八
寺は小さく、淸らかで、障子を廣く開けた中へ、明るい光がさし込んでゐた。晃は僧侶達とよほどの識り合ひに相違ない。彼等の挨拶が非常に慇懃だ。私は少しの寄進をして、晃は私共の訪問の目的を告げた。すると、私共は建物の一方の翼にある、明るい大きな室で、可愛らしい庭園を見おろす處へ招ぜられら。座布團が運ばれ、煙草盆が出され、また八寸許今の高さの漆塗りの小机が据ゑられた。して、一人の僧が押入れを開けて、掛物を探す内に、今一人の僧が茶と一皿の菓子を進めた。菓子は砂糖と米の粉を煉り合はせて作つた、種々の美しい形のものから成る珍しい糖菓であつた。一つの形は菊花そのまゝで、今一りは蓮華の形、その他のものは面白い意匠――飛んでゐる鳥、水を渉つてゐる鶴、魚類、小型の風景さヘ――を現した、大きな琢い薄紅色の菱形であつた。晃は菊花を挾み取つて私に食べるやう強ひた。私はかゝる美麗なものを傷めるのを痛惜しつゝ、砂糖の花瓣を一片づゝ壞はし始めた。
[やぶちゃん注:落雁様の干菓子であろうか。]
やがて四幅の掛物が持出され、擴げて、壁上の懸釘から吊るされた。して、私共は立つて眺めた。
非常に美しい掛物で、線畫と色彩の奇蹟である。日本藝術の最盛期の色なる和らいだ色を呈してゐる。餘程の大幅で、高さ優に五尺、幅三尺以上、絹本である。
[やぶちゃん注:「五尺」凡そ一メートル五十一・五センチメートル。
「三尺」九〇・九センチメートル。]
掛物り畫譚は次の通りである。
第一の掛物は――
畫の上部には、私共が現世と呼ぶ人間の世界「娑婆」の一場面がある――墓地に花の咲いた樹木があり、哀悼者が墓前に跪いてゐる。空はすべて柔かな靑い光の日本日和。
下部は幽冥界で、地殼の中を亡靈が降つて行く。墨のやうに暗い中を眞白く飛んでゐる。もつと先きの方では、氣味惡い薄明りの中で、三途の川の流を徒渉してゐる。右の方に待受けてゐるのが、相貌凄く、灰色で夢魔の如く丈高い、三途の老婆である。彼女に衣服を奪はれてゐるのもあつて、先きにこゝへ來た亡靈どもの衣類が、その邊の樹木に重げにかかつてゐる。
[やぶちゃん注:「重げ」はママ、「おもたげ」と訓じておく。]
更に下の方では、逃げて行く亡靈が惡鬼に追ひつかれてゐる。怖しい血の如き赤鬼で、獅子のやうな足と、半ば人間の顏、半ば牛の顏を有ち、怒れる『人身牛首(ミノトール 譯者註)の怪物』の形相である、一つの鬼は亡靈を寸斷に裂いて居る。今一つの鬼は、亡靈どもを驅り立てて、馬や犬や豚に、化身させてゐる。して、かやうに化身したものは、暗影の中へ飛んで逃げる。
譯者註 希臘神話の怪物。
[やぶちゃん注:「人身牛首」の含む原文一文は“Farther down I see fleeing souls overtaken by demons—hideous blood-red demons, with feet like lions, with faces half human, half bovine, the physiognomy of minotaurs in fury.”。当該語句は“the physiognomy of minotaurs in fury”で、「怒れる」が最後の形容部で、辞書を見る限りでは英文法上は、不定冠詞を伴って“in a fury”の方が一般的で正しく、そうでなければ行儀の良過ぎる冠詞を使いたくないならば、“like fury”若しくは“with fury”(但し、孰れも口語的表現である)として、本邦の「烈火の如く怒って」の意となる。“minotaurs”はギリシャ神話に登場する牛頭人身、悪の権化としてしばしば象徴されるところの残酷無惨神ミノタウロス(ラテン語:Minotaurus)の英語転写“Minotaur”の複数形である(ミノタウロス/ミノトールは通常、一体の奇形神に対する固有単数名詞であるが、牛頭馬頭の獄卒どもは地獄に無数に居るので、ここでの複数形は頗る正しいという点に注意されたい)。ミノタウロス神系譜上では便宜上、クレタ島のミノス王の妻パシパエーの子とされるが、実際には、ミノス王が後で返すという約束でポセイドンに願って神への生贄とするための「美しい白い牡牛」(一説では黄金とも)を得るものの、こ牡牛が余りに美しいが故に夢中になったミノス王はポセイドンとの約定を破ってこれを生贄として捧げることなく、代わりの贋の牡牛を生贄として捧げて本物の白い牡牛は己が物としてしまう。