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2015/09/30

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十七年(1) 障子貼る/独楽/他

 昭和三十七年

 

 障子貼る

 

障子貼るひとり刃のあるものつかひ

 

障子貼る刃ものぬれ紙よく切れて

 

昼臥しに風さらさらと新障子

 

愛しさや恋負け猫が食欲(ほ)れり

 

奴凧夜覚の顔のわが近くに

 

独楽あそび手窪のごとき地を愛し

 

鳥渡る群ばらばらに且つ散らず

 

綿虫とぶものに触れなばすぐ壊えん

 

頭も見せず蒲団を被れば一切消ゆ

 

    *

 

  薬師寺

 

花会式造花にいのちありて褪せ

 

    *

 

折ればわがもの冬ばらと園を出る

 

脚抱きて死にきれぬ蜂掃き出せり

 

  あやめ池動物園

 

一冬の玩具熊に木の切れつ端

 

冬兎身の大(だい)の穴いくつも掘り

 

 独楽

 

  元旦、丘本風彦氏来訪。独楽を習ふ。

 

頭をふつておのれ止らぬ勢ひ独楽

 

何の躊躇独楽に紐まき投げんとして

 

掌にまはる独楽の喜悦が身に伝ふ

 

掌に立ちて独楽の鉄芯吾(あ)をくすぐる

 

寝正月夢湧きつげば誰より贅(ぜい)

 

寝正月鶲を欲れば鶲来る

 

[やぶちゃん注:「鶲」は「ひたき」。スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科ヒタキ科 Muscicapidae に属するヒタキ類を広く指すが、正月の嘱目吟からは同ヒタキ科(ツグミ科 Turdidae ともする)ジョウビタキ Phoenicurus auroreus ではなかろうか。]

 

わが起居に眼をみはるもの奴凧

 

りんりんたる白羽破魔矢に鏃なし

 

白破魔矢武に苦しみし神達よ

 

羽のみだれ正(ただ)す破魔矢に息かけて

 

わが寝屋の闇の一角白破魔矢

 

養身のほとりにつよく破魔矢おく

 

[やぶちゃん注:以上の破魔矢句は個人的に好きな多佳子晩年の句群である。]

 

籾殻の深きところでりんご触れ

 

[やぶちゃん注:私の偏愛する句である。]

 

寒肥の大地雪片ふりやまず

 

手をつけば土筆ぞくぞく大地面

 

野に遊ぶ土管胎内くぐりして

 

泉の底天より早く星を得て

 

はるかなる雪嶺のその創まで知る

 

もがり笛厚扉厚壁くぐり来る

 

亡き夫顕(た)つごと焚火あたたかし

 

金魚池水輪もたてず雪ふりて

 

[やぶちゃん注:「丘本風彦」一時期、『天狼』の編集人であった人物であるくらいしか分からない。]

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十六年(4) 長良川/他

 

 長良川

 

  山下鵜匠邸庭にわが句碑立つ、誓子先生の

  句碑とともに。東京より三人の娘、三野明

  彦・武彦来。美代子・稔、奈良より加はる。

 

姉妹同じ声音蟬鳴く中に会ひ

 

[やぶちゃん注:前書の「美代子・稔、奈良より加はる」の中間の読点は恣意的に挿入した。「蟬」は底本の用字。以下同じ。底本年譜の昭和三六(一九六一)年の七月の条に、『岐阜長良川河畔の鵜匠山下幹司邸の前庭に、誓子との師弟句碑立つ。両句共に、三十一年七月、鵜舟に乗った時の句。

 

  鵜篝の早瀬を過ぐる大炎上 誓子

  早瀬過ぐ鵜飼のもつれもつれるまま 多佳子

 

除幕式に、誓子、波津子、多佳子、かけい、双々子、薫ら出席。また、東京より三人の娘と三野明彦、武彦。奈良より美代子、稔』とある。誓子満五十九、多佳子満六十二であった。]

 

籐椅子が四つ四人姉妹会ふ

 

蟬声に高音加はる死は遠し

 

   *

 

女やすむとき干梅の香が通る

 

紅き梅コロナの炎ゆる直下に干す

 

甲虫飛んで弱尻見せにけり

 

西日浄土干梅に塩結晶す

 

   *

 

をどり太鼓すりばち沼に打ちこんで

 

をどり衆地上をよしと足擦つて

 

をどりの輪つよし男ゐて女ゐて

 

かの老婆まためぐりくるをどりくる

 

夜の土に腰唄はずにをどらずに

 

尽きぬをどりおきて帰るや来た道を

 

をどり太鼓びんびん沼がはね反す

 

子が持つて赤蠟赤光地蔵盆

 

わが燭の遅れ加はる地蔵盆

 

   *

 

曼陀羅の虫の音崖の下に寝て

 

[やぶちゃん注:「曼陀羅」の用字はママ。]

 

甲虫紅き縫絲がんじがらめ

 

郭公に刻をゆづるよ暁ひぐらし

 

吾去れば夏草の領白毫寺

 

試歩を寄す秋天ふかき水たまり

 

翅立てて蝶秋風をやり過す

 

蜂さされ子に稲を刈る母の濃つば

 

プールサイドの椅子身をぬらさざる孤り

 

月遅し木星が出て海照らす

 

流れ急どかつと曼珠沙華捨つる

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三六(一九六一)年には先の七月の条に続いて、ただ一行、『九月、身体の調子悪くなる』とあって、この年の叙述そこで終っている。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十三章 習慣と迷信(5)/第二十三章~了

 先日外山教授が私に、彼と矢田部教授ともう一人別の友人とが、しばらくの間、シェークスピアその他の著者の作品を訳しつつあったと語った。これ等の和訳は出版され、日本人に熱心に読まれる。これ迄すでに彼等は、以下のものを訳した――ハムレットの独白、カーディナル・ウオルゼーの独白、ヘンリー四世の独白、グレーの「哀詩」、ロングフェロ-の「人世の頌歌」、テニソンの「軽騎兵隊の突撃」、そして今や彼等は、他の作品を訳しつつある。日本人は過去に於て、英、仏、独の書物を沢山訳した。事実十六世紀の終りに、オランダ人が最初に長崎へ行った時、日本の学者達は歴史、医学、解剖その他に関する蘭書を翻訳するために、この上もなく苦心して、オランダ語を学んだものである。すでに翻訳された書物のある物の性質は、興味が深い。外山教授は英語から訳された本の名を、記憶にあるものから話してくれた。即ちダーウィンの「人間の降下」と「種の起原」、ハックスレーの「自然に於る人間の位置」、スペンサーの「教育論」(これは何千となく売れた)、モンテスキューの「法の精神」、ルソーの「民約論」、ミルの「自由に就て」、「宗教に関する三論文」及び「功利説」、ベンサムの「法律制定」、リーバァの「民事自由と自治政府」、スペンサーの「社会静学」、「社会学原論」、「代表的政府」及び「法律制定」、ペインの「理論時代」バークの「新旧民権党員」。この最後の本はすでに一万部以上売れた。

[やぶちゃん注:まず、原文を総て提示しておく。

   *

Professor Toyama informed me the other day that he and Professor Yatabe and another friend had been for some time engaged in translating the works of Shakespeare and other authors. These are published and eagerly read by the Japanese. Thus far they have already translated the following: Hamlet's soliloquy; Cardinal Wolsey's soliloquy; Henry the Fourth's soliloquy; Gray's "Elegy"; Longfellow's "Psalm of Life"; Tennyson's "Charge of the Light Brigade"; and they are at work on others. The Japanese have in the past translated many books from the English, French, and German ; indeed, when the Dutch first went to Nagasaki, in the last years of the sixteenth century, the Japanese scholars, with the most painful efforts, learned Dutch in order to translate Dutch books on history, medicine, anatomy, and other subjects. The character of some of the books already translated is interesting. Professor Toyama gave me a list from memory of some of these translations from the English: Darwin's "Descent of Man," and "Origin of Species"; Huxley's "Man's Place in Nature"; Spencer's "Education" (of which thousands were sold); Montesquieu's "Spirit of Law"; Rousseau's "Social Contract"; Mill's "On Liberty," "Three Essays on Religion," and "Utilitarianism"; Bentham's "Legislation"; Lieber's "Civil Liberty and Self-Government"; Spencer's "Social Statics," "Principles of Sociology," "Representative Government," and "Legislation"; Paine's "Age of Reason," and Burke's "Old Whig and the New"; of this last book over ten thousand copies have already been sold.

   *

モース一行が関西旅行から横浜に帰着したのは明治一五(一八八二)年九月十一日であったが、東京大学の教職にあった外山正一(文学者・社会学者)と矢田部良吉(植物学者・詩人)及び井上哲次郎(哲学者)の共編著になる、日本近代史の濫觴と文学史では喧伝される(ものの名ばかりの極めて非文学的で退屈な)「新体詩抄 初編」は、まさにこの前月、同年八月刊である(国立国会図書館デジタルライブラリ同書画像の奥付をみると版権取得免許は七月二十一日。「初編」とあるものの続編は刊行されていない)。内容は訳詩十四編・創作詩五編から成る。以下に同書の「目次」を示す(頁番号は省略)。

   *

 目次

ブルウムフールド氏兵土帰郷の詩(丶山仙士)

カムプベル氏英国海軍の詩(尚今居士)

テニソン氏輕騎隊進擊ノ詩(丶山仙士)

グレー氏墳上感懷の詩(尚今居士)

ロングフルロー氏人生の詩(丶山仙士)

玉の緒の歌(巽軒居士)

テニソン氏船將の詩(尚今居士)

拔刀隊の詩(丶山居士)

勸學の歌(尚今居士)

チヤールス、キングスレー氏悲歌(丶山仙士)

鎌倉の大佛に詣でゝ感あり(尚今居士)

高僧ウルゼーの詩(丶山仙士)

シヤール、ドレアン氏春の詩(尚今居士)

社會學の原理に題す(丶山仙士)

ロングフロー氏兒童の詩(尚今居士)

ーキスピール氏ヘンリー第四世中の一段(丶山仙士)

ークスピール氏ハムレト中の一段(尚今居士)

ーキスピール氏ハムレト中の一段(丶山仙士)

春夏秋冬の詩(尚今居士)

   *

この内、「丶山(ちゅざん)」は外山正一の、「尚今」は矢田部良吉の、「巽軒」は井上哲次郎のそれぞれの号である。

 以上のモースの記載と一致しており、これは「新体詩抄 初編」の出版を指していると読むべきである。されば幾らも研究書はある。個々のデータ注は省略する(実際にはあまり興味がない。悪しからず)。御関心のある向きは、読み易く電子化したものが「J-TEXT 日本電子図書館」のにある(但し、新字表記)。

『ダーウィンの「人間の降下」』これはダーウィンの“The Descent of Man and Selection in Relation to Sex”のことであろう。現行では「人間の進化と性淘汰」などと邦訳される。

「リーバァ」アメリカ合衆国創生期のフランシス・リーバー(Francis Lieber 一八〇〇年~一八七二年)の一八五三初版の“On Civil Liberty and Self-Government”(「市民的自由と自治論」)のことではないかと思われる。以下、私にとって全く以って不明なる人物と書名についてしか注していないので悪しからず。

『ペインの「理論時代」』イギリス出身のアメリカの社会哲学者・政治哲学者で革命思想家であったトマス・ペイン(Thomas Paine 一七三七年~一八〇九年)が一七九三年~一七九四年にかけて完成させた“The Age of Reason”(現行では「理性の時代」と邦題される)のことである。

『バークの「新旧民権党員」』「保守主義の父」として知られる、アイルランド生まれのイギリスの哲学者で政治家のであったエドマンド・バーク(Edmund Burke 一七二九年~一七九七年)の一七九一年刊の“Appeal from the New to the Old Whigs”(「新ホイッグ党員から旧ホイッグ党員への訴え」)であろう。ウィキエドマンド・バークを見ると、日本に初めてバークを紹介したのは明治の官僚・政治家であった金子堅太郎で、この前年明治一四(一八八一)年に『金子はバークの『フランス革命の省察』と『新ウィッグから旧ウィッグへ』を抄訳『政治論略』として元老院から刊行し』ているとある。]

 

 翻訳について私が屢々気がついたのは、日本人は漢字が逆になっていてもすぐ識読するが、陶器の不明瞭な記印を読む時には、出来得べくんば漢字を、上は上にすることである。

[やぶちゃん注:原文を示す。

   *

In translating I have often observed that the Japanese instantly recognize a Chinese character upside down, but in reading an obscure mark on pottery they turn the character right side up in preference.

   *

私が馬鹿なのか、後半部の意味が判らない。これはハーンの皮肉ではなかろうか? 即ち、ハーンの見たところ、陶器鑑定をする日本人の中の多くが、陶工の記印の上下をしばしば逆にして判読に苦しんでいたり、不明とするシーンに出くわすことが多いと暗に言っているのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十三章 習慣と迷信(4)

 友人竹中は、私のもとめに応じて、夏体中に、下層階級の間に行われる迷信と習慣とを、いくつか集めて記録した。彼は時々、私が執筆出来ぬ程つかれていない時に、手帖から読んで聞かせる。日本人は迷信を意味する一般的な名を持っていないが、迷信的な人は「御幣かつぎ」と呼ばれる。「御幣」は神官が持つ、奇妙な形に切った紙で、「かつぐ」は持って歩くことを意味する。こんな品を持って廻る人は、迷信的だと見られるのである。

[やぶちゃん注:家のどこかに日本の迷信を総覧した本が何冊かあるはずなのだが、見当たらない。出てきたらまた、注を追加するかも知れない。悪しからず。

「竹中」宮岡恒次郎の実兄竹中成憲。既注であるが、再掲しておく。竹中成憲八太郎(元治元(一八六四)年~大正一四(一九二五)年)は明治八(一八七五)年に慶応義塾入学、次いで東京外語学校を経て、明治一三(一八八〇)年には東京大学医学部に入学、同二〇年に卒業後軍医を経て、開業医となった。実弟とともにモースやフェノロサの通訳や助手を務めた。以上は「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によるが、同書には竹中八太郎成憲の肖像写真が載る(二五八頁)。]

 

 人が死ぬと、死人の友人達は、通常、その家族に贈物をする。主として封筒に入れた金銭だが、この封筒の糸は赤と白とで無く、黒と白とでなくてはならぬ。赤は幸福の象徴で、幼児の衣服には必ず赤い糸か紐がついている。結び目は四角く結び、蝶結びその他の形であってはならぬ。封筒には普通「花のために」とか「線香のために」とか書く。線香は棒状の香である。然し、お金は何に使用しても差支えない。漆塗の器物に入れた、食品や菓子を持って行くこともある。受取った者はそれを出して皿にのせ、漆の箱には一回か二回折った一枚の紙、あるいはその紙の代りに薄い木片二個を入れる。これ等の供物は、死体がまだその家にある間か、又は葬式直後に於てなされる。家中が非常に悲しんでいる時や、死んだすぐ後だと、箱の中に紙を入れず、受取人はそれを注意深く清めるが、さもない時には、希は洗わずに返す。

[やぶちゃん注:私は後段のマナーについては見たことも聴いたこともない。識者の御教授を乞う。]

 

 仏教の僧侶が四十九日間、七日目ごとに来てお経をあげる。葬式が済むと、主人なり主婦なりが、会葬者のそれぞれに、小麦でつくった菓子を五つずつやり、三十五日たつと菓子九つをそれぞれの家に届ける。赤が幸福の表徴であることは前にいったが、祝日には赤い色をした飯を供する。貧乏の神様は、赤い御飯や黒い豆腐が嫌いなので、この悪神を追払うために、それ等の食物を神棚や床間にのせておく。

[やぶちゃん注:ネット検索では如何にもな道学風の働き者が嫌い、などという民俗学的につまらん記載が多いが、古里紅子氏の「まんが日本昔ばなし〜データベース〜」の「おいだせ貧乏神」のシノプシスによれば、越後国高田の貧乏神は自身で、『念仏』と正月十四日に『小豆粥を若木で焚いて出る煙が嫌いだ』と答えている(「国際日本文化研究センター」公式サイト内の私には重宝な「怪異・妖怪伝承データベース」の新潟県中頚城郡吉川町源での採話の「貧乏神」でも、一月七日に若木を山から戴いて参って同十四日に燃やして小豆を煮るが、これはその昔、貧乏な親爺が夜逃げをしたところが貧乏神がついてきたので話をしたところ、『貧乏神が生木を燃して小豆を煮るのが嫌いだと』答えたことによる、とあってほぼ完全に一致する)。「フジパン株式会社」公式サイト内の「民話の部屋」の香川県の民話に基づく節分と貧乏神では、やはり貧乏神の直話でともかくも増えるものが嫌いで、「豆腐とおからが一番好かん」と答え、「豆の一升でも煮たら余計増えるけに大嫌いじゃ」といったようなことを告白している。]

 

 それぞれの年には、特別な名がついている。今年(一八八二年)は馬の年である。閹牛(えんぎゅう)の年に生れた者は、十五歳以上になったら鰻を食つてはならぬ。父親が四十一歳の年に生れた子は、よい子と認められぬ。いうことを聞かぬ子になるというのである。かかる場合、親はその子を連れて友人の所へ行き、上の子を棄てるがひろってくれるかといい、往来へ置いておく。友人はそれをひろって家へ持って帰る。翌日親が、土産を持って友人を訪れ「私には子供が無い、あなたの子供をくれぬか」という。するとそれが行われるが、実は同じ子が返される迄の話で、而もこの莫迦げた真似をすることによって、その子は持って生れた悪運から解放されたことになる。この場合贈物は通常「鰹節」(材木みたいに固く乾した魚)で、これには例の熨斗(のし)をつけない。魚を贈る時にはすべて熨斗(紙を一種異様な形にたたみ、中に鮑(あわび)の乾した肉片を入れたもの)をつけない。鰻を食うことに関しては、十五歳以上の子供がそれを食えば、利口にもならず、出世もしないとされている。

[やぶちゃん注:「馬の年」「閹牛の年」には底本ではそれぞれ石川氏の「馬〔午〕の年」「閹牛の年〔丑〕」という割注が入っている。「閹牛」の「閹」は門番・刑罰として去勢された人・宦官の意で、平凡社「世界大百科事典」には、古くは去勢された牡馬を騸(せん)、去勢された牡牛を「閹牛(えんぎゅう)」と呼んだという記載が出て来た。「閹牛」自体はそんな意味だろうとは踏んでいたが、しかし!――十二支の「牛」は去勢されたの牛だったのね!――

 

 八月十五日(旧暦)、人は九月十三日までその場所にいなくてはならぬ。若し急用が起れば、立ち去つてもよいが、九月十三日にはそこへ帰って来ねばならぬ。これ等の日には、月に菓子を供えねばならぬ。毎月十五日、人は月を静視して、花と菓子を供えねばならぬ。一のつく日、即ち一日、十一日、二十一日には、木を伐ってはならぬ。二のつく日、即ち二日、十二日、二十二日には火の力が非常に強いから、リューマチスの反対刺戟材である艾(もぐさ)を、その熱が他日より強いというので使用する。三のつく日には庭の土を掘ってはならず、四のつく日には竹を切ってはならず、五のつく日には食料品――米、豆、すべての種子――を家へ持って帰ってはいけないし、米を買ってもいけない。六のつく日には井戸替えすべからず、七のつく日には知らぬ人を家へ招くべからず、八のつく日に婚礼の話をすると後で夫婦別れが起り、九のつく日に茄子(なす)を食うと縁起がいい。九月九日は九月も第九の月にあたるので特にいいとされ、この日には茄子の形をした徳利を使用する。十のつく日、即ち十日、二十日、三十日には便所の掃除をしてはならぬ。これ等の禁を犯すと、不幸か悪運かに見舞われる。

 

 大根を供する時には、必ず皿に二切をのせる。一切はヒトキリといい、一片を意味すると同時に「人切」を意味し、三切はミキレで、また「身切」を意味する。茄子その他の野菜類は大坂を除いては縦に切り、輪切りにしない。輪切りにすると残酷に見えるからである。

 

 二つで割り切れる数は運がいいとされているので、お菓子は二つに折った一枚の紙の上にのせて出され、また餅は、二、四、六、八その他の偶数で贈られる。

 

 塩をまくことは清浄化することと思われているので、偶然塩をこぼすと縁起がいいとされる。葬式から帰って来た人には召使いが塩を振りかける。

 

 眠る時には頭を南へ向けるのがよいとされる。人が危篤に陥ったり、あるいは死んだりした時には、頭を北向きにしなくてはならぬ。坐位で埋葬する時、死体はどっちを向いていてもよい。

 

 耳たぼの大きい人は、幸福な素質を持っていると見られる。

 

 足の人差指が拇指よりも長い人は、父親よりも高い位置を占める。長い舌や腕は泥棒のしるしである。

 

 左利きは、母親が赤坊に初めて着物を着せる時、左手と左腕とを先ず着物に通すことから起る。

 

 一度嚏(くさめ)をするのは、誰かが讃めているしるし、二度すれば女が惚れている、三度すれば誰かがほめるなりけなすなりしている、四度すれば風邪を引いたのだ。備前の国では、一回の嚏は嫌われたしるし、二回は好かれ、三回と四回は風邪を引いたことを示す。

 

 右の耳がかゆければいい事を聞く、左の耳なら悪い知らせ。婦人ではこれが反対である。

 

 灯火のしんに滓(かす)がたまれば誰か来る。油と灯心とが入っている浅い皿は、別の皿によって支えられるのだが、滓を下方の皿に入れることが出来れば、来訪者は贈物を持って来る【*】。

 

   * 同様な迷信が、米国や大英帝国に於

   て見出される。恐らくヨーロッパ大陸に

   もあるのだろう。

 

 烏が屋根にとまるのは、その家で誰かが死んだしるしである。

 

 夜、爪を切ってはならぬ、それは彼が狂人になるしるしである。

 

 御飯を着物や畳の上にこぼした子供は、それを食わぬと盲になる。

 

 腹切をしようとする人に飯を出すには、あたり前に出さず、飯槽の蓋をお盆に使用する。

 

 頭のかゆいのは幸福であるしるし、雲脂(ふけ)が落ちるのは理智のしるし。

 

 夏、すこし雷鳴がすれば、稲に危険な虫が沢山わく。

 

 ある人が貧乏に、不運になると、「アノシト ノウチ ワ ヒダリ マイ ニ ナル」という言葉を使用する。それは「あの家の人は着物を左にたたむ」というので、これは縁起の悪いこととされる。死体には着物を左たたみに着せる。

 

 病気、ことに痘瘡(ほうそう)を家に近づけぬには、馬の字を三つ紙に書き、それを戸口にはりつけると、非常にききめがあるとされる。また手に墨をつけ、それを紙に押したものを戸口につけても、この目的を達する。

 

 中禅寺では、鹿の胎児四匹が、炉の上にぶら下っているのを見た。それ等は煙に乾燥して変色していたが、婦人産後の病にきくものとされている。

 

 往来で櫛を見つけたら、ひろい上げる前に、左足からそれに近寄らねばならぬ。然らずんば一生涯を泣いて暮さねばならぬようになる。

 

 男は、自分より四歳年長又は年少の娘と結婚してはならぬ。若し結婚すれば、家内に面倒が起る。それ以外ならば、いくつ違ってもかまわない。

 

 芥子をまぜるには、怒ったような顔をしてかきまわさねばならぬ。そうすれば芥子は強くピリピリするが、まぜながら笑っていては、微温的な味なものになって了う。

 

 ある種の神(妙見)に祈る人は、八種類の食物を食ってはならぬ。然らずんば、この神は祈りを聞き届けてくれない。これ等の食物は鰻、うみがめ、飴、鯉、野鴨、鵞鳥、葱、それから葱と同じような野菜の一種である。

 

 男にとっては三、七、十九、二十五、四十二、五十三という年齢が殊に悪く、女には十六、二十五、三十三、五十六、五十七が悪い。また一般に七と九で終る年齢はよくないとされる。

 

 人が死んでから一年後に家族が集って荘厳な儀式をする。これは三年、七年、十三年、十七年、二十五年、三十三年、百年というように行われ、その後は五十年ごとに行う。

 

 朝夙(はや)く烏がカー カー 即ち「女房」と鳴く。だから神さんは亭主よりも早く起きねばならぬ。

 

 葬式の時には会葬者の名前を一枚の紙に書きしるす。この目的に使用する筆は、莢(さや)を脱がずに莢から押し出す。故に、それ以外の時にこんな真似をしては縁起が悪い。死体を家からはこび出す時、この役をつとめる人は、家に出入するのに履物を脱がぬ。だから新しい下駄を畳の上で履いて見ている人があると、友人が「どうぞそんなことをしないで下さい、縁起が悪いから」という。

 

 お茶の葉が茶碗の中で縦に浮けば、幸運が来るかいい便りを聞くかである。芸妓達はこれ等の葉をつまみ上げて左の袂に入れ、同時にこのいい前兆を確実ならしめる為に、鼠の鳴くような啜音を立てることを慣とする。

[やぶちゃん注:「啜音」「すすりね」と訓じていよう。]

 

 手首と足首とに糸をまきつけておけば、風邪を引かぬという。

 

 迷信的な人は、自分の歩いて行く道路の前方を鼬鼠(いたち)が横断すると、直ちにあと戻りをして旅行の目的を放棄する。若し極めて大切な用事があれば、別の路を行かねばならぬ。

[やぶちゃん注:ウィキイタチには、『日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた。江戸時代の百科辞典『和漢三才図会』によれば、イタチの群れは火災を引き起こすとあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている。新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を』、六人で『臼を搗く音に似ているとして「鼬の六人搗き」と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。人がこの音を追って行くと、音は止まるという』。『またキツネやタヌキと同様に化けるともいわれ、東北地方や中部地方に伝わる妖怪・入道坊主はイタチの化けたものとされているほか、大入道や小坊主に化けるという』。『鳥山石燕の画集『画図百鬼夜行』にも「鼬」と題した絵が描かれているが、読みは「いたち」ではなく「てん」であり』、『イタチが数百歳を経て魔力を持つ妖怪となったものがテンとされている』。『別説ではイタチが数百歳を経ると狢になるともいう』とあり、この謂いも腑に落ちる。]

 

 二つの葬式がすれ違うのは、両方にとって縁起がよいが、一つが一つに追いつくことは悪い。

 

 下駄の鼻緒が後方で切れるのはよいが、前方で切れるのは縁起が悪い。

 

 朝鮮から海を越して来る鶴は、足に一種の植物を持っていて、海上に降りる時にはこの植物を浮に使用すると信じられている。

 

 竜は竜巻(たつまき)と一緒に昇天するものとされている。その脚や足をチラリとでも見た人は、偉人になると信じられる。

 

 日本人は、狐に関する奇妙な迷信を沢山持っている。狂人は狐につかれたとされる。狐の精神が指の爪から身体に入るというので、つまりこれが爪の下から侵入し、そして狂人をして狂人の行為をさせるというのである。以前は政府に狂人保持の規則があり、家族が狂人の世話をし、狂暴であれば檻に入れた。下流社会ではまた狐を信心することが盛で、狐を養った人が幸運によって金満家になったというような話が多い。若い狐を檻に入れ、然るべく養えば、裕福になると信じられている。

 

 外国人がこの人々の間に科学を持ち来たしてから、かかる迷信はすみやかに消え失せつつある。

 

 私は竹中に、退職した人は何をするかと質問した。彼は、概していうと、暮し向きの楽な人は、六十になると仕事をやめるといった。彼は事業上の業務をすべて息子にまかせ、隠退生活を送り、たいていは道楽に、珍しい植物、羊歯(しだ)、陶器、石器その他を蒐集する。彼は夏は五時、冬は六時に起きる。火鉢には茶を入れる水の入った鉄瓶を熱する為の火があり、彼は茶を濃く入れる。彼は寒天菓子の一種である羊羹と、醗酵した豆でつくった味噌汁とを取る。彼は歌をつくる。九時になると旧友をたずねたり、たずねられたりする。一日中碁を打つ。若し彼が飲酒家であれば、九時から飲み始めて床につく迄それを続ける。昼間、公園なり、田舎の景色のいいところなりへ、遠足することもある。

 

 竹中は衛生局長から、徳川将軍時代には、今よりももっと飲酒が盛だったと聞いて来た。その頃訪問した友人には必ず酒を出し、それをこばむことは無礼とされていた。現在ではお茶が出され、若し酒が出るにしても、人は好みに従ってそれを飲んでも飲まなくても、礼を失することにはならぬ。その頃は、酒宴の席では、只一つの盃が用いられ、それは次の人に廻す前に、飲みほさねばならなかった。現在では各々が盃を持ち、気兼すること無しに飲酒を調節することが出来る。酒飲みは、生菓子や砂糖菓子のような、甘い物を好まない。

 

 興味があるとか、奇妙であるとかいうことを意味する言葉はオモシロイで、直訳すれば「白い顔」となり、白い顔が奇妙な観物であった昔の時代から伝って来た。今日、滑稽新聞は、「興味ある」をオモクロイという。「黒い顔」の意味である。

[やぶちゃん注:「滑稽新聞」原文“the comic papers”で一般名詞として用いていることが判る。所謂、猟奇的或いは不道徳で好色な事件報道や有名人のゴシップ報道などに力を入れた大衆紙、今のタブロイド誌のような新聞を指す。因みに、反骨のジャーナリスト宮武外骨が大阪で発行した知られた『滑稽新聞』はずっと先の明治三四(一九〇一)年一月の発刊である。]

 

 日本の社会は今や公に、上弦、中流、下流の三つにわけてある。現在の日本人は、以前にくらべて、人力車夫やその他の労働者に、余程やさしく口を利くようになった。

アリス10歳

本日、三女アリス10歳の誕生日――アリス! おめでとう♡♡♡

優しき歌 序の歌 / Ⅰ 爽やかな五月に   立原道造

優しき歌

 

 

    序の歌

 

しづかな歌よ ゆるやかに

おまへは どこから 來て

どこへ 私を過ぎて

消えて 行く?

