小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章 私の極東に於ける第一日 序/(一)
[やぶちゃん注:それでは以下、第一章から順に電子化を行う。2015/06/17に記した冒頭注に記したことを再度述べておこう。
僕の得体の知れない不吉な塊を暫し忘れるため――カテゴリ「小泉八雲」を創始する。
孤独な私の愛する八雲――
その失われゆく日本の面影を日本人以上に愛おしんだ八雲――
最早、皆、忘れ去った霊の国日本を、誰よりも愛した八雲――のために――
訳文の後に、“Project Gutenberg” の“Hearn, Lafcadio, 1850-1904 ¶”の‘ Glimpses of unfamiliar japan ’のHTML版から、当該箇所の原文(必要と思われる原注は添えた。総ての注を示さなかったのは、有意な注は、日本の民俗を知らない読者へのものであるからであり、中には、ハーンが半可通で附した頭を傾げるようなものもあるからである。それは、後の小泉八雲に失礼となる、と思ったからでもある)を附した。但し、この電子化物は、原出版本(“Internet archive”のここで視認出来る)とは、体裁が異なる。本来なら、後者によって補正すべきであろうが、そうすると、恐ろしく時間が掛かるので、諦めた。それでも、気になった箇所は後者を参考に、修正してある。
踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いで、横書には馴染まぬから、正字化し、傍点「ヽ」は太字とした。明らかな誤字は、概ね、注して、訂してある。禁欲的に注を附した。 ]
知られぬ日本の面影 上卷
第一章 私の極東に於ける第一日
日本について間もなく出逢つた親切な英國人の敎授が、『是非とも成るべく早く第一印象を書いておきなさい。すぐ散つて了ひますから。一度消えたが最後、また心に浮びませんよ。しかもこの國で、いろいろ奇異な感に打たれなさるでせうが、最初の印象ほど魅惑を與へるものはありますまい」と告げて吳れた。私は今當時の急いだ手控に據つて、第一印象を寫し出さうとしてみると、魅惑的と云はんよりは寧ろ漠として捕捉し難い方で、何か一種の思ひ出せないものが、追憶の中から雲消霧散したことがわかる。私は友情の籠つた勸告に隨はうと決心し乍らも、それを閉却してゐたのであつた。あの最初の數週間は、室內にじつとして筆に身を委ねる譯にゆかなかつた。日本の驚嘆すべき都會の日光を浴びた街頭には、見たり聞いたり感じたりすべきものが、まだ其際なかなか澤山であつたから。が、假令あの最初の經驗のあらゆる忘れた感想を復活し得るにしても、それを言葉に表し、書いて留めておくことが出來るか、どうか疑はしい。日本の始めての妙趣は薰香のやうに觸れ難く發散し易い。
橫濱の外人居留地から、日本町の方へ初めて車に乘つて出掛けたのが、私に取つては日本の美に觸れた發端なのである。その車上の見物について思ひ出せるだけ、これから書く。
譯者註。英國人の敎授といふのは、當時
の東京文科大學御傭敎授チエムバリン氏
を指す。
[やぶちゃん注:ハーンが横浜に到着したのは――明治二三(一八九〇)年四月四日――のことであった(当時彼はアメリカ合衆国の出版社ハーパー社の通信特派員としての来日であったが、自身の扱いと契約内容に不満を抱き、翌五月にこの契約は破棄している。その窮境を救ったのが、本書の冒頭で献辞されている横浜海軍病院勤務の米国海軍主計官ミッチェル・マクドナルド(一八五三年~一九二三年:彼を紹介したのは古くからのハーンの友人女性であったビスランド嬢であった。住吉神社公式サイト内の月刊『すみよし』の中の風呂鞏氏の『八雲と震災との切れぬ縁、また一つ』という記事に、彼は『ハーン没後も小泉家の遺稿並びに版権の管理人として対外的な連絡折衝に当たり、実の家族のように遺族の面倒をみた。まさに小泉家の恩人である。退役後は横浜グランドホテル社長に就任したが、一九二三年九月一日、関東大震災が発生。マクドナルドはホテルから一度は避難したものの、燃え上がるホテルの内部にアメリカ人女性が残されたらしいという噂を聞き、再び建物に戻り、そのまま帰らぬ人となった。享年七十一歳。遺体はその日のうちに米艦の乗組員たちの手で瓦礫の下から運び出され、そのまま米極東艦隊の軍艦に乗せられて本国に運ばれ、ワシントン郊外の国立アーリントン墓地に埋葬された。小泉家では、マクドナルド氏の供養を行い、浄院殿法興密英居士の戒名をもらい、先祖の諸霊とともに過去帳に記載し、今でも毎日お経をあげているという』とある)と、彼の紹介で知り合ったチェンバレン(次注参照)で、それに加えて、かつてアメリカでの記者時代に知遇を得ていて当時は文部普通学務局長の地位に就いていた服部一三(嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)の斡旋によって、島根県立松江中学校英語教師としての滞在が可能となったのであった(ここは主に新潮文庫昭和五〇(一九七五)年刊の上田和夫訳「小泉八雲集」の上田氏編の年譜に拠った)。
「英國人の敎授」落合氏の注にある通り、また本書刊行時の冒頭で献辞されている、イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)である(ハーンとは同い年であった)。ポーツマス近郊のサウスシー生まれ。参照したウィキの「バジル・ホール・チェンバレン」によれば、『彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり』、日本についての事典や文法書、「古事記」などの英訳、アイヌや琉球の研究でも知られる。『「王堂」と号して、署名には「チャンブレン」と書いた』。彼は若き日、『オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した』という(以下、アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。