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2015/08/29

譚海 卷之一 越中國五箇莊の事

 越中國五箇莊の事

同國期箇(ごか)の庄(しやう)といふ所は、飛驒にちかき深山中の村にして、居人千軒程有(あり)、前田家の領地なり。凡(およそ)此(この)村に至るには深谷のかけ橋などをあまたへていたる事故、同地のものといへども往來する事稀也。尤(もつとも)加州より猥(みだり)に他國の人を入る事を禁じ、番所ありて人を改む。ゆるしをえざれば往來する事あたはず。九山八海と稱する地にて、一山をこえて一山に入(いり)、その際はみな平(たひら)か成(なる)路也。第八山までの人家は千軒の外也。外郭八山迄五十萬石耕作する所といへり。一山の周匝(しふさふ)三十五里づつ有(あり)といへり。其(その)道中百間(けん)或は二百間、谷むかふよりこなたへ藤かつらの繩を引(ひき)わたし、其繩に籃(かご)をくゝりつけ、往來の人は籃の内に坐し、此方(こなた)の岸に人有(あり)て籃ををしやれば、籃四五十間もはしりて中間にしてぶらぶらととゞまる。それより自身籃の中にて繩をたぐり向ふの崕(がけ)に至り、籃より出て途につく事也。繩斷絶すれば深谷へ暴死(ぼうし)す。危嶮(きけん)言語同斷也。如ㇾ此(かくのごとき)谷を十六こえざれば庄に至りがたし。然して村中の人みな壽考(じゆかう)也。百歳已上(いじやう)の人まゝあり。八十歳已下にて死する者をば、夭折のごとく覺えたり。村中煙硝を産す。悉く加州城中へ運びとる。凡壹年に二千金ほどの價也。それを加州より給すれば、千軒高下(かうげ)なく平分(へいぶん)に分(わか)ちとるゆへ、貧富貴賤の家なし。家々同等なれば他を願ふ情なく、七情(しちじやう)薄き故に壽考も多き事としられたり。又貧富なきゆへに奉公する人なし。他國の人(ひと)來住する事なければ、僕從(ぼくじゆう)といふものなし。親子兄弟のみにてかせぐ所也。此期箇の庄に神宮皇后の御所と稱するもの今にありとぞ。すべて常人の宅も結構美麗にして、他邦になき所、別世界のごとし。日本開闢已來一度も兵革の憂に逢(あひ)たる事なき所ゆへ、居人の言語も古代のものいひにて、平安の人よりはものいひやさしく聞ゆるといへり。千軒の人の給は、七年づつの糧をもみにて加州より運送すと云(いへ)り。中央の地に瑪瑙(めなう)の山あり。流水の水上(みなかみ)也。黄金にて鑄たる龍の口より水をはくといへり。居人みな白き衣に白き袴を着る。即(すなはち)其地にて織出(をりいだ)す五條きぬと云(いふ)もの也。輕くて奇麗なる事いふべからず。婦人袴を着て髮はから子(こ)にて瓔珞(やうらく)をさぐると云(いふ)。淫欲甚(はなはだ)しといへり。男子は總髮(そうはつ)にて袴を着るといへり。此山の内外みな淨土眞宗にて餘宗なし。第八山までに淨刹百五十箇(か)寺ありとぞ。中央の事は寺數しれず、前田家入部の時一囘巡見せらるゝ事とぞ。

