかの如く、一齊に蜿蜒たる波動を打たせて搖れる。して、すべての小鬼のやうな袖は、翼の作る陰影の如く薄暗く、同時に翺翔する。して、すべての足は非常に複雜な拍子の動作を以て、揃つて平衡を取る。注視してゐると、催眠術を被つたやうな――水が流れたり、閃いたりするのを注視しようと努力する際のやうな感を覺える。

 また、この催眠的魅力は死んだやうな靜肅のために强められる。誰も物を言はない。見物人さへ默々としてゐる。柔かく手を拍く音の長い合間には、樹間に喧しい蟋蟀の聲と、輕く砂塵を攪きあげる草履のしゆうしゆういふ音だけ聽える。これは何に譬へられるだらうかと、私は自問を發した。一つもこれに譬へられるものは無い。が夢に飛んでゐると思ひ、步き乍ら夢みてゐる夢遊病者の空想を幾分暗示する。

 して、私は邈乎たる古代、未だこの東洋生活の記錄なき初期、不可思議な、薄暗い神代に屬するもの――數へ難き年月の間、その意味の忘れられたる象徴的動作を眺めてゐるのだといふ考が、私に起つてきた。しかしヽ光景はますます現實を離れたものに見えて行つて、無言の微笑と沈默の稽首は、恰も無形の見物人へ對して敬禮を捧げる趣があつた。それで、私がもし一つの囁きを發すれば、一切悉皆消滅して了つて、その跡には、たゞ灰色な頽廢せる境內と、淋しげな寺、それから、今私がこれ等の踊手の顏に見るのと同じ神祕的な微笑を、いつも湛へつ〻ある地域の壞はれた像だけ殘りはしないだらうかと疑つた。

 行列の輪の眞中で、旋轉する月の下に立つた私は、魔法の圓內に入つてゐる人の感があつた。實際それは恍惚魅惑であつた。私は不思議な手振りや、拍子を取つて、滑るやうな足の運びや、就中驚くべき袖の輕搖飛舞によつて魂を奪はれたのであつた。熱帶地方の大きな蝙蝠が飛ぶ如く、幽靈の如く音はなく、天鵞絨の如く滑かであつた。否、私が夢みたことのある何物も、これに譬へ得られるものは無い。私の背後にある古い墓揚、その燈籠の人を招くやうな凄い光り、この時刻と場所の恐ろしげな信仰などを意識して、私は幽靈に襲はれてゐるといふ、何とも名狀し難い、ちくちく痛むやうな感じの徐々に迫まるを覺えた。しかし、否! 是等の優美な、無言で、搖れて、輕く動く動いてゐる姿は、今夜白い火を點じて迎られた冥途から來た人々ではないのだ。忽然、鳥の呼び聲のやうな、美はしく朗かかな顫動に滿ちた一曲の歌が、ある娘らしい口から起つた。すると、五十人の柔かな聲が、それに和した。

   揃ふた、揃ひました、踊り子が揃ふた、揃ひ着て來た、晴れ浴衣。

 再びまた蟋蟀の喧しい聲、足のしゆうしゆういふ音、穩かな、手む拍つ響に戾つた。して、搖れ動く舞踏は沈默の中に、催眠的緩除を以て、進んで行く――奇異な優美さは、その無邪氣のために、周圍の山々の如く古いもののやうに思はれた。

 彼方に、白い燈籠のある灰色の墓石の下に、長い世紀間に亘つて眠れる人々、その親達、そのまた親達、それより久しき以前の、今では墓も忘れられた時代の人々も、必ずこのやうな光景を眺めたことだらう。否、それどころか、是等の若い足で攪まぜらる〻砂塵は、人間の生命であつたのだ。して、今夜の月と同じ月の下で、足と足を織り交はし、手を振り合つて、このやうに微笑し、このやうに歌つたのだ。

 突然深い男聲の歌が靜けさを破つた。二人の大男が踊りの輸に加つてきて、音頭を取つた。兩人とも殆ど裸體で、若い、立派な體格の山間の百姓だ。頭も肩も群を拔いて聳えてゐる。着物を圓めで腰の邊に帶の如くに𢌞はし、赤銅色の兩手と胴を露はしたま〻で、その外には大きな藁帽を被り、また祭のため特に白足袋を穿いてゐるのみだ。これまで私は未だこの邊の人民の中で、かやうな男、かやうな筋肉を見たことがない。それでも彼等の微笑せる髯のない顏は、日本の子供のそれのやうに可愛らしく、親切さうだ。兩人は兄弟らしく、體格も、動作も、聲の音色も非常によく似てゐた。

   野でも、山でも、子は生み置けよ、

   千兩藏(くら)より子は寳。

と兩人は聲を揃へて歌つた。

 すると、子供の亡靈を愛する地藏樣が、ひつそりとした場所の向うから微笑してゐた。

 眞に大自然の靈に近い靈を持つた人々だ。彼等の思想は、彼等が祈願を掛ける鬼子母神の崇拜の如くに、無邪氣で可憐なものだ、それから、沈默の後に、女達の美しく細い聲が答へた。

   思ふ男に、添はさぬ親は、

   親で御座らぬ、子の敵。

 かやうに、歌が歌につゞいた。踊りの列の圓形は、段々大きくなつた。して、知らぬ間に時刻は過ぎ去つて、月輪は徐々と夜の靑い坂を轉下して行つた。

 低くて深味のある洞音が、不意に境内に轟き渡つた。ある寺の深い鐘の音が、十二時を報ずるのであつた。卽座に魔術は了つた。物の音に、不思議な夢が、破れたやうであつた。歌は止んだ。踊りの輪は忽ち解けて、わつと起る樂しい笑聲となり、賑かな話聲となり、やさしい母音で花の名――娘達の名――が連呼され、『左樣なら!』の別れの叫びが交はされてから、踊り子も見物人も一樣に、家路に向つて、下駄のころころを響かせた。

 して、群集と共に動いて行つてゐる私は、突然睡眠から醒まされた人が感ずる困惑のやうな、面白からぬ氣分であつた。今私の側を、騷々しい小さな下駄を履いて、ちよこちよこ進んで、外國人の私の顏を一瞥しようと步を早めて行く、これらの銀のやうな笑聲を發する人達は、僅か少刻前には、古代美の空影、妖術の迷想、愉快なる幻像であつた。それがかやうに全くの田舍娘に形態化したのに對して、私は漠然たる憤懣を感じたのであつた。

[やぶちゃん注:私はこれと次の章がこの上なく好きである。ここでハーンは当時の日本人の顕在意識から忘れ去られかけらていた、ユングが言うところの集合的無意識を美事に体感していると言える。その映像は、如何なる邦人作家にも描き出せない、優れて日本的な幻想的でありながら、強烈なリアリズムとフェテイシズム的耽美性を表現したクロース・アップのモンタージュなのである。

「殿」「しんがり」と訓じておく。

「緊然」見慣れない熟語だが、下が「縋(すが)り附」くというであるから、ぴたっと張り附くようにフィットして、の意であろう。帯できゅっと締められていて、下部がスカートのようにぱぁっと淫らに開かない、といった印象を表現しようとしているように私には思われる。「きんぜん」と読んでおく。

「エトルリヤ」紀元前八世紀から紀元前一世紀頃、イタリア半島中部にあった都市国家群。各都市国家は宗教・言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの、十二都市連盟と呼ばれゆるやかな連合を形成し、祭司・軍事で協力することもあった。参照したウィキの「エトルリア」によれば、『古代ギリシアとは異なる独自の文化を持っていた。当時としては高い建築技術を持ち、その技術は都市国家ローマの建設にも活かされ』、『鉄を輸出し古代ギリシアの国家と貿易を行っていた』とあり、更に『夫婦と思われる男女の横たわる石像が残っており、男女平等の考えを持つ稀な民族だった』ともある。私などは前に「花瓶」が出ているので、「カルメン」で知られる、一八三〇年作のフランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)の暗澹たる自伝的嫉妬心理小説「エトルリアの壺」(Le Vase étrusque)を思い出してしまうのだが。

「翺翔」は「かうしやう(こうしょう)」と読み、原義は鳥が空高く飛ぶことで、転じて思うがままに振る舞うことの意である。

「邈乎」は「ばくこ」と読み、遠く遙かなさまを言う(参考までに、別に、人を軽んずるさまの意もあるので注意されたい)。

「顫動」「せんどう」と読み、小刻みに震え動くことを言う。

「緩徐」老婆心乍ら、「くわんじよ(かんじょ)」と読み、緩(ゆ)やかで静かなさま、動作などがゆっくりしているさまを言う。] 

 

Sec.5

   Out of the shadow of the temple a processional line of dancers files into the moonlight and as suddenly halts—all young women or girls, clad in their choicest attire; the tallest leads; her comrades follow in order of stature; little maids of ten or twelve years compose the end of the procession. Figures lightly poised as birds—figures that somehow recall the dreams of shapes circling about certain antique vases; those charming Japanese robes, close-clinging about the knees, might seem, but for the great fantastic drooping sleeves, and the curious broad girdles confining them, designed after the drawing of some Greek or Etruscan artist. And, at another tap of the drum, there begins a performance impossible to picture in words, something unimaginable, phantasmal—a dance, an astonishment.

   All together glide the right foot forward one pace, without lifting the sandal from the ground, and extend both hands to the right, with a strange floating motion 
and a smiling, mysterious obeisance. Then the right foot is drawn back, with a repetition of the waving of hands and the mysterious bow. Then all advance the 
left foot and repeat the previous movements, half-turning to the left. Then all take two gliding paces forward, with a single simultaneous soft clap of the hands, 
and the first performance is reiterated, alternately to right and left; all the sandalled feet gliding together, all the supple hands waving together, all the pliant bodies bowing and swaying together. And so slowly, weirdly, the processional movement changes into a great round, circling about the moonlit court and around the voiceless crowd of spectators. [5]

   And always the white hands sinuously wave together, as if weaving spells, alternately without and within the round, now with palms upward, now with palms 
downward; and all the elfish sleeves hover duskily together, with a shadowing as of wings; and all the feet poise together with such a rhythm of complex 
motion, that, in watching it, one feels a sensation of hypnotism—as while striving to watch a flowing and shimmering of water.

   And this soporous allurement is intensified by a dead hush. No one speaks, not even a spectator. And, in the long intervals between the soft clapping of hands, one hears only the shrilling of the crickets in the trees, and the shu-shu of sandals, lightly stirring the dust. Unto what, I ask myself, may this be likened? Unto nothing; yet it suggests some fancy of somnambulism—dreamers, who dream themselves flying, dreaming upon their feet. 

   And there comes to me the thought that I am looking at something immemorially old, something belonging to the unrecorded beginnings of this Oriental life, perhaps to the crepuscular Kamiyo itself, to the magical Age of the Gods; a symbolism of motion whereof the meaning has been forgotten for innumerable years. Yet more and more unreal the spectacle appears, with its silent smilings, with its silent bowings, as if obeisance to watchers invisible; and I find myself 
wondering whether, were I to utter but a whisper, all would not vanish for ever save the grey mouldering court and the desolate temple, and the broken statue 
of Jizo, smiling always the same mysterious smile I see upon the faces of the dancers.

 

   Under the wheeling moon, in the midst of the round, I feel as one within the circle of a charm. And verily this is enchantment; I am bewitched, bewitched by the ghostly weaving of hands, by the rhythmic gliding of feet, above all by the flitting of the marvellous sleeves— apparitional, soundless, velvety as a flitting of great tropical bats. No; nothing I ever dreamed of could be likened to this. And with the consciousness of the ancient hakaba behind me, and the weird invitation of its lanterns, and the ghostly beliefs of the hour and the place there creeps upon me a nameless, tingling sense of being haunted. But no! these gracious, silent, waving, weaving shapes are not of the Shadowy Folk, for whose coming the white fires were kindled: a strain of song, full of sweet, clear quavering, like the call of a bird, gushes from some girlish mouth, and fifty soft voices join the chant:

          Sorota soroimashita odorikoga sorota,
          Soroikite, kita hare yukata. 

   'Uniform to view [as ears of young rice ripening in the field] all clad alike in summer festal robes, the company of dancers have assembled.'

   Again only the shrilling of the crickets, the shu-shu of feet, the gentle clapping; and the wavering hovering measure proceeds in silence, with mesmeric lentor—with a strange grace, which, by its very naïveté, seems old as the encircling hills.

   Those who sleep the sleep of centuries out there, under the grey stones where the white lanterns are, and their fathers, and the fathers of their fathers' fathers, and the unknown generations behind them, buried in cemeteries of which the place has been forgotten for a thousand years, doubtless looked upon a scene like this. Nay! the dust stirred by those young feet was human life, and so smiled and so sang under this self-same moon, 'with woven paces, and with waving hands.'

   Suddenly a deep male chant breaks the hush. Two giants have joined the round, and now lead it, two superb young mountain peasants nearly nude, towering head and shoulders above the whole of the assembly. Their kimono are rolled about their waistilike girdles, leaving their bronzed limbs and torsos naked to the warm air; they wear nothing else save their immense straw hats, and white tabi, donned expressly for the festival. Never before among these people saw I such 
men, such thews; but their smiling beardless faces are comely and kindly as those of Japanese boys. They seem brothers, so like in frame, in movement, in 
the timbre of their voices, as they intone the same song:

          No demo yama demo ko wa umiokeyo,
          Sen ryo kura yori ko ga takara.

   'Whether brought forth upon the mountain or in the field, it matters nothing: more than a treasure of one thousand ryo, a baby precious is.'

   And Jizo the lover of children's ghosts, smiles across the silence.

   Souls close to nature's Soul are these; artless and touching their thought, like the worship of that Kishibojin to whom wives pray. And after the silence, the sweet thin voices of the women answer:

          Oomu otoko ni sowa sanu oya wa,
          Oyade gozaranu ko no kataki. 

   The parents who will not allow their girl to be united with her lover; they are not the parents, but the enemies of their child.'

   And song follows song; and the round ever becomes larger; and the hours pass unfelt, unheard, while the moon wheels slowly down the blue steeps of the 
night.

   A deep low boom rolls suddenly across the court, the rich tone of some temple bell telling the twelfth hour. Instantly the witchcraft ends, like the wonder 
of some dream broken by a sound; the chanting ceases; the round dissolves in an outburst of happy laughter, and chatting, and softly-vowelled callings of 
flower-names which are names of girls, and farewell cries of 'Sayonara!' as dancers and spectators alike betake themselves homeward, with a great koro-koro 
of getas.

   And I, moving with the throng, in the bewildered manner of one suddenly roused from sleep, know myself ungrateful. These silvery-laughing folk who now toddle along beside me upon their noisy little clogs, stepping very fast to get a peep at my foreign face, these but a moment ago were visions of archaic grace, illusions of necromancy, delightful phantoms; and I feel a vague resentment against them for thus materialising into simple country-girls.

 

5
   Since this sketch was written, I have seen the Bon-odori in many different parts of Japan; but I have never witnessed exactly the same kind of dance. Indeed, I would judge from my experiences in Izumo, in Oki, in Tottori, in Hoki, in Bingo, and elsewhere, that the Bonodori is not danced in the same way in any two provinces. Not only do the motions and gestures vary according to locality, but also the airs of the songs sung—and this even when the words are the same. In some places the measure is slow and solemn; in others it is rapid and merry, and characterised by a queer jerky swing, impossible to describe. But everywhere both the motion and the melody are curious and pleasing enough to fascinate the spectator for hours. Certainly these primitive dances are of far greater interest than the performances of geisha. Although Buddhism may have utilised them and influenced them, they are beyond doubt incomparably older than Buddhism. 

 

         

 

  寢床に就いてから、私はその簡單な農民の合唱によつて喚起された、奇異な感情の理由を自ら問ふて見た。奇怪な合間や、短音を有するかの歌曲を思ひ起すことは全然不可能であつら。鳥の囀りを記憶に留めようとするやうなものだ。それでも、その形容し難い妙味は、まだ彷彿として殘つてゐた。

 歐洲の旋律は、私共が發表することの出來る感情を、私共の心に呼び起す。それは私共の背後のあらゆる年代から傳つて來て、國語の如くに親しみのある感情だ。が、西洋の旋律の如何なるものにも、徹頭徹尾類似してない原始的な歌に因つて喚起さる〻感情を、どうして說明しようか? 西洋の音樂語の文字である譜音で、書くことさへ不可能なのだ。

 して、その情緖――それは何だ?私には分らぬ。が、私の身よりは無限に古い古いものだと、私には感ぜられる――に或る特定の一時處に屬するものではなく、大宇宙の太陽の下、到る處のあらゆる生物の苦樂に共鳴するものだと思ふ。それから、また私は、かの歌が、敎へず、求めずしておのづから大自然の最も古い歌と調和してゐること、荒野の音樂――かの偉大なる地上の美しき叫びに混じて、その一部を成す、夏季の生物のすべての顫聲と、無意識に緣戚たることに、最奧の祕密は存するではないかと思ふ。

[やぶちゃん注:「顫聲」「せんせい」と音読みしているものと思われる。原文は“trillings”でこれは “trill”(トリル)、歌などを震え声(ビブラート)で歌う、或いは楽器などでトレモロで奏する、或いは小鳥などが鳴き声を震わせて囀るの意の動詞を一種の現在進行形的(“trill”の綴りでも普通に名詞があるのであるが、ここは現に寝床にいるハーンの耳に聴こえてくるそれとして)に名詞化したもののように私には思われる。大方の御批判を俟つ。] 

 

Sec.6

   Lying down to rest, I ask myself the reason of the singular emotion inspired by that simple peasant-chorus. Utterly impossible to recall the air, with its fantastic 
intervals and fractional tones—as well attempt to fix in memory the purlings of a bird; but the indefinable charm of it lingers with me still.

   Melodies of Europe awaken within us feelings we can utter, sensations familiar as mother-speech, inherited from all the generations behind us. But how explain the emotion evoked by a primitive chant totally unlike anything in Western melody,—impossible even to write in those tones which are the ideographs of our music-tongue?

   And the emotion itself—what is it? I know not; yet I feel it to be something infinitely more old than I—something not of only one place or time, but vibrant 
to all common joy or pain of being, under the universal sun. Then I wonder if the secret does not lie in some untaught spontaneous harmony of that chant with 
Nature's most ancient song, in some unconscious kinship to the music of solitudes—all trillings of summer life that blend to make the great sweet Cry of the Land.

2015/08/30

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (四)

 

        

 

 たうとう大きな隆起の崖から、道が急に下つて、高く尖つた藁葺の屋根や、綠苔の生えた軒の連る通景の中へ出でてきた――廣重の浮世繪の中にあるやうな村、廣重の風景に誠によく似た色彩を有する村。これは伯耆の國、上市(かみいち)だ。

 私共は靜かな、薄黑い小さな宿の前で停つた。非常に年老いた亭主が出でて迎へた。すると、無言で温和な村民が、大概は子供と婦人てあるが、外人を見たり、不思議がつたり、または內氣な微笑を帶びた好奇心て着物に觸つたりするため、車の周圍に集まつた。私は宿の老主人の顏を一目見ただけで、彼の案內に應ずることに決めた。私は明日までここに留まらねぱならぬ。車夫があまりに疲れてゐるから、今夜はこれより先きへ行けない。

 小さな宿は、外見は風雨に古びてゐるが、室內は心地よかつた。その磨いた怪談や緣側は淸らかで、鏡面の如くに女中の素足を映した。その明るい室は、始めて疊を敷いた時の如くに、新鮮で、よい香がしてゐた。私の室の床柱は、黑い良材に花と葉が彫られて、驚歎すべきものであつた。床に懸つてゐる掛物の畫は、幸福の神なる布袋が、舟に乘り夢のやうな流れを下つて、朦朧神祕な暮色蒼然裡へ去つて行く、一個の田園詩であつた。この小部落はあらゆる藝術的中心から遠く隔つてゐるけれども、この家には日本人の形象に關する美感を示さないものは、一つも見られない。金色花模樣の古い漆器、驚くべき菓子器、透通つた陶器の酒杯に、跳つた海老を一匹、金色で現したもの、靑銅製茶托の、蓮の葉が捲(ちゞ)れた形をしたもの、また龍や雲の模樣ある鐡瓶、唐獅子の頭の形をした、取手の附いた眞鍮の火鉢などが、眼を欣ばし、空想を驚かせた。實際、今日、日本の到る處で、陶器でも、金屬製品でも、全然妙味のない、平凡で、醜いものに接した場合には、その嫌なものは外國の影響の下に作られたのだと大抵決定してよろしい。しかし、私は今こ〻では舊日本の中にゐるのだ。多分いかなる歐洲人の眼も、未だこれ等のものを眺めたことはないだらう。

 心臟形の窓が庭に向つて覗いてゐる。小さな立派な庭園で、小さな池と小型の橋と矮樹があつて、荼椀に畫いてある風景に似てゐる。また固より二三の恰好のよい石と、寺の境內にあるやうな優美な燈籠もある。して、是等の景物を越えて、暑い薄暮の中に、愛する亡靈の訪問を迎へるため、各戶の前に吊られた、盆燈籠の彩色を帶びた燈光が見えた。何故となれば、この古風な士地で、今猶用ひてゐる舊曆によると、今夜が盆祭の初めであつた。

 私が泊まつたすべての他の田舍の小村に於ける如く、こ〻の人民が私に對する親切と慇懃は、想像し難く、名狀し難いほどで、他の國には存在しない。日本に於ても內地にのみ見らる〻ものであつた。彼等の質朴な丁寧さは技巧ではない。後等の親切さは絕對に無意識の親切である。二つとも本心から來るのだ。して、私がこれらの人々と交はつて、二時間も立たない内に、彼等の私に對する待遇と、か〻る親切に酬ゐることは到底不可能だといふ考がそれに加つて、途方も無い願が私の心中に起つた。是等の愉快な人々が、ある豫想外の邪曲、驚くべき惡事、獰猛に不親切なことを私に加へて呉れたい。さうすればこの人々と袂を別つのを惜しく思ふことはなくなるだらう。私は去つて行くや否や、殘念に感じ出すにきまつてゐるから。

 老主人が私を湯殿へ案內して、私を子供扱ひに主人自から强ひて、私を洗つてくれた間に、主婦は米、卵、野菜、菓子などの旨い小さな、御馳走を私のために調理した。私が二人前ほど食べた後でも、披女は私に滿足を與へなかつたかといふことをひどく氣にして、もつと澤山料理を作りかねたことを大いに詫びた。

 彼女は『今日は十三日で、盆祭の初めの日で御座いますから、魚がありません。十三日、十四日、十五日には誰も精進致します。十六日の朝は、漁師が漁に出かけますので、兩親とも生きてゐる人は、魚を食べてもよろしいのです。しかし、片親のない人は、十六日でも食べられません』と云つた。

 善良な主婦が、かやうな說明をしてゐる際、私は戶外から奇異な遠い音が聞えてくるのに氣が付いた。私は熱帶地方の舞踏の記憶によつて、それは拍子を取つて手を打つ音だと悟つた。が、この拍く音は頗る柔かで、また間(ま)が長かつた。して、もつと間を置いて、寺の大きな太鼓を叩く音の重げな、包んだやうな洞音が響いた。

 『是非見物に行きませう』と、晃が呼んだ。『これは盆踊です。こんな盆踊は都會では見られませんよ。これは昔踊、そのま〻です。こ〻は習慣が變つてゐませんが、都會では一切變化してゐますから』

 そこで私はたゞ周圍の人々と同樣に、すべて日本の宿屋で男の客に貸してくれる、輕い、寬袖の夏服――浴衣――だけを着けて、急いで外へ出た。が、かやうに輕い衣をきても、非常に暑いので、私は少々汗を流してゐた。して、夜は美しかつた――靜かで、晴れて、歐洲の夜よりも廣やかで、大きな白い月は、彎曲した軒や、突出した破風や、ゆつたりした服を着けた日本人の面白い形などの影を投じてゐた。宿の主人の孫に當る少年が、紅色の提燈を携へて道案內をした。下駄の朗らかなころころといふ響が町内に一杯であつた。踊を見るため、私共の行く方へ澤山の人々が行くのであつた。

 霎時私共は本通りについて進んだ。それから二軒の家の間の狹い通路を越えると、滿面月光の漲つた廣場に出た。これが踊場であつた。しかし、踊は一時停んでゐた。あたりを見𢌞はすと、私共の居る處は、古い佛寺の境內であつた。寺の建物はそのま〻殘つて、星の光に低い、長い、瘠せた影を見せてゐるが、內部は空虛で暗黑、俗用に供せられて、校舍になつてゐるとのことであつた。僧侶は去り、大きな鐘も失せ、佛陀や菩薩は無くなつて、たゞ月の下で、閉ぢた目許に徴笑を含める、手の損はれた石地藏だけに寺り名殘を留めてゐた。

 境內の中央には、竹の枠に大きな太鼓が載せられ、その周圍に、學校から持出した長椅子を並べて、村の人々が憩んでゐた。ある莊嚴なことを豫期するかのやうに、低く語り合ふ聲の囂音や、折々は小兒の泣聲、娘達の柔かな笑聲が聞えた。して、境內から遙か奧の方、薄暗い常盤木の低い墻の彼方に、私は柔かな白い燈火と無數の丈高い灰色の形のものが長い影を投じてゐるのを見た。して、私は燈火は唯だ墓所にのみ吊される白い燈籠で、灰色の形は墓であることがわかつた。

 不意に一人の娘が立上つて、大きな太鼓を一囘叩いた。これが盆踊の合圖であつた。

[やぶちゃん注:この旧暦行われている盂蘭盆の叙述によって、これがこの明治二三(一八九〇)年の旧暦の七月十三日、即ち、新暦の八月二十八日(木曜)の晩の光景であることがはっきりするのである。

「伯耆の國、上市」「伯耆の國」は現在の鳥取県中部及び西部に当たり、「上市」は現在の鳥取県西伯(さいはく)郡大山町(だいせんちょう)上市(山陰本線刺下市駅の海側の字名として残る)であるが、これは「うはいち(うわいち)」と読むのが正しい。ここから旧山陰道を忠実に実測してみたところ、松江市外まで、約五十五キロメートルあり、まさに一日遅くとも一日半(八月二十九日か三十日、遅くとも三十一日)あれば到着出来る距離と思われ、和田和夫氏がハーンの松江到着を『八月末』とし、島根県立松江中学校(現在の島根県立松江北高等学校)へは『九月、初登校』とあるのに、ぎりぎりセーフである。その後、松江の旅館大橋館(次の第七章の注で後述する)公式サイト内の「小泉八雲ゆかりの地」によれば、ハーンは明治二三(一八九〇)年八月三十日午後四時、『対岸の港に船で着いた』とあるのを見出した。貴重な詳細情報である。

「邪曲」「じやきよく(じゃきょく)」と音読みし、心が捻くれて、素直でないことや、不正・不道徳であることを意味する。しかしどうも音読みは気に入らない。私は「よこしま」と訓ずる。

「洞音」私は「ほらね」と訓じたい。洞穴で木霊するような低い響きの意であろう。

「霎時」既注であるが、再掲する。「せふじ(しょうじ)」と読む。「暫時」に同じい。暫くの間。ちょっとの間。「霎」はさっと降っては直ぐ止む小雨、通り雨を原義とし、そこから瞬く間、しばしの意となった。

「囂音」「がうおん(ごうおん)」と音で読むしかあるまいが如何にも佶屈聱牙である。かまびすしいこと。騒がしいことを言う。平井呈一氏はここを『低い声でごやごや話しあっている声』と訳しておられる。] 

 

Sec. 4

   At last, from the verge of an enormous ridge, the roadway suddenly slopes down into a vista of high peaked roofs of thatch and green-mossed eaves—into a village like a coloured print out of old Hiroshige's picture-books, a village with all its tints and colours precisely like the tints and colours of the landscape in which it lies. This is Kami- Ichi, in the land of Hoki.

   We halt before a quiet, dingy little inn, whose host, a very aged man, comes forth to salute me; while a silent, gentle crowd of villagers, mostly children and women, gather about the kuruma to see the stranger, to wonder at him, even to touch his clothes with timid smiling curiosity. One glance at the face of the old innkeeper decides me to accept his invitation. I must remain here until to-morrow: my runners are too wearied to go farther to-night.

   Weather-worn as the little inn seemed without, it is delightful within. Its polished stairway and balconies are speckless, reflecting like mirror-surfaces the bare feet of the maid-servants; its luminous rooms are fresh and sweet-smelling as when their soft mattings were first laid down. The carven pillars of the alcove (toko) in my chamber, leaves and flowers chiselled in some black rich wood, are wonders; and the kakemono or scroll-picture hanging there is an idyll, Hotei, God of Happiness, drifting in a bark down some shadowy stream into evening mysteries of vapoury purple. Far as this hamlet is from all art-centres, there is no object visible in the house which does not reveal the Japanese sense of beauty in form. The old gold-flowered lacquer-ware, the astonishing box in which sweetmeats (kwashi) are kept, the diaphanous porcelain wine- cups dashed with a single tiny gold figure of a leaping shrimp, the tea- cup holders which are curled lotus-leaves of bronze, even the iron kettle with its figurings of dragons and clouds, and the brazen hibachi whose handles are heads of Buddhist lions, delight the eye and surprise the fancy. Indeed, wherever to-day in Japan one sees something totally uninteresting in porcelain or metal, something commonplace and ugly, one may be almost sure that detestable something has been shaped under foreign influence. But here I am in ancient Japan; probably no European eyes ever looked upon these things before.

   A window shaped like a heart peeps out upon the garden, a wonderful little garden with a tiny pond and miniature bridges and dwarf trees, like the landscape of a tea-cup; also some shapely stones of course, and some graceful stone-lanterns, or toro, such as are placed in the courts of temples. And beyond these, through the warm dusk, I see lights, coloured lights, the lanterns of the Bonku, suspended before each home to welcome the coming of beloved ghosts; for by the antique calendar, according to which in this antique place the reckoning of time is still made, this is the first night of the Festival of the Dead.

   As in all the other little country villages where I have been stopping, I find the people here kind to me with a kindness and a courtesy unimaginable, indescribable, unknown in any other country, and even in Japan itself only in the interior. Their simple politeness is not an art; their goodness is absolutely unconscious goodness; both come straight from the heart. And before I have been two hours among these people, their treatment of me, coupled with the sense of my utter inability to repay such kindness, causes a wicked wish to come into my mind. I wish these charming folk would do me some unexpected wrong, something surprisingly evil, something atrociously unkind, so that I should not be obliged to regret them, which I feel sure I must begin to do as soon as I go away.

   While the aged landlord conducts me to the bath, where he insists upon washing me himself as if I were a child, the wife prepares for us a charming little repast of rice, eggs, vegetables, and sweetmeats. She is painfully in doubt about her ability to please me, even after I have eaten enough for two men, and apologises too much for not being able to offer me more.

   There is no fish,' she says, 'for to-day is the first day of the Bonku, the Festival of the Dead; being the thirteenth day of the month. On the thirteenth, fourteenth, and fifteenth of the month nobody may eat fish. But on the morning of the sixteenth day, the fishermen go out to catch fish; and everybody who has both parents living may eat of it. But if one has lost one's father or mother then one must not eat fish, even upon the sixteenth day.'

   While the good soul is thus explaining I become aware of a strange remote sound from without, a sound I recognise through memory of tropical dances, a measured clapping of hands. But this clapping is very soft and at long intervals. And at still longer intervals there comes to us a heavy muffled booming, the tap of a great drum, a temple drum.

   'Oh! we must go to see it,' cries Akira; 'it is the Bon-odori, the Dance of the Festival of the Dead. And you will see the Bon-odori danced here as it is never danced in cities—the Bon-odori of ancient days. For customs have not changed here; but in the cities all is changed.'

   So I hasten out, wearing only, like the people about me, one of those light wide-sleeved summer robes—yukata—which are furnished to male guests at all Japanese hotels; but the air is so warm that even thus lightly clad, I find myself slightly perspiring. And the night is divine -still, clear, vaster than nights of Europe, with a big white moon flinging down queer shadows of tilted eaves and horned gables and delightful silhouettes of robed Japanese. A little boy, the grandson of our host, leads the way with a crimson paper lantern; and the sonorous echoing of geta, the koro-koro of wooden sandals, fills all the street, for many are going whither we are going, to see the dance.

   A little while we proceed along the main street; then, traversing a narrow passage between two houses, we find ourselves in a great open space flooded by moonlight. This is the dancing-place; but the dance has ceased for a time. Looking about me, I perceive that we are in the court of an ancient Buddhist
temple. The temple building itself remains intact, a low long peaked silhouette against the starlight; but it is void and dark and unhallowed now; it has been turned, they tell me, into a schoolhouse. The priests are gone; the great bell is gone; the Buddhas and the Bodhisattvas have vanished, all save one—a broken-handed Jizo of stone, smiling with eyelids closed, under the moon.

   In the centre of the court is a framework of bamboo supporting a great drum; and about it benches have been arranged, benches from the schoolhouse, on which villagers are resting. There is a hum of voices, voices of people speaking very low, as if expecting something solemn; and cries of children betimes, and soft laughter of girls. And far behind the court, beyond a low hedge of sombre evergreen shrubs, I see soft white lights and a host of tall grey shapes throwing long shadows; and I know that the lights are the white lanterns of the dead (those hung in cemeteries only), and that the grey shapes are shapes of tombs.

   Suddenly a girl rises from her seat, and taps the huge drum once. It is the signal for the Dance of Souls.

2015/08/29

甲子夜話卷之一 45 池田三左衞門、永井傳八郎へ始て對面の事

45 池田三左衞門、永井傳八郎へ始て對面の事

池田輝政〔三左衞門〕、神祖の御親緣となりて後、申上らるゝは麾下の士に永井傳八郎と申上らるゝは、某が父勝入を討候人に候。何卒對面いたし度と云。神祖さらば迚御許あり、因て初て對面す。此時人々思ふは、父を討たりし敵なれば、對面のうへ何(イカ)がならんと思ひゐたるに、輝政先禮義を正くして申には、先年父勝入を長久手にて討玉ひしとき、某は年少にて、得と其樣體を辯ぜず候。冀くば父討死の有さま、委く語り聞せ玉へと云へば、永井承候とて、勝入其時の有さまを委く申述たれば、輝政落涙して承り、さても忝存候。始て分明に承り候とて別れぬ。夫より又、神祖え言上するには、永井へ其父討死の樣子承り候に、武道に恥ざる振舞に候を、かく討取候ことは、實によき武士にて候。其父の面目にも候へば、加祿し給り度と言上す。神祖肯じ玉ひて、萬石の列になし下されしとなり。それ迄は五千石許の采地にて有しとなん。

■やぶちゃんの呟き

「池田輝政」(永禄七(一五六四)年~慶長一八(一六一三)年)は安土桃山から江戸前期にかけての大名。「三左衞門」は通称。美濃池尻城主・同大垣城主・同岐阜城主・三河吉田城主を経て、播磨姫路藩初代藩主となった。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られ、「姫路宰相」と称された(詳細な事蹟は参照したウィキ池田輝政」を読まれたい)。

「神祖の御親緣となり」輝政の継室督姫(とくひめ 永禄八(一五六五)年~慶長二〇(一六一五)年)は徳川家康の次女であった。文禄三(一五九四)年に秀吉が仲人役となって池田輝政に再嫁した(再嫁時は夫輝政より一つ下の数え三十であった)。彼女の最初の夫は後北条氏第五代当主北条氏直であったが、秀吉の小田原攻めで敗北、最後は疱瘡(推定)によって病没している。

「麾下」大将の指揮の下(もと)の意から、将軍直属の家来、直参旗本のこと。

「永井傳八郎」旗本から後に大名となり、上野小幡藩主・常陸笠間藩主・下総古河藩初代藩主であった永井家宗家初代永井直勝(永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二五)年)の通称。美青年であったという。参照したウィキ永井直勝によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『永禄六年(一五六三年)、長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)に生まれる(東浦町緒川の説もある)。はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正七年(一五七九年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正八年(一五八〇年)、家康に召し出されて再び家臣となる。天正一二年(一五八四年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された』。『文禄三年(一五九四年)、池田恒興の次男池田輝政が家康の次女の督姫を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。このとき、輝政が直勝の知行を聞くと五千石であった。輝政は父を討ち取った功績の価値が五千石しかないのかと嘆息したという』(下線やぶちゃん。数え三十二、池田輝政は一つ下の三十一歳であった)。『文禄五年(一五九六年)二月七日、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている。慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いの後に近江国に二千石を加増され、七千石を領』し、『大坂の陣にも参戦して戦功を上げ』、元和二(一六一六)年には『上野小幡藩一万七千石に加増。翌元和三年(一六一七年)には常陸笠間藩三万二千石を与えられ、後に二万石を加増される。元和八年(一六二二年)、笠間を浅野長重に譲って、代わりに下総古河において七万二千石を与えられた』とあり、『子孫に作家の永井荷風や三島由紀夫などがいる』ともある。

「勝入」「しようにふ(しょうにゅう)」と音読みする。池田輝政の実父で尾張犬山城主・摂津兵庫城主・美濃大垣城主であった池田恒興(つねおき 天文五(一五三六)年~天正一二(一五八四)年)の出家後の法号。ウィキ池田恒興によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『天文五年(一五三六年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生』、『母の養徳院は織田信長の乳母であり、信長の父の織田信秀の側室となっている』。『幼少の頃から小姓として織田氏に仕え、桶狭間の戦い、美濃攻略などで戦い、元亀元年(一五七〇年)の姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり一万貫を与えられた。以後も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、長篠の戦いなど信長の主だった戦に参陣、天正八年(一五八〇年)には信長に抵抗し摂津花隈城に籠もる荒木村重を破り、その旧領を領する。天正十年(一五八二年)、甲州征伐では、二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命令されるも、あっけなく武田氏は滅亡。密かに落ち延びた武田勝頼の三男・勝親を匿い保護した。天正十年(一五八二年)、甲州征伐では、二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命令されるも、あっけなく武田氏は滅亡。密かに落ち延びた武田勝頼の三男・勝親を匿い保護した』。『同年、本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流。山崎の戦いは兵五千を率いて(太閤記による。実際は兵力を二倍くらいに誇張されていると谷口克広は指摘している)右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立し、領地の再分配では摂津国の内大坂・尼崎・兵庫において十二万石を領有した。翌天正十一年(一五八三年)の賤ヶ岳の戦いには参戦していないが、美濃国にて十三万石を拝領し大垣城主となる』。『天正十二年(千五百八十四年)、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦。勝利が成った際には尾張一国を約束されていたという。(池田家文庫文書)緒戦で犬山城を攻略した後、途中で上条城に立ち寄り、三好信吉・森長可(恒興の婿)・堀秀政と共に家康の本拠三河国を攻めようとしたが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬したことが災いとなり、長久手にて長可と共に戦死。戦死の状況は、床机に座って陣中を立て直している所に永井直勝の槍を受けてのものだといわれている。享年四十九。嫡男の元助も共に討ち死にしたため、家督は次男の輝政が相続した』とある(下線やぶちゃん)。

「さらば迚御許あり」「さらば、迚(とて)、御許(おゆるし)あり」と読む。

「先」「まづ」。

「冀くば」「ねがはくば」。

「委く」「くはしく」。

「忝」「かたじけなく」。

「神祖え」はママ。

「それ迄は五千石許の采地」「采地(さいち)」とは領地・知行所(特に旗本の場合にかく呼称した)のこと。「采邑(さいゆう)」とも称する。通常は石高一万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩主のみが「大名」であり、一万石に満たない者はその下の「旗本」でしかなかった。

譚海 卷之一 越中國五箇莊の事

 越中國五箇莊の事

同國期箇(ごか)の庄(しやう)といふ所は、飛驒にちかき深山中の村にして、居人千軒程有(あり)、前田家の領地なり。凡(およそ)此(この)村に至るには深谷のかけ橋などをあまたへていたる事故、同地のものといへども往來する事稀也。尤(もつとも)加州より猥(みだり)に他國の人を入る事を禁じ、番所ありて人を改む。ゆるしをえざれば往來する事あたはず。九山八海と稱する地にて、一山をこえて一山に入(いり)、その際はみな平(たひら)か成(なる)路也。第八山までの人家は千軒の外也。外郭八山迄五十萬石耕作する所といへり。一山の周匝(しふさふ)三十五里づつ有(あり)といへり。其(その)道中百間(けん)或は二百間、谷むかふよりこなたへ藤かつらの繩を引(ひき)わたし、其繩に籃(かご)をくゝりつけ、往來の人は籃の内に坐し、此方(こなた)の岸に人有(あり)て籃ををしやれば、籃四五十間もはしりて中間にしてぶらぶらととゞまる。それより自身籃の中にて繩をたぐり向ふの崕(がけ)に至り、籃より出て途につく事也。繩斷絶すれば深谷へ暴死(ぼうし)す。危嶮(きけん)言語同斷也。如ㇾ此(かくのごとき)谷を十六こえざれば庄に至りがたし。然して村中の人みな壽考(じゆかう)也。百歳已上(いじやう)の人まゝあり。八十歳已下にて死する者をば、夭折のごとく覺えたり。村中煙硝を産す。悉く加州城中へ運びとる。凡壹年に二千金ほどの價也。それを加州より給すれば、千軒高下(かうげ)なく平分(へいぶん)に分(わか)ちとるゆへ、貧富貴賤の家なし。家々同等なれば他を願ふ情なく、七情(しちじやう)薄き故に壽考も多き事としられたり。又貧富なきゆへに奉公する人なし。他國の人(ひと)來住する事なければ、僕從(ぼくじゆう)といふものなし。親子兄弟のみにてかせぐ所也。此期箇の庄に神宮皇后の御所と稱するもの今にありとぞ。すべて常人の宅も結構美麗にして、他邦になき所、別世界のごとし。日本開闢已來一度も兵革の憂に逢(あひ)たる事なき所ゆへ、居人の言語も古代のものいひにて、平安の人よりはものいひやさしく聞ゆるといへり。千軒の人の給は、七年づつの糧をもみにて加州より運送すと云(いへ)り。中央の地に瑪瑙(めなう)の山あり。流水の水上(みなかみ)也。黄金にて鑄たる龍の口より水をはくといへり。居人みな白き衣に白き袴を着る。即(すなはち)其地にて織出(をりいだ)す五條きぬと云(いふ)もの也。輕くて奇麗なる事いふべからず。婦人袴を着て髮はから子(こ)にて瓔珞(やうらく)をさぐると云(いふ)。淫欲甚(はなはだ)しといへり。男子は總髮(そうはつ)にて袴を着るといへり。此山の内外みな淨土眞宗にて餘宗なし。第八山までに淨刹百五十箇(か)寺ありとぞ。中央の事は寺數しれず、前田家入部の時一囘巡見せらるゝ事とぞ。

[やぶちゃん注:「越中國五箇莊」富山県の南西端にある南砺市の旧平(たいら)村・旧上平(かみたいら)村・旧利賀(とが)村を合わせた五箇山(ごかやま)地域のこと。参照したウィキの「五箇山」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の五つの谷からなるので「五箇谷間」となり、これが転じて「五箇山」の地名となった。この名称が、文献に出てくるのは約五百年前、本願寺住職第九世光兼実如上人の文書が最初である。これ以前には、荘園時代に坂本保、坂南保、坂上保、坂下保、坂北保の五つの領に区別し「五箇荘」とも呼んだ。この五箇と呼ばれる地名は全国に約百二十ヶ所程度あると言われ、中国の故事より「五を一括り」を由縁とするらしい。日本で「五穀豊穣」や「五人組」「伍長」との語句などである。平家の落人伝説が「五箇」が多いとの所以は、「五箇」が山間地に多いことや落人が山間に逃げることから源平合戦の近隣の地域に伝説が多い』。『平家の落人が住み着いたと伝えられて』おり、寿永二/治承七(一一八三)年、現在の『富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と平維盛(平清盛の孫)が戦った(倶利伽羅峠の戦い)。この時、義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされる。物的証拠はないが、一部の五箇山の民家の家紋として残っているとされている』。『また、南北朝内乱期に、吉野朝遺臣によって地域文化が形成されたとも伝えられており、「五箇山誌」』(昭和三三(一九五八)年刊)『には「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からである。養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは後醍醐天皇第八皇子、天台座主宗良親王によってである。」という説もある』。『白山信仰による天台宗系密教の地域であったが、一四七一年(文明三年)浄土真宗本願寺八世蓮如が現在の福井県吉崎に下向し、北陸一帯が一向宗の勢力となりこの地域も浄土真宗に改宗したようである。北陸一帯の地名には「経塚」なる地名が残っているが、この地域にも天台宗系のお経を埋めた地を、こう呼んでいる』。『江戸時代には、加賀藩の流刑地とされ、加賀騒動の大槻伝蔵もこの地へ流された。流刑地である五箇山には当地を流れる庄川に橋を掛けることが許されず、住民はブドウのつるで作った大綱を張り、籠をそれに取り付けて「籠渡し」として行き来した(現在でも残っており、人の代わりに人形が川を越える)』。『五箇山の合掌造りの屋根は茅葺である。五箇山の茅葺はコガヤ(チガヤ)』(単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ Imperata cylindrica )『を材料とすることが特徴となっている。なお、現在はチガヤの採取量が全ての合掌造りに必要な分を満たせず、重要文化財や世界遺産を除く合掌造りは大茅(ススキ)で屋根が葺かれている家屋がある。昭和三十年代までは「結」、集落の共同作業にて葺き替えを行っていたが、現在は富山県西部森林組合(旧五箇山森林組合)が屋根の葺き替え、茅場の管理・刈取りを行っている』。『この地域は世界的にみても有数の豪雪地帯であり、そのような風土から傾斜の急な大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれた。現在も南砺市(旧平村)の相倉地区や同市(旧上平村)の菅沼地区には合掌造りの集落が残っており、それぞれ一九七〇年十二月四日、「越中五箇山相倉集落」「越中五箇山菅沼集落」として国の史跡に指定され、一九九四年には重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、隣接している岐阜県大野郡白川村の白川郷(荻町地区)とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として一九九五年一二月、世界遺産に登録されている』。『「五箇山は民謡の宝庫」と言われ、発祥や伝播の経緯が定かでないものが数多く存在する。「お小夜節」は伝承ではお小夜(おさよ)という遊女と関係が深いという。加賀騒動の首謀者と遊女たちが輪島に流刑になったが、お小夜は輪島の出身だったため、意味がないということで、小原(上平)に流され、歌を教えたとされる。口頭で伝承され発展してきた文化遺産であり、麦屋踊は、国の助成の措置を講ずべき無形文化財に選定された経過にある。代表的な「こきりこ節」や「麦屋節」を含む多くの民謡は、一九七三年(昭和四十八年)十一月五日に「五箇山の歌と踊」として、国の選択無形民俗文化財に選択されており、多くの五箇山民謡保存団体が存在し、唄い踊り続けることによって守られて』おり、現在、『こきりこ(こっきりこ)節・麦屋節・長麦屋節・早麦屋節・小谷麦屋節・古代神・小代神・四つ竹節・といちんさ節・お小夜節・なげ節・五箇山追分節・神楽舞・古大臣・しょっしょ節・草島節・輪島節など』が伝承されている、とある。

「居人千軒程有」戦後の人口流出により、二〇一四年の統計では人口(戸数ではない)二千四百人ほどと思われる(瀧澤侑加(ゆか)氏の論文「五箇山の念仏道場と仏教行事の変化に関する研究―利賀地区を中心として―」(PDF)の「五箇三村の人口の推移」二〇一四年四月現在の住民基本台帳人口の表からの推定)。戸数は越中城端善徳寺公式サイト内と思われる「五箇山史雑記」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『五箇山の戸数は、享保十七年(一七三二)では、千三戸、しかし、同十九年(一七三四)では、九百十七戸に減少、幕末の慶応二年(一八六六)では千二百九十六戸と増減した。人口は、同年で九千八百三十二名であった。享保十九年に、戸数、人口が減少した理由は凶作だったことが当時の記録から伺える』とあり(下線やぶちゃん)、『文化十年(一八一三)の江戸時代の記録では、「春は雪遅く消え、秋は雪霜早く降り、諸作物実りかね、稲作は累年実り申さず」とあり、凶作の年は、「飢饉、谷中百姓共、過半飢死申」とあり、五箇山住民の多くが餓死したという』。『幕末の人口から計算すると五箇山での食糧自給率は換算すると六十%で、不足する米は城端から搬入された。日当たりの良い斜面は桑畑となった。加賀藩には年貢の多くは塩硝で納められた』。『旧上平村の世帯数を見ると、明治二八年』(一八九五年)『には四〇五戸あったのが明治三十四年には三百十一戸まで急減している。これは旧平村でも同様で、実は村民の多くが北海道に移住したのである』。『これは開拓地が与えられる屯田兵制度という明治政府の方針もあったが、北海道に移住しなければならなくなった理由には、五箇山の主要製品であった塩硝が、明治三年に加賀藩から買い上げ中止となったこと等、加賀藩に支えられ安定していた五箇山の産業構造が急変したことが背景にある』とある。『そして更に人口の減少が進み、かつての平、上平、利賀を併せて、二〇〇〇年では旧三村の人口は三四〇〇人を下回っているようだ』とあり、前の瀧澤氏のデータからはさらに深刻な減少が起っていることが窺える。因みに本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙って書かれたものであるから、享保十九(一七三四)年に凶作で九百十七戸に減少した後、少しだけ回復した様子が窺える。

「加州」加賀国。

「九山八海」本来は「くせんはつかい(くせんはっかい)」と読み、仏教の世界観で金輪際の中心である須弥山(しゅみせん)を順に取り囲む九つの山と八つの海のことを指すが、ここはそれに擬えた半ば隔絶した一小世界の謂いと思われる。但し、以下の叙述を見る限りでは現地では古くは実際に九つの山については具体的な山(ピーク)が当てられていたは読める。

「五十萬石」不審。加賀藩でさえ百二万五千余石ある。先の「五箇山史雑記」には、『江戸時代の五箇山の石高は、正保三年』(一六四六年。家光の頃である)『「五ヶ山高物成田畠帳並びに高付帳」では』七十ヶ村合計で五千八百三十六石とある。

「周匝」現代仮名遣では「しゅうそう」。ある対象の周りを取り巻くこと。また、その廻り・巡りの意。

「三十五里づつ」三十七・四五キロメートル四方であるが、これはかなり大ドンブリの感がある。現在の行政区分による実測であるが、南北に長い旧利賀村でも三十キロメートル弱ほどと見られ、東西に至っては多く見積もっても二十五キロ弱ほどしかない。南北については現在の庄川上流のやはり合掌造で知られる岐阜県内の白川村まで含めるならば、少なくとも南北はこれくらいにはなるが、白河郷は江戸時代から飛騨国である。

「百間或は二百間」凡そ百八十二~三百六十四メートル。

「谷むかふよりこなたへ藤かつらの繩を引わたし、其繩に籃をくゝりつけ、往來の人は籃の内に坐し、此方の岸に人有て籃ををしやれば、籃四五十間もはしりて中間にしてぶらぶらととゞまる。それより自身籃の中にて繩をたぐり向ふの崕に至り、籃より出て途につく事也」「富山県民生涯学習カレッジ」公式サイト内の廣瀬誠氏の「テレビ放送講座 平成2年度テキスト 第3回 川は暮らしを支える 越中の川と文化」の「籠の渡」(以下に見る通り「かごのわたり」と読む)に、『山間峡谷には籠(かご)の渡(わたり)が架けられていた。両岸に張り渡した綱に籠をつるし、その籠に乗って繰り綱を引きながら谷を渡る施設。神通川の越中・飛騨国境の籠の渡が古来有名で、元禄の頃、俳人凡兆が「越より飛騨へ行くとて、籠の渡の危き所々道もなき山路をさ迷ひて」と前書きして鷲の巣の名吟をとどめた。この籠の渡は多くの紀行歌文に紹介され、広重の版画にもなって全国に知られた』。

『五箇山の庄川の谷にも下梨はじめ十三カ所の籠の渡があって、蓮如上人や赤尾道宗の伝説にいろどられている。俳人路通は元禄八年(一六九五)「ふらふらと籠の渡りやほととぎす」と詠み、『二十四輩順拝図会』(文政七年、一八二四)は見事な木版画を載せている。籠の渡の下に牛渡り瀬があって、牛は荷物をはずして谷川を渡らせられているが、その光景は交通運輸史の一こまとして興味深い』。『神通川の籠の渡は明治五年木橋に架け替えられ、庄川の籠の渡は明治八年以後次々鎖(くさり)橋(鎖で吊るした頑丈な吊橋)に架け替えられた』。因みに、『常願寺川湯川谷の籠の渡は、明治二十六年』(一八九三年)、『ウエストンがこれを利用し、蛙飛びのような格好で籠乗りしたことをユーモラスに書いている。明治三十八年、若き日の山田孝雄(よしお)が立山から下山して雨の湯川谷を通った時、橋が落ちていたため、山の人達が急造りの籠の渡を架けてくれ、これに乗って激しい濁流を渡ったという。そのような技術が山民の間に伝えられていたことは注目すべきであろう』とある。他にも「川渡りの苦難」の章には、『一本の大竹竿(さお)につかまって急流を渡った』という記載があり、『登山家が一本のザイルに何人もつかまって谷川を渡るのと同じ方法であろう』とあって、誠に興味深い。必読である。

「暴死」急死・頓死の意。遺体を引き上げることも出来なかったに違いない。

「壽考」「考」は老人の意で、長寿・長命のこと。

「煙硝を産す」やはりウィキの「五箇山」の「塩硝」の項によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦(一五七〇年(元亀元年)~一五八〇年(天正八年))の織田勢との戦いにも五箇山の塩硝が使われた。また、黒色火薬自体を製造していたとされる。日本古来から、古民家の囲炉裏の下には自然と塩硝は製造されていたが、五箇山では、自然の草(ヨモギ、しし独活、麻殻、稗殻など)と、蚕の糞などで製造する「培養法」を使って、より多くの塩硝を製造した。十六世紀後半には、前田家が加賀一帯を統治し、一向一揆が沈静化したころより、加賀藩に召し上げとして買い付けられる。加賀藩は、外様大名として百万石の経済力をもち徳川家の二分の一の石高を持っていたので、取り潰しの危機にあったが、裏では五箇山での火薬の原料を調達していたのである。しかし、この塩硝も、日本が鎖国を解いてから南米のチリからの硝石(チリ硝石)の輸入によって廃れてしま』ったとある。

「七情」七種の感情。「礼記(らいき)」では、「喜」「怒」「哀」「懼(く)」「愛」「悪」「欲」とし、仏教では「喜」「怒」「哀」「楽」「愛」「悪(お)」「欲」を指す。

「僕從」下僕。小国寡民で貧富の差がないから、賤職としてのそれが居ないのである。

「神宮皇后の御所」底本には編者により「宮」の右に『(功)』と訂正注がある。三韓征伐で知られる仲哀天皇の皇后神功皇后(じんぐうこうごう 成務天皇四〇(一七〇)年~神功皇后六九(二六九)年)であるが、彼女は実在性が疑われており、ネット上でも五箇山の神功皇后の御所という記事は縦覧した限りでは見当たらない。識者の御教授を乞う。

「瑪瑙」現在でも石川県・富山県で多く産出するようである。

「五條きぬ」不詳。識者の御教授を乞う。

「から子」「唐子」であろうが、元来は頭の左右に僅かに髪を残して、他は完全に剃り上げる江戸時代の幼児の中国風の髪形のことである。しかしそれではおかしいのでこれは「唐子髷(からこまげ)」 で先の唐子のように髻 (もとどり) から上を二つに分けて頭上で二つの輪に作った、近世の女性の髪形となった。「からわ」と言う。

「瓔珞をさぐる」「瓔珞」現代仮名遣では「ようらく」で珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具のこと。「さぐる」はまさぐるの意か?

「總髮」「そうがみ」「そうがう(そうごう)」とも読む。男子の結髪の一つで、月代(さかやき)を剃らずに伸ばした髪の毛全部を頭頂で束ねて結ったもの。近世では主に儒者・医者・山伏などが結った髪形。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (三)

 

        

 

 さて、すべての稻田に奇異な形のものが見え出した。私は到る處に、白羽の矢の如きものが熟しかけ稻の穗の上に突出ででゐるのを見た。祈禱の矢! 私は一本を引拔いて調べて見た。莖は薄い竹で、その長さの三分の一ほど下まで割つてある。その裂け目の間へ、一枚の文字を書いた、强い白紙――御符――を插んで、それから、裂けた部分を合はせ、上の方で結んである。少し遠くから眺めると、全體恰も長く、輕い、しつかり羽根を附けた矢の觀を呈する。初めに調べたのには、『湯淺神社講全村中安全』と書いてあつた。次には『美保神社諸願成就御祈禱修行』とあつた。進んで行く處、どこにも綠の田の上にちらちらする白い祈禱の矢が見えて、段々數が增してきた。眼の達する限り、それが散布してゐるので、靑々たる一面の野に、白い花が點々たるやうであつた。

 また時としては、小さな田の周圍に、竹竿を連ねた一種の魔法的な棚があつた。竿と竿は長い繩を支へて、繩からは一定の間隔を置いて、總(ふさ)の如き長い藁と、御幣が垂れてゐる。これは神道の神聖な象徴の注連繩である。これを繞らした尊い地域内へは、いかなる害蟲も入らない。いかに焦がすやうな日も若芽を凋らせない。して、白い矢が光つてゐる處では蝗が繁殖しないし、餓ゑた鳥も害をしない。

 が、今や佛像は、探しても見當らなくなつた。大きな寺、釋迦、阿彌陀、大日如來は最早ない! 菩薩さへ後方に殘されてしまつた。觀音とその神聖な縁戚も見なくなつた。道路の神なる庚申はまだ私共の傍にゐた。しかし、それは名が變つて神道の神となつてゐる。こ〻では猿田彥尊なのだ。して、それは尊の使者なる、三匹の神祕な猿の像でのみ表現されてゐる――

 見猿(ざる)は、兩手で眼を蔽つて、惡を見ざる。

 きか猿(ざる)は、兩手で耳を蔽つて、惡を聽かざる。

 言(い)は猿(ざる)は、兩手で目を蔽つて、惡を云はざる。

 しかし、否! 唯一つの菩薩が、この魔力的神道の雰圍氣の裡にも生きのこつてゐる。依然路傍に、餘程の間隔を置いて、死兒の可愛らしい伴侶なる地藏樣の像があつた。が、地藏もまた少々變化しでゐる。六地藏【註】の彫像に於て、地藏は立つた姿でなく、蓮華に坐して現されてゐる。して、私は東方の國々に於ける如く、その前に積み上げられた小石を見なかつた。

    註。何故に五又は三或は他の數でなく
    て、六地藏であるかと。讀者は質問を
    發するだらう。私自身も聽いてみた。
    恐らくは次の傅說が最も滿足すべき說
    明を與へるだらう――
    
大乘法師愍行念佛傳といふ書によれば、
    地藏菩薩は既に一萬劫を重ねた女であ
    つて、六趣四生の一切有情を敎化しよ
    うとの念願を起した。彼女は不可思議
    力によつて其身を分かつて、同時に地
    獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の
    六趣界に現れて、そこに住めるものど
    もを救濟した。〔これを成就するため
    には、地藏は初めに先づ人間となつた
    に相違ないと。或る友人は主張した〕
    地藏の多くの名、假へば「不休息地藏」
    「讚龍地藏」「金剛悲地藏」「放火王
    地藏」などの中に「無量體地藏」いふ
    意義深き稱號がある。

[やぶちゃん注:「湯淺神社」不詳。講中を作って全村祈願のために選ばれた村人が祈禱護符を貰いに行く所からは、かなり遠く離れているが、湯浅城主土豪湯浅権守藤原宗重が湯浅村に遷座させて信仰し紀州徳川家初代藩主頼宣を始めとする歴代藩主が崇敬した、現在の和歌山県有田郡湯浅町大字湯浅にある、出雲の主神大国主命を主祭神とする通称「湯淺大宮」、「顯國神社」のことか? 識者の御教授を乞う。

「美保神社」現在の島根県松江市美保関町美保関に鎮座する、大国主神の子事代主神及び大国主神の后三穂津姫命(みほつひめのみこと)を祀る美保神社。参照したウィキの「美保神社」によれば、事代主神系とされる「えびす社」三千余社の総本社であると自称している(但し、「三千余社」というのは蛭子神系の「えびす」社を合わせた数であって正確でな、「えびす」云々ではなく事代主神を祀る神社の総本宮の意と思われると注する)。ともかくも「えびす神」の神社として栄え、『商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める』とある(下線やぶちゃん)。ここでハーンが見たものは恐らくこの神社の祭事「青柴垣神事」で奉られる「波剪御幣(なみきりごへい)」と呼ばれるものである。これは「住吉神社」公式サイト内の『月刊「すみよし」』の風呂鞏氏の『美保神社の青柴垣(あおふしがき)神事』(リンク先の下方にある記事)の中に、まさにハーンのこの箇所を引用、そこに注して『「美保神社 諸願成就 御祈祷修行」と書かれたお札は、波切り御幣と呼ばれ、今も海運業者や船長達が貰い受けて帰るそうだ』と書かれてあることから明らかである。例大祭である「青柴垣神事(あおふしがきしんじ)」は同ウィキによれば、四月七日午後に行われるもので、『国譲りを決めた言代主神が船を青柴垣に変えてその中に身を隠すが、再び神として甦る様子を再現している』一年の間、主祭神事代主が嫌いとされる『鶏肉鶏卵を避け、毎日海で身を清めた』二人の当屋(とうや:「頭屋」とも書き、神社の祭祀や講に於いて神事・行事を主宰したり世話したりする人或いはその家を指す。年毎に輪番制で交替するのが普通である)が『前日から断食し、青柴垣を飾った』二隻の『船に乗り、港内を一周後、美保神社に参拝、奉幣する』とあり、恐らくその後にこうした一般向けの御幣が配布されるのであろう。美保関地域観光振興協議会公式サイト内の「青柴垣神事」に詳しく、下方には当屋を実際に勤めた方の記録もあり、必見である。因みにその「波剪御幣」には『海難はもとより水の災い、火の災い、病など突然降りかかる人生の厄災を除いてくれる御幣として幅広く信仰され、授与されている』とある。

「凋らせない」「しぼまらせない」と訓じておく。

「三匹の神祕な猿の像でのみ表現されてゐる」「猿田彥云々」は、たまたまの「猿」絡みのありがちな習合に過ぎない。ウィキ猿」より引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『三猿(さんざる、さんえん)とは3匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠している意匠である。三猿は世界的にも"Three wise monkeys"として知られ、「見ざる、聞かざる、言わざる」という叡智の三つの秘密を示しているとされる。英語では"see no evil, hear no evil, speak no evil."という』(以下のハーンの原文参照)。『日本語の語呂合わせから日本が三猿発祥の地と思われがちだが、三匹の猿というモチーフ自体は古代エジプトやアンコールワットにも見られるもので、シルクロードを伝い中国を経由して日本に伝わったという見解がある。「見ざる、聞かざる、言わざる」によく似た表現は古来世界各地にあり、同様の像も古くから存在する。しかしそれぞれの文化によって意味するところは微妙に異なり、またその起源は未だ十分に解明されておらず、今後の研究と調査に委ねるところが大きいのである』。『「論語」に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」(礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ)という一節がある。一説に、こうした「不見・不聞・不言」の教えが八世紀ごろ、天台宗系の留学僧を経由して日本に伝わったという。三猿のモチーフは、庚申信仰の伝播とともに近世以降広く用いられるようになり、主尊の青面金剛を描く際、その足元に三猿が添えられた例が多い。また庚申塔にも多く三猿が彫り込まれている。天台宗は比叡山の鎮護社の日吉大社と密接な関係にあり、日吉大社を本尊とし、猿を神使とする山王信仰が、庚申信仰と習合した結果ともいう』。『南方熊楠によれば青面金剛と猿の関係はインドに起源があり、青面金剛はインドのラーマーヤナ説話の主人公・ラーマの本体たるヴィシュヌ神の転化であり、三猿はラーマに仕えたハヌマーンの変形という。また庚申の「申=さる」である、庚申信仰で人の悪事を監視して天帝に報告する三匹の「三尸虫」』(さんしのむし)『を封じるため、悪事を見聞きせず、話さない三匹の猿を出したなどの説もある。江戸中期に出版された『和漢三才図会』の「庚申」の項を見ると三猿の挿絵が添えられており、「庚申=三猿」のイメージが定着していたことを伺わせる』。『江戸初期の左甚五郎作と伝える日光東照宮のレリーフは、明治時代になると海外にも紹介されて、やがて世界的に最も有名な三猿のひとつとなった』。『インドのマハトマ・ガンディーは常に三匹の猿の像を身につけ「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたとされており、教科書などに「ガンディーの三猿」が掲載されている。また、アメリカ合衆国では教会の日曜学校などで三猿を用い「猥褻なものを見ない」「性的な噂を聞かない」「嘘や卑猥なことを言わない」よう諭すことがあるという』ともあり、最後の方は一寸、吃驚り。

「大乘法師愍行念佛傳」不詳。識者の御教授を乞う。「大乘法師」とは玄奘三蔵のことか?

「一萬劫」仏教では極めて長い時間を指す語で、珍しく特に数値換算(比喩は別として)されるものではない(因みに、ヒンドゥー教では1劫(カルパ)は現世の四十三億二千万年とするから、その一万倍となる)。

「六趣四生」「六趣」の趣はそれぞれの業報によって趣き住む処という意でハーンも述べている「六道」のこと、「四生」は「ししやう(ししょう)」と読み、仏教に於けるこの世の生きとし生けるあらゆる生物(衆生)の、それぞれの生まれ方によって四つに分類した考え方で、「胎生(たいしょう)」「卵生(らんしょう)」「湿生(しっしょう)」(蚊・蛙など湿気の中から生まれるとされる)「化生(けしょう)」(見かけの観察上では前の三つに見えないもので、外界の影響と無関係に自身の力、「業(ごう)」によって忽然と生まれ出る、出現するとされるもので、例えば仏菩薩が人形(ひとがた)に変じて出現することや、天人や地獄・中有(ちゅうう)への転生、妖怪や幽霊や物の怪全般もこれに含まれる)の四種を指す。

「不休息地藏」修羅道に自律的に化生した地蔵の名。

「讚龍地藏」我々の世界である人間道(じんかんどう)に化生した地蔵の名。以上の二つは埼玉県草加市の真言宗泉蔵院公式サイト内の「泉蔵院の仏様」の「六地蔵尊」の解説に、『泉蔵院に所在する六地蔵は、六道別各尊名を刻してあります。元享釈書の惟高に依ったもので、右側より、地獄道=光味尊、餓鬼道=辨尼尊、畜生道=護讃尊、修羅道=不休息尊、人道=讃龍尊、天道=破勝獄尊とあります』という解説を参照した。「さんりょうじぞう」と読むか。調べたところ、六地蔵の名称については一定していないことが判った。

「金剛悲地藏」サイト「飛騨観光 陽山亭」の「佛教尊像の解説」の「地蔵菩薩」の項によれば、『地蔵菩薩は釈迦入滅から弥勒菩薩が出現するまでの間、人々を救済するために現れた菩薩。六道に輪廻する各界の衆生すべてに救いの手をさしのべてくださるという。このため「六地蔵・預天賀地蔵(天)、金剛願地蔵(地獄)、金剛幢地蔵(修羅)、放光王地蔵(人)、金剛宝地蔵(餓鬼)、金剛悲地蔵(畜生)」といわれて六体の地蔵尊が祀られている事が多い。この菩薩が「比丘」(僧侶)の姿をして、錫杖と宝珠をもっているのは、常に六道を巡錫して人々を救済していることを表わしている』という前注の名称とは一部異なる記載を確認出来る。それによればこれは餓鬼道に化生した地蔵の名ということになる。

「放火王地藏」前注引用によれば、これも先の「讚龍地藏」と同じく人間道の地蔵の名ということにある。

「無量體地藏」これは地蔵菩薩がありとあらゆる世界や場所場面に同時に出現することをシンボライズした地蔵の総称名ではないかと推定される。所謂、千体地蔵と同義ではあるまいか? 識者の御教授を乞う。] 

 

Sec. 3

   And now strange signs begin to appear in all these rice-fields: I see everywhere, sticking up above the ripening grain, objects like white-feathered arrows. Arrows of prayer! I take one up to examine it. The shaft is a thin bamboo, split down for about one-third of its length; into the slit a strip of strong white paper with ideographs upon it—an ofuda, a Shinto charm—is inserted; and the separated ends of the cane are then rejoined and tied together just above it. The whole, at a little distance, has exactly the appearance of a long, light, well-feathered arrow. That which I first examine bears the words, 'Yu-Asaki-jinja-kozen-son-chu-an-zen' (From the God whose shrine is before the Village of Peace). Another reads, 'Mihojinja-sho-gwan-jo-ju-go-kito-shugo,' signifying that the Deity of the temple Miho-jinja granteth fully every supplication made unto him. Everywhere, as we proceed, I see the white arrows of prayer glimmering above the green level of the grain; and always they become more numerous. Far as the eye can reach the fields are sprinkled with them, so that they make upon the verdant surface a white speckling as of flowers.

   Sometimes, also, around a little rice-field, I see a sort of magical fence, formed by little bamboo rods supporting a long cord from which long straws hang down, like a fringe, and paper cuttings, which are symbols (gohei) are suspended at regular intervals. This is the shimenawa, sacred emblem of Shinto. Within the consecrated space inclosed by it no blight may enter—no scorching sun wither the young shoots. And where the white arrows glimmer the locust shall not
prevail, nor shall hungry birds do evil.

   But now I look in vain for the Buddhas. No more great tera, no Shaka, no Amida, no Dai-Nichi-Nyorai; even the Bosatsu have been left behind. Kwannon and her holy kin have disappeared; Koshin, Lord of Roads, is indeed yet with us; but he has changed his name and become a Shinto deity: he is now Saruda-hiko-no-mikoto; and his presence is revealed only by the statues of the Three Mystic Apes which are his servants—

   Mizaru, who sees no evil, covering his eyes with his hands, Kikazaru, who hears no evil, covering his ears with his hands. Iwazaru, who speaks no evil, covering his mouth with his hands.

   Yet no! one Bosatsu survives in this atmosphere of magical Shinto: still by the roadside I see at long intervals the image of Jizo-Sama, the charming playfellow of dead children. But Jizo also is a little changed; even in his sextuple representation, [4] the Roku-Jizo, he appears not standing, but seated upon his lotus-flower, and I see no stones piled up before him, as in the eastern provinces.

 

4
   Why six Jizo instead of five or three or any other number, the reader may ask. I myself asked the question many times before receiving any satisfactory reply.
Perhaps the following legend affords the most satisfactory explanation: 
According to the Book Taijo-Hoshi-mingyo-nenbutsu-den, Jizo-Bosatsu was a woman ten
thousand ko (kalpas) before this era, and became filled with desire to convert all living beings of the Six Worlds and the Four Births. And by virtue of the Supernatural Powers she multiplied herself and simultaneously appeared in all the Rokussho or Six States of Sentient Existence at once, namely in the Jigoku, Gaki, Chikusho, Shura, Ningen, Tenjo, and converted the dwellers thereof. (A friend insists that in order to have done this Jizo must first have become a
man.)

   Among the many names of Jizo, such as 'The Never Slumbering,' 'The Dragon-Praiser,' 'The Shining King,' 'Diamond-of-Pity,' I find the significant appellation of 'The Countless Bodied.'

2015/08/28

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (二)

 

       

 

 山脈の眞中で、稻の田を見下ろした絕壁の緣に沿つて車が駛せ行くとき、私は道路の上へ張出でた崖の凹所に小祠を發見した。祠の兩側と傾斜せる屋根は、扁平な天然石をそのまゝ用ひたのであつた。祠内には粗末に彫つた馬頭觀音の像があつて、その前に野草の花束、素燒の線香立、ばらばらに撒いた米粒などが捧げてあつた。奇異な名が示すのとは異つて、この觀音の像は、馬の頭を有しないで、馬の頭が觀音の冠に彫つてある。して、この象徴の意は、祠側に立てられた大きな卒塔婆に、『馬頭觀世音菩薩、牛馬菩提繁榮』と書いてある文字で充分說明された。馬頭觀音は百姓の牛や馬を保護する。それで百姓はその啞者たる奴隸が、單に病氣に罹らないやう觀音に祈るばかりで無く、更にまた死後牛馬の魂が一層幸福な境遇に入るやうに祈るのだ。卒塔婆の側に四尺四方ほどの木造の枠が立つてゐて、それには澤山の小さな松板の札が相並んで、一枚の滑かな面をなしてゐた。何百も列んだ。是等の木札の上に、像と祠堂のために醵金した人々の名が書かれて、その人數は一萬人と發表してあつた。しかし全部の費用は拾圓を越さないだらうから、銘々の寄附者が一厘より多くは出さなかつたらうと私は推量する。何故といふに、百姓【註】は非常に貧乏だから。

    註。百姓といふ言葉を作つてゐる二個
    の漢字の「百」と「姓」から推して、
    それは『彼等の名は大軍團である』〔無
    數といふも可なり〕といふ英語の成句
    に殆ど等しいだらうと論じたくなる。
    そしてある日本人の友は、この推論は
    左ほど誤つてゐないと斷言した。昔、
    百姓は姓を有たなかつた。銘銘自分の
    個人的名稱に、その所有者又は支配者
    たる領主の名を添へて名乘つたのであ
    つた。だから或る一つの領内に於ける
    百人の貧農は、すべて彼等の領主の名
    を帶びてゐた。

    譯者註。大軍團とは昔、羅馬に三千乃
    至六千人といふ多數を以て一團を編成
    せる軍隊があつたので、一集團で數の
    多いものを表すため、右のやうな成句
    がある。

[やぶちゃん注:ここに出る馬頭観音、いろいろ調べて見たが、今も残るものかどうか、何処のどの馬頭観音かも分からず仕舞いであった。小泉八雲の研究家の御教授を切に乞うものである。なお、馬頭観音の濫觴はウィキの「馬頭観音」によれば(注記号を省略した)、『梵名のハヤグリーヴァ(音写:何耶掲梨婆、賀野紇哩縛)は「馬の首」の意である。これはヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもあり、馬頭観音の成立におけるその影響が指摘されている。他にも「馬頭観音菩薩」、「馬頭観世音菩薩」、「馬頭明王」、「大持力明王」に加え、チベット密教のニンマ派では『八大へールカ法』の「パドマ・スン」(蓮華ヘールカ)、一般には「タムディン」(rta mgrin)、「ペマ・ワンチェン」。中国密教では「馬頭金剛」、「大持力金剛」など様々な呼称がある。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩である』。『転輪聖王の宝馬が四方に馳駆して、これを威伏するが如く、生死の大海を跋渉して四魔を催伏する大威勢力・大精進力を表す観音であり、無明の重き障りをまさに大食の馬の如く食らい尽くすというところから、「師子無畏観音」ともいう』。『他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、一般に馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒(ふんぬ)相である。このため、密教では「馬頭明王」と呼ばれて仏の五部で蓮華部の教令輪身(きょうりょうりんじん)であり、すべての観音の憤怒身ともされる。それゆえ柔和相の観音の菩薩部ではなく、憤怒相の守護尊として明王(みょうおう)部に分類されることもある。また、「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらには、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされていて』、「六字経」を典拠とし、『呪詛を鎮めて六道輪廻の衆生を救済するとも言われる「六観音」においては、畜生道を化益する観音とされる』とあり、更に『馬頭観音の石仏については、馬頭の名称から身近な生活の中の「馬」に結び付けられ、近世以降、民間の信仰に支えられて数多くのものが残されている。また、それらは「山の神」や「駒形神社」、「金精様」とも結びついて、日本独自の馬頭観音への信仰や造形を生み出した』とあり、『近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。特に、このような例は中馬街道』(中馬街道は「ちゅうまかいどう」と読むと思われ、江戸時代の信濃国及び甲斐国で発達した陸上運輸手段を指し、徳川家康によって作られた尾張名古屋と信州飯田を結んでいる現在の国道一五三号(愛知県名古屋市~豊田市~長野県飯田市~伊那市~塩尻市)である旧飯田街道等を指すものと思われる。詳しくはウィキの「中馬」を参照されたい)『などで見られる。なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものである。また、千葉県地方では馬に跨った馬頭観音像が多く見られる』とある。]

 

 かゝる人里遠く淋しい山中で、その小祠を見出したことは、嬉しく安全の思を起させた。牛馬の亡魂【註】のために祈るほど優しい心を有つた人民からは、たしかに親切の外、何を期待し得られないだらう。

    註。この動物らのため祈る習慣は、必
    ずしも一般ではない。しかし、私は西
    部日本の諸國でかやうな祈願の述べら
    れた家畜の葬式を幾つも見た。いづれ
    の場合にも、土に埋めてから線香を墓
    の上に立て、火を點じ、祈りが囁き聲
    で繰返された。東京の友人は、私に次
    の珍らしい報告を送つてくれた。「東
    京」の回向院では、動物の位牌の預け
    られたのに對しては、其菩提のため、
    每朝祈りが捧げられる。料金三十錢を
    納めると、すべて小さな愛養の動物を
    寺院境內へ葬つて貰ひ、簡短の式を營
    んで貰ふことが出來る』屹度、同樣の
    寺が他にもあるだらう。人間に取つて
    啞の友人であり、啞の奴僕であるもの
    に對して、苟も愛情を惑じ得る人々は
    是等の優美なる習慣を嘲笑することは
    出來ない。

[やぶちゃん注:「簡短」はママ。

「三十錢」この明治二三(一八九〇)年当時白米一升が九銭であるから、決してはした金ではないことに注意されたい。因みに、ネット上で現代のペットの供養料を探ってみると、合葬料(火葬料は別・読経料込み)で下はだいたい五千円、卒塔婆や個別建墓料(火葬料別)で一万五千円、私の知人(横浜市内)のケースでは二~三万円(火葬料別)したようである。ここに出る両国の回向院を調べてみると、公式サイトには出ていないが、とある個人の二〇〇八年のブログ記事を見ると、火葬費用は重量別で、遺体重量が三キログラムまでは個別葬の場で三万円+供養料心附けとある(なお、その方の住まうところの市の火葬場の動物用での個別収骨料金は三千円だそうである)。] 

 

 私共が急に傾斜を下るとき、車夫があまり突然に、一方へ逸れたので私は喫驚した。何故と云へば、道が數百尺の深谷を見おろす處であつたからだ。車夫の行爲は、單に道を橫切つて進んでゐた無害の蛇を傷めないためであつた。蛇もあまり人を怖れないで、道の緣に達してから、頭を轉じて私共を見送つてゐた。

[やぶちゃん注:「喫驚」音は「きつきやう(きっきょう)」だが「吃驚」と同義で、おどろくこと、びっくりすることであり、ここは「喫驚(びつくり)した」と訓じてよかろう。

「數百尺」「百尺」は三十・三メートルであるから、高低差百八十二~二百十二メートルほどの渓谷と思われる。]

 

Sec. 2

   In the very heart of a mountain range, while rolling along the verge of a precipice above rice-fields, I catch sight of a little shrine in a cavity of the cliff overhanging the way, and halt to examine it. The sides and sloping roof of the shrine are formed by slabs of unhewn rock. Within smiles a rudely chiselled image of Bato-Kwannon—Kwannon-with- the-Horse's-Head—and before it bunches of wild flowers have been placed, and an earthen incense-cup, and scattered offerings of dry rice. Contrary to the idea suggested by the strange name, this form of Kwannon is not horse-headed; but the head of a horse is sculptured upon the tiara worn by the divinity. And the symbolism is fully explained by a large wooden sotoba planted beside the shrine, and bearing, among other inscriptions, the words, 'Bato Kwan-ze-on Bosatsu, giu ba bodai han ye.' For Bato-Kwannon protects the horses and the cattle of the peasant; and he prays her not only that his dumb servants may be preserved from sickness, but also that their spirits may enter after death, into a happier state of existence. Near the sotoba there has been erected a wooden framework about four feet square, filled with little tablets of pine set edge to edge so as to form one smooth surface; and on these are written, in rows of hundreds, the names of all who subscribed for the statue and its shrine. The number announced is ten thousand. But the whole cost could not have exceeded ten Japanese dollars (yen); wherefore I surmise that each subscriber gave not more than one rin—one tenth of one sen, or cent. For the hyakusho are unspeakably poor. [2]

   In the midst of these mountain solitudes, the discovery of that little shrine creates a delightful sense of security. Surely nothing save goodness can be expected from a people gentle-hearted enough to pray for the souls of their horses and cows. [3]

   As we proceed rapidly down a slope, my kurumaya swerves to one side with a suddenness that gives me a violent start, for the road overlooks a sheer depth of several hundred feet. It is merely to avoid hurting a harmless snake making its way across the path. The snake is so little afraid that on reaching the edge of the road it turns its head to look after us.

 

2
   Hyakusho, a peasant, husbandman. The two Chinese characters forming the word signify respectively, 'a hundred' (hyaku), and 'family name' (sei). One might
be tempted to infer that the appellation is almost equivalent to our phrase, 'their name is legion.' And a Japanese friend assures me that the inference would not be far wrong. Anciently the peasants had no family name; each was known by his personal appellation, coupled with the name of his lord as possessor or ruler. Thus a hundred peasants on one estate would all be known by the name of their master.

 

3
   This custom of praying for the souls of animals is by no means general. But I have seen in the western provinces several burials of domestic animals at which such prayers were said. After the earth was filled in, some incense-rods were lighted above the grave in each instance, and the prayers were repeated in a whisper. A friend in the capital sends me the following curious information: 'At the Eko-in temple in Tokyo prayers are offered up every morning for the souls of certain animals whose ihai [mortuary tablets] are preserved in the building. A fee of thirty sen will procure burial in the temple-ground and a short service for any small domestic pet.' Doubtless similar temples exist elsewhere. Certainly no one capable of affection for our dumb friends and servants can mock these gentle customs.

2015/08/27

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊 (一)

 

       第六章 盆踊 

 

          

 

 山を越えて、古代の神國、出雲へ行く。太平洋から日本海へ、强い車夫に車を曳かせて四日間の旅。何故といふに、私共は最も人の通らぬ、最も遠い道【譯者註】を取つたから。

    譯者註。山陽道から中國山脈を越えて
    山陰道へ行く從來の道筋は、行先に從
    つて姬路、岡山、尾道、廣島をそれぞ
    れ起點とする。ヘルン先生は岡山より
    津山へ入り、それから烏取街道へ出で
    て、更に轉じて松江へ向はれたのであ
    る。

 この長い道筋の大部分は、谷間を通じてゐる。道が上つて行くと、谷は更に高い谷に續いて、兩側の山と山に挾まれた稻の田は、堤坡を築いた高臺を連ねて傾斜が昇つて、大きな綠色の階段の如く見える。谷の上には、松や杉の薄暗い森があつて、森に蔽はれた絕巓の上には藍色の遠山がぬつと聳えて、灰色な水蒸氣の瘠せた影法師が、またその上に浮いてゐる。空氣は生温るくて風が無い。遠方は細かい霞が、紗を張つてゐる。して、この極めて優美な靑空、私が從來見た如何なる空よりも高いやうに私の目に映ずる。この日本の空には、每日たゞ僅かの纎絲の如き、幽靈の如き、透明な、白いぷらぷら迷つてゐるものがあるのみだ。雲の精ともいふべきものが、風に乘つてゐるのだ。

 道が昇つて行くにつれ、折々稻の田の無くなることがある。大麥、藍、燕麥、綿などの 畠が暫くの間、道路に沿つで續く。それから、道はまた森の影へ突入する。何よりも時々路傍にある杉の森は驚異だ。熱帶以外では、私は未だ濃密と垂直の、これと比較すべき森 を見たことがない。幹は一本々々柱の如く眞直で露骨だ。前面全體は、高く聳えた靑白い柱の無限な習合が、うす暗い簇葉の雲の中へ沒してゐる觀を呈する。頭上を仰ぎ見れば、暗中に消え失せる枝の外には、何も識別されぬほど、葉が繁つてゐる。して、靑白い樹幹の柵に折々開いた隙間から向うを見ると、奧は夜の黑さで、ドーレーの樅の森の畫のやうだ。

    譯者註。ドーレーは十九世紀後半期の
    佛國畫家。

 もはや大きな町は無い。たゞ山隈に巢籠つた草葺き家の村ばかりだ。村每に、佛敎の寺が灰靑色の瓦を疊んだ、彎曲せる屋根を、茅屋の群がる上から現し、また、神道の祀祠の前には、石又は木で造つた一大文字のやうな鳥居が立つてゐる。しかし、佛敎の方がまだ優勢だ。山の頂上には寺があつて、佛陀や菩薩の像が、里程標の如く精確に路傍に立つて ゐる。往々、村の寺が非常に大きいので、周圍の農民の小舍が納屋のやうだ。かゝる賤しい村で、何うして、かほど費用のかかる祈願の堂宇が支へて行けるだらうかと、旅人は不思議に思はざるを得ない。また到る處に優しい信仰の象徴が見える。その經文や記號が岩の面に刻んである。その聖像は路傍の蔭から微笑してゐる。加之、時には山水の恰好までも、信仰の靈によつて形成されたやうで、丘陵が祈りの如く柔かに昇つてゐる處もある。或る山の絕頂は釋迦の頭の如く圓屋根形をなして、そこに生ぜる黑い盛り上つた葉狀體は、釈迦の捲毛(ちゞれげ)の叢とも見えた。

 が、日を經て、私共が次第に西の方の奧へ入るに從つて、段々と寺が減じて來た。私共 が通り過ぎて行く邊の寺は、小さくて、貧乏らしく、路傍の佛像は稀になつた。しかし、神道の象徴が次第に多くなり、宮の構造も大きく高くなつた。それから、鳥居が到る處に 見えて、一層高く聳えた。村の入口や、奇怪な石造の獅子と狐によつて守護された境内の入口や、神聖な森の薄明かりの奥に鎭座する、寂びた社祠へ、老松古杉の繁つた間を通じ行く苔蒸す石段の前などに、いつも鳥居が立つてゐた。

 ある一小村で、大きな神社の鳥居をくゞつた處に、特異な小祠があつたので、好奇心に 驅られて、それを探討させざるを得なかつた。鎖された戶の前には、澤山の短い瘤の多い 杖、卽ち小型の棍棒が立てかけてあつた。晃が大膽にもそれを取除け、戶を開けて、私に內部を見せた。たゞ面――天狗の面があるのみであつた。巨大な鼻を有し、何とも云へなく怪奇で、私はそれを眺めたことを悔ひた。

 棒は献納の品である。それ宮へ寄進すると、天狗が敵を擊退して吳れると信ぜられてゐる。すべて日本の繪畫彫刻では、惡鬼の形に現してあるけれども、天狗樣は低級の神なので、擊劔並びに一切武道の守護神である。

 それから、また他の變化も次第に明白になつた。晃は最早土地の人の言葉を理解し得ないと不平をこぼした。私共は方言の地域を通過してゐるのだ。家屋の作り方もまた日本の東北部の田舍と異つてゐる。高い藁葺屋根には、屋背の棟木に平行して、一尺ほど高めた竹の柱に、藁束を附けて、珍異な飾が施してある。百姓の皮膚の色も東北部に於けるよりは黑い。また東京附近の女に見るやうな美しい薔薇色の顏は見られなくなつた。百姓の帽子も變つてゐる。奇妙にも庵笠と呼ばれて、路傍の小さな庵寺の藁屋根の如く尖つてゐる。

 天氣が暖か過ぎるので、着物が重苦しくなつた。小さな村を通るときに、私は健康さうな、さつぱりした裸體を澤山見受けた。綺麗な裸の子供や、腰に一枚の柔かな狹い白布を纏つたま〻で、疊敷の床の上に寢てゐる褐色の大人や少年を見た。微風を入れるため、家の障子は悉皆外づしてある。男子の體格は輕やかに軟靭らしく、筋肉には角が立たないで、輪廓はいつも滑かだ。大抵何れの家の前にも、小さな藁莚の上に藍を擴げて、日光に乾してあつた。

 田舍の人達は驚異の目を張つて、外人を注視した。私共が立佇つたいろいろの所で、老人が近寄つてきて、私の衣服に手を觸れては、恭しく敬禮したり、人懷かしい微笑を浮べたりして、彼等の極めて天眞爛漫たる好奇心に對する詑びを表した。また私の通辯人に向つて、さまざまの寄異な質問を發した。これほど温和で、親切な顏を私は未だ見たことがなかつた。して、その顏は裏面の精神を反映してゐた。一聲も怒りの言葉を聞かなかつたし、また一つの不親切な擧動も目擊しなかつた。

 

 旅行して進むほどに、每日々々土地の景色が美しくなつた――火山國にのみ見出される、あの變幻奇怪な風景美なのだ。暗い松や杉の森、この遠く微かな夢の如き空、柔かな白い光線を除けば、この途中、私は再び西印度にゐて、ドミニカ島や、マルチニーク島の峯巒を、迂餘曲折して登つて行くやうに想像した場合があつた。また實際、私は地平線のかなたに棕櫚樹や木綿の形を探し求めたこともあつた。が、森の下の谷や傾斜面の一層輝ける綠色は、若い籐のそれではなく、稻の田のそれであつた。農家の庭園位な、小さな稻の田が、何千といふほど狹い迂曲した堤坡で、互に界をして連つてゐた。

[やぶちゃん注:ハーバー社と絶縁する前後に、ハーンは横浜海軍病院勤務の米国海軍主計官ミッチェル・マクドナルド(既注)の紹介で知り合った東京帝国大学教授バジル・ホール・チェンバレン(既注)と、かつてアメリカでの記者時代に知遇を得ていて当時は文部普通学務局長の地位に就いていた服部一三(嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)の斡旋によって、島根県立松江中学校英語教師に着任することが決まっていた。参照した上田和夫氏の年譜(新潮文庫昭和五〇(一九七五)年刊「小泉八雲集」)では、松江への出発を八月末とする。但し、平井呈一氏の恒文社一九九八年刊「対訳 小泉八雲作品抄」末に載る略年譜では出発を八月上旬としている。しかし、平井氏の説を採ってしまうと、前章の盆市体験の説明がつかなくなる。私は現時点ではあくまで上田氏の八月末説を採る。なお、ここで落合氏の注を参考に推定実測すると、二百四十キロメートルもの道のりを人力車で四日間で走ったことになる。一日六十キロメートル、人力車の時速は八~十キロメートルであるから可能ではあるがしかし、途中、中国山地越えをしており(しかも通訳兼書生の真鍋晃も同道)、これはなかなか尻の痛くなるハードな旅である。

「堤坡」「ていは」と読み、「坡」は傾斜地或いは傾斜を持った堤(つつみ)のことであるから、所謂、畦(あぜ)・畦道のことである。

「ドーレー」フランスの画家ポール・ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré 一八三二年~一八八八年)。彼はダンテ・バルザック・ラブレー・ミルトン・バイロンといった巨匠の挿絵画家としても知られ、イギリス版聖書やエドガー・アラン・ポー「大鴉」等の挿絵も手がけ、生前から国際的にその名を知られていた(ここまではウィキの「ギュスターヴ・ドレ」に拠った。平井呈一氏の訳の割注には、彼の描いた『バルザックの「風流滑稽譚」の挿絵は有名で、八雲はこよなく愛好した』とある。彼の風景画と言っても頗る幻想性や宗教性が強く、何とも言えぬ陰鬱怪奇なものが多いように私は感じる。そういう点では八雲が偏愛したというのは多少は分からぬではない。

「小型の棍棒」私は天狗信仰には詳しくないが、これは直感的には天狗の鼻から導かれる陽物崇拝に基づく男根をシンボライズしたもののように思われるが如何? 識者の御教授を乞うものである。

「庵笠」不詳。平井呈一氏は『あんがさ』とルビを振る。かなり南であるが、佐賀県で「甚八笠(じんぱちがさ)」と呼ばれるものが形態的には似ているように思われる。グーグル画像検索「甚八笠」をリンクしておく。思うにこれは晴天のサン・バイザーと同時に降雨時の雨笠の両実用性を考えた形状のように私には見える。識者の御教授を乞う。
 
「ドミニカ島」カリブ海の西インド諸島を構成する小アンティル諸島南部ウィンドワード諸島(西インド諸島南アメリカ大陸寄りの最南方部分に連なる小規模な島々)最北部に位置する島。当時はイギリス植民地であった。一四九三年にコロンブスが来島、その日がたまたま日曜日(スペイン語:
domingo ドミンゴ)であったことからドミニカ島と命名されたとする。一六三五年にフランスが植民地化、一七六三年、パリ条約によりフランスからイギリスの植民地と決まったものの、両国間で領有権が争われ続け、実に四十二年後の一八〇五年になってイギリスの植民地となった。その後、一九五八年に西インド連邦に加盟するも、四年後の一九六二年には西インド連邦自体が解体され、一九六七年にはイギリス領西インド連合州の一州となり、この時、遂に自治を獲得、一九七八年に晴れてイギリス連邦加盟国として独立、ドミニカ国となった(以上は主にウィキドミニカ国」を参照したが、注意されたいのはドミニカ島の東北東、千キロメートルも離れた西インド諸島大アンティル諸島中のキューバ島に次ぐ巨大な島イスパニョーラ島東部(島の西2/3。残りの東1/3はハイチ)に位置するドミニカ共和国とこのドミニカ国は全く別な国であるので注意されたい)。ハーンは三十代の後半、一八八七年(本邦は明治二十年)三十七歳の時に未知の新天地を求めて西インド諸島を彷徨した。次注も参照のこと。

「マルチニーク島」カリブ海に浮かぶ西インド諸島の中のウィンドワード諸島に属する島で、フランス植民地(ハーン訪問時も同じ)。現在も海外県(飛地)の一つである。海を隔てて北にドミニカ国が、南にイギリス連邦加盟国セントルシアが接する。参照したウィキマルティニークによれば、『「世界で最も美しい場所」とコロンブスに呼ばしめ、彼を魅了したマルティニーク島の語源は島に住んでいた、カリブ人の言葉でマディニーナ(Madinina、花の島)、またはマティニーノ(Matinino、女の島)がマルティニークの語源になっている』とある。上田和夫氏の年譜によれば(新潮文庫)、ハーンは前述の放浪の際、同年七月にこのマルティニーク島を訪れ、その熱帯独特の美しさに魅せられ、一度ニューヨークに戻った後(九月)、十月には再びマルティニークへ渡島、それより一年半(離島は来日する一年前の一八八九年五月)に亙って当時の県庁所在地で「カリブの小パリ」と賞された島の北西部のサン・ピエール(Saint Pierre)に住み、紀行・見聞記・小説を書き続けた(但し、サン・ピエールは後の一九〇二年五月八日、町の近くにあるプレー山が噴火、火砕流によって崩壊、死者は約三万人に達し、陸上にいた人の内で生存者はわずか三人のみだったという。この噴火後、マルティニークの県庁は島の中西部のフォール・ド・フランスに移されている)。ハーンは来日する前月(明治二三(一八九〇)年三月)にこのマルティニークの優れた紀行文十六篇を納めた「仏領西インドの二年間」を公刊している。

「峯巒」山の峰或いは山。

 

Chapter Six

BON-ODORI

 

 Sec. 1

   Over the mountains to Izumo, the land of the Kamiyo, [1] the land of the Ancient Gods. A journey of four days by kuruma, with strong runners, from the Pacific to the Sea of Japan; for we have taken the longest and least frequented route.

   Through valleys most of this long route lies, valleys always open to higher valleys, while the road ascends, valleys between mountains with rice-fields ascending their slopes by successions of diked terraces which look like enormous green flights of steps. Above them are shadowing sombre forests of cedar and pine; and above these wooded summits loom indigo shapes of farther hills overtopped by peaked silhouettes of vapoury grey. The air is lukewarm and windless; and distances are gauzed by delicate mists; and in this tenderest of blue skies, this Japanese sky which always seems to me loftier than any other sky which I ever saw, there are only, day after day, some few filmy, spectral, diaphanous white wandering things: like ghosts of clouds, riding on the wind.

   But sometimes, as the road ascends, the rice-.fields disappear a while: fields of barley and of indigo, and of rye and of cotton, fringe the route for a little space; and then it plunges into forest shadows. Above all else, the forests of cedar sometimes bordering the way are astonishments; never outside of the tropics did I see any growths comparable for density and perpendicularity with these. Every trunk is straight and bare as a pillar: the whole front presents the spectacle of an immeasurable massing of pallid columns towering up into a cloud of sombre foliage so dense that one can distinguish nothing overhead but branchings lost in shadow. And the profundities beyond the rare gaps in the palisade of blanched trunks are night-black, as in Dore's pictures of fir woods.

   No more great towns; only thatched villages nestling in the folds of the hills, each with its Buddhist temple, lifting a tilted roof of blue-grey tiles above the congregation of thatched homesteads, and its miya, or Shinto shrine, with a torii before it like a great ideograph shaped in stone or wood. But Buddhism still dominates; every hilltop has its tera; and the statues of Buddhas or of Bodhisattvas appear by the roadside, as we travel on, with the regularity of milestones. Often a village tera is so large that the cottages of the rustic folk about it seem like little out-houses; and the traveller wonders how so costly an edifice of prayer can be supported by a community so humble. And everywhere the signs of the gentle faith appear: its ideographs and symbols are chiselled upon the faces of the rocks; its icons smile upon you from every shadowy recess by the way; even the very landscape betimes would seem to have been moulded by the soul of it, where hills rise softly as a prayer. And the summits of some are domed like the head of Shaka, and the dark bossy frondage that clothes them might seem the clustering of his curls.

   But gradually, with the passing of the days, as we journey into the loftier west, I see fewer and fewer tera. Such Buddhist temples as we pass appear small and poor; and the wayside images become rarer and rarer. But the symbols of Shinto are more numerous, and the structure of its miya larger and loftier. And the torii are visible everywhere, and tower higher, before the approaches to villages, before the entrances of courts guarded by strangely grotesque lions and foxes of stone, and before stairways of old mossed rock, upsloping, between dense growths of ancient cedar and pine, to shrines that moulder in the twilight of holy groves.

   At one little village I see, just beyond, the torii leading to a great Shinto temple, a particularly odd small shrine, and feel impelled by curiosity to examine it. Leaning against its closed doors are many short gnarled sticks in a row, miniature clubs. Irreverently removing these, and opening the little doors, Akira bids me look within. I see only a mask—the mask of a goblin, a Tengu, grotesque beyond description, with an enormous nose—so grotesque that I feel remorse for having looked at it.

