小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (二)
二
晃が私の室の戸口で、辭儀をして微笑んでゐる。彼は草履を脱ぎ、白足袋を穿いたまま入つて、今一度微笑んで辭儀をしてから、靜かに進めた椅子に就いた。晃は愉快な靑年である。鬚のない滑かな顏、淸らかな靑銅色の皮膚、それに紺色の蓬髮は、目元まで額に垂れてゐるので、濶袖の長い衣を著てゐると、殆ど日本の若い娘の姿に見える。
私は手を叩いて茶を呼んだ。葉卷煙草を薦めたが、彼は辭退した。しかし、私に斷わつて、彼の煙管で喫煙すると云つた。そこで、煙管入れの鞘と、煙草入れの囊を聯結したものを帶から外づし、煙管入れからは、漸つと碗豆大の雁首の皿が附いてゐる眞鍮製の小管を引き出し、囊からは毛のやうに細かく刻んだ煙草を取り出して、それを小さく丸めて煙管に詰め込んで、吸ひ始めた。煙を肺に吸つては、鼻孔からまた吐き出す。半分間ほどづつ間を置いて、三囘輕く吸つて、煙管を空けてからもとの鞘に收めた。
その内に私は晃に私の矢望談を語つた。
晃は答へた。「何、今日私と藏德院へ散歩に御出でになれば、御覽になれますよ。今日は佛生會に當りますから。が、極小さい、五六寸の高さです。もし大きな佛像を御覽になりたいなら、鎌倉へ御出掛けにならねばなりません。そこには蓮華の上に大佛が坐つてゐます。五丈の高さです」
それで、私は晃の案内で出かけた。「何か珍らしいものを御目にかけませう」と彼は云つた。
[やぶちゃん注:このシークエンスは晃の台詞の「佛生會」(「ぶつしやうゑ(ぶっしょうえ)」)によって、この明治二三(一八九〇)年四月八日(当日は火曜日)であることが判明する。
「濶袖」は「ひろそで」と読み、和服の袖口を縫わずに全部開けてあるもの。どてらの袖のようなタイプ。
「藏德院」平井呈一氏も同じく『蔵徳院』としておられるが、これは思うに「增德院」の誤りであろうと思われる。増徳院は現在は横浜市南区平楽にあり(市大センター病院の南東六百メートル)、高野山真言宗の準別格本山で正式には海龍山本泉寺増徳院という(因みに晃の宗旨は真言宗である旨の記載が前章冒頭に出た。なお、真言宗の修学僧であった彼が曹洞宗の本覚寺で修行をしていたとしても、これは何らおかしくはない。修学や仏教道場としての寺について今更くだくだしく説明するのも馬鹿馬鹿しいので、禅宗を信仰してない人間が坐禅を組みに来るのをおかしいとは誰も言わぬのと同じことだとだけ言っておく)。まずはウィキの「増徳院」を見て頂きたい。そこには、実はこの寺は元は元町一丁目(現在の「元町プラザ」の一角)にあった。しかもその背後に連なる『現在の横浜外国人墓地は境内墓地であった』とあるのである。これは地図を見て頂ければ分かる通り、元町商店街の海側の端、堀川の右岸直近で、旧居留地とは谷戸橋で繫がる極直近であったことが判るのである。これによって、晃が俥でなく徒歩の「散歩」と称し、次の「三」章が一気に寺の本堂前の参拝する人々のざわめきから始まるのも、まさにこれが元町の増徳院であったことを物語っているのである。次に「東神奈川・保土ヶ谷・弘明寺旅行 クチコミガイド」の「増徳院(横浜市南区平楽)」を見る。大同年間(九世紀初頭)の『創立といわれているが、記録は残っていない。現在の元町プラザの場所にあったお寺である。古くから町の人たちの信仰の中心的存在であった。関東大震災』で被災後、昭和三(一九二八)年になって現在地の南区平楽一〇三に『再建され、戦災を経てそのほとんどが平楽へ移転した。現在、元町にあるのは』、昭和四七(一九七二)年に『再建された薬師堂のみである』。『幕末になって、この寺の墓所をペリーの意向で外国人の墓地に提供したことから現在の「山手外国人墓地」が誕生した。ペリー艦隊のミシシッピ号船員ウィリアムズの葬式が行われたときは、葬儀の列は街中を太鼓の音に合わせて行進し、住民たちは家や店から出てきて見物した。そのとき埋葬された場所は増徳院の境内の丘であった。しかし、日米和親条約によって伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、ウィリアムズの遺体は』この三ヶ月後に『玉泉寺に改葬されている。また、こうした太鼓は戊辰戦争には官軍に取り入れられている』とある。
「佛生會」釈迦の生誕を祝う仏事。本邦では現行通常は新暦四月八日に行われている。ゴータマ・シッダッタが旧暦四月八日に生まれたとする伝承に基づく。灌仏会(かんぶつえ)・花会式(はなえしき)・花祭(はなまつり)・龍華会(りゅうげえ)などとも呼ぶ。
「五六寸」十五~十八センチメートル。
「五丈」十五・一五メートル。実際の鎌倉高徳院の銅造阿弥陀如来坐像は台座を含む総高十三・三五メートル仏身高は十一・三一二メートルである(高徳院公式サイトのデータに拠る)。]
Sec. 2
Akira
is bowing and smiling at the door. He slips off his sandals, enters in his
white digitated stockings, and, with another smile and bow, sinks gently into
the proffered chair. Akira is an interesting boy. With his smooth beardless
face and clear bronze skin and blue-black hair trimmed into a shock that
shadows his forehead to the eyes, he has almost the appearance, in his long
wide-sleeved robe and snowy stockings, of a young Japanese girl.
I clap
my hands for tea, hotel tea, which he calls 'Chinese tea.' I offer him a cigar,
which he declines; but with my permission, he will smoke his pipe. Thereupon he
draws from his girdle a Japanese pipe-case and tobacco-pouch combined; pulls
out of the pipe-case a little brass pipe with a bowl scarcely large enough to
hold a pea; pulls out of the pouch some tobacco so finely cut that it looks
like hair, stuffs a tiny pellet of this preparation in the pipe, and begins to
smoke. He draws the smoke into his lungs, and blows it out again through his
nostrils. Three little whiffs, at intervals of about half a minute, and the
pipe, emptied, is replaced in its case.
Meanwhile
I have related to Akira the story of my disappointments.
'Oh,
you can see him to-day,' responds Akira, 'if you will take a walk with me to
the Temple of Zotokuin. For this is the Busshoe, the festival of the Birthday
of Buddha. But he is very small, only a few inches high. If you want to see a
great Buddha, you must go to Kamakura. There is a Buddha in that place, sitting
upon a lotus; and he is fifty feet high.'
So I go
forth under the guidance of Akira. He says he may be able to show me 'some
curious things.'
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