ブログ710000アクセス突破記念 火野葦平 魚眼記
魚眼記 火野葦平
[やぶちゃん注:一昨2015年8月19日の宵の口に、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、710000アクセスを突破した。その記念として何時もの通り、火野葦平の「河童曼荼羅」から記念テクストとして「魚眼記」(「ぎよがんき(ぎょがんき)」)を公開する。単行本初出は小山書店昭和一六(一九四一)年五月刊「傳説小説集」かと思われるが、初出はそれ以前、前年中のことと推測される(以下の宮本百合子の書評初出を参照)。宮本百合子は「日本の河童――火野葦平のことなど――」という評論ともエッセイともつかない奇体な短文で(初出が『日本学芸新聞』昭和一六(一九四一)年一月十日号)、『一人の作家の動きとして火野葦平氏をみる。するとそこには「糞尿譚」の作者があり、つづいて麦と土と花と兵隊の作者があり、やがて河童の「魚眼記」が現れている。この過程に何が語られているだろう。「土と兵隊」の作者に「魚眼記」の現れたのは誰そのひとだけにかかわった現実であって、私たちには他人のことだと云えるのだろうか』と自他を指弾対象にするような言いをし乍ら、『日本の近代の文学に河童が登場することについては考えるべき何事かがある。周知のとおり、芥川龍之介は死の数ヵ月前、昭和二年の二月、小説「河童」を書いた。漁師のパック、詩人トック、音楽家クラバックなどの活躍する芥川の河童の国には、生活と判断とが溌溂と盛られていて、作者の社会批評と人生と芸術への気持が、積極な熱をもって流れている』。『それにもかかわらず、河童の国へ墜ちなければ、クラバックの直情をも描けなかったところに、作家芥川としての悲しい河童性があった。河童とは詰まるところ日本の前時代的な物の怪なのである』。『火野葦平の河童は、一九四〇年の日本に現れて、「土と兵隊」「石炭の黒きは」の後に現れて、何と自足した自身の伝説の原形をさらしていることだろう。実際上は歴史的な経験を生きた筈の一個の作家が、今日河童を語り、文学上に変化の変化たる所以の諷刺の通力さえ失ったまま、唯濃い墨の色と灰色との画面の色彩をたのしんで描き眺めるというようなことの裡には、文学として何かの不健全がある』。『河童が幻想の生棲物だからというのではなく、それを扱う作者火野の態度の本質は、芥川よりも文学のこととして不健全な低下を示していると云えるのである』。『これは、作家の個人としての問題でもあり同時に今日という時代の傾斜の問題でもある。人々の現実にたえる作品を生み出して行こうという作家の希望が偽りでないならば工夫をこらしその斜面にピッケルをうちこんで、着実に抵抗して、進んで通過しなければならない角度なのだと思う。何によってその雪崩れでそぎとられた斜面にピッケルをうちこむべき地点を判断してゆくかと云えば、先ずその岩の性質の鑑識に立つということを答えない登攀者はないだろうと思えるのである』(引用はリンク先の青空文庫版から)。この似非文学批評的戯れ言は私のイカれた前頭葉から尻小玉の出っ張りまで、おぞましい生理的不快感を引き起こす。文学批評(特に文学を革命の手段と堕させたプロレタリア文学の『不健全』なる思想というそれ)という宿痾たる病根の様態が実に手に取るように分かる悪文なれば、敢えてここに示しおくこととする。因みに私は宮本百合子の如何なる一文にも五十八年間、一度として感動したことはなく、今後もないと断言出来る。それほどあの女が文学者として私は大嫌いなのである。民衆の伝承をマルクス主義から非科学的と一蹴する彼等は結局、現代文学の潮流に生き残ることが出来なかった。これはまっこと目出度いことであると私は心底、感じている人間である。
底本の傍点「ヽ」は太字に代えた。注は当該語句を含む各段末で簡潔に対応した。
前頭葉の一部挫滅のために偏頭痛がずっと続き、何時ものようにテキパキと出来ず(特に夕食後は仕事が殆んど出来ないほど痛む)、遅れたことを深くお詫びする。【2015年8月21日 藪野直史】]