[やぶちゃん注:「越中國五箇莊」富山県の南西端にある南砺市の旧平(たいら)村・旧上平(かみたいら)村・旧利賀(とが)村を合わせた五箇山(ごかやま)地域のこと。参照したウィキの「五箇山」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の五つの谷からなるので「五箇谷間」となり、これが転じて「五箇山」の地名となった。この名称が、文献に出てくるのは約五百年前、本願寺住職第九世光兼実如上人の文書が最初である。これ以前には、荘園時代に坂本保、坂南保、坂上保、坂下保、坂北保の五つの領に区別し「五箇荘」とも呼んだ。この五箇と呼ばれる地名は全国に約百二十ヶ所程度あると言われ、中国の故事より「五を一括り」を由縁とするらしい。日本で「五穀豊穣」や「五人組」「伍長」との語句などである。平家の落人伝説が「五箇」が多いとの所以は、「五箇」が山間地に多いことや落人が山間に逃げることから源平合戦の近隣の地域に伝説が多い』。『平家の落人が住み着いたと伝えられて』おり、寿永二/治承七(一一八三)年、現在の『富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と平維盛(平清盛の孫)が戦った(倶利伽羅峠の戦い)。この時、義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされる。物的証拠はないが、一部の五箇山の民家の家紋として残っているとされている』。『また、南北朝内乱期に、吉野朝遺臣によって地域文化が形成されたとも伝えられており、「五箇山誌」』(昭和三三(一九五八)年刊)『には「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からである。養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは後醍醐天皇第八皇子、天台座主宗良親王によってである。」という説もある』。『白山信仰による天台宗系密教の地域であったが、一四七一年(文明三年)浄土真宗本願寺八世蓮如が現在の福井県吉崎に下向し、北陸一帯が一向宗の勢力となりこの地域も浄土真宗に改宗したようである。北陸一帯の地名には「経塚」なる地名が残っているが、この地域にも天台宗系のお経を埋めた地を、こう呼んでいる』。『江戸時代には、加賀藩の流刑地とされ、加賀騒動の大槻伝蔵もこの地へ流された。流刑地である五箇山には当地を流れる庄川に橋を掛けることが許されず、住民はブドウのつるで作った大綱を張り、籠をそれに取り付けて「籠渡し」として行き来した(現在でも残っており、人の代わりに人形が川を越える)』。『五箇山の合掌造りの屋根は茅葺である。五箇山の茅葺はコガヤ(チガヤ)』(単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ Imperata cylindrica )『を材料とすることが特徴となっている。なお、現在はチガヤの採取量が全ての合掌造りに必要な分を満たせず、重要文化財や世界遺産を除く合掌造りは大茅(ススキ)で屋根が葺かれている家屋がある。昭和三十年代までは「結」、集落の共同作業にて葺き替えを行っていたが、現在は富山県西部森林組合(旧五箇山森林組合)が屋根の葺き替え、茅場の管理・刈取りを行っている』。『この地域は世界的にみても有数の豪雪地帯であり、そのような風土から傾斜の急な大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれた。現在も南砺市(旧平村)の相倉地区や同市(旧上平村)の菅沼地区には合掌造りの集落が残っており、それぞれ一九七〇年十二月四日、「越中五箇山相倉集落」「越中五箇山菅沼集落」として国の史跡に指定され、一九九四年には重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、隣接している岐阜県大野郡白川村の白川郷(荻町地区)とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として一九九五年一二月、世界遺産に登録されている』。『「五箇山は民謡の宝庫」と言われ、発祥や伝播の経緯が定かでないものが数多く存在する。「お小夜節」は伝承ではお小夜(おさよ)という遊女と関係が深いという。加賀騒動の首謀者と遊女たちが輪島に流刑になったが、お小夜は輪島の出身だったため、意味がないということで、小原(上平)に流され、歌を教えたとされる。口頭で伝承され発展してきた文化遺産であり、麦屋踊は、国の助成の措置を講ずべき無形文化財に選定された経過にある。代表的な「こきりこ節」や「麦屋節」を含む多くの民謡は、一九七三年(昭和四十八年)十一月五日に「五箇山の歌と踊」として、国の選択無形民俗文化財に選択されており、多くの五箇山民謡保存団体が存在し、唄い踊り続けることによって守られて』おり、現在、『こきりこ(こっきりこ)節・麦屋節・長麦屋節・早麦屋節・小谷麦屋節・古代神・小代神・四つ竹節・といちんさ節・お小夜節・なげ節・五箇山追分節・神楽舞・古大臣・しょっしょ節・草島節・輪島節など』が伝承されている、とある。

