橋本多佳子句集「命終」 昭和三十四年 長浜/薪能/壬生大念仏/桜狩/由布 昭和三十四年~了
長浜
夕冴ゆる雪嶺ちりめん織られゆく
灰削げば真紅な炭火ちりめん織る
冬日移るちりめん白地一寸織られ
機絲の凍て柔指にほぐれ出す汐
ちりめん織る冬の一日の時間の量
寒き光織子の頰の総生毛
絲の継傷ちりめんの白地冴え
織子寒し千の縦絲一本切れ
凍て機の縦絲を搔き鳴らして検(み)る
雪嶺下藍つぼ紅つぼ深し深し
湖北尾上
沈み友禅寒水の流れゆるみ
鴫群の鴨翔つ従ひしは数羽
雪明りこゑももらさず餌場の鴨
鴨毟る雪降らざれば止まぬなり
鴨浮寝はぐれし一羽降り来たり
はぐれ鴨加はりすぐに夜の鴨
春雷のあとの奈落に寝がへりす
[やぶちゃん注:底本年譜昭和三四(一九五九)年一月の条に、『琵琶湖の長浜で、ちりめん工場を見学する、清子同伴』とある。ここ滋賀県長浜市を中心に製される縮緬は「浜ちりめん」と称し、高級絹織物の総称で滋賀県の地場産業である。「丹後ちりめん」とともに古えよりの縮緬の二大産地の一つである。ウィキの「浜ちりめん」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『古文書(『古事記』及び『風土記』)によれば、古く元明天皇の和銅五年(七一二年)に『近江国他に令を始めて綾絹を織らしむ』。光孝天皇の仁和三年(八八七年)には『近江等の国より絹を貢す』と記されている。又、平安時代の記録では蚕糸生産において上糸生産の筆頭の国とあり、近江では太古より絹織物が織られ、上質の糸を生産していたことがわかる』。近世の天正年間(一五七三年~一五九一年)には『大明国の職工が泉州堺に渡来し、日本に伝えられたとされる。豊臣秀吉による天下統一後『ちりめん』生産の中心は堺から京(西陣)に移り』、享保年間(一七一六年~一七三五年)になると、縮緬技術は丹後の加悦谷や峰山にも伝えられたという。『『浜ちりめん』の始まりは江戸時代中期に、近江浅井郡大郷村(現滋賀県長浜市)の中村林助と乾庄九郎により丹後より技術がもたらされ、大郷村の南浜、中浜、八木浜で手工業として織られていた『ちりめん』が長浜に集荷され、京・大阪方面で販売されたものとされる。長浜の『ちりめん』であることから浜ちりめん(長浜ちりめん)と呼ばれた』。名織師であった『中村林助と乾庄九郎が生まれた大郷村難波は、度々起こる姉川と高時川の氾濫による水害によって年貢米も納めかねるほど疲弊していた。水害に強い桑を植え養蚕に力を入れていたが、江戸時代中期には生糸の値段が下がり、大郷周辺の村々は困窮の極みに達していた。林助と庄九郎はこの状態を何とかしたいと考えていたところ、近隣の上八木村に蚕紙を買いに来た丹後宮津の商人庄右衛門から、「丹後では『ちりめん』織りを始めてから農民にも余裕ができるようになった」との話を聞き、早速『ちりめん』織りの技術を学びに丹後に行き、又、丹後から庄右衛門に来てもらい、村の人達に技術を伝えた。林助と庄九郎は宝暦二年十二月(一七五三年一月)領主である彦根藩に届を出した上で、農閑期に『ちりめん』を織りそして販売することを始めた。これが『浜ちりめん』の最初と伝えられ、中村林助と乾庄九郎の二人は『浜ちりめん』の創始者と言われ』ているという。その後、縮緬織の『生産はすぐに大郷村周辺から長浜全域へと広がり、琵琶湖を通って京でも販売されるようになった。これに対して京の業者達が「自分たちの営業を妨げるもの」として京都町奉行に訴えでたことから、林助と庄九郎は「(浜ちりめんを京で売ったのは)私利ではなく、村の困苦を救うため」と弁解したが、許されずに京での販売を禁じられた上、捕縛・入獄させられてしまった。村人の嘆願や領主である彦根藩からの働きもあり、漸く四年後解き放たれると共に、『浜ちりめん』の京での販売も認められることになった。この時、林助と庄九郎は大変喜び、西陣に勝ったことから、自分たちのちりめんを『西勝ちりめん』と呼んだ。彦根藩は林助と庄九郎の功績を称え、二人を『浜ちりめん』の織元に任じ、製品の検査を行わせ検印料徴収の特権を与えた。これにより、織元の検印を得られない粗悪品は販売できないことから、製品への信用力を得ることができ、彦根藩は『浜ちりめん』を年貢の対象とし、藩が保護した結果重要な特産品として発展』、浜縮緬は近江商人特に湖東地区の商人によって全国的に売られるようになった。