   The sticks are votive offerings. By dedicating one to the shrine, it is believed that the Tengu may be induced to drive one's enemies away. Goblin-shaped though they appear in all Japanese paintings and carvings of them, the Tengu-Sama are divinities, lesser divinities, lords of the art of fencing and the use of all
weapons.

   And other changes gradually become manifest. Akira complains that he can no longer understand the language of the people. We are traversing regions of dialects. The houses are also architecturally different from those of the country-folk of the north-east; their high thatched roofs are curiously decorated with bundles of straw fastened to a pole of bamboo parallel with the roof-ridge, and elevated about a foot above it. The complexion of the peasantry is darker than in the north-east; and I see no more of those charming rosy faces one observes among the women of the Tokyo districts. And the peasants wear different hats, hats pointed like the straw roofs of those little wayside temples curiously enough called an (which means a straw hat).

   The weather is more than warm, rendering clothing oppressive; and as we pass through the little villages along the road, I see much healthy cleanly nudity: pretty naked children; brown men and boys with only a soft narrow white cloth about their loins, asleep on the matted floors, all the paper screens of the
houses having been removed to admit the breeze. The men seem to be lightly and supply built; but I see no saliency of muscles; the lines of the figure are always smooth. Before almost every dwelling, indigo, spread out upon little mats of rice straw, may be seen drying in the sun.

   The country-folk gaze wonderingly at the foreigner. At various places where we halt, old men approach to touch my clothes, apologising with humble bows and winning smiles for their very natural curiosity, and asking my interpreter all sorts of odd questions. Gentler and kindlier faces I never beheld; and they reflect the souls behind them; never yet have I heard a voice raised in anger, nor observed an unkindly act.

   And each day, as we travel, the country becomes more beautiful— beautiful with that fantasticality of landscape only to be found in volcanic lands. But for the dark forests of cedar and pine, and this far faint dreamy sky, and the soft whiteness of the light, there are moments of our journey when I could fancy myself gain in the West Indies, ascending some winding way over the mornes of Dominica or of Martinique. And, indeed, I find myself sometimes looking against the horizon glow for shapes of palms and ceibas. But the brighter green of the valleys and of the mountain-slopes beneath the woods is not the green of young cane, but of rice-fields—thousands upon thousands of tiny rice-fields no larger than cottage gardens, separated from each other by narrow serpentine dikes.

 

1
   The period in which only deities existed.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (六) /第五章~了

 

        

 

 商人の群集と喧囂と無數の燈火の上に高く立ち、輝ける町の終端にある眞言宗の大寺院が、其丘の上から星空の中へ夢の如く凄く聳えてゐる。その彎曲した屋根に沿ふて吊るされや提燈のために異樣に光つてゐるのだ。して、人込みの流れが私をその方へ運んで行つた。參詣者の群集の頭や肩と思はれる、徐々と動いて行く黑い塊團の上へ、寺の廣い入口から、一幅の黃色な光が射してゐる。まだ唐獅子に護られた石段に達しない內に、私は寺の銅鑼が絕間なく響くのを聞いた。それは一度每に賽錢と祈念の信號である。貨幣の雨が大きな賽錢櫃に注ぎ込むに相違ない。今夜は靈魂の醫者、藥師如來の緣日なのだ。たうとう石段まで運ばれてきた私は、群集の押合ふにも係らず、暫らく立停まる乙とが出來た。それは私が見た內で最も美しい燈籠を賣つてゐる臺の前であつた。紙で作つた大きな蓮華の形の燈籠で、微細の點に至るまで、全くよく出來て、大きな生きた花を新しく引拔いてきややうであつた。花瓣は底の方が紅く、先端に至るに從つて白い。萼は瑕瑾なき自然の疑似で、下方に綺麗な紙片の總(ふさ)が垂れてゐる。總は花と同じ花で、萼の直下は綠、中部は白、末端は紅である。花の中心に粘土燒の豆洋燈が置かれて、火を點ずると、花が滿面明かるく、透き通つてくる。――紅白の火の蓮華だ。これを掛けるために金色に塗つた、細い木製の輪が附屬してゐる。しかも代價は四錢! 驚くばかり物價の低廉なこの國とは云へ、こんな品を四錢で製造して、どうして暮らして行けるだらうか?

 晃は明晩點火される百八の迎ひ火のことを、少しく私に話さうとした。それは百八煩惱と譬喩的の關係がある。しかし、藥師如來の堂へ上つてくる、參詣者の下駄と駒下駄の響のために、晃の言葉は聞取れない。貧民の輕い草履や草鞋は音を發しない。大きながちや がちやいふ響は實際、女や娘の優しい足のためだ。彼等は騷がしく響く下駄の上に身を托 して、用意深く平衡を取つて步く。して、その小さな足には大抵、白蓮の如く白く、淸らかな足袋を穿いてゐる。多くの靑い着物をきた小さな母達が、綺麗な穩かな赤ん坊を背負つて、辛棒强く微笑を湛へながら、佛陀の山へと上つてくる。 

 して、私は彩色せる提燈の光にたよつて、温和な騷がしい人々と一緖になつて、大きな 石段を上り、更に他の提燈を並べたり、造花を高く生墻の如く積んだ間を通つて逍遙し乍ら、私の心は不意に、あの貧しい主婦の室の、小さな破れた佛壇に戾つて行つて、その前に吊るした賤しい玩具と、笑ひつ〻𢌞轉するお多福の面を思つた。私はお多福の眼の如く斜めに切れて、光澤ある影に蔽はれた、幸福らしく、可笑しげな小さな眼が、常にその玩具を眺めてゐたことを目のあたりに見るやうに思つた。この世に生まれ出でてから、まだ新鮮な兒童の感覺は、私が漠然としか想像し得ない、一種祖先からの遺傳的な妙味快趣をその玩具に見出したことであらう。丁度今夜のやうな生温かな明かるい夜、丁度このやうな平和な群集の中を、必ず幾度も運ばれたであらうやうに、あのかよはい小兒が細い手で母の頸に柔かくすがり乍ら、運ばれてゐるのが目に見える如くであつた。

 何處にか、この群集の中に彼女――あの母はゐるのだ。彼女は今夜再び小さな手の微かな接觸を感ずるだらう。しかし、以前のやうに背後を振り向いて見たり、笑つたりしないだらう。

[やぶちゃん注:最後の二段落は限りなく哀しく美しい幻想映像である。ここでハーンが言う「彼女」は無論、晃の母のこと――亡くなった娘である妙容童女の母――を指しているのであるが、一種、慄然とさえする、驚くべきリアリスティクなカメラ・ワークである。それは実は「彼女」は実は子を失った晃の母の若き日であると同時に、満三歳のハーンを残してギリシャへと去った永遠に忘れ難い若き母ローザでもあるからである。「あのかよはい小兒が細い手で母の頸に柔かくすがり乍ら、運ばれてゐる」さまが「目に見える如くであ」り、「彼女は今夜再び小さな手の微かな接觸を感ずるだらう」と述べる時、そのか弱い手と指とは、頑是ないハーン自身の腕(かいな)と指先の感覚として読み換えられているからでもあるのである。……ハーンには殆んど母の記憶がなかった。しかし彼は母を永遠に愛した。同時に母を言わば見捨てた形となって離婚した父をハーンは遂に許さなかったのであった。……

「喧囂」「けんがう(けんごう)」と読み、「喧喧囂囂」と同義で、喧しく騒ぐことであるが、どうも荒っぽくてしっくりこない。平井呈一氏の訳の『喧噪』の方が遙かによい。

「大寺院」既出の藏德院であろう。

「塊團」団塊と同義であろう。音なら「くわいだん(かいだん)」であろうがどうもしっくりこない。「かたまり」と私は訓じておく。

「藥師如來の緣日」現行、通常の薬師如来の縁日は毎月八日(八日・十八日・二十八日とする寺院もある)で、中でも一月八日を「初薬師」、十二月八日を「納めの薬師」と称し特に多くの参詣客で賑わう。私は本章冒頭「一」の注で、この「盆市で」は最終的には明治二三(一八九〇)年の新暦八月十二日(火曜)以前の一日と考えざるを得ないと判断した。すると最も直近だと新暦の八月八日であるが、これでは盆市として明らかに早過ぎておかしい。盆市はお盆の前夜祭のようなもので旧暦七月十二日の夜から翌十三日の朝にかけて古くは(現在でも地方によっては旧暦のこの日に)行われていた(いる)から、ここでそれを現在のように新暦の八月十二日と十三日と読み換えてみると、これは旧暦で六月二十七日、二十八日に当たることが判った。しかもやっと調べ上げた中の、こちらのデータ(PDF)によれば、この増徳院の薬師堂のそれは「色薬師」と呼ばれて、開港以来、外国人も好んで参拝、しかもこの増徳院の色薬師の縁日は月に三回あったとあるから、私はこの盆市はまさに明治二三(一八九〇)年の新暦の八月十三日(旧暦の六月二十八日)のことであったと推定するものである。大方の御批判を俟つ。

「生墻」「いけがき」と読む。生垣と同義。] 

 

Sec.6

   High above the thronging and the clamour and the myriad fires of the merchants, the great Shingon temple at the end of the radiant street towers upon its hill 
against the starry night, weirdly, like a dream— strangely illuminated by rows of paper lanterns hung all along its curving eaves; and the flowing of the crowd bears me thither. Out of the broad entrance, over a dark gliding mass which I know to be heads and shoulders of crowding worshippers, beams a broad band of yellow light; and before reaching the lion-guarded steps I hear the continuous clanging of the temple gong, each clang the signal of an offering and a prayer. Doubtless a cataract of cash is pouring into the great alms-chest; for to-night is the Festival of Yakushi-Nyorai, the Physician of Souls. Borne to the steps at last, I find myself able to halt a moment, despite the pressure of the throng, before the stand of a lantern-seller selling the most beautiful lanterns that I have ever seen. Each is a gigantic lotus-flower of paper, so perfectly made in every detail as to seem a great living blossom freshly plucked; the petals are crimson at their bases, paling to white at their tips; the calyx is a faultless mimicry of nature, and beneath it hangs a beautiful fringe of paper cuttings, coloured with the colours of the flower, green below the calyx, white in the middle, crimson at the ends. In the heart of the blossom is set a microscopic oil-lamp of baked clay; and this being lighted, all the flower becomes luminous, diaphanous—a lotus of white and crimson fire. There is a slender gilded wooden hoop by which to hang it up, and the price is four cents! How can people afford to make such things for four cents, even in this country of astounding cheapness?

   Akira is trying to tell me something about the hyaku-hachino-mukaebi, the Hundred and Eight Fires, to be lighted to-morrow evening, which bear some figurative relation unto the Hundred and Eight Foolish Desires; but I cannot hear him for the clatter of the geta and the komageta, the wooden clogs and wooden sandals of the worshippers ascending to the shrine of Yakushi-Nyorai. The light straw sandals of the poorer men, the zori and the waraji, are silent; the great 
clatter is really made by the delicate feet of women and girls, balancing themselves carefully upon their noisy geta. And most of these little feet are clad with spotless tabi, white as a white lotus. White feet of little blue-robed mothers they mostly are—mothers climbing patiently and smilingly, with pretty placid babies at their backs, up the hill to Buddha.

 

   And while through the tinted lantern light I wander on with the gentle noisy people, up the great steps of stone, between other displays of lotus-lossoms,  between other high hedgerows of paper flowers, my thought suddenly goes back to the little broken shrine in the poor woman's room, with the humble playthings hanging before it, and the laughing, twirling mask of Otafuku. I see the happy, funny little eyes, oblique and silky-shadowed like Otafuku's own, which used to look at those toys,—toys in which the fresh child-senses found a charm that I can but faintly divine, a delight hereditary, ancestral. I see the tender little creature being borne, as it was doubtless borne many times, through just such a peaceful throng as this, in just such a lukewarm, luminous night, 
peeping over the mother's shoulder, softly clinging at her neck with tiny hands.

   Somewhere among this multitude she is—the mother. She will feel again to-night the faint touch of little hands, yet will not turn her head to look and laugh, as in other days.

2015/08/26

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (五)

 

       

 

 奇異な狹い通りは、一筋の長い燈光の火焰であつた。看板提燈や、松明や、洋燈の燈光が、兩側の店先き前に並んだ、小さな臺や小屋掛けの珍らしい列を照らしてゐた。その眞中を群集が動いて行く。下駄の音が商人の叫びや、通行人の潮の如きざわつく聲をも消して、夜の空に響き渡る。しかし、その動作の何といふ穩かさ! 押し合ひもなく、亂暴もない。誰人も、どんなにか弱い者も、一切のものを見得る機會がある。して、また見るべきものが澤山あるのだ。

 『蓮の花!――蓮の花!』こ〻には墓や佛壇に捧げる蓮の花、佛さまの食物を包む蓮の葉を買る者が居る。葉は疊んだ束を小さな臺の上に積み、花は蕾も花も交ぜて、大きな束に竪に插したのを、輕い竹の架に凭せてある。

 『麻殼! 麻殼!』皮を剝いだ長い枝條の白い束。これは麻の木條だ。細い方の端を引裂いて、佛さまの箸に使ひ、その餘は迎ひ火に焚く。箸は松で作るのが當り前であるが、この地方の貧乏人に取つては、あまりに稀少、且つ高價なので、麻殼を代用する。

 『かわらけ! かわらけ!』佛さまの土器、釉藥を施さない土器の赤く淺い小さな盤である。原始的の燒物で、今日ではたゞ死人のためにのみ存在してゐる――佛敎より更に傳統は古い。

 『やあ、盆燈籠は要りませんか?』佛さまの歸つて來る足を照らす燈籠。皆綺麗だ。大寺院の燈籠のやうに六角形のもあり、星の形のもあれば、また大きな光つた卵のやうなのもある。蓮華の立派な繪で飾つたり、また精巧な色の紙の總(ふさ)を垂れたり、或は幅廣い紙の紐に、面白く蓮華の形を切拔いたのを附けてある。それから、月の如く圓い、眞白の燈籠もある。これは墓に用ひる。

 『お飾り! お飾り! 盆祭の裝飾品一切を賣る者。『莚(こも)でも! 何でも!』こゝに佛壇用の新しい、白い、藁の敷物がある。それから死人が乘るための小さな藁馬、死人のため用役をつとめる小さな藁牛もある。すべて『お安い!』また佛壇に供へる樒と、施餓鬼に水を灌ぐみそ荻の枝もある。

 『お飾りものは要りませんか?』米粒を連ねた絲の紅白の總(ふさ)、數珠玉のやうなもの。それから、種々珍らしぃ紙で作つた、佛間の裝飾品。一束二錢の安物から、一圓の高價品まで各種の線香――長い輕いチヨコレート色の長い枝條で、鉛筆の心のやうに細い。一束每に、金色やその他の色紙の紐で卷いてある。一本を引拔いて、一端に火を點じ、他端を垂直に柔かな灰を盛つた容器に立てる。その薰香が空氣に漲り、全く燃え盡きるまで燻ぶつて行く。

 『螢に蟋蟀! お子供衆のお慰み! 安くまけます!』何! これは一體何んだ! 番小屋の形をした、全部木摺で作れる假小舍を、赤と白の碁盤縞の紙で蔽つてある。この脆弱な建物の中から、湯氣の漏れるやのやうな鋭い叫びが發する。『それはたゞ虫類です。盆祭には關係ありません』と晃は云つた。左樣、虫類だ! 籠に入れてある!銳い叫び聲は、一匹づつ小さな竹籠に入れた、綠色の大きな蟋蟀が幾十も鳴くからだ。晃は續けて、『これは茄子と瓜の皮を食べさせて、飼つてゐます。子供の弄ぶために賣るのです』といつた。また螢の充ちた美麗なる小籠もあつた。その籠には褐色の蚊帳網を張つて、簡單ではあるが、派手な色で綺麗な意匠が、筆勢よく畫いてあつた。蟋蟀一匹と、籠を合せて二錢。螢十五匹と籠共に五錢。

 こ〻には町の一隅に、靑い着物をきた少年が低い木卓の後ろに坐つて、マツチ箱ほどの大いさで、赤い紙の蝶番ひを附けた木箱を賣つてゐる。卓上に此小箱の堆積と並んで、淺い皿に淸水が滿されて、非常に薄い扁平狀のもの――花鳥樹木小舟男女などの形――が浮んでゐる。箱の直段はたゞ二錢である。開いてみると、内には一端は石竹色で、圓いマツチの軸木のやうな、小さな靑白い木條の束が、薄葉に卷いたのがある。一本を水に投ずると、忽然開け蓮華の形に擴がる。今一本のは魚に變はる。第三は小舟になる。第四は梟に、第五は葉と花に蔽はれた茶樹になつた……是等のものは頗る纖細なので、一度水に浸してから手を觸れると、壞はれてしまう。海草で作つてあるのだ。

 『造花!造花は要りませんか?』造花を賣つてゐる。紙製の驚嘆すべき菊花や蓮の花など、蕾も葉も花も餘りに巧妙に出來上がつてゐるので、眼で見ただけでは、美しい手管を看破し得ない。これに對する生きた眞物より、造花の方が更に高價であるのは、尤もな次第だ。

[やぶちゃん注:第九段落目に出る水中花様の細工を私は残念なことにまともに見たことがない。偏愛する伊東静雄の以下の詩が大好きなのにも拘わらず、である。

   * 

 

 水中花 

 

水中花と言つて夏の夜店に子供達のために賣る品がある。木のうすいうすい削片を細く壓搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の變哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤靑紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都會そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。 

 

今歳水無月のなどかくは美しき。

軒端を見れば息吹のごとく

萌えいでにける釣しのぶ。

忍ぶべき昔はなくて

何をか吾の嘆きてあらむ。

六月の夜と晝のあはひに

萬象のこれは自ら光る明るさの時刻。

遂ひ逢はざりし人の面影

一莖の葵の花の前に立て。

堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。

金魚の影もそこに閃きつ。

すべてのものは吾にむかひて

死ねといふ、

わが水無月のなどかくはうつくしき。

 

   *

……私は何時か、この少年が不思議な小箱に入れて売っているのに出逢いたいのだ。何時か、必ず……

「海草」原文は“seaweed”であるから、絶対的に誤訳とは言えないが、この原材料が何であるか分からない以上、「海藻」とする方が無難である(平井呈一氏は『海藻』と訳されておられる。何に拘るのかといえば、生物学的和名としての総称では「海藻」はあくまで有意に多量に棲息する海産性藻類の総称であり、「海草」は非常に少ないが、海産(淡水産も存在する)の種子植物で顕花性の植物類――代表種はアマモ(単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ Zostera marin 別名リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(龍宮の乙姫の元結の切り外し)など)――を限定的に指す語だからである。] 

 

Sec. 5

   The curious narrow street is one long blaze of lights—lights of lantern signs, lights of torches and lamps illuminating unfamiliar rows of little stands and booths set out in the thoroughfare before all the shop-fronts on each side; making two far-converging lines of multi- coloured fire. Between these moves a dense throng, filling the night with a clatter of geta that drowns even the tide-like murmuring of voices and the cries of the merchant. But how gentle the movement!- there is no jostling, no rudeness; everybody, even the weakest and smallest, has a chance to see everything; and there are many things to see.

   'Hasu-no-hana!—hasu-no-hana!'

   Here are the venders of lotus-flowers for the tombs and the altars, of lotus leaves in which to wrap the food of the beloved ghosts. The leaves, folded into bundles, are heaped upon tiny tables; the lotus-flowers, buds and blossoms intermingled, are fixed upright in immense bunches, supported by light frames
of bamboo.

   'Ogara!—ogara-ya!

   White sheaves of long peeled rods. These are hemp- sticks. The thinner ends can be broken up into hashi for the use of the ghosts; the rest must be consumed in
the mukaebi. Rightly all these sticks should be made of pine; but pine is too scarce and dear for the poor folk of this district, so the ogara are substituted.

   'Kawarake!—kawarake-ya!'

   The dishes of the ghosts: small red shallow platters of unglazed earthenware; primeval pottery suku-makemasu!' Eh! what is all this? A little booth shaped like a sentry-box, all made of laths, covered with a red-and-white chess pattern of paper; and out of this frail structure issues a shrilling keen as the sound of leaking steam. 'Oh, that is only insects,' says Akira, laughing; 'nothing to do with the Bonku.' Insects, yes!—in cages! The shrilling is made by scores of huge green crickets, each prisoned in a tiny bamboo cage by itself. 'They are fed with eggplant and melon rind,' continues Akira, 'and sold to children to play with.' And there are also beautiful little cages full of fireflies—cages covered with brown mosquito-netting, upon each of which some simple but very pretty design in bright colours has been dashed by a Japanese brush. One cricket and cage, two cents. Fifteen fireflies and cage, five cents.

   Here on a street corner squats a blue-robed boy behind a low wooden table, selling wooden boxes about as big as match-boxes, with red paper hinges. Beside the piles of these little boxes on the table are shallow dishes filled with clear water, in which extraordinary thin flat shapes are floating—shapes of flowers, trees, birds, boats, men, and women. Open a box; it costs only two cents. Inside, wrapped in tissue paper, are bundles of little pale sticks, like round match-sticks, with pink ends. Drop one into the water, it instantly unrolls and expands into the likeness of a lotus-flower. Another transforms itself into a fish. A third becomes a boat. A fourth changes to an owl. A fifth becomes a tea- plant, covered with leaves and blossoms. . . . So delicate are these things that, once immersed, you cannot handle them without breaking them. They are made of seaweed.

   'Tsukuri hana!—tsukuri-hana-wa-irimasenka?'

   The sellers of artificial flowers, marvellous chrysanthemums and lotus-plants of paper, imitations of bud and leaf and flower so cunningly wrought that the eye alone cannot detect the beautiful trickery. It is only right that these should cost much more than their living counterparts.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (四)

 

        

 

 老人町は町幅が非常に狹い。手を伸ばすと、兩側の小さな店肆の前に垂れてゐる看板模樣を染拔いた暖簾に、直ぐ觸れるばかりだ。して、是等の箱形の家は、實際玩具の家のやうに見える。晃の住んでゐる家には、店もなく、また小さな二階もなくて、他の家よりも更に小さい。それは全く閉まつてゐた。晃は入口になつてゐる處の木造の雨戶を繰つた。それから、そのつぎに閉まつてゐる障子を開けた。かやうにして開け放された小さな家屋は、輕げな素木の木細工や、著色の紙屛などで、大きな鳥籠のやうに見えた。が、地上から高くしてある床に敷いた葦の疊は、新鮮で、心地よい香を放つて、淸らかであつた。して、そこへ上がるため靴を脫ぐ時に、私は室內すべて小綺麗なことを見た。

[やぶちゃん注:この「老人町」の叙述は私が先に推定した現在の横浜市中区翁町とよく一致する。]

 

 『主婦(おかみ)さんは外出したのです』と、晃は云つて、室の眞中へ火鉢を据ゑ、その傍に私が坐るため小さな敷物を擴げた。

 『これは何です?』壁に紐でぶら下がつてゐる薄い板を指して聞いた。それは枝の中央から切つて、兩緣に沿つて樹皮が殘され、その表面には、二列の不思議な記號が美しく繪いてある。

 『それは曆です』と、晃が答へた。『右側は三十一日ある月の名、左側は、小さな月の名です。さあ、ここに佛壇が御座います』

 日本の客間の構造上、是非無くてならぬ凹間に、飛島を繪いた簞笥が置いてあつて、その上に佛壇が立つてゐた。それは漆と金泥塗りの小厨子で、寺の門のやうな恰好の小さな戶が附いてゐる。餘程奇異な、非常に破損した厨子で、片方の戶は蝶番ひが失せ、漆には罅隙(ひび)が入り、金色は褪めてゐても、雅致あるものであつた。晃は一種の憐み深さうな微笑を呈し乍ら、それを開けた。して、私は佛像を見ようと、內を覗いて見た。佛像は一つも無い。たゞ木牌に紙片を張り着けて、假名の文字――死んだ女兒の名――が書いたのと、萎れかかつた花を插せる花瓶、觀音像の小さな版畫、線香灰の入つた鉢だけがあつた。

[やぶちゃん注:こうした暦は、日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大小暦に出る「図―495」が参考になろう(リンク先は私の電子テクスト)。]

 

 『明日、主婦さんは、これを飾つて、小さな佛さんに、食物を供へるでせう』と、晃は云つた。

 室の向側に、佛壇に面して、天井から垂れた珍らしく、可愛らしい、をかしげな、白色と紅色を帶びた假面があつた。丸ぽちやの笑ひ顏をしで、顯の上には二個の神祕的な點が印されてゐる。これはお多福【註】の顏だ。開けた障子から入込む柔かな氣流につれて、ぐるぐる囘はる。すると、笑のために半ば閉ぢた可笑しげな黑眼が、私の方を眺める每に、私も微笑を禁じ得なかつた。して、更に高く吊つてあるのは、神道の小さな御幣、神樂の時に被るやうな小さな冠、神々の手に持つ如意寳珠を厚紙で眞似たもの、小さな人形、少しの風にでも囘轉する小さな風車、その他、緣日に社寺の境內で賣つてゐるやうな、主もに象徴的な、名狀し難い玩具など、すべて死んだ幼兒の遊び道具であつた。

    註。幸運の神。

[やぶちゃん注:「お多福」ウィキおかによれば(下線やぶちゃん)、『古くから存在する日本の面(仮面)の一つで』、『丸顔、鼻が低く、額は広く、頬が丸く豊かに張り出した(頬高)特徴をもつ女性の仮面であり、同様の特徴を持つ女性の顔についてもそう呼ぶ』。『お亀、阿亀(おかめ)とも書き、お多福、阿多福(おたふく)、文楽人形ではお福(おふく)、狂言面では乙御前(おとごぜ)あるいは乙(おと)ともいう』。『この滑稽な面の起源は、日本神話の女性、日本最古の踊り子であるアメノウズメであるとされ』、アメノウズメは七世紀の『律令制下の神祇官に属し神楽等を行った女官、猿女君の始祖で』あるという(「猿女君(さるめのきみ/「猨女君」とも書く)」は古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族の一つで、アメノウズメを始祖とするとされる。姓は「君」は姓であり、日本神話においてアメノウズメが岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から鎮魂祭での演舞や大嘗祭における前行などを執り行った猿女を貢進した氏族。氏族の名前は、アメノウズメが天孫降臨の際にサルタヒコと応対したことにより、サルタヒコの名を残すためにニニギより名づけられたものであると神話では説明され、実際には「戯(さ)る女」の意味であると考えられている。本拠地は伊勢国と想定されるが一部は朝廷の祭祀を勤めるために大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移し、稗田姓を称した。他の祭祀氏族が男性が祭祀に携わっていたのに対し、猿女君は女性、すなわち巫女として祭祀に携わっていた。それ故に他の祭祀氏族よりも勢力が弱く、弘仁年間には小野氏・和邇部氏が猿女君の養田を横取りし、自分の子女を猿女君として貢進したということもあったとウィキ猿女君にはある)『素顔を原則とする狂言において、仮面を使用するのは老人、醜女、神・仏、鬼、動植物の類であるが、「乙」(乙御前)は醜女に当たる』。『狂言面の起源とその時期について、詳細は不明であるが、能面と関係しており作者もほぼ共通しているとみられている』。『したがって、能面なるものが完成をみる室町時代から江戸時代初期にかけての時代』(十四世紀から十七世紀)に、『狂言面としての「乙」(乙御前)も完成をみると考えられ』ている。『「乙」(乙御前)の狂言における役割は、男に逃げられる醜女、姫鬼、福女で』、『「乙御前」とはもともと「末娘」の意味であり、狂言『枕物狂』ではその意味に用いられたセリフが存在』し、そこから『転じて「醜女」の意になり、狂言面「乙」(乙御前)となった』とし、「乙御前」が登場する狂言としては「釣針」「仏師」「六地蔵」等である。『「おたふく」という名称は、狂言面の「乙」(乙御前)の「オト」音の転訛ともいわれ』、『ほかにも「福が多い」という説と、頬が丸くふくらんだ様から魚の「フク」(河豚・ふぐ)が元という説もある』(但し、ここの引用元には要出典要請がかけられてある)。『「阿多福」は、「阿多福面」(おたふくめん)の略であり、醜い顔であるという意図で女性に対して浴びせかける侮辱語として使用されることがある』。「おふく」は室町時代(十四世紀から十六世紀)には『すでに出現していた大道芸、新春の予祝芸能を行う門付芸「大黒舞」で、大黒天を中心に、えびすの面を覆った人物とともに、同様に覆面で、連れ立って現れたキャラクターであり、『「おふく」という名称は、とくに江戸時代初期』(十七世紀)『に大坂(現在の大阪府大阪市)で生まれた文楽でとくに使用されるもので、文楽人形の首(かしら)の一つの名称でもある』。『下女、あるいは下級・端役の女郎役のもので』、近松門左衛門の浄瑠璃『傾城反魂香』(宝永五(一七〇八)年初演)にも、『「姫君はさて置き、たとへ餅屋の御福でも」というフレーズで、姫君と「餅屋の御福」を比較し、つまり餅屋の店員の不細工な女であっても、という扱いで登場している』。文政二(一八〇五)年発刊の「扁額軌範」所載の正徳二(一七一二)年の銘を持つ「七福神戯遊之図」には、『七福神に加えて、布袋に酌をする』八体目の『女神が描かれており、これが「お福」または「乙御前」であるとの説明書きが付随しているという』。文化年間(一八〇四年から一八一七年)に『発表された『街談文々集要』によれば、「お福」は父を「福寿」、母を「お多福」とし、「西ノ宮夷」(現在の西宮神社、兵庫県西宮市)支配下の「叶福助」の妻だという設定が記載されている』。『宮田登によれば、近世に流行する、福助、お多福、福太郎、福太夫、そして「お福」は、狂言の世界には先行して登場しているとい』い、『同じころ、京都の陶芸家・仁阿弥道八が、「お福」の土人形をつくっている』。『「おかめ」という名称は、それらに比較して時代は新しく、とくに近世』(十七世紀から十九世紀)の江戸の里神楽(一般的に「神楽」と言われるもので「里神楽」という語は「御神楽(おかぐら)」と対比して用いられ、狭義には関東の民間の神楽を指す)で使用されるものである。『名称の由来は、顔と頬の張り出した形が「瓶」(かめ)に似ていることから名付けられた、とされるが、室町時代の巫女の名前からという説もあるため、はっきりしない。里神楽等で道化やモドキ役の女性として使われることもあり、男性の仮面である「ひょっとこ」と対に用いられる』。『その役どころから人気が高く、熟練芸能者の演じるところとされ『「おかめ」は、近世以降の民間芸能に使用され、日本各地の田遊における「はらみ女」、愛知県北設楽郡に現在も伝わり重要無形民俗文化財に指定されている霜月神楽である「花祭」では「巫女のお供」、獅子舞や各種の祭礼行列では道化として登場する』。『「福を呼ぶ面相」であるとして愛され、酉の市の大熊手にも取り入れられている』。『本来古代において、太った福々しい体躯の女性は災厄の魔よけになると信じられ、ある種の「美人」を意味したとされている。だが縁起物での「売れ残り」の意味、あるいは時代とともにかわる美意識の変化とともに、不美人をさす蔑称としても使われるようになったとも言われている』とある。下線部と「お多福」という漢字表記(ただの当て字の可能性もある訳であるが)からも福の神(ハーンの注する「幸運の神」として認識されていたことは間違いないと思われ、正月の福笑いもそうした福を呼び込むための予祝行事の遊戯化と推理すると、私は腑に落ちるのである。] 

 

 『今晩は!』と、頗るやさしい聲が私の後から叫んだ。主婦は彼女の佛間に外人が興味を持つのを嬉しがつてゐるかの如く微笑を洩して、そこに立つてゐた。極めで貧しい階級の中年頃の女で、美しくはないが、極めて親切さうな顏をしてゐた。私共は彼女の挨拶に應答をした。して、私が火鉢の前の小さな敷物の上に坐る際、晃が彼に何か囁いたので、すぐに湯を沸かすため、小さな藥鑵が焜爐の上に掛けられた。私共は茶を薦められるのであつた。

[やぶちゃん注:「晃が彼に何か囁いたので」原文は“Akira whispers something to her”であるから、この「彼」は「彼女」(晃の母)の誤りである。]

 

 晃が私に面して火鉢の向側に坐つたとき、私は彼に質ねた。

 『位牌に書いてあつたのは何といふ名でした?』

 晃は答へた。『あれは眞の名ではありません。本名は裏に書いてあります。死んでから僧侶が別の名を與へます。死んだ男兒は良智童兒、女兒は妙容童女となつてゐます』

 私共が話をしてゐると、主婦は佛壇に近寄り、戶を開き、中のものを整頓し、燈明を點じてから、合掌稽首して祈念を始めた。私共が側に居るのも、喋つて居るのも一向無頓着の樣子は、世間の思惑が何うであらうと介意せずに、正しいこと、美はしいことを行ひ馴れた人の如くであつた。彼女の祈りの天晴れ飾り氣の無い誠實さは、世の中の貧しい人々、ラスキンが賞賛して『これらの人々こそ世の中で最も神聖だ』と云つた人々のみ有する種類のものであつた。私は彼女の心が如何なる言葉を囁いてゐるかをしらなかつた。たゞ時々靜かに唇で息を吸ひ込む、柔かなシユーシユー響く音を聞くのみであつや。それはこの親切なる國民に取つては、人を悦ばせようとする最も謙遜なる願望を示すのである。

[やぶちゃん注:「ラスキン」原文は“Ruskin”。これは十九世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家であったジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)のことか? 彼は『芸術家のパトロンであり、設計製図や水彩画をこなし、社会思想家であり、篤志家であった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、『近代画家論』を著した。また、中世のゴシック美術を賛美する『建築の七燈』『ヴェニスの石』などを執筆した』と参照したウィキジョン・ラスキンにはある。夏目漱石の「三四郎」の第二章にもラスキンの名が登場するように、日本では明治末から大正にかけて彼の建築やデザインに関わる芸術論は一世を風靡したらしい(ここはネット上の情報に拠る)。私は彼の作品を親しく読んだことがなく、ハーンの引用の出典は不詳。ただ、附言しておくと、彼は来日経験はなく、また少なくとも日本美術に対しては頗る冷淡であったらしい(やはりネット上の情報に拠る)。] 

 

 この優しい、些やかな儀式を見守り乍ら、私は私自身の生命の神祕內に、朧ろげ乍ら動いてくる或るものを感じた――漠然と、云ひやうなくも親しみの感ぜられる、先祖傳來の記憶の如く、二千年間忘れられてゐた感覺の復活の如くであつた。それは不思議にも私の微かな古代世界の知識と混じ合つてゐるやうに思はれた。古代世界でも家庭の神として、生前に愛した死人を祭つたのであつた。して、こ〻にはラーリーズ【譯者註】が影をさしてゐる如く、この世のものならぬ奇異な優しさがあつた。

     譯者註。羅馬の家庭の神。

[やぶちゃん注:「ラーリーズ」原文は“Lares”。古代ローマ時代の守護神的な神々(複数)である「ラレース」(Lares/古い綴りは Lasesのこと。ウィキの「ラレース」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『単数形はラール(Lar)。その起源はよくわかっていない。家庭、道路、海路、境界、実り、無名の英雄の祖先などの守護神とされていた。共和政ローマの末期まで、二体の小さな彫像という形で祭られるのが一般的だった』。『ラレースは、その境界内で起きたあらゆることを観察し、影響を与えると考えられていた。家庭内のラレース像は、家族が食事中はそのテーブル上に置かれた。家族の重要な場面では、ラレース像が必須となっていたと見られている。このため古代の学者らはこれを「家の守護神」に分類していた。古代ローマの作家の記述を見ると、ラレースと同様の家の守護神とされていたペナテースを混同している場合もある。ローマ神話の主な神々に比べると守備範囲も力も小さいが、ローマの文化には深く根付いていた。アナロジーから、本国に戻るローマ人を ad Larem (ラレースに)戻ると称した』。『ラレースはいくつかの公けの祭りで祝福され礼拝された。中には vici(行政区)全体を守護するとされたラレースもある。また、ラレースを祭った交差点や境界線にある祠(コンピタレス;Compitales)は、宗教、社会生活、政治活動の自然な焦点となっていた。これらの文化はローマ帝国初期の宗教・社会・政治改革に取り込まれた。ラレースを家庭内に祭るという文化は変化しなかったようである。これらは少なくとも紀元四世紀まで持ちこたえた』。『ラールは小さく若々しく活発な様子で、一見したところ男性である。踊り子のように、爪先立ちしているか、片脚で軽くバランスを取っている。片手に角杯(リュトン)を持って掲げ、乾杯か献酒をしているように見える。もう一方の手は低く構え、浅い献酒皿(パテラ)を持っている(稀にシトラと呼ばれる鉄製のワインバケットを持っていることもある)。服装は、短いチュニックに帯を締めた形で、プルタルコスによればそのチュニックは犬の毛皮でできている』(「チュニック」(英:tunic/仏:tuniqueとは、衣服の名称の一つ。丈が長め(腰から膝ぐらいまで)の上着を指す。チュニックの語源は古代ギリシャ・ローマや中世の東ローマ帝国で用いられていた「トゥニカ」(羅:tunicaであり、これは貫頭衣から発展した筒型衣全般を指す。その長さも地面に達するものから膝丈程度の長いものが主であった、とウィキの「チュニック」にある)。『ラールの像や絵画はどれもこの基本形に忠実で、若干のスタイル上の変化が見られるだけである。現存する祭壇の絵画には、同一の二体のラレースが描かれている。そのためオウィディウスのころにはラレースは双子の神々だと解釈されていたが、常にそうだったという証拠はない』。彼らラレースや他の家庭の神々を祭祀した家庭内に設けられた小さな祭壇を「ララリウム」(複数形はララリア)と呼ぶが、『考古学上の証拠から、その家族の守護神を含めた複数の下級の神々を祭っていたことがわかっている』。現在でも『ポンペイのものはほぼ最高の状態で保たれて』おり、『神々の絵の周囲には古代の寺院を模した石造りの枠がある。周囲の壁にも神々と神話の場面が描かれており、見るものに強烈な印象を与える』。『ララリウムは住居内の様々な部屋、寝室、今では用途が不明な部屋、特に台所や店舗などにあり、そこにラレースと共にペナテースが共存していた。その多くは小さな壁龕であり、稀に壁から突き出したタイル張りのものもあった。どちらも装飾は簡素だが大事にされていた』ことが良く判る。『家庭内のラレースは、外に対して演劇的にディスプレイする役割も持っていたが、文献によればもっと親密な守護神的役割も持っていた。家庭内のララリウムは、家族の変化と連続性のシンボルのための神聖な保管所でもあった。少年が成人すると、ラレースにお守り(ブラ)を捧げてから成人用のトガを着用し、最初の髭は切り落としてララリウムに保管した。少女は成人して結婚する前の夜に、幼少期に遊んだ人形やボールなどをラレースに捧げた』。『結婚の日、花嫁は花婿の家の神に忠誠を誓った。結婚によって主婦となる場合、夫とともにその家庭の礼拝の共同責任者となった』。以上を読んだだけでも、晃の母親が家のささやかな仏壇に敬虔な作法で祈りを捧げる様を見て、この遠き古きローマの家庭神ラレースを思い出したことは、すこぶる納得出来ると言える。]

 

 短い祈念を了へてから、彼女はまた焜爐の方へ向つた。彼女は晃と語つたり、笑つたりして、茶を入れ、小さな湯呑に注いで、私共に薦めた。跪いた優美な姿勢は、六百年來日本婦人が茶を進めるときの傳統的態度であつた。實際、日本の婦人の生活の少からざる部分は、このやうに小さな湯呑で茶を饗するために費されるのだ。幽靈としてさへ、婦人は通俗の版畫の中に茶を薦める有樣に畫いてある。日本の幽靈の畫の中で、私が最も哀れを催ふしたのは、女を殺してから、悔恨に惱まされた人に、その女の幽靈が恭しく跪いて小さな茶椀を薦めてゐる圖であつた!

[やぶちゃん注:この幽霊が誰の如何なる怪談絵であるか、思い至らない。私は、多量の近世怪談画集類を所持はしているが、前頭葉損傷後はどうも緻密に精査する気力が減衰した。是非とも識者の御教授を乞うものである。]

 

 晃が起ち上つて、『それでは、盆市へ行きませう。主婦さんも、やがて盆市へ買物に出かけねばなりません。それにもう日も暮れかけました。左樣なら!』

 私共が小さな家を出かける時は、實際殆ど暗かつた。町筋の上空に連つた星は、細長い天の一片を塗つてゐた。折々生温い微風が吹いて、長く續いた軒頭の暖簾を搖り動かし、散步によい美しい夜であつた。市場は町外づれの挾い通りにあつた。藏德院の丘の麓で、僅か十町ばかりを隔てた元町にあつた。

[やぶちゃん注:ハーンは恐らく、「ある」ことに吃驚している。それは盆市の場所が「第三章 地藏」で既に訪れた馴染みの「藏德院」のすぐ傍であり、しかもそこは彼の泊っていたと考えられるグランド・ホテルの直近でもあったからである。夜も暗くなって遠くからホテルに戻る(仮に人力車を求めてもつかまらない場所の可能性もある)というのは、晃が付き添っていてもハーンには未だ治安上の不安があったに違いないからである。

「十町」凡そ一・一キロメートル。但し、旧徳蔵院(現在の元町プラザ)を起点として一キロでは、少なくとも現在の元町地区からはどこも外にはみ出してしまう。寧ろ、ここは文脈から考えると、晃の家(現在の寿町と推定)からの距離ではあるまいか? そう仮定して徒歩実測を試みると、丁度、現在の元町商店街の中央辺り、元町三丁目か二丁目附近が同距離となるからである。しかもここは丘の麓である。この盆市の行われた場所を御存じの方は是非とも御教授を乞うものである。]

 

Sec. 4

   It is so narrow, the Street of the Aged Men, that by stretching out one's arms one can touch the figured sign-draperies before its tiny shops on both sides at once. And these little ark-shaped houses really seem toy-houses; that in which Akira lives is even smaller than the rest, having no shop in it, and no miniature
second story. It is all closed up. Akira slides back the wooden amado which forms the door, and then the paper-paned screens behind it; and the tiny structure, thus opened, with its light unpainted woodwork and painted paper partitions, looks something like a great bird-cage. But the rush matting of the elevated floor is fresh, sweet-smelling, spotless; and as we take off our footgear to mount upon it I see that all within is neat, curious, and pretty.

   'The woman has gone out,' says Akira, setting the smoking-box (hibachi) in the middle of the floor, and spreading beside it a little mat for me to squat upon.

   'But what is this, Akira?' I ask, pointing to a thin board suspended by a ribbon on the wall—a board so cut from the middle of a branch as to leave the bark along its edges. There are two columns of mysterious signs exquisitely painted upon it.

   'Oh, that is a calendar,' answers Akira. 'On the right side are the names of the months having thirty-one days; on the left, the names of those having less. Now
here is a household shrine.'

   Occupying the alcove, which is an indispensable part of the structure of Japanese guest-rooms, is a native cabinet painted with figures of flying birds; and on this cabinet stands the butsuma. It is a small lacquered and gilded shrine, with little doors modelled after those of a temple gate—a shrine very quaint, very much dilapidated (one door has lost its hinges), but still a dainty thing despite its crackled lacquer and faded gilding. Akira opens it with a sort of compassionate smile; and I look inside for the image. There is none; only a wooden tablet with a band of white paper attached to it, bearing Japanese characters—the name of a dead baby girl—and a vase of expiring flowers, a tiny print of Kwannon, the Goddess of Mercy, and a cup filled with ashes of incense.

   'Tomorrow,' 

   Akira says, 'she will decorate this, and make the offerings of food to the little one.'

   Hanging from the ceiling, on the opposite side of the room, and in front of the shrine, is a wonderful, charming, funny, white-and-rosy mask— the face of a laughing, chubby girl with two mysterious spots upon her forehead, the face of Otafuku. [2] It twirls round and round in the soft air-current coming through the open shoji; and every time those funny black eyes, half shut with laughter, look at me, I cannot help smiling. And hanging still higher, I see little Shinto emblems of paper (gohei), a miniature mitre-shaped cap in likeness of those worn in the sacred dances, a pasteboard emblem of the magic gem (Nio-i hojiu) which the gods bear in their hands, a small Japanese doll, and a little wind-wheel which will spin around with the least puff of air, and other indescribable toys, mostly symbolic, such as are sold on festal days in the courts of the temples—the playthings of the dead child.

   'Komban!'

 exclaims a very gentle voice behind us. The mother is standing there, smiling as if pleased at the stranger's interest in her butsuma— a middle-aged woman of
the poorest class, not comely, but with a most kindly face. We return her evening greeting; and while I sit down upon the little mat laid before the hibachi, Akira whispers something to her, with the result that a small kettle is at once set to boil over a very small charcoal furnace. We are probably going to have some tea.

   As Akira takes his seat before me, on the other side of the hibachi, I ask him:

   'What was the name I saw on the tablet?'

   'The name which you saw,' he answers, 'was not the real name. The real name is written upon the other side. After death another name is given by the priest. A dead boy is called Ryochi Doji; a dead girl, Mioyo Donyo.'

   While we are speaking, the woman approaches the little shrine, opens it, arranges the objects in it, lights the tiny lamp, and with joined hands and bowed head begins to pray. Totally unembarrassed by our presence and our chatter she seems, as one accustomed to do what is right and beautiful heedless of human opinion; praying with that brave, true frankness which belongs to the poor only of this world—those simple souls who never have any secret to hide, either from each other or from heaven, and of whom Ruskin nobly said, 'These are our holiest.' I do not know what words her heart is murmuring: I hear only at moments that soft sibilant sound, made by gently drawing the breath through the lips, which among this kind people is a token of humblest desire to please.

   As I watch the tender little rite, I become aware of something dimly astir in the mystery of my own life—vaguely, indefinably familiar, like a memory ancestral, like the revival of a sensation forgotten two thousand years. Blended in some strange way it seems to be with my faint knowledge of an elder world, whose household gods were also the beloved dead; and there is a weird sweetness in this place, like a shadowing of Lares.

   Then, her brief prayer over, she turns to her miniature furnace again. She talks and laughs with Akira; she prepares the tea, pours it out in tiny cups and serves it to us, kneeling in that graceful attitude— picturesque, traditional—which for six hundred years has been the attitude of the Japanese woman serving tea. Verily, no small part of the life of the woman of Japan is spent thus in serving little cups of tea. Even as a ghost, she appears in popular prints offering to somebody spectral tea-cups of spectral tea. Of all Japanese ghost-pictures, I know of none more pathetic than that in which the phantom of a woman kneeling humbly offers to her haunted and remorseful murderer a little cup of tea!

   'Now let us go to the Bon-ichi,' says Akira, rising; 'she must go there herself soon, and it is already getting dark. Sayonara!'

   It is indeed almost dark as we leave the little house: stars are pointing in the strip of sky above the street; but it is a beautiful night for a walk, with a tepid breeze blowing at intervals, and sending long flutterings through the miles of shop draperies. The market is in the narrow street at the verge of the city, just below the hill where the great Buddhist temple of Zoto-Kuin stands—in the Motomachi, only ten squares away.

 

2
   A deity of good fortune.

2015/08/25

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (三)

 

        三

 

 佛說孟蘭盆經に載つてゐる施餓鬼の由來は斯うだと晃が語つた。

 佛陀の大弟子、大孟健蓮は功績によつて六神通力を得た。その力に因つて餓鬼道にある母の魂を見ることが出來た。そこは前生に犯した罪を贖ふために、亡靈が飢餓に苦しまねばならぬ世界である。孟健蓮は母が甚(いた)く惱んでゐるのを見た。彼は母の苦痛のため大いに悲しんで、最も美味の食物を椀に盛つて、母に送つた。母がそれを食べようとするのが見えた。が、食物を唇まで持ち上げようとする度每に、それが火と變はり、餘燼となつて、食べることは出來なかつた。そこで、孟健蓮は母の苦しみを救ふ法を佛陀に尋ねた。佛が『七月十五日に、諸國の大僧侶達の亡靈に食物を供へよ』と云つた。孟健蓮がその通りにすると、母は餓鬼の狀態から解放され、欣舞するさまが見えた。これがまた日本中、盆祭の第三日の夜に行はれる盆踊の起源である。

    註。同書にまた、孟健蓮の母に、何う
    して餓鬼道に苦しむやうになつたかと、
    阿彌陀が佛に訊ねた時、佛がそれは彼
    女が前生にて、貪慾のため、或る旅僧
    に食を施すことを拒んだからであると
    答へたことが、記されてある。

 第三日の夜、卽ち最後の夜に、施餓鬼よりも一層哀れで、盆踊よりも更に珍らしい、奇異に美はしい式――お別れの式がある。

 生きてゐる人たちが、死んだ人々を欣ばせる爲めに盡くし得る、有らん限りのことが、既に盡くされたのだ。幽冥界の主宰者が、亡靈のこの世を訪れる爲めに許した時間も、殆ど盡きてきたので、遺族友人はそれを見送らねばならない。

 亡靈に對して一切の準備が整つてゐる。どこの家にも、麥稈を細かく編んで作つた小舟にに、精進した食物、小さな燈籠、信仰と愛の文句を書いたものなどが積んである。舟は二尺より長いことは殆どない。しかし死者には、あまり廣くなくてもよろしい。それから、纎弱な小舟は運河、湖水、海、或ひは河に流される――それぞれ船首には小燈が輝き、船尾には香が炷かれて、空の晴れた夜には、遠方へまで航路をつゞけて行く。長汀曲浦を下つて、まぼろしの小艦隊は、ちらちら光つて海へ行く。して、海は滿目、死人の光りで水平線の際涯まで閃き渡り、海風は香煙で芳ばしい。

 が、殘念! 今頃は大きな港では精進舟を流すことが禁ぜられた。

[やぶちゃん注:「佛說孟蘭盆經」略して単に「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」とも言う。ウィキの「盂蘭盆経によれば、只管に父母の恩に報いることを説く儒教的人倫の教えを説く偽経「仏説父母恩重難報経(ぶっせつぶもおんじゅうなんほうきょう」(略して「父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」ともいう)等と同様に、悲しいかな、中国で「孝」の倫理を中心にして成立した偽経である。ハーンの注にある『釈迦十大弟子の一人である目連尊者が餓鬼道に堕ちた亡母を救うために衆僧供養を行なったところ、母にも供養の施物が届いた、という事柄が説かれている』というが、『死者に対する廻向の思想そのものはパーリ語経典『餓鬼事経』にも見られる』とあって、トンデモ偽経とは言えないようである。概要はハーンの語る通り、『安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった』。『哀れに思って、釈迦に実情を話して方法を問うと、「安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行い、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも入った』とある。

「大孟健蓮」大目犍連(だいもくけんれん)或は単に目連(もくれん)とも言うが、正しくは「目犍連」、略して「目連」の称で現行では知られる。釈迦十大弟子中「神通第一」と賞された。以下、ウィキの「目連」によると、「目連」は梵語で“Maudgalyāyana”(マウドゥガリヤーヤナ)/パーリ語で“Moggallāna”(モッガラーナ)。漢字音写では「目犍連」「目健(腱)連」、漢訳では「菜茯根」「采叔氏」「讃誦」など。また仏弟子中筆頭あったことからその称号である“Mahā”(漢字音写:「摩訶」/漢訳:「大」)を附して「摩訶目犍連」や平井呈一氏の訳にある「大目犍連」などとも記されるらしい。但し、ここに出る落合氏の「大孟健蓮」という漢訳は現行では見られない。『マガダ国の王舎城北、拘利迦(コーリカ、或いはコーリタ)村の Moggaliya というバラモン女性の子で、もとは拘律多(コーリタ)といった。なお『盂蘭盆経』では父を吉懺師子(きっせんしし)、母を青提女(しょうだいにょ)』(別に「せいだいじょ」とも読まれる)『というが、これは中国において作成された偽経とされている(後述)』。『容姿端麗で一切の学問に精通していた。幼くから隣村ナーラダの』舎利弗(しゃりほつ)と『仲がよく、ある日、人々が遊び戯れている姿を見て、厭離の心を生じ出家を共に決意し合ったという。彼らは当初』、五百人に及ぶ『青年の仲間達を引き連れて』六師外道(ろくしげどう:ゴータマ・シッダッタ(ブッダ)と同時代にブッダが布教に力を入れたマガダ地方に於いて活躍した六人(或いは集団)の異端思想家達を指す卑称)の一人でインド懐疑論者の巨魁『サンジャヤ・ベーラッティプッタに弟子入りしたが』、『満足せず、「もし満足する師が見つかれば共に入門しよう」と誓った』とされる。『後に舎利弗が阿説示(アッサジ)に出遭い釈迦とその法を知るや、目連に知らせて共に五百人のうち半分の弟子衆を引き連れて竹林精舎に到り仏弟子となった』。『目連は後に証果(悟り)を得て、長老といわれる上足の弟子に数えられ、各地に赴き釈迦の教化を扶助した。彼は神通によって釈迦の説法を邪魔する鬼神や竜を降伏させたり、異端者や外道を追放したため、多く恨みをかったこともあり、逆に迫害される事も多かったという。特に六師外道の一とされるジャイナ教徒からよく迫害された。提婆達多の弟子達に暗殺されかかったともいわれている』。『また釈迦族を殲滅せんとしたコーサラ国の瑠璃(ビルリ、ヴィドゥーダバ)王の軍隊を撃退しようとして、釈迦から制止されたりしたこともあった』。『伝説では、釈迦の涅槃に先だって上足の二弟子がまず涅槃するのは、三世(過去現在未来)諸仏の常法といわれる。また』「阿毘曇八健度論(あびどんはっけんどろん)」巻二十八には、『目連と舎利弗が釈迦に先んじて滅したのは、釈迦の説法が正しいことを証明するために成仏の実相を示した、と説かれているが、彼の臨終の模様については』、以下のように伝わる。『舎利弗と目連は、釈迦が涅槃せんとするのを知り、夏坐竟』(げざおわり)『てまさに涅槃とす。この時目連は羅閲城に入って行乞した。外道である執杖梵士は彼を見て、「これは沙門瞿曇(釈迦)の弟子だ、かの弟子中でも目連の上に出るものはいない。我等が共に囲んで打ち殺そう」と言った。諸の梵士共に囲って之を打ち捨てて爛尽し苦悩甚だしく、この時目連は神通で脱し祇園精舎に還り舎利弗の所へ至った』。『舎利弗は「世尊第一の神通の弟子であるのに、なぜ神通を以って避けられずや」と問うと、「我が宿業極めて重く、我れ神の字に於いて尚憶ふと能わず、況(いわん)や通を発せんをや、我れ極めて疼痛を患う。来たって汝に辞して般涅槃を取る」といった。舎利弗は「汝、いま少し停(とどま)れ、我れまさに先ず滅度を取るべし」といった。舎利弗は釈尊の所へ至り辞して、去って本生処に至り説法して滅度を取った」(「増一阿含経」)』、『阿闍世王は、目連が梵士に打ちのめされ瀕死となっているのを聞き、極めて瞋恚して(怒って)大臣に「かの外道を探索してこれを焼き殺せ」と命じた。目連はこれを聞き報じて曰く「尊命違い難く、もし捉え得れば但国を出でしむべし」』と言い放ったという(「毘奈耶雑事」)。然るに目連には二人の弟子があり、『いわゆる六群比丘』(ろくぐんびく:釈迦弟子中で悪事を働いた釈迦や仏弟子らを困らせた六人を言う。彼らの存在故に釈迦の僧団に於いて多くの戒律が制定されたとも言い、また「摩訶僧祇律」によれば彼らは皆、「提婆達多派」の徒であったとする)の『馬宿と満宿が、師である目連の撲殺されるを聞き、憤怒に堪えず、身毛悉く堅ち、大力士の力を以って尽し執杖梵士を捕えて殺した』という。『後にある弟子(比丘)が釈迦にこの件について質問した。聖者目連は何の業があって外道にその身を粉砕せられたのかと問うと、「目連はかつて過去世に、バラモンの子となりその婦人に婬溺して母に不幸した。ある日母を怒り悪語を発す、曰く如何ぞ勇力の人を得てかの身形を打たんと。この麁悪語に依って五百生の中に於いて当に打砕せられ今日聖道を証し神通第一なるも、なおこの報いを受く」と説明した』(「毘奈耶雑事」に拠る)。『また、彼は昔、弊魔たる時、しばしば拘楼孫仏(過去七仏の一仏)の上足の弟子尊者・毘楼を触嬈し、化して小児となり大杖を以って彼の首を撃ち血を流した。その時に地獄に堕した。その宿業に依って今日釈迦文仏の上足となり外道の為に撲殺された』のだとも記す(「魔嬈乳経(まじょうにゅうきょう)」に拠る)。以下、「目連と盂蘭盆」の項がありそれによれば、『下記に記す盂蘭盆の逸話により、目連が日本におけるお盆及び盆踊りなどの行事の創始者として受け取られている』という。『目連がある日、先に亡くなった実母である青提女が天上界に生まれ変わっているかを確認すべく、母の居場所を天眼で観察したところ、青提女は天上界どころか餓鬼界に堕し地獄のような逆さ吊りの責め苦に遭っていた。驚いて供物を捧げたところ供物は炎を上げて燃え尽きてしまい、困り果てた目連は釈迦に相談する。釈迦は亡者救済の秘法(一説には施餓鬼の秘法)を目連に伝授し、目連は教えに従って法を施すとたちまちのうちに母親は地獄から浮かび上がり、歓喜の舞を踊りながら昇天した』ことを盂蘭盆の濫觴とするという(下線やぶちゃん)。]

 

Sec.3

   Now this, Akira tells me, is the origin of the Segaki, as the same is related in the holy book Busetsuuran-bongyo:

   Dai-Mokenren, the great disciple of Buddha, obtained by merit the Six Supernatural Powers. And by virtue of them it was given him to see the soul of his mother in the Gakido—the world of spirits doomed to suffer hunger in expiation of faults committed in a previous life. Mokenren saw that his mother suffered much; he grieved exceedingly because of her pain, and he filled a bowl with choicest food and sent it to her. He saw her try to eat; but each time that she tried to lift the food to her lips it would change into fire and burning embers, so that she could not eat. Then Mokenren asked the Teacher what he could do to relieve his mother from pain. And the Teacher made answer: 'On the fifteenth day of the seventh month, feed the ghosts of the great priests of all countries.' And Mokenren, having done so, saw that his mother was freed from the state of gaki, and that she was dancing for joy. [1] This is the origin also of the dances
called Bono-dori, which are danced on the third night of the Festival of the Dead throughout Japan.

   Upon the third and last night there is a weirdly beautiful ceremony, more touching than that of the Segaki, stranger than the Bon-odori—the ceremony of farewell. All that the living may do to please the dead has been done; the time allotted by the powers of the unseen worlds unto the ghostly visitants is well nigh
past, and their friends must send them all back again.

   Everything has been prepared for them. In each home small boats made of barley straw closely woven have been freighted with supplies of choice food, with tiny lanterns, and written messages of faith and love. Seldom more than two feet in length are these boats; but the dead require little room. And the frail craft are launched on canal, lake, sea, or river—each with a miniature lantern glowing at the prow, and incense burning at the stern. And if the night be fair, they voyage long. Down all the creeks and rivers and canals the phantom fleets go glimmering to the sea; and all the sea sparkles to the horizon with the lights of the dead, and the sea wind is fragrant with incense.

   But alas! it is now forbidden in the great seaports to launch the shoryobune, 'the boats of the blessed ghosts.'

 

1
   It is related in the same book that Ananda having asked the Buddha how came Mokenren's mother to suffer in the Gakido, the Teacher replied that in a previous incarnation she had refused, through cupidity, to feed certain visiting priests.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (二)

 

       二

 

 死んだ人々のお祭――盆祭又は盆供養――西洋人は燈籠の祭とも呼んでゐる――は、七月十三日から十五日に亘つて行はれる。が、每年二回、それが行はれる地方も澤山ある。といふのは、まだ太陰曆を守る人々は、盆祭は舊暦七月十三、十四、十五日に當るべきだと考へてゐる。その日取りは太陽曆では、もつと遲くなるのだ。

 十三日の朝早く、祭のため特に編んだ、最も淸らかな稻の莚を佛壇の上や、佛間の中ヘ敷く。佛間といふのは、信仰を有つ家庭では朝夕そこへ祈を捧げる處だ。厨子と壇とは、また色紙や花や或る種類の神聖な植物の枝で綺麗に裝飾される。蓮華が獲られる場合には、いつも眞の蓮華を飾り、さもなくば、紙製の蓮華や、樒やみそ荻の枝を用ひる。それから、小さな漆塗りの膳――普通日本の食物を載せるもの――が壇前に据ゑられ、食物の献げものがその上に陳べられる。が、家庭の比較的小さな厨子では、供物は單に新しい蓮の葉に包んで、稻の莚の上に置く方が多い。

 是等の供物は、西洋索麪に類する素麺、米を煮た御飯、お團子、茄子、季節の果物――多くは瓜、西瓜、梅や桃などだ。菓子や美味の加はることも每々だ。時には料理をしない御精進供のこともあるが、煮た食物の御料供のことが普通だ。しかし勿論、魚類獸肉又は酒を含まない。淸水が幽靈の客に捧げられ、また絕えずみそ荻の枝に浸して壇上又は厨子の中に灑がれる。茶も毎時注がれ、一切のものを生きた客に對する如く小皿や、荼碗や鉢に行儀よく盛つて、箸を供へてある。かやうにして三日間、死んだ人々は饗應される。

 日沒に當つて、亡靈の訪れ來るのを導くために、各戶の前の地中に差し込んだ松の炬火に火を點ずる。また盆祭の初めの夜、村や町に近い海邊、湖畔、または河岸に、迎ひ火を點ずることがある。火の數は百八個に限る。この數は佛敎の哲理上、幾分神祕的意義を有する。それから、每夜戶口には綺麗な提燈が吊られる――盆祭の提燈――特異の色と形を有し、風景花卉などが美しく畫かれて、いつも特別な紙製の吹流しの總(ふさ)を附けて飾つてある。

 また、その夜は、死んだ知人の墓へ行つて、供物を捧げ、冥福を祈り、香を炷き、水を献げる。花は墓每に傍らに備へてある竹筒に活けて置く。して、墓前に提燈を掲げて火を點ずる。しかし是等の提燈には畫がない。

 十五日の夕だけ、日沒の頃、施餓鬼といふ式が寺で行はれる。その時、餓鬼道といふ圈内に居る亡靈に食物が供せられる。また死後追善を營んで吳れる遺族知人もない亡靈にも、僧侶が食物を供する。神佛へ供へるのと同じく、その供物は極めで分量が少い。

[やぶちゃん注:「みそ萩」バラ亜綱フトモモ目ミソハギ科ミソハギ Lythrum anceps ウィキミソハギによれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『湿地や田の畔などに生え、また栽培される。日本および朝鮮半島に分布。茎の断面は四角い。葉は長さ数センチで細長く、対生で交互に直角の方向に出る。お盆のころ紅紫色六弁の小さい花を先端部の葉腋に多数つける』。『盆花としてよく使われ、ボンバナ、ショウリョウバナ(精霊花)などの名もある。ミソハギの和名の由来はハギに似て禊(みそぎ)に使ったことから禊萩、または溝に生えることから溝萩によるといわれる』。『近縁のエゾミソハギとも、千屈菜(せんくつさい)と呼ばれて下痢止めなどの民間薬とされ、また国・地方によっては食用にされる。千屈菜(みそはぎ)は秋の季語』である。『近縁のエゾミソハギ L. salicariaはミソハギより大型で、葉の基部が茎を抱き、毛が多い。九州以北の各地(北海道に限らない)、またユーラシア大陸や北アフリカにも広く分布する。欧米でも観賞用に栽培され、ミソハギ同様盆花にもされる』が、実はこちらの種は世界レベルでの「侵略的外来種ワースト百選定種」の一種でもあることをも知っておきたい。

「西洋索麪」「せいやうさうめん(せいようそうめん)」と読んでいよう。原文は“vermicelli”。イタリア語語源の英語で、音写すると「バーミチェリ」「バーミセリ」。所謂、スパゲッテイ(spaghettiよりも細いパスタを指す。イタリア語の原義は「細長い虫」の意味である。

「素麺」は無論、「さうめん(そうめん)」と読む。「素麺」は外に「索麺」「索麵」「素麪」そして前に出るように「索麪」とも書き、これらは総て同一物を指す。落合氏は細いスパゲッテイと本邦の素麺を差別化するために敢えて異なった漢字表記を用いたものであろう。

「御料供」「おりやうぐ(おりょうぐ)」と読んでいる(原文参照)。「霊供(りょうぐ)」と同義で、霊前に供える、通常生臭物を避けた総てに何らかの火を加えられた――料(れう/りょう)られた――食物である。平井呈一氏の訳では後に『お料供(煮た食物)』とあってルビで「(お)りょうぐ」と読ませている。但し、「御霊供膳」と書くと、現行では「おりくぜん」と当て読みで訓じているケースが頗る多いことを附言しておく。

「炬火」は「こくわ(こか)」或いは「きよくわ(きょか)」と読み、本来は、松明(たいまつ)の火、或いは、篝(かが)り火のこと。ここは各家庭での盆の送り火で、現行では家の門口や辻に於いて「おがら」(苧殻:皮を剥いだ麻(あさ)の茎)を折って積み重ねて着火するのが最も一般的であって、一見、「炬火」は大袈裟な表現にも見えるが、大文字焼きなども同じ送り火であることを考えれば、「炬火」こそは逆に本来的に正統にして正当な表現とも言えると私は思う(因みに平井呈一氏は『松明(たいまつ)』と訳しておられる)。

「施餓鬼」は「せがき」と読み、仏教に於ける法会(ほうえ)の名で「施餓鬼会(せがきえ)」とも言う。参照したウィキ施餓鬼によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『訓読すれば「餓鬼に施す」と読めることからも分かるように、六道輪廻の世界にある凡夫の中でも、死後に特に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼を指』し、ここでハーンも述べているように、現行でも『法会の時期は、盂蘭盆として旧暦の七月十五日(中元)に行われるのが一般的である。日本におけるお盆の場合、お精霊さま(おしょらいさま)と呼ばれる各家の祖霊が、一年に一度、家の仏壇に還ってくるものとして、盆の期間中、盆供として毎日供物を供える。それと同時に、無縁仏となり、成仏できずに俗世をさまよう餓鬼にも施餓鬼棚(せがきだな)、餓鬼棚(がきだな)や精霊馬(しょうりょううま)を設ける風習がある』。『さらに広義には、施す対象は餓鬼神に限らず、三界万霊十方至聖『大施餓鬼集類分解(原古志稽著)、立牌』にも及』び、『(上は三宝を供(くよう)し、下は万霊を済えば、其の福百倍なり。単に施鬼神食に局(かぎ)るべからず。後学、焉(こ)れを知れ。『大施餓鬼集類分解、施食の時節』)』『また、万霊とは生魂をも含』み、『(万霊というは、万は且(しばら)く大数を挙ぐ。衆生無辺なり。豈に啻(た)だ万のみならんや。霊は謂く、含霊、即ち有情なり。『釈要鈔』に云く、「含霊は即ち衆生の異目(べつめい)なり」と。『大施餓鬼集類分解、立牌』』。『施というは、梵語には檀那、此には施と曰う。但だ鬼道の飢渇に施すのみにあらずして、上は十方の諸佛に供(くよう)し、下は六道の群生に施す。故に無遮の大会と名づく。又た施食と曰い、又た水陸会と曰う。『大施餓鬼集類分解、題目』)』が、『但し、浄土真宗においては、施餓鬼会は行われない』ので注意が必要である(ハーンの記載から晃の家の宗旨も彼の学んでいる真言宗と考えてよい)。『曹洞宗においては、俗に盂蘭盆会施餓鬼と言っているが、施す者と施される者の間に尊卑貴賤の差があると、厳に戒むべきものだとして、「施餓鬼会」を「施食会」(せじきえ)と改めて呼称している』。『また、施餓鬼は盂蘭盆の時期に行われるのが通例となっているが、本来は特定の時期(つまり盂蘭盆)の時だけに限定して行われるものではない。これは、目連尊者の伝説と、阿難尊者の伝説が似ていることから、世間において誤解が広まったものとされている(後述)』。『また、水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養を「川施餓鬼」といい、夏の時期に川で行なわれる』。『目連の施餓鬼は「盂蘭盆経」によるといわれる。この経典によると、釈迦仏の十大弟子で神通第一と称される目連尊者が、神通力により亡き母の行方を探すと、餓鬼道に落ち、肉は痩せ衰え骨ばかりで地獄のような苦しみを得ていた。目連は神通力で母を供養しようとしたが食べ物はおろか、水も燃えてしまい飲食できない。目連尊者は釈迦に何とか母を救う手だてがないかたずねた。すると釈迦は『お前の母の罪はとても重い。生前は人に施さず自分勝手だったので餓鬼道に落ちた』として、『多くの僧が九十日間の雨季の修行を終える七月十五日に、ご馳走を用意して経を読誦し、心から供養しなさい。』と言った。目連が早速その通りにすると、目連の母親は餓鬼の苦しみから救われた。これが盂蘭盆の起源とされる(ただしこの経典は後世、中国において創作された偽経であるという説が有力である)』。『これに対し、阿難の施餓鬼は「救抜焔口陀羅尼経」に依るものである。釈迦仏の十大弟子で多聞第一と称される阿難尊者が、静かな場所で坐禅瞑想していると、焔口(えんく)という餓鬼が現れた。痩せ衰えて喉は細く口から火を吐き、髪は乱れ目は奥で光る醜い餓鬼であった。その餓鬼が阿難に向かって『お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるだろう』と言った。驚いた阿難が、どうしたらその苦難を逃れられるかと餓鬼に問うた。餓鬼は『それにはわれら餓鬼道にいる苦の衆生、あらゆる困苦の衆生に対して飲食を施し、仏・法・僧の三宝を供養すれば、汝の寿命はのび、我も又苦難を脱することができ、お前の寿命も延びるだろう』と言った。しかしそのような金銭がない阿難は、釈迦仏に助けを求めた。すると釈迦仏は『観世音菩薩の秘呪がある。一器の食物を供え、この『加持飲食陀羅尼」』(かじおんじきだらに)を唱えて加持すれば、その食べ物は無量の食物となり、一切の餓鬼は充分に空腹を満たされ、無量無数の苦難を救い、施主は寿命が延長し、その功徳により仏道を証得することができる』と言われた。阿難が早速その通りにすると、阿難の生命は延びて救われた。これが施餓鬼の起源とされる』。『この二つの話が混同され、多くの寺院において盂蘭盆の時期に施餓鬼が行われるようになったといわれる』とある。但し、前章注で述べた通り、この後のハーンの行動日程から、ここで行われている施餓鬼会は新暦八月十五日に行われるととらないとおかしなことになる。 

 

Sec.2

   From the 13th to the 15th day of July is held the Festival of the Dead— the Bommatsuri or Bonku—by some Europeans called the Feast of Lanterns. But in many places there are two such festivals annually; for those who still follow the ancient reckoning of time by moons hold that the Bommatsuri should fall on the 13th, 14th, and 15th days of the seventh month of the antique calendar, which corresponds to a later period of the year.

   Early on the morning of the 13th, new mats of purest rice straw, woven expressly for the festival, are spread upon all Buddhist altars and within each butsuma or butsudan—the little shrine before which the morning and evening prayers are offered up in every believing home. Shrines and altars are likewise decorated with beautiful embellishments of coloured paper, and with flowers and sprigs of certain hallowed plants—always real lotus-flowers when obtainable, otherwise lotus- flowers of paper, and fresh branches of shikimi (anise) and of misohagi (lespedeza). Then a tiny lacquered table—a zen-such as Japanese meals are usually served upon, is placed upon the altar, and the food offerings are laid on it. But in the smaller shrines of Japanese homes the offerings are more often simply laid upon the rice matting, wrapped in fresh lotus-leaves.

   These offerings consist of the foods called somen, resembling our vermicelli, gozen, which is boiled rice, dango, a sort of tiny dumpling, eggplant, and fruits according to season—frequently uri and saikwa, slices of melon and watermelon, and plums and peaches. Often sweet cakes and dainties are added. Sometimes the offering is only O-sho-jin-gu (honourable uncooked food); more usually it is O-rio-gu (honourable boiled food); but it never includes, of course, fish, meats, or wine. Clear water is given to the shadowy guest, and is sprinkled from time to time upon the altar or within the shrine with a branch of misohagi; tea is poured out every hour for the viewless visitors, and everything is daintily served up in little plates and cups and bowls, as for living guests, with hashi (chopsticks) laid beside the offering. So for three days the dead are feasted.

   At sunset, pine torches, fixed in the ground before each home, are kindled to guide the spirit-visitors. Sometimes, also, on the first evening of the Bommatsuri, welcome-fires (mukaebi) are lighted along the shore of the sea or lake or river by which the village or city is situated—neither more nor less than one hundred and eight fires; this number having some mystic signification in the philosophy of Buddhism. And charming lanterns are suspended each night at the entrances of homes -the Lanterns of the Festival of the Dead—lanterns of special forms and colours, beautifully painted with suggestions of landscape and shapes of flowers, and always decorated with a peculiar fringe of paper streamers.

   Also, on the same night, those who have dead friends go to the cemeteries and make offerings there, and pray, and burn incense, and pour out water for the ghosts. Flowers are placed there in the bamboo vases set beside each haka, and lanterns are lighted and hung up before the tombs, but these lanterns have no designs upon them.

   At sunset on the evening of the 15th only the offerings called Segaki are made in the temples. Then are fed the ghosts of the Circle of Penance, called Gakido,
the place of hungry spirits; and then also are fed by the priests those ghosts having no other friends among the living to care for them. Very, very small these offerings are—like the offerings to the gods.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (一)

 

       第五章 盆市にて

 

       一 

 

 丁度午後五時過ぎだ。夕嵐が立つて、私の書齋の開いた戶から吹込んで、卓上の書類を亂し始めた。それから、日本の太陽の白熱光も薄い琥珀色になりかけて、日中の暑さが終はつたことを告げた。碧空に一片の雲もない――この世界中最も淸淨靈妙な空には、極めて乾燥の天候に於でも、絹の如き浮滓の幽靈とも見ゆる、美しい白い纎維のやうなものが、いつも浮遊してゐるのであるが、今日はそれさへ見えない。

 戶の處に不意に影が差した。佛敎の靑年學生の晃が敷居に立つて、室に入らんとして白い足から草履を脫ぎ、地藏の如く微笑してゐた。

 『やあ、今晩は、晃君』

 『今夜盆市が開かれますが、御覽になりますか?』と、晃は蓮座の佛陀の如く床に坐つて云つた。

 『晃君、私はこの國のものは何でも見たいのだ。が、盆市は何んなやうなものです?』

 晃は答へた。「盆市は死んだ人々のお祭に要る一切の品物を買る市場です。そのお祭は明晩から始まります。寺々の佛壇、善良な佛敎信者の家々の厨子が、皆飾られるのです』

 『それでは是非盆市を見たい。また家庭の佛壇をも見たいものだ』

 『承知致しました。私の室へお出で下さいませんか?』と晃が聞いた。『それは遠くはありません。石川町を越えて、永久町に近い、老人町です。そこには佛間があります。して、途中で盆供養のことをお話申上げませう』

 かやうにして、始めてこれから次に書かうとする事どもを敎へられた。

[やぶちゃん注:次の章の冒頭で分かるが、この盆市は旧暦で行われている。従って、これは旧暦七月十三日よりも前と考えるべきであろうと考えている。実際に横浜では現在でも旧暦で盂蘭盆を行う習慣が旧家には残っているとも聴くからである。因みに明治二三(一八九〇)年の旧暦の七月十二日は新暦八月二十七日水曜日、参考までに同年の新暦八月十五日金曜日は旧暦では未だ六月三十日である。その後、私はこの日程推定には無理があることが判って来た。何故というに、実はハーンが松江に到着したのは八月三十日(土曜)であることが知れたからである。さればここは素直に新暦の八月十二日(火曜)以前と考えざるを得ないことになった。

「浮滓」「ふし」と読み、浮遊する白っぽい綿のような塵芥を指す言葉と考えるが、ハーンの来日が四月四日で、ここまでは、総て、横浜市内での行動であることから考えると、彼が不思議に浮遊するゴーストリーな、霊的な、魂のような白っぽい微かな綿のようなものというのは、ヤナギ科ヤナギ属の柳類の種子である綿毛であろう(熟した種子はこの附帯する綿毛とともに風に乗って飛散して分布を広げる)。この綿毛が降るように飛ぶ様は漢詩にも「柳絮(りゅうじょ)」として出、お馴染みである。タンポポの綿毛でもよいのだが、だったらハーンは知っていて、また、同じく知っている英語圏の読者向けにもそう書くはずである。そう書かなかったのは如何にももっと違った形、人玉のようにふうわりしたものだったからに違いないと私は考えるのである。

「石川町」現在の横浜市中区石川町。現行の行政上の町は中村川に沿って字(あざ)一丁目から五丁目で形成されている。元町・山手町・打越・南区中村町、中村川を挟んで吉浜町・松影町。寿町・長者町と隣接しているが、実はこの前年である明治二二(一八八九)年の市町村制施行によって横浜市に編入されたばかりであった(ずっと後であるが、昭和一〇(一九三五)年には町界町名整理の際に石川仲町を併合している)。現在は昭和三九(一九六四)年に根岸線が開通して「石川町駅」が設置され、お洒落な元町商店街や中華街に向う一ルートとして繁華な市街という印象が強烈であるが、駅のなかった当時は、山手や元町への通り道としての石川町、特に一丁目付近((駅の元町口は石川町二丁目で、そこから商店街へ向かった凡そ九十メートルの一から商店街入り口の元町交差点を北側とし、山手トンネルの東側上の山手五十番館辺りまでのやや南北に長い町)はそれまで非常に寂しい町外れであった。後で「老人町」(私は翁町(現行では「おきなちょう」と読む)のことと推定する)が出るので、試みに現在の石川町駅が『周辺には女子校が多く、女子中高生の利用が多いため「乙女駅」の異名がある』ことも偶然とは言え、面白いので言い添えておく(引用部を含めて主にウィキ町駅等を参照した)。

「永久町」不詳。但し、前後の町名同定が正しいとすれば、その間にある「永久」に近似した町名とすれば、旧「ドヤ街」の名で知られる「寿町(ことぶきちょう)」がある。ここか?

「老人町」翁町(おきなちょう)のことと思われる(実は底本てい国立国会図書館近代デジタルライブラリ部分画像を視認すると、大昔の不届き者――恐らく鈍愚な職業的翻訳家であろうと思われる――がこの右に鉛筆で『オキナ』、左手に『翁』と勝手に書き込みをしている(!)のが判るのである)。現行の横浜市中区翁町はJRの関内駅の東南手前から西南に細長く延び、線路を挟んだ反対側が横浜スタジアム、西北が横浜体育館を有する不老町、東南が扇町、南西で伊勢佐木長者町に接する。] 

 

Chapter Five   At the Market of the Dead

 

Sec. 1

   IT is just past five o'clock in the afternoon. Through the open door of my little study the rising breeze of evening is beginning to disturb the papers on my desk, and the white fire of the Japanese sun is taking that pale amber tone which tells that the heat of the day is over. There is not a cloud in the blue—not even one of those beautiful white filamentary things, like ghosts of silken floss, which usually swim in this most ethereal of earthly skies even in the driest weather.

   A sudden shadow at the door. Akira, the young Buddhist student, stands at the threshold slipping his white feet out of his sandal-thongs preparatory to entering, and smiling like the god Jizo.

   'Ah! komban, Akira.'

   'To-night,'

says Akira, seating himself upon the floor in the posture of Buddha upon the Lotus,

   'the Bon-ichi will be held. Perhaps you would like to see it?'

   'Oh, Akira, all things in this country I should like to see. But tell me, I pray you; unto what may the Bon-ichi be likened?'

   'The Bon-ichi,' answers Akira, 'is a market at which will be sold all things required for the Festival of the Dead; and the Festival of the Dead will begin to-morrow, when all the altars of the temples and all the shrines in the homes of good Buddhists will be made beautiful.'

   'Then I want to see the Bon-ichi, Akira, and I should also like to see a Buddhist shrine—a household shrine.'

   'Yes, will you come to my room?' asks Akira. 'It is not far—in the Street of the Aged Men, beyond the Street of the Stony River, and near to the Street Everlasting. There is a butsuma there—a household shrine -and on the way I will tell you about the Bonku.'

   So, for the first time, I learn those things—which I am now about to write.

2015/08/24

長女藪野マリア満29歳

今日は長女藪野マリアの満29歳の誕生日であった。
マリア、誕生日、おめでとう! Maria 彼女の頭の後ろ、遠い昔の僕の書斎の本棚にある黒々としたものは――ルイ・フェルディナン・セリーヌの全集……   彼女の誕生日は1986年8月24日…… これは鎌倉の古美術商から僕の所へ養女に来た日である。と言っても無論、買ったもので、当時のボーナスの半分以上が消えたんである。 シモン&ハルビック社製ビスクドール。 ヘッドNo.1909。 因みに、よく、欲しいから是非売ってくれとという人がいるのだけれど……この人形、遠い昔に昔の教え子に僕の遺品として贈ると約束した。 だから悪いけれど、誰にもあげないよ……   因みに、彼女の美しい金髪はこれ――総て一人の西洋の少女の人毛製である……   写真のドレスの他に、オリジナルのステキな刺繡が施された純白の着せ替え用のワン・ピース附――因みに附言しておくと、俳優で人形師としても有名な四谷シモン氏の「シモン」という名は、実にこの尊敬する人形師に由来するんである――

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (九) / 第三章~了

 

       

 

 晃は壁間の棚から、餘程破損せる靑表紙の本を取つて云った。『に地藏の和讃があります。讃美歌のやうなものです。これは二百年も古い「賽ノ河原口吟(くちずさみ)の傳(でん)」といふ本です。して、これが和讃です』それから、彼は歌の如く拍子を取って、私にそれを讀んで聞かせた―― 

 

    是は此世のことならず

    死出の山路の裾野なる

    賽ノ河原のものがたり

    聞くにつけても哀なり

    二つや三つや四つ五つ

    十にも足らねみどり兒が

    賽ノ河原に集りて

    父戀し母戀し

    戀し戀しと泣く聲は

    この世の聲とはこと變はり

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

[やぶちゃん注:piicats 氏の膨大な仏教サイト「仏教の勉強室」の中の地蔵和讃に、ここで不完全に途注を省略して抄録されている(ハーンの注でさえも不完全である)「西の川原(賽の河原)地蔵和讃」の全文が示されてあるので、是非お読みあれかし。因みに、平井呈一氏は原典に対する誠実な忠実性を示して(但し、ご覧の通り、全文を平仮名化してある。しかし、和讃としては、これはこれで、頗る正しいと私は思っている)、以下のように訳しておられる。リンク先の原典と以下の原文と是非、比較されんことを(恒文社版底本原文は全体が三字下げポイント落ちの二段組であるが、意図的に同ポイント一段で示した。歴史的仮名遣の誤りが異様に多いが、拗音も含めて表記は総てママである)。

   《引用開始》

 

  さいのかわらのじぞうそん

  これはこのよのことならず

  しでのやまじのすそのなる

  さいのかわらのものがたり

  きくにつけてもあわれなり

  二つや三つや四つ五つ

  十にもならぬみどりごが

  さいのかわらにあつまりて

  ちちうえこいしははこいし

  こいしこいしとなくこえは

  このよのこえとことかわり

  かなしさほねをとおすなり

  かのみどりごのしょさとして

  かわらのいしをとりあつめ

  これにてえこうのとうをつむ

  一じゅうつんではちちのため

  二じゅうつんではははのため

  三じゅうつんではふるさとの

  きょうだいわがみとえこうして

  ひるはひとりであそべども

  ひもいりあいのそのころは

  じごくのおにがあらわれて

  やれなんじらはなにをする

  しゃばにのこりしちちははは

  ついぜんざぜんのつとめなく

  ただあけくれのなげきには

  むごやかなしやふびんやと

  おやのなげきはなんじらが

  くげんをうくるたねとなる

  われをうらむることなかれ

  くろがねぼうをとりのべて

  つみたるとうをおしくずす

  そのときのうけのじぞうそん

  ゆるぎいでさせたまいつつ

  なんじらいのちみじかくて

  めいどのたびにきたるなり

  しゃばとめいどはほどとおし

  われをめいどのちちははと

  おもうてあけくれたのめよと

  おさなきものをみころもの

  もすそのうちにかきいれて

  あわれみたもうぞありがたき

  いまだあゆまぬみどりごを

  しゃくじょうのえにとりつかせ

  にんにくじひのみはだえに

  いだきかかえてなでさすり

  あわれみたもうぞありがたき

        なむあみだぶつ

 

   《引用終了》

 

因みに、個人的にはこの章句の内の「ついぜんざぜんのつとめなく」の「ざぜん」は「さぜん」(作善)の誤りと思うであるが如何? 実際、ネット上に散見される伝空也上人作「西院河原地蔵和讃」の別ヴァージョンでは、ここは「追善作善(ついぜんさぜん)の勧めなく」などとなっている。空也の時代に「追善坐禪」というのはどうもしっくりこないのである(リンク先でも当該類似箇所は『追善供養のその暇に』とあって、『供養』ならば私個人としては頗るしっくり来るのである)。大方の御叱正を俟つ。] 

 

Sec. 9

   'Now there is a wasan of Jizo,' says Akira, taking from a shelf in the temple alcove some much-worn, blue-covered Japanese book. 'A wasan is what you would call a hymn or psalm. This book is two hundred years old: it is called Saino-Kawara-kuchi-zu-sami-no-den, which is, literally, "The Legend of the Humming of the Sai-no-Kawara." And this is the wasan'; and he reads me the hymn of Jizo—the legend of the murmur of the little ghosts, the legend of the humming of the Sai-no-Kawara- rhythmically, like a song: [8]

    'Not of this world is the story of sorrow.

   The story of the Sai-no-Kawara,

   At the roots of the Mountain of Shide;

   Not of this world is the tale; yet 'tis most pitiful to hear.

   For together in the Sai-no-Kawara are assembled

    Children of tender age in multitude,

   Infants but two or three years old,

   Infants of four or five, infants of less than ten:

   In the Sai-no-Kawara are they gathered together.

    And the voice of their longing for their parents,

   The voice of their crying for their mothers and their fathers—

    "Chichi koishi! haha koishi!"—

    Is never as the voice of the crying of children in this world,

   But a crying so pitiful to hear

   That the sound of it would pierce through flesh and bone.

   And sorrowful indeed the task which they perform—

   Gathering the stones of the bed of the river,

    Therewith to heap the tower of prayers.

   Saying prayers for the happiness of father, they heap the first tower;

   Saying prayers for the happiness of mother, they heap the second tower;

   Saying prayers for their brothers, their sisters, and all whom they loved at home, they heap the third tower.

   Such, by day, are their pitiful diversions.

   But ever as the sun begins to sink below the horizon,

   Then do the Oni, the demons of the hells, appear,

    And say to them—"What is this that you do here?

    "Lo! your parents still living in the Shaba-world

    "Take no thought of pious offering or holy work

    "They do nought but mourn for you from the morning unto the evening.

    "Oh, how pitiful! alas! how unmerciful!

    "Verily the cause of the pains that you suffer

    "Is only the mourning, the lamentation of your parents."

   And saying also, "Blame never us!"

   The demons cast down the heaped-up towers,

    They dash the stones down with their clubs of iron.

   But lo! the teacher Jizo appears.

    All gently he comes, and says to the weeping infants:—

   "Be not afraid, dears! be never fearful!

   "Poor little souls, your lives were brief indeed!

   "Too soon you were forced to make the weary journey to the Meido,

   "The long journey to the region of the dead!

   "Trust to me! I am your father and mother in the Meido,

   "Father of all children in the region of the dead."

   And he folds the skirt of his shining robe about them;

   So graciously takes he pity on the infants.

   To those who cannot walk he stretches forth his strong shakujo;

   And he pets the little ones, caresses them, takes them to his loving bosom

   So graciously he takes pity on the infants.

   Namu Amida Butsu!

 

8
These first ten lines of the original will illustrate the measure of the wasan:

   Kore wa konoyo no koto narazu,

    Shide no yamaji no suso no naru,

   Sai-no-Kawara no monogatari

   Kiku ni tsuketemo aware nari

   Futatsu-ya, mitsu-ya, yotsu, itsutsu,

   To nimo taranu midorigo ga

   Sai-no-Kawara ni atsumari te,

   Chichi koishi! haha koishi!

   Koishi! koishi! to naku koe wa

   Konoyo no koe towa ko to kawari..

