フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 来日直後のハーン御用達の横浜の車夫「チア」(チャア)についての一考察 | トップページ | 雨ふり 村山槐多 (決定版) ――国立国会図書館の差替画像によってまたしても彌生書房版全集の誤りを発見―― »

2015/08/03

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (六) ――ハーンが最初に行った寺を推定同定する――



        六

 

 『寺へ行け』

 私はホテルへ歸らねばならなくなつた――晝食の時間さへ惜しいのだから、そのためではなかつた。佛寺を訪ねたい希望を車夫に通ずることが出來なかつたからである。今は車夫も理解した。ホテルの主人が神祕なやうな言葉を發音したから。

 『寺へ行け』と。

 庭園や、費用のかかつた醜い洋館が竝んだ廣い大通りを數分間馳せて、それから異常な構造で、ペンキを塗らない、舳の尖つた船が、澤山入込んでゐる運河の上の橋を渡つてから、また日本町の別の部分へ突進する。して、車夫は下部よも上部の狹い、小さな櫃形の家屋の更に竝んでゐる間を通つたり、まだ見馴れぬ、開放した小店の連つた中を拔けたりして、全速力を出して走り行く。しかも、いつも商店の上には、二階の障子を建てた室の處まで、靑瓦を敷いた、細長い帶のやうな屋根が、傾斜面をなしてゐる。また正面からは、紺、白、又は濃紅の暖簾が垂れてゐる――一尺幅の織物で、美麗なる日本字が、靑地には白く、黑には赤く、臼には黑く現れてゐる。が、すべて悉く飛んで去つて行つて、夢のやうだ。今一度運河を渡り、山へ向つて、勾配が高くなつた狹い町を、無理押しに上がつてから、車夫は突然廣い石段の澤山ある處の前で停まつて、私が降りるやう、梶棒を地上に置き、石段を指し乍ら「寺」と叫んだ。

 私は降りて石段を上つて、廣い高臺に達すると、反(そ)つて突つた角の多い支那風の屋根が載つた驚くべき門に面と對つた。この門は全部妙な彫刻が施してあつて、開いた戶の上の彫刻帶には龍が絡まつてゐるし、戶の腰板も同樣に彫刻してある。それから奇怪な獅子の頭の形をした樋嘴鬼瓦が檐から突出してゐる。して、全部が灰色で、石の色をしてゐる。が、私には刻んだものが彫刻の有する固定性を有つてゐると見えない。蛇類龍類すべて水の如く渦を卷いて、群をなして移動し、捕捉し難く浮動してゐるやうに見える。

 私は晴やかな光の中を霎時振返つてみる。海と空が、同じ淸らかな薄靑色をなして交り合つてゐる。眼下には、靑じみた屋根が、右手の穩かな灣の端までと、市の兩側に位して、樹木の生えた綠色の丘陵の麓まで、大濤のうねつた如く連つてゐる。その半圓形を描いた綠色の丘陵の先きに、藍色の影法師のやうな鋸齒狀の高い山脈が聳えてゐる。して、この山脈の線から非常に高く何とも云へなく愛らしい幽靈がぬつと屹立してゐる――一つの特立せる雪の圓錐形は、纖絲の如く精美で、心靈的な淸淨の白さなので、もし古くから見慣れた外形でなかつたならば、誰もこれを雲と考へるだらう。その麓は、空と同じい美はしい色だから見えない。ただ永久の雪線の上に、夢のやうな圓錐形が、輝ける陸と輝ける空の間に吊り下つたやうに、峻峰の幽靈となつて出現してゐる――神聖にして無比の富士山。

    譯者註。ヘルン先生の著書中に富嶽を描
    いた、否、歌つた文章が四ケ所ある。先
    づ第一に、本全集第五卷に收められた
    「異國情趣と懷古のことども」の卷頭を
    飾れる「富士の山」の章の末段には、絕
    頂から見おろした黎明の巨峯の眺めが寫
    してある。第二に、本全集四卷に收めら
    れた「心」の第十章は、長き海外の放浪
    から歸朝の航路中にある日本の一靑年が、
    太平洋の甲板の上から望み見た富士を寫
    して、彼が國粹保存的精神に目醒めた決
    心を以て結んでゐる。第三に、本全集第
    十二卷遺稿雜纂中の一篇「日本への冬の
    旅」には、橫濱港の沖から仰いだ富士。
    それから第四に、ここには橫浜郊外の丘
    上から見た光景が寫してある。その昔、
    萬葉歌人の千古の絕唱によつて、讚美さ
    れた富士山は。この英文に於ける散文的
    詩人に於て海外に對して天晴れ立派なる
    謳歌者を得たのである。原文の朗朗誦す
    べき美に對して、譯者は殆ど冒瀆の恐れ
    を禁じ得ない。

 すると、私はこの怪しい彫刻を施した門前に立ちながら、俄然奇異な感覺――夢と疑ひの感覺に襲はれた。石段も、群龍の門も、市街の上に渡れる蒼空も、富士の幽靈のやうな美も、灰色の敷石の土に擴つてゐる私自身の影も、やがては一切悉皆消滅するに相違ないやうに思はれた。何故そんな感じがしたのだらう。疑もなく、私の眼前の形態――反(そ)つた屋根、どぐろを卷いた龍、支那風の奇怪な彫りもの――が、實際私には新しいものとしてでなく、夢にみたことがあるやう見えるからである。この光景が、忘れられ繪本の記憶を活かしたに相違ない。それも瞬間、忽焉幻想は消えて、遠くまで不思議に澄み渡つた空氣、活きた繪畫の驚くべき優美な色合、夏の高い靑空、白く柔かな魅力的な日本の日の光など、滿目一切、淸新快爽の鮮かな意識と共に、現實の詩趣が返つてきた。

 

Sec. 6

'Tera e yuke!'

I have been obliged to return to the European hotel—not because of the noon-meal, as I really begrudge myself the time necessary to eat it, but because I cannot make Cha understand that I want to visit a Buddhist temple. Now Cha understands; my landlord has uttered the mystical words: 'Tera e yuke!'