魚眼記
だいぶん風があるやうですが、わたしの聲が聞きとれますか。わたしはあまり大きな聲を出すことはこのまないので、どうぞもつと近くに寄つて下さい。そこの石には錢苔(ぜにごけ)がたくさんくつついてゐますから、用心をしないと着物が穢(よご)れます。この椎の實でも嚙(かじ)りながら聞いて下きい。月の出にはまだすこし間がありませう。
わたしが昔この里に住んでゐた頃、やつぱりこの大きな椎の木がこの庭に立つてゐて、枝がはびこり、鬱蒼と葉が茂り、椎の實の熟(な)る時分、風のある日を選んでこの樹の下に來ると、雨の降るやうな音を立てて椎の實が無數に落ちて來たものでした。子供であつたわたしは竹の竿を持つて行つて椎の實を落すことを考へつきましたが、わたしのその計畫を母が顏色を變へて怒り、折角わたしが氣味の惡い思ひをして淋しい裏山の竹藪から切つて來て拵へた竿を、父がほとんど四寸おき位に微塵にへし折つてしまひました。一節づつ碎かれて行く靑竹の音を聞きながら、小さいわたしは悲しみで胸がいつぱいになりましたが、無口な父母はただ怒つただけでわたくしにその理由を聞かせてくれませんでした。夕方になると、向かふの地藏山の巓邊(てつぺん)の峰の間から眞横にさしかけて來る太陽の光りのために、數知れぬ椎の實は蓊鬱(をううつ)と繁茂した梢の間から無數の寳石のごとくきらきらと光ります。その美しい椎の實を得るためにはいつとも知れぬ風の日を待たなくてはならぬといふことは、なんといふ賴りないことでありましたらう。しかし、わたしは或る日、もう壽齡をずつと昔に越えて今は自分も人もその年を覺えてゐることが出來なくなつてゐたわたしの曾祖母から、椎の木についての言ひ傳へを聞かきれたのです。その椎の木には古くから河童が棲んでゐるといふのです。さうしてこの椎の木に熟る無數の椎の實はこの樹の持主である河童の食餌であつて、その椎の實を取るものは河童の怨みを買ふことがある、ただ風の日に吹かれて落らる椎の實が河童の食膳から除かれてしまふけれども、やつぱりその地上に落ちた椎の實すらも心ある人はこれを拾はうとはしないのだ、といふのです。それを話しながら曾祖母はがくがくと齒のない口を袋のやうに開けたり閉ぢたりしながら、その椎の木を見るのももつたないといふやうに、それだけの話をする間中、ただ最初にちらと一瞥しただけで、その後は一度も樹の方を振りむかうとしませんでした。その語を聞くとすぐにわたしはそつと土藏の中に入りました。生意氣な小さいわたしは、科學者のやうにその曾祖母のをかしな語を信用せず、古い侮蔑が曲りくねつた平假名やけばけばしい色彩の江戸繪などで書きあらはされた、たくさんの古ぼけた書物が土藏の長櫃(ながびつ)の中に藏つてあつたことを思ひ出し、曾祖母の學説をくつがへすやうな反證を得るために土藏の階段を登つたわけでありました。黴(ばび)くささと根太(ねだ)のゆるんだ天井裏の板の間に辟易しながらも、わたしは丹念に數千卷の古書を繙(ひもと)きました。するとわたしは次第に曲りくねつた平假名の字や原色あざやかな江戸繪の世界に惹きこまれ、やがて表が暗くなつて來て、わたしが掌にのせてゐる寫本の大きな文字も判讀し難くなつた時、わたしは曾祖母(おんばあ)ちやんは噓つきではなかつたと思はず歎息を洩らしたのであります。さうして太い鐡鋼の鎖格子も見わけがたくなつた鎧窓の方を見た時に、ほんたうはそんなに太陽が落ちてゐたわけではなく、鎧窓のすぐ際に椎の木があつて、その密生した葉のために窓が蔽はれてゐたことを知りましたが、その時わたしは椎の木が少しの風にぎわめき幾つかの椎の實がぱらぱらと落ちる音を聞いて、逃げるやうに蟲の食つて撓(たわ)む土藏の梯子段を降りたのです。