明治六(一八七三)年『五月二十九日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌一八七四年から一八八二年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。ついで一八八六年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、一八八八年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、一八九〇年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、一八九九年初版、一九〇五年第二版)などの多くの著作を発表した。"Things Japanese"の中で新渡戸稲造の著作BUSHIDOに触れているが愛国主義的教授(nationalistic professor)と批判的である。さらに彼はW.B.メーソンと共同で旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である"A Handbook for Travellers in Japan"(一八九一年)も執筆し、これは多くの版を重ねた』(「マレー」(John Murray)はイギリスの出版社。ダーウィンの「種の起源」を出版したことで私でさえも知っている当時の超弩級の出版元である)。『一九〇四年ごろから箱根の藤屋(富士屋)に逗留し近くに文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、一九一一年離日』し、この時、『東京帝大名誉教師となった。以降はジュネーヴに居住した。箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道をチェンバレンの散歩道と別称している』と記す。因みにまた、後にドイツに帰化した反ユダヤ主義の政治評論家で脚本家であったヒューストン・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain 一八五五年~一九二七年)は彼の末弟であり、彼は作曲家リヒャルト・ワーグナーの娘を妻としたことから、彼もワーグナー家と晩年、交流があったともある。
「橫濱の外人居留地」これは単なる通称呼称であって、かつての外国人の強い行動制限を伴いながら、特異的に治外法権とされた狭義の外国人居留地の謂いではない。長崎に次いで横浜もいち早く明治一〇(一八七七)年に日本側の行政権が回復して事実上撤廃されていた(但し、他の居留地は依然として継続され、全国の居留地が一斉に回収返還されるのは明治三二(一八九九)年を待たねばならなかった。ここはウィキの「外国人居留地」に拠る)。因みに、ハーンが日本に帰化し、小泉八雲と改名したのは明治二八(一八九五)年秋のことであった。]
GLIMPSES OF UNFAMILIAR JAPAN by LAFCADIO HEARN
Chapter One My First Day in the Orient
'Do not fail to write down your first impressions as soon as possible,' said a kind English professor [Basil Hall Chamberlain: PREPARATOR'S NOTE] whom I had the pleasure of meeting soon after my arrival in Japan: 'they are evanescent, you know; they will never come to you again, once they have faded out; and yet of all the strange sensations you may receive in this country you will feel none so charming as these.' I am trying now to reproduce them from the hasty notes
of the time, and find that they were even more fugitive than charming; something has evaporated from all my recollections of them—something impossible to recall. I neglected the friendly advice, in spite of all resolves to obey it: I could not, in those first weeks, resign myself to remain indoors and write, while there was yet so much to see and hear and feel in the sun-steeped ways of the wonderful Japanese city. Still, even could I revive all the lost sensations of those first experiences, I doubt if I could express and fix them in words. The first charm of Japan is intangible and volatile as a perfume.
It began for me with my first kuruma-ride out of the European quarter of Yokohama into the Japanese town; and so much as I can recall of it is hereafter set
down.