 

夕映が一日を終らせよう

と するときに――

星が 力なく 空にみち

かすかに囁きはじめるときに

 

そして 高まつて むせび泣く

絃のやうに おまへ 優しい歌よ

私のうちの どこに 住む?

 

それをどうして おまへのうちに

私は かへさう 夜ふかく

明るい闇の みちるときに?

 

 

  Ⅰ 爽やかな五月に

 

月の光のこぼれるやうに おまへの頰に

溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて

私は どうして それをささへよう!

おまへは 私を だまらせた‥‥

 

《星よ おまへはかがやかしい

《花よ おまへは美しかつた

《小鳥よ おまへは優しかつた

‥‥私は語つた おまへの耳に 幾たびも

 

だが たつた一度も 言ひはしなかつた

《私は おまへを 愛してゐる と

《おまへは 私を 愛してゐるか と

 

はじめての薔薇が ひらくやうに

泣きやめた おまへの頰に 笑ひがうかんだとて

私の心を どこにおかう?

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の巻頭の序曲と第一曲である。

 以上、この推定された幻の詩集「優しき歌」は、本「序の歌」と「爽やかな五月に」に始まって、

 

 ↓

落葉林で

 ↓

Ⅲ「さびしき野邊」

 ↓

IIII夢のあと

 ↓

Ⅴ「また落葉林で

 ↓

Ⅵ「朝に

 ↓

Ⅶ「また

 ↓

午後に

 ↓

Ⅸ「樹木の影に

 ↓

Ⅹ「夢みたものは

 

の順に配され、読まれるようになったのである。

 なお、中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻の本「優しき歌」の解説脚注によれば、本全詩篇十一篇は道造の詩の前年昭和一三(一九三八)年の夏までに創作されたものと推定されてある。

 因みに、岩波文庫版杉浦明平編「立原道造詩集」(一九八八年刊)では(私は所持しないので以下は青空文庫「優しき歌 Ⅰ・Ⅱの電子化を視認して纏めた)、この従来の「優しき歌」を「優しき歌Ⅱ」として、それに先立って、「燕の歌」・うたふやうにゆつくりと……、ここに中標題「薊の花のすきな子に」を立てて、次篇以下にローマ数字を頭に打ちつつ「Ⅰ 憩らひ――薊の花のすきな子に」・「Ⅱ 虹の輪」・「Ⅲ 窓下楽」・「Ⅳ 薄明」と続き、「Ⅴ 民謡――エリザのために」(この「Ⅴ」が冒頭のクレジットなしの「民謡」と「鳥啼くときに」・「甘たるく感傷的な歌」の三篇から構成される)と続き、その後に中標題「ひとり林に……」が立ってⅠ ひとり林に……」Ⅱ 真冬のかたみに‥‥・「浅き春に寄せて」の都合全十二篇からなるものを「優しき歌Ⅰ」として載せている。現物の解説を読んでいないので論評は避けるが、私はこの怪しげに極めて複雑怪奇な「優しき歌Ⅰ」群の存在規定と構成を現時点では立原道造の想起企図していたプレ「優しき歌」群として、認める気には全くならないとのみ言いおくこととする。]

樹木の影に   立原道造

  Ⅸ 樹木の影に

 

日々のなかでは

あはれに 目立たなかつた

あの言葉 いま それは

大きくなつた!

 

おまへの裡に

僕のなかに 育つたのだ

‥‥外に光が充ち溢れてゐるが

それにもまして かがやいてゐる

 

いま 僕たちは憩ふ

ふたりして持つ この深い耳に

意味ふかく 風はささやいて過ぎる

 

泉の上に ちひさい波らは

ふるへてやまない‥‥僕たちの

手にとらへられた 光のために

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第九曲。]

午後に   立原道造

  Ⅷ 午後に

 

さびしい足拍子を踏んで

山羊は しづかに 草を食べてゐる

あの綠の食物は 私らのそれにまして

どんなにか 美しい食事だらう!

 

私の飢ゑは しかし あれに

たどりつくことは出來ない

私の心は もつとさびしく ふるへてゐる

私のをかした あやまちと いつはりのために

 

おだやかな獸の瞳に うつつた

空の色を 見るがいい!

 

《私には 何が ある?

《私には 何が ある?

 

ああ さびしい足拍子を踏んで

山羊は しづかに 草を 食べてゐる

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第八曲。

 なお、ここまで述べて来ていないが、気がついておられない方のために申し添えておくと、この底本では、非常によく似た尖った二重括弧(《 》)と丸い二十括弧(⦅ ⦆)が併用されて散在している。一応、それも私は再現している。]

さびしき野邊   立原道造

  Ⅲ さびしき野邊

 

いま だれかが 私に

花の名を ささやいて行つた

私の耳に 風が それを告げた

追憶の日のやうに

 

いま だれかが しづかに

身をおこす 私のそばに

もつれ飛ぶ ちひさい蝶らに

手をさしのべるやうに

 

ああ しかし と

なぜ私は いふのだらう

そのひとは だれでもいい と

 

いま だれかが とほく

私の名を 呼んでゐる‥‥ああ しかし

私は答へない おまへ だれでもないひとに

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第三曲。]

夢のあと   立原道造

   IIII 夢のあと

 

《おまへの 心は

わからなくなつた

《私の こころは

わからなくなつた

 

かけた月が 空のなかばに

かかつてゐる 梢のあひだに――

いつか 風が やんでゐる

蚊の鳴く聲が かすかにきこえる

 

それは そのまま 過ぎるだらう!

私らのまはりの この しづかな夜

 

きつといつかは (あれはむかしのことだつた)と

私らの こころが おもへかえすだけならば!‥‥

 

《おまへの心は わからなくなつた

《私のこころは わからなくなつた

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第四曲。ローマ数字は底本では「Ⅳ」ではなく、表記の通り、「IIII」を用いている(後者はローマ数字の古い表記法であり、現在でもタロット・カードなどで見かけることがある)。]

また落葉林で   立原道造

  Ⅴ また落葉林で

 

いつの間に もう秋! 昨日は

夏だつた‥‥おだやかな陽氣な

陽ざしが 林のなかに ざはめいてゐる

ひとところ 草の葉のゆれるあたりに

 

おまへが私のところからかへつて行つたときに

あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた

そしていま おまへは 告げてよこす

私らは別離に耐へることが出來る と

 

澄んだ空に 大きなひびきが

鳴りわたる 出發のやうに

私は雲を見る 私はとほい山脈を見る

 

おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る

しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼ざし‥‥

かへつて來て みたす日は いつかへり來る?

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第五曲で、表題は既に掲げた同じ「優しき歌」のⅡ 落葉林で」(「黃昏に」の注に引いた)を受ける。なお、「ざはめいてゐる」はママ(朝にの私の注を参照されたい)。]

朝に   立原道造   /   また晝に   立原道造

   Ⅵ 朝に

 

おまへの心が 明るい花の

ひとむれのやうに いつも

眼ざめた僕の心に はなしかける

⦅ひとときの朝の この澄んだ空 靑い空

 

傷ついた 僕の心から

棘を拔いてくれたのは おまへの心の

あどけない ほほゑみだ そして

他愛もない おまへの心の おしやべりだ

 

ああ 風が吹いてゐる 凉しい風だ

草や 木の葉や せせらぎが

こたへるやうに ざはめいてゐる

 

あたらしく すべては 生れた!

露がこぼれて かわいて行くとき

小鳥が 蝶が 晝に高く舞ひあがる

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第六曲。

 中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻の、次に掲げた「また晝に」の脚注によれば、この一篇はローマ数字を外した「朝に」の形で、その「また晝に」とともに、

 

 「優しき歌」

 

の総表題を附して、『道造の死の前年昭和十三年『四季』十月号に発表。ゆえに道造にとって、この二篇は、詩集『優しき歌』の基幹をなす作品であったに相違ないと考えられる』とある。

 以下、表記上の幾つかの問題点を示す。

第一連四行目の冒頭の「 ⦅ 」の閉じる「 ⦆」がないのはママ。道造の詩篇にはありがちな余韻表記法である。

第二連二行目の「棘」は後続の諸選集は悉く「とげ」とルビを振る。疑義はない。ないが、私は神経症的にルビは不要と考えている。

第三連三行目「ざはめいてゐる」はママ。「ざわめく」は「ざわざわ」(騒騒)に基づく語であるが、これは元々オノマトペイア(擬声語)であり、「ざはざは」とは表記しない(「騒騒」は「ざわざわ」は「さわさわ」とも清音表記するが、清音で「さはさは」とすると「爽爽」でさっぱりとさわやかなさまを意味する。しかも「爽爽」は歴史的仮名遣では「さわさわ」とも表記する)。孰れにせよ、ここは「ざわめいてゐる」が正しい表記である)。後続の諸選集は「ざわめいている」となる。

第四連二行目「かわいて」はママ。後続の諸選集もママである。前注の「ざはめてゐる」が訂され、これがママであるということは、一つの可能性としては前の「ざはめてゐる」が本底本の誤植に過ぎない可能性を匂わせるが、私は全集を所持しないので確定的発言は出来ない。]

 

 

 

   Ⅶ また晝に

 

僕はもう はるかな靑空やながれさる浮雲のことを

うたはないだらう‥‥

晝の 白い光のなかで

おまへは 僕のかたはらに立つてゐる

 

花でなく 小鳥でなく

かぎりない おまへの愛を

信じたなら それでよい

僕は おまへを 見つめるばかりだ

 

いつまでも さうして ほほゑんでゐるがいい

老いた旅人や 夜 はるかな昔を どうして

うたふことがあらう おまへのために

 

さへぎるものもない 光のなかで

おまへは 僕は 生きてゐる

ここがすべてだ!‥‥僕らのせまい身のまはりに

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第七曲。

 必ず、前掲の「朝に」の注を参照されたい。]

2015/09/29

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十三章 習慣と迷信(3)

 今日の午後長井嬢のところへ行って、葦屋根の端を写生した【*】。彼女の兄さんである増田氏は私に、この葺材は一種異様な蘭(い)で、屋根葺に用いる普通の藁よりも高価であると共に、余程長くもつと語った。かかる屋根は非常に重く、完全に水を通さぬ。日本の屋根は、葺いたのでも瓦を敷いたのでも、我国の建築に現れた何物とも甚だ相違しているので、吾人はしょっ中屋根を写生していたい誘惑を感じる。屋根には変種が多く、それぞれの国に特異な型がある。我国の建築家が、棟木と軒の、固い直線に捕われていて、それから離れられぬのは、情無いような気がする。セント・ローレンス河に沿うフランスカナダ人の家屋は、軒を僅か上方に攣曲させてあるが、これがそれ等の外観にある種の典雅さを与えている。

 

  * 『日本の家庭』を見よ。

[やぶちゃん注:「長井嬢」不詳。

「彼女の兄さんである増田氏」不詳。

「我国の建築家が、棟木と軒の、固い直線に捕われていて、それから離れられぬのは、情無いような気がする。セント・ローレンス河に沿うフランスカナダ人の家屋は、軒を僅か上方に攣曲させてあるが、これがそれ等の外観にある種の典雅さを与えている」「『日本の家庭』を見よ」セント・ローレンス川(英語:St. Lawrence River/フランス語:Fleuve Saint-Laurent)は北米大陸の五大湖と大西洋を結び、カナダ東部を東北に流れる河川。水源である五大湖を含めると世界第二位の推量を誇る。フランス語音写でサン・ローラン川とも呼称する。参照したウィキセントローレンス川によれば、オンタリオ湖出口からセントローレンス湾まで千百九十七キロメートル、水源からの全長は三千五十八キロメートルもある。『上流部はカナダのオンタリオ州とアメリカ合衆国のニューヨーク州を隔てる国境を形成し、その後はケベック州内を流れる。川幅は広大であり、中州として大小無数の島々が点在する。オンタリオ湖を出たところにあるサウザンドアイランズ地方はセントローレンス諸島国立公園として国立公園に指定されている』とある。同河畔のモントリオールから南東三百キロメートルのメーン州ポートランド生まれのモースには馴染みの大河であった。斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第二章 家屋の形態」の屋根の各論部分はその半分以上を実に「草葺屋根」が占めている(屋根論に挿入された全三十四図の内、実に十八図が草葺屋根に関わるものである)。その中で、モースはここで述べている感懐を再度、表明し、本邦の草葺屋根の合理性を強く説いている。ここでのモースの主張をより強固にするものであるからして、同書から引用させて戴く。

   《引用開始》

 日本家屋の屋根や棟に見られる絵画的な美しさと多様性になじむにつれてとかく考えるのだが、なぜアメリカの建築家は、家屋の側面にばかり注意を向けて、屋根に対しても同じような美的感覚を持ち、工夫をこらさないのであろうか。なぜ普通の木造家屋の棟が、きまって二枚の幅の挟い目詰め板で構成されているのか、あるいはなぜ屋根自体が常に硬く、直線的で角ばっているのかということについてのもっともな理由がないのである。アメリカの気候が過酷だといってもこれは弁解にならない。というのは、セント・ジョン川上流域およびメイン州北部地域には、フランス系カナダ人の木造家屋があるが、これらの家屋では屋根が広く張り出しており、軒づけのところで美しく反り上がっている。外観的にも、ニューイングランドの硬い感じの三角屋根に比べてはるかに美しい。

 アメリカでは、家屋建築にさいして革葺屋根を復活させることをしないのは、不思議と言うに尽きる。アメリカの建築史では、数多くの古いものが受け継がれているのを見る。革茸屋根がふたたびはやるようになれば、アメリカの風景にまた新しい魅力が増すことだろう。草草屋根は絵に描いたような美しさがあり、暖かい感じで、水排(は)けがよいのである。日本では、草茸屋根は普通程度のものでも、十五年ないし二十年は良好な状態で機能する。最上の仕上げの場合、草葺屋根は五十年くらいの耐久性があると聞いているが、この数値は信じがたい。風雨による損傷のため、しばしば部分的に補修が行なわれ、最終的には、全面的な葺き替えが必要となる。草葺屋根は古くなると塵埃(じんあい)が詰まって黒ずんだ色をしており、厚い敷物を敷いたようになる。ここに灰色の地衣類が群生するばかりでなくさまざまな草木類、苔類も生える。葺きかたが正しい場合は、きわめて水排けがよく、心配されるような雨水の浸透はない。

   《引用終了》]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十三章 習慣と迷信(2)

 我国には、ほかのことでは学問があるのに、綴りを間違える人がある。日本でも同様なことがあり、それは漢字を正しく書き得ぬ学者である。普通の人間は、日本人が数千の漢字を覚え、その支那の名称と、それの日本語の同意語をも覚えていなくてはならぬことが、如何に途法もない重荷であるかを、考えた丈で目が廻る。こればかりで無く、それぞれの漢字に、草書と、印判の形と、正規な形とがあること、なお我国のアルファベットに、一例として頭文字のBと、それを書いた形と古い英国風の書体と、その他勝手な意匠をこらした俏字(やつしがき)があるが如きである。日本歴史を研究する外国人は、一人の歴史的人物が持つ、いろいろ違った名前に迷わされる。この事は有名な陶工や芸術家の名前で、屢々私を悩した。すべての武士は先ず閥族の名を持つ。これは彼等の先祖であるところの古い家族、あるいは封建時代に彼等が隷属した家族の名である。これを「姓」と呼ぶ。彼等はまた「氏」と呼ぶ家族名と、「通称」と称する、我々の洗礼名に当る名とを持っている。更に「号」という学究的な名が与えられ、その上に「字(あざな)」と呼ばれる、これも学問上の名さえある。これに止らず、「諱(いみな)【*】」という名もあり、為替、請願書、証文、契約書等にこれを用いる。これ丈で沢山だろうと思うが、中々どうして、死んでも名前には煩わされるので、僧侶によって「戒名」という名をつけられる。一例として、五十年前に死んだ有名な歴史家頼山陽【**】は、次のような名を持っていた。

 

  * ヘップバーンの辞書によると、この

  名は十五歳以後使用する由。

  ** この名前は、他の有名な学者の名

  前と共にボストンの公共図書館に記して

  ある。

 

 姓――閥族名――源

 氏――家族名――頼

 通称――洗礼名にあたるもの――久太郎

 号――学問上の名――山陽

 字――追加的学問上の名――子成

 諦――契約書その他の為の法律的の名――襄

 戒名――死後の名――私の教示者はこれを知らない【*】。

 

  * 私は、この種類の材料は一千頁を埋

  める程沢山持っているが、記録しておく

  時間がない。陶器に関する私の紀要は、

  此日誌を踰越しているので、私は、日本

  の陶器に就ての興味ある本を書くに足る

  材料を持っている訳だ。

[やぶちゃん注:「私の教示者はこれを知らない」頼山陽は現在の京都市東山区の時宗黄台山(おうだいさん)長楽寺にあるが、何故か法名は捜し得なかった。彼は強烈な儒学者であり、法名を持っていない可能性もあるのかも知れない(写真で見ると墓には「山陽賴先生之墓」と刻してある)。識者の御教授を乞うものである。因みに「襄」は「のぼる」、号は外に三十六峯外史とも言った。

「ヘップバーンの辞書」既注
 
「踰越」は「ゆえつ」と読み、乗り越えること、或いは、自分の分を越えることを指す。

「私は、日本の陶器に就ての興味ある本を書くに足る材料を持っている」モースによる日本陶器についての纏まった記載は、結局、この十九年後の、一九〇一年の“Catalogue of the Morse Collection of Japanese Pottery”(「日本陶器のモース・コレクション目録」を待たねばならなかった。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 大佛阪/極樂寺阪

    ●大佛阪

大佛阪は。鎌倉七切通の一にして。大佛の左を行く阪路(はんろ)をいふ。卽ち藤澤道なり。此を越(こゆ)れは。北條政村の第趾(だいし)ある常盤(ときは)の里に出つ。

[やぶちゃん注:「北條政村」第七代執権北条政村(元久二(一二〇五)年~文永一〇(一二七三)年)。以下、ウィキの「北条政村」により記載する(一部、補正した部分がある)。義時五男で泰時の異母弟。母は継室伊賀の方。政村流北条氏の祖で、幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として第七代執権に就任、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処に当たり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。第十二代執権北条煕時は曾孫に当たり、第十三代執権北条基時も血縁的には曾孫である。元久二(一二〇五)年六月二十二日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生、義時には既に四人の男子(泰時・朝時・重時・有時)がいたが、当時二十三歳の長男泰時は側室の所生、十三歳の次男朝時の母は正室姫の前であったが離別しており、政村は当代の正室伊賀の方所生では長男であった。建保元(一二一三)年十二月二十八日、七歳で第三代将軍源実朝の御所で元服、四郎政村と号した。『元服の際烏帽子親を務めたのは三浦義村だった(このとき祖父時政と烏帽子親の義村の一字をもらい、政村と名乗る)。この年は和田義盛が滅亡した和田合戦が起こった年であり、義盛と同じ一族である義村との紐帯を深め、懐柔しようとする義時の配慮が背景にあった。『吾妻鏡』は政村元服に関して「相州(義時)鍾愛の若公」と記している』。『義時葬儀の際の兄弟の序列では、政村と同母弟実泰はすぐ上の兄で側室所生の有時の上位に位置し、異母兄朝時・重時の後に記されている。現正室の子として扱われると同時に、嫡男ではなくあくまでも庶子の一人として扱われている』ことが分かる。『しかし母伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、伊賀の方は伯母政子の命によって伊豆国へ流罪となるが、政村は兄泰時の計らいで累は及ば』ず、『その後も北条一門として執権となった兄泰時を支え』た(因みに三歳年下の『同母弟実泰は伊賀氏事件の影響か、精神のバランスを崩して病となり』、天福二(一二三四)年に二十七歳の若さで出家している)。延応元(一二三九)年、三十四歳で評定衆となり、翌年には筆頭となった。宝治元(一二四七)年、四十三の時、二十一歳の『執権北条時頼と、政村の烏帽子親だった三浦義村の嫡男三浦泰村一族の対立による宝治合戦が起こり、三浦一族が滅ぼされるが、その時の政村の動向は不明』である。建長元(一二四九)年十二月に引付頭人、建長八(一二五六)年三月には兄重時が出家して引退してしまったために兄に代わって五十二歳で連署となっている(執権経験者が連署を務めた例は他になく、極めて異例であって政村が得宗家から絶大なる信頼を受けていたことの証左である)。文応元(一二六〇)年十月十五日、『娘の一人が錯乱状態となり、身体を捩じらせ、舌を出して蛇のような狂態を見せた。これは比企の乱で殺され、蛇の怨霊となった讃岐局に取り憑かれたためであるとされる。怨霊に苦しむ娘の治癒を模索した政村は隆弁に相談』、十一月二十七日には『写経に供養、加持祈祷を行ってようやく収まったという。息女の回復後ほどなくして政村は比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立し、現在は妙本寺となっている。このエピソードは『吾妻鏡』に採録されている話で、政村の家族想いな人柄を反映させたものだと評されている』。第七代執権当時、『時宗は連署となり、北条実時・安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、彼らや政村の補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章、北条教時)と時宗の異母兄北条時輔が粛清された二月騒動でも、政村は時宗と共に主導する立場にあった。二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢を率いて示威行動を行った際、政村は教時を説得して制止させている』。文永五(一二六八)年一月に蒙古国書が到来すると、『元寇という難局を前に権力の一元化を図るため』に、同年三月に執権職を十七歳の時宗に移譲、既に六十三歳であった政村は『再び連署として補佐、侍所別当も務め』た。『和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも敬愛され、吉田経長は日記『吉続記』で政村を「東方の遺老」と称し、訃報に哀惜の意を表明した。『大日本史』が伝えるところによると、亀山天皇の使者が弔慰のため下向したという。連署は兄重時の息子北条義政が引き継いだ』、とある。ある意味で非常に賢明かつ誠実に得宗独占の時代の中を生き抜いた人物と言えよう。

「常盤(ときは)の里」「常葉」「常磐」とも書く。元常盤村で、後には深沢村の字名となり、現在、「常盤」として大仏坂トンネルを西北へ抜けた右手一帯。北条政村が「常盤殿」と称するのは、この地に別邸を構えていたことに由るとされる。]

 

    ●極樂寺阪

極樂寺阪は。星月の井より西北に登る阪路にして。極樂寺切通と稱す。卽ち鎌倉七切通の一なり。登(のぼり)三十間餘極樂寺の開山良觀上人の鑿(うが)ちし所。路西に成就院あり。

[やぶちゃん注:「三十間餘」五十四・五四メートル。

「良觀上人」忍性のこと。次項参照。

「成就院」古義真言宗大覚寺派普明山法立寺成就院が正式名称。開山は不明であるが、空海の護摩壇の跡に北条泰時が開基したと縁起では伝える。ずっと昔から私の好きな寺であった。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光則寺

    ●光則寺

光則寺は、行時山と號す。長谷寺の北隣(ほくりん)に在り。長谷町より北折(ほくせつ)して到るベし。此庭は時賴の家臣宿屋左衞門光則入道西信の宅地なりといふ。昔者日蓮將さに刑せられむとせしとき。弟子日朗、日心二人。檀那四條金吾父子四人。安國寺にて捕縛せられ。光則之を保監して土牢に投す。適々(たまたま)日蓮刑を免かる。因て光則信を起し。宅地に草菴を結ひ。日朗を開山とす。光則の父の名を行時と云。故に父の名を山號とし。余名を寺號とすと云當寺其の後(のち)衰頽(すゐたい)せしに。古田兵部少輔重恒の後室大梅院再興す。故に或は大梅寺とも稱す。堂に日蓮以下の像あり。

日朗の土牢は。寺後の山上に在り。

四條金吾賴基の舊跡は。長谷町より南折(なんせつ)して阪の下に出る路傍に在り。寺を收玄菴(しうげんあん)といひ。四條金吾舊跡と標示せり。

[やぶちゃん注:「宿屋左衞門光則入道西信」北条氏得宗家被官である御内人宿屋光則(やどや/しゅくしゃみつのり 生没年不詳)。法名は「最信」或は「※信」(「㝡」の(うかんむり)を(わかんむり)にしたもの。白井永二編「鎌倉事典」の記載)が正しい。「吾妻鏡」では弘長三(一二六三)年十一月十九日及び二十日の条で、臨終近かった北条時頼の看病を許された得宗被官七名の内の一人に挙げられており、この時には既に出家していた。参照したウィキ宿屋光則によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『光則は日蓮との関わりが深く、文応元年七月十六日(一二六〇年八月二十四日)、日蓮が「立正安国論」を時頼に提出した際、寺社奉行として日蓮の手から時頼に渡す取次ぎを担当している。また、日蓮の書状には文永五年八月二十一日(一二六八年九月二十九日)、十月十一日 (一二六八年十一月十六日)にも北条時宗への取次ぎを依頼する書状を送るなど、宿屋入道の名前で度々登場している。同八年(一二七一年)、日蓮が捕縛されると、日朗、日真、四条頼基の身柄を預かり、自身の屋敷の裏山にある土牢に幽閉した。日蓮との関わりのなかで光則はその思想に感化され、日蓮が助命されると深く彼に帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として光則寺を建立した』。

「日蓮將さに刑せられむとせしとき」龍ノ口の法難。

「日朗」既注

「日心」不詳。ところが高橋俊隆氏のこちらのページを見てみると、「御書略註」には、こ日朗の一緒に押し込められた『日心は中老身延三世日進であり、曽谷教信の次男とあ』ると記されているという。これが正しいとすると、幕府滅亡直後まで生きた日進(正元元(一二五九)年~建武元一二(一三三五)年)で、日蓮の高弟日向(にこう)に師事、正和二(一三一三)年に師の跡を継いで甲斐身延山久遠寺三世となった人物ということになる。

「四條金吾父子」後に出る「四條金吾賴基」四条頼基(寛喜元年(一二二九)年~永仁四年(一二九六)年)。名越流北条氏江間光時の家臣で日蓮の有力檀越であった。官位が左衛門尉であったことから、その唐名の金吾で称された。最後に出るように彼の屋敷跡が長谷の光則寺近くに現存する収玄寺である。

