日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十章 陸路京都へ モース先生茶の湯体験記 その一
図―651
我々が招かれたお茶の儀式は、非常に興味が深かつたので、私はいくつかの細部を見逃したには違いないが、それに関する丹念な心覚えを書きとめた。夏の茶の部屋は、母家から十フィートばかり離れた、独立した小さな家である。この、十五フィート四方の小さな建物は、特に茶の湯のためにつくられたので、すべての装備が極度に簡素であった。茶の家と母家との間には石の径があり、その一方の側には水を入れた大きな石の容器があった。粉末にした茶を儀礼的に供することを、真に評価する為には、これ等の細目を記述する必要がある。鐘が鳴って我々――権左と木村と私――は、茶の部屋に面した廊下の、丸い布団の上に坐った。(図650のA)。茶の家の名は、長い陶製の瓦の上に、四字で書いてあった。直訳すると「風、月、清い、厩舎」であるが、完全に訳すと「風と水との如く清潔で明透な小さな家」ということになる(図651)。
[やぶちゃん注:以下、前段で注した通り、陶工初代村瀬八郎右衛門に招待された茶席観察の詳述である(文字通り驚くべき細かさである!)。名古屋での滞在は四日間であったから、これは明治一五(一八八二)年八月三日(木)か、或いは名古屋を発つ前日(五日の夜出立)である四日(金)のことであったかと推定される。]
図―652
我々がここに坐って、その家を眺めていると、その辷る衝立を横に押し明け、娘のみきが両手両膝で這い入り、石の水甕から漆塗の木造容器に水を充して元へ戻り、後から衝立を閉めた。彼女は最初に茶の家に入る時、地上のいくつかの石の上を歩き、そして石の踏段の上に彼女の草履を、図652にある如く一方を他方によりかけて脱いだ。数分後我々は茶の家に行けといわれた。木製の草履が我々の足もとに置かれ、我々がこれをはいて、真面目にヒョコヒョコ石甕の所へ行くと、そこに主人が立っていて、小さな木の柄杓で我々の手に水をかけ、我々に手拭を供した。手を拭き乾した我々は、衝立を明け、上から半分の所まで下っている組格子の衝立の下を、両手両膝で這って、家の内へ入った。我々は先ず床の間(部屋の壁龕)へ躙(にじ)り寄って、極めてさっぱりした懸け物を眺め、次に落ち込んだ炉へと躙って行ったが、これは三角形の場所で、その中に若干の石があり、石の上に香の箱が置いてあった。そこで再び部屋の他の側へ行き、一列に並び、黙っていた。如何にも真面目で厳粛なので、茶の湯を宗教上の儀式だと記述した筆者もある。部屋は簡素を極めていた。天井は暗色の木材の、薄くて幅の広い片を、筵のように編んだもの、稜角や、出張りや引込みは竹、あるいは木の自然の枝で出来ていて、壁はあたたかい、褐色めいた土で塗ってある。この部屋の簡単さと、絶対的な清潔さとは、顕著なものであった【*】。
* この部屋は『日本の家庭』の一五三頁に描出してある。
[やぶちゃん注:これは以下に示した“Japanese homes and their
surroundings”(1885)の“FIG. 131. TEA-ROOM IN FUJIMI POTTERY, NAGOYA.”を指す。ここでは斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第三章 家屋内部」の「茶室」から、六つの図総てを引いておく(本文もすこぶる興味深い内容であるが、何分にも長く全部を引くことは許容される引用の域を越えると判断されるので、一三一図の箇所だけを図の後に引いておいた。なお、英文キャプションは原典のそれを視認して忠実に電子化して附したものである。
FIG. 130. TEA-ROOM IN NAN-EN-JI TEMPLE, KIOTO.
FIG. 131. TEA-ROOM IN FUJIMI POTTERY, NAGOYA.
《引用開始》
一三一図は、名古屋不二見焼窯元にある一風変わった茶室を示したものである。訪問したおり、この茶室で、ここの陶芸家の令嬢がお茶を点て、もてなしてくれた。部屋は簡素そのものであるが、先に図示したものに比べればかなり華やかである。天井は帯状の挽き割を並べて桟で留めたもので、竹や赤松材が横木や柱に用いられている。床の間の床柱は竹で、図の左の端に見えている。この茶室の炉は三角形であった。
《引用終了》
老婆心乍ら、「点て」は「たてる」と読む。老婆心乍ら、「点て」は「たてる」と読む。なお、左の床柱の中央やや下の白く周囲の抜けた「ヽ」は、引用元訳本の印刷上のヨゴレであって、原典にはない。原典画像からトリミングして試してみたが、ヤケが著しく、補正すると画像が荒くなるので、仕方なくこちらを採用した。
FIG. 132. TEA-ROOM IN MIYAJIMA.
FIG. 133. KITCHEN FOR TEA-UTENSILS.
[やぶちゃん注:“utensil”は道具で、これは茶室の「水屋」の図である。]
FIG. 134. TEA-ROOM IN IMADO, TOKIO.
FIG. 135. COENER OF TEA-ROOM SHOWN IN FIG. 134.]
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