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (八)

 

       

 

 寺は小さく、淸らかで、障子を廣く開けた中へ、明るい光がさし込んでゐた。晃は僧侶達とよほどの識り合ひに相違ない。彼等の挨拶が非常に慇懃だ。私は少しの寄進をして、晃は私共の訪問の目的を告げた。すると、私共は建物の一方の翼にある、明るい大きな室で、可愛らしい庭園を見おろす處へ招ぜられら。座布團が運ばれ、煙草盆が出され、また八寸許今の高さの漆塗りの小机が据ゑられた。して、一人の僧が押入れを開けて、掛物を探す內に、今一人の僧が茶と一皿の菓子を進めた。菓子は砂糖と米の粉を煉り合はせて作つた、種々の美しい形のものから成る珍しい糖菓であつた。一つの形は菊花そのま〻で、今一りは蓮華の形、その他のものは面白い意匠――飛んでゐる鳥、水を渉つてゐる鶴、魚類、小型の風景さヘ――を現した、大きな琢い薄紅色の菱形であつた。晃は菊花を挾み取つて私に食べるやう强ひた。私はか〻る美麗なものを傷めるのを痛惜しつ〻、砂糖の花瓣を一片づ〻壞はし始めた。

[やぶちゃん注:落雁様の干菓子であろうか。]

 

 やがて四幅の掛物が持出され、擴げて、壁上の懸釘から吊るされた。して、私共は立つて眺めた。

 非常に美しい掛物で、線畫と色彩の奇蹟である。日本藝術の最盛期の色なる和らいだ色を呈してゐる。餘程の大幅で、高さ優に五尺、幅三尺以上、絹本である。

[やぶちゃん注:「五尺」凡そ一メートル五十一・五センチメートル。

「三尺」九〇・九センチメートル。]

 

 掛物り畫譚は次の通りである。

 第一の掛物は――

 畫の上部には、私共が現世と呼ぶ人間の世界「娑婆」の一場面がある――墓地に花の咲いた樹木があり、哀悼者が墓前に跪いてゐる。空はすべて柔かな靑い光の日本日和。

 下部は幽冥界で、地殼の中を亡靈が降つて行く。墨のやうに暗い中を眞白く飛んでゐる。もつと先きの方では、氣味惡い薄明りの中で、三途の川の流を徒渉してゐる。右の方に待受けてゐるのが、相貌凄く、灰色で夢魔の如く丈高い、三途の老婆である。彼女に衣服を奪はれてゐるのもあつて、先きにこ〻へ來た亡靈どもの衣類が、その邊の樹木に重げにかかつてゐる。

[やぶちゃん注:「重げ」はママ、「おもたげ」と訓じておく。]

 

 更に下の方では、逃げて行く亡靈が惡鬼に追ひつかれてゐる。怖しい血の如き赤鬼で、獅子のやうな足と、半ば人間の顏、半ば牛の顏を有ち、怒れる『人身牛首(ミノトール 譯者註)の怪物』の形相である、一つの鬼は亡靈を寸斷に裂いて居る。今一つの鬼は、亡靈どもを驅り立てて、馬や犬や豚に、化身させてゐる。して、かやうに化身したものは、暗影の中へ飛んで逃げる。

    譯者註 希臘神話の怪物。

[やぶちゃん注:「人身牛首」の含む原文一文は“Farther down I see fleeing souls overtaken by demons—hideous blood-red demons, with feet like lions, with faces half human, half bovine, the physiognomy of minotaurs in fury.”。当該語句は“the physiognomy of minotaurs in fury”で、「怒れる」が最後の形容部で、辞書を見る限りでは英文法上は、不定冠詞を伴って“in a fury”の方が一般的で正しく、そうでなければ行儀の良過ぎる冠詞を使いたくないならば、“like fury”若しくは“with fury”(但し、孰れも口語的表現である)として、本邦の「烈火の如く怒って」の意となる。“minotaurs”はギリシャ神話に登場する牛頭人身、悪の権化としてしばしば象徴されるところの残酷無惨神ミノタウロス(ラテン語:Minotaurus)の英語転写“Minotaur”の複数形である(ミノタウロス/ミノトールは通常、一体の奇形神に対する固有単数名詞であるが、牛頭馬頭の獄卒どもは地獄に無数に居るので、ここでの複数形は頗る正しいという点に注意されたい)。ミノタウロス神系譜上では便宜上、クレタ島のミノス王の妻パシパエーの子とされるが、実際には、ミノス王が後で返すという約束でポセイドンに願って神への生贄とするための「美しい白い牡牛」(一説では黄金とも)を得るものの、こ牡牛が余りに美しいが故に夢中になったミノス王はポセイドンとの約定を破ってこれを生贄として捧げることなく、代わりの贋の牡牛を生贄として捧げて本物の白い牡牛は己が物としてしまう。これを知ったポセイドンは激怒し、ミノスの最愛の后(きさき)パシパエーの方に呪いをかけ、彼女は白い牡牛に性的な欲望を抱くようにさせてしまう。自己の性欲を制御出来なくなったパシパエーは創作神ダイダロス(大工土木の守り神として知られる)に命じ、実物大の牡牛の模型を作らせた上で自らそのレプリカの中へと裸体のままで入り、遂に雄牛との性行為に及んだ。その結果としてパシパエーが産み落としたのがおぞましき牛頭人身のミノタウロスであった。奇形神であった。ミノタウロスはミノス王によってクレタ島に建造された「ラビュリントス」(「迷宮」の濫觴)に幽閉されてはいたものの、当時、ミノス王によって支配されていたアテナイ(現在のアテネ)には、ミノス王から毎年それぞれ七人の若者と乙女をこのミノタウロスに対して生贄として指し出すことが厳命されていた。以下、ウィキの「テーセウス」によれば、このおぞましい事実を知った怖いもの知らずの科学特捜隊みたような怪物退治の専門家青年であったテセウスは、このミノタウロス退治のためにクレタ島に自ら生贄を志願、ラビュリントスへの侵入にまんまと成功する。しかし『ミーノータウロスが幽閉されている』このラビュリントスは名工ダイダロスによって築かれた文字通りの『脱出不可能と言われる迷宮であった。しかし、ミーノース王の娘アリアドネーがテーセウスに恋をしてしまい、彼女はテーセウスを助けるため、彼に赤い麻糸の鞠と短剣をこっそり手渡した。テーセウスはアリアドネーからもらった毬の麻糸の端を入口の扉に結び付け、糸を少しずつ伸ばしながら、他の生贄たちと共に迷宮の奥へと進んでいった。そして一行はついにミーノータウロスと遭遇した。皆がその恐ろしい姿を見て震える中、テーセウスはひとり勇敢にミーノータウロスと対峙し、アリアドネーからもらった短剣で見事これを討ち果たした。その後、テーセウスの一行は糸を逆にたどって、無事にラビリントスの外へ脱出する事ができた。テーセウスはアリアドネーを妻にすると約束し、ミーノース王の追手から逃れてアテーナイへ戻るために、アリアドネーと共に急いでクレータ島から出港した』のであった。『しかし、彼は帰路の途中、ナクソス島に寄った際に、アリアドネーと離別してしまった。これは、アリアドネーに一目惚れしたディオニューソス(バックス/バッカス)が彼女をレームノス島に攫ってしまったために、行方が分からなくなり、止むを得ず船を出港させたとも、薄情なテーセウスがアリアドネーに飽きたため、彼女を置き去りにしたとも言われている』。『テーセウスは生贄の一人としてクレータ島へ向かう時、無事クレータ島から脱出できた場合には喜びを表す印として船に白い帆を掲げて帰還すると父王アイゲウスに約束していた。しかし、テーセウスはこの約束を忘れてしまい、出航時の黒い帆のまま帰還した。これを見たアイゲウスは、テーセウスがミーノータウロスに殺されたものと勘違いし、絶望のあまり海へ身を投げて死んだ。その後、アイゲウスが身を投げた海は、彼の名にちなんでエーゲ海と呼ばれるようになった』とある。因みに、ウィキの「ミーノータウロス」には別に『ダンテの『神曲』では「地獄篇」に登場し、地獄の第六圏である異端者の地獄においてあらゆる異端者を痛めつける役割を持つ』断罪神として描かれ、『この怪物の起源はかつてクレーテー島で行われた祭りに起源を求めるとする説があり、その祭りの内容は牛の仮面を被った祭司が舞い踊り、何頭もの牛が辺り一帯を駆け巡るというもので、中でもその牛達の上を少年少女達が飛び越えるというイベントが人気であった。また、古代のクレーテー島では実際に人間と牛が交わるという儀式があったとされる』ともあって頗る興味深い。因みに、高校時代に読んだ受験用の英語表現書に小泉八雲は英語を習う日本人に対して、「日本人は現在の英語圏では最早使うことも少なく、しかも相手に理解し難くなっている難語(一語で或る性質状態を示すところの長ったらしくて如何にも覚え難い古式の英単語)を殊更に崇拝する悪い癖がある」と批判していたという記載を読んだことがある。二十代の頃、半期留学で勤務校に来たオーストラリアの美少女(アニタと言った)に日本語を少し教えたことがあったが、彼女がガッチガチの当時の高校のグラマーの授業を受けて一言、「こんなものは今の国際英語の実践上に於いては何の役にも立ちません」と笑いながら一蹴したのを思い出した。正しい英文法よりも正しく相手に「烈火の如く怒っている」様を伝えることこそが生きた言語の正しい使い方であろう。]

 

 第二の掛物は――

 潛水者が深海で見るやうな暗く靑白い薄明かり。その眞中に黑檀色の王座、その土に憐憫のない怖ろしい、死者の王、亡靈の判官なる閣魔が坐つて、周圍には武裝せる鬼が、番兵として徘徊してゐる。王座の下の前方、左方に當つて、靈魂の狀態と世の中の一切の出來事を反映する、不思議なたばりの鏡が立つてゐる。今しも鏡面には、ある風景の影が射してゐる。絕壁と沙濱と海が見え、沖には船がある。沙濱の上に刀で斬り殺された死人が倒れてゐて、殺戮者は逃しつ〻ある、この鏡の前に、鬼に摑まれて恐怖戰慄せる亡靈がゐる。鬼は亡靈に迫つて、否應なしに顏を上げて、鏡面の殺戮者を見て、自身の顏であることを認めさせる。王座の右に當つて、寺院で供物を載せるさうな、高い脚のついた、扁平な臺の上に、奇異なものが見える。新しく斬つた兩面の顏のある頭を、斷餘の頸の上に眞直に立てたやうだ。二つの顏は證人で、『視る目』といふ女の顏は、娑婆で行はれる一切萬事を見、『嗅ぐ鼻』といふ髯男の顏は、一切の臭氣を嗅いで、人間の所業を知るのである。その側の文机の上に、一大書册が開かれてあるのは、所業の記錄帳である。して、鏡と證人の間に、戰慄せる白い亡靈が審判を待つてゐる。

[やぶちゃん注:「たばりの鏡」浄玻璃(じょうはり)の鏡のこととしか思えないが、「たばり」という呼称は私は初耳である(しかし確かに“Tabarino-Kagami”とある)。「日本国語大辞典」を縦覧しても今一つピンとくる類語は見当たらない。是非とも識者の御教授を乞うものであるが、私は実は、これは日本語の「じやうはりのかがみ」(Jyauharino-Kagami)をローマ字転写する際に単に誤って綴ってしまったか、アメリカの植字工が発音不能の「Jyauharino」を勝手に「J」を「T」の誤り、「Jyau」という不気味な呪言のような綴りの「y」「u」を意味不明の誤字とし、しかも悪筆であった「h」を校正者が勝手に「b」と読み違えて出来上がったトンデモ語である可能性もあるやに思われるのである。大方の御批判を俟つ。]

 

 もつと下の方には、最早宣告を受けた亡靈の苦痛を甞めてゐるのが見える。娑婆で虛言者であつたものが熱した釘拔で鬼に舌を拔かれてゐる。他の亡靈どもは、數十となく火の車に抛り込まれて、苛責の場所へ引かれて行く。車は鐡製であるが、形狀は通常跣の日本の勞働者が街頭で『ハイダ、ヘー、ハイダ、ヘー』と、同一の哀れげな、折返へしの言葉を交互に發し乍ら、引いたり押したりする荷車に似てゐる。しかし、眞裸かで、血の色をして、獅子の足と牛の頭を有てる、是等の鬼の車夫共は、火炎の車を人力車夫の如くに引いて走る。

[やぶちゃん注:「抛り込まれて」老婆心乍ら、「抛(はふ)り込まれて」(ほうりこまれて)と読む。

「有てる」「もてる」、或いは、「有してる」の脱字か。]

 

 以上の亡靈は、皆成人のであつた。

 第三の掛物は――

 亡靈を燒く爐火が、暗黑の空へ燃え上つてゐる。鬼が鐡捧で火をかきまぜる。暗黑の上空から、眞倒さまに他の亡靈が炎の中へ墜ちてくる。

 この光景の下に、漠然たる風景が擴つてゐる――淡靑淡灰色の山や谷の連つた處を賽ノ河原が迂曲してゐる。靑白い川の堤に群がつた子供の亡靈が、石を積上げようとしてゐる。非常に綺麗な子供達で、実際の日本の子供等の如く綺麗である。(日本の畫家が、いかにもよく子供の美を感じ、旦つ現すのは驚くばかりだ)子供は銘々、短い小さな白衣をつけてゐる。

[やぶちゃん注:「白衣」老婆心乍ら、ここは「びやくえ(びゃくえ)」と読みたい。

「旦つ」「且つ」の誤植か。]

 

 前面に、鐡棒を持つた恐ろしい鬼が、今しも一人の子供の築いた石の山を打ち碎いて散らしてゐる。小さな亡靈は、その廢墟の邊に坐つて、綺麗な兩手を眼に當てて泣いてゐる。鬼は嘲笑してゐるらしい。他の子供等らも傍で泣いてゐる。が、そこへ輝いて美しい地藏が、大きな滿月のやうな後光を照らし乍ら來て、錫杖――强い神聖の錫杖――を伸ばす。すると、子供等はそれを捉へ、それにすがり附いて、地藏の保護圈內へ引入れられる。それから、他の幼兒どもは地藏の大きな袖を摑む。また地藏の胸まで抱き揚げられるのもある。

 この賽ノ河原の場面の下に、別に冥界の竹林がある。たゞ女の白衣の姿が、その中に見えるだけだ。女達は泣いてゐて、指先から血が出でてゐる。彼等は爪をもぎ取られた指で、綠の銳い竹の葉を永遠に摘んで行かねばならぬ。

[やぶちゃん注:この竹林の女達の絵は私は実際には見たことがない。私の偏愛する「地獄草紙」も、再度、点検してみたが、ない。ところがネットでpansy氏のブログ「悠遊・楽感雑記帳」の「今日は地獄の釜が開く日です。」という二〇一四年一月十六日附日記に、『川崎市中原区・安楽寺(中原区下小田中)に於いて、年2回公開される「六道地獄絵」の絵解きに参加しました』と始まる文章の中に、地獄の一パート・セレクションとして、竹林で泣く裸体の女性群像の絵があり、その解説に、『火車に乗せられ、自分の髪の毛で竹林の根を掘る女性達』の亡者というのがある。恐らくは、これであろう。「往生要集」辺りに出るか? 目の前に同書はあるが、前頭葉が探すことを拒否している。その内、典拠を探し当てて、その独自の地獄の名(私の経験上、こういう独特の「地獄」には必ず固有の地獄名があるものなのである)もお知らせ出来ればと思っている。]

 

 第四の掛物――

 光耀の中に浮んだ大日如來、觀音、阿彌陀佛。それから地獄と極樂が隔たるほど遙かの下方に亡靈の浮んだ血の池が波立つ。池畔の絕壁には、鮫の齒の如く、密に刀身が林立してゐる。鬼は裸の亡靈をこの刀劍の山へ追ひ上げる。が、赤い池から麗はしく淸らかな噴水のやうに、一種の透明なものが出でる――一莖の花――不思議な蓮華が――一個の亡靈をもたげて、崖端に立てる僧の足許へ出す。僧の祈念の功德によつて、この蓮華が現れて、苦しめるものを救ひ上げたのである。

 惜しいこと! もはや掛物はこれだけである。まだ他に數幅あつたが、逸失したのだ。

 否、それは幸にも誤であつた。寺僧は或る隱れた隅から、更に一つの大きな掛軸を發見して、それを展べて、他のものと並べて吊るした。更に一幅の美景! が、これは信仰又は亡靈と、何の關係がある? 前景は洋々たる一大碧湖に沿つた庭園――神奈川にある庭園の如く濕布、洞窟、燕子花の池、石に刻んだ橋、雪のやうな花樹、靜かな靑池の上に突き出でた瀟洒な亭など、美しい山水の小景に富んでゐる。背景には、輝いて柔かな雲の長い帶が棚引いてゐて、その上の方には、夏の蒸氣の如く輝いた靄の中から、屋根の上に屋根が重つて、不思議に華麗な、夢の如く輕い、靑い宮殿が泛んでゐる。庭園には客――可愛らしい日本少女――が遊んで居る。が、彼等は後光を帶びてゐる。彼等は幽冥界の女達である。

[やぶちゃん注:「燕子花」これは、

単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata

の漢訳の異名を指すが、私は実は本当に江戸時代までの日本人が――というよりも現代の日本人でさえもが、

アヤメ属アヤメ Iris sanguinea(綾目)

アヤメ属ハナショウブ(花菖蒲)Iris ensata var. ensata

 (但し、「菖蒲」と書いて「あやめ」と読ませる例が古代より異様に多い)

本種カキツバタIris laevigata

 (杜若/本邦での漢字表記ではこちらが一般的)

の三種を真に識別している或いは識別出来るかどうかについては、甚だ、疑いを持っている従って、ここでハーンや晃や坊主がそれを正しく花の中に井の字に見える綾目模様がなく、しかもすんなりと長く伸びた葉の中肋(ちゅうろく)が存在しない真正のカキツバタであると認識しているかどうかを激しく疑っていることを表明しておく。そもそもが実際、そうした種としての識別比定は菖蒲類の好事家や近代以降の植物学者のみに必要な知識ではあった。しかし、小学生でも誰でも、すぐに覚えられるので紹介しておく。

 まず、花を真上から覗いてみよう。

 綾目模様があれば、それ一発で「アヤメ」である。

 それがなければ、次に葉を手で触れてみよう

 触ってみて、葉の中央部分に明らかにゴリっとした葉を有意に支持する硬い筋目――植物学では「中肋(ちゅうろく)」と呼ぶ――があれば、それは「ハナショウブ」である。

 葉に、そうした「中肋」が全くなく、支持力を凡そ感じさせない、ただの視認出来る筋が、ほぼ均等に葉に平行してあって、葉全体が弱々しくペランとしていれば、それはカキツバタなのである。

 因みに以上の比定法は高校二年の時、植物フリークの化学の先生が授業の脱線中に教えてく呉れた識別法――有機化学は今一つ好きになれず、遂に私の人生に於いて化学の授業で、ただ一つだけ有益な「智」となった法――である。

   *

「泛んでゐる」老婆心乍ら、「うかんでいる」と訓読する。]

 

 といふのは、こ〻は極樂なのだ。是等の神々しい姿のものは、菩薩である。して、もつと近寄つて見てから、私は初め氣が付かなかつた美しい奇異なものを認めた。

 是等の美しい菩薩どもは、園藝を營みつ〻あるのだ! 蓮華の蕾を撫でさすり、何とも知れぬ天土界のものを花瓣に灑いで、花の開くやう手傳つてゐる。して、また何といふ蓮の蕾! 色はこの世のものでない。蕾の破れたのもある。その輝いた花瓣の、黎明の如き光耀の中に、小さな裸の幼兒達が各々小さな後光を帶びて坐してゐる。是等は亡靈が新たに佛となつたので、極樂に生まれた佛である。非常に小さいのもある。大きいのもある。皆目に見えて成長して行くらしい。それは彼等の愛らしい乳母は、一種の神仙の食物を以て彼等を養育するからである。ある一人、蓮華の搖籃から立出で、地藏に導かれて、遙かにかなたの一層華麗な城へ行くのが見える。

 最も上方の蒼空に、佛敎天國の天使、鳳凰の翼ある少女、所謂天人が浮んでゐる。その一人は、舞妓が三味線を奏でる如く、或る絃樂器を象牙の撥で奏でてゐる。他のものは、今猶ほ大寺院の聖樂に用ひる十七管の唐笛を鳴らしてゐる。

[やぶちゃん注:「十七管の唐笛」とあるから、これは現在では主に雅楽に用いられる和楽器である笙(しょう)であろう。ウィキの「笙」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『日本には奈良時代ごろに雅楽とともに伝わってきたと考えられている。雅楽で用いられる笙は、その形を翼を立てて休んでいる鳳凰に見立てられ、鳳笙(ほうしょう)とも呼ばれる。匏(ふくべ)と呼ばれる部分の上に十七本の細い竹管を円形に配置し、竹管に空けられた指穴を押さえ、匏の横側に空けられた吹口より息を吸ったり吐いたりして、十七本のうち十五本の竹管の下部に付けられた金属製の簧(した:リード)を振動させて音を出す。音程は簧の固有振動数によって決定し、竹管で共鳴させて発音する。パイプオルガンのリード管と同じ原理である。いくつかの竹管には屏上(びょうじょう)と呼ばれる長方形の穴があり、共鳴管としての管長は全長ではなくこの穴で決まる。そのため見かけの竹管の長さと音程の並びは一致しない。屏上は表の場合と裏の場合があるが、表の場合は装飾が施されている。指穴を押さえていない管で音が出ないのは、共鳴しない位置に指穴が開けられているためである。
ハーモニカと異なり、吸っても吹いても同じ音が出せるので、他の吹奏楽器のような息継ぎが不要であり、同じ音をずっと鳴らし続けることも出来る(呼吸を替える時に瞬間的に音量が低下するのみ)。押さえる穴の組み合わせを変えることで十一種類の合竹(あいたけ)と呼ばれる和音を出すことができる。通常は基本の合竹による奏法が中心であるが、調子、音取、催馬楽、朗詠では一竹(いっちく:単音で旋律を奏すること)や特殊な合竹も用いる。その音色は天から差し込む光を表すといわれている』。『構造上、呼気によって内部が結露しやすく、そのまま演奏し続けると簧に水滴が付いて音高が狂い、やがて音そのものが出なくなる。そのため、火鉢やコンロなどで演奏前や間に楽器を暖めることが必要である』。『現代では雅楽だけでなく、クラシック音楽の作曲家によって管弦楽や室内楽のなかで、あるいは声楽の伴奏楽器として活用されることもある』。『笙よ一オクターブ低い音域が鳴る竽(う)という楽器もある。これは雅楽の伝統では一度断絶したものの、正倉院の宝物等を参考に、戦後になって復元された楽器の一つである。現代において蘇演(復曲)された作品や、新作の現代雅楽、例えば黛敏郎の「昭和天平楽」などで用いられている』。『中国には北京語でション
shēng、広東語で「サン」いう、同じ「笙」の字を書く楽器がある。これは笙より大型で、音域は日本の笙の倍以上あり、素早い動きにも対応している。もともと奈良時代に日本に伝わった時点では、日本の笙もパイプのような吹き口が付属していたが、現在ではそれをはずし、直接胴に口をあてて演奏する形に変わっている』とし、また、ラオス・タイ王国の北東部ではこの笙と同じ原理のケーンと呼ばれる類似楽器があり、『一説では、これが中国の笙の原型であると言われる』ともある。]

 

 晃はこの極樂は餘り下界に似てゐると云った。庭園は極樂の蓮華あるにも拘らず、寺院の庭園のやうであるし、宮殿の靑い屋根は西京のお茶屋を想出させると彼は斷言した。

 が、結局如何なる信仰の天國も、幸福なる經驗の理想的反覆と、延長に外ならぬではない? ――往日の夢を私共のために復活させ、永遠的にしたものではない? 若しこの日本の理想は餘に簡單、あまりに初心(うぶ)であつて、天國の光景を描くには、日本の庭園や寺院やお茶屋に於ける經驗よりも、もつと適はしい物質作活の經驗があると云ふ人があらば、それは、その人が日本の優美な靑空、その柔かな水の色、その晴れた日の穩かな輝き、その何とも云へぬ魅惑的な内地――そこでは些細な物品でも、製作したのでなくて、愛撫の餘、發生せしめたのだといふ美感を與へる――を知らぬからであらう。 

 

Sec.8

   The temple is small, neat, luminous with the sun pouring into its widely opened shoji; and Akira must know the priests well, so affable their greeting is. I make a little offering, and Akira explains the purpose of our visit. Thereupon we are invited into a large bright apartment in a wing of the building, overlooking a lovely garden. Little cushions are placed on the floor for us to sit upon; and a smoking-box is brought in, and a tiny lacquered table about eight inches high. And while one of the priests opens a cupboard, or alcove with doors, to find the kakemono, another brings us tea, and a plate of curious confectionery consisting of various pretty objects made of a paste of sugar and rice flour. One is a perfect model of a chrysanthemum blossom; another is a lotus; others are simply large, thin, crimson lozenges bearing admirable designs—flying birds, wading storks, fish, even miniature landscapes. Akira picks out the chrysanthemum, and insists that I shall eat it; and I begin to demolish the sugary blossom, petal by petal, feeling all the while an acute remorse for spoiling so beautiful a thing.

   Meanwhile four kakemono have been brought forth, unrolled, and suspended from pegs upon the wall; and we rise to examine them.

   They are very, very beautiful kakemono, miracles of drawing and of colour-subdued colour, the colour of the best period of Japanese art; and they are very large, fully five feet long and more than three broad, mounted upon silk.  And these are the legends of them:

   First kakemono: 

   In the upper part of the painting is a scene from the Shaba, the world of men which we are wont to call the Real—a cemetery with trees in blossom, and mourners kneeling before tombs. All under the soft blue light of Japanese day. 

   Underneath is the world of ghosts. Down through the earth-crust souls are descending. Here they are flitting all white through inky darknesses; here farther on, through weird twilight, they are wading the flood of the phantom River of the Three Roads, Sanzu-no-Kawa. And here on the right is waiting for them Sodzu-Baba, the Old Woman of the Three Roads, ghastly and grey, and tall as a nightmare. From some she is taking their garments;—the trees about her are heavily hung with the garments of others gone before.

   Farther down I see fleeing souls overtaken by demons—hideous blood-red demons, with feet like lions, with faces half human, half bovine, the physiognomy of minotaurs in fury. One is rending a soul asunder. Another demon is forcing souls to reincarnate themselves in bodies of horses, of dogs, of swine. And as they are thus reincarnated they flee away into shadow.

   Second kakemono:

   Such a gloom as the diver sees in deep-sea water, a lurid twilight. In the midst a throne, ebon-coloured, and upon it an awful figure seated— Emma Dai-O, Lord of Death and Judge of Souls, unpitying, tremendous. Frightful guardian spirits hover about him—armed goblins. On the left, in the foreground below the throne, stands the wondrous Mirror, Tabarino-Kagami, reflecting the state of souls and all the happenings of the world. A landscape now shadows its surface,—a landscape of cliffs and sand and sea, with ships in the offing. Upon the sand a dead man is lying, slain by a sword slash; the murderer is running away. Before
this mirror a terrified soul stands, in the grasp of a demon, who compels him to look, and to recognise in the murderer's features his own face. To the right of the throne, upon a tall-stemmed flat stand, such as offerings to the gods are placed upon in the temples, a monstrous shape appears, like a double-faced head freshly cut off, and set upright upon the stump of the neck. The two faces are the Witnesses: the face of the Woman (Mirume) sees all that goes on in the Shaba; the other face is the face of a bearded man, the face of Kaguhana, who smells all odours, and by them is aware of all that human beings do. Close to them, upon a reading-stand, a great book is open, the record-book of deeds. And between the Mirror and the Witnesses white shuddering souls await judgment.

   Farther down I see the sufferings of souls already sentenced. One, in lifetime a liar, is having his tongue torn out by a demon armed with heated pincers. Other
souls, flung by scores into fiery carts, are being dragged away to torment. The carts are of iron, but resemble in form certain hand-wagons which one sees every day being pulled and pushed through the streets by bare-limbed Japanese labourers, chanting always the same melancholy alternating chorus, Haidak! hei! haidah hei! But these demon-wagoners—naked, blood-coloured, having the feet of lions and the heads of bulls—move with their flaming wagons at a run, like
jinricksha-men.

   All the souls so far represented are souls of adults.

   Third kakemono:

   A furnace, with souls for fuel, blazing up into darkness. Demons stir the fire with poles of iron. Down through the upper blackness other souls are falling head downward into the flames.

   Below this scene opens a shadowy landscape—a faint-blue and faint-grey world of hills and vales, through which a river serpentines—the Sai- no-Kawara. Thronging the banks of the pale river are ghosts of little children, trying to pile up stones. They are very, very pretty, the child-souls, pretty as real Japanese
children are (it is astonishing how well is child-beauty felt and expressed by the artists of Japan). Each child has one little short white dress.

   In the foreground a horrible devil with an iron club has just dashed down and scattered a pile of stones built by one of the children. The little ghost, seated by the ruin of its work, is crying, with both pretty hands to its eyes. The devil appears to sneer. Other children also are weeping near by. But, lo! Jizo comes, all light and sweetness, with a glory moving behind him like a great full moon; and he holds out his shakujo, his strong and holy staff, and the little ghosts catch it and cling to it, and are drawn into the circle of his protection. And other infants have caught his great sleeves, and one has been lifted to the bosom of the god.

   Below this Sai-no-Kawara scene appears yet another shadow-world, a wilderness of bamboos! Only white-robed shapes of women appear in it. They are weeping; the fingers of all are bleeding. With finger-nails plucked out must they continue through centuries to pick the sharp-edged bamboo-grass.

   Fourth kakemono:

   Floating in glory, Dai-Nichi-Nyorai, Kwannon-Sama, Amida Buddha. Far below them as hell from heaven surges a lake of blood, in which souls float. The shores of this lake are precipices studded with sword-blades thickly set as teeth in the jaws of a shark; and demons are driving naked ghosts up the frightful slopes. But out of the crimson lake something crystalline rises, like a beautiful, clear water-spout; the stem of a flower,—a miraculous lotus, hearing up a soul to the feet of a priest standing above the verge of the abyss. By virtue of his prayer was shaped the lotus which thus lifted up and saved a sufferer.

   Alas! there are no other kakemonos. There were several others: they have been lost!

   No: I am happily mistaken; the priest has found, in some mysterious recess, one more kakemono, a very large one, which he unrolls and suspends beside the
others. A vision of beauty, indeed! but what has this to do with faith or ghosts? In the foreground a garden by the waters of the sea, of some vast blue lake,—a garden like that at Kanagawa, full of exquisite miniature landscape-work: cascades, grottoes, lily-ponds, carved bridges, and trees snowy with blossom, and dainty pavilions out-jutting over the placid azure water. Long, bright, soft bands of clouds swim athwart the background. Beyond and above them rises a fairy magnificence of palatial structures, roof above roof, through an aureate haze like summer vapour: creations aerial, blue, light as dreams. And there are guests in these gardens, lovely beings, Japanese maidens. But they wear aureoles, star-shining: they are spirits! 

   For this is Paradise, the Gokuraku; and all those divine shapes are Bosatsu. And now, looking closer, I perceive beautiful weird things which at first escaped
my notice.

   They are gardening, these charming beings!—they are caressing the lotus-buds, sprinkling their petals with something celestial, helping them to blossom. And
what lotus-buds with colours not of this world. Some have burst open; and in their luminous hearts, in a radiance like that of dawn, tiny naked infants are seated, each with a tiny halo. These are Souls, new Buddhas, hotoke born into bliss. Some are very, very small; others larger; all seem to be growing visibly, for their lovely nurses are feeding them with something ambrosial. I see one which has left its lotus-cradle, being conducted by a celestial Jizo toward the higher splendours far away.

   Above, in the loftiest blue, are floating tennin, angels of the Buddhist heaven, maidens with phoenix wings. One is playing with an ivory plectrum upon some
stringed instrument, just as a dancing-girl plays her samisen; and others are sounding those curious Chinese flutes, composed of seventeen tubes, which are used still in sacred concerts at the great temples.

   Akira says this heaven is too much like earth. The gardens, he declares, are like the gardens of temples, in spite of the celestial lotus- flowers; and in the blue
roofs of the celestial mansions he discovers memories of the tea-houses of the city of Saikyo. [7]

   Well, what after all is the heaven of any faith but ideal reiteration and prolongation of happy experiences remembered—the dream of dead days resurrected for us, and made eternal? And if you think this Japanese ideal too simple, too naive, if you say there are experiences of the material life more worthy of portrayal in a picture of heaven than any memory of days passed in Japanese gardens and temples and tea- houses, it is perhaps because you do not know Japan, the soft, sweet blue of its sky, the tender colour of its waters, the gentle splendour of its sunny days, the exquisite charm of its interiors, where the least object appeals to one's sense of beauty with the air of something not made, but caressed, into existence.

7

 Literally 'Western Capital,'—modern name of Kyoto, ancient residence of the emperors. The name 'Tokyo,' on the other hand, signifies 'Eastern Capital.' 

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (七)

 

       

 

 『地藏のこと、賽ノ河原の子供の靈魂のことを、話してくれ玉へ、晃君』

 『もう澤山は話することが御座いません』と、晃は私のこの面白い佛に對する興味を笑ひ乍ら答へた。「しかし、久保山へ御一緒に參りまして、そこの或る寺にある、賽ノ河原と地藏と靈魂の審判の繪を御目にかけませう』

 そこで私共は二臺の人力車を連ねて、久保山の琳琳寺へ向つた。狹い、種々の色を帶びた日本の町を一哩、それから兩側には庭園が並んで、その刈込んだ生籬の後ろには、柳枝細工の籠のやうに瀟洒な住宅が見える綺麗な郊外を半哩、走つてから、車を捨てて徒多で、迂曲した路を經て綠丘に上り、野や畠を越え、暑い日の下を長いこと歩いてから、殆ど社寺ばかりの或る村に着いた。

[やぶちゃん注:「久保山の琳光寺」現在の横須賀線保土ヶ谷駅から東北に直線で約八百十三メートルの丘陵上にある久保山墓地及びその複数管理寺院の一つである臨済宗建長寺派林光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)のことであろう。「横浜市史」によれば、明治二二(一八八九)年五月に、ここに伽藍を建て、その竣工を俟つて、翌二十三年三月に野毛から移転している。ハーンの来日は同年四月四日である。

「二哩」+「半哩」凡そ三・二二+〇・八=四・八二キロメートル。但し、旧居留地(グランド・ホテル前)から墓地入口までを最短距離を実測してみると、五キロメートル強は確実にあるから、最後、徒歩で二、三百メートルは歩いたものと考えられる。]

 

 境內とは離れて三個の建物が一つの竹垣に圍まれた靈所は、眞言宗に屬する。入口の右に當つて、小さな開放した堂が先づ私共の目についた。それは駐棺所で、一個の日本式棺架があつた。が、殆ど門と相對して、驚くべき諸像を載せた壇があつた。

[やぶちゃん注:「眞言宗」不審。久保山墓地の南西外に真言宗大聖院があるが、これは昭和二八(一九五三)年に野毛から移転したものだから違う。後に廃寺となったか、或いはハーンの聴き違いかも知れない。]

 忽ち注意を惹いたのは、多くの小像の上に聳ゆる、滿面朱色の怖ろしい像――洞穴の如き巨眼を有つ惡鬼であつた。廣く開いた口は怒つて物を言つてるやうで、激しく眉を蹙めてゐる。赤色の長髯が、赤色の胸に垂れてゐる。頭に被つた異樣の帽は、黑と金色で、三葉の寄異な裂片がある。左片には月の形、右片に日の形をつけ、中央の片は眞黑である。が、その下の深く金緣をとつた黑紐に、王といふ意を示す神祕的の文字が輝いてゐる。また、この帽紐の下端の左右兩角から、金塗りの笏の形のものが二つ突出してゐる。この王は片手に更に大きな笏を持つてゐる。それから晃が說明した。

 『これは冥界の主、靈魂の判官、死者の王なる閣魔王です。怖しげな顏を日本では「閻魔のやうな顏」と申します』

    註 梵語の閻摩王(ラマラージヤ)。
    しかし、印度思想は日木の佛敎によ
    つて、全然變化してゐる。

[やぶちゃん注:ウィキの「閻魔」によれば、サンスクリット語及びパーリ語の「ヤマ」の音訳であり、「ヤマラージャ」(「ラージャ」は「王」の意味)とも言う。音訳は「閻魔羅闍(えんまらじゃ)」、意訳は「閻魔大王」、略して「閻羅王(えんらおう)」或いは単に「閻(えん)」とも呼ぶ。但し、おどろおどろしい響きや目視印象の強い「閻魔」とは、縛・雙世・雙王・静息・遮止・平等などと和訳されるとあり、「縛」は罪人を捕縛するの意、「雙世」は彼が在世中に常に苦楽二様の報いを受けた意、「雙王」は兄と妹一対で二人並び立った王であったの意、また「平等」は罪人を平等に裁く、との意からの和訳とある。ここではハーンの理解を慮ったものか、少なくともここまで、閻魔王が仏教やヒンドゥー教などに於ける地獄や冥界の主宰王として死者の生前の罪を裁く神であるものの、日本仏教では速やかに習合されてしまって、こともあろうにハーンの偏愛する地蔵菩薩の化身とされているという、驚天動地の本地垂迹的伝承に就いては、晃は一切話していない様子で、私はすこぶる面白いと感じている。]

 

 その右には、白い地藏樣が多瓣の紅蓮の上に立つてゐた。

 左には、老婆の像があつた。幽界を流れる三途川の堤畔で、亡者の衣を奪ひ取る、凄い三途の老婆である。衣は靑白く、髮も皮膚も白く、顏は異樣に皺がよつて、細い銳い眼は險しい。像は頗る古く、彩色が處々剝げて、蒼然たる癩病人の態を呈してゐる。

[やぶちゃん注:ここで語られるのは「奪衣婆(だつえば)」である。『三途川(葬頭河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる』。また、『俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあ』り、『江戸時代末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の百日咳に効き目があるといわれた。東京都世田谷区の宗円寺』、『新宿区の正受院が奪衣婆を祀る寺として知られる。正受院の奪衣婆尊は、咳が治ると綿が奉納され、像に綿がかぶせられたことから「綿のおばあさん」「綿のおばば」などとも呼ばれた』ともある。

「癩病人」今や差別用語であるから、ハンセン病患者と読み替えられたい。]

 また海の女神の辨天と觀音樣の美しく彩色を施した像が、珍らしい排置の小規模な山水頂上に坐つてゐる。この風景が納めてある堂の前面に沿つて、强い金網を張つて、不注意な指觸りを拒いである。辨天は八本の腕を有つて、二本は合掌祈願、他は高く揚げて種種の物――刀劍、車輪、弓矢、鎖鑰[やぶちゃん注:「さやく」。錠と鍵。]、魔力の寳玉――を持つてゐる。彼女の玉座の下、山の傾斜面には長い衣をつけた十人の侍女が、祈願の態度で立つてゐる。更に下方には白の大蛇が胴體を露はし、一つの岩孔から尾を垂れ、他の岩孔から頭を出してゐる。山麓には辛棒强い牛が臥てゐる。觀音は千手觀音で、彼女の無數の慈悲の手から、種々の贈物を捧げてゐる。

 が、これを私共は見ようとて來たのではない。地獄極樂の繪が、すぐ近くの禪宗の寺で私共を待つてゐる。そこへ私共は足を向けた。

[やぶちゃん注:先の林光寺ととっておく。]

 途中で私の案內者は、次の話をした。

 『人が死ぬると、死體を洗ひ、髮を剃り、巡禮姿の白衣を着せるのです。それから、頭のまはりへ三衣袋を掛け、三厘の錢を入れます。この錢は死體と共に葬るのです。

 『その譯は、亡者はすべて、子供の外、三途の川で三厘を拂はねばなりません。亡靈がその川へ達すると、葬頭婆が待つてゐます。この女は夫の天達婆と共に、その川の土手の邊に住んでゐまして、もし三厘を貰はないと、亡者の着物を剝いで木にかけるのです』

    註 葬式及びそれに關聯せる信仰は、
    日本の各所で餘程異る。東國のと西南
    諸國のとは異つてゐる。棺中へ貴重品
    ――婦人には金屬製の鏡とか、武士に
    は刀劍など――を納める古風は、今で
    は殆ど廢れた。しかし、棺へ錢を入れ
    る習慣は、依然として行はれる。出雲
    では金額が六厘で、六道錢(ろくだう
    がね)と呼んでゐる。

 

Sec. 7

   'Oh, Akira! you must tell me something more about Jizo, and the ghosts of the children in the Sai-no-Kawara.' 'I cannot tell you much more,' answers Akira, smiling at my interest in this charming divinity; 'but if you will come with me now to Kuboyama, I will show you, in one of the temples there, pictures of the Sai-no-Kawara and of Jizo, and the Judgment of Souls.'

   So we take our way in two jinricksha to the Temple Rinko-ji, on Kuboyama. We roll swiftly through a mile of many-coloured narrow Japanese streets; then through a half-mile of pretty suburban ways, lined with gardens, behind whose clipped hedges are homes light and dainty as cages of wicker-work; and then, leaving our vehicles, we ascend green hills on foot by winding paths, and traverse a region of fields and farms. After a long walk in the hot sun we reach a village almost wholly composed of shrines and temples.

   The outlying sacred place—three buildings in one enclosure of bamboo fences—belongs to the Shingon sect. A small open shrine, to the left of the entrance, first attracts us. It is a dead-house: a Japanese bier is there. But almost opposite the doorway is an altar covered with startling images.

   What immediately rivets the attention is a terrible figure, all vermilion red, towering above many smaller images—a goblin shape with immense cavernous eyes. His mouth is widely opened as if speaking in wrath, and his brows frown terribly. A long red beard descends upon his red breast. And on his head is a strangely shaped crown, a crown of black and gold, having three singular lobes: the left lobe bearing an image of the moon; the right, an image of the sun; the central lobe is all black. But below it, upon the deep gold-rimmed black band, flames the mystic character signifying KING. Also, from the same crown-band protrude at descending angles, to left and right, two gilded sceptre- shaped objects. In one hand the King holds an object similar of form, but larger his shaku or regal wand. And Akira explains.

   This is Emma-O, Lord of Shadows, Judge of Souls, King of the Dead.' [5]

   Of any man having a terrible countenance the Japanese are wont to say,

   'His face is the face of Emma.'

   At his right hand white Jizo-Sama stands upon a many-petalled rosy lotus.

   At his left is the image of an aged woman—weird Sodzu-Baba, she who takes the garments of the dead away by the banks of the River of the Three Roads, which flows through the phantom-world. Pale blue her robe is; her hair and skin are white; her face is strangely wrinkled; her small, keen eyes are hard. The statue is very old, and the paint is scaling from it in places, so as to lend it a ghastly leprous aspect.

   There are also images of the Sea-goddess Benten and of Kwannon-Sama, seated on summits of mountains forming the upper part of miniature landscapes made of some unfamiliar composition, and beautifully coloured; the whole being protected from careless fingering by strong wire nettings stretched across the front of the little shrines containing the panorama. Benten has eight arms: two of her hands are joined in prayer; the others, extended above her, hold different objects -a sword, a wheel, a bow, an arrow, a key, and a magical gem. Below her, standing on the slopes of her mountain throne, are her ten robed attendants, all in the attitude of prayer; still farther down appears the body of a great white serpent, with its tail hanging from one orifice in the rocks, and its head emerging from another. At the very bottom of the hill lies a patient cow. Kwannon appears as Senjiu- Kwannon, offering gifts to men with all the multitude of her arms of mercy.

   But this is not what we came to see. The pictures of heaven and hell await us in the Zen-Shu temple close by, whither we turn our steps.

   On the way my guide tells me this:

   'When one dies the body is washed and shaven, and attired in white, in the garments of a pilgrim. And a wallet (sanyabukkero), like the wallet of a Buddhist pilgrim, is hung about the neck of the dead; and in this wallet are placed three rin. [6] And these coin are buried with the dead.'

   'For all who die must, except children, pay three rin at the Sanzu-no- Kawa, "The River of the Three Roads." When souls have reached that river, they find there the Old Woman of the Three Roads, Sodzu-Baba, waiting for them: she lives on the banks of that river, with her husband, Ten Datsu-Ba. And if the Old Woman is not paid the sum of three rin, she takes away the clothes of the dead, and hangs them upon the trees.'

 

5
   In Sanscrit, 'Yama-Raja.' But the Indian conception has been totally transformed by Japanese Buddhism.

 

6

   Funeral customs, as well as the beliefs connected with them, vary considerably in different parts of Japan. Those of the eastern provinces differ from those of the western and southern. The old practice of placing articles of value in the coffin—such as the metal mirror formerly buried with a woman, or the sword buried with a man of the Samurai caste—has become almost obsolete. But the custom of putting money in the coffin still prevails: in Izumo the amount is always six rin, and these are called Rokudo-kane, or 'The Money for the Six Roads.'

2015/08/23

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十一章 瀬戸内海(全)

 

 第二十一章 瀬戸内海

 

 我々は八月十日、京都を後にして瀬戸内海へ向った。途中大阪で二日を送ったが、ここで我々は、陶器と絵画を探っているフェノロサ、有賀両氏と落ち合った。河上でお祭り騒ぎが行われつつあったので、ドクタアは大きな舟をやとい、舞妓、食物、花火その他を積み込んだ。我々はグリノウ氏も招いた。それは大層楽しい一夜で、河は陽気な光景を呈した。遊山船は美しく建造され、底は広くて楽に坐れ、完全に乾いている。そしてゆっくりと前後に行きかう何百という愉快な集団、三味線と琴の音、歌い声と笑い声、無数の色あざやかな提灯(ちょうちん)、それ等は容易に記憶から消えさらぬ場面をつくり出していた。米国の都邑の殆どすべてに、河か入江か池か湖水かがある。何故米国人は、同様な祭日を楽しむことが出来ないのであろうか。だが、水上に於るこのような集合は、行儀のいい国でのみ可能なことではある。

[やぶちゃん注:以前にも少し記したが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースは陶器の窯や名匠らとの邂逅、さらに現実的要請としての陶磁器蒐集のため、『京都には訪ねるべき場所が山ほどあった。しかし、それを後回しにした一行は十日に京都を出て、大阪で二日を過ごしたのち、小さな汽船で瀬戸内海を広島へ向う。広島でも陶器あさりをしたモースは、ここでフェノロサおよび有賀と別れ、八月十吾にビゲローとともに和船で岩国に向け出発。ここから先はかつてのモースの教え子、田原栄が通訳の役目を果たした。田原はのち東京専門学校(現早稲田大学)で理科を教えた人である』とある。

「河上でお祭り騒ぎが行われつつあった」祭り嫌いの私には不詳。現行の八月十日・十一日に行われている「法善寺横丁まつり」のことか? 識者の御教授を乞う。因みに、大阪でのモースの具体的な動向は良く知られていないらしい。]

 

 我々は朝の五時、小さな汽船で、安芸国の広島に向って、京都を立った。我々は汽船の一方の舷側に、かなり大きな一部屋を、我々だけで占領した。この船は日本人の体格に合わせて建造されたので、船室や通路が極めて低く、我々は動き廻る度ごとに、間断なく頭をぶつけた。航海中の大部分を我我は甲板で、美しい景色に感心した。午後六時広島の沖合に着き、我々を待っていた小舟に乗りうつって、一時間ばかり漕いで行ったというよりも、舟夫たちはその殆ど全部を、浅い水に棹さして、河の入口まで舟をはこばせた。それは幅の広い、浅い河で、我々は堂々と積み上げた橋の下を、いくつかぬけて、ゆっくりと進んで行った。両岸には、多く黒塗りの土蔵をのせたしっかりした石垣が並んでいた。まだ早いのだが、あまり人影は見えず、灯も僅かで、河上の交通は無い。この外観は我々に、非常な圧迫的な、憂欝な感を与えた。大阪の商業的活動と、この陰気な場所との対照は、極端なものであった。これは人口十万人の都会である。而もその人々は、虎列刺(コレラ)が猖獗を極めているからでもあろうが、みんな死んで了ったかの如くである。

[やぶちゃん注:「我々は朝の五時、小さな汽船で、安芸国の広島に向って、京都を立った」の「京都」には底本では直下に石川氏による『〔?〕』という意味が齟齬してよく意味が解らないことを意味する割注が入る。前段の私の注を参照。但し、ここはモースがメモ類や日記などを参考にしながら、かなり自由に書いている感じがあり、その際、単純に時間と場所に齟齬が生じたものと私は考えている。

「人口十万人の都会」広島市公式サイト内の記載に明治二一(一八八八年)四月の市制町村制公布があり、翌二二(一八八九)年四月一日に広島は全国で最初の市の一つとして市制を施行したとあり、その時の面積は約二十七平方キロメートル・戸数は二万三千八百二十四戸・人口は八万三千三百八十七人であったとある。広島県公式サイトでは、この明治二三(一八九〇)年十二月三十一日時点での広島県の実質総人口に近い推定値(各県の入出寄留者の差数を各県別の入出寄留者数の比で各県に按分修正して算出し、それによって統計的補正を加えたという現住推計人口を言う「現住人口 (乙種)」数値)は百三十一万八千三百人で全国四十二位であったともある。これから考えると、モースの明治十五年段階での人口十万人というのはどう見ても大ドンブリとしか思われない。]

 

 我々は旅館を見出すのにとまどった。あすこがいいと勧められて来た旅館は、虎列刺で主人を失ったばかりなのである。で我々は飢えた胃袋と疲れた身体とを待ちあぐみながら、黒色の建物の長い行列と、背の高い凄味を帯びた橋と、いたる所を支配する死の如き沈黙とに、極度に抑圧されて、一時間ばかり舟中に坐っていた。最後に我々を泊めてくれる旅館が見つかったので、河を下り、対岸に渡って、その旅館の裏手ともいうべき所へ上陸した。荷物を持ち出し、石段を上って、長い、暗い、狭い小路を歩いて行くと、我々はいまだかつて経験しなかった程小じんまりした、最も清潔な旅館に着いた。フェノロサと有賀とは、西洋料理店があることを聞き、我々を残して彼等がよりよき食物であろうと考えるものを食いに行ったが、ドクタアと私とは、運を天にまかせて日本食を取ることにし、実に上等の晩飯にありついた。

 

 翌朝私は早くから、古い陶器店をあさりに出かけた。旅館の日本人の一人が私の探求に興味を持ち、親切にも私を、私が求める品を持っていそうな商人のすべてへ、案内してくれた。彼はまた商人達に向って、彼等が集め得るものを持って、私に見せるために旅館へ来いといった。その結果、その日一日中、よい物、悪い物、どっちつかずの物を持った商人の洪水が、我々の部屋へ流れ込んだ。前夜の、所謂西洋料理に呆れ果てたフェノロサは、広島と、これから行こうとする宮島及び岩国に対する興味をすべて失って了い、有賀と一緒に大阪と京都とへ向けて引き返した。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『大阪で二日を過ごしたのち、小さな汽船で瀬戸内海を広島へ向う。広島でも陶器あさりをしたモースは、ここでフェノロサおよび有賀と別れ、八月十日にビゲローとともに和船で岩国に向け出発。ここから先はかつてのモースの教え子、田原栄が通訳の役目を果たした。田原はのち東京専門学校(現早稲田大学)で理科を教えた人である』とし、『モースは今回日本に来てまもなく、元岩国藩主吉川経建(きっかわつねたけ)』(「吉川経健」が正しく、「第十九章 一八八二年の日本 石人形」や前章の「第二十章 陸路京都へ 箱根峠越え」に登場する。それらの私の注を参照されたい)『の東京の邸宅に招かれたことがあった。その吉川の世話で、岩国の多田窯』(多田焼は岩国藩の藩窯として栄えた焼き物で元禄一三(一七〇〇)年に当時の藩主(年代からは第五代領主吉川広逵(ひろみち)である)が京都から陶工を招いて多田の住人に陶技を伝授させたのが始まりとされる。白土に青磁釉がかかって表面に細い罅(貫入)が入るのを特徴とする。寛政年間に途絶えてしまったが、第二次世界大戦後の昭和四七(一九七二)年に陶芸家田村雲溪の手によって多田焼の火が甦り、昭和五六(一九八一)年には美川町河山に登り窯を移転、現在が二代雲溪が窯を継承している)『の跡を尋ね、また多田の陶器そのほかを集めるために岩国を訪問したのである。モースはこのとき、その地にあったマニファクチュア的な紡績場も見学した。これは、維新後の藩士の生活を救うために吉川経建などが援助して建設したもので、ほかに製紙場と印刷工場も同じ目的でつくられたという。その紡績工場には、三〇名の男性と一〇〇人以上の女性がいたが、男性はみな元藩士で、袴(はかま)を着けて働いていたとある。女性はその子女であろうか。機械はすべて木製で、屈強な元武士二人が踏み車を踏んで機械に動力を与えていたなど、当時の模様をよく伝える』。『モースとビゲローは岩国から宮島をまわって広島に帰り、広島から汽船で神戸に戻った。モースが宿の部屋に所持金と懐中時計を残したまま遍間留守にしたが、金と時計に他人が手を触れたあともなかったという話を前に記したが、それはこの広島の宿でのことである』。『神戸に戻ったのは八月二十二日頃、その神戸で三日間過ごしたのちモースは大阪へ行き、ついで和歌山へ向った』とある。]

 

 八月十五日、ドクタア・ビゲロウと私とは、清潔な新造日本船にのって、瀬戸内海の旅に出た。旅館を退去する前に、ふと私は日本の戎克(ジャンク)なるものが、およそ世界中の船舶の中で、最も不安定なものであり、若し我々が海へ落ちるとしたら、私の懐中時計は駄目になって了うということを考えた。それに、岩国では日本人達のお客様になることになっているのだから、そう沢山金を持って行く必要も無い。そこで亭主に、私が帰る迄時計と金とをあずかってくれぬかと聞いたら、彼は快く承知した。召使いが一人、蓋の無い、洗い塗盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品を入れる物だといった。で、それ等を彼女が私に向って差出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いた儘で、出て行った。しばらくの間、私は、いう迄もないが彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。然し下女はかえって来ない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと質ねた。彼女は、ここに置いてもいいのですと答える。私は主人を呼んだ。彼もまた、ここに置いても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も、他の品物も持っていないのであるといった。未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂(かんぬき)も見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。

[やぶちゃん注:「八十ドル」は変動相場であるが、明治時代の相場の一つの指標とされる一ドル=二万円換算なら、実に百六十万円に相当する。それに金時計となれば、マワシ方によれば恐らく二百万円ぐらいにはなりそうな感じがする(!)。その場に私が居なくてよかった。私ならゼッタイ盗んでる。]

 

 我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。米国や英国の旅館の戸口にはってある、印刷した警告や訓警の注意書を思い出し、それをこの経験と比較する人は、いやでも日本人が生得正直であることを認めざるを待ない。而も私はこのような実例を、沢山挙げることが出来る。日本人が我国へ来て、柄杓が泉水飲場に鎖で取りつけられ、寒暖計が壁にねじでとめられ、靴拭いが階段に固着してあり、あらゆる旅館の内部では石鹸やタオルを盗むことを阻止する方法が講じてあるのを見たら、定めし面白がることであろう。

 

 閑話休題、我々の戎克には舟夫四人に男の子一人が乗組み、別に雑用をするために旅館から小僧が一人來た。我々は運よく、以前私が大学で教えた田原氏に働いて貰うことが出来た。彼は通訳として、我我と行を共にしたのである。時々風が落ちて、舟夫達は長い、不細工な櫓(ろ)で漕いだ。世界中で最も絵画的な、葉しい水路を、日本の戎克で航行するという経験は、まさに特異なものであった。船室の屋根の上に座を占めたドクタアが、如何にもうれしそうに楽々としているのを見て、私も実によろこばしかった。マニラ葉巻の一箱を横に、積み上げた薦(こも)によりかかった彼は、その位置を終日占領して、居眠りをするか、実に実しい変化に富んだ景色に感心するかであった。宮島を通過する時、田原氏は我々にこの島に関する多くの興味ある事実を物語った。我々は島の岸に大きな神社が、廊下の下に海水をたたえているのを見た。また海中からは、巨大な鳥居が、その底部を半ば潮にかくして立っていた。これ等はすべて、はじめは海岸を去る地点の島上に建てられたのである。この効果は素晴しい。島が、砂浜を除いては海中から垂直に聳え、相当な高さの山が甚だ嶮しく屹立しているからである。人は比較的新しい時代に於て、海岸線のこの低下を引き起した、途方もない震撼が、如何なるものであったかを考えることが出来る。沿岸いたる所に、人は隆起と低下のかかる証例を見受ける。

 

 晩方になると風が出た。舟はその風に吹かれて、やがて小さな漁村に着き、我々はそこで十時に上陸した。我々の主人役は、我々を出むかえる役の人をそこに終日いさせたので、彼はいく度もお辞儀して我々に挨拶し、一人ずつの為に車夫を二人つけた人力車を用意していた。荷物のことですこし暇取った後、我々はそこから数マイルはなれた、美しい谷間にある岩国へ向った。それはまことに気持のよい夜であった。すべての物が目新しく見えた。棕櫚(しゅろ)やサバル椰子(やし)は茂り、亜熱帯性の植物は香を放ち、車夫は狂人のように走り且つ叫んだ。一日中戎克の内に閉じこめられた後なので、実に気持よかった。それは忘れられぬ経験であった。

[やぶちゃん注:「数マイル」一マイルは凡そ一・六キロメートルであるから、九・六~十キロメートル強か。

「サバル椰子」狭義には単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科タリポットヤシ亜科タリポットヤシ(サバル)連サバル亜連サバル属サバル椰子 Sabal Adans を指すが、本当に本種であるかどうかはやや疑問な気がする。]

 

 我々が岩国の村へ入ると、人々はまだ起きていた。彼等が町に並び、そして私がそれ迄に見たことのないようなやり方で、我々をジロジロ見たところから察すると、彼等は我々を待ち受けていたものらしい。最後に外国人が来てから、七年になるという。群衆から念入りに凝視されると、感情の奇妙な混合を覚える。ある点で、これには誠に面喰う。あらゆる動作が監視されつつあることを知ると共に、吾人は我我の動作のある物が、凝視者にとって如何に馬鹿げているか、或は玄妙不可思議であるかに違いないと感じる。吾人は無関心を装うが、而も凝視されることによって、威厳と重要さとが我身に加ったことを自認する。我等は特に彼等の注意心を刺戟するような真似をする。一例として、我国の現代の婦人と同様に、日本人はポケットなるものを知らぬのだが、何かさがしてポケットを裏返しにしたり、又、如何にもうるさそうな身振をして、笑わせたり、時に自分自身が、愚にもつかぬ真似をしていることに気がつくが、而もそれは、冷静で自然であることを示すべく、努力している結果なのである。

 

 吉川氏の使者は我々を公でない旅館に案内した。ここは昔は、大名家の賓客に限って招かれ、そして世話された家なのであるが、今や我々のために開かれ、吉川家の宝物の中から美しい衝立やかけ物がはこばれて、我々が占めるべき部屋にかざられた。美味な夕餐が出た後、午前一時、我々は床についた。障子の間のすき聞から覗くと、大きな一軒の小屋がけに薄暗い光が満ち、芝居が行われつつあった。その他にも小屋が数軒見え、呼売商人が叫んでいたことから、私は何等の市か祭礼かがあることを知った。それ等の後と上とは、完全な闇であった。

[やぶちゃん注:「何等の市か祭礼かがあることを知った」不詳。次段の景観から見て錦帯橋の鵜飼か?]

 

 翌朝、障子を押し開いた我々の日に接した景色は、この上もなく美しいものであった。目の前は広い河床で、その底に丸い石や砂利は完全に姿を現し、その向うには絵画的な山が聳え、右にはあの有名な、筆や言葉では形容出来ぬ、彎曲した桁構(けたがまえ)の橋がある。朝飯が終ると、吉川家に雇れている各種の役人が、敬意を表しに来たが、その一人の三須氏は、吉川氏がここに設立した原始的な木綿工場の支配人で、古い木版画に見るような顔をした、昔の忠義な家来の完全な典型である。また吉川家の遠縁にあたる吉川氏は、万般の事務を見る人だが、ニコニコした気持のいい、最も愛想のよい顔をしていた。その他名前を覚え切れぬ多数の人が来たが、皆我々の気安さに甚大の注意を払ってくれた。彼等はいう迄もなく日本服を着ていたが、それは完全なものであった。事実、この訪問期間を通じて、我々は外国風なものは一切見なかった。若し彼等が帯刀していたら、我我は封建時代に於ると同様の日本を見たことになったのである。動作、習慣、礼譲……刀を除いてはすべて封建日本であった。そしてそれは田園詩の趣を持っていた。

 

 朝我々は町をあちらこちら、骨董屋を見て歩いた。正午正餐が終ると我々は屋根舟で、河上数マイルのところにある多田の窯の旧跡を見に連れて行かれた。これは百八十年前に出来たのだが、久しく廃れている。一人の男が舳に立って竿を使うと、別の一人が前方の水の中に入り、長い繩で舟を引く。そして我我は柔かい筵によっかかって、寒天菓子や砂糖菓子や生菓子やお茶の御馳走になるのであった。我々は早瀬をのぼり、何ともいえぬ程美しい景色の中を、暗い森林の驚く可き反影が細かく揺れる穏かな水面を、静に横切った。最後に、最も絵画的な場所で上陸すると、そこにはすでに数名の人が待っていて、我々に此上もなく丁寧なお辞儀を、何度もくり返した。すこし歩くと、窯の跡に出たが、今やまったく荒廃し、竹の密生で覆れている。ここの最後の陶工の一人であった老人が、我々に多田陶器とその製作順序とに就て話をし、しばらくあたりを見た後我々は一軒の家へ行き、そこで昼飯が出された。どうも二時間に一度位ずつ、正餐か昼飯かを御馳走になっているような気がする。この場所には多田、味名、亀甲等の標本があり、そのある物は我々に贈られ、他のものは機会があって私が買った。

[やぶちゃん注:「百八十年前」モースの訪れたのが明治一五(一八八二)年、伝承では多田窯創成は元禄一三(一七〇〇)年であるから百八十七年前となり、まず合致する。

「味名」焼き物或いは窯の名らしいが場所も形状も不詳。識者の御教授を乞う。

「亀甲」亀甲焼。現在の大阪市十三(じゅうそう)の焼き物で「吉向焼」とも呼ぶ。文久元(一八六一)年頃に吉向治兵衛が大阪の十三に開いた窯で、彼の通称であった亀次に因んで「亀甲焼」といったが、大阪寺社奉行水野から「吉向」を拝領したという。陶技・意匠に優れており、近世屈指の名工に数えられて後に江戸に移って文久元(一八六一)年に没した。五代目の時に二家に分かれて現行の東大阪市日下町の十三軒と、杖方市の松月軒がそれを継承するという(個人ブログ「娘への伝言」の全国の焼物一覧のこちらの記載に拠った)。]

 

 八時頃舟へ向った。屋根の辺には派手な色の提灯がさがり、我々は岩国へ向って速く、気持よく舟を走らせた。侍者達は我々の到着を待ち受けており、すぐ我々をある建物へ案内したが、そこでドクタアと私とは風致に富む小さな茶の部屋で行われた茶の湯の会に参加し、美味な粉茶を飲んだ。この儀式的なことが終ると我々は隣室で正餐の饗応を受けた。それが済むと、今度は地方劇場の一つへ行ったが、観客は劇その物よりも我々の方を余程面白い見世物と思ったらしく、老若男女を問わず、私がそれ迄日本で経験したことが無い仕方で我々を凝視し、そして我々の周囲に集った。最後に我々は、その一日の経験で疲れ切って寝床に入った。この日の経験はすべて新奇で気持よく、もてなし振り、礼譲、やさしい動作等で、我々に古い日本の生々とした概念を与えた。

 

 翌朝我々は、またしても忙しい日を送る可く、夙く起きた。十時、三須氏が、前に書いた木綿工場へ我々を案内するためにやって来た。将軍家がくつがえされた一八六八年の革命後、吉川公は東京に居を定めた。この地方の政府はミカドの復興に伴ういろいろな事件で混乱に陥り、家臣の非常な大多数が自力で生活しなければならなくなり、この大名の以前の隷属者達のために何等かの職業を見つける必要が起った。吉川公の家来であるところの紳士が数名、仲間同志で会社を組織し、そして紡績工場を建てた。この計画は吉川公も奨励し、多額な金をこの事業に投資した。今日では広い建物いくつかに、木綿布を製造するすべての機械が据つけてある。これ等は粗末な、原始的な、木造の機械ではあるが、而も皆、我国の紡績工場にある大きな機械に似ている。

 

 百人以上の女と三十人の男とが雇れているが、男が全部袴をはき、サムライ階級に属することを示している。糸以外にこの工場は、一年に十万ヤードに近い木綿布を産出する。二人の強そうなサムライが、踏み車を辛抱強く踏んで、機械のある部分に動力を与えているのは、面白かった。また外にある部屋には、ある機械を動かす装置があり、これもまたサムライが廻転していたが、彼等は、我々が覗き込むと席を下りて丁寧にお辞儀をした。事実、建物の一つの二階にある長い部屋を歩いて行くと、事務員が一人残らず――事務員は多数いた――我々にお辞儀をした。部屋のつきあたり迄行くと、そこには床の上に大きな絨氈(じゅうたん)が敷いてあり、我々にお茶が出た。そこで事務所に雇れている事務員その他四、五人ずつやって来て、我々が膝をついた位置にいたので、膝をついてお辞儀をした。我々が工場の庭に入った時から、工場を見廻っていた最中、人々は皆三須氏と我々とにお辞儀をしたが、三須氏が職工に対して如何にも丁寧で親切であるのは興味深く思われた。彼はドクタアの強力な郭大鏡を借りて職工達に、織物は郭大するとどんなに見えるかを示した。

[やぶちゃん注:「十万ヤード」九十一・四四キロメートル相当。]

 

 事務所の入口には、事務員、職工、従者等の名前がかけてあった。彼等は互助会を組織し、病人が山来た時に救うために少額の賦課を払う。我々をこの上もなく驚かしたのは、埃や油がまるで無いことであった。どの娘も清潔に、身ぎれいに見え、誰でも皆愉快そうで、この人達よりも幸福で清潔な人達は、私は見たことがない。ラスキンがこれを見たら、第七天国にいるような気がするだろう。

[やぶちゃん注:「ラスキン」十九世紀のイギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家であったジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年)のことであろう。ラスキンには建築に対する基本的な考え方を示す「建築の七灯」という定言があるが、その七は「服従の灯」で――ここでモースが皮肉たっぷりに言っているのがそれを暗示する揶揄であるかどうかは別として、それは――建物とは英国国家やその文化及び信仰を体現するものでなくてはならない――というものであった。]

 

 このような興味ある経験の後、我々は大きな部屋へ招かれた。そこには職工全部が、クエーカー教徒の集会みたいに、娘達は部屋の一方側に、男達はその反対側に席を占めていたが、驚いたことには、私に田原氏を通訳として、一場の講演をしろというのである。私は蟻を主題に選んだ。黒板は無かったが、彼等は皆非常に興味を覚えたらしく見えた。私の以前の学生の山県氏もそこにおり、六角敷(むずかし)いところへ来ると手伝ってくれた。

[やぶちゃん注:「六角敷(むずかし)い」はママ。]

M665

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 それが終ると我々は、この建物の三階の、一種の展望台になっているところへ登った。ここからは川の谷と附近の素晴しい景色が見られる。あたりに椅子を置いた食卓から、気分を爽やかにするような正餐が供され、数人のハキハキした娘が、奇麗な着物を着てお給仕をしてくれた。また三人の美少年も同様に給仕したが、その一人は、前日私につききり、持っている扇子で屢々私を扇いだ。その日すでに二度食事をしたにかかわらず、正餐は誠に美味であった。まったく日本料理が何度でも食えることは、驚くばかりである。私は田原氏から、どこか遠くの方にいる有名な料理番が特に呼ばれ、そしてこの地方で出来る最上の材料が集められたのだと聞いた。食卓と皿との外見は、実に芸術的であった。殊にある皿は、その中央から樹齢四十年という美しい矮生の松が生え、また刺身を入れた皿は、その中央に最も優雅な木の葉の細工を持つ、長さ五フィートの竹の筏(いかだ)の上にのっていた。それ等は両方とも、漆塗の台で支えてあった。図665はそれ等を非常に乱暴に写生したものである。これは我々の送別宴で、この芸術的な、そして気持のいい事柄が行われた場所は、紡績工場の三階なのである!

[やぶちゃん注:「五フィート」約一・五メートル。]

 

 綿工場の外に製紙工場と、それに関係した印刷工場とがある。ここでは書物、冊子、その他印刷に関係のある仕事がすべて行われる。

 

 四時、我々は工場を退去し、数名の紳士に伴われて宿舎に帰った。そこには人力車が待っていたので、最後のさよならを告げた。白い木綿の大きな四角い包が我々の各々に贈られた。ドクタアは、岩国の有名な刀鍛冶がつくった、木の箱に入った刀を二振(ふり)手に入れ、私は数個の古い岩国陶器を貰った。我々は世話をしてくれた二十二人の人々に、僅かな贈物をすることが出来た。旅館の勘定をしてくれというと、それは既に支払ってあるとのことで、更に海岸までの人力車も、支払済みであった。事実、我々は文字通り、これ等のもてなし振りのいい人々の掌中にあったのである。その後、我々は吉川氏が、我々をむかえる準備のために、人を一人、東京から差しつかわしたことを知った。最後に我々は、何百というお辞儀に取りまかれて出発した。そして日本民族、殊に吉川公と、政治的の変化があったにもかかわらず、吉川公に昔と同じ忠誠をつくす彼の忠義な家来達に対する、圧倒的な感謝の念と愛情とを胸に抱いて、速に主要街路を走りぬけて田舎に出た我々を、好奇心の強い沢山の顔が、微笑を以て見送るのであった。

 

 気持よく人力車を走らせながら、牧場や稲田から静かに狭霧(さぎり)が立ちのぼり、暗色の葺屋根が白い霧に影絵のように浮び、その向うには黒い山脈が聳えるという、驚く可き空気的の効果の中で、我々は我々の顕著な経験を、精神的に消化した。海岸の小村に着くと、驚く可き庭園の中にある小さな茶店へ連れて行かれ、ここで茶菓の饗応を受け、最後に戎克に乗りうつるや、いくつかの箱に入った菓子箱が贈られた。

 

 次に我々はそこから十二マイル離れた、日本で最も絵画的で且つ美しい景色の一とされている宮島の村へ寄った。風がまるで無いので、舟夫達は十二マイルにわたって櫓を押した。香わしい南方的の空気の中で、甲板に坐って八月の流星を見ながら、我々が楽しんだ特異的な経験を思い浮べることは、まことに愉快であった。ある、特に美し流星は、私がドクタアの注意をそれに引いてからも、まだあきらかに姿を見せていた。

[やぶちゃん注:「十二マイル」凡そ十九・三メートル。]

 

 真夜中、宮島に着いた我々は、古めかしく静かな町々を通って、深い渓間にある旅館へ行き、間も無く床について眠た。翌朝(八月十七日)障子をあけた我々は、気持のよい驚きを感じた。目の前が、涼しくそして爽快な、美しくも野生味を帯びた谷なのである。鹿が自然の森林から出て来て、優しい目つきで我々を見た。その一匹は、我々の部屋の前のかこいの中にまで入って来て、西瓜の皮を私の手から食った。私は、これ等の鹿は一定の場所に閉じ込められ、餌馴されているのだろうと考えたが、数時間後町を歩いていると、そこにも彼等はいて、そして私は、彼等が幽閉されているのでもなければ、公園にいる標本でもなくて、山から下りて来たのであることを知った。換言すれば、彼等は一度も不親切に取扱われたことの無い、野生の鹿なのである。

M666

666

 

 有名な神社には、いろいろな画家の手になる絵で装飾した長い廻廊がある。絵の、ある物は非常に古く、その細部が部分的に時代による消滅をしているが、我々はそれ等を二時間もかかって調べた。古い竹根の形をした珍物や、六才の男の子が描いた興味の深い竹の絵や、目につく鹿の彫刻等もあり、その彫刻の一つには彫刻家が使用した鑿(のみ)がぶら下がっていた。神社は古さ七百年程、廊下の一つの近くに立っている石灯籠も七百年を経たものである。図666はそれである。谿谷に近い町には、家々に水を供給する、奇妙な構造の導水橋がある。我々の旅舎の近くにあるものの構造は、非常に原始的である。石を大きく四角に頼み上げたものの上に、これも大きな木造の水槽があり、その側面に開いている穴から出る水流が竹の導水管に流れ込むこと、図667に示す如くである。これらの導水管は、村の各家に達する地下の竹管に連っている。また別の谿谷では、竹の樋が水を遠距離にわたって導く。ある場所には、668に示すように、箱に入れた竹の水濾しが使用してあった。これ等各種の装置に依て、この上もなく清冽な山の清水の配給を受ける。

[やぶちゃん注:「七百年前」厳島神社の社伝によれば、同社は推古天皇元(ユリウス暦五百九十三)年に当地方の有力豪族であった佐伯鞍職(さえきのくらもと)が社殿造営の神託を受けて勅許を得、御笠浜に社殿を創建したことに始まるとされているから、この明治二三(一八九〇)年からだと千二百九十七年前、「七百年前」なら(一一九〇)年、文治六・建久元年となり、っこは旧主平家滅亡後も源氏を始めとして時の権力者の崇敬を受けているから、境内内建築物としては別におかしな感じはしない。]

M667

667

M668

668

 

 門を自動的に閉じる簡単な装置を図669で示す。上方の横木から錘(おもり)が下っていて、その重さによって門は常に閉じてあるが、人が入る時には、錘が数回、門にぶつかって音を立て、かくて門鈴の役もつとめる。村の主要街を自由にぶらつき廻る鹿が、ともすれば庭園内に入り込みやすいので、この装置をして彼等の侵入を防止する。

M669

669

 

 宮島は非常に神聖な場所とされているので、その落つきと平穏さとは、筆舌につくされぬ程である。この島にあっては、動物を殺すことが許されなかった。数年前までは、人間とてもここでは死ぬことが出来なかったそうである。以前は、人が死期に近づくと、可哀想にも小舟にのせられて、墓地のある本土へと連れて行かれた。若し、山を登っている人が偶然、血を流す程の怪我をしたとすると、血のこぼれた場所の地面は、かきとって、海中に投げ込まねばならなかった。これは召使いや木彫工や、店番や、その他どこにでもいるような村民が構成する村である。如何なる神秘に支配されて、彼等は行儀よく暮すのか? 何故子供達は、常にかくも善良なのか? 彼等は女性化されているのか? 否、彼等は兵士としては、世界に誇る可きものになる。

 

 私は小さな舟にのって、広島へ帰る可く本土へ渡った。ドクタアは、もう一晩宮島で泊ることにした。沿岸を航行する人は、石で出来た巨大な壁が数マイルにわたって連り、海上からは防波堤のように見えるものがあるのに気がつく。広島への帰途、その上を人力車で走るにいたって、我々は初めてこれ等の構造物が持つ遠大な性質、換言すれば意味が判った。百年も前に建てられたこれ等の壁は、海底を、農業上の目的に開墾するためのものなので、かくて回収した土地の広さは、驚く程である。沿岸は截(き)り立っていて山が高く、山の尾根が海から岬角(みさき)のようにつき出て、その間々に広い入江をなしている。壁はこれ等の岬角の先端から先端へと築かれ、かこい込んだ地域には土を入れて、今や豊饒な耕作地となっている。壁の上には広い路があり、そこを人力車で行くことは愉快であった。八時に広島へ着いた私は、いう迄もないが、先ず時計と金とを求めて私の部屋へ行ったが、それ等は前にもいったように、そのままでそこにあった。

 

 風邪を引いた上に、腹具合まで悪くなったので、翌日は終日床匠についていたが、骨董屋達が古い陶器を見せにやって来て、私は私の蒐集を大いに増大させた。通弁なしでも結構やって行ける。私は、日本中一人で旅行することも、躊躇しない気でいる。翌日ドクタアが到着して、群り来る商人相手に一日を送った。出かけるばかりの時になって我々は、商人達が大きな舟を仕立て、五マイル向うの汽船まで我我を送り度いといっていることを知った。舟にのって見て、これはとばかり驚いた。それは見事な遊山船で、芸者、立派な昼飯、その他この航行を愉快にするものがすべて積み込んである。このようにして彼等は、我々に対する感謝の念を示そうとしたのである。別の舟には我々の数名の日本人の友人が乗って送りに来たが、その中には数年前、私が大阪に近いドルメンを調べた時知り合いになった天草氏もいた。出発するすぐ前に、田原氏の知人が敬意を表しに来たので、私は私が提供し得る唯一の品なるブランデーを、すこし飲みませんかとすすめた。すると彼は、普通の分量よりも遙かに沢山注いだので、私は彼に、それが非常に強く、そんなに飲んだら参って了うと警告したが、彼は「ダイ ジョーブ、ヨロシイ」といった。彼が如何に早くこの酒の影響を受けたかは、興味も深く、また滑稽であった。我々が乗船した時には、彼はすでに怪奇的ともいうべき程度に酔っぱらって了い、最後に、河岸に上陸させねばならぬ程泥酔したが、そこで彼は、我々が見えなくなる迄、笑ったり、歌ったり鳴吐(どな)ったりした。

[やぶちゃん注:「五マイル」凡そ八キロメートル。

「天草氏」第十七章 南方の旅 八尾の高安古墳を調査するに出る『大阪専門学校の』『天草両教諭』である。]

 

 我々は間もなく汽船に着き、気持のいい主人役の人々に別れを告げてから、明かに最も矮小な日本人の為につくられた、小さくて低い代物に乗りうつった。その結果、我々はすこしでも動き廻れば背中がつかえるか、頭をぶつけるかで、ドクタアはこの背骨折りの経験中、絶えず第三の誡命を破った。

[やぶちゃん注:「第三の誡命」底本では直下に石川氏による『〔「汝の神エホバの名を、妄(みだり)に口にあぐべからず」〕』という割注が入る。原文は“and the Doctor repeatedly broke the third commandment during his back-breaking experiences.”。この訳文と原文からお分かり戴けると思うが、日本人が「伊弉諾(いさなき)」とか「いさなみ」とか「やまとたける」、或いは「釈迦」と「阿弥陀」平気で口にして何とも思わないが、これは世界宗教的に見れば極めて異様奇体なとんでもないことなのであって、通常のキリスト教徒は濫りに神の名である「ヤハゥエ」「ヤーベ」「エホバ」という語を発音したり、書いたりはしないのである。トンデモ本の王者にして明らかに智慧の足りない発言しか出来ないボロクソ超常研究家飛鳥昭雄の著作に、古くから人気のある似非科学の、太陽を挟んで地球の真反対位置に(だから絶対見えないし観測出来ないというのだが)地球と全く同様の惑星が存在し、その惑星、公転周期や軌道は地球と位置が違う以外は地球と全く同じであってヒトと同等或いはそれ以上の知性や科学力を有して、同様の生物群が棲息している、しかも宇宙を致命的に汚損し続けている地球を監視している、なんどという「反地球」をぶち上げ、その惑星は以前から世界中のその真相を知る人々によって太陽系第十二番惑星反地球「ヤハウェ」と呼ばれて広く知られている、とこの狂人は一九七〇年代以降よりずっと主張し続けているのであるが、この阿呆な本の題名を当時中学生であった私は見た瞬間、「こんな名前、欧米のキリスト教徒がつけるはずがないよ」と幼い乍らに鼻でせせら笑ったのを鮮やかに思い出すのである。]

 

 我々は夜の十一時に出帆し、その翌日と翌夜、時時止りながら航行を続け、朝神戸に着いた。この航海ぐらい惨めなものは無かった。たいてい雨が降り続き、我々は日本人の一家族と共に小さな室に閉じこめられていたが、隣の部屋には日本人が十八人入っていた。彼等は皆礼儀正しく、静かだった。彼等が他の国の住民であったなら、我々はもっと苦しんだ――これ以上の苦痛があり得るものとすれば――ことだろうと思う。寝台も椰寝床も無いので、我々は床にねむり、日本食は言語同断であり、私は広島に於る病気から回復していなかった。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『神戸に戻ったのは八月二十二日頃、その神戸で三日間過ごしたのちモースは大阪へ行き、ついで和歌山へ向った』とある。明治一五(一八九〇)年八月二十二日は金曜日である。この文面から察するに、モースが最も恐れていたのは、コレラ(当時の死亡率は相対的にはかなり高いものと認識されていた)への罹患で、そうした意味でも過度にナーバスになっていたのではあるまいかと察せられる。]

 

 神戸に着くと、我々は何かを食う為に、英国流の旅館へかけつけた。二週間以上も、我々は日本食ばかりで生きていたのである。その多くは最も上等であったが、それが如何によくっても、朝飯は我々を懐郷病(ホームシック)にする。で我々は、殆ど狂気に近い喜悦を以て、英国流の食事をたのしんだ。

 

 ここ一週間、私は物を書くことと、食うことと以外に、大した仕事はしなかった。

 

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (六)

 

       

 

 して、私共は墓地の端の大きな森の庭へきた。

 森の彼方には、何といふ愛撫するやうな、やさしい日光、何といふ靈的に美はしい姿! 熱帶の空は、低く懸つてゐて、どこの屋根から手を伸ばしても、その生温い液體のやうな靑色の中へ指が浸るばかりに、いつも私に思はれたが、こゝの空は、もつと柔かで、色が淡く、一層大きな遊星の天かと思はる〻ほど、廣漠渺茫たる穹窿に亘つてゐる。それから、雲さへ名雲でなくて、靄然として、たゞ雲の夢である。雲の幽靈、透明な怪物、幻影!

 突然私の前に一人の子供が立つてゐるのに、私は氣がついた。極、若い娘が不思議さうに、私の顏を見上げてゐる 彼女の輕い跫音は、鳥の聲と木葉の囁きのために聞えないほどであつた。服裝こそぼろぼろの日本服であるが、眼眸とゆるやかな金髮は、日本風のみではない。他の人種――恐らくは私と同じ人種――の幽靈が、彼女の美しい碧眼から覗いてゐる。この子供に取つて、こ〻は奇異な遊び場に相違ない。この周圍一切の事物が、その小さな魂に取つて、いかにも不思議と見えないか知らん。が、否、彼女には私がたゞ不思議に見えるだけだ。この子供は前生とその父の世界を忘れてゐる。

 この異國の港に於て、美しくて、貧しい、混血兒! 御身のためには、こ〻の墓中の人人と共にゐた方が更によからう! この輝いだ柔かな靑空の下にゐるよりも、暗黑界が更によからう! そこでは、柔和な地藏が御身を守護り、大袖の下に匿して、禍を避けしめ、一緖に遊んでも  吳れるだらう。それから御身のために今私に慈善を乞ひに來た、夫に捨てられたる御身の母親は、忍耐强い日本人の微笑をた〻へ乍ら、御身の珍らしい美しさを無言で指示しつ〻、御身の平安のための、地藏の膝の上に小石を積み上げるだらう。

[やぶちゃん注:ここでハーンが辿りついたのは、現在の「港の見える丘公園」附近ではあるまいか? 事実上の一般人の入ることの出来る公園としての開園は、ウィキの「港の見える丘公園」によれば、戦後のアメリカ軍による接取解除後の昭和三七(一九六二)年十月二十五日以降のことであるとある。但し、この箇所には要出典要請が掛けられてあるので、無批判には信じ難い。ただ、私はその二年後の鎌倉市立玉繩小学校二年生の時(昭和三十九年)の春か秋の遠足に於いてここを訪れた明確な記憶があるから、その時には既に公園化されていたことは確かではある。また、ルートそのままを素直に信ずるならば、現在の外人墓地の南端、元町公園の最上部附近ともとれなくはないが、あそこでは、当時でも、ここでハーンが感じたような開けたロケーションは、今一つ、望めないように私には思われるが、ただこれは、現行の立て込んだ私の感ずる状況印象によるものでしかなく、事実的な確信と言うわけではない。実際にここであっても可笑しくはないであろう。しかし、あそこでは今は無論、当時も遠景にさえ「港」は見えかったはずで、それだけで本シーンのロケ地からは心情的に敢えて外したくなる暗鬱な場所である。これは個人的にあの場所が思い出したくない私的経験のある一瞬を自動的に引き出してしまい、実はある種の強い不快感と嫌悪感を絶対的に引き起こさせるからでもあることを自白しておく)。地元の郷土史研究家の方の御指導を切に乞うものである。ともかくも地蔵信仰に感銘したハーンが、ここでまさにこの混血の、美しい、故にこそ救われねばならないと思う、「ぼろぼろの」和服を着た少女に出逢ったということは、霊の国日本という不可思議な力を彼が強く感じたと考えることに難くない。短いが、一読忘れ難い、とても印象的なシークエンスであると言える。

「穹窿」老婆心乍ら、「きゆうりゆう(きゅうりゅう)」と読み、原義は「弓なりを成す」で、そこから大空の意となった。原文は“arches”であるが、そもそもこの「穹窿」自体が西洋の特に教会等の半球状天井や丸天井、弓形を基本形として構成構造されたワインや食料品の長期地下貯蔵室などをも含む曲面天井の総称として特に“vault”(ボールト)とも呼ばれ、まさにキリスト教に於ける(但し、ハーンは大のキリスト教嫌いであることに注意されたい。私は実は――ハーンにとっては如何にも無抵抗主義や人生の有り難味をこれ見よがしに見せつけているような架刑のイエス像や、ぷくぷくと豊満にして処女を称する気持ちの悪いマリア――だいたいからして、性行為なしに子が出来るというのは、今も昔も、永遠に絶対失笑物の大馬鹿話である――因みに私の知る限りでは、双子の胎児が体内残っていた奇形の二重体症による擬似出産様の事例、及び、二人の幼い妹に対して、変態の兄が、睡眠中に自慰行為を毎夜仕掛け、その精液が両妹の子宮内に美事に侵入し、目出度く二人とも妊娠してしまったという、おぞましい異常性欲事件ケース以外には全く聴いたことがない。婚約者ナザレのヨセフの種でなきゃ、マリアの不倫相手としか考えられないのが、普通である。タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」を最初に見た二十の頃――その頃の私は未だ女性を知らなかったが――ロシアを蹂躙したタタール人が、手引きしたツアーリの弟から処女マリアの懐胎の話を聴くや、目を剝いて嘲笑したシーンで、私は心中、快哉を叫び、事実、映画館で大声を出して笑ったことを鮮やかに思い出す)像なんぞよりも、遙かに奇体なガーゴイルの方が、怖れつつも、親密な存在だったのではないか? と勝手に信じている人間である)天空としての「アーチ」状の「ドーム」をも指すから、英訳の和訳としては、頗る、的を射ているものと私は思う。因みに偏愛する平井呈一氏の訳では『無窮の弓形』とされるが、私のような日本人には如何にもこなれ切れていないキリスト教に媚びた半可通な日本語のように思われ、珍しく好きになれない。

「混血兒」彼らが如何に恐るべき仕打ちを受けたかは、横浜の桜木町直近の大岡川に架かる……ほら! 君も普通に渡ったことのある弁天橋だよ!……実は明治四(一八七一)年に架けられた初代の木造の橋が直きに朽ち果ててしまってね……二年後の明治六(一八七三)年に二代目の「弁天橋」が再架橋(木造アーチ橋。現在の物は四代目)されたんだがねぇ……私のブログ記事のアクセス数の特異点である「明治6年横浜弁天橋の人柱をお読みぃな……当時の異人相手のラシャメンが産み落とし、不良として逮捕され西戸部監獄に収監されていた混血少年四人が縛られた、そのままに……当時の竣工間近であった弁天橋の工事現場まで大岡川を小舟で送られたんだ……そうして……橋脚(推定)に四人全員が……秘かに……橋の安全祈願として――「人柱」として生き埋め(推定)にされた――んである……。知ってたかい? この話?……

「輝いだ」はママ。] 

 

Sec. 6

   And we come to the end of the cemetery, to the verge of the great grove.

   Beyond the trees, what caressing sun, what spiritual loveliness in the tender day! A tropic sky always seemed to me to hang so low that one could almost bathe one's fingers in its lukewarm liquid blue by reaching upward from any dwelling-roof. But this sky, softer, fainter, arches so vastly as to suggest the heaven of a larger planet. And the very clouds are not clouds, but only dreams of clouds, so filmy they are; ghosts of clouds, diaphanous spectres, illusions!

   All at once I become aware of a child standing before me, a very young girl who looks up wonderingly at my face; so light her approach that the joy of the birds and whispering of the leaves quite drowned the soft sound of her feet. Her ragged garb is Japanese; but her gaze, her loose fair hair, are not of Nippon only; the ghost of another race—perhaps my own-watches me through her flower-blue eyes. A strange playground surely is this for thee, my child; I wonder if all
these shapes about thee do not seem very weird, very strange, to that little soul of thine. But no; 'tis only I who seem strange to thee; thou hast forgotten the Other Birth, and thy father's world.

   Half-caste and poor and pretty, in this foreign port! Better thou wert with the dead about thee, child! better than the splendour of this soft blue light the unknown darkness for thee. There the gentle Jizo would care for thee, and hide thee in his great sleeves, and keep all evil from thee, and play shadowy play with thee; and this thy forsaken mother, who now comes to ask an alms for thy sake, dumbly pointing to thy strange beauty with her patient Japanese smile, would put
little stones upon the knees of the dear god that thou mightest find rest.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (五)

 

       

 

 蔭のさした阪道を下りると、三尺位の高さの六個の小さな像が、一枚の長い臺石の上に、一列に立つてゐるのに、私は出逢つた。第一の像は佛敎の抹香函、第二は蓮華、第三は巡禮の杖を持ち、第四は數珠を爪繰り、第五は合掌祈禱の姿、第六は頂端に六個の輪の附いた錫杖を片手に持ち、他の片手には諸願成就の力ある神祕的な、如意寳珠を持つてゐる。が、六つの顏はすべて同じい。各たゞ姿勢と標章の性質が異るだけだ。して、皆同じ樣な微笑を洩らしてゐる。いづれの像の頭にも白木綿の嚢が下がつてゐて、皆小石が一杯入つてゐる。して、像の足許にも、膝の上にも、肩の上にも、小石が高く積み上げてある。石造の後光の上にまで、細い小石が落ちないやうに載せてある。すべて是等のやさしい子供らしい顏は、古風で、不思議で、しかし、何とも云へなく人を感動させる。

[やぶちゃん注:「三尺位の高さ」原文は“about three feet high”。「三尺」は九十センチメートルで、三フィートは九十一センチメートルほど。] 

 

 これは普通六地藏と呼ばれ、か〻る群像は幾多日本の墓地に見られる。これは日本の通俗信仰に於て、最も美はしく優しい像、子供の靈魂の世話をして、心配な場所で慰め、惡鬼から救つて吳れる、あの殊勝な佛を現したものである。『しかし、あの像のほとりに積み上げた小石は、どうした譯です?』と私は問うた。

[やぶちゃん注:「六地藏」墓地の六地蔵は極めて一般的であり、当時は未だ海龍山本泉寺増徳院の墓地であったそこに六地蔵があって全くおかしくない。ただ、実在したか、今もするか、それがまたハーンの見たものと同一像であるかどうかを私自身が容易に検証出来ずにいるだけのことである。何方か、出来れば検証して戴きたいというのが、身動きの取れない私の正直な本音なのである。因みにウィキの「地蔵」には(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『日本では、地蔵菩薩の像を六体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は六種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを六種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道・餓鬼道、畜生道・修羅道・人道・天道の順に檀陀(だんだ)地蔵・宝珠地蔵・宝印地蔵・持地地蔵・除蓋障(じょがいしょう)地蔵・日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵・金剛宝地蔵・金剛悲地蔵・金剛幢地蔵・放光王地蔵・預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。像容は合掌のほか、蓮華・錫杖・香炉・幢・数珠・宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに六体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である』とある。因みに私は鎌倉六地蔵の側の高浜虚子の娘が嫁に行った先の隣りで生まれた。――私を守っている地蔵はきっと、あの鎌倉時代の処刑場の跡に建てられた六地蔵に違いない――と勝手に思っている人間でもあることを告白しておく。] 

 

 『それは、或人の說に、子供の靈魂は、死後に子供が行く場所の賽ノ河原で、懺悔の苦業として、小さな石塔を建てねばならぬからです。鬼が來て、子供が塔を築くや否や倒すのです。して、鬼は子供を嚇したり、苦しめたりしますが、子供達が地藏の方へ走つて行くと、地藏は大きな袖の下へ子供を隱して、慰めてやつて、鬼を去らせます。だから、誰でも心から祈つて、地藏の膝や足の上ヘ一つの石を置く每に、賽ノ河原のある子供の靈魂の爲めに、長い苦行の助けをしてやる譯になります』

 地藏の笑の如く優しい笑を帶びて、右の話を私に語つた佛敎の靑年學生は、また云つた。

 『すべて子供は、死ぬると、賽ノ河原に行かねばなりません。そこで地藏と一緖に遊ぶのです。賽ノ河原は私共の下、土地の下にあります。』

   註一 地藏及び他の神佛の前へ石を積む
   習慣の眞正の起原には、解かつてゐない。
   それは有名なる法華經の一節に基く。

     若於曠野中   積土成佛廟

     乃至童子戱   聚沙爲佛塔

      ――妙法蓮華卷第一、方便品第二

   註二 地藏はもと梵語のクシテイ・ガル
   パ(地藏)だと東洋學者は云つてゐる。
   チエムバリン氏の說の如く、地藏と耶蘇
   (ジーザス)の音が類似せるは、『全く
   の偶合』に過ぎない。しかし日本では、
   地藏は全然變化してしまつて、正しく日
   本の諸佛中での最も日本的なものと云ひ
   得
る。「賽ノ河原口吟之傳(クチズサミ
   デン)」と
いふ佛敎の珍らしい古書によ
   ると、賽
ノ河原傳說は悉く日本に起原を
   發し、西
曆九百四十六年に崩御された朱
   雀天皇の
御宇、天慶六年に空也上人が初
   めて書い
たものでゐる。空也上人が京都
   に近い西院といふ村の賽ノ川〔現今の芹
   川だと云
はれる〕の河原で、一夜を過し
   たとき、
冥界に於ける子供の狀態につき
   御告げを
受けたのだといふ。〔その書に
   は、傳說が
斯くの如くに載つてゐる。が、
   チエムバ
リン敎授は現今書かるゝ賽ノ河
   原といふ
文字は、『靈魂の河原』を意味
   することを說
いてゐる。また現代の日本
   の信仰では、
その河を冥途に置いてゐる)
   この神話の
眞正の歷史はどうであらうと
   も。これは正しく曰本のものであゐ。し
   て、地藏を
死んだ子供の愛護者、遊び相
   手とする觀念は日本のものである。
   通俗的形式の地藏は、まだ他にいろいろ
   ある。最も普通のは姙歸が祈願をかける
   子安地藏である。日本の道路に地藏の像
   の見られないのは殆ど稀だ。地藏はまた
   巡禮者の守護者だから。

[やぶちゃん注:「註一」は以下の原文注(注番号は「2」)と照応させると分かるが、「法華経」経文の一部が省略されてしまっている。これは厳密には「法華経」巻第一の「方便品第二」の「第二過去佛章」の「人天開會」にある(切れのいいところで、前後をカットした)、

   *

諸佛滅度已

供養舍利者

起萬億種塔

金銀及頗梨

車渠與瑪瑙

枚瑰瑠璃珠

淸淨廣嚴飾

莊校於諸塔

或有起石廟

栴檀及沈水

木櫁幷餘材

甎瓦泥土等

若於曠野中

積土成佛廟

乃至童子戲

聚沙爲佛塔

如是諸人等

皆已成佛道

若人爲佛故

建立諸形像

刻彫成衆相

皆已成佛道

或以七寳成

鍮石赤白銅

白鑞及鉛錫

鐵木及與泥

或以膠漆布

嚴飾作佛像

如是諸人等

皆已成佛道

綵晝作佛像

百福莊嚴相

自作若使人

皆已成佛道

乃至童子戲

若草木及筆

或以指爪甲

而晝作佛像

如是諸人等

漸漸積功德

具足大悲心

皆已成佛道

但化諸菩薩

度脫無量衆

 

 諸佛滅度し已(を)はりて

 舍利を供養する者

 萬億種の塔を起てて

 金銀及び頗黎(はり)

 車渠(しやこ)と碼碯(めなう)

 枚瑰(まいくわい)・瑠璃珠(るりしゆ)とをもつて

 淸淨に廣く嚴飾し

 諸(もろも)の塔を莊校(しやうかう)し

 或ひは石廟を起て

 栴檀(せんだん)及び沈水(ぢんすゐ)

 木樒(もくみつ)並びに餘の材

 甎瓦(せんぐわ)・泥土等をもつてするあり

 若(も)しは曠野の中に於いて

 土を積んで佛廟(ぶつみやう)を成し

 乃至(ないし)童子の戲れに

 沙を聚めて佛塔を爲せる

 是くのごとき諸人(しよにん)等(ら)

 皆已に佛道を成(じやう)じき

 刻彫して衆相(しゆさう)を成せる

 皆已に佛道を成じき

 或は七寶を以て成(じやう)し

 鍮石(ちゆうしやく)赤白銅(しやくびやく)

 白(びやくらう)及び鉛錫(えんじやく)

 鐵木(てつもく)及-與(および)び泥(でい)

 或いは膠(きよう)漆布(しつぷ)を以つて

 嚴飾(ごんじき)して佛像を作れる

 是(かく)のごとき諸人等(しよにんら)

 皆已に佛道を成じき

 綵畫(さいえ)して佛像の

 百福(ひやつぷく)莊嚴(しやうごん)の相(さう)を作(な)すこと

 自(みづか)らも作し若しは人をしてもせる

 皆已に佛道を成(じやう)じき

 乃至(ないし)童子の戲(たはむれ)に

 若しは草木(さうもく)及び筆(ふで)

 或いは指の爪-甲(つめ)を以つて

 畫(ゑが)いて佛像を作(な)せる

 是(かく)の如き諸人等

 漸漸(ぜんぜん)に功德(くどく)を積み

 大悲心を具足して

 皆已に佛道を成じて

 但(ただ)諸(もろもろ)の菩薩を化(け)し

 無量の衆を度脫(どだつ)しき

   *

の下線部分(やぶちゃん)が原注には引かれているのである。なお、引用原文と訓読は作家隆慶一郎氏公式サイト「隆慶一郎わーるど」の「文献資料室」内の「法華経」を参考にしつつ、私の流儀に基づいて恣意的に正字化し、改訓読している(脱線も甚だしいので、もう二度と言わないが、例えば、私は漢文の訓読では本邦の附属語である助動詞と助詞は必ず平仮名でなくてはならないと信ずる人間である――そうした絶対的規則性を示さなければ、高等学校で漢文は絶対に教えられない、受験生の安心するような絶対的セオリーは、いっかな構築出来ないからである――ので、「如き」「也」「哉」などがそのままに威厳あり気に鎮座しているなどというのは到底ゼッタイに許し難い訓読文だからなのである)。因みに「頗黎」は、赤や白などの鮮やかな異色彩の水晶を指し、時に仏教の「七宝」の一つとされる宝玉である。「莊校」は恐らく「しやうきやう(しょうきょう)」と読み、「莊」は謂う所の「厳かに仏像・仏塔・寺院建築などを荘厳(しょうごん)」する、「厳かに飾り立てる」の意であり、また「校」の方も全く同じく「正しく厳かに飾る」の意であるから、風化毀損したりした石塔・供養塔――というよりも原義本来の「スツーパ」――を綺麗に浄化し崩れ擦れ隠れた梵字彫琢などを再刻したり復元したりすることを言っているものと思われる(全くの勝手な推理であるが)。他に注したい語句もないではないが、五月蠅くなって、何時までも終わらなくなるので、ここは読者各自の自己研究として丸投げすることにする。悪しからず。私の如きアンチ・アカデミストに頼り切っては、あなたの智は何時までも借り物でしかない、愚昧なものである。心せられるがよい。

「賽ノ河原」「三途川の河原」を別に「賽の河原(さいのかわら)」とも呼ぶ。「賽の河原」と呼ばれる場所も、後述の恐山のものをはじめとして日本各地に実在する。ィキの「三途川」によれば、『賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない』。『賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)』(「塞」とも書く)『の神が習合したものであるというのが通説である』。『中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった』とある。

「賽ノ河原口吟之傳」私は見たことも聴いたこともなく、標題も如何にも民間布教のための頗る怪しいものであるが、個人ブログ「takusankanの周易占いノート」の「さいの河原の地蔵尊 『賽ノ河原口吟之伝』」に注とともに示されてある。御興味のある向きはどうぞ。私は個人的にこうした面妖な宗教書には興味がない。そもそもが地蔵信仰や地獄信仰は、中国で書かれた偽経に基づく、極めて道教色の濃い現世利益道徳経みたような噴飯物としか考えていないからである。

「芹川」不詳。現在の京都府京都市伏見区下鳥羽西芹川町を流れる川か? 但し、本文にある西院からは南南東に七・五キロメートルも離れており、位置が合わない。識者の御教授を乞う。ウィキの「三途川」には『実在の川』として(それがモデルというのではなく、あくまで同名称の川の意ではあるが)、現在の群馬県甘楽郡甘楽町を流れる利根川水系白倉川支流の小河川(さんずがわ)千葉県長生郡長南町を流れる三途川宮城県刈田郡蔵王町を流れる三途川(さんずのかわ)青森県恐山を流れる三途川を挙げ、最後のそれに就いては、『青森県むつ市を流れる正津川』(しょうづがわ)『の上流部における別名。青森県むつ市の霊場恐山は、宇曽利山湖を取り囲む一帯のことであるが、この宇曽利山湖から流出する正津川を別名で三途川と呼ぶ。河川名の「正津川」も、仏教概念における三途川の呼称のひとつである。宇曽利山湖の周辺には賽の河原と呼ばれる場所もあり、積み石がされている』とあるが、「芹川」という名は見当たらない。識者の御教授を乞うが、全くの直感乍ら、原文は確かに“Serikawa”ではあるものの、「芹」は実は賽の河原のモデルの一つとされる「加茂川」の「茂」といやに似て居るのが気にかかるのである。

「西曆九百四十六年に崩御された朱雀天皇」第六十一代天皇朱雀天皇(延長元年七月二十四日(ユリウス暦九二三年九月七日)~天暦六年九月六日(ユリウス暦九五二年八月七日)の在位は満七歳の延長八年十一月二十二日(西暦九三〇年十二月十四日)から満二十二の天慶九年四月十三日(西暦九四六年五月十六日)は参照したウィキの「朱雀天皇」によれば、『治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多く、また皇子女に恵まれなかったこともあってか、朱雀天皇は早々と同母弟成明親王(後の村上天皇)に譲位し、仁和寺に入った。しかしその後、後悔して復位の』祈禱をしたともいうとあって、天暦六(九五二)年には出家し、その年の内に満二十九歳の若さで崩御している。

「天慶六年」ユリウス暦九四二年。朱雀帝は数えで二十の時である。

「空也上人」(延喜三(ユリウス暦九〇三)年~天禄三(九七二)年)は天台宗空也派の祖。皇族の出とする説もあるが出自不詳。常に市中に立って庶民に念仏を勧め、貴賤を問わず幅広い帰依者を得、「阿弥陀の聖」「市の聖」と尊称された。諸国を巡礼しつつ道路や架橋などの社会事業にも尽くした。京都に疫病が流行した際には西光寺(後の六波羅蜜寺)を建立して平癒を祈った。光勝。時宗の一遍は空也を「わが先達」として敬慕した。比叡山を中心に行われた所謂、「山の念仏」に対して一般庶民の中に自らを潜ませて念仏を広め、後に口称念仏の祖或いは民間に於ける浄土教の先駆者と評価されている(他にも踊念仏や等の開祖とも仰がれるものの空也自身がこうした後の踊念仏を修したという事実は資料にはない。ここはウィキの「空也」に拠った)。朱雀帝の在位と合わせると、ここでハーンが言っていることが事実とすれば、帝となった延長八(九三〇)年十一月二十二日(空也は数え二十八歳)から天慶九(九四六)年四月十三日(空也四十四歳)の間ということになる。但し、同ウィキに延喜二二(九二二年)頃(数え二十)に『尾張国分寺にて出家』、「空也」と名乗ってより『在俗の修行者として諸国を廻り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得』た後、天慶元(九三八)年には『京都で念仏を勧め』、十年後の天暦二(九四八)年には『比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある』とし、『貴族や民衆からの寄付を募って観音像や四天王像を造立』天暦四(九五〇)年より金字大般若経書写を始め、天暦五(九五一)年には『十一面観音像ほか諸像を造立(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)』、応和三(九六三)年、『鴨川の河原にて、大々的に金字大般若経供養会を修する。この際に三善道統の起草した「為空也上人供養金字大般若経願文」が伝わる。これらを通して藤原実頼・藤原師氏ら貴族との関係も深』まったとする。天禄三(九七二年)に『東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において』数え七十歳で示寂とある(下線やぶちゃん)。この下線部の箇所こそが私はここに出る賽の河原空也伝承のルーツではあるまいかと私は思ったのだが、朱雀帝は既に没していて齟齬する。となると、今一つの可能性はそれより以前の、京で大々的に空也が念仏行を勧めた天慶元(九三八)年、朱雀帝在位八年目の数えで十六の時のことではなかったか?(記載がその五年後であるのは京での人脈が未だ形成されていなかったからではないか?) ただの憶測ではある。大方の識者の御批判を俟つ。] 

 

 『して、地藏の衣には、長い袖がついてゐますから、子供達は遊ぶとき袖をひつぱります。それから、地藏の前へ小石を積んで面白がります。あの御覽の通り、像の邊に積んであるのは、子供達のために人々が置くのですが、大抵死んだ子供の母親が、地藏に祈願する際積むのです。尤も大人は死んでから、賽ノ河原へ行きません』

   註 結婚しなかつた人は例外である。

[やぶちゃん注:ウィキの「三途川」に、十世紀中頃の『日本の俗信として、「女は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る」というものがあった』とされ、また、「蜻蛉日記」の作者として知られる藤原道綱母には、三途の川を女が渡る時には初めての男が背負うて渡る、といった意味の歌を詠んでいることなどから、『こうしたことからも、平安時代の頃より三途の川信仰が多様に日本でアレンジされていたことが分かる』とある。無論、これは変成男子(但し、これは釈迦も実際に差別的にはっきりと説いているのであるが)と同じく、仏教の致命的女性差別の悪信仰に他ならない。信仰がなかったりいい加減であったりする若い男女――特に女でその特異的使命としての子を産むという衆生(人)としての必要最低限の絶対実行義務履行していないと考えられた処女――は地獄にさえ落ちることが出来ず、この賽の河原で訳も分からず石を積む子らの亡者とともに居続けねばならないという、とんでもない話(こちらは恐らくは変成男子説に基づく偽経的説話と私は考えている)なのである。因みに言っておくと、お馴染みの死後の「地獄」に相当するものついても釈迦は具体的には述べておらず(但し、方便としての譬えではあるようにも聴くが)、彼はただ――そこは永遠に続く闇の世界があるのみ――とだけ述べているのであって、その実相の中に、現世的因果応報の復元たる刀剣・針・血膿・火焔・冷凍・灼熱や臼挽き溶銅吞ませ、といったような奇体失笑の責め苦あれこれなどはこれ、一切口にしていないはずである。] 

 

 六地藏を去つてから、靑年學生は墓の間を案內し乍ら、他のさまざまな奇異な彫刻の像を示してくれた。

 中には妙に可憐なのもある。何れも皆面白い。數個の極めて美しいのもあつた。

 大抵光背を持つてゐる、古い基督敎藝術に於ける聖徒の像に酷似した合掌の狀を現し、跪いてゐるのが澤山ある。あるものは、蓮華を持つて、冥想の夢に入つてゐる。大蛇のどぐろをまいた上に安坐せるもの、冠冕のやうなものを被つて、手が六本、一對は合掌祈願、他の手を擴げて、諸種の物をさし出し、平伏せる惡鬼の上に立てるものなどがある。今一つは、淺い浮彫の像で、無數の腕を持つてゐて、第一對の手は掌を合はせ、兩肩の背後から影が差した如くに、數へ切れぬほどの腕が諸方に朦朧と伸び出でて、諸種の物を示してゐる。これは祈願に對する答と、また恐くは全能の慈悲を象徴したのである。これは慈悲の女神、人の魂を救はんが爲めに涅槃の安樂を捨てた温和なる觀音の、諸形式の一つであつて、よく日本の綺麗な少女の姿に畫いてある。こ〻のは千手觀音となつて現れてゐるのだ。すぐ側の大きな扁板に、その鑿削を加へた面の上部には、蓮座冥想の佛陀が浮彫になつて、下部には、兩手で目を塞いだのと、耳を塞いだのと、口を塞いだのと、三頭の奇怪な猿が刻んで現してある。『これは何の意味だらう?』と私が質ねた。私の友は三個の彫像の恰好を、一つ一つ眞似ながら、不明瞭な聲で答へた。

 『私は惡いものは見ませぬ。私は惡いことを聽きませぬ。私は惡いことを言ひませぬ』

 

 再三の說明のお蔭で、段々と私は一見して、幾らか色々の佛像の見分けがつくやうになつた。手に劍を持ち、ぴかぴか光る火に圍まれつ〻、蓮華の上に坐せる像は不動樣である。劍は智、火は力を示してゐる。こ〻には片手に一ト卷きの繩を持つた冥想の像がある。これは佛陀であつて、繩は情慾を縛するのである。また最も穩かな優しい日本人の顏――小兒の顏――をして、眼を塞いで、頰に手枕をもたせ乍ら、涅槃の中に、眠れる佛陀もある。美しい處女の像が百合の上に立つたのは、日本の神聖處女(マドンナ)の觀音樣である。こゝに端然と坐つて、片千に瓶を持ち、片手を敎師の態度らしく擧げたのは、靈魂の醫者、一切を癒す佛の藥師樣である。

 それから、また私は動物の像をも見た。佛陀誕生譚の鹿が、いかにも優美に雪白の石に彫られて、燈籠の頂上にゐる。ある墓には立派に彫つた魚、と云はんよりは寧ろ魚の觀念を、希臘藝術の海豚の如く、彫刻の目的上、美しく奇怪に作つたのが、石柱の頂を飾つてゐる。廣く開いて鋸齒を示せる顎は、死人の戒名を書いた石の上に載つて、背鰭と振り立てた尾は、企及し難き粧飾的意匠を凝らしてゐる。晃が木魚だといつた。僧侶の讀經の際、褥片を卷いた木槌で叩く、あの深紅と黃金色に塗つた、木製の空洞狀のものと同種の象徴である。最後に、ある處で私は、獵犬の如く、たわやかな形をした神話的種類の一對の動物が坐つてゐるのを見た。晃が狐だと云つた。成るほど今、その像の目的が解つてから眺めて見ると、狐であつた。理想化され、靈化されて、云はん方なく優美な狐である。灰色の石で刻まれ、細長く意地惡い、輝いた眼を有ち、啀んでゐるやうに見える怪獸である。米の神、お稻荷樣の從者で、正當に云へば、佛敎の偶像ではなくて、神道に屬する。

[やぶちゃん注:「啀んでゐる」は「いがんでいる」と訓じている者と思われる。「啀(いが)む」とは獣などが牙を剥いて嚙みつこうとする意である。]

 これらの墓に刻んだ文字は、決して西洋の碑銘に似てゐない。ただ家族の名――死者及びその緣類の名と紋章だけだ。普通は花の紋章である。卒塔婆には、たゞ梵經の文字がある。

 更に進んでから、私は他の數個の浮彫の地藏を見た。一つの像は、餘りに立派な作品なので、私はそこを通り過ぎて了うのが苦しかつた。この死兒の伴侶を白い石で刻んだ、夢のやうな像は、美しい小兒の如くに、親切な眼を半ば閉ぢ、佛敎藝術のみが想像し得たやうな微笑、無限の愛らしさと最上の柔和を持つた微笑を湛へて、天人らしい顏を見せてゐるのは、たしかに如何なる基督の像よりも美はしい。實際、地藏といふ理想は、極めて優れたものであるから、通浴の言葉に於ても、美麗な顏を地藏に譬へて、『地藏顏』と云つてゐる。

[やぶちゃん注:再度言うが、ここで主体となる六地蔵は現存するのか、するとすれば何処にどのようにあるのかは、後の宿題とする。この考証を始めると何時まで経っても先に進めぬからである。悪しからず。] 

 

Sec. 5

   Descending the shadowed steps, I find myself face to face with six little statues about three feet high, standing in a row upon one long pedestal. The first holds a Buddhist incense-box; the second, a lotus; the third, a pilgrim's staff (tsue); the fourth is telling the beads of a Buddhist rosary; the fifth stands in the attitude of prayer, with hands joined; the sixth bears in one hand the shakujo or mendicant priest's staff, having six rings attached to the top of it and in the other hand the mystic jewel, Nio-i ho-jiu, by virtue whereof all desires may be accomplished. But the faces of the Six are the same: each figure differs from the other by the attitude only and emblematic attribute; and all are smiling the like faint smile. About the neck of each figure a white cotton bag is suspended; and all the bags are filled with pebbles; and pebbles have been piled high also about the feet of the statues, and upon their knees, and upon their shoulders; and even upon their aureoles of stone, little pebbles are balanced. Archaic, mysterious, but inexplicably touching, all these soft childish faces are.