「安國寺」既出

「光則の父」「行時」同じく、北条時頼側近であった。

「古田兵部少輔重恒」江戸前期の大名で石見浜田藩第二代藩主古田重恒(慶長八(一六〇三)年~慶安元(一六四八)年)。ウィキ古田重恒によれば、死の二年前の正保三(一六四六)年六月に江戸にある藩邸において古田騒動なる事件を起こしている。重恒は四十歳を『過ぎても子に恵まれなかった。跡継ぎがないために改易されることを恐れた江戸家老の加藤治兵衛と黒田作兵衛は、古田一族の古田左京の孫に当たる万吉を重恒の養子にしようと画策した。その計画を、加藤らから打ち明けられたことで知った重恒の側近・富島五郎左衛門が重恒に伝えた。重恒は自分に無断でそのような計画を立てていた加藤や左京らに対して激怒し、その一派全てを殺した』という一件で、重恒の死去後は『跡継ぎがなく、古田氏は改易された』とある。但し、『この古田騒動には異説が多く、他の説では山田十右衛門という重恒の寵臣が』三名いた『家老の権勢を疎んじて重恒にこの』家老らを讒言、それを信じた重恒が三名の家老を殺害するも、『しかし重恒自身もまもなく狂気で自殺したと』も言われているらしい。『いずれにしろ、重恒に実子も養子もなかったことは確からしく、そのため重恒の死去により、無嗣断絶で古田氏は改易となった』とある。さればその「後室」とあるこの「大梅院」という女性も相応に苦労されたものと推察する。

「收玄菴」白井永二編「鎌倉事典」によれば、この後の大正一二(一九二三)年に光則寺日慈が本堂を建立し、「收玄寺」となったのは第二次世界大戦後のこととある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十三章 習慣と迷信(1)

 第二十三章 習慣と迷信

 

富岡の話によると、手紙を書く時には句読点を使用せぬそうである。手紙は漢字で書くので、句読点をつけることは、受信人が漢文を正当に読めぬと做すことになり、これは失礼である。印刷では句の終りにまるをつけ、あるいは項の終りを示すために頭文字のLに似た形をつける。まるは支那の古典に用いられ、Lは他の主文に使用される。

[やぶちゃん注:「富岡」既注の宮岡恒次郎であろう。

「Lに似た形」鍵括弧の閉じる《  》記号の方である。ネットを管見するに、鍵括弧を西洋言語記号であるシングル及びダブルのコーテーション・マーク(「‘ ‘」と「”“」 quotation marks)を日本語に借入したものではないか、などと書いている御仁がいるが、会話文や心内語・引用の用法はそれに準じたものではあろうが、私はこの《  》は近世以前の記載に幾らも見ることが出来ることから、本邦独自のものと考える。一節に庵点(「〽」)の変形したものともいう。いずれにせよ、濫觴は西洋由来ではないと断ずるものである。]

M691

691

 

 以前は、手紙を書くのに、発信人の名前を受信人の名前の真下に書いた。現在では、発信人の名前を手紙の別の側に書く。旧式な人だと、発信人の名前が書いてない手紙は受取らぬこともある。過去に於ては、婦人に向けた手紙は、単にその家の長に宛てたものである。更に家長に宛てた手紙は、その外側に「何卒御自身でおあけ下さい」即ち「親展」としてない場合には、彼の妻、息子、親友等が開いて読んでも差支えないのであった。封筒が使用される迄は、一枚の紙を面白い方法で折って包み紙とした。図691に於る輪郭図一から十五迄は、この畳み方の順序を示している。最初に紙を一、二、三の如く折り、それを七、八の如くひろげ、手紙を入れてから、すでに出来た折目をしおりに、今度は別の折りようをしてたたみ込む。

[やぶちゃん注:こんな封書を一生に一度ぐらい、送ってみたいものではないか。]

 

 大和の国で私は、張出縁や門口の屋根の縁辺を構成する装飾瓦の、非常に効果的な並べ方を見た。これは我国の建築家にも参考になると思う。大和では、私が旅行した他の国々のどこに於るよりもより多く、瓦を装飾の目的に使用する。装飾的な平瓦は、あまり一般に使用されぬらしい。少数を庭園の小径で見受ける。六兵衛の住居の庭にあるのを私は気がついた。

生物學講話 丘淺次郎 第十五章 胎兒の發育(1) プロローグ / 一 全形

  第十五章 胎兒の發育

 

 前章に於ては人間の胎兒の出來始めだけに就いて述べたが、この章に於ては更に胎兒全形の發育及び二三の體部の漸々出來上がる狀態を簡單に説いて見ようと思ふ。人間は受胎してから生まれるまでに、およそ四十週即ち滿九箇月と十日ばかりかかるが、その中最初の一週間か十日間は卵が輸卵管を通過しながら分裂するだけでまだ體の形を成すに至らず、また三箇月の終になると、已に小さいながら體の形だけは出來上がり、僅か一糎にも足らぬ身體にしては頭が割合に大きいが、尾も全くなくなり、手足の形も整ひ、指も五本づつ揃うて薄い爪まであるやうになる。されば體形が著しく變化するのは、第二週から第三箇月までの間であつて、それより後はたゞ各部の發達が進み全身が大きくなるだけである。

[やぶちゃん注:「三箇月の終になると、已に小さいながら體の形だけは出來上がり、僅か一糎にも足らぬ身體にしては頭が割合に大きい」学術文庫版では大きさを『三寸(約一〇センチ)』とする。これは底本の誤りとしか思われず、妊娠三ヶ月の胎児の大きさは五~八センチメートル程で、学術文庫版の方が正しい。一センチメートルに満たないというのは妊娠四週の半ばぐらいであろう。]

 

     一 全 形

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[二十七日頃の胎兒]

1taijihatuikuteihongensun

《やぶちゃん注―画像①底本原寸一致版》

2teihonmuhoseisaidai
《やぶちゃん注―画像②底本最大画像版》

3taijihatuikugbhan
《やぶちゃん注―画像③学術文庫OCRモノクローム版》

4taijihatuikugbhancolor
《やぶちゃん注―画像④学術文庫カラー・スキャンニング版》

[胎兒の發育

受精後第二週より第二箇月の終に至るまでの身體外形の變化を示す すべて實物の二倍大]

[やぶちゃん注:ここでは都合以下の四種の当該の同一画像を配した。

 まず最初の①は本文及びキャプションと倍率を合わせるために原本の大きさから割り出した原寸大画像で示したものである。これはサイズ調節の関係上、国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正してある。

 次に示した②は寸法が小さいために細部が見えない①の補助として、同じく国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内画像を最大の百%でダウンロード)したものを補正せずに示してある。

 続く③は講談社学術文庫版の同画像である。白く飛びが強いが、上段の第三週の胎児の形状は、黒く潰れてしまった底本の①②よりも遙かに判別可能である。

 しかし③はOCRで撮ったモノクローム版で画像密度が粗いことから、同学術文庫版をカラー・スキャンしたものも④として併載した。この④が最も上段の第三週の胎児の形状をよく視認出来る画像ではあると思う。]

 

 まづ胎兒全身の形が如何に變つて行くかを見るに、懷胎第一箇月の中程には前に圖に示したとおり、殆ど「みみず」の短いものの如き形で、體の長さ僅かに三粍にも達せぬが、二十日目ごろになると、手足の出來始めが疣の如き形現れ、體の長さも一・二糎以上になる。これから後の體形の變化は、一々文句で書くよりは圖に依る方が説明にも了解にも便利であらうと思ふから、ここに第二週頃から第二箇月の終までの胎兒の發生を示した圖を掲げて、讀者と共にこれを見ることとする。まづ一番上の横列に示してあるのは、いづれも第三週の胎兒で、左の端のがおよそ十三四日位、右の端のが二十日位のものであるが、かやうな初期の胎兒はまだ頗る小さいのみならず、我々の常に見慣れて居る成人の身體に比して形が非常に違ふから、胎兒の何の部分が成人の何の部分になるか簡單に説明するい」とは容易でない。この列の胎兒には皆腹面に丸い袋が繫がって居るやうに畫いてあるが、これは「黄身袋」と名づける薄い膜の囊で、後に子供の身體となるべきものではないから、他の列の圖と比較する場合には、これを除いて考へるが宜しい。圖は悉く實物の二倍大に畫いてあるから、二分の一に縮めれば實物の大きさが知れる。次に第二列に畫いてあるのは、皆一箇月の下旬の胎兒で、その中、左の端のが二十三四日のもの、中央のは二十七八日のもの、右の端のがおおよそ三十日位のものである。即ち上二列を合せて、懷姙第一箇月の下半における胎兒の發育を示すことに當る。この列の胎兒はいづれも背が丸く屈し、特に頸筋の邊で急に曲つて居るから、顏は直に腹に面して居る。また體の後端には明な尾があるが、これは前に向うて曲つて居るから殆ど鼻の先に觸れさうである。右の端の圖で見ると、一箇月の終頃の胎兒では頭と胴とは殆ど同じ位の大きさで體の後端は背骨の續きを含んだ短い尾で終り、胴の上端と下端に近い處から、腕と足とが出來掛つて居るが、まだ開かぬ松蕈の如き形で手足らしいところは少しも見えぬ。いづれの圖でも胎兒の腹からは太い紐が出ているのを、根本に近く切り捨てた如くに畫いてあるが、この紐は後々まで殘る臍の緒の始まりである。

[やぶちゃん注:「黄身袋」学術文庫版では「きみぶくろ」と訓じている。学術的には現在、「卵黄嚢(らんおうのう)」と呼称する。鶏卵の黄身に相当する胎盤が確立するまでの繋ぎとする栄養供給器官である。

「胎兒の腹からは太い紐が出ている」「臍の緒の始まり」臍帯である。]

 

 第三列より第五列までに竝べてあるのは、第二箇月の胎兒で、第三列の左の端のはその始、第五列の右の端のはその終わりに當るものである。これらを順々に比べて見るとわかる通り、第二箇月の間には顏も段々人間らしくなり、手足も次第に形が具はり、尾も頗る短くなつて、その月の終には、最早誰が見ても人間の胎兒と思はれる程の形となる。しかしまだ頭が非常に大きく、足は手の割には小さい。また男になるのか女になるのか少しもわからぬ。なほ第三週・第四過頃の胎兒には、頸の兩側に魚類に見ると同じやうな鰓孔が四つづつもあるが、第二箇月の間にこれらの鰓孔は次第に見えなくなつて、たゞその中の第一番のものだけが、耳の孔となつて後まで殘る。これによつて見ると、陸上動物の耳の孔は、魚類の鰓孔の一つに相當することが明に知れる。

 

 胎兒の全形は三箇月の末にはほゞ出來上がるから、三箇月以後はたゞ各部が大きくなるだけで、別に著しく變形する處はない。二箇月ではまだ男女の別が判然せぬが、三箇月の末には最早外陰部の形狀が明らかになつて、男か女かは一目して識別せられる。更に五箇月頃からは全身に細い毛が密生し、六箇月になると胎兒が動き始め、七箇月には餘程發育が進んで身長も三〇糎以上となり、産み出されても生存し得る位になる。かくて月滿ちれば、大きな赤子となつて生まれ出るのである。以上述べた通り人間の胎兒は、決して初めから成人を縮小した如き形に出來るのではなく、最初は全く形の違うたものが出來、それより漸々形狀が變化し、新な器官が生じなどして、終に生まれるときの赤子の形が出來る。例へば體の後端に有る尾の如きも、初め明にあつたものが後に消え失せる。即ち二十日頃までは手も足もなく、體は後程細くなり長い尾で終つて恰も魚類の如くであつたのが、その後手足が生じ、手足が延びても暫時は尾が明に見えて「ゐもり」・「さんせううを」または犬・猫の胎兒と同じ形を呈して居る。體が更に大きくなり、手足がなほ延びると共に、尾は段々短くなり、三箇月目に至ると、尾は全く隱れて見えなくなる。しかし骨だけは成人になつても尾骶骨として殘り、人によつてはこれを左右に振り動かすための筋肉までも存して居る。稀にはこゝに圖を示した如くに、生まれた後にも尾が殘つて居ることがある。頭と胴との大きさの割合、腕と脚との長さの割合なども發生の進むに從ひ漸々變つて行くが、生まれたばかりの赤子はなほその續きとして胴に比べると頭が大きく、前肢に比べると後肢が短い。

Yuubi

[尾の殘つてゐる子供]

[やぶちゃん注:これは学術文庫版が白く飛んでリアリズムに乏しいため、国立国会図書館蔵の原本からトリミングし、補正を加えたものである。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (七)

 

        

 

 だが、出雲で夜間に、步き𢌞はると信ぜられでゐる像は、唐金の馬だけではない。少くとも他に同樣の凄い性癖を有するものと、思はれてゐる藝術的作品が二十位もある。杵築の拜殿の入口の上に蟠屈する龍の彫刻は、夜間屋根を匍匐ひ𢌞つたといふことだ――たうとう大工に命じて、その咽喉を鑿で切らせた。それからは龍が徘徊を止めた。その咽喉の鑿痕は、誰の目にもありありと見える! 松江の壯麗な春日神社には、牝牡二個の等身大の立派な鹿がある。その頭だけは別に鑄造して、あとから巧みに胴へ打付けたもののやうに私に思はれた。が、私はある親切なる田舍人から、もとは一つの完全な鑄像であつたが、後に及んで、夜間靜かにしておく爲めに、頭を切斷せねばならなくなつたのだといふことを告げられた。しかしこの種の薄氣味のわるい仲間の內で、夜間出逢つて最も凄いのは、松平家代々の瑩域たる松江の月照寺境內の奇怪なる龜であつたらう。この石の巨像は長さ殆ど一丈七尺で、頭を六尺も地上からあげてゐる。その今では破碎せる背面には高さ約九尺の大きな立體の一本の石に、半ば消滅せる碑文を書いたのが立つてゐる。出雲の人々が想像してゐたやうに、この墓地の悪夢が、夜半動き出して、附近の蓮池で泳がうとするのを想像して見るがよい! さて、この怖ろしい脫線的行動のために、龜の像は遂に折らねばならなかつたと傳へられてゐる。しかし實際で見ると、たゞ地震で壞はれたに過ぎないかのやうになつてゐる。

[やぶちゃん注:ここに出る龍と鹿の話は現在のネット上には不思議なことに見当たらない。

「瑩域」「えいいき」と読み、「墓所」のこと。

「月照寺」松江市外中原町にある浄土宗歓喜山(かんきさん)月照寺。ウィキの「月照寺松江市)によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺があった。永く荒廃していたが、松江藩初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として、一六六四年(寛文四年)に、この寺を再興した。浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めた』。『直政は一六六六年(寛文六年)に江戸で死去したが、臨終の際に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き、そこの所をば葬送の地となさん」と遺した。二代藩主・綱隆は父・直政の遺命を継ぎ境内に直政の廟所を営んだ。この際に山号を現在の「歓喜山」と改めた。以後、九代藩主までの墓所となった』(松江藩は十代松平定安まで)。『茶人藩主として著名な七代藩主・不昧の廟門は松江の名工・小林如泥の作によるとされ、見事な彫刻が見られる。境内には不昧お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑がある。また、不昧が建てた茶室・大円庵がある』。『一八九一年(明治二十四年)、松江に訪れた小泉八雲はこの寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうである』。以下、ちゃんと「大亀伝説」の項があり、写真も掲げられてある六代藩主・宗衍』(むねのぶ 享保一四(一七二九)年~天明二(一七八二)年 第七代松平 不昧治郷(はるさと)の実父)『の廟所にある寿蔵碑の土台となっている大亀は、夜な夜な松江の街を徘徊したといわれる。下の蓮池にある水を飲み、「母岩恋し、久多見恋し…」と、町中を暴れ回ったという。この伝説は八雲の随筆『知られざる日本の面影』で紹介されている。この「母岩、久多見」とはこの大亀の材料となった石材の元岩とその産地のことである。不昧は三十キロ西方の出雲市久多見町の山中より堅牢で緑色の美しい久多見石を材料として選ぶが、この岩はかつてクタン大神(出雲大社に功有りとし本殿おにわ内にクタミ社として単独社を設けられ祀られる神)が逗留したとされる神石で、切り出しや運搬には難儀を極めたようでもある。こうした神威を恐れた不昧公はお抱えの絵師に延命地蔵像を描かせ、残った岩に線刻し崇めている。この延命地蔵は不昧にあやかり「親孝行岩」として現在も信仰されている。現在ではこの大亀の頭を撫でると長生きできると言われている』とある(下線やぶちゃん)。

「一丈七尺」五・一五メートル。

「六尺」一・八メートル。

「九尺」二・七メートル。

「龜の像は遂に折らねばならなかつたと傳へられてゐる。しかし實際で見ると、たゞ地震で壞はれたに過ぎないかのやうになつてゐる」現在はちゃんと繋がっている。修復されたものらしい。] 

 

Sec. 7

   The Horse of Bronze, however, is far from being the only statue in Izumo which is believed to run about occasionally at night: at least a score of other artistic things are, or have been, credited with similar ghastly inclinations. The great carven dragon which writhes above the entrance of the Kitzuki haiden used, I am told, to crawl about the roofs at night—until a carpenter was summoned to cut its wooden throat with a chisel, after which it ceased its perambulations. You
can see for yourself the mark of the chisel on its throat! At the splendid Shinto temple of Kasuga, in Matsue, there are two pretty life-size bronze deer, -stag and doe—the heads of which seemed to me to have been separately cast, and subsequently riveted very deftly to the bodies. Nevertheless I have been assured by some good country-folk that each figure was originally a single casting, but that it was afterwards found necessary to cut off the heads of the deer to make them keep quiet at night. But the most unpleasant customer of all this uncanny fraternity to have encountered after dark was certainly the monster tortoise of Gesshoji temple in Matsue, where the tombs of the Matsudairas are. This stone colossus is almost seventeen feet in length and lifts its head six feet from the ground. On its now broken back stands a prodigious cubic monolith about nine feet high, bearing a half-obliterated inscription. Fancy—as Izumo folks did—this mortuary incubus staggering abroad at midnight, and its hideous attempts to swim in the neighbouring lotus- pond! Well, the legend runs that its neck had to be broken in consequence of this awful misbehaviour. But really the thing looks as if it could only have been broken by an earthquake.

追憶   立原道造

 

   追憶

 ――野村英夫に――

 

誘ふやうに ひとりぼつちの木の實は

雨に濡れて 一日 甘くにほつてゐた

ふかい茂みにかくされて たれさがつて‥‥しかし

夜が來て 闇がそれを奪つてしまふ 

 

ほのぐらい 皿數のすくない食卓で

少年は 母の耳に 母の心に それを告げる

――そして 梟 夜のあけないうちに

あれを啄んでしまふだらう‥‥と 

 

‥‥忘られたまま 樹は 大きな

うつろをのこして 靑空に 吹かれてゐる

傷みもなく 悔いもなく あらはに 

 

そして病む日の熱い濃い空氣に包まれ

幾たびそれは少年の夢にはかなしくおもへたか

――もし僕が意地のわるい梟であつたなら―― 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一二(一九三七)年五月号に初出とある。私は個人的に、この詩がひどく切なく好きである。

「野村英夫」は道造より三つ下の(大正六(一九一七)年~昭和二三(一九四八)年)は詩人(但し、この詩を道造が献じた頃には試作を行っていない)。しばしばお世話になっている「名詩の林」の野村英夫」には「日本詩人全集 第八巻」(創元社一九五三年刊)よりとして、以下のような事蹟を載せる(一部に追加をした。リンク先で彼の詩十七篇が読める)。

   *

東京青山に生まれた。父は農林省官吏。祖父は吉田松蔭の門弟であった。早稲田大学仏法科に学んだ。受験勉強の無理から発病し早稲田高等学院の頃から毎年夏には追分、軽井沢などに転地療養した。その追分で堀辰雄、室生犀星、津村信夫、立原道造、中村眞一郎などを知った。「野村少年」と愛称されたが、特に文学に関心を持っていたわけではなかった。立原道造の死後(昭和一四(一九三九)年)、「立原道造全集」の編集に参加し、昭和一八(一九四三)年頃から塚山勇三、鈴木享、小山正孝らと『四季』を編集し、この頃から熱心に詩作を始めた。昭和二一(一九四六)年、小詩集「司祭館」を自分で筆写して数部つくり数編の小説や評論を書いた。またフランシス・ジャムを愛読し、影響を受け翻訳したり、小伝を書いた。

   *

中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注には、昭和一一(一八三六)年八月十四日附の追分からの道造の『野村君という少年といつしょです』と書かれた書簡を示した上、彼はその頃、『堀辰雄に師事し、『四季』の詩人たちから野村少年と愛称されていたが、まだ詩を書いていなかった。道造の死後、昭和十五年ごろから詩を書き出し、カトリシズムの信仰の深まるとともに『四季』詩人中特異な存在となったが、宿痾(しゅくあ)のため三十一歳で死去した』と記す。]

初冬   立原道造

 

    初冬 

 

けふ 私のなかで

ひとつの意志が死に絕えた‥‥

孤獨な大きい風景が

弱々しい陽ざしにあたためられようとする 

 

しかし寂寥が風のやうに

私の眼の裏にうづたかく灰色の雲を積んで行く

やがてすべては諦めといふ繪のなかで

私を拒み 私の魂はひびわれるであらう 

 

すべては 今 眞晝に住む

薄明(うすらあかり)の時間のなかでまどろんだ人びとが見るものを

私の眼のまへに 粗々しく 投げ出して 

 

‥‥煙よりもかすかな雲が煙つた空を過ぎるときに

嗄(しはが)れた鳥の聲がくりかへされるときに

私のなかで けふ 遠く歸つて行くものがあるだらう 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一三(一九三八)年一月号に初出とある。まずは前掲の「晩秋」と期を一にして詠まれたものと考えてよい。同脚注には非常に興味深い事実が記されてある。なお、太字「諦め」は底本では傍点「ヽ」である。

   《引用開始》

道造の短い生涯における晩年の心象風景が、印象づけられる。彼の心は、寒々とした初冬を意識しつつ、寂寥の中に無の世界を見つめる。昭和十三年といえば、道造の死の前年で、彼の詩は、過去の抒情を拒み、「孤独な大きな風景」に直面して死の陰影を刻んでいた。第二連の「諦めといふ絵」について、彼は杉浦明平に次のように書き送った。「形而上学が僕にひとつの滅形を教えた、無という言葉はおそらく僕の血にとって諦らめという言葉ほどに理解された。カルル・ハイダアという十九世紀の画家が描いた絵に『諦め』という絵がある。灰色の雲が背景の空にうずたかく積みあげられている。遠景には暗い針葉樹林がかぎりなくつづいている、そし前景には葉をふるっている木の下に伏せた本を膝にのせてひとりの寡婦がものをおもっている絵である。僕は、写真版のその絵を見たとき、突然何か告白したい欲望を感じた。すなわち僕の『無』の理解について、あるいは僕の『故郷』について――」(昭和十三一月下旬)

 「薄明の時間のなかでまどろんだ人びとが見るもの」は、「無」の奈落であったろう。彼もまた打ち砕かれた鳥のように、故郷の空へ「遠く保つて行くもの」を自分の中に見たと、告白しているのである。

   《引用終了》

なお、謂わずもがな乍ら、この道造の言うところの「僕の『故郷』」とは魂の原風景としての故郷、「『無』の理解に」基づくところの「精神の僕の『故郷』」の意である。殊更に言うべき必要もないとは思うが、道造の生地は、日本橋区橘町(現在の中央区東日本橋)である。実はこの手紙、中村剛彦の優れた骨太の立原道造論「甦る詩人たち」の最終章「詩人にとって「死」とは何かに引かれており、そこでは前掲部分に続けて(中村氏の指示に従い、傍点部を太字で示した。空欄・改行はママである。

   《引用開始》

果たして 僕の經驗が 僕に何かを教へただろうか! 經驗からは 何も學ばなかつたといふ追憶が 僕を訪れることが出來るならば! ここに大きな諦らめ(3文字傍点付す)と 經驗(2文字傍点付す)との日本の血の あるひは 江戸時代の血の 誘惑がある。たたかはねばならない、そして 打ち克たねばならない。ここに 出發がある。

一切の戰ひは 日常のなかで 意味を以て 深く 行はれねばならない。決意した者のだれが 戰列を とほく空想したか! 僕らは すでに戰線についてゐる。

   《引用終了》

以下、中村氏は『相変わらず意味がよく分からない文体であるが、ここで立原が言う「形而上學』は『ハイデガー流の「形而上学」に類似する思考を示していると言え』、『ハイデガーの「故郷的(ハイムリヒ)」=「無」という存在の開示以前の状態といみじくも一致する。しかしそこからなぜか「日本の血の あるひは 江戸時代の血の 誘惑」へと接続する。杉浦的に見れば、これこそが「暗黒なる世界にうごめく民衆のため息」であり、立原の「ロマン(浪曼)主義」的「反動性」である』という解析に入ってゆく(詳細はリンク先を是非お読みになられたい)。ここには則ち、現実の死を目前にしつつ、しかも且つ前近代と近代精神の狭間に孤独に屹立せざるを得ない詩人の悲壮な孤独と決意が示されているというべきである。肺病病みの恋多きやさ男のイメージなど、実はそこには微塵もないことを我々は再度、確かめる必要があると私は思う。]

晩秋   立原道造

   晩秋

 

あはれな 僕の魂よ

おそい秋の午後には 行くがいい

建築と建築とが さびしい影を曳いてゐる

人どほりのすくない 裏道を

 

雲鳥(くもとり)を高く飛ばせてゐる

落葉をかなしく舞はせてゐる

あの郷愁の歌の心のままに 僕よ

おまへは 限りなくつつましくあるがいい

 

おまへが 友を呼ぼうと 拒まうと

おまへは 永久孤獨に 餓ゑてゐるであらう

行くがいい けふの落日のときまで

 

すくなかつたいくつもの風景たちが

おまへの歩みを ささへるであらう

おまへは そして 自分を護りながら泣くであらう

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『文芸』昭和一三(一九三八)年一月号に初出とある。

何も中公文庫の脚注に有り難く指示されるまでもなく、第二連で「雲鳥(くもとり)を高く飛ばせてゐる/落葉をかなしく舞はせてゐる/あの郷愁の歌」とは、松尾芭蕉の名吟、

 

    旅懷

 此(この)秋は何で年よる雲に鳥

 

以外には私は想起出来ぬ。鑑賞はこちら。愚にもつかぬ私の鑑賞などと思われる方は萩原朔太郎評釈を、どうぞ(こちらも私の電子テクストであるが)。]

麥藁帽子   立原道造

 

   麥藁帽子(むぎはらばうし) 

 

八月の金(きん)と綠の微風(そよかぜ)のなかで

眼に沁(しみ)る爽(さは)やかな麥藁帽子は

黃いろな 淡(あは)い 花々のやうだ

甘いにほひと光とにみちて

それらの花が 咲きにほふとき

蝶よりも 小鳥らよりも

もつと優しい生き者たちが挨拶(あいさつ)する

 

[やぶちゃん注:底本は昭和六一(一九八六)年(改版三十版)角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」に拠った。二行目「爽やかな」のルビは「さわ」で、これは新潮社の「日本詩人全集」第二十八巻(同じ中村氏の編。ルビは孰れも歴史的仮名遣を用いている)でも同じであるが、このルビの誤り(孰れもママ表記がない)には私は疑義がある(底本には中村氏が適宜ルビを振ったことが明記されており、これは道造自身のルビの誤りではない可能性があるからである)ので、正しい「さは」に恣意的に訂した。個人的生理的にここは私にとって「さはやか」でなくてはならないからである。大方の御批判を俟つ。【2026年2月1日追記】国立国会図書館デジタルコレクションで角川書店版全集を視認出来るようになったので、以上の疑問が解決した。同全集の「第四卷 曉と夕の詩」(一九五八年刊)では、以下の表記となっていた。

   *

 

   麥藁帽子

 

八月の金(きん)と緑の微風(そよかぜ)のなかで

眼に沁(しみ)る爽やかな麦藁帽子は

黄いろな 淡(あは)い 花々のやうだ

甘いにほひと光とにみちて

それらの花が咲きにほふとき

蝶よりも 小鳥らよりも

もつと優しい生き者たちが挨拶する

 

   *

が正しい。

 また、私もしばしばお世話になっているネット上の安藤龍明氏の優れたサイト「日本詩人愛唱歌集」のに、この「麦藁帽子」の電子化されたものが載るが、そのテクストは、

   《引用開始》 

 

  麦藁帽子

 

八月の金と綠の微風のなかで

眼に沁みる爽やかな麥藁帽子は

黃いろな 淡い 花々のやうだ

甘いにほひと光とに満ちて

それらの花が 咲きそろふとき

蝶よりも 小鳥らよりも

もつと優しい愛の心が挨拶する 

 

   《引用終了》

となっている。二行目の「沁みる」は別としても、五行目及び最終行が甚だしく異なる。本詩篇には、このような別稿があるのだろうか? 私は全集を所持していないので分からない。識者の御教授を乞うものである。【2026年2月1日追記】国立国会図書館デジタルコレクションで角川書店版全集を視認出来るようになったので、以上の疑問が解決した。「立原道造全集 第一卷 詩集 1」(一九七一年刊)の「拾遺篇」のここで、以下のように出る。

   *

 

  麥藁帽子

 

八月の金と綠の微風のなかで

眼に沁みる爽やかな麥藁帽子は

黃いろな 淡い 花々のやうだ

甘いにほひと光とに滿ちて

それらの花が 咲きそろふとき

蝶よりも 小鳥らよりも

もつと優しい愛の心が挨拶する

 

   *
而して、その同巻の本詩篇の注記を見ると(ここ・右上段中央)、『「映畫朝日」第15巻9号 昭和13年9月号(9月1日刊・十五周年記念号)』に載った、初出したものなのであった。後に、詩集「曉と夕の詩」に収録した際、改稿したものであることが、判明した。

夢見たものは‥‥   立原道造

  Ⅹ 夢見たものは‥‥

 

夢見たものは ひとつの幸福

ねがつたものは ひとつの愛

山なみのあちらにも しづかな村がある

明るい日曜日の 靑い空がある

 

日傘をさした 田舍の娘らが

着かざつて 唄をうたつてゐる

大きなまるい輪をかいて

田舍の娘らが 踊ををどつてゐる

 

告げて うたつてゐるのは

靑い翼の一羽の 小鳥

低い枝で うたつてゐる

 

夢みたものは ひとつの愛

ねがつたものは ひとつの幸福

それらはすべてここに ある と

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の最終篇である。]

やがて秋‥‥   立原道造

  Ⅱ やがて秋‥‥

 

やがて 秋が 來るだらう

夕ぐれが親しげに僕らにはなしかけ

樹木が老いた人たちの身ぶりのやうに

あらはなかげをくらく夜の方に投げ

 

すべてが不確かにゆらいでゐる

かへつてしづかなあさい吐息にやうに‥‥

(昨日でないばかりに それは明日)と

僕らのおもひは ささやきかはすであらう

 

――秋が かうして かへつて來た

さうして 秋がまた たたずむ と

ゆるしを乞ふ人のやうに‥‥

 

やがて忘れなかつたことのかたみに

しかし かたみなく 過ぎて行くであらう

秋は‥‥さうして‥‥ふたたびある夕ぐれに――

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の既刊詩集「曉と夕の詩」の第三曲。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一二(一九三七)年十月号にローマ数字を外した題で(底本は総てのリーダが二点であるが、初出は不詳乍ら、「やがて秋」の後は一般的な「……」であろうとは思われる)発表されたものを初出とする。]

朝やけ   立原道造

  Ⅹ 朝やけ

 

昨夜の眠りの よごれた死骸の上に

腰をかけてゐるのは だれ?

