六 七月二十四日 杵築にて
大社の第一の境内で、正門の左に當つて、灰色に古びて、普通の宮の形をした、小さな木造建築がある。その閉めた戸り木格子に通常、神に對する誓詞や祈願を書く白紙が、夥しく結んである。しかし格子の中を覗いてみても、暗い内部には神道の象徴は一つも見えない。それは厩だ!して、中央の部屋に立派な馬が居る――見物人の方に向つてゐる。藁で作つた日本の馬沓が、その背後の壁に吊るしてある。馬は動かない。唐金で作つてあるのだ!
博學の神官佐々氏に就いて、この馬の話を尋ねたとき、次のやうな珍らしいことを告げられた――
舊曆七月十一日が「身逃げ」といふ異樣な祭日に當る。その日、杵築の大神は社殿を出でて町々を通つて、海濱に沿ひ、それから國造の屋敷へ入る。だから、其日いつも國造は屋敷を空けて外出した。現今は實際さうはしないが、彼とその家族はある室に退いて、邸宅の大部を神の使用に供するやうにしておく。此國造が引込むことを『身逃げ』と呼ぶ。
さて、大國主神が町を通行の際、最上席の神官がお伴をする。この神官を昔は『別火』と稱した。その譯は、神に對して淸淨潔白を保つため、祭りの始まる一週間前から、彼は特別な火を用ひて煮た食物を食べてゐるからだ。『別火』の職は世襲であつたので、その稱號が遂に家名となつた。今日ではその式を行ふ神官も、最早『別火』と呼ばれない。
『別火』が彼の任務施行の際、街頭で人に出逢ふと、彼は『犬め、退け!』と言つて、道を避けさせた。で、昔は固より、今も俗衆は、かやうに言葉をかけられた者は犬に變つて了うと信じている。だから、『身逃げ』の當日、ある時刻の後は、誰も町へ出なかつたもので、今でもこの祭典中は、あまり外出するものが無い。
註。私の杵築滯在中、泊まつてゐた海
濱の小さな綺麗な旅舘因幡屋では、親
切な老主歸は『身逃げ』中は外出せぬ
やう、殆ど涙を流さんばかりの熱心な
を以て、客に説き勸めた。
すべての町々を通つた後で、『別火』は朝の二時から三時の暗い内に、ある祕密の儀式を海岸で行つた。(この式は今猶毎年同時刻に行はれるとのことだ)しかし『別火』自身の外、一人もそこにゐてはならぬ。もし不幸にして、その式を見た人があると、その人は即死するか、または獸に變はつてしまうのだと、一般人民は信じてゐた。また今もさう信じてゐる。
この儀式の祕傳は頗る神聖なもので、『別火』相續者に傳へるにも、死んだ後でなくては、それを語ることは出來なかつた。
だから、彼が死ねると、その死骸を社の或る奧の室の蓆の上に乘せて、すべての戸を堅く閉めて、その息子だけを殘しておく。すると、夜間或る時刻に、靈が死體に歸つて、死んだ神官は身を起し、息子の耳へ恐ろしい祕密を囁く――して、また倒れて死する。
しかし一切こんな話は、唐金の馬と何の關係がある?と讀者は尋ねるかも知れない。
たゞこれだけだ。即ち――
『身逃げ』の祭には、杵築の大神は、その市の町、を唐金の馬に乘つて歩き玉ふのだ。
[やぶちゃん注:個人的に頗る慄っとする素敵に怖い条である。
「中央の部屋に立派な馬が居る」現在も、銅鳥居を抜けた直ぐの西側にブロンズ像の神牛と神馬が安置された牛馬舎があるらしい。光之輔氏のブログ「幸せを引き寄せる出雲の氣と風光」の「【出雲大社参拝記⑫】神馬と神牛に安産祈願!」に写真がある。但し、新しい感じで、ハーンが見たものの後裔であろう。
「身逃げ」中経出版の「世界宗教用語大事典」に「身逃神事(みにげのしんじ)」とあり、『出雲大社で八月一四日に行われる神事で、神官の長が社家を出て他の社家に泊まる。翌日、爪剥神事という抜穂予祝行事がある。身逃れ神事とも』とあり、「公益社団法人島根県観光連盟」の運営する「しまね観光ナビ」の「出雲大社の祭り」に、八月十四日深夜には『境内の門はすべて開放され、禰宜(ねぎ)は本殿に参拝し、大国主命の御神幸(ごしんこう)にお供する。湊(みなと)社、赤人(あかひと)社に詣で、稲佐の浜の塩掻島(しおかきしま)で祭事を行い、国造館から本殿へ帰着する。この神事の途中、人に逢うと出直しをしなければならないため、町内の人々は早くから門戸を閉ざし、外出も避けている』と明記されてあるものの、なかなか纏まった分析記載がネット上では見当たらない。幾つかの記載の中でも腑に落ちたのが、個人ブログ「古代からの暗号」の『伏見稲荷神符21 「身逃神事」と「爪剥祭」』であった。表題はこうだが、冒頭から『出雲大社で行われる祭祀は、年間72度に及ぶというが、由緒が古く学者にも注目されながら明確な説明がつかない「身逃神事(みにげのしんじ)」と「爪剥祭(つまむぎさい)」があるという』で始まる。筆者はHNもお持ちでないが、大変、興味深く(というか、私はこの特異な神事をハーンのこの叙述以外で聴いたことがないので、総てが驚きである)、失礼して以下、全面的に引用させて戴く。
《引用開始》
明治以前は陰暦七月四日深更に身逃神事、翌五日に爪剥祭が行われたが、今は八月に行う。この祭祀は櫛八玉神の末裔である別火氏(べっかし・大社家上官)が、大国主の神幸にあたって、大社の聖火で調理した斎食をし、稲佐の浜の海で身を清めた後、八月十四日の身逃神事のための「道見(下検分)」を前夜行う。道見は禰宜らが献鐉物を持ち湊社(みなとのやしろ・祭神は櫛八玉神)と赤人社(あかひとしゃ・祭神は別火氏の祖)へ詣で白幣、洗米を供えて拝礼する。次に、稲佐の浜の塩掻島(しおかきじま)で四方を拝し、前二社と同じ祭事を行い斎館に帰る。[やぶちゃん注:「塩掻島(しおかきじま)」は引用元では「塩塩掻(しおかきじま)」となっているが、後に示した広瀬満氏の「日本神話と古代史」の「第二章 『古事記』の謎と大国主神の正体」の記載によってかく改めた。]
翌十四日の午前一時禰宜(当日は大国主の神幸の供奉である)は狩衣を着け、右に青竹の杖を左に真菰で造った苞(しぼ)と火縄筒を持ち、素足に足半(あしなか)草履の出で立ちで、大社本殿の大前で祝詞を奏し、その後前夜の道見の通りに二社に行き、塩掻島で塩を掻く。帰路出雲国造館大社本殿に向いて設けた斎場を拝し、本殿大前に帰り再拝拍手して神事は終了する。