これを知ったポセイドンは激怒し、ミノスの最愛の后(きさき)パシパエーの方に呪いをかけ、彼女は白い牡牛に性的な欲望を抱くようにさせてしまう。自己の性欲を制御出来なくなったパシパエーは創作神ダイダロス(大工土木の守り神として知られる)に命じ、実物大の牡牛の模型を作らせた上で自らそのレプリカの中へと裸体のままで入り、遂に雄牛との性行為に及んだ。その結果としてパシパエーが産み落としたのがおぞましき牛頭人身のミノタウロスであった。奇形神であった。ミノタウロスはミノス王によってクレタ島に建造された「ラビュリントス」(「迷宮」の濫觴)に幽閉されてはいたものの、当時、ミノス王によって支配されていたアテナイ(現在のアテネ)には、ミノス王から毎年それぞれ七人の若者と乙女をこのミノタウロスに対して生贄として指し出すことが厳命されていた。以下、ウィキの「テーセウス」によれば、このおぞましい事実を知った怖いもの知らずの科学特捜隊みたような怪物退治の専門家青年であったテセウスは、このミノタウロス退治のためにクレタ島に自ら生贄を志願、ラビュリントスへの侵入にまんまと成功する。しかし『ミーノータウロスが幽閉されている』このラビュリントスは名工ダイダロスによって築かれた文字通りの『脱出不可能と言われる迷宮であった。しかし、ミーノース王の娘アリアドネーがテーセウスに恋をしてしまい、彼女はテーセウスを助けるため、彼に赤い麻糸の鞠と短剣をこっそり手渡した。テーセウスはアリアドネーからもらった毬の麻糸の端を入口の扉に結び付け、糸を少しずつ伸ばしながら、他の生贄たちと共に迷宮の奥へと進んでいった。そして一行はついにミーノータウロスと遭遇した。皆がその恐ろしい姿を見て震える中、テーセウスはひとり勇敢にミーノータウロスと対峙し、アリアドネーからもらった短剣で見事これを討ち果たした。その後、テーセウスの一行は糸を逆にたどって、無事にラビリントスの外へ脱出する事ができた。テーセウスはアリアドネーを妻にすると約束し、ミーノース王の追手から逃れてアテーナイへ戻るために、アリアドネーと共に急いでクレータ島から出港した』のであった。『しかし、彼は帰路の途中、ナクソス島に寄った際に、アリアドネーと離別してしまった。これは、アリアドネーに一目惚れしたディオニューソス(バックス/バッカス)が彼女をレームノス島に攫ってしまったために、行方が分からなくなり、止むを得ず船を出港させたとも、薄情なテーセウスがアリアドネーに飽きたため、彼女を置き去りにしたとも言われている』。『テーセウスは生贄の一人としてクレータ島へ向かう時、無事クレータ島から脱出できた場合には喜びを表す印として船に白い帆を掲げて帰還すると父王アイゲウスに約束していた。しかし、テーセウスはこの約束を忘れてしまい、出航時の黒い帆のまま帰還した。これを見たアイゲウスは、テーセウスがミーノータウロスに殺されたものと勘違いし、絶望のあまり海へ身を投げて死んだ。その後、アイゲウスが身を投げた海は、彼の名にちなんでエーゲ海と呼ばれるようになった』とある。因みに、ウィキの「ミーノータウロス」には別に『ダンテの『神曲』では「地獄篇」に登場し、地獄の第六圏である異端者の地獄においてあらゆる異端者を痛めつける役割を持つ』断罪神として描かれ、『この怪物の起源はかつてクレーテー島で行われた祭りに起源を求めるとする説があり、その祭りの内容は牛の仮面を被った祭司が舞い踊り、何頭もの牛が辺り一帯を駆け巡るというもので、中でもその牛達の上を少年少女達が飛び越えるというイベントが人気であった。また、古代のクレーテー島では実際に人間と牛が交わるという儀式があったとされる』ともあって頗る興味深い。因みに、高校時代に読んだ受験用の英語表現書に小泉八雲は英語を習う日本人に対して、「日本人は現在の英語圏では最早使うことも少なく、しかも相手に理解し難くなっている難語(一語で或る性質状態を示すところの長ったらしくて如何にも覚え難い古式の英単語)を殊更に崇拝する悪い癖がある」と批判していたという記載を読んだことがある。二十代の頃、半期留学で勤務校に来たオーストラリアの美少女(アニタと言った)に日本語を少し教えたことがあったが、彼女がガッチガチの当時の高校のグラマーの授業を受けて一言、「こんなものは今の国際英語の実践上に於いては何の役にも立ちません」と笑いながら一蹴したのを思い出した。正しい英文法よりも正しく相手に「烈火の如く怒っている」様を伝えることこそが生きた言語の正しい使い方であろう。]