A few minutes of running along broad thoroughfares lined with gardens and costly ugly European buildings; then passing the bridge of a canal stocked with unpainted sharp-prowed craft of extraordinary construction, we again plunge into narrow, low, bright pretty streets—into another part of the Japanese city. And Cha runs at the top of his speed between more rows of little ark-shaped houses, narrower above than below; between other unfamiliar lines of little open shops. And always over the shops little strips of blue-tiled roof slope back to the paper-screened chamber of upper floors; and from all the facades hang draperies dark blue, or white, or crimson—foot-breadths of texture covered with beautiful Japanese lettering, white on blue, red on black, black on white. But all this flies by swiftly as a dream. Once more we cross a canal; we rush up a narrow street rising to meet a hill; and Cha, halting suddenly before an immense flight of broad stone steps, sets the shafts of his vehicle on the ground that I may dismount, and, pointing to the steps, exclaims: 'Tera!'

I dismount, and ascend them, and, reaching a broad terrace, find myself face to face with a wonderful gate, topped by a tilted, peaked, many- cornered Chinese
roof. It is all strangely carven, this gate. Dragons are inter-twined in a frieze above its open doors; and the panels of the doors themselves are similarly sculptured; and there are gargoyles— grotesque lion heads—protruding from the eaves. And the whole is grey, stone-coloured; to me, nevertheless, the carvings do not seem to have the fixity of sculpture; all the snakeries and dragonries appear to undulate with a swarming motion, elusively, in eddyings as of water.

I turn a moment to look back through the glorious light. Sea and sky mingle in the same beautiful pale clear blue. Below me the billowing of bluish roofs reaches
to the verge of the unruffled bay on the right, and to the feet of the green wooded hills flanking the city on two sides. Beyond that semicircle of green hills rises a lofty range of serrated mountains, indigo silhouettes. And enormously high above the line of them towers an apparition indescribably lovely—one solitary snowy cone, so filmily exquisite, so spiritually white, that but for its immemorially familiar outline, one would surely deem it a shape of cloud. Invisible its base remains, being the same delicious tint as the sky: only above the eternal snow-line its dreamy cone appears, seeming to hang, the ghost of a peak, between the luminous land and the luminous heaven—the sacred and matchless mountain, Fujiyama.

And 
suddenly, a singular sensation comes upon me as I stand before this weirdly sculptured portal—a sensation of dream and doubt. It seems to me that the steps, and the dragon-swarming gate, and the blue sky arching over the roofs of the town, and the ghostly beauty of Fuji, and the shadow of myself there stretching upon the grey masonry, must all vanish presently. Why such a feeling? Doubtless because the forms before me—the curved roofs, the coiling dragons, the Chinese grotesqueries of carving—do not really appear to me as things new, but as things dreamed: the sight of them must have stirred to life forgotten memories of picture-books. A moment, and the delusion vanishes; the romance of reality returns, with freshened consciousness of all that which is truly and deliciously new; the magical transparencies of distance, the wondrous delicacy of the tones of the living picture, the enormous height of the summer blue, and the white soft witchery of the Japanese sun.
 

 

[やぶちゃん注:今回は注が長くなるので原文を注の前に置いた。

 ここでハーンが「チア」に連れて行かれた寺がどこであるのか、とっくに誰かが同定しているものと思ったら、ネットで手に入るそれらしい記載のありそうな関連論文にも目を通したが、これがなんと、どうもよく分からないらしい。唯一、個人ブログ「ケペル先生のブログ」の「小泉八雲来日」に『ハーンが参詣した寺社はどこか、実はあまりわからないらしい。成田山不動尊、浅間社、厳島神社、本牧神社、白滝不動、青木明神、豊顕寺、慶運寺などが考えられる』と記されてあるのが参考になるばかりである(それ以外に情報のあられる方は是非お教え願いたい)。この中で寺は成田山不動尊・白滝不動・豊顕寺(「ぶげんじ」と読む)・慶運寺であるが、この内、白滝不動は私が何度も行ったことがある場所でロケーションが全く異なり、慶運寺は位置が低過ぎるから除外出来ると思われる。まず、その「寺」までのルートを検証したいのだが、まず困ったのは彼の泊まったホテルの位置が判然としないことであった。ハーンは川を二度渡っている狭義の旧外国人居留地からこの二つの寺へは当時の地図を見て大きな川を二つ渡る必然性はないように思われ、そこから私は彼の泊まったホテルは狭義の旧居留地ではなかったのではないかと考えた。一つの可能性としてハーンのホテルは元町の周辺、現在の港の見える丘公園の麓辺りにあったのではなかったかと考えた。そうすると二つの川は中村川(別名堀川とも)と大岡川でしっくり来るからである。例えば、元町の右岸を遡って元町駅近くで中村川を渡り、北上して大岡川を渡ると両方の寺へ向かうことが出来るのである。最初に渡る橋の下にもやっている舟の雰囲気も私には今の中村川の感じからも如何にもしっくりくるのである。【2015年8月5日変更追記】この後、以下に見るように、迂遠ながら、寺の同定が教え子の指摘によって私の中で豊顕寺から本覚寺へと変化した。その結果、ハーンが泊ったのは旧居留地内のホテルであって問題ないと考えられようになった。とすれば、ハーンが渡った二つの川とは大岡川と石崎川(古い地図を見るとその先を右にずっとカーブすると帷子川河口が内海に開いて東の外海に繋がる箇所に萬里橋があるがこれは厳密には川ではない)であったと読め、渡ったのは弁天橋と富士見橋であったということになろうか。

 さて、では成田山不動尊と豊顕寺のどちらの寺の可能性(あくまで可能性である)が高いかである。「廣い石段の澤山ある處」というのは成田山不動尊とよく一致するのであるが、気になるのは、この成田山不動尊が本格的に成田山延命院という寺号で寺としての伽藍と格式を持つに至ったのはハーンが来た後の明治二六(一八九三)年である事実である。それ以前に狭い成田山遥拝所ではあったが、どうもそれではハーンの述べる境内の雰囲気と合わないのである。さらに言えば、山っ気はあるもののハーンが大いに信頼して行くに任せることとなるこの車夫「チア」が、近場だし寺は寺だといって、出来たばっかりの新しい寺にハーンを連れて行ったとは思われないからである。またハーンも遥拝所として建てられたものを見れば、それが最近建立されたものであることは容易に分かったはずで、以下に続くような恍惚を齎したとは到底思われないのである。

 このハーンが訪れた「寺」は山門の位置から「眼下には、靑じみた屋根が、右手の穩かな灣の端までと、市の兩側に位して、樹木の生えた綠色の丘陵の麓まで、大濤のうねつた如く連つてゐる。その半圓形を描いた綠色の丘陵の先きに、藍色の影法師のやうな鋸齒狀の高い山脈が聳えてゐ」て、そこから富士山が見えなくてはならないのである。ここは後の「七」以降の叙述からも境内地が相当な広さを持っていることが窺われ、しかも山門からは横浜の全景が見下ろされ、南には丹沢山塊とその向こうの富士が垣間見えなくてはならないのである。「今一度運河を渡り、山へ向つて、勾配が高くなつた狹い町を、無理押しに上が」るという描写は、この豊顕寺へのルートにすこぶる合致していると言える。

