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2015/09/30

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十七年(1) 障子貼る/独楽/他

 昭和三十七年

 

 障子貼る

 

障子貼るひとり刃のあるものつかひ

 

障子貼る刃ものぬれ紙よく切れて

 

昼臥しに風さらさらと新障子

 

愛しさや恋負け猫が食欲(ほ)れり

 

奴凧夜覚の顔のわが近くに

 

独楽あそび手窪のごとき地を愛し

 

鳥渡る群ばらばらに且つ散らず

 

綿虫とぶものに触れなばすぐ壊えん

 

頭も見せず蒲団を被れば一切消ゆ

 

    *

 

  薬師寺

 

花会式造花にいのちありて褪せ

 

    *

 

折ればわがもの冬ばらと園を出る

 

脚抱きて死にきれぬ蜂掃き出せり

 

  あやめ池動物園

 

一冬の玩具熊に木の切れつ端

 

冬兎身の大(だい)の穴いくつも掘り

 

 独楽

 

  元旦、丘本風彦氏来訪。独楽を習ふ。

 

頭をふつておのれ止らぬ勢ひ独楽

 

何の躊躇独楽に紐まき投げんとして

 

掌にまはる独楽の喜悦が身に伝ふ

 

掌に立ちて独楽の鉄芯吾(あ)をくすぐる

 

寝正月夢湧きつげば誰より贅(ぜい)

 

寝正月鶲を欲れば鶲来る

 

[やぶちゃん注:「鶲」は「ひたき」。スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科ヒタキ科 Muscicapidae に属するヒタキ類を広く指すが、正月の嘱目吟からは同ヒタキ科(ツグミ科 Turdidae ともする)ジョウビタキ Phoenicurus auroreus ではなかろうか。]

 

わが起居に眼をみはるもの奴凧

 

りんりんたる白羽破魔矢に鏃なし

 

白破魔矢武に苦しみし神達よ

 

羽のみだれ正(ただ)す破魔矢に息かけて

 

わが寝屋の闇の一角白破魔矢

 

養身のほとりにつよく破魔矢おく

 

[やぶちゃん注:以上の破魔矢句は個人的に好きな多佳子晩年の句群である。]

 

籾殻の深きところでりんご触れ

 

[やぶちゃん注:私の偏愛する句である。]

 

寒肥の大地雪片ふりやまず

 

手をつけば土筆ぞくぞく大地面

 

野に遊ぶ土管胎内くぐりして

 

泉の底天より早く星を得て

 

はるかなる雪嶺のその創まで知る

 

もがり笛厚扉厚壁くぐり来る

 

亡き夫顕(た)つごと焚火あたたかし

 

金魚池水輪もたてず雪ふりて

 

[やぶちゃん注:「丘本風彦」一時期、『天狼』の編集人であった人物であるくらいしか分からない。]

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十六年(4) 長良川/他

 

 長良川

 

  山下鵜匠邸庭にわが句碑立つ、誓子先生の

  句碑とともに。東京より三人の娘、三野明

  彦・武彦来。美代子・稔、奈良より加はる。

 

姉妹同じ声音蟬鳴く中に会ひ

 

[やぶちゃん注:前書の「美代子・稔、奈良より加はる」の中間の読点は恣意的に挿入した。「蟬」は底本の用字。以下同じ。底本年譜の昭和三六(一九六一)年の七月の条に、『岐阜長良川河畔の鵜匠山下幹司邸の前庭に、誓子との師弟句碑立つ。両句共に、三十一年七月、鵜舟に乗った時の句。

 

  鵜篝の早瀬を過ぐる大炎上 誓子

  早瀬過ぐ鵜飼のもつれもつれるまま 多佳子

 

除幕式に、誓子、波津子、多佳子、かけい、双々子、薫ら出席。また、東京より三人の娘と三野明彦、武彦。奈良より美代子、稔』とある。誓子満五十九、多佳子満六十二であった。]

 

籐椅子が四つ四人姉妹会ふ

 

蟬声に高音加はる死は遠し

 

   *

 

女やすむとき干梅の香が通る

 

紅き梅コロナの炎ゆる直下に干す

 

甲虫飛んで弱尻見せにけり

 

西日浄土干梅に塩結晶す

 

   *

 

をどり太鼓すりばち沼に打ちこんで

 

をどり衆地上をよしと足擦つて

 

をどりの輪つよし男ゐて女ゐて

 

かの老婆まためぐりくるをどりくる

 

夜の土に腰唄はずにをどらずに

 

尽きぬをどりおきて帰るや来た道を

 

をどり太鼓びんびん沼がはね反す

 

子が持つて赤蠟赤光地蔵盆

 

わが燭の遅れ加はる地蔵盆

 

   *

 

曼陀羅の虫の音崖の下に寝て

 

[やぶちゃん注:「曼陀羅」の用字はママ。]

 

甲虫紅き縫絲がんじがらめ

 

郭公に刻をゆづるよ暁ひぐらし

 

吾去れば夏草の領白毫寺

 

試歩を寄す秋天ふかき水たまり

 

翅立てて蝶秋風をやり過す

 

蜂さされ子に稲を刈る母の濃つば

 

プールサイドの椅子身をぬらさざる孤り

 

月遅し木星が出て海照らす

 

流れ急どかつと曼珠沙華捨つる

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三六(一九六一)年には先の七月の条に続いて、ただ一行、『九月、身体の調子悪くなる』とあって、この年の叙述そこで終っている。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十三章 習慣と迷信(5)/第二十三章~了

 先日外山教授が私に、彼と矢田部教授ともう一人別の友人とが、しばらくの間、シェークスピアその他の著者の作品を訳しつつあったと語った。これ等の和訳は出版され、日本人に熱心に読まれる。これ迄すでに彼等は、以下のものを訳した――ハムレットの独白、カーディナル・ウオルゼーの独白、ヘンリー四世の独白、グレーの「哀詩」、ロングフェロ-の「人世の頌歌」、テニソンの「軽騎兵隊の突撃」、そして今や彼等は、他の作品を訳しつつある。日本人は過去に於て、英、仏、独の書物を沢山訳した。事実十六世紀の終りに、オランダ人が最初に長崎へ行った時、日本の学者達は歴史、医学、解剖その他に関する蘭書を翻訳するために、この上もなく苦心して、オランダ語を学んだものである。すでに翻訳された書物のある物の性質は、興味が深い。外山教授は英語から訳された本の名を、記憶にあるものから話してくれた。即ちダーウィンの「人間の降下」と「種の起原」、ハックスレーの「自然に於る人間の位置」、スペンサーの「教育論」(これは何千となく売れた)、モンテスキューの「法の精神」、ルソーの「民約論」、ミルの「自由に就て」、「宗教に関する三論文」及び「功利説」、ベンサムの「法律制定」、リーバァの「民事自由と自治政府」、スペンサーの「社会静学」、「社会学原論」、「代表的政府」及び「法律制定」、ペインの「理論時代」バークの「新旧民権党員」。この最後の本はすでに一万部以上売れた。

[やぶちゃん注:まず、原文を総て提示しておく。

   *

Professor Toyama informed me the other day that he and Professor Yatabe and another friend had been for some time engaged in translating the works of Shakespeare and other authors. These are published and eagerly read by the Japanese. Thus far they have already translated the following: Hamlet's soliloquy; Cardinal Wolsey's soliloquy; Henry the Fourth's soliloquy; Gray's "Elegy"; Longfellow's "Psalm of Life"; Tennyson's "Charge of the Light Brigade"; and they are at work on others. The Japanese have in the past translated many books from the English, French, and German ; indeed, when the Dutch first went to Nagasaki, in the last years of the sixteenth century, the Japanese scholars, with the most painful efforts, learned Dutch in order to translate Dutch books on history, medicine, anatomy, and other subjects. The character of some of the books already translated is interesting. Professor Toyama gave me a list from memory of some of these translations from the English: Darwin's "Descent of Man," and "Origin of Species"; Huxley's "Man's Place in Nature"; Spencer's "Education" (of which thousands were sold); Montesquieu's "Spirit of Law"; Rousseau's "Social Contract"; Mill's "On Liberty," "Three Essays on Religion," and "Utilitarianism"; Bentham's "Legislation"; Lieber's "Civil Liberty and Self-Government"; Spencer's "Social Statics," "Principles of Sociology," "Representative Government," and "Legislation"; Paine's "Age of Reason," and Burke's "Old Whig and the New"; of this last book over ten thousand copies have already been sold.

   *

モース一行が関西旅行から横浜に帰着したのは明治一五(一八八二)年九月十一日であったが、東京大学の教職にあった外山正一(文学者・社会学者)と矢田部良吉(植物学者・詩人)及び井上哲次郎(哲学者)の共編著になる、日本近代史の濫觴と文学史では喧伝される(ものの名ばかりの極めて非文学的で退屈な)「新体詩抄 初編」は、まさにこの前月、同年八月刊である(国立国会図書館デジタルライブラリ同書画像の奥付をみると版権取得免許は七月二十一日。「初編」とあるものの続編は刊行されていない)。内容は訳詩十四編・創作詩五編から成る。以下に同書の「目次」を示す(頁番号は省略)。

   *

 目次

ブルウムフールド氏兵土帰郷の詩(丶山仙士)

カムプベル氏英国海軍の詩(尚今居士)

テニソン氏輕騎隊進擊ノ詩(丶山仙士)

グレー氏墳上感懷の詩(尚今居士)

ロングフルロー氏人生の詩(丶山仙士)

玉の緒の歌(巽軒居士)

テニソン氏船將の詩(尚今居士)

拔刀隊の詩(丶山居士)

勸學の歌(尚今居士)

チヤールス、キングスレー氏悲歌(丶山仙士)

鎌倉の大佛に詣でゝ感あり(尚今居士)

高僧ウルゼーの詩(丶山仙士)

シヤール、ドレアン氏春の詩(尚今居士)

社會學の原理に題す(丶山仙士)

ロングフロー氏兒童の詩(尚今居士)

ーキスピール氏ヘンリー第四世中の一段(丶山仙士)

ークスピール氏ハムレト中の一段(尚今居士)

ーキスピール氏ハムレト中の一段(丶山仙士)

春夏秋冬の詩(尚今居士)

   *

この内、「丶山(ちゅざん)」は外山正一の、「尚今」は矢田部良吉の、「巽軒」は井上哲次郎のそれぞれの号である。

 以上のモースの記載と一致しており、これは「新体詩抄 初編」の出版を指していると読むべきである。されば幾らも研究書はある。個々のデータ注は省略する(実際にはあまり興味がない。悪しからず)。御関心のある向きは、読み易く電子化したものが「J-TEXT 日本電子図書館」のにある(但し、新字表記)。

『ダーウィンの「人間の降下」』これはダーウィンの“The Descent of Man and Selection in Relation to Sex”のことであろう。現行では「人間の進化と性淘汰」などと邦訳される。

「リーバァ」アメリカ合衆国創生期のフランシス・リーバー(Francis Lieber 一八〇〇年~一八七二年)の一八五三初版の“On Civil Liberty and Self-Government”(「市民的自由と自治論」)のことではないかと思われる。以下、私にとって全く以って不明なる人物と書名についてしか注していないので悪しからず。

『ペインの「理論時代」』イギリス出身のアメリカの社会哲学者・政治哲学者で革命思想家であったトマス・ペイン(Thomas Paine 一七三七年~一八〇九年)が一七九三年~一七九四年にかけて完成させた“The Age of Reason”(現行では「理性の時代」と邦題される)のことである。

『バークの「新旧民権党員」』「保守主義の父」として知られる、アイルランド生まれのイギリスの哲学者で政治家のであったエドマンド・バーク(Edmund Burke 一七二九年~一七九七年)の一七九一年刊の“Appeal from the New to the Old Whigs”(「新ホイッグ党員から旧ホイッグ党員への訴え」)であろう。ウィキエドマンド・バークを見ると、日本に初めてバークを紹介したのは明治の官僚・政治家であった金子堅太郎で、この前年明治一四(一八八一)年に『金子はバークの『フランス革命の省察』と『新ウィッグから旧ウィッグへ』を抄訳『政治論略』として元老院から刊行し』ているとある。]

 

 翻訳について私が屢々気がついたのは、日本人は漢字が逆になっていてもすぐ識読するが、陶器の不明瞭な記印を読む時には、出来得べくんば漢字を、上は上にすることである。

[やぶちゃん注:原文を示す。

   *

In translating I have often observed that the Japanese instantly recognize a Chinese character upside down, but in reading an obscure mark on pottery they turn the character right side up in preference.

   *

私が馬鹿なのか、後半部の意味が判らない。これはハーンの皮肉ではなかろうか? 即ち、ハーンの見たところ、陶器鑑定をする日本人の中の多くが、陶工の記印の上下をしばしば逆にして判読に苦しんでいたり、不明とするシーンに出くわすことが多いと暗に言っているのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十三章 習慣と迷信(4)

 友人竹中は、私のもとめに応じて、夏体中に、下層階級の間に行われる迷信と習慣とを、いくつか集めて記録した。彼は時々、私が執筆出来ぬ程つかれていない時に、手帖から読んで聞かせる。日本人は迷信を意味する一般的な名を持っていないが、迷信的な人は「御幣かつぎ」と呼ばれる。「御幣」は神官が持つ、奇妙な形に切った紙で、「かつぐ」は持って歩くことを意味する。こんな品を持って廻る人は、迷信的だと見られるのである。

[やぶちゃん注:家のどこかに日本の迷信を総覧した本が何冊かあるはずなのだが、見当たらない。出てきたらまた、注を追加するかも知れない。悪しからず。

「竹中」宮岡恒次郎の実兄竹中成憲。既注であるが、再掲しておく。竹中成憲八太郎(元治元(一八六四)年~大正一四(一九二五)年)は明治八(一八七五)年に慶応義塾入学、次いで東京外語学校を経て、明治一三(一八八〇)年には東京大学医学部に入学、同二〇年に卒業後軍医を経て、開業医となった。実弟とともにモースやフェノロサの通訳や助手を務めた。以上は「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によるが、同書には竹中八太郎成憲の肖像写真が載る(二五八頁)。]

 

 人が死ぬと、死人の友人達は、通常、その家族に贈物をする。主として封筒に入れた金銭だが、この封筒の糸は赤と白とで無く、黒と白とでなくてはならぬ。赤は幸福の象徴で、幼児の衣服には必ず赤い糸か紐がついている。結び目は四角く結び、蝶結びその他の形であってはならぬ。封筒には普通「花のために」とか「線香のために」とか書く。線香は棒状の香である。然し、お金は何に使用しても差支えない。漆塗の器物に入れた、食品や菓子を持って行くこともある。受取った者はそれを出して皿にのせ、漆の箱には一回か二回折った一枚の紙、あるいはその紙の代りに薄い木片二個を入れる。これ等の供物は、死体がまだその家にある間か、又は葬式直後に於てなされる。家中が非常に悲しんでいる時や、死んだすぐ後だと、箱の中に紙を入れず、受取人はそれを注意深く清めるが、さもない時には、希は洗わずに返す。

[やぶちゃん注:私は後段のマナーについては見たことも聴いたこともない。識者の御教授を乞う。]

 

 仏教の僧侶が四十九日間、七日目ごとに来てお経をあげる。葬式が済むと、主人なり主婦なりが、会葬者のそれぞれに、小麦でつくった菓子を五つずつやり、三十五日たつと菓子九つをそれぞれの家に届ける。赤が幸福の表徴であることは前にいったが、祝日には赤い色をした飯を供する。貧乏の神様は、赤い御飯や黒い豆腐が嫌いなので、この悪神を追払うために、それ等の食物を神棚や床間にのせておく。

[やぶちゃん注:ネット検索では如何にもな道学風の働き者が嫌い、などという民俗学的につまらん記載が多いが、古里紅子氏の「まんが日本昔ばなし〜データベース〜」の「おいだせ貧乏神」のシノプシスによれば、越後国高田の貧乏神は自身で、『念仏』と正月十四日に『小豆粥を若木で焚いて出る煙が嫌いだ』と答えている(「国際日本文化研究センター」公式サイト内の私には重宝な「怪異・妖怪伝承データベース」の新潟県中頚城郡吉川町源での採話の「貧乏神」でも、一月七日に若木を山から戴いて参って同十四日に燃やして小豆を煮るが、これはその昔、貧乏な親爺が夜逃げをしたところが貧乏神がついてきたので話をしたところ、『貧乏神が生木を燃して小豆を煮るのが嫌いだと』答えたことによる、とあってほぼ完全に一致する)。「フジパン株式会社」公式サイト内の「民話の部屋」の香川県の民話に基づく節分と貧乏神では、やはり貧乏神の直話でともかくも増えるものが嫌いで、「豆腐とおからが一番好かん」と答え、「豆の一升でも煮たら余計増えるけに大嫌いじゃ」といったようなことを告白している。]

 

 それぞれの年には、特別な名がついている。今年(一八八二年)は馬の年である。閹牛(えんぎゅう)の年に生れた者は、十五歳以上になったら鰻を食つてはならぬ。父親が四十一歳の年に生れた子は、よい子と認められぬ。いうことを聞かぬ子になるというのである。かかる場合、親はその子を連れて友人の所へ行き、上の子を棄てるがひろってくれるかといい、往来へ置いておく。友人はそれをひろって家へ持って帰る。翌日親が、土産を持って友人を訪れ「私には子供が無い、あなたの子供をくれぬか」という。するとそれが行われるが、実は同じ子が返される迄の話で、而もこの莫迦げた真似をすることによって、その子は持って生れた悪運から解放されたことになる。この場合贈物は通常「鰹節」(材木みたいに固く乾した魚)で、これには例の熨斗(のし)をつけない。魚を贈る時にはすべて熨斗(紙を一種異様な形にたたみ、中に鮑(あわび)の乾した肉片を入れたもの)をつけない。鰻を食うことに関しては、十五歳以上の子供がそれを食えば、利口にもならず、出世もしないとされている。

[やぶちゃん注:「馬の年」「閹牛の年」には底本ではそれぞれ石川氏の「馬〔午〕の年」「閹牛の年〔丑〕」という割注が入っている。「閹牛」の「閹」は門番・刑罰として去勢された人・宦官の意で、平凡社「世界大百科事典」には、古くは去勢された牡馬を騸(せん)、去勢された牡牛を「閹牛(えんぎゅう)」と呼んだという記載が出て来た。「閹牛」自体はそんな意味だろうとは踏んでいたが、しかし!――十二支の「牛」は去勢されたの牛だったのね!――

 

 八月十五日(旧暦)、人は九月十三日までその場所にいなくてはならぬ。若し急用が起れば、立ち去つてもよいが、九月十三日にはそこへ帰って来ねばならぬ。これ等の日には、月に菓子を供えねばならぬ。毎月十五日、人は月を静視して、花と菓子を供えねばならぬ。一のつく日、即ち一日、十一日、二十一日には、木を伐ってはならぬ。二のつく日、即ち二日、十二日、二十二日には火の力が非常に強いから、リューマチスの反対刺戟材である艾(もぐさ)を、その熱が他日より強いというので使用する。三のつく日には庭の土を掘ってはならず、四のつく日には竹を切ってはならず、五のつく日には食料品――米、豆、すべての種子――を家へ持って帰ってはいけないし、米を買ってもいけない。六のつく日には井戸替えすべからず、七のつく日には知らぬ人を家へ招くべからず、八のつく日に婚礼の話をすると後で夫婦別れが起り、九のつく日に茄子(なす)を食うと縁起がいい。九月九日は九月も第九の月にあたるので特にいいとされ、この日には茄子の形をした徳利を使用する。十のつく日、即ち十日、二十日、三十日には便所の掃除をしてはならぬ。これ等の禁を犯すと、不幸か悪運かに見舞われる。

 

 大根を供する時には、必ず皿に二切をのせる。一切はヒトキリといい、一片を意味すると同時に「人切」を意味し、三切はミキレで、また「身切」を意味する。茄子その他の野菜類は大坂を除いては縦に切り、輪切りにしない。輪切りにすると残酷に見えるからである。

 

 二つで割り切れる数は運がいいとされているので、お菓子は二つに折った一枚の紙の上にのせて出され、また餅は、二、四、六、八その他の偶数で贈られる。

 

 塩をまくことは清浄化することと思われているので、偶然塩をこぼすと縁起がいいとされる。葬式から帰って来た人には召使いが塩を振りかける。

 

 眠る時には頭を南へ向けるのがよいとされる。人が危篤に陥ったり、あるいは死んだりした時には、頭を北向きにしなくてはならぬ。坐位で埋葬する時、死体はどっちを向いていてもよい。

 

 耳たぼの大きい人は、幸福な素質を持っていると見られる。

 

 足の人差指が拇指よりも長い人は、父親よりも高い位置を占める。長い舌や腕は泥棒のしるしである。

 

 左利きは、母親が赤坊に初めて着物を着せる時、左手と左腕とを先ず着物に通すことから起る。

 

 一度嚏(くさめ)をするのは、誰かが讃めているしるし、二度すれば女が惚れている、三度すれば誰かがほめるなりけなすなりしている、四度すれば風邪を引いたのだ。備前の国では、一回の嚏は嫌われたしるし、二回は好かれ、三回と四回は風邪を引いたことを示す。

 

 右の耳がかゆければいい事を聞く、左の耳なら悪い知らせ。婦人ではこれが反対である。

 

 灯火のしんに滓(かす)がたまれば誰か来る。油と灯心とが入っている浅い皿は、別の皿によって支えられるのだが、滓を下方の皿に入れることが出来れば、来訪者は贈物を持って来る【*】。

 

   * 同様な迷信が、米国や大英帝国に於

   て見出される。恐らくヨーロッパ大陸に

   もあるのだろう。

 

 烏が屋根にとまるのは、その家で誰かが死んだしるしである。

 

 夜、爪を切ってはならぬ、それは彼が狂人になるしるしである。

 

 御飯を着物や畳の上にこぼした子供は、それを食わぬと盲になる。

 

 腹切をしようとする人に飯を出すには、あたり前に出さず、飯槽の蓋をお盆に使用する。

 

 頭のかゆいのは幸福であるしるし、雲脂(ふけ)が落ちるのは理智のしるし。

 

 夏、すこし雷鳴がすれば、稲に危険な虫が沢山わく。

 

 ある人が貧乏に、不運になると、「アノシト ノウチ ワ ヒダリ マイ ニ ナル」という言葉を使用する。それは「あの家の人は着物を左にたたむ」というので、これは縁起の悪いこととされる。死体には着物を左たたみに着せる。

 

 病気、ことに痘瘡(ほうそう)を家に近づけぬには、馬の字を三つ紙に書き、それを戸口にはりつけると、非常にききめがあるとされる。また手に墨をつけ、それを紙に押したものを戸口につけても、この目的を達する。

 

 中禅寺では、鹿の胎児四匹が、炉の上にぶら下っているのを見た。それ等は煙に乾燥して変色していたが、婦人産後の病にきくものとされている。

 

 往来で櫛を見つけたら、ひろい上げる前に、左足からそれに近寄らねばならぬ。然らずんば一生涯を泣いて暮さねばならぬようになる。

 

 男は、自分より四歳年長又は年少の娘と結婚してはならぬ。若し結婚すれば、家内に面倒が起る。それ以外ならば、いくつ違ってもかまわない。

 

 芥子をまぜるには、怒ったような顔をしてかきまわさねばならぬ。そうすれば芥子は強くピリピリするが、まぜながら笑っていては、微温的な味なものになって了う。

 

 ある種の神(妙見)に祈る人は、八種類の食物を食ってはならぬ。然らずんば、この神は祈りを聞き届けてくれない。これ等の食物は鰻、うみがめ、飴、鯉、野鴨、鵞鳥、葱、それから葱と同じような野菜の一種である。

 

 男にとっては三、七、十九、二十五、四十二、五十三という年齢が殊に悪く、女には十六、二十五、三十三、五十六、五十七が悪い。また一般に七と九で終る年齢はよくないとされる。

 

 人が死んでから一年後に家族が集って荘厳な儀式をする。これは三年、七年、十三年、十七年、二十五年、三十三年、百年というように行われ、その後は五十年ごとに行う。

 

 朝夙(はや)く烏がカー カー 即ち「女房」と鳴く。だから神さんは亭主よりも早く起きねばならぬ。

 

 葬式の時には会葬者の名前を一枚の紙に書きしるす。この目的に使用する筆は、莢(さや)を脱がずに莢から押し出す。故に、それ以外の時にこんな真似をしては縁起が悪い。死体を家からはこび出す時、この役をつとめる人は、家に出入するのに履物を脱がぬ。だから新しい下駄を畳の上で履いて見ている人があると、友人が「どうぞそんなことをしないで下さい、縁起が悪いから」という。

 

 お茶の葉が茶碗の中で縦に浮けば、幸運が来るかいい便りを聞くかである。芸妓達はこれ等の葉をつまみ上げて左の袂に入れ、同時にこのいい前兆を確実ならしめる為に、鼠の鳴くような啜音を立てることを慣とする。

[やぶちゃん注:「啜音」「すすりね」と訓じていよう。]

 

 手首と足首とに糸をまきつけておけば、風邪を引かぬという。

 

 迷信的な人は、自分の歩いて行く道路の前方を鼬鼠(いたち)が横断すると、直ちにあと戻りをして旅行の目的を放棄する。若し極めて大切な用事があれば、別の路を行かねばならぬ。

[やぶちゃん注:ウィキイタチには、『日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた。江戸時代の百科辞典『和漢三才図会』によれば、イタチの群れは火災を引き起こすとあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている。新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を』、六人で『臼を搗く音に似ているとして「鼬の六人搗き」と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。人がこの音を追って行くと、音は止まるという』。『またキツネやタヌキと同様に化けるともいわれ、東北地方や中部地方に伝わる妖怪・入道坊主はイタチの化けたものとされているほか、大入道や小坊主に化けるという』。『鳥山石燕の画集『画図百鬼夜行』にも「鼬」と題した絵が描かれているが、読みは「いたち」ではなく「てん」であり』、『イタチが数百歳を経て魔力を持つ妖怪となったものがテンとされている』。『別説ではイタチが数百歳を経ると狢になるともいう』とあり、この謂いも腑に落ちる。]

 

 二つの葬式がすれ違うのは、両方にとって縁起がよいが、一つが一つに追いつくことは悪い。

 

 下駄の鼻緒が後方で切れるのはよいが、前方で切れるのは縁起が悪い。

 

 朝鮮から海を越して来る鶴は、足に一種の植物を持っていて、海上に降りる時にはこの植物を浮に使用すると信じられている。

 

 竜は竜巻(たつまき)と一緒に昇天するものとされている。その脚や足をチラリとでも見た人は、偉人になると信じられる。

 

 日本人は、狐に関する奇妙な迷信を沢山持っている。狂人は狐につかれたとされる。狐の精神が指の爪から身体に入るというので、つまりこれが爪の下から侵入し、そして狂人をして狂人の行為をさせるというのである。以前は政府に狂人保持の規則があり、家族が狂人の世話をし、狂暴であれば檻に入れた。下流社会ではまた狐を信心することが盛で、狐を養った人が幸運によって金満家になったというような話が多い。若い狐を檻に入れ、然るべく養えば、裕福になると信じられている。

 

 外国人がこの人々の間に科学を持ち来たしてから、かかる迷信はすみやかに消え失せつつある。

 

 私は竹中に、退職した人は何をするかと質問した。彼は、概していうと、暮し向きの楽な人は、六十になると仕事をやめるといった。彼は事業上の業務をすべて息子にまかせ、隠退生活を送り、たいていは道楽に、珍しい植物、羊歯(しだ)、陶器、石器その他を蒐集する。彼は夏は五時、冬は六時に起きる。火鉢には茶を入れる水の入った鉄瓶を熱する為の火があり、彼は茶を濃く入れる。彼は寒天菓子の一種である羊羹と、醗酵した豆でつくった味噌汁とを取る。彼は歌をつくる。九時になると旧友をたずねたり、たずねられたりする。一日中碁を打つ。若し彼が飲酒家であれば、九時から飲み始めて床につく迄それを続ける。昼間、公園なり、田舎の景色のいいところなりへ、遠足することもある。

 

 竹中は衛生局長から、徳川将軍時代には、今よりももっと飲酒が盛だったと聞いて来た。その頃訪問した友人には必ず酒を出し、それをこばむことは無礼とされていた。現在ではお茶が出され、若し酒が出るにしても、人は好みに従ってそれを飲んでも飲まなくても、礼を失することにはならぬ。その頃は、酒宴の席では、只一つの盃が用いられ、それは次の人に廻す前に、飲みほさねばならなかった。現在では各々が盃を持ち、気兼すること無しに飲酒を調節することが出来る。酒飲みは、生菓子や砂糖菓子のような、甘い物を好まない。

 

 興味があるとか、奇妙であるとかいうことを意味する言葉はオモシロイで、直訳すれば「白い顔」となり、白い顔が奇妙な観物であった昔の時代から伝って来た。今日、滑稽新聞は、「興味ある」をオモクロイという。「黒い顔」の意味である。

[やぶちゃん注:「滑稽新聞」原文“the comic papers”で一般名詞として用いていることが判る。所謂、猟奇的或いは不道徳で好色な事件報道や有名人のゴシップ報道などに力を入れた大衆紙、今のタブロイド誌のような新聞を指す。因みに、反骨のジャーナリスト宮武外骨が大阪で発行した知られた『滑稽新聞』はずっと先の明治三四(一九〇一)年一月の発刊である。]

 

 日本の社会は今や公に、上弦、中流、下流の三つにわけてある。現在の日本人は、以前にくらべて、人力車夫やその他の労働者に、余程やさしく口を利くようになった。

アリス10歳

本日、三女アリス10歳の誕生日――アリス! おめでとう♡♡♡

優しき歌 序の歌 / Ⅰ 爽やかな五月に   立原道造

優しき歌

 

 

    序の歌

 

しづかな歌よ ゆるやかに

おまへは どこから 來て

どこへ 私を過ぎて

消えて 行く?

 

夕映が一日を終らせよう

と するときに――

星が 力なく 空にみち

かすかに囁きはじめるときに

 

そして 高まつて むせび泣く

絃のやうに おまへ 優しい歌よ

私のうちの どこに 住む?

 

それをどうして おまへのうちに

私は かへさう 夜ふかく

明るい闇の みちるときに?

 

 

  Ⅰ 爽やかな五月に

 

月の光のこぼれるやうに おまへの頰に

溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて

私は どうして それをささへよう!

おまへは 私を だまらせた‥‥

 

《星よ おまへはかがやかしい

《花よ おまへは美しかつた

《小鳥よ おまへは優しかつた

‥‥私は語つた おまへの耳に 幾たびも

 

だが たつた一度も 言ひはしなかつた

《私は おまへを 愛してゐる と

《おまへは 私を 愛してゐるか と

 

はじめての薔薇が ひらくやうに

泣きやめた おまへの頰に 笑ひがうかんだとて

私の心を どこにおかう?

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の巻頭の序曲と第一曲である。

 以上、この推定された幻の詩集「優しき歌」は、本「序の歌」と「爽やかな五月に」に始まって、

 

 ↓

落葉林で

 ↓

Ⅲ「さびしき野邊」

 ↓

IIII夢のあと

 ↓

Ⅴ「また落葉林で

 ↓

Ⅵ「朝に

 ↓

Ⅶ「また

 ↓

午後に

 ↓

Ⅸ「樹木の影に

 ↓

Ⅹ「夢みたものは

 

の順に配され、読まれるようになったのである。

 なお、中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻の本「優しき歌」の解説脚注によれば、本全詩篇十一篇は道造の詩の前年昭和一三(一九三八)年の夏までに創作されたものと推定されてある。

 因みに、岩波文庫版杉浦明平編「立原道造詩集」(一九八八年刊)では(私は所持しないので以下は青空文庫「優しき歌 Ⅰ・Ⅱの電子化を視認して纏めた)、この従来の「優しき歌」を「優しき歌Ⅱ」として、それに先立って、「燕の歌」・うたふやうにゆつくりと……、ここに中標題「薊の花のすきな子に」を立てて、次篇以下にローマ数字を頭に打ちつつ「Ⅰ 憩らひ――薊の花のすきな子に」・「Ⅱ 虹の輪」・「Ⅲ 窓下楽」・「Ⅳ 薄明」と続き、「Ⅴ 民謡――エリザのために」(この「Ⅴ」が冒頭のクレジットなしの「民謡」と「鳥啼くときに」・「甘たるく感傷的な歌」の三篇から構成される)と続き、その後に中標題「ひとり林に……」が立ってⅠ ひとり林に……」Ⅱ 真冬のかたみに‥‥・「浅き春に寄せて」の都合全十二篇からなるものを「優しき歌Ⅰ」として載せている。現物の解説を読んでいないので論評は避けるが、私はこの怪しげに極めて複雑怪奇な「優しき歌Ⅰ」群の存在規定と構成を現時点では立原道造の想起企図していたプレ「優しき歌」群として、認める気には全くならないとのみ言いおくこととする。]

樹木の影に   立原道造

  Ⅸ 樹木の影に

 

日々のなかでは

あはれに 目立たなかつた

あの言葉 いま それは

大きくなつた!

 

おまへの裡に

僕のなかに 育つたのだ

‥‥外に光が充ち溢れてゐるが

それにもまして かがやいてゐる

 

いま 僕たちは憩ふ

ふたりして持つ この深い耳に

意味ふかく 風はささやいて過ぎる

 

泉の上に ちひさい波らは

ふるへてやまない‥‥僕たちの

手にとらへられた 光のために

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第九曲。]

午後に   立原道造

  Ⅷ 午後に

 

さびしい足拍子を踏んで

山羊は しづかに 草を食べてゐる

あの綠の食物は 私らのそれにまして

どんなにか 美しい食事だらう!

 

私の飢ゑは しかし あれに

たどりつくことは出來ない

私の心は もつとさびしく ふるへてゐる

私のをかした あやまちと いつはりのために

 

おだやかな獸の瞳に うつつた

空の色を 見るがいい!

 

《私には 何が ある?

《私には 何が ある?

 

ああ さびしい足拍子を踏んで

山羊は しづかに 草を 食べてゐる

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第八曲。

 なお、ここまで述べて来ていないが、気がついておられない方のために申し添えておくと、この底本では、非常によく似た尖った二重括弧(《 》)と丸い二十括弧(⦅ ⦆)が併用されて散在している。一応、それも私は再現している。]

さびしき野邊   立原道造

  Ⅲ さびしき野邊

 

いま だれかが 私に

花の名を ささやいて行つた

私の耳に 風が それを告げた

追憶の日のやうに

 

いま だれかが しづかに

身をおこす 私のそばに

もつれ飛ぶ ちひさい蝶らに

手をさしのべるやうに

 

ああ しかし と

なぜ私は いふのだらう

そのひとは だれでもいい と

 

いま だれかが とほく

私の名を 呼んでゐる‥‥ああ しかし

私は答へない おまへ だれでもないひとに

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第三曲。]

夢のあと   立原道造

   IIII 夢のあと

 

《おまへの 心は

わからなくなつた

《私の こころは

わからなくなつた

 

かけた月が 空のなかばに

かかつてゐる 梢のあひだに――

いつか 風が やんでゐる

蚊の鳴く聲が かすかにきこえる

 

それは そのまま 過ぎるだらう!

私らのまはりの この しづかな夜

 

きつといつかは (あれはむかしのことだつた)と

私らの こころが おもへかえすだけならば!‥‥

 

《おまへの心は わからなくなつた

《私のこころは わからなくなつた

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第四曲。ローマ数字は底本では「Ⅳ」ではなく、表記の通り、「IIII」を用いている(後者はローマ数字の古い表記法であり、現在でもタロット・カードなどで見かけることがある)。]

また落葉林で   立原道造

  Ⅴ また落葉林で

 

いつの間に もう秋! 昨日は

夏だつた‥‥おだやかな陽氣な

陽ざしが 林のなかに ざはめいてゐる

ひとところ 草の葉のゆれるあたりに

 

おまへが私のところからかへつて行つたときに

あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた

そしていま おまへは 告げてよこす

私らは別離に耐へることが出來る と

 

澄んだ空に 大きなひびきが

鳴りわたる 出發のやうに

私は雲を見る 私はとほい山脈を見る

 

おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る

しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼ざし‥‥

かへつて來て みたす日は いつかへり來る?

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第五曲で、表題は既に掲げた同じ「優しき歌」のⅡ 落葉林で」(「黃昏に」の注に引いた)を受ける。なお、「ざはめいてゐる」はママ(朝にの私の注を参照されたい)。]

朝に   立原道造   /   また晝に   立原道造

   Ⅵ 朝に

 

おまへの心が 明るい花の

ひとむれのやうに いつも

眼ざめた僕の心に はなしかける

⦅ひとときの朝の この澄んだ空 靑い空

 

傷ついた 僕の心から

棘を拔いてくれたのは おまへの心の

あどけない ほほゑみだ そして

他愛もない おまへの心の おしやべりだ

 

ああ 風が吹いてゐる 凉しい風だ

草や 木の葉や せせらぎが

こたへるやうに ざはめいてゐる

 

あたらしく すべては 生れた!

露がこぼれて かわいて行くとき

小鳥が 蝶が 晝に高く舞ひあがる

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第六曲。

 中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻の、次に掲げた「また晝に」の脚注によれば、この一篇はローマ数字を外した「朝に」の形で、その「また晝に」とともに、

 

 「優しき歌」

 

の総表題を附して、『道造の死の前年昭和十三年『四季』十月号に発表。ゆえに道造にとって、この二篇は、詩集『優しき歌』の基幹をなす作品であったに相違ないと考えられる』とある。

 以下、表記上の幾つかの問題点を示す。

第一連四行目の冒頭の「 ⦅ 」の閉じる「 ⦆」がないのはママ。道造の詩篇にはありがちな余韻表記法である。

第二連二行目の「棘」は後続の諸選集は悉く「とげ」とルビを振る。疑義はない。ないが、私は神経症的にルビは不要と考えている。

第三連三行目「ざはめいてゐる」はママ。「ざわめく」は「ざわざわ」(騒騒)に基づく語であるが、これは元々オノマトペイア(擬声語)であり、「ざはざは」とは表記しない(「騒騒」は「ざわざわ」は「さわさわ」とも清音表記するが、清音で「さはさは」とすると「爽爽」でさっぱりとさわやかなさまを意味する。しかも「爽爽」は歴史的仮名遣では「さわさわ」とも表記する)。孰れにせよ、ここは「ざわめいてゐる」が正しい表記である)。後続の諸選集は「ざわめいている」となる。

第四連二行目「かわいて」はママ。後続の諸選集もママである。前注の「ざはめてゐる」が訂され、これがママであるということは、一つの可能性としては前の「ざはめてゐる」が本底本の誤植に過ぎない可能性を匂わせるが、私は全集を所持しないので確定的発言は出来ない。]

 

 

 

   Ⅶ また晝に

 

僕はもう はるかな靑空やながれさる浮雲のことを

うたはないだらう‥‥

晝の 白い光のなかで

おまへは 僕のかたはらに立つてゐる

 

花でなく 小鳥でなく

かぎりない おまへの愛を

信じたなら それでよい

僕は おまへを 見つめるばかりだ

 

いつまでも さうして ほほゑんでゐるがいい

老いた旅人や 夜 はるかな昔を どうして

うたふことがあらう おまへのために

 

さへぎるものもない 光のなかで

おまへは 僕は 生きてゐる

ここがすべてだ!‥‥僕らのせまい身のまはりに

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第七曲。

 必ず、前掲の「朝に」の注を参照されたい。]

2015/09/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十三章 習慣と迷信(3)

 今日の午後長井嬢のところへ行って、葦屋根の端を写生した【*】。彼女の兄さんである増田氏は私に、この葺材は一種異様な蘭(い)で、屋根葺に用いる普通の藁よりも高価であると共に、余程長くもつと語った。かかる屋根は非常に重く、完全に水を通さぬ。日本の屋根は、葺いたのでも瓦を敷いたのでも、我国の建築に現れた何物とも甚だ相違しているので、吾人はしょっ中屋根を写生していたい誘惑を感じる。屋根には変種が多く、それぞれの国に特異な型がある。我国の建築家が、棟木と軒の、固い直線に捕われていて、それから離れられぬのは、情無いような気がする。セント・ローレンス河に沿うフランスカナダ人の家屋は、軒を僅か上方に攣曲させてあるが、これがそれ等の外観にある種の典雅さを与えている。

 

  * 『日本の家庭』を見よ。

[やぶちゃん注:「長井嬢」不詳。

「彼女の兄さんである増田氏」不詳。

「我国の建築家が、棟木と軒の、固い直線に捕われていて、それから離れられぬのは、情無いような気がする。セント・ローレンス河に沿うフランスカナダ人の家屋は、軒を僅か上方に攣曲させてあるが、これがそれ等の外観にある種の典雅さを与えている」「『日本の家庭』を見よ」セント・ローレンス川(英語:St. Lawrence River/フランス語:Fleuve Saint-Laurent)は北米大陸の五大湖と大西洋を結び、カナダ東部を東北に流れる河川。水源である五大湖を含めると世界第二位の推量を誇る。フランス語音写でサン・ローラン川とも呼称する。参照したウィキセントローレンス川によれば、オンタリオ湖出口からセントローレンス湾まで千百九十七キロメートル、水源からの全長は三千五十八キロメートルもある。『上流部はカナダのオンタリオ州とアメリカ合衆国のニューヨーク州を隔てる国境を形成し、その後はケベック州内を流れる。川幅は広大であり、中州として大小無数の島々が点在する。オンタリオ湖を出たところにあるサウザンドアイランズ地方はセントローレンス諸島国立公園として国立公園に指定されている』とある。同河畔のモントリオールから南東三百キロメートルのメーン州ポートランド生まれのモースには馴染みの大河であった。斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第二章 家屋の形態」の屋根の各論部分はその半分以上を実に「草葺屋根」が占めている(屋根論に挿入された全三十四図の内、実に十八図が草葺屋根に関わるものである)。その中で、モースはここで述べている感懐を再度、表明し、本邦の草葺屋根の合理性を強く説いている。ここでのモースの主張をより強固にするものであるからして、同書から引用させて戴く。

   《引用開始》

 日本家屋の屋根や棟に見られる絵画的な美しさと多様性になじむにつれてとかく考えるのだが、なぜアメリカの建築家は、家屋の側面にばかり注意を向けて、屋根に対しても同じような美的感覚を持ち、工夫をこらさないのであろうか。なぜ普通の木造家屋の棟が、きまって二枚の幅の挟い目詰め板で構成されているのか、あるいはなぜ屋根自体が常に硬く、直線的で角ばっているのかということについてのもっともな理由がないのである。アメリカの気候が過酷だといってもこれは弁解にならない。というのは、セント・ジョン川上流域およびメイン州北部地域には、フランス系カナダ人の木造家屋があるが、これらの家屋では屋根が広く張り出しており、軒づけのところで美しく反り上がっている。外観的にも、ニューイングランドの硬い感じの三角屋根に比べてはるかに美しい。

 アメリカでは、家屋建築にさいして革葺屋根を復活させることをしないのは、不思議と言うに尽きる。アメリカの建築史では、数多くの古いものが受け継がれているのを見る。革茸屋根がふたたびはやるようになれば、アメリカの風景にまた新しい魅力が増すことだろう。草草屋根は絵に描いたような美しさがあり、暖かい感じで、水排(は)けがよいのである。日本では、草茸屋根は普通程度のものでも、十五年ないし二十年は良好な状態で機能する。最上の仕上げの場合、草葺屋根は五十年くらいの耐久性があると聞いているが、この数値は信じがたい。風雨による損傷のため、しばしば部分的に補修が行なわれ、最終的には、全面的な葺き替えが必要となる。草葺屋根は古くなると塵埃(じんあい)が詰まって黒ずんだ色をしており、厚い敷物を敷いたようになる。ここに灰色の地衣類が群生するばかりでなくさまざまな草木類、苔類も生える。葺きかたが正しい場合は、きわめて水排けがよく、心配されるような雨水の浸透はない。