[やぶちゃん注:「四寸」訳十二・一センチメートル。「地藏山」不詳乍ら、これは以前に注した河童封じの地蔵尊像のある高塔山のことではあるまいか? 識者の御教授を乞う。「蓊鬱」草木が盛んに茂るさまを言う。「江戸繪」浮世絵版画の前身となった紅彩色の主に江戸歌舞伎の役者をモデルとした絵のこと。江戸中期から売り出され、当初は二、三色刷りのものから次第に多彩豪奢なものとなり、錦絵として爆発的な人気を博した。「紅摺絵(べにずりえ)」「東(あずま)錦絵」等とも称した(対するのが京坂で刊行された同じような役者絵を中心とした浮世絵版画の「上方絵(かみがたえ)」「大坂絵」である)。]
わたしは或る日近くの町に行つて魚を求めて來ました。そのやうな祕密な計畫を家の者に覺られないやうに注意しながら、貰ふたびに蓄めておいた小遣錢をそつと土壺の貯金箱を割つて取り出し、市場に行つたのです。わたしの家は相當の舊家で、女中も何人も居ることなのに、市場に魚を買ひに行つたわたしを市場の人たちははじめは不思議さうにして居りました。しかしわたしが學校で有圖畫の寫生に使ふのに自分の好きな魚を自分で買ひに來たのだといつたので、はじめて市場の人も納得し、そこにあつたたくさんの魚のうちで一昔美しい鱗の剝げてゐないめばるを選んでくれました。買つて來た魚をわたしは小さい竹籠に入れて紐をつけ、椎の木のわたしが背のとどく枝の一番高い枝に吊しました。わたしは土藏の中の文獻によつて得た知識によつて、河童といふものがおほむね水中に棲むものではあるが、何かのために樹木に棲息するやうになつても、生理的に木の實よりも魚類の方を好むに違ひないといふことを信じたからです。わたしが魚を河童に進呈したことを曾祖母が見つけましたが、わたしの頭を撫でて笑ひながら、昔自分たちの小さい時分によく河童が出て來て自分たちと遊んだものだが、今はもう居るかどうかねえ、といひました。曾祖母の小さい時にはよく線香遊びといふことをやつたさうです。この椎の木の下の水たまりに火をつけた線香を立てる。それから十間ばかり離れてこちらから、河童さん河童さん出ておいで、と聲を揃へて呼ぷ。するとその線香の火がふつと見えなくなる。それは河童が兩手で火を包んでしまふからだ。それからまた、河童さん河童さんお歸りよ、といふ。すると今まで見えなかつた線香の火がまたぱつと赤く見えて來る。河童が兩手を開けるからだ。曾祖母はそんな話をしましたが、最後に今はそんな遊びを誰も忘れてしまつて、果して河童が今でも居るものやら居ないものやら自分も知らないといふのでした。翌る朝になつてわたしはまた背伸びをしながらその魚籠を下して見ました。その籠の中には昨日入れておいた魚の姿はなく、ただ底の方に硝子の玉のやうに二つの眼玉だけが殘されて居りました。もう河童がこの椎の木に今もなほ居るといふことは疑ふ餘地がありません。さうして父母が血相を變へてわたしが竹竿で椎の實を叩き落さうとしたことを咎めたことの意味がはじめてはつきりと諒解されました。それからわたしは毎日のごとく市場に通ひ魚を買つて來ては椎の木の梢に吊しました。魚は或る時は鰯(いわし)になり鱸(すずき)になりひこぜになり鯉になり茅渟鯛(ちぬ)になり鯖(さば)になり秋刀魚(さんま)になりました。さうしてわたしが籠を下してみるたびに、必ず魚の眼玉だけが食ひ殘されて居りました。河童が魚の眼玉が嫌ひであることは、私が黴くさい土藏の中で得た知識と全く一致して居りました。
[やぶちゃん注:「十間」十八・一八メートル。「ひこぜ」きらびやかな磯魚のベラの一種である顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ベラ科ササノハベラ Pseudolabrus sieboldi の異名。グーグル画像検索「Pseudolabrus sieboldi」をリンクさせておく。「茅渟鯛(ちぬ)」スズキ目スズキ亜目タイ科ヘダイ亜科クロダイ Acanthopagrus schlegelii の異名。]
さあ、椎の實をたくさんおあがりなさい。甘くて齒にあたらず嚙みわるとよい音がするでせう。こんなおいしい椎の實はよそでは食べられませんよ。風が出たせゐか、いくらでも椎の實が落ちて來ます。