 私は実はこの豊顕寺(「ぶげんじ」と読む)に行ったことはない。ないがしかし、この同じ丘陵上の直近にある横浜翠嵐高等学校に五年奉職した関係上、富士はあの位置から確かに見える。

 そこでウィキの「豊顕寺」の記載を見てみると、『神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢西町にある法華宗陣門流の寺院』で、永正一二(一五一五)年に『三河国八名郡多米(ため)(愛知県豊橋市多米町)を本貫の地とする多米氏(多目氏。平氏系)の一族である多米周防守元興は父元益の追善供養のため、本興寺(静岡県湖西市)の末寺として三河国多米の地に本顕寺という寺を建立した。この父元益は北条早雲(伊勢新九郎)と意気投合して早雲の大志に協力した人物である。それゆえ、多米氏は後北条氏より「御由緒家」という別格の扱いを受けていた。子の元興も家臣として活躍して青木城主でもあったが、剃髪して隠居し、武蔵国久良木郡三沢に当寺院を移転し、法照山豊顕寺と名を改めた』。しかし、天正一八(一五九〇)年、『関白豊臣秀吉の相模国小田原城(神奈川県小田原市)攻めで、多米氏の多くは後北条氏と共に歴史から消えた』。『多米氏の強力な庇護は無くなったが、当寺院は繁栄した。太閤没後、征夷大将軍の宣下を受け日本の権力が移った徳川家の下で江戸時代に栄えることとなる』。享保五(一七二〇)年に『老中久世重之の力などで当寺院に江戸幕府の許可が下ったため、檀林(だんりん・僧の学問所)を設置した。いわゆる三沢檀林(みつざわだんりん)である。最盛期には』学舎五棟・学寮二十五棟の伽藍が建ち、学徒は三百人を越えたと言う。かつては五万二千坪に『及んだ境内には八重桜が見事で、「喧嘩するなら豊顕寺の花見まで待て」と言われていたとされる』。しかし『明治の火災、大正の関東大震災により、壇林は廃止された』とある。建立から三百年経った学僧の集まる一大壇林(道場)ならば、車夫の「チア」さんは、異人さんもきっと満足するだろうと思ったと私は思うのである。

 このウィキの記載が、豊顕寺の三沢壇林が消えることとなったのはハーンの訪問よりは後という読めることが非常に重要なのである。何故なら、ハーンは次の「七」で彼をこれから導いて呉れるところの学生僧「アキラ」に、この「寺」で出逢っているからである。この寺がまだ三沢壇林としての機能を持っていたとすれば、これはすこぶる腑に落ちることなのである。また、現在の写真でもそうだが、江戸時代の同寺を描いた絵図を見ると、道に面したところに門があって、その先に長い石段があってそこに山門が建っており、さらにその内側は広い空き地となっている。ここからの展望がまさにハーンの見たランドスケープだったのではあるまいか? 私の推理はあくまで机上の勝手な推理でしかない。どうか、横浜の郷土史研究家や識者の方の御教授を切に乞うものである。

★【201585日追記】二日前にブログでこの章と注を公開したところ、昨夜、私の古い「浜っ子」の教え子から全く異なった新しい同定候補の寺についての情報が舞い込んだ。すこぶる興味深い内容なので、本人の許可を得て、以下にメールを引用する。なお、下線や太字は私藪野が附したものである。

   《引用開始》

先生

ヘルンが訪れたという寺の考察、非常に興味深く拝読しました。

先生、実は私の中には、青木橋の北側にある台町の丘の上にある本覚寺――私の母方の祖父母をはじめ祖先が眠る寺――の映像が浮かびました。東海道神奈川宿のはずれの丘の上にあり、山門への急な石段を持ち開港以来アメリカ領事館として使われたことから山門が白いペンキで塗られて”灰色”になっており、その山門には獅子の彫刻がある寺。山門からは、関内より山手の丘に至る港町横浜の俯瞰図、そして更におそらくは明治の頃であれば鋸状の丹沢山塊の向こうに富士が望めたはずの寺(但し、私自身が本覚寺山門から富士をちらとでも見たことかあるかどうかと問われると私にも自信はありません[やぶちゃん注:現在の彼は横浜在住ではない。])。その当時、関内辺りから「寺」に行こうと思ったら、恐らく候補のひとつとして浮かんだであろう歴史のある寺。そしてそのためには運河(川)を二回は渡らねばならない寺……。

 一方、先生の挙げられた豊顕寺といえば、私はまだ行ったことがありません。そこで念のためネット上の”マピオン”でその近辺を探り、豊顕寺山門から西方及び南方にかけての標高を調べてみました。すると山門の西側や南側は山門より標高が高いことが分かりました。……つまり、豊顕寺山門から丹沢や富士は見えないのではないかということです。さらに言えば、果たして当時、ここから横浜の街を俯瞰できたかという疑問も生ずるのです。[やぶちゃん注:中略。]

 本覚寺は、浜っ子として変な誇りを持っている自分自身の思い出がたくさん詰まった寺です。白状すれば、だからこそヘルンの訪問したのは本覚寺であってほしいと願うのですが……今の私にはこれ以上の考察を行う余裕がありません。

以上、取り急ぎ私の想いを先生にご報告いたします。

   《引用終了》

 以上の教え子の話は非常に説得力を持っていた。そこでまずは本覚寺を調べて見た。

 この寺は神奈川県横浜市神奈川区高島台にあって『現在の高島台から幸ヶ谷公園(権現山)にかけて続いていた丘の上にあり、東海道と神奈川湊を見下ろす交通の要衝にあることから、戦国時代には隣接して権現山城・青木城が造られた』(ウィキの「本覚寺」より)とあるから、横浜を俯瞰する高度に於いてまず申し分なく、位置に於いても「眼下には、靑じみた屋根が、右手の穩かな灣の端までと、市の兩側に位して、樹木の生えた綠色の丘陵の麓まで、大濤のうねつた如く連つてゐる。その半圓形を描いた綠色の丘陵の先きに、藍色の影法師のやうな鋸齒狀の高い山脈が聳えてゐる」というランドスケープに合致する位置にあることが分かる。そもそもここは当時の地図を見ると旧東海道神奈川宿の岬状に南に突き出た部分で、西側(現在の横浜駅西口一帯)は広大な内海となっており、現在の横浜駅の部分はまさに神奈川駅(現在の京急神奈川駅の南方直近)から月見橋を経て高島町へ砂嘴状に平沼(旧平沼駅があった)へと繋がっていることが分かる。