   《引用終了》]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十三章 習慣と迷信(2)

 我国には、ほかのことでは学問があるのに、綴りを間違える人がある。日本でも同様なことがあり、それは漢字を正しく書き得ぬ学者である。普通の人間は、日本人が数千の漢字を覚え、その支那の名称と、それの日本語の同意語をも覚えていなくてはならぬことが、如何に途法もない重荷であるかを、考えた丈で目が廻る。こればかりで無く、それぞれの漢字に、草書と、印判の形と、正規な形とがあること、なお我国のアルファベットに、一例として頭文字のBと、それを書いた形と古い英国風の書体と、その他勝手な意匠をこらした俏字(やつしがき)があるが如きである。日本歴史を研究する外国人は、一人の歴史的人物が持つ、いろいろ違った名前に迷わされる。この事は有名な陶工や芸術家の名前で、屢々私を悩した。すべての武士は先ず閥族の名を持つ。これは彼等の先祖であるところの古い家族、あるいは封建時代に彼等が隷属した家族の名である。これを「姓」と呼ぶ。彼等はまた「氏」と呼ぶ家族名と、「通称」と称する、我々の洗礼名に当る名とを持っている。更に「号」という学究的な名が与えられ、その上に「字(あざな)」と呼ばれる、これも学問上の名さえある。これに止らず、「諱(いみな)【*】」という名もあり、為替、請願書、証文、契約書等にこれを用いる。これ丈で沢山だろうと思うが、中々どうして、死んでも名前には煩わされるので、僧侶によって「戒名」という名をつけられる。一例として、五十年前に死んだ有名な歴史家頼山陽【**】は、次のような名を持っていた。

 

  * ヘップバーンの辞書によると、この

  名は十五歳以後使用する由。

  ** この名前は、他の有名な学者の名

  前と共にボストンの公共図書館に記して

  ある。

 

 姓――閥族名――源

 氏――家族名――頼

 通称――洗礼名にあたるもの――久太郎

 号――学問上の名――山陽

 字――追加的学問上の名――子成

 諦――契約書その他の為の法律的の名――襄

 戒名――死後の名――私の教示者はこれを知らない【*】。

 

  * 私は、この種類の材料は一千頁を埋

  める程沢山持っているが、記録しておく

  時間がない。陶器に関する私の紀要は、

  此日誌を踰越しているので、私は、日本

  の陶器に就ての興味ある本を書くに足る

  材料を持っている訳だ。

[やぶちゃん注:「私の教示者はこれを知らない」頼山陽は現在の京都市東山区の時宗黄台山(おうだいさん)長楽寺にあるが、何故か法名は捜し得なかった。彼は強烈な儒学者であり、法名を持っていない可能性もあるのかも知れない(写真で見ると墓には「山陽賴先生之墓」と刻してある)。識者の御教授を乞うものである。因みに「襄」は「のぼる」、号は外に三十六峯外史とも言った。

「ヘップバーンの辞書」既注
 
「踰越」は「ゆえつ」と読み、乗り越えること、或いは、自分の分を越えることを指す。

「私は、日本の陶器に就ての興味ある本を書くに足る材料を持っている」モースによる日本陶器についての纏まった記載は、結局、この十九年後の、一九〇一年の“Catalogue of the Morse Collection of Japanese Pottery”(「日本陶器のモース・コレクション目録」を待たねばならなかった。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 大佛阪/極樂寺阪

    ●大佛阪

大佛阪は。鎌倉七切通の一にして。大佛の左を行く阪路(はんろ)をいふ。卽ち藤澤道なり。此を越(こゆ)れは。北條政村の第趾(だいし)ある常盤(ときは)の里に出つ。

[やぶちゃん注:「北條政村」第七代執権北条政村(元久二(一二〇五)年~文永一〇(一二七三)年)。以下、ウィキの「北条政村」により記載する(一部、補正した部分がある)。義時五男で泰時の異母弟。母は継室伊賀の方。政村流北条氏の祖で、幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として第七代執権に就任、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処に当たり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。第十二代執権北条煕時は曾孫に当たり、第十三代執権北条基時も血縁的には曾孫である。元久二(一二〇五)年六月二十二日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生、義時には既に四人の男子(泰時・朝時・重時・有時)がいたが、当時二十三歳の長男泰時は側室の所生、十三歳の次男朝時の母は正室姫の前であったが離別しており、政村は当代の正室伊賀の方所生では長男であった。建保元(一二一三)年十二月二十八日、七歳で第三代将軍源実朝の御所で元服、四郎政村と号した。『元服の際烏帽子親を務めたのは三浦義村だった(このとき祖父時政と烏帽子親の義村の一字をもらい、政村と名乗る)。この年は和田義盛が滅亡した和田合戦が起こった年であり、義盛と同じ一族である義村との紐帯を深め、懐柔しようとする義時の配慮が背景にあった。『吾妻鏡』は政村元服に関して「相州(義時)鍾愛の若公」と記している』。『義時葬儀の際の兄弟の序列では、政村と同母弟実泰はすぐ上の兄で側室所生の有時の上位に位置し、異母兄朝時・重時の後に記されている。現正室の子として扱われると同時に、嫡男ではなくあくまでも庶子の一人として扱われている』ことが分かる。『しかし母伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、伊賀の方は伯母政子の命によって伊豆国へ流罪となるが、政村は兄泰時の計らいで累は及ば』ず、『その後も北条一門として執権となった兄泰時を支え』た(因みに三歳年下の『同母弟実泰は伊賀氏事件の影響か、精神のバランスを崩して病となり』、天福二(一二三四)年に二十七歳の若さで出家している)。延応元(一二三九)年、三十四歳で評定衆となり、翌年には筆頭となった。宝治元(一二四七)年、四十三の時、二十一歳の『執権北条時頼と、政村の烏帽子親だった三浦義村の嫡男三浦泰村一族の対立による宝治合戦が起こり、三浦一族が滅ぼされるが、その時の政村の動向は不明』である。建長元(一二四九)年十二月に引付頭人、建長八(一二五六)年三月には兄重時が出家して引退してしまったために兄に代わって五十二歳で連署となっている(執権経験者が連署を務めた例は他になく、極めて異例であって政村が得宗家から絶大なる信頼を受けていたことの証左である)。文応元(一二六〇)年十月十五日、『娘の一人が錯乱状態となり、身体を捩じらせ、舌を出して蛇のような狂態を見せた。これは比企の乱で殺され、蛇の怨霊となった讃岐局に取り憑かれたためであるとされる。怨霊に苦しむ娘の治癒を模索した政村は隆弁に相談』、十一月二十七日には『写経に供養、加持祈祷を行ってようやく収まったという。息女の回復後ほどなくして政村は比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立し、現在は妙本寺となっている。このエピソードは『吾妻鏡』に採録されている話で、政村の家族想いな人柄を反映させたものだと評されている』。第七代執権当時、『時宗は連署となり、北条実時・安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、彼らや政村の補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章、北条教時)と時宗の異母兄北条時輔が粛清された二月騒動でも、政村は時宗と共に主導する立場にあった。二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢を率いて示威行動を行った際、政村は教時を説得して制止させている』。文永五(一二六八)年一月に蒙古国書が到来すると、『元寇という難局を前に権力の一元化を図るため』に、同年三月に執権職を十七歳の時宗に移譲、既に六十三歳であった政村は『再び連署として補佐、侍所別当も務め』た。『和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも敬愛され、吉田経長は日記『吉続記』で政村を「東方の遺老」と称し、訃報に哀惜の意を表明した。『大日本史』が伝えるところによると、亀山天皇の使者が弔慰のため下向したという。連署は兄重時の息子北条義政が引き継いだ』、とある。ある意味で非常に賢明かつ誠実に得宗独占の時代の中を生き抜いた人物と言えよう。

「常盤(ときは)の里」「常葉」「常磐」とも書く。元常盤村で、後には深沢村の字名となり、現在、「常盤」として大仏坂トンネルを西北へ抜けた右手一帯。北条政村が「常盤殿」と称するのは、この地に別邸を構えていたことに由るとされる。]

 

    ●極樂寺阪

極樂寺阪は。星月の井より西北に登る阪路にして。極樂寺切通と稱す。卽ち鎌倉七切通の一なり。登(のぼり)三十間餘極樂寺の開山良觀上人の鑿(うが)ちし所。路西に成就院あり。

[やぶちゃん注:「三十間餘」五十四・五四メートル。

「良觀上人」忍性のこと。次項参照。

「成就院」古義真言宗大覚寺派普明山法立寺成就院が正式名称。開山は不明であるが、空海の護摩壇の跡に北条泰時が開基したと縁起では伝える。ずっと昔から私の好きな寺であった。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光則寺

    ●光則寺

光則寺は、行時山と號す。長谷寺の北隣(ほくりん)に在り。長谷町より北折(ほくせつ)して到るベし。此庭は時賴の家臣宿屋左衞門光則入道西信の宅地なりといふ。昔者日蓮將さに刑せられむとせしとき。弟子日朗、日心二人。檀那四條金吾父子四人。安國寺にて捕縛せられ。光則之を保監して土牢に投す。適々(たまたま)日蓮刑を免かる。因て光則信を起し。宅地に草菴を結ひ。日朗を開山とす。光則の父の名を行時と云。故に父の名を山號とし。余名を寺號とすと云當寺其の後(のち)衰頽(すゐたい)せしに。古田兵部少輔重恒の後室大梅院再興す。故に或は大梅寺とも稱す。堂に日蓮以下の像あり。

日朗の土牢は。寺後の山上に在り。

四條金吾賴基の舊跡は。長谷町より南折(なんせつ)して阪の下に出る路傍に在り。寺を收玄菴(しうげんあん)といひ。四條金吾舊跡と標示せり。

[やぶちゃん注:「宿屋左衞門光則入道西信」北条氏得宗家被官である御内人宿屋光則(やどや/しゅくしゃみつのり 生没年不詳)。法名は「最信」或は「※信」(「㝡」の(うかんむり)を(わかんむり)にしたもの。白井永二編「鎌倉事典」の記載)が正しい。「吾妻鏡」では弘長三(一二六三)年十一月十九日及び二十日の条で、臨終近かった北条時頼の看病を許された得宗被官七名の内の一人に挙げられており、この時には既に出家していた。参照したウィキ宿屋光則によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『光則は日蓮との関わりが深く、文応元年七月十六日(一二六〇年八月二十四日)、日蓮が「立正安国論」を時頼に提出した際、寺社奉行として日蓮の手から時頼に渡す取次ぎを担当している。また、日蓮の書状には文永五年八月二十一日(一二六八年九月二十九日)、十月十一日 (一二六八年十一月十六日)にも北条時宗への取次ぎを依頼する書状を送るなど、宿屋入道の名前で度々登場している。同八年(一二七一年)、日蓮が捕縛されると、日朗、日真、四条頼基の身柄を預かり、自身の屋敷の裏山にある土牢に幽閉した。日蓮との関わりのなかで光則はその思想に感化され、日蓮が助命されると深く彼に帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として光則寺を建立した』。

「日蓮將さに刑せられむとせしとき」龍ノ口の法難。

「日朗」既注

「日心」不詳。ところが高橋俊隆氏のこちらのページを見てみると、「御書略註」には、こ日朗の一緒に押し込められた『日心は中老身延三世日進であり、曽谷教信の次男とあ』ると記されているという。これが正しいとすると、幕府滅亡直後まで生きた日進(正元元(一二五九)年~建武元一二(一三三五)年)で、日蓮の高弟日向(にこう)に師事、正和二(一三一三)年に師の跡を継いで甲斐身延山久遠寺三世となった人物ということになる。

「四條金吾父子」後に出る「四條金吾賴基」四条頼基(寛喜元年(一二二九)年~永仁四年(一二九六)年)。名越流北条氏江間光時の家臣で日蓮の有力檀越であった。官位が左衛門尉であったことから、その唐名の金吾で称された。最後に出るように彼の屋敷跡が長谷の光則寺近くに現存する収玄寺である。

「安國寺」既出

「光則の父」「行時」同じく、北条時頼側近であった。

「古田兵部少輔重恒」江戸前期の大名で石見浜田藩第二代藩主古田重恒(慶長八(一六〇三)年~慶安元(一六四八)年)。ウィキ古田重恒によれば、死の二年前の正保三(一六四六)年六月に江戸にある藩邸において古田騒動なる事件を起こしている。重恒は四十歳を『過ぎても子に恵まれなかった。跡継ぎがないために改易されることを恐れた江戸家老の加藤治兵衛と黒田作兵衛は、古田一族の古田左京の孫に当たる万吉を重恒の養子にしようと画策した。その計画を、加藤らから打ち明けられたことで知った重恒の側近・富島五郎左衛門が重恒に伝えた。重恒は自分に無断でそのような計画を立てていた加藤や左京らに対して激怒し、その一派全てを殺した』という一件で、重恒の死去後は『跡継ぎがなく、古田氏は改易された』とある。但し、『この古田騒動には異説が多く、他の説では山田十右衛門という重恒の寵臣が』三名いた『家老の権勢を疎んじて重恒にこの』家老らを讒言、それを信じた重恒が三名の家老を殺害するも、『しかし重恒自身もまもなく狂気で自殺したと』も言われているらしい。『いずれにしろ、重恒に実子も養子もなかったことは確からしく、そのため重恒の死去により、無嗣断絶で古田氏は改易となった』とある。さればその「後室」とあるこの「大梅院」という女性も相応に苦労されたものと推察する。

「收玄菴」白井永二編「鎌倉事典」によれば、この後の大正一二(一九二三)年に光則寺日慈が本堂を建立し、「收玄寺」となったのは第二次世界大戦後のこととある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十三章 習慣と迷信(1)

 第二十三章 習慣と迷信

 

富岡の話によると、手紙を書く時には句読点を使用せぬそうである。手紙は漢字で書くので、句読点をつけることは、受信人が漢文を正当に読めぬと做すことになり、これは失礼である。印刷では句の終りにまるをつけ、あるいは項の終りを示すために頭文字のLに似た形をつける。まるは支那の古典に用いられ、Lは他の主文に使用される。

[やぶちゃん注:「富岡」既注の宮岡恒次郎であろう。

「Lに似た形」鍵括弧の閉じる《  》記号の方である。ネットを管見するに、鍵括弧を西洋言語記号であるシングル及びダブルのコーテーション・マーク(「‘ ‘」と「”“」 quotation marks)を日本語に借入したものではないか、などと書いている御仁がいるが、会話文や心内語・引用の用法はそれに準じたものではあろうが、私はこの《  》は近世以前の記載に幾らも見ることが出来ることから、本邦独自のものと考える。一節に庵点(「〽」)の変形したものともいう。いずれにせよ、濫觴は西洋由来ではないと断ずるものである。]

M691

691

 

 以前は、手紙を書くのに、発信人の名前を受信人の名前の真下に書いた。現在では、発信人の名前を手紙の別の側に書く。旧式な人だと、発信人の名前が書いてない手紙は受取らぬこともある。過去に於ては、婦人に向けた手紙は、単にその家の長に宛てたものである。更に家長に宛てた手紙は、その外側に「何卒御自身でおあけ下さい」即ち「親展」としてない場合には、彼の妻、息子、親友等が開いて読んでも差支えないのであった。封筒が使用される迄は、一枚の紙を面白い方法で折って包み紙とした。図691に於る輪郭図一から十五迄は、この畳み方の順序を示している。最初に紙を一、二、三の如く折り、それを七、八の如くひろげ、手紙を入れてから、すでに出来た折目をしおりに、今度は別の折りようをしてたたみ込む。

[やぶちゃん注:こんな封書を一生に一度ぐらい、送ってみたいものではないか。]

 

 大和の国で私は、張出縁や門口の屋根の縁辺を構成する装飾瓦の、非常に効果的な並べ方を見た。これは我国の建築家にも参考になると思う。大和では、私が旅行した他の国々のどこに於るよりもより多く、瓦を装飾の目的に使用する。装飾的な平瓦は、あまり一般に使用されぬらしい。少数を庭園の小径で見受ける。六兵衛の住居の庭にあるのを私は気がついた。

生物學講話 丘淺次郎 第十五章 胎兒の發育(1) プロローグ / 一 全形

  第十五章 胎兒の發育

 

 前章に於ては人間の胎兒の出來始めだけに就いて述べたが、この章に於ては更に胎兒全形の發育及び二三の體部の漸々出來上がる狀態を簡單に説いて見ようと思ふ。人間は受胎してから生まれるまでに、およそ四十週即ち滿九箇月と十日ばかりかかるが、その中最初の一週間か十日間は卵が輸卵管を通過しながら分裂するだけでまだ體の形を成すに至らず、また三箇月の終になると、已に小さいながら體の形だけは出來上がり、僅か一糎にも足らぬ身體にしては頭が割合に大きいが、尾も全くなくなり、手足の形も整ひ、指も五本づつ揃うて薄い爪まであるやうになる。されば體形が著しく變化するのは、第二週から第三箇月までの間であつて、それより後はたゞ各部の發達が進み全身が大きくなるだけである。

[やぶちゃん注:「三箇月の終になると、已に小さいながら體の形だけは出來上がり、僅か一糎にも足らぬ身體にしては頭が割合に大きい」学術文庫版では大きさを『三寸(約一〇センチ)』とする。これは底本の誤りとしか思われず、妊娠三ヶ月の胎児の大きさは五~八センチメートル程で、学術文庫版の方が正しい。一センチメートルに満たないというのは妊娠四週の半ばぐらいであろう。]

 

     一 全 形

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[二十七日頃の胎兒]

1taijihatuikuteihongensun

《やぶちゃん注―画像①底本原寸一致版》

2teihonmuhoseisaidai
《やぶちゃん注―画像②底本最大画像版》

3taijihatuikugbhan
《やぶちゃん注―画像③学術文庫OCRモノクローム版》

4taijihatuikugbhancolor
《やぶちゃん注―画像④学術文庫カラー・スキャンニング版》

[胎兒の發育

受精後第二週より第二箇月の終に至るまでの身體外形の變化を示す すべて實物の二倍大]

[やぶちゃん注:ここでは都合以下の四種の当該の同一画像を配した。

 まず最初の①は本文及びキャプションと倍率を合わせるために原本の大きさから割り出した原寸大画像で示したものである。これはサイズ調節の関係上、国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正してある。

 次に示した②は寸法が小さいために細部が見えない①の補助として、同じく国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内画像を最大の百%でダウンロード)したものを補正せずに示してある。

 続く③は講談社学術文庫版の同画像である。白く飛びが強いが、上段の第三週の胎児の形状は、黒く潰れてしまった底本の①②よりも遙かに判別可能である。

 しかし③はOCRで撮ったモノクローム版で画像密度が粗いことから、同学術文庫版をカラー・スキャンしたものも④として併載した。この④が最も上段の第三週の胎児の形状をよく視認出来る画像ではあると思う。]

 

 まづ胎兒全身の形が如何に變つて行くかを見るに、懷胎第一箇月の中程には前に圖に示したとおり、殆ど「みみず」の短いものの如き形で、體の長さ僅かに三粍にも達せぬが、二十日目ごろになると、手足の出來始めが疣の如き形現れ、體の長さも一・二糎以上になる。これから後の體形の變化は、一々文句で書くよりは圖に依る方が説明にも了解にも便利であらうと思ふから、ここに第二週頃から第二箇月の終までの胎兒の發生を示した圖を掲げて、讀者と共にこれを見ることとする。まづ一番上の横列に示してあるのは、いづれも第三週の胎兒で、左の端のがおよそ十三四日位、右の端のが二十日位のものであるが、かやうな初期の胎兒はまだ頗る小さいのみならず、我々の常に見慣れて居る成人の身體に比して形が非常に違ふから、胎兒の何の部分が成人の何の部分になるか簡單に説明するい」とは容易でない。この列の胎兒には皆腹面に丸い袋が繫がって居るやうに畫いてあるが、これは「黄身袋」と名づける薄い膜の囊で、後に子供の身體となるべきものではないから、他の列の圖と比較する場合には、これを除いて考へるが宜しい。圖は悉く實物の二倍大に畫いてあるから、二分の一に縮めれば實物の大きさが知れる。次に第二列に畫いてあるのは、皆一箇月の下旬の胎兒で、その中、左の端のが二十三四日のもの、中央のは二十七八日のもの、右の端のがおおよそ三十日位のものである。即ち上二列を合せて、懷姙第一箇月の下半における胎兒の發育を示すことに當る。この列の胎兒はいづれも背が丸く屈し、特に頸筋の邊で急に曲つて居るから、顏は直に腹に面して居る。また體の後端には明な尾があるが、これは前に向うて曲つて居るから殆ど鼻の先に觸れさうである。右の端の圖で見ると、一箇月の終頃の胎兒では頭と胴とは殆ど同じ位の大きさで體の後端は背骨の續きを含んだ短い尾で終り、胴の上端と下端に近い處から、腕と足とが出來掛つて居るが、まだ開かぬ松蕈の如き形で手足らしいところは少しも見えぬ。いづれの圖でも胎兒の腹からは太い紐が出ているのを、根本に近く切り捨てた如くに畫いてあるが、この紐は後々まで殘る臍の緒の始まりである。

[やぶちゃん注:「黄身袋」学術文庫版では「きみぶくろ」と訓じている。学術的には現在、「卵黄嚢(らんおうのう)」と呼称する。鶏卵の黄身に相当する胎盤が確立するまでの繋ぎとする栄養供給器官である。

「胎兒の腹からは太い紐が出ている」「臍の緒の始まり」臍帯である。]

 

 第三列より第五列までに竝べてあるのは、第二箇月の胎兒で、第三列の左の端のはその始、第五列の右の端のはその終わりに當るものである。これらを順々に比べて見るとわかる通り、第二箇月の間には顏も段々人間らしくなり、手足も次第に形が具はり、尾も頗る短くなつて、その月の終には、最早誰が見ても人間の胎兒と思はれる程の形となる。しかしまだ頭が非常に大きく、足は手の割には小さい。また男になるのか女になるのか少しもわからぬ。なほ第三週・第四過頃の胎兒には、頸の兩側に魚類に見ると同じやうな鰓孔が四つづつもあるが、第二箇月の間にこれらの鰓孔は次第に見えなくなつて、たゞその中の第一番のものだけが、耳の孔となつて後まで殘る。これによつて見ると、陸上動物の耳の孔は、魚類の鰓孔の一つに相當することが明に知れる。

 

 胎兒の全形は三箇月の末にはほゞ出來上がるから、三箇月以後はたゞ各部が大きくなるだけで、別に著しく變形する處はない。二箇月ではまだ男女の別が判然せぬが、三箇月の末には最早外陰部の形狀が明らかになつて、男か女かは一目して識別せられる。更に五箇月頃からは全身に細い毛が密生し、六箇月になると胎兒が動き始め、七箇月には餘程發育が進んで身長も三〇糎以上となり、産み出されても生存し得る位になる。かくて月滿ちれば、大きな赤子となつて生まれ出るのである。以上述べた通り人間の胎兒は、決して初めから成人を縮小した如き形に出來るのではなく、最初は全く形の違うたものが出來、それより漸々形狀が變化し、新な器官が生じなどして、終に生まれるときの赤子の形が出來る。例へば體の後端に有る尾の如きも、初め明にあつたものが後に消え失せる。即ち二十日頃までは手も足もなく、體は後程細くなり長い尾で終つて恰も魚類の如くであつたのが、その後手足が生じ、手足が延びても暫時は尾が明に見えて「ゐもり」・「さんせううを」または犬・猫の胎兒と同じ形を呈して居る。體が更に大きくなり、手足がなほ延びると共に、尾は段々短くなり、三箇月目に至ると、尾は全く隱れて見えなくなる。しかし骨だけは成人になつても尾骶骨として殘り、人によつてはこれを左右に振り動かすための筋肉までも存して居る。稀にはこゝに圖を示した如くに、生まれた後にも尾が殘つて居ることがある。頭と胴との大きさの割合、腕と脚との長さの割合なども發生の進むに從ひ漸々變つて行くが、生まれたばかりの赤子はなほその續きとして胴に比べると頭が大きく、前肢に比べると後肢が短い。

Yuubi

[尾の殘つてゐる子供]

[やぶちゃん注:これは学術文庫版が白く飛んでリアリズムに乏しいため、国立国会図書館蔵の原本からトリミングし、補正を加えたものである。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (七)

        七

 

 だが、出雲で夜間に、歩き廻はると信ぜられでゐる像は、唐金の馬だけではない。少くとも他に同樣の凄い性癖を有するものと、思はれてゐる藝術的作品が二十位もある。杵築の拜殿の入口の上に蟠屈する龍の彫刻は、夜間屋根を匍匐ひ廻つたといふことだ――たうとう大工に命じて、その咽喉を鑿で切らせた。それからは龍が徘徊を止めた。その咽喉の鑿痕は、誰の目にもありありと見える!松江の壯麗な春日神社には、牝牡二個の等身大の立派な鹿がある。その頭だけは別に鑄造して、あとから巧みに胴へ打付けたもののやうに私に思はれた。が、私はある親切なる田舍人から、もとは一つの完全な鑄像であつたが、後に及んで、夜間靜かにしておく爲めに、頭を切斷せねばならなくなつたのだといふことを告げられた。しかしこの種の薄氣味のわるい仲間の内で、夜間出逢つて最も凄いのは、松平家代々の瑩域たる松江の月照寺境内の奇怪なる龜であつたらう。この石の巨像は長さ殆ど一丈七尺で、頭を六尺も地上からあげてゐる。その今では破碎せる背面には高さ約九尺の大きな立體の一本の石に、半ば消滅せる碑文を書いたのが立つてゐる。出雲の人々が想像してゐたやうに、この墓地の悪夢が、夜半動き出して、附近の蓮池で泳がうとするのを想像して見るがよい!さて、この怖ろしい脱線的行動のために、龜の像は遂に折らねばならなかつたと傳へられてゐる。しかし實際で見ると、たゞ地震で壞はれたに過ぎないかのやうになつてゐる。

 

[やぶちゃん注:ここに出る龍と鹿の話は現在のネット上には不思議なことに見当たらない。

「瑩域」「えいいき」と読み、墓所のこと。

「月照寺」松江市外中原町にある浄土宗歓喜山(かんきさん)月照寺。ウィキの「月照寺松江市)によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺があった。永く荒廃していたが、松江藩初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として、一六六四年(寛文四年)に、この寺を再興した。浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めた』。『直政は一六六六年(寛文六年)に江戸で死去したが、臨終の際に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き、そこの所をば葬送の地となさん」と遺した。二代藩主・綱隆は父・直政の遺命を継ぎ境内に直政の廟所を営んだ。この際に山号を現在の「歓喜山」と改めた。以後、九代藩主までの墓所となった』(松江藩は十代松平定安まで)。『茶人藩主として著名な七代藩主・不昧の廟門は松江の名工・小林如泥の作によるとされ、見事な彫刻が見られる。境内には不昧お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑がある。また、不昧が建てた茶室・大円庵がある』。『一八九一年(明治二十四年)、松江に訪れた小泉八雲はこの寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうである』。以下、ちゃんと「大亀伝説」の項があり写真も掲げられてある。『六代藩主・宗衍』(むねのぶ 享保一四(一七二九)年~天明二(一七八二)年 第七代松平 不昧治郷(はるさと)の実父)『の廟所にある寿蔵碑の土台となっている大亀は、夜な夜な松江の街を徘徊したといわれる。下の蓮池にある水を飲み、「母岩恋し、久多見恋し…」と、町中を暴れ回ったという。この伝説は八雲の随筆『知られざる日本の面影』で紹介されている。この「母岩、久多見」とはこの大亀の材料となった石材の元岩とその産地のことである。不昧は三十キロ西方の出雲市久多見町の山中より堅牢で緑色の美しい久多見石を材料として選ぶが、この岩はかつてクタン大神(出雲大社に功有りとし本殿おにわ内にクタミ社として単独社を設けられ祀られる神)が逗留したとされる神石で、切り出しや運搬には難儀を極めたようでもある。こうした神威を恐れた不昧公はお抱えの絵師に延命地蔵像を描かせ、残った岩に線刻し崇めている。この延命地蔵は不昧にあやかり「親孝行岩」として現在も信仰されている。 現在ではこの大亀の頭を撫でると長生きできると言われている』とある(下線やぶちゃん)。

「一丈七尺」五・一五メートル。

「六尺」一・八メートル。

「九尺」二・七メートル。

「龜の像は遂に折らねばならなかつたと傳へられてゐる。しかし實際で見ると、たゞ地震で壞はれたに過ぎないかのやうになつてゐる」現在はちゃんと繋がっている。修復されたものらしい。]

 

 

Sec. 7

The Horse of Bronze, however, is far from being the only statue in Izumo which is believed to run about occasionally at night: at least a score of other artistic things are, or have been, credited with similar ghastly inclinations. The great carven dragon which writhes above the entrance of the Kitzuki haiden used, I am told, to crawl about the roofs at night—until a carpenter was summoned to cut its wooden throat with a chisel, after which it ceased its perambulations. You can see for yourself the mark of the chisel on its throat! At the splendid Shinto temple of Kasuga, in Matsue, there are two pretty life-size bronze deer, -stag and doe—the heads of which seemed to me to have been separately cast, and subsequently riveted very deftly to the bodies. Nevertheless I have been assured by some good country-folk that each figure was originally a single casting, but that it was afterwards found necessary to cut off the heads of the deer to make them keep quiet at night. But the most unpleasant customer of all this uncanny fraternity to have encountered after dark was certainly the monster tortoise of Gesshoji temple in Matsue, where the tombs of the Matsudairas are. This stone colossus is almost seventeen feet in length and lifts its head six feet from the ground. On its now broken back stands a prodigious cubic monolith about nine feet high, bearing a half-obliterated inscription. Fancy—as Izumo folks did—this mortuary incubus staggering abroad at midnight, and its hideous attempts to swim in the neighbouring lotus- pond! Well, the legend runs that its neck had to be broken in consequence of this awful misbehaviour. But really the thing looks as if it could only have been broken by an earthquake.

追憶   立原道造

 

   追憶

 ――野村英夫に――

 

誘ふやうに ひとりぼつちの木の實は

雨に濡れて 一日 甘くにほつてゐた

ふかい茂みにかくされて たれさがつて‥‥しかし

夜が來て 闇がそれを奪つてしまふ 

 

ほのぐらい 皿數のすくない食卓で

少年は 母の耳に 母の心に それを告げる

――そして 梟 夜のあけないうちに

あれを啄んでしまふだらう‥‥と 

 

‥‥忘られたまま 樹は 大きな

うつろをのこして 靑空に 吹かれてゐる

傷みもなく 悔いもなく あらはに 

 

そして病む日の熱い濃い空氣に包まれ

幾たびそれは少年の夢にはかなしくおもへたか

――もし僕が意地のわるい梟であつたなら―― 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一二(一九三七)年五月号に初出とある。私は個人的に、この詩がひどく切なく好きである。

「野村英夫」は道造より三つ下の(大正六(一九一七)年~昭和二三(一九四八)年)は詩人(但し、この詩を道造が献じた頃には試作を行っていない)。しばしばお世話になっている「名詩の林」の野村英夫」には「日本詩人全集 第八巻」(創元社一九五三年刊)よりとして、以下のような事蹟を載せる(一部に追加をした。リンク先で彼の詩十七篇が読める)。

   *

東京青山に生まれた。父は農林省官吏。祖父は吉田松蔭の門弟であった。早稲田大学仏法科に学んだ。受験勉強の無理から発病し早稲田高等学院の頃から毎年夏には追分、軽井沢などに転地療養した。その追分で堀辰雄、室生犀星、津村信夫、立原道造、中村眞一郎などを知った。「野村少年」と愛称されたが、特に文学に関心を持っていたわけではなかった。立原道造の死後(昭和一四(一九三九)年)、「立原道造全集」の編集に参加し、昭和一八(一九四三)年頃から塚山勇三、鈴木享、小山正孝らと『四季』を編集し、この頃から熱心に詩作を始めた。昭和二一(一九四六)年、小詩集「司祭館」を自分で筆写して数部つくり数編の小説や評論を書いた。またフランシス・ジャムを愛読し、影響を受け翻訳したり、小伝を書いた。

   *

中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注には、昭和一一(一八三六)年八月十四日附の追分からの道造の『野村君という少年といつしょです』と書かれた書簡を示した上、彼はその頃、『堀辰雄に師事し、『四季』の詩人たちから野村少年と愛称されていたが、まだ詩を書いていなかった。道造の死後、昭和十五年ごろから詩を書き出し、カトリシズムの信仰の深まるとともに『四季』詩人中特異な存在となったが、宿痾(しゅくあ)のため三十一歳で死去した』と記す。]

初冬   立原道造

    初冬

 

けふ 私のなかで

ひとつの意志が死に絶えた‥‥

孤獨な大きい風景が

弱々しい陽ざしにあたためられようとする

 

しかし寂寥が風のやうに

私の眼の裏にうづたかく灰色の雲を積んで行く

やがてすべては諦めといふ繪のなかで

私を拒み 私の魂はひびわれるであらう

 

すべては 今 眞晝に住む

薄明(うすらあかり)の時間のなかでまどろんだ人びとが見るものを

私の眼のまへに 粗々しく 投げ出して

 

‥‥煙よりもかすかな雲が煙つた空を過ぎるときに

嗄(しはが)れた鳥の聲がくりかへされるときに

私のなかで けふ 遠く歸つて行くものがあるだらう

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一三(一九三八)年一月号に初出とある。まずは前掲の「晩秋」と期を一にして詠まれたものと考えてよい。同脚注には非常に興味深い事実が記されてある。なお、太字「諦め」は底本では傍点「ヽ」である。

   《引用開始》

道造の短い生涯における晩年の心象風景が、印象づけられる。彼の心は、寒々とした初冬を意識しつつ、寂寥の中に無の世界を見つめる。昭和十三年といえば、道造の死の前年で、彼の詩は、過去の抒情を拒み、「孤独な大きな風景」に直面して死の陰影を刻んでいた。第二連の「諦めといふ絵」について、彼は杉浦明平に次のように書き送った。「形而上学が僕にひとつの滅形を教えた、無という言葉はおそらく僕の血にとって諦らめという言葉ほどに理解された。カルル・ハイダアという十九世紀の画家が描いた絵に『諦め』という絵がある。灰色の雲が背景の空にうずたかく積みあげられている。遠景には暗い針葉樹林がかぎりなくつづいている、そし前景には葉をふるっている木の下に伏せた本を膝にのせてひとりの寡婦がものをおもっている絵である。僕は、写真版のその絵を見たとき、突然何か告白したい欲望を感じた。すなわち僕の『無』の理解について、あるいは僕の『故郷』について――」(昭和十三一月下旬)

 「薄明の時間のなかでまどろんだ人びとが見るもの」は、「無」の奈落であったろう。彼もまた打ち砕かれた鳥のように、故郷の空へ「遠く保つて行くもの」を自分の中に見たと、告白しているのである。

   《引用終了》

なお、謂わずもがな乍ら、この道造の言うところの「僕の『故郷』」とは魂の原風景としての故郷、「『無』の理解に」基づくところの「精神の僕の『故郷』」の意である。殊更に言うべき必要もないとは思うが、道造の生地は、日本橋区橘町(現在の中央区東日本橋)である。実はこの手紙、中村剛彦の優れた骨太の立原道造論「甦る詩人たち」の最終章「詩人にとって「死」とは何かに引かれており、そこでは前掲部分に続けて(中村氏の指示に従い、傍点部を太字で示した。空欄・改行はママである。

   《引用開始》

果たして 僕の經驗が 僕に何かを教へただろうか! 經驗からは 何も學ばなかつたといふ追憶が 僕を訪れることが出來るならば! ここに大きな諦らめ(3文字傍点付す)と 經驗(2文字傍点付す)との日本の血の あるひは 江戸時代の血の 誘惑がある。たたかはねばならない、そして 打ち克たねばならない。ここに 出發がある。

一切の戰ひは 日常のなかで 意味を以て 深く 行はれねばならない。決意した者のだれが 戰列を とほく空想したか! 僕らは すでに戰線についてゐる。

   《引用終了》

以下、中村氏は『相変わらず意味がよく分からない文体であるが、ここで立原が言う「形而上學』は『ハイデガー流の「形而上学」に類似する思考を示していると言え』、『ハイデガーの「故郷的(ハイムリヒ)」=「無」という存在の開示以前の状態といみじくも一致する。しかしそこからなぜか「日本の血の あるひは 江戸時代の血の 誘惑」へと接続する。杉浦的に見れば、これこそが「暗黒なる世界にうごめく民衆のため息」であり、立原の「ロマン(浪曼)主義」的「反動性」である』という解析に入ってゆく(詳細はリンク先を是非お読みになられたい)。ここには則ち、現実の死を目前にしつつ、しかも且つ前近代と近代精神の狭間に孤独に屹立せざるを得ない詩人の悲壮な孤独と決意が示されているというべきである。肺病病みの恋多きやさ男のイメージなど、実はそこには微塵もないことを我々は再度、確かめる必要があると私は思う。]

晩秋   立原道造

   晩秋

 

あはれな 僕の魂よ

おそい秋の午後には 行くがいい

建築と建築とが さびしい影を曳いてゐる

人どほりのすくない 裏道を

 

雲鳥(くもとり)を高く飛ばせてゐる

落葉をかなしく舞はせてゐる

あの郷愁の歌の心のままに 僕よ

おまへは 限りなくつつましくあるがいい

 

おまへが 友を呼ぼうと 拒まうと

おまへは 永久孤獨に 餓ゑてゐるであらう

行くがいい けふの落日のときまで

 

すくなかつたいくつもの風景たちが

おまへの歩みを ささへるであらう

おまへは そして 自分を護りながら泣くであらう

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『文芸』昭和一三(一九三八)年一月号に初出とある。

何も中公文庫の脚注に有り難く指示されるまでもなく、第二連で「雲鳥(くもとり)を高く飛ばせてゐる/落葉をかなしく舞はせてゐる/あの郷愁の歌」とは、松尾芭蕉の名吟、

 

    旅懷

 此(この)秋は何で年よる雲に鳥

 

以外には私は想起出来ぬ。鑑賞はこちら。愚にもつかぬ私の鑑賞などと思われる方は萩原朔太郎評釈を、どうぞ(こちらも私の電子テクストであるが)。]

麥藁帽子   立原道造

   麥藁帽子(むぎわらばうし)

 

八月の金(きん)と綠の微風(そよかぜ)のなかで

眼に沁(しみ)る爽(さは)やかな麦藁帽子は

黄いろな 淡(あは)い 花々のやうだ

甘いにほひと光とにみちて

それらの花が 咲きにほふとき

蝶よりも 小鳥らよりも

もつと優しい生き者たちが挨拶(あいさつ)する

 

 

[やぶちゃん注:底本は昭和六一(一九八六)年(改版三十版)角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」に拠った。二行目「爽やかな」のルビは「さわ」で、これは新潮社の「日本詩人全集」第二十八巻(同じ中村氏の編。ルビは孰れも歴史的仮名遣を用いている)でも同じであるが、このルビの誤り(孰れもママ表記がない)には私は疑義がある(底本には中村氏が適宜ルビを振ったことが明記されており、これは道造自身のルビの誤りではない可能性があるからである)ので、正しい「さは」に恣意的に訂した。個人的生理的にここは私にとって「さはやか」でなくてはならないからである。大方の御批判を俟つ。また、私もしばしばお世話になっているネット上の安藤龍明氏の優れたサイト「日本詩人愛唱歌集」のに、この「麦藁帽子」の電子化されたものが載るが、そのテクストは、

   《引用開始》

 

  麦藁帽子

 

八月の金と緑の微風のなかで

眼に沁みる爽やかな麦藁帽子は

黄いろな 淡い 花々のやうだ

甘いにほひと光とに満ちて

それらの花が 咲きそろふとき

蝶よりも 小鳥らよりも

もつと優しい愛の心が挨拶する

 

   《引用終了》

となっている。二行目の「沁みる」は別としても、五行目及び最終行が甚だしく異なる。本詩篇にはこのような別稿があるのだろうか? 私は全集を所持していないので分からない。識者の御教授を乞うものである。]

夢見たものは‥‥   立原道造

  Ⅹ 夢見たものは‥‥

 

夢見たものは ひとつの幸福

ねがつたものは ひとつの愛

山なみのあちらにも しづかな村がある

明るい日曜日の 靑い空がある

 

日傘をさした 田舍の娘らが

着かざつて 唄をうたつてゐる

大きなまるい輪をかいて

田舍の娘らが 踊ををどつてゐる

 

告げて うたつてゐるのは

靑い翼の一羽の 小鳥

低い枝で うたつてゐる

 

夢みたものは ひとつの愛

ねがつたものは ひとつの幸福

それらはすべてここに ある と

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の最終篇である。]

やがて秋‥‥   立原道造

  Ⅱ やがて秋‥‥

 

やがて 秋が 來るだらう

夕ぐれが親しげに僕らにはなしかけ

樹木が老いた人たちの身ぶりのやうに

あらはなかげをくらく夜の方に投げ

 

すべてが不確かにゆらいでゐる

かへつてしづかなあさい吐息にやうに‥‥

(昨日でないばかりに それは明日)と

僕らのおもひは ささやきかはすであらう

 

――秋が かうして かへつて來た

さうして 秋がまた たたずむ と

ゆるしを乞ふ人のやうに‥‥

 

やがて忘れなかつたことのかたみに

しかし かたみなく 過ぎて行くであらう

秋は‥‥さうして‥‥ふたたびある夕ぐれに――

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の既刊詩集「曉と夕の詩」の第三曲。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一二(一九三七)年十月号にローマ数字を外した題で(底本は総てのリーダが二点であるが、初出は不詳乍ら、「やがて秋」の後は一般的な「……」であろうとは思われる)発表されたものを初出とする。]

朝やけ   立原道造

  Ⅹ 朝やけ

 

昨夜の眠りの よごれた死骸の上に

腰をかけてゐるのは だれ?

その深い くらい瞳から 今また

僕の汲んでゐるものは 何ですか?

 

こんなにも 牢屋(ひとや)めいた部屋うちを

あんなに 御堂のやうに きらめかせ はためかせ

あの音樂はどこへ行つたか

あの形象(かたち)はどこへ過ぎたか

 

ああ そこには だれがゐるの?

むなしく 空しく 移る わが若さ!

僕はあなたを 待つてはをりやしない

 

それなのにぢつと それのベツトのはしに腰かけ

そこに見つめてゐるのは だれですか?