   Roku Jizo—'The Six Jizo'—these images are called in the speech of the people; and such groups may be seen in many a Japanese cemetery. They are representations of the most beautiful and tender figure in Japanese popular faith, that charming divinity who cares for the souls of little children, and consoles them in the place of unrest, and saves them from the demons. 'But why are those little stones piled about the statues?' I ask.

   Well, it is because some say the child-ghosts must build little towers of stones for penance in the Sai-no-Kawara, which is the place to which all children after death must go. And the Oni, who are demons, come to throw down the little stone-piles as fast as the children build; and these demons frighten the children, and torment them. But the little souls run to Jizo, who hides them in his great sleeves, and comforts them, and makes the demons go away. And every stone one lays upon the knees or at the feet of Jizo, with a prayer from the heart, helps some child-soul in the Sai-no-Kawara to perform its long penance.[2]

   'All little children,' says the young Buddhist student who tells all this, with a smile as gentle as Jizo's own, 'must go to the Sai-no- Kawara when they die. And there they play with Jizo. The Sai-no-Kawara is beneath us, below the ground. [3]

   'And Jizo has long sleeves to his robe; and they pull him by the sleeves in their play; and they pile up little stones before him to amuse themselves. And those stones you see heaped about the statues are put there by people for the sake of the little ones, most often by mothers of dead children who pray to Jizo. But grown people do not go to the Sai-no-Kawara when they die.' [4]

   And the young student, leaving the Roku-Jizo, leads the way to other strange surprises, guiding me among the tombs, showing me the sculptured divinities.

   Some of them are quaintly touching; all are interesting; a few are positively beautiful.

   The greater number have nimbi. Many are represented kneeling, with hands joined exactly like the figures of saints in old Christian art. Others, holding lotus-flowers, appear to dream the dreams that are meditations. One figure reposes on the coils of a great serpent. Another, coiffed with something resembling a tiara, has six hands, one pair joined in prayer, the rest, extended, holding out various objects; and this figure stands upon a prostrate demon, crouching face downwards. Yet another image, cut in low relief, has arms innumerable. The first pair of hands are joined, with the palms together; while from behind the line of the shoulders, as if shadowily emanating therefrom, multitudinous arms reach out in all directions, vapoury, spiritual, holding forth all kinds of objects as in answer to supplication, and symbolising, perhaps, the omnipotence of love. This is but one of the many forms of Kwannon, the goddess of mercy, the gentle divinity who refused the rest of Nirvana to save the souls of men, and who is most frequently pictured as a beautiful Japanese girl. But here she appears as Senjiu-Kwannon (Kwannon-of-the-Thousand-Hands). Close by stands a great slab bearing upon the upper portion of its chiselled surface an image in relief of Buddha, meditating upon a lotus; and below are carven three weird little figures, one with hands upon its eyes, one with hands upon its ears, one with hands upon its mouth; these are Apes. 'What do they signify?' I inquire. My friend answers vaguely, mimicking each gesture of the three sculptured shapes:-'I see no bad thing; I hear no bad thing; I speak no bad thing.'

   Gradually, by dint of reiterated explanations, I myself learn to recognise some of the gods at sight. The figure seated upon a lotus, holding a sword in its hand, and surrounded by bickering fire, is Fudo- Sama—Buddha as the Unmoved, the Immutable: the Sword signifies Intellect; the Fire, Power. Here is a meditating
divinity, holding in one hand a coil of ropes: the divinity is Buddha; those are the ropes which bind the passions and desires. Here also is Buddha slumbering, with the gentlest, softest Japanese face—a child face—and eyes closed, and hand pillowing the cheek, in Nirvana. Here is a beautiful virgin-figure, standing upon a lily: Kwannon-Sama, the Japanese Madonna. Here is a solemn seated figure, holding in one hand a vase, and lifting the other with the gesture of a teacher: Yakushi-Sama, Buddha the All- Healer, Physician of Souls.

   Also, I see figures of animals. The Deer of Buddhist birth-stories stands, all grace, in snowy stone, upon the summit of toro, or votive lamps. On one tomb I see, superbly chiselled, the image of a fish, or rather the Idea of a fish, made beautifully grotesque for sculptural purposes, like the dolphin of Greek art. It crowns the top of a memorial column; the broad open jaws, showing serrated teeth, rest on the summit of the block bearing the dead man's name; the dorsal fin and elevated tail are elaborated into decorative impossibilities. 'Mokugyo,' says Akira. It is the same Buddhist emblem as that hollow wooden object, lacquered scarlet-and-gold, on which the priests beat with a padded mallet while chanting the Sutra. And, finally, in one place I perceive a pair of sitting animals, of some mythological species, supple of figure as greyhounds. 'Kitsune,' says Akira—'foxes.' So they are, now that I look upon them with knowledge of their purpose; idealised foxes, foxes spiritualised, impossibly graceful foxes. They are chiselled in some grey stone. They have long, narrow, sinister, glittering eyes; they seem to snarl; they are weird, very weird creatures, the servants of the Rice-God, retainers of Inari-Sama, and properly belong, not to Buddhist iconography, but the imagery of Shinto.

   No inscriptions upon these tombs corresponding to our epitaphs. Only family names—the names of the dead and their relatives and a sculptured crest, usually
a flower. On the sotoba, only Sanscrit words.

   Farther on, I find other figures of Jizo, single reliefs, sculptured upon tombs. But one of these is a work of art so charming that I feel a pain at being obliged to pass it by. More sweet, assuredly, than any imaged Christ, this dream in white stone of the playfellow of dead children, like a beautiful young boy, with gracious eyelids half closed, and face made heavenly by such a smile as only Buddhist art could have imagined, the smile of infinite lovingness and supremest gentleness. Indeed, so charming the ideal of Jizo is that in the speech of the people a beautiful face is always likened to his—'Jizo-kao,' as the face of Jizo.

 

2

'The real origin of the custom of piling stones before the images of Jizo and other divinities is not now known to the people. The Custom is founded upon a passage in the famous Sutra, "The Lotus of the Good Law."

'Even the little hoys who, in playing, erected here and there heaps of sand, with the intention of dedicating them as Stupas to the Ginas,- they have all of them
reached enlightenment.'—Saddharma Pundarika, c. II. v. 81 (Kern's translation),'Sacred Books of the East,' vol. xxi.

 

3

   The original Jizo has been identified by Orientalists with the Sanscrit Kshitegarbha; as Professor Chamberlain observes, the resemblance in sound between the names Jizo and Jesus 'is quite fortuitous.' But in Japan Jizo has become totally transformed: he may justly be called the most Japanese of all Japanese divinities. According to the curious old Buddhist book, Sai no Kawara Kuchi zu sams no den, the whole Sai-no-Kawara legend originated in Japan, and was first written by the priest Kuya Shonin, in the sixth year of the period called TenKei, in the reign of the Emperor Shuyaku, who died in the year 946. To Kuya was revealed, in the village of Sai-in, near Kyoto, during a night passed by the dry bed of the neighbouring river, Sai-no-Kawa (said to be the modern Serikawa), the condition of child-souls in the Meido. (Such is the legend in the book; but Professor Chamberlain has shown that the name Sai-no-Kawara, as now written, signifies 'The Dry Bed of the River of Souls,' and modern Japanese faith places that river in the Meido.) Whatever be the true history of the myth, it is certainly Japanese; and the conception of Jizo as the lover and playfellow of dead children belongs to Japan. There are many other popular forms of Jizo, one of the most common being that Koyasu-Jizo to whom pregnant women pray. There are but few roads in Japan upon which statues of Jizo may not be seen; for he is also the patron of pilgrims.

 

 4 Except those who have never married.

2015/08/21

ブログ710000アクセス突破記念 火野葦平 魚眼記 

 

魚眼記 火野葦平

[やぶちゃん注:一昨2015年8月19日の宵の口に、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、710000アクセスを突破した。その記念として何時もの通り、火野葦平の「河童曼荼羅」から記念テクストとして「魚眼記」(「ぎよがんき(ぎょがんき)」)を公開する。単行本初出は小山書店昭和一六(一九四一)年五月刊「傳説小説集」かと思われるが、初出はそれ以前、前年中のことと推測される(以下の宮本百合子の書評初出を参照)。宮本百合子は日本の河童――火野葦平のことなど――という評論ともエッセイともつかない奇体な短文で(初出が『日本学芸新聞』昭和一六(一九四一)年一月十日号)、『一人の作家の動きとして火野葦平氏をみる。するとそこには「糞尿譚」の作者があり、つづいて麦と土と花と兵隊の作者があり、やがて河童の「魚眼記」が現れている。この過程に何が語られているだろう。「土と兵隊」の作者に「魚眼記」の現れたのは誰そのひとだけにかかわった現実であって、私たちには他人のことだと云えるのだろうか』と自他を指弾対象にするような言いをし乍ら、『日本の近代の文学に河童が登場することについては考えるべき何事かがある。周知のとおり、芥川龍之介は死の数ヵ月前、昭和二年の二月、小説「河童」を書いた。漁師のパック、詩人トック、音楽家クラバックなどの活躍する芥川の河童の国には、生活と判断とが溌溂と盛られていて、作者の社会批評と人生と芸術への気持が、積極な熱をもって流れている』。『それにもかかわらず、河童の国へ墜ちなければ、クラバックの直情をも描けなかったところに、作家芥川としての悲しい河童性があった。河童とは詰まるところ日本の前時代的な物の怪なのである』。『火野葦平の河童は、一九四〇年の日本に現れて、「土と兵隊」「石炭の黒きは」の後に現れて、何と自足した自身の伝説の原形をさらしていることだろう。実際上は歴史的な経験を生きた筈の一個の作家が、今日河童を語り、文学上に変化の変化たる所以の諷刺の通力さえ失ったまま、唯濃い墨の色と灰色との画面の色彩をたのしんで描き眺めるというようなことの裡には、文学として何かの不健全がある』。『河童が幻想の生棲物だからというのではなく、それを扱う作者火野の態度の本質は、芥川よりも文学のこととして不健全な低下を示していると云えるのである』。『これは、作家の個人としての問題でもあり同時に今日という時代の傾斜の問題でもある。人々の現実にたえる作品を生み出して行こうという作家の希望が偽りでないならば工夫をこらしその斜面にピッケルをうちこんで、着実に抵抗して、進んで通過しなければならない角度なのだと思う。何によってその雪崩れでそぎとられた斜面にピッケルをうちこむべき地点を判断してゆくかと云えば、先ずその岩の性質の鑑識に立つということを答えない登攀者はないだろうと思えるのである』(引用はリンク先の青空文庫版から)。この似非文学批評的戯れ言は私のイカれた前頭葉から尻小玉の出っ張りまで、おぞましい生理的不快感を引き起こす。文学批評(特に文学を革命の手段と堕させたプロレタリア文学の『不健全』なる思想というそれ)という宿痾たる病根の様態が実に手に取るように分かる悪文なれば、敢えてここに示しおくこととする。因みに私は宮本百合子の如何なる一文にも五十八年間、一度として感動したことはなく、今後もないと断言出来る。それほどあの女が文学者として私は大嫌いなのである。民衆の伝承をマルクス主義から非科学的と一蹴する彼等は結局、現代文学の潮流に生き残ることが出来なかった。これはまっこと目出度いことであると私は心底、感じている人間である。

 底本の傍点「ヽ」は太字に代えた。注は当該語句を含む各段末で簡潔に対応した。

 前頭葉の一部挫滅のために偏頭痛がずっと続き、何時ものようにテキパキと出来ず(特に夕食後は仕事が殆んど出来ないほど痛む)、遅れたことを深くお詫びする。【2015年8月21日 藪野直史】] 

 

   魚眼記 

 

 だいぶん風があるやうですが、わたしの聲が聞きとれますか。わたしはあまり大きな聲を出すことはこのまないので、どうぞもつと近くに寄つて下さい。そこの石には錢苔(ぜにごけ)がたくさんくつついてゐますから、用心をしないと着物が穢(よご)れます。この椎の實でも嚙(かじ)りながら聞いて下きい。月の出にはまだすこし間がありませう。

 わたしが昔この里に住んでゐた頃、やつぱりこの大きな椎の木がこの庭に立つてゐて、枝がはびこり、鬱蒼と葉が茂り、椎の實の熟(な)る時分、風のある日を選んでこの樹の下に來ると、雨の降るやうな音を立てて椎の實が無數に落ちて來たものでした。子供であつたわたしは竹の竿を持つて行つて椎の實を落すことを考へつきましたが、わたしのその計畫を母が顏色を變へて怒り、折角わたしが氣味の惡い思ひをして淋しい裏山の竹藪から切つて來て拵へた竿を、父がほとんど四寸おき位に微塵にへし折つてしまひました。一節づつ碎かれて行く靑竹の音を聞きながら、小さいわたしは悲しみで胸がいつぱいになりましたが、無口な父母はただ怒つただけでわたくしにその理由を聞かせてくれませんでした。夕方になると、向かふの地藏山の巓邊(てつぺん)の峰の間から眞横にさしかけて來る太陽の光りのために、數知れぬ椎の實は蓊鬱(をううつ)と繁茂した梢の間から無數の寳石のごとくきらきらと光ります。その美しい椎の實を得るためにはいつとも知れぬ風の日を待たなくてはならぬといふことは、なんといふ賴りないことでありましたらう。しかし、わたしは或る日、もう壽齡をずつと昔に越えて今は自分も人もその年を覺えてゐることが出來なくなつてゐたわたしの曾祖母から、椎の木についての言ひ傳へを聞かきれたのです。その椎の木には古くから河童が棲んでゐるといふのです。さうしてこの椎の木に熟る無數の椎の實はこの樹の持主である河童の食餌であつて、その椎の實を取るものは河童の怨みを買ふことがある、ただ風の日に吹かれて落らる椎の實が河童の食膳から除かれてしまふけれども、やつぱりその地上に落ちた椎の實すらも心ある人はこれを拾はうとはしないのだ、といふのです。それを話しながら曾祖母はがくがくと齒のない口を袋のやうに開けたり閉ぢたりしながら、その椎の木を見るのももつたないといふやうに、それだけの話をする間中、ただ最初にちらと一瞥しただけで、その後は一度も樹の方を振りむかうとしませんでした。その語を聞くとすぐにわたしはそつと土藏の中に入りました。生意氣な小さいわたしは、科學者のやうにその曾祖母のをかしな語を信用せず、古い侮蔑が曲りくねつた平假名やけばけばしい色彩の江戸繪などで書きあらはされた、たくさんの古ぼけた書物が土藏の長櫃(ながびつ)の中に藏つてあつたことを思ひ出し、曾祖母の學説をくつがへすやうな反證を得るために土藏の階段を登つたわけでありました。黴(ばび)くささと根太(ねだ)のゆるんだ天井裏の板の間に辟易しながらも、わたしは丹念に數千卷の古書を繙(ひもと)きました。するとわたしは次第に曲りくねつた平假名の字や原色あざやかな江戸繪の世界に惹きこまれ、やがて表が暗くなつて來て、わたしが掌にのせてゐる寫本の大きな文字も判讀し難くなつた時、わたしは曾祖母(おんばあ)ちやんは噓つきではなかつたと思はず歎息を洩らしたのであります。さうして太い鐡鋼の鎖格子も見わけがたくなつた鎧窓の方を見た時に、ほんたうはそんなに太陽が落ちてゐたわけではなく、鎧窓のすぐ際に椎の木があつて、その密生した葉のために窓が蔽はれてゐたことを知りましたが、その時わたしは椎の木が少しの風にぎわめき幾つかの椎の實がぱらぱらと落ちる音を聞いて、逃げるやうに蟲の食つて撓(たわ)む土藏の梯子段を降りたのです。

[やぶちゃん注:「四寸」訳十二・一センチメートル。「地藏山」不詳乍ら、これは以前河童封地蔵尊のあ塔山のことではあるまいか? 識者の御教授を乞う。「蓊鬱」草木が盛んに茂るさまを言う。「江戸繪」浮世絵版画の前身となった紅彩色の主に江戸歌舞伎の役者をモデルとした絵のこと。江戸中期から売り出され、当初は二、三色刷りのものから次第に多彩豪奢なものとなり、錦絵として爆発的な人気を博した。「紅摺絵(べにずりえ)」「東(あずま)錦絵」等とも称した(対するのが京坂で刊行された同じような役者絵を中心とした浮世絵版画の「上方絵(かみがたえ)」「大坂絵」である)。]

 わたしは或る日近くの町に行つて魚を求めて來ました。そのやうな祕密な計畫を家の者に覺られないやうに注意しながら、貰ふたびに蓄めておいた小遣錢をそつと土壺の貯金箱を割つて取り出し、市場に行つたのです。わたしの家は相當の舊家で、女中も何人も居ることなのに、市場に魚を買ひに行つたわたしを市場の人たちははじめは不思議さうにして居りました。しかしわたしが學校で有圖畫の寫生に使ふのに自分の好きな魚を自分で買ひに來たのだといつたので、はじめて市場の人も納得し、そこにあつたたくさんの魚のうちで一昔美しい鱗の剝げてゐないめばるを選んでくれました。買つて來た魚をわたしは小さい竹籠に入れて紐をつけ、椎の木のわたしが背のとどく枝の一番高い枝に吊しました。わたしは土藏の中の文獻によつて得た知識によつて、河童といふものがおほむね水中に棲むものではあるが、何かのために樹木に棲息するやうになつても、生理的に木の實よりも魚類の方を好むに違ひないといふことを信じたからです。わたしが魚を河童に進呈したことを曾祖母が見つけましたが、わたしの頭を撫でて笑ひながら、昔自分たちの小さい時分によく河童が出て來て自分たちと遊んだものだが、今はもう居るかどうかねえ、といひました。曾祖母の小さい時にはよく線香遊びといふことをやつたさうです。この椎の木の下の水たまりに火をつけた線香を立てる。それから十間ばかり離れてこちらから、河童さん河童さん出ておいで、と聲を揃へて呼ぷ。するとその線香の火がふつと見えなくなる。それは河童が兩手で火を包んでしまふからだ。それからまた、河童さん河童さんお歸りよ、といふ。すると今まで見えなかつた線香の火がまたぱつと赤く見えて來る。河童が兩手を開けるからだ。曾祖母はそんな話をしましたが、最後に今はそんな遊びを誰も忘れてしまつて、果して河童が今でも居るものやら居ないものやら自分も知らないといふのでした。翌る朝になつてわたしはまた背伸びをしながらその魚籠を下して見ました。その籠の中には昨日入れておいた魚の姿はなく、ただ底の方に硝子の玉のやうに二つの眼玉だけが殘されて居りました。もう河童がこの椎の木に今もなほ居るといふことは疑ふ餘地がありません。さうして父母が血相を變へてわたしが竹竿で椎の實を叩き落さうとしたことを咎めたことの意味がはじめてはつきりと諒解されました。それからわたしは毎日のごとく市場に通ひ魚を買つて來ては椎の木の梢に吊しました。魚は或る時は鰯(いわし)になり鱸(すずき)になりひこぜになり鯉になり茅渟鯛(ちぬ)になり鯖(さば)になり秋刀魚(さんま)になりました。さうしてわたしが籠を下してみるたびに、必ず魚の眼玉だけが食ひ殘されて居りました。河童が魚の眼玉が嫌ひであることは、私が黴くさい土藏の中で得た知識と全く一致して居りました。

[やぶちゃん注:「十間」十八・一八メートル。「ひこぜ」きらびやかな磯魚のベラの一種である顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ベラ科ササノハベラ Pseudolabrus sieboldi の異名。グーグル画像検索「Pseudolabrus sieboldiをリンクさせておく。「茅渟鯛(ちぬ)」スズキ目スズキ亜目タイ科ヘダイ亜科クロダイ Acanthopagrus schlegelii の異名。]

 さあ、椎の實をたくさんおあがりなさい。甘くて齒にあたらず嚙みわるとよい音がするでせう。こんなおいしい椎の實はよそでは食べられませんよ。風が出たせゐか、いくらでも椎の實が落ちて來ます。

 さて、もう秋もかなり深く風なども時折、膚に冷く感ぜられるやうになつた頃の或る夜、わたしは深い眠りに落ちてゐたのですが、ふと誰かわたしを呼ぶ者があるやうな氣がして眼を醒ましました。天井には薄暗い電燈が點(とも)り、寢る前に枕元にひろげたままにしてあつた小學校の諸本があるほかには、別に誰もゐる樣子はありません。外にはいろいろな秋の蟲の鳴いてゐる聲がします。わたしはなにか思ひ違ひであつたと思つて、ふたたび寢床の中にもぐりこみますと、また確かにわたしの名を呼ぶものがあります。それがどうも家の中ではないやうに思ひましたので、何氣なく開き窓の方を見ますと、竹のつかい棒で屋根のやうに半分開けた窓の向かふに誰かがゐるのがわかりました。外は月が明るく煙つたやうな月光の中に、頭を振りみだした妙に口の尖つたものがゐて、小首を振りながら、小さく皿をたたくやうな聲を立てて何かいひ、しきりに手まねきをしてゐるのです。わたしはすぐにそれが椎の木に棲んでゐる河童であることがわかりましたので、着物を着なほし帶を締めてその開き窓の方に行きました。河童はわたしを見ると身體ごとお辭儀をするやうに二三度屈みましたが、皿をたたくやうなからんからんした聲で、日頃から度々魚の御馳走になることの禮を述べ、今宵は月もよいし海の方に出てみたいと思ふのだが、いつしよに行きませんか、といふのでした。なんによらず河童の申し出を斷るとよいことがないといふことをわたしは知つてゐましたし、それでなくともわたしは河童の勸誘をうれしく思ひましたので、それはたいへん愉快なことだといひますと、河童はそれではわたしがおんぶして行つてあげますから、この開き窓の閾(しきゐ)にお上んなさいといひます。小さいわたしはその高い窓に上ることが出來ませんので、襖を開けて脚達(ふみつき)を出し、窓の下まで引きずつて來て、やつとのことで開き窓の閾に乘ることが出來ました。さあといつて河童が向かふをむきましたので、わたしは背中に負ぶさりました。河童は見たところそんなに大きくはなく、どちらかといふと子供のやうに小柄であつたので、わたしは果して子供としては大柄であつたわたしを河童が負へるだらうかと危ぶんでゐたのですが、わたしが負ぶさつても河童は別に重さうにはせず、それどころではなく、まるで背中に乘つた瞬間に突然わたしの身體の重量といふものがすつかり消えてなくなつてしまつたやうに、河童は樂々として居るのでした。今夜は海岸に出て海をわたり島まで行つて見ませう。まあこれでも嚙りながらついておいでなさい、と河童はいつて、わたしの掌にひと摘みの椎の實をのせて月光の中を歩きだしました。歩くといひますが、足が地についてゐるものやらゐないものやら背中のわたしにはわかりません。それよりもわたしは河童の背中の甲羅がわたしの身體の蕊(しん)にまでも傳はつて來るやうなきびしい冷さで、その上生ぐさい臭氣のある靑黑い苔のやうなもので一面に掩はれ、うつかり手をゆるめるとずるりと、辷り落ちてしまひさうなのに閉口しながらも、月光の中にあらはれる景色にうつとりとなつて、無意識のやうに椎の實を嚙つてゐたのです。河童はなんにもいはずに進んで行きます。野をわたり川をすぎ丘を越えて行くうちに、煙のやうに霞む竹林が爽やかに鳴つてゐる音を聞き、空には月光を受けた雲がちぎれながら走るのを見、やがて白絹のやうに光る海濱に出ました。河童は汀(みぎは)にうちよせて飛沫をあげてゐる波の中にどんどん入つて行きましたが、やがて渚の音も後の方に遠ざかり沖へ沖へと出て行きます。河童は海の上を歩いてゐるのですが、足はいくらか水の中に入つてゐるのか時々下の方で水を切るかすかな音がします。月に霞む水平線にぽつんと一つの島が見えますが、そこまでが今夜の旅の行程のやうです。海上を渡る風がさわやかに頰をなぶり、なんともいへずよい氣持です。河童はときどき突然のやうに身體を跼(かが)めます。そのたびにわたしは落ちさうになつて、慌てて河童の肩をしつかりと摑みますが、河童は進んで行くうちに水面近くを泳いでゐる魚を見つけるとそれを捕へるために跼むのでした。時には捕へ損じて皿をはじくやうなペちペちといふ舌打を洩らしますが、概ねはうまく捕へそのまますぐにむしやむしやと食べてしまひます。やはりわたしが信じたやうに河童といふものは椎の實のやうな植物よりも生臭い魚類の方が比較にならぬほど好きなのです。河童は魚を頭から尾から骨まで殘らず丹念に食べてしまふのですが、眼玉だけは棄てて行きます。とぽんとぽんと眼玉の落ちる音が波の上でします。わたしは曾祖母から聞いた話を思ひだしました。昔古い頃の漁師は海上に魚の眼玉が浮いてゐるのを見ると、それは河童が魚をとつた場所であることを知つてゐて、早速そこの附近に網を入れると必ず大漁があつたといふことでした。星が降り落ちるやうに輝いてゐることが、周圍にはなにもない迥(はる)かな海原に出て來た時に珍しいもののやうにわたしの眼にうつりました。こんなにも天に多くの星があるといふことをわたしはそれまで知らなかつたのです。水平線の上の島影がだんだんせり出して來るやうに大きくなつて來ます。河童は相かはらずなんにもいはず、まるでわたしが背中にゐるといふことを忘れてしまひでもしたやうに、一心に魚を捕へることに熱中して、時々わたしを駭(おどろ)かせては身體を曲げて魚を捕へ、これを食べて眼玉をすてながら波の上を行きます。

 ところが次第にわたしは困惑の頂上に達して來ました。はじめのたのしさはもはやすつかりなくなつて、わたしはほとんど色靑ざめて來ました。それはわたしの腹の中が妙に張つて來るとともに、わたしは迂潤(うかつ)にもそれまで忘却してゐた嚴しい傳説の掟に愕然として氣づいたのです。それは河童がなによりも人間の放屁が嫌ひであるといふことでした。それはわたしには嘗ては笑ひだしたいやうな飄逸(へういつ)な傳説でしたが、今この海上に來て河童の背の上で現實となつてあらはれて來た時に、わたしはほとんど膚に粟を生じ心は冷え切る思ひでありました。無意識のやうに口に含んでは嚙んだ椎の實がわたしの腹の中で次第に瓦斯(ガス)を釀成しはじめたことにわたしはやつと氣づいたのですぐこの時にならねばこの恐るべき掟を想起しなかつたとは、なんといふ迂愚なことでありましたらう。河童はいかに親しくして居るものであつても、ひとたび放屁の音を聞く時には最大の冷酷の仕打をするといふことは、わたしは充分に知つてゐたのです。わたしが今ここで放屁をすれば河童は怒つてたちまちわたしを海中に放棄して顧みないことは火を見るよりも明らかであります。わたしは腹を押へ、いかにしても島まで我慢しなくてはならぬと思ひました。河童はそんなことは無論氣づく筈もなく、しづかな水かきの音を立て相かはらず魚を捕へるために屈伸しながら月光に光る海上を進んで行きます。しかしながら人間の身體の生理はいかなる運命を誘致するとも避けがたいものでありませうか。わたしはもはや齒を喰ひしばり色靑ざめて我慢して居つたにもかかはらず、もうあまり遠くないと思はれる沖の島が眼前に大きくあらはれて來た時に、遂に最後の忍耐を失ひました。わたしは腹をしつかりと押へ、月と星との光る天を仰いで涙をたらし、父母と祖父母との名を呼び、遂に全く自分の意志がそこになかつたにもかかはらず放屁をしてしまひました。河童はふと立ち止り、ちらとわたしの方を振りかへりましたが、その時わたしはもう河童の背中から振ひ落され、海中深く人事不省になつて沈んで行つたのです。

 氣がついた時にわたしは足にうすい水かきが出來てゐることを知り、噎(む)せるやうな強い椎の實の匂ひにおどろくと同時に、わたしはまつくらなわたしの周圍で騷雨(しうう)のやうにはげしい音を立てて椎の實の落ちる音を聞きました。

 さあ月が出て來たやうです。これから沖の島に遊びに行きませう。椎の實をだいぶん食べましたね。殘りは持つて行つた方がよろしいでせう。わたしの背中に摑まんなさい。しつかり摑まつてゐないとわたしの背中の甲羅はずるずるしてゐるから辷りますよ。

 

2015/08/20

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅵ) 昭和元(一九二六)年 (全)

 

 昭和元年(一九二六)

 

 

 

 一月一日 金曜 

初東風や神代も同じ松の音

 

[やぶちゃん注:「初東風」老婆心乍ら、「はつごち」(濁音化するのが一般的)と読む新年の季語。年初になって初めて吹く東風(こち)、東からの風を指す。「東風(こち)」という響きには古来より春の訪れを感じさせる語感を強く含むものの、鑑賞上、通常実際には未だ冷たい風であることが多い点に注意が肝要なところではあろうが、この元日の日記冒頭には『天氣よく暖し。白雲棚引き、東風松の梢を渡る。暖き日の下小鳥なき渡る』とあり、午後にはごった返す香椎宮(かしいぐう:現在の福岡県福岡市東区香椎にある当時の官幣大社香椎宮。縁起によれば仲哀天皇九(二〇〇)年に神功皇后自ら祠を建てて仲哀天皇の神霊を祀ったのを起源とし、次いで神功皇后宮が元正天皇の養老七(七二三)年に皇后自身の神託に拠って朝廷が九州に詔りして社殿の造営を始め、聖武天皇の神亀元(七二四)年に竣工したもの。古えは両宮を併せて「香椎廟」と称したが、戦後の現在は単に「香椎宮」と称する。以上は香椎宮公式サイト内の記載に拠る)に初詣でし、句の前には『夜に入りて益々あたゝかし』とあるから、この句に限っては殊更に東風に冷気を感ずる必要は、ない。]

 

 

 

 一月十二日 火曜 

 葦津宮崎宮司胃癌治療先日見舞に行きしに、本朝葉書來る、和歌一首

 

  九女と猶都貴努惠の露にぬれて

   川良御忘るゝ日を暮しをり。

 

  うれし、わが返し

 

 まもります神の心をきそめせみ

  枕近き筥松の風

 

 病まば病めゐえなはゐえよ武士の

  矢竹の心にたゆみならめや

 

 みいたつきなぞゐえざらむ神松の

  綠を守る君にしあれば

 

 君が爲祈る心をうけ給へ

  心つくしの筥崎の神

 

 うつくしげ筥崎の松吹く風は

  世をすゝしめの神のこえこえ

 

[やぶちゃん注:全文掲載。最後の一首の「こえ」はママ。「こえこえ」の後半は底本では踊り字「〱」。「葦津宮崎宮司」は底本注に『葦津洗造、杉山家の氏神である筥崎宮の宮司』とある。現在の福岡県福岡市東区箱崎にある「筥崎宮」は「筥崎八幡宮」とも称し、宇佐・石清水両宮とともに「日本三大八幡宮」の一つに数えられる神社。旧筑前国一宮で当時の社格は官幣大社(現在は神社本庁別表神社)。筥崎宮公式サイト内の記載によれば、『御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である』延喜

二一(九二一)年に醍醐天皇の神勅により宸筆の「敵国降伏」が『下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立』、延長元(九二三)年には『筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました』とする。『鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。後世は足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など歴史に名だたる武将が参詣、武功・文教にすぐれた八幡大神の御神徳を仰ぎ筥崎宮は隆盛を辿りました。江戸時代には福岡藩初代藩主黒田長政、以下歴代藩主も崇敬を怠ることはありませんでした。明治以降は近代国家を目指す日本とともに有り』、明治一八(一八八五)年には官幣中社に、大正三(一九一四)年には『官幣大社に社格を進められ、近年では全国より崇敬を集めるとともに、玉取祭や放生会大祭などの福博の四季を彩る杜(もり)として広く親しまれています』とある。因みにこの筥崎宮楼門にある、元寇襲来の際の戦勝を祈願して亀山上皇が書いたとされ、戦前最後の幻の十銭切手で奇体な高値(三百万円とも)がつく「敵国降伏」という宸筆額で知られるが、この「敵國降伏」という宸筆はこれ以外に現在『伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれて』おり、縦横約十八センチメートルで『全部で三十七葉あ』ると筥崎宮公式サイトには書かれている。『社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録があります。特に』文永一一(一二七四)年の『蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山(かめやま)上皇が納められた事跡は有名で』、『楼門高く掲げられている額の文字は文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、謹写拡大したもの』とあるから、実はレプリカということであることが判る。]

 

 

 

 一月二十五日 月曜 

 餘は社に、久良は子供を迎へに通町へ。姉やはそのお供して、午前十一時四十八分和白發新博多へ。天氣よくあたゝかし。

 夜、崇福寺にて赤泥社短歌會、初め竹雨、選風、余僅三人歌十四首、選評中禪僧數名傍聽に來る。森太郎來る。夜、十一時通町へとまる。

 

街に住めば物音多く思ひ多し

  シミシミの花は咲けども

 

[やぶちゃん注:「」=「艹」(上)+{「並」から上部の一画及び二画を外したもの}(下)。意味も読みも不詳。「草」の異体字かと考えて中文サイトも縦覧したが見当たらない。「シミシミグサ」「シミシミサウ(シミシミソウ)」といった和名の顕花性植物(藻類を含む水棲性植物(様)類の可能性もあるか)も見当たらない。福岡固有の方言和名か? 一つだけふと浮かんだのは、仏事に供えるところの知られた被子植物綱アウストロバイレヤ目  Austrobaileyales マツブサ科に属するシキミ Illicium anisatum である(因みに本種は全草有毒で、種子に多く含まれるアニサチン等はヒトを死に至らあせる極めて高い強毒性の植物であることは、あまり知られているとは思われないので特に記しておきたい。詳しくは以下のリンク先を参照されたいが、例えばシキミを挿した仏前の水が腐りにくいのもこれによるものであろうと思われる)。これならば季節的には開花が一致する(葉の付け根から一つずつ出て春に咲き、花びらは淡黄色で細長く、やや捩じれたような印象を与える)。また、佐賀県唐津のJA直売所の関係者の記載の中に『当店でも、菊や、ユリ、シバ、しきみ(シミ)など取り揃えています』とあり、少なくとも佐賀唐津ではシキミを「シミ」と呼称していることが判った。また、ウィキの「シキミを見ると、中国では「莽草」、厳密には「日本莽草」と呼ばれ、『生薬としては日本でも莽草(ボウソウ)の名称を使う』とあるのであるが、この「莽」という漢字は見れば見るほど、ここに出る奇体な「」【=「艹」(上)+{「並」から上部の一画及び二画を外したもの}(下)】の字とよく似ているようにも私には見えるのである。ただフローラ系は私の守備範囲でなく、最早、これ以上の新発見は望めない(正直、関心が及ばないからである。悪しからず)。どうか、識者の御教授を乞うものである。

「崇福寺」位置的に見て現在の福岡県福岡市博多区千代にある臨済宗大徳寺派横岳山勅賜萬年崇福禅寺(そうふくぜんじ)であろう。福岡藩主黒田家の菩提寺としても知られ(夢野久作の先祖は杉山姓を称してより代々、黒田藩公侍臣御伽衆馬廻役を仰せ遣った旧藩の名臣名家でもあった)、嘗ては寺域も広大で海岸の千代の松原まで続く壮麗な伽藍であったが、福岡大空襲によってほぼ灰燼に帰したとウィキの「崇福寺福岡市にある。

「赤泥社」西原和海編「夢野久作著作集 1」の解題から察するに、夢野久作が勤務していた『九州日報』社内の短歌同好会の名と思われる。私の『夢野久作詩歌集成 始動 「赤泥社詠草」1』以下及び私の注等を参照されたい。底本の別注には『加藤介春。夢野久作等の詩の会』とはある。

「森太郎」不詳。]

み佛もゆるしてたもれ月のよさに

  み寺の庭に尿するなり

 

[やぶちゃん注:「尿する」老婆心乍ら、「すばりする」と読む。]

 

思ひ無く松原ゆけばいつしかに

  冬の日落ちて小鳥鳴き渡る

 

 お寺にて、キナコ餅を喰ひたるにつかえたり、胃散を飮む。

 

[やぶちゃん注:以上、関連性を考えて日記全文を示した。]

 

 

 

 二月一日 月曜 

縣廳にゆき、水産新聞の證書を受け取る。

豐吉君に皷をことづける。

――朝、朝鮮の伯父とナマコとオキユートを喰ふ。

 

[やぶちゃん注:「皷」これは実際の鼓のことではなく、後の推理小説「あやかしの鼓」のことであろう。この一月(初出は一月十日で『終日「皷」の原稿を書く』とある)より熱心に執筆、この後の五月には本作を『新青年』の創作推理小説募集に応募し、美事、二等に入選している(この時初めて夢野久作のペン・ネームを用いた)。

「豐吉」恐らくは夢野久作妻クラの弟である鎌田豊吉のことと思われる。底本注に『社会主義運動に入り、八幡製鉄所のストライキを指導し、浅原健三と共に活躍、治安当局の追及を受け』たために、この昭和元年頃には父鎌田良一とは関係が悪化していたとある。ここは草稿であった「あやかしの鼓」を読んで貰ったということのようにも読める(実際、これ以前に親族等に読んで貰うシーンが出る)が、しかし「ことづける」というのはどうもそうではないらしい。事実、この後、五月八日の二等当選の手紙まで「あやかしの鼓」についての記載は日記中に、ない。ということはこれは既にして決定稿であって、理由は不明乍ら、どうもこの鎌田豊吉を介して、この後に『新青年』に応募されたものと読むのが正しいように思われる。別な底本注によると、彼は後に実家から遂に『廃嫡され、困窮の中に死』んだとある。

「オキユート」現行では「おきゅう」「おきうと」と表記発音するのが一般的な、福岡県福岡市を中心に食されている海藻の加工食品である。「お救人」「浮太」「沖独活」等とも表記されるらしい。成分の実に九十六・五%は水分で、残りの内、タンパク質が〇・四%、炭水化物が三%、灰分が〇・二%と栄養は頗る低いが、独特の食感などが評価される。かく言う私も好物である。参照したウィキの「おきゅうと」によれば、『伝来は諸説あるが、「佐渡の『いごねり(えごねり)』が、博多に伝わった」とする説がある。江戸時代の『筑前国産物帳』では「うけうと」という名で紹介されている。もともとは福岡市の博多地区で食べられていたようだが、その後福岡市全体に広がり、さらには九州各地に広がりつつある。福岡市内では、毎朝行商人が売り歩いていた。福岡市内を中心に、おきゅうと専門の製造卸は』昭和七二(一九九七)年頃でも凡そ十店はあったらしい。一方で一九九〇年(昭和六十五年)代以降、福岡県内では原料である紅藻類の一種エゴノリ(アーケプラスチダ界  Archaeplastida 紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属 Campylaephora エゴノリ Campylaephora hypnaeoides)の不漁が続いており、二〇〇〇年代に入ってからは、現地では有意な大量生産が困難となり、『石川県の輪島市などから仕入れている。また、主食が米飯からパンなどに移っていることからかつてに比べて消費が低迷している』。『作り方は、原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」とも呼ばれる)と沖天(イギス、博多ではケボとも呼ばれる)をそれぞれ水洗いして天日干しする』(但し、状態を見ながら一~三回、これを繰り返す)。この時の歩留まりは七割程度であるが、『この工程を省くと味が悪くなり黒っぽい色のおきゅうとができるため、手間を惜しまない事が重要である。次に天日干ししたえご草と天日干しした沖天をおおよそ』七対三の割合で『酢を加え煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し常温で固まらせる。 博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られている』。『おきゅうとの良し悪しの見分け方として、あめ色をして、ひきがあるものは良く、逆に悪いものは、黒っぽいあめ色をしている。また、みどり色をしたものは、「おきゅうと」として売られているがまったくえご草が使われていないものもあり、天草が主原料の場合は「ところてん」であり「おきゅうと」ではない』。『新潟県や長野県では、えご草のみを原料としたほとんどおきゅうとと製法が同じ「えご(いご)」「いごねり(えごねり)」が食べられている。 おきゅうととの製法上の相違点は、えご草を天日干しせず、沖天を使用しないところである』。食べ方は、五ミリメートルから一センチメートルの『短冊状に切り、鰹節のうえに薬味としておろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油で食べるか、または芥子醤油やポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的である。もっぱら朝食の際に食べる』。変わった呼称であるが、この『語源については諸説あ』って、『沖で取れるウドという意味』・『キューと絞る手順があるから』『享保の飢饉の際に作られ、「救人(きゅうと)」と呼ばれるようになった』・『漁師に製法を教わったため、「沖人」となった』といった説があるそうである。『第二次世界大戦前、博多の町では明け方より、他の地方の納豆売りしじみ売りのように、おきゅうと売りが売り歩いたとい』い、その『掛け声は『おきうとワイとワイ、きうとワイ』というものだったと』ある。『山形県、秋田県、新潟県、長野県安曇野地方で食べられている「えご」(「いご」「えごねり」「いごねり」ともいう)や宮崎県の「キリンサイ」も、形は少し違うが紅藻類の海草を使う点で共通しており、同様の食品である』(個人的にはキリンサイの食感は堪えられない。石垣島で食して以来、大好物なのだが、本土ではまず入手困難である)。『えごは飢饉の際、漁師が見つけた海草を煮詰めて固めたもので、飢えをしのいだ事が由来とされ』、『福岡出身の実業家・出光佐三など、味を懐かしんで東京まで取り寄せて食べていたという例も多い』ともある。]

 

日本中豆子はお酌にきまつてる

 

[やぶちゃん注:句意不詳。識者の御教授を乞う。]

 

豆を撒くたんびに子供飛び上り

 

獨物豆も撒かずに寢てしまひ

 

女房が死水を取るいゝ役者

 

胎毒の後家の弗箱喰ひ破り

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「弗箱」は「ドルばこ」である。]

 

私は渡者ですがと渡者云ひ

 

 

 

 二月十八日 木曜 

[やぶちゃん注:前略。]

 夜、石井宅にて千代子の送別宴、出たらめ句會を催す。田中、中村、板東、榊、杉山叔父、石井、千代子、我。

 

[やぶちゃん注:「千代子」姻族の一人。夢野久作の異母妹たみ子の夫石井俊次の末妹。最後の句に「丸髷」とあることから、婚姻離福の送別会と推察する。]

 

渡場にカラ傘一つ春の雨

 

ヒザとヒザ物音もなし春の雨

 

君去りて初丸髷は癪のたね

 

等、夕吟出づ。

 

 二月二十日 土曜 

 

海苔そだやどこかひそかに夜の音

 

何を見にやどかりのぼる海苔の竹

 

海苔にまじる小魚も春の光り哉

 

ストーブの灰はくづれぬみつめ居る

 おのが心の何かくづれぬ

 

 

 

 二月二十二日 月曜 

 春さめのふる。

 

傘さして松原ゆくたれ誰やらむこの暮さめのしつかなる夕

 

野鼠の黑き姿の見えかくれ春のひろ野のはてなく光る

 

縣廳の玄關の靴ぬぐひ靴ぬぐふわれの小さき心

 

往來まで洩るゝ何かのアンコール何故となく唾はきてゆく

 

小夜を汽車過ぎゆけば驛長はサフランの鉢抱えてかへる

 

鐵砲を打つてみたいと思ふ心春靑々とたそがれてゆく

 

 

 

 二月二十五日 木曜 

 五時五十分の汽車にて歸る。

 

川端のまひるの月のつゝましや水の音にも湯ぬべく見えて

 

[やぶちゃん注:下の句「湯むべく見えて」読みも意味も不詳。識者の御教授を乞う。]

 

山々はまだあかるきにおのがじゝねむりて春の月を迎へぬ

 

町中でお月樣がと立ちとまる吾が兒を叱りふと涙ぐむ

 

煙突の煙がどうしても書けないといふこどもは偉大なる藝術家なるかな

 

何故に兒を叱るかと妻のいふそれを叱りてふと涙ぐむ

 

春の海石垣の上を白猫のあゆみあゆみてたそがれてゆく

 

[やぶちゃん注:「あゆみあゆみて」の「あゆみあゆみ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

何やらむ白き煙の立ちて居り消えんともせず春の山暮れぬ

 

春の月東の山に浮かみ出でぬ紡績の如く雨の長さよ

 

星まばらすみ渡る春の月の下雪化粧ひそやかに眠る

 

 

 

 二月二十七日 土曜 

 昨日よりの頭痛(何かの中毒らし)絶食のためやつと止みたり。されども午后二時に到り仕事進まざるため、パンと乳を攝れり。

 加藤君の詩集、眼と眼の評を書く。加藤君喜び詩を入れる。

 午后四時二十分妻子と共に、新博多發和白にて牛肉を買ひて歸り、ニンニクと共に煮て喰ふ。美味し。

 

輪轉機轟とまひ出すたまゆらを危く昂ふる吾が心かな

 

落日のなやみさらはう崖のかなた靑くうるめる春の月出づ

 

 

 

 二月二十八日 日曜 

 朝七時半起床。雨戸を開けば春霞棚引きたり。香椎郵便局長に會ひて、電話のこと相談。箱崎にてテニス。朝食林檎一つ。

 夜、靜かに耳鳴る。

 

わが昔の心見出でし悲しさよ、わが妻の弟父を怨める。

 

おろかなる戀なりけりとわが傍に、ねむれるものゝ鼻息をきく。

 

[やぶちゃん注:一首目は以前にも少し注したがここの底本注にも、『夢野久作の妻の実家、鎌田家において、父鎌田昌一と』、社会主義運動にどっぷり身を投じてしまっていた『弟鎌田豊吉の間に思想上、家庭上の』深刻な『対立があり、大きな激しい闘争が行われていた』ことに基づく一首であるとある。]

 

 

 

 三月三日 水曜 

 

輪轉機轟ろまひ出すたまゆらの、おさな心はひとり悲しも。

 

 

 

 三月十八日 木曜 

 朝、伊藤君と筥崎にてテニス。

 午后四時二十五分新博多發列車にて、妻と落ち合ふ。

 

花をやつたあとから札を勘定し

 

櫛卷の素顏であるくニクラシさ

 

髮一つあだにほつれぬ美人也 

 

 

 四月二十三日 金曜 

 石井にゆき、ひるねし、香椎へ歸り、うたひの原稿書く。雨ふる。

 

吾家の朝の光りに、裏畠の苺の花の數へられつゝ

 

汽車の窓に並びて蜂の一つ飛ぶ、春の光りのたまゆらなりけり



 四月二十六日 月曜 

 

けふも亦あだに暮しつ限り無き、生無身と思ひ知りつゝ。

 

[やぶちゃん注:「生無身」全くの勝手乍ら、私は「しやうむしん(しょうむしん)」と読み、「父母未生以前 (ぶもみしょういぜん)」と同義と読。自我の存在しない仏教世界に於ける絶対無差別無二の境地である無我の境地、即ち真の実相たる「空」の識界と採る。大方の御批判を俟つ。]

 

 

 

 五月八日 土曜 

 

苺の花一つ一つにたそがれて、やがてみそらに生いでにけり。

 

[やぶちゃん注:「一つ一つ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

 

 

 五月十一日 火曜 

 朝、風強く。午后凪ぐ。

 終日、精神生理學の原稿を書く。

 

正夢の話をきけば寢小便

 

夢ばかり見てゐると書く噓ばかり

 

夢に見たが眞綿で首のしめ初め

 

何だいとよくよく見れば瞳のゴミ

 

[やぶちゃん注:「よくよく」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

思案ごと忘れて瞳のゴミを取り

 

夢を見るやうな眼つきで暗を掘り

 

夢の場面やる本人の馬鹿らしさ

 

人間萬事夢だと坊主錢を取り

 

[やぶちゃん注:「精神生理學の原稿」言わずもがな乍ら、後の「ドグラ・マグラ」の初期稿のことを指す。因みに「ドクラ・マグラ」は(松栢館書店からの単行本出版)実にこの九年後の昭和一〇(一九三五)年一月のことであった。]

 

 

 

 五月二十日 木曜 

 午后三時五十三分本線にて出福。河原田にて原稿紙を買ひ、梅津を見舞ひ古賀にゆき、柴藤にてうたひうたふ。

 

 

 

 五月二十三日 日曜 

[やぶちゃん注:前略。]

 朝來雨模樣、暗雲西に去る。密柑の花白く香氣甚し。觸るればバラバラと落つ。

 

空暗く思ひも暗きたそがれを、みかんの花のホロホロと落つ

 

[やぶちゃん注:「バラバラ」「ホロホロ」の後半は底本では孰れも踊り字「〱」。]

 

 

 

 六月六日 日曜 

 晴天。家のねづみふえたり。トマト芽立ち、蛇出て空靑し。秋蟲の聲はやきこゆ。

 午前原稿。

 チソ、タデ、トマトを植ゆ。

 

永き日の夕日ざししみじみふりかへり、

 縞ある蛇の笹の集わたる。

 

蚊多し。

 

[やぶちゃん注:「原稿」はここのところほぼ毎日記している「狂人」という作品、即ち、後の「ドクラ・マグラ」の初稿である。]

 

 

 

 六月十四日 月曜 

 

大あくび待合室をねめまはし

 

大あくび前の美人をふとにらみ

 

あくびして睨んでもまだ座つてゐ

 

湯のぬるさあくびの尻が歌になり

 

おいしさうにあくびをたべてニツコリし

 

きんたまがのどまであがる大あくび

 

基督の先祖に八つのコブがあり

 

大あくびガマ口だけは握つてゐ

 

標本になつたが瘤の名譽也

 

瘤つきになつて嬶のお伴をし

 

終電車あくびとあくび二人切り

 

 

 

 六月十七日 木曜 

 

永き日を蟻のあゆみのもどかしさ、

 切れ凧の枝にかゝりて又しばし

 

 

 

 六月二十日 日曜 

 終日蒸し暑く、夜に入りて曇る。トマト等に水をやる。原稿を書き。夕食にカン詰めのハムライスとジヤガ芋をたべる。龍丸にお話しをして寢る。

 

友のくれしくるはしき花咲きいでぬ

 名を思ひ出でず夏の夕ぐれ

 

痛々しくダリヤしぼみぬ狂はしき

 姿おはりぬ風無き夕ぐれ

 

高くかける信天翁のみ目にしみて

 スコナーの海にくれ果てむとす

 

君は君が悲しみのため涙ながす

 われはわがために吐息するなる

 

[やぶちゃん注:「スコナー」英語に“scorner”があり、発言又は表情によって軽蔑を表す人を指すが、三首目の意はそれでは私には汲めない。識者の御教授を乞う。]

 

 

 六月二十一日 月曜

 土赤く、山綠に空靑く、風無く雲亦無し、何とも云へぬ好晴なり。

 終日原稿書き、夕方より畠に灌水す。

 夕食、ニラとキヤベツ卷き。龍丸又話をせがむ。

 

更くる夜をうちつれてなく雨俺ひとり淋しく眼をとづれば

 

月出でず蛙もなかず只一人ひろ野のはてに來は來つれども

 

妻子にも告げ得でありぬ年毎につばなのゆらぐ吾家の淋しさ

 

吾好む夏の夕べの甘ずゆきトマトの葉に赤き日しづむ

 

土に居てトマトをしやぶりながむれば夏の夕日の甘ずゆきかな

 

[やぶちゃん注:「つばな」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica の初夏に出る穂のこと。細長い円柱形を成し、葉よりも高く伸び上がって、ほぼ真っ直ぐに立つ。分枝はなく、真っ白の綿毛に包まれており、よく目立つ。種子はこの綿毛に風を受けて遠くまで飛ぶ(ウィキの「チガヤに拠った)。個人的に私の大好きな花である。]

 

 

 

 六月二十二日 火曜 

 

山つゝじ赤々咲きぬ薄ら日に鳥の遠音のさす丘の上

 

まんまんと汐滿ち足らひ鐵橋のはるかに赤く春の陽しづむ

 

[やぶちゃん注:「まんまん」の後半は底本では孰れも踊り字「〱」。]

 

ましろなる煉瓦の家を建てをへて工科大學に秋早く來ぬ

 

曇り日の下に立ち並ぶ材木のにほひしみじみ春闌けにけり

 

[やぶちゃん注:「しみじみ」の後半は底本では孰れも踊り字「〲」。]

 

初夏の靑空嬉し馬の香のひそやかにして材木並べり

 

 

 

 六月二十三日 水曜 

 

寢苦しく曉かけてながめしが鐵錆色の雲に入る月

 

砂ほこりポプラ並木のゆらぐ見ゆ春のおはりの町の行手に

 

いつしかに桐の花咲き靑空のそこはかとなく雲の漂ふ

 

吾が心狂ひ得ぬこそ悲しけれ狂へと責むる鞭をみつめて

 

實直なるズボンの裾の悲しさよともしびしげき眞夏の夕暮れ

 

靑空より直線に來る光り海岸にある吾家うれしも

 

 

 

 六月二十四日 木曜 

 

乞食僧のおろかなる顏よぎりゆく石南花の咲く門の晝過

 

萬卷の書物も悲し圖書館のま夏まひるを人のゐねむる

 

 

 

 六月二十八日 月曜 

 昨今、今日より田植えの爲學校休み也。

 終日雨ふる。

 

小さき蟲ら悲しき聲をして死ぬる

 燈を見れば夜ふけわたる。

 

 

 

 七月三十一日 土曜 

 

物かけばペンの響きに蟲の音に秋の音する夏のたそがれ

 

はるかなる月の影かなしづかなるわが心悲しく靜かに

 

 

 八月十五日 日曜 

 關門の大空に、月はるかなり。

 

われふるさとに春はるかなり

 

明日開く朝顏の數夢に入る

 

朝顏の數をつくして小雨哉

 

朝顏や誰が蒔き捨てし野雪隱

 

 

 

 八月十六日 月曜 

 

朝顏の數を數ふる吾が兒哉

 

夕顏や眞上に光る一つ星

 

朝顏の名を思ひつかず水を遣る

 

 

 

 八月十七日 火曜 

 

朝顏や今年も隣から咲いて來る

 

朝顏や九尺二間を幾並び

 

[やぶちゃん注:「九尺二間」これは縦横で「九尺」は約二百七十センチメートル、「二間」三百六十センチメートルであるから、二・七×三=九・七二平方メートルとなり、通常の一坪は凡そ約三・三平方メートルであるから、この朝顔を植えたスペースは凡そ三坪はあったことになる。]

 

云はぬとして云ひ得ぬ心筆取りて

 

つながりもなきことば並ぶる

 

 

 

 八月十八日 水曜 

 

風狂ひ草なびき伏し雲かけり、わがさけぶ聲きえきえとなる。

 

山も海もまぶしく光り小蒸氣の、潮に逆ひゆるゆるとゆく。

 

[やぶちゃん注:「きえきえ」「ゆるゆる」の後半は底本では孰れも踊り字「〱」。]

 

 

 

 八月十九日 木曜 

 

お前さんが馬鹿だからと嬶云ひ

 

利口なら歸りはせぬと亭主云ひ

 

 

 

 八月二十日 金曜 

 

秋の夜更け蟲一つなき、わが眼玉いよいよ大きく開きゆくかな

 

わがあゆみたゆみがちなりゆく道の、ましろく遠く秋の目しづむ

 

あの星まで何里あるかと忰きゝ

 

東京へ來ると電車に乘らぬ也

 

タキシーさなど忰は口で吹き

 

 

 

 八月二十三日 月曜 

 朝、梅津正保君と博多驛より出發。正保君戸畑下車。余、小倉下車。森安雄君の處に行き綾子以下に會ふ。

 綾子曰く、安雄さん默つて家を建てた。

 安雄君曰く、我性分也。安雄君ビールを飮みて氣焰を擧ぐ。余又擧ぐ。

 釜關連絡船景福丸にて朝鮮に向ふ。月淸く風無し。

 

  明月の關門の空はるかなり、われ故郷に又はるかなり。

 

[やぶちゃん注:この日から八月二十九日に下関に帰着するまで実質滞在五日ほど、大韓民国の釜山などを夢野久作は訪問している。特異点であり、最後の一句も詩文調なれば、全文を掲示した。]

 

 

 

 十月十五日 金曜 

 朝、空一面に灰色の雲、土と草葉濡れてかゝやき、コスモス白く美しく淋し。

 

曇り日のコスモス白く美しく

 されどさみしく亂れ咲く哉

 

 小菜を負ひて香椎より出福福。中野邸に到りテニス。午后、安田にてけいこ。鶴原、權藤、安田、戸次、佐藤。

 夜、幼稚園にてけいこ。猩々、羽衣。

 

コスモスの白く亂るゝ淋しさよ

 

降るみふらずみ暮るゝたそがれ

 

 

 

 十月三十一日 日曜 

 修猷館にて先生と庭球、四組をたふす。山口のコートにてテニス。

 柴藤にとまる。柴藤、熊坂の形のけいこ。

 

ほんとうに彼は彼なり醉ひしれて

 或る夜の溝に落ちて死にけり

 

 鎌田一家來られ、家の山の松茸をとらる。喜ばれし由。

 

[やぶちゃん注:以下、この年は総じて「十二月三十一日 金曜」迄、実に小まめに日記が記されているが、以上以外には、私が詩歌と断ずる章句は認められなかった。くれぐれも底本を熟読されんことを。]

2015/08/19

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十五年(全) 薬師寺/お水取/唐招提寺/K病院 

 

 昭和三十五年

 

 薬師寺

 

強白(こはじろ)の息ぬくぬくと吉祥(きちじやう)讃

 

人香に仏香勝てり吉祥会(きちじやうゑ)

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三五(一九六〇)年に、『三月、東大寺二月堂の修二会(お水取)を拝する。二月堂の内陣の裏にある局(つぼね)から、桟窓(さま)格子を隔てて見る、東大寺独特の古格のあるいおおらかな声明』(しょうみょう)『を聞き、「走りの行法」や「ダッタンの行法」を見る』とある。後にも出る「桟窓格子」はよく分からない(興味なく、特に調べたくもない)。興味もないのでグーグル画像検索「桟窓格子をリンクしておく。「走りの行法」は三月五日からの三日間及び三月十二日からの三日間、後夜の悔過作法の前に行われ、本尊十一面観音の十一の面の内の頂上仏面を「南無頂上」「南無最上」などと呼称して礼拝、須弥壇の周りを回りながら一人ずつ礼堂に出て五体投地する。だんだんと歩調が早くなり、はじめは木の沓(さしかけ)を履いているが、やがてそれを脱いで最後に裸足で走るようになる、とウィキ修二会にはある。「ダッタンの行法」同前のウィキの「咒師作法(しゅしさほう)と達陀(だったん)の行法」の中に、『咒師作法は咒師が須弥壇の周りを回りながら、清めの水(洒水)を撒き、印を結んで呪文を唱えるなど、密教的な儀式である。鈴を鳴らして四方に向かって四天王を勧請するのもその一環で』、三月十二日以降の三日間は、後夜の咒師作法の間に達陀の行法が行われるとし、達陀(だったん)の行法は、堂司以下八人の『練行衆が兜のような「達陀帽」をかぶり異様な風体で道場を清めた後、燃えさかる大きな松明を持った「火天」が、洒水器を持った「水天」とともに須弥壇の周りを回り、跳ねながら松明を何度も礼堂に突き出す所作をする。咒師が「ハッタ」と声をかけると、松明は床にたたきつけられ火の粉が飛び散る。修二会の中でもっとも勇壮でまた謎に満ちた行事である』とある。国家鎮護をのみ主体として衆生を救わない東大寺祭祀儀式には私は全く興味がない。ご自分でお調べ戴きたい。なお、『その日の全ての行法を終えて参籠宿所に戻るときには「ちょうず、ちょうず」と声を掛け合いながら石段を駆け下りる。「ちょうず」とは手洗い、トイレのことである。ある時、行法を終えて帰ると、烏天狗たちがやってきて行法のまねをしていたことがわかったので、ちょっと手洗いにゆくのだと思わせるためにこういうのだそうである』と付記されてあることは引いておこう。「強白」不詳。興味なし。なお、東大寺法華堂には重要文化財塑造の吉祥天立像がある破損は激しいが日本最古級の吉祥天像として貴重とされる)。「吉祥讃」吉祥天を祀る呪言と思われるが不詳。興味なし。前注参照。「吉祥会」修二会でも特に前記の吉祥天を祀る祭儀と思われるが不詳。興味なし。]

 

   *

 

炉より立ちひとりの刻をさつと捨つ

 

炉框の方形の方待ち時間

 

熾る炉火その上言葉ゆききする

 

ただ寒き壁大仏の背面は

 

冬晴の影ふかぶかと伽藍の溝

 

森をゆく頭上に遠き秋の晴れ

 

湖北に寝てなほ北空の鴨のこゑ

 

右傾直せば左傾不機嫌耕耘機

 

心底より深杢ゆるす冬泉

 

うつむくは堪へる姿ぞ髪洗ふ

 

前燈に枯野枯道行方知らぬ

 

線虫載せおのが手相をおのが見る

 

蜂もがく生きるためにか死ぬためにか

 

溺るゝとも蜂一匹の死に過ぎず

 

霞む山引つかへさざる鴉の翼(はね)

 

山火の夜光りもせずに溝流れ

 

紅と方向楷示器吹雪の中の意志

 

雪とけて凍る靴底一直路

 

暗くふかく家裡見えて雪深道

 

 

 

 お水取

 

火がついて修二会(しゆにゑ)松明(たいまつ)たちまち惨

 

火の修二会闇に女人を結界して

 

修二会の闇われ方尺の女座を得て

 

桟窓(さま)格子透きてへだてて修二会女座

 

火を滴々修二会松明炎えほろぶ

 

   走りの行法

 

刻みじかし走りて駆けて修二会僧

 

修二会走る走る女人をおきざりに

 

飴ふくむつばとくとくと修二会の闇

 

一睡さめ身が覚めきつて修二会女座

 

   ダツタンの行法

 

水散華火散華修二会僧たのしや

 

西天に赫きオリオン修二会後夜

 

   *

 

椿華鬘(けまん)重し花蕊をつらぬきて

 

[やぶちゃん注:「華鬘(けまん)」は通常、仏前を荘厳(しょうごん) するために仏殿の内陣や欄間などに掛ける仏具で、金銅・牛革製の円形又は楕円形のものに唐草や蓮華  を透かし彫りにして下縁に総状の金物や鈴を垂らしたものを言うが、ここは椿の花全体のそれを華鬘に譬えたもの。]

落椿くもる地上の今日の紅

 

二タ雲雀鳴きあふ低き天もたのし

 

 

 

 唐招

 

散りづめの桜盲眼もつて生く

 

嘴(はし)こぼる雀の愛語伽藍消え
 

[やぶちゃん注:「愛語」は「あいご」で、仏語。優しい、相手の気に入る、相手の心に訴える、暖かい心の籠った言葉をかけることを指す。仏教を実践する人が人々を惹きつけるために具えているという四種の美点たる「四摂事法(ししょうじぼう)」(他に分かち合う「布施」・相手のために相手を利する「利行(りぎょう)」・平等に接する「同事」)の一つで、「愛語(あいご)摂(しょう)」とも言う。ここはそれを多佳子は雀の囀りに聴いたのである。]

 
    *

 

こゑ断つて虻が牡丹にもぐり入る

 

牡丹畑はげしき雨に雨衣頭巾

 

生きてゆく時の切れ目よ藤垂りて

 

青嵐ガラス戸ひらき何招ず

 

青嵐危ふきときは身を屈し

 

静臥の上巣藁一本づつ加はる

 

静臥の上巣つくり雀しやべりづめ

 

蟻殺し殺し身力を信じくる

 

青嵐静臥の椅子に身を縛し

 

おとろへて生(せい)あざやかや桜八重

 

病蝶を一蝶の翅うちうちて

 

蝶蜂の薊静臥の主花として

 

眼つむれば泉の誘ひひたすらなる

 

静臥飽く流泉のこゑ蜂のこゑ

 

ほととぎす叫びをおのが在処(ありど)とす

 

 

 

 K病院

 

走馬燈昼のからくり風にまはる

 

   天神祭

 

病院の壁に囚はれ祭囃子

 

鉄格子天神祭押しよせる

 

   *

 

九月来箸をつかんでまた生きる

 

九月の地蹠ぴつたり生きて立つ

 

朝より暑汝も飢ゑ顔煤雀

 

虫のこゑベツド鉄脚つつぱつて

 

ちちろ虫寝よ寝よとこゑ切らず

 

深青の天のクレパスうろこ雲

 

人恋へり鱗つばらにうろこ雲

 

起きて見る木床秋日が煮つまつて

 

軽々と抱きて移さる秋日和

 

紅き実がぎつしり柘榴どこ割つても

 

深裂けの柘榴一粒だにこぼれず

 

雀・仔猫病院やつと露乾く

 

点滴注射遠く遠くに木の実落つ

 

露ベツド人の言葉を瞼で享け

 

しやぼん玉吹いてみづからふりかぶる

 

雁のこゑわが六尺のベツド過ぐ

 

[やぶちゃん注:「六尺」一・八メートル。]

 

病み勝つて日々木の葉髪木の葉髪

 

忘れゐし花よ其白き枇杷五瓣

 

柿・栗吾にもたらし食べよ食べよ

 

秋の蝶病院のどの屋根越え来し

 

綿虫の浮游病院の屋根越せず

 

病室に柿色かたまる柿もらひ

 

蝙蝠がゆきて病院燈がともる

 

晴れて到る人の訃シベリヤ高気圧

 

霧の太陽すずめの中の病院鳩

 

病院の六十年史子連れの油虫

 

   十二月十日退院す

 

退院車入りてまぎれて師走街

 

藁塚が群れて迎ふる退院車

 

臥して見る冬燈のひくさこゝは我家

 

[やぶちゃん注:多佳子はこの昭和三五(一九六〇)年七月に胆嚢を病み、大阪中之島の大阪回生病院に入院しているから、「K病院」とはそこを指す。句中に出る「柘榴」は見舞った俳人大喜多冬浪の持参したもの。句にあるように、年譜によれば多佳子はベット上でシャボン玉を吹いて遊んだりした(実にお目出度い入院生活である)。この入院期の句群を年譜記者堀内薫は、『多佳子俳句の真声、新境地の句』で実に『自由な表現の写生句』とし、『誓子の内部構造俳句を必死に勉強した』結果、この期に及んでそれが遂に『多佳子の血肉と化し、多佳子の気息を通して、新らしく生まれ出た表現の句である』と手放しで絶賛している(言っておくが、私は全くそう感じない)。因みに、実際の退院は、前書より五日後の十二月十五日で入院は実に六ヶ月に及んだ。]

 

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十四年 長浜/薪能/壬生大念仏/桜狩/由布 昭和三十四年~了

 

 長浜

 

夕冴ゆる雪嶺ちりめん織られゆく

 

灰削げば真紅な炭火ちりめん織る

 

冬日移るちりめん白地一寸織られ

 

機絲の凍て柔指にほぐれ出す汐

 

ちりめん織る冬の一日の時間の量

 

寒き光織子の頰の総生毛

 

絲の継傷ちりめんの白地冴え

 

織子寒し千の縦絲一本切れ

 

凍て機の縦絲を搔き鳴らして検(み)る

 

雪嶺下藍つぼ紅つぼ深し深し

 

  湖北尾上

 

沈み友禅寒水の流れゆるみ

 

鴫群の鴨翔つ従ひしは数羽

 

雪明りこゑももらさず餌場の鴨

 

鴨毟る雪降らざれば止まぬなり

 

鴨浮寝はぐれし一羽降り来たり

 

はぐれ鴨加はりすぐに夜の鴨

 

春雷のあとの奈落に寝がへりす

 

[やぶちゃん注:底本年譜昭和三四(一九五九)年一月の条に、『琵琶湖の長浜で、ちりめん工場を見学する、清子同伴』とある。ここ滋賀県長浜市を中心に製される縮緬は「浜ちりめん」と称し、高級絹織物の総称で滋賀県の地場産業である。「丹後ちりめん」とともに古えよりの縮緬の二大産地の一つである。ウィキの「浜ちりめん」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『古文書(『古事記』及び『風土記』)によれば、古く元明天皇の和銅五年(七一二年)に『近江国他に令を始めて綾絹を織らしむ』。光孝天皇の仁和三年(八八七年)には『近江等の国より絹を貢す』と記されている。又、平安時代の記録では蚕糸生産において上糸生産の筆頭の国とあり、近江では太古より絹織物が織られ、上質の糸を生産していたことがわかる』。近世の天正年間(一五七三年~一五九一年)には『大明国の職工が泉州堺に渡来し、日本に伝えられたとされる。豊臣秀吉による天下統一後『ちりめん』生産の中心は堺から京(西陣)に移り』、享保年間(一七一六年~一七三五年)になると、縮緬技術は丹後の加悦谷や峰山にも伝えられたという。『『浜ちりめん』の始まりは江戸時代中期に、近江浅井郡大郷村(現滋賀県長浜市)の中村林助と乾庄九郎により丹後より技術がもたらされ、大郷村の南浜、中浜、八木浜で手工業として織られていた『ちりめん』が長浜に集荷され、京・大阪方面で販売されたものとされる。長浜の『ちりめん』であることから浜ちりめん(長浜ちりめん)と呼ばれた』。名織師であった『中村林助と乾庄九郎が生まれた大郷村難波は、度々起こる姉川と高時川の氾濫による水害によって年貢米も納めかねるほど疲弊していた。水害に強い桑を植え養蚕に力を入れていたが、江戸時代中期には生糸の値段が下がり、大郷周辺の村々は困窮の極みに達していた。林助と庄九郎はこの状態を何とかしたいと考えていたところ、近隣の上八木村に蚕紙を買いに来た丹後宮津の商人庄右衛門から、「丹後では『ちりめん』織りを始めてから農民にも余裕ができるようになった」との話を聞き、早速『ちりめん』織りの技術を学びに丹後に行き、又、丹後から庄右衛門に来てもらい、村の人達に技術を伝えた。林助と庄九郎は宝暦二年十二月(一七五三年一月)領主である彦根藩に届を出した上で、農閑期に『ちりめん』を織りそして販売することを始めた。これが『浜ちりめん』の最初と伝えられ、中村林助と乾庄九郎の二人は『浜ちりめん』の創始者と言われ』ているという。その後、縮緬織の『生産はすぐに大郷村周辺から長浜全域へと広がり、琵琶湖を通って京でも販売されるようになった。これに対して京の業者達が「自分たちの営業を妨げるもの」として京都町奉行に訴えでたことから、林助と庄九郎は「(浜ちりめんを京で売ったのは)私利ではなく、村の困苦を救うため」と弁解したが、許されずに京での販売を禁じられた上、捕縛・入獄させられてしまった。村人の嘆願や領主である彦根藩からの働きもあり、漸く四年後解き放たれると共に、『浜ちりめん』の京での販売も認められることになった。この時、林助と庄九郎は大変喜び、西陣に勝ったことから、自分たちのちりめんを『西勝ちりめん』と呼んだ。彦根藩は林助と庄九郎の功績を称え、二人を『浜ちりめん』の織元に任じ、製品の検査を行わせ検印料徴収の特権を与えた。これにより、織元の検印を得られない粗悪品は販売できないことから、製品への信用力を得ることができ、彦根藩は『浜ちりめん』を年貢の対象とし、藩が保護した結果重要な特産品として発展』、浜縮緬は近江商人特に湖東地区の商人によって全国的に売られるようになった。しかし、『明治時代に入り、彦根藩による保護、統制が無くなると粗製乱造されたため、一時全国において信用を大いに失った』。しかし、明治十九年(一八八六年)三月の農商務省令によって『近江縮緬絹縮業組合が創設され、同組合による統制と県の支援による指導研究と機械化推進により、現在まで重要な地場産業の一つとして発展した。滋賀県は大正四年(一九一五年)サンフランシスコで開かれた万国博覧会に『浜ちりめん』を出展し輸出を志向したが、輸出が盛んになることはなかった』。浜縮緬の特徴は、『強撚糸を用いシボ(さざ波のような生地上の皺)の高い重目の無地織物を主体とする。『丹後ちりめん』は平織地に文様を織り出した綸子などの紋織物を主体と』し、『種類としては、シボの高い最高級の『一越ちりめん』、『古代ちりめん』、縦糸横糸を撚糸の工程で変化させた『変わり織ちりめん』、絹の紡織糸を使って織った『浜つむぎ』がある』とある。

「湖北尾上」現在の滋賀県長浜市湖北町尾上地区。JR北陸本線の長浜駅から西北へ凡そ十キロメートルの位置にある琵琶湖畔にある温泉街、琵琶湖漁業の古くからの漁港でもある。嘗ては縮緬工場も多くあったという。]

 

 

 

 薪能

 

薪能枝を入日に枯桜

 

春夕べ舞の女面の狭き視野

 

咽喉笛を女面の下に薪能

 

薪能執しあひつつ二夕火焰

 

薪能雑色のみに火の熱気

 

薪能火焰熱しと眼に観じ

 

薪能悔過の女面を火の粉責め

 

[やぶちゃん注:何処の薪能か不詳。識者の御教授を乞う(年譜に記載なし)。最後の句の「悔過」は「けか」と読み、仏教用語で罪や過失を懺悔すること、或いは儀式の上で仏菩薩等の前で自らが犯した身体的行動上の罪悪・言動上の罪悪・心理的精神的罪悪意識を懺悔することを指す。]

 

 

 

 壬生大念仏

 

   「壬生念仏」は黙劇で、鉦・太鼓・笛につれ

   て口中念仏を唱へつつ、狂言が演ぜられる。

   中でも「抱烙割」が代表的。

 

目つむれば鉦と鼓(こ)のみや壬生念仏

 

壬生念仏とても女(め)なればみめよき面(めん)

 

壬生念仏身振りの手足語りづめ

 

壬生念仏「喰はれ子」鬼に抱へられ

 

炮烙割れし微塵の微塵壬生念仏

 

春の日を壬生念仏が牽きとどむ

 

天に蝶壬生念仏の褪せ衣

 

[やぶちゃん注:「壬生大念仏」壬生狂言(みぶきょうげん)のこと。元来は大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)の一種で、濫觴は融通念仏(大念仏)の中興者円覚上人による念仏の教えを無言劇化したものとされる。融通念仏は、摂津国の大念仏寺(大阪市平野区)を根本道場として良忍(聖応大師)によって始められたもので、これはその方便してその教化のために創作された念仏狂言という。後に京の清凉寺や壬生寺などでこれを発展させた融通念仏が盛んになり、壬生寺・清凉寺・千本閻魔堂・神泉苑には円覚上人による原初に近い大念仏狂言が伝えられているという(ここはウィキの「大念仏狂言」に拠る)。ウィキの「壬生狂言」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、これは毎年節分と四月及び十月に京都市中京区の壬生寺(みぶでら)で演じられる無言劇である(現在は重要無形民俗文化財指定)。約七百年の歴史を持ち、演目は現存三十曲に及ぶ。『仮面をつけた演者が、鉦・太鼓・笛の囃子に合わせ、無言で演じる。演目は全部で三十ある。演目には、勧善懲悪などの教訓を伝える話や、平家物語・御伽草子などに取材した話がある。煎餅を観客席に投げる(愛宕詣り)、紙でできた糸を観客席に投げる(土蜘蛛)、綱渡りをする(鵺)(蟹殿)、素焼きの皿(焙烙)を割る(炮烙割り)といった派手な見せ場を持つ演目もある。鉦と太鼓の音から「壬生寺のカンデンデン」の愛称で親しまれている』。『壬生狂言を伝承し演じるのは、壬生大念仏講中の人々である。地元の小学生から長老まで約四十人が壬生大念仏講中を構成し、学校通い、会社勤め、商いなどの本職のかたわらに練習をし、公演をして』おり、現在の公演は年三回で、二月の節分前日と当日の二日間の節分会、四月二十九日から五月五日までの七日間の大念仏会、十月の「体育の日」までの三日間の秋の特別公開に限られている。多佳子はわざわざ「壬生大念仏」という標題を掲げているから、この四月二十九日から五月五日までの七日間の大念仏会での嘱目吟と思われるが、年譜には記載がない。既に述べているが、鎌倉末期の正安二(一三〇〇)年、『融通念仏宗の円覚上人によって創始されたと伝えられている融通念仏の狂言』で、『拡声器のない時代に、仏教を群衆にわかりやすく説くために、大げさな身ぶり手ぶりで表現する無言劇の形態が採用されたという。念仏狂言が無言劇化した理由については、本来、大衆が念仏をする前で行なわれたものであったために、台詞を発しても念仏の声にかき消されて伝わらないので無言になったとする説もある。なお、同じ念仏狂言でも、千本閻魔堂のものは、台詞入りで行なわれている』とあり、『江戸時代になると、布教活動としての色彩が薄れ、大衆娯楽として発展した。能や狂言、物語に取材し、新しい演目が考案された』とも記す。以上の引用や多佳子が特に挙げる演目「炮烙割(ほうらくわり)」は特に『四月の大念仏会の公演では、必ず毎日の最初に催される演目であり、二月の節分会の際に奉納された』多量の炮烙が』、この演目の最後に派手に割られることで知られる(私は同寺へ行ったこともなく、未見)。『炮烙が割れると願い事が成就するとされている』と解説にある。当該壬生狂言演舞をSankeiNews 氏のアップした「炮烙割」の動画で見られる。かなり豪快に割られるのが判る。必見。

『壬生念仏「喰はれ子」鬼に抱へられ』という句は何の演目を言っているのかよく分からない。鬼子母神を考えたが、演目一覧から見るとそれらしいのは「安達が原」ぐらいか? 識者の御教授を乞う。]

 

 

 

 桜狩

 

つづみうつ肉手丁々都踊

 

修学旅行緘黙紅き都踊

 

桜狩葬煙をいぶかりもせず

 

   *

 

花桐や城址虚しき高さ保(も)つ

 

城址の記憶落窪と金鳳華

 

密集の金魚に選別手網(たも)入れる

 

幣ひらひら夜も水口(みなぐち)の神います

 

まくらせる北の空にてほととぎす

 

暁の雨蛙また枕ひびく

 

ひた翔くるこゑほととぎす鳴いて過ぐ

 

仰臥する胸ほととぎす縦横に

 

噴き出づる汗もて汗の身を潔め

 

麦の秋無縁の基に名をとどめ

 

十薬の匂ひにおのれひき据ゑる

 

[やぶちゃん注:底本年譜に、この昭和三十四年の『初夏、「七曜」吟行句会で、大和郡山市の郡山城址、金魚養池等を吟行』と記す。私は行ったこともなく、興味もないのでこれ以上の注は附さない。正直、晩年の多佳子の句柄には全体に彼女らしいキレがなくなってしまっている。目の止まる句も頗る少ない。セレブ女流俳人の好き勝手我儘放題なアバンチュール嘱目吟にはどうも親近感が湧かぬというのが本音である。悪しからず。]

 

 

 

 由布

 

  NHK・二六会の仲間とこがね丸にて別府・

  由布原へ旅立つ。

 

炎天に冥きこゑごゑ蜂巣箱

 

翅のうなりが蜂の存在青裾野

 

近づき過ぎバスに由布岳青胴のみ

 

青双丘乳房と名づけ開拓民

 

  志高湖

 

湖底に合す鶴見青裾由布青裾

 

昼浴衣地獄げむりを身に纏きて

 

過去見るかに老婆泉を長眺め

 

蜜まづき花のかぼちやに遠来し蜂

 

[やぶちゃん注:底本年譜に『七月、NHK二六会員と、こがね丸にて、別府、由布原へ旅行。由布高原をドライブ、志高湖へ』とある。「NHK二六会員」不詳。興味なし。「こがね丸」不詳。同前、興味なし。「由布原」由布高原の旧地域名と思われるが不詳。同前、興味なし。「志高湖」「しだかこ」と読む。現在の大分県別府市内の鶴見岳南東側山腹にある湖。現在は「阿蘇くじゅう国立公園」に含まれ、戦前は「別府三勝」の内の一つとして有名であった別府を代表する観光地の一つ。海抜約六百メートルの高原にあり、周囲約二キロメートル・湖面積約九万平方メートル・水深約二~五メートル。貯水量約二百五十キロトン。『キャンプ場、管理釣り場、貸しボート等の施設が整備されており、湖には白鳥が遊び、鯉が放流されている。また、南東側に位置しハナショウブの名所として名高い神楽女湖とは、遊歩道で結ばれている』。『この湖には流入する川がないため、ポンプで汲み上げた地下水を給水している。しかし、アオコの発生により水質が悪化することがあるため、湖水の浄化のために琵琶湖固有種のイケチョウガイの試験的な導入が進められている』ものの、グーグル画像検索「志高湖を見ると景観としては実に美しいが、現況の観光事業開発としては誘致その他に大失敗した部類に入る状況下にあることが参照したウィキ志高湖から判る。]

 

   *

 

踏みゆるめばすぐに低音稲扱機

 

豊年や走れば負ひ子四肢をどる

 

三つ星がオリオン緊める新刈田

 

乳母車坂下りきつて秋天下

 

噴水を白らめ川霧とどこほる

2015/08/18

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅴ) 大正一三(一九二四)年 (全)

 

    大正一三(一九二四)年

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一二)年から大正一二(一九二三)年の日記は底本にはない(実在しないかどうかは不明。ただ、一月四日の記事に『此年になつて日記をつける事になつた氣が知れぬ。若返つたのか年のせいか』という自嘲の言葉を記しているところを見ると、ある有意な期間、彼は日記を書いていなかった可能性が頗る高い)。この間、大正二年に慶応大学文学部を退学(基本的に父親の厳命に拠る)福岡県香椎の杉山農園経営に従事することとなった(経営実状は惨憺たるものであった)が、各地を気儘に放浪、大正四年六月二十日、突如自己意志によって東京文京区本郷の喜福寺にて剃髪、禅僧として出家して法号を泰道と称した(継母及び実父杉山茂丸側近内に長男である直樹(久作の本名)を廃嫡する策動を察知して自ら先手を打ったものらしい)。翌年にかけて行雲流水の行脚に出るが、大正六年に僧名のまま還俗、杉山家を継承して再び杉山農園に戻った(父茂丸の命と継母の願いに拠る。この頃より執筆活動が開始され始める)。大正七年二月二十五日、鎌田クラと婚姻、この頃、喜多流謠の教授資格を伝授され、鎌倉郡長谷三〇五番地より杉山農園に正式に転籍、大正八年には長男龍丸出生し、農園経営に力を入れ始めている大正九年、父のコネで玄洋社系の『九州日報新聞』記者として入社翌大正十年には福岡市荒戸町杉土手に転居し、次男鉄児が生まれている。大正十一年には同新聞社社会部から家庭欄担当に配置換えとなって、童話を多く執筆し始める(十一月には代表作の一つ「白髪小僧」を杉山萠圓名義で誠文堂より出版)大正十二年九月一日の関東大震災では同新聞社震災取材特派員記者として八面六臂の活躍をしつつ、童話執筆も旺盛であった。以下、本大正十三年には、三月一日附を以って『九州日報』を退社(震災取材の疲労甚だしきに拠る休養を理由とする。但し、翌大正十四年四月一日附で再入社し、凡そ一年後の大正十五年五月に再度、退社している)するが、この頃より本格推理小説の執筆が既に始まっていた模様である(同年十月博文館の探偵小説公募で杉山泰道名義で「侏儒」が選外佳作となっているからである)。]

 

 一月一日 火曜 

◇ニツコリと云ふも事も無い幸福さ

 

◇ゆつくりと急いで娘道を問ひ

 

◇今年からコスモスを蒔く幸福さ

 

◇晴れ渡るあとから下駄を提げて行く

 

[やぶちゃん注:元旦らしい祝祭句群であるが、生活感がリアルに出ていて好ましい。]

 

 

 

 一月二日 水曜 

 

◇煙よ煙よデモ五圓借せ二圓借せ

 

[やぶちゃん注:「煙よ煙よ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

◇ふりかへる煙の中の月一つ

 

◇殘る煙癪は癪だがなほる方

 

◇煙つたい奴に生憎金があり

 

[やぶちゃん注:ここは次の川柳と間に有意な一行空けがある。]

 

◇借りる丈け借りて急用思ひ出し

 

◇大急ぎお辭儀が角を折れまがり

 

◇先生がドテラを召していらしてよ

 

◇先生がかはつて居るで又睡り

 

◇晴やかに笑つて扨と暗い顏

 

[やぶちゃん注:久作に金をたかってくる青年達(思想左右不詳)の影が、何とも彼の心にどんよりとしたものを落している感じが強く感じられる。この蠅どもに就いて御存じの識者の方の御教授を乞うものである。]

 

 

 

 一月三日 金曜 快晴 寒 

[やぶちゃん注:この「金曜」の記載はママ。久作の誤り。事実は木曜である。]

晴れ渡る田舍をとぼとぼ歩みくれば

 いつか思ひに頭うなだる

 

秋の夕日眞赤に海を渡り來るを

 笛吹き乍ら汽車よぎり行く

 

[やぶちゃん注:前年(或いはそれ以前)の秋の回想吟であることが判る。ここから前後の詩歌群も嘱目吟と読むととんだ誤読を仕出かすかも知れないので、御用心。]

 

 

 

 一月四日 金曜 

 

空の煙地上の煙かぐやかに

 わが見晴らせる秋の神聖よ

 

間引きする吾が二の腕に春の陽は

 いつとしも無くうすれ行くも

 

手術室のヱンジンの音ひそやかに

 白雲一つ窓よぎり行く

 

硝子窓おびゆる如く音たてゝ

 晴れ渡りゆく秋の曉

 

 

 

 一月五日 土曜 晴 

 

電鐡のポールが窓をよぎり行く

 あとより秋の雨晴れて行く

 

街ゆけば思ひめぐらす事多し

 三十のわれ早老いけるか

 

[やぶちゃん注:当時、夢野久作、満三十五歳であった。]

 

長崎に明日着く船のしみじみと

 海わたりゆき秋の日暮れぬ

 

何處からか見知らぬ犬がついて來る

 秋のまひるの街のしづけさ

 

笑ひ出すあとよりすぐに眞面目になる

 何か彼女の氣にかゝるらし

 

 

 

 一月六日 日曜 

 

 クラと博多より歸るさ柴藤とつれ立つ。女づれなり。

 博多發四時十三分の汽車を待つ間立石氏の處へよる。川流作者六人われもまじりて作る。

 講談雜誌二百圓懸賞の題「まけぬ氣」十分間吟也。一分間二十圓これ程のかねまうけはあるまじと古野しやれる。

 

 惚れたのと戀との區別人にきかれ

  あはれなるわれ頭かくのみ

 

 近い中にマント買へると云ふことが

  心うれしく幾月かつとめぬ

 

 わが兒等を海に連れ來て幾度か

  石投するうち淋しくなりぬ

 

 進物のチョッキわざっとスイタ樣

 

[やぶちゃん注:全文表示。最終川柳の「チョッキわざっと」はママ。「クラ」は久作の妻。「芝藤」は芝藤精蔵と言い、喜多流能楽師範で芝藤醤油店社長。彼は久作と喜多会問題で大喧嘩をした人物と底本注にある。]

 

 

 

 一月七日 月曜 晴 

 

◇安いねと笑つたら先づ買はないの
 

◇茶を嗅いでお菓子を嘗めていづれ又

 
◇もういけませんと云ふ程婆でなし

 
◇大變よ坊ちやまの手に赤インキ

 
◇銀紙に腰を拔かした譯を云ひ

 
◇赤い夕日にんじん花にしみぐとしみつき光り秋高晴るる

 

 

 一月八日 火曜 晴れ 

今の思ひ今限りかと思はるゝ

 夕日眞赤し夕日眞赤し

 

はるかなる雲路の鳥を見送りて

 しばし佇む秋老いし心

 

歸路みちうなだれて行く物思ひの

 絶え間絶え間に蟲すゞろ泣く

 

 

 

 一月九日 水曜 夜急雨 

 

思ひ絶え思ひ絶えつゝ物思ひく行く秋の野の風

 

秋の風彼の山の草吹枯らせ靑さに絶えぬ吾思ひなれば

 

赤土を切り開かれし山の端に今年の秋より汽車通るてふ

 

消しゴムで消え相な雲が空を行きサアと雨ふる秋の夕暮れ

 

何やらむ心の底に飢えかわき秋の一日の靜かに暮るゝ

 

鼠なき姐御ジロリとふりかへり

 

信越線で日本大陸横斷すれば兩方に秋の梅見えたるわ

 

人間よ汝は無用のものなる哉靑空をじつと見つめる心

 

 

 

 一月十日 木曜 

月の中に又月のあり月のあり吾が涙つひにあふれ出でしかな

 

吸殼を河に投げすてふと思ふわれにわかれて消えてゆくもの

 

 

 

 一月十一日 金曜 

 

エスペラントと英語とまじりヒラヒラと秋の夕浪暗くなりゆく

 

[やぶちゃん注:「ヒラヒラ」の後半は底本では踊り字「〱」。次の一首の「ヒラヒラ」も同じい。]

 

先生の鬚なれば何故可笑しいかヒラくと秋の夕浪の打つ

 

 

 

 一月十二日 土曜 

運命に囚はれじとてもがくはどその運命に囚はるゝかな

 

實父のためまゝ母のため三十まで童貞なりし男なりわれ

 

 

 

 一月十三日 日曜 

 

無殘なる大東京の燒けあとにやつぱり月は一つしか出ず

 

[やぶちゃん注:前日の日記には『鎌田にとまる』とはあるものの、これや以下の情景は関東大震災後の回想吟と思われる(十一日は博多に居り、この日は長崎と思われる『新大工町』にいた友人を訪ねている模様だからである)。]

 

しづかなる此世の夢のたまゆらと知らでや星の空を飛ぶらむ

 

吾が歌のわが聲となる嬉しさよ吾が手を揉みてよろこぶ

 

わが妻は時折り何か泣きてあり尋ねも得せぬ吾が心弱さ

 

黑烟は空にたゞよひ汽車の音ははるかに遠く春の陽に沈む

 

蓮池の蓮の枯れ葉の一つ一つ石れい渡り日の暮れて行く

 

煙突がたふれて來さうに思はれて秋の靑空恐ろしき哉

 

病院の音ことも無きあかつきを患者はいかに耳すますらむ

 

雲漂ひ家立ち並び人あゆむ秋のまひるのあらはなる哉

 

 

 

 一月十四日 月曜 

 
何かしら相濟まぬ事ある如し秋日かゞやく街を歩めば

 

客人が歸ると急に腹がへり

 

畏こまつて亭主孫兒を抱いて居る

 

安ちやんを御覧なさいでかしこまり

 

月明るし月また暗しはるかなるちがやの山に風波るきこゆ

 

シグナルの光悲しも月の下のちがやの原を風渡るとき

 

雲盡きず月の光もまた盡きず風また盡きず吾が家のまはり

 

 

 

 一月十五日 火曜 

 

子の事を云ひもせぬのに母は詫び

 

鏡台と便所で讀むは祕報展

 

主よ彼女を早く信仰に入らしめよ

 

見慣れても變な婆卷煙草

 

厂手紙いくらか惚れてからの事

 

[やぶちゃん注:「厂手紙」「かりてがみ」か。蘇武の故事に基づく雁書から考えれば、「おくりぶみ」(恋文)かも知れない。識者の御教授を乞う。]

 

パンのみで生きてイヱスに唾を吐き

 

成金になつて世間が狹く見え

 

出かけ相な亭主にうまく子を預け

 

基督は世界最初のまけ惜しみ

 

瓦斯タンク何だか□□なものに見え

 

[やぶちゃん注:「□□」は判読不能字と思われる。]

 

度胸丈け群を拔いたが運の盡き

 

 

 

 一月十六日 水曜 

 

先生のドテラはあれでハツタンよ。

 

細君の度胸煙草の店を出し

 

内證では狐狸も馬鹿のうち

 

お前こそ狐だと云ふ仲のよさ

 

救世軍狐狸をおだて上げ

 

地震學まだ云ひ當てぬ狐付

 

ギヤーギヤーを狐ときいてこわくなり

 

[やぶちゃん注:「ギヤーギヤー」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

シテの出はワキのシビレが切れてから

 

犬公方男公方は出ずじまひ

 

 

 

 一月十八日 金曜 

 

詩は加藤竹は吉安うたひ俺れ

 

[やぶちゃん注:「加藤」底本注に加藤介春とある。福岡県出身の詩人加藤介春(かいしゅん 明治一八(一八八五)年~昭和二一(一九四六)年)か。早大在学中の明治四〇(一九〇七)年に相馬御風らと「早稲田詩社」を結成し、次いで「自由詩社」創立に参加、口語自由詩を唱え、後に久作の勤めた九州日報社、福岡日日新聞社に勤務した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

 

お茶は淸原無藝しの崎

 

屁は加藤豆は吉安酒はおれ

 

飯は杉山嬶ア篠崎(ダブ)

 

ソーネ花田モジモジ谷田阿呆瀨戸

 

アレクサ安藤わしが大原

 

歌社長女贄田に電話和田

 

[やぶちゃん注:周囲の人間をヤリ玉に挙げた徹底した揶揄嘲笑川柳らしいが、細部は不詳。]

 

 

 

 一月卅一日 木曜 

 

五月晴れひとりしみじみ機關手は汽車のくるまに油さすなり

 

 

 

 二月五日 火曜 

 

◇思ひなくねむりにしづむたまゆらとしらでや星の空を飛ぶらむ

 

◇はるかなる工場の笛に耳すます肺病の子の春のあかつき

 

 

 