 本覚寺公式サイト寺史よれば、凡そ八百年前の嘉禄二(一二二六)年の創建とされ、現在は曹洞宗であるが開創時は臨済宗で、かの栄西を開山とするという。但し、栄西は開山より前の建保三(一二一五)年の入滅であることから、『その遺徳をしたって開山に頂いたもの』とある。ところが永正七(一五一〇)年『すぐ近くの権現山城で起きた「上田蔵人入道の乱」により、本覚寺は兵禍をこうむり、すっかり荒廃してしま』う(扇谷上杉家家臣「上田蔵人」政盛についてはウィキの「上田政盛」を参照されたい)。『その後、再興を図るにあたり、小机にある曹洞宗雲松院の陽広元吉禅師(ようこうげんきつぜんじ)を新たに住職として迎えることとなり』、享禄五・天文元(一五三二)年に本覚寺は曹洞宗の寺として再興した(陽広元吉禅師は伝法開山と呼ばれる)。リンク先には戦国から江戸の頃の絵図が数種掲載されており、素晴らしい景観が髣髴とするこれを、寺もさることながら、異人さんに見せたろうと「チア」さんが思ったとして、これは頗る付きで首肯出来ることではないか。しかもこの寺の特異点は近代にある。『幕末に横浜が開港されると、神奈川宿の寺院の多くが各国の領事館に接収されてゆきました。本覺寺はアメリカに接収され、3年もの間アメリカ領事館としてその歴史を刻みました』。『この頃の伽藍は、現在より相当大きく、本堂や地蔵堂・観音堂・客殿・衆寮・庫裡・鐘楼・総門・中門・裏門などをそなえる大変大きな構えでもありました』とあって広大な境内絵図も載るが、これはもうここ以下でモースが叙述する広さと十二分に合致すると言える。

 次に着目すべきは教え子が指摘する――白い山門――である。実は私自身このハーンの「この門は全部妙な彫刻が施してあつて、開いた戸の上の彫刻帶には龍が絡まつてゐるし、戸の腰板も同樣に彫刻してある。それから奇怪な獅子の頭の形をした樋嘴鬼瓦が檐から突出してゐる。して、全部が灰色で、石の色をしてゐる」の「全部が灰色で、石の色をしてゐる」という叙述には実は私は初読時から強い違和感を抱いていたのである。

 同じく本覚寺公式サイトの「横浜開港とアメリカ領事館とペンキ跡」を見よう。本覚寺が正式にアメリカの領事館として接収された日は横浜開港から三日後の安政六(一八五九)年七月四日(新暦六月五日)であったが、「三、日本初ペンキが塗られたお寺」によれば(太字化は藪野)、

   《引用開始》

当時の領事館員達は、当時日本には存在していなかった西洋塗装法(ペンキ)で、寺の建物を塗装していきました。

そのほとんどは戦火で焼失をしましたが、山門と鐘楼堂だけは戦火を免れ、今でも唐獅子や蛙亦などに黒や赤、緑、白などのペンキ塗装の跡を見ることが出来ます。

この領事館員達がペンキ塗装を施した山門は、日本で初めてペンキが塗られた純日本建築物であると言われており、大変貴重な建築物として考えられております。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

とあるのである。これこそまさにハーンの言う「全部が灰色で、石の色をしてゐる」の正体なのではあるまいか?! 公式サイトの「写真」にはその「ペンキが塗られた獅子頭など」の写真が載せられてある(但し残念なことに現在はペンキは殆んど剥落していて、痕跡のみらしく、写真からは「灰色」「白」の印象は見てはとれない。ただその写真を見ると獅子頭の直ぐ左手には象を形象した横木突出しの「奇怪」な彫刻があり、ハーンがこれを獅子と一緒くたに見て「奇怪」と言ったとして、これ、さもありなんことと感じたことも一言、言い添えておきたいと思う)。

 惜しむらくは、ハーンは次の第七章で本尊に言及しているものの、それが何であったかを述べていないことである。本覚寺の本尊は伝行基地蔵菩薩像であったが、当時のものは昭和二〇(一九四五)年五月二十九日の横浜大空襲により殆んどの堂宇とともに焼失してしまっている。因みに先に私が前に同定候補とした豊顕寺の本尊は現行では日蓮聖人奠定の十界勧請大曼荼羅とある。

 しかしそこで、若い僧(後の「アキラ」である)が「壇上に燈臺の竝んだ間にある、華麗な金塗りのものを指して」「あれが佛さまの厨子です」と説明するシーンが出ることに今回私は目が止まった。さても、この本覚寺は旧小机領三十三所観音霊場第七番札所であり、十二年に一度だけ秘仏の観音を開帳をする慣わしがある。『それが必ず子歳にあたることから別名「子歳観音」と親しみを込められて呼ばれてい』(公式サイト内「子歳観音」の解説)るとあるのに気づいたからである(「ねどしかんのん」と読むか)。そして、この本覚寺の秘仏は如意輪観世音菩薩が納められた小さな黄金色の宝篋印塔型の小さな厨子に納められていることが「子歳観音」の画像から分かるのである。これこそ、まさにこの「アキラ」が指差した「壇上に燈臺の竝んだ間にある、華麗な金塗りのもの」「佛さまの厨子」なのではあるまいか?!