「居人千軒程有」戦後の人口流出により、二〇一四年の統計では人口(戸数ではない)二千四百人ほどと思われる(瀧澤侑加(ゆか)氏の論文「五箇山の念仏道場と仏教行事の変化に関する研究―利賀地区を中心として―」(PDF)の「五箇三村の人口の推移」二〇一四年四月現在の住民基本台帳人口の表からの推定)。戸数は越中城端善徳寺公式サイト内と思われる「五箇山史雑記」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『五箇山の戸数は、享保十七年(一七三二)では、千三戸、しかし、同十九年(一七三四)では、九百十七戸に減少、幕末の慶応二年(一八六六)では千二百九十六戸と増減した。人口は、同年で九千八百三十二名であった。享保十九年に、戸数、人口が減少した理由は凶作だったことが当時の記録から伺える』とあり(下線やぶちゃん)、『文化十年(一八一三)の江戸時代の記録では、「春は雪遅く消え、秋は雪霜早く降り、諸作物実りかね、稲作は累年実り申さず」とあり、凶作の年は、「飢饉、谷中百姓共、過半飢死申」とあり、五箇山住民の多くが餓死したという』。『幕末の人口から計算すると五箇山での食糧自給率は換算すると六十%で、不足する米は城端から搬入された。日当たりの良い斜面は桑畑となった。加賀藩には年貢の多くは塩硝で納められた』。『旧上平村の世帯数を見ると、明治二八年』(一八九五年)『には四〇五戸あったのが明治三十四年には三百十一戸まで急減している。これは旧平村でも同様で、実は村民の多くが北海道に移住したのである』。『これは開拓地が与えられる屯田兵制度という明治政府の方針もあったが、北海道に移住しなければならなくなった理由には、五箇山の主要製品であった塩硝が、明治三年に加賀藩から買い上げ中止となったこと等、加賀藩に支えられ安定していた五箇山の産業構造が急変したことが背景にある』とある。『そして更に人口の減少が進み、かつての平、上平、利賀を併せて、二〇〇〇年では旧三村の人口は三四〇〇人を下回っているようだ』とあり、前の瀧澤氏のデータからはさらに深刻な減少が起っていることが窺える。因みに本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙って書かれたものであるから、享保十九(一七三四)年に凶作で九百十七戸に減少した後、少しだけ回復した様子が窺える。

「加州」加賀国。

「九山八海」本来は「くせんはつかい(くせんはっかい)」と読み、仏教の世界観で金輪際の中心である須弥山(しゅみせん)を順に取り囲む九つの山と八つの海のことを指すが、ここはそれに擬えた半ば隔絶した一小世界の謂いと思われる。但し、以下の叙述を見る限りでは現地では古くは実際に九つの山については具体的な山(ピーク)が当てられていたは読める。

「五十萬石」不審。加賀藩でさえ百二万五千余石ある。先の「五箇山史雑記」には、『江戸時代の五箇山の石高は、正保三年』(一六四六年。家光の頃である)『「五ヶ山高物成田畠帳並びに高付帳」では』七十ヶ村合計で五千八百三十六石とある。

「周匝」現代仮名遣では「しゅうそう」。ある対象の周りを取り巻くこと。また、その廻り・巡りの意。

「三十五里づつ」三十七・四五キロメートル四方であるが、これはかなり大ドンブリの感がある。現在の行政区分による実測であるが、南北に長い旧利賀村でも三十キロメートル弱ほどと見られ、東西に至っては多く見積もっても二十五キロ弱ほどしかない。南北については現在の庄川上流のやはり合掌造で知られる岐阜県内の白川村まで含めるならば、少なくとも南北はこれくらいにはなるが、白河郷は江戸時代から飛騨国である。

「百間或は二百間」凡そ百八十二~三百六十四メートル。

「谷むかふよりこなたへ藤かつらの繩を引わたし、其繩に籃をくゝりつけ、往來の人は籃の内に坐し、此方の岸に人有て籃ををしやれば、籃四五十間もはしりて中間にしてぶらぶらととゞまる。それより自身籃の中にて繩をたぐり向ふの崕に至り、籃より出て途につく事也」「富山県民生涯学習カレッジ」公式サイト内の廣瀬誠氏の「テレビ放送講座 平成2年度テキスト 第3回 川は暮らしを支える 越中の川と文化」の「籠の渡」(以下に見る通り「かごのわたり」と読む)に、『山間峡谷には籠(かご)の渡(わたり)が架けられていた。両岸に張り渡した綱に籠をつるし、その籠に乗って繰り綱を引きながら谷を渡る施設。神通川の越中・飛騨国境の籠の渡が古来有名で、元禄の頃、俳人凡兆が「越より飛騨へ行くとて、籠の渡の危き所々道もなき山路をさ迷ひて」と前書きして鷲の巣の名吟をとどめた。この籠の渡は多くの紀行歌文に紹介され、広重の版画にもなって全国に知られた』。