 二月廿日 水曜 

 

家も無く金なく足袋は泥だらけタビのあはれを思ひしるかな

 

 

 

 二月廿四日 日曜 

 

[やぶちゃん注:『九州日報』第一回退社の六日前である。但し、以下の二十三首に及ぶ多量の歌稿は、この日の記事の後に特に『(欄外)』として載る。そして、ここで唐突に大正一三(一九二四)年日記は断絶している。]

 

俺一人が山に登つてゐるうちに

 世界が津浪で亡びればよい

 

何かしら笑みかゞやきて街を行く

 死なうと思ふて家を出づれば

 

俺の腕の大き靑すぢ斷ち切りて

 血を吸はせやうかドクダミの花

 

秋日あかく

 死人は頰の傷の横に

  白い齒を剝いて……秋日あかあか

 

[やぶちゃん注:「あかあか」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

おれの罪が

 輪に輪をかけて果てもなく

  つながる果の三日月の光り

 

カフヱ一に來て

 ストローを口にしてやっと

  人を殺して來た氣持ちになる

 

[やぶちゃん注:「やっと」はママ。]

 

牛乳の瓶を毀して

 自殺した娘

  母は叱りませぬと云ふのに

 

居留地で西洋婦人が自殺した

 原因はわからぬと

  警官が笑ふ

 

知らぬ男

 留守に尋ねて來たといふ

  知らぬ男恐ろし夕の夕榮え

 

靑草を

 新しい下駄で踏みわけて

  逃げ出した氣持ち今も忘れず

 

同囚の

 殘忍な顏を思ひ出す

  夕日の前にハラハラ降る雨

 

[やぶちゃん注:「ハラハラ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

盗んだ金

 まだ使ひ得ず村を行く

  はるかにはるかに汽車の吹く笛

 

[やぶちゃん注:「はるかにはるかに」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

眞夏まひる

 わが古き罪思ひ出づる

  のいばらの花を見つゝも

 

毒藥の小さな瓶が唯一の

 樂しみとなって

  半日經った

 

[やぶちゃん注:「なって」「經った」の拗音はママ。]

 

此の斜面突落されてみたい

 なぞ思ふうちフト

  辷りはじめた

 

美しい此姉さんを

 突き刺したら

  香水の血が出るやうな氣がする

 

木の葉動かず

 星もまたゝかず

  たつた今人を殺した俺をみつむる

 

殺された態度を

 探偵が眞似て見せた

  あまり違ふので俺は笑ひ出した

 

靑空はいろんな罪を

 仰ぎ見る人に教えて

  知らぬ顏してゐる

 

地平線の

 一直線の恐ろしさ

  燕が叫んで逃げて歸つて來る

 

土深く死骸を埋めて

 其の上に大きな石を

  埋めてほゝ笑む

 

棚の上のアルコール漬の肺臓等

 ため息し居り秋の日あかあか

 

[やぶちゃん注:「あかあか」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

妖女あり妖怪と躍り忽ちに

 妖兒を孕めり印度の更紗

 

[やぶちゃん注:以上、まさにプレ「獵奇歌」群と呼ぶに相応しいが、言っておくが「獵奇歌(りやうきうた)」の公開開始はこれより四年後の昭和三(一九二八)年六月以降である。]

アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (八) 女王の球打場

 

    八 女王(ぢよわう)の球打場(たまうちば)

 

 大きな薔薇の樹が、庭の人口の傍(そば)に植わつて居りました。その樹に咲いて居る花は白でした。けれども三人の庭師が、せつせとそれを赤く塗つて居りました。アリスは大層不思議に思つて、よく見るために側へと寄つていきました。アリスが三人のところへ間近に來ましたとき一人が、「おい、氣をつけろい、五の野郎、こん々におれに繪具をはねかすない。」

 「どうともしやうがないさ。」と五は不機嫌さうに言ひました。「七の野郎がおれの肘をついたんだよ。」

 すると七が顔を上げて言ひました。「さうだらうよ、五の野郎、お前はいつも他人に罪をなすりやがる。」

 「貴樣餘けいな口なんぞ利かない方がいいぜ。」と五がいひました。

 「おれはつい昨日も女王樣が、貴樣を打首にしてもいい位だつておつしやるのを聞いたぞ。」

[やぶちゃん注:底本は「おちしるのを聞いたぞ。」であるが、「おつし」の下に一字分の空白があり(行末)、脱字と断じて、恣意的に訂した。]

 「何でだ。」と、一人の男が初めて言ひました。

 「それはお前には用のないことだ、二の野郎。」と七がいひました。

 「うん、それはあいつに用のあることだ。」と五がいひました。「それだからわしがあいつに話してやるよ――玉葱(たまねぎ)の代りにチユリツプの根を料理番に渡したからなんだ。」

 七は刷毛(はけ)を投げだして、かういひ始めました。

 「さてまあ、いろいろと、不公平な事のうちで――。」このとき七は、アリスが、そこに立つてヂツと見てゐるのを知つたものですから、急に言ひかけた言葉をのみ込みました。それで他(ほか)のものも亦(また)周(まは)りを見まはして、アリスの居るのに氣がつきました。みん々は揃つて叮嚀にお辭儀をしました。

 「あの一寸お尋ねしたいのでずが。」とアリスは少しくおどおどして言ひました。「どうしてこの薔薇を塗つていらつしやるんですか。」

 五と七は何にも言はないで、二の方を見ました。二が低い聲で話しはじめました。「まあ、その理由(わけ)と云ふのはねえお孃さん、ここに赤い薔薇を植ゑなければならなかつたのです。ところが間違へて白い樹を植ゑたのです。そのことを女王樣に見つけられたら、わたし達はみんな打首になるのです。それでお分りでもありませうが、女王樣がここへいらつしやらないうちに、一生懸命赤に塗つて居る次第なのです――。」このとき庭の向ふをキヨロキヨロ見て見た五が叫びだしました。「女王樣だ、女王樣だ。」すると三人の庭師は、直ちに、平伏してしまひました。多勢(おほぜい)の人の足音がやつて來ました。アリスはぜひ女王を見たいと思つて、すぐ振り返りました。

 先づ初めに棒を持つてゐる、十人の兵士がやつて來ました。この兵士共は庭師と同じやうな恰好をして居ました。それは平べつたい長つぽそい形で、その角(すみ)から手や足がでてゐました。次に十人の廷臣たちかやつて來ました。この人達は全身ダイヤモンドで飾られてゐて、兵士達と同じに二列になつて歩いてきました。そのあとから王子たちが來ました。みんなで十人、二人づつ手をつないで、この小さい可愛(かはい)らしい子供たちは、愉快さうにとんでやつて來るのでした。どれもみんなハートの形で飾られて居りました。次には賓客達で、大抵(たいてい)は王子樣か女王樣でしたが、アリスはその中(なか)に白兎が入つて居るのを見つけました。兎はあわてた、こせついた風で話をしながら、話の一つ一つにニコニコ笑つたりして、アリスには氣づかない風でそばを通り過ぎました。それからハートのヂヤツクが王冠を朱の天鵞絨(ビロウド)の褥(しとね)の上にのせて持つていきました。そしてこの大行列の一番終りにハートの王樣女王とがやつてきました。

[やぶちゃん字注:「棒」原文“clubs”。クロッケー(Croquet)用の「クラブ」だが、通常は木製の「木槌」で「マレット(mallet)」と呼ぶ。]

 アリスは三人の庭師のやうに、顏を地につけて平伏(ひれふ)して居なければならないものかどうか、疑はしく思ひました。行列を見る場合そんな規則があるなどと聞いた覺えがありませんでした。「それに人人(ひとびと)が行列が見えないほど顏を地につけて平伏(ひれふ)して居ては行列をしたつて、好の役にもたたないぢやないの。」と考へました。それでアリスは自分の場所に立つて行列のくるのを待つてゐました。

 行列がアリスの方へやつて來ましたとき、みんな一人殘らず立止つてアリスを見ました。すると女王はいかめしい顏をして言ひました。

 「これは誰(たれ)だ。」女王はハートのジヤツクにいつたのでしたが、この男はただお辭儀をしてニコニコ笑つて居るばかりでした。

 「馬鹿!」と女王は我慢しきれない樣に、頭をふりながらさう云つてから、アリスの方を向いて訊ねました。「お前の名は何といふのだい。」

 「陛下、私(わたくし)の名前はアリスでございます。」と大層叮嚀にいひましたが、心の中ではかう思ひました。「まあ、この人達はつまり、カルタの一組にすぎないぢやないの、わたしこんな人達こはがるには及ばないわ。」

 「それから、この者たちは誰(たれ)だ。」と女王は薔薇の樹のグルリに、平伏(ひれふ)して居る、三人の庭師を指ざし右がら言ひました。なぜなら、この男達は地に平伏(ひれふ)して居るので背中の印は外(ほか)のカルタ仲間と同じですから、庭師だか、兵士だか、廷臣だか、自分たちの子供の中の三人だか分らないのでした。

 「どうしてわたしに分りませうか。」とアリスはいつて、自分ながらさういひだした勇氣に驚きました。「そんなことはわたしに係(かかは)りのない事でございます。」

 女王は怒(おこ)つて眞赤になりました。しばらくの間恐ろしい獸のやうない目をして睨んでゐましたが、金切聲(かなきりごゑ)でどなり始めました。「あの女の子の首を切れ、切つてしまへ。」

 「馬鹿ねえ。」とアリスは大層大きな聲で、キツパリと言ひました。すると女王は默り込んでしまひました。

 王樣は女王の腕に手をかけて、おぢおぢしながら言ひました。「まあ、おまへ、考へてごらん。あれはねんねえに過ぎないよ。」

 女王は怒つて王樣から顏をそむけて、ヂヤツクに言ひました。「あいつらを、ひつくり返せ。」

 ヂヤツクは大層用心深く片足で、言はれた通りにしました。

 「おきろ。」と女王は金切聲をはり上げて言ひました。十ると三人の庭師は直(ただち)にとび起きて、王樣や女王樣や、王子たちや其の外、誰(たれ)にでもお辭儀をし始めました。

 「もうお止(や)め。」と女王は金切聲でいひました。「おまへたちのすることを見て居ると、目がまはつてくる。」それから薔薇の樹の方を向いて、いひました。「お前たちはここで何をしてゐたのだい。」

 「陛下のお氣に召すやうに。」と二人は片膝をつながら、恐れ入つた聲でいひました。「わたしたちはあの――。」

 「分つた。」と女王は薔薇の花を調べて見てから言ひました。「この男たちを打首にしろ。」それから行列は動き出しました。後(あと)にはこの不仕合せ攻庭師を死刑に處するために、三人の兵士が殘りました。三人の庭師たちはアリスのところへ走つて來て助けを願ひました。

 「お前たち打首になることはないわ。」とアリスは言つて、近くに置いてあつた大きな植木鉢の中に三人を入れてしまひました。三人の兵士たちは、しばらくの間、庭師を探しに歩きまはつてゐましたが、やがて落ちつきはらつて行列の後(あと)についていきました。

[やぶちゃん字注:この最後の「やがて落ちつきはらつて行列の後(あと)についていきました」の「ついていきました。」は、底本は「ついていましまた。」であるが、誤植と断じ、以上のように恣意的に訂した。因みにこの前後の一文の原文は“The three soldiers wandered about for a minute or two, looking for them, and then quietly marched off after the others.”である。福島正実氏の訳は『やがて静かに、ほかの者たちの後を追って更新して行きました』であり、大久保ゆう氏のそれ(青空文庫版)は、『だから3まいの強者は、ものの数分うろうろとさがしただけで、あとはみんなの後を追ってすたすたすた。』である。「ついていきました。」で私は問題ないと信ずるものである。]

 「打首にしたか。」と女王が叫びました。

 「仰せの通りに、首をはねましてございます。」と兵士たちは叫びかへしました。

 「よろしい。」と女王は叫びました。「お前(まへ)球打遊(たまうちあそ)びができるか。」

 兵士たちは默つてアリスの顏を見ました。――といふのは、この問(とひ)は明らかにアリスに尋ねられたからでした。

 「はい。」とアリスは大聲でいひました。

 「それではおいで。」と女王はどなりました。

 そこでアリスは、この次にはどんなことが起るだらうかと思つて、行列に加はりました。

 「ええと、ええと、大層よい天氣ですなあ。」とアリスのそばで、おどおどした聲が言ひました。アリスは例の白兎のそばを歩いて居るのでした。兎は心配さうにアリスの顏をのぞき込んでゐました。

 「大層よいのねえ。」とアリスが言ひました。公爵夫人はどこにいらつしやるの。」

 「シツ、シツ。」と兎はあわてて、小さい聲でいひました。かう言ひながら兎は心配さうに一寸(ちよつと)振り返りました。それから爪先立(つまさきだち)をして、アリスの耳に口をつけ、ささやきました。「夫人は死刑の宣告をうけたのです。」

 「なんで。」とアリスは言ひました。

 「あなたは『なんて氣の毒な』といつたのですか。」と兎が訊ねました。「いいえ、さうぢやないわ。」とアリスは答へました。「わたし少しも氣の毒には思ひませんわ。『なんで』とわたしはいつたのよ。」

 「夫人は女王樣の耳を打つたのでした。」――と兎はいひ始めました。アリスはキヤツ、キヤツと笑ひました。

 「まあ、お靜かに。」と兎は驚いていひました。

 「女王樣に聞えますよ。公爵夫人はね、少し遲くなつて來たのです。すると女王樣がおつしやるのに――。」

 「みんな場所におつき。」と女王は雷(かみなり)のやうな聲でいひました。家來たちは、ぶつかり合つてころびながら、そこいら中(ぢゆう)を駈けまはり始めました。けれども、一、二分のうちに場(ば)におちついて、それで遊戯(いうぎ)が始まりました。

 アリスは、こんな珍らしい球打場(たまうちば)は、生れて初めて見たとと思ひました。それは、どこも畦(あぜ)や溝(みぞ)ばかりでした。球(たま)は蝟(はりねずみ)で、棒は生きた紅鶴(べにづる)でした。そして兵士たちは、アーチをつくるのに、自分達の身體(からだ)を二重に折(を)つて、手と足とで立たなければなりませんでした。

[やぶちゃん字注:「生きた紅鶴」原文“live flamingoes”。フラミンゴの方が最早、分りが良い。]

 アリスが先づ一番むづかしいことだと思つたのは、紅鶴(べにづる)をあつかふことでした。アリスはそれの身體(からだ)を丸めて、大層工合よく、足を下にさげて、脇の下にかかへることかできました。けれども、アリスがそれの首を眞直に旨(うま)くのばして、それの頭で蝟(はりねずみ)の球(たま)を打たうとする時になると、いつもぐなりとまがつてしまつて、ずゐぶん變な顏をしてアリスの顏をヂツと見るものですから、アリスはこれを見ると笑ひださないでは居られませんでした。アリスがその首を下にさげて又打ち始めますと、今度は蝟(はりねずみ)がころがらないで、のそのそ匍(は)つていかうとしますので、全くいらだたしくなりました。その上、蝟(はりねずみ)を打ちださうとする方向には、一面に畦や溝があつて、それに二重(ふたへ)に折れて輪(わ)をつくつて居る兵士は、いつも起き上つたり、方方歩きまはつたりしますのぺ アリスは間もなく、この球打遊(たまうちあそび)はほんとに難しい遊戯(あそび)だと定(き)めてしまひました。

 球打(たまうち)をする人達(ひとびと)は順番なんか待たず、始終喧嘩をして、蝟(はりねずみ)をとりあつて、一度に球打をしだしました。それで女王はすぐに怒つてしまつて、地團(ぢだんだ)をふみながら、どなりたてました。「あの男を打首にしろ。」とか、「あの女を打首にしろ。」とか、一分間に一度位(ぐらゐ)の割合で言つて居りました。

 アリスも大層心配になつてきました。アリスは、まだ女王とほんとに喧嘩だけはしませんでした。けれども、いつどうなるかも知れないことだと思つてゐました。「さうしたら、わたしどうなるだらう。」とアリスは考へました。「この國の人達(ひとたち)は、打首をすることが大變好きらしいわね。だのに、生き歿つてる人がゐるから、全く不思議だわ。」

 アリスは逃げ道をさがして、見つけられないで、逃げられるかどうかと考へてゐました。そのとき空中に妙な形をしたものが現はれました。初めのうちは何だかさつぱり見當がつきませんでしたけれども、一、二分の間(あひだ)ヂツと見て居ると、それかニヤニヤ笑ひの口(くち)だといふことが分りました。それでアリスは獨語(ひとりごと)をいひました。「あれはチエシヤー猫だわ。これでわたし話相手ができたわ。」

 「御機嫌如何ですか。」と物が言へるだけ口が出て來た時(とき)猫はいひました。

 アリスは猫の目かでてくるまで待つてゐました。それから分つたやうにうなづきました。「耳がでてくるまでは話をしても無駄だわ。すくなくとも片耳だけでも。」

 すぐに猫の頭がすつかり出て來ました。そこでアリスは紅鶴(べにづる)を下に置いて、自分の話を聞いてくれるものができたのを喜んで、球打(たまうち)の話をしだしました。猫は頭だけ見せれば十分だと思つて、それ以上には姿を現はしませんでした。

 「みんなが正直に球打ちをして居るとは思へないわ。」とアリスは、不平らしい口付(くちつき)で話しだしました。「それにあの人達は無茶に喧嘩をら喧嘩をするもんだから人のいふことなんかきこえやしないの――そしてこれといつて別に規則もないらしいのよ。まあ、もしあつても誰(たれ)も守りはしないわ。――それに何から何まで生き物を使うんですもの、その混雜といつたら考へもつかない位(くらゐ)だわ。たとへていへば、わたしが次にくぐつでいかねばならないアーチは球打場(たまうちば)の向ふの端なんかを歩き廻つてゐるの。――そして今しがたもわたしが、女王の蝟(はりねずみ)を打たうとすると、私のが來るのを見つけてずんずん逃げていつてしまふといふ仕末なの。」

[やぶちゃん字注:最後の「そして今しがたもわたしが、女王の蝟(はりねずみ)を打たうとすると、私のが來るのを見つけてずんずん逃げていつてしまふといふ仕末なの。」という箇所は少し分かり難い。原文は“—and I should have croqueted the Queen's hedgehog just now, only it ran away when it saw mine coming!”で、私の生きたハリネズミの球が転がって来るのを見ると、女王の生きたハリネズミの球は自分で勝手に元あった位置から「ずんずん逃げていつてしまふといふ仕末なの」よ! と憤慨しているのである。]

 「お前は女王樣は好きかい。」と猫は低い聲でいひました。

 「ちつとも。」とアリスが言ひました。「女王樣は大變に――」といひかけると、女王がすぐアリスの後(うしろ)で、耳をかたむけてゐるのを見つけましたので「――きつと勝つでせう。だからおしまひまで勝負をやる必要なんかないわ。」と言ひました。

 女王はニコニコして通つていきました。

 「お前は誰(たれ)に話をして居るのだい。」と王樣はアリスの傍(そば)へやつてきて言ひました。そして大層不思議さうに猫の頭を見ました。

 「これは私の友達で――チエシヤー――猫ですの。」とアリスはいひました。

 「御紹介しますわ。」

 「わしはあれの顏つきがきらひだ。」と王樣がいひました。「けれども望みとあれば、手にキツスをゆるしてやる。」

 「あんまり望みでもありません。」と猫はいひました。

 「小癪なことをいふな。」と王樣は言ひました。「そんなにわしの顏を見るな。」王樣はかう言ひながら、アリスのうしろへいきました。

 「猫は王樣の顏を見てもいいものです。」とアリスは言ひました。「わたしはある本で見たことかあります。でもどこだつたか覺えてゐません。」

 「とにかく、あいつは取りのけなければいけない。」と王樣は大層キツパリといつて、丁度そこを通りかけた女王に話しかけました。「ねえ、お前あの猫をとりのけてくれないか。」

 女王にはどんなむづかしい、又は易しい問題でもそれを定めるには一つの方法しかありませんでした。それで「あいつを打首にしろ。」といつて見向きもしませんでした。

 「わしは自分で首斬人(くびきりにん)をつれてくる。」と王樣は熱心にいつて、駈けだしました。

 アリスは自分も戻つていつて、勝負がどんな樣子だか見たいと思つてゐましたが、そのとき女王が怒つて、金切聲を張り上げて居るのを聞きました。順番を間違へたといふ理由(りいう)で、女王が三人に死刑の宣告を下したのでした。アリスは勝負が滅茶苦茶になつて、自分の順番だかどうだか分らないほどでしたから、樣子を見て居るのがいやになつてきました。それで自分の蝟(はりねずみ)を探しにでかけていきました。

 蝟(はりねずみ)は外の蝟(はりねずみ)と爭(あらそ)つてゐました。それをつかまへて他の蝟(はりねずみ)を打つのに至極いい時だと思ひましたが、今度は困つたことには、紅鶴がお庭の向ふへ行つて、樹の上にとび上らうとあせつて居るのが見えました。

 それで紅鶴をつかまへて歸つて來ますと、蝟(はりねずみ)の爭ひはすんで居て、二匹ともどこかへ去つてしまつてゐました。「でも平氣よ。アーチの兵士たちがこつち側にはゐなくなつてしまつたから。」

 そこてアリスは紅鶴をのがさないやうに、脇にしつかりかかへて、お友達と話をしに戻つていきました。

 アリスがチエシヤー猫の處に戻つていつて、驚きましたことには、猫のまはりに多勢(おほぜい)の人があつまつてゐるのでした。首斬人と王樣と女王との間に口喧嘩がおこつてゐて、三人が三人とも一緒にしやべりたててゐました。けれども他(ほか)の者たちは默りこんで、不愉快さうな顏をしてゐました。

 アリスの姿が見えると、三人はアリスにこの問題をきめてくれるやうにと賴むのでした。三人はアリスに自分の言分(いひぶん)をくりかへしました、けれども、一緒に話すものですから、何をいつて居るのかよく分ませんでした。

 首斬人の言分は、首が身體(からだ)についてゐてゐければ首を切ることはできない、それに今迄にそんなことはしたこともないし、又自分の樣な年齡になつてから、そんなことをやり始めようとも思はないといふのでした。

 王樣の言分といふのは、首のあるものの首をきることができないことはない、そしてこれは馬鹿げた話ではないといふのでした。

 女王の言分といふのは、今すぐできないやうなら、誰(たれ)でもかまはず、みんなを打首にする、といふのでした。(このおしまひの言葉で、一同は至極ものものしい心配げな顏をしました。)

[やぶちゃん字注:最後の丸括弧閉じるは底本になし。恣意的に附した。]

 アリスは外に何もいふべきことを思ひつかず、唯(ただ)、「それは公爵夫人のものです、夫人に訊いて見た方がよろしいでせう。」とだけ言ひました。

 「あの女は牢屋に入(はひ)つて居(ゐ)る。」と女王は首斬人にいひました。「ここへ連れてこい。」それで首斬人は矢のやうにとんでいきました。

 猫の頭は首斬人が行つたときから、段段と消えはじめ、公爵夫人を連れてきたときには、すつかり見えなくなつてゐました。そこで王樣と首斬人は、アチラコチラをドンドン走り廻つて猫を探しました。けれども他(ほか)の人達は、又勝負をやりに立ちかへつていきました。

 

[やぶちゃん注:冒頭の第一段落最後のカード「2」の庭師が「はねかすない」という語を用いている。詳細は木下信一氏の手に成る「菊池寛・芥川龍之介共訳『アリス物語』の謎」を参照されたいが、木下氏は少なくともこの「はねかす」という語を芥川龍之介に特徴的な東京訛りと捉え、最大でこの冒頭辺りまでは、龍之介が翻訳したのではないかという仮説を建てておられることを紹介しておく。少なくとも、この前の第七章までは確実に芥川龍之介訳「アリス物語」であるというのが木下氏の推理であり、以降はそれを引き継いだ菊池寛訳になるものと推断されておられる。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (四)

 

       

 

 杉と楓の茂つた間を、幅の廣い斜面の石段が通じてゐる。私共はこの阪を登つて行くと、二頭の佛陀の唐獅子――雄は威嚇の口を開き、雌は口を閉ぢて――雌が待つてゐる。その間を通つて、寺の大きな境內へ入つた。先きの方には、まだ茂つた丘が聳えてゐた。

 寺の屋根は、靑銅の瓦、反りを打つた檐、鬼瓦、龍、悉く風雨にさびて、一面に模糊たる色合となつてゐた。障子は開いてゐるが、内から洩れる拍子を祭びた悲しげな誦言は、眞晝の勤行と知られた。僧侶が法華――梵經の漢譯――を讀誦してゐるのだ。一人の僧は讀誦し乍ら、綿を卷いた木槌で、滿面深紅と黃金色に漆を塗つた、海豚の頭のやうな怪異なものを叩いて、拍子を取つて、單調な冴えない響を出す。これは木魚である。

 寺の右に當つて小さな堂がある。その邊、線香の香りが滿ちてゐる。灰を一杯容れた小爐に立てたる六本ほどの線香柱から、靑煙が卷き上がつて行く。その間から覗き込むと、暗い奧に、冠冕を被つた、煤けた佛像が拜まれた。その稽首合掌の狀は普通の人々が、寺の入口に立つて、外から祈りを捧げてゐるのを、私はよく見受けるが、丁度それに似てゐた。木像の彫刻も彩色も粗末ではあるが、不靜安穩の顏は、暗示的の美を呈してゐた。

 境内を横切つて、建物の左手へ行くと、前面に今一つ石段の阪道が、巨大な樹木の間の不思議さうな、高いものの方へ通じてゐた。私はまたこの阪を上つて、二頭の小さな象徴的な獅子に護られた頂に達すると、忽然ひんやりした蔭になつて、しかし、全く見慣れぬ光景に驚いた。

 くすんだ――殆ど眞黑な土地、一面に空を塞ぐ老樹の梢間から、ところどころへ僅かの日光が渡れる欝然たる綠蔭、柔かで森嚴な薄明りの光に現された異樣なものの一大集團――灰色で、柱の如く、苔が生へた石のやうで、漢字を刻んだ記念碑らしい無數の群、その背後にも、その背後にも、沼べりに蘭の繁つた如くに、木のやうな高い細い板片に、矢張り同樣な奇妙な文字を書いたのが、蒼然たる闇の中を貫いて數千となく聳えてゐる。

 して、私は他の微細な點を觀ない內に、古い古い佛敎の墓場に來たことを知つた。

 是等の木摺を日本語で卒塔婆といふ。すべて頂點に近い兩側の緣に、五ケ所の切れ目が入れてある。して、すべて兩面に漢字が書いてある 死者の戒名のすぐ下には、必ず『爲菩提』といふ文句がある。他の一面は、いつも梵語の文句であるが、葬儀を司る僧侶もその意味を忘れずにゐる。墓が出來ると同時に、背後ヘ一本の卒塔婆を立てる。それから四十九日間、七日目に別の卒塔婆を立てる。次には百ケ日目に、更に一年毎に、三年每にと、百年間段々長い期間を隔てて別のものを立てる。

 大槪いづれの卒塔婆の集團にも、その中には、新しく削り立ての臼木のものが、古びた灰色又は黑くさへなつたのと並んで立つてゐる。また多くの更に古いのは、文字が全く消えたのもある。陰氣な地而に倒れたのもある。土地に插したま〻、緩くなつたのも澤山あつて、僅かの嵐にも衝き當つて、がたがた音を立ててゐる。

 形狀は卒塔婆と同樣珍らしくて、しかも更に興味あるのは墓石である。ある墓の形は佛敎の五原素を現してゐるのを私は知つた。立體形の上に球形、その上に尖塔形、その上に半月形の緣と、反つた角を有する淺い四角の杯形の石が載つて、杯中には梨形のものが尖端を上にして立つてゐる。是等の形のものは、人體が形成される五要素、卽ち『土、水、火、風、氣』を象徴する。第六要素の『識』に對する象徴が缺けてゐることは、いかなる象徴法でも企及し得ないほどに感動を與へる。しかも、象徴の目的上、この省略は西洋人の心に浮ぶのと、同一の考で企てたのでは決して無い。

 墓石の內には、低い、扁頭の角柱形に、文字を黑や金色で現したたり、或は單に石へ刻んだのが、また澤山ある。それから、いろいろの形や高さを有し直立の平板で、大概圓頂、文字は普通浮彫なのもある。最後に、珍らしい角のある石、卽ち天然岩の唯一面に形をつけて、滑かに磨いた部分に、意匠を鏤刻したのも多い。是等の石板の不規則な形狀にさへ、何かの意味があるらしい。石を岩床から切り離す際には、必ず五つの角點で破碎したものと思はれる。して、石が臺の上に平衡を得て、垂直に立てるさまは、初めて匇卒に見ただけでは解かりにくい祕術である。

 臺石の構造もさまざまで、多くは墓碑の前部の臺面に、三つの孔がある。一つは大きな楕圓形の凹所で、その兩側に小さな圓孔がある。二つの小孔は線香のため役に立ち、大きな窪みは水が滿ちてゐる。私はよくその譯を知らないが、たゞ私の日本人の伴侶は、『このやうに死者に向つて水を灌ぐのは、日本の古い習慣です』と私に告げた。墓の兩側には、また花を插す竹筒もある。

 彫刻は冥想或は說法中の佛陀を現したのが多い。日本の子供のやうに穩かに夢みた顏をして眠つた佛陀も少々ある。これは涅槃を意味する。大抵の墓に、莖を交叉した二個の蓮花が、普通の意匠となつてゐるらしい。

 ある所に、英人の名を現して、名の上には祖末に刻んだ十字架のある墓石を私は見た。いかにも佛敎の僧侶は、惠まれたる寬容を有つ。これは基督敎徒の墓なのだから!

 すべての墓石は、缺けたり、崩れたり、苔が生えたりしてゐる。して、灰色の石はたゞ僅かばかり離れて、無數の列をなして、相接近して、巨樹の蔭に立つてゐる。上の方では澤山の鳥が、その歌ひ聲で空氣を和らげてゐる。背後の阪の下には、蜂の群が唸る如き、微かに悲しげな讀經の聲がまだ聞えた。

 晃は無言のま〻、もつと古くて、暗い墓地へ下る阪の方へ私を案內した。して、私は右手に、阪の頂上に、一團の巨大なる墓碑を見た。その高く、太く、星霜のため苔蒸した灰色の石には、二寸以上も深く字が刻してある。その背後には、高さ十二尺乃至十四尺で、寺の屋根の梁材の如く厚い、大卒塔婆が立ててある。是等は僧侶の墓である。

[やぶちゃん注:私は引き続き、このシークエンスも前の章の続きで現在の元町一丁目(現在の「元町プラザ」の一角)にある「元町プラザ」の位置にあった、高野山真言宗準別格本山海龍山本泉寺増徳院の境内から同墓地(現在の外人墓地に相当)と考えている。移動と位置的も全く問題がないからである。ウィキの「横浜外国人墓地より引用しておく(アラビア数字を漢数字化した)。『横浜外国人墓地(よこはまがいこくじんぼち、単に外人墓地とも)は神奈川県横浜市中区山手にある外国人墓地。また、それを管理する財団法人』で、ここは『十九世紀から二十世紀半ばにかけての四十ヶ国余、四千四百人余りの外国人が葬られている。一八五四年(嘉永七年)に、二度目の来航により横浜港に寄港していたアメリカ海軍の水兵ロバート・ウィリアムズ(二十四歳)がフリゲート「ミシシッピ」のマスト上から誤って転落死し、艦隊を指揮していたマシュー・ペリーはその埋葬地の用意を幕府に要求したため、海の見えるところに墓地を設置して欲しいというペリーの意向を受け横浜村の増徳院の境内の一部にウィリアムズの墓が設置されたことに由来』し、『その後も外国人死者がその付近に葬られ、一八六一年(文久元年)に外国人専用の墓地が定められた』。『基本的に内部は非公開であるが、三月から十二月までの土曜日、日曜日と祝日は公開されている。また埋葬されている人々の業績を紹介する資料館を併設している。キリスト教形式の墓石が多いため意外に思われることが多いが、元々は、現在の元町にあった真言宗準別格本山増徳院の境内墓地であった。平成の初期まで、当地では増徳院による供養も行われていた』。何時かハーンが歩いたように同所を散策すれば、彼の見たものを一つでも見出せ、新たな発見もあるかも知れないとは思っている(何時になるか分からぬが)。

「冠冕」「くわんべん(かんべん)」と読む。高位高官の貴人の被った礼冠(らいかん)の一種で、本邦では狭義には特に天皇が被ったものを指す(推古一一(六〇三)年制定の冠位十二階に拠る)。唐制式を模倣した冠であって、冕板(べんばん)という長方形の板状の冠中央を基本として、その周囲に五色の飾り玉が垂れ下がる。別に玉冠・天冠とも称した。kisan 氏のブログ「日本の風俗文明」のこちらの画像をご覧あれ。

「稽首」頭を地に着くまで下げてする対象に対する周代以来の最高礼法である。

「木摺」「きずり」と訓じているものと思われる。これは狭義には建築用語で漆喰などの塗り壁の下地に用いられる薄い小幅板、業界では「ラス下地」とも称するものである。厚さは五ミリメートルで幅三十六ミリメートルの杉板材。これを一センチメートル弱の間隔を空けて間柱に釘で打ち止める。木摺り板は水平に並べるのが普通である(垂直や斜めにするケースもあり、斜めに打つことを「嵐打ち」と称するが、単に「ラス下地」の板張りのことを「あらし」ということもある)。木摺り下地壁にする場合は、壁材の剥落防止のために「下げお」という棕櫚や麻などの繊維の束を附着させるのが普通である(ここまではネット上の「CatchUP 不動産用語集」に拠る)とあったが、無論、ここでハーンが言っているのは本文にある通り、卒塔婆のことであるが、ハーンはこの時点では未だ、卒塔婆が五輪塔を簡略象徴化した供養塔の代わりであること、頭部の切れ目の形が五輪塔を模していることに気づいておらず、単なる有象無象の供養の経文片板としか認識していないことが判る。

「土、水、火、風、氣」原文は“Earth, Water, Fire, Wind, Ether,”。最後の“Ether”は古典的物理学や神智学で嘗て光波を伝える媒質として仮想されていた物質、「エーテル」である(「エーテル」或いは「アイテール」とは古代ギリシャに於ける輝く空気の上層を表す言葉であってアリストテレスによって四大元素説が拡張され、天体を構成する更なる第五元素として提唱されたものである)。これはスコラ学に受け継がれ、中世のキリスト教的宇宙観においても、天界を構成する物質とされた。。これは五輪塔の説明であるが、通常は下から方形の「地」輪(ちりん)、円形=の「水」輪(すいりん)、笠形状の「火」輪(かりん)、半月形の「風」輪(ふうりん)、宝珠或いは団形型の「空」輪(くうりん)によって構成され、古代インドに於ける宇宙の五大元と考えられていた「五大」をシンボライズしている(一般には「大日経」などの経典に出る密教思想の影響下に形成されたと考えられている)。それぞれの部位に、下から「地」=(ア:a)・「水」(ヴァ:va)・「火」(ラ:ra)・「風」(カ:ha)・「空」(キャ:kha)の梵字による種子(しゅじ)を刻むことが多い。ハーンの「エーテル」は正直言うと、一寸、私は笑ってしまう(ウィキエーテルによれば、『アリストテレスの世界像を根底から打破しようとしたデカルトは、やはり真空の存在を認めておらず、物質の粒子の間をうめるものとして「微細な物質」を想定し』、『その動きもしくは働きによって光が伝達されるとした。また近接作用のみを認めたデカルトは惑星は流動し渦巻く物質にのって運動していると考えた。これが後に物理学におけるエーテルの概念へと発展した。この意味でのエーテルは天上の物質ではなく、世界のあらゆるところに存在する』ものとされた)。落合先生は『氣』の訳で仏教のより広範な仮想元素である「空」を巧みにやり過ごした、否、失礼乍ら、誤魔化したという感じがする。何故なら、「氣」というと、陰陽五行説に於ける「気」を即、連想させるからで、これはウィキによれば、元来は『ラテン語 spiritus(スピリトゥス)やギリシア語 psyche(プシュケー)、pneuma(プネウマ)、ヘブライ語 ruah(ルーアハ)、あるいはサンスクリット prana(プラーナ)と同じく、生命力や聖なるものとして捉えられた気息、つまり息の概念がかかわっている。しかしそうした霊的・生命的気息の概念が、雲気・水蒸気と区別されずに捉えられた大気の概念とひとつのものであるとみなされることによってはじめて、思想上の概念としての「気」が成立する』。『雲は大気の凝結として捉えられ、風は大気の流動であり、その同じ大気が呼吸されることで体内に充満し、循環して、身体を賦活する生命力として働く。つまり、ミクロコスモスである人間身体の呼吸とマクロコスモスである自然の気象との間に、大気を通じて、ダイナミックな流動性としての連続性と対応を見出し、そこに霊的で生命的な原理を見るというアイディアが、気という概念の原型なのである』。『一方では人間は息をすることで生きているという素朴な経験事実から、人間を内側から満たし、それに生き物としての勢力や元気を与えている、あるいはそもそも活かしているものが気息であるという概念が生まれる。そしてまたそこには、精神性、霊的な次元も、生命的な次元と区別されずに含まれている。ただし、精神的な次元は、後代には理の概念によって総括され、生命的な力としてのニュアンスのほうが強まっていく』。『他方では、息は大気と連続的なものであるから、気象、すなわち天気などの自然の流動とも関係付けられ、その原理であるとも考えられていく。自然のマクロな事象の動的原理としての大気という経験的事実から、大気にかかわる気象関連の現象だけでなく、あらゆる自然現象も、ひとつの気の流動・離合集散によって説明される。この次元では気はアルケーとしてのエーテルである』。『この霊的な生命力として把握された気息であり、かつ万象の変化流動の原理でもあるという原点から、ついには、生命力を与えるエネルギー的なものであるのみならず、物の素材的な基礎、普遍的な媒質とまで宋学では考えられるようになった』。『こうした由来ゆえに、気は、一方では霊的・生命的・動的な原理としての形而上的側面をもちながら、他方では、具体的で普遍的な素材(ヒュレー)的基体でありかつ普遍的なエーテル的媒質であるがゆえに、物質的な形而下的側面も持つという二重性を持つことになった。気は、物に宿り、それを動かすエネルギー的原理であると同時に、その物を構成し、素材となっている普遍的物質でもある。従って、たとえば気一元論は、かならずしも唯物論とはいえない』とあり(こうした牽強付会にあってはハーンの「エーテル」はお門違いとは言えないとも言えるが)、『日本語には気と言う言葉を使う表現がいくつかある。中国哲学の気の概念のうち、物の構成要素、素材としての意味の用法はほとんどなく、「元気」などの生命力、勢いの意味と、気分・意思の用法と、場の状況・雰囲気の意味の用法など、総じて精神面に関する用法が主である。気になる、気をつける、気を使う、気が付く、気に障る、気が散る、気をやる(セックスにおいてオルガスムスに達すること)気合い、など』があるが、例えば、本邦の『慣用句「病は気から」の「気」は、本来は、中国哲学や伝統中国医学の気であるが、日本ではよく、「元気」「気分」などの意味に誤解される』とあるように、仏教の「空」はもっと広範な非物理的な形而上的概念であって、『仏教における空(くう、梵: śūnyatā , シューニャター、巴: suññatā, スンニャター)とは、固定的実体もしくは「我」のないことや、実体性を欠いていることを意味する。空は時代や学派によっていくつかの概念にまとめられるが、その根本的な部分ではほぼ変わらず、いずれも「縁起を成立せしめるための基礎状態」を指している』(ウィキに拠る)とあって、更に、大谷大学/大谷大学短期大学部公式サイトの「生活の中の仏教用語」にある一郷正道(いちごうまさみち)教授の「くう)によれば「空」とは、『仏教思想において最も重要な教えの一つである。空は無と有、否定と肯定の両方の意味をもつが、世間では「から、あき、むなしい」等の意味で把握され、「無」の面だけが強調される傾向にある』。『「空」は梵語「シューニャ」の訳語で、よく「無」とも漢訳される。しかし、その語根「シュヴィ」は「膨れる、成長する」の意味をもつ。たとえばサッカーボールは、外面的に膨らんでいても、内面的には空(から)の状態である。数字のゼロも、その原語は「シューニャ」である。ゼロは、+(プラス)、-(マイナス)両方になる可能性をもつ。我々人間という個的存在も、肉体、精神の諸要素から成る点では「膨らんだもの」であるが、一方、芯となる自己の本質、我(が)を見出せない点からすれば「うつろな、非実体的存在」である。禅者は、その「空」を象徴的に円で表現するが、単に、非存在、空白だけを意味すると誤解してはならぬ』。『インドに二~三世紀頃在世し、『般若経』を中心に空の哲学を大成したナーガールジュナ(龍樹)は、縁起思想にもとづいて「空」を理解した。「此れあれば彼あり、此れ生ずれば彼生ず・・・・・・」という成句に示される縁起の意味は、ものはすべて、なんらかの他に依存して存在する相対的なものでしかないこと、絶対的存在は決してありえないことを教える。この絶対的、実体的存在(自性(じしょう))が無いことを「空」というすべては空であって、夢・幻の如きものである。本来、聖でも俗でもないものを、聖とか俗とか判断するのは、私の心の区別、分別作用である。聖も俗も言語上の区別にすぎず、空という点では両者は不二である』。『ものは、すべて、縁起の理論で無と否定されるが、否定されて無に帰してしまうのでなく、そのまま、縁起的には有として肯定される、という両面をもった存在である』。『そうであれば、自己主張の真・正・善性を標榜し、他を排除するところに闘争がくりかえされる現代の世相を思うに、絶対性を否定し、執着からの解放を教える「空」の考え方こそ、顧みられるべきでなかろうか』とある(下線やぶちゃん)。この一郷先生の解説からも、「空」は「エーテル」のような何らかの介在伝達物質或いは存在生成「元素」ではないことがよく判る。やはりハーンの“Ether”という訳語は私は相応しくないと考えるものである。但し、当時の英語圏向けの読者へのハーンの解説としては、深慮熟考して選び出した英訳で、分かりは良かったものとは思われる。因みに、平井呈一氏も『気』と訳しておられる。個人的には、意訳でよいから、やはり、「空」とすべきであると私は思う。

「私の日本人の伴侶」無論、この年末の明治二三(一八九〇)年十二月に松江で結婚した小泉セツ(節子)のことを指す。本書が実際に執筆されたのは共時的ではなく、翌明治二十四年八月以降で、刊行に至っては、実見から四年後の明治二七(一八九四)年九月のことであった。

「二寸」六・〇六センチメートル。

「十二尺乃至十四尺」三・六四~四・二四メートル。]

 

Sec. 4

   Before us rises a hill, with a broad flight of stone steps sloping to its summit, between foliage of cedars and maples. We climb; and I see above me the Lions of  Buddha waiting—the male yawning menace, the female with mouth closed. Passing between them, we enter a large temple court, at whose farther end rises another wooded eminence.

   And here is the temple, with roof of blue-painted copper tiles, and tilted eaves and gargoyles and dragons, all weather-stained to one neutral tone. The paper
screens are open, but a melancholy rhythmic chant from within tells us that the noonday service is being held: the priests are chanting the syllables of Sanscrit texts transliterated into Chinese—intoning the Sutra called the Sutra of the Lotus of the Good Law. One of those who chant keeps time by tapping with a mallet, cotton- wrapped, some grotesque object shaped like a dolphin's head, all lacquered in scarlet and gold, which gives forth a dull, booming tone— a mokugyo.

   To the right of the temple is a little shrine, filling the air with fragrance of incense-burning. I peer in through the blue smoke that curls up from half a dozen tiny rods planted in a small brazier full of ashes; and far back in the shadow I see a swarthy Buddha, tiara-coiffed, with head bowed and hands joined, just as I see the Japanese praying, erect in the sun, before the thresholds of temples. The figure is of wood, rudely wrought and rudely coloured: still the placid face has beauty of suggestion.

   Crossing the court to the left of the building, I find another flight of steps before me, leading up a slope to something mysterious still higher, among enormous
trees. I ascend these steps also, reach the top, guarded by two small symbolic lions, and suddenly find myself in cool shadow, and startled by a spectacle totally unfamiliar.

   Dark—almost black—soil and the shadowing of trees immemorially old, through whose vaulted foliage the sunlight leaks thinly down in rare flecks; a crepuscular light, tender and solemn, revealing the weirdest host of unfamiliar shapes—a vast congregation of grey, columnar, mossy things, stony, monumental, sculptured with Chinese ideographs. And about them, behind them, rising high above them, thickly set as rushes in a marsh-verge, tall slender wooden tablets, like laths, covered with similar fantastic lettering, pierce the green gloom by thousands, by tens of thousands.

   And before I can note other details, I know that I am in a hakaba, a cemetery—a very ancient Buddhist cemetery.

   These laths are called in the Japanese tongue sotoba. [1] All have notches cut upon their edges on both sides near the top-five notches; and all are painted with Chinese characters on both faces. One inscription is always the phrase 'To promote Buddhahood,' painted immediately below the dead man's name; the inscription upon the other surface is always a sentence in Sanscrit whose meaning has been forgotten even by those priests who perform the funeral rites. One such lath is planted behind the tomb as soon as the monument (haka) is set up; then another every seven days for forty-nine days, then one after the lapse of a hundred days; then one at the end of a year; then one after the passing of three years; and at successively longer periods others are erected during one hundred years.

   And in almost every group I notice some quite new, or freshly planed unpainted white wood, standing beside others grey or even black with age; and there are many, still older from whose surface all the characters have disappeared. Others are lying on the sombre clay. Hundreds stand so loose in the soil that the least breeze jostles and clatters them together.

   Not less unfamiliar in their forms, but far more interesting, are the monuments of stone. One shape I know represents five of the Buddhist elements: a cube supporting a sphere which upholds a pyramid on which rests a shallow square cup with four crescent edges and tilted corners, and in the cup a pyriform body poised with the point upwards. These successively typify Earth, Water, Fire, Wind, Ether, the five substances wherefrom the body is shapen, and into which it is resolved by death; the absence of any emblem for the Sixth element, Knowledge, touches more than any imagery conceivable could do. And nevertheless, in the purpose of the symbolism, this omission was never planned with the same idea that it suggests to the Occidental mind.

   Very numerous also among the monuments are low, square, flat-topped shafts, with a Japanese inscription in black or gold, or merely cut into the stone itself. Then there are upright slabs of various shapes and heights, mostly rounded at the top, usually bearing sculptures in relief. Finally, there are many curiously angled stones, or natural rocks, dressed on one side only, with designs etched upon the smoothed surface. There would appear to be some meaning even in the irregularity of the shape of these slabs; the rock always seems to have been broken out of its bed at five angles, and the manner in which it remains balanced perpendicularly upon its pedestal is a secret that the first hasty examination fails to reveal.

   The pedestals themselves vary in construction; most have three orifices in the projecting surface in front of the monument supported by them, usually one large oval cavity, with two small round holes flanking it. These smaller holes serve for the burning of incense-rods; the larger cavity is filled with water. I do not know exactly why. Only my Japanese companion tells me 'it is an ancient custom in Japan thus to pour out water for the dead.' There are also bamboo cups on either side of the monument in which to place flowers.

   Many of the sculptures represent Buddha in meditation, or in the attitude of exhorting; a few represent him asleep, with the placid, dreaming face of a child, a Japanese child; this means Nirvana. A common design upon many tombs also seems to be two lotus-blossoms with stalks intertwined.

   In one place I see a stone with an English name upon it, and above that name a rudely chiselled cross. Verily the priests of Buddha have blessed tolerance; for this is a Christian tomb!

   And all is chipped and mouldered and mossed; and the grey stones stand closely in hosts of ranks, only one or two inches apart, ranks of thousands upon thousands, always in the shadow of the great trees. Overhead innumerable birds sweeten the air with their trilling; and far below, down the steps behind us, I still hear the melancholy chant of the priests, faintly, like a humming of bees.

   Akira leads the way in silence to where other steps descend into a darker and older part of the cemetery; and at the head of the steps, to the right, I see a group of colossal monuments, very tall, massive, mossed by time, with characters cut more than two inches deep into the grey rock of them. And behind them, in lieu of laths, are planted large sotoba, twelve to fourteen feet high, and thick as the beams of a temple roof. These are graves of priests. 

 

1
Derived from the Sanscrit stupa.

2015/08/17

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 京都小景

 

 京都は確かに芸術的日本の芸術的中心である。いたる所で人はその証拠を見る――商店、住宅、垣根、屋根の上、窓、襖、それを、辷らせる装置、格子、露台の手摺。看板さえも趣味を以て考案され、芸術と上品さとがいたる所にある。加之(しかのみならず)、私は日本中で京都ほど娘達や小さな子供が、奇麗な着物を着ている所を、見たことが無い。頭髪の結い方には特徴があり、帯の縮緬(ちりめん)と頭の装飾とは燦然としている。我我の旅館は、山の斜面に、立木と仏閣とにかこまれて立っている。この要害の地から人は、日没時、市を横切る陽光の驚く可き効果を見る。夕暮には、歌の声と琴の音と、笑い声とが聞える。声高い朗吟が聞える。そのすべてにまざって、近所で僧侶が勤行(ごんぎょう)をする、ねむくなるような唸り声が伝って来る。まったく、僧侶たちが祈禱する時に出す音は、昆虫の羽音と容易に区別しがたい。昨夜僧侶の読経にまざって、急激な軽打とも鳴音ともいう可きものを聞いた。これは私が江ノ島で聞いた、そこで鈴虫と呼ばれる昆虫と、まったく同じであった。気温が高まるにつれて、このキーキー叫ぶ昆虫の声音は速くなって行く。私は懐中時計を取り出し、一分の四分の一に、三十五回の鼓拍を数えた。だが、寒暖計を見る前に、一人の召使いに、あんな音を立てるのはどんな虫なのかと聞いたところが、あれは僧侶の鈴の音だという返事であった。

[やぶちゃん注:私はこの最後、本当にこれは僧の勤行の鈴の音であったのかどうか、実は疑ぐっている。何故なら、モースは「鈴虫と呼ばれる昆虫と、まったく同じであった」が、それが特に「気温が高まるにつれて、このキーキー叫ぶ昆虫の声音は速くなって行」ったと言う辺りが、どうも通常の夜業勤行の鈴(リン)とは違うような気がするからである。モースの質問に対して召し使いは鳴いている虫の名である「カネタタキ(鉦叩き)」を“priest's bell”と訳して、モースはそれをそのまま、実際の僧侶が鈴を鳴らしている、と誤解したのではないか? と疑っているからである。大方の御批判を俟つものではある。]

 

 この市の中を、幅の広い、浅い河が流れている。今や水がすくなく、あちらこちら河床が現れて、大きな、平べったい丸石が出ている。かかる広い区域には高さ一フィートで、畳一畳、時としては二畳位の広さの、低い草子が沢山置かれる。日本人はこれ等の卓子を借り受け、多人数の会合が隣り合って場を占める。晩方には家族が集り、茶を飲み、晩食を取り、そして日没を楽しむ。河にかかった橋から見る光景は、台がいずれも色あざやかな、いくつかの燈籠で照明されているので、驚く程美しく、目のとどくかぎり色彩の海で、ところどころ、乾いた河床に篝火(かがりび)が燃えさかる。我々と一緒にいるグリノウ氏は、これはヴェニスの謝肉祭の光景に匹敵するといった。

[やぶちゃん注:京の鴨川納涼床の夜景である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」から推定すると、京都着が強行軍の鈴鹿越から大津を経て京に着いたのが明治明治一五(一八八二)年八月四日の午後四時半で、恐らくそのまま也阿弥ホテルへ直行、京以外の他の希望訪問先が余りにも多かったことから、京都には六泊で十日には慌ただしく出立しているから、この夜景は恐らくは着いた翌日の五日(土)から八日(火)までの四日間の孰れかであったものと考えられる。九日を外したのは時系列がごく正確に記されているとすれば次に八月八日の記事が続くことに拠る。また、気象庁の過去データによるとこのうち京都ではこの五日には四十ミリもの、六日には八ミリの降雨が記録されている。繁華な清涼な雰囲気は、にわか雨の後の鴨川の「床(ゆか)」が相応しい気が私にはする(私は実は「床」で遊んだことはない)。日曜の六日夕刻の景であろうか。

「グリノウ氏」原文“Mr. Greenough”前掲注通り、不詳のボストンの建築家。音写は「グリーンノウ」「グリノーフ」「グリノー」と思われるが、今回再度、改めてあらゆる検索を試みてみたが、この綴りの男性で、明治一五年八月上旬に京都にいたボストン出身の外国人建築家で、しかもモースらと一緒にいた人物は遂に探し得なかった。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の人名索引にも出ず、京都行の本文にも出ない全く不明の人物である。再度、切に識者の御教授を乞うものである。]

M660

図―660

M661

図―661

 

 今日(八月八日)私は画家の楳嶺(ばいれい)を訪問した。これは、彼が陶工六兵衛のために画いた、陶器製造の順序を画いた絵のうつしを画いて貰うためである。私は画の先生である棋嶺氏が、一群の生徒の中央にいる所へ入って行った。生徒はいずれも畳の上に、手本を前にして坐り(図660)、一生懸命勉強していたが、その中には十二歳、あるいはそれ以下の男の子も多かった。年長の生徒のある者は十年も通っていると、彼はいった。生徒達は朝八時に来て、夏は正午に、冬は晩の五時に帰って行くが、これを最近休日となった日曜以外、毎日やるのである。教授料は一ケ月三十セントで、紙、筆、墨、絵具その他は先生が出す。六年すると生徒はうまく手本を模写するようになる。最初の稽古は簡単な線や、菱形模様等である。次の年彼等は花を描き、その次が山水風景、そして最後に人物であるが、先ず衣文を描き、次に生物からの裸体を描く。生徒のあるものは陶工その他、職業上意匠或は装飾を必要とする工芸家の家族から、他は武士の階級から来る。棋嶺氏の毎日の級には生徒が二十人、別に各家庭で稽古し、一週間に一度絵を持って批評を乞いに来る生徒も若干いる。興味のある会見を終って、私は立ち上った。すると生徒は全部、即座に丁寧なお辞儀をし、同時に楳嶺氏はその日の自分の学校での練習図である所の、大きな紙を巻いたものを私に贈った。花、果実、舟等を力強い筆の線で措いた美しい絵で、如何なる記述よりもよりよく、教授法と若い日本人の熟達とを示している。お茶と一緒に出たお菓子は、桜の花の形で、可愛らしい籠に入っていた(図661)。

[やぶちゃん注:「楳嶺」四条派の日本画家で後に帝室技芸員となった幸野楳嶺(こうのばいれい 弘化元(一八四四)年~明治二八(一八九五)年)かと思われる。京都生。姓は安田、名は直豊、字は思順、別号に鶯夢・長安堂など。初め中島来章、後に塩川文麟に山水画を学び、京都府画学校教師となり、また私塾を開いて後進の指導に尽力、さらに京都青年絵画会・京都私立絵画研究会を組織して新日本画発展に尽力した(ここは株式会社思文閣の美術人名検索に拠った)。ウィキの「幸野楳嶺」の「教育者としての楳嶺」の項によれば、『楳嶺は画家というよりも教育者として名高く、貢献も大きい。楳嶺自身もそれを自覚していたようで、様々な逸話が残っている。若い楳嶺がある時、京で外れることがないと評判の観相家に、「俺は日本で一流の画家になることができるか?」と尋ねた。すると、その観相家は「気の毒だが一流の絵師にはなれない。しかし、二流の絵描きにはなる。そして、おまえさんが育てた者の中から天下一流の絵描きが必ず出る。だから弟子を育てなさい」と答えた。それを聞いた楳嶺は「自分が一流の画家となれないのは残念だが、これも天運ならば仕方がない。俺は子弟を教育して天下第一流の者をつくりだしてやろう」と決意したという。後年、弟子たちにこの逸話を話し、「俺はお前たちの踏み台なのだから、遠慮なく俺を踏み台にして、俺よりも偉い者になってくれなくては困る」と言って励ました』。『また、その場その場に応じ適切な指導したエピソードも多い。門人たちが女の話をしていると「その女のどこが美しかったか言ってみろ」「ただ美しいと思うだけでは絵描きになれない。どこが美しいか研究しなければいけない」と諭し、弟子が庭掃除をしていると、「そんな掃き方をしたら、緑青ではムラになるぞ。どこから初めてどう掃くか、最初に目的を決めて順序を目で測ってやれ」と注意した。火事が起こり、門人が慌てて見に行こうとすると、「写生帳を持ってきたか」「いえ、持ってまいりません」「写生帳を持たずに出てきて何になる。早く持って行ってこい」と説いた』。『厳しく徹底的に基礎教育をする代わりに、基礎が出来たら自由にさせていたようである。また、常に門弟たちを引き立たせるようにしていたようでもある。門弟が少し慢心していると絵の批評も痛烈にやるが、やや悲観している者があると拙い絵でも褒めてやり、その匙加減が絶妙だったという』とあり、ここでのモースの暖かな視線の向こうの彼の面影を伝えるような気がする。]

M662

図―662

 

 我々にあっては、こわれやすい品を入れた箱に「硝子(ガラス)」と記し、欧洲では内容が脆弱であることを示すために、葡萄酒杯の絵を描くのが常である。日本の包装者は真珠貝(鮑)を、図662に示す通り箱にしばりつけ、あるいは箱にこの貝の絵を描く。

M663

図―663

 

 陶器を見に立ち寄った小さな店では、私に面白い形の容器に入れた、スパゲティの一種を供した。太さは日本綿糸よりすこし大きい丈である。これは、その一本を皿から取り上げると、それを箸にまきつけ得る迄に、二フィートもそれ以上も伸るので、食うのが大変むずかしい。小さな盃には汁が入っていた。これはヒヤムギと呼ばれる。それの入った器は支那製だという事であった(図663)。私がこれを食っている間、店主の小さな娘が一種のギタアを弾いて聞かせてくれた(図664)。

M664

図―664

 

[やぶちゃん注:「スパゲティ」底本では直下に石川氏による『〔イタリー饂飩(うどん)〕』という割注が入る。

「二フィート」六十・九六センチメートルだが、これは一寸、大袈裟過ぎる。こんな長い冷麦は私は聴いたことがない。調べて見たが、業務用の特別に長いものでも四十センチメートル余である。

「ギタア」底本では直下に石川氏による『〔六絃琴〕』という割注が入る。図を見るに中国伝来の月琴である。]

病み上がり……つーか……まだ頭痛い……

どうも……小泉八雲の一本で今日はふらふらや……なら、おやすみ……

2015/08/16

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (三)

前頭葉がイカれてもこの程度のことは出来るという見本例――普通なら半日でやれるところが、ボードのタイプ・ミスがやはり以前より多くなって丸々半日の仕儀となった――

   *
 
  
       

 

 寺から澤山愉快な聲が響いて、石段には微笑んだ母や、からから笑ふ子供達が群がつてゐる。入つてみると、玄關の前の漆塗りのの邊に、女や兒が押合つてゐる。臺の上には茶を容れた桶の形のものがあつて、茶の中に一方の手は上を指し、他方の手は下を指した小さな佛像が立つてゐる。女達は例のお賽錢を捧げてから、妙な形の木製の柄杓で茶を少し汲んで、佛像に灌ぎ、つぎにまた汲んで自身で吞み、赤兒に一口吸はせる。これが灌佛の式である。

 甘茶の壇に近く、一段低い臺に大きな鉢の形の鐘が載つてゐる。褥を當てた木槌を手に持つた僧が近寄つて、その鐘を叩く。が、鐘が適當に響かない。彼は吃驚して中を覗いて、屈んで、中から微笑んでゐる赤兒を取り上げる。母が笑ひ乍ら走つて行つて、僧からその兒を取り上げる。して、僧も母も赤兒も皆、私共を見てからからと興じ笑ふ。それに私共も仲間入りして面白がる。

 晃がちよつと私を置いて行つて、寺の番人と話をして、やがて珍らしい漆塗りの箱を持つて歸つた。長さ約一尺、幅厚各四寸位のもので、一端に一つの小孔があつて、蓋らしいものは無い。

 『さあ、二錢を納めると、神佛の御思召による私共の運命がわかります』と晃がいつた。

 私は二錢を拂つた。して、晃が箱を振つた。出でてきたのは細い竹片で、漢字が書いてある。

 『吉!』と晃が呼んだ。『幸運です。番號は五十一番』

 また彼は箱を振つた。また竹片が隙孔から出た。

 『大吉! 非常な幸運。九十九番』

 もう一度、箱を振つて、もう一度、竹片が出た。

 『凶!』と晃が笑つた。『禍が私共にふりかかつてきます。六十四番』

 彼は箱を僧に返へし、竹片の番號に相當する三枚の不思議な紙を受けた。これらの小さな竹片を御籤といふ。

 五十一番の紙に書いてゐる文句の大意は、晃の飜譯によれば、つぎの通りである。

 『この御籤を抽く人、天則を守り、觀音を拜めば、病苦は去り、紛失品は返へり、訴訟に勝つべし。女を求むるに、たとひ待つことありとも、必ず獲べし。猶ほ澤山の幸福來らむ』

 大吉の籤も殆ど同じ文句に讀まれたが、ただ異るのは、觀音の代はりに、福と富の神なる大黑、毘沙門、辨天を拜むべきことと、戀した女を手に入れるのに、待つに及ばないことである。が、凶の籤はつぎの如くであつた。

 『この御籤を抽く人は、天則を守り慈悲觀世音を拜するをよしとす。病氣はますます重くなり、失せ物に出ることなく、訴訟には勝つことなく、女を戀すと雖も穫る見込なかるべし。極力信心を勵みても、僅かに最大の災難を免がるるに止まらむ。福運毫もあることなし』

 『でも、私共は幸福ですよ」と晃は斷言した。『三囘の内、二回まで吉でしたから。また、これから、また別の佛像へ詣りませう』

 して、彼は多くの奇妙な町々を通つて、市の南端へ私を案內した。

[やぶちゃん注:前の章で検証した通り、私はこの寺は当時、現在の元町一丁目(現在の「元町プラザ」の一角)にある元町プラザの位置にあった高野山真言宗準別格本山海龍山本泉寺増徳院と断言する(詳細は前章の私の詳注を参照されたい)。但し、当時の境内の配置などは調べ切れなかった(オークションの古写真に数枚見受けられるが、孰れも現在ここに唯一残る薬師堂へえ登る階段の部分写真でここに出るような広い境内や産経者のざわめきの伝わるような代物ではないのでリンクもしない)ので識者の更なる御教授があると、これ、恩恵に過ぎたるはない。そうすれば、このシークエンスの映像がより鮮明になることであろう。なお、読者はここで何故、晃は三回籤を引くのか不思議に思われるであろう。私自身も当初、そう思った。種類の違う籤をハーンに見せるために彼がそうしたのだと私は好意的には思ったのではあるが、どうも実はこれは――ここには実際に「三人」いたからではないだろうか?――と思い至ったのである。ならば、くじ引き三回も納得が行くのである。「じゃあ、三人目は誰?」と諸君はお聴きになるだろう。さても、そもそもハーンは一人で来日したのではないのである。好き勝手な物見遊山の日本旅行のヘンな外人なんかでは実は、ないんである(本作はしかし冒頭から恰も独りで天馬空を翔けるが如く人力車を走らせているからそう思われるのは無理もない)。以前に述べたが、形の上で、彼は若き日(二十四歳頃より)より、しばしば諸記事を寄稿していたアメリカの雑誌『ハーパーズ・マンスリー』(ハーパー社刊)の美術主任パットンと前年一八八九年十月に知り合い、日本文学や美術について話し合う中で共感を得、人気挿絵画家であったウェルドンに従う形で、二ヶ月間の短期滞在の契約を以って日本特派員として来日した雑誌記者に過ぎなかったのであった。さればこそ、来日早々のハーンが一人で好き勝手にふらふらあちゃこっちゃ行ったり来たりしたはずがない(実際、以前に一部引用した紀行文“A WINTER JOURNEY TO JAPAN”を社に送付している)。ところが、その前後に発覚或いは自覚したものか、契約自体が画家ウェルドンを中心としたものであって、ハーンはただの添え者か、助手のような扱いだったものだったからか(推測。ウェルドンとの性格上の不一致とか、彼との支給賃金格差の可能性もあるかも知れないが、詳細は不詳。ここは上田和夫訳新潮文庫版「小泉八雲集」年譜のみに拠った。別に資料を見出した際には追記する)、ここでハーンは大いに不満を抱き、一ヶ月後の五月(明治二三(一八九〇)年)に、即座にハーパー社と絶縁してデラシネの状態になってしまうのである。これを考えると、この「散歩」には、当然と言ってよいほど、ウェルドンが同行していたと考えるのが自然である。しかも旧居留地からも直近なので、彼との関係が悪くなっていたとしても近場なれば、同行して少しも不自然ではない。三枚の「おみくじ」はハーンとウェルドンと晃の三人分なのではなかろうか?……さても誰が「吉」で「大吉」で「凶」だったのだろう?……♪ふふふ♪

「甘茶」は、

双子葉植物綱ミズキ目アジサイ科アジサイ属アジサイ節アジサイ亜節アジサイ属原種(本邦自生種)ガクアジサイ Hydrangea macrophylla f.normalis変種アマチャ(甘茶) Hydrangea macrophylla var. thunbergii

を乾燥させたものを煎じて作った飲料を指す。私自身も実は永らく誤認していたが、全く異なる種であるウリ科の蔓性多年草、

双子葉植物綱スミレ目スミレウリ科アマチャヅル属アマチャヅル(甘茶蔓) Gynostemma pentaphyllu

の葉、または、全草を使った茶も「甘茶」と称し、一時、健康野草飲料ブームで人口に膾炙したが、前者の「アマチャ」を使った甘茶が本来の甘茶であって、後者は灌仏会の真正の「甘茶」とは言えないと私は思う。

「長さ約一尺、幅厚各四寸位」長さ三十・三センチメートル、四方幅十二・一二センチメートル。比較的古式の御籤箱である。「御籤棒」と呼ばれる細長い棒の入った角柱或いは円筒形の箱を成し、「御籤筒」「御神籤箱」と呼ばれる。これをを振って、棒を箱の短辺の小さな穴から一本取り出し(現行では内側にストッパーが附属していて完全に取り出せないようになっているものも多いやに見受けられる)、棒の端或いは中央に記された番号と同じ籤を受付或いは各自そこにセットされた専用番号整理棚から受け取る形式を採る。参考にしたウィキの「おみくじによれば、『筒は両手で抱えられる程度の大きさ・重さのものが多いが、神社によっては一人では抱えられないほど巨大なものもある。みくじ棒が竹製である場合にはみくじ竹ともいう』とあった(本文のそれはまさにそれで竹を薄く削いだ片様のものであったことが窺える)。私は生涯、七五三の遠い昔、一度だけ鶴岡八幡宮で引いたことがあるような気がするだけで記憶がない。ポン菓子と一緒に丸めて鳩に食べさしてしまったような思い出もある不敬な人間である。従って、私は「おみくじ」(「御神籤」という漢字に生理的嫌悪感を覚えるので以下、「おみくじ」とする)嫌いなのでそれに関わるもの総てに(それを引いて一喜一憂する御仁も含めてである)冷淡であり軽蔑する。従って、ここで以下に出る、これらの三種の籤について検証する気が実は全く起こらない。しかも、時間的経過と「おみくじ」という性格上、これらとほぼ一致した叙述の「おみくじ」をネット上で見出すことが出来ない。そこで台湾系の方の個人サイトかと思われる頁内にある浅草の浅草寺の百籤一覧(画像と繁体字中文訳附)をリンクさせておく。浅草寺は元天台宗であったが第二次世界大戦後に独立して聖観音宗の総本山となっているものの、「おみくじ」の元祖ともいうべき元三大師(がんざんだいし)は第十八代天台座主であって、現行の寺院の「おみくじ」は彼を濫觴とするとしても概ね誤りではないから、そこには幾分かの比較理解の参考になるヒントは隠れていると勝手に判断するからである。ではまず、

  「吉  五十一番」

これを見ると、長い年月の間に、「みくじ」文の予言も多くの人々の手によって好き勝手に書き換えられていることが判って面白い(それだけの面白さであるとも言える)。続いて、本文に中身が出ない、

  「大吉 九十九番」

これについては、平井呈一氏が恒文社版小泉八雲「日本瞥見記(上)」で『読者の参考までに、「元三大師百籤鈔』から「九十九番大吉」の神籤の全文を』掲げておられる。当該部を丸ごと複写すると、規定も定かでない編集権(私はいかがわしい「編集権」なるものを全く認めない立場に立つ)を侵害したとか、しないとか、下らぬ文句を言われそうなので(私は過去一度も私の電子データで著作権上の侵害行為を指弾されたことは、ない。逆に私のデータを、まことしやかにゼロから新たに作ったと、うそぶいている何人かの指弾したい剽窃者どもは何人かいるが、それは今、ここでは言うまい)、活字に起こして恣意的に正字化し、訓読や表記も恣意的に歴史的仮名遣(底本本文は激しく仮名遣が現代化している)で以下にお示しすることとした(従ってこれは底本のママでは全くない)。浅草寺の籤自体には著作権が存続している可能性があるが確認出来ない。その侵害指摘があった場合は、取り下げる用意はある。しかし、その場合、個人が金を出して引いた参詣者がブログなどでアップした当該の浅草寺の「おみくじ」類の写真や記事をも、総て、丸ごと、著作権侵害を同時に訴えて頂いて、一気にネット全部から削除命令を執行して貰えるのでない限りは、私は正直、取り下げる意志は、全くない、と言っておく。そもそもが「おみくじ」は、その本質に於いて、神言や仏言やその啓示・黙示の類いなのであって人の作った著作物ではない(俺が書いたというなら、御神籤には©マークと本文執筆者氏名を必ず明記するべきであり、勝手に木の枝なんかに結んだりする行為も、金品を払って購入したものを衆目に曝し物にし、奪取可能であるという、著作権上、許されない行為として禁ずるべきであると主張する)。翻って、神の著作権が「ある」というのなら、人間的時間内に死なない神仏の著作権は、これはもう、永遠と言ってよく、聖書(キリストは復活しているから死んだことにならないので著作権は存続しているぞ)も仏典(貧乏寺はあっという間に支払えずなって廃寺だ)も神祠(結婚式の祝詞は莫大な印税を齎すであろうなあ)も、これ、毎回、天国やら浄土やら、高天原かどっかに、ちゃんと、その著作権料を送金しているとでもいうのだろうか?

 閑話休題。全体は御多分に洩れずありがちな縦長の枠であるが、全体に附された枠構造は附さなかった。リンク先の浅草寺のものと同じなので想像されたい。

   《引用開始》

 九 十 九 第 大 吉

[やぶちゃん注:最上段。これは普通に左から右に綴られている。以下、その二段目。五言絶句。横に訓読の全平仮名文が附されるが、ここでは一字下げで書き下しとし、後に附した。一部が現代仮名遣で気持ちが悪いので、総て歴史的仮名遣に変換した。]

 

紅 日 當門 照

暗 月 再 重 圓

遇 須 得 寶

頗 有稱 必 遄

 紅日(こうじつ) 門(もん)に當(あた)つて照(て)れり

 暗月(あんげつ) 再(ふたた)び重圓(じふゑん)たり

 珍(ちん)に遇(あ)ふて 須(すべか)らく寶(たから)を得(う)

 頗(すこぶ)る稱(しやう)あり 必(かなら)ず遄(すみや)かなり

 

[やぶちゃん注:以下、四枠で総てが各句の第三段目。起句「紅日當門照」の下にある句解。全部二行に亙って枠。以下同じ。] 

 

つよくてりたる日ざしはあかきもの也、門にあたつててるとは天たうわが門をてらしたもうて、今日より天とうにうけられたり。 

 

[やぶちゃん注:以下、承句「暗月再重圓」の下にある句解。] 

 

やみのごとくくもりたる月の雲はれて、ふたたびかさねてかがやき、えんまんのていみゆる也。是人の心のくもはれいさぎよきにたとへたり。

 

[やぶちゃん注:以下、承句「遇珍須得寶」の下にある句解。] 

 

めずらしきことにふつとあふてきんぎんざいはうをおもひもよらずにうくる事あらんとなり。 

 

[やぶちゃん注:以下、転句「頗有稱必遄」の下にある句解。底本では二行に亙る。] 

 

しやう有りとはよくとなへられて大人にひきあげられんとなり。 

 

[やぶちゃん注:以下、占い篇。左端上から下まで、全体本文六行全部が枠内。] 

 

此みくじにあふ人は天たうをいのり、大黑びしやもんべんさいてんをしんじて吉▲やまいごとならばかならず本復すべし▲悅事十ぶんよし▲うせもの出べしたとへ出ずとも其あたいひ金銀にてかへるべし▲待人かならずきたるべし▲そしやう十ぶんにかなふべし▲いいぶんあらそひごとかならず勝なり▲やづくりわたましげんぷくよめとりむこ取たび立よろず吉▲望みごと十ぶんかなふべし▲いきしにかならずいきたり▲買物うり物しあはせよし▲道具は金銀のかなものいふくかたなわきざし上々のふだ物なり 

 

   《引用終了》

 

ここでは信心の対象仏が三種ともに一致しており、本籤の記載が元三大師の祖形を基本としているものであることがほぼ判明する。最後に、

  「凶 六十四番」

これを見ると、本文より本質的に比すと「大凶」である。本文ではまず、「この御籤を抽く人は、天則を守り慈悲觀世音を拜するをよしとす」とあるから、凶であっても天命に安んじてそれを順守し、慈悲観音菩薩(観世音菩薩と同義)への祈念をすれば、凶は吉に変ずる(「よしとす」)とすこぶる救済的であるのである(但し、具体的な最後の記載には「極力信心を勵みても、僅かに最大の災難を免がるるに止まらむ。福運毫もあることなし」とするから、小吉でも末吉でもないことは確かではあるが、まだ――この籤を引いた者にとっては、この冒頭箇所は大慈大悲の救済の誓言と読まれることは疑いない)。ところが、現行の浅草寺のものは、そうした済度仕儀が全く示されず、五言絶句の詩もこれ、テツテ的絶対的に不吉凶兆である。それでも最後の浅草寺版の個別予兆部は(恣意的に漢字仮名交じりに書き換え、歴史的仮名遣に訂し、読みも附した。字空けと下線と【 】注数字はやぶちゃん)、

 

  《引用開始》

 

願文(ぐわんもん)叶(かな)ひがたし【①】 〇病人危(あや)うし【②】 〇失(う)せ物(もの)出でず【③】 〇待(ま)ち人(びと)來(きた)らず【④】 ○屋造(やづく)り、引越(ひつこし)、半吉 ○旅立(たびだ)ち 半吉 ○娵(よめと)り 聟(むこと)り、人を抱(かか)へる、宜(よろ)しからず【⑤】、                           

 

   《引用終了》

 

とある。因みにここにある「半吉」とは諸説あるが、一般には、

 大吉>中吉>小吉>吉>半吉>末吉>末小吉>凶>小凶>半凶>末凶>大凶

に位置するとされ、吉凶の様相(今風に言えば確率)が半々であこととされるフラットを指す状態らしい(これを籤に設けていない社寺もあり、また「末吉」が「半吉」より悪い訳ではなく、寧ろ「末吉」はこれから「吉」へ向かってゆくという謂いであると説明する社寺もあったので注意されたい。私は気にしないが一応、附言しておく)。本文の(一部、比較対照化するために恣意的に「○」を附し、擬古文化・表記を弄って現行浅草寺版に近づけてみた)、

   *

病氣は益々重し【②】。 ○失せ物出ることなし【③】。〇訴訟には勝つこと無し。 〇女を戀すと雖も娶(と)る見込み無かるべ【⑤´】し。 ○極力信心を勵みても、僅かに最大の災難を免がるゝに止まらむ。福運、毫もあることな【①´・④´】し

   *

と比べて見ると、その現世利益の凶兆はほぼ一致しているからまっこと面白い(不遜を承知の確信犯の「まっこと面白い」の謂いである)。しかし何より、現行浅草寺版は不信心の私でも仮に引けば顔を顰めるいやな「おみくじ」であるとは言える。

 なお、それぞれの中身はかなり異なるが、三つの「おみくじ」の吉凶が完全に一致しているのは興味深い。この百籤の配列は恐らく厳格な定格として元三大師以来、動かないものとして規定されいるのかも知れない(他の寺院の「おみくじ」サイトでも確認してみたところ、ほぼ変わらないことも確認出来た。これを覚えておけば、何番を引いても番号でいつでも大吉やを引くことが出来るのかも知れない。やってみる気はさらさらないがね。脱線序でに調子に乗って「大凶」を調べて見たが、どうも現行の本邦の寺社では「大凶」(さらに規定上は「大大凶」もあるらしい)を入れているところは一割以下、記事によっては殆んどないとある。そこで調べて見ると本邦の仏教寺院数は総務省統計局公式データでは、

 現状仏教寺院総数 七万五千九百二十四寺

とは別に、

 他の仏教関連設備 千八百三十施設

があるとあり、神社の方は文化庁文化部宗務課公式データによると、

 既存把握神社総数 八万八千五百八十五社

であるが、それらの摂社末社を含めるならば、その数値の二・五倍から三・四倍近い、

          二十万から三十万社

にも上ぼるとも言われ、さらに実際には、その後に陸続と新興神社施設が登録されているとあって、現実にはこの数値の約一・三倍から一・五倍程度、即ち、

          二十六万から四十五万社

があることになるとある。単純総計ではそうすると、本邦の寺社数は最低で、

          十六万四千五百九寺社

最大で、

          五十二万七千七百五十四寺社

あることにある。その一割は、

          五千二百七十七寺社

であるが、無住の社寺末社摂社は殊の外多く、「おみくじ」など出していない寺社も非常に多いと思われるから、さらに大鉈を振って乱暴にこの一割とすれば、

事実、「おみくじ」で「大凶」が引けるのは五十二社寺ほどであろうか?

 また、参詣人の多い寺社は「大凶」を置くことを忌避する傾向があることがネット情報から知られるので、事実、我々が日常的な参詣で「大凶」を引くことが出来る確率はもっと恐ろしく低率となり(通常人の生涯に於いて引ける確率は1%以下の殆んどないといった塩梅か?)、とすればだ、皮肉にも「大凶」が引けるというのは、人生のあり得べからざる驚天動地の「大大吉」(を入ているところもある)の事態という逆説的現象であるとも言えるのではなかろうか?などと私は大いにほくそ笑んでいるのである。今度、どこかで引いてみようかしらん? どなたか「大大凶」のある神社をお教え下されよ……♪ふふふ♪ 

 

Sec. 3

   There is a sound of happy voices from the temple, and the steps are crowded with smiling mothers and laughing children. Entering, I find women and babies
pressing about a lacquered table in front of the doorway. Upon it is a little tub-shaped vessel of sweet tea—amacha; and standing in the tea is a tiny figure of Buddha, one hand pointing upward and one downward. The women, having made the customary offering, take up some of the tea with a wooden ladle of curious
shape, and pour it over the statue, and then, filling the ladle a second time, drink a little, and give a sip to their babies. This is the ceremony of washing the statue of Buddha.

   Near the lacquered stand on which the vessel of sweet tea rests is another and lower stand supporting a temple bell shaped like a great bowl. A priest approaches with a padded mallet in his hand and strikes the bell. But the bell does not sound properly: he starts, looks into it, and stoops to lift out of it a smiling Japanese baby. The mother, laughing, runs to relieve him of his burden; and priest, mother, and baby all look at us with a frankness of mirth in which we join.

   Akira leaves me a moment to speak with one of the temple attendants, and presently returns with a curious lacquered box, about a foot in length, and four inches wide on each of its four sides. There is only a small hole in one end of it; no appearance of a lid of any sort.

   'Now,'

   says Akira, 'if you wish to pay two sen, we shall learn our future lot according to the will of the gods.'

   I pay the two sen, and Akira shakes the box. Out comes a narrow slip of bamboo, with Chinese characters written thereon.

   'Kitsu!'

   cries Akira. 'Good-fortune. The number is fifty-and-one.'

   Again he shakes the box; a second bamboo slip issues from the slit.

   'Dai kitsu! '

   great good-fortune. The number is ninety-and-nine.

   Once more the box is shaken; once more the oracular bamboo protrudes.

   'Kyo!'

   laughs Akira. 'Evil will befall us. The number is sixty-and- four.'

   He returns the box to a priest, and receives three mysterious papers, numbered with numbers corresponding to the numbers of the bamboo slips. These little bamboo slips, or divining-sticks, are called mikuji.

   This, as translated by Akira, is the substance of the text of the paper numbered fifty-and-one:

   'He who draweth forth this mikuji, let him live according to the heavenly law and worship Kwannon. If his trouble be a sickness, it shall pass from him. If he have lost aught, it shall be found. If he have a suit at law, he shall gain. If he love a woman, he shall surely win her -though he should have to wait. And many happinesses will come to him.'

   The dai-kitsu paper reads almost similarly, with the sole differences that, instead of Kwannon, the deities of wealth and prosperity— Daikoku, Bishamon, and
Benten—are to be worshipped, and that the fortunate man will not have to wait at all for the woman loved. But the kyo paper reads thus:

   'He who draweth forth this mikuji, it will be well for him to obey the heavenly law and to worship Kwannon the Merciful. If he have any sickness, even much more sick he shall become. If he have lost aught, it shall never be found. If he have a suit at law, he shall never gain it. If he love a woman, let him have no more expectation of winning her. Only by the most diligent piety can he hope to escape the most frightful calamities. And there shall be no felicity in his portion.'

   'All the same, we are fortunate,' declares Akira. 'Twice out of three times we have found luck. Now we will go to see another statue of Buddha.' And he guides me, through many curious streets, to the southern verge of the city.

2015/08/15

さても……

さても明日から静かに何の好事に沈潜して生きるか……それを考えつつ、頭痛とともに眠りに入ることと致そう……

僕の外傷性クモ膜下出血画像1

左右は逆。画像左上に見えるのがクモ膜下出血――

 

Hasouji1

以下は昨日、14日のもの――

Kyuukyuuhannsouji1


比べて見て下さい。

これは……どうみても正直、

「血が吸収されてよくなっている」

ようには……ドシロウトでも思えません!!!
 
というより――左前頭葉さえ広範に挫滅ではありませんかのぅ!……

外傷性右前頭葉クモ膜下出血より生還――無事帰宅

8月8日の東京湾大花火に妻の付添いで出かけ、屋形船のデッキ上で僕自身が転倒(ご想像に違わず酔っておりました)、後頭部を強打、そのまま聖路加(ルカ)国際病院に救急搬送されてCTを撮ったところ、作用反作用の法則に拠り、脳に加えられた圧力が右前頭葉に達して、右前頭葉のクモ膜下出血を引き起こしておりました。出血は前脳脳梁の部分まで起こっていたものの、拡大が見られないので、手術はせず、三日ほど安静を保ち、リハビリを経て、取り敢えず日常生活に支障はないとのことで本日只今自宅に帰宅りました。 

何人かの方は父のフェイスブックを通じて知られたようですが、御心配をおかけし誠に恐縮です。 

本日、三度目のCT画像を見ましたが左眉間の少し上辺りの嗅覚を司る脳がかなり挫滅していることが判明しており(全CT画像は複写してゲット。何時かお見せしましょう)、嗅覚は現在のところ、ほぼ完全に喪失しました。

脳の挫滅の範囲と予後によっては、将来的には右顔面の痙攣、右手の痙攣発作や最悪、瞬間的な意識喪失による昏倒を生ずるリスクがあるとも言わわました。最初の診断の際、医師は妻には怒りっぽくなるなどの人格の変容が起こりこともあり得ると言ったそうです(因みに妻は何時も怒りっぽい人ですからとやり返したそうですから、恐らく諸君も僕に病的性格変容が起こって来たとしても感じられないとも思われますので安心して飲みに誘って下さい)。

僕自身としては、確かに食事が以前のようには美味しさが感じられないこと(嗅覚は味覚の半分以上を支配しているという実感をひしひしと感じました)は、昔から匂いは人一倍敏感であった自分が、自分の体臭をさえ感じられなくなっているのはちょっとショボンという気にも一瞬なりましたが、身から出た錆なればこそ、それほど落ち込んではおりませんので御安心あれ。今の時点で面倒なのは一日に服用する薬の量が二十錠以上でこれをかなり長く続けなくてはならないのがめんどっちいです。

追記:面白いのは消毒用アルコールの臭いと辛味成分の臭いというのは、上記の通常嗅覚の受容体とは異なるとのことで、実際にアルコールの刺激臭やニンニクの辛味だけ(臭いは全くしない)は感じられます。酒好き大辛好きの僕に神が残して呉れた僅かな御目溢しの賜物と言うべきか、こんな形で尊敬する医師日野原重明先生の病院にお世話になったこと、僕が母テレジア聖子が亡くなる直前に、僕が僕自身に勝手につけた洗礼名が「ルカ」(聖ルカではなくて「どん底」のルカ)だったこと――それからそういえば、昔、こんな狂歌を創ったことを思い出したりしました……

    不在非在 忸怩鬱勃 再臨界

       巡禮路加(ルカ)の鈴の音ぞする

2015/08/08

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (二)

 

       

 

 晃が私の室の戶口で、辭儀をして微笑んでゐる。彼は草履を脫ぎ、白足袋を穿いたまま入つて、今一度微笑んで辭儀をしてから、靜かに進めた椅子に就いた。晃は愉快な靑年である。鬚のない滑かな顏、淸らかな靑銅色の皮膚、それに紺色の蓬髮は、目元まで額に垂れてゐるので、濶袖の長い衣を著てゐると、殆ど日本の若い娘の姿に見える。

 私は手を叩いて茶を呼んだ。葉卷煙草を薦めたが、彼は辭退した。しかし、私に斷わつて、彼の煙管で喫煙すると云つた。そこで、煙管入れの鞘と、煙草入れの囊を聯結したものを帶から外づし、煙管入れからは、漸つと碗豆大の雁首の皿が附いてゐる眞鍮製の小管を引き出し、囊からは毛のやうに細かく刻んだ煙草を取り出して、それを小さく丸めて煙管に詰め込んで、吸ひ始めた。煙を肺に吸つては、鼻孔からまた吐き出す。半分間ほどづつ間を置いて、三囘輕く吸つて、煙管を空けてからもとの鞘に收めた。

 その内に私は晃に私の失望談を語つた。

 晃は答へた。「何、今日私と藏德院へ散步に御出でになれば、御覽になれますよ。今日は佛生會に當りますから。が、極小さい、五六寸の高さです。もし大きな佛像を御覽になりたいなら、鎌倉へ御出掛けにならねばなりません。そこには蓮華の上に大佛が坐つてゐます。五丈の高さです」

 それで、私は晃の案內で出かけた。「何か珍らしいものを御目にかけませう」と彼は云つた。

[やぶちゃん注:このシークエンスは晃の台詞の「佛生會」(「ぶつしやうゑ(ぶっしょうえ)」)によって、この明治二三(一八九〇)年四月八日(当日は火曜日)であることが判明する。

「濶袖」は「ひろそで」と読み、和服の袖口を縫わずに全部開けてあるもの。どてらの袖のようなタイプ。

「藏德院」平井呈一氏も同じく『蔵徳院』としておられるが、これは思うに「增德院」の誤りであろうと思われる。増徳院は現在は横浜市南区平楽にあり(市大センター病院の南東六百メートル)、高野山真言宗の準別格本山で正式には海龍山本泉寺増徳院という(因みに晃の宗旨は真言宗である旨の記載が前章冒頭に出た。なお、真言宗の修学僧であった彼が曹洞宗の本覚寺で修行をしていたとしても、これは何らおかしくはない。修学や仏教道場としての寺について今更くだくだしく説明するのも馬鹿馬鹿しいので、禅宗を信仰してない人間が坐禅を組みに来るのをおかしいとは誰も言わぬのと同じことだとだけ言っておく)。まずはウィキの「増徳院を見て頂きたい。そこには、実はこの寺は元は元町一丁目(現在の「元町プラザ」の一角)にあった。しかもその背後に連なる『現在の横浜外国人墓地は境内墓地であった』とあるのである。これは地図を見て頂ければ分かる通り、元町商店街の海側の端、堀川の右岸直近で、旧居留地とは谷戸橋で繫がる極直近であったことが判るのである。これによって、晃が俥でなく徒歩の「散歩」と称し、次の「三」章が一気に寺の本堂前の参拝する人々のざわめきから始まるのも、まさにこれが元町の増徳院であったことを物語っているのである。次に「東神奈川・保土ヶ谷・弘明寺旅行 クチコミガイド」の増徳院(横浜市南区平楽)を見る。大同年間(九世紀初頭)の『創立といわれているが、記録は残っていない。現在の元町プラザの場所にあったお寺である。古くから町の人たちの信仰の中心的存在であった。関東大震災』で被災後、昭和三(一九二八)年になって現在地の南区平楽一〇三に『再建され、戦災を経てそのほとんどが平楽へ移転した。現在、元町にあるのは』、昭和四七(一九七二)年に『再建された薬師堂のみである』。『幕末になって、この寺の墓所をペリーの意向で外国人の墓地に提供したことから現在の「山手外国人墓地」が誕生した。ペリー艦隊のミシシッピ号船員ウィリアムズの葬式が行われたときは、葬儀の列は街中を太鼓の音に合わせて行進し、住民たちは家や店から出てきて見物した。そのとき埋葬された場所は増徳院の境内の丘であった。しかし、日米和親条約によって伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、ウィリアムズの遺体は』この三ヶ月後に『玉泉寺に改葬されている。また、こうした太鼓は戊辰戦争には官軍に取り入れられている』とある。

「佛生會」釈迦の生誕を祝う仏事。本邦では現行通常は新暦四月八日に行われている。ゴータマ・シッダッタが旧暦四月八日に生まれたとする伝承に基づく。灌仏会(かんぶつえ)・花会式(はなえしき)・花祭(はなまつり)・龍華会(りゅうげえ)などとも呼ぶ。

「五六寸」十五~十八センチメートル。

「五丈」十五・一五メートル。実際の鎌倉高徳院の銅造阿弥陀如来坐像は台座を含む総高十三・三五メートル仏身高は十一・三一二メートルである(高徳院公式サイトのデータに拠る)。] 

 

Sec. 2

   Akira is bowing and smiling at the door. He slips off his sandals, enters in his white digitated stockings, and, with another smile and bow, sinks gently into
the proffered chair. Akira is an interesting boy. With his smooth beardless face and clear bronze skin and blue-black hair trimmed into a shock that shadows his forehead to the eyes, he has almost the appearance, in his long wide-sleeved robe and snowy stockings, of a young Japanese girl.

   I clap my hands for tea, hotel tea, which he calls 'Chinese tea.' I offer him a cigar, which he declines; but with my permission, he will smoke his pipe. Thereupon he draws from his girdle a Japanese pipe-case and tobacco-pouch combined; pulls out of the pipe-case a little brass pipe with a bowl scarcely large enough to hold a pea; pulls out of the pouch some tobacco so finely cut that it looks like hair, stuffs a tiny pellet of this preparation in the pipe, and begins to smoke. He draws the smoke into his lungs, and blows it out again through his nostrils. Three little whiffs, at intervals of about half a minute, and the pipe, emptied, is replaced in its case.

   Meanwhile I have related to Akira the story of my disappointments.

   'Oh, you can see him to-day,' responds Akira, 'if you will take a walk with me to the Temple of Zotokuin. For this is the Busshoe, the festival of the Birthday
of Buddha. But he is very small, only a few inches high. If you want to see a great Buddha, you must go to Kamakura. There is a Buddha in that place, sitting
upon a lotus; and he is fifty feet high.'

   So I go forth under the guidance of Akira. He says he may be able to show me 'some curious things.'

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (一)

 

      第三章 お地藏きま

 

        

 

 私は神社佛閣の間に彷徨して、また一日を過ごした。幾多の珍しいものを見た。が、まだ佛陀の顏を見ない。

 每度長い退屈な石段を登りて、鬼瓦――象の頭や獅子の頭の恰好をした――の多い門をくゞり、それから、靴を脫いで、薰香の匂ふ薄暗い室へ入り、造花の金蓮を飾つた不可思議な花園のやうな所で、私の眼が朦朧さに馴れてくるまで待つたが、佛像は見當らなかつた。ただ夥しくぴかぴかしたものが、半分だけ見えて、ごちやごちやして、妙な形に捻じじけた金塗の眞鍮、名狀し難き容器、謎の如き金字の經文、きらきらする神祕的な、垂れ下つたものなど取りとめのない、はでやかな壇上の什器裝飾品――これらのものが、堅く戶を鎖した厨子を圍んでゐるだけであつた。

 私に最も多くの印象を與へたのは、一般民衆の信仰が、いかにも愉快らしいことである。私は獰猛な、嚴肅な、或は自己抑壓的なものを毫も見ない。眞面目に類するものさへ目にとまらない。社寺の陽氣な境内や、石段にさへ、珍しい遊戯をして、嬉々たる子供が群がり、お祈りのため堂內へ入りくる母は、赤兒を疊の上に這ひ囘はらせ、歡聲を揚げるままに放任して置く。誰も宗敎を輕快に、樂しいものに考へてゐる。大きな賽錢函へ貨幣を投げ入れ、手を拍つて、極めて短い祈りを囁いてから、振り向いて入口の前で笑つたり、話したり、細い煙草を吸つたりする。ある堂では、參詣者が内へ入らないのを私は見受けた。單に戶の前に立つて、數秒間のお祈りと、少しばかりのお賽錢を捧げるだけだ。自分で作つた神佛を、あまりに甚しく恐れない彼等こそ幸福である。

[やぶちゃん注:「鬼瓦――象の頭や獅子の頭の恰好をした――の多い門」「鬼瓦」(平井呈一氏も同訳)であるが、これは寧ろ、原文そのまま「ガーゴイル」と訳すか、或いは「怪物彫刻」として、ルビで「ガーゴイル」とした方がよいように思われる。何故なら、ハーンが指すのは、文字通りの「鬼」を描いた「瓦」ではないことがダッシュ以下で分明だからである。さても――前章の最初の寺について、公開直後に私の若い教え子の女性(正覚寺と同定したのは古い男性の教え子で別)が実際に本覚寺の近くに住んでおり、早速、写真を撮って送って呉れたことは以前にブログで紹介したが、その中の、山「門」の「ガーゴイル」を写した一枚を見て頂こう。
 

 

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ハーンが見て、大いに印象づけられたそれは、やっぱりまさにこの――本覚寺の山「門」の正面左右に突き出た「ガーゴイル」のような奇体な「象の頭」であり「獅子の頭」であった――と言ってよいのではあるまいか!]

 

      Chapter Three Jizo

 

      Sec. 1

   I HAVE passed another day in wandering among the temples, both Shinto and Buddhist. I have seen many curious things; but I have not yet seen the face of
the Buddha.

   Repeatedly, after long wearisome climbing of stone steps, and passing under gates full of gargoyles—heads of elephants and heads of lions— and entering shoeless into scented twilight, into enchanted gardens of golden lotus-flowers of paper, and there waiting for my eyes to become habituated to the dimness, I have looked in vain for images. Only an opulent glimmering confusion of things half-seen—vague altar- splendours created by gilded bronzes twisted into riddles, by vessels of indescribable shape, by enigmatic texts of gold, by mysterious glittering pendent things—all framing in only a shrine with doors fast closed.

   What has most impressed me is the seeming joyousness of popular faith. I have seen nothing grim, austere, or self-repressive. I have not even noted anything
approaching the solemn. The bright temple courts and even the temple steps are thronged with laughing children, playing curious games; arid mothers, entering
the sanctuary to pray, suffer their little ones to creep about the matting and crow. The people take their religion lightly and cheerfully: they drop their cash in
the great alms-box, clap their hands, murmur a very brief prayer, then turn to laugh and talk and smoke their little pipes before the temple entrance. Into some shrines, I have noticed the worshippers do not enter at all; they merely stand before the doors and pray for a few seconds, and make their small offerings. Blessed are they who do not too much fear the gods which they have made!