第二の掛物は――
潛水者が深海で見るやうな暗く靑白い薄明かり。その眞中に黑檀色の王座、その土に憐憫のない怖ろしい、死者の王、亡靈の判官なる閣魔が坐つて、周圍には武裝せる鬼が、番兵として徘徊してゐる。王座の下の前方、左方に當つて、靈魂の狀態と世の中の一切の出來事を反映する、不思議なたばりの鏡が立つてゐる。今しも鏡面には、ある風景の影が射してゐる。絶壁と沙濱と海が見え、沖には船がある。沙濱の上に刀で斬り殺された死人が倒れてゐて、殺戮者は逃しつゝある、この鏡の前に、鬼に摑まれて恐怖戰慄せる亡靈がゐる。鬼は亡靈に迫つて、否應なしに顏を上げて、鏡面の殺戮者を見て、自身の顏であることを認めさせる。王座の右に當つて、寺院で供物を載せるさうな、高い脚のついた、扁平な臺の上に、奇異なものが見える。新しく斬つた兩面の顏のある頭を、斷餘の頸の上に眞直に立てたやうだ。二つの顏は證人で、『視る目』といふ女の顏は、娑婆で行はれる一切萬事を見、『嗅ぐ鼻』といふ髯男の顏は、一切の臭氣を嗅いで、人間の所業を知るのである。その側の文机の上に、一大書册が開かれてあるのは、所業の記錄帳である。して、鏡と證人の間に、戰慄せる白い亡靈が審判を待つてゐる。
[やぶちゃん注:「たばりの鏡」浄玻璃(じょうはり)の鏡のこととしか思えないが、「たばり」という呼称は私は初耳である(しかし確かに“Tabarino-Kagami”とある)。「日本国語大辞典」を縦覧しても今一つピンとくる類語は見当たらない。是非とも識者の御教授を乞うものであるが、私は実は、これは日本語の「じやうはりのかがみ」(Jyauharino-Kagami)をローマ字転写する際に単に誤って綴ってしまったか、アメリカの植字工が発音不能の「Jyauharino」を勝手に「J」を「T」の誤り、「Jyau」という不気味な呪言のような綴りの「y」「u」を意味不明の誤字とし、しかも悪筆であった「h」を校正者が勝手に「b」と読み違えて出来上がったトンデモ語である可能性もあるやに思われるのである。大方の御批判を俟つ。]
もつと下の方には、最早宣告を受けた亡靈の苫痛を甞めてゐるのが見える。娑婆で虛言者であつたものが熱した釘拔で鬼に舌を拔かれてゐる。他の亡靈どもは、數十となく火の車に抛り込まれて、苛責の場所へ引かれて行く。車は鐡製であるが、形狀は通常跣の日本の勞働者が街頭で『ハイダ、ヘー、ハイダ、ヘー』と、同一の哀れげな、折返へしの言葉む交互に發し乍ら、引いたり押したりする荷車に似てゐる。しかし、眞裸かで、血の色をして、獅子の足と牛の頭分有てる、是等の鬼の車夫共は、火炎の車を人力車夫の如くに引いて走る。
[やぶちゃん注:「抛り込まれて」老婆心乍ら、「抛(はふ)り込まれて」(ほうりこまれて)と読む。]
以上の亡靈は、皆成人のであつた。
第三の掛物は――
亡靈を燒く爐火が、暗黑の空へ燃え上つてゐる。鬼が鐡捧で火をかきまぜる。暗黑の上空から、眞倒さまに他の亡靈が炎の中へ墜ちてくる。
この光景の下に、漠然たる風景が擴つてゐる――淡靑淡灰色の山や谷の連つた處を賽ノ河原が迂曲してゐる。靑白い川の堤に群がつた子供の亡靈が、石を積上げようとしてゐる。非常に綺麗な子供達で、実際の日本の子供等の如く綺麗である。(日本の畫家が、いかにもよく子供の美を感じ、旦つ現すのは驚くばかりだ)子供は銘々、短い小さな白衣をつけてゐる。
[やぶちゃん注:「白衣」老婆心乍ら、ここは「びやくえ(びゃくえ)」と読みたい。]