 以上、私は現時点では、ハーンが訪ねたこの寺というのは――この――青木山本覺寺――であったのではないか――という見解に傾きつつあるのである。大方の御批判をなおも俟つものである。

「ホテル」同定不能。驚くべきことに、二〇〇一年白百書房刊澤護著「横浜外国人居留地ホテル史」の同出版社の広告によれば、幕末より明治三十年代にかけての約四十年間に横浜外国人居留地には実に百二十のホテルがあったとあるからである。しかも実質的にはこの頃、居留地制限制度はなくなっていたから、前注で述べたように私はホテルもその周辺域に或いは広がっていたのではないかとも思われる。【2015年8月16日追記】上田和夫訳昭和五〇(一九七五)新潮文庫刊「小泉八雲集」年譜に、横浜到着後直ちに横浜のグランド・ホテルに、冒頭の献辞で本書を献じている、親友の女性ビスランド嬢の紹介になる横浜海軍病院勤務の米国海軍主計官ミッチェル・マクドナルドを訪問した、とある。このホテルはモースも泊った日本最初の本格的西洋式ホテルとして明治六(一八七三)年に創業した居留地二十番(現在の「人形の家」附近に相当)にあった。東京を目指してきた外国の要人は概ねここに宿泊するが、果たしてハーンがここに泊ったかどうかは、残念ながら、この『訪問』という語によって微妙である(これはそこに泊った訳ではないように読めるからである)。また詳しい事実が判明したら追記する。

「舳の突つた船」和船の多くは舳が尖っていることを特徴とするが、ここで私が想起するのは荷船として江戸時代から東京湾で盛んに使用されていた押送船(おしおくりぶね/おしょくりぶね)と、江戸市中の水路の通行用に用いられていた猪牙舟(ちょきぶね)である。しかし前者は通常十メートルを有に越えるもので、ここでは護岸も整備されていない運河(既に述べた通り、私はこの川は元町に平行して流れる中村川ではないかと踏んでいる)に「澤山入込んでゐる」という描写から見て、猪牙舟ではないかと推理する。

「日本町」この訳では思わず勘違いしてしまうが、これは原文は“the Japanese city”であって、今の「日本大通り」であるとか、当時、こういう呼称の町があった訳ではない。旧外国人居留地は日本人居留地と明確に分けられていた雰囲気の名残を伝えているのである。また既に述べた通り、事実上、横浜の外国人居留地は早々と明治一〇(一八七七)年を以って廃されていた。ウィキの「横浜市」から引いておくと、『横浜村は幕府が設置した運上所(税関)を境に、以南を外国人居留地(横浜居留地)、以北を日本人居住区とした。境界には関所が置かれ、関所から外国人居留地側を関内、以外を関外と呼んだ。外国人居留地には、イギリスやフランス、ドイツやアメリカを中心とした各国の外国商館がたち並んだ。今に残る横浜中華街は、外国人居留地の中に形成された中国人商館を起源とする。一方』、日本人居住地は横浜町と名付けて五区域に分割し、『各区域に名主を置いて総年寄が町全体を統括した』。明治六(一八七三)年に横浜町は第一区一番組に編入され、翌明治七年六月十四日の大区小区制(旧来の地域の様々な問題を自治的に解決してきた町村を否定して中央の命令の伝達と施行のみを行う機関としてしまった極めて機械的な区画による地方制度であったために不評で、以下に見るように直ぐに廃止された。ここはウィキの「大区小区制」に拠った)により第一大区一小区となったが、四年後の明治十一年十一月の新しい郡区町村編制法に基づいて、第一大区が横浜区となり、『久良岐郡から分離して横浜区長が管轄することとされた』。そして明治二二(一八八九)年(年)四月一日に『市制が施行されると同時に横浜区は市となり、横浜市が誕生した』。まさにハーンが降り立ったのは、その丁度、一年後の明治二三(一八九〇)年四月四日のことだったのである(下線やぶちゃん)。ウィキによれば当時の市域面積は横浜港周辺の五・四平方キロメートルと面積は狭いものの、市制施行当時で既に戸数二万七千二百九戸、人口十二万千九百八十五人(明治二二(一八八九)年末当時)に達しており、その後、特に旧外国人居留地であった『関内地区は市政と商業の中心地として発展する』こととなったのである。

「樋嘴鬼瓦」「ひはしおにがはら」と読む。鬼瓦を指すが、原文は“gargoyles”そう、かの奇体な西洋建築の怪物を象った雨樋であるガーゴイルである。

「霎時」は「せふじ(しょうじ)」と読み、暫時に同じい。暫くの間。一寸の間。

「原文の朗朗誦すべき美」これは衍字ではなく、「らうらうしやうすべき(ろうろうしょうすべき)」であろう。

◎以下の「●」は訳者河合先生の「註」へ私の注である。なお、ここで先生が示された第一書房版小泉八雲全集(全十七巻)の各巻は著作権上の問題からと思われるが、孰れも国立国会図書館ではデジタル化がなされていない(近代デジタルライブラリーで視認出来るのは第一・三・八巻のみ。ただそれだけでも総てを電子化注するには恐ろしく時間が掛かる。嬉しい悲鳴ではある)おらず、私はこの全集を一巻も所持していないのでそれら自体をここに引用することは出来ない。――しかしだからと言って私はここで引き下がるつもりは――毛頭――ない。

●『「異國情趣と懷古のことども」の卷頭を飾れる「富士の山」の章の末段には、絶頂から見おろした黎明の巨峯の眺めが寫してある』八雲(既に帰化改名後二年)四十七歳の折りの富士山登頂記である。明治三〇(一八九七)年八月二十五日午前三時に登頂開始、午後四時四十分八合目の坊に泊って、翌二十六日の出立するシーンから、偏愛する平井呈一先生の訳(一九七五年恒文社刊「佛の畑の落穂 他」の「異国風物と回想」の「富士の山」最終の第七章全部を引用する。やや長いが、切り詰めてはエンディングの感動が伝わらないからである。くれぐれも全文を平井氏訳で読まれんことを強くお薦めしたいからでもある。なお、一フィートは約三十センチメートル、一マイルは一・六キロメートルで、「金明水」は「きんめいすい」と読み、富士山頂の火口北壁久須志(くすし)岳南西面に湧き出す霊泉である。

   《引用開始》

 

          七 

 

 午前六時四九分。――頂上に向かって出発。熔岩の塊がゴロゴロ転がっている中を行く。ここは登りの坂道での一ばんの難所だ。まっ黒な歯をむきだしているような、ざまの悪い岩くれの間を、右に折れ、左に曲がりして行く。ぬぎすてた草鞋の道は、さらに暗が広くなっている。五、六分行っては、ひと休みしなければならない。

 また長い斑雪のところへ来た。ガラスの玉みたいなその雪を、すこしばかり口に入れる。次の坊の半途の坊は閉(しま)っていた。九合目の坊もなくなっていた。……ふと自分は不安な気がしてきた。といっても、登ることではなく、それよりも、腰を下ろすことさえできないこの急な坂道を、どうしてまた降りてこられるか、それが心配だったのだ。案内者に聞くと、なに危いことはありませんよ、帰りはほかの道を行くんだから、と言う。なんでも昨日自分が驚嘆した、あの際涯もないザクザクした砂ばかりの、石ころのない「須走り」という所を、ひと走りに降るのだそうだ。