2015/08/07

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第二章 弘法大師の書 (三) /第二章 了

 

       

 

 しかし、弘法大師自らも甞て御所の應天門と題した扁額に、應字の傍へ點を打つのを忘れた。天皇がその譯をお尋ねになつたとき、大師は『忘れて侍べり。されど今、點をば加へ參らせん』と答へた。最早額は掛けられて、高く門の上にあつたから、天皇は、梯子を運んで來させ玉ふた。が、大師は門前の敷石の上に立つたま〻、單に筆を額に向つて投げつけた。すると、立派にそこへ點が出來て、筆は手へ戾つてきた。

 弘法大師はまた御所の光華門の扁額を書いた。その門の近くに紀ノ百枝といふ男が住んでゐたが、弘法の書いた文字を罵倒し、その内の一字を指して、『虛勢を張る力士に似たることよ』と云つた。が、その夜、百枝の夢に力士が現れ、臥床の側へきて、彼にとびかかり、拳骨でなぐりつけた。毆打の痛さに泣き出すと、彼の目は醒めた。見れば、力士は空に上つて、彼が罵倒した文字に變形し、門の上の扁額へ返つて行つた。

 また小野道風といふ、非常に巧妙で、名高い書家があつた。彼は弘法大師の書いた秋鶴門の額字を嘲笑つて、秋の字を指して、『秋の字さながら米の字とも見ゆ』と云つた。すると、その夜、彼の嘲笑つた文字が人となつて現れ、彼に襲ひかゝつて、彼を打ち、幾たびも顏の上へ、跳び上つたり下りたりして――丁度米搗が米をつく杵を動かすために、はね上つたり下りたりする如く――その間『いかに、我は弘法大師の使者なるぞ』と云ひつづけた。彼が目を醒まして見ると、ひどく蹂躙されたやうに、傷ついて出血してゐた。

 弘法大師の歿後、餘程の歲月が立つてから、大師の揮毫した美福門と光華門の額字が、殆ど磨消してゐることがわかつた。天皇は大納言行成に扁額の修繕を命ぜられた。が、行成は他の人々の身の上に起つたことに鑑みて、敕命を實行するのを憚つた。して、弘法大師の御怒りを恐れて、供物を捧げ、許可の現示を祈つた。その夜、夢中に大師が現れ、やさしく微笑して『帝の望みたまふま〻に取行ふべし。恐る〻ことかは』と云つた。そこで、彼寬弘四年正月、額を修復した。このことは本朝文集に錄してある。

 すべて是等の事實は、私の友人晃が私に話して吳れたものである。

[やぶちゃん注:先に字注しておくと、二段落目にある「毆打」は底本では「毆」の字の(つくり)が「攴」であるが、表示出来ない字であるので通用字に代えてある。

「御所の應天門」大内裏内中央北寄りの、朝堂院(八省院とも言い、北側に大極殿を配し、重要な式典を行う場であった)の正門。大内裏南表の朱雀門直近の北にあって朱雀門と会昌門(応天門の北直近の朝堂院正面)と並ぶ重要な門であった。ウィキの「応天門によれば、場所は二〇一二年まで出世稲荷神社があった付近(京都市上京区と中京区の南西の境界付近)とされるが、旧跡を示す碑などは存在しない、とある。扁額は空海の筆によるものと言われている。「弘法にも筆の誤り」ということわざは、空海(弘法大師)が応天門の扁額を書いた際に「應」の一画目の点を書き忘れてしまった(「まだれ」を「がんだれ」にしてしまった)が、空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き足したという伝承に由来する。ウィキの「空海」には、『嵯峨天皇からの勅命を得、大内裏應天門の額を書くことになった』『が、「應」の一番上の点を書き忘れ』(或いは「まだれ」を「がんだれ」にしてしまったとも伝える)、『空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれている。このことわざには、現在、「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」という意味だけが残っているが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている』とある。先に引いた「今昔物語集」巻第十一の「弘法大師渡唐傳眞言敎歸來語 第九」には欠損が激しいが、以下のようにある(仕儀は前に同じ。謙遜部を略した)。

   *

其の後、大同二年と云ふ年の十月廿二日に平安に歸朝す。[やぶちゃん注:中略。]早く皇城の南面の諸門の額を書くべし」と。然れば、外門(そともん)の額を書き畢んぬ。亦、應天門の額、打ち付けて後、是れを見るに、初めの字の點、既に落ち失せたり。驚きて筆を抛(な)げて點を付けつ。諸(もろもろ)の人、是れを見て、手を打ちて是れを感ず□

   *

「大同二年」は西暦八〇七年であるが、ウィキの「空海」によれば、彼の実際の帰朝は大同元(八〇六)年十月とする。この矛盾は恐らく、彼が二十年の留学期間をたった二年で切り上げて帰国し、当時の規定ではそれが闕期(けつご/けっき:規定期間の不履行)の罪に当たるとされたことによるものであると思われる。ウィキでは『そのためかどうかは定かではないが』、『帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた』とし、大同二年より二年ほどは『大宰府・観世音寺に止住している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていた』と実状を記している。その後、大同四(八〇九)年に『平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した。空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し』、七月の『太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った』とあるから、この「今昔」の記載はそうした咎めが恐らくは帝位譲位の恩赦のような形による後のことであるのであろうことが窺われるのである。

「光華門」平井呈一氏も、こう漢字で記すが、これは平安京大内裏外郭十二門の一つで南面三門(中央が朱雀門で東が美福門)の西方の門である「皇嘉門」の誤りであろう。この皇嘉門の扁額の伝説は、自称、クラッシャー尼僧とされる隆蓮房氏のブログ「隆蓮房覚書」の「書聖と五筆和尚8」によれば、どうも空海に事蹟を記した最も流布している「大師絵伝」(十巻本)なるものが出所らしい。リンク先は門の考証に詳しく、流石はクラッシャー尼僧と自称されるだけあって、実に興味深く面白い。必見!

「紀百枝」これは「きのももえ」と読むようである。前掲の「書聖と五筆和尚8」によれば、「大師絵伝」には紀百枝なる人物は『この門の前に住む大学助教授』であり、この力士に襲われる夢を見た『後、百枝は病を得て夭逝』し、『以後、この家に住む者は、同じ目に合った』と記されてあるとある。

「また小野道風といふ、……」以下の話も「大師絵伝」に載るらしいが、私は所持していないので、同話及びその次の行成の補修の話を合わせて所載する「古今著聞集」巻第七の「能書」の「二八七 弘法大師等大内十二門の額を書す事幷びに行成美福門の額修飾の事」を引いておく。底本は西尾光一・小林保治校注新潮日本古典集成版(昭和五八(一九八三)年刊を用いたが、恣意的に正字化し、一部に読みを追加した。

   *

 大內(おほうち)十二門の額、南面三門は弘法大師、西面三門は大内記(だいないき)小野美材(よしき)、北面三門は但馬(たぢま)の守(かみ)橘逸勢(たちばなのはやなり)、おのおの勅をうけたまはりて、埀露(すいろ)の點をくだしけり。東面三門は嵯峨天皇かせをはしましけるなり。實(げ)にや、道風朝臣、大師の書かせ給たる額をみて難じていひける、「美福門(びふくもん)は田廣し、朱雀門は米雀門」と略頌(りやくじゆ)につくりてあざけり侍ける程に、やがて中風(ちゆうふう)して手わななきて手跡も異樣(ことやう)になりにけり。

 かゝるためしをそれられけるにや、寬弘年中に行成卿、美福門の額の字を修飾すべきよし、宣旨をかうぶりける時は、弘法大師の尊像の御前に、香花(かうげ)の具をさゝげて、驚覺(きやうかく)して祭文(さいもん)をよまれけり。件(くだん)の文は、江以言(もちとき)ぞ書たりける。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。なおこれは原典の漢文を底本編者が書き下しものである。]

今、明詔(めいせう)を蒙(かうぶ)りて墨を下さんと欲すれば、則ち疑ふ、聖跡を黷(けが)すの冥譴(めいけん)有らんことを。更に聖跡を憚(はばか)りて將に筆を閣(お)かんとすれば、また恐る、明詔を辭するの朝章(てうしやう)に拘(かかは)らんことを。晉退(しんたい)心に慚ぢ、胡尾(こび)歩を失ふ。伏(ふ)して乞ふ、尊像、許否を以て示したまへ。もし請ふ所を許すべくは、痕跡を尋ねて粉墨を添へん。もし請ふ所を許さずは、形勢に隨ひて思慮を𢌞らさん。王事(わうじ)盬(もろ)きこと靡(な)し。なんぞここに鑑みざる。ねがはくは饗(う)けよ。

とぞ書かれて侍ける。この門ども或は燒失(せうしつ)し、或は顚倒して、今はわづかに安嘉(あんか)・待賢門のみぞ侍るめる。實(げ)にや、この安嘉門の額は、むかし人をとりける、おそろしかりける事かな。

   *

以下、底本の頭注などを参考に簡単に注しておく。

・「略頌」は短い詩の形態の謡いもの。

・「大內記」中務省の文官で詔勅の起草などを司った。

・「小野美材」(おののよしき ?~延喜(九〇二)年)参議小野篁の孫で儒者。道風の従兄弟とされる。能書家で醍醐天皇の大嘗会に際し、屏風歌を書いている。

・「橘逸勢」(延暦元(七八二)年?~承和九(八四二)年)は能書家として知られるが、空海・最澄らとともに延暦二三(八〇四) 年遣唐使に従って入唐、唐人から「橘秀才」と称賛された才人であった帰国後に従五位下に叙せられて承和七(八四〇)年に但馬権守となった。空海・嵯峨天皇とともに「三筆」と称される(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「小野道風」(とうふう/みちかぜ 寛平六(八九四年)~康保三(九六七)年)。能書家。小野篁の孫。ウィキの「小野道風」によれば、『中務省に属する少内記という役職にあり、宮中で用いる屏風に文字を書いたり、公文書の清書をしたりするのがその職務であった』(従兄弟の美材の大内記は紀伝道(文章道)の国家試験合格者に限ってなれた)。『能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」』と絶賛されており、『没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っ』たが、一方では、この空海の書へのあからさまな指弾に見るように、『気性が激し』かったらしい。また、『晩年はたいへん健康を壊し、随分苦しんだという』ともある。

・「寬弘年中」頭注に『勅を受けたのは寛弘三年(一〇〇六)十二月。一条天皇の時代』とある。なお、底本注によって、本文でハーンが述べるようにこの祭文は「本朝文粋」に出ることが判った(私は抄本しか持たず、そこにはこれは載らないので当該原文は示し得ない)。

・「驚覺」とは驚くことではなく、迷いと煩悩に染まった衆生を正しき仏道へと目覚めさせることを本義とする。頭注には『真言を唱え、諸仏を禅定から醒(さ)まし降臨を乞うこと』と記す。

・「江以言」官吏で漢詩人として知られた大江以言(天暦九(九五五)年~寛弘七(一〇一〇)年)。文章(もんじょう)博士・式部権大輔を経て従四位下に進んだ。詩文に卓絶し、作品は「本朝文粋」「本朝麗藻」などに収められている(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

・「晉退」進退窮まること。

・「胡尾」頭注によれば「詩経」の一句に基づく語で、前の語と同じく『進退の困難なさまをいう』とある。語源は raccoon21jp氏のブログ「2158.詩経(137)豳風《九罭》《狼跋》」に詳しいので参照されたい。

・「王事盬きこと靡し」頭注に『勅命にかかわることは厳しい。ここは、美福門の額の字を修飾せよと勅命は絶対である、ということ』とあり、これも実は「詩経」の「小雅」にある「王事靡盬」に基づくとある。

・「この安嘉門の額は、むかし人をとりける、おそろしかりける事かな」頭注に『昔、安嘉門の前を通り者が、その額の字の霊により時々踏み仆(たお)されたので、密かに額の字の中央をすり消した。また、空海が書いた皇嘉門の額も霊があって人を害したという』「江談抄」第一に載る伝承を指す旨の注記がある。これは二十六条と二十七条で、短いので以下に電子化しておく(ただ底本の注を引くだけだと癪だからでもある)。底本は新日本古典文学大系三十二巻を用い、恣意的に正字化した。

   §

 

   安嘉門(あんか)の額(がく)の靈(りやう)踏み伏する事

 「入道の帥(そち)談りて曰はく、「安嘉門の額は髮逆に生へたる童の靴沓(くつ)を着(は)きたる體(すがた)なり。昔件(くだん)の門の前を渡り行く者、時々踏み伏せらるるに依りて、竊(ひそ)かに人登り行き中央を摺り(す)損(おと)す」と」。

 

   大内(おほうち)の門などの額(がく)など書ける人々の事

 余(われ)問ひて云はく、「件(くだん)の額など誰人(たれ)の手跡(しゆせき)なりや」と。答へて云はく、「南面は弘法大師(こうぼふだいし)、東面は嵯峨帝(さがのみかど)、北面は橘逸勢(たちばなのはやなり)なりと云々。就中(なかんづく)に皇嘉門(くわうかもん)の額は殊(こと)に靈(りやう)有りて、人を害(そこな)ふ由、祕説に見ゆと云々。また、大極殿(だいごくでん)の額は敏行(としゆき)中將の手跡なり。ただし火災以前は誰人の書なりや」と。 

 

    §

以上の文中、「入道の帥」は藤原資仲(治安元(一〇二一)年~寛治元(一〇八七)年)のこと。詩歌に優れ、有職故実にも詳しかったとされる。「余問ひて云はく」の「余」は「江談抄」の筆録者である進士蔵人藤原実兼(藤原信西の父)答えている相手は「江談抄」の話者であるところの帥(そつの)中納言大江匡房(まさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)である。「敏行中將」は能書家で三十六歌仙の一人として知られる藤原敏行(?~延喜七(九〇七)或いは延喜元(九〇一)年)。官位は従四位上・右兵衛督。小野道風が古今最高の能書家として空海とともに名を挙げている人物である。] 

 

Sec. 3

   But Kobodaishi himself once forgot to put the ten beside the character O on the tablet which he painted with the name of the Gate O-Te-mon of the Emperor's
palace. And the Emperor at Kyoto having asked him why he had not put the ten beside the character, Kobodaishi answered: 'I forgot; but I will put it on now.' Then the Emperor bade ladders be brought; for the tablet was already in place, high above the gate. But Kobodaishi, standing on the pavement before the gate, simply threw his brush at the tablet; and the brush, so thrown, made the ten there most admirably, and fell back into his hand.

   Kobodaishi also painted the tablet of the gate called Ko-kamon of the Emperor's palace at Kyoto. Now there was a man, dwelling near that gate, whose name was Kino Momoye; and he ridiculed the characters which Kobodaishi had made, and pointed to one of them, saying: 'Why, it looks like a swaggering wrestler!' But the same night Momoye dreamed that a wrestler had come to his bedside and leaped upon him, and was beating him with his fists. And, crying out with the pain of the blows, he awoke, and saw the wrestler rise in air, and change into the written character he had laughed at, and go back to the tablet over the gate.

   And there was another writer, famed greatly for his skill, named Onomo Toku, who laughed at some characters on the tablet of the Gate Shukaku- mon, written by Kobodaishi; and he said, pointing to the character Shu: 'Verily shu looks like the character "rice".' And that night he dreamed that the character he had mocked at became a man; and that the man fell upon him and beat him, and jumped up and down upon his face many times— even as a kometsuki, a rice-cleaner, leaps up and down to move the hammers that beat the rice—saying the while: 'Lo! I am the messenger of Kobodaishi!' And, waking, he found himself bruised and bleeding as one that had been grievously trampled.

   And long after Kobodaishi's death it was found that the names written by him on the two gates of the Emperor's palace Bi-fuku-mon, the Gate of Beautiful Fortune; and Ko-ka-mon, the Gate of Excellent Greatness—were well-nigh effaced by time. And the Emperor ordered a Dainagon [1], whose name was Yukinari, to restore the tablets. But Yukinari was afraid to perform the command of the Emperor, by reason of what had befallen other men; and, fearing the divine anger of
Kobodaishi, he made offerings, and prayed for some token of permission. And the same night, in a dream, Kobodaishi appeared to him, smiling gently, and said:
'Do the work even as the Emperor desires, and have no fear.' So he restored the tablets in the first month of the fourth year of Kwanko, as is recorded in the book, Hon-cho-bun-sui.

   And all these things have been related to me by my friend Akira. 

 

1
Dainagon, the title of a high officer in the ancient Imperial Court.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第二章 弘法大師の書 (二)

 

      

 

 その頃、弘法大師は獨り河畔で冥想をするのが常であつた。ある時、かやうに冥想の際、ふと氣がついてみれば、彼の前に一人の童子が立つて、物珍らしげに大師を凝視してゐた。童子の衣服は貧乏人の着るものであつたが、顏は立派であつた。大師が怪んでゐると、童子が『貴僧は同時に五本の筆もて、字を書く五筆和尙なるか』と尋ねた。『我はその者なり』と大師が答へた。すると、童子は『貴僧もし、その人ならんには、願くは天に字を書き玉はんことを』と云つた。そこで、大師は立上つて、筆を取り、天に向つて字を書くやうな擧動をした。して、間もなく天空に極めて美しく、文字が現れた。それから、童子は『この度は我試みむ』と云つて、大師がしたやうに、天へ書いた。また童子は、『願くは我がため、河の水面に書き玉はんことを』と云つた。大師は水をほめた〻へた歌を水面に書いた。暫らくは文字が、木の葉の降つたやうに、水面に美しく留まつてゐたが、やがて流と共に動いて、浮び去つた。『この度は、我試みむ』と童子が云つて、草書で龍といふ字を書いた。その字は流水の面に留まつて動かなかつた。が、大師は字傍にあるべき一つの小さな點が無いのを見て、『何故、點を打だざりしぞ』と尋ねた。『げに忘れて侍べり。我がため點を打ち玉へかし』と答へた。そこで大師が點を打つと、不思議! 龍の字が一匹の龍となつて、水中で激動し、虛空は雷雲に暗く、電光燃え上がり、渦卷く嵐の中に龍は昇天して了つた。

 で、大師は『そなたは誰そ』と小童に聞いた。小童は『我は吳臺山に祀らるゝ智惠の主、文殊菩薩なるぞ』と答へた。斯く語つてゐる内に、小童は變形して、神佛の美にかゞやぎ、四肢から柔和な光を放つて、微笑み乍ら空へ登つて、雲の外へ消えた。

[やぶちゃん注:これも先に示した「今昔物語集」巻第十一の「弘法大師渡唐傳眞言敎歸來語 第九」の引用文に続いて現われるエピソードである。以下に示す(岩波文庫池上洵一編を底本としたが、恣意的に正字化し、一部に読点や記号を加え、送り仮名も追加して表記も読み易く書き換えてある)。

   *

 亦、日本の和尙、城(みやこ)の内を廻(めぐ)り見給ふに、一つの河の辺(ほとり)に臨むに、一人の弊(あ)しき衣を着せる童子、來れり。頭(かしら)は蓬(よもぎ)の如き也。和尙に問ひて云く、「是れ、日本の五筆和尙か」と。答へて云く、「然也(しかなり)」と。童子云く、「然らば、此の河の水の上に文字を書くべし」と。和尙、童(わらは)の云ふに隨ひて、水の上に、淸水(きよみづ)を讚(ほ)むる詩を書く。其の文(もん)、點、破れずして流れ下る。童、是れを見て、咲(ゑみ)を含みて感歎の氣色有り。亦、童の云く、「我れ、亦、書くべし。和尙、是れを見るべし」と。卽ち、水の上に「龍」の字を書く。但し、右に一つの小さき點、付けず。文字、浮び漂ひて流れず。卽ち、小點を付くるに、響きを發し光を放ちて、其の字、龍王と成りて空に昇りぬ。此の童は文殊に在(まし)ましけり。弊衣は瓔珞(やうらく)也けり。卽ち失せぬ。

   *

「字傍にあるべき一つの小さな點」草書の「龍」の字は最後に右上に「ヽ」を打つ。

「吳臺山」五台山(ウータイシャン)。山西省北東部に実在する山。標高三千五十八メートル。台状の五峰からなる。峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一つで、文殊菩薩の住む清涼山とされる。元代以降はチベット仏教の聖地となった。]

 

Sec. 2

   Now in that time Kobodaishi was wont to meditate alone by the river- side; and one day, while so meditating, he was aware of a boy standing before him, gazing at him curiously. The garments of the boy were as the garments worn by the needy; but his face was beautiful. And while Kobodaishi wondered, the boy asked him: 'Are you Kobodaishi, whom men call "Gohitsu-Osho"—the priest who writes with five brushes at once?' And Kobodaishi answered: 'I am he.' Then
said the boy: 'If you be he, write, I pray you, upon the sky.' And Kobodaishi, rising, took his brush, and made with it movements toward the sky as if writing; and presently upon the face of the sky the letters appeared, most beautifully wrought. Then the boy said: 'Now I shall try;' and he wrote also upon the sky as Kobodaishi had done. And he said again to Kobodaishi: 'I pray you, write for me—write upon the surface of the river.' Then Kobodaishi wrote upon the water a poem in praise of the water; and for a moment the characters remained, all beautiful, upon the face of the stream, as if they had fallen upon it like leaves; but presently they moved with the current and floated away. 'Now I will try,' said the boy; and he wrote upon the water the Dragon-character— the character Ryu in the writing which is called Sosho, the 'Grass- character;' and the character remained upon the flowing surface and moved not. But Kobodaishi saw that the boy had not placed the ten, the little dot belonging to the character, beside it. And he asked the boy: 'Why did you not put the ten?' 'Oh, I forgot!' answered the boy; 'please put it there for me,' and Kobodaishi then made the dot. And lo! the Dragon-character became a Dragon; and the Dragon moved terribly in the waters; and the sky darkened with thunder-clouds, and blazed with lightnings; and the Dragon ascended in a whirl of tempest to heaven.

   Then Kobodaishi asked the boy: 'Who are you?' And the boy made answer: 'I am he whom men worship on the mountain Gotai; I am the Lord of Wisdom,—Monju Bosatsu!' And even as he spoke the boy became changed; and his beauty became luminous like the beauty of gods; and his limbs became radiant, shedding soft light about. And, smiling, he rose to heaven and vanished beyond the clouds.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第二章 弘法大師の書 (一)

 

      第二章 弘法大師の書

 

      

 

 弘法大師は僧中の高僧、且つ眞言宗――晃(あきら)の屬する宗旨――の開祖で、日本人に平假名といふ書體、伊呂波といふ表音字母を書くことを敎へた最初の人であつた。して、彼自身書家中の最も驚異すべき能書家であつた。

 それで、弘法大師一代記といふ書に、かういふ話が載つてゐる。彼が支那に居つた時のこと、宮殿の或る室の名を書いてある文字が、古くなつて磨滅したので、帝は彼を召して新たに室の名を書かせた。そこで、弘法大師は右手に一本、左手にも一本の筆を取り、左足の指間に一本を挾み、また右足の指間にも一本を挾み、更に一本を口に啣へて、五本の筆をかやうに持ち乍ら、壁上に文字を書いた。して、その文字は流れに浮ぶ漣の如く滑かで、支那に於て空前の美しいものであつた。それから、また一本の筆を取つて、遠方から壁の上へ墨滴を跳ね飛ばした。すると、墨滴は落ちるに從つて、忽然變じて美麗なる文字となつた。かくて、帝は大師に五筆和尙の名を賜はつた。

 また或る時、大師が京都に近き高雄山に住んでゐた際、天皇は金剛上寺といふ大寺院の額を書かせようと思召し、使者に額を持たせて、大師の許へ遣はされた。しかし、使者が大師の住所へ近づいた時、前面の河は、雨に漲つて渡られなかつた。が、その內に大師が對岸に現れ、使者から聖旨を承はつたので、彼は使者に額をさし上げさせた。して、彼は對岸に立ち乍ら、筆を揮つて文字を空中へ書いた。すると、同時にその文字が、使者の支へてゐる額の上に現はれた。

[やぶちゃん注:この三段から成る章段は、まさに第一章のラストでハーンが言霊(ことだま)の国で見た文字の霊の初夢をダイレクトに受けて秀抜な構成を成していると私は思う。
 
「弘法大師一代記」書目から見て近世以降に成立した通俗物であろう。例えば明治一四(一八八一)年山口小五郎著の同名の和装本があるが(リンク先は国立国会図書館近代デジタルライブラリー内)、四肢を以って
壁書シーンが挿絵入り(キャプション「五華直號」)で示されてある(但し、次の段の話はこれには載らない)。この伝説は古くは「今昔物語集」巻第十一の「弘法大師渡唐傳眞言教歸來語 第九」(弘法大師、唐に渡りて眞言の教へを傳へて持ち歸り語(こと) 第九)にも載るが、そこでは(岩波文庫池上洵一編を底本としたが、恣意的に正字化し、一部に読点を加え、送り仮名も追加してある)、

   *

亦、宮城の內に三間(げん)の壁に手跡(しゆせき)有り。破損して後、人、筆を下して改むる事無し。天皇、勅を下して、日本の和尙に書かしむ。和尙、筆を取りて、五所に五行を同時に書給ふ。口に歌(くは)へ、二の手に取りて、二の足に挾める也。天皇、是を見て讚(ほ)め感じ給ふ。但し、今一間(けん)には、和尙、墨を磨りて壁の面に灑(そそ)ぎ懸くるに、自然(おのづか)ら間(けん)に滿てる「樹」の字と成りぬ。天皇、首(かうべ)を□て、五筆和尙と名づけて、菩提子(ぼだいし)の念珠を施し給ふ。

   *

とあって、本朝での話柄となっている。「一間」は一・八メートル。「□て」は底本の破損による欠字で、池上氏の注によれば、『「低(かたぶけ)」が想定される』とある。

「高雄山」現在の京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺迹(ゆいせき)本山高雄山神護寺の前身である和気清麻呂の私寺高雄山寺のこと。弘法大師空海は東寺や高野山経営に当たる前(帰朝から三年後の大同四(八〇九)年から修禅道場として高野山を下賜される弘仁七(八一六)年頃まで)にここに住していた。

「金剛上寺」個人サイト「kazu_san の百寺巡礼」の神護寺」の頁の「硯石」の項に、『空海が神護寺で修行をしていたとき、嵯峨天皇が空海に「金剛定寺」の門額を書くよう勅使を送った。その時清滝川が増水していて勅使が渡ることができなかった。空海は、この石を硯石として,筆に墨を含ませ空に向かって字を書いた。墨は飛び散って,はるか向こうの金剛定寺の門額の文字として表れたという。豪快な話し。「金剛定寺」は今はない』とある。同じ嵯峨天皇勅命の額となると「弘法も筆の誤り」の逸話の方が知られるが、それは「三」の冒頭に出る。] 

 

        Chapter Two The Writing of Kobodaishi 

 

Sec. 1

   KOBODAISHI, most holy of Buddhist priests, and founder of the Shingon- sho—which is the sect of Akira—first taught the men of Japan to write the writing called Hiragana and the syllabary I-ro-ha; and Kobodaishi was himself the most wonderful of all writers, and the most skilful wizard among scribes.

   And in the book, Kobodaishi-ichi-dai-ki, it is related that when he was in China, the name of a certain room in the palace of the Emperor having become effaced by time, the Emperor sent for him and bade him write the name anew. Thereupon Kobodaishi took a brush in his right hand, and a brush in his left, and one brush between the toes of his left foot, and another between the toes of his right, and one in his mouth also; and with those five brushes, so holding them, he limned the characters upon the wall. And the characters were beautiful beyond any that had ever been seen in China—smooth-flowing as the ripples in the current of a river. And Kobodaishi then took a brush, and with it from a distance spattered drops of ink upon the wall; and the drops as they fell became transformed and turned into beautiful characters. And the Emperor gave to Kobodaishi the name Gohitsu Osho, signifying The Priest who writes with Five
Brushes.

 

   At another time, while the saint was dwelling in Takawasan, near to Kyoto, the Emperor, being desirous that Kobodaishi should write the tablet for the great temple called Kongo-jo-ji, gave the tablet to a messenger and bade him carry it to Kobodaishi, that Kobodaishi might letter it. But when the Emperor's messenger, bearing the tablet, came near to the place where Kobodaishi dwelt, he found a river before him so much swollen by rain that no man might cross it. In a little while, however, Kobodaishi appeared upon the farther bank, and, hearing from the messenger what the Emperor desired, called to him to hold up the tablet. And the messenger did so; and Kobodaishi, from his place upon the farther bank, made the movements of the letters with his brush; and as fast as he made them they appeared upon the tablet which the messenger was holding up.

2015/08/06

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章 私の極東に於ける第一日 (一一) /第一章 了

 

       一一

 

 『按摩上下五百文』

 女の聲が夜の中に響く。妙にうるはしい調子で歌つてゐるその文句は、一語一語私の開放した窻から、笛の音の小波の如くに入り込む。少し英語を話す私の召使が、その言葉の意味を說明してくれた。

 『按摩上下五百文』

 して、いつもこの長くうるはしい呼び聲の間を置いて、悲しげな呼子の笛が聞える。初め一つ長い音を發し、それから二つの短い音を別の調子で出す。按摩の笛なのだ。病人や疲れた人を揉んで糊口してゐる貧乏な盲女で、その笛は徒步者又は車を曳く者に對して、當人は目が見えぬから氣を付けてくれと、警戒を與へる。それから、また疲れた人や病人が呼んで吳れるやう文句を歌ふ。

 『按摩上下五百文』

 いとも悲しい曲調だが頗る美しい聲だ。この女の叫聲は、五百文の金高で、疲れた人の身體を上部も下部も揉んで、疲勞とか苦痛を無くして了うといふ意味である。五百文は五錢に相當する。十厘が一錢、十文が一厘となる。この聲の奇異な、うるはしさは、心に浸んで纏綿する――少々痛い處あれかし、それを取去つてもらうため、私も五百文を拂ふことが出來るからとさへ思はせる。 

 

 私は眠に就いて夢を見た。無數の氣味惡るい神祕な漢字の文句が、悉く同一の方向に私の側を疾走して行く。白い字、黑い字が、看板の表に、障子の面に、或は草鞋穿きの男の背に載るつてゐる。字といふ字が悉く意識的生命を有して、活きてゐるやうだ。七節蟲の如く奇怪で、昆蟲が四肢を動かす如く、部分々々を動かしてゐる。私は車輪の音を立てない幻の人力車に乘つて、低い狹い輝いた町の間をいつも走つて行く。して、走り行く車夫の大きな白い松茸形の帽子が、絕えず私の前で上下へ踊つてゐる。

[やぶちゃん注:「第一章 私の極東に於ける第一日」の掉尾である。女の按摩の呼び声と笛のリフレインが睡魔を誘い、夢魔を誘い、コーダの幻想的な夢へと美事に繋がって、一読、忘れ難い非常に印象的なエンディングである。

「七節蟲」“phasmidae”で、有翅昆虫亜綱新翅下綱直翅上ナナフシ目 Phasmatodea に属するナナフシ類のこと(“phasmida”はシノニム)。学名の頭の部分はギリシャ語の“phasma”(幽霊)に由来する。英語では“walking sticks”“ghost insects”などとも呼び、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 蟲類」(一九九一年平凡社刊)のナナフシによれば(以上の語源もこれを参照)、英語では『悪魔の棒』とも言うとある。目くるめく漢字という異様に絵画的な漢字という文字に半ば祟られ半ば魅せられているハーンの心理状態、漢字の画がナナフシのように蠢いて強迫的に迫ってくるという、何と、神経症的(異国の文化のただ中に投げ込まれた異邦人の体験する追跡妄想や関係妄想、更には統合失調症的なゲシュタルト崩壊感覚は病跡学的にも頗る興味深い)且つ慄っとするほど素敵な幻想を孕んだ夢であろう!] 

 

Sec. 11

   'Amma-kamishimo-go-hyakmon!'

   A woman's voice ringing through the night, chanting in a tone of singular sweetness words of which each syllable comes through my open window like a
wavelet of flute-sound. My Japanese servant, who speaks a little English, has told me what they mean, those words:

   'Amma-kamishimo-go-hyakmon!'

   And always between these long, sweet calls I hear a plaintive whistle, one long note first, then two short ones in another key. It is the whistle of the amma, the poor blind woman who earns her living by shampooing the sick or the weary, and whose whistle warns pedestrians and drivers of vehicles to take heed for her sake, as she cannot see. And she sings also that the weary and the sick may call her in.

   'Amma-kamishimo-go-hyakmon!'

   The saddest melody, but the sweetest voice. Her cry signifies that for the sum of 'five hundred mon' she will come and rub your weary body 'above and below,' and make the weariness or the pain go away. Five hundred mon are the equivalent of five sen (Japanese cents); there are ten rin to a sen, and ten mon to one rin. The strange sweetness of the voice is haunting,—makes me even wish to have some pains, that I might pay five hundred mon to have them driven away.

 
   I lie down to sleep, and I dream. I see Chinese texts—multitudinous, weird, mysterious—fleeing by me, all in one direction; ideographs white and dark, upon
signboards, upon paper screens, upon backs of sandalled men. They seem to live, these ideographs, with conscious life; they are moving their parts, moving with
a movement as of insects, monstrously, like phasmidae. I am rolling always through low, narrow, luminous streets in a phantom jinricksha, whose wheels make no sound. And always, always, I see the huge white mushroom-shaped hat of Cha dancing up and down before me as he runs.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章 私の極東に於ける第一日 (一〇)

 

    一〇

 

 『寺?』車夫がまた問ふた。

 『寺、否。遲くなつたから、ホテルへ』

 が、車夫は歸り途に、狹い町の角を𢌞つてから、一小祠の前に車を停めた。それは日本の店肆の最も小さな位のものに過ぎないが、これまで見た更に大きな社寺よりも、私に取つては一層の驚異であつた。といふのは、門の兩側に二個の怪像が、裸身、赤血色を帶びて、惡魔の如く、筋肉怖しげに、足は獅子に似て、雨手に金色の稻妻を振り𢌞はし、無我夢中に激怒せる眼を持つて立つてゐるからである。これは神佛の守護者、仁王である。

    註。しかし、私が初めて見た是等の仁
    王は、頗る拙いものであつた。東京、
    京都その他の土地にある、大きな山門
    には、壯麗なる仁王が見られる。最も
    壯大なのは、奈良の巨刹、東大寺の仁
    王門にあつて、八百年の星霜を經たも
    のである。是等の巨像に現るゝ暴風雨
    の威嚴と颱風の力は、感歎せざるを得
    ない。仁王に向つて、人々が祈りを捧
    げる。巡禮は特にさうする。大槪の像
    は、白紙を嚙んで軟塊としたのが、投
    げつけられて汚れてゐる。紙塊が像に
    附着すれば、願が叶ひ、これと反對に、
    もし地に落ちたときは、願が叶はぬと
    いふ妙な迷信がある。

 して、この深紅の怪物の眞中に、少女が私達の方を見て立つてゐた。銀鼠色の著物をつけ、虹の靑紫色の帶をしめた彼女の細姿は、門內の薄暗に對して、立派な反映を呈した。落付いて、珍らしいほど優美な彼女の顏は、何處で見でも美しいだらうが、ここで兩側に恐しい怪奇のものを控へた對照の效果は、何とも想像外のものであつた。そこで私は、かくも美しい少女が敬畏に適はしいものと思つてゐるからには、私がこの兩個の怪像に對する嫌厭は、果して全然正常を得てゐるのか知らんと疑ひ始めた。この中間に立てる彼女を注視してゐると、仁王像は醜くは見えぬやうになつた。華麗なる蛾の如く、纖細優美な彼女は、凝と無邪氣に外國人を視つめつつ、その外國人には仁王が醜惡の魔神と映じたかも知れないと、思ふ風情さへ見えなかつた。

 仁王は何者か。藝術的には、梵天と因達羅の佛敎轉化である。佛敎の包攝的、萬化的魔力の雰圍氣につつまれて、インドラは彼を黜けた宗旨を擁護するためにのみ、その稻妻を揮ひ得ることとなつた。彼は寺門の番人となつた。否、彼は菩薩の從者に過ぎなくなつた。ここはまだ佛陀の域に達せざる慈悲の女神、觀音菩薩の祠堂なのだから。

 

 『ホテル』と私はまた叫んだ。道は遠く、日も沒せんとしてゐるからだ。夕陽は黃玉石のやうな極めて柔かな光を放つてゐる。私はまだ釋迦牟尼佛の像を見てゐない。多分明日は何處か、この木造の街、または未だ訪ねてゐない山の頂上で、見ることが出來るだらう。

 日が沒し、黃玉石のやうな光は消えたので、車夫は止つて提燈に火を默じた。そして、店頭に吊せる彩色の提燈が、長く連つて二線を成せる間をまた急いで走つた。その二線が密接し平準を得てゐるので、火の眞珠を列ねた二本のはてしない絲のやうに見える。すると突然、莊嚴で底力の籠つた大きな音が、町の屋根を越えて私の耳へ響いた。野毛山の大きな寺鐘が鳴つたのである。

 あまりにも一日が短かく思はれた。が、私の眼は既に長時間、燦爛たる白日のまぶしさと、また不思議な看板の限りなく連續する町の通景が、すばらしぃ魔術書を一瞥したやうに思はせる昏迷のために、矢張り魔術書の本文から取つたと思はれる文字を一杯書いてある、これらの提燈の柔かな光にさへ疲れはてた。して、私はたうとう、魅惑の後につづく眠氣の催すを覺えた。

[やぶちゃん注:この仁王像、私は後の部分で「彼は菩薩の從者に過ぎなくなつた。ここはまだ佛陀の域に達せざる慈悲の女神、觀音菩薩の祠堂なのだから」とあることから、南区弘明寺町の真言宗瑞應山蓮華院弘明寺(本尊十一面観音)ではないかと踏んでいる。根岸の白滝不動からは実働距離で六キロメートルほどあり、しかもホテルとは正反対なのだが、「チア」さんが――この異人さん、寺、寺、言うて廻ったけんど、結局、仏さんの一つも見とらん――と思ったとして、ここにきて、最後に――あれ、見せたろかい!――と一っ走りしたとしたら、と考えたのである。具体的には、「チア」さんは不動坂を登らず、八幡橋を渡って、すぐ右に折れて、横須賀街道を北上、「狹い町の角を𢌞つ」たのが吉野町であって、鎌倉街道を右に折れたのだとすれば、この吉野町から弘明寺は二・五キロメートルほどしかない。私は必ずしもえらく遠いというわけではないと思うのである。無論、不動坂を越えて山手方向へ戻って行く途中に仁王を門前に従えた観音を本尊とする寺があった、或いは、あるなら、そこなのだろうけれど、今の所は見当たらない。そのような寺があるかないか、識者の御教授を乞うものではある。――和服の少女を立たせた、こじんまりとした弘明寺の仁王門――これ、よく面影に浮かんで、しっくりくるのである。なお、これが弘明寺だとすれば、弘明寺公式サイトから、仁王門は江戸時代の再建であり、一九九八年横浜市指定有形文化財指定された金剛力士像は、十三世紀後半の早期運慶様式を尊守する鎌倉仏師の作とあり、『神奈川県下に遺る最古の中世作』とある。私が「チア」さんだったら、最後に見せてあげたいと確かに思うのである。因みに、私の推測した、この日のルート

 旧居留地ホテル → 山下公園附近 → 東神奈川正覚寺 → 元町百段公園 → 外人遊歩道 → 白滝不動 → 弘明寺 → ホテル

を、試みに、最短の現行の道路実測で測定してみたが、起点を旧外国人居留地端の山下橋附近として、「チア」さんは、一日で、二十八~三十キロメートルほどを走ったと試算出来た。人力車は時速八~十キロメートルほどであったというから、この数値は一日(或いは半日)の走破距離としては決して異様な数値とは思われないのである。

「最も壯大なのは、奈良の巨刹、東大寺の仁王門にあつて、八百年の星霜を經たものである」東大寺南大門の国宝金剛力士像は建仁三(一二〇三)年作であるから、この明治二三(一八九〇)年からは六百八十七年前で、ちょっとドンブリ過ぎ(寧ろ、今からなら、正しいから、不思議。因みに東大寺のものは、門に向かって右に吽形(うんぎょう:口を閉じた像)が、左に阿形(あぎょう:口を開いた像)が安置されており、これは一般的な仁王像の安置方法とは左右が逆である(弘明寺は一般的配置)。像内納入品や墨書から、阿形像は、大仏師運慶、及び、快慶が小仏師十三人を率いて造り、吽形像は、大仏師定覚、及び、湛慶が小仏師十二人と共に造ったものであるという(ここはウィキの「東大寺」の「南大門」の項に拠った)。

「して、この深紅の怪物の眞中に、少女が私達の方を見て立つてゐた。銀鼠色の著物をつけ、虹の靑紫色の帶をしめた彼女の細姿は、門內の薄暗に對して、立派な反映を呈した。落付いて、珍らしいほど優美な彼女の顏は、何處で見でも美しいだらうが、ここで兩側に恐しい怪奇のものを控へた對照の效果は、何とも想像外のものであつた。そこで私は、かくも美しい少女が敬畏に適はしいものと思つてゐるからには、私がこの兩個の怪像に對する嫌厭は、果して全然正常を得てゐるのか知らんと疑ひ始めた。この中間に立てる彼女を注視してゐると、仁王像は醜くは見えぬやうになつた。華麗なる蛾の如く、纖細優美な彼女は、凝と無邪氣に外國人を視つめつつ、その外國人には仁王が醜惡の魔神と映じたかも知れないと、思ふ風情さへ見えなかつた。」この

“And right between these crimson monsters a young girl stands looking at us; her slight figure, in robe of silver grey and girdle of iris-violet, relieved deliciously against the twilight darkness of the interior. Her face, impassive and curiously delicate, would charm wherever seen; but here, by strange contrast with the frightful grotesqueries on either side of her, it produces an effect unimaginable. Then I find myself ondering whether my feeling of repulsion toward those twin monstrosities be altogether lust, seeing that so charming a maiden deems them worthy of veneration. And they even cease to seem ugly as I watch her standing there between them, dainty and slender as some splendid moth, and always naively gazing at the foreigner, utterly unconscious that they might have seemed to him both unholy and uncomely.”

というシークエンスに、私は、究極のハーンの幻想性を読む、のである。これは実景である。が、しかし、鮮烈な慄っとするほどの美しさを私は感ずるのである。この少女にハーンが魅入られたように、同じように魅入られている自分自身を私は感ずるのである。

「梵天」“Brahma”ブラフマー。ウィキの「梵天」より引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、改行及び記号の一部を変更・省略した)。『仏教の守護神である天部の一柱。古代インドの神ブラフマーが仏教に取り入れられたもので、十二天に含まれる。梵はbrahmanの音写。古代インドのバラモン教の主たる神の一つであるブラフマーが仏教に取り入れられたものである。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ(維持神)、シヴァ(破壊神)と共に三大神の一人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある』。『この神が仏教に取り入れられ、仏法の守護神となり、梵天と称されるようになった。なお、釈迦牟尼が悟りを開いた後、その悟りを広めることをためらったが、その悟りを広めるよう勧めたのが梵天と帝釈天とされ、この伝説は梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と称される』。『「万物の根源」という漠然としたものを造形化した神で、親しみが湧きにくいためか、インドでも日本でも梵天に対する民衆の信仰はあまり高まらなかった』とある。

「因達羅」“Indra”インドラ。ウィキインドラによれば、『バラモン教、ヒンドゥー教の神の名称で』、『雷を操る雷霆神で「リグ・ヴェーダ」に於いては中心的な神の一つであり、「ラーマーヤナ」には天空の神として出る。図像では『茶褐色の皮膚、一面四臂で、二本の槍を手にして』、『アイラーヴァタという聖獣の象に乗る』。帝釈天として仏教に取り入れられたとある。

「黜けた」「しりぞけた」と訓ずる。

「黃玉石」「わうぎよくせき(おうぎょくせき)」或いは「くわうぎよくせき(こうぎょくせき)」と読む。フッ素とアルミニウムを含むケイ酸塩鉱物で斜方晶系に属し、柱状結晶は硬くて脆い。透明又は半透明で色は黄・青・紫・緑などがあり、特に黄色のものを宝石として珍重する。原文でお分かりの通り、トパーズのことである。

「野毛山の大きな寺鐘が鳴つた」「野毛山」は原文では“Nogiyama”。中区花咲町にある老舗のパン屋さんのブログ「横濱・櫻木町コティベーカリーぶろぐ」の大浦お慶とお茶場と「野毛山の鐘」に『野毛山の鐘は「野毛山 時の鐘」「伊勢山 時の鐘」とも呼ばれていて現在の成田山横浜別院』(JR桜木町駅の西二百四十メートル)『の辺りにありました。成田山の職員の方のお話によれば鐘は』二時間毎に一回『打ち鳴らされ、住民に時を知らせていたそうです。残念ながら現在、時鐘楼の痕跡は何も残っていません』とある。リンク先を読まれると分かるが、当時のイギリス向けの中国風製茶工場(山下町にあって「お茶場」と呼ばれた)の労働歌にも詠まれている。横浜開港資料館公式サイト内の伊勢山「時のかね」で往時の鐘を見ることが出来る。]

 

Sec. 10

   'Tera?'
   once more queries Cha.

   'Tera, no—it is getting late. Hotel, Cha.'

   But Cha, turning the corner of a narrow street, on our homeward route, halts the jinricksha before a shrine or tiny temple scarcely larger than the smallest of
Japanese shops, yet more of a surprise to me than any of the larger sacred edifices already visited. For, on either side of the entrance, stand two monster-figures, nude, blood-red, demoniac, fearfully muscled, with feet like lions, and hands brandishing gilded thunderbolts, and eyes of delirious fury; the guardians of holy things, the Ni-O, or "Two Kings." [4] And right between these crimson monsters a young girl stands looking at us; her slight figure, in robe of silver grey and girdle of iris-violet, relieved deliciously against the twilight darkness of the interior. Her face, impassive and curiously delicate, would charm wherever seen; but here, by strange contrast with the frightful grotesqueries on either side of her, it produces an effect unimaginable. Then I find myself wondering whether my feeling of repulsion toward those twin monstrosities be altogether lust, seeing that so charming a maiden deems them worthy of veneration. And they even cease to seem ugly as I watch her standing there between them, dainty and slender as some splendid moth, and always naively gazing at the foreigner, utterly unconscious that they might have seemed to him both unholy and uncomely.

   What are they? Artistically they are Buddhist transformations of Brahma and of Indra. Enveloped by the absorbing, all-transforming magical atmosphere of Buddhism, Indra can now wield his thunderbolts only in defence of the faith which has dethroned him: he has become a keeper of the temple gates; nay, has even become a servant of Bosatsu (Bodhisattvas), for this is only a shrine of Kwannon, Goddess of Mercy, not yet a Buddha.

 

   'Hotel, Cha, hotel!' I cry out again, for the way is long, and the sun sinking,—sinking in the softest imaginable glow of topazine light. I have not seen Shaka (so the Japanese have transformed the name Sakya- Muni); I have not looked upon the face of the Buddha. Perhaps I may be able to find his image to-morrow, somewhere in this wilderness of wooden streets, or upon the summit of some yet unvisited hill.

   The sun is gone; the topaz-light is gone; and Cha stops to light his lantern of paper; and we hurry on again, between two long lines of painted paper lanterns suspended before the shops: so closely set, so level those lines are, that they seem two interminable strings of pearls of fire. And suddenly a sound—solemn, profound, mighty—peals to my ears over the roofs of the town, the voice of the tsurigane, the great temple-bell of Nogiyama.

   All too short the day seemed. Yet my eyes have been so long dazzled by the great white light, and so confused by the sorcery of that interminable maze of mysterious signs which made each street vista seem a glimpse into some enormous grimoire, that they are now weary even of the soft glowing of all these paper lanterns, likewise covered with characters that look like texts from a Book of Magic. And I feel at last the coming of that drowsiness which always follows enchantment. 

 

   4 These Ni-O, however, the first I saw in Japan, were very clumsy figures. There are magnificent Ni-O to be seen in some of the great temple gateways in Tokyo, Kyoto, and elsewhere. The grandest of all are those in the Ni-O Mon, or 'Two Kings' Gate,' of the huge Todaiji temple at Nara. They are eight hundred years old. It is impossible not to admire the conception of stormy dignity and hurricane-force embodied in those colossal figures. Prayers are addressed to
the Ni-O, especially by pilgrims. Most of their statues are disfigured by little pellets of white paper, which people chew into a pulp and then spit at them. There is a curious superstition that if the pellet sticks to the statue the prayer is heard; if, on the other hand, it falls to the ground, the prayer will not be answered.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章 私の極東に於ける第一日 (九)

 

    

 

 『寺ですか』

 『左樣、寺』

 が、ただ僅かの間、日本町を橫切つただけで、人家が分離し、丘麓に沿つて散らばつてくる。市は小さな谷の中を段々細くなつて行つて、たうとう背後に消えてしまつた。それから、海を見おろす迂回した道を通つて行く。右手には、靑い丘が道際まで嶮しく傾斜してゐる。左手には、遙か下方に鼠色の沙濱や、海水の溜瀦が擴がつて、遙かに一本の白絲が動いてゐるとしか見えない磯浪の線へまで續く。潮は引いてゐる。で、澤山の鳥貝拾ひが濱邊に散らばつて、遠くの方で屈んだ姿の、ちらちらする干潟の面に散點して見えるのは、蚊の大いさに過ぎない。して、滿載の笊を提げて向うから私どもの道を歸つてくるのもある――娘達の顏は、殆ど英國の娘と同じほど薔薇色を呈して。

 人力車の轉じ行くに從つて路傍の山は高くなつた。忽然車夫は、今までの中で最も高峻な寺の階段の前で、また停つた。

 私は登り登つて行く。四頭筋の烈しい痛みを和げるために、止むなくやがて休む。頂上に達すると、全く息が切れさうであつた。して、左右に獅子の像があつて、一方のは齒牙を露はし、他方のは口を噤いでゐる。前面には三方低い崖に圍まれて、樹木の無い、狹い高臺の先端に、古色蒼然たる一つの小寺が立つてゐる。建物の左に當る岩壁から、小さな瀑布が栅を繞らした水溜へ奔下する。その轟きに壓せられて他の一切の音は聞えない。刺すやうな風が海に吹いてきて、日を受けた場所さへ冷かに、荒涼たる境內は、百年も祈りの聲が聞かれなかつた如く物淋しい。

 寺の磨滅せる木造の階段で、私が靴を脫ぐ間、車夫はコツコツと叩いて呼びかける。少し待つた後、紙障の後ろから、包んだやうな跫音の近づくのと、空咳の音が聞えた。紙障が開かれると、白衣の老僧が現れ、低い辭儀をして、私に入るやう身振で示した。彼は親切さうな顏をしてゐて、歡迎の微笑は、私が受けたうちの最も優しい一つであつたと思ふ。それからまた彼は咳をした。その咳は餘程苦しげだつたので、今後私が再びここヘ來ることがあつても、後に逢へるか知らんと思はれた。

 私は內へ通つた。すべて日本の建物の床が蔽はれてゐる、あの柔かな、淸い疊を足の下に感じた。寺に必要缺くべからざる鐘と漆塗りの机の前を過ぎてから、また他の紙障が立てられて、床から天井へまで達してゐる。老人はまだ咳をしながら、一枚の紙障を右に開けて、薰香の微かに漂ふ暗い內陣へ、手眞似で私を導き入れた。太い軸に金龍の縺れた唐金の大燈籠が、私の眼についた最初のものであつた。して、その傍を通るとき、私の肩が觸れて、その蓮花狀の頂から垂れてゐる、小さな鈴生りの花綵を鳴らした。それから、まだ判然物形を識別しかねて、摸索し乍ら、佛壇に達した。が、僧は紙障を一枚一枚繰つて、金色の眞鍮製裝飾品や、刻銘に光を注いだ。そこで私は渦卷形の燭臺の立並んだ間に、神又は主靈の像を探した。すると、私はただ鏡――磨いた金屬の光淡き圓盤を見た。しかも、その中に私の顏が映つてゐて、更に私の似顏の後ろには、遠くの海の幻影があつた。

 ただ鏡! 何を象徴するのだらう? 幻想を? それとも、宇宙は我々の心の反映としての存在に過ぎないといふことを? 或は自個の心中にのみ佛を求めねばならぬといふ支那の古い敎を? 恐らくは他日私にすべて是等のことのわかる折があるだらう。

 辭して行かうとして、階段に腰をかけ、靴を穿きかけてゐると、親切なる老僧は、また近づいてきて會釋をして、茶椀を進めた。私は佛敎の喜捨鉢と思つて、その中へ幾らかの貨幣を落してから、湯が一杯入つてゐるのを發見した。が、老人の美はしい慇懃さは、私をしてその過失の無作法さを感じさせないやうに、救つてくれた。一言も云はずに、厚意の微笑を湛へたまま、それを持去り、やがて別に空の茶椀を持出でて、小さな湯沸から湯を注いで、私に飮むやう身振で示した。寺では、參詣者に茶を薦むるのが、最も普通であるが、この寺は極めて貧しいので、この老僧は一般誰人も缺くべからざる品に窮することも折々あるらしい。私が風當りの强い坂を道路へ下るときに、彼はまだ私を見送つてゐて、今一度彼の嗄れた咳が聞えた。

 それから、私はまた鏡の愚弄を思ひ出した。私の求めるものを私自身以外、卽ち私自身の想像以外に、發見し得ることがあるか知らんと疑ひ出した。

[やぶちゃん注:やっと私にも非常によく分かる場所が出て来た。この冒頭、「チア」さんはハーンを乗せて、百段公園を恐らく代官坂上方向へ向かって北の谷へ下り、北方(きたかた)に出ると、そこを東に尾根を巻きながら箕輪・本牧・間門へと辿ったに違いない。現在の間門の信号のところは、当時は直下がもう海になっており(現在は無粋な埋立によって海岸線は七百メートル近く沖に行ってしまってハーンの見た)、後はまさに「右手」「は靑い丘が道際まで嶮しく傾斜してゐる、現在は根岸加曽(加層)台と呼んでいる切り立った海岸段丘である。そこを西へ向かって八百メートルほど行く(行くときは国道十六号ではなく、その北に入った段丘下を東西に走る旧道を行かれることを強くお勧めする。この道筋は私が偏愛する道なのである)と、ここに描かれた白滝不動尊下の階段下に着く。実はここ(現在の本牧にある三溪園の松風閣(海側の見晴台)の下の切岸や間門から根岸駅方向への海食崖)は、嘉永六(一八五三)年にペリー艦隊が来航して、この沖を通過した際、ミシシッピー出身の船員たちが故郷を思い出し、「ミシシッピ・ベイ」と名附けた景勝地として、近代の初めから既に有名であったのである(私の電子テクストである田山花袋の「一日の行楽」より「杉田の梅花」を参照されたい)。

 また、この時、「チア」さんが、ハーンを引っぱったルートこそ、実は何と、「外人遊歩道」と呼ばれた居留地の外國人のために江戸幕府が作った遊歩道だったのである。やまちゃんのブログ「地図豆」の地図を広げて街歩き 「外国人遊歩道」 をたどるによれば、「生麦事件」(文久二年八月二十一日(一八六二年九月十四日)を受けて、『英仏両国公使は幕府に、山手一帯に遊歩道を建設するように申し入れ』て出来上がったのがこれで、現在の『山手下の元町を通って地蔵坂を上がり、根岸森林公園を抜け不動坂を下り海にそって本牧を廻り本牧から千代崎町そして桜道を通り地蔵坂へ戻るルートで坂の各所には石畳が敷かれていたといわれる』ものだったのである。また、Shintaro 氏のサイト「横浜今昔物語」に四枚の明治の不動坂の写真が載る。必見!

 さて、ここで我々は不思議なことに気づく。それはハーンが、さてもこの寺で見たのは、不動ではなく、一枚の、ハーンの顏と、その背後の遠い海が映る神鏡(神仏習合時代の名残か?)ばかりであった(しかし、この映像は、これはこれで、まっこと、素晴らしい!)。訳が分からない。考えてみると、本覚寺でも、ハーンは、一体の仏像だに――見ていない――のである。何だか妙だ。おかしい。「テラ!」と渇望しながら、何故、ここまでハーンは仏像に出逢えないのであろう? どうもおかしい。全く以って「ヘン!」ではないか?

 なお、往時の地図を見ると、寺から波打ち際(国道十六号附近)までは百六十メートルほどしかない。潮の香りと美しい海を想像で見下ろしながら、お読み戴きたいのである。

 因みに、私は緑ヶ丘高等学校奉職時代(私は三十五年の教員生活の中でここでの九年間が一番幸せだった。生徒は勿論、よき同僚に恵まれた)に糖尿病を宣告され、運動療法として一年ばかり、毎日七キロメートル以上を歩いた。通勤時、「山手」で降りずに「根岸」や「磯子」で降りては歩き、帰りも同じように歩いた。その折り、この「白滝不動」や、他の二本の段丘上へ登る道は、まさに馴染みのルートであったのである。……しかしその時分の私は、悲しいことに、はるか昔に読んだ、この章の記憶を全く忘失していたのであった。何と、哀しいことだろう!……

「溜瀦」音は「ちよりゆう(ちょりゅう)」で、「水を貯めること・水が溜まること」の意。ここは、すっかり凪いで、鏡のようになった海を指していよう。平井呈一先生は『池のような海』と訳されておられる。

「潮は引いてゐる」この明治二三(一八九〇)年四月の月齢を見ると、ハーンが来日した四月四日(金曜)が、まさに大潮の初日で、五日が満月、八日から十一日までは中潮である。細かな理由は省くが、私の推理では、この「第一章 私の極東に於ける第一日」は、五日か、六日ではないか、と踏んでいるので、「潮干狩り」(次注参照)には、もってこいの「大潮」であったのである。

「鳥貝拾ひ」原文は“cockle-gatherers”“gatherer”は「収集者」の意)。“cockle”という単語は貝殻表面の放射肋と、その形がハート形の小舟のような殻形状を持つ斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ザルガイ上科ザルガイ科 Cardiidae の仲間、及び、それに類似した殻を持つ貝類の英語の総称である。狭義には、ヨーロッパ産の食用貝であるザルガイ科ヨーロッパザルガイ Cardium edule を指す(因みに和名のザルガイは形状と放射肋を笊に譬えたもの)。本邦で一般的に知られ、食用とされるザルガイの仲間は、かのザルガイ科トリガイ Fulvia mutica である。ザルガイ Vasticardium burchardi 自体も美味らしいが(私は食したことがない)、流通では見かけない。トリガイも獲れるであろうが、これは時期から見ても、アサリを主体とした「潮干狩り」と思われる。

「蚊」原文は“gnats”。これは確かに、家蚊(双翅(ハエ)目カ(蚊)亜目(=長角亜目・糸角亜目)カ亜目カ下目カ上科カ科ナミカ亜科ナミカ族イエカ属 Culex )をも指すが、寧ろ、この単語、吸血性のハエ型の蚋(ぶゆ・ぶよ:双翅(ハエ)目カ(蚊)亜目カ下目ユスリカ(揺蚊)上科ブユ科 Simuliidae の一群)の印象の方がしっくりくる。

「四頭筋」老婆心乍ら、これは「したうきん(しとうきん)」と読む。大腿四頭筋である。

「噤いでゐる」「噤」は「つくぶ」「つぐむ」と訓じ、口を閉じる・黙る・噤(つぐ)むの意である、ここは「ふさいでゐる」ろ訓じているものと思われる。

「紙障」これは障子ではなく、「ふすま」(襖)と訓ずる。] 

 

Sec. 9

   'Tera?'

   'Yes, Cha, tera.'

   But only for a brief while do I traverse Japanese streets. The houses separate, become scattered along the feet of the hills: the city thins away through little valleys, and vanishes at last behind. And we follow a curving road overlooking the sea. Green hills slope steeply down to the edge of the way on the right; on the left, far below, spreads a vast stretch of dun sand and salty pools to a line of surf so distant that it is discernible only as a moving white thread. The tide is out; and thousands of cockle-gatherers are scattered over the sands, at such distances that their stooping figures, dotting the glimmering sea-bed, appear no larger than gnats. And some are coming along the road before us, returning from their search with well-filled baskets—girls with faces almost as rosy as the faces of English girls.

   As the jinricksha rattles on, the hills dominating the road grow higher. All at once Cha halts again before the steepest and loftiest flight of temple steps I have
yet seen. 

   I climb and climb and climb, halting perforce betimes, to ease the violent aching of my quadriceps muscles; reach the top completely out of breath; and find myself between two lions of stone; one showing his fangs, the other with jaws closed. Before me stands the temple, at the farther end of a small bare plateau
surrounded on three sides by low cliffs,-a small temple, looking very old and grey. From a rocky height to the left of the building, a little cataract rumbles down into a pool, ringed in by a palisade. The voice of the water drowns all other sounds. A sharp wind is blowing from the ocean: the place is chill even in the sun, and bleak, and desolate, as if no prayer had been uttered in it for a hundred years.

   Cha taps and calls, while I take off my shoes upon the worn wooden steps of the temple; and after a minute of waiting, we bear a muffled step approaching and a hollow cough behind the paper screens. They slide open; and an old white-robed priest appears, and motions me, with a low bow, to enter. He has a kindly face;
and his smile of welcome seems to me one of the most exquisite I have ever been greeted 'with Then he coughs again, so badly that I think if I ever come here
another time, I shall ask for him in vain.

   I go in, feeling that soft, spotless, cushioned matting beneath my feet with which the floors of all Japanese buildings are covered. I pass the indispensable bell
and lacquered reading-desk; and before me I see other screens only, stretching from floor to ceiling. The old man, still coughing, slides back one of these upon the right, and waves me into the dimness of an inner sanctuary, haunted by faint odours of incense. A colossal bronze lamp, with snarling gilded dragons coiled about its columnar stem, is the first object I discern; and, in passing it, my shoulder sets ringing a festoon of little bells suspended from the lotus-shaped summit of it. Then I reach the altar, gropingly, unable yet to distinguish forms clearly. But the priest, sliding back screen after screen, pours in light upon the gilded brasses and the inscriptions; and I look for the image of the Deity or presiding Spirit between the altar- groups of convoluted candelabra. And I see—only a mirror, a round, pale disk of polished metal, and my own face therein, and behind this mockery of me a phantom of the far sea.

   Only a mirror! Symbolising what? Illusion? or that the Universe exists for us solely as the reflection of our own souls? or the old Chinese teaching that we must seek the Buddha only in our own hearts? Perhaps some day I shall be able to find out all these things.

   As I sit on the temple steps, putting on my shoes preparatory to going, the kind old priest approaches me again, and, bowing, presents a bowl. I hastily drop some coins in it, imagining it to be a Buddhist alms-bowl, before discovering it to be full of hot water. But the old man's beautiful courtesy saves me from feeling all the grossness of my mistake. Without a word, and still preserving his kindly smile, he takes the bowl away, and, returning presently with another bowl, empty, fills it with hot water from a little kettle, and makes a sign to me to drink.

   Tea is most usually offered to visitors at temples; but this little shrine is very, very poor; and I have a suspicion that the old priest suffers betimes for want of what no fellow-creature should be permitted to need. As I descend the windy steps to the roadway I see him still looking after me, and I hear once more his hollow cough.

   Then the mockery of the mirror recurs to me. I am beginning to wonder whether I shall ever be able to discover that which I seek—outside of myself! That is,
outside of my own imagination.

2015/08/05

★ラフカディオ・ハーンが最初に訪れたと推理する本覚寺を早速教え子が写真で撮って来てくれた!!!★

さても! かの最初にハーンが訪れたと推理した本覚寺の近くに住まう、それも、お子を産んだばかりの若き元女子生徒の教え子から、本覚寺からは今も富士山が見えるというメールを今日、貰った。しかも、だ! 只今、実際に今日(!)、彼女が本覚寺へ参って写真を撮って来て呉れて、送って呉れたのだ!!! 添付せずにはおれませぬ!!!! こっちが恩恵をこうむるところの教師冥利に尽きるたぁ、こいつのことだぜい!!!!

 

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小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (八)

 

        

 

 『寺ですか』と、私が階段の下で、また人力車に腰をおろした時、車夫は大きな白い笠を手に持つたま〻私に尋ねた。これは、私がもつと他の寺を見物したく思つてゐるのか、といふ問に相違ない。實際さうだ。まだ佛像を見ないのだ。

 『左樣、寺』

 不思議な商店、反つた檐、一切のものに書いてある奇異不可解の文字、そんなものの長く連つたパノラマがまた始まつた。車夫がどの方向に走つてゐるか、一向わからぬ。わかつたのは、行けば行くほど町が狹くなるらしいこと、ある家屋は大きな枝編細工の鳩籠の觀あること、それから、數個の橋を渡つてから、また他の丘麓で停まつたことだけである。こ〻にも高い石段がある。その前に立てる一個の構造は、門でもあり、象徴でもあることを私は知つた。堂々たるものだ。しかし、毫も先きに見た佛寺の大きな山門には似てゐない。驚くほど簡單な輪廓をしてゐる。彫刻も無く、彩色も施してなく、文字も書いてない。しかも、恐ろしい莊嚴、不可思議の美がある、これは鳥居なのだ。

 『宮』と車夫が云つた。今度は寺でなく、この國の一層古い信仰に屬する神々の社祠である。

 私は神道の一つの象徴の前に立つてゐる。少くとも繪畫以外では初めて鳥居を見たのだ。寫眞や版畫でさへも鳥居を見たことのない人には、どういふ風に說明しよう。門柱の如き二本の高い柱が、二本の梁を水平に支持して、下の方にある輕い梁は、その兩端が二本の柱の頂から少し下の處へ箝つて、上の方の大きな梁は二本の柱の頂に載つて、更に左右ヘ相當延び出でてゐる。これが鳥居である。材料は石でも木も金屬であつても、構造の意匠はあまり變らない。しかし、この說明では鳥居の恰好、その莊嚴な趣、門口として神祕的暗示を含めることなどに就て正確なる觀念を與へ得ない。初めて氣高い鳥居を見る人は、恐らくは美麗な漢字の大きな雛形が天に聳えてゐると想像するであらう。それは、鳥居のすべての線は、生氣躍如たる文字の優美を有し、書道の名人が四たび筆を揮つて書いた文字のやうな、奔放な角と曲線を有してゐるからである。

    註。日本通のサトウ氏の說を奉ずる人は、
    鳥居はもと神道の社祠に於て、神々に獻
    げられたる雞――食料としてでなく、黎
    明を報ぜんがため――の棲木であつたと
    書いてゐる。ある學者達は語原を鳥居、
    卽ち鳥の休む處としてゐる。しかし、こ
    れに劣らぬ大家のアストン氏は、單に門
    といふ意味を有する言葉から出でたもの
    と說いてゐる。チエムバリン氏の『日本
    風物誌』四二九、四三〇參照。

 鳥居を過ぎで約百階もある石段を上ると、その頂に第二の鳥居があつて、下の方の梁からは神祕な注連繩が花綵のやうになつて垂れてゐる。ここの注連繩は、殆どその全長を通じて徑二寸位の麻繩で、その兩端は蛇の如く次第に尖つてゐる。鳥居が靑銅の場合には、注連繩も靑銅で出來ていゐることがある。が、慣習に隨へば、藁で作るべきであつて、また普通さうなつてゐる。その譯は、天手力雄命が天照大御神をひき出してから、太玉命が大神の背後へ張つや藁繩を表すからである。これはチエムバリン敎授の譯した、かの神道の古い神話に物語られてゐる。

    註 チエムバリン敎授は日本の帝國大學
    に於て、日本語の敎授といふ、異常なる
    地位を持つてゐる。英國の言語學界に取
    つて。なかなかの名譽である。

 して、注連繩の最も普通且つ簡單なのには、その全長に沿つて、一定の間隔每に、藁の總(ふさ)が垂れてゐる。傳說によれば、もとは根から引拔いた稻で作つたので、根が繩の撚り目から突き出でてゐたからである。

 この鳥居を越えて進むと、丘陵の頂にある一種の公園又は慰み場所に來た。右方に小社があるが、閉鎖してある。私は神社の中が空虛で、人を失望に了はらせるといふことを、澤山讀んでゐるから、社司の不在を殘念に思はぬ。すると、私の目前に、もつと一層面白いものが見えた。名狀すべからざるほど美しいものが、一面を蔽つてゐる。それは櫻の林――一本一本の大枝小枝に、夏雲の白い片の如く縋りついた、雪白の花の爛漫たる霞だ。して、その下の地面と私の前の路上は、柔かな厚い、芳ばしい落花の雪で眞白になつてゐる。

 この美しい處を越えてから、數個の小祠を繞る花壇がある。また岩に彫つた龍や、神話的人物などの怪物に滿ちた驚くべき洞窟がある。矮樹の小森林、小型の湖、顯微鏡的な小形の川、橋、瀑布など、小規模な山水の風景がある。こゝに又子供達のために鞦韆がある。丘端に乘りかかつた見晴らし臺もある。そこから綺麗な全市街と、針頭大の漁船の帆が散點せる靜灣全部と、海に延びて遙かに遠い微かな高い岬が、心地よく一眸の中に收まる――名狀し難い美しい幽靈のやうな靄の中へ、靑鉛筆で描いたやうに。

 何故に日本では樹木が、かくも美しいのだらう。西洋では、花の咲ける梅や櫻が、驚くべき光景を呈しないのに、ここではあまり不思議な美しさなので、いかほど書物で以前に讀んだことがあつても、實景は人を啞然たらしめる。葉は見えないで、ただ一枚の大きな薄膜の如き、花瓣の靄である。この神國では、樹木は永く土地に馴らされ、人間に愛撫されたため、魂を生じて、恰も愛する夫のために女が容を作る如くに、人間のために一層美しくなつて感謝を表はさうと努めるのであらうか。たしかに樹木は美しい奴隷の如くに、その美で人間の心を懷け得たのである。卽ち日本人の愛情を占め得たのだ。この遊園へ野卑な種類の外客が來たものと見える。『樹木ヲ損ズベカラズ』と英語で記したものを掲げるのが必要と考へられてゐるから。

[やぶちゃん注:百段もある階段上に立つ神社である(でも神社は小さいらしい)。その境内背後には、公園か遊園地のような場所があり、桜が美しい。花壇がある。人工のグロッタがある。盆景のようなミニチュアの山水がある。ブランコがある。亭(ちん)がある。かなり凝った造りの近代的な公園で横浜市外全景が見渡せるという。横浜最古の公園は、中区山手町にある日本初の洋風公共庭園山手公園で、居留民により整備がなされて、明治三(一八七〇)年六月四日に開園しており、しっくりくる印象はここしかない(と言っても私は行ったことがない)。しかし、では、この神社はどこなんだろう? 地図上では見当たらない。横浜通の方、眼から鱗の同定をお願いしたい。201586日追記】先に最初の寺を本覚寺と同定して呉れた教え子から、これは元町百段と、その上の浅間神社、そして、百段公園ではないかという指摘を受けた。私はこの公園に行ったことがないが、地図で見ると、山手公園の北北東四百五十メートル、元町商店街の東南百二十メートルの丘陵上にある(外人墓地の西二百四十メートル位置)。沢原馨氏のサイト「横浜線沿線散歩」の元町百段公園を見ると、現在の同公園解説プレートからとして、『公園のある辺りは、横浜開港時から大正期にかけて浅間山の見晴台と呼ばれており、港や関内地区を一望し、遠くは神奈川宿の旅籠や茶屋までが見渡せたという。元町の鎮守である厳島神社の末社である浅間神社が祀られ、小さな茶屋もあって外国人観光客も訪れていたらしい。その当時、元町二丁目と山手の丘上とを繋いで急な石段があった。石段は百一段あったそうだが、人々は「百段」と呼んで親しんでいたという。その「百段」は残念ながら関東大震災で崩れてしまい、現在は残っていない』とある。ここにある厳島神社は、かろうじて行ったことがあり、この公園の西南西百六十五メートルほどの元町商店街の山手側の裏通りにあって、ここで引用文にあるこの厳島神社と、その『末社である浅間神社』(神社の末社である浅間社が本社の上方のこういう位置関係にあるのはすこぶる一般的なものである)の二つの社名は先に示した、個人ブログ「ケペル先生のブログ」の「小泉八雲来日」に出る。ここと見て間違いあるまい。さらに別な教え子が横浜開港資料館百段の写真を教えてくれた。凄いぞ! 白い笠の車引きの「チア」さんが、写真の左側に映ってるゾ!!! なお、「横浜旅行クチコミガイド」の元町百段公園(横浜市中区山手町)によれば、この浅間神社は既に廃されてないことが分かり、また、この現在のこの百段公園の不思議な点として、その参道であったのが百段階段(実際には百一段あったらしい)であったにも拘らず、「浅間神社跡」という名を冠していないこと、また、『山手町にあるのに「元町」の名を冠していることだろうか』と述べておられる(リンク先は写真豊富で必見)。

「箝つて」「はさまつて」と訓じているのであろう。

「サトウ氏」イギリスの外交官でイギリスに於ける日本学の基礎を築いたサー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow  一八四三年~一九二九年)。イギリス公使館の通訳・駐日公使・駐清公使を務めた。日本名を「佐藤愛之助」又は「薩道愛之助」と称した。初期の日本滞在は一時帰国を考慮しなければ実に一八六二年から文久二(一八八三)年に及び、後の駐日公使としての明治二八(一八九五)年から明治三〇(一八九七)年を併せると延べ二十五年間になる。詳細は参照したウィキアーネスト・サトウを参照されたい。

「アストン氏」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストンを参照されたい。

「チエムバリン氏の『日本風物誌』」既注のイギリスの日本研究家で、東京帝国大学文学部名誉教師バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)が書いた“Things Japanese”。一八九〇年から一九三六年までで六版を重ねた、アルファベット順項目別に書かれた日本文化事典。なお、ここでハーンは鳥居の起源について注しているので、以下にウィキ鳥居」の「起源」のパートを一部引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『鳥居の起源については諸説あり、考古学的起源についてはっきりしたことは分かっていない。単に木と木を縄で結んだものが鳥居の起こりであると考えられる。文献に徴すれば古くは「於不葦御門(うへふかずのみかど)」(皇太神宮儀式帳)と称して、奈良時代から神社建築の門の一種としている。いずれにせよ、八世紀頃に現在の形が確立している』。『そのほか主要な説として、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説、インド仏教にみられるトラナや中国の華表や鳥竿、牌楼(ぱいろう)、朝鮮半島の紅箭門(こうぜんもん・ホンサルムン)』『雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族(英: Akha)の「村の門(ロコーン)」など海外に起源を求める説などがある』。『語源についても同様に不明である。鶏の止まり木を意味する「鶏居」を語源とする説、止まり木(あるいは神前止まり木)説、「とおりいる(通り入る)」が転じたとする借字説、トラナを漢字から借音し表記したとする説などがある。Karow&Seckelは鳥居の名称を鳥(Vogel)そのものに求め、死者の家として家屋の中心部だけを残して崇敬の対象としたとの説をとる』。『構造そのものに着目した説としては、鳥居桁(架木)説とでも呼ぶもので、そもそも建築用語として高欄の横木の最上部のものを鳥居桁と呼ぶことは奈良時代の資料から明らかになっており、障子の上桁の横木を鴨居と呼ぶのと同じく、「トリイ」とは古来からの建築用語であり、これが神社門に転じたとする説である。奈良時代に「トリイ」の語は建築用語として存在し、平安初めに一般神社門は「トリイ」と俗称され、平安中期にはこの名称が庶民によって用いられたとする』とある。また、後の部分では注連繩(しめなわ)についてもハーンは触れているので、私がかつて大変興味深く読まさせて戴いた注連縄研究会大友正道氏の注連縄豆知識をリンクさせておく。
 
「花綵」「はなづな」、或いは、音で「カサイ」と読む。「植物の花・実・葉などを綱状に編んだ飾り」のこと。或いは、それを模して造った陶器や建築などの装飾を指す。「懸け花装飾」のこと。

「天手力雄命」老婆心乍ら「あめのたぢからのをのみこと」と読む。言わずもがな、天照大神の岩戸隠れの際に岩戸の脇に控えて、天照大神が岩戸を少し開けて顔を覗かせた時、岩戸を引き開けた剛力神。

「太玉命」「ふとだまのみこと」と読む。天照大神の岩戸隠れの際、智神思兼(おもいかね)が考えた策で良いかどうかを占うため、天児屋命(あめのこやねのみこと)とともに、太占(ふとまに:鹿の肩甲骨などを用いた卜占)を行った上で、人形に模した八尺瓊勾玉や八咫鏡などを下げた天の香山の「五百箇真賢木」(いおつまさかき)を捧げ持って、天照大神が岩戸から顔を覗かせると同時に、その前に鏡を差し出した神である。「天孫降臨」の際には、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従って天降るよう命ぜられて同伴し、「日本書紀」の一書にあっては、天児屋命と共に、天照大神を祀る神殿伊勢神宮の守護神となるよう命ぜられた、とも書かれているという(以上は主にウィキフトダマに拠った)。

「チエムバリン敎授の譯した、かの神道の古い神話」チェンバレンは、滞日中の明治一五(一八八二)年、当時は「東京海軍兵學寮」(後の「海軍兵學校」)で英語を教えていた。東京帝国大学外国人教師となったのは、四年後の明治十九年のことである。彼が「古事記」を英訳した“Kojiki”を指す。]

 

Sec. 8

   'Tera?'
   queries Cha, with his immense white hat in his hand, as I resume my seat in the jinricksha at the foot of the steps. Which no doubt means, do I want to see any 
more temples? Most certainly I do: I have not yet seen Buddha.

   'Yes, tera, Cha.'

   And again begins the long panorama of mysterious shops and tilted eaves, and fantastic riddles written over everything. I have no idea in what direction Cha
is running. I only know that the streets seem to become always narrower as we go, and that some of the houses look like great wickerwork pigeon-cages only,
and that we pass over several bridges before we halt again at the foot of another hill. There is a lofty flight of steps here also, and before them a structure which I know is both a gate and a symbol, imposing, yet in no manner resembling the great Buddhist gateway seen before. Astonishingly simple all the lines of it are: it has no carving, no colouring, no lettering upon it; yet it has a weird solemnity, an enigmatic beauty. It is a torii.

   'Miya,'

   observes Cha. Not a tera this time, but a shrine of the gods of the more ancient faith of the land—a miya.

   I am standing before a Shinto symbol; I see for the first time, out of a picture at least, a torii. How describe a torii to those who have never looked at one even in a photograph or engraving? Two lofty columns, like gate-pillars, supporting horizontally two cross-beams, the lower and lighter beam having its ends fitted into the columns a little distance below their summits; the uppermost and larger beam supported upon the tops of the columns, and projecting well beyond them to right and left. That is a torii: the construction varying little in design, whether made of stone, wood, or metal. But this description can give no correct idea of the appearance of a torii, of its majestic aspect, of its mystical suggestiveness as a gateway. The first time you see a noble one, you will imagine, perhaps, that you see the colossal model of some beautiful Chinese letter towering against the sky; for all the lines of the thing have the grace of an animated ideograph,—have the bold angles and curves of characters made with four sweeps of a master-brush. [2]

   Passing the torii I ascend a flight of perhaps one hundred stone steps, and find at their summit a second torii, from whose lower cross-beam hangs festooned the mystic shimenawa. It is in this case a hempen rope of perhaps two inches in diameter through its greater length, but tapering off at either end like a snake. Sometimes the shimenawa is made of bronze, when the torii itself is of bronze; but according to tradition it should be made of straw, and most commonly is. For it represents the straw rope which the deity Futo-tama-no-mikoto stretched behind the Sun-goddess, Ama-terasu-oho-mi-Kami, after Ame-no-ta-jikara- wo-no-Kami, the Heavenly-hand-strength-god, had pulled her out, as is told in that ancient myth of Shinto which Professor Chamberlain has translated. [3] And the shimenawa, in its commoner and simpler form, has pendent tufts of straw along its entire length, at regular intervals, because originally made, tradition declares, of grass pulled up by the roots which protruded from the twist of it.

   Advancing beyond this torii, I find myself in a sort of park or pleasure-ground on the summit of the hill. There is a small temple on the right; it is all closed up;
and I have read so much about the disappointing vacuity of Shinto temples that I do not regret the absence of its guardian. And I see before me what is infinitely more interesting,—a grove of cherry-trees covered with something unutterably beautiful,—a dazzling mist of snowy blossoms clinging like summer cloud-fleece about every branch and twig; and the ground beneath them, and the path before me, is white with the soft, thick, odorous snow of fallen petals.

   Beyond this loveliness are flower-plots surrounding tiny shrines; and marvellous grotto-work, full of monsters—dragons and mythologic beings chiselled in the rock; and miniature landscape work with tiny groves of dwarf trees, and Lilliputian lakes, and microscopic brooks and bridges and cascades. Here, also, are swings for children. And here are belvederes, perched on the verge of the hill, wherefrom the whole fair city, and the whole smooth bay speckled with fishing-sails no bigger than pin-heads, and the far, faint, high promontories reaching into the sea, are all visible in one delicious view—blue-pencilled in a beauty of ghostly haze indescribable.

   Why should the trees be so lovely in Japan? With us, a plum or cherry tree in flower is not an astonishing sight; but here it is a miracle of beauty so bewildering that, however much you may have previously read about it, the real spectacle strikes you dumb. You see no leaves—only one great filmy mist of
petals. Is it that the trees have been so long domesticated and caressed by man in this land of the Gods, that they have acquired souls, and strive to show their gratitude, like women loved, by making themselves more beautiful for man's sake? Assuredly they have mastered men's hearts by their loveliness, like beautiful slaves. That is to say, Japanese hearts. Apparently there have been some foreign tourists of the brutal class in this place, since it has been deemed necessary to set up inscriptions in English announcing that 'IT IS FORBIDDEN TO INJURE THE TREES.'

 

2
   Various writers, following the opinion of the Japanologue Satow, have stated that the torii was originally a bird-perch for fowls offered up to the gods at Shinto shrines—'not as food, but to give warning of daybreak.' The etymology of the word is said to be 'bird-rest' by some authorities; but Aston, not less of an authority, derives it from words which would give simply the meaning of a gateway. See Chamberlain's Things Japanese, pp. 429, 430.

3
   Professor Basil Hall Chamberlain has held the extraordinary position of Professor of Japanese in the Imperial University of Japan—no small honour to English philology!

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (七)

 

       

 

 進んで、もつと石段を上つて、同じ鬼瓦と群龍のある第二門を經て、優美な寄進の石燈籠が、記念碑の如く立つてゐる境內へ人つた。二つの大きな怪異な唐獅子――佛陀の雌雄の獅子――が左右に坐してゐる。向うの方に長い低い輕さうな建物があつて、屋根は靑瓦で、彎曲して破風がついてゐる。入口の前には三段の木造の階段がある。側面は薄い白紙で張つた簡單な木造の障子がある。ここが寺である。

 階段で私は靴を脫いだ。一人の靑年が入口の障子を開けて、慇懃に歡迎の禮をした。内へ入ると、私は寢臺の褥の如く、厚い疊の柔かな足觸りを感じた。非常に廣い方形の室が私の面前に開けた。して、芳ばしい異香――日本の薰香が滿ちてゐる。が、太陽の强い輝きの後では、ここの紙から濾過してくる光線は、朦朧たる月光のやうで、しばしば柔かな暗中に金色がぴかぴかする外、何も見えない。やがて眼が暗さに慣れてくると、內陣の三面を圍んだ襖に映つた巨大の花形が、ぼんやり白い面へ影法師を見せてゐる。近寄つてみると、紙の造花で、美しく染めた象徵的の蓮華なのである。渦卷いた葉の表は金色、裏は綠色に光ってゐる。玄關に面して、內陣の暗い奧に、高い、華麗な佛壇がある。壇の上には、靑銅製の美術品や、金色の什器が、黄金作りの一小寺院の如き厨子を擁して、左右に群がって載つてゐる。しかし、佛像は見えない。厨子と壇の後方に當つて、最奧の內陣か、凹んだ場所か、私には識別されぬ眞暗さに對して、幾つかの金屬製の不思議な形のものが、一ト際目立つて輝くばかりである。 

 先刻の若い案内者が近寄つて來て、私の驚いたことには、立派な英語を用ゐて、壇上に燭臺の竝んだ間にある、華麗な金塗りのものを指して云つた。

 『あれが佛さまの厨子です』

 『私は佛さまへ供物を致したい』と、私は答へた。

 『それには及びません』と、彼は丁寧な微笑を浮かべて云つた。

 が、私が云ひ張つたので、彼は私のために壇上へ僅かのものを捧げた。それから、私を彼の室へ招いた。建物の側面にある、大きな明かるい室で、家具はなく、綺麗に疊が敷いてある。して、私達は坐つて談話をした。彼はこの寺に住んでゐる一學生だと、私に語つた。彼は東京で英語を學んだ。して、奇異なアクセントで話をするが、立派に選擇した語を使つてゐる。最後に彼は私に尋ねた。

 『貴下は基督信者ですか』

 して、私は眞實に返答した。『否』

 『貴下は佛敎信者ですか』

 『全くの信者といふ譯では無いのです』

 『信者でなくて、供物をなさいますのは、どうした理由ですか』

 『私は佛さまの敎への美しさを尊敬し、またその敎へを奉ずる人々の信仰を尊敬するのです』

 『英米に佛敎信者がありますか』

 『少くとも佛敎の哲理に興味を有つものは澤山居ります』

 それから、彼は床の間から一册の小さな本を取つて、私に見せた。それは英書のオルコツト氏著「佛敎問答」であつた。

 『何故この御寺には佛像がありませんか』と私は尋ねた。

 『壇上の厨子の中に、一つ小さな佛像があります』と、學生は答ヘた。『しかし、厨子は閉ぢてあるのです。それから、この寺には、數個の大きいのもあります。が、佛像は每日開帳致しません――御緣日だけです。一年に一二日しか開帳しないものもあります』 

 私の坐つてゐる處の、障子を開け放した間から、男や女が階段を登つて、寺の入口の前で、脆いて祈るのが見える。非常に優美で、また天眞爛漫たる歸依の趣があつて、これに比べると、西洋の敬虔家が跪くのは、無作法に跪くのだと思はれるほどである。兩手をただ合はせるのもあれば、高音を立てて、ゆつくり三囘拍くのもある。それから、頭を下げ、瞬間默禱してから、起ち上がつて去つて行く。祈りの短いのが、私には餘程珍らしく、面白い。折々人口にある大きな木造の賽錢箱に投げ込まれる貨幣の、ちりんと響き、がらがら鳴るのが聞えた。 

 私は若い學生の方に振向いて尋ねた。

 『何故祈る前に三回兩手を拍くのです』

 彼は答へた。『天地人の三才に對する三囘です』

 『しかし、それに向つて、召使を呼ぶやうに手を拍くのですか』

 『否、さうではありません』と、彼は答へた。『手を拍くのは、たゞ長夜の夢から醒めたことを表します』

    註。私はこの說明が正鵠を得てゐとは考
    へないが、これは私がこの問題に關して
    得た最初の說明として興味がある。嚴正
    に云へば、佛教の禮拜者は手を拍つべき
    でなく、ただ輕く兩手を合はせて擦るべ
    きである。神道の信者はいつも四囘手を
    拍つ。

 『何の夜、何の夢ですか』

  少時躊躇してから彼は答へた。

 『佛は申されました。一切衆生は、この無常迅速、有爲轉變の世に在つて、空しく夢をみてゐる』

 『では、手を拍つのは祈りの折に心が、そんな夢から醒めるといふ意味ですか』

 『左樣です』

 『君は「心」といふ語、私の意味が御わかりでせうね』

 『え〻、わかつてゐます。佛者は心は無始無終の存在と信じてゐます』

 『涅槃に入つてもですか』

 『左樣です』

 こんな談話をしてゐる處へ、非常に年老いた、この寺の大和尙が、二人の若い僧をつれて、入ってきた。私は彼等に紹介された。彼等は極低い辭儀をしたので、滑かに剃つた頭のつやつやした頂を見せで、端然と座に就いた。私は彼等が微笑を洩らさないことに氣が付いた。私が見た日本人では、これが初めての微笑しない人々で、顔は像の如くに平靜である。が、長く切れた眼は、私を熟視してゐる。學生が彼等の質問を通譯し、私は英國の『東方聖典』に於ける梵文經典の飜譯のこと、ビール、バルヌーフ、フイーア、デヴイツ、カーン諸氏の事業のことを幾らか彼等に告げようと試みた。彼等は始終容貌を動かさずに傾聽して、學生が譯する私の說話に對して一言も發しない。しかし、茶が運ばれて、蓮の葉の形の小さな眞鍮の荼托に載せられたる、小さな湯呑茶椀に入れて、私の前へ置かれた。また小さな菓子を薦められた。菓子に印せる形は、古代の印度の法輪の象徴たる卍巴だと私は悟つた。

 私が立つて去らちとすると、皆も立上つた。して、階段の處で、學生が私の名と宿所を尋ねた。

 『御宿を承つておきますのは』と、彼は附加へた。『私はその內に、この寺を出ますが、私から貴下を御訪ね申上げますから』

 『して、君の名は』と、私は問ふた。

 『晃(あきら)と申します』と、彼は答へた。

 敷居の處で、私は別れの禮をした。彼等は皆極めて低く頭を下げた――一人は靑黑の頭で、三人の光澤ある頭は、象牙の球のやうであつた。して、私が去つて行くとき、晃だけが笑顔を呈してゐた。

[やぶちゃん注:『オルコツト氏著「佛敎問答」』欧米における最初の仏教学者として知られるアメリカ人で、ヘレナ・ブラヴァツキーらの起こした神秘思想結社神智学協会の創始者の一人で初代会長であったヘンリー・スティール・オルコット(Henry Steel Olcott 一八三二年~一九〇七年)の書いた“A Buddhist catechism”Madras 1881)。参照したウィキの「ヘンリー・スティール・オルコット」によれば、一八七九年にインドのムンバイを訪れた彼は、『当時植民地主義者が集めて有名になりつつある東洋の聖典を原典から翻訳するように努めていた。これは、アメリカで見られるような西洋的な翻訳を排除し、仏教、ヒンドゥー教とゾロアスター教の文献の持つ本来の意味を発見しようとしたからで』、特に『オルコットの関心の中心は仏教』にあった。その後、一八八〇年五月に『セイロン(現在のスリランカ)のコロンボに到着』、『オルコットとブラヴァツキー夫人はアメリカに居る時から、仏教徒と宣言していたが』、この五月二十五日にを以って『正式に仏教徒として認められ』ている。彼は『この地に滞在中、西欧人の教育のために仏教の教義を編集し、宗教としての仏教をより理解するように努めていた。この時期に、現在でも使われている』本書「仏教教義要綱」が執筆されている。因みに邦訳は「仏教問答」として原成美訳で、この前年の明治二二(一八八七)年に同年のオルコットの来日記念として刊行されている。

「東方聖典」東方聖典叢書(Sacred Books of the East)。マックス・ミュラーによって編集され、オックスフォード大学出版局によって一八七九年から一九一〇年にかけて刊行されたアジアの諸宗教の聖典の英語翻訳を集成した全五十巻の叢書。ヒンドゥー教・仏教・道教・儒教・ゾロアスター教・ジャイナ教・イスラム教の主要な聖典を収録(以上はウィキの「東方聖典叢書」に拠る)。

「ビール」サミュエル・ビール(Samuel Beal(一八二五年~一八八九年)。イギリスの中国仏教学者。ケンブリッジ大学を卒業後、一八五二年に海軍布教師となって中国に渡り、中国文化、特に宗教を研究。 一八七七年、ロンドン大学教授(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「バルヌーフ」ウジェーヌ・ビュルヌフ(Eugène Burnouf 一八〇一年~一八五二年)。フランスの言語学者・東洋学者。 一八二九年にエコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)の言語学教授を、一八三二年以後はコレージュ・ド・フランスのサンスクリット語教授を勤めた。「フランス=アジア協会」の創設者(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「フイーア」恐らくはフランスの東洋言語に精通した言語学者ヘンリ・レオン=フィール(Henri-Léon Feer 一八三〇~一九〇二年)。中国や仏教研究の著作が多い。ここは英語版ウィキを参照した。

「デヴイツ」女性の旅行家で東洋学者であったアレクサンドラ・ダヴィッド=ネール(Alexandra David-Néel 一八六八年~一九六九年)のことかと思われる。多くの仏教研究書をものし、かの黄檗僧で仏教学者、また、探検家としても知られる河口慧海とも知己であった。アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールの生涯に詳しい。

「ケルン」オランダのインド学者・仏教学者ヨハン・ヘンドリック・カスパー・ケルン(Johan Hendrik Caspar Kern 一八三三年~一九一七年)。一八六五年から一九〇三年までライデン大学のサンスクリット教授を務めた。インド学では名作「シャクンタラー」の翻訳(一八六二年)、天文学書の原典の出版(一八六五年)を始めとして、古代ジャワ語文献に関する諸労作がある。仏教学ではオランダ語で書かれた「インド仏教史」二巻(一八八二年~一八八四年)や英文の「インド仏教綱要」(一八九六年)ほか、諸経の英訳など多くの業績を残した。ライデン大学のインド学研究所「ケルン研究所」は彼の名に由来する(ここは小学館の「日本大百科全書」に拠った)。

「晃」既に先行して作成した「第四章 江ノ島巡禮(一)」で注したが、ここが最初の登場なので再掲する。真鍋晃。横浜で初めて訪れた寺で出逢った若い修学僧で学生。これ以降、彼はハーンの奇特な通訳兼案内役として鎌倉・江ノ島を巡ることとなった。ウィキの「日本の面影」によれば、山田太一脚本の「日本の面影」のドラマでは、『「西欧文化を学びたい」という理由でハーンの通約兼世話係となり、松江まで付き添うが、日本の伝統文化に関心を寄せるハーンと意識がすれ違い、半年で横浜に帰った。のちに海軍中尉となり、帝大講師となっていたハーンと東京で偶然再会』したという設定になっている(但し、これが事実かどうかは私は検証していない)。 

 

Sec. 7

   I pass on and climb more steps to a second gate with similar gargoyles and swarming of dragons, and enter a court where graceful votive lanterns of stone stand like monuments. On my right and left two great grotesque stone lions are sitting—the lions of Buddha, male and female. Beyond is a long low light building, with curved and gabled roof of blue tiles, and three wooden steps before its entrance. Its sides are simple wooden screens covered with thin white paper. This is the temple.

   On the steps I take off my shoes; a young man slides aside the screens closing the entrance, and bows me a gracious welcome. And I go in, feeling under my feet a softness of matting thick as bedding. An immense square apartment is before me, full of an unfamiliar sweet smell—the scent of Japanese incense; but after the full blaze of the sun, the paper-filtered light here is dim as moonshine; for a minute or two I can see nothing but gleams of gilding in a soft gloom. Then, my
eyes becoming accustomed to the obscurity, I perceive against the paper-paned screens surrounding the sanctuary on three sides shapes of enormous flowers cutting like silhouettes against the vague white light. I approach and find them to be paper flowers—symbolic lotus-blossoms beautifully coloured, with
curling leaves gilded on the upper surface and bright green beneath, At the dark end of the apartment, facing the entrance, is the altar of Buddha, a rich and lofty altar, covered with bronzes and gilded utensils clustered to right and left of a shrine like a tiny gold temple. But I see no statue; only a mystery of unfamiliar shapes of burnished metal, relieved against darkness, a darkness behind the shrine and altar—whether recess or inner sanctuary I cannot distinguish.

   The young attendant who ushered me into the temple now approaches, and, to my great surprise, exclaims in excellent English, pointing to a richly decorated gilded object between groups of candelabra on the altar:

    'That is the shrine of Buddha.'

    'And I would like to make an offering to Buddha,' I respond. 

    'It is not necessary,' he says, with a polite smile. But I insist; and he places the little offering for me upon the altar. Then he invites me to his own room, in a wing of the building—a large luminous room, without furniture, beautifully matted. And we sit down upon the floor and chat. He tells me he is a student in the temple. He learned English in Tokyo and speaks it with a curious accent, but with fine choice of words. Finally he asks me:

    'Are you a Christian?'

    And I answer truthfully:

    'No.'

    'Are you a Buddhist?'

    'Not exactly.'

    'Why do you make offerings if you do not believe in Buddha?'

    'I revere the beauty of his teaching, and the faith of those who follow it.'

    'Are there Buddhists in England and America?'

    'There are, at least, a great many interested in Buddhist philosophy.'

   And he takes from an alcove a little book, and gives it to me to examine. It is an English copy of Olcott's Buddhist Catechism.

   'Why is there no image of Buddha in your temple?' I ask. 'There is a small one in the shrine upon the altar,' the student answers; 'but the shrine is closed. And we have several large ones. But the image of Buddha is not exposed here every day—only upon festal days. And some images are exposed only once or twice a
year.

   From my place, I can see, between the open paper screens, men and women ascending the steps, to kneel and pray before the entrance of the temple. They kneel with such naive reverence, so gracefully and so naturally, that the kneeling of our Occidental devotees seems a clumsy stumbling by comparison. Some only join their hands; others clap them three times loudly and slowly; then they bow their heads, pray silently for a moment, and rise and depart. The shortness of
the prayers impresses me as something novel and interesting. From time to time I hear the clink and rattle of brazen coin cast into the great wooden money-box
at the entrance.

   I turn to the young student, and ask him:

   'Why do they clap their hands three times before they pray?'

   He answers:

   'Three times for the Sansai, the Three Powers: Heaven, Earth, Man.'

   'But do they clap their hands to call the Gods, as Japanese clap their hands to summon their attendants?'

   'Oh, no!' he replied. 'The clapping of hands represents only the awakening from the Dream of the Long Night.' [1]

   'What night? what dream?'

   He hesitates some moments before making answer: 'The Buddha said: All beings are only dreaming in this fleeting world of unhappiness.'

   'Then the clapping of hands signifies that in prayer the soul awakens from such dreaming?'

   'Yes.'

   'You understand what I mean by the word "soul"?'

   'Oh, yes! Buddhists believe the soul always was—always will be.'

   'Even in Nirvana?'

   'Yes.'

   While we are thus chatting the Chief Priest of the temple enters—a very aged man-accompanied by two young priests, and I am presented to them; and the three bow very low, showing me the glossy crowns of their smoothly-shaven heads, before seating themselves in the fashion of gods upon the floor. I observe they do not smile; these are the first Japanese I have seen who do not smile: their faces are impassive as the faces of images. But their long eyes observe me very closely, while the student interprets their questions, and while I attempt to tell them something about the translations of the Sutras in our Sacred Books of the East, and about the labours of Beal and Burnouf and Feer and Davids and Kern, and others. They listen without change of countenance, and utter no word in
response to the young student's translation of my remarks. Tea, however, is brought in and set before me in a tiny cup, placed in a little brazen saucer, shaped like a lotus-leaf; and I am invited to partake of some little sugar-cakes (kwashi), stamped with a figure which I recognise as the Swastika, the ancient Indian symbol of the Wheel of the Law.

   As I rise to go, all rise with me; and at the steps the student asks for my name and address. 'For,' he adds, 'you will not see me here again, as I am going to
leave the temple. But I will visit you.'

   'And your name?' I ask.

   'Call me Akira,' he answers.

   At the threshold I bow my good-bye; and they all bow very, very low, one blue-black head, three glossy heads like balls of ivory. And as I go, only Akira smiles.

 

1 I do not think this explanation is correct; but it is interesting, as the first which I obtained upon the subject. Properly speaking, Buddhist worshippers should not clap their hands, but only rub them softly together. Shinto worshippers always clap their hands four times.