前面に、鐡棒を持つた恐ろしい鬼が、今しも一人の子供の築いた石の山を打ち碎いて散らしてゐる。小さな亡靈は、その廢墟の邊に坐つて、綺麗な兩手を眼に當てて泣いてゐる。鬼は嘲笑してゐるらしい。他の子供等らも傍で泣いてゐる。が、そこへ輝いて美しい地藏が、大きな滿月のやうな後光を照らし乍ら來て、錫杖――強い神聖の錫杖――を伸ばす。すると、子供等はそれを捉へ、それにすがり附いて、地藏の保護圈内へ引入れられる。それから、他の幼兒どもは地藏の大きな袖を摑む。また地藏の胸まで抱き揚げられるのもある。
この賽ノ河原の場面の下に、別に冥界の竹林がある。たゞ女の白衣の姿が、その中に見えるだけだ。女達は泣いてゐて、指先から血が出でてゐる。彼等は爪をもぎ取られた指で、綠の鋭い竹の葉を永遠に摘んで行かねばならぬ。
[やぶちゃん注:この竹林の女達の絵は私は実際には見たことがない。私の偏愛する「地獄草紙」も再度点検してみたが、ない。ところがネットでpansy
氏のブログ「悠遊・楽感雑記帳」の「今日は地獄の釜が開く日です。」という二〇一四年一月十六日附日記に、『川崎市中原区・安楽寺(中原区下小田中)に於いて、年2回公開される「六道地獄絵」の絵解きに参加しました』と始まる文章の中、地獄の一パート・セレクションの竹林で泣く裸体の女性群像の絵があり、その解説に、『火車に乗せられ、自分の髪の毛で竹林の根を掘る女性達』の亡者というのがある。恐らくはこれであろう。「往生要集」辺りに出るか? 目の前に同書はあるが、前頭葉が探すことを拒否している。その内、典拠を探し当てて、その独自の地獄の名(私の経験上、こういう独特の「地獄」には必ず固有の地獄名があるものなのである)もお知らせ出来ればと思っている。]
第四の掛物――
光耀の中に浮んだ大日如來、觀音、阿彌陀佛。それから地獄と極樂が隔たるほど遙かの下方に亡靈の浮んだ血の池が波立つ。池畔の絶壁には、鮫の齒の如く、密に刀身が林立してゐる。鬼は裸の亡靈をこの刀劍の山へ追ひ上げる。が、赤い池から麗はしく淸らかな噴水のやうに、一種の透明なものが出でる――一莖の花――不思議な蓮華が――一個の亡靈をもたげて、崖端に立てる僧の足許へ出す。僧の祈念の功德によつて、この蓮華が現れて、苫しめるものを救ひ上げたのである。
惜しいこと!もはや掛物はこれだけである。まだ他に數幅あつたが、逸失したのだ。
否、それは幸にも誤であつた。寺僧は或る隱れた隅から、更に一つの大きな掛軸を發見して、それを展べて、他のものと並べて吊るした。更に一幅の美景!が、これは信仰又は亡靈と、何の關係がある?前景は洋々たる一大碧湖に沿つた庭園――神奈川にある庭園の如く濕布、洞窟、燕子花の池、石に刻んだ橋、雪のやうな花樹、靜かな靑池の上に突き出でた瀟洒な亭など、美しい山水の小景に富んでゐる。背景には、輝いて柔かな雲の長い帶が棚引いてゐて、その上の方には、夏の蒸氣の如く輝いた靄の中から、屋根の上に屋根が重つて、不思議に華麗な、夢の如く輕い、靑い宮殿が泛んでゐる。庭園には客――可愛らしい日本少女――が遊んで居る。が、彼等は後光を帶びてゐる。彼等は幽冥界の女達である。
[やぶちゃん注:「燕子花」これは、
単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata
の漢訳の異名を指すが、私は実は本当に江戸時代までの日本人が――というよりも現代の日本人でさえもが、
アヤメ属アヤメ Iris sanguinea(綾目)
アヤメ属ハナショウブ(花菖蒲)Iris ensata var. ensata
(但し、「菖蒲」と書いて「あやめ」と読ませる例が古代より異様に多い)
本種カキツバタIris laevigata
(杜若/本邦での漢字表記ではこちらが一般的)
の三種を真に識別している或いは識別出来るかどうかについては甚だ疑いを持っている。従って、ここでハーンや晃や坊主がそれを正しく花の中に井の字に見える綾目模様がなく、しかもすんなりと長く伸びた葉の中肋(ちゅうろく)が存在しない真正のカキツバタであると認識しているかどうかを激しく疑っていることを表明しておく。そもそもが実際、そうした種としての識別比定は菖蒲類の好事家や近代以降の植物学者のみに必要な知識ではあった。しかし、小学生でも誰でもすぐに覚えられるので紹介しておく。
まず、花を真上から覗いてみよう。
綾目模様があれば、それ一発で「アヤメ」である。
それがなければ、次に葉を手で触れてみよう。