その深い くらい瞳から 今また

僕の汲んでゐるものは 何ですか?

 

こんなにも 牢屋(ひとや)めいた部屋うちを

あんなに 御堂のやうに きらめかせ はためかせ

あの音樂はどこへ行つたか

あの形象(かたち)はどこへ過ぎたか

 

ああ そこには だれがゐるの?

むなしく 空しく 移る わが若さ!

僕はあなたを 待つてはをりやしない

 

それなのにぢつと それのベツトのはしに腰かけ

そこに見つめてゐるのは だれですか?

昨夜の眠りの祕密を 知つて 奪つたかのやうに

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の既刊詩集「曉と夕の詩」の最終曲。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一一(一九三六)年春季号に「朝やけ」の題で発表されたのを初出とする。「牢屋(ひとや)」は同義の「人屋」を意識的の中で換字して当てたものを当て読みしたもので、道造は「らうや(ろうや)」の韻律を嫌ったのであろうと思われる。]

2015/09/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 再び京都にて(3) / 第二十二章~了

 蔵六から我々は四代目亀亭(きてい)を訪れたが、ここでも極めて親切にむかえられ、彼の細工場を見るための、あらゆる便宜がはかられた【*】。彼の窯は一見、他のすべての人々のと同じく、小丘の中腹に横にいくつか並べてつくってあった。陶工達はよく他の陶工の窯で焼く。蔵六は彼のすべての陶器を亀亭の窯で焼き、永楽は自分の家から離れた場所にある窯で焼く。

 

  *亀亭の庭は『日本の家庭』の二五五頁に出ている。

[やぶちゃん注:原注に示された図を斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第五章 入口の入り道」の「手水鉢」から当該の二四〇図を引いておく。本文には『二四〇図は、京都の清水焼で有名な陶工の家で見かけた手水鉢と』『庇縁の様子である』とある。

 

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「四代目亀亭」清水焼陶工四代目和気亀亭(わけきてい 文政九(一八二六)年~明治三五(一九〇二)年)。三代目和気亀亭の長男で文久二年に家督を継いだ。明治六(一八七三)年には京都府勧業場に勤め、パリ万国博覧会などに出品した。]

 

 私は再び楳嶺の画塾と住宅とを訪れ、二時間にわたって生徒たちが仕事をする巧な方法に見入った。膝を身体の下に折り曲げて床に坐るのは、如何にも窮屈らしく見えるが、楳嶺の話によると、生徒は数時間このようにしていて、而も疲れたらしい様子をしないそうである。仕事というのは、他の絵を写すのである。初歩の仕事の多くは引きうつしで、必ず筆を使用する。紙は、明瞭に絵が見える程薄くはないので、殆ど一と筆ごとに持ち上げる。紙はその上方に文鎮を置いておさえる。はじめ筆に墨汁を含ませ、それを別の紙でためして、適当な尖端をととのえるが、墨汁が多すぎれば、尖端をそこなわぬように、筆の底部からそれを吸い取る。

[やぶちゃん注:「楳嶺」画家幸野楳嶺(こうのばいれい)。「第二十章 陸路京都へ 京都小景」で既出既注。]

 

 京都の南禅寺では、僧侶が陶器の小蒐集を見せてくれたが、大したものは一つもなかった。有名な茶人小堀遠州が二百五十年前に建てた茶室は、茶の湯の簡素と荘厳とに適わしい、意匠の簡単さのよい例である。

[やぶちゃん注:「有名な茶人小堀遠州が二百五十年前に建てた茶室」臨済宗南禅寺派大本山南禅寺の塔頭の一つで、徳川家康の下、幕府の武家諸法度立案・外交・宗教統制を一手に引き受けて「黒衣の宰相」の異名を取った以心崇伝(いしんすうでん 永禄一二(一五六九)年~寛永一〇(一六三三)年)が住した金地院(こんちいん)の茶室「八窓席」であろう。崇伝の依頼により大名で茶人・作庭家として知られた小堀政一遠州(天正七(一五七九)年~正保四(一六四七)年)の設計で建てたとされていた茶室で、大徳寺孤篷庵・曼殊院の茶室とともに「京都三名席」の一つに数えられる。但し、参照したウィキ金地院によれば、後に『建物修理の際の調査で、この茶室は遠州が創建したものではなく、既存の前身建物を遠州が改造したものであることが判明した』とある。ただモースも見たであろう同院の「鶴亀の庭」は『崇伝が徳川家光のために作らせ、作庭には小堀遠州が当たった(遠州作と伝えられる庭は多いが、資料が残っている唯一の例)。庭師は賢庭と伝わる。特別名勝。安土桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水庭園として知られる』ともある。

「二百五十年前」前注で引いたウィキ金地院によれば、同院自体は慶長一〇(一六〇五)年に崇伝によって現在地に移されたとあるから、モースの来訪した明治一五(一八八二)年から「二百五十年前」ならば寛永九(一六三二)年で崇伝没年の前年に当たるから、数字上はおかしくない。]

M689

689

 

 ドクタアは大阪で、面白いお寺の池を見つけた。そこには大きさの異る亀の子が、何百となくいる。池にかかっている小さな石橋の近くに小屋があって、亀の子が非常に好きな、米の粉でつくった提灯形の、内のうつろな球を売っている。これを水に投げ込むと亀の子が競泳を始め、何度も何度もパクンパクンやってはそれを遠くに投げ、それが水びたしになるか、池の辺をなす石垣へ押しつけられるかに至って、すぐさま破壊されて食い尽されるその光景は、実に珍無類である(図689)。提灯は赤いか白いかで、それを追って池を横切る亀の子は、提灯を先頭に立てた一種の行列を構成する。これ等は一セントで五つであるが、人は亀の子に餌をやって、相当な時間をつぶすことが出来る。亀の子がパクつく有様を見ていると、天井から糸でつるした林檎を囓りっこする遊びを思い出す。

[やぶちゃん注:「大阪で、面白いお寺の池」不詳で公開したところ、即日、つい先のところでも御助力下すった「姐さん」がここも美事に解明して下さった。

   *

亀の子のいるお寺……これは天王寺さん(四天王寺)ですよ。大阪人なら誰でも知っていると言って言い過ぎではないと思います(^^)♪ 「天王寺さん」の亀の池は、暖かいお日さまの下、何段にも重なった姿はユーモラスで、ひがな一日過ごせます。漫才でも、人気を博した平和ラッパ・日佐丸さんを、「ラッパか亀の池か」と囃したくらいだったし、人生幸朗・生江幸子さんを始め、漫才などお笑いには欠かせません(^^)♪ また、毎月二十一日・二十二日の「弘法さんの日」には、高齢者は市電や市バスが無料だったこともあって、お参り(亀井堂での経木流しなど)と「亀の池」の亀さん目指し、沢山の人が押し掛けたものです(^^)♪ 今でも、「弘法さんの日」には露天も五百店ほども出て、沢山の人が出かけています。私は、一昨年、俳句の会の吟行で何十年ぶりかで訪れましたが、それはそれは、大層な賑わいでした。「四天王寺」公式サイトの境内案内図の「六時堂」の前と、その左横にある丸い大きなのが「亀の池」です。

   *

……姐さん! わて、「天王寺はん」、行ったこと、ありまへんのや……今度、文楽見に行った時には、きっと行きまっせ! おおきに!(^^)♪!

「米の粉でつくった提灯形の、内のうつろな球」一般には小麦を用いるが、所謂、提灯型の特大の麩菓子様の販売餌であろう。

「天井から糸でつるした林檎を囓りっこする遊び」これはハロウィン・パーティーで行われる「ダック・アップル(Duck Apple)」或いは「アップル・ボビング(Apple Bobbing)」と呼ばれる、水を入れた大きめの盥(たらい)に林檎を浮かべて手を使わずに口で咥えて取るゲームから派生した、パン食い競争に酷似したリンゴ食いゲームのことかと思われる。]

 

 大阪にいた時、一人の日本人が私に、米の取引所へ一緒に行かぬか、非常に奇妙な光景が見られるからといった。その建物に近づくと、奇妙な人の叫声の混合が聞えて来て、私にシカゴの穀物取引所を思い出させた。取引所に入ると、そこには同じような仲買人や投機人達の騒々しい群がいて、身振をしたり、手を振り上げたり、声をかぎりと叫んでいたりした。驚いた私は、私を連れて行った日本人に、一体いつこんな習慣が輸入されたのかと聞いたが、彼はまたこれと同じような集合を、シカゴ、ニューヨーク、ポストンその他の大都会で見ることが出来るという私の話を聞いて、吃驚して了った。この人達は米の仲買人で、まったく同一な条件と要求とが、同一な行為を惹起したのである。

M690

690

 

 神戸の塵芥車は、面白い形をした三輪車で、小さな中心輪ははるか前方にあり、二個の主要輪もろとも一枚の板から出来ている。心棒は固定し、車輪はその上を回転する。輪帯は一部分打ち込んだ固い木造の釘から成り、それ等のとび出た部分の間を縫って藁繩がまきつけてある。何故こんなことをするのか、恐らく釘が深く路面につきささるのを防ぐ為と思われるが、私は聞かなかった。図690は、横から見たところと設計図とである。この事は牡牛に曳かせる。

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (六)

 

          七月二十四日 杵築にて

 

 大社の第一の境內で、正門の左に當つて、灰色に古びて、普通の宮の形をした、小さな木造建築がある。その閉めた戶り木格子に通常、神に對する誓詞や祈願を書く白紙が、夥しく結んである。しかし格子の中を覗いてみても、暗い内部には神道の象徴は一つも見えない。それは厩だ! して、中央の部屋に立派な馬が居る――見物人の方に向つてゐる。藁で作つた日本の馬沓が、その背後の壁に吊るしてある。馬は動かない。唐金で作つてあるのだ!

 

 博學の神官佐々氏に就いて、この馬の話を尋ねたとき、次のやうな珍らしいことを告げられた――

 舊曆七月十一日が「身逃げ」といふ異樣な祭日に當る。その日、杵築の大神は社殿を出でて町々を通つて、海濱に沿ひ、それから國造の屋敷へ入る。だから、其日いつも國造は屋敷を空けて外出した。現今は實際さうはしないが、彼とその家族はある室に退いて、邸宅の大部を神の使用に供するやうにしておく。此國造が引込むことを『身逃げ』と呼ぶ。

 さて、大國主神が町を通行の際、最上席の神官がお伴をする。この神官を昔は『別火』と稱した。その譯は、神に對して淸淨潔白を保つため、祭りの始まる一週間前から、彼は特別な火を用ひて煮た食物を食べてゐるからだ。『別火』の職は世襲であつたので、その稱號が遂に家名となつた。今日ではその式を行ふ神官も、最早『別火』と呼ばれない。

 『別火』が彼の任務施行の際、街頭で人に出逢ふと、彼は『犬め、退け!』と言つて、道を避けさせた。で、昔は固より、今も俗衆は、かやうに言葉をかけられた者は犬に變つて了うと信じてゐる。だから、『身逃げ』の當日、ある時刻の後は、誰も町へ出なかつたもので、今でもこの祭典中は、あまり外出するものが無い。

    註。私の杵築滯在中、泊まつてゐた海
    濱の小さな綺麗な旅舘因幡屋では、親
    切な老主歸は『身逃げ』中は外出せぬ
    やう、殆ど淚を流さんばかりの熱心な
    を以て、客に說き勸めた。

 すべての町々を通つた後で、『別火』は朝の二時から三時の暗い內に、ある祕密の儀式を海岸で行つた。(この式は今猶每年同時刻に行はれるとのことだ)しかし『別火』自身の外、一人もそこにゐてはならぬ。もし不幸にして、その式を見た人があると、その人は卽死するか、または獸に變はつてしまうのだと、一般人民は信じてゐた。また今もさう信じてゐる。

 この儀式の祕傳は頗る神聖なもので、『別火』相續者に傳へるにも、死んだ後でなくては、それを語ることは出來なかつた。

 だから、彼が死ぬると、その死骸を社の或る奧の室の蓆の上に乘せて、すべての戶を堅く閉めて、その息子だけを殘しておく。すると、夜間或る時刻に、靈が死體に歸つて、死んだ神官は身を起し、息子の耳へ恐ろしい祕密を囁く――して、また倒れて死する。

 しかし一切こんな話は、唐金の馬と何の關係がある? と讀者は尋ねるかも知れない。

 たゞこれだけだ。卽ち――

 『身逃げ』の祭には、杵築の大神は、その市の町々を唐金の馬に乘つて步き玉ふのだ。

[やぶちゃん注:個人的に頗る慄っとする素敵に怖い条である。

「中央の部屋に立派な馬が居る」現在も、銅鳥居を抜けた直ぐの西側にブロンズ像の神牛と神馬が安置された牛馬舎があるらしい。光之輔氏のブログ「幸せを引き寄せる出雲の氣と風光」の「【出雲大社参拝記⑫】神馬と神牛に安産祈願!」に写真がある。但し、新しい感じで、ハーンが見たものの後裔であろう。

「身逃げ」中経出版の「世界宗教用語大事典」に「身逃神事(みにげのしんじ)」とあり、『出雲大社で八月一四日に行われる神事で、神官の長が社家を出て他の社家に泊まる。翌日、爪剥神事という抜穂予祝行事がある。身逃れ神事とも』とあり、「公益社団法人島根県観光連盟」の運営する「しまね観光ナビ」の「出雲大社の祭り」に、八月十四日深夜には『境内の門はすべて開放され、禰宜(ねぎ)は本殿に参拝し、大国主命の御神幸(ごしんこう)にお供する。湊(みなと)社、赤人(あかひと)社に詣で、稲佐の浜の塩掻島(しおかきしま)で祭事を行い、国造館から本殿へ帰着する。この神事の途中、人に逢うと出直しをしなければならないため、町内の人々は早くから門戸を閉ざし、外出も避けている』と明記されてあるものの、なかなか纏まった分析記載がネット上では見当たらない。幾つかの記載の中でも腑に落ちたのが、個人ブログ「古代からの暗号」の伏見稲荷神符21 「身逃神事」と「爪剥祭」』であった。表題はこうだが、冒頭から『出雲大社で行われる祭祀は、年間72度に及ぶというが、由緒が古く学者にも注目されながら明確な説明がつかない「身逃神事(みにげのしんじ)」と「爪剥祭(つまむぎさい)」があるという』で始まる。筆者はHNもお持ちでないが、大変、興味深く(というか、私はこの特異な神事をハーンのこの叙述以外で聴いたことがないので、総てが驚きである)、失礼して以下、全面的に引用させて戴く。

   《引用開始》

明治以前は陰暦七月四日深更に身逃神事、翌五日に爪剥祭が行われたが、今は八月に行う。この祭祀は櫛八玉神の末裔である別火氏(べっかし・大社家上官)が、大国主の神幸にあたって、大社の聖火で調理した斎食をし、稲佐の浜の海で身を清めた後、八月十四日の身逃神事のための「道見(下検分)」を前夜行う。道見は禰宜らが献鐉物を持ち湊社(みなとのやしろ・祭神は櫛八玉神)と赤人社(あかひとしゃ・祭神は別火氏の祖)へ詣で白幣、洗米を供えて拝礼する。次に、稲佐の浜の塩掻島(しおかきじま)で四方を拝し、前二社と同じ祭事を行い斎館に帰る。[やぶちゃん注:「塩掻島(しおかきじま)」は引用元では「塩塩掻(しおかきじま)」となっているが、後に示した広瀬満氏の「日本神話と古代史」の第二章 『古事記』の謎と大国主神の正体の記載によってかく改めた。]

翌十四日の午前一時禰宜(当日は大国主の神幸の供奉である)は狩衣を着け、右に青竹の杖を左に真菰で造った苞(しぼ)と火縄筒を持ち、素足に足半(あしなか)草履の出で立ちで、大社本殿の大前で祝詞を奏し、その後前夜の道見の通りに二社に行き、塩掻島で塩を掻く。帰路出雲国造館大社本殿に向いて設けた斎場を拝し、本殿大前に帰り再拝拍手して神事は終了する。

興味深いのはこの祭事中、出雲国造が神幸に先立ち国造館を出て一族の家に一宿し儀式が済み次第帰館するが、国造の留守の間に国造館では大広間を清め、荒菰を敷き八足机をそろえ、大国主神を迎える用意をする。またこの神幸の途中に人に会うと汚れたとして、大社に戻り神幸の出直しをするという。翌十五日の爪剥祭は神幸祭に塩掻島で掻いた塩・根付稲穂・瓜・茄子・根芋・大角豆(ささげ)・御水の七種の神鐉を供えるのが古来からの習わしであるという。

この神事の主役は大国主神。脇役は櫛八玉神の子孫という別火氏と出雲国造である。が、大国主は隠身なので別火氏が供奉として代行している。

この神事を通じて何を伝えようとしているかを考えると、キーワードは櫛八玉神であろう。『古事記』の国譲りの段で、櫛八玉神は膳夫となって奉仕せよと命じられているが、その火は熊野神社の神火であり、富氏の言う久那戸大神の神火なのだ。そして、この神事の塩掻きは『古事記』の櫛八玉神が鵜になって、海の底からはにを咋い出す場面であり、爪剥祭は八十びらか(平たい皿)を作り神鐉を献る場面をあらわしていると思われる。

しかし、国造はなぜ国造館を出て、しかも一晩留守にしなければいけないのか? それはこの神事が先祖の霊が帰ってくるという、お盆の時期に行われる事と関係するように思われる。

爪剥祭は古くは<つま向き>であったというが、稲佐の浜で<対馬(つま)向き>の神事を行い、<交い矛を副葬された対馬の祖霊>を迎えるか、<大国主が対馬の祖霊の元に里帰り>するかのどちらかであろう。

神幸とは神様が旅をすることであり、町や村のお祭りでは神様を神輿に乗せて巡行するが、神様の休憩するところをお旅所という所以である。ならば<身逃神事>は文字どおり大国主が出雲大社を抜け出して、先祖の地・対馬に里帰りすると考えたい。だから出雲の大神になりかわる出雲国造も、国造館を出て他所に一宿する必要があったのだろう。

   《引用終了》

他にも広瀬満氏の「日本神話と古代史」の第二章 『古事記』の謎と大国主神の正体の「出雲大社の謎の神事『神幸祭』」にも身逃神事の詳細な記載と「神幸供奉図」とキャプションのあるその折りの「別火」の姿を書いた絵が載る(因みに、このサイト主の広瀬氏は大国主神の正体は天武天皇であるとする立場をとっておられる)。

「別火」これは明らかに、日常の穢れたそれではない、異なった火、神聖な別な火、神聖な儀式に則り、神聖に道具で鑽(き)り出したところの「神聖なる火」の意である。本文中にあるように、そうした特殊な火を以って調理したものだけを口にすることによって、潔斎するとともに、神人共食に近い状態に持ち込むことで、神に直接特別に奉仕するという極めて古形の神式に基づくものと考えられる。

「その稱號が遂に家名となつた」現在も出雲大社祠官家の姓に「別火(べっか)」という姓がある。

「旅舘因幡屋」既注。但し、「八雲会」の「松江時代の略年譜」を見ると、この時に実際に投宿したのは(少なくとも最初は)「養神館」とある。不審。

「朝の二時から三時の暗い內に、ある祕密の儀式を海岸で行つた」「『別火』自身の外、一人もそこにゐてはならぬ。もし不幸にして、その式を見た人があると、その人は卽死するか、または獸に變はつてしまう」「この儀式の祕傳は頗る神聖なもの」という稲佐の浜の塩掻島(しおかきじま)でか、或いは、その前後に、稲佐の浜の、別な場所で行うとされる謎の秘儀のことなのか、その辺りについては、記載が見当たらない。そもそもが、この一時蘇生による死霊による死後伝授という恐るべき伝承が、ずっと、少なくとも明治まで続いていたとすれば、これは本邦での第一級の、それも超古形の闇の呪術と断言出来る(私はもっと現実的な現象を措定するものであるが)。] 

 

Sec. 6

KITZUKI, July 24th   

 

   Within the first court of the Oho-yashiro, and to the left of the chief gate, stands a small timber structure, ashen-coloured with age, shaped like a common miya or shrine. To the wooden gratings of its closed doors are knotted many of those white papers upon which are usually written vows or prayers to the gods. But on peering through the grating one sees no Shinto symbols in the dimness within. It is a stable! And there, in the central stall, is a superb horse—looking at you. Japanese horseshoes of straw are suspended to the wall behind him. He does not move. He is made of bronze! 

 

   Upon inquiring of the learned priest Sasa the story of this horse, I was told the following curious things:

   On the eleventh day of the seventh month, by the ancient calendar,[1] falls the strange festival called Minige, or 'The Body escaping.' Upon that day, 'tis said that the Great Deity of Kitzuki leaves his shrine to pass through all the streets of the city, and along the seashore, after which he enters into the house of the Kokuzo. Wherefore upon that day the Kokuzo was always wont to leave his house; and at the present time, though he does not actually abandon his home, he and his family retire into certain apartments, so as to leave the larger part of the dwelling free for the use of the god. This retreat of the Kokuzo is still called the Minige.

   Now while the great Deity Oho-kuni-nushi-no-Kami is passing through the streets, he is followed by the highest Shinto priest of the shrine— this kannushi having been formerly called Bekkwa. The word 'Bekkwa' means 'special' or 'sacred fire'; and the chief kannushi was so called because for a week before the festival he had been nourished only with special food cooked with the sacred fire, so that he might be pure in the presence of the God. And the office of Bekkwa was hereditary; and the appellation at last became a family name. But he who performs the rite to-day is no longer called Bekkwa.

   Now while performing his function, if the Bekkwa met anyone upon the street, he ordered him to stand aside with the words: 'Dog, give way!' And the common people believed, and still believe, that anybody thus spoken to by the officiating kannushi would be changed into a dog. So on that day of the Minige nobody used to go out into the streets after a certain hour, and even now very few of the people of the little city leave their homes during the festival.[2]

   After having followed the deity through all the city, the Bekkwa used to perform, between two and three o'clock in the darkness of the morning, some secret rite by the seaside. (I am told this rite is still annually performed at the same hour.) But, except the Bekkwa himself, no man might be present; and it as believed, and is still believed by the common people, that were any man, by mischance, to see the rite he would instantly fall dead, or become transformed into an animal.

   So sacred was the secret of that rite, that the Bekkwa could not even utter it until after he was dead, to his successor in office.

   Therefore, when he died, the body was laid upon the matting of a certain inner chamber of the temple, and the son was left alone with the corpse, after all the doors had been carefully closed. Then, at a certain hour of the night, the soul returned into the body of the dead priest, and he lifted himself up, and whispered the awful secret into the ear of his son—and fell back dead again. 

 

But what, you may ask, has all this to do with the Horse of Bronze?

   Only this:

   Upon the festival of the Minige, the Great Deity of Kitzuki rides through the streets of his city upon the Horse of Bronze.