 突然、野鼠の群が足もとから飛びだした。うしろにいた強力が、すばやく一匹つかまえて、見せてくれるや自分は震えている小さな動物を手にとって、しばらく眺めてから放してやった。なんだかいやに白ちゃけた長い鼻つきをした奴だ。一体この水もない荒野に――しかもこんな高いところで――わけて雪の季節などには、どうして生きているのだろう? ここはもう、一万フィート以上の高さだ。強力に言わせると、野鼠は石の下にはえる草の根をさがすのだそうな。 

 

 道はいよいよでこぼこで、いよいよ嶮しい。ときどき自分だけは這いずらなければ攀じじ登ることができなかった。「賽の河原」などという、仏教の方でいう名前のついた恐ろしい所もあった。――よく来世を描いた仏画などに出てくる、子供の亡霊が積み上げた石みたいに、積み重なった岩ころがそこらに散乱して、あたり一帯が黄いろくなっている、いかにも荒れ果てた所であった。 

 

 一万二千フィートと少し。ここが頂上だ。時刻は午前八時二十分。――岩室(いわむろ)のようなものが幾つかある。鳥居があって、社がある。金明水という氷のような井戸。漢詩と虎を彫った石碑。そんなものを、むきだしな溶岩の壁がとりまいている。この壁は風を防ぐためのものらしい。それから大きな死火口がある。巾は四分の一マイルから半マイルぐらいで、縁(へり)の方は岩の屑で三、四百フィートぐらいまで浅くなっている。くぼんだところは、崩れかけた黄いろい壁の色さえ、なんとなく不気味に見える。焼け焦げたいろんな色の筋がはいって、汚れ返っている。例の草鞋の列は、この火口のところでついに終っている。恐ろしいようにニュッと突き出た黒い熔岩の尖ったのが、へんな傷あとが破れたとでもいうように、火口の両側に数百フィートの高さに幾つも聳え立っている。自分はそこへわざわざ上がってもみなかった。この尖った岩塊が、百里の霞をへだてて、春昼の空の恋々たる陽炎を通して眺めると、浄らかな蓮の花の蕾が今まさに咲きひらこうという、雪白の花びらに見えるのだ。今、その蓮華の花が燃えかすになった端っこのここに立って眺めると、まずこんな恐ろしい、無気味な、凶々しい、凄惨な場所が、またと世にあろうとは考えられもしない。

 しかしながら、この景――百里も見はるかすこの眺望、遠く微かな夢幻の世界の光、この世ならぬ仙界の朝の霧、巻き去り巻き来たる雲のあやしい姿――なべてこの景、いや、この景だけが、自分の労苦を慰め医してくれる。‥‥自分よりも先にお頂上をした巡礼達が、一ばん高い岩の上によじ登って、東の空に顔を向け、雄大な朝日を拝んで、神道流に柏手を打っている。‥‥この瞬間の詩情、大いなるこの詩情は、自分の心魂に深く沁(し)みとおった。つまり、自分の目の前にあるこの雄大な光景は、もはや消しも拭いもされぬ記憶となったのである。自分の知性が消滅し、眼が土と化してしまったのち、わが未生の遠い遠い昔に、同じく富士の頂上から朝日を拝んだ幾億の人々の眼が土に化したのと相交わるまで、この記憶は、一々その零細な点まで、けっして消滅することはあるまい。

   《引用終了》

では以下、当該箇所の原文を英文テクスト・サイト“Internet Archive”“Exotics and retrospectives”から引く。

   *

 

VII

 

   6 : 40 a. m. Start for the top. . . .Hardest and roughest stage of the journey, through a wilderness of lava-blocks. The path zigzags be tween ugly masses that project from the slope like black teeth. The trail of cast-away sandals is wider than ever. . . . Have to rest every few minutes. . . . Reach another long patch of the snow that looks like glass-beads, and eat some. The next station a half -station is closed ; and the ninth has ceased to exist. ... A sudden fear comes to me, not of the ascent, but of the prospective descent by a route which is too steep even to permit of comfortably sitting down. But the guides assure me that there will be no difficulty, and that most of the return -journey will be by another way, over the interminable level which I wondered at yesterday, nearly all soft sand, with very few stones. It is called the bashiri (" glissade ") ; and we are to descend at a run ! . . .

   All at once a family of field-mice scatter out from under my feet in panic ; and the goriki be hind me catches one, and gives it to me. I hold the tiny shivering life for a moment to examine it, and set it free again. These little creatures have very long pale noses. How do they live in this waterless desolation, and at such an altitude, especially in the season of snow?  For we are now at a height of more than eleven thousand feet! The goriki say that the mice find roots growing under the stones. . . .

   Wilder and steeper ; for me, at least, the climbing is sometimes on all fours. There are barriers which we surmount with the help of ladders. There are fearful places with Buddhist names, such as the Sai-no-Kawara, or Dry Bed of the River of Souls, a black waste strewn with heaps of rock, like those stone-piles which, in Buddhist pictures of the underworld, the ghosts of children build. . . .

   Twelve thousand feet, and something, the top ! Time, 8 : 20 a. m. . . . Stone huts ; Shinto shrine with torii ; icy well, called the Spring of Gold ; stone tablet bearing a Chinese poem and the design of a tiger ; rough walls of lava-blocks round these things, possibly for protection against the wind. Then the huge dead crater, probably between a quarter of a mile and half-a-mile wide, but shallowed up to within three or four hundred feet of the verge by volcanic detritus, a cavity horrible even in the tones of its yellow crumbling walls, streaked and stained with every hue of scorching. I perceive that the trail of straw sandals ends in the crater. Some hideous over-hanging cusps of black lava like the broken edges of a monstrous cicatrix project on two sides several hundred feet above the opening ; but I certainly shall not take the trouble to climb them. Yet these, seen through the haze of a hundred miles, through the soft illusion of blue spring-weather, appear as the opening snowy petals of the bud of the Sacred Lotos ! ... No spot in this world can be more horrible, more atrociously dismal, than the cindered tip of the Lotos as you stand upon it.

   But the view the view for a hundred leagues, and the light of the far faint dreamy world, and the fairy vapors of morning, and the marvellous wreathings of cloud: all this, and only this, consoles me for the labor and the pain. . . . Other pilgrims, earlier climbers, poised upon the highest crag, with faces turned to the tremendous East, are clapping their hands in Shinto prayer, saluting the mighty Day. . . . The immense poetry of the moment enters into me with a thrill. I know that the colossal vision before me has already become a memory ineffaceable, a memory of which no luminous detail can fade till the hour when thought itself must fade, and the dust of these eyes be mingled with the dust of the myriad million eyes that also have looked, in ages for gotten before my birth, from the summit supreme of Fuji to the Rising of the Sun.