しかし、『明治時代に入り、彦根藩による保護、統制が無くなると粗製乱造されたため、一時全国において信用を大いに失った』。しかし、明治十九年(一八八六年)三月の農商務省令によって『近江縮緬絹縮業組合が創設され、同組合による統制と県の支援による指導研究と機械化推進により、現在まで重要な地場産業の一つとして発展した。滋賀県は大正四年(一九一五年)サンフランシスコで開かれた万国博覧会に『浜ちりめん』を出展し輸出を志向したが、輸出が盛んになることはなかった』。浜縮緬の特徴は、『強撚糸を用いシボ(さざ波のような生地上の皺)の高い重目の無地織物を主体とする。『丹後ちりめん』は平織地に文様を織り出した綸子などの紋織物を主体と』し、『種類としては、シボの高い最高級の『一越ちりめん』、『古代ちりめん』、縦糸横糸を撚糸の工程で変化させた『変わり織ちりめん』、絹の紡織糸を使って織った『浜つむぎ』がある』とある。
「湖北尾上」現在の滋賀県長浜市湖北町尾上地区。JR北陸本線の長浜駅から西北へ凡そ十キロメートルの位置にある琵琶湖畔にある温泉街、琵琶湖漁業の古くからの漁港でもある。嘗ては縮緬工場も多くあったという。]
薪能
薪能枝を入日に枯桜
春夕べ舞の女面の狭き視野
咽喉笛を女面の下に薪能
薪能執しあひつつ二夕火焰
薪能雑色のみに火の熱気
薪能火焰熱しと眼に観じ
薪能悔過の女面を火の粉責め
[やぶちゃん注:何処の薪能か不詳。識者の御教授を乞う(年譜に記載なし)。最後の句の「悔過」は「けか」と読み、仏教用語で罪や過失を懺悔すること、或いは儀式の上で仏菩薩等の前で自らが犯した身体的行動上の罪悪・言動上の罪悪・心理的精神的罪悪意識を懺悔することを指す。]
壬生大念仏
「壬生念仏」は黙劇で、鉦・太鼓・笛につれ
て口中念仏を唱へつつ、狂言が演ぜられる。
中でも「抱烙割」が代表的。
目つむれば鉦と鼓(こ)のみや壬生念仏
壬生念仏とても女(め)なればみめよき面(めん)
壬生念仏身振りの手足語りづめ
壬生念仏「喰はれ子」鬼に抱へられ
炮烙割れし微塵の微塵壬生念仏
春の日を壬生念仏が牽きとどむ
天に蝶壬生念仏の褪せ衣
[やぶちゃん注:「壬生大念仏」壬生狂言(みぶきょうげん)のこと。元来は大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)の一種で、濫觴は融通念仏(大念仏)の中興者円覚上人による念仏の教えを無言劇化したものとされる。融通念仏は、摂津国の大念仏寺(大阪市平野区)を根本道場として良忍(聖応大師)によって始められたもので、これはその方便してその教化のために創作された念仏狂言という。後に京の清凉寺や壬生寺などでこれを発展させた融通念仏が盛んになり、壬生寺・清凉寺・千本閻魔堂・神泉苑には円覚上人による原初に近い大念仏狂言が伝えられているという(ここはウィキの「大念仏狂言」に拠る)。ウィキの「壬生狂言」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、これは毎年節分と四月及び十月に京都市中京区の壬生寺(みぶでら)で演じられる無言劇である(現在は重要無形民俗文化財指定)。約七百年の歴史を持ち、演目は現存三十曲に及ぶ。『仮面をつけた演者が、鉦・太鼓・笛の囃子に合わせ、無言で演じる。演目は全部で三十ある。演目には、勧善懲悪などの教訓を伝える話や、平家物語・御伽草子などに取材した話がある。煎餅を観客席に投げる(愛宕詣り)、紙でできた糸を観客席に投げる(土蜘蛛)、綱渡りをする(鵺)(蟹殿)、素焼きの皿(焙烙)を割る(炮烙割り)といった派手な見せ場を持つ演目もある。鉦と太鼓の音から「壬生寺のカンデンデン」の愛称で親しまれている』。『壬生狂言を伝承し演じるのは、壬生大念仏講中の人々である。地元の小学生から長老まで約四十人が壬生大念仏講中を構成し、学校通い、会社勤め、商いなどの本職のかたわらに練習をし、公演をして』おり、現在の公演は年三回で、二月の節分前日と当日の二日間の節分会、四月二十九日から五月五日までの七日間の大念仏会、十月の「体育の日」までの三日間の秋の特別公開に限られている。多佳子はわざわざ「壬生大念仏」という標題を掲げているから、この四月二十九日から五月五日までの七日間の大念仏会での嘱目吟と思われるが、年譜には記載がない。