 

1
   Fourteenth of August.

2
   In the pretty little seaside hotel Inaba-ya, where I lived during my stay in Kitzuki, the kind old hostess begged her guests with almost tearful earnestness
not to leave the house during the Minige.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (五)

 

        

 

 觀音寺の大きな墓地內にある、連歌寺の跡から左ほど遠からぬ所に、甚だ珍らしい一本の松がある。その幹は地面に支へられずに、四本の巨大な根の上に支へられて、恰も四本の足で步いてゐるやうな角度になつてゐる。畸形の樹木は往々神の住所と考へられる。して、この松はこの信仰の一例を與へる。周圍には垣を作り、その前に一小祠を安置し、更に數個の小さな鳥居が立ててある。して、多くの貧民が大槪いつでも、その場所の神樣に祈つてゐるのが見受けられる。小祠の前に、普通杵築に於ける海草の奉納の外に、數個の藁で作つた馬の像があつた。何故藁馬を捧げるのか? この道路の庚申を祀つたものらしい。で、馬の飼主がその健康を心配し、馬が疾病死亡より免る〻やう、庚申に祈つて、同時に祈願の象徴として藁馬を捧げるのだ。しかしこの獸醫の役目は、普通庚申の受持になつてゐない。だから、この樹木の畸形な點が、か〻る考を唆つたのだらう。

[やぶちゃん注:「觀音寺」不詳。前条末に。再度申し上げる。本寺の存在に就いて識者の御教授を乞う。

「甚だ珍らしい一本の松がある。その幹は地面に支へられずに、四本の巨大な根の上に支へられて、恰も四本の足で步いてゐるやうな角度になつてゐる」不詳。大社町杵築南に「四本松」という地名を現認出来るが、何か関係があるか? 併せて識者の御教授を乞うものである。] 

 

Sec. 5

   Not far from the site of the Rengaji, in the grounds of the great hakaba of the Kwannondera, there stands a most curious pine. The trunk of the tree is supported, not on the ground, but upon four colossal roots which lift it up at such an angle that it looks like a thing walking upon four legs. Trees of singular shape are often considered to be the dwelling- places of Kami; and the pine in question affords an example of this belief. A fence has been built around it, and a small shrine placed before it, prefaced by several small torii; and many poor people may be seen, at almost any hour of the day, praying to the Kami of the place. Before the little shrine I notice, besides the usual Kitzuki ex-voto of seaweed, several little effigies of horses made of straw. Why these offerings of horses of straw? It appears that the shrine is dedicated to Koshin, the Lord of Roads; and those who are anxious about the health of their horses pray to the Road-God to preserve their animals from sickness and death, at the same time bringing these straw effigies in token of their desire. But this role of veterinarian is not commonly attributed to Koshin;—and it appears that something in the fantastic form of the tree suggested the idea.

はじめてのものに   立原道造

 SONATINE No.1

 

 

    はじめてのものに

 

ささやかな地異は そのかたみに

灰を降らした この村に ひとしきり

灰はかなしい追憶のやうに 音立てて

樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

 

その夜 月は明かつたが 私はひとと

窓に凭れて語りあつた (その窓からは山の姿が見えた)

部屋の隅々に 峽谷のやうに 光と

よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

 

――人の心を知ることは‥‥人の心とは‥‥

私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を

把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

 

いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか

火の山の物語と‥‥また幾夜さかは 果して夢に

その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の楽譜様の処女詩集「萱草に寄す」巻頭を飾る「SONATINE No.1」群の最初の一篇である。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、本篇は昭和一〇(一九二五)年十一月号の『四季』である。「SONATINE No.1」群の次に載るたあとともに発表されたのを初出とする。

 角川文庫版中村真一郎編「立原道造詩集」の注解には三箇所に以下のような注が附されてある。

「ささやかな地異」『地上の小異変、ここでは浅間山の爆発を指す。』[やぶちゃん補注:但し、単なる小噴火であって被害が起ったような記録に残されるべき噴火ではないので注意されたい。]

「この村」『長野県佐久郡軽井沢町追分、中仙道の旧駅浅間根三宿の一つ。』[やぶちゃん注:「浅間根三宿」は旧中山道の浅間根越えの三宿とされた追分・沓掛・軽井沢を指す。]

「エリーザベト」ドイツの作家『シュトルム』『の小説「みずうみ」の女主人公の名、めぐりあった少女をなぞらえたもの。』

 また、中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注は本詩を総括して、

   《引用開始》

 昭和九年夏、室生犀星、堀辰堆のいる軽井沢に休暇を過した道造は、この年も夏期休暇を待ちかねて出かけ、長野県信濃追分の油屋(旅館)に滞在、八月上旬浅間山の噴火をはじめて見聞した。また彼はそこで出会った少女に仄かな恋心を覚え、はじめての経験という意味をこの題名に含めて、五篇の物語めいた詩のプロローグとしている。

 ソナチネは、小規模のソナタ形式の奏鳴曲。道造はこの音楽形式にあこがれて、自己の詩情をささやかに構成企画したのであった。

 この詩に盛られた物語の筋は、「かなしい追憶のやうに」音たてて火山灰の降る村の展望からはじまる。月明のその夜、笑い声溢れる雰囲気の中で、少女の蛾を追う手つきに、恋のいぶかしい疑惑を覚え、心をいらだてる。そして、火の山の悲しい物語とエリーザベトのはかない恋物語(ドイツの抒情詩人テオドール・シュトルム作「みずうみ」)が、この詩全体に、悲しい影を投げかける。その抒情は淡い哀愁につつまれ、予知すべからざる不安感におののく青春の生命(いのち)が、音楽のように奏でられている。

   《引用終了》

と解析している。それが果たしてダーツのように的を射たものであるかどうかは別として、作詩状況のリアリズムが良く纏められてあり、まさに戦前の映画のワン・シークエンスを観せるような、なかなか自信に満ちた評釈である(さればこそ長々と引かせて戴いた)。

 なお、シュトルムの「みずうみ」は、私の小学校高学年以来の数少ない愛読書の一つである。

 以上、「萱草に寄す」というソナタの「SONATINE No.1」は本篇を第一篇として、以下、

たあ

晩(おそ)き日の夕べに

に」

のお

 

と続いて演奏されて終えた後、インテルメッツオとしての、

 

歌」の「その一」「その二」

 

を挟んで、「SONATINE No.2」へ移って、

 

ひ」

忘れてしまつて

 

で全曲を終えるのである。最後に立原道造の意図した演奏の通りにお読みあれかし。道造のために――

またある夜に   立原道造

    またある夜に

 

私らはたたずむであらう 霧のなかに

霧は山の沖にながれ 月のおもを

投箭のやうにかすめ 私らをつつむであらう

灰の帷のやうに

 

私らは別れるであらう 知ることもなしに

知られることもなく あの出會つた

雲のやうに 私らは忘れるであらう

水脈のやうに

 

その道は銀の道 私らは行くであらう

ひとりはなれ‥‥(ひとりはひとりを

夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

 

私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ

月のかがみはあのよるをうつしてゐると

私らはただそれをくりかへすであらう

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の楽譜様の処女詩集「萱草に寄す」の冒頭の「SONATINE No.1」群の二篇目に配された一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、本篇は昭和一〇(一九二五)年十一月号の『四季』である。「SONATINE No.1」群巻頭の「はじめてのものに」とともに発表されたのを初出とする。

 角川文庫版中村真一郎編「立原道造詩集」では「投箭(とうせん)」「帷(とばり)」「水脈(みを)」「逢(あ)はぬ」とルビを振る。肯んずるものである。なお、老婆心乍ら私は「投箭」を遊びのダーツの意としか解釈していない。

 既に述べている通り、私は道造の感情の時制をわざとばらばらにし、或いは逆回転させて示している。それは、順列詠読認識では収束するかに偽るところの、見えてこない彼の死に直結する深い孤独をこそ、彼の詩篇から詠みとるべきであると私は思うからである。これは言っておくが、ただの天邪鬼ではない。彼の詩をただの甘い恋愛詩と見誤ってはいけないという自戒のためである。]

晩(おそ)き日の夕べに   立原道造

    晩(おそ)き日の夕べに

 

大きな大きなめぐりが用意されてゐるが

だれにもそれとは気づかれない

空にも 雲にも うつろふ花らにも

もう心はひかれ誘はれなくなつた

 

夕やみの淡い色に身を沈めても

それがこころよさとはもう言はない

啼いてすぎる小鳥の一日も

とほい物語と唄を教へるばかり

 

しるべもなくて來た道に

道のほとりに なにをならつて

私らは立ちつくすのであらう

 

私らの夢はどこにめぐるのであらう

ひそかに しかしいたいたしく

その日も あの日も賢いしづかさに?

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の楽譜様の処女詩集「萱草に寄す」の冒頭の「SONATINE No.1」群の三篇目に配された一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、本篇の初出は昭和一一(一九二六)年九月号の『新潮』である。]

柳田國男 蝸牛考 初版(10) 蛞蝓と蝸牛

       蛞蝓と蝸牛

 

 蝸牛の方言の新たに發達して居る土地の人には、是は或は意外な事實かも知らぬが、蛞蝓と蝸牛とが名を一つにして居ることは、決して珍らしい例でも何でもないのである。先づ九州では肥前・肥後・筑後の各地、壹岐の島にも蝸牛のナメクジあり、日向の島野浦でも雙方ともナメクジである。併しこれでは何れか一方のみを、特に珍重する者には不便である故に、やはり分化の法則に從うて、追々に其別を設けようとしたことは事實であって、乃ち肥前の諫早に於ては、蝸牛をツウノアルナメジと謂ひ、肥後の玉名郡では約してツウナメクジと謂つて居る。ツウは明らかにツブラの變化であるが、今は一般に甲良、若くは「かさぶた」といふやうな意味に解せられて居るらしい。肥後でも熊本以南、宇土八代球磨の諸郡では、蝸牛のナメクジは其儘にして置いて、却つて蛞蝓の方をばハダカナメタジと謂ふことになつて居る。

[やぶちゃん注:「日向の島野浦」宮崎県の北端日向灘北部に位置する島浦島(しまうらとう)。現在の宮崎県延岡市島浦町(しまうらまち)。ウィキの「島浦島」によれば、『延岡市北東部の浦城港から東へ約』六キロメートル、延岡市北浦町古江から約四キロメートルに位置する有人島で、『宮崎県内最大の島である。集落は北西部に集中する。日豊海岸国定公園に属している』。『黒潮が島の周囲に流れ、外海に面した海岸は切り立った岩壁の険しい海蝕崖をなし、海蝕洞も数多く変化に富む景観をつくっている』。『長い間、瀬戸内海~薩摩航路の中継地で『日向地誌』によると』一千石未満の船なら百四十から百五十艘もが係留出来たという。『島浦港は江戸時代、延岡藩主内藤氏が参勤交代の際、最初の寄港地としていた』。人の定住は元禄年間(一六八八年~一七〇四年)からで、『四国の徳島からの移住者が多かったといわれる』とあり、この最後の叙述は本文に関わって興味深い情報と思われる。

「玉名郡」有明海の諫早湾の東の対岸、福岡県大牟田市の南の、現在の熊本県玉名市及び玉名郡の旧郡名。

「ツウは明らかにツブラの變化であるが、今は一般に甲良、若くは「かさぶた」といふやうな意味に解せられて居るらしい。」この箇所は改訂版では『ツウはおそらくはツブラの變化だろうが、今は一般に甲良、若くは「かさぶた」といふやうな意味にしか解せられていない。』と前後で断定と推量が入れ替わっていて、少し不審がある。「甲良」は甲羅であろう。]

 

 國の他の一端にも同樣の例がある。たとへば青森縣でも津輕を始として、蛞蝸二つながらナメクジといふ名を持つ土地が弘い。さうして前に擧げたツノダシ、ツノべコの方言は、やはり亦蛞蝓にも適用して居るのである。それから縣境を越えて北秋田の比内地方に入ると、わずかに區別の必要を認めて、今では蝸牛の方だけをナメクジリ、蛞蝓はナメクジと謂つて居る。岩手縣でも盛岡の附近は、二つともにナメクジラの語によつて知られて居るが、特に蝸牛のことのみをいふ場合には、やはり肥前の諫早などと同じく、長たらしくカエンコノアルナメクジラと謂ふさうである。同じ一致は又丁度、津輕と島原との中程にも見出される。たとへば飛驒の北部に於ては蝸牛蛞蝓共にマメクジリ、又はマメクジラであり、中國では安藝の安佐郡北部なども、二つともにナマイクジリである。伊豆七島の神津島などでは、蝸牛の方言はカイナメラ、さうして蛞蝓の名はナメランジであつて、それがナメラ蟲から出たことは、相州の津久井又は媒ケ谷の山村に於て、後者をナメラ若くはナメラクジといふのからも類推せられる。如何なる事由に基づくかは知らず、伊豆海島の方言は、却つてやゝ相模の方に近いものが多い。是が行く行く又マイマイ小牛の名の起源の、曾てこの地方にも獨立してあつたことを、心付かせる端緒にならうも知れぬのである。ナメラ・ナメラックジの蛞蝓方言は、今尚横濱四周の海近くの村でも耳にすることがある。即ちマイマイツブロといふ蝸牛の名は、必ずしもさう古くから此の土地にあつたものと、考へることは出來ないのである。

[やぶちゃん注:「島原」津軽半島の根の五所川原の南に位置する青森県弘前市楢木島原を指すか。

「安佐郡」「あさ」と読み、現在の広島市の西部。旧高宮・沼田両郡が統合した旧郡名。

「カエンコ」文脈から言えば盛岡方言で角の意であろうが、現認出来ない。

「媒ケ谷」「すすがや」と読む。神奈川県北西の愛甲郡にあった村で、現在の愛甲郡清川村煤ヶ谷。]

 

 此等最も顯著なる五箇處の例の外に、尚この二つの動物の名が、曾て同じであつたといふ痕跡を、留めて居る土地は幾らもある。たとへば福島縣の石城郡で、蝸牛をツノベコのほかにカイナメクジといふのは、もと兩方ともにナメクジと呼ぶ習ひがあつた證據である。奧州南部領でも南端の遠野地方などは、蝸牛をヘビタマグリ又はタマクラといふ以外に、ナメクジラとも稱へて居て、しかも蛞蝓の方だけを差別してヤマヒルと謂ふ人が多いのである。方言は一つの土地に必ず一つしか無いものゝやうに、速斷して居る人には解しにくいことだらうが、言語は決して法令の如く、今日から別のものに改めるといふ區切りなどは立つものでは無い。寧ろ改まつて來たのは選擇があつたこと、即ち七分三分に併存したものゝ、二つ以上あつたといふことを推察せしめるのである。だからマイマイ領域の殆ど中心とも目せられた天龍川水域の兩側などにも、マメクジといふ語は相應に認められて居り、それを主として蝸牛の方に用ゐて、蛞蝓には別に名を付與した例さへ多いのである。たとへば遠州の掛川附近でオヒメサマまたはオジヨウロ、三河の長篠あたりでオンジヨロサマ、是が何れも蛞蝓の名であつた。これも別種の童詞を持ち、或はあの斑紋を伊達な衣裳、あの角を簪や笄に見立てたからでもあらうが、兎に角にさういふ名の入用になつた元はといふと、差別の必要、ことにマメクジといふ名を是非とも貝のある蝸牛の方に、持たせて置きたかつた希望からである。他に何等か今少し手輕な方法があるなら、それによつて差別しても良かつたのである。三河の南設樂郡及び尾張東春日井郡のある村では、マメクジといへば蝸牛、蛞蝓は之をメメクジと謂ふと、各々其郡誌には見えて居る。さうかと思ふと土地は忘れたが、ナメクジは蛞蝓のことであつて、マメクジは則蝸牛のことであると、教へてくれた人もあつた。併しさういふ紛れ易く移り易い二つの名を以て、最初から二者を差別したのでは無かつたらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「オジヨウロ」「オンジヨロサマ」改訂版では「オジョウロ」「オンジョロサマ」と表記。

「簪や笄」「簪(かんざし)や笄(かうがい(こうがい))」で、「笄」は元「髪搔(かみかき)」の転化した語とされ、本来は、結髪を整えるための道具として毛筋を立てたり、頭の痒いところをかいたりするために髪に挿した箸に似た細長い棒状のもので男女ともに用いた。象牙・銀などで作ったが、それが本邦の江戸時代には髷(まげ)などに挿すための、金・銀・鼈甲・水晶・瑪瑙などで作った女性用髪飾りの一つに変化したものである。現行では「笄」は広義の「簪」に含まれるようになってしまったが、本来の「笄」は昔の結髪の際、長い髪を巻きつけて固定させるために使用された、全くの棒状のもののみを指したのである。後にそれが装飾具へと変化し、江戸後期には「笄」の両端に装飾目的の「簪」をつけるようにり、江戸末期には「笄」本来の実用目的から離れて「簪」同様に「笄を」後差しするという純装飾具へと変化したのである(ここでは一部で katura_shige 氏のブログ「和装婚礼通信」の「簪・櫛・笄について調べてみました」を参考にさせて戴いた)。]

 

 或は又肥前の島原半島でも、深江といふ村などは蝸牛はナメクジ、蛞蝓はミナクジといふと報ぜられてゐる。今一度問ひたゞしてみたいと思ふわけは、これが逆さまであつたなら私などにはよく分かるので、一方は即ちミナナメクジ、蜷のあるナメクジと解せられるからである。それから尚一つ伊豆の八丈島で蛞蝓をダイロメ、對馬の豐崎村でも蛞蝓をダイリヨウといふのは、前に私の假定したダイロは貝から「出ろ」の意味だといふ説と、兩立せぬやうにも思はれるが、これもハダカダイロなどの元の意味を忘れ、ただその語の前半を省略したものと解すれば、格別の不思議は無いのである。蛞蝓を裸ダイロといふ例は、上州の邑樂郡又武藏の秩父郡にもある。安房では蝸牛が單にメャメャアであつて、蛞蝓の方はハダカメャメャアと謂つて居る。常陸の蛞蝓は小野氏の本草啓蒙に依れば、ハダカマイボロと呼ばれた土地もあるらしいが、近年下野河内郡の富屋村で採集した例では、これをナイボロまたはネヤポロと謂つて、たゞ蝸牛のみをダイロと謂つて居るとある。即ち玆も一つの邊疆であるが故に、一方は北から來た大勢に順應し、他方は即ち南隣の形を移したのである。ナイボロ・ネヤボロは前にも述べた如く、本來マイマイツブロの轉訛に過ぎなかつた。是も頭にハダカといふ語を附けなければ、蛞蝓の名になる筈は無いのであつた。しかも人は二者混亂の虞が無い限り、かゝる理由無き略稱にも從はうとしたのである。蛞蝓は又同じ下野でも芳賀郡などはエナシメ、常陸は西茨城郡其他でイナシと謂つて居る。話主は却つてもう忘れて居るか知らぬが、これは疑ひも無く「家無し蝸牛」の上略であつた。上總も西岸の舊望陀地方では、蝸牛はメエメツポで、蛞蝓はエーナシまたはイエナシである。或は又エーナシゲゲポといふ例もあることは、上總國誌稿に見えて居るが、ゲゲポは即ち亦一つ前の蝸牛の方言で、是はマイマイボウにデデムシの影響のあつた例だである。「家無し」といふ限定詞は此の如く、多くの蛞蝓方言の上に附けられたのであつた。美濃の舊方縣地方はデンデンムシ領であるが、玆でも蛞蝓はエナシと謂ひ、尾張の葉栗村はメエメエコウジの飛地であるが、玆でも亦其方をイエナシと謂つて居る。寛延年間の「尾張方言」にも、また蛞蝓をヤドナシといふ語が錄せられて居るのである。

[やぶちゃん注:「小野氏の本草啓蒙」江戸後期の享和三(一八〇三)年に刊行された本邦に於ける本格的な本草学研究書の一つである「本草綱目啓蒙」のこと。全四十八巻。本草学者小野蘭山(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年:二十五歳で京都丸太町に私塾衆芳軒を開塾、多くの門人を教え、七十一歳にして幕命により江戸に移って医学校教授方となった。享和元(一八〇一)年~文化二(一八〇五)年にかけ、諸国を巡って植物採集を行い、享和三(一八〇三)年七十五歳の時に自己の研究を纏めた「本草綱目啓蒙」を脱稿した。本草一八八二種を掲げた大著で三年かけて全四十八巻を刊行、日本最大の本草学書になった。衰退していた医学館薬品会を再興、栗本丹洲とともにその鑑定役ともなっており、親しい間柄であった。後にこの本を入手したシーボルトは、蘭山を『東洋のリンネ』と賞讃した。以上はウィキの「小野蘭山」に拠る)が、明の本草学者李時珍の著になる本草学の大著「本草綱目」について口授した「本草紀聞」を、孫と門人が整理したものである。引用に自説を加えて方言名なども記されてある。

「邑樂」は「おふら(おうら)」と読む。群馬県に現存する郡であり、所謂「平成の大合併」に於いても群馬県内の郡では唯一、全町が独立を保っている郡でもある。

「邑樂」は「おふら(おうら)」と読む。群馬県に現存する郡であり、所謂「平成の大合併」に於いても群馬県内の郡では唯一、全町が独立を保っている郡でもある。

「メャメャア」「ハダカメャメャア」は何故か改訂版では「メャメャ」「ハダカメャメャ」と表記を変えてある。

「下野河内郡の富屋村」現在の栃木県宇都宮市の富屋地区。現在の東北自動車道の日光道の分岐の宇都宮インター附近である。

「舊望陀地方」旧望陀郡(もうだぐん)。千葉県にあった郡で、小櫃川流域を中心とする地域。現在の袖ケ浦市全域及び、木更津市・君津市・鴨川市の各一部に相当する。

「メエメツポ」改訂版では「メェメッポ」。

「舊方縣地方」旧方県郡(かたがたぐん)域。同郡は美濃国にかつて存在した郡で現在は岐阜市の一部。

「尾張の葉栗村」旧葉栗(はぐり)郡葉栗村。現在の愛知県一宮市葉栗地区。

「メエメエコウジ」改訂版では「メェメェコウジ」。

「寛延年間」一七四八年から一七五〇年.

 

 ナメクジといふ語の初の半分が、あの粘液を意味して居たことは想像することが出來る。現に其異名を沖繩諸島ではアブラムシ・ヨダレムシ・ナメムシ等、近江の東部ではハナクレムシ、熊野の海岸ではヤネヒキ、大和の十津川ではヤネクヂラなどゝ謂つて居る。是がもし此蟲の第一の特徴であつたとすれば、蝸牛にもそれは共通のものであつた。だから鹿兒島縣の一地には、又ユダレクイミナ(涎くり蜷)の方言が行はれて居るのみならず、中部日本の蝸牛の童詞にも、火事があるから出て水をかけろだの、湯屋に喧嘩があるから棒を持つて出て來いだのといふ、をかしな文句が多いので、何れもその體がぬれぬれと滑らかなるを見て、興を催した結果に他ならぬと思ふが、しかも其ナメクジの本意が少しでも不可解になると、やがては次に生れたるマイマイの名と複合して、いつと無くマイマイ小牛の歌を生ずるに至つたのである。けだしナメムシ・ナメラといふ語の今でも各地にあるのを見ると、クジといふ下半分は後から附いたに相違ないが、其意味はなほ一段と察し難い。倭名鈔や本草和名などの古訓は奈女久知であつて、少なくとも記錄者は之を小牛や小蛆と認めなかつたのであるが、蛆をゴウジと謂ひ小牛をクウジといふ地方語も、相應に弘く分布して居たので、それを其積りで使用する風は、既にナメクジ共用の時代からあつたのかも知れない。角を面白がる小兒たちには、單なる有り來たりの音符號として、奈女久知のクチを取り扱ふことが出來なかつたのは自然である。さうして之を小牛の音の如く解したのは、必ずしもマイマイといふ新語の出現に伴なふことを要しなかつたらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「本草和名」「ほんざうわみやう(ほんぞうわみょう)」と読み、深根輔仁(ふかねすけひと)の著になる平安時代の本草書で二巻。延喜一八(九一八)年頃の成立で、本草約千二十五種の漢名に別名・出典・音注・産地を附して万葉仮名で和名を注記したものである。]

2015/09/27

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 再び京都にて(2)

 翌日は、日本有数の陶工の一人である永楽を訪問した。我々はここでも、他の製陶場に於ると同様、懇(ねんごろ)にもてなされた。挽茶と菓子とが供され、永楽は非常に注意深く私の質問に耳を傾けた後、彼が十三代目にあたるその家族の歴史をすっかり話して聞かせた。田原氏がこの会話――それは私の陶器紀要に出ることになっている――を記録している間に、私は我々のいる部屋を写生した。天井にはめた驚く可き四角い樫の鏡板は、私が見た物の中で最も美しいものであった。永楽の家で私は、壁土の興味ある取扱いに気がついた。それは、壁を塗るとすぐに、鉄の鑢屑(やすりくず)を吹きかける。するとこの粉末が酸化して、あたたかみを帯びた褐色を呈するのである。

[やぶちゃん注:「永楽」京焼の家元の一つで千家十職の一つ善五郎で、モースは第十三代と言っているが、良く分からないのだが、十三代は何故か、永樂回全と永樂曲全の二人がいる。二人して切磋琢磨したととある記事にはある。さて、この時、彼が逢ったのにはどちらだったのか。陶器には一向、心惹かれないし、どうもこの探索には触手が動かない。悪しからず。【二〇一五年九月二十八日追記】昨日、ここの部分を公開したところ、私の尊敬する「姐さん」より、

 モースが対面したのは十三代永樂曲全である

という御指摘を頂戴した。以下、メールを元にしつつ、ご紹介したい(誤解のないように申し上げておくが、「姐さん」というのは私の勝手な敬称であって、決して「その方面」のお方ではない)。下線は私、藪野直史が附した。

   *

 永楽さんは確かに十一代保全さんによる十三代回全さんの養子縁組の件によって、十二代和全さん(保全さんの実子)と十三代回全さんとの間で不和が生じているようです。また、もう一人の十三代曲全さんも十一代保全さんの養子(「養われ」と表現)であったようです。曲全さんについては、保全さん及び和全さんに仕えて永楽家に尽力し、回全さんとともに十三代を名乗ったとあるだけで他の永楽さんに比べて、サラッとしすぎて、よくわかりません

 さて、それではモースさんがその十三代のどちらに会ったのかといえば、これは結論から言うと十三代曲全さんだと思います。なぜなら、

 

十三代回全さんの方はモースさんが京都に来た明治一五(一八八二)年には既に物故しているからです。

 

[藪野直史注:以下には姐さんよりお教え頂いた福岡県北九州市小倉北区魚町の「天平堂古美術店」公式サイト内の永樂善五郎を元にしたと思われる善五郎の十代以降の事蹟が綴られているが、ここではそこから、二人の十三代目永樂善五郎の生没年と簡単な事蹟のみを示す。しかし、リンク先を読んで戴ければお分かりになるように、姐さんが仰る通り、そこには各人の「何か」感情的な錯綜がある。それは詳細を極めるリンク先の叙述の字背にあって、我々の推理を、何処かで拒むような人間の愛憎が潜んでいるように私には思われてならない。]

 

○十三代永樂善五郎(回全) 天保五(一八三四)年~明治九(一八七六)年

    塗師佐野長寛次男。十一代永樂善五郎(保全)の養子。

    姓を佐野(後に永樂)・西村(分家後)。

    名は善次郎・宗三郎。

    弘化四(一八四七)年頃、十一代永樂善五郎保全の養子となる

    嘉永二(一八四九)年に、十二代永樂善五郎和全の養子となる

    後に分家して西村宗三郎と名乗る。

    保全の代作や箱書の代筆、和全とともに御室窯や九谷焼の改良に従事する。

    十四代永樂善五郎(得全)を補佐し、永樂家に尽力する。

    その功により藤助(曲全)とともに十三代を名乗った。

○十三代永樂善五郎(曲全) 文政二(一八一九)年~明治一六(一八八三)年

    幼少の頃より十一代永樂善五郎(保全)に養われる

    保全とともに十二代永樂善五郎(和全)に仕える

    名は藤助。

    和全とともに御室窯や九谷焼の改良に従事する。

    永樂家に尽力する。

    その功により宗三郎(回全)とともに十三代を名乗った。

 

 なにがあったのでしょう?

 この事蹟から読み取れるのは、和全さんは、保全さんが回全さんを養子にすることで、保全さんと不和が生じたらしいということです。

 が、その二年後に和全さんは回全さんを自分の正式な養子にすることで表面上は解決したと読み取れます。

 自分の父保全さんが養子にした回全さんを二年後に自分の養子にするというのは、よくよくの事情があったのかも知れません。

 さて、モースさんが十三代永樂善五郎曲全さんに会ったのが、明治一五(一八八二)年の夏ですから、十二代和全さんも健在、既に襲名していた十四代得全さんはといえば、これ、二十九歳の働き盛り……恐らくは同じ家の屋根の下で創作する十三代曲全さん……保全さんや回全さんはともに既に亡くなっていたとはいえ……曲全さんは保全さんの養子でありましたから、これ、立場は実に微妙だったではありますまいか……モースさんの「陶器紀要」なるものが手に入れば、もう少し事情が飲み込めるのかも知れません。

   *

全く以って――目から鱗――とはこのことである。姐さんに心より感謝申し上げるものである。]

 

 永楽から我々は、もう一つ別の清水の陶工蔵六を訪れたが、ここで私ははじめて、仁清(にんせい)、朝日その他の有名な陶器の贋物が、どこで出来るかを発見した。この件に関する不思議な点は、蔵六と彼の弟とが、自分等が贋物をつくつていることを、一向に恥しがらぬらしいことである。彼等は父親の細工を見せたが、その中には仁清の記号をつけた茶碗がいくつか入っていた!