昨夜の眠りの祕密を 知つて 奪つたかのやうに

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の既刊詩集「曉と夕の詩」の最終曲。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一一(一九三六)年春季号に「朝やけ」の題で発表されたのを初出とする。「牢屋(ひとや)」は同義の「人屋」を意識的の中で換字して当てたものを当て読みしたもので、道造は「らうや(ろうや)」の韻律を嫌ったのであろうと思われる。]

2015/09/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 再び京都にて(3) / 第二十二章~了

 蔵六から我々は四代目亀亭(きてい)を訪れたが、ここでも極めて親切にむかえられ、彼の細工場を見るための、あらゆる便宜がはかられた【*】。彼の窯は一見、他のすべての人々のと同じく、小丘の中腹に横にいくつか並べてつくってあった。陶工達はよく他の陶工の窯で焼く。蔵六は彼のすべての陶器を亀亭の窯で焼き、永楽は自分の家から離れた場所にある窯で焼く。

 

  *亀亭の庭は『日本の家庭』の二五五頁に出ている。

[やぶちゃん注:原注に示された図を斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第五章 入口の入り道」の「手水鉢」から当該の二四〇図を引いておく。本文には『二四〇図は、京都の清水焼で有名な陶工の家で見かけた手水鉢と』『庇縁の様子である』とある。

 

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「四代目亀亭」清水焼陶工四代目和気亀亭(わけきてい 文政九(一八二六)年~明治三五(一九〇二)年)。三代目和気亀亭の長男で文久二年に家督を継いだ。明治六(一八七三)年には京都府勧業場に勤め、パリ万国博覧会などに出品した。]

 

 私は再び楳嶺の画塾と住宅とを訪れ、二時間にわたって生徒たちが仕事をする巧な方法に見入った。膝を身体の下に折り曲げて床に坐るのは、如何にも窮屈らしく見えるが、楳嶺の話によると、生徒は数時間このようにしていて、而も疲れたらしい様子をしないそうである。仕事というのは、他の絵を写すのである。初歩の仕事の多くは引きうつしで、必ず筆を使用する。紙は、明瞭に絵が見える程薄くはないので、殆ど一と筆ごとに持ち上げる。紙はその上方に文鎮を置いておさえる。はじめ筆に墨汁を含ませ、それを別の紙でためして、適当な尖端をととのえるが、墨汁が多すぎれば、尖端をそこなわぬように、筆の底部からそれを吸い取る。

[やぶちゃん注:「楳嶺」画家幸野楳嶺(こうのばいれい)。「第二十章 陸路京都へ 京都小景」で既出既注。]

 

 京都の南禅寺では、僧侶が陶器の小蒐集を見せてくれたが、大したものは一つもなかった。有名な茶人小堀遠州が二百五十年前に建てた茶室は、茶の湯の簡素と荘厳とに適わしい、意匠の簡単さのよい例である。

[やぶちゃん注:「有名な茶人小堀遠州が二百五十年前に建てた茶室」臨済宗南禅寺派大本山南禅寺の塔頭の一つで、徳川家康の下、幕府の武家諸法度立案・外交・宗教統制を一手に引き受けて「黒衣の宰相」の異名を取った以心崇伝(いしんすうでん 永禄一二(一五六九)年~寛永一〇(一六三三)年)が住した金地院(こんちいん)の茶室「八窓席」であろう。崇伝の依頼により大名で茶人・作庭家として知られた小堀政一遠州(天正七(一五七九)年~正保四(一六四七)年)の設計で建てたとされていた茶室で、大徳寺孤篷庵・曼殊院の茶室とともに「京都三名席」の一つに数えられる。但し、参照したウィキ金地院によれば、後に『建物修理の際の調査で、この茶室は遠州が創建したものではなく、既存の前身建物を遠州が改造したものであることが判明した』とある。ただモースも見たであろう同院の「鶴亀の庭」は『崇伝が徳川家光のために作らせ、作庭には小堀遠州が当たった(遠州作と伝えられる庭は多いが、資料が残っている唯一の例)。庭師は賢庭と伝わる。特別名勝。安土桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水庭園として知られる』ともある。

「二百五十年前」前注で引いたウィキ金地院によれば、同院自体は慶長一〇(一六〇五)年に崇伝によって現在地に移されたとあるから、モースの来訪した明治一五(一八八二)年から「二百五十年前」ならば寛永九(一六三二)年で崇伝没年の前年に当たるから、数字上はおかしくない。]

M689

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 ドクタアは大阪で、面白いお寺の池を見つけた。そこには大きさの異る亀の子が、何百となくいる。池にかかっている小さな石橋の近くに小屋があって、亀の子が非常に好きな、米の粉でつくった提灯形の、内のうつろな球を売っている。これを水に投げ込むと亀の子が競泳を始め、何度も何度もパクンパクンやってはそれを遠くに投げ、それが水びたしになるか、池の辺をなす石垣へ押しつけられるかに至って、すぐさま破壊されて食い尽されるその光景は、実に珍無類である(図689)。提灯は赤いか白いかで、それを追って池を横切る亀の子は、提灯を先頭に立てた一種の行列を構成する。これ等は一セントで五つであるが、人は亀の子に餌をやって、相当な時間をつぶすことが出来る。亀の子がパクつく有様を見ていると、天井から糸でつるした林檎を囓りっこする遊びを思い出す。

[やぶちゃん注:「大阪で、面白いお寺の池」不詳で公開したところ、即日、つい先のところでも御助力下すった「姐さん」がここも美事に解明して下さった。

   *

亀の子のいるお寺……これは天王寺さん(四天王寺)ですよ。大阪人なら誰でも知っていると言って言い過ぎではないと思います(^^)♪ 「天王寺さん」の亀の池は、暖かいお日さまの下、何段にも重なった姿はユーモラスで、ひがな一日過ごせます。漫才でも、人気を博した平和ラッパ・日佐丸さんを、「ラッパか亀の池か」と囃したくらいだったし、人生幸朗・生江幸子さんを始め、漫才などお笑いには欠かせません(^^)♪ また、毎月二十一日・二十二日の「弘法さんの日」には、高齢者は市電や市バスが無料だったこともあって、お参り(亀井堂での経木流しなど)と「亀の池」の亀さん目指し、沢山の人が押し掛けたものです(^^)♪ 今でも、「弘法さんの日」には露天も五百店ほども出て、沢山の人が出かけています。私は、一昨年、俳句の会の吟行で何十年ぶりかで訪れましたが、それはそれは、大層な賑わいでした。「四天王寺」公式サイトの境内案内図の「六時堂」の前と、その左横にある丸い大きなのが「亀の池」です。

   *

……姐さん! わて、「天王寺はん」、行ったこと、ありまへんのや……今度、文楽見に行った時には、きっと行きまっせ! おおきに!(^^)♪!

「米の粉でつくった提灯形の、内のうつろな球」一般には小麦を用いるが、所謂、提灯型の特大の麩菓子様の販売餌であろう。

「天井から糸でつるした林檎を囓りっこする遊び」これはハロウィン・パーティーで行われる「ダック・アップル(Duck Apple)」或いは「アップル・ボビング(Apple Bobbing)」と呼ばれる、水を入れた大きめの盥(たらい)に林檎を浮かべて手を使わずに口で咥えて取るゲームから派生した、パン食い競争に酷似したリンゴ食いゲームのことかと思われる。]

 

 大阪にいた時、一人の日本人が私に、米の取引所へ一緒に行かぬか、非常に奇妙な光景が見られるからといった。その建物に近づくと、奇妙な人の叫声の混合が聞えて来て、私にシカゴの穀物取引所を思い出させた。取引所に入ると、そこには同じような仲買人や投機人達の騒々しい群がいて、身振をしたり、手を振り上げたり、声をかぎりと叫んでいたりした。驚いた私は、私を連れて行った日本人に、一体いつこんな習慣が輸入されたのかと聞いたが、彼はまたこれと同じような集合を、シカゴ、ニューヨーク、ポストンその他の大都会で見ることが出来るという私の話を聞いて、吃驚して了った。この人達は米の仲買人で、まったく同一な条件と要求とが、同一な行為を惹起したのである。

M690

690

 

 神戸の塵芥車は、面白い形をした三輪車で、小さな中心輪ははるか前方にあり、二個の主要輪もろとも一枚の板から出来ている。心棒は固定し、車輪はその上を回転する。輪帯は一部分打ち込んだ固い木造の釘から成り、それ等のとび出た部分の間を縫って藁繩がまきつけてある。何故こんなことをするのか、恐らく釘が深く路面につきささるのを防ぐ為と思われるが、私は聞かなかった。図690は、横から見たところと設計図とである。この事は牡牛に曳かせる。

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (六)

       六   七月二十四日 杵築にて

 

 大社の第一の境内で、正門の左に當つて、灰色に古びて、普通の宮の形をした、小さな木造建築がある。その閉めた戸り木格子に通常、神に對する誓詞や祈願を書く白紙が、夥しく結んである。しかし格子の中を覗いてみても、暗い内部には神道の象徴は一つも見えない。それは厩だ!して、中央の部屋に立派な馬が居る――見物人の方に向つてゐる。藁で作つた日本の馬沓が、その背後の壁に吊るしてある。馬は動かない。唐金で作つてあるのだ!

 

 博學の神官佐々氏に就いて、この馬の話を尋ねたとき、次のやうな珍らしいことを告げられた――

 舊曆七月十一日が「身逃げ」といふ異樣な祭日に當る。その日、杵築の大神は社殿を出でて町々を通つて、海濱に沿ひ、それから國造の屋敷へ入る。だから、其日いつも國造は屋敷を空けて外出した。現今は實際さうはしないが、彼とその家族はある室に退いて、邸宅の大部を神の使用に供するやうにしておく。此國造が引込むことを『身逃げ』と呼ぶ。

 さて、大國主神が町を通行の際、最上席の神官がお伴をする。この神官を昔は『別火』と稱した。その譯は、神に對して淸淨潔白を保つため、祭りの始まる一週間前から、彼は特別な火を用ひて煮た食物を食べてゐるからだ。『別火』の職は世襲であつたので、その稱號が遂に家名となつた。今日ではその式を行ふ神官も、最早『別火』と呼ばれない。

 『別火』が彼の任務施行の際、街頭で人に出逢ふと、彼は『犬め、退け!』と言つて、道を避けさせた。で、昔は固より、今も俗衆は、かやうに言葉をかけられた者は犬に變つて了うと信じている。だから、『身逃げ』の當日、ある時刻の後は、誰も町へ出なかつたもので、今でもこの祭典中は、あまり外出するものが無い。

 

    註。私の杵築滯在中、泊まつてゐた海

    濱の小さな綺麗な旅舘因幡屋では、親

    切な老主歸は『身逃げ』中は外出せぬ

    やう、殆ど涙を流さんばかりの熱心な

    を以て、客に説き勸めた。

 

 すべての町々を通つた後で、『別火』は朝の二時から三時の暗い内に、ある祕密の儀式を海岸で行つた。(この式は今猶毎年同時刻に行はれるとのことだ)しかし『別火』自身の外、一人もそこにゐてはならぬ。もし不幸にして、その式を見た人があると、その人は即死するか、または獸に變はつてしまうのだと、一般人民は信じてゐた。また今もさう信じてゐる。

 この儀式の祕傳は頗る神聖なもので、『別火』相續者に傳へるにも、死んだ後でなくては、それを語ることは出來なかつた。

 だから、彼が死ねると、その死骸を社の或る奧の室の蓆の上に乘せて、すべての戸を堅く閉めて、その息子だけを殘しておく。すると、夜間或る時刻に、靈が死體に歸つて、死んだ神官は身を起し、息子の耳へ恐ろしい祕密を囁く――して、また倒れて死する。

 しかし一切こんな話は、唐金の馬と何の關係がある?と讀者は尋ねるかも知れない。

 たゞこれだけだ。即ち――

 『身逃げ』の祭には、杵築の大神は、その市の町、を唐金の馬に乘つて歩き玉ふのだ。

 

[やぶちゃん注:個人的に頗る慄っとする素敵に怖い条である。

「中央の部屋に立派な馬が居る」現在も、銅鳥居を抜けた直ぐの西側にブロンズ像の神牛と神馬が安置された牛馬舎があるらしい。光之輔氏のブログ「幸せを引き寄せる出雲の氣と風光」の「【出雲大社参拝記⑫】神馬と神牛に安産祈願!」に写真がある。但し、新しい感じで、ハーンが見たものの後裔であろう。

「身逃げ」中経出版の「世界宗教用語大事典」に「身逃神事(みにげのしんじ)」とあり、『出雲大社で八月一四日に行われる神事で、神官の長が社家を出て他の社家に泊まる。翌日、爪剥神事という抜穂予祝行事がある。身逃れ神事とも』とあり、「公益社団法人島根県観光連盟」の運営する「しまね観光ナビ」の「出雲大社の祭り」に、八月十四日深夜には『境内の門はすべて開放され、禰宜(ねぎ)は本殿に参拝し、大国主命の御神幸(ごしんこう)にお供する。湊(みなと)社、赤人(あかひと)社に詣で、稲佐の浜の塩掻島(しおかきしま)で祭事を行い、国造館から本殿へ帰着する。この神事の途中、人に逢うと出直しをしなければならないため、町内の人々は早くから門戸を閉ざし、外出も避けている』と明記されてあるものの、なかなか纏まった分析記載がネット上では見当たらない。幾つかの記載の中でも腑に落ちたのが、個人ブログ「古代からの暗号」の伏見稲荷神符21 「身逃神事」と「爪剥祭」』であった。表題はこうだが、冒頭から『出雲大社で行われる祭祀は、年間72度に及ぶというが、由緒が古く学者にも注目されながら明確な説明がつかない「身逃神事(みにげのしんじ)」と「爪剥祭(つまむぎさい)」があるという』で始まる。筆者はHNもお持ちでないが、大変、興味深く(というか、私はこの特異な神事をハーンのこの叙述以外で聴いたことがないので、総てが驚きである)、失礼して以下、全面的に引用させて戴く。

   《引用開始》

明治以前は陰暦七月四日深更に身逃神事、翌五日に爪剥祭が行われたが、今は八月に行う。この祭祀は櫛八玉神の末裔である別火氏(べっかし・大社家上官)が、大国主の神幸にあたって、大社の聖火で調理した斎食をし、稲佐の浜の海で身を清めた後、八月十四日の身逃神事のための「道見(下検分)」を前夜行う。道見は禰宜らが献鐉物を持ち湊社(みなとのやしろ・祭神は櫛八玉神)と赤人社(あかひとしゃ・祭神は別火氏の祖)へ詣で白幣、洗米を供えて拝礼する。次に、稲佐の浜の塩掻島(しおかきじま)で四方を拝し、前二社と同じ祭事を行い斎館に帰る。[やぶちゃん注:「塩掻島(しおかきじま)」は引用元では「塩塩掻(しおかきじま)」となっているが、後に示した広瀬満氏の「日本神話と古代史」の第二章 『古事記』の謎と大国主神の正体の記載によってかく改めた。]

翌十四日の午前一時禰宜(当日は大国主の神幸の供奉である)は狩衣を着け、右に青竹の杖を左に真菰で造った苞(しぼ)と火縄筒を持ち、素足に足半(あしなか)草履の出で立ちで、大社本殿の大前で祝詞を奏し、その後前夜の道見の通りに二社に行き、塩掻島で塩を掻く。帰路出雲国造館大社本殿に向いて設けた斎場を拝し、本殿大前に帰り再拝拍手して神事は終了する。

興味深いのはこの祭事中、出雲国造が神幸に先立ち国造館を出て一族の家に一宿し儀式が済み次第帰館するが、国造の留守の間に国造館では大広間を清め、荒菰を敷き八足机をそろえ、大国主神を迎える用意をする。またこの神幸の途中に人に会うと汚れたとして、大社に戻り神幸の出直しをするという。翌十五日の爪剥祭は神幸祭に塩掻島で掻いた塩・根付稲穂・瓜・茄子・根芋・大角豆(ささげ)・御水の七種の神鐉を供えるのが古来からの習わしであるという。

この神事の主役は大国主神。脇役は櫛八玉神の子孫という別火氏と出雲国造である。が、大国主は隠身なので別火氏が供奉として代行している。

この神事を通じて何を伝えようとしているかを考えると、キーワードは櫛八玉神であろう。『古事記』の国譲りの段で、櫛八玉神は膳夫となって奉仕せよと命じられているが、その火は熊野神社の神火であり、富氏の言う久那戸大神の神火なのだ。そして、この神事の塩掻きは『古事記』の櫛八玉神が鵜になって、海の底からはにを咋い出す場面であり、爪剥祭は八十びらか(平たい皿)を作り神鐉を献る場面をあらわしていると思われる。

しかし、国造はなぜ国造館を出て、しかも一晩留守にしなければいけないのか? それはこの神事が先祖の霊が帰ってくるという、お盆の時期に行われる事と関係するように思われる。

爪剥祭は古くは<つま向き>であったというが、稲佐の浜で<対馬(つま)向き>の神事を行い、<交い矛を副葬された対馬の祖霊>を迎えるか、<大国主が対馬の祖霊の元に里帰り>するかのどちらかであろう。

神幸とは神様が旅をすることであり、町や村のお祭りでは神様を神輿に乗せて巡行するが、神様の休憩するところをお旅所という所以である。ならば<身逃神事>は文字どおり大国主が出雲大社を抜け出して、先祖の地・対馬に里帰りすると考えたい。だから出雲の大神になりかわる出雲国造も、国造館を出て他所に一宿する必要があったのだろう。

   《引用終了》

他にも広瀬満氏の「日本神話と古代史」の第二章 『古事記』の謎と大国主神の正体の「出雲大社の謎の神事『神幸祭』」にも身逃神事の詳細な記載と「神幸供奉図」とキャプションのあるその折りの「別火」の姿を書いた絵が載る(因みに、このサイト主の広瀬氏は大国主神の正体は天武天皇であるとする立場をとっておられる)。

「別火」これは明らかに、日常の穢れたそれではない、異なった火、神聖な別な火、神聖な儀式に則り、神聖に道具で鑽(き)り出したところの「神聖なる火」の意である。本文中にあるように、そうした特殊な火を以って調理したものだけを口にすることによって、潔斎するとともに、神人共食に近い状態に持ち込むことで、神に直接特別に奉仕するという極めて古形の神式に基づくものと考えられる。

「その稱號が遂に家名となつた」現在も出雲大社祠官家の姓に「別火(べっか)」という姓がある。

「旅舘因幡屋」既注。但し、「八雲会」の「松江時代の略年譜」を見ると、この時に実際に投宿したのは(少なくとも最初は)「養神館」とある。不審。

「朝の二時から三時の暗い内に、ある祕密の儀式を海岸で行つた」「『別火』自身の外、一人もそこにゐてはならぬ。もし不幸にして、その式を見た人があると、その人は即死するか、または獸に變はつてしまう」「この儀式の祕傳は頗る神聖なもの」という稲佐の浜の塩掻島(しおかきじま)でか、或いはその前後に稲佐の浜の別な場所で行う謎の秘儀については、記載が見当たらない。そもそもがこの一時蘇生による死霊による死後伝授という恐るべき伝承がずっと少なくとも明治まで続いていたとすれば、これは本邦での第一級のそれも超古形の闇の呪術と断言出来る(私はもっと現実的な現象を措定するものであるが)。]

 

 

Sec. 6

KITZUKI, July 24th

Within the first court of the Oho-yashiro, and to the left of the chief gate, stands a small timber structure, ashen-coloured with age, shaped like a common miya or shrine. To the wooden gratings of its closed doors are knotted many of those white papers upon which are usually written vows or prayers to the gods. But on peering through the grating one sees no Shinto symbols in the dimness within. It is a stable! And there, in the central stall, is a superb horse—looking at you. Japanese horseshoes of straw are suspended to the wall behind him. He does not move. He is made of bronze!

 

Upon inquiring of the learned priest Sasa the story of this horse, I was told the following curious things:

On the eleventh day of the seventh month, by the ancient calendar,[1] falls the strange festival called Minige, or 'The Body escaping.' Upon that day, 'tis said that the Great Deity of Kitzuki leaves his shrine to pass through all the streets of the city, and along the seashore, after which he enters into the house of the Kokuzo. Wherefore upon that day the Kokuzo was always wont to leave his house; and at the present time, though he does not actually abandon his home, he and his family retire into certain apartments, so as to leave the larger part of the dwelling free for the use of the god. This retreat of the Kokuzo is still called the Minige.

Now while the great Deity Oho-kuni-nushi-no-Kami is passing through the streets, he is followed by the highest Shinto priest of the shrine— this kannushi having been formerly called Bekkwa. The word 'Bekkwa' means 'special' or 'sacred fire'; and the chief kannushi was so called because for a week before the festival he had been nourished only with special food cooked with the sacred fire, so that he might be pure in the presence of the God. And the office of Bekkwa was hereditary; and the appellation at last became a family name. But he who performs the rite to-day is no longer called Bekkwa.

Now while performing his function, if the Bekkwa met anyone upon the street, he ordered him to stand aside with the words: 'Dog, give way!' And the common people believed, and still believe, that anybody thus spoken to by the officiating kannushi would be changed into a dog. So on that day of the Minige nobody used to go out into the streets after a certain hour, and even now very few of the people of the little city leave their homes during the festival.[2]

After having followed the deity through all the city, the Bekkwa used to perform, between two and three o'clock in the darkness of the morning, some secret rite by the seaside. (I am told this rite is still annually performed at the same hour.) But, except the Bekkwa himself, no man might be present; and it was believed, and is still believed by the common people, that were any man, by mischance, to see the rite he would instantly fall dead, or become transformed into an animal.

So sacred was the secret of that rite, that the Bekkwa could not even utter it until after he was dead, to his successor in office.

Therefore, when he died, the body was laid upon the matting of a certain inner chamber of the temple, and the son was left alone with the corpse, after all the doors had been carefully closed. Then, at a certain hour of the night, the soul returned into the body of the dead priest, and he lifted himself up, and whispered the awful secret into the ear of his son—and fell back dead again.

 

But what, you may ask, has all this to do with the Horse of Bronze?

Only this:

Upon the festival of the Minige, the Great Deity of Kitzuki rides through the streets of his city upon the Horse of Bronze.

 

1 Fourteenth of August.

2 In the pretty little seaside hotel Inaba-ya, where I lived during my stay in Kitzuki, the kind old hostess begged her guests with almost tearful earnestness not to leave the house during the Minige.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (五)

        五

 

 觀音寺の大きな墓地内にある、連歌寺の跡から左ほど遠からぬ所に、甚だ珍らしい一本の松がある。その幹は地面に支へられずに、四本の巨大な根の上に支へられて、恰も四本の足で歩いてゐるやうな角度になつてゐる。畸形の樹木は往々神の住所と考へられる。して、この松はこの信仰の一例を與へる。周圍には垣を作り、その前に一小祠を安置し、更に數個の小さな鳥居が立ててある。して、多くの貧民が大概いつでも、その場所の神樣に祈つてゐるのが見受けられる。小祠の前に、普通杵築に於ける海草の奉納の外に、數個の藁で作つた馬の像があつた。何故藁馬を捧げるのか?この道路の庚申を祀つたものらしい。で、馬の飼主がその健康を心配し、馬が疾病死亡より免るゝやう、庚申に祈つて、同時に祈願の象徴として藁馬を捧げるのだ。しかしこの獸醫の役目は、普通庚申の受持になつてゐない。だから、この樹木の畸形な點が、かゝる考を唆つたのだらう。

 

[やぶちゃん注:「觀音寺」不詳。前条末に。再度申し上げる。本寺の存在に就いて識者の御教授を乞う。

「甚だ珍らしい一本の松がある。その幹は地面に支へられずに、四本の巨大な根の上に支へられて、恰も四本の足で歩いてゐるやうな角度になつてゐる」不詳。大社町杵築南に「四本松」という地名を現認出来るが、何か関係があるか? 併せて識者の御教授を乞うものである。]

 

 

Sec. 5

Not far from the site of the Rengaji, in the grounds of the great hakaba of the Kwannondera, there stands a most curious pine. The trunk of the tree is supported, not on the ground, but upon four colossal roots which lift it up at such an angle that it looks like a thing walking upon four legs. Trees of singular shape are often considered to be the dwelling- places of Kami; and the pine in question affords an example of this belief. A fence has been built around it, and a small shrine placed before it, prefaced by several small torii; and many poor people may be seen, at almost any hour of the day, praying to the Kami of the place. Before the little shrine I notice, besides the usual Kitzuki ex-voto of seaweed, several little effigies of horses made of straw. Why these offerings of horses of straw? It appears that the shrine is dedicated to Koshin, the Lord of Roads; and those who are anxious about the health of their horses pray to the Road-God to preserve their animals from sickness and death, at the same time bringing these straw effigies in token of their desire. But this role of veterinarian is not commonly attributed to Koshin;—and it appears that something in the fantastic form of the tree suggested the idea.

はじめてのものに   立原道造

 SONATINE No.1

 

 

    はじめてのものに

 

ささやかな地異は そのかたみに

灰を降らした この村に ひとしきり

灰はかなしい追憶のやうに 音立てて

樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

 

その夜 月は明かつたが 私はひとと

窓に凭れて語りあつた (その窓からは山の姿が見えた)

部屋の隅々に 峽谷のやうに 光と

よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

 

――人の心を知ることは‥‥人の心とは‥‥

私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を

把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

 

いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか

火の山の物語と‥‥また幾夜さかは 果して夢に

その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の楽譜様の処女詩集「萱草に寄す」巻頭を飾る「SONATINE No.1」群の最初の一篇である。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、本篇は昭和一〇(一九二五)年十一月号の『四季』である。「SONATINE No.1」群の次に載るたあとともに発表されたのを初出とする。

 角川文庫版中村真一郎編「立原道造詩集」の注解には三箇所に以下のような注が附されてある。

「ささやかな地異」『地上の小異変、ここでは浅間山の爆発を指す。』[やぶちゃん補注:但し、単なる小噴火であって被害が起ったような記録に残されるべき噴火ではないので注意されたい。]

「この村」『長野県佐久郡軽井沢町追分、中仙道の旧駅浅間根三宿の一つ。』[やぶちゃん注:「浅間根三宿」は旧中山道の浅間根越えの三宿とされた追分・沓掛・軽井沢を指す。]

「エリーザベト」ドイツの作家『シュトルム』『の小説「みずうみ」の女主人公の名、めぐりあった少女をなぞらえたもの。』

 また、中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注は本詩を総括して、

   《引用開始》

 昭和九年夏、室生犀星、堀辰堆のいる軽井沢に休暇を過した道造は、この年も夏期休暇を待ちかねて出かけ、長野県信濃追分の油屋(旅館)に滞在、八月上旬浅間山の噴火をはじめて見聞した。また彼はそこで出会った少女に仄かな恋心を覚え、はじめての経験という意味をこの題名に含めて、五篇の物語めいた詩のプロローグとしている。

 ソナチネは、小規模のソナタ形式の奏鳴曲。道造はこの音楽形式にあこがれて、自己の詩情をささやかに構成企画したのであった。

 この詩に盛られた物語の筋は、「かなしい追憶のやうに」音たてて火山灰の降る村の展望からはじまる。月明のその夜、笑い声溢れる雰囲気の中で、少女の蛾を追う手つきに、恋のいぶかしい疑惑を覚え、心をいらだてる。そして、火の山の悲しい物語とエリーザベトのはかない恋物語(ドイツの抒情詩人テオドール・シュトルム作「みずうみ」)が、この詩全体に、悲しい影を投げかける。その抒情は淡い哀愁につつまれ、予知すべからざる不安感におののく青春の生命(いのち)が、音楽のように奏でられている。

   《引用終了》

と解析している。それが果たしてダーツのように的を射たものであるかどうかは別として、作詩状況のリアリズムが良く纏められてあり、まさに戦前の映画のワン・シークエンスを観せるような、なかなか自信に満ちた評釈である(さればこそ長々と引かせて戴いた)。

 なお、シュトルムの「みずうみ」は、私の小学校高学年以来の数少ない愛読書の一つである。

 以上、「萱草に寄す」というソナタの「SONATINE No.1」は本篇を第一篇として、以下、

たあ

晩(おそ)き日の夕べに

に」

のお

 

と続いて演奏されて終えた後、インテルメッツオとしての、

 

歌」の「その一」「その二」

 

を挟んで、「SONATINE No.2」へ移って、

 

ひ」

忘れてしまつて

 

で全曲を終えるのである。最後に立原道造の意図した演奏の通りにお読みあれかし。道造のために――

またある夜に   立原道造

    またある夜に

 

私らはたたずむであらう 霧のなかに

霧は山の沖にながれ 月のおもを

投箭のやうにかすめ 私らをつつむであらう

灰の帷のやうに

 

私らは別れるであらう 知ることもなしに

知られることもなく あの出會つた

雲のやうに 私らは忘れるであらう

水脈のやうに

 

その道は銀の道 私らは行くであらう

ひとりはなれ‥‥(ひとりはひとりを

夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

 

私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ

月のかがみはあのよるをうつしてゐると

私らはただそれをくりかへすであらう

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の楽譜様の処女詩集「萱草に寄す」の冒頭の「SONATINE No.1」群の二篇目に配された一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、本篇は昭和一〇(一九二五)年十一月号の『四季』である。「SONATINE No.1」群巻頭の「はじめてのものに」とともに発表されたのを初出とする。

 角川文庫版中村真一郎編「立原道造詩集」では「投箭(とうせん)」「帷(とばり)」「水脈(みを)」「逢(あ)はぬ」とルビを振る。肯んずるものである。なお、老婆心乍ら私は「投箭」を遊びのダーツの意としか解釈していない。

 既に述べている通り、私は道造の感情の時制をわざとばらばらにし、或いは逆回転させて示している。それは、順列詠読認識では収束するかに偽るところの、見えてこない彼の死に直結する深い孤独をこそ、彼の詩篇から詠みとるべきであると私は思うからである。これは言っておくが、ただの天邪鬼ではない。彼の詩をただの甘い恋愛詩と見誤ってはいけないという自戒のためである。]

晩(おそ)き日の夕べに   立原道造

    晩(おそ)き日の夕べに

 

大きな大きなめぐりが用意されてゐるが

だれにもそれとは気づかれない

空にも 雲にも うつろふ花らにも

もう心はひかれ誘はれなくなつた

 

夕やみの淡い色に身を沈めても

それがこころよさとはもう言はない

啼いてすぎる小鳥の一日も

とほい物語と唄を教へるばかり

 

しるべもなくて來た道に

道のほとりに なにをならつて

私らは立ちつくすのであらう

 

私らの夢はどこにめぐるのであらう

ひそかに しかしいたいたしく

その日も あの日も賢いしづかさに?

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の楽譜様の処女詩集「萱草に寄す」の冒頭の「SONATINE No.1」群の三篇目に配された一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、本篇の初出は昭和一一(一九二六)年九月号の『新潮』である。]

柳田國男 蝸牛考 初版(10) 蛞蝓と蝸牛

       蛞蝓と蝸牛

 

 蝸牛の方言の新たに發達して居る土地の人には、是は或は意外な事實かも知らぬが、蛞蝓と蝸牛とが名を一つにして居ることは、決して珍らしい例でも何でもないのである。先づ九州では肥前・肥後・筑後の各地、壹岐の島にも蝸牛のナメクジあり、日向の島野浦でも雙方ともナメクジである。併しこれでは何れか一方のみを、特に珍重する者には不便である故に、やはり分化の法則に從うて、追々に其別を設けようとしたことは事實であって、乃ち肥前の諫早に於ては、蝸牛をツウノアルナメジと謂ひ、肥後の玉名郡では約してツウナメクジと謂つて居る。ツウは明らかにツブラの變化であるが、今は一般に甲良、若くは「かさぶた」といふやうな意味に解せられて居るらしい。肥後でも熊本以南、宇土八代球磨の諸郡では、蝸牛のナメクジは其儘にして置いて、却つて蛞蝓の方をばハダカナメタジと謂ふことになつて居る。

[やぶちゃん注:「日向の島野浦」宮崎県の北端日向灘北部に位置する島浦島(しまうらとう)。現在の宮崎県延岡市島浦町(しまうらまち)。ウィキの「島浦島」によれば、『延岡市北東部の浦城港から東へ約』六キロメートル、延岡市北浦町古江から約四キロメートルに位置する有人島で、『宮崎県内最大の島である。集落は北西部に集中する。日豊海岸国定公園に属している』。『黒潮が島の周囲に流れ、外海に面した海岸は切り立った岩壁の険しい海蝕崖をなし、海蝕洞も数多く変化に富む景観をつくっている』。『長い間、瀬戸内海~薩摩航路の中継地で『日向地誌』によると』一千石未満の船なら百四十から百五十艘もが係留出来たという。『島浦港は江戸時代、延岡藩主内藤氏が参勤交代の際、最初の寄港地としていた』。人の定住は元禄年間(一六八八年~一七〇四年)からで、『四国の徳島からの移住者が多かったといわれる』とあり、この最後の叙述は本文に関わって興味深い情報と思われる。

「玉名郡」有明海の諫早湾の東の対岸、福岡県大牟田市の南の、現在の熊本県玉名市及び玉名郡の旧郡名。

「ツウは明らかにツブラの變化であるが、今は一般に甲良、若くは「かさぶた」といふやうな意味に解せられて居るらしい。」この箇所は改訂版では『ツウはおそらくはツブラの變化だろうが、今は一般に甲良、若くは「かさぶた」といふやうな意味にしか解せられていない。』と前後で断定と推量が入れ替わっていて、少し不審がある。「甲良」は甲羅であろう。]

 

 國の他の一端にも同樣の例がある。たとへば青森縣でも津輕を始として、蛞蝸二つながらナメクジといふ名を持つ土地が弘い。さうして前に擧げたツノダシ、ツノべコの方言は、やはり亦蛞蝓にも適用して居るのである。それから縣境を越えて北秋田の比内地方に入ると、わずかに區別の必要を認めて、今では蝸牛の方だけをナメクジリ、蛞蝓はナメクジと謂つて居る。岩手縣でも盛岡の附近は、二つともにナメクジラの語によつて知られて居るが、特に蝸牛のことのみをいふ場合には、やはり肥前の諫早などと同じく、長たらしくカエンコノアルナメクジラと謂ふさうである。同じ一致は又丁度、津輕と島原との中程にも見出される。たとへば飛驒の北部に於ては蝸牛蛞蝓共にマメクジリ、又はマメクジラであり、中國では安藝の安佐郡北部なども、二つともにナマイクジリである。伊豆七島の神津島などでは、蝸牛の方言はカイナメラ、さうして蛞蝓の名はナメランジであつて、それがナメラ蟲から出たことは、相州の津久井又は媒ケ谷の山村に於て、後者をナメラ若くはナメラクジといふのからも類推せられる。如何なる事由に基づくかは知らず、伊豆海島の方言は、却つてやゝ相模の方に近いものが多い。是が行く行く又マイマイ小牛の名の起源の、曾てこの地方にも獨立してあつたことを、心付かせる端緒にならうも知れぬのである。ナメラ・ナメラックジの蛞蝓方言は、今尚横濱四周の海近くの村でも耳にすることがある。即ちマイマイツブロといふ蝸牛の名は、必ずしもさう古くから此の土地にあつたものと、考へることは出來ないのである。

[やぶちゃん注:「島原」津軽半島の根の五所川原の南に位置する青森県弘前市楢木島原を指すか。

「安佐郡」「あさ」と読み、現在の広島市の西部。旧高宮・沼田両郡が統合した旧郡名。

「カエンコ」文脈から言えば盛岡方言で角の意であろうが、現認出来ない。

「媒ケ谷」「すすがや」と読む。神奈川県北西の愛甲郡にあった村で、現在の愛甲郡清川村煤ヶ谷。]

 

 此等最も顯著なる五箇處の例の外に、尚この二つの動物の名が、曾て同じであつたといふ痕跡を、留めて居る土地は幾らもある。たとへば福島縣の石城郡で、蝸牛をツノベコのほかにカイナメクジといふのは、もと兩方ともにナメクジと呼ぶ習ひがあつた證據である。奧州南部領でも南端の遠野地方などは、蝸牛をヘビタマグリ又はタマクラといふ以外に、ナメクジラとも稱へて居て、しかも蛞蝓の方だけを差別してヤマヒルと謂ふ人が多いのである。方言は一つの土地に必ず一つしか無いものゝやうに、速斷して居る人には解しにくいことだらうが、言語は決して法令の如く、今日から別のものに改めるといふ區切りなどは立つものでは無い。寧ろ改まつて來たのは選擇があつたこと、即ち七分三分に併存したものゝ、二つ以上あつたといふことを推察せしめるのである。だからマイマイ領域の殆ど中心とも目せられた天龍川水域の兩側などにも、マメクジといふ語は相應に認められて居り、それを主として蝸牛の方に用ゐて、蛞蝓には別に名を付與した例さへ多いのである。たとへば遠州の掛川附近でオヒメサマまたはオジヨウロ、三河の長篠あたりでオンジヨロサマ、是が何れも蛞蝓の名であつた。これも別種の童詞を持ち、或はあの斑紋を伊達な衣裳、あの角を簪や笄に見立てたからでもあらうが、兎に角にさういふ名の入用になつた元はといふと、差別の必要、ことにマメクジといふ名を是非とも貝のある蝸牛の方に、持たせて置きたかつた希望からである。他に何等か今少し手輕な方法があるなら、それによつて差別しても良かつたのである。三河の南設樂郡及び尾張東春日井郡のある村では、マメクジといへば蝸牛、蛞蝓は之をメメクジと謂ふと、各々其郡誌には見えて居る。さうかと思ふと土地は忘れたが、ナメクジは蛞蝓のことであつて、マメクジは則蝸牛のことであると、教へてくれた人もあつた。併しさういふ紛れ易く移り易い二つの名を以て、最初から二者を差別したのでは無かつたらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「オジヨウロ」「オンジヨロサマ」改訂版では「オジョウロ」「オンジョロサマ」と表記。

「簪や笄」「簪(かんざし)や笄(かうがい(こうがい))」で、「笄」は元「髪搔(かみかき)」の転化した語とされ、本来は、結髪を整えるための道具として毛筋を立てたり、頭の痒いところをかいたりするために髪に挿した箸に似た細長い棒状のもので男女ともに用いた。象牙・銀などで作ったが、それが本邦の江戸時代には髷(まげ)などに挿すための、金・銀・鼈甲・水晶・瑪瑙などで作った女性用髪飾りの一つに変化したものである。現行では「笄」は広義の「簪」に含まれるようになってしまったが、本来の「笄」は昔の結髪の際、長い髪を巻きつけて固定させるために使用された、全くの棒状のもののみを指したのである。後にそれが装飾具へと変化し、江戸後期には「笄」の両端に装飾目的の「簪」をつけるようにり、江戸末期には「笄」本来の実用目的から離れて「簪」同様に「笄を」後差しするという純装飾具へと変化したのである(ここでは一部で katura_shige 氏のブログ「和装婚礼通信」の「簪・櫛・笄について調べてみました」を参考にさせて戴いた)。]

 

 或は又肥前の島原半島でも、深江といふ村などは蝸牛はナメクジ、蛞蝓はミナクジといふと報ぜられてゐる。今一度問ひたゞしてみたいと思ふわけは、これが逆さまであつたなら私などにはよく分かるので、一方は即ちミナナメクジ、蜷のあるナメクジと解せられるからである。それから尚一つ伊豆の八丈島で蛞蝓をダイロメ、對馬の豐崎村でも蛞蝓をダイリヨウといふのは、前に私の假定したダイロは貝から「出ろ」の意味だといふ説と、兩立せぬやうにも思はれるが、これもハダカダイロなどの元の意味を忘れ、ただその語の前半を省略したものと解すれば、格別の不思議は無いのである。蛞蝓を裸ダイロといふ例は、上州の邑樂郡又武藏の秩父郡にもある。安房では蝸牛が單にメャメャアであつて、蛞蝓の方はハダカメャメャアと謂つて居る。常陸の蛞蝓は小野氏の本草啓蒙に依れば、ハダカマイボロと呼ばれた土地もあるらしいが、近年下野河内郡の富屋村で採集した例では、これをナイボロまたはネヤポロと謂つて、たゞ蝸牛のみをダイロと謂つて居るとある。即ち玆も一つの邊疆であるが故に、一方は北から來た大勢に順應し、他方は即ち南隣の形を移したのである。ナイボロ・ネヤボロは前にも述べた如く、本來マイマイツブロの轉訛に過ぎなかつた。是も頭にハダカといふ語を附けなければ、蛞蝓の名になる筈は無いのであつた。しかも人は二者混亂の虞が無い限り、かゝる理由無き略稱にも從はうとしたのである。蛞蝓は又同じ下野でも芳賀郡などはエナシメ、常陸は西茨城郡其他でイナシと謂つて居る。話主は却つてもう忘れて居るか知らぬが、これは疑ひも無く「家無し蝸牛」の上略であつた。上總も西岸の舊望陀地方では、蝸牛はメエメツポで、蛞蝓はエーナシまたはイエナシである。或は又エーナシゲゲポといふ例もあることは、上總國誌稿に見えて居るが、ゲゲポは即ち亦一つ前の蝸牛の方言で、是はマイマイボウにデデムシの影響のあつた例だである。「家無し」といふ限定詞は此の如く、多くの蛞蝓方言の上に附けられたのであつた。美濃の舊方縣地方はデンデンムシ領であるが、玆でも蛞蝓はエナシと謂ひ、尾張の葉栗村はメエメエコウジの飛地であるが、玆でも亦其方をイエナシと謂つて居る。寛延年間の「尾張方言」にも、また蛞蝓をヤドナシといふ語が錄せられて居るのである。

[やぶちゃん注:「小野氏の本草啓蒙」江戸後期の享和三(一八〇三)年に刊行された本邦に於ける本格的な本草学研究書の一つである「本草綱目啓蒙」のこと。全四十八巻。本草学者小野蘭山(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年:二十五歳で京都丸太町に私塾衆芳軒を開塾、多くの門人を教え、七十一歳にして幕命により江戸に移って医学校教授方となった。享和元(一八〇一)年~文化二(一八〇五)年にかけ、諸国を巡って植物採集を行い、享和三(一八〇三)年七十五歳の時に自己の研究を纏めた「本草綱目啓蒙」を脱稿した。本草一八八二種を掲げた大著で三年かけて全四十八巻を刊行、日本最大の本草学書になった。衰退していた医学館薬品会を再興、栗本丹洲とともにその鑑定役ともなっており、親しい間柄であった。後にこの本を入手したシーボルトは、蘭山を『東洋のリンネ』と賞讃した。以上はウィキの「小野蘭山」に拠る)が、明の本草学者李時珍の著になる本草学の大著「本草綱目」について口授した「本草紀聞」を、孫と門人が整理したものである。引用に自説を加えて方言名なども記されてある。

「邑樂」は「おふら(おうら)」と読む。群馬県に現存する郡であり、所謂「平成の大合併」に於いても群馬県内の郡では唯一、全町が独立を保っている郡でもある。

「邑樂」は「おふら(おうら)」と読む。群馬県に現存する郡であり、所謂「平成の大合併」に於いても群馬県内の郡では唯一、全町が独立を保っている郡でもある。

「メャメャア」「ハダカメャメャア」は何故か改訂版では「メャメャ」「ハダカメャメャ」と表記を変えてある。

「下野河内郡の富屋村」現在の栃木県宇都宮市の富屋地区。現在の東北自動車道の日光道の分岐の宇都宮インター附近である。

「舊望陀地方」旧望陀郡(もうだぐん)。千葉県にあった郡で、小櫃川流域を中心とする地域。現在の袖ケ浦市全域及び、木更津市・君津市・鴨川市の各一部に相当する。

「メエメツポ」改訂版では「メェメッポ」。

「舊方縣地方」旧方県郡(かたがたぐん)域。同郡は美濃国にかつて存在した郡で現在は岐阜市の一部。

「尾張の葉栗村」旧葉栗(はぐり)郡葉栗村。現在の愛知県一宮市葉栗地区。

「メエメエコウジ」改訂版では「メェメェコウジ」。

「寛延年間」一七四八年から一七五〇年.