触ってみて、葉の中央部分に明らかにゴリっとした葉を有意に支持する硬い筋目があれば、それは「ハナショウブ」である。
葉に、そうした筋(植物学では「中肋」という)が全くなく、支持力を凡そ感じさせないただの視認出来る筋が、ほぼ均等に葉に平衡してあって、葉全体が弱々しくペランとしていれば、それはカキツバタなのである。
因みに以上の比定法は高校二年の時、植物フリークの化学の先生が授業の脱線中に教えてく呉れた識別法――有機化学は今一つ好きになれず、遂に私の人生に於いて化学の授業でただ一つだけ有益な智となった法――である。
*
「泛んでゐる」老婆心乍ら、「うかんでいる」と訓読する。]
といふのは、こゝは極樂なのだ。是等の神々しい姿のものは、菩薩である。して、もつと近寄つて見てから、私は初め氣が付かなかつた美しい奇異なものを認めた。
是等の美しい菩薩どもは、園藝を營みつゝあるのだ!蓮華の蕾を撫でさすり、何とも知れぬ天土界のものを花瓣に灑いで、花の開くやう手傳つてゐる。して、また何といふ蓮の蕾!色はこの世のものでない。蕾の破れたのもある。その輝いた花瓣の、黎明の如き光耀の中に、小さな裸の幼兒達が各々小さな後光を帶びて坐してる。是等は亡靈が新たに佛となつたので、極樂に生まれた佛である。非常に小さいのもある。大きいのもある。皆目に見えて成長して行くらしい。それは彼等の愛らしい乳母は、一種の神仙の食物を以て彼等を養育するからである。ある一人、蓮華の搖籃から立出で、地藏に導かれて、遙かにかなたの一層華麗な城へ行くのが見える。
最も上方の蒼空に、佛教天國の天使、鳳凰の翼ある少女、所謂天人が浮んでゐる。その一人は、舞妓が三味線を奏でる如く、或る絃樂器を象牙の撥で奏でてゐる。他のものは、今猶ほ大寺院の聖樂に用ひる十七管の唐笛を鳴らしてゐる。
[やぶちゃん注:「十七管の唐笛」とあるから、これは現在では主に雅楽に用いられる和楽器である笙(しょう)であろう。ウィキの「笙」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『日本には奈良時代ごろに雅楽とともに伝わってきたと考えられている。雅楽で用いられる笙は、その形を翼を立てて休んでいる鳳凰に見立てられ、鳳笙(ほうしょう)とも呼ばれる。匏(ふくべ)と呼ばれる部分の上に十七本の細い竹管を円形に配置し、竹管に空けられた指穴を押さえ、匏の横側に空けられた吹口より息を吸ったり吐いたりして、十七本のうち十五本の竹管の下部に付けられた金属製の簧(した:リード)を振動させて音を出す。
音程は簧の固有振動数によって決定し、竹管で共鳴させて発音する。パイプオルガンのリード管と同じ原理である。いくつかの竹管には屏上(びょうじょう)と呼ばれる長方形の穴があり、共鳴管としての管長は全長ではなくこの穴で決まる。そのため見かけの竹管の長さと音程の並びは一致しない。屏上は表の場合と裏の場合があるが、表の場合は装飾が施されている。指穴を押さえていない管で音が出ないのは、共鳴しない位置に指穴が開けられているためである。
ハーモニカと異なり、吸っても吹いても同じ音が出せるので、他の吹奏楽器のような息継ぎが不要であり、同じ音をずっと鳴らし続けることも出来る(呼吸を替える時に瞬間的に音量が低下するのみ)。押さえる穴の組み合わせを変えることで十一種類の合竹(あいたけ)と呼ばれる和音を出すことができる。通常は基本の合竹による奏法が中心であるが、調子、音取、催馬楽、朗詠では一竹(いっちく:単音で旋律を奏すること)や特殊な合竹も用いる。