   *

この最後の台詞の何と、厳かで美しいことだろう! 日本人である私はこんな風に感ずることが出来なくなっている私を限りなく哀しく思っていることを自白しておきたい。

●『「心」の第十章は、長き海外の放浪から歸朝の航路中にある日本の一靑年が、太平洋の甲板の上から望み見た富士を寫して、彼が國粹保存的精神に目醒めた決心を以て結んでゐる』これは一種の教養小説というか思想的哲学的な寓話小説である(面白いのは日本主義者の主人公の青年の富士山の描写が後に出るハーンが最初に見た富士の描写と美事にダブっている点である。是非、比較してお読み戴きたい。これはただ意識をスライドさせたのではない。この放浪の果てに故国日本の真の美、真の霊性を感得した青年こそが実は八雲その人であり、ハーンの自分探しの旅の帰結の一つがまさにこの主人公の青年自身の姿に宿っていることを物語っているのだと私は思っている)。やはり偏愛する平井呈一先生の訳(一九七五年恒文社刊「東の国から・心」の「心」の「ある保守主義者」最終の第八章全部を引用する。やや長いが、主意は前注と同じである。くれぐれも全文を平井氏訳で読まれんことを。なお、老婆心乍ら、「劃っている」は「くぎっている」と読む。

   《引用開始》

 

          八 

 

 雲ひとつない四月の朝まだき、まだ明けもやらぬ東雲(しののめ)の、物のかげさえおぼろに透いて見えるほの暗いなかに、かれはふたたび故国の山々を仰ぎ見た。――インクを流したような、暗たんたる海の環(わ)のなかから、紫をおびた薄墨色にそびえ立ち、空のかなたを高くくっきりと劃っている故山を、かれは眺めたのである。長い長い流浪の旅から、いま、かれを乗せて故国へいそぐ汽船のうしろには、刻一刻、バラ色の炎となって、しずかに染めなされて行く水平線があった。甲板の上には、すでにもう幾人かの外人たちが、太平洋の荒波の上から、富士の麗容をはじめて見ようとして、しびれを切らしながら待っていた。暁に見る富士の初すがたこそは、なんといっても、この世はおろか、あの世までも忘られぬ眺めの一つである。外人たちは、しばらくそうして、えんえんと連なる山なみに眺め入っていた。ほの暗い大空に、鋸の歯のような頂をもたげている山々のむこうには、よく見ると、まだ小さな星かげがかすかに光っているのが見える。――しかし、富士はまだ見えない。外人たちは、船員に尋ねてみた。すると、船員は、笑いながら答えた。1ああ、あなたがたは、目のつけどころが、低すぎるんですよ。もっと上を見てごらんなさい。もっと高いところを。」そこで、外人たちは、空のまんなかまで目を上げてみた。すると、曙のときめく色のなかに、あやしい幻の蓮(はちす)の葩(はな)がひらきでもしたような、うす桃色に色どられた大きな山頂が、はっきりと見えた。その壮観に打たれて、だれもかれも、しばらくのあいだは啞のように息をのんでいた。と見るうちに、万古の雪は、刻々に金色に変りだし、やがて真白になったと思ったときには、朝日はすでに水平線の弓の上にさし出て、瞬くうちに暗い山なみの上、いや、その上の星の上までも高くのぼったかと見るまに、さしかがやく旭光は、早くも頂上いっぱいに光りを投げかけていた。が、広い裾野は、まだよく見えない。そのうちに、夜はすっかり明けはなれて、ほのぼのとした浅黄いろの光りは、大空をひたし、物のあやめは深い眠りから目をさました。――やがて、船客たちの目のまえに、明るい横浜の港がひらけてきたころには、ふもとを雲にかくした霊峯は、無窮の青空高く、さながら雪の精もかくやとばかりに、四方の山々を圧して高だかとそびえ立っていたのである。

 「ああ、あなたがたは、目のつけどころが低い。もっと上を見よ。もっと高いところを。」――このことばは、妙にかの流浪者の耳朶(じだ)に残ることばだった。このことばの余韻は、いつまでもかれの耳の底に鳴りひびいて、なにか胸のなかにふくれ上がってくるような、抑えようとしても抑えきれない深い感情に、節とも何とも得体のつかぬ伴奏をかなでた。すると、たちまちいっさいが朦朧としてきた。目には、空に秀ずる富岳も見えず、その下の方に、青から緑にうす霞んでゆく山々も、湾内に群がる船舶のかげも、そのほか、近代日本を形づくるいっさいの物という物が、なにもかにも見えなくなってしまった。ただ、古い日本だけが、かれの眼底にありありと見えていた。におやかな春のかおりをのせて、陸から吹いてくるそよ風が面を吹きなで、血潮にふれると、長く閉されていた古い思い出のへやから、ふっと、かれが昔忘れ捨てようとしたいろいろの物のすがたが、ひょいひょいと飛び出してきた。もう亡くなってしまった人たちの顔が、ゆくりなくも、まぶたに浮かび上がり、長い年月を草葉のかげに送った人たちの声が、ふっと耳に聞こえてきた。かれはもういちど、父の屋敷にいたころの少年にかえり、そこの明るいへやからへやをうろうろ歩きまわり、畳の上に青い葉のかげが、ちらちら動いている日なたで遊び戯れ、山水を形どった庭先の、夢のように静かな木下闇の安らかさに、しみじみと眺め入る自分を見た。ちょこちょこ歩きのかれの手をひいてくれる母の、あの柔らかな手ざわりを感じながら、かれは邸内にあった小さなほこらの前にも行き、先祖の位牌の前にも立った。そして、ふといま新しい意味を見つけ出した、かの船員の言ったことばを、がんぜない子供の祈りごとでもまねるようにして、かれはおとなの唇で、もういちどつぶやいたのである。

   《引用終了》

以下、“KOKORO”の当該原文を引いておく。引用元は、“Project Gutenberg” “A CONSERVATIVE”である。

   *

 

VIII

 

It was through the transparent darkness of a cloudless April morning, a little before sunrise, that he saw again the mountains of his native land,—far lofty 
sharpening sierras, towering violet-black out of the circle of an inky sea. Behind the steamer which was bearing him back from exile the horizon was slowly 
filling with rosy flame. There were some foreigners already on deck, eager to obtain the first and fairest view of Fuji from the Pacific;—for the first sight of Fuji at dawn is not to be forgotten in this life or the next. They watched the long procession of the ranges, and looked over the jagged looming into the deep night, where stars were faintly burning still,—and they could not see Fuji. "Ah!" laughed an officer they questioned, "you are looking too low! higher up—much higher!" Then they looked up, up, up into the heart of the sky, and saw the mighty summit pinkening like a wondrous phantom lotos-bud in the flush of the coming day: a spectacle that smote them dumb. Swiftly the eternal snow yellowed into gold, then whitened as the sun reached out beams to it over the curve of the world, over the shadowy ranges, over the very stars, it seemed; for the giant base remained viewless. And the night fled utterly; and soft blue light bathed all the hollow heaven; and colors awoke from sleep; —and before the gazers there opened the luminous bay of Yokohama, with the sacred peak, its base ever invisible, hanging above all like a snowyghost in the arch of the infinite day.