興味深いのはこの祭事中、出雲国造が神幸に先立ち国造館を出て一族の家に一宿し儀式が済み次第帰館するが、国造の留守の間に国造館では大広間を清め、荒菰を敷き八足机をそろえ、大国主神を迎える用意をする。またこの神幸の途中に人に会うと汚れたとして、大社に戻り神幸の出直しをするという。翌十五日の爪剥祭は神幸祭に塩掻島で掻いた塩・根付稲穂・瓜・茄子・根芋・大角豆(ささげ)・御水の七種の神鐉を供えるのが古来からの習わしであるという。
この神事の主役は大国主神。脇役は櫛八玉神の子孫という別火氏と出雲国造である。が、大国主は隠身なので別火氏が供奉として代行している。
この神事を通じて何を伝えようとしているかを考えると、キーワードは櫛八玉神であろう。『古事記』の国譲りの段で、櫛八玉神は膳夫となって奉仕せよと命じられているが、その火は熊野神社の神火であり、富氏の言う久那戸大神の神火なのだ。そして、この神事の塩掻きは『古事記』の櫛八玉神が鵜になって、海の底からはにを咋い出す場面であり、爪剥祭は八十びらか(平たい皿)を作り神鐉を献る場面をあらわしていると思われる。
しかし、国造はなぜ国造館を出て、しかも一晩留守にしなければいけないのか? それはこの神事が先祖の霊が帰ってくるという、お盆の時期に行われる事と関係するように思われる。
爪剥祭は古くは<つま向き>であったというが、稲佐の浜で<対馬(つま)向き>の神事を行い、<交い矛を副葬された対馬の祖霊>を迎えるか、<大国主が対馬の祖霊の元に里帰り>するかのどちらかであろう。
神幸とは神様が旅をすることであり、町や村のお祭りでは神様を神輿に乗せて巡行するが、神様の休憩するところをお旅所という所以である。ならば<身逃神事>は文字どおり大国主が出雲大社を抜け出して、先祖の地・対馬に里帰りすると考えたい。だから出雲の大神になりかわる出雲国造も、国造館を出て他所に一宿する必要があったのだろう。
《引用終了》
他にも広瀬満氏の「日本神話と古代史」の「第二章 『古事記』の謎と大国主神の正体」の「出雲大社の謎の神事『神幸祭』」にも身逃神事の詳細な記載と「神幸供奉図」とキャプションのあるその折りの「別火」の姿を書いた絵が載る(因みに、このサイト主の広瀬氏は大国主神の正体は天武天皇であるとする立場をとっておられる)。
「別火」これは明らかに、日常の穢れたそれではない、異なった火、神聖な別な火、神聖な儀式に則り、神聖に道具で鑽(き)り出したところの「神聖なる火」の意である。本文中にあるように、そうした特殊な火を以って調理したものだけを口にすることによって、潔斎するとともに、神人共食に近い状態に持ち込むことで、神に直接特別に奉仕するという極めて古形の神式に基づくものと考えられる。
「その稱號が遂に家名となつた」現在も出雲大社祠官家の姓に「別火(べっか)」という姓がある。
「旅舘因幡屋」既注。但し、「八雲会」の「松江時代の略年譜」を見ると、この時に実際に投宿したのは(少なくとも最初は)「養神館」とある。不審。
「朝の二時から三時の暗い内に、ある祕密の儀式を海岸で行つた」「『別火』自身の外、一人もそこにゐてはならぬ。もし不幸にして、その式を見た人があると、その人は即死するか、または獸に變はつてしまう」「この儀式の祕傳は頗る神聖なもの」という稲佐の浜の塩掻島(しおかきじま)でか、或いはその前後に稲佐の浜の別な場所で行う謎の秘儀については、記載が見当たらない。そもそもがこの一時蘇生による死霊による死後伝授という恐るべき伝承がずっと少なくとも明治まで続いていたとすれば、これは本邦での第一級のそれも超古形の闇の呪術と断言出来る(私はもっと現実的な現象を措定するものであるが)。]
Sec.
6
KITZUKI,
July 24th
Within
the first court of the Oho-yashiro, and to the left of the chief gate, stands a
small timber structure, ashen-coloured with age, shaped like a common miya or
shrine. To the wooden gratings of its closed doors are knotted many of those
white papers upon which are usually written vows or prayers to the gods. But on
peering through the grating one sees no Shinto symbols in the dimness within.
It is a stable! And there, in the central stall, is a superb horse—looking at
you. Japanese horseshoes of straw are suspended to the wall behind him. He does
not move. He is made of bronze!
Upon
inquiring of the learned priest Sasa the story of this horse, I was told the
following curious things:
On
the eleventh day of the seventh month, by the ancient calendar,[1] falls the
strange festival called Minige, or 'The Body escaping.' Upon that day, 'tis
said that the Great Deity of Kitzuki leaves his shrine to pass through all the
streets of the city, and along the seashore, after which he enters into the
house of the Kokuzo. Wherefore upon that day the Kokuzo was always wont to
leave his house; and at the present time, though he does not actually abandon