その音色は天から差し込む光を表すといわれている』。『構造上、呼気によって内部が結露しやすく、そのまま演奏し続けると簧に水滴が付いて音高が狂い、やがて音そのものが出なくなる。そのため、火鉢やコンロなどで演奏前や間に楽器を暖めることが必要である』。『現代では雅楽だけでなく、クラシック音楽の作曲家によって管弦楽や室内楽のなかで、あるいは声楽の伴奏楽器として活用されることもある』。『笙よ一オクターブ低い音域が鳴る竽(う)という楽器もある。これは雅楽の伝統では一度断絶したものの、正倉院の宝物等を参考に、戦後になって復元された楽器の一つである。現代において蘇演(復曲)された作品や、新作の現代雅楽、例えば黛敏郎の「昭和天平楽」などで用いられている』。『中国には北京語でション(shēng)、広東語で「サン」いう、同じ「笙」の字を書く楽器がある。これは笙より大型で、音域は日本の笙の倍以上あり、素早い動きにも対応している。もともと奈良時代に日本に伝わった時点では、日本の笙もパイプのような吹き口が付属していたが、現在ではそれをはずし、直接胴に口をあてて演奏する形に変わっている』とし、また、ラオス・タイ王国の北東部ではこの笙と同じ原理のケーン呼ばれる類似楽器があり、『一説では、これが中国の笙の原型であると言われる』ともある。]
晃はこの極樂は餘り下界に似てゐると云った。庭園は極樂の蓮華あるにも拘らず、寺院の庭園のやうであるし、宮殿の靑い屋根は西京のお茶屋を想出させると彼は斷言した。
が、結局如何なる信仰の天國も、幸福なる經驗の理想的反覆と、延長に外ならぬではない?――往日の夢を私共のために復活させ、永遠的にしたものではない?若しこの日本の理想は餘に簡單、あまりに初心(うぶ)であつて、天國の光景を描くには、日本の庭園や寺院やお茶屋に於ける經驗よりも、もつと適はしい物質作活の經驗があると云ふ人があらば、それは、その人が日本の優美な靑空、その柔かな水の色、その晴れた日の穩かな輝き、その何とも云へぬ魅惑的な内地――そこでは些細な物品でも、製作したのでなくて、愛撫の餘、發生せしめたのだといふ美感を與へる――を知らぬからであらう。
Sec.8
The temple is small, neat, luminous with the sun pouring into its widely opened shoji; and Akira must know the priests well, so affable their greeting is. I make a little offering, and Akira explains the purpose of our visit. Thereupon we are invited into a large bright apartment in a wing of the building, overlooking a lovely garden. Little cushions are placed on the floor for us to sit upon; and a smoking-box is brought in, and a tiny lacquered table about eight inches high. And while one of the priests opens a cupboard, or alcove with doors, to find the kakemono, another brings us tea, and a plate of curious confectionery consisting of various pretty objects made of a paste of sugar and rice flour. One is a perfect model of a chrysanthemum blossom; another is a lotus; others are simply large, thin, crimson lozenges bearing admirable designs—flying birds, wading storks, fish, even miniature landscapes. Akira picks out the chrysanthemum, and insists that I shall eat it; and I begin to demolish the sugary blossom, petal by petal, feeling all the while an acute remorse for spoiling so beautiful a thing.