[やぶちゃん注:これ、何か、とんでもないことが書いてある! 注を憚る!

「蔵六」二代目真清水蔵六(ましみずぞうろく 万延二・文久元(一八六一)年~昭和一一(一九三六)年)かと思われる。思文閣の「美術人名辞典」によれば、『陶工。初代蔵六の長男。京都の人。幼名は寿太郎、名は春太郎、号を春泉・泥中庵。国内はもとより中国・朝鮮にも渡って調査研究を重ね、京都山科に開窯、のち西山の松尾村で製作した。古陶の鑑識に優れ、『陶寄』『古陶録』等の著がある』とある。

「仁清」野々村仁清(ののむらにんせい 生没年不詳)は江戸前期の陶工。ウィキの「野々村仁清」によれば、『京焼色絵陶器を完成と言われている。丹波国桑田郡野々村(現在の京都府南丹市美山町大野)の生まれ。若い頃は粟田口や瀬戸で陶芸の修業をしたといわれ、のち京都に戻り』、正保年間(一六四四年~一六四八年)頃、『仁和寺の門前に御室窯(おむろがま)を開いた』。『中世以前の陶工は無名の職人にすぎなかったが、仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺し、これが自分の作品であることを宣言した。そうした意味で、仁清は近代的な意味での「作家」「芸術家」としての意識をもった最初期の陶工であるといえよう。仁清の号は、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」の字を一字取り門跡より拝領したと伝えられている。仁清は特に轆轤(ろくろ)の技に優れたと言われ、現存する茶壺などを見ても、大振りの作品を破綻なく均一な薄さに挽きあげる轆轤技には感嘆させられる。また、有名な「色絵雉香炉」や「法螺貝形香炉」のような彫塑的な作品にも優れている。現存する仁清作の茶壺は、立体的な器面という画面を生かし、金彩・銀彩を交えた色絵で華麗な絵画的装飾を施している』とある。

「朝日」京都府宇治市で焼かれる陶器朝日焼のことか。『江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられた』。『朝日焼という名前の由来については、朝日山という山の麓で窯が開かれていたという説と、朝日焼独特の赤い斑点(御本手)が旭光を思わせるという説がある』。『宇治地方は古くから良質の粘土が採れ、須恵器などを焼いていた窯場跡が見られていた。室町時代、朝日焼が興る前には、経歴も全く不詳な宇治焼という焼き物が焼かれ、今も名器だけが残されている』。『今日、最古の朝日焼の刻印があるのは慶長年間のものである。しかし、桃山時代には茶の湯が興隆したため、初代、奥村次郎衛門藤作が太閤豊臣秀吉より絶賛され、陶作と名を改めたというエピソードも残っていることから、当時から朝日焼は高い評判を得ていたことになる。後に二代目陶作の頃、小堀遠江守政一(小堀遠州)が朝日焼を庇護、そして指導したため、名を一躍高めることとなった。同時に遠州は朝日焼の窯場で数多くの名器を生み出している』。『三代目陶作の頃になると、茶の湯が一般武士から堂上、公家、町衆に広まっていき、宇治茶栽培もますます盛んになり、宇治茶は高値で取引されるようになった。それに並行して朝日焼も隆盛を極め、宇治茶の志向に合わせて、高級な茶器を中心に焼かれるようになっていった』。『朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴である。そして、それぞれの特徴によって呼び名が決まっている』とウィキの「朝日焼にはある。

【二〇一五年九月二十八日追記】これについても先の「姐さん」から読んで『想像』しましたというメールを頂戴した。以下に藪野直史が少し手を加えて示す。

   *

 永楽さんの後に訪れた蔵六さんのところで、「仁清」の贋作があったとのことですが、実は、永楽(西村)さんは代々、土風炉(どぶろ/とふと)を作ってきましたが、十一代保全さんは文化一四(一八一七)年の二十二歳頃であったか、三井家の秘蔵の名品の見たことを契機として、そうした名品の「写し」を制作するようになったようです。色々なところに出かけては、古物の作風の技術を習得していったようです。同時期以降の永楽さんも「仁清」の「写し」などをよくしていたようです。

 で、どうして「写し」を作るようになったかということですが、ここからは私の想像なのですが……

本物は隠しておいて、茶会などには、「写し」を出すのがごく当たり前のことだったのでは

……と思うのです。

……どこかで聞いた話ですけれども……ティファニーなどの高級な宝石店の宝石(ネックレスや指輪)は、すぐ目の前に全く同じデザインの贋物を売っている店があって、本物を買った人は必ず、贋物も買っていく……ということです。

 本物は滅多なことで、出さないということなんでしょうね。

 で、永楽さんも、蔵六さんも、本物を持っている大名に請われて、如何に本物と比べてみても分からぬような贋作を作るか……寧ろ、それが、大名にとっても、陶工にとってもステータスみたいになっていたのでは……と思うのです。

 そのために、窯を開いたり、育成したり……これはまた……贅沢なことですね……う~~む?……果たして、本当にそうだったのでしょうか?……加藤唐九郎さんの「仁清の壷」を思い出しました(^^)

   *

これもまたしても目から鱗! まさしく! 陶磁器は奥が深い!]

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(5) 五 背骨の出來ること / 第十四章~了

     五 背骨の出來ること

 

 人間を始めすべて獸類・鳥類・龜・蛇・蛙など所謂脊椎動物の特徴は身體の中軸に背骨を有することであるが、この背骨なるものは勿論、初から已にあるわけではなく、發生の進むに隨うて次第に出來て行くものである。しかもその出來始めは決して硬骨ではなく、軟骨よりもさらに軟い一種特別の組織から造られ、背骨に見る如き節は一つもなくて、單に一本の索に過ぎぬ。これが後に至つて軟骨となり、更に硬骨となつて、終に成長し終つた姿の背骨となるのであるが、今了解を容易くするため、まづ「なめくぢうを」に就いて背骨の出來始まる具合を説明し、續いて人間の背骨の發生を極めて簡單に述べて見よう。骨格の發生などといふことは、實は一般の讀者には無味乾燥で、定めて讀み苦しいことであらうとは思ふが、背骨は人間をも含む最高動物類の著しい特徴であるから、その始め如何にして生ずるかを知つて置くことは、考へやうによつてはやはり人生を觀る時の重要な參考とならぬとも限らぬ。
 
 

Namekujiuosekisaku

[「なめくぢうを」の脊索の發生]

 

 こゝに掲げた圖は、いづれも「なめくぢうを」の發生中の幼魚の横斷面を示したものである。鯉や「ふな」を輪切にした切口に比べて考へたならば、およその見當は附くであらうが、圖の上部は魚の背面、圖の下部は魚の腹面、圖の横側は魚の側面に當る。小さな幼魚の斷面を四百倍以上に廓大した圖であるから、一個一個の細胞の境が明に見えて居る。この四個の横斷面は各々少しづ生長の程度の異なつた幼魚から取つたもので、㈠は卵から孵つたばかりのもの、㈡はそれより稍々後のもの、㈢はなほ少しく後のもの、㈣は更に發生の進んだものであるから、この四圖を順々に比べて見れば、その間に起る構造上の變化が一目して知れる。體の表面を包む細胞の層は皮膚であるが、圖ではこれが黑く畫いてある。背側の皮膚の下に同じく黑い細胞の列があるが、これは脊髓の出來掛りで、後に神經系の中央部となるベきものである。また腹側の皮膚の直下にあつて、體内の大部分を占めて居るのは腸の切口である。これだけは四圖ともにほゞ同樣であるが、脊髓と腸との間に當る處が圖によつて少しづつ違ふ。その中、體の中央線のところに起る變化が、今より説かうとする背骨の出來始まりであつて、その左右兩側に見える變化は前の節に述べた體腔の出來始まるところである。體腔の出來方は簡單ながら既に述べたからこゝには略して、背骨の出來始まる具合だけを見るに、初め何もなかつた腸の背側にまづ細い縱溝が生じ、次に溝の空隙は消えて溝の兩側にあつた細胞の竝び方が少しく變り、後にはこれらの細胞だけで獨立の棒となり、腸とは別れて脊髓と腸との間に位するやうになる。いふまでもなく、横斷部ではすべて切口だけが現はれるから、溝は凹みの如くに見え、棒は圓形に見える。即ち㈡の圖で腸の背部に下より上に向つて割れ目の見えるのは縱溝である。㈢の圖ではこの溝が已になくなり、㈣の圖では脊髓と腸の間に楕円形のものが見えるが、これは腸から別れて獨立した棒の切口である。この棒は「なめくぢうを」では生涯身體の中軸を成し、他の動物の背骨に相當するが、骨にもならず軟骨にもならぬから、たゞ脊索と名づける。

[やぶちゃん注:「四百倍以上」講談社学術文庫版では「三百二十倍以上」となっている。ここではよく観察出来る後者の図を用いたが、当該図を実際の講談社版の図よりも、二倍近くにしてあるので、六百四十倍以上で読み換えて戴きたい。また、図中の丸括弧数字は講談社の編集権を阻害しないようにするために、私が新たに配したものであることをお断りしておく。]

 

 人間の胎兒に於ても背骨は發生の途中に突然背骨として生ずるわけではなく、まづ始は、脊索が出來る。そしてその出來始まる具合は、「なめくぢうを」に就いて述べた所と同じく、腸壁の中央線に當る細胞が腸から別れ、獨立して一本の棒となるのである。第十三日位の胎兒では腸の壁はまだ平で、脊索の出來掛りも見えぬが、その頃から追々出來始めて忽ち身體の中軸を貫いた一本の棒となり、この棒の周圍に軟骨が生じ、背骨の發育が進むに隨うて内なる棒即ち脊索は次第次第にその量が減ずる。脊索は單に紐狀のもので節は全くないが、これを包む軟骨には初から多くの節があつて背骨と同じ形に出來る。一箇月半頃までは胎兒の骨骼は全部軟骨のみからなつて居るが、七週位になると背骨の軟骨各片の中央に一つづつ小さな點が現れ、この處から漸々硬い骨に變化し始める。軟骨は葛餅程に透明なものであるが、硬骨は石灰質を含んだ白色不透明なもの故、軟骨内に化骨した處が出來れば頗る明瞭に知れる。特に近來のエックス光線で寫眞にでも取れば硬骨だけは明に暗い影となつて寫る。一旦化骨し始めると、段々硬骨の部が大きくなり軟骨の部はそれだけ減ずるから、その割合を見て胎兒の月齡を鑑定することも出來る。生まれる頃になつても、なほ軟骨のまゝに殘つて居る處は幾らもある。

 

 かくの如く人間の胎兒ではまづ脊索が出來、次に脊索が軟骨の背骨と入れ代り、次に軟骨が漸々硬骨化して成人に見る如き硬い背骨が出來上がるのであるが、脊椎動物を見渡すと、これらの階段に相當する種類がそれぞれある。即ち「なめくぢうを」は一生涯脊索を有するだけでそれ以上に進まず、「やつめうなぎ」は一生涯脊索を具へて居るが、その外に少しく軟骨の部分があり、「さめ」・「あかえひ」の類は全身の骨骼が一生涯軟骨で止まるから、この類を特に軟骨魚類と名づける。「あかえひ」の骨は日本でも肉と共に食ふが、「さめ」の軟骨は「明骨」と稱へて支那料理では上等の御馳走に使ふ。その他の脊椎動物では骨骼は必ず硬骨と軟骨との兩方から成り立つて居る。

[やぶちゃん注:「明骨」「めいこつ」と読み、「名骨」とも書く。国語辞典にちゃんとサメ・エイやマンボウなどの軟骨を煮て干した食品で中国料理の材料、と記されてある。講談社学術文庫版では『「明骨」と稱へて』の部分が何故か、カットされており、言わずもがなであるが、『支那料理』は『中国料理』に書き換えられてある。]

 

 以上本章に於て述べた所を振り返つて見ると、人間の個體としての發生の始は極めて微細な簡單なもので、まづ最初には「アメーバ」の如き單細胞の時代があり、次に同じ細胞の集まつた原始蟲類の群體の如き時代があり、次に「ヒドラ」・珊瑚などの如き時代があり、次に「みみず」の如き時代があり、それから「なめくぢうを」の如き時代、「やつめうなぎ」の如き時代、「さめ」の如き時代などを順々に經過して、終に獸らしい形狀・構造を有するに至るのである。これだけは實物に就いて調べれば直接に目の前に見られる事實で、決して疑を挿み得べき性質のものでない。しかし母の體に硝子の如き透明な窓があつたならば、これだけのことは何人の發生にも見えた筈のことで、王樣でも乞食でも西洋人でも黑奴でもこの點は少しも相違はない。およそ何ものでもその眞の性質・價値等を正當に了解するには、初めて生じた時から今日に至るまでの經過を參考することが極めて必要で、もしもこれを怠り、たゞ出來上がつた姿のみに就いて判斷すると隨分誤つた考を生ぜぬとも限らぬ。近頃は「生」を論ずることが頗る流行するやうに見受けるが、人間に就いても、その出來上がつたもののみを見るに止めず、その單細胞であつた頃までも考に入れて、「みみず」時代には如何、「なめくぢうを」時代には如何といふやうな問を設けて見たならば、或は議論の立て方にも感情の程度にも、大に變はることもあるであらう。

[やぶちゃん注:丘先生のヒューマニズムが炸裂している感じがして、思わず、私は呻ってしまったところである。素晴らしい。なお、学術文庫版では『黑奴』は『黒人』に書き換えられている。]

『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社

    ●御靈社

御靈(ごりやうの)社は。長谷寺の西南一丁許の處に在り。鎌倉權五郞平景政の靈を祀る。社前に朽木の幹のみ殘れるありて。此にしめ繩をかけたり。景政か當時弓を立掛し木なりといふ。保元物語に云。後三年の合戰に鳥海城を落されし時。生年十六歲にて。左の眼を射られ。其の矢を拔かすして。答(たふ)の失を射て敵(てき)を殺し。名を後代に輝しめし神と祀れ侍る。東鑑に云。元曆二年八月廿七日御靈宮鳴動依ㇾ之兵衛佐殿御參詣有ㇾ之御神樂神拜有り。建久五年正月御靈祀へ奉幣。八田知家御使と。かゝれは其の祀祭はふるき事としられたり。又神社考(じんじやかう)に今世患目疾者祈此社有ㇾ效云とあり。

[やぶちゃん注:恐るべき剛腕の武士が御霊(ごりょう)となった私の偏愛する神社であればこそ、まず「新編鎌倉志卷之五」の「御靈宮」を私の注ごと引いておく。

   *

〇御靈宮 御靈宮(ごりやうのみや)は、長谷村より西南の方にあり。鎌倉權五郞(かまくらごんごらう)平の景政(かげまさ)が祠なり。景政が事、【奧羽軍記】に詳かなり。【東鑑】に、建久五年正月、御靈社御奉幣、八田知家(はつたともい)へ御使(つかひ)たり。御靈の社の事、往々見へたり。【保元物語】に、後三年の御合戰に、鳥海城(とりのうみのしろ)を落されし時、生年十六歲にて、左の眼(まなこ)をいさせて、其の矢を拔かずして、荅(たふ)の矢を射て敵を打ち、名を後代に揚げ、今は神(かみ)といははれたる、鎌倉權五郞景政とあり。神主は、小坂氏(こさかうぢ)なり。景政が家臣の末(すへ)也と云ふ。梶原村(かじはらむら)にも、御靈の宮あり。里老の云、當社は、本(もと)梶原村に有りしを、後(のち)に此の地にも勸請す。故に今祭禮の時は、彼の所の神主、出で合ふて事勤むると也。

[やぶちゃん注:「鳥海城」鳥海柵(とりのみのき:現在の岩手県江刺郡金ヶ崎)。安倍氏大将安倍頼時が戦死した後三年の役の緒戦の戦場。

 本項に被差別民であった非人に関わる伝承を持った面掛行列(はらみっと行列)の記載がないのは残念であるが、これは明治の神仏分離令までこの行列が鶴岡八幡宮放生会(八月十五日)で行われていたからであろう。「新編鎌倉志」の大きな弱点は即物的な地誌については微細に網羅しながら、それぞれの社寺での祭礼行事に対する洞察はかなり杜撰である点にある。但し、これは伝統的な地誌に於いては止むを得ないものであろう。祭祀の持つ無形性の核心部分は当時の地誌の記述対象ではなかったからである。なお、文中には梶原の御霊神社が本来の祭祀の場であり、後にここに分祀したという古老の話を載せるが、これは私には信じ難い。但し、ここで神主が祭儀に際して出張して来るという事実の記載は見逃せない。何らかの江戸時代の鎌倉の氏子支配構造や、鎌倉に於ける被差別民の歴史と関係がありそうである。御霊社は全国に数多くあり、ある時、ある人物の御霊信仰が爆発的に伝染し、各地に共時的に祭祀が分立したと考える方が自然な気が私にはするが如何か。梶原にある御霊神社は梶原景時の屋敷跡が同地に比定されることから、同じ鎌倉平氏である勇猛な武将鎌倉権五郎景政を氏族の祖神として祀ったと考えてよい。現在、この坂ノ下の御霊神社の方は、それ以前の平安後期の建立と推定されており、御霊は実は五霊で関東平氏五家の鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭各氏の祖霊を祀った神社が元であったとされている。それが後の御霊信仰の伝播に伴い、鎌倉権五郎景政の一柱となったと考えられているのである。因みに、私はこの神社が大好きである。御霊信仰に纏わるそのルーツの伝承から、力石伝説、江戸時代の滝沢馬琴の長男にして幕府医員であった種継に纏わる父馬琴の涙ぐましい息子の売り込みを感じさせる某人失明事件解明のエピソード、更に国木田独歩が棲んだ近代文学の足跡に至るまで、この神社で語れることは尽きないからである。もう、何年も行っていないな……]

   *

「一丁」百九メートル。

「鎌倉權五郞平景政」(延久元(一〇六九)年~?)は平安後期の猛勇無双の武将。ウィキ鎌倉景政より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。通称は権五郎。名は景正とも書く』。『父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる』。『十六歳の頃、後三年の役(一〇八三年~一〇八七年)に従軍した景政が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」』(「めふき」と読む)『の地名が残されている(現在の千葉県野田市)』。『長治年間(一一〇四年~一一〇六年)相模国高座郡大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市周辺)を開発して、永久四年(一一一六年)頃伊勢神宮に寄進している』。『子の景継は、長承四年(一一三四年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和二年(一一八二年)二月八日条には、その孫として長江義景の名が記されている』。『なお明治二十八年(一八九五年)に九代目市川團十郎によって現行の型が完成された『歌舞伎十八番之内暫』では、それまでは単に「暫」とだけ通称されていた主役が「鎌倉権五郎景政」と定められている。ただし、実在の鎌倉景政からはその名を借りるのみであることは言うまでもない』。『「尊卑分脈」による系譜では、景政を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の四世孫とし、大庭景義・景親・梶原景時らはいずれも景政の三世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景政は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景政の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする』。『景政の登場する系図は三種類あり、内二種類では香川氏や大庭氏、梶原氏などは景政の兄弟もしくは従兄弟に連なる家系としており、確かなことは判らない』とする。『横浜市内の旧鎌倉郡にあたる地域(現在の栄区・戸塚区・泉区・瀬谷区)に多く存在する御霊神社は概ね景政を祀っており、そのほか各地にも景政を祀る神社がある』とある。ともかく私は荒ぶる御霊となった彼がむちゃくちゃに好きなのである。

「元曆二年」一一八五年。

「建久五年」一一九四年。

「八田知家」(康治元(一一四二)年~建保六(一二一八)年)は鎌倉幕府御家人。保元の乱で源義朝に就き、頼朝挙兵でも早期に参じて範頼の平氏追討軍に従軍した。頼朝没後、将軍頼家の専横を抑えるために幕府内に作られた十三人合議制(後に評定衆に発展解消)の一人。

「神社考」「本朝神社考」のことであろう。江戸初期の朱子学派の儒学者で林家始祖である林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の儒教神道の主著で六巻から成る(成立年は未詳)。「古事記」「日本書紀」「延喜式」「神皇正統記」などの国史に徴して諸国の神社の源流を考証し、併せて霊異方術などにも触れている。「神儒合一」の理を説き、神仏の習合を非難した書として知られる(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「今世患目疾者祈此社有ㇾ效云」「今の世、目疾(もくしつ)を患ふ者、此の社に祈れば效(かう)有りと云ふ」と読む。]

『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 長谷寺

    ●長谷寺

長谷寺觀世音堂は。長谷町の極端(つきあたり)になり。背に觀音山を負ひ。眺望絕佳にして。由井ケ濱一帶脚下に横(よこたは)れり。門に海光山の額を掲(かゝ)く、長谷寺子純の筆なり。右に方丈あり。石階を登りて曲折し。堂前に達す。鐘樓あり。文永元年甲子七月の銘を刻す。斷崖には石の玉垣を設く茶亭あり客を待するの旁(かたは)ら寫眞額等を鬻(ひさ)く。

觀音堂は。草葺にして。間口十間。觀音扉を附す。紫地(むらさきぢ)に卍字(まんじ)を白記(はくき)したる幕を掛く。左右に新製(しんせい)の水盤を列せり。但し本尊は十一面觀世音なり。常に鎖(とざ)して縱謁を許さす。左に竇あり。傴して入れは觀音の像を安置す。長二丈六尺六寸。龕中又た闇(くら)し。導僧轆轤長絙を以て燭籠(しよくらう)を引上け。其面を照す。益(けだ)し燭の上下に緣て。彷彿全身を見るを得。此本尊は大和國長谷の觀世音と同木の楠にて。大和は木の本。此は木の末といふ。阪東(ばんどう)巡禮所第四番なり。創建は天平八年なりといふ。堂内に如意輪〔安阿彌作〕勢至〔仝〕聖德太子〔作者不知〕。並に大和國長谷開山德道上人〔自作〕等の像を安置す。每年六月十七日は。當寺の法會(ほふゑ)にて。遠近(をちこち)の貴賤こゝに群參す。鶴岡一の鳥居より凡そ十八町。

見存の觀音堂は正保二年に建(たつ)る所。今證左(しようさ)として其棟札を載す。

[やぶちゃん注:以下の新棟札は底本では全体が一字下げ。]

當寺者。觀音竪座之靈塲。威力自在之効驗。擧ㇾ世皆崇信之。雖ㇾ然大破年久不ㇾ能ㇾ興焉。方今爲武門永昌闔國治平之祈念。入圓通之境。開普門之道。乃使巧匠終土木之功。而所經營造替也。相摸州鎌倉長谷觀音堂。正保二年乙酉月日、若狹國主從四位上左近衛少將兼讃岐守源朝臣忠勝。奉行成田助右衛門尉。飯田新兵衛尉。大工桐山源四郞。

舊棟札は本寺光明寺に在り。此に據れば。慶長十二年七月に建てしと明かなり。其間卅九年を經たり。舊棟札の文は左の如し。

[やぶちゃん注:以下旧棟札は底本では全体が一字下げ。]

大日本國相摸州小坂郡鎌倉府海光山長谷寺。荒廢七零八落年久矣。於ㇾ玆征夷大將軍源朝臣家康修造再興。上棟不ㇾ日而成就。豈不觀音方便乎。伏願官門長保南山壽。久爲北闕尊。次冀佛法紹盛。的々相承億萬年。維時慶長十二年丁未七月十二日。大工吉野九郎右衛門。棟梁增田四郞左衛門尉。造營奉行石川吉兵衛尉。代官深津八九郞貞久。奉行伊奈備前守忠次。別當春宗敬白。

裏書

福山寶珠菴元英祥珪書焉。

[やぶちゃん注:「子純」「新編鎌倉志卷之二」の「杉本寺」の条に『子純は建長寺第百五十九世。子純和尚、諱は得公歟』とある。

「文永元年」一二六四年。

「十間」十八・一八メートル。

「二丈六尺六寸」八・〇六メートル。これは珍しく少な目。現在は九・一八メートルと公称する。本邦でも最大級の木彫仏である。

「轆轤長絙」「轆轤」は「ろくろ」でこの場合は滑車のこと、「長絙」は「ちやうくわん(とうかん)」と読んでいるか。長い組紐のこと。これは是非、私の電子テクスト小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一二)をお読みあれ! 決して失望させませぬから!

「緣て」「よりて」と訓じていよう。

「天平八年」七三六年。

「德道上人」(斉明天皇二(六五六)年〜天平七(七三五)年)は、道明上人の弟子で、二人共に奈良長谷寺の開山と伝えられる真言僧。因みに長谷寺は、江戸初期の慶長十二(一六〇七)年の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗して、現在に至っている。

「鶴が岡一の鳥居より十八町許あり」「十八町」一・九六キロメートル。現在の一の鳥居を由比ヶ浜方向へ南下して、簡易裁判所の先を右に折れて真っ直ぐに、和田塚入口を抜けて由比ヶ浜通りに出て西行するコースをとっても一・六キロメートルほどしかないから不審に思われるかも知れない。これこそ、新編鎌倉の無批判な引き写しによる大変な誤りなのである。何故なら、この「新編鎌倉志」の時代の鎌倉の「一の鳥居」は現在の「三の鳥居」と呼称されている一番八幡宮に近い入口の鳥居を指しているからである。江戸時代と近代以降では呼び方が異なるのである。それを知らずに、この愚かな記者はそのままやらかしてしまった。観光ガイドブックとしては、いや、ジャーナリストとしては最早、致命的である。

「見存」見慣れぬ熟語である。現存の誤植か? 但し、「現存」という語はここまで記者は使用していないと思う。「けんぞん」或いは「見存(みあ)る」で、現に存して見るところの、の意か?

