小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第五章 盆市にて (一)
第五章 盆市にて
一
丁度午後五時過ぎだ。夕嵐が立つて、私の書齋の開いた戸から吹込んで、卓上の書類を 亂し始めた。それから、日本の太陽の白熱光も薄い琥珀色になりかけて、日中の暑さが終はつたことを告げた。碧空に一片の雲もない――この世界中最も淸淨靈妙な空には、極めて乾燥の天候に於でも、絹の如き浮滓の幽靈とも見ゆる、美しい白い纎維のやうなものが、いつも浮遊してゐるのであるが、今日はそれさへ見えない。
戸の處に不意に影が差した。佛教の靑年學生の晃が敷居に立つて、室に入らんとして白い足から草履を脱ぎ、地藏の如く微笑してゐた。
『やあ、今晩は、晃君』
『今夜盆市が開かれますが、御覽になりますか?』と、晃は蓮座の佛陀の如く床に坐つて云つた。
『晃君、私はこの國のものは何でも見たいのだ。が、盆市は何んなやうなものです?』
晃は答へた。「盆市は死んだ人々のお祭に要る一切の品物を買る市場です。そのお祭は明晩から始まります。寺々の佛壇、善良な佛教信者の家々の厨子が、皆飾られるのです』
『それでは是非盆市を見たい。また家庭の佛壇をも見たいものだ』
『承知致しました。私の室へお出で下さいませんか?』と晃が聞いた。『それは遠くはありません。石川町を越えて、永久町に近い、老人町です。そこには佛間があります。して、途中で盆供養のことをお話申上げませう』
かやうにして、始めてこれから次に書かうとする事どもを教へられた。
[やぶちゃん注:次の章の冒頭で分かるが、この盆市は旧暦で行われている。従って、これは旧暦七月十三日よりも前と考えるべきであろうと考えている。実際に横浜では現在でも旧暦で盂蘭盆を行う習慣が旧家には残っているとも聴くからである。因みに明治二三(一八九〇)年の旧暦の七月十二日は新暦八月二十七日水曜日、参考までに同年の新暦八月十五日金曜日は旧暦では未だ六月三十日である。その後、私はこの日程推定には無理があることが判って来た。何故というに、実はハーンが松江に到着したのは八月三十日(土曜)であることが知れたからである。さればここは素直に新暦の八月十二日(火曜)以前と考えざるを得ないことになった。
「浮滓」「ふし」と読み、浮遊する白っぽい綿のような塵芥を指す言葉と考えるが、ハーンの来日が四月四日でここまでは総て横浜市内での行動であることから考えると、彼が不思議に浮遊するゴーストリーな、霊的な、魂のような白っぽい微かな綿のようなものというのは、ヤナギ科ヤナギ属の柳類の種子である綿毛であろう(熟した種子はこの附帯する綿毛とともに風に乗って飛散して分布を広げる)。この綿毛が降るように飛ぶ様は漢詩にも「柳絮(りゅうじょ)」として出、お馴染みである。タンポポの綿毛でもよいのだが、だったらハーンは知っていて、また、同じく知っている英語圏の読者向けにもそう書くはずである。そう書かなかったのは如何にももっと違った形、人玉のようにふうわりしたものだったからに違いないと私は考えるのである。
「石川町」現在の横浜市中区石川町。現行の行政上の町は中村川に沿って字(あざ)一丁目から五丁目で形成されている。元町・山手町・打越・南区中村町、中村川を挟んで吉浜町・松影町。寿町・長者町と隣接しているが、実はこの前年である明治二二(一八八九)年の市町村制施行によって横浜市に編入されたばかりであった(ずっと後であるが、昭和一〇(一九三五)年には町界町名整理の際に石川仲町を併合している)。現在は昭和三九(一九六四)年に根岸線が開通して「石川町駅」が設置され、お洒落な元町商店街や中華街に向う一ルートとして繁華な市街という印象が強烈であるが、駅のなかった当時は、山手や元町への通り道としての石川町、特に一丁目付近((駅の元町口は石川町二丁目で、そこから商店街へ向かった凡そ九十メートルの一から商店街入り口の元町交差点を北側とし、山手トンネルの東側上の山手五十番館辺りまでのやや南北に長い町)はそれまで非常に寂しい町外れであった。後で「老人町」(私は翁町(現行では「おきなちょう」と読む)のことと推定する)が出るので、試みに現在の石川町駅が『周辺には女子校が多く、女子中高生の利用が多いため「乙女駅」の異名がある』ことも偶然とは言え、面白いので言い添えておく(引用部を含めて主にウィキの「石川町駅」等を参照した)。
「永久町」不詳。但し、前後の町名同定が正しいとすれば、その間にある「永久」に近似した町名とすれば、旧「ドヤ街」の名で知られる「寿町(ことぶきちょう)」がある。ここか?
「老人町」翁町(おきなちょう)のことと思われる(実は底本としている国立国会図書館近代デジタルライブラリーのこの部分の画像を視認すると、大昔の不届き者――恐らく鈍愚な職業的翻訳家であろうと思われる――がこの右に鉛筆で『オキナ』、左手に『翁』と勝手に書き込みをしている(!)のが判るのである)。現行の横浜市中区翁町はJRの関内駅の東南手前から西南に細長く延び、線路を挟んだ反対側が横浜スタジアム、西北が横浜体育館を有する不老町、東南が扇町、南西で伊勢佐木長者町に接する。]
Chapter
Five At the Market of the Dead
Sec. 1
IT is
just past five o'clock in the afternoon. Through the open door of my little
study the rising breeze of evening is beginning to disturb the papers on my
desk, and the white fire of the Japanese sun is taking that pale amber tone
which tells that the heat of the day is over. There is not a cloud in the
blue—not even one of those beautiful white filamentary things, like ghosts of
silken floss, which usually swim in this most ethereal of earthly skies even in
the driest weather.
A
sudden shadow at the door. Akira, the young Buddhist student, stands at the
threshold slipping his white feet out of his sandal-thongs preparatory to
entering, and smiling like the god Jizo.
'Ah!
komban, Akira.'
'To-night,'
says Akira, seating himself upon the floor in the posture of Buddha upon the
Lotus, 'the Bon-ichi will be held. Perhaps you would like to see it?'
'Oh,
Akira, all things in this country I should like to see. But tell me, I pray
you; unto what may the Bon-ichi be likened?'
'The
Bon-ichi,' answers Akira, 'is a market at which will be sold all things
required for the Festival of the Dead; and the Festival of the Dead will begin
to-morrow, when all the altars of the temples and all the shrines in the homes
of good Buddhists will be made beautiful.'
'Then I
want to see the Bon-ichi, Akira, and I should also like to see a
Buddhist
shrine—a household shrine.'
'Yes,
will you come to my room?' asks Akira. 'It is not far—in the Street of the Aged
Men, beyond the Street of the Stony River, and near to the Street Everlasting.
There is a butsuma there—a household shrine -and on the way I will tell you
about the Bonku.'
So, for
the first time, I learn those things—which I am now about to write.
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