さて、もう秋もかなり深く風なども時折、膚に冷く感ぜられるやうになつた頃の或る夜、わたしは深い眠りに落ちてゐたのですが、ふと誰かわたしを呼ぶ者があるやうな氣がして眼を醒ましました。天井には薄暗い電燈が點(とも)り、寢る前に枕元にひろげたままにしてあつた小學校の諸本があるほかには、別に誰もゐる樣子はありません。外にはいろいろな秋の蟲の鳴いてゐる聲がします。わたしはなにか思ひ違ひであつたと思つて、ふたたび寢床の中にもぐりこみますと、また確かにわたしの名を呼ぶものがあります。それがどうも家の中ではないやうに思ひましたので、何氣なく開き窓の方を見ますと、竹のつかい棒で屋根のやうに半分開けた窓の向かふに誰かがゐるのがわかりました。外は月が明るく煙つたやうな月光の中に、頭を振りみだした妙に口の尖つたものがゐて、小首を振りながら、小さく皿をたたくやうな聲を立てて何かいひ、しきりに手まねきをしてゐるのです。わたしはすぐにそれが椎の木に棲んでゐる河童であることがわかりましたので、着物を着なほし帶を締めてその開き窓の方に行きました。河童はわたしを見ると身體ごとお辭儀をするやうに二三度屈みましたが、皿をたたくやうなからんからんした聲で、日頃から度々魚の御馳走になることの禮を述べ、今宵は月もよいし海の方に出てみたいと思ふのだが、いつしよに行きませんか、といふのでした。なんによらず河童の申し出を斷るとよいことがないといふことをわたしは知つてゐましたし、それでなくともわたしは河童の勸誘をうれしく思ひましたので、それはたいへん愉快なことだといひますと、河童はそれではわたしがおんぶして行つてあげますから、この開き窓の閾(しきゐ)にお上んなさいといひます。小さいわたしはその高い窓に上ることが出來ませんので、襖を開けて脚達(ふみつき)を出し、窓の下まで引きずつて來て、やつとのことで開き窓の閾に乘ることが出來ました。さあといつて河童が向かふをむきましたので、わたしは背中に負ぶさりました。河童は見たところそんなに大きくはなく、どちらかといふと子供のやうに小柄であつたので、わたしは果して子供としては大柄であつたわたしを河童が負へるだらうかと危ぶんでゐたのですが、わたしが負ぶさつても河童は別に重さうにはせず、それどころではなく、まるで背中に乘つた瞬間に突然わたしの身體の重量といふものがすつかり消えてなくなつてしまつたやうに、河童は樂々として居るのでした。今夜は海岸に出て海をわたり島まで行つて見ませう。まあこれでも嚙りながらついておいでなさい、と河童はいつて、わたしの掌にひと摘みの椎の實をのせて月光の中を歩きだしました。歩くといひますが、足が地についてゐるものやらゐないものやら背中のわたしにはわかりません。それよりもわたしは河童の背中の甲羅がわたしの身體の蕊(しん)にまでも傳はつて來るやうなきびしい冷さで、その上生ぐさい臭氣のある靑黑い苔のやうなもので一面に掩はれ、うつかり手をゆるめるとずるりと、辷り落ちてしまひさうなのに閉口しながらも、月光の中にあらはれる景色にうつとりとなつて、無意識のやうに椎の實を嚙つてゐたのです。河童はなんにもいはずに進んで行きます。野をわたり川をすぎ丘を越えて行くうちに、煙のやうに霞む竹林が爽やかに鳴つてゐる音を聞き、空には月光を受けた雲がちぎれながら走るのを見、やがて白絹のやうに光る海濱に出ました。河童は汀(みぎは)にうちよせて飛沫をあげてゐる波の中にどんどん入つて行きましたが、やがて渚の音も後の方に遠ざかり沖へ沖へと出て行きます。河童は海の上を歩いてゐるのですが、足はいくらか水の中に入つてゐるのか時々下の方で水を切るかすかな音がします。月に霞む水平線にぽつんと一つの島が見えますが、そこまでが今夜の旅の行程のやうです。海上を渡る風がさわやかに頰をなぶり、なんともいへずよい氣持です。河童はときどき突然のやうに身體を跼(かが)めます。そのたびにわたしは落ちさうになつて、慌てて河童の肩をしつかりと摑みますが、河童は進んで行くうちに水面近くを泳いでゐる魚を見つけるとそれを捕へるために跼むのでした。