『五箇山の庄川の谷にも下梨はじめ十三カ所の籠の渡があって、蓮如上人や赤尾道宗の伝説にいろどられている。俳人路通は元禄八年(一六九五)「ふらふらと籠の渡りやほととぎす」と詠み、『二十四輩順拝図会』(文政七年、一八二四)は見事な木版画を載せている。籠の渡の下に牛渡り瀬があって、牛は荷物をはずして谷川を渡らせられているが、その光景は交通運輸史の一こまとして興味深い』。『神通川の籠の渡は明治五年木橋に架け替えられ、庄川の籠の渡は明治八年以後次々鎖(くさり)橋(鎖で吊るした頑丈な吊橋)に架け替えられた』。因みに、『常願寺川湯川谷の籠の渡は、明治二十六年』(一八九三年)、『ウエストンがこれを利用し、蛙飛びのような格好で籠乗りしたことをユーモラスに書いている。明治三十八年、若き日の山田孝雄(よしお)が立山から下山して雨の湯川谷を通った時、橋が落ちていたため、山の人達が急造りの籠の渡を架けてくれ、これに乗って激しい濁流を渡ったという。そのような技術が山民の間に伝えられていたことは注目すべきであろう』とある。他にも「川渡りの苦難」の章には、『一本の大竹竿(さお)につかまって急流を渡った』という記載があり、『登山家が一本のザイルに何人もつかまって谷川を渡るのと同じ方法であろう』とあって、誠に興味深い。必読である。

「暴死」急死・頓死の意。遺体を引き上げることも出来なかったに違いない。

「壽考」「考」は老人の意で、長寿・長命のこと。

「煙硝を産す」やはりウィキの「五箇山」の「塩硝」の項によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦(一五七〇年(元亀元年)~一五八〇年(天正八年))の織田勢との戦いにも五箇山の塩硝が使われた。また、黒色火薬自体を製造していたとされる。日本古来から、古民家の囲炉裏の下には自然と塩硝は製造されていたが、五箇山では、自然の草(ヨモギ、しし独活、麻殻、稗殻など)と、蚕の糞などで製造する「培養法」を使って、より多くの塩硝を製造した。十六世紀後半には、前田家が加賀一帯を統治し、一向一揆が沈静化したころより、加賀藩に召し上げとして買い付けられる。加賀藩は、外様大名として百万石の経済力をもち徳川家の二分の一の石高を持っていたので、取り潰しの危機にあったが、裏では五箇山での火薬の原料を調達していたのである。しかし、この塩硝も、日本が鎖国を解いてから南米のチリからの硝石(チリ硝石)の輸入によって廃れてしま』ったとある。

「七情」七種の感情。「礼記(らいき)」では、「喜」「怒」「哀」「懼(く)」「愛」「悪」「欲」とし、仏教では「喜」「怒」「哀」「楽」「愛」「悪(お)」「欲」を指す。

「僕從」下僕。小国寡民で貧富の差がないから、賤職としてのそれが居ないのである。

「神宮皇后の御所」底本には編者により「宮」の右に『(功)』と訂正注がある。三韓征伐で知られる仲哀天皇の皇后神功皇后(じんぐうこうごう 成務天皇四〇(一七〇)年~神功皇后六九(二六九)年)であるが、彼女は実在性が疑われており、ネット上でも五箇山の神功皇后の御所という記事は縦覧した限りでは見当たらない。識者の御教授を乞う。

「瑪瑙」現在でも石川県・富山県で多く産出するようである。

「五條きぬ」不詳。識者の御教授を乞う。

「から子」「唐子」であろうが、元来は頭の左右に僅かに髪を残して、他は完全に剃り上げる江戸時代の幼児の中国風の髪形のことである。しかしそれではおかしいのでこれは「唐子髷(からこまげ)」 で先の唐子のように髻 (もとどり) から上を二つに分けて頭上で二つの輪に作った、近世の女性の髪形となった。「からわ」と言う。

「瓔珞をさぐる」「瓔珞」現代仮名遣では「ようらく」で珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具のこと。「さぐる」はまさぐるの意か?

「總髮」「そうがみ」「そうがう(そうごう)」とも読む。男子の結髪の一つで、月代(さかやき)を剃らずに伸ばした髪の毛全部を頭頂で束ねて結ったもの。近世では主に儒者・医者・山伏などが結った髪形。]

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