his home, he and his family retire into certain apartments, so as to leave the
larger part of the dwelling free for the use of the god. This retreat of the
Kokuzo is still called the Minige.
Now
while the great Deity Oho-kuni-nushi-no-Kami is passing through the streets, he
is followed by the highest Shinto priest of the shrine— this kannushi having
been formerly called Bekkwa. The word 'Bekkwa' means 'special' or 'sacred
fire'; and the chief kannushi was so called because for a week before the
festival he had been nourished only with special food cooked with the sacred fire,
so that he might be pure in the presence of the God. And the office of Bekkwa
was hereditary; and the appellation at last became a family name. But he who
performs the rite to-day is no longer called Bekkwa.
Now
while performing his function, if the Bekkwa met anyone upon the street, he
ordered him to stand aside with the words: 'Dog, give way!' And the common
people believed, and still believe, that anybody thus spoken to by the
officiating kannushi would be changed into a dog. So on that day of the Minige
nobody used to go out into the streets after a certain hour, and even now very
few of the people of the little city leave their homes during the festival.[2]
After
having followed the deity through all the city, the Bekkwa used to perform,
between two and three o'clock in the darkness of the morning, some secret rite
by the seaside. (I am told this rite is still annually performed at the same
hour.) But, except the Bekkwa himself, no man might be present; and it was
believed, and is still believed by the common people, that were any man, by
mischance, to see the rite he would instantly fall dead, or become transformed
into an animal.
So
sacred was the secret of that rite, that the Bekkwa could not even utter it
until after he was dead, to his successor in office.
Therefore,
when he died, the body was laid upon the matting of a certain inner chamber of
the temple, and the son was left alone with the corpse, after all the doors had
been carefully closed. Then, at a certain hour of the night, the soul returned
into the body of the dead priest, and he lifted himself up, and whispered the
awful secret into the ear of his son—and fell back dead again.
But
what, you may ask, has all this to do with the Horse of Bronze?
Only
this:
Upon
the festival of the Minige, the Great Deity of Kitzuki rides through the
streets of his city upon the Horse of Bronze.
1
Fourteenth of August.
2
In the pretty little seaside hotel Inaba-ya, where I lived during my stay in
Kitzuki, the kind old hostess begged her guests with almost tearful earnestness
not to leave the house during the Minige.