 

 ナメクジといふ語の初の半分が、あの粘液を意味して居たことは想像することが出來る。現に其異名を沖繩諸島ではアブラムシ・ヨダレムシ・ナメムシ等、近江の東部ではハナクレムシ、熊野の海岸ではヤネヒキ、大和の十津川ではヤネクヂラなどゝ謂つて居る。是がもし此蟲の第一の特徴であつたとすれば、蝸牛にもそれは共通のものであつた。だから鹿兒島縣の一地には、又ユダレクイミナ(涎くり蜷)の方言が行はれて居るのみならず、中部日本の蝸牛の童詞にも、火事があるから出て水をかけろだの、湯屋に喧嘩があるから棒を持つて出て來いだのといふ、をかしな文句が多いので、何れもその體がぬれぬれと滑らかなるを見て、興を催した結果に他ならぬと思ふが、しかも其ナメクジの本意が少しでも不可解になると、やがては次に生れたるマイマイの名と複合して、いつと無くマイマイ小牛の歌を生ずるに至つたのである。けだしナメムシ・ナメラといふ語の今でも各地にあるのを見ると、クジといふ下半分は後から附いたに相違ないが、其意味はなほ一段と察し難い。倭名鈔や本草和名などの古訓は奈女久知であつて、少なくとも記錄者は之を小牛や小蛆と認めなかつたのであるが、蛆をゴウジと謂ひ小牛をクウジといふ地方語も、相應に弘く分布して居たので、それを其積りで使用する風は、既にナメクジ共用の時代からあつたのかも知れない。角を面白がる小兒たちには、單なる有り來たりの音符號として、奈女久知のクチを取り扱ふことが出來なかつたのは自然である。さうして之を小牛の音の如く解したのは、必ずしもマイマイといふ新語の出現に伴なふことを要しなかつたらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「本草和名」「ほんざうわみやう(ほんぞうわみょう)」と読み、深根輔仁(ふかねすけひと)の著になる平安時代の本草書で二巻。延喜一八(九一八)年頃の成立で、本草約千二十五種の漢名に別名・出典・音注・産地を附して万葉仮名で和名を注記したものである。]

2015/09/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 再び京都にて(2)

 翌日は、日本有数の陶工の一人である永楽を訪問した。我々はここでも、他の製陶場に於ると同様、懇(ねんごろ)にもてなされた。挽茶と菓子とが供され、永楽は非常に注意深く私の質問に耳を傾けた後、彼が十三代目にあたるその家族の歴史をすっかり話して聞かせた。田原氏がこの会話――それは私の陶器紀要に出ることになっている――を記録している間に、私は我々のいる部屋を写生した。天井にはめた驚く可き四角い樫の鏡板は、私が見た物の中で最も美しいものであった。永楽の家で私は、壁土の興味ある取扱いに気がついた。それは、壁を塗るとすぐに、鉄の鑢屑(やすりくず)を吹きかける。するとこの粉末が酸化して、あたたかみを帯びた褐色を呈するのである。

[やぶちゃん注:「永楽」京焼の家元の一つで千家十職の一つ善五郎で、モースは第十三代と言っているが、良く分からないのだが、十三代は何故か、永樂回全と永樂曲全の二人がいる。二人して切磋琢磨したととある記事にはある。さて、この時、彼が逢ったのにはどちらだったのか。陶器には一向、心惹かれないし、どうもこの探索には触手が動かない。悪しからず。【二〇一五年九月二十八日追記】昨日、ここの部分を公開したところ、私の尊敬する「姐さん」より、

 モースが対面したのは十三代永樂曲全である

という御指摘を頂戴した。以下、メールを元にしつつ、ご紹介したい(誤解のないように申し上げておくが、「姐さん」というのは私の勝手な敬称であって、決して「その方面」のお方ではない)。下線は私、藪野直史が附した。

   *

 永楽さんは確かに十一代保全さんによる十三代回全さんの養子縁組の件によって、十二代和全さん(保全さんの実子)と十三代回全さんとの間で不和が生じているようです。また、もう一人の十三代曲全さんも十一代保全さんの養子(「養われ」と表現)であったようです。曲全さんについては、保全さん及び和全さんに仕えて永楽家に尽力し、回全さんとともに十三代を名乗ったとあるだけで他の永楽さんに比べて、サラッとしすぎて、よくわかりません

 さて、それではモースさんがその十三代のどちらに会ったのかといえば、これは結論から言うと十三代曲全さんだと思います。なぜなら、

 

十三代回全さんの方はモースさんが京都に来た明治一五(一八八二)年には既に物故しているからです。

 

[藪野直史注:以下には姐さんよりお教え頂いた福岡県北九州市小倉北区魚町の「天平堂古美術店」公式サイト内の永樂善五郎を元にしたと思われる善五郎の十代以降の事蹟が綴られているが、ここではそこから、二人の十三代目永樂善五郎の生没年と簡単な事蹟のみを示す。しかし、リンク先を読んで戴ければお分かりになるように、姐さんが仰る通り、そこには各人の「何か」感情的な錯綜がある。それは詳細を極めるリンク先の叙述の字背にあって、我々の推理を、何処かで拒むような人間の愛憎が潜んでいるように私には思われてならない。]

 

○十三代永樂善五郎(回全) 天保五(一八三四)年~明治九(一八七六)年

    塗師佐野長寛次男。十一代永樂善五郎(保全)の養子。

    姓を佐野(後に永樂)・西村(分家後)。

    名は善次郎・宗三郎。

    弘化四(一八四七)年頃、十一代永樂善五郎保全の養子となる

    嘉永二(一八四九)年に、十二代永樂善五郎和全の養子となる

    後に分家して西村宗三郎と名乗る。

    保全の代作や箱書の代筆、和全とともに御室窯や九谷焼の改良に従事する。

    十四代永樂善五郎(得全)を補佐し、永樂家に尽力する。

    その功により藤助(曲全)とともに十三代を名乗った。

○十三代永樂善五郎(曲全) 文政二(一八一九)年~明治一六(一八八三)年

    幼少の頃より十一代永樂善五郎(保全)に養われる

    保全とともに十二代永樂善五郎(和全)に仕える

    名は藤助。

    和全とともに御室窯や九谷焼の改良に従事する。

    永樂家に尽力する。

    その功により宗三郎(回全)とともに十三代を名乗った。

 

 なにがあったのでしょう?

 この事蹟から読み取れるのは、和全さんは、保全さんが回全さんを養子にすることで、保全さんと不和が生じたらしいということです。

 が、その二年後に和全さんは回全さんを自分の正式な養子にすることで表面上は解決したと読み取れます。

 自分の父保全さんが養子にした回全さんを二年後に自分の養子にするというのは、よくよくの事情があったのかも知れません。

 さて、モースさんが十三代永樂善五郎曲全さんに会ったのが、明治一五(一八八二)年の夏ですから、十二代和全さんも健在、既に襲名していた十四代得全さんはといえば、これ、二十九歳の働き盛り……恐らくは同じ家の屋根の下で創作する十三代曲全さん……保全さんや回全さんはともに既に亡くなっていたとはいえ……曲全さんは保全さんの養子でありましたから、これ、立場は実に微妙だったではありますまいか……モースさんの「陶器紀要」なるものが手に入れば、もう少し事情が飲み込めるのかも知れません。

   *

全く以って――目から鱗――とはこのことである。姐さんに心より感謝申し上げるものである。]

 

 永楽から我々は、もう一つ別の清水の陶工蔵六を訪れたが、ここで私ははじめて、仁清(にんせい)、朝日その他の有名な陶器の贋物が、どこで出来るかを発見した。この件に関する不思議な点は、蔵六と彼の弟とが、自分等が贋物をつくつていることを、一向に恥しがらぬらしいことである。彼等は父親の細工を見せたが、その中には仁清の記号をつけた茶碗がいくつか入っていた!

[やぶちゃん注:これ、何か、とんでもないことが書いてある! 注を憚る!

「蔵六」二代目真清水蔵六(ましみずぞうろく 万延二・文久元(一八六一)年~昭和一一(一九三六)年)かと思われる。思文閣の「美術人名辞典」によれば、『陶工。初代蔵六の長男。京都の人。幼名は寿太郎、名は春太郎、号を春泉・泥中庵。国内はもとより中国・朝鮮にも渡って調査研究を重ね、京都山科に開窯、のち西山の松尾村で製作した。古陶の鑑識に優れ、『陶寄』『古陶録』等の著がある』とある。

「仁清」野々村仁清(ののむらにんせい 生没年不詳)は江戸前期の陶工。ウィキの「野々村仁清」によれば、『京焼色絵陶器を完成と言われている。丹波国桑田郡野々村(現在の京都府南丹市美山町大野)の生まれ。若い頃は粟田口や瀬戸で陶芸の修業をしたといわれ、のち京都に戻り』、正保年間(一六四四年~一六四八年)頃、『仁和寺の門前に御室窯(おむろがま)を開いた』。『中世以前の陶工は無名の職人にすぎなかったが、仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺し、これが自分の作品であることを宣言した。そうした意味で、仁清は近代的な意味での「作家」「芸術家」としての意識をもった最初期の陶工であるといえよう。仁清の号は、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」の字を一字取り門跡より拝領したと伝えられている。仁清は特に轆轤(ろくろ)の技に優れたと言われ、現存する茶壺などを見ても、大振りの作品を破綻なく均一な薄さに挽きあげる轆轤技には感嘆させられる。また、有名な「色絵雉香炉」や「法螺貝形香炉」のような彫塑的な作品にも優れている。現存する仁清作の茶壺は、立体的な器面という画面を生かし、金彩・銀彩を交えた色絵で華麗な絵画的装飾を施している』とある。

「朝日」京都府宇治市で焼かれる陶器朝日焼のことか。『江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられた』。『朝日焼という名前の由来については、朝日山という山の麓で窯が開かれていたという説と、朝日焼独特の赤い斑点(御本手)が旭光を思わせるという説がある』。『宇治地方は古くから良質の粘土が採れ、須恵器などを焼いていた窯場跡が見られていた。室町時代、朝日焼が興る前には、経歴も全く不詳な宇治焼という焼き物が焼かれ、今も名器だけが残されている』。『今日、最古の朝日焼の刻印があるのは慶長年間のものである。しかし、桃山時代には茶の湯が興隆したため、初代、奥村次郎衛門藤作が太閤豊臣秀吉より絶賛され、陶作と名を改めたというエピソードも残っていることから、当時から朝日焼は高い評判を得ていたことになる。後に二代目陶作の頃、小堀遠江守政一(小堀遠州)が朝日焼を庇護、そして指導したため、名を一躍高めることとなった。同時に遠州は朝日焼の窯場で数多くの名器を生み出している』。『三代目陶作の頃になると、茶の湯が一般武士から堂上、公家、町衆に広まっていき、宇治茶栽培もますます盛んになり、宇治茶は高値で取引されるようになった。それに並行して朝日焼も隆盛を極め、宇治茶の志向に合わせて、高級な茶器を中心に焼かれるようになっていった』。『朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴である。そして、それぞれの特徴によって呼び名が決まっている』とウィキの「朝日焼にはある。

【二〇一五年九月二十八日追記】これについても先の「姐さん」から読んで『想像』しましたというメールを頂戴した。以下に藪野直史が少し手を加えて示す。

   *

 永楽さんの後に訪れた蔵六さんのところで、「仁清」の贋作があったとのことですが、実は、永楽(西村)さんは代々、土風炉(どぶろ/とふと)を作ってきましたが、十一代保全さんは文化一四(一八一七)年の二十二歳頃であったか、三井家の秘蔵の名品の見たことを契機として、そうした名品の「写し」を制作するようになったようです。色々なところに出かけては、古物の作風の技術を習得していったようです。同時期以降の永楽さんも「仁清」の「写し」などをよくしていたようです。

 で、どうして「写し」を作るようになったかということですが、ここからは私の想像なのですが……

本物は隠しておいて、茶会などには、「写し」を出すのがごく当たり前のことだったのでは

……と思うのです。

……どこかで聞いた話ですけれども……ティファニーなどの高級な宝石店の宝石(ネックレスや指輪)は、すぐ目の前に全く同じデザインの贋物を売っている店があって、本物を買った人は必ず、贋物も買っていく……ということです。

 本物は滅多なことで、出さないということなんでしょうね。

 で、永楽さんも、蔵六さんも、本物を持っている大名に請われて、如何に本物と比べてみても分からぬような贋作を作るか……寧ろ、それが、大名にとっても、陶工にとってもステータスみたいになっていたのでは……と思うのです。

 そのために、窯を開いたり、育成したり……これはまた……贅沢なことですね……う~~む?……果たして、本当にそうだったのでしょうか?……加藤唐九郎さんの「仁清の壷」を思い出しました(^^)

   *

これもまたしても目から鱗! まさしく! 陶磁器は奥が深い!]

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(5) 五 背骨の出來ること / 第十四章~了

     五 背骨の出來ること

 

 人間を始めすべて獸類・鳥類・龜・蛇・蛙など所謂脊椎動物の特徴は身體の中軸に背骨を有することであるが、この背骨なるものは勿論、初から已にあるわけではなく、發生の進むに隨うて次第に出來て行くものである。しかもその出來始めは決して硬骨ではなく、軟骨よりもさらに軟い一種特別の組織から造られ、背骨に見る如き節は一つもなくて、單に一本の索に過ぎぬ。これが後に至つて軟骨となり、更に硬骨となつて、終に成長し終つた姿の背骨となるのであるが、今了解を容易くするため、まづ「なめくぢうを」に就いて背骨の出來始まる具合を説明し、續いて人間の背骨の發生を極めて簡單に述べて見よう。骨格の發生などといふことは、實は一般の讀者には無味乾燥で、定めて讀み苦しいことであらうとは思ふが、背骨は人間をも含む最高動物類の著しい特徴であるから、その始め如何にして生ずるかを知つて置くことは、考へやうによつてはやはり人生を觀る時の重要な參考とならぬとも限らぬ。
 
 

Namekujiuosekisaku

[「なめくぢうを」の脊索の發生]

 

 こゝに掲げた圖は、いづれも「なめくぢうを」の發生中の幼魚の横斷面を示したものである。鯉や「ふな」を輪切にした切口に比べて考へたならば、およその見當は附くであらうが、圖の上部は魚の背面、圖の下部は魚の腹面、圖の横側は魚の側面に當る。小さな幼魚の斷面を四百倍以上に廓大した圖であるから、一個一個の細胞の境が明に見えて居る。この四個の横斷面は各々少しづ生長の程度の異なつた幼魚から取つたもので、㈠は卵から孵つたばかりのもの、㈡はそれより稍々後のもの、㈢はなほ少しく後のもの、㈣は更に發生の進んだものであるから、この四圖を順々に比べて見れば、その間に起る構造上の變化が一目して知れる。體の表面を包む細胞の層は皮膚であるが、圖ではこれが黑く畫いてある。背側の皮膚の下に同じく黑い細胞の列があるが、これは脊髓の出來掛りで、後に神經系の中央部となるベきものである。また腹側の皮膚の直下にあつて、體内の大部分を占めて居るのは腸の切口である。これだけは四圖ともにほゞ同樣であるが、脊髓と腸との間に當る處が圖によつて少しづつ違ふ。その中、體の中央線のところに起る變化が、今より説かうとする背骨の出來始まりであつて、その左右兩側に見える變化は前の節に述べた體腔の出來始まるところである。體腔の出來方は簡單ながら既に述べたからこゝには略して、背骨の出來始まる具合だけを見るに、初め何もなかつた腸の背側にまづ細い縱溝が生じ、次に溝の空隙は消えて溝の兩側にあつた細胞の竝び方が少しく變り、後にはこれらの細胞だけで獨立の棒となり、腸とは別れて脊髓と腸との間に位するやうになる。いふまでもなく、横斷部ではすべて切口だけが現はれるから、溝は凹みの如くに見え、棒は圓形に見える。即ち㈡の圖で腸の背部に下より上に向つて割れ目の見えるのは縱溝である。㈢の圖ではこの溝が已になくなり、㈣の圖では脊髓と腸の間に楕円形のものが見えるが、これは腸から別れて獨立した棒の切口である。この棒は「なめくぢうを」では生涯身體の中軸を成し、他の動物の背骨に相當するが、骨にもならず軟骨にもならぬから、たゞ脊索と名づける。

[やぶちゃん注:「四百倍以上」講談社学術文庫版では「三百二十倍以上」となっている。ここではよく観察出来る後者の図を用いたが、当該図を実際の講談社版の図よりも、二倍近くにしてあるので、六百四十倍以上で読み換えて戴きたい。また、図中の丸括弧数字は講談社の編集権を阻害しないようにするために、私が新たに配したものであることをお断りしておく。]

 

 人間の胎兒に於ても背骨は發生の途中に突然背骨として生ずるわけではなく、まづ始は、脊索が出來る。そしてその出來始まる具合は、「なめくぢうを」に就いて述べた所と同じく、腸壁の中央線に當る細胞が腸から別れ、獨立して一本の棒となるのである。第十三日位の胎兒では腸の壁はまだ平で、脊索の出來掛りも見えぬが、その頃から追々出來始めて忽ち身體の中軸を貫いた一本の棒となり、この棒の周圍に軟骨が生じ、背骨の發育が進むに隨うて内なる棒即ち脊索は次第次第にその量が減ずる。脊索は單に紐狀のもので節は全くないが、これを包む軟骨には初から多くの節があつて背骨と同じ形に出來る。一箇月半頃までは胎兒の骨骼は全部軟骨のみからなつて居るが、七週位になると背骨の軟骨各片の中央に一つづつ小さな點が現れ、この處から漸々硬い骨に變化し始める。軟骨は葛餅程に透明なものであるが、硬骨は石灰質を含んだ白色不透明なもの故、軟骨内に化骨した處が出來れば頗る明瞭に知れる。特に近來のエックス光線で寫眞にでも取れば硬骨だけは明に暗い影となつて寫る。一旦化骨し始めると、段々硬骨の部が大きくなり軟骨の部はそれだけ減ずるから、その割合を見て胎兒の月齡を鑑定することも出來る。生まれる頃になつても、なほ軟骨のまゝに殘つて居る處は幾らもある。

 

 かくの如く人間の胎兒ではまづ脊索が出來、次に脊索が軟骨の背骨と入れ代り、次に軟骨が漸々硬骨化して成人に見る如き硬い背骨が出來上がるのであるが、脊椎動物を見渡すと、これらの階段に相當する種類がそれぞれある。即ち「なめくぢうを」は一生涯脊索を有するだけでそれ以上に進まず、「やつめうなぎ」は一生涯脊索を具へて居るが、その外に少しく軟骨の部分があり、「さめ」・「あかえひ」の類は全身の骨骼が一生涯軟骨で止まるから、この類を特に軟骨魚類と名づける。「あかえひ」の骨は日本でも肉と共に食ふが、「さめ」の軟骨は「明骨」と稱へて支那料理では上等の御馳走に使ふ。その他の脊椎動物では骨骼は必ず硬骨と軟骨との兩方から成り立つて居る。

[やぶちゃん注:「明骨」「めいこつ」と読み、「名骨」とも書く。国語辞典にちゃんとサメ・エイやマンボウなどの軟骨を煮て干した食品で中国料理の材料、と記されてある。講談社学術文庫版では『「明骨」と稱へて』の部分が何故か、カットされており、言わずもがなであるが、『支那料理』は『中国料理』に書き換えられてある。]

 

 以上本章に於て述べた所を振り返つて見ると、人間の個體としての發生の始は極めて微細な簡單なもので、まづ最初には「アメーバ」の如き單細胞の時代があり、次に同じ細胞の集まつた原始蟲類の群體の如き時代があり、次に「ヒドラ」・珊瑚などの如き時代があり、次に「みみず」の如き時代があり、それから「なめくぢうを」の如き時代、「やつめうなぎ」の如き時代、「さめ」の如き時代などを順々に經過して、終に獸らしい形狀・構造を有するに至るのである。これだけは實物に就いて調べれば直接に目の前に見られる事實で、決して疑を挿み得べき性質のものでない。しかし母の體に硝子の如き透明な窓があつたならば、これだけのことは何人の發生にも見えた筈のことで、王樣でも乞食でも西洋人でも黑奴でもこの點は少しも相違はない。およそ何ものでもその眞の性質・價値等を正當に了解するには、初めて生じた時から今日に至るまでの經過を參考することが極めて必要で、もしもこれを怠り、たゞ出來上がつた姿のみに就いて判斷すると隨分誤つた考を生ぜぬとも限らぬ。近頃は「生」を論ずることが頗る流行するやうに見受けるが、人間に就いても、その出來上がつたもののみを見るに止めず、その單細胞であつた頃までも考に入れて、「みみず」時代には如何、「なめくぢうを」時代には如何といふやうな問を設けて見たならば、或は議論の立て方にも感情の程度にも、大に變はることもあるであらう。

[やぶちゃん注:丘先生のヒューマニズムが炸裂している感じがして、思わず、私は呻ってしまったところである。素晴らしい。なお、学術文庫版では『黑奴』は『黒人』に書き換えられている。]

『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社

    ●御靈社

御靈(ごりやうの)社は。長谷寺の西南一丁許の處に在り。鎌倉權五郞平景政の靈を祀る。社前に朽木の幹のみ殘れるありて。此にしめ繩をかけたり。景政か當時弓を立掛し木なりといふ。保元物語に云。後三年の合戰に鳥海城を落されし時。生年十六歲にて。左の眼を射られ。其の矢を拔かすして。答(たふ)の失を射て敵(てき)を殺し。名を後代に輝しめし神と祀れ侍る。東鑑に云。元曆二年八月廿七日御靈宮鳴動依ㇾ之兵衛佐殿御參詣有ㇾ之御神樂神拜有り。建久五年正月御靈祀へ奉幣。八田知家御使と。かゝれは其の祀祭はふるき事としられたり。又神社考(じんじやかう)に今世患目疾者祈此社有ㇾ效云とあり。

[やぶちゃん注:恐るべき剛腕の武士が御霊(ごりょう)となった私の偏愛する神社であればこそ、まず「新編鎌倉志卷之五」の「御靈宮」を私の注ごと引いておく。

   *

〇御靈宮 御靈宮(ごりやうのみや)は、長谷村より西南の方にあり。鎌倉權五郞(かまくらごんごらう)平の景政(かげまさ)が祠なり。景政が事、【奧羽軍記】に詳かなり。【東鑑】に、建久五年正月、御靈社御奉幣、八田知家(はつたともい)へ御使(つかひ)たり。御靈の社の事、往々見へたり。【保元物語】に、後三年の御合戰に、鳥海城(とりのうみのしろ)を落されし時、生年十六歲にて、左の眼(まなこ)をいさせて、其の矢を拔かずして、荅(たふ)の矢を射て敵を打ち、名を後代に揚げ、今は神(かみ)といははれたる、鎌倉權五郞景政とあり。神主は、小坂氏(こさかうぢ)なり。景政が家臣の末(すへ)也と云ふ。梶原村(かじはらむら)にも、御靈の宮あり。里老の云、當社は、本(もと)梶原村に有りしを、後(のち)に此の地にも勸請す。故に今祭禮の時は、彼の所の神主、出で合ふて事勤むると也。

[やぶちゃん注:「鳥海城」鳥海柵(とりのみのき:現在の岩手県江刺郡金ヶ崎)。安倍氏大将安倍頼時が戦死した後三年の役の緒戦の戦場。

 本項に被差別民であった非人に関わる伝承を持った面掛行列(はらみっと行列)の記載がないのは残念であるが、これは明治の神仏分離令までこの行列が鶴岡八幡宮放生会(八月十五日)で行われていたからであろう。「新編鎌倉志」の大きな弱点は即物的な地誌については微細に網羅しながら、それぞれの社寺での祭礼行事に対する洞察はかなり杜撰である点にある。但し、これは伝統的な地誌に於いては止むを得ないものであろう。祭祀の持つ無形性の核心部分は当時の地誌の記述対象ではなかったからである。なお、文中には梶原の御霊神社が本来の祭祀の場であり、後にここに分祀したという古老の話を載せるが、これは私には信じ難い。但し、ここで神主が祭儀に際して出張して来るという事実の記載は見逃せない。何らかの江戸時代の鎌倉の氏子支配構造や、鎌倉に於ける被差別民の歴史と関係がありそうである。御霊社は全国に数多くあり、ある時、ある人物の御霊信仰が爆発的に伝染し、各地に共時的に祭祀が分立したと考える方が自然な気が私にはするが如何か。梶原にある御霊神社は梶原景時の屋敷跡が同地に比定されることから、同じ鎌倉平氏である勇猛な武将鎌倉権五郎景政を氏族の祖神として祀ったと考えてよい。現在、この坂ノ下の御霊神社の方は、それ以前の平安後期の建立と推定されており、御霊は実は五霊で関東平氏五家の鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭各氏の祖霊を祀った神社が元であったとされている。それが後の御霊信仰の伝播に伴い、鎌倉権五郎景政の一柱となったと考えられているのである。因みに、私はこの神社が大好きである。御霊信仰に纏わるそのルーツの伝承から、力石伝説、江戸時代の滝沢馬琴の長男にして幕府医員であった種継に纏わる父馬琴の涙ぐましい息子の売り込みを感じさせる某人失明事件解明のエピソード、更に国木田独歩が棲んだ近代文学の足跡に至るまで、この神社で語れることは尽きないからである。もう、何年も行っていないな……]

   *

「一丁」百九メートル。

「鎌倉權五郞平景政」(延久元(一〇六九)年~?)は平安後期の猛勇無双の武将。ウィキ鎌倉景政より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。通称は権五郎。名は景正とも書く』。『父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる』。『十六歳の頃、後三年の役(一〇八三年~一〇八七年)に従軍した景政が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」』(「めふき」と読む)『の地名が残されている(現在の千葉県野田市)』。『長治年間(一一〇四年~一一〇六年)相模国高座郡大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市周辺)を開発して、永久四年(一一一六年)頃伊勢神宮に寄進している』。『子の景継は、長承四年(一一三四年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和二年(一一八二年)二月八日条には、その孫として長江義景の名が記されている』。『なお明治二十八年(一八九五年)に九代目市川團十郎によって現行の型が完成された『歌舞伎十八番之内暫』では、それまでは単に「暫」とだけ通称されていた主役が「鎌倉権五郎景政」と定められている。ただし、実在の鎌倉景政からはその名を借りるのみであることは言うまでもない』。『「尊卑分脈」による系譜では、景政を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の四世孫とし、大庭景義・景親・梶原景時らはいずれも景政の三世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景政は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景政の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする』。『景政の登場する系図は三種類あり、内二種類では香川氏や大庭氏、梶原氏などは景政の兄弟もしくは従兄弟に連なる家系としており、確かなことは判らない』とする。『横浜市内の旧鎌倉郡にあたる地域(現在の栄区・戸塚区・泉区・瀬谷区)に多く存在する御霊神社は概ね景政を祀っており、そのほか各地にも景政を祀る神社がある』とある。ともかく私は荒ぶる御霊となった彼がむちゃくちゃに好きなのである。

「元曆二年」一一八五年。

「建久五年」一一九四年。

「八田知家」(康治元(一一四二)年~建保六(一二一八)年)は鎌倉幕府御家人。保元の乱で源義朝に就き、頼朝挙兵でも早期に参じて範頼の平氏追討軍に従軍した。頼朝没後、将軍頼家の専横を抑えるために幕府内に作られた十三人合議制(後に評定衆に発展解消)の一人。

「神社考」「本朝神社考」のことであろう。江戸初期の朱子学派の儒学者で林家始祖である林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の儒教神道の主著で六巻から成る(成立年は未詳)。「古事記」「日本書紀」「延喜式」「神皇正統記」などの国史に徴して諸国の神社の源流を考証し、併せて霊異方術などにも触れている。「神儒合一」の理を説き、神仏の習合を非難した書として知られる(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「今世患目疾者祈此社有ㇾ效云」「今の世、目疾(もくしつ)を患ふ者、此の社に祈れば效(かう)有りと云ふ」と読む。]

『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 長谷寺

    ●長谷寺

長谷寺觀世音堂は。長谷町の極端(つきあたり)になり。背に觀音山を負ひ。眺望絕佳にして。由井ケ濱一帶脚下に横(よこたは)れり。門に海光山の額を掲(かゝ)く、長谷寺子純の筆なり。右に方丈あり。石階を登りて曲折し。堂前に達す。鐘樓あり。文永元年甲子七月の銘を刻す。斷崖には石の玉垣を設く茶亭あり客を待するの旁(かたは)ら寫眞額等を鬻(ひさ)く。

觀音堂は。草葺にして。間口十間。觀音扉を附す。紫地(むらさきぢ)に卍字(まんじ)を白記(はくき)したる幕を掛く。左右に新製(しんせい)の水盤を列せり。但し本尊は十一面觀世音なり。常に鎖(とざ)して縱謁を許さす。左に竇あり。傴して入れは觀音の像を安置す。長二丈六尺六寸。龕中又た闇(くら)し。導僧轆轤長絙を以て燭籠(しよくらう)を引上け。其面を照す。益(けだ)し燭の上下に緣て。彷彿全身を見るを得。此本尊は大和國長谷の觀世音と同木の楠にて。大和は木の本。此は木の末といふ。阪東(ばんどう)巡禮所第四番なり。創建は天平八年なりといふ。堂内に如意輪〔安阿彌作〕勢至〔仝〕聖德太子〔作者不知〕。並に大和國長谷開山德道上人〔自作〕等の像を安置す。每年六月十七日は。當寺の法會(ほふゑ)にて。遠近(をちこち)の貴賤こゝに群參す。鶴岡一の鳥居より凡そ十八町。

見存の觀音堂は正保二年に建(たつ)る所。今證左(しようさ)として其棟札を載す。

[やぶちゃん注:以下の新棟札は底本では全体が一字下げ。]

當寺者。觀音竪座之靈塲。威力自在之効驗。擧ㇾ世皆崇信之。雖ㇾ然大破年久不ㇾ能ㇾ興焉。方今爲武門永昌闔國治平之祈念。入圓通之境。開普門之道。乃使巧匠終土木之功。而所經營造替也。相摸州鎌倉長谷觀音堂。正保二年乙酉月日、若狹國主從四位上左近衛少將兼讃岐守源朝臣忠勝。奉行成田助右衛門尉。飯田新兵衛尉。大工桐山源四郞。

舊棟札は本寺光明寺に在り。此に據れば。慶長十二年七月に建てしと明かなり。其間卅九年を經たり。舊棟札の文は左の如し。

[やぶちゃん注:以下旧棟札は底本では全体が一字下げ。]

大日本國相摸州小坂郡鎌倉府海光山長谷寺。荒廢七零八落年久矣。於ㇾ玆征夷大將軍源朝臣家康修造再興。上棟不ㇾ日而成就。豈不觀音方便乎。伏願官門長保南山壽。久爲北闕尊。次冀佛法紹盛。的々相承億萬年。維時慶長十二年丁未七月十二日。大工吉野九郎右衛門。棟梁增田四郞左衛門尉。造營奉行石川吉兵衛尉。代官深津八九郞貞久。奉行伊奈備前守忠次。別當春宗敬白。

裏書

福山寶珠菴元英祥珪書焉。

[やぶちゃん注:「子純」「新編鎌倉志卷之二」の「杉本寺」の条に『子純は建長寺第百五十九世。子純和尚、諱は得公歟』とある。

「文永元年」一二六四年。

「十間」十八・一八メートル。

「二丈六尺六寸」八・〇六メートル。これは珍しく少な目。現在は九・一八メートルと公称する。本邦でも最大級の木彫仏である。

「轆轤長絙」「轆轤」は「ろくろ」でこの場合は滑車のこと、「長絙」は「ちやうくわん(とうかん)」と読んでいるか。長い組紐のこと。これは是非、私の電子テクスト小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)をお読みあれ! 決して失望させませぬから!

「緣て」「よりて」と訓じていよう。

「天平八年」七三六年。

「德道上人」(斉明天皇二(六五六)年〜天平七(七三五)年)は、道明上人の弟子で、二人共に奈良長谷寺の開山と伝えられる真言僧。因みに長谷寺は、江戸初期の慶長十二(一六〇七)年の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗して、現在に至っている。

「鶴が岡一の鳥居より十八町許あり」「十八町」一・九六キロメートル。現在の一の鳥居を由比ヶ浜方向へ南下して、簡易裁判所の先を右に折れて真っ直ぐに、和田塚入口を抜けて由比ヶ浜通りに出て西行するコースをとっても一・六キロメートルほどしかないから不審に思われるかも知れない。これこそ、新編鎌倉の無批判な引き写しによる大変な誤りなのである。何故なら、この「新編鎌倉志」の時代の鎌倉の「一の鳥居」は現在の「三の鳥居」と呼称されている一番八幡宮に近い入口の鳥居を指しているからである。江戸時代と近代以降では呼び方が異なるのである。それを知らずに、この愚かな記者はそのままやらかしてしまった。観光ガイドブックとしては、いや、ジャーナリストとしては最早、致命的である。

「見存」見慣れぬ熟語である。現存の誤植か? 但し、「現存」という語はここまで記者は使用していないと思う。「けんぞん」或いは「見存(みあ)る」で、現に存して見るところの、の意か?

「正保二年」一六四五年。

「棟札」以下は、恐らく「新編鎌倉志卷之の「長谷寺」(或いはやはりその引き写しの「新編相模国風土記稿」)を引き写したものと思われる。されば私も私のそれから私の訓読文を含めて引き写す。

   *

 棟 札

當寺者、觀音竪座之靈場、威力自在之効驗、擧世皆崇信之、雖然、大破年久、不能興焉、方今爲武門永昌、闔國治平之祈念、入圓通之境、開普門之道、乃使巧匠終土木之功、而所經營造替也、相模州鎌倉長谷觀音堂、正保二年乙酉、月日、若狹國主、從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝、奉行成田助右衞門尉、飯田新兵衞尉、大工桐山源四郞。

今の棟札なり。昔の棟札の寫し、光明寺にあり。其の文、左のごとし。

大日本國相模州、小坂郡、鎌倉府、海光山長谷寺、荒廢七零八落年久矣、於茲征夷大將軍源朝臣家康、修造再興、上棟不日而成就、豈不觀音方便乎、伏願、官門長保南山壽、久爲北闕尊、次冀佛法紹盛、的々相承、億萬年、維旹慶長十二年丁未七月十二日、大工吉野九郞右衞門尉、棟梁增田四郞左衞門尉、造營奉行石川吉兵衞尉、代官深津八九郞貞久、奉行伊奈備前守忠次、別當春宗、敬白、裡書、福山寶珠菴元英祥

《今の棟札》

  棟 札

當寺は、觀音竪座の靈場、威力自在の効驗、世を擧げて皆、之を崇信す。然ると雖ども、大破年久しく、焉を興すこと能はず、方に今、武門永昌、闔國治平の祈念の爲めに、圓通の境に入り、普門の道を開く。乃ち巧匠をして土木の功を終へしめて、經營造替する所なり。相模の州鎌倉長谷觀音堂 正保二年乙酉 月日 若狹の國主 從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝タヾカツ 奉行成田助右衞門の尉 飯田新兵衞の尉 大工桐山源四郞

「闔國」は「かふこく(こうこく)」と読み、国中残る隈なく、の意。「正保二年」西暦一六四五年。「從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝」は酒井忠勝(天正十五(一五八七)年~寛文二(一六六二)年)のこと。武蔵川越藩第二代藩主・若狭小浜藩初代藩主。第三代将軍徳川家光及び次代将軍家綱の老中・大老であった。

《昔の棟札》

  棟 札

大日本國相模の州、小坂の郡鎌倉府、海光山長谷寺、荒廢七零八落年久し。茲に於いて征夷大將軍源朝臣家康、修造再興す。上棟、日あらずして成就す。豈に觀音の方便ならずや。伏して願はくは、官門長く南山の壽を保ち、久しく北闕の尊と爲らんことを。次に冀はくは佛法紹盛、的々相承、億萬年、維旹(これとき)慶長十二年丁未七月十二日 大工吉野九郞右衞門の尉 棟梁增田四郞左衞門の尉 造營奉行石川吉兵衞の尉、代官深津八九郞貞久(さだひさ) 奉行伊奈(いな)の備前の守忠次(ただつぐ) 別當春宗 敬して白(いは)く

裡書(うらがき)

福山寶珠菴元英祥珪書す

「北闕」は宮中の北の門を言う。帝の北の守りの意。「維旹」は『このこと、時に』の意である。「裡書」の部分は編者によるものであろうと思われる。]

鐘樓 鐘の銘あり。如左(左のごとし)。

   *]

【2016年1月12日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

 

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山本松谷「鎌倉江島名所圖會」挿絵 長谷寺の図(見開き)

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)の挿絵八枚目。上部欄外中央に「鎌倉長谷寺の圖」と手書き文字でキャプションが記されてある(二枚目を参照)。私のスキャン機器のサイズの関係上、一枚目の全体図(ファイル名:ke hase)は右の母子の食事の景の方を重視して、左側を三センチメートル分、カットしてある(合成縮小しないのは私のフォト・ソフトと未熟な技術では必ずしも上手くいかないためである)。但し、左側の西瓜売りの嫗(おうな)と西瓜を食って床几でごろ寝をしている男(食った西瓜の皮らしいものが柱の蔭に見える)、中景の棟にとまる鴉と、その向うの藁葺屋根の上を飛ぶ鴉も、登場させないのは惜しいので底本図の左三分の二を二枚目として掲げた(こちらはコントラスト補正を加えていない)。

 明治期の観光地の古写真は人物が写り込んでいる場合、まず、絶対非演出の絶対リアリズムにはならない(それは現在の写真術の主義主張とは異なり、専ら屋外撮影では時間がかかってしかも静止を促した結果上、仕方がない)。

 ところが、この絵(鉛筆スケッチを元にした石板画)は、描かれる人物が誰一人として画家の眼を意識していない。

 しかも左右の屋内が、自然な形で透視描写とされていて、往時の庶民の日常がごく自然に見てとれるようになっている。

 そもそもこの一点透視画法の図絵は消失点である標題主題の長谷寺を鑑賞者は見ようとしない

 寧ろ、子細に描き込まれた、箱膳の食事風景、そこで子に飯をよそう母、子どもの引き馬の遊具(これは手製とも思えぬ。この物売り屋は廂に蜘蛛の巣がかかって、子沢山(三人を数える)だが、長谷寺の門前町の中では案外に繁昌していることが窺える)、犬相撲をしかけ合う子ら、車乗りの足萎え(こういう差別された賤民の風俗は写真に残されているものが案外に少ないし、今時のTVドラマなどでは自主規制放送コードでまず演出されない。我々が時代劇や近代ドラマで見る市井の沿道は、薬剤の臭いがプンプンするほどテツテ的に漂泊されてしまっている)、天秤棒を担いだ魚屋(鎌倉自慢の鰹でも運ぶものか)、悪戯鴉に石を投げようとしているでもするかのような少年(もしかすると鴉は一羽で、少年の投げた石で驚いて、棟の上の鴉が飛び立ったのが、実は左上の鴉ででもあるところの、異時空同一画面表現なのかも知れぬ)、菰(こも)掛けの馬を引く馬博労(ばくろう)が自分とそして恐らくは相方の馬にも分けてやる(しかし皮の部分)ために瓜(西瓜は奥左端に見える。店頭のそれは楕円の形上からして真桑瓜の類いであろう)を買い求めるさまなどなどを、鑑賞者は楽しむのである。いや。或いは、目には見えぬ中央の甍の中にある長谷観音の母のような広大無辺な慈悲の眼差しが、あまねく、しかも等しく、この市井のありとある衆生の上に注がれてでもいるかのようにも私には感ぜられるのである。

 因みに、これを私の持つ、幕末と明治二〇年代の長谷門前町の本絵とほぼ同じフレーム(二枚とももう少しフレーム・イン気味)の写真と比較してみたが、左右の藁葺屋根の形状と非常によく一致していることが判る。本図は確かなロケハンが行われた、しかも写真では決して撮ることの不可能な稀有のスカルプティング・イン・タイムなのである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 稻瀨川

    ●稻瀨川

稻瀨川は御輿嶽より出てゝ。長谷の前を流れて海に入る。本名は水無能瀨(みなのせ)川なり。土俗稻瀨川と訛稱せしより。今專ら其の名を唱ふ古よりの一名所なり。

[やぶちゃん注:以下、和歌の前後を行空けし、改行も本文を無視して、読み易く上句/下句とした。]

 

  万葉 眞かなしみさねにははゆくかまくらの

     水なの勢川に潮みつなんか

 

  夫木 東路や水なの勢川にみつしほの

     しるまも見えぬ五月雨のころ

               野宮左大臣

 

  家集 潮よりも霞やさきにみちぬらん

     水無能勢川のあくる湊は

               藤原爲相

 

  仝  さしのほる水なのせ川の夕しほに

     湊の月のかけそちかつく

 

     立まかふ波のしほ路もへたゝりぬ

     水無能勢川の 秋のゆふきり

               從三位爲實

 

  紀行 水淺き濱のまさこを越波も

     水なのせ川に春雨そふる

               法印堯惠

 

  名寄 鎌倉やみこしがたけに雪きえて

     みなのせ川に水まさるなり

               左京太夫顯仲

 

東鑑に。治承四年十月十一日。御臺所〔政子〕伊豆國阿岐戸(あきの)郷より鎌倉に入御し給ふ。日攻不ㇾ宜に依て。稻瀨河の邊民屋に止宿し給ふ。又元曆元年八月八日。三河守範賴平家追討使として進發の時。扈從(こしよう)の輩一千餘騎。賴朝卿稻瀨河の邊に棧敷(さじき)を搆(かま)へ見物し給ふとあるは。卽ち此の處なり。元弘の役(えき)に濱の手の大將犬舘宗氏の戰死せしも。此河邊なりといふ。

[やぶちゃん注:現在の稲瀬(いなせ)川。水源は深沢の奥で大仏の東方を過ぎた辺りで屈曲して坂ノ下の東で由比ヶ浜に注ぐ。歌舞伎「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」通称「白浪五人男」(二代目河竹新七(黙阿弥)作・文久二(一八六二)年江戸市村座初演)の知られた二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」はこの河口をロケーションとする。

「万葉 眞かなしみさねにははゆくかまくらの水なの勢川に潮みつなんか」「万葉集」巻十四の「相聞」にある(三三六四番歌。先の「鎌倉の見越の崎の」の和歌の次)、

 ま愛しみさ寢(ね)に吾(あ)は行く鎌倉の美奈(みな)の瀨川(せがは)に潮(しほ)滿つなむか

で、

――お前のことを、私は心からいとおしく思って共寝するために向かっている――鎌倉の美奈の瀬川は、今頃、潮が満ちてしまっているだろうか――たとえそれでも私はお前のもとに行かずにはおられぬのだ――

と言った意味である。

「夫木 東路や水なの勢川にみつしほのしるまも見えぬ五月雨のころ 野宮左大臣」は「しるまも見えぬ」とあるが、

 東路(あづまぢ)や水無能瀨川(みなのせがは)に滿つ潮(しほ)の干(ひ)る間(ま)も見えね五月雨(さみだれ)のころ

が正しい表記かと思う。「野宮左大臣」徳大寺公継(とくだいじきんつぐ 安元元(一一七五)年~嘉禄三(一二二七)年)のこと。左大臣実定三男。新古今集に五首入集、代々の勅撰集に計十七首が採歌されている。

「家集 潮よりも霞やさきにみちぬらん水無能勢川のあくる湊は 藤原爲相」は、

 潮(しほ)よりも霞(かすみ)やさきに滿(み)ちぬらん水無能瀨川(みなのせがは)のあくる湊(みなと)は

である。

「仝  さしのほる水なのせ川の夕しほに湊の月のかけそちかつく」老婆心乍ら、「仝」は「同」の古字とされるもの。同じく藤原為相の一首で、

 さしのぼる水無能瀨川(みなのせがは)の夕潮(ゆふしほ)に、湊(みなと)の月の影(かげ)ぞ近づく

である。

「立まかふ波のしほ路もへたゝりぬ水無能勢川の 秋のゆふきり 從三位爲實」は、

 立(た)ちまがふ波の潮路も(しほぢ)隔(へだた)りぬ水無能瀨川(みなのせがは)の秋の夕霧(ゆふぎり)

である。「從三位爲實」は五条為実(文永三(一二六六)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)のこと。二条為氏四男。参議。「新後撰和歌集」などに入集。因みに彼の父二条為氏は、藤原北家御子左家嫡流で、権大納言藤原為家長男。和歌の名家二条家祖であるが、正に前掲される異母弟冷泉為相が相続争いの相手であった。