一
一切新しく面白くで堪まらないので、何處へでも到る處へ轉がり行けと示す狂氣じみた手眞似の外は、何も車夫には通じない。こんな風にして、初めて日本の町を通つて行くと、今肉眼でまのあたりに分かる如く、從來書物では讀み夢にも描いでゐたが、全然知らなかつた極東に來て居るのだといふ實感が、心地よい驚異を以て感ぜられる。このや〻平凡な事實を初めて充分に意識するのにさへ、幾分空想的な趣がある。しかし私に取つては今日の天氣が神神しいほど麗はしいので、何ともいへなくこの意識が美化されてゐる。日本の春の冷かさと。雪を戴いた圓錐形の富士山から吹く嵐の浪で、ひんやりした朝の空氣には、名狀し難い快味がある。これは何等目立つた色合よりも寧ろ最も柔かで明澄な性質によるらしい。異常に透明淸潔な空氣は、ただ少許の靑味を帶びたばかりで、極めて遠方にある物像も驚くばかりにくつきりと焦點に集まる。日光はただ心地よいほどの暖さで、人力車はこれほどこぢんまりとした小さな乘物はない。して、草鞋をつけた車夫の被つた、踊るやうな、白い、松蕈形の帽子越しに見える町の風景は、いくら眺めても飽きないと思はれるほどの誘惑を有つてゐる。
一切のものが一寸法師らしく見える。靑い屋根を戴いた小さな家家、靑暖簾を吊つた小さな店頭、靑い著物をきて微笑を含んだ小さな人々など、人間と同樣に一切のものが、小さくて、奇異で、神祕的だからである。折折通つて行く丈の高い西洋人と、無茶な英語を使つた色々の廣告看板によつてのみこの幻覺は破壞される。が、かかる不調和は却て現實を高調するばかりで、決してこの可笑な小さな町の面白味を大層減じはしない。
町の土手から下の方を見通すと、見渡す限り旗が飜へつたり、紺暖簾が搖れたりして、それに皆和漢の文字が害いであるので、美しく、また神祕に見える中に、最初は妙に面白い混亂があるだけである。それは、すぐ目につくやうな構造裝飾の法則がないからである。建物は一軒一軒獨自の架空的な美しさを有して、一つとして他のものにきつかり似寄つたものはなく、且つ皆途方もなく斬新である。しかし、その附近で一時間も過ごした後には、奇異な破風を有して、多くはペンキを塗らぬ生地そのままで、一階は全部街路に向つて開き、また薄く細長い屋根が店頭へ日庇のやらに前へ傾いて、後ろは障子の立つてゐる二階の小露臺にまで及んでゐる、是等の低い、輕さうな木造の家の構造には、ある一般的方式のある事が漠然とわかつてくる。街路面より可なり高くした床に疊を敷いた小店の普通の樣式も、理解されてくるし、表號の文宇は、暖簾の上に浮動してゐるのも、金や漆で塗つた看板面に光つてゐるのも、一般に垂直の排列である事が悟られる。大概の服裝に於て優勢を占めてゐる紺色は、商店の暖簾に於ても矢張り大部分を占めてゐるのが目に立つ。尤も、晴やかな靑や白や赤(綠と黃はない)など、他の色もちよいちよい見える。それから勞働者の衣服にも暖簾と同樣、不思議な文字が書いてあるのが目につく。どんな唐草模樣でも、これ程の趣が出るもので無い。裝飾上幾分恰好を更へて書いた是等の文字には、一切意味を有せざる意匠圖案に於ては、とても見られぬ躍如たる均齊がある。職人の法被の背中で、紺地に眞白く、且つ遠くからでもよく讀める程、大きく文字が現れてゐると、(その法被を著た人が、或る組合員だとか、會社の使用人であるとかを示して)粗末な安い衣服も派手な技巧的の趣を呈する。
して、最後に、まだ事物の神祕に首をひねつてゐる內に、これらの町町の不思議な美麗さの大部分は、全く白、黑、靑又は金色で、一切のものを――玄關柱や障子の表面さヘ――飾れる漢字と日本字が、充滿橫溢してゐるに基くといふ事が、濶然開悟されてくるだらう。恐らくはその刹那、乙れらの魔力的文字に代ふるに英字を以てした結果が、想像に上る事もあるだらう。すると、少しでも審美情操を有する人は、それを思つただけでさへ、殘忍なる激動を感ずる事であらう。して、私と同じく、羅馬字會――日本語を書くに英字を使用するといふ、醜惡なる實利のため創められた會――の敵となるだらう。
[やぶちゃん注:「羅馬字會」明治一八(一八八五)年にローマ字を推進する団体として矢田部良吉・外山正一らによって「羅馬字会(ろーまじかい)」が創立され、二年後の明治二十年頃には会員数七千人を越え、同年四月には綱領(ローマ字書き)が決定されて六月からは機関誌『Rōmaji Zassi』(月刊)が発刊されている。明治三八(一九〇五)年にはローマ字論者の大同団結を図る組織として「ローマ字ひろめ会」(RHK)が組織され、当初、綴りは会員各人の自由とされたが、その後、会としてヘボン式を正式に採用した。なお、参照したウィキの「ローマ字論」には最後に、『第二次大戦後に日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は』、昭和二一(一九四六)年三月三十日に『アメリカ教育使節団に日本の教育改革案第一次教育使節団報告書を作成させた。そこには日本語に使用される文字数(特に漢字)が異常に多いために日本語の習得は困難であり、それは日本の民主化を遅らせると考え、文字数を減らすために日本語の主たる表記をローマ字とすべきだと主張した。当時の新聞社にも賛成の者が多かった。印字が楽になるからである。その後、GHQ/SCAPは日本の識字率の調査を行ったが、識字率が高かったため、結局ローマ字論は実行に移されなかった』とある。身の毛もよだつとは、このことを言う。因みに「公益社団法人日本ローマ字会」は現在も健在である。]
Sec. 1
It is with the delicious surprise of the first journey through Japanese streets—unable to make one's kuruma-runner understand anything but gestures, frantic gestures to roll on anywhere, everywhere, since all is unspeakably pleasurable and new—that one first receives the real sensation of being in the Orient, in this Far East so much read of, so long dreamed of, yet, as the eyes bear witness, heretofore all unknown. There is a romance even in the first full consciousness of this rather commonplace fact; but for me this consciousness is transfigured inexpressibly by the divine beauty of the day. There is some charm unutterable in the morning air, cool with the coolness of Japanese spring and wind-waves from the snowy cone of Fuji; a charm perhaps due rather to softest lucidity than to any positive tone—an atmospheric limpidity extraordinary, with only a suggestion of blue in it, through which the most distant objects appear focused with amazing sharpness. The sun is only pleasantly warm; the jinricksha, or kuruma, is the most cosy little vehicle imaginable; and the street-vistas, as seen above the dancing white mushroom-shaped hat of my sandalled runner, have an allurement of which I fancy that I could never weary.