Meanwhile four kakemono have been brought forth, unrolled, and suspended from pegs upon the wall; and we rise to examine them.
They are very, very beautiful kakemono, miracles of drawing and of colour-subdued colour, the colour of the best period of Japanese art; and they are very large,
fully five feet long and more than three broad, mounted upon silk.
And these are the legends of them:
First kakemono:
In the upper part of the painting is a scene from the Shaba, the world of men which we are wont to call the Real—a cemetery with trees in blossom, and mourners kneeling before tombs. All under the soft blue light of Japanese day.
Underneath is the world of ghosts. Down through the earth-crust souls are descending. Here they are flitting all white through inky darknesses; here farther on, through weird twilight, they are wading the flood of the phantom River of the Three Roads, Sanzu-no-Kawa. And here on the right is waiting for them Sodzu-Baba, the Old Woman of the Three Roads, ghastly and grey, and tall as a nightmare. From some she is taking their garments;—the trees about her are heavily hung with the garments of others gone before.
Farther down I see fleeing souls overtaken by demons—hideous blood-red demons, with feet like lions, with faces half human, half bovine, the physiognomy of
minotaurs in fury. One is rending a soul asunder. Another demon is forcing souls to reincarnate themselves in bodies of horses, of dogs, of swine. And as they are thus reincarnated they flee away into shadow.
Second kakemono:
Such a gloom as the diver sees in deep-sea water, a lurid twilight. In the midst a throne, ebon-coloured, and upon it an awful figure seated— Emma Dai-O, Lord of Death and Judge of Souls, unpitying, tremendous. Frightful guardian spirits hover about him—armed goblins. On the left, in the foreground below the throne,
stands the wondrous Mirror, Tabarino-Kagami, reflecting the state of souls and all the happenings of the world. A landscape now shadows its surface,—a landscape of cliffs and sand and sea, with ships in the offing. Upon the sand a dead man is lying, slain by a sword slash; the murderer is running away. Before
this mirror a terrified soul stands, in the grasp of a demon, who compels him to look, and to recognise in the murderer's features his own face. To the right of the throne, upon a tall-stemmed flat stand, such as offerings to the gods are placed upon in the temples, a monstrous shape appears, like a double-faced head freshly cut off, and set upright upon the stump of the neck. The two faces are the Witnesses: the face of the Woman (Mirume) sees all that goes on in the Shaba; the other face is the face of a bearded man, the face of Kaguhana, who smells all odours, and by them is aware of all that human beings do. Close to them, upon a reading-stand, a great book is open, the record-book of deeds. And between the Mirror and the Witnesses white shuddering souls await judgment.
Farther down I see the sufferings of souls already sentenced. One, in lifetime a liar, is having his tongue torn out by a demon armed with heated pincers. Other
souls, flung by scores into fiery carts, are being dragged away to torment. The carts are of iron, but resemble in form certain hand-wagons which one sees every day being pulled and pushed through the streets by bare-limbed Japanese labourers, chanting always the same melancholy alternating chorus, Haidak! hei!
haidah hei! But these demon-wagoners—naked, blood-coloured, having the feet of lions and the heads of bulls—move with their flaming wagons at a run, like
jinricksha-men.
All the souls so far represented are souls of adults.
Third kakemono:
A furnace, with souls for fuel, blazing up into darkness. Demons stir the fire with poles of iron. Down through the upper blackness other souls are falling head downward into the flames.
Below this scene opens a shadowy landscape—a faint-blue and faint-grey world of hills and vales, through which a river serpentines—the Sai- no-Kawara. Thronging the banks of the pale river are ghosts of little children, trying to pile up stones. They are very, very pretty, the child-souls, pretty as real Japanese
children are (it is astonishing how well is child-beauty felt and expressed by the artists of Japan). Each child has one little short white dress.