「紀行 水淺き濱のまさこを越波も水なのせ川に春雨そふる 法印堯惠」は、

 「水(みづ)淺(あさ)き濱(はま)の眞砂(まさご)を越(こ)す波も水無能瀨川(みなのせがは)に春雨(はるさめ)ぞ降る

である。「堯慧」(大永七(一五二七)年~天正二(一六〇九)年)は戦国は江戸初期の真宗僧。権大納言飛鳥井雅綱三男で室町幕府将軍足利義晴猶子であったが出家、現在の三重県津にある専修せんじゅ寺第十二世として真宗高田派を興隆させた。大僧正。

「名寄 鎌倉やみこしがたけに雪きえてみなのせ川に水まさるなり 左京太夫顯仲」御輿嶽」に既出既注。ここでも「大夫」が「太夫」となってしまっている。

「東鑑に。治承四年十月十一日。御臺所〔政子〕伊豆國阿岐戸(あきの)郷より鎌倉に入御し給ふ。日攻不ㇾ宜に依て。稻瀨河の邊民屋に止宿し給ふ」「吾妻鏡」治承四(一一八〇)年十月十一日の条の当該箇所だけを引く。

   *

○原文

十一日庚寅。卯尅。御臺所入御鎌倉。景義奉迎之。去夜自伊豆國阿岐戸郷。雖令到着給。依日次不宜。止宿稻瀬河邊民居給云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十一日庚寅。卯の尅、御臺所、鎌倉に入御す。景義、之を迎へ奉る。去ぬる夜、伊豆國阿岐戸郷(あきとのがう)より到着せしめ給ふと雖も、日次(ひなみ)、宜(よろ)しからざるに依つて、稻瀨河の邊の民居(みんきよ)に止宿し給ふと云々。

   *

この「日次(ひなみ)」とは暦の上での日の吉凶のこと。

「元曆元年八月八日。三河守範賴平家追討使として進發の時。扈從(こしよう)の輩一千餘騎。賴朝卿稻瀨河の邊に棧敷(さじき)を搆(かま)へ見物し給ふ」「吾妻鏡」には、進発する面々を列記した後に『武衞搆御棧敷於稻瀨河邊。令見物之給云々。』(武衞、御棧敷を稻瀨河の邊に搆へて、之れを見物せしめ給ふと云々。)とある。

「元弘の役」ここは元弘三(一三三三)年五月の鎌倉幕府総攻撃を指す。

「犬舘宗氏」(おおだてむねうじ 正応元(一二八八)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)は上野新田荘大館郷領主。新田義貞の鎌倉攻めに従い、鎌倉極楽寺切通口突破の大将として幕府軍の大仏貞直(おさらぎさだなお)軍と戦闘の末、五月十九日に壮絶な討死をした。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 長谷町

    ●長谷町

長谷町は。長谷寺觀音の前通に在る市街なり。鎌倉彫等の名物を鬻(ひさ)く。郵便局もあり。海手の方には避暑游潮(ゆうてう)の爲め。都人士の建(たて)し家も見ゆ。此庭に三橋與八とて大なる旅舘(りよくわん)ありて繁昌せり。

[やぶちゃん注:「三橋與八とて大なる旅舘あり」サイト「e-ざ鎌倉・ITタウン」内に浪川幹夫氏の詳細を極めた『「三橋旅館」について』(1)(2)(3)(4)がある。必読。因みに、この旅館は明治一八(一八八五)年に内務省初代衛生局長長与専齋の奨めによって鎌倉由比ヶ浜に海水浴場を開設し、鎌倉での海水浴を大いに発展させたことでも知られる。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 大佛

    ●大佛

大佛は長谷村の深澤に在り。二王門に林峯(りんぽう)の書せし大異山の額を掲(かゝ)く。門前に聖武帝艸創東三十三ケ國總國分寺大佛と刻せし石標(せきへう)あり。風土記に據れは此處は總國分寺にあらす。蓋し誤なり。門に榜示(ぼうじ)あり。左の如し。

[やぶちゃん注:底本では以下、「すへきもの也」まで全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

當山は。數百年來勤行絶ざるの佛疆(ぶつきよう)なり。玆に詣(まふで)んとする善男善女は。何人を問はす。何の宗教を奉するに問はす。何の宗教を奉するに論なく。下示の意を遵守すべし。

之は彌陀の聖殿なり。是は如來の御門なり。宜しく敬禮を盡すへきもの也

 

門を入れは。右の方に鳥島古物店ありて。古器物(こきぶつ)を鬻(ひさ)く。石階五級。次に三級を登れば。鋼燈籠二基立てり。經案の左右銅蓮華あり。大佛は卽ち金銅の廬舍那佛にして。正面に在り南に面して露坐し給ふ。總高五丈。髮際(かみぎは)より趺坐に至るまて高四丈二尺。周圍十六間二尺。石座高四尺五寸。面長八尺五寸。橫一丈八尺。白毫周圍一尺五寸。眼大(がんだい)四尺。眉大四尺二寸。耳長六尺六寸。鼻(はな)縱(たて)三尺八寸。橫二尺三寸。口徑(こうけい)三尺二寸強。肉髻高八尺。徑(けい)二尺四寸。螺髮(らはつ)各高八寸。徑一尺。其數八百三十顆。膝徑六間餘。大指周三尺餘とす。大佛の右側に亭(てい)あり。此處にて腹内を周覽する者より各一錢を徵收し。又大佛の寫眞幷に由來記を賣る。大佛の腹内は三十席を容るゝといふ。西の方右に賴朝の護持佛。左に祐天(ゆうてん)の像を安置す。北方卽ち背部に向ひて架梯(かてい)あり。登れは窓穴(まどあな)ありて後庭を下瞰すベし。又面部の凹處に金色の佛像を安置せり。風土記に彌陀の木像長一尺二寸。天竺傳來と云ふ腹籠とすとあり。或は此か。抑(そもそも)當佛殿は。沙門淨光普(あまね)く募緣して營作を企て。曆仁元年三月遂に此の新造の事始あり。五月大佛の妙好相(めうかうさう)始て成る。仁治二年三月上棟の儀式あり寬元元年六月落成して供養を行ふ此の時造立の佛像は木像なり建長四年八月十七日。改(あらため)て金銅の佛像を鑄(ゐ)る。今現存の者即ち是なりといふ。其の後應安二年九月大風の爲めに堂宇顚倒す。明應四年八月由井濱の海水激騰(げきとう)して。佛殿亦破壞に及へり。夫より礎石のみを存して。佛像は永く露坐し給へり。萬里居士の詩にも。無堂宇而露坐突兀とあり。今に至りて再建(さいこん)に至らす。古は建長寺の所管なりしが。近世別當を置きて高德院といふ。

別當高德院は淨土宗なり。此の地は眞言宗淨泉寺の舊地にして。天平年中行基の開基なりしに。其の後ち明應年中廢寺となり。大佛のみありしを。正德年間增上寺主顯譽祐天(けんよゆうてん)再興の志を發しに。江戸神田の商賈野島新左衞門。祐天に歸依し、資財を捨てゝ。共に當寺を興立し。山號を獅子吼(しゝく)と改め。寺號は淸淨泉寺の舊に從ひ。宗旨を改て光明寺の末に屬す。故に祐天を中興の開祖とし。松參詮察を第二世とし。新左衞門を中興の開基とし。本尊〔木像長一尺五寸惠心作〕又同像〔同五寸五分〕及ひ愛染〔行基の作宗尊親王大佛殿前に一宇を建て安せし像なりき〕の像を置く。

大佛の背後に石碑あり。表面南無阿彌陀佛。側面に稻多野殿。裏面に建長五癸丑年五月二十三日とあり。庭園大樹多くして。綠陰濃(こまや)かに。夏日は凉(れう)を納(い)るゝに足る。且つ其の淸潔なることは鎌倉中他に其の比を見ず。

[やぶちゃん注:「鳥島古物店」現存しない模様。

「總高五丈……」以下、以下の数値をメートル換算しておく。

総高五丈      一五・一五  メートル

髪際より趺坐まで高四丈二尺

          一二・七二  メートル

周囲十六間二尺   二九・六九  メートル

石座高四尺五寸    一・三六  メートル

面長八尺五寸     二・五七  メートル

橫一丈八尺      五・四五  メートル

白毫周囲一尺五寸   〇・四五  メートル

眼の大きさ四尺    一・二一  メートル

眉の大きさ四尺二寸  一・二七  メートル

耳の長さ六尺六寸   二     メートル

鼻縦三尺八寸     一・一五  メートル

鼻横二尺三寸     〇・六九  メートル

口径三尺二寸強    〇・九七  メートル強

肉髻高八尺      二・四二  メートル

肉髻直径二尺四寸   〇・七二  メートル

螺髪各高八寸     〇・二四  メートル

螺髪径一尺      〇・三〇  メートル

螺髪数         八三〇  個

膝の径六間餘    一〇・九一  メートル余り

親指周囲三尺餘    〇・九一  メートル余り

 

因みに、現在の高徳院の公式サイトのデータを示しておく。かなり違う。

総高(台座を含む) 一三・三五  メートル

仏身高       一一・三一二 メートル

面長         二・三五  メートル

眼長         一・〇〇  メートル

口幅         〇・八二  メートル

耳長         一・九〇  メートル

眉間白毫直径     〇・一八  メートル

螺髪(頭髪)高    〇・一八  メートル

螺髪直径       〇・二四  メートル

螺髪数         六五六  個

仏体重量        一二一  トン

 

因みに、本誌の十五年後の明治末年である明治四五(一九一二)年七月十五日に鎌倉町小町の通友社から発行された左狂大橋良平の「現在の鎌倉」の長谷の大佛に載る数値は概ね本誌に同じい(リンク先は私の電子テクスト)。恐らくはかつては荘厳さを誇大に示すために実際よりも大きめに広告されていたものと考えられる。

「祐天」浄土宗大本山増上寺第三十六世法主でゴーストバスターとしても知られた祐天(寛永一四(一六三七)年~享保三(一七一八)年)。ウィキの「高徳院」から引いておく。本寺は、現在は正式には大異山高徳院清浄泉寺と号し、『鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間』(一七一一年~一七一六年)に、『江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである』。「吾妻鏡」には暦仁元(一二三八)年、『深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ』、五年後の寛元元(一二四三)年に『開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は』、仁治三(一二四二)年に『完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が』三分の二ほど『完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方で「吾妻鏡」には建長四(一二五二)年から『「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し』、この年から造立が開始された大仏が『現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である』。なお、前述の一二四三年に開眼供養された木造の大仏と、「吾妻鏡」で一二五二年に起工したとする銅造の大仏との関係については、『木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている』。「吾妻鏡」によれば、『大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である』。『鎌倉時代末期には鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船)。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかはこれも史料がないため、不明である』。『大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは』、二〇〇〇年から二〇〇一年にかけて『実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている』。「太平記」には、建武二(一三三五)年に『大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり』、「鎌倉大日記」によれば大仏殿は』応安二(一三六九)年にも倒壊している。『大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について』は、「鎌倉大日記」が明応四(一四九五)年とするものの、「塔寺八幡宮長帳」などの他の史料から明応七(一四九八)年九月二十日(明応地震)が正しいと考証されている。一方、室町時代の禅僧万里集九の「梅花無尽蔵」には文明一八(一四八六)年に『彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている』。先に記した境内発掘調査の結果、応安二(一三六九)年の倒壊以後には『大仏殿が再建された形跡は見出され』ていないとある。白井永二編「鎌倉事典」(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊)では『もと光明寺奥院』と断定し、その後さらに、その清浄泉寺の『支院であった高徳院のみが残ったもの。祐天再興の時、山号を獅子吼山と改めたというが、今は大異山に復している』とある。

「架梯」架けられた梯子。底本にある山本松谷の絵には手すりの附いたちゃんとした木製と思しい階段が描かれている。

「下瞰」「かかん」と読み、見下ろすこと・俯瞰の意。

「一尺二寸」三十六・三六センチメートル。

「妙好相」これは「妙相好」(めうさうがう(みょうそうごう)」とあるべきところと思う。「相好(そうごう)」で仏の身体に備わっている「三十二相八十種好」、三十二の「相」(現世に於いて認識される姿)と八十種に及ぶ「好」(三十二相をさらに細分化した荘厳にして清浄なる美形の細かな部分)の総称である。細かくはウィキ三十二相八十種好(但し、「好き」の方は総ては載っていない)を参照されたい。

「仁治二年」一二四一年。但し、先の「祐天」の注で示したように、「東関紀行」の筆者が翌仁治三(一二四二)年に完成前の大仏殿を訪れ、その時点では大仏と大仏殿が三分の二ほどしか完成していないとあるのと齟齬する。ともかくもあれだけの大きな大仏でありがなら、実は沿革は未だによく分かっていないのが実情である。

「萬里居士の詩にも。無二堂宇一而露坐突兀とあり」先の「祐天」の注を参照。

「松參詮察」これは増上寺法主祐天(第三十六世)を継いだ第三十七世法主「松譽詮察」の誤植と思われる。彼についてはサイト「千葉一族」の僧侶になった千葉一族(浄土宗)に詳しい。

「一尺五寸」四十五・一五センチメートル。

「稻多野殿」源頼朝の侍女だったされる稲多野局(いなだのつぼね)。岡戸事務所編「鎌倉手帳(寺社散策)」の高徳院(鎌倉大仏)に、彼女の卒塔婆の写真とともに、『伝えられている話では、鎌倉大仏は、源頼朝の侍女だった稲多野局が発起し、僧浄光が勧進して造立した』という伝承があり、もともと『大仏を造ろうと思い立ったのは源頼朝だった』が、『頼朝はそれを果たすことなくこの世を去ってしま』ったことから、その『志を受け継いだのが侍女の稲多野局』で、『北条政子が助力したともいわれている』とある。

「建長五癸丑年」一二五三年。]
 
 

【2016年1月11日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

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山本松谷「鎌倉江島名所圖會」挿絵 大仏の図(三枚組見開き)

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)の挿絵七枚目。私のスキャン機器のサイズの関係上、体内図を重視し、左側を三・五ミリメートル分、カットしてある。合成では私のフォト・ソフトと未熟な技術では必ずしも上手くいかないし、完全に三分割単体で表示すると原本のパワーが減少するので、かくトリミングした。

 

右の画中左上に「大佛」(改行一字下げ)「腹内の圖」

中央上部欄外に(画像ではカット)「鎌倉大佛前面の圖」

左の画中右上に「背面の圖」

 

 

と手書き文字でキャプションが記されてある。右の胎内の当時の構造、背部の物見窓の木造の櫓と、恐らくは、やはり木製と思われる昇降階段の様子、解説する者、参詣人のざわめき、その反響、そうした賑わいがよく伝わってくる気がする。]

Wait and hope. ――待て、しかして希望せよ。――


Wait and hope.

「待て、しかして希望せよ。」

(デュマ「モンテクリスト伯」末文)

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (四)


        四


 大社の背後にある文庫の裏に、文庫よりも更に古い巫女屋敷といふ建物がある。昔はすべて少女の神女は、今よりもやゝ嚴格な規律の下に、こゝに住まねばならなかつた。晝間は勝手な處へ出かけることを得たが、夜は是非とも境内の門が閉まるまでに、屋敷へ歸らねばならなかつた。それは神々の寵兒達が、その身分を忘れて、冒險的な人間に寵幸せられるやうな破目に陷らないためであつた。またその心配も滿更無理ではなかつた。巫女は美しいと共に、また非常に純潔なるべき義務があつたから。して、大社に仕へた最も美しい巫女の一人は、實際さやうな風に墮落したのであつた――いづれの大書店でも安價の本として買ひ得る情話を、日本の史上に殘して。

 彼女の名はお國といつて、杵築の中村門五郎といふものの娘であつた。今も猶その子孫がこゝに住んでゐる。大社の舞女として仕へてゐる際に、彼女は名古屋山三といふ浪人と戀に陷つた――彼は仕方のない破落戸の美男子で、劍の外には無一文であつた。彼女は窃かに社を脱して、戀人と共に京都の方へ駈落をした。これは少くとも三百年昔のことだ。

 京都へ行く途中で、その名を私は聞き洩らしたのであるが、彼等は別の浪人に逢つた。この浪人はたゞ暫くの間、話中に現れて、忽然死と忘却の永久の夜へ消えて了う。記錄に傳へられてゐるのは、彼は彼等の旅に同行を求めたこと、美しい巫女に愛着を感じてきたこと、して、彼女の懸人の嫉妬を招いて、結局激しい決鬪となつて、山三はその競爭者を殺したといふことだけである。

 それから後、逃亡者は無事に京都へ彼等の旅を續けた。お國はこの時既に彼女の行動を悔ひるべき充分の理由を悟つたか、否か、わからないが、その後の身の上から察すると、彼女に對する熱情のために死んだ美しい浪人の顏が、彼女の胸裡に纒綿離れ難きものとなつたやうに思はれる。

 その次に、彼女は京都で妙な役目を演じてゐる。彼女の戀人が全然貧乏に陷つたものと見えて、彼を養ふため、四條磧で巫女神楽の見せ物を出した。こゝは鴨川の乾いた川床の 一部で、またかの恐ろしい酷刑の行はれた場所である。彼女は當時の公衆からは、浮浪者と看倣されたに相違ない。しかし彼女の非常な美しさが、幾多の觀覽者を惹きよせ、大當となつたらしく、山三の財布は重くなつたが、この踊は今日杵築の巫女が緋の袴と雪白の衣をつけて、優しく滑るやうに足を運ぶ踊と同一のものに過ぎなかつた。

 兩人は更に江戸で役者として現れた。實際お國は傳説上、日本の近代劇――初めての俗劇――を創めたものと一般に認められてゐる。彼女以前は、たゞ僧侶の作に成つた宗教劇だけであつた。山三自身も彼女の教を受けて評判の高い、立派な役者となつた。彼には多くの弟子があつた。その一人の猿若は後、江戸に一つの劇場を起し、彼の名に因んで猿若座と呼ばれたが、今日猶猿若町に殘つてゐる。が、お國の時以來、女は――少くとも極最近まで――日本の舞臺から除かれてゐた。女の役は、古代希臟に於ける如く、最も炯眼の觀察者も性の區別がつかないほど、容姿が女らしく、技に巧みな男や、少年によつて演ぜられた。

 名古屋山三は、彼の伴侶よりも數年早く死んだので、お國は故郷の杵築へ歸り、美しい髮を斷つて、尼となつた。彼女はその時代の割合には學問があつて、特に連歌といふ詩の藝に巧みで、死ぬるまでその教授をした。彼女は女優として儲けた僅かの資産で、市の眞中に連歌寺といふ寺を建てた――そこで彼女が連歌を教へたから、かく名をつけた。さて、寺を建立した譯は、彼女の美貌のために身を亡くした男――またその徴笑は、彼女の心裏に山三が決して知らなかつた、或るものを起さしめたことのある男――の靈魂のために、その寺で常に祈をするといふのであつた。彼女が日本劇場の創始者であつたため、彼女の家族は數世紀間、ある特權を享有してゐた。維新の頃までも、中村門五郎の後裔の戸主は、いつも杵築座の利益の分配を受ける權利があつて、座元といふ稱號を有りてゐた。が、その家は現今頗る貧乏だ。 

 

 私は連歌寺を見るために行つたが、それは失くなつてゐた。數年前までは、觀音寺に通ずる石段の坂下にあつたが、今では何も殘つてゐない。破れた地藏像へ人々が祈を捧げるだけだ。小さな寺の昔の境内は野菜畠に變はつて、古い建物の跡には、その材料を利用して不敬にも數個の小舍が建つてゐる。ある百姓が、掛物や他の尊い物は、近所の寺ヘ讓られて、そこで見物が出來ると私に告げた。

[やぶちゃん注:「大社の背後にある文庫の裏に、文庫よりも更に古い巫女屋敷といふ建物がある」少なくとも現行の境内案内図ではこのような建物や跡は示されていない。但し、本殿背後に名を附していない複数の建築物は存在する。

「お國」以下、ウィキの「出雲阿国」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。出雲阿国(いずものおくに 元亀三(一五七二)年~?)は『安土桃山時代の女性芸能者。ややこ踊り』(中世末期から近世初頭に行われた少女による小歌踊りのことで、近世には女歌舞伎に取り入れられて主要な演目となった)『を基にしてかぶき踊り』(戦国末期から江戸初頭にかけて京や江戸で流行した「かぶく」者、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走る者を指した「かぶき者」をヒントとした斬新な所作や派手な装束を取り入れた、歌舞伎・若衆歌舞伎などの濫觴となった踊り)『を創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がっている』。名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)と『関係するともいわれ、「山三郎が夫である」、「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることもあるが、前者は伝説ともいわれており、後者も信頼性が決着がついていない資料にしか登場せず、信憑性が疑わしい』(「名古屋山三郎」についてはこの注の最後に別に注する)。『現在では阿国と表記することが多いが、この表記は十七世紀後半以降に彼女が伝説化してから広まったものであるので、歌舞伎創始期について語る場合は、彼女と同時代の資料にしたがって国、もしくはお国とするのが適切である。また、「出雲のお国」という呼称も同時代の資料には見られず、お国が出雲出身かどうかも学術的に決着がついていない』。かく『お国が出雲出身かどうかは決着がついていないものの、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれている』。『慶長五年(一六〇〇年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が三年後の慶長八年(一六〇三年)に「かぶき踊」を始めたと考えられている』。『「当代記」によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという』。『慶長八年五月六日に女院御所で踊ったという記録があり、文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている。この事と記述の内容から考えて、慶長八年五月からあまり遡らない時期にかぶき踊というあらたな名称が定着したのだと考えられている。内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化した。なお、お国がかぶき踊りを創始するに際して「念仏踊り」を取り入れたとする記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集などに書かれている事があるが、これは俗説の域を出ず、ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低い』。『その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか十年あまりで全国に広まったが、のちに江戸幕府により禁止される。もともとお国が演じていたものも前述のように茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、お国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない。従来の説では寛永六年(一六二九年)に女性の芸能者が舞台に立つことを禁止したとされるが、近年では十年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている。以下、「その後の阿国」の節になるが、この部分は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか或いは不十分であるとして、出典追加要請がかかっているので注されたい。『阿国自身は慶長一二年(一六〇七年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。慶長一七年四月(一六一二年五月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある』。『没年は慶長一八年(一六一三年)、正保元年(一六四四年)、万治元年(一六五八年)など諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。また、京都大徳寺の高桐院にも同様に阿国のものといわれる墓がある。なお、旧暦四月十五日(現在では新暦四月十五日とも)が「阿国忌」といわれている』。『国(クニ)に関する史料は次のようなものがある』。『「多聞院日記」天正十年五月(一五八二年六月):「加賀国八歳十一歳の童」が春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事がある。それは「於若宮拜屋加賀國八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了」というもの。これを八歳の加賀、十一歳の国という二人の名前と解釈し、逆算して国を一五七二年生まれとするのが通説化している。しかし、加賀出身の八歳・十一歳の娘という解釈もある』。『確実な資料では「時慶卿記」に慶長五年七月一日条に(一六〇〇年八月九日)、京都近衛殿や御所で雲州(出雲)のクニと菊の二人が「ややこ踊り」を演じたという記録があり、ここでクニと名乗っていたことがわかる』。『「時慶卿記」より遡るものとして次の記録があり、これらも国(クニ)を指す可能性がある』。『「御湯殿の上日記」天正九年九月(一五八一年十月):御所で「ややこ踊り」が演じられた。』『「言経卿記」天正十五年二月(一五八八年三月):出雲大社の巫女が京都で舞を踊った』というものである。なお、「名古屋山三郎」とは、お国を妻としたとされる実在した安土桃山時代の武将で、蒲生氏・森氏の家臣であった名古屋(那古野)山三郎(元亀三(一五七二)年又は天正四(一五七六)年~慶長八(一六〇三)年)を指す。お国とともに「歌舞伎の祖」ともされている人物であるが、ウィキの「名古屋山三郎」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『尾張国(現在の名古屋市)の生まれ。名古屋高久の次男。名古屋氏は名越流北条氏の子孫といわれる。母方の縁で織田氏と縁戚であることから織田九右衛門とも名乗った。当初は母と共に京の建仁寺に在ったが、十五歳の時に蒲生氏郷に見出され小姓として仕える。その前に織田信包に仕えていた説がある。九州征伐、小田原征伐に参加。天正十八年(一五九〇年)の陸奥名生城攻略、天正十九年(一五九一年)の九戸政実の乱でそれぞれ一番槍の功を立て二千石に加増される』。『文禄四年(一五九五年)に氏郷が死去すると蒲生氏から退去。京の四条付近で浪人した後に、出家して宗圓と名乗り大徳寺に入ったが、その後しばらくして還俗し、妹の岩が嫁いでいる森忠政の家臣として仕えた。忠政は山三郎を気に入り、見目麗しい事や茶道や和歌に関しても見識が深い事から饗応役として取り立てられ、五千石の所領を与えた(後に五千三百石まで加増)。また、山三郎の妹二人が森家重臣の小沢彦八、各務正休と婚姻を結んだため、山三郎は森家中で大きな発言力を持ったが、それを快く思わない同僚の井戸宇右衛門とは仲が悪く度々、口論など諍いを起こしたとされている』。『慶長八年(一六〇三年)、忠政は関ヶ原の戦いにおける恩賞として美作国津山藩に移封された後に新しい城を院庄に立てる事を計画。この時、山三郎は宇右衛門を殺すように忠政より命令され、忠政から直々に刀を賜っている。その後、工事現場において宇右衛門と居合わせた山三郎は喧嘩口論の末に抜刀して襲い掛かるが、逆に宇右衛門に切り伏せられ死亡する。宇右衛門も居合わせた森家の人間にその場で斬り殺された。享年は二十八とも三十二とも伝わる。山三郎の遺体は現場の北側、宇右衛門の遺体は南側に埋められ、墓標の代わりに松が植えられた。現在もその場所には松があり、「白眼合松(にらみあいのまつ)」と呼ばれているという。墓所は高桐院にも存在する』。『なお、嗣子の名古屋蔵人は後に森家を去り、前田利常に三千石で召し抱えられ、子孫は加賀藩士となって代々名越姓を称した』とあるばかりで(美少年であったらしい)、この記載では一向にお国の妻の部分が見えてこず、寧ろ、お国の記載にもあった通り、かなり怪しい感じがぷんぷん臭ってはくる。寧ろ、「かぶき者」であった彼を劇素材として選び、自らも彼のかつての妻という作り話などをなして、宣伝効果を上げたものと考える方が遙かに腑に落ちる。因みに、お国の墓は「出雲観光協会」公式サイト内の出雲阿国の墓によって、今も大社町にあることが分かった。それによれば、『出雲大社から稲佐浜へ向かう途中、山根の太鼓原の石段を登っていくと中村家の墓があり、出雲阿国の墓は、特別に石棚で囲った平たい自然石で作られて』あるとある。

「中村門五郎」不詳。本文ではお国の弟子格の「猿若」が後掲する猿若勘三郎となり、初代中村勘三郎となったとする、その姓と同じというのはやや気にはなる(なおこの「中村」は現行の大社の町名としても残っている)。なるが、私は大の歌舞伎嫌い文楽好きなれば、これ以上、調べてみる気にはならない。悪しからず。

「破落戸」「ごろつき」と読んでいるものと思われる。一定の住所・職業を持たず、あちこちをうろついては他人の弱味に付け込んで、強請(ゆす)りや嫌がらせなどをする無頼の輩を指す卑語。

「これは少くとも三百年昔のこと」ハーンのこの杵築再訪の事実時制は明治二四(一八九一)年の七~八月であるから、その「三百年」前は一五九一年(天正十九年)で、お国推定生年の元亀三(一五七二)年から考えても無理がない。

「猿若」はもともとは固有名ではなく、お国歌舞伎発生当初の歌舞伎の道化方の名称であった。まさに先の名古屋山三(名古屋山三郎)の家来として登場しては一見、魯鈍な役柄を見せつつも、物真似や雄弁な語りを売り物にした役者の役柄名である。後に現代に続く中村勘三郎の初代である、江戸初期の歌舞伎役者で座元であった猿若勘三郎(慶長三(一五九八)年~万治元(一六五八)年)が江戸で初めての常設の芝居小屋「猿若座」(後に「中村座」に改称)を創始しているので、ハーンが述べているのはそれである。

「連歌寺」「出雲観光協会」公式サイト内の阿国寺 連歌庵によれば、驚くべきことにこの寺、移築して復興再建されている。その解説によれば、お国は晩年に大社に帰って尼僧となって「智月」と号し、庵を結んで『読経と連歌に興じて静かに余生を過ごした』とされ、彼女の隠棲したその草庵を「阿国寺(おくにでら)連歌庵」と呼ぶようになった、とある。『連歌庵はもともと中村町にあ』ったが、『中村の大火で焼失して、二代目は』明治四(一八七一)年のおぞましい『廃仏毀釈によって取り壊され』しまったとあり、ハーンがそこを訪れたのは破却二十年後のことであったことが分かる。後、昭和一一(一九三六)年になって「劇祖阿国会」によって再建された、とある。
 

「觀音寺」不詳。識者の御教授を乞うものである。 

 

Sec.4

 

   Behind the library in the rear of the great shrine, there stands a more ancient structure which is still called the Miko-yashiki, or dwelling- place of the miko. Here in former times all the maiden-priestesses were obliged to live, under a somewhat stricter discipline than now. By day they could go out where they pleased; but they were under obligation to return at night to the yashiki before the gates of the court were closed. For it was feared that the Pets of the Gods might so far forget themselves as to condescend to become the darlings of adventurous mortals. Nor was the fear at all unreasonable; for it was the duty of a miko to be singularly innocent as well as beautiful. And one of the most beautiful miko who belonged to the service of the Oho-yashiro did actually so fall from grace—giving to the Japanese world a romance which you can buy in cheap printed form at any large bookstore in Japan.

Her name was O-Kuni, and she was the daughter of one Nakamura Mongoro of Kitzuki, where her descendants still live at the present day. While serving as dancer in the great temple she fell in love with a ronin named Nagoya Sanza—a desperate, handsome vagabond, with no fortune in the world but his sword. And she left the temple secretly, and fled away with her lover toward Kyoto. All this must have happened not less than three hundred years ago.

On their way to Kyoto they met another ronin, whose real name I have not been able to learn. For a moment only this 'wave-man' figures in the story, and immediately vanishes into the eternal Night of death and all forgotten things. It is simply recorded that he desired permission to travel with them, that he became enamoured of the beautiful miko, and excited the jealousy of her lover to such an extent that a desperate duel was the result, in which Sanza slew his rival.

Thereafter the fugitives pursued their way to Kyoto without other interruption. Whether the fair O-Kuni had by this time found ample reason to regret the step she had taken, we cannot know. But from the story of her after-life it would seem that the face of the handsome ronin who had perished through his passion for her became a haunting memory.

We next hear of her in a strange role at Kyoto. Her lover appears to have been utterly destitute; for, in order to support him, we find her giving exhibitions of the Miko-kagura in the Shijo-Kawara—which is the name given to a portion of the dry bed of the river Kamagawa—doubtless the same place in which the terrible executions by torture took place. She must have been looked upon by the public of that day as an outcast. But her extraordinary beauty seems to have attracted many spectators, and to have proved more than successful as an exhibition. Sanza's purse became well filled. Yet the dance of O-Kuni in the Shijo-Kawara was nothing more than the same dance which the miko of Kitzuki dance to-day, in their crimson hakama and snowy robes—a graceful gliding walk.

The pair next appear in Tokyo—or, as it was then called, Yedo—as actors. O-Kuni, indeed, is universally credited by tradition, with having established the modern Japanese stage—the first profane drama. Before her time only religious plays, of Buddhist authorship, seem to have been known. Sanza himself became a popular and successful actor, under his sweetheart's tuition. He had many famous pupils, among them the great Saruwaka, who subsequently founded a theatre in Yedo; and the theatre called after him Saruwakaza, in the street Saruwakacho, remains even unto this day. But since the time of O-Kuni, women have been—at least until very recently-excluded from the Japanese stage; their parts, as among the old Greeks, being taken by men or boys so effeminate in appearance and so skilful in acting that the keenest observer could never detect their sex.

Nagoya Sanza died many years before his companion. O-Kuni then returned to her native place, to ancient Kitzuki, where she cut off her beautiful hair, and became a Buddhist nun. She was learned for her century, and especially skilful in that art of poetry called Renga; and this art she continued to teach until her 
death. With the small fortune she had earned as an actress she built in Kitzuki the little Buddhist temple called Rengaji, in the very heart of the quaint town—so called because there she taught the art of Renga. Now the reason she built the temple was that she might therein always pray for the soul of the man whom the sight of her beauty had ruined, and whose smile, perhaps, had stirred something within her heart whereof Sanza never knew. Her family enjoyed certain privileges for several centuries because she had founded the whole art of the Japanese stage; and until so recently as the Restoration the chief of the 
descendants of Nakamura Mongoro was always entitled to a share in the profits of the Kitzuki theatre, and enjoyed the title of Zamoto. The family is now, 
however, very poor.

 

I went to see the little temple of Rengaji, and found that it had disappeared. Until within a few years it used to stand at the foot of the great flight of stone steps leading to the second Kwannondera, the most imposing temple of Kwannon in Kitzuki. Nothing now remains of the Rengaji but a broken statue of Jizo, before which the people still pray. The former court of the little temple has been turned into a vegetable garden, and the material of the ancient building utilised, irreverently enough, for the construction of some petty cottages now occupying its site. A peasant told me that the kakemono and other sacred objects had been given to the neighbouring temple, where they might be seen.

 

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御輿嶽

    ●御輿嶽

御輿嶽今多く見越嶽に作る。高さ五十間餘。舊くは左京太夫顯仲(あきなか)の詠歌に此名見えたり。

 鎌倉や御輿か嶽に雪消てみなのせ川に水增るなり

又御輿か崎の唱あり。其の名萬葉集に顯はる。

 可麻外良乃美胡之能佐吉能伊波久部叡乃伎美我久由倍伎巳許呂波母多自(かまくらのみこしのさきのいはくゑのきみがくゆべきこゝろはもたじ)。

歌枕名寄にも。此所の詠歌見え。宗尊親王の集にも所見あり。

[やぶちゃん注:なお、私は小学校の一、二年の記憶の中に、この御輿ヶ嶽に義理の叔父の自転車の荷台に乗せてもらって登った記憶がある。今見るとそんなことは出来そうもない山なのだが、スキー一級の指導員の叔父はサドルの前に赤ん坊の従妹を載せ、僕を後ろに載せてうんうん言いながら確かに登って行った不思議な記憶があるのである。

「五十間」九〇・九メートル。国土地理院の地図上のレーザー測定では現在、最も高い部分でも六十五メートルほどしかない。

「左京太夫顯仲」「大夫」が正しい。平安後期の公卿源顕仲(康平元(一〇五八)年~保延四(一一三八)年)。堀河院歌壇で活躍した歌人。以下の一首も「堀川院御時百首」に所収するものである。

「鎌倉や御輿か嶽に雪消てみなのせ川に水增るなり」「かまくらや/みこしがたけに/ゆききえて/みなのせがはに/みづまさるなり」と読む。鎌倉攬勝考卷之一の「御輿ケ嶽」にある「御輿ヶ嵩」の山の絵の脇には、この和歌が記されてある(本文解説には出ないので注意)。ご覧あれ。

「「可麻外良乃美胡之能佐吉能伊波久部叡乃伎美我久由倍伎巳許呂波母多自(かまくらのみこしのさきのいはくゑのきみがくゆべきこゝろはもたじ)」は「万葉集」巻第十四の「相聞」に載る(第三三六五番歌)、

 鎌倉の見越(みごし)の崎の石崩(いはくえ)の君が悔(く)ゆべき心はもたじ

で、意味は、

……鎌倉の御越が崎の波で崩れた岩……その、岩くえ――くえ――くい――悔い……貴方が悔いるようなひどい仕打ちをするようなふたごこころは、私めは決して持ちますまいよ……

といった女性の側の誓い歌とされるものである。

「歌枕名寄」「うたまくらなよせ」と読む。中世の歌学書で全国を五畿七道六十八ヶ国に区分して当該国の歌枕を掲出、その地の歌枕を詠みこんだ証歌を「万葉集」・勅撰集・私家集・私撰集から広く引用して列挙したもの。成立年代は「新後撰和歌集」成立の、嘉元元(一三〇三)年前後と考えられており、編者は「乞食活計之客澄月」と署名があるが「澄月」その人の伝は伝わらない。中世には歌枕とその証歌(しょうか:修辞・語句・用語法などの証左とする根拠として引用される和歌)を類聚(るいじゅう)して作歌の便を図った所謂、歌枕撰書が幾つも編纂されているが、本書はその中でも最大の全三十八巻六千余首を拾う(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「宗尊親王の集にも所見あり」「新編鎌倉志卷之五」の「御輿嶽」に、『中務卿〔宗尊新王。〕の歌に』として、

 都(みやこ)にははや吹きぬらん鎌倉や御輿崎(みこしがさき)の秋の初風(はつかせ)

と引かれてある。]

虹とひとと   立原道造

    虹とひとと

 

雨あがりのしづかな風がそよいでゐた あのとき

叢は露の雫にまだ濡れて 蜘蛛の念珠(おじゆず)も光つてゐた

東の空には ゆるやかな虹がかかつてゐた

僕らはだまつて立つてゐた 默つて!

 

ああ何もかもあのままだ おまへはそのとき

僕を見上げてゐた 僕には何もすることがなかつたから

(僕はおまへを愛してゐたのに)

(おまへは僕を愛してゐたのに)

 

また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる

明るい靑い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに

小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる

 

おまへの睫毛にも ちひさな虹が憩んでゐることだらう

(しかしおまへはもう僕を愛してゐない

僕はもうおまへを愛してゐない)

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の処女詩集「萱草に寄す」の知られた一篇で、「SONATINE No.2」の第一篇である。実は厳密には底本では「No.2」のポイントが有意に落ちて、

 

 SONATINE No.2

 

となっている(「SONATINE No.1」も同様でしかも「目次」では孰れもがこのポイント違いのままに

 

 SONATINE No.2

 

というように斜体化されている)。詩集ではこの一篇に続いて、そしてて」が続いて読まれるようになっている。しかし私は敢えて終曲である第三パートである「忘れてしまつて」の冒頭の『深い秋が訪れた!(春を含んで)』という逆説を逆手にとって彼の抒情を逆回転させてみた。するとそこには形成された操作感情によって生み出された抒情の周辺が殺ぎ落とされ、裸のふるえるいとおしいまでの道造の道端に佇立する夏の虹のかかった寒々とした冬景色がより鮮明に見えてくるように私には思われるからである。

 なお、中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、本全三篇から成る「SONATINE No.2」は昭和一二(一九二七)年一月号の『四季』に纏めて初出している。]

忘れてしまつて   立原道造

    忘れてしまつて

 

深い秋が訪れた!(春を含んで)

湖は陽にかがやいて光つてゐる

鳥はひろいひろい空を飛びながら

色どりのきれいな山の腹を峽の方に行く

 

葡萄も無花果も豐かに熟れた

もう穀物の收穫ははじまつてゐる

雲がひとつふたつながれて行くのは

草の上に眺めながら寢そべつてゐよう

 

私は ひとりに とりのこされた!

私の眼はもう凋落を見るにはあまりに明るい

しかしその眼は時の祝祭に耐へないちひささ!

 

このままで 暖かな冬がめぐらう

風が木の葉を播き散らす日にも――私は信じる

靜かな音樂にかなふ和やかだけで と

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の処女詩集「萱草に寄す」の知られた一篇で、「SONATINE No.2」の第三篇。老婆心乍ら、「峽」は「かひ(かい)」と読み、尾根の間の狭く細長い谷を指し(元は「山の交(か)ひ」の謂いである)、「凋落」は「てうらく(ちょうらく)」と読み、草木の生気が衰え凋(しぼ)み枯れることをいう。「深い秋が訪れた!」と同時に括弧書き乍ら「春を含んで」とやらかす若々しい新しい、それでいて不可思議な哀感を含羞した抒情の放声が素敵に哀しい。]

わかれる晝に   立原道造

    わかれる晝に

 

ゆさぶれ 靑い梢を

もぎとれ 靑い木の實を

ひとよ 晝はとほく澄みわたるので

私のかへつて行く故里が どこかにとほくあるやうだ

 

何もみな うつとりと今は親切にしてくれる

追憶よりも淡く すこしもちがはない靜かさで

單調な 浮雲と風のもつれあひも

きのふの私のうたつてゐたままに

 

弱い心を 投げあげろ

嚙みすてた靑くさい核(たね)を放るやうに

ゆさぶれ ゆさぶれ

 

ひとよ

いろいろなものがやさしく見いるので

唇を嚙んで 私は憤ることが出來ないやうだ

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の楽譜様の処女詩集「萱草に寄す」の冒頭の「SONATINE No.1」群の四篇目に配された一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、本篇の初出は実は続く同パート五篇目ののおとともに昭和一一(一九二六)年十一月号の『四季』であった。]

2015/09/26

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 藤九郎盛長の邸址

 藤九郎盛長の邸址

藤九郞盛長の屋敷趾は。甘繩明神の東の方の畠地をいふ。東鑑に治承四年十二月廿日武衛御行(みゆき)始めとして。藤九郞盛長が甘繩(あまなは)の家に入御し給ふとあり。其の後も往々に見ゆ。抑(そも)安達盛長は下野の人陰重にして器局(ききょく)あり。言論理致多し。將軍の伊豆に流るゝや。盛長之に從ひ。保護懇到。豪傑を招致し。八州を歷説(れきせい)す。聞者感激響應せり。將軍鎌倉に入り。功を論し賞を行ふ。盛長を以て上野奉行と爲し。尋(つい)て三河守護を攝せしむ。又丹後内侍を以て妻とし。時々邸に來りて游燕せしこと前にいへるが如し。二世の時太夫人北條氏〔政子〕命して政事を參决(さんけつ)せしむ。盛長髮を削(そ)りて蓮西と名(なづ)く。歿する年六十六。盛長儉約自奉し、餅𩝐蒸飯盛るに。朴葉を以てせしに。楮葉を用うる者あり。視て歎(たん)して曰く。是れ驕奢(きやうしや)の漸なりと。其の人となり以て見るべし。

[やぶちゃん注:これは一体、どこから引いたものか不明。今までと打って変わって異様に佶屈聱牙である。

「藤九郞盛長」「安達盛長」「蓮西」(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)頼朝の流人時代からの直参の側近。鎌倉時代後期まで勢力を保持した安達氏の祖。以下、ウィキの「安達盛長より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線はやぶちゃん)。「尊卑分脈」では、『小田野三郎兼広(藤原北家魚名流)の子としているが、盛長以前の家系は系図によって異なり、その出自ははっきりしていない。足立遠元は年上の甥にあたる。盛長晩年の頃から安達の名字を称した』(「尊卑分脈」の件は後述)。『源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。また『曽我物語』によると、頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長とされる』。『治承四年(一一八〇年)八月の頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、元暦元年(一一八四年)の頃から上野国の奉行人となる。文治五年(一一八九年)、奥州合戦に従軍。頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている』。『正治元年(一一九九年)一月の頼朝の死後、出家して蓮西と名乗る。同年四月、二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり、幕政に参画。その年に三河国の守護となっている。同年秋に起こった梶原景時の弾劾(梶原景時の変)では強硬派の一人となり、翌年の正治二年四月二十六日(一二〇〇年六月九日)に死去。享年六十六。生涯官職に就く事はなかった』。『安達盛長の屋敷は現在の甘縄神社にあり、神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っている。ここは、北条時頼の母、松下禅尼の実家であり、北条時宗の誕生の地でもある』。またここは、弘安八(一二八五)年十一月十七日に起った霜月騒動の際、後裔の権勢家安達泰盛が攻められて、一族郎党滅亡したところでもある。なお、同ウィキの注に、「尊卑分脈」では『盛長が「安達六郎」、遠元の父・遠兼が「安達藤九郎」と記され、盛長は遠兼の兄としている。盛長は正治二年(一二〇〇年)に六十六歳で没しているため、保延元年(一一三五年)生まれである。遠元は生没年不詳であるが、孫の藤原知光が仁安三年(一一六八年)生まれであることから、この段階で若く見積もって三十代後半と考えられ、一一三〇年代前半の生まれと推測される。したがって遠元は盛長よりも年長であり、『尊卑分脈』の兄弟順は逆で、実際の名乗りは遠兼が「六郎」、盛長が「藤九郎」であったと見られる』とある。

「武衞」源頼朝。

「御行始め」「みゆきはじめ」と読む。御成始(おなりはじめ)に等しい。皇族・摂家・将軍などの出行・来着を「御成」「御行」と称し、特に幕府にとって重要な将軍の正月儀礼の一つであった年初の出行のことをかく称した。

「陰重」口が重く、決して秘密を漏さない、あまり感情を表に出さない性格を指す語と思われる。

「器局」才能と度量。器量。

「保護懇到」主人を守り養い世話すること、極めて丁寧で行き届いていることを指す。隅々まで心が行き届き、この上なく親切なこと、真心を尽くして十分に言い聞かせることを意味する「懇到切至(こんとうせっし)」という「言志録」を出典とする四字熟語もある(「懇到」も「切至」もともに「懇ろに行き届くこと」をいう)。

「歷説(れきせい)」読みは「れきぜい」が正しいか。遊説(ゆうぜい)と同義であろう。

「上野奉行」前の「藤九郞盛長」の注の最初の下線部を参照。

「攝」治める。前の「藤九郞盛長」の注の二番目の下線部を参照。

「丹後内侍」(たんごのないし 生没年未詳)。ウィキの「丹後内侍より引く。『源頼朝の乳母である比企尼の長女。鎌倉幕府の御家人、安達盛長の妻。子に安達景盛、安達時長、島津忠久、源範頼室、他』(後の注に「吾妻鏡」で『丹後内侍の子と確認されるのは景盛のみで、他は系図による』とある)。「吉見系図」によれば、『京の二条院に女房として仕えており、「無双の歌人」であったという。惟宗広言と密かに通じて島津忠久を生み、離縁したのち関東へ下って安達盛長に嫁いだとしている。盛長は頼朝の流人時代からの側近であり、妻の縁で頼朝に仕えたと見られる。二条院には源頼政の娘二条院讃岐が女房として出仕している』。「吾妻鏡」によれば養和二(一一八二)年三月九日に『頼朝の妻、北条政子が嫡男・頼家を懐妊した際、着帯の儀式で給仕を務め』たとある。二人のいた『妹(次女・三女)は頼家の乳母となっている』。文治二(一一八六)年六月十日には、頼朝は丹後内侍の病気見舞に供の者二名のみを伴って、『盛長の屋敷を密かに訪れて見舞っている。頼朝は彼女のために願掛けをし、数日後に丹後内侍が回復するといくらか安堵したという』。『このように頼朝に近しい女性であった事から、後年、子の景盛が頼朝の子であるとする風説が出たり(『保暦間記』)、のちの島津氏が、祖の島津忠久を彼女と頼朝の子であると主張するなど、彼女を母とした二つの頼朝落胤説が見られるが、『吾妻鏡』をはじめとする当時の史料に丹後内侍が頼朝の子を産んだとする記録はない』とある。

「游燕」宴会を催すこと。

「二世」源頼家。

「太夫人北條氏〔政子〕命して政事を參决せしむ」前の「藤九郞盛長」の注の二番目の下線部を参照。

「儉約自奉」倹約することを以って何と日々の生活の楽しみとしていたことをいうのであろう。

「餅𩝐蒸飯舊」意味不明。識者の御教授を乞う。赤飯のようなものか?