「正保二年」一六四五年。

「棟札」以下は、恐らく「新編鎌倉志卷之の「長谷寺」(或いはやはりその引き写しの「新編相模国風土記稿」)を引き写したものと思われる。されば私も私のそれから私の訓読文を含めて引き写す。

   *

 棟 札

當寺者、觀音竪座之靈場、威力自在之効驗、擧世皆崇信之、雖然、大破年久、不能興焉、方今爲武門永昌、闔國治平之祈念、入圓通之境、開普門之道、乃使巧匠終土木之功、而所經營造替也、相模州鎌倉長谷觀音堂、正保二年乙酉、月日、若狹國主、從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝、奉行成田助右衞門尉、飯田新兵衞尉、大工桐山源四郞。

今の棟札なり。昔の棟札の寫し、光明寺にあり。其の文、左のごとし。

大日本國相模州、小坂郡、鎌倉府、海光山長谷寺、荒廢七零八落年久矣、於茲征夷大將軍源朝臣家康、修造再興、上棟不日而成就、豈不觀音方便乎、伏願、官門長保南山壽、久爲北闕尊、次冀佛法紹盛、的々相承、億萬年、維旹慶長十二年丁未七月十二日、大工吉野九郞右衞門尉、棟梁增田四郞左衞門尉、造營奉行石川吉兵衞尉、代官深津八九郞貞久、奉行伊奈備前守忠次、別當春宗、敬白、裡書、福山寶珠菴元英祥

《今の棟札》

  棟 札

當寺は、觀音竪座の靈場、威力自在の効驗、世を擧げて皆、之を崇信す。然ると雖ども、大破年久しく、焉を興すこと能はず、方に今、武門永昌、闔國治平の祈念の爲めに、圓通の境に入り、普門の道を開く。乃ち巧匠をして土木の功を終へしめて、經營造替する所なり。相模の州鎌倉長谷觀音堂 正保二年乙酉 月日 若狹の國主 從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝タヾカツ 奉行成田助右衞門の尉 飯田新兵衞の尉 大工桐山源四郞

「闔國」は「かふこく(こうこく)」と読み、国中残る隈なく、の意。「正保二年」西暦一六四五年。「從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝」は酒井忠勝(天正十五(一五八七)年~寛文二(一六六二)年)のこと。武蔵川越藩第二代藩主・若狭小浜藩初代藩主。第三代将軍徳川家光及び次代将軍家綱の老中・大老であった。

《昔の棟札》

  棟 札

大日本國相模の州、小坂の郡鎌倉府、海光山長谷寺、荒廢七零八落年久し。茲に於いて征夷大將軍源朝臣家康、修造再興す。上棟、日あらずして成就す。豈に觀音の方便ならずや。伏して願はくは、官門長く南山の壽を保ち、久しく北闕の尊と爲らんことを。次に冀はくは佛法紹盛、的々相承、億萬年、維旹(これとき)慶長十二年丁未七月十二日 大工吉野九郞右衞門の尉 棟梁增田四郞左衞門の尉 造營奉行石川吉兵衞の尉、代官深津八九郞貞久(さだひさ) 奉行伊奈(いな)の備前の守忠次(ただつぐ) 別當春宗 敬して白(いは)く

裡書(うらがき)

福山寶珠菴元英祥珪書す

「北闕」は宮中の北の門を言う。帝の北の守りの意。「維旹」は『このこと、時に』の意である。「裡書」の部分は編者によるものであろうと思われる。]

鐘樓 鐘の銘あり。如左(左のごとし)。

   *]

【2016年1月12日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

 

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山本松谷「鎌倉江島名所圖會」挿絵 長谷寺の図(見開き)

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)の挿絵八枚目。上部欄外中央に「鎌倉長谷寺の圖」と手書き文字でキャプションが記されてある(二枚目を参照)。私のスキャン機器のサイズの関係上、一枚目の全体図(ファイル名:ke hase)は右の母子の食事の景の方を重視して、左側を三センチメートル分、カットしてある(合成縮小しないのは私のフォト・ソフトと未熟な技術では必ずしも上手くいかないためである)。但し、左側の西瓜売りの嫗(おうな)と西瓜を食って床几でごろ寝をしている男(食った西瓜の皮らしいものが柱の蔭に見える)、中景の棟にとまる鴉と、その向うの藁葺屋根の上を飛ぶ鴉も、登場させないのは惜しいので底本図の左三分の二を二枚目として掲げた(こちらはコントラスト補正を加えていない)。

 明治期の観光地の古写真は人物が写り込んでいる場合、まず、絶対非演出の絶対リアリズムにはならない(それは現在の写真術の主義主張とは異なり、専ら屋外撮影では時間がかかってしかも静止を促した結果上、仕方がない)。

 ところが、この絵(鉛筆スケッチを元にした石板画)は、描かれる人物が誰一人として画家の眼を意識していない。

 しかも左右の屋内が、自然な形で透視描写とされていて、往時の庶民の日常がごく自然に見てとれるようになっている。

 そもそもこの一点透視画法の図絵は消失点である標題主題の長谷寺を鑑賞者は見ようとしない

 寧ろ、子細に描き込まれた、箱膳の食事風景、そこで子に飯をよそう母、子どもの引き馬の遊具(これは手製とも思えぬ。この物売り屋は廂に蜘蛛の巣がかかって、子沢山(三人を数える)だが、長谷寺の門前町の中では案外に繁昌していることが窺える)、犬相撲をしかけ合う子ら、車乗りの足萎え(こういう差別された賤民の風俗は写真に残されているものが案外に少ないし、今時のTVドラマなどでは自主規制放送コードでまず演出されない。我々が時代劇や近代ドラマで見る市井の沿道は、薬剤の臭いがプンプンするほどテツテ的に漂泊されてしまっている)、天秤棒を担いだ魚屋(鎌倉自慢の鰹でも運ぶものか)、悪戯鴉に石を投げようとしているでもするかのような少年(もしかすると鴉は一羽で、少年の投げた石で驚いて、棟の上の鴉が飛び立ったのが、実は左上の鴉ででもあるところの、異時空同一画面表現なのかも知れぬ)、菰(こも)掛けの馬を引く馬博労(ばくろう)が自分とそして恐らくは相方の馬にも分けてやる(しかし皮の部分)ために瓜(西瓜は奥左端に見える。店頭のそれは楕円の形上からして真桑瓜の類いであろう)を買い求めるさまなどなどを、鑑賞者は楽しむのである。いや。或いは、目には見えぬ中央の甍の中にある長谷観音の母のような広大無辺な慈悲の眼差しが、あまねく、しかも等しく、この市井のありとある衆生の上に注がれてでもいるかのようにも私には感ぜられるのである。

 因みに、これを私の持つ、幕末と明治二〇年代の長谷門前町の本絵とほぼ同じフレーム(二枚とももう少しフレーム・イン気味)の写真と比較してみたが、左右の藁葺屋根の形状と非常によく一致していることが判る。本図は確かなロケハンが行われた、しかも写真では決して撮ることの不可能な稀有のスカルプティング・イン・タイムなのである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 稻瀨川

    ●稻瀨川

稻瀨川は御輿嶽より出てゝ。長谷の前を流れて海に入る。本名は水無能瀨(みなのせ)川なり。土俗稻瀨川と訛稱せしより。今專ら其の名を唱ふ古よりの一名所なり。

[やぶちゃん注:以下、和歌の前後を行空けし、改行も本文を無視して、読み易く上句/下句とした。]

 

  万葉 眞かなしみさねにははゆくかまくらの

     水なの勢川に潮みつなんか

 

  夫木 東路や水なの勢川にみつしほの

     しるまも見えぬ五月雨のころ

               野宮左大臣

 

  家集 潮よりも霞やさきにみちぬらん

     水無能勢川のあくる湊は

               藤原爲相

 

  仝  さしのほる水なのせ川の夕しほに

     湊の月のかけそちかつく

 

     立まかふ波のしほ路もへたゝりぬ

     水無能勢川の 秋のゆふきり

               從三位爲實

 

  紀行 水淺き濱のまさこを越波も

     水なのせ川に春雨そふる

               法印堯惠

 

  名寄 鎌倉やみこしがたけに雪きえて

     みなのせ川に水まさるなり

               左京太夫顯仲

 

東鑑に。治承四年十月十一日。御臺所〔政子〕伊豆國阿岐戸(あきの)郷より鎌倉に入御し給ふ。日攻不ㇾ宜に依て。稻瀨河の邊民屋に止宿し給ふ。又元曆元年八月八日。三河守範賴平家追討使として進發の時。扈從(こしよう)の輩一千餘騎。賴朝卿稻瀨河の邊に棧敷(さじき)を搆(かま)へ見物し給ふとあるは。卽ち此の處なり。元弘の役(えき)に濱の手の大將犬舘宗氏の戰死せしも。此河邊なりといふ。

[やぶちゃん注:現在の稲瀬(いなせ)川。水源は深沢の奥で大仏の東方を過ぎた辺りで屈曲して坂ノ下の東で由比ヶ浜に注ぐ。歌舞伎「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」通称「白浪五人男」(二代目河竹新七(黙阿弥)作・文久二(一八六二)年江戸市村座初演)の知られた二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」はこの河口をロケーションとする。

「万葉 眞かなしみさねにははゆくかまくらの水なの勢川に潮みつなんか」「万葉集」巻十四の「相聞」にある(三三六四番歌。先の「鎌倉の見越の崎の」の和歌の次)、

 ま愛しみさ寢(ね)に吾(あ)は行く鎌倉の美奈(みな)の瀨川(せがは)に潮(しほ)滿つなむか

で、

――お前のことを、私は心からいとおしく思って共寝するために向かっている――鎌倉の美奈の瀬川は、今頃、潮が満ちてしまっているだろうか――たとえそれでも私はお前のもとに行かずにはおられぬのだ――

と言った意味である。

「夫木 東路や水なの勢川にみつしほのしるまも見えぬ五月雨のころ 野宮左大臣」は「しるまも見えぬ」とあるが、

 東路(あづまぢ)や水無能瀨川(みなのせがは)に滿つ潮(しほ)の干(ひ)る間(ま)も見えね五月雨(さみだれ)のころ

が正しい表記かと思う。「野宮左大臣」徳大寺公継(とくだいじきんつぐ 安元元(一一七五)年~嘉禄三(一二二七)年)のこと。左大臣実定三男。新古今集に五首入集、代々の勅撰集に計十七首が採歌されている。

「家集 潮よりも霞やさきにみちぬらん水無能勢川のあくる湊は 藤原爲相」は、

 潮(しほ)よりも霞(かすみ)やさきに滿(み)ちぬらん水無能瀨川(みなのせがは)のあくる湊(みなと)は

である。

「仝  さしのほる水なのせ川の夕しほに湊の月のかけそちかつく」老婆心乍ら、「仝」は「同」の古字とされるもの。同じく藤原為相の一首で、

 さしのぼる水無能瀨川(みなのせがは)の夕潮(ゆふしほ)に、湊(みなと)の月の影(かげ)ぞ近づく

である。

「立まかふ波のしほ路もへたゝりぬ水無能勢川の 秋のゆふきり 從三位爲實」は、

 立(た)ちまがふ波の潮路も(しほぢ)隔(へだた)りぬ水無能瀨川(みなのせがは)の秋の夕霧(ゆふぎり)

である。「從三位爲實」は五条為実(文永三(一二六六)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)のこと。二条為氏四男。参議。「新後撰和歌集」などに入集。因みに彼の父二条為氏は、藤原北家御子左家嫡流で、権大納言藤原為家長男。和歌の名家二条家祖であるが、正に前掲される異母弟冷泉為相が相続争いの相手であった。

「紀行 水淺き濱のまさこを越波も水なのせ川に春雨そふる 法印堯惠」は、

 「水(みづ)淺(あさ)き濱(はま)の眞砂(まさご)を越(こ)す波も水無能瀨川(みなのせがは)に春雨(はるさめ)ぞ降る

である。「堯慧」(大永七(一五二七)年~天正二(一六〇九)年)は戦国は江戸初期の真宗僧。権大納言飛鳥井雅綱三男で室町幕府将軍足利義晴猶子であったが出家、現在の三重県津にある専修せんじゅ寺第十二世として真宗高田派を興隆させた。大僧正。

「名寄 鎌倉やみこしがたけに雪きえてみなのせ川に水まさるなり 左京太夫顯仲」御輿嶽」に既出既注。ここでも「大夫」が「太夫」となってしまっている。

「東鑑に。治承四年十月十一日。御臺所〔政子〕伊豆國阿岐戸(あきの)郷より鎌倉に入御し給ふ。日攻不ㇾ宜に依て。稻瀨河の邊民屋に止宿し給ふ」「吾妻鏡」治承四(一一八〇)年十月十一日の条の当該箇所だけを引く。

   *

○原文

十一日庚寅。卯尅。御臺所入御鎌倉。景義奉迎之。去夜自伊豆國阿岐戸郷。雖令到着給。依日次不宜。止宿稻瀬河邊民居給云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十一日庚寅。卯の尅、御臺所、鎌倉に入御す。景義、之を迎へ奉る。去ぬる夜、伊豆國阿岐戸郷(あきとのがう)より到着せしめ給ふと雖も、日次(ひなみ)、宜(よろ)しからざるに依つて、稻瀨河の邊の民居(みんきよ)に止宿し給ふと云々。

   *

この「日次(ひなみ)」とは暦の上での日の吉凶のこと。

「元曆元年八月八日。三河守範賴平家追討使として進發の時。扈從(こしよう)の輩一千餘騎。賴朝卿稻瀨河の邊に棧敷(さじき)を搆(かま)へ見物し給ふ」「吾妻鏡」には、進発する面々を列記した後に『武衞搆御棧敷於稻瀨河邊。令見物之給云々。』(武衞、御棧敷を稻瀨河の邊に搆へて、之れを見物せしめ給ふと云々。)とある。

「元弘の役」ここは元弘三(一三三三)年五月の鎌倉幕府総攻撃を指す。

「犬舘宗氏」(おおだてむねうじ 正応元(一二八八)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)は上野新田荘大館郷領主。新田義貞の鎌倉攻めに従い、鎌倉極楽寺切通口突破の大将として幕府軍の大仏貞直(おさらぎさだなお)軍と戦闘の末、五月十九日に壮絶な討死をした。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 長谷町

    ●長谷町

長谷町は。長谷寺觀音の前通に在る市街なり。鎌倉彫等の名物を鬻(ひさ)く。郵便局もあり。海手の方には避暑游潮(ゆうてう)の爲め。都人士の建(たて)し家も見ゆ。此庭に三橋與八とて大なる旅舘(りよくわん)ありて繁昌せり。

[やぶちゃん注:「三橋與八とて大なる旅舘あり」サイト「e-ざ鎌倉・ITタウン」内に浪川幹夫氏の詳細を極めた『「三橋旅館」について』(1)(2)(3)(4)がある。必読。因みに、この旅館は明治一八(一八八五)年に内務省初代衛生局長長与専齋の奨めによって鎌倉由比ヶ浜に海水浴場を開設し、鎌倉での海水浴を大いに発展させたことでも知られる。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 大佛

    ●大佛

大佛は長谷村の深澤に在り。二王門に林峯(りんぽう)の書せし大異山の額を掲(かゝ)く。門前に聖武帝艸創東三十三ケ國總國分寺大佛と刻せし石標(せきへう)あり。風土記に據れは此處は總國分寺にあらす。蓋し誤なり。門に榜示(ぼうじ)あり。左の如し。

[やぶちゃん注:底本では以下、「すへきもの也」まで全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

當山は。數百年來勤行絶ざるの佛疆(ぶつきよう)なり。玆に詣(まふで)んとする善男善女は。何人を問はす。何の宗教を奉するに問はす。何の宗教を奉するに論なく。下示の意を遵守すべし。

之は彌陀の聖殿なり。是は如來の御門なり。宜しく敬禮を盡すへきもの也

 

門を入れは。右の方に鳥島古物店ありて。古器物(こきぶつ)を鬻(ひさ)く。石階五級。次に三級を登れば。鋼燈籠二基立てり。經案の左右銅蓮華あり。大佛は卽ち金銅の廬舍那佛にして。正面に在り南に面して露坐し給ふ。總高五丈。髮際(かみぎは)より趺坐に至るまて高四丈二尺。周圍十六間二尺。石座高四尺五寸。面長八尺五寸。橫一丈八尺。白毫周圍一尺五寸。眼大(がんだい)四尺。眉大四尺二寸。耳長六尺六寸。鼻(はな)縱(たて)三尺八寸。橫二尺三寸。口徑(こうけい)三尺二寸強。肉髻高八尺。徑(けい)二尺四寸。螺髮(らはつ)各高八寸。徑一尺。其數八百三十顆。膝徑六間餘。大指周三尺餘とす。大佛の右側に亭(てい)あり。此處にて腹内を周覽する者より各一錢を徵收し。又大佛の寫眞幷に由來記を賣る。大佛の腹内は三十席を容るゝといふ。西の方右に賴朝の護持佛。左に祐天(ゆうてん)の像を安置す。北方卽ち背部に向ひて架梯(かてい)あり。登れは窓穴(まどあな)ありて後庭を下瞰すベし。又面部の凹處に金色の佛像を安置せり。風土記に彌陀の木像長一尺二寸。天竺傳來と云ふ腹籠とすとあり。或は此か。抑(そもそも)當佛殿は。沙門淨光普(あまね)く募緣して營作を企て。曆仁元年三月遂に此の新造の事始あり。五月大佛の妙好相(めうかうさう)始て成る。仁治二年三月上棟の儀式あり寬元元年六月落成して供養を行ふ此の時造立の佛像は木像なり建長四年八月十七日。改(あらため)て金銅の佛像を鑄(ゐ)る。今現存の者即ち是なりといふ。其の後應安二年九月大風の爲めに堂宇顚倒す。明應四年八月由井濱の海水激騰(げきとう)して。佛殿亦破壞に及へり。夫より礎石のみを存して。佛像は永く露坐し給へり。萬里居士の詩にも。無堂宇而露坐突兀とあり。今に至りて再建(さいこん)に至らす。古は建長寺の所管なりしが。近世別當を置きて高德院といふ。

別當高德院は淨土宗なり。此の地は眞言宗淨泉寺の舊地にして。天平年中行基の開基なりしに。其の後ち明應年中廢寺となり。大佛のみありしを。正德年間增上寺主顯譽祐天(けんよゆうてん)再興の志を發しに。江戸神田の商賈野島新左衞門。祐天に歸依し、資財を捨てゝ。共に當寺を興立し。山號を獅子吼(しゝく)と改め。寺號は淸淨泉寺の舊に從ひ。宗旨を改て光明寺の末に屬す。故に祐天を中興の開祖とし。松參詮察を第二世とし。新左衞門を中興の開基とし。本尊〔木像長一尺五寸惠心作〕又同像〔同五寸五分〕及ひ愛染〔行基の作宗尊親王大佛殿前に一宇を建て安せし像なりき〕の像を置く。

大佛の背後に石碑あり。表面南無阿彌陀佛。側面に稻多野殿。裏面に建長五癸丑年五月二十三日とあり。庭園大樹多くして。綠陰濃(こまや)かに。夏日は凉(れう)を納(い)るゝに足る。且つ其の淸潔なることは鎌倉中他に其の比を見ず。

[やぶちゃん注:「鳥島古物店」現存しない模様。

「總高五丈……」以下、以下の数値をメートル換算しておく。

総高五丈      一五・一五  メートル

髪際より趺坐まで高四丈二尺

          一二・七二  メートル

周囲十六間二尺   二九・六九  メートル

石座高四尺五寸    一・三六  メートル

面長八尺五寸     二・五七  メートル

橫一丈八尺      五・四五  メートル

白毫周囲一尺五寸   〇・四五  メートル

眼の大きさ四尺    一・二一  メートル

眉の大きさ四尺二寸  一・二七  メートル

耳の長さ六尺六寸   二     メートル

鼻縦三尺八寸     一・一五  メートル

鼻横二尺三寸     〇・六九  メートル

口径三尺二寸強    〇・九七  メートル強

肉髻高八尺      二・四二  メートル

肉髻直径二尺四寸   〇・七二  メートル

螺髪各高八寸     〇・二四  メートル

螺髪径一尺      〇・三〇  メートル

螺髪数         八三〇  個

膝の径六間餘    一〇・九一  メートル余り

親指周囲三尺餘    〇・九一  メートル余り

 

因みに、現在の高徳院の公式サイトのデータを示しておく。かなり違う。

総高(台座を含む) 一三・三五  メートル

仏身高       一一・三一二 メートル

面長         二・三五  メートル

眼長         一・〇〇  メートル

口幅         〇・八二  メートル

耳長         一・九〇  メートル

眉間白毫直径     〇・一八  メートル

螺髪(頭髪)高    〇・一八  メートル

螺髪直径       〇・二四  メートル

螺髪数         六五六  個

仏体重量        一二一  トン

 

因みに、本誌の十五年後の明治末年である明治四五(一九一二)年七月十五日に鎌倉町小町の通友社から発行された左狂大橋良平の「現在の鎌倉」の長谷の大佛に載る数値は概ね本誌に同じい(リンク先は私の電子テクスト)。恐らくはかつては荘厳さを誇大に示すために実際よりも大きめに広告されていたものと考えられる。

「祐天」浄土宗大本山増上寺第三十六世法主でゴーストバスターとしても知られた祐天(寛永一四(一六三七)年~享保三(一七一八)年)。ウィキの「高徳院」から引いておく。本寺は、現在は正式には大異山高徳院清浄泉寺と号し、『鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間』(一七一一年~一七一六年)に、『江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである』。「吾妻鏡」には暦仁元(一二三八)年、『深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ』、五年後の寛元元(一二四三)年に『開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は』、仁治三(一二四二)年に『完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が』三分の二ほど『完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方で「吾妻鏡」には建長四(一二五二)年から『「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し』、この年から造立が開始された大仏が『現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である』。なお、前述の一二四三年に開眼供養された木造の大仏と、「吾妻鏡」で一二五二年に起工したとする銅造の大仏との関係については、『木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている』。「吾妻鏡」によれば、『大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である』。『鎌倉時代末期には鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船)。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかはこれも史料がないため、不明である』。『大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは』、二〇〇〇年から二〇〇一年にかけて『実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている』。「太平記」には、建武二(一三三五)年に『大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり』、「鎌倉大日記」によれば大仏殿は』応安二(一三六九)年にも倒壊している。『大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について』は、「鎌倉大日記」が明応四(一四九五)年とするものの、「塔寺八幡宮長帳」などの他の史料から明応七(一四九八)年九月二十日(明応地震)が正しいと考証されている。一方、室町時代の禅僧万里集九の「梅花無尽蔵」には文明一八(一四八六)年に『彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている』。先に記した境内発掘調査の結果、応安二(一三六九)年の倒壊以後には『大仏殿が再建された形跡は見出され』ていないとある。白井永二編「鎌倉事典」(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊)では『もと光明寺奥院』と断定し、その後さらに、その清浄泉寺の『支院であった高徳院のみが残ったもの。祐天再興の時、山号を獅子吼山と改めたというが、今は大異山に復している』とある。

「架梯」架けられた梯子。底本にある山本松谷の絵には手すりの附いたちゃんとした木製と思しい階段が描かれている。

「下瞰」「かかん」と読み、見下ろすこと・俯瞰の意。

「一尺二寸」三十六・三六センチメートル。

「妙好相」これは「妙相好」(めうさうがう(みょうそうごう)」とあるべきところと思う。「相好(そうごう)」で仏の身体に備わっている「三十二相八十種好」、三十二の「相」(現世に於いて認識される姿)と八十種に及ぶ「好」(三十二相をさらに細分化した荘厳にして清浄なる美形の細かな部分)の総称である。細かくはウィキ三十二相八十種好(但し、「好き」の方は総ては載っていない)を参照されたい。

「仁治二年」一二四一年。但し、先の「祐天」の注で示したように、「東関紀行」の筆者が翌仁治三(一二四二)年に完成前の大仏殿を訪れ、その時点では大仏と大仏殿が三分の二ほどしか完成していないとあるのと齟齬する。ともかくもあれだけの大きな大仏でありがなら、実は沿革は未だによく分かっていないのが実情である。

「萬里居士の詩にも。無二堂宇一而露坐突兀とあり」先の「祐天」の注を参照。

「松參詮察」これは増上寺法主祐天(第三十六世)を継いだ第三十七世法主「松譽詮察」の誤植と思われる。彼についてはサイト「千葉一族」の僧侶になった千葉一族(浄土宗)に詳しい。

「一尺五寸」四十五・一五センチメートル。

「稻多野殿」源頼朝の侍女だったされる稲多野局(いなだのつぼね)。岡戸事務所編「鎌倉手帳(寺社散策)」の高徳院(鎌倉大仏)に、彼女の卒塔婆の写真とともに、『伝えられている話では、鎌倉大仏は、源頼朝の侍女だった稲多野局が発起し、僧浄光が勧進して造立した』という伝承があり、もともと『大仏を造ろうと思い立ったのは源頼朝だった』が、『頼朝はそれを果たすことなくこの世を去ってしま』ったことから、その『志を受け継いだのが侍女の稲多野局』で、『北条政子が助力したともいわれている』とある。

「建長五癸丑年」一二五三年。]
 
 

【2016年1月11日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

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山本松谷「鎌倉江島名所圖會」挿絵 大仏の図(三枚組見開き)

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)の挿絵七枚目。私のスキャン機器のサイズの関係上、体内図を重視し、左側を三・五ミリメートル分、カットしてある。合成では私のフォト・ソフトと未熟な技術では必ずしも上手くいかないし、完全に三分割単体で表示すると原本のパワーが減少するので、かくトリミングした。

 

右の画中左上に「大佛」(改行一字下げ)「腹内の圖」

中央上部欄外に(画像ではカット)「鎌倉大佛前面の圖」

左の画中右上に「背面の圖」

 

 

と手書き文字でキャプションが記されてある。右の胎内の当時の構造、背部の物見窓の木造の櫓と、恐らくは、やはり木製と思われる昇降階段の様子、解説する者、参詣人のざわめき、その反響、そうした賑わいがよく伝わってくる気がする。]

Wait and hope. ――待て、しかして希望せよ。――


Wait and hope.