In the foreground a horrible devil with an iron club has just dashed down and scattered a pile of stones built by one of the children. The little ghost, seated by the ruin of its work, is crying, with both pretty hands to its eyes. The devil appears to sneer. Other children also are weeping near by. But, lo! Jizo comes, all light and sweetness, with a glory moving behind him like a great full moon; and he holds out his shakujo, his strong and holy staff, and the little ghosts catch it and cling to it, and are drawn into the circle of his protection. And other infants have caught his great sleeves, and one has been lifted to the bosom of the god.
Below this Sai-no-Kawara scene appears yet another shadow-world, a wilderness of bamboos! Only white-robed shapes of women appear in it. They are weeping; the fingers of all are bleeding. With finger-nails plucked out must they continue through centuries to pick the sharp-edged bamboo-grass.
Fourth kakemono:
Floating in glory, Dai-Nichi-Nyorai, Kwannon-Sama, Amida Buddha. Far below them as hell from heaven surges a lake of blood, in which souls float. The shores of this lake are precipices studded with sword-blades thickly set as teeth in the jaws of a shark; and demons are driving naked ghosts up the frightful slopes. But out of the crimson lake something crystalline rises, like a beautiful, clear water-spout; the stem of a flower,—a miraculous lotus, hearing up a soul to the feet of a priest standing above the verge of the abyss. By virtue of his prayer was shaped the lotus which thus lifted up and saved a sufferer.
Alas! there are no other kakemonos. There were several others: they have been lost!
No: I am happily mistaken; the priest has found, in some mysterious recess, one more kakemono, a very large one, which he unrolls and suspends beside the
others. A vision of beauty, indeed! but what has this to do with faith or ghosts? In the foreground a garden by the waters of the sea, of some vast blue lake,—a garden like that at Kanagawa, full of exquisite miniature landscape-work: cascades, grottoes, lily-ponds, carved bridges, and trees snowy with blossom, and dainty pavilions out-jutting over the placid azure water. Long, bright, soft bands of clouds swim athwart the background. Beyond and above them rises a fairy magnificence of palatial structures, roof above roof, through an aureate haze like summer vapour: creations aerial, blue, light as dreams. And there are guests in these gardens, lovely beings, Japanese maidens. But they wear aureoles, star-shining: they are spirits!
For this is Paradise, the Gokuraku; and all those divine shapes are Bosatsu. And now, looking closer, I perceive beautiful weird things which at first escaped
my notice.
They are gardening, these charming beings!—they are caressing the lotus-buds, sprinkling their petals with something celestial, helping them to blossom. And
what lotus-buds with colours not of this world. Some have burst open; and in their luminous hearts, in a radiance like that of dawn, tiny naked infants are seated, each with a tiny halo. These are Souls, new Buddhas, hotoke born into bliss. Some are very, very small; others larger; all seem to be growing visibly, for their lovely nurses are feeding them with something ambrosial. I see one which has left its lotus-cradle, being conducted by a celestial Jizo toward the higher splendours far away.
Above, in the loftiest blue, are floating tennin, angels of the Buddhist heaven, maidens with phoenix wings. One is playing with an ivory plectrum upon some
stringed instrument, just as a dancing-girl plays her samisen; and others are sounding those curious Chinese flutes, composed of seventeen tubes, which are used still in sacred concerts at the great temples.
Akira says this heaven is too much like earth. The gardens, he declares, are like the gardens of temples, in spite of the celestial lotus- flowers; and in the blue
roofs of the celestial mansions he discovers memories of the tea-houses of the city of Saikyo. [7]
Well, what after all is the heaven of any faith but ideal reiteration and prolongation of happy experiences remembered—the dream of dead days resurrected for us, and made eternal? And if you think this Japanese ideal too simple, too naive, if you say there are experiences of the material life more worthy of portrayal in a picture of heaven than any memory of days passed in Japanese gardens and temples and tea- houses, it is perhaps because you do not know Japan, the soft, sweet blue of its sky, the tender colour of its waters, the gentle splendour of its sunny days, the exquisite charm of its interiors, where the least object appeals to one's sense of beauty with the air of something not made, but caressed, into existence.
7 Literally 'Western Capital,'—modern name of Kyoto, ancient residence of the emperors. The name 'Tokyo,' on the other hand, signifies 'Eastern Capital.'