「朴葉」「ほおば」。モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ Magnolia obovata の葉。大型の葉(生及び乾して使用)は芳香を持ち、しかも殺菌作用があるため、食材を包んで朴葉寿司・朴葉餅としたり、朴葉味噌や朴葉焼きの敷き具としてお馴染みである。

「楮葉」「ちよば(ちょば)」或いは「こうぞば」と読んでいるかは不明。イラクサ目クワ科コウゾ属雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × B. papyrifera の葉か? コウゾはヒメコウゾ Broussonetia kazinoki とカジノキ Broussonetia papyrifera の雑種で和紙の原料としても知られるが、しかし、あの葉は食物を盛るには如何に小さい気がするのだが? 識者の御教授を乞う。

「驕奢」奢侈(しゃし) に耽ること。驕(おご)って贅沢なこと。

「漸なり」「漸」は「きざし」と訓じているか? ある状態となる「兆し」の意である。]

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(4) 四 節の生ずること

     四 節の生ずること

 

 胎兒の身體が縱に延びて大分長くなつたかと思ふと、直にその中央部に若干の節が現れる。始は僅に三つ、四つの節が微に見えるだけであるが、忽ち節の數も殖え境界も頗る明になる。

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[兎の胎兒

(左)第九日目   (右)第八日目]

[やぶちゃん注:本図と次の「十六日乃至十八日目に於ける子宮内の胎兒」の図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した(講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難い)。]

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[十六日乃至十八日目に於ける子宮内の胎兒]

 

 圖に示したのは兎の第八日目と第九日目との胎兒であるが、體の中軸に當る處に脊髓があつて、その左右兩側に幾つかの節が見える。第八日目のものではその數が四つ、第九日目のものでは八つだけあるが、後には更にその數が殖える。人間の胎兒でも全くこれと同樣で、第十六日乃至第十八日位の胎兒を見ると、頭部を除いた外は全身に明な節が見えて居る。全體脊椎動物の身體は前後に竝んだ節から成るもので、魚類などではそれが最も明に見える。煮肴の皮を剝ぐと、その下の筋肉が恰も板を重ねた如くなつて居るのは、即ちかやうな節である。人間や獸類では、腕や腿を動かす筋肉が大きいために、胴の筋肉の節が十分に現れぬが、それでも腹の前面の筋肉、背骨の後の筋肉、肋骨の間の筋肉などには明に節がある。胎兒の若い時にはまだ手も足もなく、身體は單に棒の如くであるから、どこにも節が極めて明瞭に見える。

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[十四日頃の胎兒]

[やぶちゃん注:本図は前と異なり、講談社学術文庫版のものである。]

 

 節が生ずると同時に、身體の内部に體腔と稱する廣い空處が出來る。獸でも鳥でも魚類でも、腹面から切り開くと一つの廣い空處があつて、その内に肝・胃・腸・腎などすべての臟腑が藏つてあるのを見るが、この空處が即ち體腔であつて、これを圍む壁を體壁と名づける。腹の壁は體壁の一部であるが、これを切り開くと腸が現はれ、腸の壁を切り開くと初めて腸の内容物が見える。かやうに體壁と腸壁との間には一つの廣い空處があるが、これが即ち體腔である。しかるに動物の中には體腔の有るものとないものとがある。例へば「ヒドラ」とか珊瑚とかいふ類は、體の構造が簡單で、恰も湯呑か壺の如き形をして居るから、體壁を切り開けば、直に腹の内にある食物が現れるが、かやうな類には體腔はない。體腔のある動物と、ない動物とを比較すると、有る動物の方がすべての點で進んで居るから、體腔の有無によつて動物を高等と下等との二組に分けることが出來るが、人間の胎兒が十四五日頃から體内に體腔の生ずるのは、即ち下等の無體腔類から高等の有體腔類へ上りゆく所と見做すことが出來る。初めて體腔の出來る具合は動物の種類によつて多少異なるが、少しく進めば皆同樣になつてしまふ。最もわかり易い一例を擧げていへば、「なめくぢうを」では腸の壁から左右對をなした若干の袋の如きものが生じ後にこれが腸から離れ、互に相連絡し且擴がつて體腔となるのである。即ち體腔は初め腸の枝の如きものであつたのが、後に腸と緣が切れて獨立の空處となつたわけに當る。

 

 さて動物の中で體が長くて澤山の節があり、且體腔を具へた種類は如何なるものがあるかといふと、まづ「みみず」・「ごかい」などである。「みみず」は體が圓筒狀で、前端と後端との區別があり、頭から尾まで悉く同樣の節から成り、これを切り開いて見ると筋肉質の體壁の内には廣い體腔があつて、體腔の内を長い腸が縱に貫いて居るが、これだけの點は、大體に於て人間の第十六日乃至第十八日目の胎兒にも「みみず」にも共通である。されば人間も胎内發生の途中には一度「みみず」・「ごかい」の類とよく似た構造を有する時代があるというて差し支はない。

[やぶちゃん注:またしても私の好きなヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」である。]

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(3) 三 體の延びること

     三 體の延びること

 

 單一の細胞が分裂してまづ細胞の塊となり、次いで二重の細胞層よりなる胃狀の時代に達するまでは、變化が比較的に簡單であるが、これより先は構造が段々複雜になつて、詳しく書けばそれだけでも頗る大部な書物となる程であるから、こゝには素よりその一斑をも充分に述べることは出來ぬ。しかしながら、その中には人生を考へる人々のためによい參考となるであらうと思はれる點が幾らもあるから、その二三を擇んで要點だけを次に略述する。

[やぶちゃん注:ここまでの桑実胚が更に細胞分裂を行なって細胞数を増加させ、見ための胚の表面が滑らかになり、細胞数が数千から数万になる胞胚期までを初学者でも良く理解出来るように、実に易しく説明しておられる。所謂、小難しくなる「原口陥入」などの語は用いずに、以下原腸胚から神経胚の時期を語られてゆく。]

Kaerusinkeihai

[蛙の發生]

[やぶちゃん注:本図のみ国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した(講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難い)。同じく言わずもがな乍ら、左から右の順である。]

 

 胃狀の時代に達するまでは、子供の身體は茶碗・湯呑・壺等と同じく、たゞ裏と表があるばかりで前後左右の差別はないが、この時代を過ぎると、身體が追々前後に延びて頭と尾との區別が現れる。この變化は、蛙の卵で最も容易に見ることが出來るから、まづその圖を掲げてこれに人間の子供を比較して見よう。蛙の卵が分裂して桑實期を過ぎ、胃狀の時代に達するまでは外形は常に球の如くで、前後もなければ左右もないが、この時代を過ぎると、球形の上面に細長い溝が生じ、溝の兩側は恰も土手の如くに高まるから、溝が一層明になる。この溝の出來る場處は後に身體の背となる側で、溝の兩端の向つて居る方角は身體の前端と後端とに當る。溝の兩側の土手は、溝の一端を圍んで相連絡し、特に大きな土手をなして居るが、これが後に頭となる部分である。これらの土手は後に腦・脊髓となるもの故、神經の土手と名づけ、その間の土手を神經の溝と名づける。發生が進むに隨ひ、神經の土手は高くなり、神經の溝は深くなり、終に閉ぢて管となれば、體内に隱れて表面からは見えなくなる。神經の土手が現れてからは、今まで球形の蛙の子の身體に前後の方角が明に知れるが、それよりは身體が追々前後の方向に延びて長くなり、球形は變じて卵形となり、卵形が變じて瓜形となり、その内には、頭は頭、尾は尾として形が判然するやうになり、いつとはなしに「おたまじやくし」の形に似て來るのである。

[やぶちゃん注:「神經の土手」現行では、両側の「土手」と溝が形成される中央部分をひっくるめて神経板(ばん)と呼称する。

「神經の溝」神経溝(こう)のこと。

『「おたまじやくし」の形』現行では、特にここまで発達した段階を「尾芽胚(びがはい)」と呼び、丘先生が述べられているように体軸の前後及び上下方向が形成されてくるのである。]

2wtaiji

[第二週の胎兒]

[やぶちゃん注:本図のみ国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した(講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難い)。]

 

 人間の子も桑實期や胃狀の時代には、「ヒドラ」や珊瑚などと同樣で、いまだ身體に前後の區別がないが、第二週の終わり頃には既に著しく前後に延びて、恰も草履の如き形となる。前にも述べた通り、人間では他の獸類・鳥類・「とかげ」などと同じく、早くから胎兒を包む膜嚢が出來るから、蛙に比べると發生の模樣が幾分か複雜になるを免れぬが、これらの點を除いて身體だけを互に比べて見ると、第二週の人間の胎兒は、稍々長くなりかかつた蛙の子に頗るよく似て居る。即ち圖に示した通り、體の背面の中央には一本の縱溝があるが、これが神經の溝である。またその下に小さな穴が見えるのは、神經腸孔と名づけるもので、後に一時腦脊髓内の空處と腸内の空處とを連絡する管である。この管は蛙にもあれば鳥にも獸にもある。高尚な思想を産み出す腦髓の内の空處と、大便の溜り場處である大腸とが、發生中たとひ一時なりとも管によつて直接に連絡して居ることは、初めて聞く人には定めし奇怪な感じを與へるであらう。

[やぶちゃん注:「神經腸孔」現代の生物学でもこう呼称するようだが、高校の生物学ではこの名称は習った記憶がない。

「高尚な思想を産み出す腦髓の内の空處と、大便の溜り場處である大腸とが、發生中たとひ一時なりとも管によつて直接に連絡して居ることは、初めて聞く人には定めし奇怪な感じを與へるであらう」前章の末尾でピリッと利かした言い回しがここでも実に効果的に語られる、まさに「生物学的人生観」(本作が講談社学術文庫化される際に改題された書名)、丘流生物哲学の快刀乱麻と言える箇所である。]

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(2) 二 胃狀の時期

   二 胃狀の時期

Namekujiuwonohassei

[「なめくぢうを」の發生]

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、左上から右上へ、上・中・下段の順である。]

Kaerunorannobunretu

[蛙の卵の分裂]

 

[やぶちゃん注:本図のみ国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した(講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難い)。同じく言わずもがな乍ら、左上から右上へ、上・下段の順である。]

Sangonohassei

[珊瑚の發生]

[やぶちゃん注:同じく言わずもがな乍ら、左上から右上へ、上から下段への順である。上から二・三・四段目の右端は対象時期の卵子の状態を敢えて縦に割って細胞配置を分かり易く図示したものであるので注意されたい。]

 

 さて桑の實の如き形になつた子供は、次には如何に變ずるかといふに、細胞の數が相應に殖えると、これがみな一層に竝んで恰もゴム球の如き中空の球となり、更に球の一方が凹み入り内部の空處がなくなつて、終に二重の細胞層から成る茶碗の如きものとなる。これだけのことは如何なる動物の發生中にも必ずあるが、卵細胞が多量の黃身を含んで大きいか、または黃身を含まずして小さいかによつて、明白に見えるものと然らざるものとがある。なぜというに、黃身を含まぬ小さな卵は分裂するに當つても、全部分れて完全に二つの細胞となることが出來るが、黃身を含んだ大きな卵であると、黃身が邪魔になつて完全に分裂することが出來ぬ。雞の卵などは細胞が幾つに分かれても、最初の間は黃身の表面の一部に扁く竝んでいて桑の實の如き形にはならぬ。しかし他の小さな卵の發生に比較して調べて見ると、雞の發生にも、やはり桑實期があつて、たゞ黃身のために妨げられて桑の實の如き形にならぬだけであることが明に知れる。球形になり茶碗の形になるときもこれと同樣で、雞の發生では、この時代の變化がなかなかわからぬが、黃身のない小さな卵で調べると極めて明瞭になる。脊椎動物のなかで最も下等なものに「なめくぢうを」といふ長さ三糎餘の頭のない奇態な魚があるが、その卵からの發生を見ると、以上の茶碗の形になるまでの變化が頗る明であるから、脊椎動物の發生の見本として圖を掲げておく。受精の濟んだ卵細胞が分裂して忽ちの間に無數の小さな細胞の塊となることだけならば、蛙の卵に就いても容易く觀察することが出來る。獸類の卵は、恰も「なめくぢうを」の卵の如く黃身を含まず小さいが、その發生は少しく異なつた所がある。しかし大體に於てはこれと同樣で桑實期の次には、やはり二重の細胞層からなる茶碗形の時代が來る。茶碗はまた深くなつて湯呑や壺の形になるが、この時代に達すると、外の層の細胞と内の層の細胞との間に段々相違が現れ、外層のは小さくて數が多く、内層のは大きくて數が稍々少なく、その働きにも分業が始まり、外細胞は主として感覺を司どり、内細胞は專ら消化を務めるやうになる。獨立自營する動物でこれと同樣の構造を有するものは「ヒドラ」・珊瑚・「いそぎんちやく」の類であるが、これらはいずれも身體は湯呑みの如き筒形で、内外二枚の細胞層よりなり、一端には口があり、他端は閉ぢて居る。發生の途中とは違ひ、自ら餌を捕へて食はねばならぬから、そのための道具として口の周圍に若干の觸手を具へて居るが、これを取り除いて考へると、他の動物の湯呑狀の時期のものと構造が全く一致する。即ち珊瑚類は「なめくぢうを」などの發生の道を、湯呑狀の時期まで共に進み來り、そこで成長が止まつたものと見做すことが出來る。いひ換へれば、我々の發生の初期には、一度「ヒドラ」・珊瑚などと同樣な構造を有する時代を經過するのである。そして珊瑚類の體内にある空處は食物を消化する處故、胃と呼ぶのが適當であるが、高等動物の發生中の湯呑狀の時期も、これに比べて胃狀の時代と名づける。即ち我々人間も發生の初には他の諸動物と同じく、一度全身が胃囊のみである時代があつて、神經や骨の出來るのはそれより遙に後である。或る文士の文句に「筆は一本なり、箸は二本なり。衆寡敵せずと知るべし。」と、あったように覺えて居るが、發生を調べて見ても、食ふ器官がまづ最初に出來て、思想の器官は餘程後に現れる。人生第一の問題は何としてもパンの問題である。

[やぶちゃん注:「なめくぢうを」第七章 本能と智力 一 神經系に既出であるが、私の好きな脊索動物なれば注を再掲しておく。ナメクジウオは原始的な脊索動物で、脊椎動物の最も原始的な祖先に近い動物であると考えられる生きた化石である。脊索動物門脊椎動物亜門頭索動物亜門ナメクジウオ綱ナメクジウオ目ナメクジウオ科のナメクジウオ Branchiostoma(生殖腺は体幹の左右両側にある)及びカタナメクジウオ属 Epigonichthys(生殖腺は体幹の右側のみ)に属する生物の総称。日本近海には、

 ナメクジウオ     Branchiostoma belcheri

 カタナメクジウオ   Epigonichthys maldivense

 オナガナメクジウオ  Epigonichthys lucayanum

 ゲイコツナメクジウオ Asymmetron inferum

の四種が生息しており、愛知県蒲郡市三河大島と広島県三原市有竜島がナメクジウオの生息地として天然記念物に指定されているが激減しており、絶滅が危惧されている希少種である。主に参照したウィキの「ナメクジウオ」によれば、体長は三~五センチメートル程で、『魚のような形態をしている。体色は半透明。背側と腹側の出水口より後方の縁はひれ状にやや隆起してひれ小室と呼ばれる構造が並び、それぞれ背ひれ、腹ひれと呼ばれる。後方のひれ小室を伴わない部分は尾ひれとして区別される。神経索の先端には色素斑や層板細胞、ヨーゼフ細胞と呼ばれる光受容器をもつほか、神経索全体にわたってヘッセの杯状眼と呼ばれる光受容器がある。閉鎖血管系』(リンク先の模式図の7)『をもつが、心臓はもたず、一部の血管が脈動することで血液を循環させている。体の前半部にある鰓裂』(リンク先の模式図の10)によって『水中の酸素を取り込んでいる。鰓裂は水中の食物を濾こしとる役割も果たしている』。『頭部から尾部にかけて、筋肉組織でできた棒状組織である「脊索」をもつ。多くの脊椎動物では、発生過程において脊椎が形成されると「脊索」は消失するが、ナメクジウオ(頭索動物)は生涯にわたって「脊索」をもち続ける。また脊椎動物と異なり、頭骨や脊椎骨はもたない。脊索の背側に神経索』(リンク先の模式図の3)を持っており、神経索の先端は脳室(リンク先の模式図1)『と呼ばれ、若干ふくらんでいるが、脳として分化しているとは見なされない。かつては食用とされた』。『全世界の暖かい浅海に生息している。体全体を左右にくねらせて素早く泳ぐことができるが、通常は海底の砂のなかに潜って生活している。ホヤなどと同様、水中の食物を濾過することで摂食している。体内に緑色蛍光タンパク質を持ち、特に頭部が明るく発光する。雌雄異体であり、精子と卵を体外に放出し、体外受精を行う』。古生代カンブリア紀のバージェス動物群(五億一五〇〇万年前)の一種として発見されたgenus Pikaiaピカイアはナメクジウオによく似ていることから、これが脊椎動物のもっとも古い先祖と言われたこともある。しかし、それよりやや前の澄江(チェンジャン)動物群(約五億二五〇〇万年前から約五億二〇〇〇万年前のカンブリア紀前期中盤に生息していた、化石の発見地である中国雲南省澂江県の名を冠した動物群)から発見された、最古の魚類のルーツとされるミロクンミンギア genusMyllokunmingia(中文名は昆明魚)の仲間ハイコウイクチス Haikouichthys『が当初は頭索類ではないかと言われたが、頭に当たる構造が確認されたことで脊椎動物と考えられるに至った。したがって、それらの系統の分岐はさらに遡ると考えられる』とある。丘先生は発生実験の実験動物として最適などとおっしゃられているが、今や、天然記念物指定地でも見つけ出すのが困難とされており、かつては多量に棲息していた瀬戸内海などでも絶滅した地域が多数ある模様である。私も実はかなり昔、どこかの水族館の期間限定特別展示で一度現物を見たきりである。

『我々の發生の初期には、一度「ヒドラ」・珊瑚などと同樣な構造を有する時代を經過するのである』まさにヘッケルの言う、「個体発生は系統発生を繰り返す」である。
 
『或る文士の文句に「筆は一本なり、箸は二本なり。衆寡敵せずと知るべし。」と、あったように覺えて居る』(この部分、実は底本では『衆寡敵せずと知るべし」。と、』となっている。誤植と断じて例外的に訂した)明治の作家齋藤緑雨(慶応三(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年)の明治三三(一九〇〇)年刊の警句集「青眼白頭」に出るもの(正直、彼の小説は面白くないが、アフォリズムは頭抜けてよい)で、正確には、

 按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡(しうくわ)敵せずと知るべし。

である。「衆寡(しゅうか)敵せず」とは、多数と少数では相手や勝負にならない、多勢に無勢、多数と少数では多数に敵(かな)わぬの意である。筆一本で誠実に対象や世界と戦おうというのは圧倒的少数者である「真の文学者」を指し、箸二本を持ってひたすらオマンマを食う/食うために生きねばならぬ存在なのは圧倒的多数である大衆をいう。逐語的には、

――文芸の真実を訴えんと筆を執る作家と「生」を維持せんと箸を取る大衆とではおよそ作家側には勝ち目はない――

という意味ではある。一見、プロレタリア文学的な誤認をしそうになるが、これは緑雨御得意の多層的な意味を込めた強烈な皮肉、毒舌と読まねばなるまい。ここには、

――真実の思想なんぞを追及してた日にゃ、オマンマ食い上げで生きていけねえ、何より「生」の欲求たる食い気こそが普通の人にとってはまず人生最大の必要条件であって、それに対しては文学は到底、勝ち目はねえんだ――

といったニュアンスがまず一層目にあろう。いや、丘先生の引用目的を理解するには、まず、この程度の解釈と、後はエンディングが新約聖書の「マタイによる福音書」の第四章にある人口に膾炙した「人はパンのみにて生くる者に非ず」(人間は物質的満足だけを目的として生きるものではない)を引っ掛けている皮肉であることを念頭においておくだけで充分ではあろう。しかし昔から、真の芸術家は食っていけない、とも言う一方で、食っていけてる自称「芸術家」どもも現実にワンサといるわけで、この警句を作家・文学者自身の言葉としてさらに凝視してみるならば、

――芸術上の真実を捉えんと志した多くの芸術家も、結局は後の中島敦の「山月記」の李徴の如く、生活のため妻子のためと称しては、己れの思想信条節操理念をも、恥ずかしげもなくかなぐり捨て、似非(えせ)「作家」と化して成功し、タラフく食っている輩がゴマンといるじゃないか――

――真(まこと)の文筆家たるものは必然的に貧乏であり飯は食えぬ者となる覚悟をせよ――

という意味にも見えてくるのである。即ち、面白可笑しい浅薄軽薄猥雑なる作品を「喰らう」ことを好む愚劣な「大衆」に迎合した作品を書き散らしては、もて囃されている作家連中への批判も、ここには鋭く込められているということが見えてくる、と私は思うのである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 裁許橋/飢渴畠/甘繩神明宮

    ●裁許橋

裁許橋は鎌倉十橋の一にして佐介谷より流れ出る小川に架せる橋なり。舊問注所の前なるに因り。此の名あり。或人云ふ。西行橋なり。むかし西行鎌倉に來り。此の橋頭に踟蹰す。故に名く。按するに東鑑に文治二年八月十五日。賴朝鶴岡參詣の時。鳥居の邊に徘徊する老僧あり。名字を問はしめ給へは。佐藤兵衞尉憲淸法師也とあり。此の橋この鳥居に近し。蓋(けだ)し據なきにあらず。

[やぶちゃん注:現在の御成小学校の南東角二十メートルほど南に架るごく小さな橋である。文治二(一一八六)年の西行の頼朝との邂逅と面談は私も好きなシークエンスで事実と考えられるが(私の電子テクスト「北條九代記卷第一 西行法師談話」の原文及び私の詳細な注を参照されたい)、これは音の類似性から生まれた偽説として私は問題にさえしない。「此の橋この鳥居に近し」とか言っているが、どこが近いんや! 全然、近こうないわい!! だいたいやね! 当時の頼朝の屋敷の位置(大倉幕府直近)から見ても鶴岡八幡宮参詣のために、こないな場所は、絶対、通らへんで!!]

 

    ●飢渴畠

飢渴畠(きかつばたけ)は裁許橋の南。長谷路に出(いづ)る路傍にあり。此所昔よりの刑塲にて。後世も罪人をさらし斬戮(ざんりく)せし地なり、故に耕作せさるより飢渴畠と名くといふ。今は三界萬靈(くわいばんれい)なとの碑石建てり。

[やぶちゃん注:「けかちばたけ」と読む。現在の六地蔵附近の古称。この西側当たりに鎌倉時代の刑場の跡があり、後も場所柄、耕作されずに荒れ地となっていたことから、かくも不吉なる名となったとも言われる。

「三界萬靈なとの碑石」「三界」は「さんがい」で、心を持つものの存在する無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界の三つ、仏以外の全世界を指し、そこのありとある総ての精霊(しょうりょう)たる「萬靈」(まんりやう(まんりょう))を供養する、という意味の石碑である。実質的には無縁墓地を整理した際や、造成作業などで複数出土した遺骨群を納めたものをかく名付けて合葬用に建てた場合が意想外に多い。ここは事実、刑場でったから、人骨の出土はかなり古くからあって、同時にそうした供養塔や地蔵像が連綿と建てられ続けたとも考えられよう。]

 

    ●甘繩神明宮

甘繩明神は。佐佐目谷(ささめがやつ)の西長樂寺谷御輿嶽の隣(となり)に在り。長谷路の北に見ゆる茂林(もりん)なり。天照大神を祀り奉る。里俗は之を甘繩明神宮と稱す。祠後の山を見越嶽(みこしがたけ)といふ。東鑑に。文治二年正月二日。二品〔賴朝〕並びに御臺所甘繩神明の宮(みや)に御參とあり。又甘繩神明奉幣の事往々に散見す。祠内に八幡太郞義家の像あり。神事は毎年九月十六日なり。按するに。甘繩はあまのたぐなはの義にて。卽ち海士繩(あまなは)ならむが。甘繩と書(しる)しては恐らくは義を爲さず。

[やぶちゃん注:和銅三(七一〇)年八月に行基の草創とされ、鎌倉最古の神社と言われる。伝説の鎌倉の長者染谷太郎時忠が山上に神明宮を、山麓に神輿山円徳寺を建立したという。後に源頼義が相模守となって下向した際、平直方(彼は染谷時忠の娘婿という)の娘を娶り、当社に祈願して八幡太郎義家をこの地で生んだとされる。康平六年(一〇六三)には当社を修復、永保元年(一〇八一)には八幡太郎義家公が当社を修復したという。「吾妻鏡」によれば源頼朝はここを伊勢別宮として崇敬した。「相模国風土記稿」の「神明宮」の項では『里俗は甘繩明神と唱ふ』『神躰は義家の守護神と云傳へ秘して開扉を許さず』などとあり、『別當甘繩院 神輿山と號す、臨済宗〔京都妙心寺末〕本尊地藏を安ず』とあるが、明治のおぞましい廃仏毀釈により、別当甘繩院は廃絶している。私はこの裏山が好きだった。なお、私は「縄」という新字体を見ると虫唾が走る人間である。従って、ここでは注の中でも総て「繩」を用いている。悪しからず。

「御輿嶽」「見越嶽」後出。

「甘繩はあまのたぐなはの義にて。卽ち海士繩(あまなは)ならむが」この「甘」を海士(あま/漁師)、「繩」を漁の際に用いる引き繩の意味とする説は確かにある。由比ヶ浜近くの材木座の一画や、この甘繩神明神社(これが現在の正式名)附近の長谷から坂下(さかのした)にかけては近代まで鎌倉の漁業の中心地であった。

「文治二年」一一八六年。]

村ぐらし   立原道造

  村ぐらし

 

郵便函(ばこ)は荒物(あらもの)店の軒にゐた

手紙をいれに 眞晝の日傘をさして

別莊のお孃さんが來ると 彼は無精者(ぶしやうもの)らしく口をひらき

お孃さんは急にかなしくなり ひつそりした街道を歸つて行く

 

   *

 

道は何度ものぼりくだり

その果ての落葉松(からまつ)の林には

靑く山脈が透(す)いてゐる

僕はひとりで歩いたか さうぢやない

あの山脈の向うの雲を 小さな雲を指さした

 

   *

 

虹を見てゐる娘たちよ

もう洗濯(せんたく)はすみました

眞白い雲はおとなしく

船よりもゆつくりと

村の水たまりにさよならをする

 

   *

 

あの人は日が暮れると黃いろな帶をしめ

村外(はづ)れの追分(おひわ)け道で 村は落葉松の林に消え

あの人はそのまゝ黃いろなゆふすげの花となり

夏はすぎ……

 

   *

 

泡雲幻夢童女(はううんげんむどうじよ)の墓

 

   *

 

晝だからよく見えた 街道が

ひどい埃(ほこり)をあげる自動車が

淺間にかゝる煙雲(けむりぐも)が

晝だから丘に坐つた 倒れやすい草の上

御寺(みてら)の鐘がきこえてゐた

とほかつた

 

   *

 

 せかせか林道をのぼつたら、蟲捕り道具を持つた老人に會つた。彼は遠眼鏡(えんがんきやう)をあてて麓(ふもと)の高原を眺めてゐた。もつとのぼると峽(かひ)があつた。木の葉が、雲の形を透(す)いてゐた。その下の流れで足を洗つた。すると氣分がよかつた。草原に似た麓の林に、光る屋根が見えてゐた。またおなじ林道をくだつた。もう誰にも會はなかつた。しばらくすると村で鳴く鷄(にはとり)を聞いた。はるかな思ひがわき、すぐに消え、ただせかせかと道をくだつた。長かつた。

 

   *

 

村中でたつたひとつの水車小屋は

その靑い葡萄棚(ぶだうだな)の下に鷄の家族をあそばせた

うたひながら ゆるやかに

或るときは山羊の啼き聲にも節(ふし)をあはせ

まはつてばかりゐる水車を

僕はたびたび見に行つた ないしよで

村の人たちは崩(くづ)れかかつたこの家を忘れ

旅人たちは誰も氣がつかないやうに

さうすりやこれは僕の水車小屋になるだらう

 

 

[やぶちゃん注:底本は昭和六一(一九八六)年(改版三十版)角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」。「泡雲幻夢童女(はううんげんむどうじよ)の墓」のルビの「じよ」はママ。中村氏の注に本篇は昭和九(一九三四)年『七月堀辰雄とともに追分に滞在した体験に基づく』とある。

 第五連の「泡雲幻夢童女の墓」について、中村氏の注には『追分、泉洞寺の墓地に或江戸時代の遊女の墓碑に刻まれた法名の一つに「泡雲禅定尼」というものが実在し、これはそれによる彼の創作であろう。同書には廓春草童女の法名もある』とある。曹洞宗浅間山泉洞寺は「せんとうじ」と読み、現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分一二五九にある。同寺の公式サイト内の境内散策の頁の「歯痛地蔵尊(作家 堀辰雄の愛した石佛)」に『堀辰雄を慕って追分を訪れた文人は数多いが特に詩人である立原道造がいる、彼も堀と同様、泉洞寺にお参りしこの石佛にも手を合わせていったのだろう。「村ぐらし」の一節に泉洞寺墓地の一角にある「泡雲幻夢童女」という戒名が詠まれている』とある。いつか散策してみたい気がする。

 第七連の散文詩の冒頭一字下げはママ。]

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(1) プロローグ / 一 卵の分裂

    第十四章 身體の始め

 

 自分の身體は初め如何にして出來て、如何なる狀態の時代を順次經過し來たつたかを知ることは、人生に就いて考へるに當つて最も必要である。これを知ると知らぬとでは、人生に關する觀念に非常な相違を生じ、場合によつては正反對の結論に達せぬとも限らず、またこれを知つて居ても暫く忘れて居ると、やはり異なつた觀念を抱くに至り易い。されば苟しくも人生を論ぜんとする者は、一通り生物個體の發生特に人間の身體の出來始めの模樣を知つて置く必要があらう。實はこの知識の缺けた者は人生を論ずる資格がないやうにも考えられる。本章と次の章とで述べる所は、人類及び普通の獸類の個體發生の歷史の中から、最も重要なと思われる點を幾つか拾ひ出して、その大體を摘んだものである。

 

 身體の發生に就いて特に忘れてはならぬのは、その始の極めて判然たることである。まだ顯微鏡を用ゐなかつた頃には、精蟲はいふに及ばず、小さな卵も知られずにあつたから、人間その他の獸類の子の出來るのは恰も無中に有を生ずる如き感があつて、その間に餘程神祕的の事情が存するやうに思はれたが、今日では母の卵巣から離れた一個の卵細胞と、父の睾丸から出て母の體内に入り來つた無數の精蟲の中の一疋とが、喇叭管内で出遇ひ相合して一の細胞となるときが、即ち子の生涯の始めであることが明になつた。精蟲が卵細胞内に潜り込み、核と核とが相合して、二つの細胞が全く一つの細胞となり終るまでは、まだ子なる個體は存在せぬが、これだけのことが濟めば、既に子なる個體がそこに居るから、個體の生命には判然たる出發點がある。地球上に初めて人間なるものが現れてから今日に至るまでに、生まれては死に、生まれては死にした人間の數は、實に何千億とも何兆とも算へられぬ程の多數であらうが、これが皆一人一人必ず父の精蟲と母の卵細胞との組合するときに新たに出來たのであつて、その前には決してなかつた人間である。そしてこれらの人間の精神的の作用も毎囘身體の發生に伴うて現れ、腦の大きさが一定の度に達すれば意識が生じ、腦が健全ならばさまざまの工夫を凝し、腦に腫物が出來れば精神が狂ひ、心臟麻痺によつて血液の循環が止まれば、腦に酸素が來なくなつて、意識は消滅してしまふ。これらは、肉體は死んでも魂はいつまでも殘ると信ずる人等の宜しく參考すべき事實であらう。

 

    一 卵の分裂

 

 人間も他の動物と同じく、個體の始めは單一な細胞である。受精の濟んだ卵細胞も、受精前の卵細胞も大きさは少しも違はず、外見は同じやうであるが、生存上の價値には非常な相違がある。人間の卵は受精前も受精後も直徑僅に一粍の五分の一に過ぎぬ球形の細胞でであるが、受精する機會を獲られなかつたものは、たゞ母體の組織から離れた一の細胞として、その運命は皮膚の表面や頰の内面から取れ去る細胞と同じく、結局捨てられて死ぬの外はない。これに反して、受精の濟んだ卵は始め暫くは單一の細胞であるが、これが基となつて種々複雜な變化・發育を遂げて、終に赤子となり成人となるのであるから、已にその種族を代表する一の個體と見做さねばならぬ。法律では何箇月以上の胎兒は人間と見做すが、それ未滿の胎兒は物品と見做すといふ規定があるとか聞いたが、これは素より便宜上の必要から止むを得ず造つた勝手の定めで、學問上からは何の根柢もない。理窟からいへば、受精の濟んだ卵の時代まで遡つても、やはり一個の人間に違ないから、我々は誰でも出來始めには、「アメーバ」や「ざうりむし」と同格の一細胞であつたといはねばならぬ。たゞ「アメーバ」や「ざうりむし」が獨立自營の生活をして居るに反し、親の體内に保護せられ親から滋養分の供給を受けて、寄生的の生活を營んで居たといふだけである。

[やぶちゃん注:「人間の卵は受精前も受精後も直徑僅に一粍の五分の一に過ぎぬ」ヒトの卵子の大きさは〇・一~〇・二ミリメートル。

「法律では何箇月以上の胎兒は人間と見做すが、それ未滿の胎兒は物品と見做すといふ規定があるとか聞いたが、これは素より便宜上の必要から止むを得ず造つた勝手の定めで、學問上からは何の根柢もない。理窟からいへば、受精の濟んだ卵の時代まで遡つても、やはり一個の人間に違ない」「根柢」は「根底」に同じ。物事や考え方の大本となるところ。根本。以下、ウィキの「人工妊娠中絶」から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母体保護法の第二条第二項には、人工妊娠中絶を行う時期の基準は、「胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期」と定められており、妊娠二十二週未満とされた。以前は昭和五十一年までは通常二十八週未満、昭和五十一年~平成二年は通常二十四週未満、昭和五十三年に「妊娠満二十三週以前」の表現へ修正、平成二年以降に未熟児の生存可能性に関する医療水準の向上を受け、通常二十二週未満と基準期間が短縮された。また、個々の事例での生存可能性については、母体保護法指定医師が医学的観点から客観的に判断を加味すべきことも、付記および保健医療局精神保健課長からの同日通知で示された。厚生労働省の統計によれば、二〇〇八年に日本で行われた人工妊娠中絶は二十四万二千二百九十二件で、十五~四十九歳女子人口に対する比率は〇・八八%、出生百に対する中絶数の比率は二十二・二件(全妊娠のおよそ五人に一人弱)である。過去に遡ると、一九五五年に約百十七万件(全妊娠のおよそ二・五人に一人)、一九六五年に約八十四万件(全妊娠のおよそ三人に一人)、一九八〇年に約六十万件(全妊娠のおよそ三・五人に一人)、一九九〇年に約四十六万件(全妊娠のおよそ三・五人に一人)、二〇〇〇年に約三十四万件(全妊娠のおよそ四・五人に一人)となっている。一方、科学学術誌 Nature は、一九九六年に日本での中絶件数を年間四十一万件と報告されているが実際はその三倍程度の件数と推測されると報告した。一般に中絶というと未婚若年者のイメージが強いが、妊娠者が中絶を実施する割合は十歳代と並んで四十歳代が高くなっている。一九七五年頃には、十歳代の妊娠でも出産の割合が過半数なのに対し、四十歳代では九割近くが中絶している。ただし絶対数では、妊娠者自体の多さから二十~三十歳代が大半を占める。また、日本では他国に比べて中絶者に占める既婚者の割合が高い特徴があり、主流な避妊方法の違いとも相まって産児調節の一端を担ってきたことが窺える。近年は毎年一万件近く件数は減り続けており、二〇一二年は約十八万件である』。]

Usaginorannnobunretu

[兎の卵の分裂]

 

 さてかやうな單細胞のものが基となつて、如何にして無數の細胞からなる身體が出來上るかといふに、これまた「アメーバ」や「ざうりむし」の繁殖と違はぬ分裂法による。こゝに掲げた圖は兎の受精後の卵が順々に分裂して、細胞の數の殖えて行く有樣を示したもので、初め一個の球形の細胞は二分して楕圓形のもの二個となりこれがまた各々二分して都合四個となり、更に分裂して八個十六個三十二個六十四個といふやうに速に數が增すと同時に、各細胞の大きさは減じて忽にして小さな細胞の一塊となる。この時代には子の身體は恰も鹿の子餅か桑の實の如くに見えるから、桑實期と名づける。これと同じ狀態で獨立自營の生活をして居るものを求めると、水中に棲息する原始蟲類の群體が丁度その通りで、数十もしくは數百の同樣な細胞が一塊となり、相離れぬやうに透明な膠質のもので繫がつて居る。即ち「アメーバ」や「ざうりむし」に似たものが相集まり、一群體をなして水中に浮かんで居るのであるから、構造からいふと桑實期の幼兒と少しも違はぬ。

Gensityuruiguntai

[原始蟲類の群體]

 

 人間の受精した卵が分裂して細胞の數の殖える有樣を直接に見た者はまだ一人もない。その理由は説明するにも及ばぬ程明白なことで、人間の卵と精蟲とが出遇ふことは毎夜各處で行はれて居るが、受精後直に女を殺してその輸卵管内を調べることは一回も行はれぬからである。しかし人間のその後の發生が犬・猫・兎。鼠などとと全く同樣であり、且これらの獸類の桑實期に達するまでの變化が悉く一致して居る所から考へると、人間でも兎でもこの頃の發生狀態が全く同じであることは疑ない。これは類推ではあるが決して間違のない推察で、恰も明朝も太陽は東から出るであらうといふ推察と同じく、大地を打つ槌は外れても、こればかりは外れぬといふ位に確なものである。即ち人間の個體の出來始めは、前に述べた通り單一の細胞であるが、次には細胞の數が殖えて原始蟲類の群體と同樣の時代を經過する。そしてこの時代にはまだすべての細胞が同樣であつて、その間に少しも相違が見えず、また分業の行はれる樣子もない。或る人の計算によると、成人の身體は三十餘兆の細胞から成るとのことであるから、赤子の身體には約二兆の細胞があると見做して宜しからうが、これが皆最初の單一な細胞の分裂した結果である。一つから二つ、二つから四つといふやうに毎回二倍づつに殖えるとして、何回分裂すればこの數に達するかと算へて見ると、おおよそ四十囘ですむ。されば赤子の身體は細胞の數のみに就いていふと、恰も「アメーバ」が四十回も引き續いて分裂生殖を行うただけの細胞が一塊をなして居るものに相當する。たゞ「アメーバ」の方は何萬何億に殖えても皆同じやうな細胞であるが、人間の方は發生が進むに從うて、細胞間に分業が行はれ、追々複雜な組織や器官が出來るので、驚くほど違つた結果を生ずるのである。

[やぶちゃん注:「或る人の計算によると、成人の身體は三十餘兆の細胞から成るとのことであるから、赤子の身體には約二兆の細胞があると見做して宜しからう」ネット記載を見ると、まことしやかに幼児と成人の総細胞数は変わらないとうそぶいている発言をしばしば眼にするが、素人が考えてもヒトの人体を構成する細胞自体の大きさそのものは乳児だろうが成人だろうが基本、変わらないはずである(でなければ細胞は正常に機能せず、生存を維持出来ないはずである)。私の支持出来るとある現行のネット記載によれば、体重六十キログラムの大人で細胞数は六十兆程度、体重三キログラムの少し大きめの赤ん坊で細胞数は三兆程度とある。丘先生のこの記載の時代(初版大正五(一九一六)年)を考慮すれば、この齟齬は別段おかしくはなかろう。しかも、丘先生が数えた訳でもないのである。]

ゆふすげびと   立原道造

    ゆふすげびと

 

かなしみではなかつた日のながれる雲の下に

僕はあなたの口にする言葉をおぼえた

それはひとつの花の名であつた

それは黄いろの淡いあはい花だつた

 

僕はなんにも知つてはゐなかつた

なにかを知りたく うつとりしてゐた

そしてときどき思ふのだが 一體なにを

だれを待つてゐるのだらうかと

 

昨日の風に鳴つてゐた 林を透いた靑空に

かうばしい さびしい光のまんなかに

あの叢に咲いてゐた‥‥さうしてけふもその花は

 

思ひなしだか 悔ゐのやうに—――

しかし僕は老いすぎた 若い身空で

あなたを悔いなく去らせたほどに!