既に述べているが、鎌倉末期の正安二(一三〇〇)年、『融通念仏宗の円覚上人によって創始されたと伝えられている融通念仏の狂言』で、『拡声器のない時代に、仏教を群衆にわかりやすく説くために、大げさな身ぶり手ぶりで表現する無言劇の形態が採用されたという。念仏狂言が無言劇化した理由については、本来、大衆が念仏をする前で行なわれたものであったために、台詞を発しても念仏の声にかき消されて伝わらないので無言になったとする説もある。なお、同じ念仏狂言でも、千本閻魔堂のものは、台詞入りで行なわれている』とあり、『江戸時代になると、布教活動としての色彩が薄れ、大衆娯楽として発展した。能や狂言、物語に取材し、新しい演目が考案された』とも記す。以上の引用や多佳子が特に挙げる演目「炮烙割(ほうらくわり)」は特に『四月の大念仏会の公演では、必ず毎日の最初に催される演目であり、二月の節分会の際に奉納された』多量の炮烙が』、この演目の最後に派手に割られることで知られる(私は同寺へ行ったこともなく、未見)。『炮烙が割れると願い事が成就するとされている』と解説にある。当該壬生狂言演舞をSankeiNews 氏のアップした「炮烙割」の動画で見られる。かなり豪快に割られるのが判る。必見。
『壬生念仏「喰はれ子」鬼に抱へられ』という句は何の演目を言っているのかよく分からない。鬼子母神を考えたが、演目一覧から見るとそれらしいのは「安達が原」ぐらいか? 識者の御教授を乞う。]
桜狩
つづみうつ肉手丁々都踊
修学旅行緘黙紅き都踊
桜狩葬煙をいぶかりもせず
*
花桐や城址虚しき高さ保(も)つ
城址の記憶落窪と金鳳華
密集の金魚に選別手網(たも)入れる
幣ひらひら夜も水口(みなぐち)の神います
まくらせる北の空にてほととぎす
暁の雨蛙また枕ひびく
ひた翔くるこゑほととぎす鳴いて過ぐ
仰臥する胸ほととぎす縦横に
噴き出づる汗もて汗の身を潔め
麦の秋無縁の基に名をとどめ
十薬の匂ひにおのれひき据ゑる
[やぶちゃん注:底本年譜に、この昭和三十四年の『初夏、「七曜」吟行句会で、大和郡山市の郡山城址、金魚養池等を吟行』と記す。私は行ったこともなく、興味もないのでこれ以上の注は附さない。正直、晩年の多佳子の句柄には全体に彼女らしいキレがなくなってしまっている。目の止まる句も頗る少ない。セレブ女流俳人の好き勝手我儘放題なアバンチュール嘱目吟にはどうも親近感が湧かぬというのが本音である。悪しからず。]
由布
NHK・二六会の仲間とこがね丸にて別府・
由布原へ旅立つ。
炎天に冥きこゑごゑ蜂巣箱
翅のうなりが蜂の存在青裾野
近づき過ぎバスに由布岳青胴のみ
青双丘乳房と名づけ開拓民
志高湖
湖底に合す鶴見青裾由布青裾
昼浴衣地獄げむりを身に纏きて
過去見るかに老婆泉を長眺め
蜜まづき花のかぼちやに遠来し蜂
[やぶちゃん注:底本年譜に『七月、NHK二六会員と、こがね丸にて、別府、由布原へ旅行。由布高原をドライブ、志高湖へ』とある。「NHK二六会員」不詳。興味なし。「こがね丸」不詳。同前、興味なし。「由布原」由布高原の旧地域名と思われるが不詳。同前、興味なし。「志高湖」「しだかこ」と読む。現在の大分県別府市内の鶴見岳南東側山腹にある湖。現在は「阿蘇くじゅう国立公園」に含まれ、戦前は「別府三勝」の内の一つとして有名であった別府を代表する観光地の一つ。海抜約六百メートルの高原にあり、周囲約二キロメートル・湖面積約九万平方メートル・水深約二~五メートル。貯水量約二百五十キロトン。『キャンプ場、管理釣り場、貸しボート等の施設が整備されており、湖には白鳥が遊び、鯉が放流されている。また、南東側に位置しハナショウブの名所として名高い神楽女湖とは、遊歩道で結ばれている』。『この湖には流入する川がないため、ポンプで汲み上げた地下水を給水している。しかし、アオコの発生により水質が悪化することがあるため、湖水の浄化のために琵琶湖固有種のイケチョウガイの試験的な導入が進められている』ものの、グーグル画像検索「志高湖」を見ると景観としては実に美しいが、現況の観光事業開発としては誘致その他に大失敗した部類に入る状況下にあることが参照したウィキの「志高湖」から判る。]
*
踏みゆるめばすぐに低音稲扱機
豊年や走れば負ひ子四肢をどる
三つ星がオリオン緊める新ラ刈田
乳母車坂下りきつて秋天下
噴水を白らめ川霧とどこほる
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