時には捕へ損じて皿をはじくやうなペちペちといふ舌打を洩らしますが、概ねはうまく捕へそのまますぐにむしやむしやと食べてしまひます。やはりわたしが信じたやうに河童といふものは椎の實のやうな植物よりも生臭い魚類の方が比較にならぬほど好きなのです。河童は魚を頭から尾から骨まで殘らず丹念に食べてしまふのですが、眼玉だけは棄てて行きます。とぽんとぽんと眼玉の落ちる音が波の上でします。わたしは曾祖母から聞いた話を思ひだしました。昔古い頃の漁師は海上に魚の眼玉が浮いてゐるのを見ると、それは河童が魚をとつた場所であることを知つてゐて、早速そこの附近に網を入れると必ず大漁があつたといふことでした。星が降り落ちるやうに輝いてゐることが、周圍にはなにもない迥(はる)かな海原に出て來た時に珍しいもののやうにわたしの眼にうつりました。こんなにも天に多くの星があるといふことをわたしはそれまで知らなかつたのです。水平線の上の島影がだんだんせり出して來るやうに大きくなつて來ます。河童は相かはらずなんにもいはず、まるでわたしが背中にゐるといふことを忘れてしまひでもしたやうに、一心に魚を捕へることに熱中して、時々わたしを駭(おどろ)かせては身體を曲げて魚を捕へ、これを食べて眼玉をすてながら波の上を行きます。
ところが次第にわたしは困惑の頂上に達して來ました。はじめのたのしさはもはやすつかりなくなつて、わたしはほとんど色靑ざめて來ました。それはわたしの腹の中が妙に張つて來るとともに、わたしは迂潤(うかつ)にもそれまで忘却してゐた嚴しい傳説の掟に愕然として氣づいたのです。それは河童がなによりも人間の放屁が嫌ひであるといふことでした。それはわたしには嘗ては笑ひだしたいやうな飄逸(へういつ)な傳説でしたが、今この海上に來て河童の背の上で現實となつてあらはれて來た時に、わたしはほとんど膚に粟を生じ心は冷え切る思ひでありました。無意識のやうに口に含んでは嚙んだ椎の實がわたしの腹の中で次第に瓦斯(ガス)を釀成しはじめたことにわたしはやつと氣づいたのですぐこの時にならねばこの恐るべき掟を想起しなかつたとは、なんといふ迂愚なことでありましたらう。河童はいかに親しくして居るものであつても、ひとたび放屁の音を聞く時には最大の冷酷の仕打をするといふことは、わたしは充分に知つてゐたのです。わたしが今ここで放屁をすれば河童は怒つてたちまちわたしを海中に放棄して顧みないことは火を見るよりも明らかであります。わたしは腹を押へ、いかにしても島まで我慢しなくてはならぬと思ひました。河童はそんなことは無論氣づく筈もなく、しづかな水かきの音を立て相かはらず魚を捕へるために屈伸しながら月光に光る海上を進んで行きます。しかしながら人間の身體の生理はいかなる運命を誘致するとも避けがたいものでありませうか。わたしはもはや齒を喰ひしばり色靑ざめて我慢して居つたにもかかはらず、もうあまり遠くないと思はれる沖の島が眼前に大きくあらはれて來た時に、遂に最後の忍耐を失ひました。わたしは腹をしつかりと押へ、月と星との光る天を仰いで涙をたらし、父母と祖父母との名を呼び、遂に全く自分の意志がそこになかつたにもかかはらず放屁をしてしまひました。河童はふと立ち止り、ちらとわたしの方を振りかへりましたが、その時わたしはもう河童の背中から振ひ落され、海中深く人事不省になつて沈んで行つたのです。
氣がついた時にわたしは足にうすい水かきが出來てゐることを知り、噎(む)せるやうな強い椎の實の匂ひにおどろくと同時に、わたしはまつくらなわたしの周圍で騷雨(しうう)のやうにはげしい音を立てて椎の實の落ちる音を聞きました。
さあ月が出て來たやうです。これから沖の島に遊びに行きませう。椎の實をだいぶん食べましたね。殘りは持つて行つた方がよろしいでせう。わたしの背中に摑まんなさい。しつかり摑まつてゐないとわたしの背中の甲羅はずるずるしてゐるから辷りますよ。
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