教え子の情報から再考証!――小泉八雲が来日最初に訪れた寺は横浜市神奈川区高島台にある旧アメリカ領事館が置かれた本覚寺ではなかったか?!――

二日前にブログで小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (六) ――ハーンが最初に行った寺を推定同定する――」を公開したところ、昨夜、私の古い「浜っ子」の教え子から全く異なった新しい同定候補の寺についての情報が舞い込んだ。すこぶる興味深い内容なので、本人の許可を得て、以下にメールを引用する。なお、下線や太字は私藪野が附したものである。

   《引用開始》

先生

ヘルンが訪れたという寺の考察、非常に興味深く拝読しました。

先生、実は私の中には、青木橋の北側にある台町の丘の上にある本覚寺――私の母方の祖父母をはじめ祖先が眠る寺――の映像が浮かびました。東海道神奈川宿のはずれの丘の上にあり、山門への急な石段を持ち開港以来アメリカ領事館として使われたことから山門が白いペンキで塗られて”灰色”になっており、その山門には獅子の彫刻がある寺。山門からは、関内より山手の丘に至る港町横浜の俯瞰図、そして更におそらくは明治の頃であれば鋸状の丹沢山塊の向こうに富士が望めたはずの寺(但し、私自身が本覚寺山門から富士をちらとでも見たことかあるかどうかと問われると私にも自信はありません[やぶちゃん注:現在の彼は横浜在住ではない。])。その当時、関内辺りから「寺」に行こうと思ったら、恐らく候補のひとつとして浮かんだであろう歴史のある寺。そしてそのためには運河(川)を二回は渡らねばならない寺……。

 一方、先生の挙げられた豊顕寺といえば、私はまだ行ったことがありません。そこで念のためネット上の”マピオン”でその近辺を探り、豊顕寺山門から西方及び南方にかけての標高を調べてみました。すると山門の西側や南側は山門より標高が高いことが分かりました。……つまり、豊顕寺山門から丹沢や富士は見えないのではないかということです。さらに言えば、果たして当時、ここから横浜の街を俯瞰できたかという疑問も生ずるのです。[やぶちゃん注:中略。]

 本覚寺は、浜っ子として変な誇りを持っている自分自身の思い出がたくさん詰まった寺です。白状すれば、だからこそヘルンの訪問したのは本覚寺であってほしいと願うのですが……今の私にはこれ以上の考察を行う余裕がありません。

以上、取り急ぎ私の想いを先生にご報告いたします。

   《引用終了》

 以上の教え子の話は非常に説得力を持っていた。そこでまずは本覚寺を調べて見た。

 この寺は神奈川県横浜市神奈川区高島台にあって『現在の高島台から幸ヶ谷公園(権現山)にかけて続いていた丘の上にあり、東海道と神奈川湊を見下ろす交通の要衝にあることから、戦国時代には隣接して権現山城・青木城が造られた』(ウィキの「本覚寺」より)とあるから、横浜を俯瞰する高度に於いてまず申し分なく、位置に於いても「眼下には、靑じみた屋根が、右手の穩かな灣の端までと、市の兩側に位して、樹木の生えた綠色の丘陵の麓まで、大濤のうねつた如く連つてゐる。その半圓形を描いた綠色の丘陵の先きに、藍色の影法師のやうな鋸齒狀の高い山脈が聳えてゐる」というランドスケープに合致する位置にあることが分かる。そもそもここは当時の地図を見ると旧東海道神奈川宿の岬状に南に突き出た部分で、西側(現在の横浜駅西口一帯)は広大な内海となっており、現在の横浜駅の部分はまさに神奈川駅(現在の京急神奈川駅の南方直近)から月見橋を経て高島町へ砂嘴状に平沼(旧平沼駅があった)へと繋がっていることが分かる。

 本覚寺公式サイト寺史よれば、凡そ八百年前の嘉禄二(一二二六)年の創建とされ、現在は曹洞宗であるが開創時は臨済宗で、かの栄西を開山とするという。但し、栄西は開山より前の建保三(一二一五)年の入滅であることから、『その遺徳をしたって開山に頂いたもの』とある。ところが永正七(一五一〇)年『すぐ近くの権現山城で起きた「上田蔵人入道の乱」により、本覚寺は兵禍をこうむり、すっかり荒廃してしま』う(扇谷上杉家家臣「上田蔵人」政盛についてはウィキの「上田政盛」を参照されたい)。『その後、再興を図るにあたり、小机にある曹洞宗雲松院の陽広元吉禅師(ようこうげんきつぜんじ)を新たに住職として迎えることとなり』、享禄五・天文元(一五三二)年に本覚寺は曹洞宗の寺として再興した(陽広元吉禅師は伝法開山と呼ばれる)。リンク先には戦国から江戸の頃の絵図が数種掲載されており、素晴らしい景観が髣髴とするこれを、寺もさることながら、異人さんに見せたろうと「チア」さんが思ったとして、これは頗る付きで首肯出来ることではないか。しかもこの寺の特異点は近代にある。『幕末に横浜が開港されると、神奈川宿の寺院の多くが各国の領事館に接収されてゆきました。本覺寺はアメリカに接収され、3年もの間アメリカ領事館としてその歴史を刻みました』。『この頃の伽藍は、現在より相当大きく、本堂や地蔵堂・観音堂・客殿・衆寮・庫裡・鐘楼・総門・中門・裏門などをそなえる大変大きな構えでもありました』とあって広大な境内絵図も載るが、これはもうここ以下でハーンが叙述する広さと十二分に合致すると言える。

 次に着目すべきは教え子が指摘する――白い山門――である。実は私自身このハーンの「この門は全部妙な彫刻が施してあつて、開いた戸の上の彫刻帶には龍が絡まつてゐるし、戸の腰板も同樣に彫刻してある。それから奇怪な獅子の頭の形をした樋嘴鬼瓦が檐から突出してゐる。して、全部が灰色で、石の色をしてゐる」の「全部が灰色で、石の色をしてゐる」という叙述には実は私は初読時から強い違和感を抱いていたのである。

 同じく本覚寺公式サイトの「横浜開港とアメリカ領事館とペンキ跡」を見よう。本覚寺が正式にアメリカの領事館として接収された日は横浜開港から三日後の安政六(一八五九)年七月四日(新暦六月五日)であったが、「三、日本初ペンキが塗られたお寺」によれば(太字化は藪野)、

   《引用開始》

当時の領事館員達は、当時日本には存在していなかった西洋塗装法(ペンキ)で、寺の建物を塗装していきました。

そのほとんどは戦火で焼失をしましたが、山門と鐘楼堂だけは戦火を免れ、今でも唐獅子や蛙亦などに黒や赤、緑、白などのペンキ塗装の跡を見ることが出来ます。

この領事館員達がペンキ塗装を施した山門は、日本で初めてペンキが塗られた純日本建築物であると言われており、大変貴重な建築物として考えられております。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

とあるのである。これこそまさにハーンの言う「全部が灰色で、石の色をしてゐる」の正体なのではあるまいか?! 公式サイトの「写真」にはその「ペンキが塗られた獅子頭など」の写真が載せられてある(但し残念なことに現在はペンキは殆んど剥落していて、痕跡のみらしく、写真からは「灰色」「白」の印象は見てはとれない。ただその写真を見ると獅子頭の直ぐ左手には象を形象した横木突出しの「奇怪」な彫刻があり、ハーンがこれを獅子と一緒くたに見て「奇怪」と言ったとして、これ、さもありなんことと感じたことも一言、言い添えておきたいと思う)。

 惜しむらくは、ハーンは次の第七章で本尊に言及しているものの、それが何であったかを述べていないことである。本覚寺の本尊は伝行基地蔵菩薩像であったが、当時のものは昭和二〇(一九四五)年五月二十九日の横浜大空襲により殆んどの堂宇とともに焼失してしまっている。因みに先に私が前に同定候補とした豊顕寺の本尊は現行では日蓮聖人奠定の十界勧請大曼荼羅とある。

 しかしそこで、若い僧(後の「アキラ」である)が「壇上に燈臺の竝んだ間にある、華麗な金塗りのものを指して」「あれが佛さまの厨子です」と説明するシーンが出ることに今回私は目が止まった。さても、この本覚寺は旧小机領三十三所観音霊場第七番札所であり、十二年に一度だけ秘仏の観音を開帳をする慣わしがある。『それが必ず子歳にあたることから別名「子歳観音」と親しみを込められて呼ばれてい』(公式サイト内「子歳観音」の解説)るとあるのに気づいたからである(「ねどしかんのん」と読むか)。そして、この本覚寺の秘仏は如意輪観世音菩薩が納められた小さな黄金色の宝篋印塔型の小さな厨子に納められていることが「子歳観音」の画像から分かるのである。これこそ、まさにこの「アキラ」が指差した「壇上に燈臺の竝んだ間にある、華麗な金塗りのもの」「佛さまの厨子」なのではあるまいか?!

 以上、私は現時点では、ハーンが訪ねたこの寺というのは――この――靑木山本覺寺――であったのではないか――という見解に傾きつつあるのである。大方の御批判をなおも俟つものである。

2015/08/04

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 弥阿弥ホテルの部屋/燕の巣/藁葺屋根/舟大工のことなど

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図―658

 

 このホテルは日本風ではあるが、西洋風に経営されていて、それ迄の、各様な日本食の後をうけて、半焼のビフテキ、焼馬鈴薯、それからよい珈琲は、誠に美味であった。我々のいる建物に達するには、長い坂と石段とを登らなくてはならぬが、これが中中楽でない。部屋にはいずれも広い張出縁と、魅力に富んだ周囲とがあり、佳良である。私は屋根の一つある、一間きりの小さな家を占領しているが、張出縁から小さな反り橋がこれに通じ(図658)、灌木の叢(くさむら)が床と同じ高さまで生え繁っている。私の写生帳は襖や格子細工や窓の枠や美しい欄間やで一杯である。それ等の意匠の典雅と美麗とは、即席の写生図で示すことは不可能である。薄板に施した形板きざみは完全で、例えば打ちよせる波は、奇妙な牧羊杖の手法と空中にかかる各々の水流とで、あく迄月並ではあるが、而も速写写真が示す波の外見を、そっくり表している。数百マイルにわたってこの国を旅行する人が驚かずにいられぬのは、如何に辺鄙な寒村でも、これ等の仕事を充分やり得る腕を持つ、大工や指物師や意匠家がいることである。

[やぶちゃん注:「形板きざみ」原文は“The stencil-cutting”。型板(紙)で伐り抜き取ったような手法、そのデザインのことを指している。

「数百マイル」百マイルは約百六十一キロメートルであるから、六、七倍として八百~千百キロメートル。本州を例に取れば南北長さは千三百から千五百キロメートル相当。]

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図―659

 

 一番よい部屋の天井に近く、燕の巣がかかっている家が多い。燕が巣をかけ始めるや否や、その下に小さな棚をつり、巣をつくる途中で落ちやすい泥が畳をよごすのを防ぐ(図659)。この鳥が、家の内では、外よりも余程繊細な、こみ入った巣をつくるのは面白いことである。事実燕は、彼等と一緒に住む人達の趣味を理解しているらしく思われさえする。

 

 駿河、三河、尾張と来るにつれて、藁葺屋根の屋梁に変化が見えたのは興味があった。私は内部の台所から来る煤で、真黒になった藁葺屋根を、数人の男が修繕しているのを見た。壁土をこねる男が、巧妙に屋梁をかざり立てる方法は興味が深い。

[やぶちゃん注:「屋梁」既にこれには「むね」と石川氏はルビを振っている。]

 

 その日我々は河を越したが、そこでは何人かが舟をつくっていた。私は二人の男が鉄の槌で舟板の端を叩いているのを見た。いわば木理(きめ)を叩き圧えるのであるが、こうすると舟板を次の舟板に合わせる時、叩き潰された端は濡れるとふくれるから、しつかりと食い合う。

[やぶちゃん注:「圧える」老婆心乍ら、「おさえる」と訓ずる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 四日市から鈴鹿峠を越えて京都着

 我々は名残惜しくも城をあとにし、急いで旅館へ帰って、七時京都へ向けて出発する迄に荷づくりをした。我々の人力車はのろのろと進んだが、景色や、輝しい入日や、休息はよろこばしかった。九時我々は河の畔に出、五マイルにわたって、その静な水面を長閑(のどか)に漕ぐ舟で行った。我々の上陸地は、万古として知られる陶器で有名な、四日市であった。そこは明々と照明され、遠方から見るとまるでニューイングランドの町みたいであった。石の傾斜面に上陸した時我々は、何等かの祭礼が行われつつあることを知った。河岸には氷を売る小さな小舎がけが立ち並び、我々も床几に坐って数回氷を飲んだ。氷は鉋(かんな)で削るので、鉋はひっくりかえしに固定してある。その鉋の上で一塊の氷を前後に動かすと、下にある皿が、いわば銀牌ともいう可きものを受け、それに砂糖少量を加え、粉茶で香をつけるのだが、非常に涼味ある小菓で、我々が子供の時雪でつくった、アイスクリームに近いものである。氷は非常に高く、一斤十六セントから廿セントまでするが、これは一杯一セントで売られる。我が都市の貧しい区劃にも、同じ習慣を持って行ったらよかろう。

[やぶちゃん注:明治一五(一八八二)年八月五日の夜の景である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『小舟で伊勢湾を渡り、四日市で上陸した』とある。彼らが下ったのは木曽川ではないかと私は推測するのであるが、どうもここは伊勢湾を行った感じが伝わってこない(原文も同じ)。これは恐らく夜間で暗かったこと、安全面からも伊勢湾湾奧の海岸線に沿った場所を水行していったものと思われること、しかも「静な水面を長閑に漕ぐ舟で行った」とある通り、ベタ凪だったと考えられ、しかも、木曽川と長良川の淡水が多量に流れ込んでいるために強い潮の香もしなかった結果、大きな木曽川の印象がそのまま持続し、所謂、殊更に大きな灣の奥を横断したという印象をモースは持たなかったのではないかと私は思う。如何にその航行が穏やかであったということは、木曽川だったとしても、現在の木曽川河口から測っても(実際にはモースは河畔で舟に乗ってからの距離と述べている)、四日市上陸までには最短でも軽く十キロメートル以上はあるのに彼はその距離を「五マイル」(八キロメートル)と述べていることからも知れるように思うのである。

「万古」「ばんこ」と読む。萬古焼とも書く。ウィキ萬古焼によれば、『陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器(炻器)に分類される』。『三重県四日市市の代表的な地場産業で』現在、『伝統工芸品に指定されている。その耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名であり、特に土鍋の国内シェアは』七~八割を占めるという。『また、豚を模った蚊遣器「蚊遣豚」でも有名である。四日市市内の橋北地区と海蔵地区で萬古焼が盛んである』(以下、(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が、元文年間(一七三六年〜一七四〇年)に朝明郡小向(あさけぐんおぶけ:現在の三重郡朝日町小向)で創始。弄山が、自身の作品に「萬古」または「萬古不易」の印を押したのが、名前の由来である。(弄山の時代の作品は、現代では古萬古と呼ばれる)弄山の没後、一時途絶えるものの、天保年間(一八三〇年〜一八四三年)に森有節(本名は与五左衛門)らによって再興された(桑名萬古焼)。また、射和村の竹川竹斎は射和萬古を、弄山の弟子の沼波瑞牙が津で安東焼(後の阿漕焼)を興した。四日市萬古焼は山中忠左衛門の尽力によって興り、阿倉川や末広に最初の窯が建った』。『明治時代には山中忠左衛門らによって洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や地域住民への製作指導、海外輸出も行われるようになった。陶土として使っていた四日市の土は赤土であり、輸出向けの白地の食器を作ることが困難であったため、日本各地から陶土・陶石を移入して対応した。昭和に入る頃には日本国内から萬古焼の陶土に適した土がなくなってしまったが、国産振興四日市大博覧会を通して朝鮮に適した陶土があることが分かり、取引の具体化が始まった』とあり、また、『市内陶栄町には萬古神社が築かれ、森や山中の記念碑が建てられている。また五月第二週の土日には萬古祭りが開かれ、様々な陶器が売られている』ともある。

「祭礼」簡単に分かると思ったのだが、よく分からない。少なくとも現在、この日時とほぼ同じく行われている夏祭り「大四日市まつり」ではない(これは昭和三九(一九六四)年に始まった市民祭)。四日市の大矢知地区で行われる松原の石取祭は同だろうと思ったが、これは七月中旬で合わない。四日市の旅館が満杯になってしまう(次段参照)というとんでもない祭なのだが? 四日市出身の方、是非、御教授願いたい。

「氷は鉋で削るので、鉋はひっくりかえしに固定してある」ーグル画像検索「かき氷 鉋」をご覧あれ。流石に私は記憶にない。

「一斤」何度も注しているのでこれっきりにするが、一「ポンド」で約四百五十四グラム。]

 

 祭礼のために町は雑沓し、旅館はいずれも満員なので、我々は止むを得ず午前二時半に出発して次の町まで人力車を走らせたが、目的地へ着いた時には鶏が鳴き始め、夜も白々と明けかけていた。我々は疲れ切っていたので、よろこんで貧しい小さな宿屋で横になり、数時間睡った。私は八時に起き、貧弱な飯の朝飯を取った後、如何にして手づくりの万古がつくられるかを見出すべく、再び四日市へ引き返した。私は有名な半助に会ったが、この男は指だけで器用に粘土を捏ねて形をつくり、美しくも小さな急須を製出する。私はこの陶工に関する詳しい覚書を取り、幾枚かの写生をした。

[やぶちゃん注:「次の町」旧東海道五十三次の次の宿ならば石薬師(いしやくし)宿で現在は三重県鈴鹿市である。

「半助」萬古焼の陶工で「手捻(てびね)りの半助」の通称で知られた小川半助(生没年未詳)明治初期に三重県四日市に萬古焼の窯を開き、手捻りの急須で知られた。また、絵の具にフノリをくわえて堆描(ついびょう)の法を創案した。銘は「北勢円相舎主人」(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

 

 二時三十分我々は出発し、山間の谿谷の最も景色のよい所を登って、ここも伊勢の国の、山にかこまれた坂下に着いた。我々はここで一夜を送り、翌朝は人力車一台に車夫二人ずつをつけて速く進み、二時半大津着、四時半京都に着いた。即座に我々は山の中腹高くに位置し、全市を見下す弥阿弥(やあみ)ホテルへと車を走らせた。

[やぶちゃん注:「坂下」現在の三重県亀山市関町坂下。前日に泊ったのが石薬師であったとすると、そこから東海道実測でさらに二十五キロメートルほど行った、文字通り、鈴鹿峠の坂下にある集落である。

「弥阿弥(やあみ)ホテル」知恩院の北の現在の円山公園内にあった外国人利用者の多かった京都に最初に出来たホテルとされる。」「京都観光データベース@ wiki」の円山公園によれば、明治一二(一八七九)年に『長崎の実業家、井上万吉によって円山の地に也阿弥ホテルが造営された。これは京都におけるホテルのはじまりといわれる。このホテルは、旧安養寺』(明治初期に廃寺)『塔頭の多福院(也阿弥)ほかを買収し各部屋を洋風に改造したもので、照明には洋風の石油ランプを使用し、料理はすべて洋食だった』。明治三二(一八九九)年に一度『焼失したのち、勝興庵(正阿弥)の土地も合併して、翌年には円山ホテルとして再建され、来遊の外国人を宿泊させた』たが、七年後の明治三九(一九〇六)年、『再び火災により全焼し、その後は公園地として買収されたため再建されなかった』とある。また、同じページに「左阿弥」の項があり、江戸初期の安養寺には『六阿弥(左阿弥、春阿弥、弥阿弥、庭阿弥、正阿弥、連阿弥)と呼ばれる塔頭が貸座敷を営んでいた。明治期に弥阿弥が買収されてホテルとなり、他の塔頭も左阿弥を残して次々に弥阿弥に買収されて姿を消していったが、左阿弥は』嘉永二(一八四九)年に『料亭となった後、そのまま現在に至っており、かつての六阿弥の面影を伝える唯一の存在である。有栖川熾仁親王や山縣有朋も立ち寄ったという』老舗で、現在も料亭「左阿彌」として営業をしている。公式サイトには『川端康成や志賀直哉の文豪をお迎えし、作品『暗夜行路』・『古都』にも左阿彌がでてまいります。京都を描いた名作の作家らも、ここで京都の風情を楽しみました』とあって、そこにも現在の円山公園内になる明治一九(一八八六)年以前、『円山に安養寺の塔頭の、多蔵庵春阿弥、延寿庵連阿弥、花洛庵重阿弥、多福庵也阿弥、長寿院左阿弥、勝興庵正阿弥、があり「円山の六坊」と呼ばれていました。塔頭は後に遊覧酒宴の宿となり、僧坊は貸し席、料亭に変わっていきました。重阿弥では、赤穂浪士により、吉良上野介の首を討ち取ることが決定した円山会議が開かれています』とあって、写真(リンク先の左段上から三葉目の写真)を示し、そこに映っている『世阿弥は、連阿弥、重阿弥を合併し、京都で始めてのホテル、也阿弥ホテルになりました。春阿弥は』、明治一〇(一八七七)年には温泉場となったものの、明治三九(一九〇六)年に焼失、『左阿彌も明治維新以降の御前会議(明治期から太平洋戦争終結時まで国家の緊急な重大事件に際し,天皇の出席のもとに行われた元老,主要閣僚,軍部首脳の合同会議をいい、重要な国策を決めた会議)に使われました』が、『六阿彌のうち左阿彌のみが今に至るまで料亭として残りました』とある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ 名古屋城に登る

 最後の日の午後、我々は名古屋城へ行った。これは日本に於て、最もよく保存された城の一つで高さ百五十フィート、壁は巨大で、部屋は広大である。一六一〇年から三年にわたって建てられ、高く四周にぬきんでて立ち、その窓からは素晴しい景色が見られる。巨大な石垣と深い堀があたりを取巻いている。その周囲の建物には広々とした部屋があり、襖(ふすま)はその時代の最も有名な芸術家によって装飾され、木彫も有名な木彫家の手になったものである。ある部屋には高さ七フィートばかりの、この城の雛型があった。これは城それ自身が建てられる前に、それに依て建築すべき模型としてつくられたのであるから、非常に興味がある。

[やぶちゃん注:「高さ百五十フィート」四十五・七二メートルであるが、ウィキの「名古屋城」によれば実際には現行で五十五・六メートル(建屋三十六・一メートル+天守台十九・五メートル)である。

「一六一〇年から三年にわたって建てられ」前注同様にウィキの記載によれば、濫觴は十六世紀『前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられて』おり、天文元(一五三二)年には『織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された』。『信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが』、弘治元(一五五五)年に『信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城とされた』。『清須城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は』慶長一四(一六〇九)年に『九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定』、慶長一五(一六一〇)年、『西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始』されたとある(下線やぶちゃん。以下同じ)。その後、慶長一七(一六一二)年(年)までに『大天守が完成』、『名古屋城築城普請助役としては、加藤清正以外に、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の外様大名が石に刻印を打って石垣工事を負担し』、実に延べ五百五十八万人の工事役夫で僅か一年足らずで石垣を完成している。『清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した』慶長一七(一六一二)年頃から『徳川義直が名古屋城に移った』元和二(一六一六)年の間に『行われたと思われる。この移住は清須越しと称され、家臣、町人はもとより』、社寺三社に百十箇寺に加えて、『清須城小天守も移るという徹底的なものであった』とある。以下、近代史も見ておくと、明治三(一八七〇)年、尾張藩最後の第十四代藩主『徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。金鯱は鋳潰して武士の帰農手当や城地の整備費用に充当する予定であった。しかし、ドイツの公使マックス・フォン・ブラントと大日本帝国陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより』、明治一二(一八七九)年十二月、『山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。この時、天守は本丸御殿とともに保存された』。明治五(一八七二)年には『東京鎮台第三分営が城内に置かれ』翌年には『名古屋鎮台とな』る。その後は明治二一(一八八八)年に『第三師団に改組され、終戦まで続いた』。但し、明治二六(一八九三)年になると本丸部分『陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する』ようになったが、この名古屋離宮は昭和五(一九三〇)年で廃止され、『宮内省から名古屋市に下賜された。名古屋市は恩賜元離宮として名古屋城を市民に一般公開した』。また建造物二十四棟は同昭和五年に、本丸御殿障壁画は昭和十七年に「国宝保存法」(当時)に基づいて国宝(旧国宝)に指定された。昭和一二(一九三七)年一月七日には、天守閣の金鯱の鱗五十八枚が盗難に遭っており、この鱗の金の価格は当時の価格で四十万円ほどに相当した。『犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売ろうとして警察に発覚』、一月二十八日に逮捕されている。『太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが』、昭和二〇(一九四五)年五月十四日の名古屋大空襲(三度目)によって、『本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した』。『戦後、三之丸を除く城跡は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内には、戦災を免れた』三棟の櫓と三棟の門、『二之丸庭園の一部が保存された。また、一部の堀が埋め立てられるなど改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形などは三之丸を含めて比較的よく残されている。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により昭和三四(一九五九)年に『再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった』。本丸御殿の復元は二〇〇八年に着工、二〇一八年の全体公開を目指しているとある。

「七フィート」二・一三メートル。モースが非常な興味を示した築城用の雛型模型であるが、これ自体は後に焼失したものと思われる。現在、城を含む城下町の精密な模型展示がなされているらしい。]
 
 

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図―657

 

 図657は番人が城内の当事者に我々の名刺を届けに行くのを待つ間に、いそいでした写生図である。これは極めて朧気(おぼろげ)に城の外見の観念を伝えるに過ぎぬ。この建築の巨大さと荘厳さとは著しいものである。建築上からいうとこの城は、上を向いた屋根のかさなり、破風(はふ)に続く破風、大きな銅の瓦、屋根の角稜への重々しい肋(リブ)、偉大な屋根の堂々たる曲線、最高の屋梁(むね)の両端に、陽光を受けて輝く、純金の鱗を持つ厖大な海豚(いるか)等で、見る者に驚異の印象を与える。黄金は殆ど百万ドルの三分一の価値を持っている。我々は頑丈な、石垣の間の通路をぬけ、幅の広い石段を上って、主要な城へと導かれた。厚い戸をあけると、そこは広々とした一室で、壁や天井の桁の大きさは、封建時代にあって、かかる建築が如何に強いものであるかを示していた。我々は階段をいくつもいくつも登り、登り切るたびに、しつかり出来上った広くて低い部屋へ出ては、百十二の高い段々を経て上方の部屋に達した。この勘定には、入口に達する石段や斜面の段は入っていない。上の広間の窓からは、あたりの範囲のひろい、そして魅力に富んだ景色が見られた。そこから流れ込む気持のいい風は、登って暑くなった我々にとって、誠に有難いものであった。

[やぶちゃん注:「番人が城内の当事者に我々の名刺を届けに行く」入場が妙に物々しい感じがするのは、前の近代史の記載(後の下線部)にあるように、陸軍省の所轄となって名古屋鎮台本部が置かれていたためと思われる(特にモースが外国人ということもあったであろう)。

「百万ドルの三分一」これは当時のレートというより、アメリカでの「百万長者」のイメージで述べているから、当時の百万ドルは今の一億ドル相当と考えれば、ネット上の記載に明治四(一八七一)年に一ドル=一円、明治二五(一八九二)年頃には一ドル=二円ほどレートであったとあるから(因みに明治六年から十八年の間参議を勤めた伊藤博文の月俸は五百円とある)、当時の一ドル一円として、そのまま現行の一ドルを百円で大甘換算しても現在の百億円、その三分の一で三十三億円相当といった感じになろうか。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ モース先生茶の湯体験記 その三(了)

 彼女は次に小さな釘にかけた大きな羽根を取り、入って来た入口に膝をついて注意探く畳を掃き、退出して襖をしめた。我々の仲間の一人がそこで小さな木皿を取りまとめて、みきが入った入口へそれを持って行った。このすぐ前に、みきが鉄の薬罐(やかん)を持って来て、それを炭にのせた。一方老人は我々に香の箱を見せ、我々はそれを調べ、香を嗅ぐのであった。ここで我々は立ち上り、縁側へ歩いて出、履物をはき、水甕で手を洗い、主人の家へ渡り、休憩し、煙草を吸い、私はあらゆる病原菌を含まぬという説明つきの冷水を一杯飲んだ。

[やぶちゃん注:最後の言い添えが特にあったのは当時、東海堂筋でコレラが流行していたからである。]

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図―655

 

 しばらくすると、最初のよりも余程深い音色のする鐘が鳴り、我々は手を洗い、茶室へ這い込むという、同じ形式をくりかえした。懸け物は取り掃われ、その代り簡単な花生けに、かかる人々のみが知っている方法で生けた花が入れて置いてあった。そこでみきが茶碗を持って現れたが、彼女は各種の茶具を一つ一つ持って来る度に、膝をついては、襖を横に押すのであった。そこで儀式的に立ち上り、明けた場所を真直に歩いて通り、真四角に曲って炉に面し、一歩それに近づいて立ち止り、ぼんやりしたような有様で前方を眺め、それから膝をついて恭しく品物を畳の上に置いた。彼女は手を畳につかずに立ち上り、前童謡平静な態度で退出した。茶碗の後で彼女は繊細な竹の柄杓を持って来た。いい忘れたが、我々が部屋に入った時、水入れと壺とは、すでにそれぞれ然る可き場所に置いてあった。この時各種の品は、図655に示す如くであった。そこで茶入の紐を解き、袋を手の端で両方に押し下げ、その袋は羽根の塵掃いがかかっていた釘にぶら下げた。薬罐から湯を汲み出して茶碗に注ぎ込み、茶筅(ちゃせん)(図656)をくるくる廻しながら茶碗の内をまるく回転させることに依て、茶碗と茶筅とを洗う。茶碗をそこで、白い木綿の布で拭うのだが、これにも一定の方法があった。この間誰も一言も喋舌(しゃべ)らなかった。

M656

図―656

 

 次に細い竹の匙で、茶入から粉末茶をすくい出した。恒例である所の三匙をすくい出したみきが、やめかけると父親が低い声で「もっと」といい、更に「もっと多く」といったので、彼女は数回にわたって、茶碗に沢山茶を入れた。我々は彼女に面して、半円形に坐った。私が最左端、次が権左、次が木村、次が我等の主人役という順序である。そこで湯注ぎ、勢よく茶をかきまぜたが、そのどの動作も極端に形式的に行われた。主人はそこで脆いたまま娘に近づき、丁寧にお辞儀をして茶碗を取り、私のところへ躙り寄って、また深くお辞儀して茶碗を私に差し出した。お茶は最も濃厚な、緑色の舎利別(しゃりべつ)に似ていて、実に美味であった。私は一口飲み、茶碗の私の唇の触れたところを指で拭き、紙を持っていないので上衣の内側で指を拭き、それから茶碗を、それが次の人の手に渡った時、彼の唇がその辺縁の清潔な場所にあたるような具合に、くるりと廻した。この時機にあって、私は主人に向い、この茶が何であるかを質ねる義務を持っていたのでそれを行うと、主人は私に名を教えた【*】。それは事實有名な人に依てつくられ、日本に於る最も尊い茶とされていた。

 

 

*この茶は「はつむかし」と呼ばれ京都に近い宇治で出来たものである。それから、この茶の立て様の型、即ち流派は、太閤時代の利休のそれであった。

[やぶちゃん注:「緑色の舎利別」原文は“green syrup”。思わず笑ってしまうが、これは英語の方が今や、分かり易い。「舎利別」は単なる漢字の当て字で、オランダ語の“siroop”の音漢訳である。言うまでもないが、白砂糖を煮詰めた濃厚なシロップのことである。

「はつむかし」茶道に全く縁のない私は知らなかったが、これ「大辞泉」にちゃんと載ってるだなあ。それも以下のようにこんなに詳しく! 「初昔」は、茶摘みの最初の日に摘んだ葉茶で製した抹茶の銘。本来、小堀遠州が従来の白みを帯びた色の茶を名付けたもので、「昔」を「廿一日」の合字とし、八十八夜前後二十一日間の前半・後半に葉を摘んだものを初昔・後昔(のちむかし)とする俗説もある。勉強になったわい。]

 

 

 茶碗は転々して最後に主人の手に渡り、彼は残った茶を飲みほした。これをするのに彼は、まるで御祈禱をする時のように真直に膝で立ち、この上もなく加福的な顔つきで、大きに勢よく唇を鳴らした。茶を飲み終ると彼は、茶碗の正にとがった楕円形の部分が残るようにそれを拭った。そこで茶碗を手から手へ廻し、それが稀古な品であるので、それに就ていろいろと意見が述べられた。

 

 これが終ると娘は道具類をすべて持ち去り、我々は老人が持ち出した箱の中に入ったいろいろな品物を見た。箱のある物は漆塗で、品目、陶器、及び製作者の名前が金文字で書いてあり、白木の箱には黒で記号をつけ、朱で作者の印が捺してあった。これ等を我々に見せながら主人は、使われる時にはこれ等が「虎」になり、然らざる時には鼠になるといったが、その意味は使われる時には虎のように有用になるが、使われぬ時には鼠のように無価値だというのである。

[やぶちゃん注:最後の諺は「時に遇えば鼠も虎と(に)成る」で、これ、時流に乗ればつまらぬ無能な者でも出世して権力を奮うようになるという譬えである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ モース先生茶の湯体験記 その二

 間もなく我々に面した、辷る衝立が、静かに横に押されてみきが出現し、三角形の漆器盆を一つ一つはこび込んだ。各種の皿は最上等の品で、飯皿と大きな飯匙とは陶器、酒入れは豪奢に細工をした金属、盃は美事な漆器であった。飯は一つの鉢に、漬物を添えた生魚は他の鉢に、揚げた鰻と瓜は別の鉢に、味噌汁と百合の根とは更に別の鉢に、それからそれを料理したその容器のままで膳に出す、最も美味な羹(あつもの)は、蓋のある皿を充していた。主人は子息と一緒に、母家で同様の料理を供される。食事の間、客と共にいることは不適当とされているのである。我我は然し張出縁の向うにいる彼を、よく見ることが出来た。我々が食事をしている最中に、老主人は我我と共に酒を飲むべく入って来た。我々は先ずみきと酒を飲み、彼女の父親も同様にした。盃をゆすぐ杯洗は無く、盃は小さな台にのって、あちらこちら往復した。娘と飲んだ後、我我は主人と飲んだ。

[やぶちゃん注:「揚げた鰻と瓜」原文は確かに“fried eels and melon”であるが、これは恐らく鱧か穴子の天麩羅ではあるまいか? 「瓜」は南瓜だろうか?]
 
 

M653

図―653

 

 次に非常に美しい漆塗の盆が出された。それには菓子の小さな堆積がのせてあり、又別の盆には何等かの野菜がのせてあったが、私は写生に忙しくてこれ等を食わなかった。菓子は我々の飯茶碗の蓋にのせられた。これが終ると残った菓子を二つの包みにわけ、娘はその一つを袂に入れ、老人は自分の手に持ち、二人とも退去した。そこで熱い湯が持ち出され、その少量ずつが我々が食い終った食器の各々に注がれた。礼儀上からいえば、私は各々の皿の内容全部を食うべきであったろうが、私はあまり暑いので多く食わなかった為に、他の人々が非常に注意探くやったように、皿を洗った湯を飲み、自分自身の皿を紙で拭うという、不愉快な必要事をやらずに済んだ。皿をそれぞれ徹底的に清めて膳に置くと、みきがそれを一つずつ持って行った。次に寒天菓子の四角い切を三つ入れた、漆塗の箱が持って来られ、菓子は美しい四角の漆器の皿にのせられて供された(図653)。寒天菓子を一本の箸で食い終ると、その箸はこの場合の記念として持って帰ることになっている。寒天菓子を食っている間に、みきが非常に形式ばった様子でかっかと燃える炭火を入れた鉄製の容器(図654)を持って入って来て、鉄の箸【*】でそれを一片ずつ沈下した炉に置いた。

M654

図―654

 

 

* これ等はハシと呼ばれ我々の鉄鉗に相当する。

[やぶちゃん注:「鉄鉗」原文は“tongs”。なお、図653は底本の図版がカスレている上に、明らかなヨゴレが認められるため、原典画像からトリミングした。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ モース先生茶の湯体験記 その一

M650
図―650

M651

図―651

 我々が招かれたお茶の儀式は、非常に興味が深かつたので、私はいくつかの細部を見逃したには違いないが、それに関する丹念な心覚えを書きとめた。夏の茶の部屋は、母家から十フィートばかり離れた、独立した小さな家である。この、十五フィート四方の小さな建物は、特に茶の湯のためにつくられたので、すべての装備が極度に簡素であった。茶の家と母家との間には石の径があり、その一方の側には水を入れた大きな石の容器があった。粉末にした茶を儀礼的に供することを、真に評価する為には、これ等の細目を記述する必要がある。鐘が鳴って我々――権左と木村と私――は、茶の部屋に面した廊下の、丸い布団の上に坐った。(図650のA)。茶の家の名は、長い陶製の瓦の上に、四字で書いてあった。直訳すると「風、月、清い、厩舎」であるが、完全に訳すと「風と水との如く清潔で明透な小さな家」ということになる(図651)。

[やぶちゃん注:以下、前段で注した通り、陶工初代村瀬八郎右衛門に招待された茶席観察の詳述である(文字通り驚くべき細かさである!)。名古屋での滞在は四日間であったから、これは明治一五(一八八二)年八月三日(木)か、或いは名古屋を発つ前日(五日の夜出立)である四日(金)のことであったかと推定される。]

M652

図―652

 

 我々がここに坐って、その家を眺めていると、その辷る衝立を横に押し明け、娘のみきが両手両膝で這い入り、石の水甕から漆塗の木造容器に水を充して元へ戻り、後から衝立を閉めた。彼女は最初に茶の家に入る時、地上のいくつかの石の上を歩き、そして石の踏段の上に彼女の草履を、図652にある如く一方を他方によりかけて脱いだ。数分後我々は茶の家に行けといわれた。木製の草履が我々の足もとに置かれ、我々がこれをはいて、真面目にヒョコヒョコ石甕の所へ行くと、そこに主人が立っていて、小さな木の柄杓で我々の手に水をかけ、我々に手拭を供した。手を拭き乾した我々は、衝立を明け、上から半分の所まで下っている組格子の衝立の下を、両手両膝で這って、家の内へ入った。我々は先ず床の間(部屋の壁龕)へ躙(にじ)り寄って、極めてさっぱりした懸け物を眺め、次に落ち込んだ炉へと躙って行ったが、これは三角形の場所で、その中に若干の石があり、石の上に香の箱が置いてあった。そこで再び部屋の他の側へ行き、一列に並び、黙っていた。如何にも真面目で厳粛なので、茶の湯を宗教上の儀式だと記述した筆者もある。部屋は簡素を極めていた。天井は暗色の木材の、薄くて幅の広い片を、筵のように編んだもの、稜角や、出張りや引込みは竹、あるいは木の自然の枝で出来ていて、壁はあたたかい、褐色めいた土で塗ってある。この部屋の簡単さと、絶対的な清潔さとは、顕著なものであった【*】。

 

 

* この部屋は『日本の家庭』の一五三頁に描出してある。

[やぶちゃん注:これは以下に示した“Japanese homes and their surroundings”1885)の“FIG. 131. TEA-ROOM IN FUJIMI POTTERY, NAGOYA.”を指す。ここでは斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第三章 家屋内部」の「茶室」から、六つの図総てを引いておく(本文もすこぶる興味深い内容であるが、何分にも長く全部を引くことは許容される引用の域を越えると判断されるので、一三一図の箇所だけを図の後に引いておいた。なお、英文キャプションは原典のそれを視認して忠実に電子化して附したものである。

Jh130

FIG. 130. TEA-ROOM IN NAN-EN-JI TEMPLE, KIOTO.

Jh131

FIG. 131. TEA-ROOM IN FUJIMI POTTERY, NAGOYA.

   《引用開始》

 一三一図は、名古屋不二見焼窯元にある一風変わった茶室を示したものである。訪問したおり、この茶室で、ここの陶芸家の令嬢がお茶を点て、もてなしてくれた。部屋は簡素そのものであるが、先に図示したものに比べればかなり華やかである。天井は帯状の挽き割を並べて桟で留めたもので、竹や赤松材が横木や柱に用いられている。床の間の床柱は竹で、図の左の端に見えている。この茶室の炉は三角形であった。

   《引用終了》

老婆心乍ら、「点て」は「たてる」と読む。老婆心乍ら、「点て」は「たてる」と読む。なお、左の床柱の中央やや下の白く周囲の抜けた「ヽ」は、引用元訳本の印刷上のヨゴレであって、原典にはない。原典画像からトリミングして試してみたが、ヤケが著しく、補正すると画像が荒くなるので、仕方なくこちらを採用した。

Jh132

FIG. 132. TEA-ROOM IN MIYAJIMA.

 

Jh133

FIG. 133. KITCHEN FOR TEA-UTENSILS.

[やぶちゃん注:“utensil”は道具で、これは茶室の「水屋」の図である。]

 Jh134  

FIG. 134. TEA-ROOM IN IMADO, TOKIO.

 Jh135  

FIG. 135. COENER OF TEA-ROOM SHOWN IN FIG. 134.

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十四年 蘆刈

 蘆刈

 

触らねば蘆火おとろふ刈蘆原

 

蘆刈がもの喰へば鋭刃やすらへり

 

妻遠し蘆原広し蘆刈男

 

高々と塔組む刈蘆に過ぎず

 

蘆刈の姥の重腰(おもごし)鎌させば

 

枯蘆中すでに枯蘆退路断つ

 

この風にこの枯蘆に火をかけなば

 

何得んと吾立つ恋得んと鹿駆く

 

廃戒壇あれば高まり野の穂絮

 

泥擾乱泥鰌いつぴき身を隠し

 

[やぶちゃん注:「穂絮」老婆心乍ら、「ほわた」と読む。穂綿。チガヤ・アシなどの穂のことで、かつては綿の代用とした。

 どうもロケーションが判然としないので感情移入が私にはし難い句群である。「高々と塔」が「組」まれていて、「鹿」と「廃戒壇」とくれば、これは奈良のように見えるが、奈良に冥い私にはそれ以上(というかそれが正しいかも含めて)は感じが湧いて来ない。標題に「蘆刈」と持ってくれば、まずは能の「蘆刈」を読者はイメージするであろうが、それを思わせるのはせいぜい三句目の「妻遠し」ぐらいなもので、寧ろその他の句は実際のアシ・ヨシ刈りの景物を嘱目している感を私は受ける。また能のハッピー・エンドの「蘆刈」の雰囲気は全体からは全く伝わって来ず、孤立と哀愁を全体のコンセプトしているように見える点では、「大和物語」に見るような悲劇的な男女の別離を配した蘆刈伝承や、夢幻能をインスパイアした谷崎潤一郎「蘆刈」(これは粘着質で嫌いな谷崎の作品の中でも例外的に私の好きな作品である)を匂わせているものか? 但し、それらのロケーションは難波津であり、水無瀬の宮跡の山崎であって、このロケーションとは違うような感じがする(といっても私は難波津も水無瀬離宮跡も訪れたことはない)。しかし全体、殊更にわざとらしく、それでいてどこか説明的(接続助詞「ば」の頻出が蚊柱のように忌まわしく五月蠅い)で如何にもな安っぽいクロース・アップの多様が鼻につく。例えば、

「触らねば」(C-UP)→「蘆火」が「おとろふ」(C-UP)

「もの喰へば」(C-UP)→「鋭刃」が「やすら」ふ(C-UP)

「妻遠し」/「葦原広し」(パースをつける)→「蘆刈男」(C-UP)

「姥」で「鎌させば」(バスト・ショット)→「腰」が「重い」(C-UP)

「この風に」→「この枯蘆に」→「火をかけなば」

「恋得んと鹿駆く」→ならば「何得んと吾立つ」か

「廃戒壇あれば」→「野の穂絮」が「高ま」る(C-UP)

「泥鰌いつぴき」が「身を隠し」→「泥擾乱」(C-UP)

これは恐らく多佳子の実験であって確信犯なのであろうが、しかしどうもこの句群、好きになれぬ。こう評しながら、以前はいいと感じた「この風にこの枯蘆に火をかけなば」のジャンヌ・モローの「マドモアゼル」風(トニー・リチャードソン監督一九六六年フランス+イギリス合作。因みに本句は昭和三四(一九五九)年の作)の一句も、今は全くいいと感じなくなっている自分を見出している。却って禅語染みたような印象の「枯蘆中すでに枯蘆退路断つ」の方が、断然、いい。――蘆原を分け入って分け入って分け入って――そうして――振り返ると――蘆が音もなく――閉じているのである――これもまた、私が老いたからに他あるまい。]

2015/08/03

雨ふり 村山槐多 (決定版) ――国立国会図書館の差替画像によってまたしても彌生書房版全集の誤りを発見――

 

  雨ふり

 

雨がふつて來てしまつた

雨がふる、空を慄はせてふつて

私の頭の毛を濡せる

草木と同じに

 

仲よく私も濡れる

草木と同じに

 

雨は愛嬌よくふつて

私の頭の毛を濡せる

 

雨よ

お前のいたづらを

私はうちへかいつて

かはいた手拭に言ひつけるよ

 

    ×

美しいおばさん

まつたく私はあなたが好きだ

頰ペたにかじりつきたい程

あなたは私のりんごだ、戀人だ、可愛ゆい人だ

あなたは貧しい

かなしさうにあなたはうなだれて居た

おばさんのかなしさうな樣子を見ると

自分は胸がふさがる

美しいおばさん

私は持つてるものを皆あげちやつた

今でも上げたいのだ

だけれど困つたことには

私は一錢もないのです

實を言へば私はまだ晩の御飯もたべない

ゆるしてお呉れよ

おばさん

おばさん

 

    ×

うつくしい無心の女

あなたは遠くにきらめく靑い星だ

とらへがたく及びがたい物だ

淸く高く聖なる物だ

そう私は思つて居る

そう信じて居る

そこで私はいつも嬉しい

あなたをそう思つて居るから

 

    ×

私は描かう

すべて悦びと歡樂とに溢れし物を

醉ひし若者等を

美しき女の群を

花咲き亂るゝ風景を

 

貧しくみにくき物に私は唾液を吐かう

ひたすらに私は追ふ

すべての甘き快き物を、

 

    ×

櫻の花が咲いた

けむりの樣な空に輝きそめた

燈のともる樣に咲いた

美しい、

 

それを見て私の心臟は音を立て始めた

時計が直つてきた樣に

私の唇に酒と戰ふ唾液が湧き出た

噴水塔に水が送られた樣だ

 

さあ遊ばう

飮まう

美しい花、お前さんと

身も世も打忘れてじやれましやう

 

お前さんが散る時

わかれのかなしみがふと來るまでは

お前さんのあるかぎりは

私たちは一滴の涙の影もあるまい

 

    ×

私は醉つた

そなたはまだか

そら一時が鳴る、あかるくうつくしくひびく

何ていゝお天氣だろう

 

お菓子の樣に硝子の樣に

甘い輝いた群集ぢやないか

窓の外をとうるのは

 

晴れた空だ

薔薇色の地面だ

酒だ、さかづきだ、瓶だ、

 

美しいそなたは

もつとおあがり

とろりと醉ふまで、

 

    ×

眞赤な幕を引くと

眞黃な小さいおどけがおどる

小さい愛らしいおどけ者がおどる

 

眞靑な空が映る

歩いて行く澤山の女の眼に

きらきらと空は輝やく

 

花が咲く、咲いてはしぼむ

 

物の響が耳よりも心につたはる

 

春のうらわかさがものみなに溢れる

うれしくてたまらないやうに

お菓子の樣なおどけがおどる

 

赤のうしろで黃の點が、

 

    ×

神の定め給へるわが一生は

刻々に盡きてゆく

死の暗のうめきはきこゆ

近きかなたに

 

盡きよ盡きよわが生の間

喜びあれなげきあれ

樂あれ苦あれ

かくして盡きよ

 

わが神に常にわれたより

その定めをまつ

常に常にわれはうなづきて

その定めを受く

 

神の定め給へるわが一生は

刻々に過ぎてゆく

われはそのうちにうなづく

死の闇の至るまで常にうなづく

 

    ×

ぶどうの房の如く

諸兄の惡はたはゝに

わが心より垂れ下る

 

神よこの憎むべきこのみを

わが心よりとりすて給へ

 

神よ

神よ

 

われは涙とゝもにいのる

心の眞底より

 

    ×

どこで生れ

いつ生れ

どうそだつたか

 

その一瞬すつかりそれを忘れる

私はまつたく忘れてしまふ

 

その時私はやつと息をつく

始めて生きる

 

忘れる事が

完全に生きる事だ

刻々の狂氣が

ほんたうだ、

 

忘れよ

生きよ

 

    ×

私は死を怖れない

私はもう死んで居るから、

私の心の底は冷めたい、固い、

眼をとぢて居る

息をしないで居る

 

一切は墓場の上の幻だ

私のやる事は

私の生は

みんなそれだ

 

私は何も怖くない

私はその底それ自身

虛無だ

 

    ×

私はなにだらう

私は空氣だ

私はどこにもある

どこへでもゆく

 

美しい女の唇にも舞つてるし

牢屋の中の殺人犯の黑い肺にもとびこむ

人を殺す爲めに動いた腕の中の血にも現はれた

天にも地にも私はある

 

私はそれ一つでそれすべてだ

私は天下御免(めん)の者だ

 

いやしくもある

貴とくもある

高くもある

低くもある

善くもある

わるくもある

 

その底で私は馬鹿だ

 

    ×

勝て、勝て、勝て

一切は善い、

一切は善い、

 

自分を尊べ

自分の行をたゝへろ

 

その美しさに

ほれぼれと

自分に見入れ、

 

それで善いのだ

それが絶對なのだ

 

    ×

火花の樣に飛んではねて生きやうと

始終思ひながら

つまらない物につまづく

そしてしおれる

 

悦びの外に何も知らずに居やうと

始終念じながら

かなしみは數々つきまとふ

 

このもどかしさに飽きた

私はさびしさに耐へず

ひとり伏して居る

 

    ×

ほんとの事はただ一つ

それは死だ

一切はその上の幻だ、花火だ、けぶりだ

 

美しい幻は見たいが

それより上に用はない

 

強い剛い立派な

黑いダイアモンドの樣な死

その行先のきまつた私

この世に何ののぞみがあらうよ

 

    ×

血が私の口から滴り

死神がくゝと笑ふ

このむごたらしい事實が

よくも起つた、

 

私まで笑つた

あまりの唐突さを

笑つてだまつた

そして泣いた

 

それから九十九里の海べへかけ出して

ぼんやり沖を見た、

 

    ×

自ら私は腕を見、足を見る

この美しい貴とき命のいとなみに見入る

赤い健康はいまその上にゆらめく

炎の樣に輝やいて居る

 

しかも私は愁ひて居る

命の力がわきにそれて

この腕この足のなえ靑ざめん時の來る事あるを知れば

 

健康は私にとつて小さい油壺持つランプのその

明るさだ、灸の色だ、

油はぢきに盡きる

油の量を私は知る

 

健康を見る事は愁ひだ

それ故私はもう思ふまい

自分の身體を見まい、

 

 

[やぶちゃん注:本詩篇は私は大正七(一九一八)年四月中旬の結核性急性肺炎の発症後に書かれた最初の詩篇と読む。まず、詩中で「春」が詠まれていること、「死」のイメージへの傾斜が今までになく極めて具体的なニュアンスを以って語られていること、がまず、そう推定する根拠である。そして「それから九十九里の海べへかけ出して/ぼんやり沖を見た、」という詩句である。確かにこの前年末から年始にかけて「モナリザ」の「をばさん」への恋情を吹っ切ろうとして彼は九十九里浜へ向かったことは先に書いたが、私はここの描写はその時の回想とはちょっと思われないのである。そして「全集」年譜によれば、彼は結核発症から四、五ヶ月後の、この年の九月に千葉九十九里浜へ転地療養しているからである。『病気あがりの槐多は九十九里の村や磯を歩き、考えた。あの弾力ある肉体は失われていた。「自殺の念も時々現れる。いけない」と日記に書いている。全集に所収の晩年の詩、死の想念とたたかう詩はこの頃書かれたものだ。九十九里は槐多にとって生と死を懸命に問う場所でもあった』とあることが、私の推定を支持して呉れるものと思う。

   §

 本詩篇の中で、次の「×」で括られた三つのパート、

   ■

    ×

ぶどうの房の如く

諸々の惡はたはゝに

わが心より垂れ下る

 

神よこの憎むべきこのみを

わが心よりとりすて給へ

 

神よ

神よ

 

われは涙とともにいのる

心の眞底より

 

    ×

どこで生れ

いつ生れ

どうそだつたか

 

その一瞬すつかりそれを忘れる

私はまつたく忘れてしまふ

 

その時私はやつと息をつく

始めて生きる

忘れる事が

完全に生きる事だ

刻々の狂氣が

ほんたうだ

 

忘れよ

生きよ

 

    ×

私は死を怖れない

私はもう死んで居るから

私の心の底は冷めたい、固い

眼をとぢて居る

息をしないで居る

 

一切は墓場の上の幻だ

私のやる事は

私の生は

みんなそれだ

 

私は何も怖くない

私はその底それ自身

虛無だ

   ■

の内で、

   ★

神よ

 

われは涙とともにいのる

心の眞底より

 

    ×

どこで生れ

いつ生れ

どうそだつたか

 

その一瞬すつかりそれを忘れる

私はまつたく忘れてしまふ

 

その時私はやつと息をつく

始めて生きる

忘れる事が

完全に生きる事だ

 

刻々の狂氣が

ほんたうだ

 

忘れよ

生きよ

 

    ×

私は死を怖れない

私はもう死んで居るから

私の心の底は冷めたい、固い

   ★

の二十八行分は、彌生書房版「増補版 村山槐多全集」の当該部を参考にしながら、恣意的に正字化し、これまでの底本の特性から推理して句点などを除去し、記号等を変更操作したものである。何故というに、底本としている国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像は、この相当箇所(底本の444頁と445頁)が別な画像に入れ替わってしまっているためである(国立国会図書館側の作成ミスと思われる)。その際、若干の問題を感じたのは、

   ●

その時私はやつと息をつく

始めて生きる

忘れる事が

完全に生きる事だ

 

刻々の狂氣が

ほんたうだ

 

忘れよ

生きよ

   ●

の箇所の二行の空きの部分で、彌生書房版「増補版 村山槐多全集」では、この二行の空きが、他よりも半行ほど詰っている点であった(こんな現象は同全集の組版では他に見られないと思う)。しかし、確かに意図的に間を空けているように見えることは事実である。これを無視するかどうするか悩んだのであるが、底本の『槐多の歌へる」の両開き頁をカウントしてみると、二頁の組版として二十八行で組まれていることから、この二行を詰めると、画像脱落頁が二頁で二十六行になってしまい、前後に空行も入らないことは明白であることから、敢えて以上のように表記する(二行の一行分の空行を挿入)こととした。大方の御批判を俟つものではある。なお本日只今、国立国会図書館へは正しい画像へ差替えてもらえるよう、通知しておいた。【以上は二〇一五年七月十六日記。行空き部分には短い抹消線が入っている。】

【以下、二〇一五年八月三日追記】本日、国立国会図書館が訂正画像を差し替えて呉れた。その結果、「全集」の行空けには誤りがあることが判明した。即ち、

   §

    ×

どこで生れ

いつ生れ

どうそだつたか

 

その一瞬すつかりそれを忘れる

私はまつたく忘れてしまふ

 

その時私はやつと息をつく

始めて生きる

 

忘れる事が

完全に生きる事だ

刻々の狂氣が

ほんたうだ、

 

忘れよ

生きよ

 

    ×

   §

のパートは「全集」では、

   §

    ×

どこで生れ

いつ生れ

どうそだつたか

 

その一瞬すつかりそれを忘れる

私はまつたく忘れてしまふ

 

その時私はやつと息をつく

始めて生きる

忘れる事が

完全に生きる事だ

 

刻々の狂氣が

ほんたうだ

 

忘れよ

生きよ。

 

    ×

となっている。底本行空きの部分が丁度、二段組ページの上段から下段の位置にあるので、単純に組版を誤ったものと推定出来る。加えて以前にも(抹消部)述べた通り、「完全に生きる事だ」と「刻々の狂氣が」の間には逆に極めて不自然な半行分空行がある。ますます「全集」の組版の誤りを感じさせるものである。迅速な対応を採って呉れた国立国会図書館に深く感謝するものである。これによって、またしても「全集」の誤りが明らかとなった

 

「濡せる」(二箇所)はママ。「全集」は孰れも「濡らせる」。

「私はうちへかいつて」はママ。「全集」は「かへつて」。

「かはいた」はママ。

「おばさん」は総てママ。

「そう私は思つて居る」の「そう」もママ。これ以下、三個所も同じ。

「じやれましやう」はママ。

「お天氣だろう」はママ。

「窓の外をとうるのは」はママ。

「眞黃な小さいおどけがおどる」の「おどる」はママ。これ以下、三箇所も同じ。

「ぶどう」はママ。

「諸兄の惡はたはゝに」の「たはゝ」はママ。

「私はなにだらう」はママ。

「生きやうと」はママ。

「そしてしおれる」はママ。

「悦びの外に何も知らずに居やうと」の「居やう」はママ。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (六) ――ハーンが最初に行った寺を推定同定する――



        

 

 『寺へ行け』

 私はホテルへ歸らねばならなくなつた――晝食の時間さへ惜しいのだから、そのためではなかつた。佛寺を訪ねたい希望を車夫に通ずることが出來なかつたからである。今は車夫も理解した。ホテルの主人が神祕なやうな言葉を發音したから。

 『寺へ行け』と。

 庭園や、費用のかかつた醜い洋館が竝んだ廣い大通りを數分間馳せて、それから異常な構造で、ペンキを塗らない、舳の尖つた船が、澤山入込んでゐる運河の上の橋を渡つてから、また日本町の別の部分へ突進する。して、車夫は下部よも上部の狹い、小さな櫃形の家屋の更に竝んでゐる間を通つたり、まだ見馴れぬ、開放した小店の連つた中を拔けたりして、全速力を出して走り行く。しかも、いつも商店の上には、二階の障子を建てた室の處まで、靑瓦を敷いた、細長い帶のやうな屋根が、傾斜面をなしてゐる。また正面からは、紺、白、又は濃紅の暖簾が垂れてゐる――一尺幅の織物で、美麗なる日本字が、靑地には白く、黑には赤く、臼には黑く現れてゐる。が、すべて悉く飛んで去つて行つて、夢のやうだ。今一度運河を渡り、山へ向つて、勾配が高くなつた狹い町を、無理押しに上がつてから、車夫は突然廣い石段の澤山ある處の前で停まつて、私が降りるやう、梶棒を地上に置き、石段を指し乍ら「寺」と叫んだ。

 私は降りて石段を上つて、廣い高臺に達すると、反(そ)つて突つた角の多い支那風の屋根が載つた驚くべき門に面と對つた。この門は全部妙な彫刻が施してあつて、開いた戶の上の彫刻帶には龍が絡まつてゐるし、戶の腰板も同樣に彫刻してある。それから奇怪な獅子の頭の形をした樋嘴鬼瓦が檐から突出してゐる。して、全部が灰色で、石の色をしてゐる。が、私には刻んだものが彫刻の有する固定性を有つてゐると見えない。蛇類龍類すべて水の如く渦を卷いて、群をなして移動し、捕捉し難く浮動してゐるやうに見える。

 私は晴やかな光の中を霎時振返つてみる。海と空が、同じ淸らかな薄靑色をなして交り合つてゐる。眼下には、靑じみた屋根が、右手の穩かな灣の端までと、市の兩側に位して、樹木の生えた綠色の丘陵の麓まで、大濤のうねつた如く連つてゐる。その半圓形を描いた綠色の丘陵の先きに、藍色の影法師のやうな鋸齒狀の高い山脈が聳えてゐる。して、この山脈の線から非常に高く何とも云へなく愛らしい幽靈がぬつと屹立してゐる――一つの特立せる雪の圓錐形は、纖絲の如く精美で、心靈的な淸淨の白さなので、もし古くから見慣れた外形でなかつたならば、誰もこれを雲と考へるだらう。その麓は、空と同じい美はしい色だから見えない。ただ永久の雪線の上に、夢のやうな圓錐形が、輝ける陸と輝ける空の間に吊り下つたやうに、峻峰の幽靈となつて出現してゐる――神聖にして無比の富士山。

    譯者註。ヘルン先生の著書中に富嶽を描
    いた、否、歌つた文章が四ケ所ある。先
    づ第一に、本全集第五卷に收められた
    「異國情趣と懷古のことども」の卷頭を
    飾れる「富士の山」の章の末段には、絕
    頂から見おろした黎明の巨峯の眺めが寫
    してある。第二に、本全集四卷に收めら
    れた「心」の第十章は、長き海外の放浪
    から歸朝の航路中にある日本の一靑年が、
    太平洋の甲板の上から望み見た富士を寫
    して、彼が國粹保存的精神に目醒めた決
    心を以て結んでゐる。第三に、本全集第
    十二卷遺稿雜纂中の一篇「日本への冬の
    旅」には、橫濱港の沖から仰いだ富士。
    それから第四に、ここには橫浜郊外の丘
    上から見た光景が寫してある。その昔、
    萬葉歌人の千古の絕唱によつて、讚美さ
    れた富士山は。この英文に於ける散文的
    詩人に於て海外に對して天晴れ立派なる
    謳歌者を得たのである。原文の朗朗誦す
    べき美に對して、譯者は殆ど冒瀆の恐れ
    を禁じ得ない。

 すると、私はこの怪しい彫刻を施した門前に立ちながら、俄然奇異な感覺――夢と疑ひの感覺に襲はれた。石段も、群龍の門も、市街の上に渡れる蒼空も、富士の幽靈のやうな美も、灰色の敷石の土に擴つてゐる私自身の影も、やがては一切悉皆消滅するに相違ないやうに思はれた。何故そんな感じがしたのだらう。疑もなく、私の眼前の形態――反(そ)つた屋根、どぐろを卷いた龍、支那風の奇怪な彫りもの――が、實際私には新しいものとしてでなく、夢にみたことがあるやう見えるからである。この光景が、忘れられ繪本の記憶を活かしたに相違ない。それも瞬間、忽焉幻想は消えて、遠くまで不思議に澄み渡つた空氣、活きた繪畫の驚くべき優美な色合、夏の高い靑空、白く柔かな魅力的な日本の日の光など、滿目一切、淸新快爽の鮮かな意識と共に、現實の詩趣が返つてきた。

 

Sec. 6

   'Tera e yuke!'

   I have been obliged to return to the European hotel—not because of the noon-meal, as I really begrudge myself the time necessary to eat it, but because I cannot make Cha understand that I want to visit a Buddhist temple. Now Cha understands; my landlord has uttered the mystical words: '

   Tera e yuke!'

   A few minutes of running along broad thoroughfares lined with gardens and costly ugly European buildings; then passing the bridge of a canal stocked with unpainted sharp-prowed craft of extraordinary construction, we again plunge into narrow, low, bright pretty streets—into another part of the Japanese city. And Cha runs at the top of his speed between more rows of little ark-shaped houses, narrower above than below; between other unfamiliar lines of little open shops. And always over the shops little strips of blue-tiled roof slope back to the paper-screened chamber of upper floors; and from all the facades hang draperies dark blue, or white, or crimson—foot-breadths of texture covered with beautiful Japanese lettering, white on blue, red on black, black on white. But all this flies by swiftly as a dream. Once more we cross a canal; we rush up a narrow street rising to meet a hill; and Cha, halting suddenly before an immense flight of broad stone steps, sets the shafts of his vehicle on the ground that I may dismount, and, pointing to the steps, exclaims:

   'Tera!'

   I dismount, and ascend them, and, reaching a broad terrace, find myself face to face with a wonderful gate, topped by a tilted, peaked, many- cornered Chinese
roof. It is all strangely carven, this gate. Dragons are inter-twined in a frieze above its open doors; and the panels of the doors themselves are similarly sculptured; and there are gargoyles— grotesque lion heads—protruding from the eaves. And the whole is grey, stone-coloured; to me, nevertheless, the carvings do not seem to have the fixity of sculpture; all the snakeries and dragonries appear to undulate with a swarming motion, elusively, in eddyings as of water.

   I turn a moment to look back through the glorious light. Sea and sky mingle in the same beautiful pale clear blue. Below me the billowing of bluish roofs reaches to the verge of the unruffled bay on the right, and to the feet of the green wooded hills flanking the city on two sides. Beyond that semicircle of green hills rises a lofty range of serrated mountains, indigo silhouettes. And enormously high above the line of them towers an apparition indescribably lovely—one solitary snowy cone, so filmily exquisite, so spiritually white, that but for its immemorially familiar outline, one would surely deem it a shape of cloud. Invisible its base remains, being the same delicious tint as the sky: only above the eternal snow-line its dreamy cone appears, seeming to hang, the ghost of a peak, between the luminous land and the luminous heaven—the sacred and matchless mountain, Fujiyama.

   And suddenly, a singular sensation comes upon me as I stand before this weirdly sculptured portal—a sensation of dream and doubt. It seems to me that the steps, and the dragon-swarming gate, and the blue sky arching over the roofs of the town, and the ghostly beauty of Fuji, and the shadow of myself there stretching upon the grey masonry, must all vanish presently. Why such a feeling? Doubtless because the forms before me—the curved roofs, the coiling dragons, the Chinese grotesqueries of carving—do not really appear to me as things new, but as things dreamed: the sight of them must have stirred to life forgotten memories of picture-books. A moment, and the delusion vanishes; the romance of reality returns, with freshened consciousness of all that which is truly and deliciously new; the magical transparencies of distance, the wondrous delicacy of the tones of the living picture, the enormous height of the summer blue, and the white soft witchery of the Japanese sun. 

 

[やぶちゃん注:今回は注が長くなるので原文を注の前に置いた。

 ここでハーンが「チア」に連れて行かれた寺がどこであるのか、とっくに誰かが同定しているものと思ったら、ネットで手に入るそれらしい記載のありそうな関連論文にも目を通したが、これがなんと、どうもよく分からないらしい。唯一、個人ブログ「ケペル先生のブログ」の「小泉八雲来日」に『ハーンが参詣した寺社はどこか、実はあまりわからないらしい。成田山不動尊、浅間社、厳島神社、本牧神社、白滝不動、青木明神、豊顕寺、慶運寺などが考えられる』と記されてあるのが参考になるばかりである(それ以外に情報のあられる方は是非お教え願いたい)。この中で寺は成田山不動尊・白滝不動・豊顕寺(「ぶげんじ」と読む)・慶運寺であるが、この内、白滝不動は私が何度も行ったことがある場所でロケーションが全く異なり、慶運寺は位置が低過ぎるから除外出来ると思われる。まず、その「寺」までのルートを検証したいのだが、まず困ったのは彼の泊まったホテルの位置が判然としないことであった。ハーンは川を二度渡っている狭義の旧外国人居留地からこの二つの寺へは当時の地図を見て大きな川を二つ渡る必然性はないように思われ、そこから私は彼の泊まったホテルは狭義の旧居留地ではなかったのではないかと考えた。一つの可能性としてハーンのホテルは元町の周辺、現在の港の見える丘公園の麓辺りにあったのではなかったかと考えた。そうすると二つの川は中村川(別名堀川とも)と大岡川でしっくり来るからである。例えば、元町の右岸を遡って元町駅近くで中村川を渡り、北上して大岡川を渡ると両方の寺へ向かうことが出来るのである。最初に渡る橋の下にもやっている舟の雰囲気も私には今の中村川の感じからも如何にもしっくりくるのである。【2015年8月5日変更追記】この後、以下に見るように、迂遠ながら、寺の同定が教え子の指摘によって、私の中で――豊顕寺から本覚寺へ――と変化した。その結果、ハーンが泊ったのは旧居留地内のホテルであって問題ないと考えられようになった。とすれば、ハーンが渡った二つの川とは大岡川と石崎川(古い地図を見るとその先を右にずっとカーブすると帷子川河口が内海に開いて東の外海に繋がる箇所に萬里橋があるが、これは厳密には、川では、ない)であったと読め、渡ったのは弁天橋と富士見橋であったということになろうか。

 さて、では、成田山不動尊と豊顕寺のどちらの寺の可能性(あくまで可能性である)が高いかである。「廣い石段の澤山ある處」というのは成田山不動尊とよく一致するのであるが、気になるのは、この成田山不動尊が本格的に成田山延命院という寺号で寺としての伽藍と格式を持つに至ったのはハーンが来た後の明治二六(一八九三)年である事実である。それ以前に狭い成田山遥拝所ではあったが、どうもそれではハーンの述べる境内の雰囲気と合わないのである。さらに言えば、山っ気はあるもののハーンが大いに信頼して行くに任せることとなるこの車夫「チア」が、近場だし、寺は寺だといって、出来たばっかりの新しい寺にハーンを連れて行ったとは思われないからである。またハーンも遥拝所として建てられたものを見れば、それが最近建立されたものであることは容易に分かったはずで、以下に続くような恍惚を齎したとは、到底、思われないでからである。

 このハーンが訪れた「寺」は山門の位置から「眼下には、靑じみた屋根が、右手の穩かな灣の端までと、市の兩側に位して、樹木の生えた綠色の丘陵の麓まで、大濤のうねつた如く連つてゐる。その半圓形を描いた綠色の丘陵の先きに、藍色の影法師のやうな鋸齒狀の高い山脈が聳えてゐ」て、そこから富士山が見えなくてはならないのである。ここは後の「七」以降の叙述からも境内地が相当な広さを持っていることが窺われ、しかも山門からは横浜の全景が見下ろされ、南には丹沢山塊とその向こうの富士が垣間見えなくてはならないのである。「今一度運河を渡り、山へ向つて、勾配が高くなつた狹い町を、無理押しに上が」るという描写は、この豊顕寺へのルートにすこぶる合致していると言える。

 私は実は、この豊顕寺(「ぶげんじ」と読む)に行ったことはない。ないがしかし、この同じ丘陵上の直近にある横浜翠嵐高等学校に五年奉職した関係上、富士は、あの位置から確かに見える。

 そこでウィキの「豊顕寺」の記載を見てみると、『神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢西町にある法華宗陣門流の寺院』で、永正一二(一五一五)年に『三河国八名郡多米(ため)(愛知県豊橋市多米町)を本貫の地とする多米氏(多目氏。平氏系)の一族である多米周防守元興は父元益の追善供養のため、本興寺(静岡県湖西市)の末寺として三河国多米の地に本顕寺という寺を建立した。この父元益は北条早雲(伊勢新九郎)と意気投合して早雲の大志に協力した人物である。それゆえ、多米氏は後北条氏より「御由緒家」という別格の扱いを受けていた。子の元興も家臣として活躍して青木城主でもあったが、剃髪して隠居し、武蔵国久良木郡三沢に当寺院を移転し、法照山豊顕寺と名を改めた』。しかし、天正一八(一五九〇)年、『関白豊臣秀吉の相模国小田原城(神奈川県小田原市)攻めで、多米氏の多くは後北条氏と共に歴史から消えた』。『多米氏の強力な庇護は無くなったが、当寺院は繁栄した。太閤没後、征夷大将軍の宣下を受け日本の権力が移った徳川家の下で江戸時代に栄えることとなる』。享保五(一七二〇)年に『老中久世重之の力などで当寺院に江戸幕府の許可が下ったため、檀林(だんりん・僧の学問所)を設置した。いわゆる三沢檀林(みつざわだんりん)である。最盛期には』学舎五棟・学寮二十五棟の伽藍が建ち、学徒は三百人を越えたと言う。かつては五万二千坪に『及んだ境内には八重桜が見事で、「喧嘩するなら豊顕寺の花見まで待て」と言われていたとされる』。しかし『明治の火災、大正の関東大震災により、壇林は廃止された』とある。建立から三百年経った学僧の集まる一大壇林(道場)ならば、車夫の「チア」さんは、異人さんもきっと満足するだろうと思ったと私は思うのである。

 このウィキの記載が、豊顕寺の三沢壇林が消えることとなったのは、ハーンの訪問よりは、後、と、読めることが非常に重要なのである。何故なら、ハーンは次の「七」で彼をこれから導いて呉れるところの学生僧「アキラ」に、この「寺」で出逢っているからである。この寺がまだ三沢壇林としての機能を持っていたとすれば、これはすこぶる腑に落ちることなのである。また、現在の写真でもそうだが、江戸時代の同寺を描いた絵図を見ると、道に面したところに門があって、その先に長い石段があってそこに山門が建っており、さらにその内側は広い空き地となっている。ここからの展望がまさにハーンの見たランドスケープだったのではあるまいか? 私の推理はあくまで机上の勝手な推理でしかない。どうか、横浜の郷土史研究家や識者の方の御教授を切に乞うものである。

★【201585日追記】二日前にブログでこの章と注を公開したところ、昨夜、私の古い「浜っ子」の教え子から全く異なった新しい同定候補の寺についての情報が舞い込んだ。すこぶる興味深い内容なので、本人の許可を得て、以下にメールを引用する。なお、下線や太字は私藪野が附したものである。

   《引用開始》

先生

ヘルンが訪れたという寺の考察、非常に興味深く拝読しました。

先生、実は私の中には、青木橋の北側にある台町の丘の上にある本覚寺――私の母方の祖父母をはじめ祖先が眠る寺――の映像が浮かびました。東海道神奈川宿のはずれの丘の上にあり、山門への急な石段を持ち開港以来アメリカ領事館として使われたことから山門が白いペンキで塗られて”灰色”になっており、その山門には獅子の彫刻がある寺。山門からは、関内より山手の丘に至る港町横浜の俯瞰図、そして更におそらくは明治の頃であれば鋸状の丹沢山塊の向こうに富士が望めたはずの寺(但し、私自身が本覚寺山門から富士をちらとでも見たことかあるかどうかと問われると私にも自信はありません[やぶちゃん注:現在の彼は横浜在住ではない。])。その当時、関内辺りから「寺」に行こうと思ったら、恐らく候補のひとつとして浮かんだであろう歴史のある寺。そしてそのためには運河(川)を二回は渡らねばならない寺……。

 一方、先生の挙げられた豊顕寺といえば、私はまだ行ったことがありません。そこで念のためネット上の”マピオン”でその近辺を探り、豊顕寺山門から西方及び南方にかけての標高を調べてみました。すると山門の西側や南側は山門より標高が高いことが分かりました。……つまり、豊顕寺山門から丹沢や富士は見えないのではないかということです。さらに言えば、果たして当時、ここから横浜の街を俯瞰できたかという疑問も生ずるのです。[やぶちゃん注:中略。]

 本覚寺は、浜っ子として変な誇りを持っている自分自身の思い出がたくさん詰まった寺です。白状すれば、だからこそヘルンの訪問したのは本覚寺であってほしいと願うのですが……今の私にはこれ以上の考察を行う余裕がありません。

以上、取り急ぎ私の想いを先生にご報告いたします。

   《引用終了》

 以上の教え子の話は非常に説得力を持っていた。そこでまずは本覚寺を調べて見た。

 この寺は神奈川県横浜市神奈川区高島台にあって『現在の高島台から幸ヶ谷公園(権現山)にかけて続いていた丘の上にあり、東海道と神奈川湊を見下ろす交通の要衝にあることから、戦国時代には隣接して権現山城・青木城が造られた』(ウィキの「本覚寺」より)とあるから、横浜を俯瞰する高度に於いてまず申し分なく、位置に於いても「眼下には、靑じみた屋根が、右手の穩かな灣の端までと、市の兩側に位して、樹木の生えた綠色の丘陵の麓まで、大濤のうねつた如く連つてゐる。その半圓形を描いた綠色の丘陵の先きに、藍色の影法師のやうな鋸齒狀の高い山脈が聳えてゐる」というランドスケープに合致する位置にあることが分かる。そもそもここは、当時の地図を見ると、旧東海道神奈川宿の岬状に南に突き出た部分で、西側(現在の横浜駅西口一帯)は広大な内海となっており、現在の横浜駅の部分はまさに神奈川駅(現在の京急神奈川駅の南方直近)から月見橋を経て高島町へ砂嘴状に平沼(旧平沼駅があった)へと繋がっていることが分かる。

 本覚寺公式サイト寺史よれば、凡そ八百年前の嘉禄二(一二二六)年の創建とされ、現在は曹洞宗であるが開創時は臨済宗で、かの栄西を開山とするという。但し、栄西は開山より前の建保三(一二一五)年の入滅であることから、『その遺徳をしたって開山に頂いたもの』とある。ところが永正七(一五一〇)年『すぐ近くの権現山城で起きた「上田蔵人入道の乱」により、本覚寺は兵禍をこうむり、すっかり荒廃してしま』う(扇谷上杉家家臣「上田蔵人」政盛についてはウィキの「上田政盛」を参照されたい)。『その後、再興を図るにあたり、小机にある曹洞宗雲松院の陽広元吉禅師(ようこうげんきつぜんじ)を新たに住職として迎えることとなり』、享禄五・天文元(一五三二)年に本覚寺は曹洞宗の寺として再興した(陽広元吉禅師は伝法開山と呼ばれる)。リンク先には戦国から江戸の頃の絵図が数種掲載されており、素晴らしい景観が髣髴とするこれを、寺もさることながら、異人さんに見せたろうと「チア」さんが思ったとして、これは頗る付きで首肯出来ることではないか。しかもこの寺の特異点は近代にある。『幕末に横浜が開港されると、神奈川宿の寺院の多くが各国の領事館に接収されてゆきました。本覺寺はアメリカに接収され、3年もの間アメリカ領事館としてその歴史を刻みました』。『この頃の伽藍は、現在より相当大きく、本堂や地蔵堂・観音堂・客殿・衆寮・庫裡・鐘楼・総門・中門・裏門などをそなえる大変大きな構えでもありました』とあって広大な境内絵図も載るが、これはもうここ以下でハーンが叙述する広さと、十二分に合致すると言える。

 次に着目すべきは教え子が指摘する――白い山門――である。実は私自身このハーンの「この門は全部妙な彫刻が施してあつて、開いた戸の上の彫刻帶には龍が絡まつてゐるし、戸の腰板も同樣に彫刻してある。それから奇怪な獅子の頭の形をした樋嘴鬼瓦が檐から突出してゐる。して、全部が灰色で、石の色をしてゐる」の「全部が灰色で、石の色をしてゐる」という叙述には実は私は初読時から強い違和感を抱いていたのである。

 同じく本覚寺公式サイトの「横浜開港とアメリカ領事館とペンキ跡」を見よう。本覚寺が正式にアメリカの領事館として接収された日は横浜開港から三日後の安政六(一八五九)年七月四日(新暦六月五日)であったが、「三、日本初ペンキが塗られたお寺」によれば(太字化は藪野)、

   《引用開始》

当時の領事館員達は、当時日本には存在していなかった西洋塗装法(ペンキ)で、寺の建物を塗装していきました。

そのほとんどは戦火で焼失をしましたが、山門と鐘楼堂だけは戦火を免れ、今でも唐獅子や蛙亦などに黒や赤、緑、白などのペンキ塗装の跡を見ることが出来ます。

この領事館員達がペンキ塗装を施した山門は、日本で初めてペンキが塗られた純日本建築物であると言われており、大変貴重な建築物として考えられております。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

とあるのである。これこそまさにハーンの言う「全部が灰色で、石の色をしてゐる」の正体なのではあるまいか?! 公式サイトの「写真」にはその「ペンキが塗られた獅子頭など」の写真が載せられてある(但し残念なことに現在はペンキは殆んど剥落していて、痕跡のみらしく、写真からは「灰色」「白」の印象は見てはとれない。ただその写真を見ると獅子頭の直ぐ左手には象を形象した横木突出しの「奇怪」な彫刻があり、ハーンがこれを獅子と一緒くたに見て「奇怪」と言ったとして、これ、さもありなんことと感じたことも一言、言い添えておきたいと思う)。

 惜しむらくは、ハーンは次の第七章で本尊に言及しているものの、それが何であったかを述べていないことである。本覚寺の本尊は伝行基地蔵菩薩像であったが、当時のものは昭和二〇(一九四五)年五月二十九日の横浜大空襲により殆んどの堂宇とともに焼失してしまっている。因みに、先に私が前に同定候補とした豊顕寺の本尊は、現行では、日蓮聖人奠定の十界勧請大曼荼羅とある。

 しかしそこで、若い僧(後の「アキラ」である)が「壇上に燈臺の竝んだ間にある、華麗な金塗りのものを指して」「あれが佛さまの厨子です」と説明するシーンが出ることに、今回、私は目が止まった。さても、この本覚寺は旧小机領三十三所観音霊場第七番札所であり、十二年に一度だけ秘仏の観音を開帳をする慣わしがある。『それが必ず子歳にあたることから別名「子歳観音」と親しみを込められて呼ばれてい』(公式サイト内「子歳観音」の解説)るとあるのに気づいたからである(「ねどしかんのん」と読むか)。そして、この本覚寺の秘仏は如意輪観世音菩薩が納められた小さな黄金色の宝篋印塔型の小さな厨子に納められていることが「子歳観音」の画像から分かるのである。これこそ、まさにこの「アキラ」が指差した「壇上に燈臺の竝んだ間にある、華麗な金塗りのもの」「佛さまの厨子」なのではあるまいか?!

 以上、私は現時点では、ハーンが訪ねたこの寺というのは――この――青木山本覺寺――であったのではないか――という見解に傾きつつあるのである。大方の御批判をなおも俟つものである。

「ホテル」同定不能。驚くべきことに、二〇〇一年白百書房刊澤護著「横浜外国人居留地ホテル史」の同出版社の広告によれば、幕末より明治三十年代にかけての約四十年間に横浜外国人居留地には実に百二十のホテルがあったとあるからである。しかも実質的にはこの頃、居留地制限制度はなくなっていたから、前注で述べたように私はホテルもその周辺域に或いは広がっていたのではないかとも思われる。【2015年8月16日追記】上田和夫訳昭和五〇(一九七五)新潮文庫刊「小泉八雲集」年譜に、横浜到着後直ちに横浜のグランド・ホテルに、冒頭の献辞で本書を献じている、親友の女性ビスランド嬢の紹介になる横浜海軍病院勤務の米国海軍主計官ミッチェル・マクドナルドを訪問した、とある。このホテルはモースも泊った日本最初の本格的西洋式ホテルとして明治六(一八七三)年に創業した居留地二十番(現在の「人形の家」附近に相当)にあった。東京を目指してきた外国の要人は概ねここに宿泊するが、果たしてハーンがここに泊ったかどうかは、残念ながら、この『訪問』という語によって微妙である(これはそこに泊った訳ではないように読めるからである)。また詳しい事実が判明したら、追記する。

「舳の突つた船」和船の多くは舳が尖っていることを特徴とするが、ここで私が想起するのは荷船として江戸時代から東京湾で盛んに使用されていた押送船(おしおくりぶね/おしょくりぶね)と、江戸市中の水路の通行用に用いられていた猪牙舟(ちょきぶね)である。しかし前者は通常十メートルを有に越えるもので、ここでは護岸も整備されていない運河(既に述べた通り、私はこの川は元町に平行して流れる中村川ではないかと踏んでいる)に「澤山入込んでゐる」という描写から見て、猪牙舟ではないかと推理する。

「日本町」この訳では思わず勘違いしてしまうが、これは原文は“the Japanese city”であって、今の「日本大通り」であるとか、当時、こういう呼称の町があった訳ではない。旧外国人居留地は日本人居留地と明確に分けられていた雰囲気の名残を伝えているのである。また既に述べた通り、事実上、横浜の外国人居留地は早々と明治一〇(一八七七)年を以って廃されていた。ウィキの「横浜市」から引いておくと、『横浜村は幕府が設置した運上所(税関)を境に、以南を外国人居留地(横浜居留地)、以北を日本人居住区とした。境界には関所が置かれ、関所から外国人居留地側を関内、以外を関外と呼んだ。外国人居留地には、イギリスやフランス、ドイツやアメリカを中心とした各国の外国商館がたち並んだ。今に残る横浜中華街は、外国人居留地の中に形成された中国人商館を起源とする。一方』、日本人居住地は横浜町と名付けて五区域に分割し、『各区域に名主を置いて総年寄が町全体を統括した』。明治六(一八七三)年に横浜町は第一区一番組に編入され、翌明治七年六月十四日の大区小区制(旧来の地域の様々な問題を自治的に解決してきた町村を否定して中央の命令の伝達と施行のみを行う機関としてしまった極めて機械的な区画による地方制度であったために不評で、以下に見るように直ぐに廃止された。ここはウィキの「大区小区制」に拠った)により第一大区一小区となったが、四年後の明治十一年十一月の新しい郡区町村編制法に基づいて、第一大区が横浜区となり、『久良岐郡から分離して横浜区長が管轄することとされた』。そして明治二二(一八八九)年(年)四月一日に『市制が施行されると同時に横浜区は市となり、横浜市が誕生した』。まさにハーンが降り立ったのは、その丁度、一年後の明治二三(一八九〇)年四月四日のことだったのである(下線やぶちゃん)。ウィキによれば当時の市域面積は横浜港周辺の五・四平方キロメートルと面積は狭いものの、市制施行当時で既に戸数二万七千二百九戸、人口十二万千九百八十五人(明治二二(一八八九)年末当時)に達しており、その後、特に旧外国人居留地であった『関内地区は市政と商業の中心地として発展する』こととなったのである。

「樋嘴鬼瓦」「ひはしおにがはら」と読む。鬼瓦を指すが、原文は“gargoyles”そう、かの奇体な西洋建築の怪物を象った雨樋であるガーゴイルである。

「霎時」は「せふじ(しょうじ)」と読み、「暫時」に同じい。暫くの間。一寸の間。

「原文の朗朗誦すべき美」これは衍字ではなく、「らうらうしやうすべき(ろうろうしょうすべき)」であろう。

◎以下の「●」は訳者河合先生の「註」へ私の注である。なお、ここで先生が示された第一書房版小泉八雲全集(全十七巻)の各巻は著作権上の問題からと思われるが、孰れも国立国会図書館ではデジタル化がなされていない(近代デジタルライブラリーで視認出来るのは第一・三・八巻のみ。ただそれだけでも総てを電子化注するには恐ろしく時間が掛かる。嬉しい悲鳴ではある)おらず、私はこの全集を一巻も所持していないのでそれら自体をここに引用することは出来ない。――しかしだからと言って私はここで引き下がるつもりは――毛頭――ない。

●『「異國情趣と懷古のことども」の卷頭を飾れる「富士の山」の章の末段には、絕頂から見おろした黎明の巨峯の眺めが寫してある』八雲(既に帰化改名後二年)四十七歳の折りの富士山登頂記である。明治三〇(一八九七)年八月二十五日午前三時に登頂開始、午後四時四十分八合目の坊に泊って、翌二十六日の出立するシーンから、偏愛する平井呈一先生の訳(一九七五年恒文社刊「佛の畑の落穂 他」の「異国風物と回想」の「富士の山」最終の第七章全部を引用する。やや長いが、切り詰めてはエンディングの感動が伝わらないからである。くれぐれも全文を平井氏訳で読まれんことを強くお薦めしたいからでもある。なお、一フィートは約三十センチメートル、一マイルは一・六キロメートルで、「金明水」は「きんめいすい」と読み、富士山頂の火口北壁久須志(くすし)岳南西面に湧き出す霊泉である。

   《引用開始》

 

          七 

 

 午前六時四九分。――頂上に向かって出発。熔岩の塊がゴロゴロ転がっている中を行く。ここは登りの坂道での一ばんの難所だ。まっ黒な歯をむきだしているような、ざまの悪い岩くれの間を、右に折れ、左に曲がりして行く。ぬぎすてた草鞋の道は、さらに暗が広くなっている。五、六分行っては、ひと休みしなければならない。

 また長い斑雪のところへ来た。ガラスの玉みたいなその雪を、すこしばかり口に入れる。次の坊の半途の坊は閉(しま)っていた。九合目の坊もなくなっていた。……ふと自分は不安な気がしてきた。といっても、登ることではなく、それよりも、腰を下ろすことさえできないこの急な坂道を、どうしてまた降りてこられるか、それが心配だったのだ。案内者に聞くと、なに危いことはありませんよ、帰りはほかの道を行くんだから、と言う。なんでも昨日自分が驚嘆した、あの際涯もないザクザクした砂ばかりの、石ころのない「須走り」という所を、ひと走りに降るのだそうだ。

 突然、野鼠の群が足もとから飛びだした。うしろにいた強力が、すばやく一匹つかまえて、見せてくれるや自分は震えている小さな動物を手にとって、しばらく眺めてから放してやった。なんだかいやに白ちゃけた長い鼻つきをした奴だ。一体この水もない荒野に――しかもこんな高いところで――わけて雪の季節などには、どうして生きているのだろう? ここはもう、一万フィート以上の高さだ。強力に言わせると、野鼠は石の下にはえる草の根をさがすのだそうな。 

 

 道はいよいよでこぼこで、いよいよ嶮しい。ときどき自分だけは這いずらなければ攀じじ登ることができなかった。「賽の河原」などという、仏教の方でいう名前のついた恐ろしい所もあった。――よく来世を描いた仏画などに出てくる、子供の亡霊が積み上げた石みたいに、積み重なった岩ころがそこらに散乱して、あたり一帯が黄いろくなっている、いかにも荒れ果てた所であった。 

 

 一万二千フィートと少し。ここが頂上だ。時刻は午前八時二十分。――岩室(いわむろ)のようなものが幾つかある。鳥居があって、社がある。金明水という氷のような井戸。漢詩と虎を彫った石碑。そんなものを、むきだしな溶岩の壁がとりまいている。この壁は風を防ぐためのものらしい。それから大きな死火口がある。巾は四分の一マイルから半マイルぐらいで、縁(へり)の方は岩の屑で三、四百フィートぐらいまで浅くなっている。くぼんだところは、崩れかけた黄いろい壁の色さえ、なんとなく不気味に見える。焼け焦げたいろんな色の筋がはいって、汚れ返っている。例の草鞋の列は、この火口のところでついに終っている。恐ろしいようにニュッと突き出た黒い熔岩の尖ったのが、へんな傷あとが破れたとでもいうように、火口の両側に数百フィートの高さに幾つも聳え立っている。自分はそこへわざわざ上がってもみなかった。この尖った岩塊が、百里の霞をへだてて、春昼の空の恋々たる陽炎を通して眺めると、浄らかな蓮の花の蕾が今まさに咲きひらこうという、雪白の花びらに見えるのだ。今、その蓮華の花が燃えかすになった端っこのここに立って眺めると、まずこんな恐ろしい、無気味な、凶々しい、凄惨な場所が、またと世にあろうとは考えられもしない。

 しかしながら、この景――百里も見はるかすこの眺望、遠く微かな夢幻の世界の光、この世ならぬ仙界の朝の霧、巻き去り巻き来たる雲のあやしい姿――なべてこの景、いや、この景だけが、自分の労苦を慰め医してくれる。‥‥自分よりも先にお頂上をした巡礼達が、一ばん高い岩の上によじ登って、東の空に顔を向け、雄大な朝日を拝んで、神道流に柏手を打っている。‥‥この瞬間の詩情、大いなるこの詩情は、自分の心魂に深く沁(し)みとおった。つまり、自分の目の前にあるこの雄大な光景は、もはや消しも拭いもされぬ記憶となったのである。自分の知性が消滅し、眼が土と化してしまったのち、わが未生の遠い遠い昔に、同じく富士の頂上から朝日を拝んだ幾億の人々の眼が土に化したのと相交わるまで、この記憶は、一々その零細な点まで、けっして消滅することはあるまい。

   《引用終了》

では以下、当該箇所の原文を英文テクスト・サイト“Internet Archive”“Exotics and retrospectives”から引く。

   *

 

VII

 

   6 : 40 a. m. Start for the top. . . .Hardest and roughest stage of the journey, through a wilderness of lava-blocks. The path zigzags be tween ugly masses that project from the slope like black teeth. The trail of cast-away sandals is wider than ever. . . . Have to rest every few minutes. . . . Reach another long patch of the snow that looks like glass-beads, and eat some. The next station a half -station is closed ; and the ninth has ceased to exist. ... A sudden fear comes to me, not of the ascent, but of the prospective descent by a route which is too steep even to permit of comfortably sitting down. But the guides assure me that there will be no difficulty, and that most of the return -journey will be by another way, over the interminable level which I wondered at yesterday, nearly all soft sand, with very few stones. It is called the bashiri (" glissade ") ; and we are to descend at a run ! . . .

   All at once a family of field-mice scatter out from under my feet in panic ; and the goriki be hind me catches one, and gives it to me. I hold the tiny shivering life for a moment to examine it, and set it free again. These little creatures have very long pale noses. How do they live in this waterless desolation, and at such an altitude, especially in the season of snow?  For we are now at a height of more than eleven thousand feet! The goriki say that the mice find roots growing under the stones. . . .

   Wilder and steeper ; for me, at least, the climbing is sometimes on all fours. There are barriers which we surmount with the help of ladders. There are fearful places with Buddhist names, such as the Sai-no-Kawara, or Dry Bed of the River of Souls, a black waste strewn with heaps of rock, like those stone-piles which, in Buddhist pictures of the underworld, the ghosts of children build. . . .

   Twelve thousand feet, and something, the top ! Time, 8 : 20 a. m. . . . Stone huts ; Shinto shrine with torii ; icy well, called the Spring of Gold ; stone tablet bearing a Chinese poem and the design of a tiger ; rough walls of lava-blocks round these things, possibly for protection against the wind. Then the huge dead crater, probably between a quarter of a mile and half-a-mile wide, but shallowed up to within three or four hundred feet of the verge by volcanic detritus, a cavity horrible even in the tones of its yellow crumbling walls, streaked and stained with every hue of scorching. I perceive that the trail of straw sandals ends in the crater. Some hideous over-hanging cusps of black lava like the broken edges of a monstrous cicatrix project on two sides several hundred feet above the opening ; but I certainly shall not take the trouble to climb them. Yet these, seen through the haze of a hundred miles, through the soft illusion of blue spring-weather, appear as the opening snowy petals of the bud of the Sacred Lotos ! ... No spot in this world can be more horrible, more atrociously dismal, than the cindered tip of the Lotos as you stand upon it.

   But the view the view for a hundred leagues, and the light of the far faint dreamy world, and the fairy vapors of morning, and the marvellous wreathings of cloud: all this, and only this, consoles me for the labor and the pain. . . . Other pilgrims, earlier climbers, poised upon the highest crag, with faces turned to the tremendous East, are clapping their hands in Shinto prayer, saluting the mighty Day. . . . The immense poetry of the moment enters into me with a thrill. I know that the colossal vision before me has already become a memory ineffaceable, a memory of which no luminous detail can fade till the hour when thought itself must fade, and the dust of these eyes be mingled with the dust of the myriad million eyes that also have looked, in ages for gotten before my birth, from the summit supreme of Fuji to the Rising of the Sun.

   *

この最後の台詞の何と、厳かで美しいことだろう! 日本人である私はこんな風に感ずることが出来なくなっている私を限りなく哀しく思っていることを自白しておきたい。

●『「心」の第十章は、長き海外の放浪から歸朝の航路中にある日本の一靑年が、太平洋の甲板の上から望み見た富士を寫して、彼が國粹保存的精神に目醒めた決心を以て結んでゐる』これは一種の教養小説というか思想的哲学的な寓話小説である(面白いのは日本主義者の主人公の青年の富士山の描写が後に出るハーンが最初に見た富士の描写と美事にダブっている点である。是非、比較してお読み戴きたい。これはただ意識をスライドさせたのではない。この放浪の果てに故国日本の真の美、真の霊性を感得した青年こそが実は八雲その人であり、ハーンの自分探しの旅の帰結の一つがまさにこの主人公の青年自身の姿に宿っていることを物語っているのだと私は思っている)。やはり偏愛する平井呈一先生の訳(一九七五年恒文社刊「東の国から・心」の「心」の「ある保守主義者」最終の第八章全部を引用する。やや長いが、主意は前注と同じである。くれぐれも全文を平井氏訳で読まれんことを。なお、老婆心乍ら、「劃っている」は「くぎっている」と読む。

   《引用開始》

 

          八 

 

 雲ひとつない四月の朝まだき、まだ明けもやらぬ東雲(しののめ)の、物のかげさえおぼろに透いて見えるほの暗いなかに、かれはふたたび故国の山々を仰ぎ見た。――インクを流したような、暗たんたる海の環(わ)のなかから、紫をおびた薄墨色にそびえ立ち、空のかなたを高くくっきりと劃っている故山を、かれは眺めたのである。長い長い流浪の旅から、いま、かれを乗せて故国へいそぐ汽船のうしろには、刻一刻、バラ色の炎となって、しずかに染めなされて行く水平線があった。甲板の上には、すでにもう幾人かの外人たちが、太平洋の荒波の上から、富士の麗容をはじめて見ようとして、しびれを切らしながら待っていた。暁に見る富士の初すがたこそは、なんといっても、この世はおろか、あの世までも忘られぬ眺めの一つである。外人たちは、しばらくそうして、えんえんと連なる山なみに眺め入っていた。ほの暗い大空に、鋸の歯のような頂をもたげている山々のむこうには、よく見ると、まだ小さな星かげがかすかに光っているのが見える。――しかし、富士はまだ見えない。外人たちは、船員に尋ねてみた。すると、船員は、笑いながら答えた。1ああ、あなたがたは、目のつけどころが、低すぎるんですよ。もっと上を見てごらんなさい。もっと高いところを。」そこで、外人たちは、空のまんなかまで目を上げてみた。すると、曙のときめく色のなかに、あやしい幻の蓮(はちす)の葩(はな)がひらきでもしたような、うす桃色に色どられた大きな山頂が、はっきりと見えた。その壮観に打たれて、だれもかれも、しばらくのあいだは啞のように息をのんでいた。と見るうちに、万古の雪は、刻々に金色に変りだし、やがて真白になったと思ったときには、朝日はすでに水平線の弓の上にさし出て、瞬くうちに暗い山なみの上、いや、その上の星の上までも高くのぼったかと見るまに、さしかがやく旭光は、早くも頂上いっぱいに光りを投げかけていた。が、広い裾野は、まだよく見えない。そのうちに、夜はすっかり明けはなれて、ほのぼのとした浅黄いろの光りは、大空をひたし、物のあやめは深い眠りから目をさました。――やがて、船客たちの目のまえに、明るい横浜の港がひらけてきたころには、ふもとを雲にかくした霊峯は、無窮の青空高く、さながら雪の精もかくやとばかりに、四方の山々を圧して高だかとそびえ立っていたのである。

 「ああ、あなたがたは、目のつけどころが低い。もっと上を見よ。もっと高いところを。」――このことばは、妙にかの流浪者の耳朶(じだ)に残ることばだった。このことばの余韻は、いつまでもかれの耳の底に鳴りひびいて、なにか胸のなかにふくれ上がってくるような、抑えようとしても抑えきれない深い感情に、節とも何とも得体のつかぬ伴奏をかなでた。すると、たちまちいっさいが朦朧としてきた。目には、空に秀ずる富岳も見えず、その下の方に、青から緑にうす霞んでゆく山々も、湾内に群がる船舶のかげも、そのほか、近代日本を形づくるいっさいの物という物が、なにもかにも見えなくなってしまった。ただ、古い日本だけが、かれの眼底にありありと見えていた。におやかな春のかおりをのせて、陸から吹いてくるそよ風が面を吹きなで、血潮にふれると、長く閉されていた古い思い出のへやから、ふっと、かれが昔忘れ捨てようとしたいろいろの物のすがたが、ひょいひょいと飛び出してきた。もう亡くなってしまった人たちの顔が、ゆくりなくも、まぶたに浮かび上がり、長い年月を草葉のかげに送った人たちの声が、ふっと耳に聞こえてきた。かれはもういちど、父の屋敷にいたころの少年にかえり、そこの明るいへやからへやをうろうろ歩きまわり、畳の上に青い葉のかげが、ちらちら動いている日なたで遊び戯れ、山水を形どった庭先の、夢のように静かな木下闇の安らかさに、しみじみと眺め入る自分を見た。ちょこちょこ歩きのかれの手をひいてくれる母の、あの柔らかな手ざわりを感じながら、かれは邸内にあった小さなほこらの前にも行き、先祖の位牌の前にも立った。そして、ふといま新しい意味を見つけ出した、かの船員の言ったことばを、がんぜない子供の祈りごとでもまねるようにして、かれはおとなの唇で、もういちどつぶやいたのである。

   《引用終了》

以下、“KOKORO”の当該原文を引いておく。引用元は、“Project Gutenberg” “A CONSERVATIVE”である。

   *

 

VIII

 

   It was through the transparent darkness of a cloudless April morning, a little before sunrise, that he saw again the mountains of his native land,—far lofty 
sharpening sierras, towering violet-black out of the circle of an inky sea. Behind the steamer which was bearing him back from exile the horizon was slowly 
filling with rosy flame. There were some foreigners already on deck, eager to obtain the first and fairest view of Fuji from the Pacific;—for the first sight of Fuji at dawn is not to be forgotten in this life or the next. They watched the long procession of the ranges, and looked over the jagged looming into the deep night, where stars were faintly burning still,—and they could not see Fuji. "Ah!" laughed an officer they questioned, "you are looking too low! higher up—much higher!" Then they looked up, up, up into the heart of the sky, and saw the mighty summit pinkening like a wondrous phantom lotos-bud in the flush of the coming day: a spectacle that smote them dumb. Swiftly the eternal snow yellowed into gold, then whitened as the sun reached out beams to it over the curve of the world, over the shadowy ranges, over the very stars, it seemed; for the giant base remained viewless. And the night fled utterly; and soft blue light bathed all the hollow heaven; and colors awoke from sleep; —and before the gazers there opened the luminous bay of Yokohama, with the sacred peak, its base ever invisible, hanging above all like a snowyghost in the arch of the infinite day.