 

 

[やぶちゃん注:ツイッターで女性の詩人の方が指し示して下さった詩。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『文芸汎論』昭和一一(一九三六)年十一月号に前に発表されたものである。同脚注は、この詩について、室生犀星の「我が愛する詩人の伝記」の以下の記述を想起させる、とする(最後の句点は私が補った)。

   《引用の引用開始》

「追分村の旧家に一人の娘がいて、立原はこの娘さんを愛するようになっていた。(略)私はその娘さんを一度も見たことはないが、一緒に散歩くらいはしていたものらしく、その途上にあった雑草とか野の小径や、林のに顔を出している浅間山なぞが、娘さんのからだのほとぼりを取り入れて、匂って来るような彼の詩がいたるところにあった。娘さんとの交際は一、二年くらいのみじかさで終り、東京の人と結婚したらしい、いわば失恋という一等美しい、捜せばどこにでもあってしかもどこにもないこの愛情風景が、温和(おとな)しい立原に物の見方を教えてくれただろうし、心につながる追分村が、ただの村ざとでなくなっていたのであろう。

   《引用の引用終了》

また、続けて同注は、最終行「あなたを悔いなく去らせたほどに!」は、道造が、

   《引用開始》

友人柴岡亥佐雄に送った手紙(昭和十一年七月下旬)にあるように、伊東静雄の詩集『わがひとに与ふる哀歌』中の「行つてお前のその憂愁の深さのほどに」と軌を一にする詩句である。

「君のおそれるような物語はなんにもないんだ。(略)ざらざらと、それは毎日している。高原バスなどに似た人の面影見るときには。しかしやっと心が一つのイマージュに向けられ、しずかに燃えているんだ。『わが去らしめし人は去り』という伊東静雄の一句を考えてみたまえ。そんな風だ」

    《引用終了》

とある。以下、私の電子テクスト伊東靜雄わがひとに與ふる哀歌初版本準拠復元から「行つて お前のその憂愁の深さのほどに」を私の注ごと引いておく。

   *

 

  行つて お前のその憂愁の

  深さのほどに

 

大いなる鶴夜のみ空を翔(かけ)り

あるひはわが微睡(まどろ)む家の暗き屋根を

月光のなかに踏みとどろかすなり

わが去らしめしひとはさり……

四月のまつ靑き麥は

はや後悔の糧(かて)にと收穫(とりい)れられぬ

 

魔王死に絶えし森の邊(へ)

遙かなる合歡花(がふくわんくわ)を咲かす庭に

群るる童子らはうち囃して

わがひとのかなしき聲をまねぶ……

(行つて お前のその憂愁の深さのほどに

明るくかし處(こ)を彩れ)と

 

[やぶちゃん注:「はや後悔の糧にと收穫れられぬ」はここで見開き改頁となり、「魔王死に絶えし森の邊へ」は次頁の第一行から印刷されているようにしか見えない。暫く全集版の表記に従い、行空きを行ったが、少なくとも当初、この「わがひとに與ふる哀歌」を読んだ者は、この詩を一連の詩として読んだことは間違いないことを銘記しておきたい。]

   *

 また、角川文庫中村真一郎編「立原道造詩集」のこの詩篇の編者注には、道造から『鮎・アンリエットと呼ばれている少女。道造の詩集に『ゆふすげびとの歌』(昭和四〇・一書痴往来社)があるが内容的には『萱草に寄す』の別稿であり』、しかも『同作品は入っていない』とある。

 以上から、この「ゆふすげびと」とは、既注の関鮎子その人であることは疑いない。]

2015/09/25

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鎌倉政事堂の舊蹟

    ●鎌倉政事堂の舊蹟

今小路より飢渇畠に出る所。即ち天狗堂に在り總て陸田にて見るべき者なし今懷古の情に堪(たへ)されは聊か政所、問注所の事をいふべし。

政所別當一人。章疏を議し教令(けいれい)を出すを掌る令一人教命を掌る。號して執事と曰ふ。其の餘號して寄人曰ふ。寄は猶ほ會(くわい)のごとし。府中の庶務皆會决す。後又局(くよく)を分て恩澤奉行一人を置く。案主一人。土地人民貢賦(くぶ)の差。錢穀出納(せんこくすいとう)の政。總て之を領するを掌る。知家事一人。財穀奉給(ざいこくほうきう)の制。軍人諸客の賜與。及び府中奴碑の衣服祿食(ろくしよく)を給するを掌る。凡そ管内の賦租。物産豐約の宜。水陸道塗の利。地を相(さう)し便(べん)に從ふ。穀(こく)熟(じゆく)せされば則ち案主 知家事、巡檢以税を減(げん)す。凡そ政府土を割き邑を賜ふことあれは。之(これ)か教文(きやうもん)を爲る。案主知家事名を署す。其の下に家司(かし)數員(すうゐん)あり。局(きよく)を分て以て内外の務に給す。以上を常參官とす。其の他政府に隷(れい)する者。儒學博士一人司天官三人なり。元曆元年十月始て公文所を置き。大江廣元を別當と爲し。中原親能、藤原行政、足立遠元、大中臣秋家藤原邦通を寄人(きにん)と爲す。建久二年改て政所と稱す。令、案主、知家事を置く。其の後(の)ち變更(へんかう)あり。而して北條泰時時賴の教禁大に觀るベしと云ふ。

問注とは公事(くじ)を聽く所以なり。公事とは訴訟なり。凡そ民事は私決(しけつ)する能はす。以て公に訴ふ。故に公事といふ。公人問ふて其の辭を注す故に問注といふなり。執事一人。聽訴決獄を掌る。公事奉行三人局を分ちて民訴を聽く。

元曆元年十月始て之を置き。三善康信を以て執事と爲す。執事の任は常に政所に參す。凡そ訟を聽くは小事は自ら決し。大事は卽ち政府に入り。共に之を決す。初め奉行二員を置きしが。尋(つい)て增して三員と爲せり。其の下に祐筆數員あり。

問注所は。初め營中に設けしが。熊谷直實、久下直光と地を爭ひ相訴へし際(さい)。直實詰せられて恨怒に勝へす。西侍に入り自(みづか)ら髻(もとゞり)を截(き)りしより。之を罷め。二世の時に及て更に郭外に造る。卽ち此所なりと云。三世の初令を下し。凡そ公事狀(くじぜう)を獻するの後(の)ち。三日斷せざれは。吏(り)に罪あり。承久以來公事漸く滋し。乃ち其の吏員を增す。建長元年に及て。改(あらため)て引付(ひきつけ)三番と爲す。引付とは卽ち公事奉行なり。而して評定を以て之か頭人(たうにむ)と爲す。毎番十餘員(よゐん)。頭人の邸に就き。訟者を引て聽斷す。時賴執權に及び。頗る民理(みんり)に勤む。局務を廢して游燕する者は籍を除く。文永元年更に越訴奉行を置く。三年執權時宗建議し。引付を罷め頭人をして。皆問注所に入りて訴を聽かしむ。五年復た引付五番を置く。時賴貞時晚年民間(みんかん)の疾苦(しつく)を訪(と)ひ。摘發(てきはつ)甚た多し其の後ち執權其の人に非(あら)す。而して家令事を用ゐ。皆賄を以て成る。北條氏の政(せい)是(これ)に於て乎衰ふといふ。

[やぶちゃん注:突如、歴史学的な鎌倉幕府の組織解説となる。馬鹿にしていた記者であったが、それでも少しは骨があった。いい子だ!

「飢渇畠」「けかちばたけ」と読む。現在の六地蔵附近の古称。この西側当たりに鎌倉時代の刑場の跡があり、後も場所柄、耕作されずに荒れ地となっていたことから、かくも不吉なる名となったとも言われる。

「天狗堂」既出

「政所」ウィキの「政所」より引く。『鎌倉幕府の統治機構のひとつ。前身は公文所である。これは幕府を開いた源頼朝が上記のものと同じく従三位以上の公卿に許される政所開設の権利を獲得したことにより、自らの統治機構が律令制に基づく公的性格を帯びる意義を持ったことによる。鎌倉幕府においては、一般政務・財政を司った』。『公文所から政所と改称された時期については様々な見解があ』って、建久二(一一九一)年に『公文所が政所と改称されたとされる説』(本文はそれを採っている)と、元暦二・文治元(一一八五)年の改称とする二説がある(この年に源頼朝が三位以上(従二位)へ昇叙したことによって政所設置の資格を得たという根拠に基づく説)。『また、公文所と政所の連続性を否定して、大江広元が機能に重複する部分があった公文所と政所の別当を兼務した結果として公文所の機能が政所の機能に吸収されたとする説(「鎌倉市史」)もある』。

「問注所」訴訟事務全般を管轄する機関で元暦元(一一八四)年十月二十日に設置された。ウィキの「問注所」から鎌倉期のそれのみを主に引く。『「問注」とは、訴訟等の当事者双方から審問・対決させること、あるいはその内容を文書記録することを意味する。つまり「問注所」とは問注を行う場所を意味する。平安期には問注を行うための特定の場所は定められていなかったが、鎌倉幕府においては問注を行う場所として問注所を設置したのである』。『当時、日本は国内を二分する大規模内乱(治承・寿永の乱)の真っ直中にあったが、この内乱の中でも(又は内乱に乗じて)訴訟事案は多数発生しており、非公式に発足した関東軍事政権(後の鎌倉幕府)にとって、これらの訴訟を迅速・円滑に処理していくことが、確固たる政権として認められる条件の一つとなっていた『初代問注所執事(長官)には、三善康信が任命された。三善氏は三善清行の子孫に当たり、代々算道を家業としていた』。『康信は有能な役人として知られていたが、親類に源頼朝の乳母がいた縁もあって、初代執事として京から鎌倉へ招かれたのである。以降、問注所執事は鎌倉・室町期を通じて三善氏が世襲することとなる』。『なお、『武家名目抄』には「問注所は政所の別庁にて、ともに政事を沙汰する中にも、訴訟の裁判を本務とする所なり」(職名部(ハ)上)と記され、更に』「吾妻鏡」の建久二(一一九一)年正月十五日条に『書かれた職制においても、政所と侍所については行を改めて別当以下を記載しているのに対して、問注所については政所の項目の最後に「問注所執事」と』ただ一行で『記されていることから、初期の問注所は政所に属する』一機関であり、後に政所から分離して独立した機関となったとする説もある『当初、問注所は訴訟に対する裁判事務は行わず、武家棟梁である源頼朝へ訴訟事案を進達することを任務としていた。『吾妻鏡』には、頼朝邸内の東西にある小さな建物を問注所と号したとある。頼朝邸内に多数の訴人が集まり、怒号・喧噪が飛び交ったため、頼朝はそれにうんざりし問注所の移転を命じた。その結果』、建久一〇(一一九九)年四月一日に『問注所は別の場所へ移転されたが、その直前に頼朝は死亡していた。なお現在、移転後の地(現御成小学校前)には「問注所旧蹟碑」が立てられている』。『問注所は当初、訴訟・裁判事務全般を所管したが、訴訟事案の増加に伴い、次第に事案が滞り始め、事務処理の迅速化が求められるようにな』り、建長元(一二五〇)年十二月九日に『引付衆が新設された。引付衆は御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を扱い、問注所ではその他の民事訴訟(雑務沙汰)及び訴訟雑務(主に訴状の受理)を扱うという役割分担がなされた。ちなみに刑事事件の取扱い(検断沙汰)は侍所が所管した』。『以上の引付衆・問注所・侍所の所管地域は東国に限られており、西国については京の六波羅探題等が所管していた。すなわち問注所は東国の一般民事訴訟を取り扱っていたということになるが、そのうち鎌倉市中の一般民事訴訟については問注所ではなく政所が所管していた』とある。

「章疏」本来は「章」(仏典)の「疏」(注釈)を意味するが、ここは既に出された命令や定めた法文を解釈し、適応範囲を検討することであろう。

「教令」教え戒めて命ずること。法文に即して対応や処理を命ずること。

「政所別當」政所の長官。初代は大江広元であったが、後には執権又は連署が兼任するようになった(ウィキの「政所」に拠る。以下「寄人」まで同じ)。

「執事」政所執事は政所の上級職。政務に参与して主に会計を担当した。二階堂氏が世襲した。政所ではこの上に次官級の文書署判役たる「令(れい)」があったが、初代令も二階堂行政(後注)で、後には彼も広元とともに別当に格上げになっている。

「寄人」「よりうど(よりゅうど)」と読み、政所の雑用官。当初は「政所公人(くにん)」とも呼んだ。

「局」部局・部署。

「恩澤奉行」後に庶務の部局から分離されて奉行職として独立した、御家人の勲功を調査して恩賞の施行を掌った職であろう。勲功奉行。

「案主」「あんじゆ(あんじゅ)」と読む。政所の下級職で文案作成事務を担当した。

「貢賦」下位階層から差し上げる貢物と上から取り立てる税。寄付と租税。

「錢穀」現金と穀物。金品。

「知家事」「ちけじ」と読む。政所の下級職で案主とともに同じく文案作成事務を担当した。

「財穀奉給」御家人の俸禄給与。

「諸客」公家方や招聘した僧その他を指すのであろう。

「府中奴碑」幕府内の最下級の使用人。

「物産豐約の宜」農業商業の奨励政策の意か。

「以税を減す」「もつて税を」で、出来高を検分して必要ならば減税措置をとることであろう。

「邑」音「イフ(ユウ)」、訓「むら」。村である。

「爲る」「つくる」と訓じていよう。

「家司(かし)」通常は「けし」或いは「けいし」(これが本来の読み)と読む。政所・問注所・侍所の職員を指す。

「常參官」幕府の常任官。常に参府する官吏。

「隷する者」幕府に直接隷属する者。

「司天官」天文・暦術を担当した者。実際上は陰陽師なども行ったものと私は推測するが、陰陽師の数はもっと多かった。

「中原親能」(康治二(一一四三)年~承元二(一二〇九)年)は公卿。大江維光の子。大江広元の兄。後に外祖父明法博士中原広季の養子となった。斎院次官・式部大輔・掃部頭・美濃権守。幕府草創期に源頼朝に招かれて鎌倉に下向、側近として軍事・行政を補佐した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「藤原行政」二階堂氏の祖二階堂行政(生没年未詳)のこと。大倉幕府直近の二階堂に居を構え、地名を名字とした。早くから頼朝に近侍して公文所寄人から政所令を経て、別当へと昇り、正治元(一一九九)年には評定衆の原形とされる幕府内合議制度たる十三衆の一人ともなった。

「足立遠元」(あだちとおもと 生没年未詳)は武蔵足立郡の在地武士。源氏の家人で平治の乱では頼朝の父義朝に従い、治承四(一一八〇)年には頼朝の平家追討軍に属した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「大中臣秋家」

「藤原邦通」(生没年未詳)下級公家の出身で大和判官代と称した。有職(ゆうそく)・諸芸に通じ、安達盛長の推挙によって伊豆配流中の源頼朝の右筆となった。治承四(一一八〇)年の頼朝の最初の蜂起である山木兼隆襲撃の際には、館の地形を探って絵図を認めたとされる(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「教禁」泰時に始まる本格的な武家法制である御成敗式目などの武家の職務権限の明文化や禁制の法整備化を指していよう。

「三善康信」(みよしやすのぶ 保延六(一一四〇)年~承久三(一二二一)年)は母の姉が源頼朝の乳母であった縁故から、伊豆に配流された頼朝にしばしば使者を使って京都の情勢を知らせた。頼朝の求めに応じて元暦元(一一八四)年京都から鎌倉に下って初代問注所執事となり、法律と京都の政治に関する知識をもとに幕府トップ・クラスの実務官僚として重要な役割を果した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「祐筆」ここは狭義の武家の職名で文書・記録を掌った書記担当官。

「熊谷直實、久下直光と地を爭ひ相訴へし際。直實詰せられて恨怒に勝へす。西侍に入り自ら髻を截りし」この事件については、私の電子テクスト北條九代記 問注所を移し立てらるの本文及び注に詳しく記してある。

「二世」源頼家。

「三世」源実朝。

「承久以來」一二一九年から一二二一年までであるが、承久三(一二二一年)年の承久の乱前後を境に、と言った方が頗る腑に落ちる。

「引付三番と爲す」引付(ひきつけ)は第五代執権北条時頼が御家人の領地訴訟裁判の迅速・正確性を目的として設置した訴訟機関の名称で、引付頭人(評定衆から北条一門三名が選ばれて兼帯)を頭に、引付衆(四~五名)及び個々の訴訟を分掌審理する実務担当の引付奉行人(引付右筆とも。四~五名)で構成されていた。「引付」は数方(「方」は「番」の意)に分れており、「一方」(一番)を単位として訴訟事件を一ヶ月の内で日数を分けて各訴訟を審理した。当初の方(番)数(規定審理訴訟数)は三方(三番)までであったことをここでは言っているものと思われる(後に五番まで増えた)。創設当時の「引付」の審理対象は御家人訴訟でのみあったが、後には土地・年貢などの処務沙汰をも対象とするようになり、本来の厳格性も薄れた上、次第に北条氏の若年者によって占められるようになって、評定衆への出世コースともなって、実質的な訴訟審理的な役割は薄らいだと言われている。

「民理」「理民(りみん)」のことか。民を治めること。治民。

「游燕」宴会にうつつをぬかすことか。

「文永元年」一二六四年。

「越訴奉行」「ゑつそぶぎやう(おっそぶぎょう)」と読む。新たに置かれた再審・越訴(判決の過誤に対する事後の救済手続きの中で、敗訴した者が判決に誤りがある旨を書面で訴え出て再審理を求めることを指す)に関する審理を担当した訴訟機関である「越訴方(おっそかた)」のこと。この文永元年にこれまで第一次審理担当の引付衆が担当していた中でも越訴を主に取り扱う部署として誕生した。ウィキ越訴方にこれば、『長である越訴頭人と引付衆の中から』二~三名の越訴奉行から『構成(越訴頭人も広義の越訴奉行に含む説もある(『関東評定伝』など))されていたが、越訴頭人は初代の頭人が金沢実時・安達泰盛であったように引付衆の中でも執権・連署を除く上首(最上位)もしくはそれに次ぐ御家人が任じられる慣例があった。一方、越訴奉行は実際の審理発生ごとに執権・連署・頭人以外の引付衆より選定され、頭人の指揮下で審理実務を担当した』。『その後、北条氏得宗による訴訟権限の掌握によって、判決に対する異議申立機関である越訴方の存在は疎外され、永仁の徳政令を機に廃止された。翌年の徳政令廃止とともに二階堂行藤・摂津道厳を頭人に任命して復置された。だが』、正安二(一三〇〇)年には、第九代執権で得宗の北条貞時の御内人五名が『越訴を担当するように命じられるなど、越訴を含めた得宗の訴訟権限支配が』顕著になった。これが以下の、しかし「其の後ち執權」が「其の人に非」ざる者になるや、「家令事を用ゐ」るようになり、しかも「皆」、「賄」(まひなひ/まいない」賄賂)を「以て」着任するようになって腐敗し、遂には「北條氏の政」(まつりごと)は、これ「に於て」か、「衰ふ」こととなったとか、と続くのであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 名越切通

    ●名越切通

名越切通は三浦へ行(ゆく)道也、此峠鎌倉と三浦との境也、甚だ嶮峻(けんしゆん)にして道狹し、左右より覆ひたる岸二所あり、里俗大空峒、小空峒と云ふ、峠より東を久野谷村と云、三浦の内なり、西は名越鎌倉の内なり

[やぶちゃん注:例によって「新編鎌倉志卷之七」から私の注ごと引く。

   *

〇名越切通 名越切通(なごやのきりどをし)は、三浦へ行く道也。此の峠、鎌倉と三浦との境(さかひ)也。甚だ嶮峻にして道狹(みちせば)し。左右より覆ひたる岸(きし)二所(ふたところ)あり。卑俗大空峒(ををほうとう)・小空峒(こをほうとう)と云ふ。峠より東を久野谷村(くのやむら)と云ふ。三浦の内也。西は名越(なごや)、鎌倉の内なり。

[やぶちゃん注:「大空峒(ををほうとう)・小空峒(こをほうとう)」の部分には幾つかの謎がある。まずルビであるが影印では、「大」にはカタカナで「ヲ」のみ、「小」には同じく「コ」のみが振られ、「空」の右には「ヲホウ」が振られる。これは「大」が「ヲヲ(おお)」なのではなく、「空」が「ヲホウ(オホウ)」という読みであることを示す。ところが「空」には「ヲホウ(オオウ)」や「ホウ」という読みは存在しない。訛りとも考えられるが奇異である。「峒」は山中の蛮人で、その種族の住む山の中の洞穴の意である。名越の切通しは岩塊や切岸の著しく迫った狹隘路であるが隧道箇所はないが、暗く狹いことからかく称したものであろう。

「久野谷村」現在の逗子市久木の一部。

現在はネット上で見ると美事に史跡整備がなされて、一般的なハイキング・コースにさえ指定されているようであるが、今から三十数年前は詳細な鎌倉市街地図でも「名越の切通」のルートは途中で点線になって最後には消えており、ガイドブックでも踏査は難易度が高いと記されていた。二十一の時、私はとある梅雨の晴れ間に、ここの踏査を試みたことがある。意を決して古い資料にある古道痕跡の横須賀線小坪トンネル左外側を登るには登ったものの、その先には一切の踏み分け道もなく、鬱蒼とした八重葎――むんむんする草いきれの中、汗と蜘蛛の巣だらけになって小一時間山中を彷徨った。それでも時々見え隠れする地面に露出した明らかな人工の石組みに励まされた。「空峒」と思しいスリットのような鎌倉石の狭隘や掘割に出て、最後はまんだら堂に導かれ、今は取り壊された妙行寺の、拡声器で呼び込まれた(人が通ると何らかの仕掛けで分かるようになっており、住職自らがマイクで呼び込むのである)。そこで今は亡き老師小山白哲の奇体なるブッ飛んだ説法(地球儀を用いつつ、実に何億劫も前の宇宙の誕生から始まる非常に迂遠なもの)を延々と一人で聞かされた。たっぷり四十分はかかったが、頻りに質問などもしたせいか、老師には痛く気に入られ――「思うところがあったら、是非この寺へ来なさい、来る者は拒みませんぞ」――と言われたのを思い出す。そうして――「菖蒲が綺麗に咲いておる。見て行きなさい」――と言われた。……凄かった……グローブ大の、袱紗のような厚みを持った紫の大輪の菖蒲の花が、海原のように広がった紫陽花の海浮いていた……弟子らしき作業服の老人が菖蒲畑の手入れをしていたが、僕を見て――「和尚の話は退屈でしょう。よく耐えたねえ」――と声をかけられた。……そうして私は、初めて見る美事な多層のやぐら群や、住職が勝手に纏めてしまったり動かしたりした結果、史料価値が優位に下がったと噂される五輪塔群を一つ一つ眺めては、また一時間余りを過ごした。最後に寺の山門への坂の上で、和尚とさっきの御弟子が話しているのにぶつかった。聴こえてきたのは、先程の説法とは打って変わった……「テレビの撮影の予定は……」……「雑誌の取材の件じゃが……」……というひそひそ話であった。老師は、僕がまだいたのにちょっとびっくりして「まだおられたか。どうじゃった?」と聞かれ、僕が「やぐらとたいそう立派な菖蒲に感服致しました」と答えると、「そうかそうか」と微笑まれて私に合掌され会釈された――僕は生まれて初めて人に合掌と会釈を返し――山を降りた……それからすぐのことである……『鎌倉の隠れた花の寺』と称してまんだら堂の菖蒲や紫陽花が一躍ブレイク、老若男女の大集団があそこを日参するようになったのは……あそこで僕が見たのは……仙境と俗世の境の幻だったのかも知れない……今はもう……遠い遠い、懐かしい思い出である……

   *

以下、リンク先では、私がその時に戴いた小山白哲老師直筆のブットビの宇宙創造説の解説メモの画像と電子テクストを示してある(探すのが面倒な方はブログの「小山白哲老師 藪野直史伝授宇宙創造之仏説(肉筆)」にも掲載してある)。未見の方は、是非是非、どうぞご覧あれかし!

「久野谷村」現在の逗子市久木の一部。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 安養院/佐竹屋敷/安國寺/長勝寺/日蓮乞水

    ●安養院

安養院は名越(なこし)の入口海道の北にあり、祇園山と號す、淨土宗知恩院の末寺なり、此寺初め律宗にて開山願行上人なり、其十五世昌譽和尚と云(いふ)より淨土宗となる、昌譽より前住(ぜんぢう)の牌は皆律僧なり、初長谷の前稻瀨川の邊に在(あり)しを、相摸入道滅亡の後(のち)此(こゝ)に移すと云傳ふ、本堂に阿彌陀坐像、客殿にも阿彌陀の坐像を安す、共に安阿彌か作なり。

[やぶちゃん注:先の「田代觀音堂」の項も必ず参照のこと。

「願行上人」(建保三(一二一五)年~永仁三(一二九五)年)は真言僧、憲靜大和尚のこと。号を圓満、字を願行と称した。賜号は宗燈律師。顕密浄律の諸宗に兼通し、画僧としても知られた。

「相摸入道」北条高時。

「安阿彌」運慶と並ぶ名仏師快慶の法号。]

 

    ●佐竹屋敷

佐竹屋敷は名越道の北、妙本寺の東の山に五木骨扇の如なる山の疇あり、其下を佐竹秀義か舊宅なりと稱す。

[やぶちゃん注:「疇」「うね」と読み、本来は長々と田畑の間を延びる畦道(あぜみち)のことであるが、ここは尾根と谷の意である。

「佐竹秀義」(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年)。佐竹家第三代当主。頼朝挙兵時は平家方につくが、後に許されて家臣となり、文治五(一一八九)年の奥州合戦で勲功を挙げて御家人となった。建久元(一一九〇)年の頼朝上洛に随行、承久三(一二二一)年の承久の乱では老齢のために自身は参戦しなかったものの、部下や子息を参戦させて幕府に忠義を尽くした。彼はこの名越の館で七十五歳で天寿を全うしている(以上はウィキの「佐竹秀義」を参照した)。]

 

    ●安國寺

安國寺は妙法山と號す、名越村の東にあり、妙本寺の末寺也、門額、安國論窟(あんこくろんくつ)、大永元年巳歳(みとし)十月十三日幽賢書とあり、門に入右方に岩窟あり、日蓮房州小湊より來、此窟中に居(をり)て安國論を編となり、内に日蓮の石塔あり。

[やぶちゃん注:「大永元年巳歳」一五二一年。

「幽賢」不詳。

「編」「あむ」或いは「あめる」と訓じていよう。]

 

    ●長勝寺

長勝寺は石井山と號す、名越坂へ通る道の南の谷にあり、寺内に岩を切拔たる井あり、鎌倉十井の一なり、故に俗に石井の長勝寺と云ふ、法華宗なり、當寺は洛陽本國寺の舊跡なり、今は却(かへつ)て末寺となる。

[やぶちゃん注:「本國寺」は、現在、大光山本圀寺(ほんこくじ)として京都府京都市山科区にある。同寺の当時の京での寺地は日静(にちじょう 永仁六(一二九八)年~正平二十四・応安二(一三六九)年)が貞和元(一三四五)年に光明天皇より寺地を賜って移った六条堀川であった(何故このようなまどろっこしい言い方をするかというと、第二次大戦後に経営難等の諸般の事情から堀川の寺地を売却し、現在の山科に移転しているからである)。日蓮が松葉ヶ谷草庵に創建した法華堂が第二祖日朗に譲られ、元応二(一三二〇)年に更に堂塔を建立したが、それがこの「本國寺」の濫觴となり、その建立地が現在の石井山長勝寺のある場所であったということである。これに後の妙法寺と啓運寺の錯綜が加わると、何が何だか分からなくなる。寺名問題は宗門の方にお任せしてこれくらいにしておく。]

 

    ●日蓮乞水

日蓮乞水は名越切通の坂より、鎌倉の方一町半許(ばかり)前道の南にある小井を云なり。日蓮安房國より鎌倉に出給ふ時、此坂にて水を求められしに、此水俄(にわか)に涌出(わきいで)けると也、水斗升に過(すぎ)されども大旱(たいかん)にも涸(かれ)すと云ふ、甚だ冷水(れいすい)なり。

[やぶちゃん注:「一町半」約百六十四メートル弱。]

夏花の歌   立原道造

  夏花の歌

 

 

    その一

 

空と牧場のあひだから ひとつの雲が湧きおこり

小川の水面に かげをおとす

水の底には ひとつの魚が

身をくねらせて 日に光る

 

それはあの日の夏のこと!

いつの日にか もう返らない夢のひととき

默つた僕らは 足に藻草をからませて

ふたつの影を ずるさうにながれにまかせ搖らせてゐた

 

‥‥小川の水のせせらぎは

けふもあの日とかはらずに

風にさやさや ささやいてゐる

 

あの日のをとめのほほゑみは

なぜだか 僕は知らないけれど

しかし かたくつめたく 横顏ばかり

 

    その二

 

あの日たち 羊飼ひと娘のやうに

たのしくばつかり過ぎつつあつた

何のかはつた出來事もなしに

何のあたらしい悔いもなしに

 

あの日たち とけない謎のやうな

ほほゑみが かはらぬ愛を誓つてゐた

薊の花やゆふすげにいりまじり

稚い いい夢がゐた――いつのことか!

 

どうぞ もう一度 歸つておくれ

靑い雲のながれてゐた日

あの晝の星のちらついてゐた日‥‥

 

あの日たち あの日たち 歸つておくれ

僕は 大きくなつた 溢れるまでに

僕は かなしみ顫へてゐる

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の処女詩集「萱草に寄す」のSONATINE No.1」と「SONATINE No.2の間に挟まる『小間奏曲風』(角川文庫版「立原道造詩集」の編者中村真一郎の評釈)の二部から成る詩篇である。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻の脚注では、この詩篇は『叙情挿曲(インテルメツッオ)としてはさまれ、明るいクラブサンとフリュートを響かせている』とある。同書よれば、この二部はもともとは別々に発表されているとあり、

「その一」は昭和一一(一九三六)年七月号『四季』初出/詩題「ながれ」/「薊(あざみ)の花のすきだつたひとに」という添え書き

を持ち、

「その二」は、それよりも前の、同年二月号『コギト』が初出/詩題は本篇と同じ「夏花の歌」

であるとし、さらに、詩中にも出る通り、

   《引用開始》

「夏花」とは、薊の花や夕すげの花のことであろう。作者が「僕の村ぐらしの日々はその花の影響下にあるのを好んだ」(「風信子」)という花は、詩集名の「萱草」である。作者の自解によると、「萱草はゆうすげである。それは高原の叢で夏のころ淡く黄(きいろ)く咲く花だった。そしてそれは夕ぐれの薄明りを愛する花だった」という。

   《引用終了》

とあり、私が今更ながら立原道造の詩集「萱草に寄す」の「萱草(わすれぐさ)」とは何か?で驚いてぐちゃぐちゃお喋りしたところの、彼にとっての「わすれぐさ」が、確信犯としての単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ワスレグサ属ユウスゲ Hemerocallis citrina var. vespertina であったことが既に明記されているのであった。また、同書の「萱草に寄す」の脚注の同詩集解説冒頭部分には、同詩集は『彼の愛する軽井沢高原に咲く夕すげの花に似た黄橙色の表紙で』あるとも記されてある。先の私の子供染みた独り仰天の物謂いは、どうか、笑ってお許しあれ。なお、「風信子」は「ヒアシンス」と読むと思われる。彼が自身の詩集「萱草に寄す」について解説した雑誌『四季』に載せた文章の表題である(私は未読)。

立原道造の詩集「萱草に寄す」の「萱草(わすれぐさ)」とは何か?

以下の内容を「のちのおもひに」の注に追加した。但し、この驚きは私ばかりの思い込みでアカデミズムでは周知の事実であったらしい。道造自身の自解にはっきりとユウスゲであることが記されており、何より詩集の楽譜様の表紙の色を黄橙色の選定も、どうもユウスゲの花の色を意識したものであったようだ。これより「夏の花」の注で、その辺を語る予定である。



角川文庫版の「立原道造詩集」の中村真一郎氏の注によると、道造は「萱草(わすれぐさ)」を「夕萱(ゆうすげ)」(底本のママ)と混同視していたらしい、という驚くべき記載があることに気づいたので一言述べおく(但し、この中村氏の「夕萱」は「夕菅」の方が区別し易く、その方が一般的な漢字表記であるのでそれで統一する)。

 

 実はまず大事なことは「萱草(わすれぐさ)」自体がワスレナグサではないということである。

 

 真正の「ワスレナグサ」(通常は「勿忘草」と漢字表記する)は

双子葉植物綱シソ目ムラサキ科ワスレナグサ属 Myosotis

に属する、

シンワスレナグサ(ワスレナグサ)Myosotis scorpioides

ノハラワスレナグサ Myosotis alpestris

エゾムラサキ(ミヤマワスレナグサ・ムラサキグサ)Myosotis sylvatica

三種が園芸界では同じく「ワスレナグサ」として流通しているものが真実の「ワスレナグサ」なのである。参照したウィキワスレナグサによれば、その呼称は『中世ドイツの悲恋伝説に登場する主人公の言葉に因む』もので、『昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ、„Vergiss-mein-nicht!“(僕を忘れないで)という言葉を残して死んだ。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした』とする。『このような伝説から、この花の名前は当地ドイツで Vergissmeinnicht と呼ばれ、英名もその直訳の forget-me-not である。日本では』、明治三八(一九〇五)年(年)に『植物学者の川上滝弥によって初めて「勿忘草」「忘れな草」と訳された。それ以外の多くの言語でも、同様の意味の名前が付けられて』おり、『花言葉の「真実の愛」「私を忘れないで下さい」も、この伝説に由来する』とある。

 

 ところが、本邦で通常、「萱草(わすれぐさ)」というと

単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ワスレグサ Hemerocallis fulva

を指し(ユリ科とする記載もある)、しかもこれは実は、本邦の亜種で、

ヤブカンゾウ(藪萱草) Hemerocallis fulva var. kwanso

ノカンゾウ(野萱草) Hemerocallis fulva var. longituba

ハマカンゾウ(浜萱草)学名 : Hemerocallis fulva var. littorea

(他に九州以南にニシノハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. auranntiaca・アキノワスレグサ Hemerocallis fulva var. sempervirens が植生する)を指すのである。(ここはウィキワスレグサに拠る)。因みに本種の和名の由来はウィキによれば、『花が一日限りで終わると考えられたため、英語ではDaylily、独語でもTaglilieと呼ばれる。実際には翌日または翌々日に閉花するものも多い。中国では萱草と呼ばれ、「金針」、「忘憂草」などとも呼ばれる』とある。

 

 さて、問題は中村氏の言うところの道造が混同していたという、「夕菅(ゆうすげ)」であるが、これは実はそのワスレグサ属に属する、

ワスレグサ属ユウスゲ(夕菅)Hemerocallis citrina var. vespertina

を指すのである。岡山理科大学生物地球学部生物地球学科植物生態研究室(波田研)公式サイト内の「植物雑学事典」のユウスゲ」(ここではユリ科となっている)によれば、夏、高さ三十~百五十センチメートル程の『花茎を出し、夕方から黄色の花を咲かせる。花の長さは』七センチメートル前後で、夕方の四時過ぎ頃から『咲き始め、翌朝にしぼむ』とあり、ワスレグサ属同様に花の咲いている時間が短く、このやや淡い黄色い儚いユウスゲの花を道造が「萱草(わすれぐさ)」と混同していたとしても、如何にもしっくりくるのである。

 

 以下にグーグル画像検索で、

シンワスレナグサ(ワスレナグサ)Myosotis scorpioides

ヤブカンゾウHemerocallis fulva var. kwanso

ノカンゾウHemerocallis fulva var. longituba

ユウスゲHemerocallis citrina var. vespertina

の三種をリンクしておくので、比較されたい。なお、中村氏はヤブカンゾウ及びノカンゾウの『花を持っていると憂を忘れるということから「わすれぐさ」の異称がある』と記しておられる。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 再び京都にて(1)

M687

687

 

 京都では、数日間田原氏と共に、有名な陶工を訪問するのに全時間を費し、彼等から家族の現代及び過去、各種の印の刷り、その他に関する知識を豊富に得た。六兵衛は私と再会してよろこんだらしく、すぐさま私が前に訪問した時つくった湯吞を持って来た。彼はそれを焼き、釉をつけたのである。私はそれ等の底にMと記号し、内側に貝を描いたが、六兵衛は外側に漢字で「六兵衛助力」と書いた。私はその一個を彼に与えた所が、彼は丁重にもよろこんだらしい様子をした。私は彼から、陶器づくりに使用する道具をひとそろい手に入れた。図687は庭から見た六兵衛の製陶場である。

[やぶちゃん注:「M」言わずもがな乍ら、Morse のイニシャルである。]

 

 六兵衛のところから、我々は楽の陶工吉左衛門のところへ行った。彼の家は質素なものであった。この老陶工は、三百年来「楽」といわれる一種独特な陶界をつくりつつある家族の第十二世にあたる。彼は我々を招き入れ、我々は六兵衛のところから来たといって、我々自身を紹介した。彼は、私の質問すベてに対して親切に返事をし、各代の作品を代表する楽の茶碗の完全な一組を見せてくれた。私は記号の輪郭と摩写とを取った。次に彼は仕事場を見せた。仕事をするのは家族の直接関係にある人々のみで、外来者は一向関係せぬらしい。窯は非常に小さく、殊に有名な茶碗を焼く窯は、窯碗一つを入れる丈の大きさしか無い。それ等の茶碗は旋盤(ろくろ)上でつくらず、手で形をつけ、両辺を削る。彼は我々に粉茶とお菓子とを出したが、我々がそれを飲んでいる間に、可愛らしい子供が出て来て私に抱かった。

[やぶちゃん注:「楽の陶工吉左衛門」千家十職の第十一代樂吉左衞門(らくきちざえもん文化一四(一八一七)年~明治三五(一九〇二)年/慶入(けいにゅう:「~入」は隠居した時に附される入道号)と思われる。ウィキの「樂吉左衞門によれば、『丹波国南桑田郡千歳村(現京都府亀岡市千歳町)の酒造業・小川直八三男。十代婿養子』。弘化二(一八四五)年に『家督相続。明治維新後、茶道低迷期の中、旧大名家の華族に作品を納めるなど家業維持に貢献』したとある。当時は既に後に「弘入」と名乗ることになる彼の長男(安政四(一八五七)年~昭和七(一九三二)年)が家督を継いではいる(明治四(一八七一)年)が、明治一五(一八八二)年当時の彼は未だ二十五歳で、図の人物とは到底、思われない。

「抱かった」私はこのような動詞を使ったことはないが、「だかった」或いは「いだかった」と読むのであろうか。抱きついた、の意であろう。]

 

M688

688

 

 彼の部屋には手紙を懸物(かけもの)にした物があった。これは太閤時代の有名な将軍で、拳固で一と撲りしたら虎が死んだという噂のある加藤清正から来たもので、初代の楽に、茶碗をつくることを依頼した手紙である。家族は代々、それを大切に保存して来た。彼はまた初代の楽がつくった陶器を見せた。それは神話的の獅子で、これもこの一家の創立者の大切な家宝として伝って来た。信長が俄に破れ、彼の邸宅が全焼した時、第一世の楽がその廃墟からこの品を救い出したものらしい。私は恭々しくその話をしている老人と「信長の獅子」とを急いで写生した(図688)。

[やぶちゃん注:「第一世の楽」楽焼の創始者で樂吉左衛門家の初代とされる長次郎(?~天正一七(一五八九)年)。

「信長の獅子」「樂美術館」公式サイトの長次郎」のページ現物の画像が見られる。『二彩獅子像(重要文化財) 樂家旧蔵』とあり、『腹部に「天正二年春 依(寵)命 長次良造之」と彫銘がある。緑釉、透明釉の二彩釉が掛かり、樂焼のルーツを物語る。桃山陶彫刻の優品』という解説が載る。ハーンのスケッチは頭部の描写にやや難があるものの、急場でスケッチしたものとしては、獅子の尾部の独特の造形などはしっかり押さえてある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その7)/朝鮮使節団一行との邂逅

 各種の寺院は、非常に興味が深い。ある場所で我我は、奇妙な服装をした四人の娘が、三人の神官の歌う伴奏につれて、珍しい宗教的舞踊をやるのを見た。

[やぶちゃん注:神楽と巫女舞である。位置や社名が特定されていないのが残念である。]

 

 奈良では鹿が、森から出て来て町々を歩き廻る。私は手から餌を与えようとした。彼等は宮島の鹿程馴れていず、すくなくとも私は、彼等から十フィート以内のところ迄行くことが出来なかった。私にいくつかの握飯を売った老婆は大きにがっかりし、一生懸命に鹿達を私に近づかせようとしたが、駄目だった。日本人だと何の困難もなしに餌を手からやるが、鹿は外国人を即座に識別する。

[やぶちゃん注:これ、不思議! 奈良公園の鹿は西洋人を識別する?!