Elfish everything seems; for everything as well as everybody is small, and queer, and mysterious: the little houses under their blue roofs, the little shop-fronts hung with blue, and the smiling little people in their blue costumes. The illusion is only broken by the occasional passing of a tall foreigner, and by divers shop-signs bearing announcements in absurd attempts at English. Nevertheless such discords only serve to emphasise reality; they never materially lessen the fascination of the funny little streets.
'Tis at first a delightfully odd confusion only, as you look down one of them, through an interminable flutter of flags and swaying of dark blue drapery, all made beautiful and mysterious with Japanese or Chinese lettering. For there are no immediately discernible laws of construction or decoration: each building seems to have a fantastic prettiness of its own; nothing is exactly like anything else, and all is bewilderingly novel. But gradually, after an hour passed in the quarter, the eye begins to recognise in a vague way some general plan in the construction of these low, light, queerly-gabled wooden houses, mostly unpainted, with their first stories all open to the street, and thin strips of roofing sloping above each shop-front, like awnings, back to the miniature balconies of paper-screened second stories. You begin to understand the common plan of the tiny shops, with their matted floors well raised above the street level, and the general perpendicular arrangement of sign-lettering, whether undulating on drapery or glimmering on gilded and lacquered signboards. You observe that the same rich dark blue which dominates in popular costume rules also in shop draperies, though there is a sprinkling of other tints—bright blue and white and red (no greens or yellows). And then you note also that the dresses of the labourers are lettered with the same wonderful lettering as the shop draperies. No arabesques could produce such an effect. As modified for decorative purposes these ideographs have a speaking symmetry which no design without a meaning could possess. As they appear on the back of a workman's frock—pure white on dark blue—and large enough to be easily read at a great distance (indicating some guild or company of which the wearer is a member or employee), they give to the poor cheap garment a fictitious appearance of splendour.
And finally, while you are still puzzling over the mystery of things, there will come to you like a revelation the knowledge that most of the amazing
picturesqueness of these streets is simply due to the profusion of Chinese and Japanese characters in white, black, blue, or gold, decorating everything—even surfaces of doorposts and paper screens. Perhaps, then, for one moment, you will imagine the effect of English lettering substituted for those magical characters; and the mere idea will give to whatever aesthetic sentiment you may possess a brutal shock, and you will become, as I have become, an enemy of the Romaji-Kwai—that society founded for the ugly utilitarian purpose of introducing the use of English letters in writing Japanese.
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