   Still in the wanderer's ears the words rang, "Ah! you are looking toolow!—higher up—much higher!"—making vague rhythm with an immense, irresistible emotion swelling at his heart. Then everything dimmed: he sawneither Fuji above, nor the nearing hills below, changing their vapory blue togreen, nor the crowding of the ships in the bay; nor anything of the modern Japan; he saw the Old. The land-wind, delicately scented with odors of spring, rushed to him, touched his blood, and startled from long-closed cells of memory the shades of all that he had once abandoned and striven to forget. He saw the faces of his dead: he knew their voices over the graves of the years. Again he was a very little boy in his father's yashiki, wandering from luminous room to room, playing in sunned spaces where leaf-shadows trembled on the matting, or gazing into the soft green dreamy peace of the landscape garden. Once more he felt the light touch of his mother's hand guiding his little steps to the place of morning worship, before the household shrine, before the tablets of the ancestors; and the lips of the  man murmured again, with sudden new-found meaning, the simple prayer of the child.

   *

なお、「ジャパネスク おらが富士」の『「富士山」逸話あれこれ』の「54. ラフカディオ・ハーンの富士山」には、本作の全体の構成と本シーンの持つ意味が、実にコンパクト、且つ、明瞭に解説されてあるので、一読をお勧めする。……さても私は……このエンディングの一種恐るべき眩暈の幻想に、何か胸をかきむしりたくなるようなある不思議な哀感と郷愁を覚えるのである。もう、決して、戻って来ない何ものかに対して……。

●『「日本への冬の旅」には、横濱港の沖から仰いだ富士』。これはハーンが日本に着いて最初に記した紀行文A WINTER JOURNEY TO JAPANの一節で、この記事は出版社ハーバー社特派員であったハーンが、実に、日本到着後、最初に手掛けた仕事として、本社へ送った記事であった(但し、この直後に同社の彼に対する不当な扱いへの不満からハーンは契約を破棄したことは既に書いた)。これは私の手元には邦訳がないのであるが、幸い、前注で引いた「ジャパネスク おらが富士」の『「富士山」逸話あれこれ』の「54. ラフカディオ・ハーンの富士山」に一九八〇年刊かと思われる恒文社の「ラフカディオ・ハーン著作集 第一巻」の「日本への冬の旅」(仙北谷晃一訳)の、洋上から美しい富士を描写したハーンの印象が引用されているのを見出した。孫引き乍ら、以下に引かせ貰う。

   《引用開始》

 まず、しみ一つない頂の部分が不思議な花の蕾(つぼみ)の尖端(せんたん)のように淡紅(とき)色に染まり、それから一面金色(こんじき)の混じった白色となる――やがて頂から真直(まっす)ぐ下へ延びる線が見えてくる――雨が急流となって流れ下った痕(あと)である。山全体が朝の光に包まれている――その下のくっきりと青い山脈がまだ一向に夜の眠りから醒(さ)めぬというのに。しかし日射(ひざ)しの明るさの中にあってさえ、その美しさは依然として霊的な清らかさと――妖(あや)しいまでの繊細さを失わない――その輪郭あるが故にようやく眼は、この山を形作っているのは白い霜の蒸気――何か淡い雲のようなものではないと納得がゆくのである。われわれは、その息を呑(の)むばかりの美しさに恍惚(こうこつ)となって見とれている。一方、日が昇ってすっかり穏やかになった海面は、徐(おもむ)ろに薄青色へと変わり始める。

   《引用終了》

これだけではあまりに引用元にも失礼であるし、注の体裁を成さぬ。そこでさらに検索してみた結果、英文電子テクスト・サイト“UNZ.org - Periodicals, Books, and Authors”で、まさにこのハーンの当時の記事“A Winter Journey to Japan by Lafcadio Hearn The Harpers Monthly, November 1890, pp. 860-867”を手に入れることが出来、この紀行文の第十四章の冒頭部分が、まさに訳文のそれであることが分かった。以下に富士山の名も記されてある前段をも含めて原文を引いておく。なお、これで引用元は勿論のこと、訳者の仙北谷氏からも許容され得る引用の体裁を整えられたと私は信ずるものである。

   *

XIV.

   …On deck at earliest dawn. It is cold and clear, with an immense wind still blowing. To starboard mountains rise blackly against the splendid rose flush of sunrise. To port, another long chain of hills is now visible,—superbly undulating, with saw points here and there—much nearer than the opposite land. Then with a delicious shock of surprise I see something for which I had been looking,—far exceeding all anticipation ——but so ghostly, so dream white against the morning blue, that I did not observe it at the first glance: an exquisite snowy cone towering above all other visible things — Fusiyama!   Its base, the same tint as 
the distances, I cannot see—only the perfect crown, seeming to hang in the sky like a delicate film,—a phantom.

   But with the rising glow of sunrise it defines: its spotless tip first pinkening like the point of some wondrous bud: then it becomes all gold-white; and streaks appear, sloping straight from the summit,—lines of rain torrents. It is all sun-wrapped—long before the keen blue ranges it overtops have yet emerged from the night. But even in the sun its beauty remains so spiritually pure,—so weirdly delicate,—that its lines alone assure the eye it is not made of white frost vapor,—some substance of cloud fleece. We keep watching it, entranced by its amazing loveliness, while the water, now smooth under sunrise, lightens slowly to a soft pale blue. Very swiftly we steam;—other mountains move backward; but that celestial cone remains always in the same place. . . .

   *]

2015/08/02

来日直後のハーン御用達の横浜の車夫「チア」(チャア)についての一考察

「私の車夫は『チヤ』といふ名である」原文は“ My kurumaya calls himself 'Cha.'”である。私はこれについて、ある推理がある。これは本当にこの車夫の名前なのだろうか? という素朴な疑問なのである。平井呈一氏は「チャア」と表記されておられしかも、原文に即して『わたくしの雇った俥(くるまや)は自分で自分のことを「チャア」と呼んでいる』と訳しておられる。「チア」や「チャア」から想像される名は、姓ならば「千屋」「千谷」「千野」「茅屋」であろうが、当時の車夫が自ら姓を名乗ることは私は考え難いと思っている。すると名や通称であるが、そうするとますます想像し難い。「茶之助」や「茶々丸」とかで「茶」、通称で「茶屋」「茶」などは一見ありそうにも見えなくはないが、寧ろ、私はどうも車夫の呼び名としては変な気がして退けたいのである。とすれば……これは実は姓でも名でも通称でもないのではないか? と思うのである。即ち、これは単に彼の一人称ではなかったか? というすこぶる素朴な疑問なのである。そもそも平井氏の訳を待つまでもなく、原文がそれを物語っているではないか? 私は三十三年間、神奈川で公立高校の教師をしていたが、生粋の横浜生まれの複数の同僚が、しばしば自分のことを「あっし」と呼ぶことを非常に面白いと思い続けてきたのである。しかもこの「あっし」は決してクリアなものではなく、もっと正確に音写するなら「アッシ」或いはもっと正確には「ァッシィ」と聴こえるものである。私はこのハーンの原文の“Cha”を見ていると、思わずこの“achi”がハーンには音としてかく聴こえたのではなかったか? と深く疑っているのである。大方の御批判を俟つものではある。

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (五)

 

       

 

 ここに北齋畫中の人物が往來してゐる。蓑笠をかぶり、草鞋をつけて、風と日に色赭くなつて、四肢を露はした百姓。それから忍耐强い顏をした母達が、微笑んだ裸坊主の赤ちやんを背に負ひ、下駄(騷騷しい音のする、高い木製の下駄)を穿いて、ちよこちよこ步いて行く。數へきれぬ不可思議な商品の間に坐つて、小さな眞鍮の煙管で、煙草吸ひ乍ら、商人らしいゆつたりした服を着けた商店の人々。

 それから私は人々の足が細くて恰好のよいことに氣がつく――百姓の褐色の裸色も、小さな小さな下駄をつけた子供の美しい足も、雪のやうな足袋を穿いた若い娘の足も。指狀をなせる白い足袋は、細く輕やかな足に、神話的の趣――牧神婦の足の白い裂けた美――を與へる。足袋をつけても、露はであつても、日本人の足には古代的均整がある。西洋人の足を畸形にした、憎むべき靴によつて歪められてゐないから。

 日本の下駄は一對每に、それぞれ步く人によつて、クリングといふ音がクラングといふ音と相異る位、少々異つた音を發する。だから、跫音の響には、音調の交互的な拍子がある。停車場のやうな舗道の上では、これが非常によく響いてくる。して、群衆が故意に步調を整へることがある。すると、最も可笑しい、のろのろした木質の音となる。

[やぶちゃん注:私は何時読んでも、この短い、ハーンの視覚と聴覚によるすこぶる幻想的な足への真正の美学としてのフェティシズムに、ふっと気を失いそうになるようなエクスタシーを感ずるのを常としている。「チョッパリ」以前にこんな不思議に美しい感覚があったのだなぁ……

「牧神婦」原文“fauness”。通常の英和辞典では出てこない。ファウヌスは古代ローマの森の半人半獣(一般には上半身が人で下半身が山羊)の精霊。ギリシア神話のパーンやサテュルスのイメージの方が馴染み深いか。]

 

Sec. 5

   Here are Hokusai's own figures walking about in straw raincoats, and immense mushroom-shaped hats of straw, and straw sandals—bare-limbed peasants, deeply tanned by wind and sun; and patient-faced mothers with smiling bald babies on their backs, toddling by upon their geta (high, noisy, wooden clogs), and robed merchants squatting and smoking their little brass pipes among the countless riddles of their shops.

   Then I notice how small and shapely the feet of the people are—whether bare brown feet of peasants, or beautiful feet of children wearing tiny, tiny geta, or feet of young girls in snowy tabi. The tabi, the white digitated stocking, gives to a small light foot a mythological aspect— the white cleft grace of the foot of a
fauness. Clad or bare, the Japanese foot has the antique symmetry: it has not yet been distorted by the infamous foot-gear which has deformed the feet of Occidentals. Of every pair of Japanese wooden clogs, one makes in walking a slightly different sound from the other, as kring to krang; so that the echo of the walker's steps has an alternate rhythm of tones. On a pavement, such as that of a railway station, the sound obtains immense sonority; and a
crowd will sometimes intentionally fall into step, with the drollest conceivable result of drawling wooden noise.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (四)

 

       

 

 旅行者が突然社會的變化の或る時期に遭逢すると――特に封建的過去から民本的現在ヘの變――美しい物の滅亡と新しい物の醜惡を殘念がる場合がある。私はこれから日本で美醜兩者のどんなものを發見するかを知らないが、今日この異國的な町町では、舊と新が非常によく混じて、相互に引立て合つてゐるやうである。和漢混淆の文字で印刷した新聞紙へ、世界各國の報道を齎らす小さな白い電信柱の列、謎の如き東洋の文句が、象牙のボタンに並んで貼られた茶亭の電鈴、佛師の店に隣つた米國製裁縫機械、草履屋と並んだ寫眞館、總べて是等のものが目障りになるほどの矛盾を呈しない。といふのは、西洋で發明した一一の見本が、如何なる繪にも適用の出來るかと思はれる東洋の額緣に嵌つてゐるからである。しかし少くとも最初の日には、異邦の旅客に取つては、舊いもののみが新しいのであつて、全然彼の注意を吸收する。して、日本風のものは一切纖細巧緻、歎賞に値することがわかる――表に小さな繪をかいた紙袋に人つてゐる、一對の普通の木箸や、三通りの色で文字を書いた包紙に卷いてある、一包の櫻の木の妻楊枝や、雀が飛んでゐる模樣が附いて、車夫が顏を拭くに用ゐる、小さな靑手拭さへもさうである。紙幣や極普通の銅貨も美的の品である。客の最後の買物をくくるため、商人が使用する組んだ色絲の切片さへ、綺麗な珍品たることを失はない。雅品珍什の夥多なること、人を驚かせる。右にも左にも何處へ眼を轉じても、まだ譯のわからぬ不思議なものの限が無い。

 が、それを眺めるのは危い。思ひ切つて眺めようとする度每に、何となく買はねばならぬやうになる――往往ある通り、微笑を含んだ商人が、一個一個は頗る望ましく、また全部は堪まらなく欲しいやうな、ある一品の非常に澤山な種類を見せて吳れるので、購賣心の衝動に對して我乍ら怖わくなつて、逃げだすこともあるが、それは例外である。店主は買ふやう請求しない。が、商品に魅力があつて、一たび買ひ始めると、破滅である。抵抗し難い藝術的安價品が無盡藏だから、安價は破產を招く誘惑となるばかりである。太平洋航路の最大の汽船にも、買ひたいものが積み盡せないだらう。それは旅客自身では、判然さう思つてゐないかも知れないが、眞に買ひたいのは一艘の舟に積み込む内容ではなく、商店も、商人も、反物や住民を含めて商店の町も、それから都會全體、それを繞る灣や山山、その上の晴空に懸つてゐる富士山の白皚皚たる美景、實を云へば、不思議な樹木と輝ける空氣、さまざまの都市社寺と、世界で最も愛らしい四千萬の人民を有する日本全部が欲しいからである。

 

 日本の大火事とを聞いや實際的な一米人が、『日本人は火事があつても介ひませんよ。費用のかからぬ建築ですから』と云つたのを聞いたことが、今私の頭に浮んでくる。成程、普通人民の脆い木造の家屋は、低廉に且つ急に代りが建てられるが、家屋の內を飾る品の代りは、またと出來ない。だから火事は、その都度藝術上の一悲劇である。といふのは、この國は手工品の無限な國であつて、(凡俗な市場に適するため劣等な趣味を外國から注文に及んで、それに應ずる場合は別として)まだ機械が安價な製品に千篇一律の同形と、實用一天張りの醜惡を注入し得ないので、美術家又は職人の作品は一個每にまた他人の作品とは異なつて居り、自分の別個の作品とも異つてもゐるからである。して、火事で或る立派なものが滅びる每に、ある一個人獨特な觀念を現したものが、無くなつた譯である。

 幸にもこの火事の多い國にて、藝術的衝動そのものが生命を有してゐて、代代の藝術家が死んだ後に生き殘つて、彼等の勞作を變じて灰にしたり溶かして形を無くしたりする火災に打克つてゐる。象徴の滅んだ觀念も多分一世紀も立つと、他の創作品の中にまた再現することとなる。尤も、修飾は加へてあるが、それでも明かに過去の思想と親類筋なのである。だから有らゆる藝術家は幽靈のやうな制作家である。多年暗中に模索したり、刻苦の犧牲を拂つて、最高の表現を發見するのではない。犧牲となつた過去が、作家の腦裡に潛んでゐる。彼の藝術は遺傳を承けたものである。彼の指は祖先に導かれて、飛ぶ鳥、山の霞、朝夕の色彩、枝の形狀、春の花の咲いた光景などを描くのである。代代の熟練した作家が彼にその巧妙を與へ、彼の傑作の中に復活するのである。初めは意識的努力であつたものが、後世に及んでは無意識的となり、現存作家の身に取つては、殆ど自働的となり、本能的藝術となる。だから、もとは一錢よりも安く賣られた北齋や廣重の一枚の浮世繪のうちに、日本の或る町內全部の價値よりも市價の高い幾多の西洋畫以上に、眞の藝術味の多いことがある。

[やぶちゃん注:「謎の如き東洋の文句が、象牙のボタンに並んで貼られた茶亭の電鈴」これは寧ろ、今となっては、原文の“an electric bell in some tea-house with an Oriental riddle of text pasted beside the ivory button”を読んだ方が、きっと誰もが問題なく意味がとれるのではなかろうか? このロケーションは、当時は超モダンであったに違いない、客間に仲居を呼び出すための電動のコール・ボタンが組み込んである新手の高級茶屋であって、その象牙の呼び鈴(りん)のすぐ横の空間に、同時に額か掛軸が掛かっており、そこには“riddle”、判じ物のように、全く読めぬ漢詩文の一節が書かれてある光景を言っているのであろう。

「白皚皚」老婆心乍ら、「はくがいがい」と読み、霜や雪或いは花などが極めて白いさまを言う。

「介ひませんよ」「かまひませんよ」と訓じているか。そのような訓は「介」自体にはないものの、例えば「介意(かいい)」「介懐(かいかい)」「介心(かいしん)」「介然」といった熟語には、気にかける・心配するの意がある。]

 

Sec. 4

   The traveller who enters suddenly into a period of social change— especially change from a feudal past to a democratic present—is likely to regret the decay of things beautiful and the ugliness of things new. What of both I may yet discover in Japan I know not; but to-day, in these exotic streets, the old and the new mingle so well that one seems to set off the other. The line of tiny white telegraph poles carrying the world's news to papers printed in a mixture of Chinese and Japanese characters; an electric bell in some tea-house with an Oriental riddle of text pasted beside the ivory button, a shop of American sewing-machines next to the shop of a maker of Buddhist images; the establishment of a photographer beside the establishment of a manufacturer of straw sandals: all these present no striking incongruities, for each sample of Occidental innovation is set into an Oriental frame that seems adaptable to any picture. But on the first day, at least, the Old alone is new for the stranger, and suffices to absorb his attention. It then appears to him that everything Japanese is delicate, exquisite, admirable—even a pair of common wooden chopsticks in a paper bag with a little drawing upon it; even a package of toothpicks of cherry-wood, bound with a paper wrapper wonderfully lettered in three different colours; even the little sky-blue towel, with designs of flying sparrows upon it, which the jinricksha man uses to wipe his face. The bank bills, the commonest copper coins, are things of beauty. Even the piece of plaited coloured string used by the shopkeeper in tying up your last purchase is a pretty curiosity. Curiosities and dainty objects bewilder you by their very multitude: on either side of you, wherever you turn your eyes, are countless wonderful things as yet incomprehensible.

   But it is perilous to look at them. Every time you dare to look, something obliges you to buy it—unless, as may often happen, the smiling vendor invites your inspection of so many varieties of one article, each specially and all unspeakably desirable, that you flee away out of mere terror at your own impulses. The
shopkeeper never asks you to buy; but his wares are enchanted, and if you once begin buying you are lost. Cheapness means only a temptation to commit bankruptcy; for the resources of irresistible artistic cheapness are inexhaustible. The largest steamer that crosses the Pacific could not contain what you wish to purchase. For, although you may not, perhaps, confess the fact to yourself, what you really want to buy is not the contents of a shop; you want the shop and the shopkeeper, and streets of shops with their draperies and their inhabitants, the whole city and the bay and the mountains begirdling it, and Fujiyama's white witchery overhanging it in the speckless sky, all Japan, in very truth, with its magical trees and luminous atmosphere, with all its cities and towns and temples, and forty millions of the most lovable people in the universe.

   Now there comes to my mind something I once heard said by a practical American on hearing of a great fire in Japan: 'Oh! those people can afford fires; their houses are so cheaply built.' It is true that the frail wooden houses of the common people can be cheaply and quickly replaced; but that which was within them to make them beautiful cannot— and every fire is an art tragedy. For this is the land of infinite hand- made variety; machinery has not yet been able to introduce sameness and utilitarian ugliness in cheap production (except in response to foreign demand for bad taste to suit vulgar markets), and each object made by the artist or artisan differs still from all others, even of his own making. And each time something beautiful perishes by fire, it is a something representing an individual idea.

   Happily the art impulse itself, in this country of conflagrations, has a vitality which survives each generation of artists, and defies the flame that changes their
labour to ashes or melts it to shapelessness. The idea whose symbol has perished will reappear again in other creations— perhaps after the passing of a century—modified, indeed, yet recognisably of kin to the thought of the past. And every artist is a ghostly worker. Not by years of groping and sacrifice does he find his highest expression; the sacrificial past is within 'him; his art is an inheritance; his fingers are guided by the dead in the delineation of a flying bird, of the vapours of mountains, of the colours of the morning and the evening, of the shape of branches and the spring burst of flowers: generations of skilled workmen have given him their cunning, and revive in the wonder of his drawing. What was conscious effort in the beginning became unconscious in later centuries—becomes almost automatic in the living man,—becomes the art instinctive. Wherefore, one coloured print by a Hokusai or Hiroshige, originally sold for less than a cent, may have more real art in it than many a Western painting valued at more than the worth of a whole Japanese street.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (三)

 

       

 

 私の車夫は『チヤ』といふ名である。大きな松茸の笠のやうな白い帽子を被つて、短い靑の濶袖の短衣と、緊衣の如くきちんと肌に合つて踝まで達した靑の股引を著け、輕い草鞋を棕櫚の纖維の紐で裸足にしめてゐる。彼は車夫仲間の有する、あらゆる忍耐と、巧みに機嫌を取る力を代表してゐるに相違ない。彼は既に私をして定則以上に拂はしむる能力を發揮した。然かも私は彼について用心するやう警告を受けても駄目であつた。人間が馬に代つて、梶棒の間へ身を入れて速步して、數時間も倦むことなく眼前で跳ね上つたり下つたりして吳れるといふ初めての感じだけでも、憐憫を惹起すに充分だからである。して、斯く梶棒の間で速歩し乍ら、希望、追憶、情操、理解力、總べて具備せるこの一個の人間が、最もやさしい微笑を有し、最少の厚意に酬ゆるに無限の感謝を見せる力を有した場合には、この憐憫は同情となり、犧牲に對する盲目的衝動を挑發する。その流汗淋漓たる狀も亦幾分この感情を促したことと思ふ。嘸ぞ動悸が打つたり、筋肉が萎縮するだらうし、また惡寒、充血、肋膜炎などに罹ることもあるだらうと、思はれるからである。車夫の著物は汗びつしよりになつてゐる。そして走るとき手首に卷きつけて持てる、竹の枝と雀の形を白に染め拔いた小さな蒼空色の手拭で顏を拭く。

 が、この車夫――動力としてでなく、人間として考へて――の性質で面白い點を、私共が小規模の町町を走つて行くとき、こちらへ向けられる澤山の顏の中にもずんずん認め出した。恐らく今朝の印象で最も愉快なのは、公衆の凝視が奇妙に優しいので生じた印象である。誰も物珍らしげに眺めるが、その凝視には何も不快なことは毫もない。況して敵意を含むどころか、微笑又は半ばの微笑が伴つてゐるのが最も普通である。それで結局、これらの親切な好奇的の顏と微笑は、旅人をして仙鄕を想はしめる。かう書くと、あまり陳腐常套を脫しないから、殆ど腹を立てる人もあるに相違ない。誰も彼も日本の第一印象を描くとき、土地をお伽噺の國だといひ、人民をお伽噺の國の人物だといふ。が、初めての試作として、これ以土精確に描寫することは殆ど不可能だから、描寫の語句の選擇が、斯く一致するのは自然の理である。一切が我我のものよりは小さく優美な規模で出來てゐる世界――すべての動作は悠長柔和で、聲音の閉靜な世界――地も人も天も、悉皆餘所とは似もつかぬ世界に、忽然自身を見出すといふことは、英國の昔噺ではぐくまれた想像に取つて、正しく一寸法師の國の古い夢の實現である。

[やぶちゃん注:「私の車夫は『チヤ』といふ名である」原文は“My kurumaya calls himself 'Cha.'”である。私はこれについて、ある推理がある。これは本当にこの車夫の名前なのだろうか? という素朴な疑問なのである。平井呈一氏は「チャア」と表記されておられしかも、原文に即して『わたくしの雇った俥(くるまや)は自分で自分のことを「チャア」と呼んでいる』と訳しておられる。「チア」や「チャア」から想像される名は、姓ならば「千屋」「千谷」「千野」「茅屋」であろうが、当時の車夫が自ら姓を名乗ることは私は考え難いと思っている。すると名や通称であるが、そうするとますます想像し難い。「茶之助」や「茶々丸」とかで「茶」、通称で「茶屋」「茶」などは一見ありそうにも見えなくはないが、寧ろ、私はどうも車夫の呼び名としては変な気がして退けたいのである。とすれば……これは実は姓でも名でも通称でもないのではないか? と思うのである。即ち、これは単に彼の一人称ではなかったか? というすこぶる素朴な疑問なのである。そもそも平井氏の訳を待つまでもなく、原文がそれを物語っているではないか? 私は三十三年間、神奈川で公立高校の国語教師をしていたが、生粋の横浜生まれの複数の同僚が、しばしば自分のことを「あっし」と呼ぶことを非常に面白いと思い続けてきたのである(無論、これは「わたし」「あたし」「わし」の派生的発音と思われるが)。しかもこの「あっし」は決してクリアなものではなく、もっと正確に音写するなら「ァッスィ」と聴こえるものである。私はこのハーンの原文の“Cha”を見ていると、思わずこの“achi”がハーンには音としてかく聴こえたのではなかったか? と深く疑っているのである。大方の御批判を俟つものではある。……いや、ツイッターでこれを語ったところ、「あしゃあ」の可能性を指摘され、思わず、あっ「チャア」! その方が無理ないかも、と思ったことも言い添えておこう。

 

Sec. 3

   My kurumaya calls himself 'Cha.' He has a white hat which looks like the top of an enormous mushroom; a short blue wide-sleeved jacket; blue drawers, close-fitting as 'tights,' and reaching to his ankles; and light straw sandals bound upon his bare feet with cords of palmetto- fibre. Doubtless he typifies all the patience, endurance, and insidious coaxing powers of his class. He has already manifested his power to make me give him more than the law allows; and I have been warned against him in vain. For the first sensation of having a human being for a horse, trotting between shafts, unwearyingly bobbing up and down before you for hours, is alone enough to evoke a feeling of compassion. And when this human being, thus trotting between shafts, with all his hopes, memories, sentiments, and comprehensions, happens to have the gentlest smile, and the power to return the least favour by an apparent display of infinite gratitude, this compassion becomes sympathy, and provokes unreasoning impulses to self-sacrifice. I think the sight of the profuse perspiration has also something to do with the feeling, for it makes one think of the cost of heart-beats and muscle-contractions, likewise of chills, congestions, and pleurisy. Cha's clothing is drenched; and he mops his face with a small sky-blue towel, with figures of bamboo-sprays and sparrows in white upon it, which towel he carries wrapped about his wrist as he runs.

   That, however, which attracts me in Cha—Cha considered not as a motive power at all, but as a personality—I am rapidly learning to discern in the multitudes of faces turned toward us as we roll through these miniature streets. And perhaps the supremely pleasurable impression of this morning is that produced by the singular gentleness of popular scrutiny. Everybody looks at you curiously; but there is never anything disagreeable, much less hostile in the gaze: most commonly it is accompanied by a smile or half smile. And the ultimate consequence of all these kindly curious looks and smiles is that the stranger finds himself thinking of fairy-land. Hackneyed to the degree of provocation this statement no doubt is: everybody describing the sensations of his first Japanese day talks of the land as fairyland, and of its people as fairy-folk. Yet there is a natural reason for this unanimity in choice of terms to describe what is almost impossible to describe more accurately at the first essay. To find one's self suddenly in a world where everything is upon a smaller and daintier scale than with us—a world of lesser and seemingly kindlier beings, all smiling at you as if to wish you well—a world where all movement is slow and soft, and voices are hushed—a world where land, life, and sky are unlike all that one has known elsewhere—this is surely the realisation, for imaginations nourished with English folklore, of the old dream of a World of Elves.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (二)

 

       

 

 表意文字が日本人の頭腦に作る印象は、字母或は字母の連結――聲音の漫然生氣なき符號――が、西洋人の頭腦に作るのとは、同樣ではない。日本人の頭腦に取つては、表意文字は躍如たる繪畫である。活きて、物を言ひ、身振りもする。然かも日本の町には、滿目かやうな活きた文字――絕叫して眼に訴へる字形、顏の如く微笑したり顰蹙したりする言語――が一杯である。

 我我の生命なき文字と比べて、かかる文字が如何なるものであるかは、極東に住んだ人によつてのみ理解される。日本文字或は支那から輸入された漢字の印刷文字では、同一の文字を碑文の裝飾として、彫刻用として、或は最も卑近の廣告用として、いろいろ變更修飾して書いた美しさに就て、暗示だも與へる事が出來ないからである。何等の窮屈な月並の規則が、書家や意匠家の空想を束縛しない。銘銘が他人に勝つて、その文字を立派にしようと努力する。して、世世の藝術家が茫乎たる大昔から、かく競爭的に骨折つてきたので、その長い世紀の倦まざる勉勵硏究によつて、原始的象形文字又は表意文字が、云ひやうなく美しいものに發達した。この文字はただ幾つかの筆畫から成立つてゐる。が、一畫毎に、優美、均整、微細な曲線に關して、端倪すべからざる祕法があつて、その文字を全く生かして見せ、また藝術家が揮毫の電光石火の瞬間さへ、その文字の頭から尾に至るまで、始終一樣に全字畫を通じて、理想的恰好の形を出さうと、筆を以つて摸索してゐたことを示す。しかし字畫の妙諦が全部ではない。字畫の連結する祕法こそ、魅力を生ずるものであつて、屢々本人自身をさへ驚倒させる。貴い名人が筆を揮つた文句が化身して、扁額から降りてきて、人間と言葉を交はしたといふ書道の不思議な傳說が存在するのは、實際日木文字の奇異に人格的な、生生した、祕傳的の方面を考へると、敢て怪むに足らぬ。

[やぶちゃん注:「何等の窮屈な月並の規則が、書家や意匠家の空想を束縛しない。銘銘が他人に勝つて、その文字を立派にしようと努力する。」逐語的には分かるが、どうも私は少し読解に足踏みしてしまう。私の偏愛する平井呈一先生の訳を見たい(一九七五年恒文社刊「日本瞥見記(上)」)。

   《引用開始》

肉筆文字といっても、もちろん、そこにはいろいろむずかしい厳密な方式があるわけだが、それでいて、そうしたむずかしい法式のために、それを書く書家や図案家が、自分の意想を束縛されるというような窮屈さはぜったいにない。そういう連中は、十人十色、各自が思い思いに、なんとかして自分の書く文字を、人のより美しいものにしたいと、おたがいがそのことに心をこめている。

   《引用終了》

すっきりと躓かずに読める。

「端倪」底本では「端」が(にんべん)であるが、表示出来ないので通用字とした。

「貴い名人が筆を揮つた文句が化身して、扁額から降りてきて、人間と言葉を交はしたといふ書道の不思議な傳說」確かに何かで読んだ記憶があるのだが、思い出せない。識者の御教授を乞うものである。]

 

Sec. 2

   An ideograph does not make upon the Japanese brain any impression similar to that created in the Occidental brain by a letter or combination of letters—dull,
inanimate symbols of vocal sounds. To the Japanese brain an ideograph is a vivid picture: it lives; it speaks; it gesticulates. And the whole space of a Japanese street is full of such living characters—figures that cry out to the eyes, words that smile or grimace like faces.

   What such lettering is, compared with our own lifeless types, can be understood only by those who have lived in the farther East. For even the printed aracters of Japanese or Chinese imported texts give no suggestion of the possible beauty of the same characters as modified for decorative inscriptions, for sculptural use, or for the commonest advertising purposes. No rigid convention fetters the fancy of the calligrapher or designer: each strives to make his characters more beautiful than any others; and generations upon generations of artists have been toiling from time immemorial with like emulation, so that through centuries and centuries of tire-less effort and study, the primitive hieroglyph or ideograph has been evolved into a thing of beauty indescribable. It consists only of a certain number of brush- strokes; but in each stroke there is an undiscoverable secret art of grace, proportion, imperceptible curve, which actually makes it seem alive, and bears witness that even during the lightning-moment of its creation the artist felt with his brush for the ideal shape of the stroke equally along its entire length, from head to tail. But the art of the strokes is not all; the art of their combination is that which produces the enchantment, often so as to astonish the Japanese themselves. It is not surprising, indeed, considering the strangely personal, animate, esoteric aspect of Japanese lettering, that there should be wonderful legends of calligraphy relating how words written by holy experts became incarnate, and descended from their tablets to hold. converse with mankind.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 序/(一)

[やぶちゃん注:それでは以下、第一章から順に電子化を行う。2015/06/17に記した冒頭注に記したことを再度述べておこう。

僕の得体の知れない不吉な塊を暫し忘れるため――カテゴリ「小泉八雲」を創始する。

孤独な私の愛する八雲――

その失われゆく日本の面影を日本人以上に愛おしんだ八雲――

最早、皆、忘れ去った霊の国日本を、誰よりも愛した八雲――のために――

 訳文の後に、“Project Gutenberg” “Hearn, Lafcadio, 1850-1904 ¶”の‘ Glimpses of unfamiliar japan ’のHTML版から、当該箇所の原文(必要と思われる原注は添えた。総ての注を示さなかったのは、有意な注は、日本の民俗を知らない読者へのものであるからであり、中には、ハーンが半可通で附した頭を傾げるようなものもあるからである。それは、後の小泉八雲に失礼となる、と思ったからでもある)を附した。但し、この電子化物は、原出版本(“Internet archive”のここで視認出来る)とは、体裁が異なる。本来なら、後者によって補正すべきであろうが、そうすると、恐ろしく時間が掛かるので、諦めた。それでも、気になった箇所は後者を参考に、修正してある。

 踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いで、横書には馴染まぬから、正字化し傍点「ヽ」は太字とした。明らかな誤字は、概ね、注して、訂してある。禁欲的に注を附した。  

 

   知られぬ日本の面影   上卷 

 

       第一章 私の極東に於ける第一日 

 

 日本について間もなく出逢つた親切な英國人の敎授が、『是非とも成るべく早く第一印象を書いておきなさい。すぐ散つて了ひますから。一度消えたが最後、また心に浮びませんよ。しかもこの國で、いろいろ奇異な感に打たれなさるでせうが、最初の印象ほど魅惑を與へるものはありますまい」と告げて吳れた。私は今當時の急いだ手控に據つて、第一印象を寫し出さうとしてみると、魅惑的と云はんよりは寧ろ漠として捕捉し難い方で、何か一種の思ひ出せないものが、追憶の中から雲消霧散したことがわかる。私は友情の籠つた勸告に隨はうと決心し乍らも、それを閉却してゐたのであつた。あの最初の數週間は、室內にじつとして筆に身を委ねる譯にゆかなかつた。日本の驚嘆すべき都會の日光を浴びた街頭には、見たり聞いたり感じたりすべきものが、まだ其際なかなか澤山であつたから。が、假令あの最初の經驗のあらゆる忘れた感想を復活し得るにしても、それを言葉に表し、書いて留めておくことが出來るか、どうか疑はしい。日本の始めての妙趣は薰香のやうに觸れ難く發散し易い。

 橫濱の外人居留地から、日本町の方へ初めて車に乘つて出掛けたのが、私に取つては日本の美に觸れた發端なのである。その車上の見物について思ひ出せるだけ、これから書く。

   譯者註。英國人の敎授といふのは、當時
   の東京文科大學御傭敎授チエムバリン氏
   を指す。

[やぶちゃん注:ハーンが横浜に到着したのは――明治二三(一八九〇)年四月四日――のことであった(当時彼はアメリカ合衆国の出版社ハーパー社の通信特派員としての来日であったが、自身の扱いと契約内容に不満を抱き、翌五月にこの契約は破棄している。その窮境を救ったのが、本書の冒頭で献辞されている横浜海軍病院勤務の米国海軍主計官ミッチェル・マクドナルド(一八五三年~一九二三年:彼を紹介したのは古くからのハーンの友人女性であったビスランド嬢であった。住吉神社公式サイト内の月刊『すみよし』の中の風呂鞏氏の『八雲と震災との切れぬ縁、また一つ』という記事に、彼は『ハーン没後も小泉家の遺稿並びに版権の管理人として対外的な連絡折衝に当たり、実の家族のように遺族の面倒をみた。まさに小泉家の恩人である。退役後は横浜グランドホテル社長に就任したが、一九二三年九月一日、関東大震災が発生。マクドナルドはホテルから一度は避難したものの、燃え上がるホテルの内部にアメリカ人女性が残されたらしいという噂を聞き、再び建物に戻り、そのまま帰らぬ人となった。享年七十一歳。遺体はその日のうちに米艦の乗組員たちの手で瓦礫の下から運び出され、そのまま米極東艦隊の軍艦に乗せられて本国に運ばれ、ワシントン郊外の国立アーリントン墓地に埋葬された。小泉家では、マクドナルド氏の供養を行い、浄院殿法興密英居士の戒名をもらい、先祖の諸霊とともに過去帳に記載し、今でも毎日お経をあげているという』とある)と、彼の紹介で知り合ったチェンバレン(次注参照)で、それに加えて、かつてアメリカでの記者時代に知遇を得ていて当時は文部普通学務局長の地位に就いていた服部一三(嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)の斡旋によって、島根県立松江中学校英語教師としての滞在が可能となったのであった(ここは主に新潮文庫昭和五〇(一九七五)年刊の上田和夫訳「小泉八雲集」の上田氏編の年譜に拠った)。

「英國人の敎授」落合氏の注にある通り、また本書刊行時の冒頭で献辞されている、イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)である(ハーンとは同い年であった)。ポーツマス近郊のサウスシー生まれ。参照したウィキの「バジル・ホール・チェンバレン」によれば、『彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり』、日本についての事典や文法書、「古事記」などの英訳、アイヌや琉球の研究でも知られる。『「王堂」と号して、署名には「チャンブレン」と書いた』。彼は若き日、『オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した』という(以下、アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。明治六(一八七三)年『五月二十九日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌一八七四年から一八八二年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。ついで一八八六年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、一八八八年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、一八九〇年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、一八九九年初版、一九〇五年第二版)などの多くの著作を発表した。"Things Japanese"の中で新渡戸稲造の著作BUSHIDOに触れているが愛国主義的教授(nationalistic professor)と批判的である。さらに彼はW.B.メーソンと共同で旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である"A Handbook for Travellers in Japan"(一八九一年)も執筆し、これは多くの版を重ねた』(「マレー」(John Murray)はイギリスの出版社。ダーウィンの「種の起源」を出版したことで私でさえも知っている当時の超弩級の出版元である)。『一九〇四年ごろから箱根の藤屋(富士屋)に逗留し近くに文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、一九一一年離日』し、この時、『東京帝大名誉教師となった。以降はジュネーヴに居住した。箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道をチェンバレンの散歩道と別称している』と記す。因みにまた、後にドイツに帰化した反ユダヤ主義の政治評論家で脚本家であったヒューストン・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain 一八五五年~一九二七年)は彼の末弟であり、彼は作曲家リヒャルト・ワーグナーの娘を妻としたことから、彼もワーグナー家と晩年、交流があったともある。

「橫濱の外人居留地」これは単なる通称呼称であって、かつての外国人の強い行動制限を伴いながら、特異的に治外法権とされた狭義の外国人居留地の謂いではない。長崎に次いで横浜もいち早く明治一〇(一八七七)年に日本側の行政権が回復して事実上撤廃されていた(但し、他の居留地は依然として継続され、全国の居留地が一斉に回収返還されるのは明治三二(一八九九)年を待たねばならなかった。ここはウィキの「外国人居留地」に拠る)。因みに、ハーンが日本に帰化し、小泉八雲と改名したのは明治二八(一八九五)年秋のことであった。] 

 

GLIMPSES OF UNFAMILIAR JAPAN by LAFCADIO HEARN 

Chapter One My First Day in the Orient

   'Do not fail to write down your first impressions as soon as possible,' said a kind English professor [Basil Hall Chamberlain: PREPARATOR'S NOTE] whom I had the pleasure of meeting soon after my arrival in Japan: 'they are evanescent, you know; they will never come to you again, once they have faded out; and yet of all the strange sensations you may receive in this country you will feel none so charming as these.' I am trying now to reproduce them from the hasty notes 
of the time, and find that they were even more fugitive than charming; something has evaporated from all my recollections of them—something impossible to recall. I neglected the friendly advice, in spite of all resolves to obey it: I could not, in those first weeks, resign myself to remain indoors and write, while there was yet so much to see and hear and feel in the sun-steeped ways of the wonderful Japanese city. Still, even could I revive all the lost sensations of those first experiences, I doubt if I could express and fix them in words. The first charm of Japan is intangible and volatile as a perfume.

   It began for me with my first kuruma-ride out of the European quarter of Yokohama into the Japanese town; and so much as I can recall of it is hereafter set
down.

 

 

        

 

 一切新しく面白くで堪まらないので、何處へでも到る處へ轉がり行けと示す狂氣じみた手眞似の外は、何も車夫には通じない。こんな風にして、初めて日本の町を通つて行くと、今肉眼でまのあたりに分かる如く、從來書物では讀み夢にも描いでゐたが、全然知らなかつた極東に來て居るのだといふ實感が、心地よい驚異を以て感ぜられる。このや〻平凡な事實を初めて充分に意識するのにさへ、幾分空想的な趣がある。しかし私に取つては今日の天氣が神神しいほど麗はしいので、何ともいへなくこの意識が美化されてゐる。日本の春の冷かさと。雪を戴いた圓錐形の富士山から吹く嵐の浪で、ひんやりした朝の空氣には、名狀し難い快味がある。これは何等目立つた色合よりも寧ろ最も柔かで明澄な性質によるらしい。異常に透明淸潔な空氣は、ただ少許の靑味を帶びたばかりで、極めて遠方にある物像も驚くばかりにくつきりと焦點に集まる。日光はただ心地よいほどの暖さで、人力車はこれほどこぢんまりとした小さな乘物はない。して、草鞋をつけた車夫の被つた、踊るやうな、白い、松蕈形の帽子越しに見える町の風景は、いくら眺めても飽きないと思はれるほどの誘惑を有つてゐる。

 一切のものが一寸法師らしく見える。靑い屋根を戴いた小さな家家、靑暖簾を吊つた小さな店頭、靑い著物をきて微笑を含んだ小さな人々など、人間と同樣に一切のものが、小さくて、奇異で、神祕的だからである。折折通つて行く丈の高い西洋人と、無茶な英語を使つた色々の廣告看板によつてのみこの幻覺は破壞される。が、かかる不調和は却て現實を高調するばかりで、決してこの可笑な小さな町の面白味を大層減じはしない。

 町の土手から下の方を見通すと、見渡す限り旗が飜へつたり、紺暖簾が搖れたりして、それに皆和漢の文字が害いであるので、美しく、また神祕に見える中に、最初は妙に面白い混亂があるだけである。それは、すぐ目につくやうな構造裝飾の法則がないからである。建物は一軒一軒獨自の架空的な美しさを有して、一つとして他のものにきつかり似寄つたものはなく、且つ皆途方もなく斬新である。しかし、その附近で一時間も過ごした後には、奇異な破風を有して、多くはペンキを塗らぬ生地そのままで、一階は全部街路に向つて開き、また薄く細長い屋根が店頭へ日庇のやらに前へ傾いて、後ろは障子の立つてゐる二階の小露臺にまで及んでゐる、是等の低い、輕さうな木造の家の構造には、ある一般的方式のある事が漠然とわかつてくる。街路面より可なり高くした床に疊を敷いた小店の普通の樣式も、理解されてくるし、表號の文宇は、暖簾の上に浮動してゐるのも、金や漆で塗つた看板面に光つてゐるのも、一般に垂直の排列である事が悟られる。大概の服裝に於て優勢を占めてゐる紺色は、商店の暖簾に於ても矢張り大部分を占めてゐるのが目に立つ。尤も、晴やかな靑や白や赤(綠と黃はない)など、他の色もちよいちよい見える。それから勞働者の衣服にも暖簾と同樣、不思議な文字が書いてあるのが目につく。どんな唐草模樣でも、これ程の趣が出るもので無い。裝飾上幾分恰好を更へて書いた是等の文字には、一切意味を有せざる意匠圖案に於ては、とても見られぬ躍如たる均齊がある。職人の法被の背中で、紺地に眞白く、且つ遠くからでもよく讀める程、大きく文字が現れてゐると、(その法被を著た人が、或る組合員だとか、會社の使用人であるとかを示して)粗末な安い衣服も派手な技巧的の趣を呈する。

 して、最後に、まだ事物の神祕に首をひねつてゐる內に、これらの町町の不思議な美麗さの大部分は、全く白、黑、靑又は金色で、一切のものを――玄關柱や障子の表面さヘ――飾れる漢字と日本字が、充滿橫溢してゐるに基くといふ事が、濶然開悟されてくるだらう。恐らくはその刹那、乙れらの魔力的文字に代ふるに英字を以てした結果が、想像に上る事もあるだらう。すると、少しでも審美情操を有する人は、それを思つただけでさへ、殘忍なる激動を感ずる事であらう。して、私と同じく、羅馬字會――日本語を書くに英字を使用するといふ、醜惡なる實利のため創められた會――の敵となるだらう。

[やぶちゃん注:「羅馬字會」明治一八(一八八五)年にローマ字を推進する団体として矢田部良吉・外山正一らによって「羅馬字会(ろーまじかい)」が創立され、二年後の明治二十年頃には会員数七千人を越え、同年四月には綱領(ローマ字書き)が決定されて六月からは機関誌『Rōmaji Zassi』(月刊)が発刊されている。明治三八(一九〇五)年にはローマ字論者の大同団結を図る組織として「ローマ字ひろめ会」(RHK)が組織され、当初、綴りは会員各人の自由とされたが、その後、会としてヘボン式を正式に採用した。なお、参照したウィキローマ字論には最後に、『第二次大戦後に日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は』、昭和二一(一九四六)年三月三十日に『アメリカ教育使節団に日本の教育改革案第一次教育使節団報告書を作成させた。そこには日本語に使用される文字数(特に漢字)が異常に多いために日本語の習得は困難であり、それは日本の民主化を遅らせると考え、文字数を減らすために日本語の主たる表記をローマ字とすべきだと主張した。当時の新聞社にも賛成の者が多かった。印字が楽になるからである。その後、GHQ/SCAPは日本の識字率の調査を行ったが、識字率が高かったため、結局ローマ字論は実行に移されなかった』とある。身の毛もよだつとは、このことを言う。因みに「公益社団法人日本ローマ字会は現在も健在である。] 

 

Sec. 1

   It is with the delicious surprise of the first journey through Japanese streets—unable to make one's kuruma-runner understand anything but gestures, frantic gestures to roll on anywhere, everywhere, since all is unspeakably pleasurable and new—that one first receives the real sensation of being in the Orient, in this Far East so much read of, so long dreamed of, yet, as the eyes bear witness, heretofore all unknown. There is a romance even in the first full consciousness of this rather commonplace fact; but for me this consciousness is transfigured inexpressibly by the divine beauty of the day. There is some charm unutterable in the morning air, cool with the coolness of Japanese spring and wind-waves from the snowy cone of Fuji; a charm perhaps due rather to softest lucidity than to any positive tone—an atmospheric limpidity extraordinary, with only a suggestion of blue in it, through which the most distant objects appear focused with amazing sharpness. The sun is only pleasantly warm; the jinricksha, or kuruma, is the most cosy little vehicle imaginable; and the street-vistas, as seen above the dancing white mushroom-shaped hat of my sandalled runner, have an allurement of which I fancy that I could never weary.

   Elfish everything seems; for everything as well as everybody is small, and queer, and mysterious: the little houses under their blue roofs, the little shop-fronts hung with blue, and the smiling little people in their blue costumes. The illusion is only broken by the occasional passing of a tall foreigner, and by divers shop-signs bearing announcements in absurd attempts at English. Nevertheless such discords only serve to emphasise reality; they never materially lessen the fascination of the funny little streets.

   'Tis at first a delightfully odd confusion only, as you look down one of them, through an interminable flutter of flags and swaying of dark blue drapery, all made beautiful and mysterious with Japanese or Chinese lettering. For there are no immediately discernible laws of construction or decoration: each building seems to have a fantastic prettiness of its own; nothing is exactly like anything else, and all is bewilderingly novel. But gradually, after an hour passed in the quarter, the eye begins to recognise in a vague way some general plan in the construction of these low, light, queerly-gabled wooden houses, mostly unpainted, with their first stories all open to the street, and thin strips of roofing sloping above each shop-front, like awnings, back to the miniature balconies of paper-screened second stories. You begin to understand the common plan of the tiny shops, with their matted floors well raised above the street level, and the general perpendicular arrangement of sign-lettering, whether undulating on drapery or glimmering on gilded and lacquered signboards. You observe that the same rich dark blue which dominates in popular costume rules also in shop draperies, though there is a sprinkling of other tints—bright blue and white and red (no greens or yellows). And then you note also that the dresses of the labourers are lettered with the same wonderful lettering as the shop draperies. No arabesques could produce such an effect. As modified for decorative purposes these ideographs have a speaking symmetry which no design without a meaning could possess. As they appear on the back of a workman's frock—pure white on dark blue—and large enough to be easily read at a great distance (indicating some guild or company of which the wearer is a member or employee), they give to the poor cheap garment a fictitious appearance of splendour.

   And finally, while you are still puzzling over the mystery of things, there will come to you like a revelation the knowledge that most of the amazing
picturesqueness of these streets is simply due to the profusion of Chinese and Japanese characters in white, black, blue, or gold, decorating everything—even surfaces of doorposts and paper screens. Perhaps, then, for one moment, you will imagine the effect of English lettering substituted for those magical characters; and the mere idea will give to whatever aesthetic sentiment you may possess a brutal shock, and you will become, as I have become, an enemy of the Romaji-Kwai—that society founded for the ugly utilitarian purpose of introducing the use of English letters in writing Japanese.

2015/08/01

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(二四) / 了


      二四

 

 庚申の繪を買ふことが出來ないか知らんと、私は思つた。大抵の日本の社寺では、祭神や本尊の小さな畫――安價な、薄い紙に印刷したものが參詣者に賣られる。が、こ〻の番人は絕望の身振りを以て、庚申の畫を賣つてゐないことを私に告げた。たゞ庚申を畫いた一幅の古い掛物があるから、見たいならば、歸つて持つてくるとのことであつた。私はそれを依賴した。して、彼は街へ走つて行つた。

 彼の歸つてくるのを待ち乍ら、私は猶も續いて憂欝と欣喜の混じた感を以て、奇異な古い像を調べて見た。古文書學者と考古學者の苦心に賴つてのみ古代の信仰を硏究し愛好し、旦つ一種自身の經驗からは、天文學的に遠隔なものと考へてゐた人が、突然その信仰が自身の人間的環境の一部となつてゐることを發見し――その神話は老いつ〻あるにせよ、自身の周圍に生きてゐることを感ずるのは、殆ど浪漫的作家の夢を實現したことであり、二千年を越えて、今よりも更に幸福であつた世界の生活へ歸つて行く感を味ふことであつた。何となれば、是等の奇異な道路の神や、地の神は磨滅し、苔蒸し、拜む人も稀ではあるが、實際まだ生きてゐるからである。少くともこの刹那、私は實に舊世界――恐らくは丁度、原始信仰が少々古風じみてきて、新哲學の侵蝕的勢力に徐々と崩される頃の時代に居つた譯なのだ。して、私自身は今猶ほ是等の單純なる古い神々、民族の幼稺時代の神々を愛する異敎徒なのであつた。

 是等の飾り氣なき、醜い形の神々に對しては、人間愛の必要がある。美しい神々はそれを佛敎藝術に理想化した女性的優美のため、永遠に生きるだらう。觀音と辨天は永久だ。人間の助を要しない。彼等は堂塔伽藍が、この庚申堂の如くに、人聲も聞えず、僧侶も無くなつた時にも依然として恭敬を博するだらう。が、幾多の惱める心に小安を與へ、幾多の淳樸なる人々を欣ばしめ、幾多の無邪氣なる祈願を聞入れた是等の親切で、奇怪な、飾り氣なき、朽ちつ〻ある神々――所謂進步の法則や、駁し難き進化の哲學がどうであらうとも、私は是等の人生に對して惠み深き神々の壽命を何んなに延ばしたく思ふこと! 

 番人は掛物を持つて戾つてきた。小さな、塵だらけの、古びて黃ばんだ掛物で、千年も經つたものらしい。が、それを繙いて失望した。紙面にはたゞ庚申の普通の畫――輪廓だけのものがあつた。して、それを觀てゐる內に、私は始めて周圍に群集が來てゐることに氣が付いた――野良仕事から來た、親切さうな、日に燒けた顏の百姓共、赤ん坊を背負つたお母さん達、小學校の子供、車夫などが、皆外人がどうしてこんなに、彼等の拜む神々に興味を感じてゐるのかと不審がつてゐるのだつた。そして、周圍からの壓度は極めて柔かで、恰も生温い水が身に當るやうなものであつたが、私は幾分當惑した。私は古い軸を番人に返へし、献金してから、庚申さまと、その善良なる番人に別れを告げた。

 すべての親切さうな尻上がりの眼が、私の去るのを見送つた。して、この鏡のない神壇、色褪せた提燈、廢頽せる境內の朽ち行く像を有する、空虛な、塵だらけの、崩壞しかけた社祠と、それから、黃ばんだ軸を手に持ち乍ら、私の後影を見守りつ〻ある親切な番人を、私が斯くも遽かに見捨てて去つて行くときに、一種悔恨の情に襲はれた。機關車の汽笛が丁度列車に間に合ふだけ、時間のあることを警告した。それは西洋文明が鐡道網で、すべてこの原始的平和を征服してゐるからである。哀れ庚申の神よ、これは汝の道路ではなくなった! 往昔の神々は、西洋交明が石炭の殘灰を撒き散らす路傍で、死に瀕しつ〻あるのだ。

[やぶちゃん注:私のこの終章をある種、内心の忸怩たる思いとともに、偏愛するものである。因みに、最後に彼が別れを告げて乗車するのは藤沢駅である。

「幼稺」幼稚。

「淳樸」純朴。

「彼等の拜む神々に興味を感じてゐるのか」底本は「彼等の拜む神々に興味をを感じてゐるのか」。衍字と断じ例外的に「を」を除去した。

「遽かに」老婆心乍ら、「にはかに」と読む。] 

 

Sec. 24

   I wonder if I can buy a picture of Koshin. In most Japanese temples little pictures of the tutelar deity are sold to pilgrims, cheap prints on thin paper. But the temple guardian here tells me, with a gesture of despair, that there are no pictures of Koshin for sale; there is only an old kakemono on which the god is represented. If I would like to see it he will go home and get it for me. I beg him to do me the favour; and he hurries into the street. 

   While awaiting his return, I continue to examine the queer old statues, with a feeling of mingled melancholy and pleasure. To have studied and loved an ancient faith only through the labours of palaeographers and archaeologists, and as a something astronomically remote from one's own existence, and then suddenly in after years to find the same faith a part of one's human environment,—to feel that its mythology, though senescent, is alive all around you—is almost to realise the dream of the Romantics, to have the sensation of returning through twenty centuries into the life of a happier world. For these quaint Gods of Roads and Gods of Earth are really living still, though so worn and mossed and feebly worshipped. In this brief moment, at least, I am really in the Elder World—perhaps just at that epoch of it when the primal faith is growing a little old-fashioned, crumbling slowly before the corrosive influence of a new philosophy; and I know myself a pagan still, loving these simple old gods, these gods of a people's childhood.

   And they need some human love, these naive, innocent, ugly gods. The beautiful divinities will live for ever by that sweetness of womanhood idealised in the 
Buddhist art of them: eternal are Kwannon and Benten; they need no help of man; they will compel reverence when the great temples shall all have become 
voiceless and priestless as this shrine of Koshin is. But these kind, queer, artless, mouldering gods, who have given ease to so many troubled minds, who have gladdened so many simple hearts, who have heard so many innocent prayers—how gladly would I prolong their beneficent lives in spite of the so-called 'laws of progress' and the irrefutable philosophy of evolution!

   The guardian returns, bringing with him a kakemono, very small, very dusty, and so yellow-stained by time that it might be a thousand years old. But I am 
disappointed as I unroll it; there is only a very common print of the god within—all outline. And while I am looking at it, I become for the first time conscious that a crowd has gathered about me, -tanned kindly-faced labourers from the fields, and mothers with their babies on their backs, and school children, and jinricksha men, all wondering that a stranger should be thus interested in their gods. And although the pressure about me is very, very gentle, like a pressure of tepid water for gentleness, I feel a little embarrassed. I give back the old kakemono to the guardian, make my offering to the god, and take my leave of Koshin and his good servant.

   All the kind oblique eyes follow me as I go. And something like a feeling of remorse seizes me at thus abruptly abandoning the void, dusty, crumbling temple, with its mirrorless altar and its colourless lanterns, and the decaying sculptures of its neglected court, and its kindly guardian whom I see still watching my 
retreating steps, with the yellow kakemono in his hand. The whistle of a locomotive warns me that I shall just have time to catch the train. For Western 
civilisation has invaded all this primitive peace, with its webs of steel, with its ways of iron. This is not of thy roads, O Koshin!—the old gods are dying along its ash-strewn verge!

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(二三)

 

       二三

 

 恐らくは斯道に通ぜざる人々の目には、是等の多頭多手の神佛は、初めは――いつも基督敎的頑迷の目に映ずる通り――たゞ奇怪とのみ見えるだらう。が、一切の宗敎の中に神性を感ずる人に、彼等の意味がわかつてくるときには、彼等は東洋及び東洋思想を毫も解せざる人々が思ひもよらぬほどに强く、一段高尙なる審美主義、精神的美感に訴へ來ることが見出三れるだらう。私に取つて千手觀音の像は、彼女の名を有する、如何なる他の人間的な愛らしさを理想化せる像――『無量』、『莊嚴』、『平安』或ひは一片の蓮の花瓣にて作れる紅い舟に采つて、月の照らす水上を駛せ行く『白い水月』でさへ――にも劣ることなく立派なものと思はれる。して、三重の頭ある釋迦に於ては、私はかの幾つもの太陽が共同して照らす如くに、三世の世界を照らす眞理の偉力を認めて尊敬する。

 が、すべての神佛の名と性質を覺えようとするのは無駄である。彼等は自分で增加して來て、恰も硏究者を愚弄するやうに見える。大慈大悲觀音は百觀音として現れ、六地藏は千地藏となる。して、彼等は穿鑿に先んじて增加するから、形が變つてくる。この東洋的爲信仰の幻影は、流水よりも多樣、複雜、捕捉し難い。その中へ、宛然無底の海中への如く、印度、支那、及び遠東から、神話が續々と落ち込んで吸收されて了つた。して、その深淵を覗き込む西洋人は、アンデイーンの物語に於ける如く、波のうねり每に、或は凄く、或は美しく、或は怖ろしさうな顏の出沒隱見する水流を眺めたやうな氣になる――不可解的に入り替り、入り混じり乍ら、しかも永遠に宇宙萬物を作つては、また作りかへる無限未知力、變幻自在を表す萬象の海――最も古い無邊の海――の岸に立つたやうに覺える。

   譯者註。アンデイーンは水の妖精。 

[やぶちゃん注:この章、本邦独特の習合によるシンクレティズム(混淆主義)を、簡潔に、しかも、美事に語っていると私は思う。
 
「駛せ行く」「はせゆく」と読む。走らせて行くの意。

「アンデイーン」原文“Undine”でお分かり戴けると思うが、ドイツ語の「ウンディーネ」、私の偏愛するフーケの小説で知られるそれである。英語も同じ綴りであるが音写すると「アンダイン」或いは「アンディーン」となる。ウンディーネは、ヨーロッパ中世の神話の中に登場する(恐らくはそれ以前の非キリスト教的な土俗的なアミニズムの世界に生きていたであろう存在)四つの精霊(地・水・風・火の四大元素の中に住まうとされる不可視の自然の生きもの)の内で水を司るとされた精霊である。ウィキ「四精霊(同じウィキウンディーネ」よりも概説に関してはこちらの方が私はうまく書かれていると思うのでこちらを採った。アラビア数字を漢数字に代えた)によれば、『水の精。パラケルススの『妖精の書』によればニンフともいう。 名はラテン語の unda (波)と女性形の形容詞語尾 -ine から来ており、「波の乙女」「波の娘」というほどの意味』。イギリスの美術史家でオカルティズムの研究で知られる『フレッド・ゲティングスによれば、別名はニンフであり』、神智学で言う目に見えないアストラル界(幽界)の『住民で、霊視者には虹色に輝く体に見えるという』。『基本的に人間と変わらない容姿であるとされ、人間と結婚して子をなしたという伝説も多く残されている。『妖精の書』によれば、形は人間に似るが魂がなく人間の愛を得てようやく人間と同じく不滅の魂を得るとされる。しかし、水の近くで男に罵倒されれば水中に帰らねばならず、夫が別の女性に愛を抱くと夫を必ず殺さねばならないなど、その恋には制約が多い。シュタウフェンベルクの男が水の精と婚約したが、次第に婚約者を疎ましく思うようになり別人と結婚式を挙げたせいで水の精の呪いで死んだという話が『妖精の書』に紹介されている。この伝説が元になった創作物で騎士フルトブラントとウンディーネの悲恋を描いたフーケの小説『ウンディーネ』が有名で、ウンディーネを題材にした作品にはこの小説をもとに書かれたものが多い。派生作品のうち主なものだけでも、ジャン・ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』、ホフマンの歌劇『ウンディーネ』、チャイコフスキーの歌劇『ウンディーナ』、ボードレールに絶賛されたベルトラン(フランス語版)の詩集『夜のガスパール』のうちの一篇の散文詩「オンディーヌ」、前記の詩集をイメージしたラヴェルのピアノ曲『夜のガスパール』第一曲「オンディーヌ」、ドビュッシーのピアノ曲『プレリュード』第二集第八曲「オンディーヌ」、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ作曲、フレデリック・アシュトン振り付けのバレエ『オンディーヌ』などがある』。『主題として扱われてはいないが、その他の文学作品にもしばしば登場している。ゲーテの『ファウスト』では、ファウストの呪文に登場。ポープの『髪盗人』では、心優しい女性が死ぬとウンディーネになるとされ、ヒロインである少女ベリンダの守護精霊として登場している』とある。]

 

Sec. 23

   Perhaps to uninitiated eyes these many-headed, many-handed gods at first may seem—as they seem always in the sight of Christian bigotry—only monstrous. But when the knowledge of their meaning comes to one who feels the divine in all religions, then they will be found to make appeal to the higher aestheticism, to the sense of moral beauty, with a force never to be divined by minds knowing nothing of the Orient and its thought. To me the image of Kwannon of the Thousand Hands is not less admirable than any other representation of human loveliness idealised bearing her name—the Peerless, the Majestic, the Peace-Giving, or even White Sui-Getsu, who sails the moonlit waters in her rosy boat made of a single lotus-petal; and in the triple-headed Shaka I discern and revere the mighty power of that Truth, whereby, as by a conjunction of suns, the Three Worlds have been illuminated.

   But vain to seek to memorise the names and attributes of all the gods; they seem, self-multiplying, to mock the seeker; Kwannon the Merciful is revealed as the Hundred Kwannon; the Six Jizo become the Thousand. And as they multiply before research, they vary and change: less multiform, less complex, less elusive the moving of waters than the visions of this Oriental faith. Into it, as into a fathomless sea, mythology after mythology from India and China and the farther East has sunk and been absorbed; and the stranger, peering into its deeps, finds himself, as in the tale of Undine, contemplating a flood in whose every surge rises and vanishes a Face—weird or beautiful or terrible—a most ancient shoreless sea of forms incomprehensibly interchanging and intermingling, but symbolising the protean magic of that infinite Unknown that shapes and re-shapes for ever all cosmic being.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(二二)

 

       二二

 

 庚申の神社は、村の中央に位し、本道に面し境內にある。古い木造の祠は、塗つてなく、荒廢してゐて、世に捨てられ、風雨に打たれたものにあり勝な色を帶びてゐる。番人を搜してから漸つと、戶を開けることが出來た。こ〻には障子でなくて戶がある。古い戶を蝶番ひに依つて囘はすとき、眠たげな音が呻りを發した。して、靴を脫ぐに及ばなかつた。床は疊なく、塵に蔽はれて、入つてきた足の慣れぬ重さに軋つて響いた。內部はぼろぼろになつて、腐朽磨滅してゐる。神棚には像はなく、たゞ神道の象徴だけで、みじめな提燈は昔の輝いた色も塵に褪せ、文字も判明しない。金屬製の鏡の圓い枠はあつても、鏡は無い。何處へ失せて行つたのだらう? 番人は『今この社には神官はゐません。鏡は夜間盜まれてはと思つて、かくして置きました』と語つた。私は庚申の像のことを尋ねた。それは六十一年目每に開帳するので、見る譯にゆかないが、他にまだ庚申の諸像が境內にあるとのことであつた。

 私はそれを見るために行つた。街道のと非常によく似たのが、列んでゐた。が、もつと善く保存されてゐた。一個これまで見たのと異つた庚申の像があつた。僧正の冠の如く高い印度風結髮から判斷すると、明かに印度式製作である。三つの目を有し、一つの目は額の中央にあつて、橫でなく、縱に開けてゐる。六本の手を有し、一本は猿を支へ、一本は蛇を握り、他の手を以て象徴的のもの――車輪、刀劍、數珠、笏板を捧げてゐる。して、蛇が手首や足首に捲きついて、脚下に天邪鬼、時には『うたてさ』と呼ばる〻鬼の奇怪なる頭を敷いてゐる。臺座の面には三匹の猿が彫られ、また三重冠の前面にも一匹の猿の顏が現れてゐる。

 私はまた庚申の名だけを刻める、幾つかの寄進の石碑を見た。附近の木造の小祠には、地の神、堅牢地神の像があつた。灰色になつてゐて、原始的漠然たる製作で、片手に槍を持ち、片手に何とも識別し難いものを容れた器を持つてゐる。

[やぶちゃん注:「二〇」章の私の注で述べた理由によって本注の大部分をペンディングする。詳しくは、そちらをお読み戴きたい。悪しからず。なお、私は庚申塔を見れば、必ず、観察しなければ気が済まない人間である。されば、一般人よりはよく見、よく知る。従って、庚申信仰に関わる細かな注などは附さない。不親切とも思われようが、やりだしたらきりがなく、その分、テクスト作業も遅滞する。こちらも悪しからず、である。

「一個これまで見たのと異つた庚申の像があつた。僧正の冠の如く高い印度風結髮から判斷すると、明かに印度式製作である。三つの目を有し、一つの目は額の中央にあつて、橫でなく、縱に開けてゐる。六本の手を有し、一本は猿を支へ、一本は蛇を握り、他の手を以て象徴的のもの――車輪、刀劍、數珠、笏板を捧げてゐる。して、蛇が手首や足首に捲きついて、脚下に天邪鬼、時には『うたてさ』と呼ばる〻鬼の奇怪なる頭を敷いてゐる。臺座の面には三匹の猿が彫られ、また三重冠の前面にも一匹の猿の顏が現れてゐる」(複数の注を示すので、後を分離注で改行した)これは所謂、庚申信仰の石碑群に、しばしば、みられる、夜叉神青面金剛(やしゃしんしょうめんこんごう:「青面金剛明王」とも呼ぶ)像である。まずは、ウィキの「青面金剛」をもとにしつつ、庚申信仰も一緒に概説しておくと、『インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸(さんし)を押さえる神とされる』。この「三尸」とは道教に由来する人間の体内に潜んでいるとする上尸・中尸・下尸の三匹の虫。これら三匹が六十日に一度巡って来る庚申(かのえさる/こうしん)の日、人が眠りに就くのを見計らって人の体内から抜け出し、天帝にその宿主である人物が六十日の間に成した悪業を総て報告し、その人の寿命を縮めると言い伝えられた(本来の道教には地獄思想はなく、その代わりに悪事を働くとその分プラグマティクに寿命が縮まると考えるのである)ことから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が生まれ、これを庚申待(こうしんまち)と呼んだ。参考にしたウィキの「三尸」によれば、『日本では平安時代に貴族の間で始まり』、一人では睡魔を堪えるのが難しいなどというのを口実として、村落や町単位で集団でこれを行うことを主目的とした庚申講が江戸時代におおいに盛んとなり、『会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまっ』て、夜通し酒宴を行うという庶民の一大イベントとともなったのであった。「陀羅尼集経」によれば、その姿は(「大蔵経テキストデータベース」を用いて検索した。一部の重複しているように見える箇所を恣意的に除去し、一部の漢字を正字化した)、

   *

一身四手。左邊上手把三股叉。下手把棒。右邊上手掌拓一輪。下手把羂索。其身靑色。而大張口狗牙上出。眼赤如血而有三眼。頂戴髑髏。頭髮聳竪如火焰色。項纒大蛇。兩膊各有倒垂一龍。龍頭相向。其像腰纒二大赤蛇。兩脚腕上亦纒大赤蛇。兩膊各倒埀一龍。龍頭相向。腰纒大赤蛇。所把棒上亦纒大蛇。虎皮縵胯。髑髏瓔珞。像兩脚下各安一鬼。

やぶちゃんの勝手次第書き下し文

一身四手、左邊の上手(かみて)は三股叉を把(と)り、下手は棒を把る。右邊の上手は掌に一輪を拓(たく)し、下手は羂索(けんさく)を把る。其の身は靑色にして大張口、狗牙(くぐわ)、上出(じやうしゆつ)す。 眼の赤きこと、血の如くにして三眼有り。髑髏を頂戴す。頭髮、聳竪(しやうけん)、火のごとく焰色(えんしよく)たり。項(うなじ)は大蛇を纒(まと)ふ。兩膊(りやうはく)各々、倒埀(たふすい)せる一龍、有り。龍頭、相ひ向かふ。其の像、腰、二つの大赤蛇を纒ふ。把る所の棒の上にも亦、大蛇を纒ふ。虎皮(とらがは)の縵胯(まんこ)。髑髏(どくろ)の瓔珞(やうらく)。像、兩脚下、各々一鬼を安ず。

 この経の「縵胯」は、蔓で編んだショート・パンツか。

 さて、ハーンの観察は良く細部を見てはいるが、やや誤りがある(但し、風化の度合いが激しい状態のものを異邦人の眼で観察したものとしては、驚くべき正確さであると言ってよいと思っている)。以下、見てゆくと、

✕「一本は猿を支へ」は猿ではなく、「ショケラ」(しょうけら)という人、特に女人とされる。それは恐らく、この怪しい人体(じんてい)のルーツが仏敵であるヒンズー教のシヴァ神で、他の仏教図像では(洒落ではないが)、シヴァは、しばしば、業(ごう)が深いとされて「変生男子」(へんじょうなんし)とされる女性として描かれることと関係するものであろう。また、「しょうけら」というと、妖怪フリークの方(かく言う私も人後に落ちない)ならピンとくる名であろう。そう、あの「ショウケラ」である。以下、ウィキの「しょうけら」から引くと、江戸時代の「百怪圖卷」「畫圖百鬼夜行」といった妖怪画集などで「しやうけら」「せうけら」などと表記して出現する妖怪である。掲げた二冊は『絵のみで解説文がないため、どのような妖怪かは推測の域を出ないが、民間信仰においては、庚申待の行事に「しょうけら」の名がある。庚申待とは、人間の体内に三尸という虫がおり、庚申の夜に天へ昇って天帝にその人の罪を報告し、天帝はそれによりその人の命を奪うとされていることから、庚申の夜は三尸を体外に出さないよう眠らずに過ごす行事である。この行事の日に早く寝た者は害をこうむるといい、この害を避けるために「しょうけらはわたとてまたか我宿へねぬぞたかぞねたかぞねぬば」と呪文を唱えると良いと伝えられているため、しょうけらとは庚申待において人間に害をもたらす妖怪と見られている』。『また、元禄年間の書籍『庚申伝』では、「ショウキラハ虫ノコト也、一説三尸ノコトト云」とあるため、しょうけらは三尸のことを指しているとの解釈もあり』、『三尸を擬人化した姿とも』、『三尸の中でも獣の姿をした「中尸」をモデルにして描いたなどともいわれる』(三尸の虫は図像化されたものによっては三匹が三匹、全く異なった形をしている。ウィキの「三尸」に唐代の「太上除三尸九蟲保生經」が示されてある。左の一匹が牛頭と人間風の足一本の所謂「キマイラ」、中が獅子か狛犬みたような獣、右手はモロに人間の道士風である)。『鳥山石燕は『画図百鬼夜行』で、家屋の屋根の天窓(明り取り窓)から中の様子を伺っているしょうけらを描いている。昭和・平成以降の妖怪関連の文献では、これは庚申待の日に人間たちが規則を守っているかどうかを監視しているとの解釈もあり、規則を破る人間に対しては、しょうけらが』三本指の『鋭い爪で罰を与えるものとされている』(しかしこの最後の解釈は何だか矛盾していておかしいと思われる)。ウィキの「三尸」にはさらに、『また、三尸が体から抜け出ないように唱えるまじない歌に、「しし虫」「しゃうけら」「しゃうきら」「そうきゃう」などの語が見られ、絵巻物などに描かれる妖怪の「しょうけら」と関係が深いと見られている』とある。

「笏板」これは唯一、体の右腹部に引きつけた右手の一本が持っているもので、確かに笏の板に見紛うものであるが、剣である。ではハーンが前で言っている「刀劍」とダブるじゃないかと言われそうだが、ハーンがいったそれは恐らく右手の最も高く揚げた三叉戟(トライデント)であろうと思われる。

「脚下に天邪鬼、時には『うたてさ』と呼ばる〻鬼」不思議な言い換えである。ここの辺りの原文は以下の通りで“and under his feet is a monstrous head, the head of a demon, Amanjako, sometimes called Utatesa ('Sadness').”で、これがまた不思議な単語が並んでいるので、落合氏が苦労した感じが良く分かる。少なくとも現行に於いては「うたてさ」も「悲哀」も天邪鬼の別名として見出し得ない。晃が天邪鬼の意味を何とか説明しようとして上手くいかなかった感じを私は受ける。「うたてさ」は「あまのじゃく」が人にとって「うとましく」「不快な」存在であること、そうした意味を古語の副詞「うたて」が持っていることとの強い親和を私は感ずるのであるが。ともかくも識者の御教授を乞うものである。

「三匹の猿」庚申塔に極めてよく見かけるところの、庚申信仰に習合した三猿信仰のシンボルである。因みにそれと関連して(或いはそっちが先か)猿田彦信仰も、また庚申堂や塚の位置の共有から辻の神である塞(さい/さえ)の神も道祖神もどんどん習合して、恐るべき混淆のアイテムの集合体と化してゆくところが、庚申信仰の面白いところでもあるのである。

「三重冠の前面にも一匹の猿の顏が現れてゐる」これは前の「陀羅尼集經」に出る「髑髏の瓔珞」である。図ではなく、風化した石像であるから、まあ、猿に見えても、少しもおかしくない。寧ろ、顔と判別出来る程度には保存されていたと評価出来るぐらいである。

「堅牢地神の像」神名は「けんらうぢしん(けんろうじしん)」と読む。仏教に於ける天部に属する神の一柱で大地を司る。参照したウィキの「堅牢地神に、『通常は女神であるが密教では男神と一対とする。十二天の一である地天と同一視される向きもある』。『堅牢地天、堅牢地祇、あるいは単に堅牢と呼ばれる場合もある。大地女神として、地の堅牢と神の不壊とに解釈される。つまり大地を堅固ならしめる神である。また仏法が流布される処に赴いて、その仏・如来の法座の下にあって警護するという』。「金光明王経の『八堅牢地神品には、資材珍宝伏蔵及び、神通長年妙薬を求め、衆病を治癒医療する』とあり、『また怨敵を降伏させ、諸々の異論を制御せんとする時、浄室において道場を安置し、身を沐浴し、鮮潔の衣をまとい、草座の上にうずくまり、仏舎利尊像がある前、または舎利制底ある所にて、焼香・散華・飯食供養し、白月八日布灑星合する時に請召するとある』。『また密教では、金剛界曼荼羅の四執金剛神の一尊である地天と同一視する』。『胎蔵界曼荼羅では堅牢地神として外金剛部院に男性神とその后が配列されている。その形像は肉色で男女共に女形をなし、男神は左手に鮮やかな華を盛った鉢を持っている』。『この鉢は大地を表し、鮮華は諸物生成の徳を表すとされる。女神は右手を心臓、左手を股にあてる。『覚禅抄』には雲中に坐す姿とし、その他さまざまな異形がある。密教ではこの神を供養(地天供)して地鎮の法を修する』とあり(下線やぶちゃん)、これによって、ハーンが、片手が持っている「何とも識別し難いものを容れた器」というのが、花を持った鉢であることが分かる。]

 

Sec. 22

   The temple of Koshin is situated in the middle of the village, in a court opening upon the main street. A very old wooden temple it is, unpainted, dilapidated, grey with the greyness of all forgotten and weather-beaten things. It is some time before the guardian of the temple can be found, to open the doors. For this temple has doors in lieu of shoji—old doors that moan sleepily at being turned upon their hinges. And it is not necessary to remove one's shoes; the floor is matless, covered with dust, and squeaks under the unaccustomed weight of entering feet. All within is crumbling, mouldering, worn; the shrine has no image, only Shinto emblems, some poor paper lanterns whose once bright colours have vanished under a coating of dust, some vague inscriptions. I see the circular frame of a metal mirror; but the mirror itself is gone. Whither? The guardian says: 'No priest lives now in this temple; and thieves might come in the night to steal the mirror; so we have hidden it away.' I ask about the image of Koshin. He answers it is exposed but once in every sixty-one years: so I cannot see it; but there are other statues of the god in the temple court.

   I go to look at them: a row of images, much like those upon the public highway, but better preserved. One figure of Koshin, however, is different from the others I have seen—apparently made after some Hindoo model, judging by the Indian coiffure, mitre-shaped and lofty. The god has three eyes; one in the centre of his forehead, opening perpendicularly instead of horizontally. He has six arms. With one hand he supports a monkey; with another he grasps a serpent; and the
other hands hold out symbolic things—a wheel, a sword, a rosary, a sceptre. And serpents are coiled about his wrists and about his ankles; and under his feet
is a monstrous head, the head of a demon, Amanjako, sometimes called Utatesa ('Sadness'). Upon the pedestal below the Three Apes are carven; and the face of
an ape appears also upon the front of the god's tiara.

   I see also tablets of stone, graven only with the god's name,—votive offerings. And near by, in a tiny wooden shrine, is the figure of the Earth-god, Ken-ro-ji-jin, grey, primeval, vaguely wrought, holding in one hand a spear, in the other a vessel containing something indistinguishable.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(二一)

 

       二一

 

 それから、谷を越えて、本街道に出でた。神社の石段が大道まで下つてきた處に屹立してゐる鳥居や、漢字を書いた看板や、または名も知れぬ路傍の社祠などの異國的な事物が、折々幻想を破らなかつたならば、英國の田舍道――ケント州か、サレー州の――に居ると思ふ位に、一路坦々として、且つ瓦大の老樹が立派に影を差してゐた。

 忽然私は路傍に見なれぬ浮彫を施せる像を見付けた。小さな竹の小屋に、彫物をした一列の扁石が保護してある。墓碑かと思つて車を下りて硯ると、非常に古くなつで彫物の輪廓は滅び、足は苔で蔽はれ、容貌は半ば消えてゐるが、墓ではなくて、或る神の石像が六體あるのだと分つた。して、私の通辯人は、これは庚申、卽ち道路の神である事を知つた。非常に缺け、また鱗屑に蔽はれて、上部は何とも分らぬやうになり、この神の特徴は磨損して了つてゐる。が、數個の石面には、像の足下に、まだその使者なる三匹の猿の像が讀まれた。して、或る信心深い人が、一つの像の前には些やかな寄進の品――一枚の木片の上に黑い牡鷄と白い鷄を畫いたもの――を置いてゐた。餘程以前に捧げたのに相違ない。木片は殆ど黑くなつて、繪は風雨と鳥糞によつて毀損されてゐる。地藏の像に於ける如くこれらの像の足許には、石も積んでない。この神は廢物の如く久しい間閑却されて、石像は垢の皮だらけだ。この古い神には參詣者が無くなつたのだ。

 が、通辯人は云つた。『庚申の神社がこの近くの藤澤村にあります』是非私はそれを訪ねなければならぬ。

[やぶちゃん注:二〇」の私の注で述べた理由によって本注の大部分をペンディングする。詳しくはそちらをお読み戴きたい。悪しからず。

「ケント州」ロンドンの南東のドーヴァー海峡に面した、古くから「イングランドの庭園」と呼ばれ、田園風景を今も残す。

「サレー州」現行では「サリー州」と音写するのが一般的。ロンドンの南に位置し、東でケント州に接する。ウィキサリーイングランドによれば、H・G・ウェルズの「宇宙戦争」では『実在するサリー州の特定の町や村をモデルにしたと推測される描写が多数登場』し『火星人が最初に着陸したウォーキング(英語版)の北に位置するホーセル公有地(英語版)は実在の場所である。物語の語り手はロンドン方面へ避難を開始するが、その際、まずバイフリート(英語版)を通り、次にウェイブリッジ(英語版)を渡った後にテムズ川北岸沿いに東へ進んでいる』という部分を読んで私には田園風景が如実に納得された。但し、今の若い諸君は寧ろ、『サリーはロンドンへの通勤圏で、「豊かで中流の人の住む場所」というイメージを抱く人が多い。たとえば、『ハリー・ポッター』の主人公の家(伯父・伯母の家、ダーズリー家)はサリーの瀟洒な住宅街にあるという設定になっている』という叙述の方に強く反応されるのかも知れない(私は「ハリー・ポッター」は未見である。あの手の糞ファンタージィには、全く以って――食指が動かぬからである)

「鱗屑」「りんせつ」と読むこれは現行では医学用語(皮膚科学)で人体表皮の角質細胞が肥厚して剥離したもの、特に病的なそれを言うが、ここは付着した蘚苔類や地衣類を指す。老婆心乍ら、蘚苔類と地衣類は違う。蘚苔類はコケ植物のことであるが、現行では生物学的分類用語としては全く認められておらず、近年では蘚綱 Bryopsida・苔綱 Hepaticopsida・ツノゴケ綱 Anthocerotopsidaの三つに分類するのが普通。それに対して、地衣類は正統な分類群で、菌類と藻類(主に緑藻やシアノバクテリア)が共生関係を結んでできた複合体の総体を指す。国際植物命名規約上では、その複合体を構成する菌類(共生菌)のことを地衣類、とみなしている。従って地衣類は、系統的に一つの纏まりを成す分類群ではなく、複数の系統から生じた、藻類との共生という生態的或いは生理的な特徴を共有する(=「地衣化」する)菌類の総称である。この部分は日本地衣学会ホームページ冒頭の解説に拠ったが、そこには『地衣類は、一般には蘚苔(センタイ)類(コケ植物)などとともに「こけ」と認識されていることが多いです。「こけ」は「むし」などと同じく雑多な小さな生物群の総称であり専門用語ではありませんので、地衣類のことを「こけ」と呼んでも間違いではありません。しかし、コケ植物(あるいはコケ類)というと間違いになります』とある。

「黑い牡鷄と白い鷄」更新信仰のシンボルの一つ(やはりシンボルとされる日月(じつげつ)の換喩か?)。さんま氏のサイト内の庚申講の掛軸を見ると、一番下の中央に白と黒の鶏が描かれているのが分かる。] 

 

Sec. 21

   Then, having traversed the valley, we reach a main road so level and so magnificently shaded by huge old trees that I could believe myself in an English lane—a lane in Kent or Surrey, perhaps—but for some exotic detail breaking the illusion at intervals; a torii, towering before temple-steps descending to the highway, or a signboard lettered with Chinese characters, or the wayside shrine of some unknown god.

   All at once I observe by the roadside some unfamiliar sculptures in relief—a row of chiselled slabs protected by a little bamboo shed; and I dismount to look at
them, supposing them to be funereal monuments. They are so old that the lines of their sculpturing are half obliterated; their feet are covered with moss, and their visages are half effaced. But I can discern that these are not haka, but six images of one divinity; and my guide knows him—Koshin, the God of Roads. So chipped and covered with scurf he is, that the upper portion of his form has become indefinably vague; his attributes have been worn away. But below his feet, on several slabs, chiselled cunningly, I can still distinguish the figures of the Three Apes, his messengers. And some pious soul has left before one image a humble votive offering—the picture of a black cock and a white hen, painted upon a wooden shingle. It must have been left here very long ago; the wood has become almost black, and the painting has been damaged by weather and by the droppings of birds. There are no stones piled at the feet of these images, as before the images of Jizo; they seem like things forgotten, crusted over by the neglect of generations—archaic gods who have lost their worshippers.

   But my guide tells me, 'The Temple of Koshin is near, in the village of Fujisawa.'

   Assuredly I must visit it.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(二〇)

 

       二〇

 

 歸りには別の途を取つた。

 暫くの間、道は樹木生ぜる小山の間の、長い狹いうねうねした谷の中を曲つて行く。谷は見渡す限り稻田で占めて、空氣は濕つぽい凉しさを帶びでゐる。して、水田の間を通じて築いた凹凸のある道路の上を、人力車ががたつき乍ら走り行くとき、恰も無數の四竹ががちやがちやする如く、蛙の鳴く聲ばかり聞えた。

 右手の森の麓に沿ふて進むとき、私の伴侶は車夫に合圖をして停まらせ、彼も車から下りて、綠丘の上に高く棲まつた小寺の靑い庇を指した。『日に照され乍ら、あそこへ登つて行く骨折り甲斐があるでせうか?』と私が問ふた。『さうですとも、あれは鬼子母神――鬼の母――の寺です』

 廣い石段の阪を上り、頂上で唐獅子を見、それから寺の立つてゐる小さな境内に入つた。老婦人が、その着物には子供がすがりついたまゝ、隣りに建物から出でてきて、私共のために障子を開けてくれた。私共は靴を脫いで寺へ入つた。外観は古びて陰氣であるが、内部は全く小綺麗であつた。障子を開放した處から、六月の太陽は光りを注ぎ込んで、神像、提燈、繪畫、金文字、瑤珞など、優美な形の眞鍮製のものや、種々の色彩の品々が、藝術的に入り亂れてゐるのを輝らした。佛壇が三つあつた。

 中央の壇の上方に、阿彌陀如來が師尊の態度で、神祕的金蓮の上に坐してゐる。右方の壇には、五つの金色の小段階を有する厨子が光つてゐる。段楷每に、或は坐し或は直立し、女神の如き、又は大名の如き服裝で、男女の小像が列んでゐる。これは三十番神である。下方、壇の正面には勇者が怪物を殺す繪がある。左方の壇上には、鬼子母神の厨子がある。

 彼女の物語は恐ろしい傳說である。前生に犯せる或る罪のため、彼女は自らの子供を喰殺す鬼と生まれた。が、佛陀の御敎に救はれて、聖者となり、專ら嬰兒を愛護するものとなつた。で、日本の母親達は、その兒童のため彼女に祈願を捧げ、また妻達は美麗なる男兒を授かるやうにと祈る。

    註。鬼子母神は梵語、ハリーテイー。
      鬼子母神の一形式を日本にて
      訶利提母と呼ぶ。 

 鬼子母神の顏は眉目好き女の顏である。が、その眼は凄い。右手に蓮華を持ち、左手には裸の赤兒を衣の折目に包んだのを、半ば蔽へる胸に當ててゐる。厨子の脚部には、錫杖に倚れる地藏樣が立つてゐる。が、佛壇及び像が寺內の驚くべき特色を成すのではない。全然珍らしく感ぜらる〻のは、寄進品である。厨子の前面に高く、竹竿と竹竿との間に緊かり張つた絲から幾十、否幾百の美麗なる小さな着物――さまざまの色の、日本の赤ん坊の着物が吊るしてある。大抵地質は貧弱だ。貧亡で質朴な女、田舍の貧しい母が、その子供のために祈願を聽入れられた感謝の捧げものなのだから。

 して、一枚每にその欣喜と、苦痛の物語を飾り氣なく物語つてゐる。是等の小さな着物――賤しい母達の柔順忍耐な指端で、形を作られ縫はれた是等の小さな着物は、突然世界的母性愛の啓示の如くに、强い感動を與へた。して、斯やうに信仰と感謝を示した質朴な人々の優しさは、夏の嵐が人の肌を撫でる如く物柔かに、私の身邊に浸み渡つてゐるやうであつた。

 戶外の世界が不意に美しくなつたやうに思はれた。日の光りは更に麗はしく、永久の蒼空にさへ新しい魅力が加はつたやうであつた。

[やぶちゃん注:この章以降については、同定地に就いて現在、実地に調査する必要を強く感じている。しかも実は私が強く同定地として内心比定している寺は今私が住んでいる場所から徒歩十五分ほどの地点にさえあるのである。しかし乍ら、全くの私的な理由から、それを容易に実施出来ずに比定地に気づいてから早や一と月ばかりも経過してしまったのである。私はこの停滞の無駄な時間を内心忸怩たる思いで過ごしてきた。これ以上、本文テクスト自体の作成をペンディングすることは私の欲求が許さない。されば、本章及びその地域同定に関わってくると私が考える残りの四章総てについては、本注の大部分をペンディングすることにし、今はごく僅かな語釈のみとすることとした。数少ない奇特な読者の方々には誠に悪いが、よりよい注を附すための私の節であり仕儀であるとお考え戴き、御寛恕願いたい。

「四竹」「よつだけ」と読む。「四つ竹」。これは打楽器の一つで、長方形の扁平な竹片(ちくへん)を、両手に二枚ずつ、握り、曲節に合わせて、カスタネットのように打ち鳴らすものである。嘗つては、放下師(ほうかし:「田楽」(でんがく)から転化した大道芸で、「品玉」(しなだま)・「輪鼓」(りゅうご)などの曲芸や手品を演じ、「小切子」(こきりこ)を鳴らしながら小歌などを唄った。室町中期に発生したが、明治以後は名称は絶えた。しかし、その一部は寄席芸や民俗芸能として現代に伝わっている)などが用いた。現在は民俗芸能・歌舞伎下座音楽・舞踊などで用いられる。

「鬼子母神」「きしもじん」と読むのが正しい(後の引用を参照)。ウィキの「鬼子母神」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略、改行部を繫げた)。『仏教を守護するとされる夜叉で女神ヤクシニーの一尊。梵名ハーリティーを音写した訶梨帝母(かりていも)とも言う。なお、「きしぼじん」という読み方は正確には間違いである』(これは「ボ」が仏教用語に於ける通例とされる呉音ではなく、漢音であることに因る。因みに、ウィキのこの部分は、私が(【後日追記:この記事を書いた頃は、私は「ウィキペデアン」であったが、後日、嫌気がさして、やめた。この箇所は、後に他者により改稿されてある。】)、分かり易く、この注を附す際に補足をした箇所である)。『三昧耶形は吉祥果。種子(種子字)はウーン(huuM)。吉祥天の母でもある』。『夜叉毘沙門天(クベーラ)の部下の武将八大夜叉大将(パーンチカ、散支夜叉、半支迦薬叉王)の妻で、五百人(一説には千人または一万人)の子の母であったが、それらの子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べてしまっていた。そのため多くの人間から恐れ憎まれていた。それを見かねた釈迦は、人間を救うと共に彼女をも救済することを意図して、彼女が最も愛していた末子・愛奴児(ピンガーラ、プリンヤンカラ 嬪伽羅、氷羯羅天、畢哩孕迦)を隠した。彼女は半狂乱となって世界中を七日間探し回ったが発見するには至らず、助けを求めて釈迦に縋ることとなる。そこで釈迦は、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。なら、数人しか持たぬ子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。今のお前にはその苦しみが分かるはずだ」と話し、隠していた子を戻した上で「子を想う気持ちには人間と鬼神に違いは無い」と諭し、自分の行いの過ちを悟らせ仏法に帰依させた。かくして彼女は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となった。盗難除けの守護ともされる。インドでは、とりわけ子授け、安産、子育ての神として祀られ、日本でも密教の盛行に伴い、小児の息災や福徳を求めて、鬼子母神を本尊とする訶梨帝母法が修せられたり、上層貴族の間では、安産を願って訶梨帝母像を祀り、訶梨帝母法を修している。また、法華経において鬼子母神は、十羅刹女(じゅうらせつにょ)と共に法華信仰者の擁護と法華経の弘通を妨げる者を処罰することを誓っていることから、日蓮はこれに基づき文字で表現した法華曼荼羅に鬼子母神の号を連ね、鬼子母神と十羅刹女に母子の関係を設定している。このことが、法華曼荼羅の諸尊の彫刻化や絵像化が進むなかで、法華信仰者の守護神としての鬼子母神の単独表現の元となった。その像は天女のような姿をし、子供を一人抱き、右手には吉祥果を持つ。なお吉祥果をザクロで表現するのは中国文化での影響であり、これは仏典が漢訳されたときに吉祥果の正体が分からなかったため、ザクロで代用表現したものである。よって仏典には吉祥果を持つとあるが、ザクロを持つとは書かれて』おらず、『仏典中の吉祥果とザクロは同一ではない。また鬼子母神が人間の子を食べるのを止めさせるために、人肉の味がするザクロを食するように釈迦が勧めたからなどと言われるのは、日本で作られた根拠のない俗説にすぎない』。『日蓮宗では、子安鬼子母神が祀られるほか、近世に入って以降、法華経陀羅尼品に依拠する祈祷が盛んとなって鬼子母神を祈祷本尊に位置付けるに至ったこともあり、鬼形の鬼子母神像も多く造られるようになった。これは、法華経の教えを広めることを妨げる者(仏敵)を威圧する破邪調伏の姿を表現したものである。この鬼形鬼子母神の造像については、明確な区分ではないものの、関東と関西では異なる傾向がみられる。関東では総髪で合掌した姿であり、子供を伴ってはいない。一方関西では、総髪ではあるものの角を生やし、口が裂け、子供を抱く(あるいは、左手で子供と手を繋ぐ)ものである。 また、子どもを抱き宝冠を付けた姿は一見すると天女形であるが、形相が天女形から鬼形に変容する過程にあると思われる珍しい像が存在することも確認されている』(下線やぶちゃん)。

「三十番神」国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で後に日蓮宗で信仰された。見られたことない方にはイメージしにくいと思われるので、グーグル画像検索「三十番神」をリンクさせておく。

「貧亡」ママ。] 

 

Sec. 20

   We return by another route.

   For a while the way winds through a long narrow winding valley between wooded hills: the whole extent of bottom-land is occupied by rice-farms; the air has a humid coolness, and one hears only the chanting of frogs, like a clattering of countless castanets, as the jinricksha jolts over the rugged elevated paths separating the flooded rice-fields.

   As we skirt the foot of a wooded hill upon the right, my Japanese comrade signals to our runners to halt, and himself dismounting, points to the blue peaked roof of a little temple high-perched on the green slope. 'Is it really worth while to climb up there in the sun?' I ask. 'Oh, yes!' he answers: 'it is the temple of Kishibojin—Kishibojin, the Mother of Demons!'

   We ascend a flight of broad stone steps, meet the Buddhist guardian lions at the summit, and enter the little court in which the temple stands. An elderly woman, with a child clinging to her robe, comes from the adjoining building to open the screens for us; and taking off our footgear we enter the temple.
Without, the edifice looked old and dingy; but within all is neat and pretty. The June sun, pouring through the open shoji, illuminates an artistic confusion of brasses gracefully shaped and multi-coloured things—images, lanterns, paintings, gilded inscriptions, pendent scrolls. There are three altars.

   Above the central altar Amida Buddha sits enthroned on his mystic golden lotus in the attitude of the Teacher. On the altar to the right gleams a shrine of five miniature golden steps, where little images stand in rows, tier above tier, some seated, some erect, male and female, attired like goddesses or like daimyo: the Sanjiubanjin, or Thirty Guardians. Below, on the façade of the altar, is the figure of a hero slaying a monster. On the altar to the left is the shrine of the Mother-of-Demons.

   Her story is a legend of horror. For some sin committed in a previous birth, she was born a demon, devouring her own children. But being saved by the teaching of Buddha, she became a divine being, especially loving and protecting infants; and Japanese mothers pray to her for their little ones, and wives pray to her for beautiful boys.

   The face of Kishibojin [7] is the face of a comely woman. But her eyes are weird. In her right hand she bears a lotus-blossom; with her left she supports in a
fold of her robe, against her half-veiled breast, a naked baby. At the foot of her shrine stands Jizo-Sama, leaning upon his shakujo. But the altar and its images do not form the startling feature of the temple-interior. What impresses the visitor in a totally novel way are the votive offerings. High before the shrine, suspended from strings stretched taut between tall poles of bamboo, are scores, no, hundreds, of pretty, tiny dresses—Japanese baby-dresses of many colours. Most are made of poor material, for these are the thank- offerings of very poor simple women, poor country mothers, whose prayers to Kishibojin for the blessing of children have been heard.

   And the sight of all those little dresses, each telling so naively its story of joy and pain—those tiny kimono shaped and sewn by docile patient fingers of humble mothers-touches irresistibly, like some unexpected revelation of the universal mother-love. And the tenderness of all the simple hearts that have testified thus to faith and thankfulness seems to thrill all about me softly, like a caress of summer wind.

   Outside the world appears to have suddenly grown beautiful; the light is sweeter; it seems to me there is a new charm even in the azure of the eternal day.

 

7
   In Sanscrit 'Hariti'—Karitei-Bo is the Japanese name for one form of Kishibojin.

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