Still 
in the wanderer's ears the words rang, "Ah! you are looking toolow!—higher up—much higher!"—making vague rhythm with an immense, irresistible emotion swelling at his heart. Then everything dimmed: he sawneither Fuji above, nor the nearing hills below, changing their vapory blue togreen, nor the crowding of the ships in the bay; nor anything of the modern Japan; he saw the Old. The land-wind, delicately scented with odors of spring, rushed to him, touched his blood, and startled from long-closed cells of memory the shades of all that he had once abandoned and striven to forget. He saw the faces of his dead: he knew their voices over the graves of the years. Again he was a very little boy in his father's yashiki, wandering from luminous room to room, playing in sunned spaces where leaf-shadows trembled on the matting, or gazing into the soft green dreamy peace of the landscape garden. Once more he felt the light touch of his mother's hand guiding his little steps to the place of morning worship, before the household shrine, before the tablets of the ancestors; and the lips of the man murmured again, with sudden new-found meaning, the simple prayer of the child.

   *

なお、「ジャパネスク おらが富士」の『「富士山」逸話あれこれ』の「54. ラフカディオ・ハーンの富士山」には、本作の全体の構成と本シーンの持つ意味が実にコンパクト且つ明瞭に解説されてあるので、一読をお勧めする。……さても私は……このエンディングの一種恐るべき眩暈の幻想に、何か胸をかきむしりたくなるようなある不思議な哀感と郷愁を覚えるのである。もう、戻って来ない何ものかに対して――。

●『「日本への冬の旅」には、横濱港の沖から仰いだ富士』。これはハーンが日本に着いて最初に記した紀行文“A WINTER JOURNEY TO JAPAN”の一節で、この記事は出版社ハーバー社特派員であったハーンが実に日本到着後、最初に手掛けた仕事として、本社へ送った記事であった(但し、この直後に同社の彼に対する不当な扱いへの不満からハーンは契約を破棄したことは既に書いた)。これは私の手元には邦訳がないのであるが、幸い、前注で引いた「ジャパネスク おらが富士」の『「富士山」逸話あれこれ』の「54. ラフカディオ・ハーンの富士山」に一九八〇年刊かと思われる恒文社の「ラフカディオ・ハーン著作集 第一巻」の「日本への冬の旅」(仙北谷晃一訳)の、洋上から美しい富士を描写したハーンの印象が引用されているのを見出した。孫引きで乍ら以下に引かせ貰う。

   《引用開始》

 まず、しみ一つない頂の部分が不思議な花の蕾(つぼみ)の尖端(せんたん)のように淡紅(とき)色に染まり、それから一面金色(こんじき)の混じった白色となる――やがて頂から真直(まっす)ぐ下へ延びる線が見えてくる――雨が急流となって流れ下った痕(あと)である。山全体が朝の光に包まれている――その下のくっきりと青い山脈がまだ一向に夜の眠りから醒(さ)めぬというのに。しかし日射(ひざ)しの明るさの中にあってさえ、その美しさは依然として霊的な清らかさと――妖(あや)しいまでの繊細さを失わない――その輪郭あるが故にようやく眼は、この山を形作っているのは白い霜の蒸気――何か淡い雲のようなものではないと納得がゆくのである。われわれは、その息を呑(の)むばかりの美しさに恍惚(こうこつ)となって見とれている。一方、日が昇ってすっかり穏やかになった海面は、徐(おもむ)ろに薄青色へと変わり始める。

   《引用終了》

これだけではあまりに引用元にも失礼であるし、注の体裁を成さぬ。そこでさらに検索してみた結果、英文電子テクスト・サイト“UNZ.org - Periodicals, Books, and Authors”で、まさにこのハーンの当時の記事“A Winter Journey to Japan by Lafcadio Hearn The Harpers Monthly, November 1890, pp. 860-867”を手に入れることが出来、この紀行文の第十四章の冒頭部分が、まさに訳文のそれであることが分かった。以下に富士山の名も記されてある前段をも含めて原文を引いておく。なお、これで引用元は勿論のこと、訳者の仙北谷氏からも許容され得る引用の体裁を整えられたと私は信ずるものである。

   *

XIV.

   …On deck at earliest dawn. It is cold and clear, with an immense wind still blowing. To starboard mountains rise blackly against the splendid rose flush of sunrise. To port, another long chain of hills is now visible,—superbly undulating, with saw points here and there—much nearer than the opposite land. Then with a delicious shock of surprise I see something for which I had been looking,—far exceeding all anticipation ——but so ghostly, so dream white against the morning blue, that I did not observe it at the first glance: an exquisite snowy cone towering above all other visible things — Fusiyama!   Its base, the same tint as 
the distances, I cannot see—only the perfect crown, seeming to hang in the sky like a delicate film,—a phantom.

   But with the rising glow of sunrise it defines: its spotless tip first pinkening like the point of some wondrous bud: then it becomes all gold-white; and streaks appear, sloping straight from the summit,—lines of rain torrents. It is all sun-wrapped—long before the keen blue ranges it overtops have yet emerged from the night. But even in the sun its beauty remains so spiritually pure,—so weirdly delicate,—that its lines alone assure the eye it is not made of white frost vapor,—some substance of cloud fleece. We keep watching it, entranced by its amazing loveliness, while the water, now smooth under sunrise, lightens slowly to a soft pale blue. Very swiftly we steam;—other mountains move backward; but that celestial cone remains always in the same place. . . .

   *]

« 来日直後のハーン御用達の横浜の車夫「チア」(チャア)についての一考察 | トップページ | 雨ふり 村山槐多 (決定版) ――国立国会図書館の差替画像によってまたしても彌生書房版全集の誤りを発見―― »