「十フィート」三メートル。]

 

 私は和歌山を出た時と同じ人力車夫二人を連れていたが、彼等は実によく走った。彼等ほ二十九マイルの距離を、途中二回短時間休んだばかりで、走り続けた。我々が休んだある場所で、建物によっかかつていた高い木造の衝立が風で吹き倒され、梶棒を握っていた車夫が、それが人力車の上に倒れて来ることを防ごうとして均衡を失った為に、人力車は後方にひっくりかえり、私は鞄と、陶器を入れた箱もろ共、投り出されて了った。こんな時決して怪我をしない私は、無事に起き上ったが、二人は笑止な位、お互いを叱り合った。だが私が、事実この出来ごとを、笑っているのに気がつくと、彼等は私が久しく聞かなかった位気持よく、そして満足気に哄笑し、その後数マイルにわたって、私は彼等が思い出しては笑うのを聞くだけで、微笑することが出来た程である。

[やぶちゃん注:「二十九マイル」四十六・六七キロメートル。

「数マイル」一マイルは一・六キロメートルであるから、十キロメートル程か。]

M684

684

M685

685

 

 私が神戸から来た汽船には、東京へ行く数名の朝鮮使節がのっていた。彼等は愉快な、温情に富む人人で、私はすぐ彼等と知合いになった。私はひそかに彼等を写生した。彼等のある者が日本語を話すので私は非常に多くの質問を発し、そして返答を了解することが出来た。彼等の中の二人が大きな眼鏡をかけていたが、私はその鏡玉(レンズ)を色硝子(ガラス)だろうと思っていた。彼等の許しを受けてそれを調べると、驚いたことに、それ等は鼈甲のわくに澄明な煙水晶をはめ込んだ物であった。私はまた彼等に射道に於て如何に矢を外すかを質ねたところが、それは日本の方法と同じで、腕当てを使用するのと、弓と弦とを回転させることを許さぬ点とだけが違っていることを知った。朝鮮の煙管(きせる)には日本の煙管よりも余程大きな雁首がついている。政府の役人は、両側と、背面は肩まで、さけ目のある上衣を着、すべての朝鮮人と同じく衣服の色は白い。図684は、上衣を脱いだ一人の朝鮮人を写生したものである。股引は非常にダブダブで、膝のところで別れている。その下で足を、綿を一杯につめた靴下の中に押し込む。あまり沢山綿が入っているので、靴下は靴の上辺からはみ出す。夏には、この綿入りの品はやり切れぬことだろう。胴衣(ジャケット)は短く、前方にポケットが二つついていて、淡黄色の南京木綿に似た布で出来ている。肌着は無い。腕には手首から肘にまで達する袖がある。これ等は白い馬毛を編んだもので、布の袖を皮膚から離す目的で使用される。頭の周囲には、その直径が最も長い場所に、こまかく織った黒い馬毛の帯を、それを取り去ると額に深い線が残る位、きつくまきつける。これを身につけぬ時には、非常に注意深くまく。それは長さ約二フィート、幅二インチ半で両端に紐と、頭に結ぶ時紐を通す小さな黒い環とがついている。官吏帽の一つの型は二つの部分から出来ている。その一つは馬毛でつくった、簡単な袋みたいなもので、その内側にはてっぺんから、鼈甲製の留針(ピン)がぶら下り、これを頭上の短い丁髷(ちょんまげ)にさし込んで、帽子が飛ばぬようにする。この上からこれも馬毛でつくった、箱のような代物を重ねてかぶるのだが、それは両方とも図685に示す如く、外に張開している。もう一つ別の朝鮮人の絵から判断すると、最も普通な帽子は高帽で、山は幾分上の方が細く、辺は非常に広く、僅かにそつたものである。これは竹の最もこまかい繊維で出来、驚く程巧に織ってある。この帽子は高価で、十五円も二十円もする。図689はそれをかぶった老人である。

M686

689

 

[やぶちゃん注:ここで詳述される朝鮮半島地域の民族衣装についてはウィキの「服」(同衣裳の韓国での呼称なので注意)などを参照されたい。私自身、不案内なので個々の注は省略させて戴く。

「澄明な煙水晶」原文“clear smoky-quartz crystals”。「煙水晶」は「けむりずいしょう」と読み、水晶の一種であるスモーキー・クォーツ(smoky quartz)のことでで、石英のグループに属する鉱物の変種。ウィキスモーキークォーツによれば、通常は『茶色や黒っぽい煙がかったような色』をしており、このような『色彩に発色する原因は、はっきりとは分かっていないものの、地中で天然の放射能を浴びたり、内部にアルミニウム・イオンが含まれるためであるとされている』。『落ち着いた色合いから良質のものは、宝飾品や念珠として加工されたり、置物や印鑑などの素材としても幅広く用いられている』。『天然の煙水晶は、結晶(クラスター)の状態では見つかるものの、宝飾品になるほどの高品質のものは決して安価ではない。天然石ビーズとして流通しているものの中には、いわゆるエンハンスメント(改良)と呼ばれる処理が施されているものが多数ある。安ければ安いほど、その傾向は強い。白水晶に人工的に放射線を浴びせて煙水晶にしたものもあれば、着色したものもある。その逆で、煙水晶を加熱処理して黄水晶(シトリン)として販売しているケースも度々見受けられる』。『かつては、トパーズの一種と誤認され、スモーキー・トパーズという名称で、高価な宝石材料とされていたこともある』とある。

「射道」ウィキ朝鮮半島の武術一覧の弓道によれば、朝鮮の古武術としてのそれは、『本来は弓術(グンスル)やファルソギ等と呼ばれていたが、日本の影響により「弓道(グンド)」という言葉も使われるようになった。現在韓国では国弓(クックン)、ファルソギ、弓術、弓道など多様な用語が使われている』とある。幾つかのネット記載を見ると、朝鮮に於ける弓術は古えより日本よりも遙かに優秀だったとされている。

「約二フィート」約六十一センチメートル。

「二インチ半」六・三五センチメートル。

「短い丁髷」原文は“top of the head”。個人サイト「釜山でお昼を」の「昔の生活と文化」の「昔の風景」にある髷と断髪によれば、『朝鮮時代の男子は結婚して髷(まげ)を結う事で一人前の男としてみなされ』、『結婚前は総角(チョンガー)と呼ばれる髪を後ろで束ねてい』たとある。『結婚式前の吉日に元服として髷を結う儀式が行われ』、その際には占い師が『示した方角に向いて座り、父親またはそれに準ずる人が頭のてっぺんを』三寸(約十センチメートル)ほど『円形に剃り、そこに髪を結い上げ』た。そして網巾(マンゴン)『とよばれる鉢巻で頭を締め上げて出来上がり、その上に冠(帽子)をかぶ』ったと記されてある。

「十五円も二十円もする」今までと同様、原文は“fifteen or twenty dollars”である。あるネット情報では五年後の明治二〇(一八九〇)年で一ドルは現在の二万円程度とあるから、これは現在の三十万円から四十万円相当となろうか。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その6)

M683

683

 

 海岸に沿うた数個所で、農家へ通じる小径の入口に、細い杖の上にさかさまにした大きなきのこをのせた、奇妙な物があるのを見受けた(図683)。きのこの柄は紙につつまれ、また下方の杖にも紙がまきつけてある。これは家族に死人のあることを示すのだと聞いた。私はこんな物は他所で見たことが無いから、これは大和特有なのであろう。何を意味するのかは判らなかった。

[やぶちゃん注:「大和」底本では直下に石川氏の意味不明を示す『〔?〕』が割注で入っているのであるが、私はこれはモースの判断が正しいか正しくないかは分からぬものの、こうした、死穢を広告して人を遠ざけ、伝播を防ぐ風習は大和(奈良)地方特有の習慣なのであろうと考えたとして何ら、不思議でないと言えるが、問題は冒頭で、「海岸に沿うた数個所で」(原文は“At several places along the coast”で、河岸は通常“the coast”とは言わず、確かにこれは「海岸・沿岸(地方)」である)と言っている点で、こうなるとこれは五条から奈良(大和)へ向かう「紀の川」の流域での嘱目ではなく、和歌山から五条に到るずっと前の、和歌山の和歌浦湾沿岸域での嘱目ということになり、そこは「大和」とは言えないという気はする(それが石川氏の『?』であったのかも知れない)。にしても、このようなものは見たことがない。識者の御教授を乞うものである。]

2015/09/24

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 正覺寺

    ●正覺寺

正覺寺は小坪村海道の北にあり、住吉山と號す、光明寺の末寺なり、山上に住吉明神の社(やしろ)あり、此邊都(すべ)て住吉と云ふ。

三浦道寸城跡  寺の西南の山にあり、切拔(きりぬき)の洞(ほらあな)二十餘間ありて寺へ拔通なり、前に道あり、此(これ)を三浦道寸か城の跡と云ふ鎌倉九代記北條五代記等に、三浦陸奥守義同入道道寸永正九年八月に、北條新九部長氏に、相州住吉城をも攻落(せめをと)さるゝとあるは、此地なり。

數珠掛松 切拔の側にあり、里民夏(なつ)百日の間、住吉に參詣して數珠(ずゞ)を掛(かけ)るなり、因(よつ)て名つく。

[やぶちゃん注:「住吉明神の社」正覚寺の裏山に現存する。

「切拔の洞」手掘りの隧道。「鎌倉攬勝考卷之九」の所載する唯一の「古城址」の「三浦陸奧守義同人道道寸城跡」の冒頭がそれをはっきりと述べている。

   *

小坪正覺寺の東南、住吉の社あるゆへ、住吉の城とも唱へし由。城山は、光明寺の山より地つゞけり。此所を三浦道寸が城跡といふ。住吉の社地より山中を切拔たる洞口を、大手口なりといふ。入口の洞穴を、例の土人が方言に、くらがりやぐらと稱す。

   *

この隧道は現在、私は未確認である。ところがこれに関わってこの隧道を探索している方がいる。「山さ行がねが・ヨッキれん」の平沼義之氏で、その「隧道レポート 小坪のゲジ穴」後編にそれはある。私は長くこの「くらがりやぐら」をこの平沼氏踏査の隧道だと固く信じて来た。実は三十数年前に私はこの隧道を通り抜けているのだ(現在はリンク先でご覧の通り、出口が封鎖され通行出来なくなっている)が、その際、リンク先の画像でも分かる通り、隧道自体が上り坂となっている以上に、途中で大きく隧道が左へ湾曲しているため、中は真暗なのである(因みに私は照明器具を持たずに手探りでこの天井にゲジゲジの群生する中を抜けたわけであった)。従って「くらがりやぐら」という呼称が実感として落ちて、そう思い込んでいた訳である。この隧道の海側の口は正に住吉明神のすぐ右手にあって「鎌倉攬勝考」の「住吉の社地より山中を切拔たる洞口」という表現にもぴったり一致する点も手伝った。ところが、平沼氏がこの探査の折りに出逢った六十歳ほどの地元男性の証言では、この隧道は戦後になってから地元の人たちが自宅と農地とを往復するための近道として掘ったものとあり、更にその最後で平沼氏はデジタル地図ソフトの地図を示され、この隧道より有意に南側の位置に、この隧道よりも凡そ倍弱の長さ(百メートル弱か)の隧道が示されているのである。これが幻の「くらがりやぐら」であることは間違いない。ネット上を検索すると「三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡」という書物に「掘拔の穴 東の方は表門、北の方は裏門、住吉城双方へ掘拔也。裏門を出れば姥ヶ谷小坪の後也。」とあって、前者が幻の「くらがりやぐら」で、後者は現在の住吉隧道のプロトタイプか、消滅した別隧道を言うか。――しかし、今や、「くらがりやぐら」どころか、この無名の「ゲジ穴」さえも消滅させられようとしている。かつて歩いた場所がなくなることを痛烈に意識するということは――それは『私の病い』に基づくものなのだろうか、それともこの『現実世界そのものの病い』の現象なのだろうか?……

「二十餘間」二十間(けん)は三十六・三六メトールであるから、三十七メートル強か。

「三浦道寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年?~永正十三年(一五一六)年)は東相模の初期の戦国小大名。「導寸」は道寸とも書き、彼の出家後の法名。通常はこちらで呼ばれることの方が多い。平安から綿々と続いてきた相模三浦氏血脈の最後の当主にして、北条早雲に拮抗する最大勢力であったが、北条に攻められ、三浦の新井城で三年の籠城の末、討死した。

「鎌倉九代記」「鎌倉公方九代記」「鎌倉公方九代記」の巻五の「六 三浦道寸討死 付 新井城歿落 幷 怨霊」のことであろう。私の『風俗畫報』の臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 大崩に引用しておいた。

「北條五代記」後北条氏の五代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた書で全十巻。「北条五代実記」「北条盛衰記」「小田原北条記」などとという別名を持つ。参照したウィキ北条五代によれば、『後北条氏の旧臣で小田原合戦の篭城戦を体験したという三浦茂正(法名は三浦浄心)の著書である『慶長見聞集』から、後北条氏に関わる記事を後に茂正の旧友と称する人物が抄録したもの。後北条氏の盛衰を項目を立てて記載しているが、史料として使用するには検討が必要である。成立は元和年間とされているが、現在の刊本は寛永期のものと万治期のものがある』とある。

「永正九年」一五一二年。

「北條新九部長氏」戦国大名の嚆矢たる北條早雲(永享四(一四三二)年又は康正二(一四五六)年~永正十六(一五一九)年)のこと。「長氏」は彼の諱とされ、他の諱に氏茂も伝えられたが、現在は盛時が定説である。早雲というのは早雲庵宗瑞(そうずい)という彼の号に基づく。

「數珠掛松」正覚寺の公式HPには『境内には、良忠上人あるいは頼朝が数珠を掛けたと云われる「数珠掛松」があ』ったとあり、現存しないと判断される。]

唄   立原道造

   唄

 

林檎の木に 赤い實の

熟れてゐるのを 私は見た

高い高い空に 鳶が飛び

雲がながれるのを 私は見た

太陽が 樹木のあひだをてらしてゐた

 

そして 林の中で 一日中

私は うたをうたつてゐた

⦅ああ 私は生きられる

私は生きられる‥‥‥‥

私は よい時をえらんだ⦆

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、同人雑誌『こをとろ』昭和一三(一九三八)年十一月号に前に発表されたものである。]

逝く晝の歌   立原道造

    逝く晝の歌

 

私はあの日に信じてゐた――粗い草の上に

身を投げすてて あてなく眼をそそぎながら

秋を空にしづかに迎へるのだと

秋はすすきの風に白く光つてと

 

さうならうとは 夢にも思はなかつた

私は今ここにかうして立つてゐるのだ

岬のはづれの岩の上に あらぶ海の歌に耳をひらいて

海は 波は 單調などぎつい光のくりかへしだ

 

どうして生きながらへてゐられるのだらうか

死ぬのがただ私にはやさしくおそろしいからにすぎない

美しい空 うつくしい海 だれがそれを見てゐたいものか!

 

捨てて來たあの日々と 愛してゐたものたちを

私は憎むことを學ばねばならぬ さうして

私は今こそ激しく生きねばならぬ

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一一(一九三六)年十月号に前に示した「甘たるく感傷的な歌」とともに発表されたものである。]

甘たるく感傷的な歌   立原道造

    甘たるく感傷的な歌

 

その日は 明るい野の花であつた

まつむし草 桔梗 ぎぼうしゆ をみなへしと

名を呼びながら摘んでゐた

私たちの大きな腕の輪に

 

また或るときは名を知らない花ばかりの

花束を私はおまへにつくつてあげた

それが何かのしるしのやうに

おまへはそれを胸に抱いた

 

その日はすぎた あの道はこの道と

この道はあの道と 告げる人も もう

おまへではなくなつた!

 

私の今の悲しみのやうに 叢には

一むらの花もつけない草の葉が

さびしく 曇つて そよいでゐる

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一一(一九三六)年十月号に次に示す「逝く晝の歌」とともに発表されたものである。

月の光に與へて   立原道造

   月の光に與へて

 

おまへが 明るく てらしすぎた

水のやうな空に 僕の深い淵が

誘はれたとしても ながめたこの眼に

罪は あるのだ

 

信じてゐたひとから かへされた

あの つめたい くらい 言葉なら

古い泉の せせらぎをきくやうに

僕が きいてゐよう

 

やがて夜は明け おまへは消えるだらう

――あした すべてを わすれるだらう

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『新生』昭和一三(一九三八)年九月号に発表されたものである。]

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十六年(3) 奈良飛火野/山城棚倉/他

 奈良飛火野

 

藤の森日曜画家に妻のこゑ

 

わが頭上無視して藤の房盗む

 

藤盗む樹上少女の細脛よ

 

女を飾る木よりぬすみし藤をもて

 

藤盗み足をぬらして森を出る

 

いなびかり髪膚をもつて堪へてをり

 

臆病なとかげが走り瑠璃走る

 

[やぶちゃん注:「飛火野」「とぶひの」と読む。狭義には奈良の春日山の麓の春日野の一部であるが、広義には春日野の別名でもある。地名は元明天皇の頃、ここに烽火(のろし)台が置かれたことに由来するという。]

 

 山城棚倉

 

土中より筍老いたる夫婦の財

 

筍の穴が地軸の暗を見す

 

筍と老婆その影むらさきに

 

凭りて刻長し藤咲く野の一樹

 

[やぶちゃん注:「山城棚倉」京都府木津川市山城町のJR棚倉駅付近か。地名そのものは万葉以来の歌枕である。底本年譜の昭和三六(一九六一)年の項に、『初夏、山城の棚倉から筍を売りに来るお婆さんと親しくなり、美代子同伴、筍掘りを見せてもらう』とある。私などは筍掘りは初春のイメージであるが、夏の季語で、実際、三月下旬から五月下旬が筍狩りの季節だそうである。]

 

   *

 

   奈良白毫寺村

 

田を植ゑてあがるや泳ぎ着きし如

 

妻の紅眼にする田植づかれのとき

 

[やぶちゃん注:「白毫寺村」(びゃくごうじむら)は奈良市街地の東南部の、現在の奈良県奈良市白毫寺町。名は域内にある真言律宗高円山白毫寺に由来する。]

 

   *

 

男女入れ依然暗黒木下闇

 

仔の鹿と出会がしらのともはにかみ

 

梅壺の底の暗さよ祖母・母・われ

 

一粒一粒漬梅かさね壺口まで

 

漬梅を封ぜし壺を撫でいとしむ

 

漬梅と女の言葉壺に封ず

 

金銀を封ぜし如き梅壺よ

 

梅干を封ぜし壺のなぜ肩よ

 

透ける簾に草炎の崖へだつ

 

   稔、庭にDDTを撒く。

 

こがね虫千殺したり瑠璃の千

 

七月の光が重し蝶の翅

 

十代の手足熱砂に身を埋め

 

海昃りはつと影消す砂日傘

 

けふの果紅の峰雲海に立つ

 

乳母車帰る峰雲ばら色に

 

華麗なるたいくつ時間ばらの園

 

爛熟のばら園時間滞る

 

らん熟のばら園天へ蠅脱す

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その5)

 和歌山への旅は興味深々たるものであった。八月三十一日、我々は和歌山を立って奈良へ向った。最も美しい谷間を、二日にわたって人力車で行くのであった。我々の日本の旅で、ここ程魅力に富んだいい景色の多い所は他に無かった。晩方、我々は大和の国の五条という町へ着いた。川に沿う路の途中で、私はその外見はコネティカット河の上流に於る段丘とまったく同じだが、原因はまるで異る、正式な段丘構成を見た。

[やぶちゃん注:「八月三十一日、我々は和歌山を立って奈良へ向った。最も美しい谷間を、二日にわたって人力車で行くのであった」この記述からモースの奈良着は明治一五(一八八二)年九月一日夕刻六時(後述されてある)であったと推定出来る。「最も美しい谷間」「川に沿う路の途中」の渓谷や川は「紀の川」を指す(地図上表記では「紀ノ川」であるが河川法では「紀の川」と表記する)。

 

「原因はまるで異る、正式な段丘構成」小学館「日本大百科全書」の「紀ノ川」には『上流吉野川は峡谷の様相を示すが、中流粉河(こかわ)までの北岸には洪積段丘が、下流には複合扇状地がみられ』るとある。この洪積段丘とは洪積世(更新世)に堆積して出来た平野が隆起して台地化し、それが段丘を成している地形をいう。ウィキの「河岸段丘」を見ると、『地殻変動や、侵食基準面の変動がその形成原因となる。侵食力を失った河川が隆起や海面低下などにより再び下刻を行うと、それまでの谷底平野内に狭い川谷が形成される。谷底平野は階段状の地形として取り残され、河岸段丘が形成される。これとは逆に、山地からの土砂供給により、形成される堆積段丘というものもある』。『侵食が進んで河川勾配が侵食基準面に近付き侵食力が弱まると、段丘崖の下に新たな谷底平野が形成される。その後隆起などにより再び侵食力が強くなると新たな段丘崖が形成され、河岸段丘が多段になる。主に河岸段丘は内側に近づくにつれ、新しくなる』と形成過程を記す。ここには隆起や海面低下などの地殻変動によって形成されるタイプと、山地からの土砂供給によって形成される堆積段丘の二タイプがあると読める。或いは、前者の大きな地殻変動によって生ずる河岸段丘の中に於いて全く異なった現象を濫觴とする河岸段丘のタイプ、の意で述べているのかも知れない。「紀の川」は中央構造線の谷間を流れているため、隆起や海面低下といった地殻変動の影響を盛んに受けて河岸段丘が形成されたものであるが、コネチカット川上流域の河岸段丘の形成自体がよく分からないので何とも言い難い。地質学の専門家の御教授を乞うものである。]

 
 

M680

図―680

 

 五条では、一軒の家が建てられつつあって、恰も部屋の天井が如何に支持されるかが見られた。人は杉板ののっている細いたるきが、よしんば如何に杉板が薄いにせよ、それ等を支える可く余りに弱いことに気がつく。これ等の板の上側には長い桟が打たれ、この桟と、上方の屋根のたるきとに釘でとめた木が入れられる。天井の上と屋根の下の空間、即ち我国にあっては屋根裏部屋を構成する場所は、日本の家ではまるで利用されず、鼠の運動場になっている。五条で私は、消防小屋の写生(図680)をした。これは四年前、蝦夷の室蘭で写生した同様の家に似ている。喞筒(ポンプ)は屋根の下にぶら下っていて、乾燥してひびが入っているので、火事に際して使用すると、木に水がしみ込む迄は吃驚する位、水が各方面へほとばしり出る。

[やぶちゃん注:図680の上部には「噴水砲」と書かれているの分かり、その右手にはちょっと自信がないが英語で“jet water gun”と書かれているか? 中央に置かれた龍土水にも文字が書かれているようだが、これは読めない。

「五条」現在の奈良県南西部の南和地域の中心都市である五條市(ごじょうし)。表記についてはウィキの「五條市を参照されたい。ここではこの「五条」はこの表記で問題はないとのみ言っておく。

「四年前、蝦夷の室蘭で写生した同様の家に似ている」第十三章 アイヌ 22 雨の室蘭にての図415を参照。]

M681

図―681

 

 大和の八木という町で見たいくつかの葺屋根(図681)は、葺材の縁が重って現れている点で、蝦夷のアイヌ小舎の草屋根に似ているが、継続的な縁辺はアイヌの屋根に於るが如く、著しくつき出してはいない。

[やぶちゃん注:図681に添えられた英語はお手上げ。どなたか、解読をお願いモース!
 
「大和の八木」奈良県橿原(かしはら)市内膳町(ないぜんちょう)内の地名。次段の神武天皇陵よりも北、奈良寄りである。

M682

図―682

 

 我々は、朝五条を立ち、一日中気持よく人力車を走らせた後、六時奈良に着いた。大和の国へ入ってから私は路傍のそこここに、千年以上も経た青色の、釉をかけぬ、旋盤(ろくろ)で廻した陶器の破片を見た。古物学者はこの陶器を朝鮮のものとしているが、地面に沢山ちらばっていることからして、私はこれを、その製法は最初に朝鮮の陶工によって輸入されたが、日本のものであると考えた。これは墓や洞窟に関係があり、死を追念させる。奈良の近くで我々は最初の皇帝即ち神武天皇の墓所を通過した。それは大きな、四角い、上の平な塚で僅かに隆起し、清楚な、丈夫な石垣に取りかこまれている。それを見るべく主要路から入って行くと、恐しく暑く、私は写生を試みるべく余りにつかれていた。私はやっとのことで、奥の聖所の門を閉ざす南京錠を急いで写生した。これは大きな重重しい英銀製の品で、皇帝の命令が無くては絶対にあけることが出来ない(図682)。

[やぶちゃん注:「神武天皇の墓所」現在の神武天皇陵と治定されてある奈良県橿原市大久保町の「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」。公式の形式は円丘で、考古学名では「四条ミサンザイ古墳」「山本ミサンザイ古墳」「神武田古墳」などと呼称する(以上はウィキ神武天皇に拠った)。古墳羨道入口まで行けちゃったというのが今から考えると凄いし、南京錠のスケッチを残したモースも凄い。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (三)


       三   七月二十三日 杵築にて

 私の杵築に於ける最初の日の記憶の中には、幽靈の如く全然冷靜な顏を有し、奇異で、優美な音を立てない歩み方をする、巫女(みこ)の美しい白い姿が、いつも通過して行く。

 巫女といふ名は、神々の寵兒といふ意味だ。

 親切な宮司は、私の懇請によつて、巫女の寫具を買求めて――寧ろ私のために取つて呉れた。緋の袴を穿いた上へ、足まで垂るゝ雪白の齋服を着けて、神祕的な鈴を高くあげた舞姿である。

 して、博學の神官、佐々氏が神々の寵兒と、その神聖な踊の巫女神樂に關して、つぎのことを話してくれた。 

 

 伊勢の如き他の大きな神社の習慣に反して、杵築の巫女の職はいつも世襲的だ。昔は杵築では、三十有餘戸の娘が、巫女として大社に仕へた。今日は二戸あるだけで、少女の神女の數は六名を超過しない――私が寫眞を獲たのは、第一の巫女のものである。伊勢やその他の處では、神官の娘は誰でも巫女になれる。しかし婚期に達してからは、その資格で仕へる譯には行かぬ。で、杵築以外では、すべて大きな神社の巫女は、十歳乃至十二歳の女兒である。が、杵築大社では、少女の神女は、十六歳乃至十九歳の美しい娘であつて、人氣ある巫女は結婚後でさへ奉仕を許されることもある。神聖は學ぶことが左程困難ではない。將來神社に仕へる兒女には、母親又は姉が教へる。巫女は家庭に住んでゐて、ただ祭祀の日にのみその任務のため參殿する。彼女は何等の嚴重な規律に從つたり、制限を受けてゐるのでない。何等特別の誓約をするのでもない。少女で居ることむ止めたからといつて、恐ろしい罰に處せらるゝ心配もない。しかしその地位は高い名譽であるし、家族に取つては一つの財源にもなつてゐるから、彼女の職務に對する束縛力は、古代西洋の巫女の神に對する誓約と殆ど同樣に強いのである。

 希臘デルフアイの神巫の如く、昔時巫女はまた卜女でもあつた――彼女の奉仕する神が憑移つた場合には、未來の祕密を語る、生ける神託であつた。今日は何れの神社に於ても、巫女が女豫言者として務めることはない。しかしまだ一種の巫婆があつて、死人と交通を行ひ未來のことを告げ得ると稱し、また自から巫女と名乘り、祕密にその業を行つてゐる。法律で禁じてあるから。

 種々の大きな神社に於て、巫女神樂の踊り方に差異がある。最も古い杵築では、踊りが最も簡單で、また最も原始的だ。その目的は神々を樂しませるといふのだから、宗教的保守主義が信仰の初期以來、變はることなく、その傳説と歩み方を維持してゐる。この踊の起原は古事記に載つてゐる天の宇受賣命の踊に見出される。この女神の感興と歌によつて、天照大神はその隱れ玉ふた岩洞から誘ひ出されて、復た世界を照らしたのであつた。して、鈴――巫女が舞に用ひる、鈴の簇生せる靑銅製の器具――は、天の宇受賣命が愉快な歌を始める前に、葦で小鈴を結び付けた笹の枝の形を保存してゐる。

[やぶちゃん注:この時にハーンが見たものとは異なるが、出雲大社三大祭の一つである「献穀祭(けんこくさい)」での古式の巫女舞をHitoshi Naora 氏出雲大社本殿での巫女舞の動画で見ることが出来る。
 
「希臘デルフアイの神巫」古代ギリシャのポリスであるデルフォイ(
Delphoi:英語表記 Delphi:日本語の音写は「デルポイ」「デルファイ」「デルフィ」(最後のものは現代ギリシア語発音に基づく)に於いて神託をもたらした巫女シビュッラ(英語表記:Sibyl )のこと。詳しくはウィキの「デルポイ」(ポリス及び神託の記載有り)及び同「シビュッラ」を参照されたい。

「昔時巫女はまた卜女でもあつた――彼女の奉仕する神が憑移つた場合には、未來の祕密を語る、生ける神託であつた」注するまでもないとは思うが、ウィキの「巫女」から引いておく。『古神道での、神を鎮める様々な行為のなかで特に、祈祷師や神職などが依り代となって、神を自らの身体に神を宿す、「神降し」や「神懸り」(かみがかり)の儀式を「巫」(かんなぎ)といった。これを掌る女性が巫女の発生と考えられる。男性でその様な祭祀に仕える者は覡』(読みは同じく「ふ/かんなぎ」と読む)『と称される』。ハーンも述べるように「古事記」「日本書紀」に記される日本神話の『天岩戸の前で舞ったとされる天鈿女命(アメノウズメ)の故事』がこの原型と考えてよく、また、「魏志倭人伝」によると、『卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)記述があり、この鬼道や惑の正確な意味・内容は不明だが、古代に呪術的な儀式が女性の手で行われた事がうかがえる』。平安期に入ると、『神祇官に御巫(みかんなぎ)や天鈿女命の子孫とされた猨女君』(さるめのきみ)『の官職が置かれ、神楽を舞っていたと推定されている。平安時代末期の藤原明衡の著である』「新猿楽記」には巫女に必要な四つの要素として『「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している』。『中世以後、各地の有力な神社では巫女による神楽の奉納が恒例となった。さらに神楽も旧来の神降ろしに加えて、現世利益を祈願するものや、必ずしも巫女によらない獅子舞や、曲独楽等の曲芸に変貌したとされ、そのためか、現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例がみられる』。また、『歌舞伎の元である「かぶきおどり」を生み出したとされる出雲阿国(いずものおくに)は出雲大社の巫女であったという説』もあり、『古代の呪術的な動作が神事芸能として洗練され、一般芸能として民間に広く伝播していった経過がうかがわれる』。また、これは「渡り巫女」別称、「歩き巫女」の濫觴ともなった。彼女らは『祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとされ』、『旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではない』ことから、『後に寺社の「お抱え」となる集団もあり、男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨をともにしたといわれる。また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいた』。『近世社会においては郷村から近世村落への変遷において、神社の庇護者であった在地土豪の消失や社地の縮小による経済的衰退、神主による神事の掌握などを事情に神子は減少し』、『また、近世社会においては名跡を継ぐことが許されるのは男性のみであったため、神子の多くは神子家を継承させるため夫を迎えていた』とある。

「しかしまだ一種の巫婆があつて、死人と交通を行ひ未來のことを告げ得ると稱し、また自から巫女と名乘り、祕密にその業を行つてゐる。法律で禁じてあるから」前注で引いたウィキの「巫女」の「近代」の項には、『明治維新を迎え、神社・祭祀制度の復古的な抜本的見直しが』なされ、明治四(一八七一)年には『神祇省に御巫(みかんなぎ)が置かれ、宮内省の元刀自が御巫の職務に当た』り、二年後の明治六年には『教部省によって、神霊の憑依などによって託宣を得る、民間習俗の巫女の行為が全面的に禁止された』(「梓巫市子並憑祈禱孤下ケ等ノ所業禁止ノ件」。これは我流で「あずさみこ/いちこ/ならびに/つきものきとう/きつねさげ/などのしょぎょうきんしのけん」と読んでおく)。『これは巫女禁断令と通称される。このような禁止措置の背景として、復古的な神道観による神社制度の組織化によるものである一方、文明開化による旧来の習俗文化を否定する動きもうかがえる』。『禁止措置によって神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女はほぼ廃業となったが、神社、或いは教派神道に所属し』、『姿・形を変えて活動を続ける者もいた。また、神職の補助的な立場で巫女を雇用する神社が出始めた。後、春日大社の富田光美らが、神道における巫女の重要性を唱えると同時に、八乙女と呼ばれる巫女達の舞をより洗練させて芸術性を高め、巫女及び巫女舞の復興に尽くした。また、宮内省の楽師であった多忠朝は、日本神話に基づく、神社祭祀に於ける神楽舞の重要性を主張して認められ、浦安の舞を制作した』とある。

「その目的は神々を樂しませるといふのだから、宗教的保守主義が信仰の初期以來、變はることなく、その傳説と歩み方を維持してゐる。この踊の起原は古事記に載つてゐる天の宇受賣命の踊に見出される」私はこのハーンの謂いには大いに違和感を感じる。ハーンの「この踊の起原は古事記に載つてゐる天の宇受賣命の踊に見出される」は無論、正しい。しかしだ、「天の宇受賣命」(あめのうずめのみこと)のそれはバストは勿論のこと、エキサイトして裳裾をからげ上げて陰部をさえちらちらと見せるという、本邦初のストリップ・ショーであった。それを中心に八百万の神々(男神ばかりではなくあまたの女神もである。古代日本に於いては男女の性の認識意識には今のような懸隔はなく、当時の女性は男と等しく「好色」であり、性に対しては大した位相の違いはなかったと私は考えている)が円座を組んでそれを囲んでは、やんや! やんや! の喝采や溜め息を挙げた、その過激にして強烈なエロティクさに八百万の神総てがエクスタシーの歓声嬌声を挙げ「神々を樂しませ」たのである(そのように神々が演じたとも言えるが、そうした作為と結果は神話構造では全く問題にならない瑣末なことである)。だからこそ、全女神の頂点に立つ絶世の美女神たる天照大神は私より「スゴイ! って、何よ?! どんな女よッツ!」と大いに嫉妬して覗き見したのである(その後の自らが鏡に映った顔を錯覚するという神々の企みも美事である)。であってみれば、近代以降の巫女の舞いや神楽が、「信仰の初期以來、變はることなく、その傳説と歩み方を維持してゐる」などとは私は全く思わない。敢えて言うなら、性意識を神経症的に隠蔽し、男女の道徳性を社会的権力的に束縛し変質させて操作しようとする「宗教的保守主義」によって、本来の神楽や巫女舞の本質的属性――自由奔放で極めて健全な性の謳歌――が完膚なきまでに殺菌されてしまい、陳腐に権威化されて、市井の民の笑いを遙か彼方へ遠ざけてしまったと私は断言するのである。大方の御叱正を俟つものではある。が、私は、そう簡単には退かないと断ってもおく。] 

 

Sec.4

   KITZUKI,
    July 23rd

Always, through the memory of my first day at Kitzuki, there will pass the beautiful white apparition of the Miko, with her perfect passionless face, and strange, gracious, soundless tread, as of a ghost.

Her name signifies 'the Pet,' or 'The Darling of the Gods,'-Mi-ko.

The kind Guji, at my earnest request, procured meor rather, had taken for mea photograph of the Miko, in the attitude of her dance, upholding the mystic suzu, and wearing, over her crimson hakama, the snowy priestess-robe descending to her feet.

And the learned priest Sasa told me these things concerning the Pet of the Gods, and the Miko-kagurawhich is the name of her sacred dance. 

 

Contrary to the custom at the other great Shinto temples of Japan, such as Ise, the office of miko at Kitzuki has always been hereditary. Formerly there were in
Kitzuki more than thirty families whose daughters served the Oho-yashiro as miko: to-day there are but two, and the number of virgin priestesses does not
exceed six
the one whose portrait I obtained being the chief. At Ise and elsewhere the daughter of any Shinto priest may become a miko; but she cannot serve in that capacity after becoming nubile; so that, except in Kitzuki, the miko of all the greater temples are children from ten to twelve years of age. But at the Kitzuki Oho-yashiro the maiden-priestesses are beautiful girls of between sixteen and nineteen years of age; and sometimes a favourite miko is allowed to continue to serve the gods even after having been married. The sacred dance is not difficult to learn: the mother or sister teaches it to the child destined to serve in the temple. The miko lives at home, and visits the temple only upon festival days to perform her duties. She is not placed under any severe discipline or restrictions; she takes no special vows; she risks no dreadful penalties for ceasing to remain a virgin. But her position being one of high honour, and a source of revenue to her family, the ties which bind her to duty are scarcely less cogent than those vows taken by the priestesses of the antique Occident.

Like the priestesses of Delphi, the miko was in ancient times also a divineressa living oracle, uttering the secrets of the future when possessed by the god whom she served. At no temple does the miko now act as sibyl, oracular priestess, or divineress. But there still exists a class of divining-women, who claim to hold communication with the dead, and to foretell the future, and who call themselves mikopractising their profession secretly; for it has been prohibited by law.

In the various great Shinto shrines of the Empire the Mikokagura is differently danced. In Kitzuki, most ancient of all, the dance is the most simple and the 
most primitive. Its purpose being to give pleasure to the gods, religious conservatism has preserved its traditions and steps unchanged since the period 
of the beginning of the faith. The origin of this dance is to be found in the Kojiki legend of the dance of Ame-nouzume-no-mikoto
she by whose mirth and 
song the Sun-goddess was lured from the cavern into which she had retired, and brought back to illuminate the world. And the suzu
the strange bronze 
instrument with its cluster of bells which the miko uses in her dance
still preserves the form of that bamboo-spray to which Ame-no-uzume-no-mikoto fastened small bells with grass, ere beginning her mirthful song.

 

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 小坪村

    ●小坪村

小坪〔坪或作壷〕村は飯島の東の漁村なり、此浦を鷺(さぎ)が浦とも云となむ片濱(かたはま)にて多景の地なり、東鑑に、壽永元年六月、賴朝の愛妾龜前を小中太光家が小窪の宅に招置(めしおき)、此所御濱出(おはまで)の便宜の地りとあり。按するに小窪は小坪なり、後に光家が小坪の宅と出たり。又建久四年七月十日、海濱涼風に屬(ぞく)す、將軍家小坪の邊に出給(いでたま)ふとあり、又正治二年九月二日、將軍賴家小坪の海邊を歷覽し給ふ、海上に船を粧、盃酒を獻ず、而るに朝夷名三郞義秀水練の聞(きこえ)あり、此次てに其藝を顯すべきよし御命あらければ、義秀潮船より下(を)り海上に浮(うか)み、往還數十度、結句波の底に入暫不ㇾ見諸人恠(あやし)みをなす所に、生たる鮫三喉を提(さ)けて御船の前に浮み上、滿座感せすと云事なしとあり、其外代々の將軍遊覽の地なり、又盛衰記に三浦義盛、畠山重忠と此(この)小坪坂にて、相戰ふ事みへたり。

[やぶちゃん注:「坪或作壷」は『「坪」、或いは「壷」に作る。』と読む。

「壽永元年」一一八二年。

「建久四年」一一九三年。

「正治二年九月二日、將軍賴家小坪の海邊を歷覽し給ふ、海上に船を粧、盃酒を獻ず、而るに朝夷名三郞義秀水練の聞あり、此次てに其藝を顯すべきよし御命あらければ、義秀潮船より下り海上に浮み、往還數十度、結句波の底に入暫不ㇾ見諸人恠(あやし)みをなす所に、生たる鮫三喉を提けて御船の前に浮み上、滿座感せすと云事なしとあり」これは私の電子テクスト「鎌倉攬勝考の「小坪」を見るに若くはなし! この場面の後、怪力無双の義秀に兄和田常盛が相撲を挑むのだが……「和田新左衞門尉常盛ト舎弟義秀ト角觝」「和田義盛ハ弟義秀に賜ひし龍蹄に打跨り飛が如クに馳歸る」という挿絵も楽しい。是非、ご覧あれ!

「三浦義盛、畠山重忠と此小坪坂にて、相戰ふ事みへたり」これは所謂、「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるもので、三浦義盛は和田義盛のことである。治承四(一一八〇)年八月十七日の頼朝の挙兵を受け、同月二十二日、三浦一族は頼朝方につくことを決し、頼朝と合流するために三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠三浦を出立、そこにこの和田義盛及び弟の小次郎義茂も参加した。ところが丸子川(現・酒匂川)で大雨の増水で渡渉に手間取っているうち、二十三日夜の石橋山合戦で大庭景親が頼朝軍を撃破してしまう。頼朝敗走の知らせを受けた三浦軍は引き返したが(以下はウィキの「石橋山の戦い」の「由比ヶ浜の戦い」の項から引用する)、その途中この小坪の辺りでこの時は未だ平家方についていた『畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来た事情を知らない義盛の弟の和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た』ものの、この場はとりあえず『停戦がなり、双方が兵を退いた』とある。但し、この後の二十六日には平家に組した畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの大軍勢が三浦氏を攻め、衣笠城に籠って応戦するも万事休し、一族は八十九歳の族長三浦義明の命で海上へと逃れ、義明は独り城に残って討死にしたのであった。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 和賀江島

    ●和賀江島

和賀江島は飯島崎ともいへり、飯島の西の出崎(でさき)にて屢(しばしば)汐(うしほ)に崩壞し、海際纔(わづ)か亂礁(らんしやう)を存せり、東鑑に貞永元年七月十二日、勸進上人阿彌陀佛申請(しんせい)に就て、舟船著岸の煩ひ無(なか)らしめんが爲に、和賀江島を築(きづく)へきの由、同八月九日其(その)功(かう)を終(おはる)とあり。

[やぶちゃん注:例によって「新編鎌倉志卷之七」から引く。

   *

〇和賀江島 和賀江島(わかえのしま)は、飯島(いひじま)の西の出崎を云なり。【東鑑】に、貞永元年七月十二日、勸進の上人往阿彌陀佛(わうあみだぶつ)申し請(こ)ふに就いて、舟船著岸の煩ひ無からしめんが爲(ため)に、和賀江島を築くべきの由、同八月九日、其の功を終(を)ふるとあり。今は里人飯島崎(いひじまがさき)と云ふ。元(もと)飯島と同所なり。

[やぶちゃん注:現存する日本最古の築港跡で、海上への丸石積み(これらの石材は相模川・酒匂川・伊豆海岸などから運搬されたと考えられている)によって作られた人工港湾施設である。以下、ウィキの「和賀江島」の「歴史」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『鎌倉幕府の開府以降、相模湾の交通量は増加していたが、付近の前浜では水深の浅い事から艀が必要であり、事故も少なくなかった。このため、一二三二年(貞永元年)に勧進聖の往阿弥陀仏が、相模湾東岸の飯島岬の先に港湾施設を築く許可を鎌倉幕府に願い出た。執権の北条泰時はこれを強く後援して泰時の家臣である尾藤景綱、平盛綱、諏訪兵衛尉らが協力している。海路運ばれてきた相模国西部や伊豆国の石を用いて工事は順調に進み、一二三二年八月一四日(旧七月十五日)に着工して一二三二年九月二日(旧八月九日)には竣工した。なお、発起人の往阿弥陀仏は筑前国葦屋津の新宮浜でも築島を行なっていた土木技術の専門家である。一二五四年五月二十四日(建長六年四月二十九日)には問注所と政所それぞれの執事宛に唐船は四艘以下にするよう通達があり、南宋などから船が来港していた可能性がある』。『鎌倉時代の半ば以降に忍性が極楽寺の長老となってからは、和賀江島の敷地の所有および維持・管理の権利と、その関所を出入りする商船から升米とよばれる関米を徴収する権利が極楽寺に与えられていた。一三〇七年七月二十六日(徳治二年六月十八日)には関米を巡る問題で訴訟を起こした記録があり、管理の一端がうかがえる』。『江戸時代には和賀江島は「石蔵」や「舟入石蔵」と呼ばれ、付近の材木座村や小坪村(現・逗子市)の漁船などの係留場として使われていた。一七五〇年(寛延三年)頃、小坪村が島の西南方に新たな出入口を切開き、被害を受けた坂之下村や材木座村との間で一七六四年(明和元年)に相論が起きた。翌年、出入口の幅を九尺とし、三月から九月まで七ヵ月間は口を塞ぎ、残りの十月から二月までの五ヵ月に使用するという条件で和解したという』。『また鶴岡八幡宮の修復工事の際には材木や石を運ぶ船が停泊しており、少なくとも一六九六年(元禄九年)から翌年と一七八一年(天明元年)には八幡宮とともに島の修復工事も実施された。一八二六年(文政九年)の八幡宮修理に際しては、満潮時には』一メートル以上『海中に隠れるようになってしまっているとして材木座村が島の修復を願い出ている』。私の父は戦前、よくここで小さなイイダコを採ったという。私は三十数年前、干潮時のここを訪れ、浜から二百メートル程の先端まで歩いたことがあったが、そこで見つけたのは丸石にへばりついたイイダコならぬコンドームだった。]

   *

「勸進上人阿彌陀佛」不詳であるが、鈴木かほる氏の「三浦半島の史跡みち 逗子・葉山・横須賀・三浦」(二〇〇七年かまくら春秋社刊)を読むに、この和賀江島を領していた三浦一族が実質的な築港推進者であったとあるから、この勧進僧も三浦氏と非常に深い関係があった人物と考