「待て、しかして希望せよ。」

(デュマ「モンテクリスト伯」末文)

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (四)


        


 大社の背後にある文庫の裏に、文庫よりも更に古い巫女屋敷といふ建物がある。昔はすべて少女の神女は、今よりもや〻嚴格な規律の下に、こ〻に住まねばならなかつた。晝間は勝手な處へ出かけることを得たが、夜は是非とも境內の門が閉まるまでに、屋敷へ歸らねばならなかつた。それは神々の寵兒達が、その身分を忘れて、冒險的な人間に寵幸せられるやうな破目に陷らないためであつた。またその心配も滿更無理ではなかつた。巫女は美しいと共に、また非常に純潔なるべき義務があつたから。して、大社に仕へた最も美しい巫女の一人は、實際さやうな風に墮落したのであつた――いづれの大書店でも安價の本として買ひ得る情話を、日本の史上に殘して。

 彼女の名はお國といつて、杵築の中村門五郞といふものの娘であつた。今も猶その子孫がこ〻に住んでゐる。大社の舞女として仕へてゐる際に、彼女は名古屋山三といふ浪人と戀に陷つた――彼は仕方のない破落戶の美男子で、劍の外には無一文であつた。彼女は窃かに社を脫して、戀人と共に京都の方へ駈落をした。これは少くとも三百年昔のことだ。

 京都へ行く途中で、その名を私は聞き洩らしたのであるが、彼等は別の浪人に逢つた。この浪人はたゞ暫くの間、話中に現れて、忽然死と忘却の永久の夜へ消えて了う。記錄に傳へられてゐるのは、彼は彼等の旅に同行を求めたこと、美しい巫女に愛着を感じてきたこと、して、彼女の懸人の嫉妬を招いて、結局激しい決鬪となつて、山三はその競爭者を殺したといふことだけである。

 それから後、逃亡者は無事に京都へ彼等の旅を續けた。お國はこの時既に彼女の行動を悔ひるべき充分の理由を悟つたか、否か、わからないが、その後の身の上から察すると、彼女に對する熱情のために死んだ美しい浪人の顏が、彼女の胸裡に纒綿離れ難きものとなつたやうに思はれる。

 その次に、彼女は京都で妙な役目を演じてゐる。彼女の戀人が全然貧乏に陷つたものと見えて、彼を養ふため、四條磧で巫女神樂の見せ物を出した。こ〻は鴨川の乾いた川床の一部で、またかの恐ろしい酷刑の行はれた場所である。彼女は當時の公衆からは、浮浪者と看倣されたに相違ない。しかし彼女の非常な美しさが、幾多の觀覽者を惹きよせ、大當となつたらしく、山三の財布は重くなつたが、この踊は今日杵築の巫女が緋の袴と雪白の衣をつけて、優しく滑るやうに足を運ぶ踊と同一のものに過ぎなかつた。

 兩人は更に江戶で役者として現れた。實際お國は傳說上、日本の近代劇――初めての俗劇――を創めたものと一般に認められてゐる。彼女以前は、たゞ僧侶の作に成つた宗敎劇だけであつた。山三自身も彼女の敎を受けて評判の高い、立派な役者となつた。彼には多くの弟子があつた。その一人の猿若は後、江戶に一つの劇場を起し、彼の名に因んで猿若座と呼ばれたが、今日猶猿若町に殘つてゐる。が、お國の時以來、女は――少くとも極最近まで――日本の舞臺から除かれてゐた。女の役は、古代希臟に於ける如く、最も炯眼の觀察者も性の區別がつかないほど、容姿が女らしく、技に巧みな男や、少年によつて演ぜられた。

 名古屋山三は、彼の伴侶よりも數年早く死んだので、お國は故鄕の杵築へ歸り、美しい髮を斷つて、尼となつた。彼女はその時代の割合には學問があつて、特に連歌といふ詩の藝に巧みで、死ぬるまでその敎授をした。彼女は女優として儲けた僅かの資產で、市の眞中に連歌寺といふ寺を建てた――そこで彼女が連歌を敎へたから、かく名をつけた。さて、寺を建立した譯は、彼女の美貌のために身を亡くした男――またその微笑は、彼女の心裏に山三が決して知らなかつた、或るものを起さしめたことのある男――の靈魂のために、その寺で常に祈をするといふのであつた。彼女が日本劇場の創始者であつたため、彼女の家族は數世紀間、ある特權を享有してゐた。維新の頃までも、中村門五郞の後裔の戶主は、いつも杵築座の利益の分配を受ける權利があつて、座元といふ稱號を有りてゐた。が、その家は現今頗る貧乏だ。 

 

 私は連歌寺を見るために行つたが、それは失くなつてゐた。數年前までは、觀音寺に通ずる石段の坂下にあつたが、今では何も殘つてゐない。破れた地藏像へ人々が祈を捧げるだけだ。小さな寺の昔の境內は野菜畠に變はつて、古い建物の跡には、その材料を利用して不敬にも數個の小舍が建つてゐる。ある百姓が、掛物や他の尊い物は、近所の寺ヘ讓られて、そこで見物が出來ると私に告げた。

[やぶちゃん注:「大社の背後にある文庫の裏に、文庫よりも更に古い巫女屋敷といふ建物がある」少なくとも現行の境内案内図ではこのような建物や跡は示されていない。但し、本殿背後に名を附していない複数の建築物は存在する。

「お國」以下、ウィキの「出雲阿国」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。出雲阿国(いずものおくに 元亀三(一五七二)年~?)は『安土桃山時代の女性芸能者。ややこ踊り』(中世末期から近世初頭に行われた少女による小歌踊りのことで、近世には女歌舞伎に取り入れられて主要な演目となった)『を基にしてかぶき踊り』(戦国末期から江戸初頭にかけて京や江戸で流行した「かぶく」者、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走る者を指した「かぶき者」をヒントとした斬新な所作や派手な装束を取り入れた、歌舞伎・若衆歌舞伎などの濫觴となった踊り)『を創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がっている』。名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)と『関係するともいわれ、「山三郎が夫である」、「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることもあるが、前者は伝説ともいわれており、後者も信頼性が決着がついていない資料にしか登場せず、信憑性が疑わしい』(「名古屋山三郎」についてはこの注の最後に別に注する)。『現在では阿国と表記することが多いが、この表記は十七世紀後半以降に彼女が伝説化してから広まったものであるので、歌舞伎創始期について語る場合は、彼女と同時代の資料にしたがって国、もしくはお国とするのが適切である。また、「出雲のお国」という呼称も同時代の資料には見られず、お国が出雲出身かどうかも学術的に決着がついていない』。かく『お国が出雲出身かどうかは決着がついていないものの、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれている』。『慶長五年(一六〇〇年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が三年後の慶長八年(一六〇三年)に「かぶき踊」を始めたと考えられている』。『「当代記」によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという』。『慶長八年五月六日に女院御所で踊ったという記録があり、文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている。この事と記述の内容から考えて、慶長八年五月からあまり遡らない時期にかぶき踊というあらたな名称が定着したのだと考えられている。内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化した。なお、お国がかぶき踊りを創始するに際して「念仏踊り」を取り入れたとする記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集などに書かれている事があるが、これは俗説の域を出ず、ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低い』。『その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか十年あまりで全国に広まったが、のちに江戸幕府により禁止される。もともとお国が演じていたものも前述のように茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、お国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない。従来の説では寛永六年(一六二九年)に女性の芸能者が舞台に立つことを禁止したとされるが、近年では十年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている。以下、「その後の阿国」の節になるが、この部分は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか或いは不十分であるとして、出典追加要請がかかっているので注されたい。『阿国自身は慶長一二年(一六〇七年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。慶長一七年四月(一六一二年五月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある』。『没年は慶長一八年(一六一三年)、正保元年(一六四四年)、万治元年(一六五八年)など諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。また、京都大徳寺の高桐院にも同様に阿国のものといわれる墓がある。なお、旧暦四月十五日(現在では新暦四月十五日とも)が「阿国忌」といわれている』。『国(クニ)に関する史料は次のようなものがある』。『「多聞院日記」天正十年五月(一五八二年六月):「加賀国八歳十一歳の童」が春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事がある。それは「於若宮拜屋加賀國八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了」というもの。これを八歳の加賀、十一歳の国という二人の名前と解釈し、逆算して国を一五七二年生まれとするのが通説化している。しかし、加賀出身の八歳・十一歳の娘という解釈もある』。『確実な資料では「時慶卿記」に慶長五年七月一日条に(一六〇〇年八月九日)、京都近衛殿や御所で雲州(出雲)のクニと菊の二人が「ややこ踊り」を演じたという記録があり、ここでクニと名乗っていたことがわかる』。『「時慶卿記」より遡るものとして次の記録があり、これらも国(クニ)を指す可能性がある』。『「御湯殿の上日記」天正九年九月(一五八一年十月):御所で「ややこ踊り」が演じられた。』『「言経卿記」天正十五年二月(一五八八年三月):出雲大社の巫女が京都で舞を踊った』というものである。なお、「名古屋山三郎」とは、お国を妻としたとされる実在した安土桃山時代の武将で、蒲生氏・森氏の家臣であった名古屋(那古野)山三郎(元亀三(一五七二)年又は天正四(一五七六)年~慶長八(一六〇三)年)を指す。お国とともに「歌舞伎の祖」ともされている人物であるが、ウィキの「名古屋山三郎」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『尾張国(現在の名古屋市)の生まれ。名古屋高久の次男。名古屋氏は名越流北条氏の子孫といわれる。母方の縁で織田氏と縁戚であることから織田九右衛門とも名乗った。当初は母と共に京の建仁寺に在ったが、十五歳の時に蒲生氏郷に見出され小姓として仕える。その前に織田信包に仕えていた説がある。九州征伐、小田原征伐に参加。天正十八年(一五九〇年)の陸奥名生城攻略、天正十九年(一五九一年)の九戸政実の乱でそれぞれ一番槍の功を立て二千石に加増される』。『文禄四年(一五九五年)に氏郷が死去すると蒲生氏から退去。京の四条付近で浪人した後に、出家して宗圓と名乗り大徳寺に入ったが、その後しばらくして還俗し、妹の岩が嫁いでいる森忠政の家臣として仕えた。忠政は山三郎を気に入り、見目麗しい事や茶道や和歌に関しても見識が深い事から饗応役として取り立てられ、五千石の所領を与えた(後に五千三百石まで加増)。また、山三郎の妹二人が森家重臣の小沢彦八、各務正休と婚姻を結んだため、山三郎は森家中で大きな発言力を持ったが、それを快く思わない同僚の井戸宇右衛門とは仲が悪く度々、口論など諍いを起こしたとされている』。『慶長八年(一六〇三年)、忠政は関ヶ原の戦いにおける恩賞として美作国津山藩に移封された後に新しい城を院庄に立てる事を計画。この時、山三郎は宇右衛門を殺すように忠政より命令され、忠政から直々に刀を賜っている。その後、工事現場において宇右衛門と居合わせた山三郎は喧嘩口論の末に抜刀して襲い掛かるが、逆に宇右衛門に切り伏せられ死亡する。宇右衛門も居合わせた森家の人間にその場で斬り殺された。享年は二十八とも三十二とも伝わる。山三郎の遺体は現場の北側、宇右衛門の遺体は南側に埋められ、墓標の代わりに松が植えられた。現在もその場所には松があり、「白眼合松(にらみあいのまつ)」と呼ばれているという。墓所は高桐院にも存在する』。『なお、嗣子の名古屋蔵人は後に森家を去り、前田利常に三千石で召し抱えられ、子孫は加賀藩士となって代々名越姓を称した』とあるばかりで(美少年であったらしい)、この記載では一向にお国の妻の部分が見えてこず、寧ろ、お国の記載にもあった通り、かなり怪しい感じがぷんぷん臭ってはくる。寧ろ、「かぶき者」であった彼を劇素材として選び、自らも彼のかつての妻という作り話などをなして、宣伝効果を上げたものと考える方が遙かに腑に落ちる。因みに、お国の墓は「出雲観光協会」公式サイト内の出雲阿国の墓によって、今も大社町にあることが分かった。それによれば、『出雲大社から稲佐浜へ向かう途中、山根の太鼓原の石段を登っていくと中村家の墓があり、出雲阿国の墓は、特別に石棚で囲った平たい自然石で作られて』あるとある。

「中村門五郞」不詳。本文ではお国の弟子格の「猿若」が後掲する猿若勘三郎となり、初代中村勘三郎となったとする、その姓と同じというのはやや気にはなる(なおこの「中村」は現行の大社の町名としても残っている)。なるが、私は大の歌舞伎嫌い文楽好きなれば、これ以上、調べてみる気にはならない。悪しからず。

「破落戶」「ごろつき」と読んでいるものと思われる。一定の住所・職業を持たず、あちこちをうろついては他人の弱味に付け込んで、強請(ゆす)りや嫌がらせなどをする無頼の輩を指す卑語。

「これは少くとも三百年昔のこと」ハーンのこの杵築再訪の事実時制は明治二四(一八九一)年の七~八月であるから、その「三百年」前は一五九一年(天正十九年)で、お国推定生年の元亀三(一五七二)年から考えても無理がない。

「猿若」はもともとは固有名ではなく、お国歌舞伎発生当初の歌舞伎の道化方の名称であった。まさに先の名古屋山三(名古屋山三郎)の家来として登場しては一見、魯鈍な役柄を見せつつも、物真似や雄弁な語りを売り物にした役者の役柄名である。後に現代に続く中村勘三郎の初代である、江戸初期の歌舞伎役者で座元であった猿若勘三郎(慶長三(一五九八)年~万治元(一六五八)年)が江戸で初めての常設の芝居小屋「猿若座」(後に「中村座」に改称)を創始しているので、ハーンが述べているのはそれである。

「連歌寺」「出雲観光協会」公式サイト内の阿国寺 連歌庵によれば、驚くべきことにこの寺、移築して復興再建されている。その解説によれば、お国は晩年に大社に帰って尼僧となって「智月」と号し、庵を結んで『読経と連歌に興じて静かに余生を過ごした』とされ、彼女の隠棲したその草庵を「阿國寺(おくにでら)連歌庵」と呼ぶようになった、とある。『連歌庵はもともと中村町にあ』ったが、『中村の大火で焼失して、二代目は』明治四(一八七一)年のおぞましい『廃仏毀釈によって取り壊され』しまったとあり、ハーンがそこを訪れたのは破却二十年後のことであったことが分かる。後、昭和一一(一九三六)年になって「劇祖阿國會」によって再建された、とある。
 

「觀音寺」不詳。識者の御教授を乞うものである。 

 

Sec.4

 

   Behind the library in the rear of the great shrine, there stands a more ancient structure which is still called the Miko-yashiki, or dwelling- place of the miko. Here in former times all the maiden-priestesses were obliged to live, under a somewhat stricter discipline than now. By day they could go out where they pleased; but they were under obligation to return at night to the yashiki before the gates of the court were closed. For it was feared that the Pets of the Gods might so far forget themselves as to condescend to become the darlings of adventurous mortals. Nor was the fear at all unreasonable; for it was the duty of a miko to be singularly innocent as well as beautiful. And one of the most beautiful miko who belonged to the service of the Oho-yashiro did actually so fall from grace—giving to the Japanese world a romance which you can buy in cheap printed form at any large bookstore in Japan.

   Her name was O-Kuni, and she was the daughter of one Nakamura Mongoro of Kitzuki, where her descendants still live at the present day. While serving as dancer in the great temple she fell in love with a ronin named Nagoya Sanza—a desperate, handsome vagabond, with no fortune in the world but his sword. And she left the temple secretly, and fled away with her lover toward Kyoto. All this must have happened not less than three hundred years ago.

   On their way to Kyoto they met another ronin, whose real name I have not been able to learn. For a moment only this 'wave-man' figures in the story, and immediately vanishes into the eternal Night of death and all forgotten things. It is simply recorded that he desired permission to travel with them, that he became enamoured of the beautiful miko, and excited the jealousy of her lover to such an extent that a desperate duel was the result, in which Sanza slew his rival.

   Thereafter the fugitives pursued their way to Kyoto without other interruption. Whether the fair O-Kuni had by this time found ample reason to regret the step she had taken, we cannot know. But from the story of her after-life it would seem that the face of the handsome ronin who had perished through his passion for her became a haunting memory.

   We next hear of her in a strange role at Kyoto. Her lover appears to have been utterly destitute; for, in order to support him, we find her giving exhibitions of the Miko-kagura in the Shijo-Kawara—which is the name given to a portion of the dry bed of the river Kamagawa—doubtless the same place in which the terrible executions by torture took place. She must have been looked upon by the public of that day as an outcast. But her extraordinary beauty seems to have attracted many spectators, and to have proved more than successful as an exhibition. Sanza's purse became well filled. Yet the dance of O-Kuni in the Shijo-Kawara was nothing more than the same dance which the miko of Kitzuki dance to-day, in their crimson hakama and snowy robes—a graceful gliding walk.

   The pair next appear in Tokyo—or, as it was then called, Yedo—as actors. O-Kuni, indeed, is universally credited by tradition, with having established the modern Japanese stage—the first profane drama. Before her time only religious plays, of Buddhist authorship, seem to have been known. Sanza himself became a popular and successful actor, under his sweetheart's tuition. He had many famous pupils, among them the great Saruwaka, who subsequently founded a theatre in Yedo; and the theatre called after him Saruwakaza, in the street Saruwakacho, remains even unto this day. But since the time of O-Kuni, women have been—at least until very recently-excluded from the Japanese stage; their parts, as among the old Greeks, being taken by men or boys so effeminate in appearance and so skilful in acting that the keenest observer could never detect their sex.

   Nagoya Sanza died many years before his companion. O-Kuni then returned to her native place, to ancient Kitzuki, where she cut off her beautiful hair, and became a Buddhist nun. She was learned for her century, and especially skilful in that art of poetry called Renga; and this art she continued to teach until her 
death. With the small fortune she had earned as an actress she built in Kitzuki the little Buddhist temple called Rengaji, in the very heart of the quaint town—so called because there she taught the art of Renga. Now the reason she built the temple was that she might therein always pray for the soul of the man whom the sight of her beauty had ruined, and whose smile, perhaps, had stirred something within her heart whereof Sanza never knew. Her family enjoyed certain privileges for several centuries because she had founded the whole art of the Japanese stage; and until so recently as the Restoration the chief of the 
descendants of Nakamura Mongoro was always entitled to a share in the profits of the Kitzuki theatre, and enjoyed the title of Zamoto. The family is now, 
however, very poor.

   I went to see the little temple of Rengaji, and found that it had disappeared. Until within a few years it used to stand at the foot of the great flight of stone steps leading to the second Kwannondera, the most imposing temple of Kwannon in Kitzuki. Nothing now remains of the Rengaji but a broken statue of Jizo, before which the people still pray. The former court of the little temple has been turned into a vegetable garden, and the material of the ancient building utilised, irreverently enough, for the construction of some petty cottages now occupying its site. A peasant told me that the kakemono and other sacred objects had been given to the neighbouring temple, where they might be seen.

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御輿嶽

    ●御輿嶽

御輿嶽今多く見越嶽に作る。高さ五十間餘。舊くは左京太夫顯仲(あきなか)の詠歌に此名見えたり。

 鎌倉や御輿か嶽に雪消てみなのせ川に水增るなり

又御輿か崎の唱あり。其の名萬葉集に顯はる。

 可麻外良乃美胡之能佐吉能伊波久部叡乃伎美我久由倍伎巳許呂波母多自(かまくらのみこしのさきのいはくゑのきみがくゆべきこゝろはもたじ)。

歌枕名寄にも。此所の詠歌見え。宗尊親王の集にも所見あり。

[やぶちゃん注:なお、私は小学校の一、二年の記憶の中に、この御輿ヶ嶽に義理の叔父の自転車の荷台に乗せてもらって登った記憶がある。今見るとそんなことは出来そうもない山なのだが、スキー一級の指導員の叔父はサドルの前に赤ん坊の従妹を載せ、僕を後ろに載せてうんうん言いながら確かに登って行った不思議な記憶があるのである。

「五十間」九〇・九メートル。国土地理院の地図上のレーザー測定では現在、最も高い部分でも六十五メートルほどしかない。

「左京太夫顯仲」「大夫」が正しい。平安後期の公卿源顕仲(康平元(一〇五八)年~保延四(一一三八)年)。堀河院歌壇で活躍した歌人。以下の一首も「堀川院御時百首」に所収するものである。

「鎌倉や御輿か嶽に雪消てみなのせ川に水增るなり」「かまくらや/みこしがたけに/ゆききえて/みなのせがはに/みづまさるなり」と読む。鎌倉攬勝考卷之一の「御輿ケ嶽」にある「御輿ヶ嵩」の山の絵の脇には、この和歌が記されてある(本文解説には出ないので注意)。ご覧あれ。

「「可麻外良乃美胡之能佐吉能伊波久部叡乃伎美我久由倍伎巳許呂波母多自(かまくらのみこしのさきのいはくゑのきみがくゆべきこゝろはもたじ)」は「万葉集」巻第十四の「相聞」に載る(第三三六五番歌)、

 鎌倉の見越(みごし)の崎の石崩(いはくえ)の君が悔(く)ゆべき心はもたじ

で、意味は、

……鎌倉の御越が崎の波で崩れた岩……その、岩くえ――くえ――くい――悔い……貴方が悔いるようなひどい仕打ちをするようなふたごこころは、私めは決して持ちますまいよ……

といった女性の側の誓い歌とされるものである。

「歌枕名寄」「うたまくらなよせ」と読む。中世の歌学書で全国を五畿七道六十八ヶ国に区分して当該国の歌枕を掲出、その地の歌枕を詠みこんだ証歌を「万葉集」・勅撰集・私家集・私撰集から広く引用して列挙したもの。成立年代は「新後撰和歌集」成立の、嘉元元(一三〇三)年前後と考えられており、編者は「乞食活計之客澄月」と署名があるが「澄月」その人の伝は伝わらない。中世には歌枕とその証歌(しょうか:修辞・語句・用語法などの証左とする根拠として引用される和歌)を類聚(るいじゅう)して作歌の便を図った所謂、歌枕撰書が幾つも編纂されているが、本書はその中でも最大の全三十八巻六千余首を拾う(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「宗尊親王の集にも所見あり」「新編鎌倉志卷之五」の「御輿嶽」に、『中務卿〔宗尊新王。〕の歌に』として、

 都(みやこ)にははや吹きぬらん鎌倉や御輿崎(みこしがさき)の秋の初風(はつかせ)

と引かれてある。]

虹とひとと   立原道造

    虹とひとと

 

雨あがりのしづかな風がそよいでゐた あのとき

叢は露の雫にまだ濡れて 蜘蛛の念珠(おじゆず)も光つてゐた

東の空には ゆるやかな虹がかかつてゐた

僕らはだまつて立つてゐた 默つて!

 

ああ何もかもあのままだ おまへはそのとき

僕を見上げてゐた 僕には何もすることがなかつたから

(僕はおまへを愛してゐたのに)

(おまへは僕を愛してゐたのに)

 

また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる

明るい靑い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに

小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる

 

おまへの睫毛にも ちひさな虹が憩んでゐることだらう

(しかしおまへはもう僕を愛してゐない

僕はもうおまへを愛してゐない)

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の処女詩集「萱草に寄す」の知られた一篇で、「SONATINE No.2」の第一篇である。実は厳密には底本では「No.2」のポイントが有意に落ちて、

 

 SONATINE No.2

 

となっている(「SONATINE No.1」も同様でしかも「目次」では孰れもがこのポイント違いのままに

 

 SONATINE No.2

 

というように斜体化されている)。詩集ではこの一篇に続いて、そしてて」が続いて読まれるようになっている。しかし私は敢えて終曲である第三パートである「忘れてしまつて」の冒頭の『深い秋が訪れた!(春を含んで)』という逆説を逆手にとって彼の抒情を逆回転させてみた。するとそこには形成された操作感情によって生み出された抒情の周辺が殺ぎ落とされ、裸のふるえるいとおしいまでの道造の道端に佇立する夏の虹のかかった寒々とした冬景色がより鮮明に見えてくるように私には思われるからである。

 なお、中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、本全三篇から成る「SONATINE No.2」は昭和一二(一九二七)年一月号の『四季』に纏めて初出している。]

忘れてしまつて   立原道造

    忘れてしまつて

 

深い秋が訪れた!(春を含んで)

湖は陽にかがやいて光つてゐる

鳥はひろいひろい空を飛びながら

色どりのきれいな山の腹を峽の方に行く

 

葡萄も無花果も豐かに熟れた

もう穀物の收穫ははじまつてゐる

雲がひとつふたつながれて行くのは

草の上に眺めながら寢そべつてゐよう

 

私は ひとりに とりのこされた!

私の眼はもう凋落を見るにはあまりに明るい

しかしその眼は時の祝祭に耐へないちひささ!

 

このままで 暖かな冬がめぐらう

風が木の葉を播き散らす日にも――私は信じる

靜かな音樂にかなふ和やかだけで と

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の処女詩集「萱草に寄す」の知られた一篇で、「SONATINE No.2」の第三篇。老婆心乍ら、「峽」は「かひ(かい)」と読み、尾根の間の狭く細長い谷を指し(元は「山の交(か)ひ」の謂いである)、「凋落」は「てうらく(ちょうらく)」と読み、草木の生気が衰え凋(しぼ)み枯れることをいう。「深い秋が訪れた!」と同時に括弧書き乍ら「春を含んで」とやらかす若々しい新しい、それでいて不可思議な哀感を含羞した抒情の放声が素敵に哀しい。]

わかれる晝に   立原道造

    わかれる晝に

 

ゆさぶれ 靑い梢を

もぎとれ 靑い木の實を

ひとよ 晝はとほく澄みわたるので

私のかへつて行く故里が どこかにとほくあるやうだ

 

何もみな うつとりと今は親切にしてくれる

追憶よりも淡く すこしもちがはない靜かさで

單調な 浮雲と風のもつれあひも

きのふの私のうたつてゐたままに

 

弱い心を 投げあげろ

嚙みすてた靑くさい核(たね)を放るやうに

ゆさぶれ ゆさぶれ

 

ひとよ

いろいろなものがやさしく見いるので

唇を嚙んで 私は憤ることが出來ないやうだ

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の楽譜様の処女詩集「萱草に寄す」の冒頭の「SONATINE No.1」群の四篇目に配された一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、本篇の初出は実は続く同パート五篇目ののおとともに昭和一一(一九二六)年十一月号の『四季』であった。]

2015/09/26

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 藤九郎盛長の邸址

 藤九郎盛長の邸址

藤九郞盛長の屋敷趾は。甘繩明神の東の方の畠地をいふ。東鑑に治承四年十二月廿日武衛御行(みゆき)始めとして。藤九郞盛長が甘繩(あまなは)の家に入御し給ふとあり。其の後も往々に見ゆ。抑(そも)安達盛長は下野の人陰重にして器局(ききょく)あり。言論理致多し。將軍の伊豆に流るゝや。盛長之に從ひ。保護懇到。豪傑を招致し。八州を歷説(れきせい)す。聞者感激響應せり。將軍鎌倉に入り。功を論し賞を行ふ。盛長を以て上野奉行と爲し。尋(つい)て三河守護を攝せしむ。又丹後内侍を以て妻とし。時々邸に來りて游燕せしこと前にいへるが如し。二世の時太夫人北條氏〔政子〕命して政事を參决(さんけつ)せしむ。盛長髮を削(そ)りて蓮西と名(なづ)く。歿する年六十六。盛長儉約自奉し、餅𩝐蒸飯盛るに。朴葉を以てせしに。楮葉を用うる者あり。視て歎(たん)して曰く。是れ驕奢(きやうしや)の漸なりと。其の人となり以て見るべし。

[やぶちゃん注:これは一体、どこから引いたものか不明。今までと打って変わって異様に佶屈聱牙である。

「藤九郞盛長」「安達盛長」「蓮西」(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)頼朝の流人時代からの直参の側近。鎌倉時代後期まで勢力を保持した安達氏の祖。以下、ウィキの「安達盛長より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線はやぶちゃん)。「尊卑分脈」では、『小田野三郎兼広(藤原北家魚名流)の子としているが、盛長以前の家系は系図によって異なり、その出自ははっきりしていない。足立遠元は年上の甥にあたる。盛長晩年の頃から安達の名字を称した』(「尊卑分脈」の件は後述)。『源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。また『曽我物語』によると、頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長とされる』。『治承四年(一一八〇年)八月の頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、元暦元年(一一八四年)の頃から上野国の奉行人となる。文治五年(一一八九年)、奥州合戦に従軍。頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている』。『正治元年(一一九九年)一月の頼朝の死後、出家して蓮西と名乗る。同年四月、二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり、幕政に参画。その年に三河国の守護となっている。同年秋に起こった梶原景時の弾劾(梶原景時の変)では強硬派の一人となり、翌年の正治二年四月二十六日(一二〇〇年六月九日)に死去。享年六十六。生涯官職に就く事はなかった』。『安達盛長の屋敷は現在の甘縄神社にあり、神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っている。ここは、北条時頼の母、松下禅尼の実家であり、北条時宗の誕生の地でもある』。またここは、弘安八(一二八五)年十一月十七日に起った霜月騒動の際、後裔の権勢家安達泰盛が攻められて、一族郎党滅亡したところでもある。なお、同ウィキの注に、「尊卑分脈」では『盛長が「安達六郎」、遠元の父・遠兼が「安達藤九郎」と記され、盛長は遠兼の兄としている。盛長は正治二年(一二〇〇年)に六十六歳で没しているため、保延元年(一一三五年)生まれである。遠元は生没年不詳であるが、孫の藤原知光が仁安三年(一一六八年)生まれであることから、この段階で若く見積もって三十代後半と考えられ、一一三〇年代前半の生まれと推測される。したがって遠元は盛長よりも年長であり、『尊卑分脈』の兄弟順は逆で、実際の名乗りは遠兼が「六郎」、盛長が「藤九郎」であったと見られる』とある。

「武衞」源頼朝。

「御行始め」「みゆきはじめ」と読む。御成始(おなりはじめ)に等しい。皇族・摂家・将軍などの出行・来着を「御成」「御行」と称し、特に幕府にとって重要な将軍の正月儀礼の一つであった年初の出行のことをかく称した。

「陰重」口が重く、決して秘密を漏さない、あまり感情を表に出さない性格を指す語と思われる。

「器局」才能と度量。器量。

「保護懇到」主人を守り養い世話すること、極めて丁寧で行き届いていることを指す。隅々まで心が行き届き、この上なく親切なこと、真心を尽くして十分に言い聞かせることを意味する「懇到切至(こんとうせっし)」という「言志録」を出典とする四字熟語もある(「懇到」も「切至」もともに「懇ろに行き届くこと」をいう)。

「歷説(れきせい)」読みは「れきぜい」が正しいか。遊説(ゆうぜい)と同義であろう。

「上野奉行」前の「藤九郞盛長」の注の最初の下線部を参照。

「攝」治める。前の「藤九郞盛長」の注の二番目の下線部を参照。

「丹後内侍」(たんごのないし 生没年未詳)。ウィキの「丹後内侍より引く。『源頼朝の乳母である比企尼の長女。鎌倉幕府の御家人、安達盛長の妻。子に安達景盛、安達時長、島津忠久、源範頼室、他』(後の注に「吾妻鏡」で『丹後内侍の子と確認されるのは景盛のみで、他は系図による』とある)。「吉見系図」によれば、『京の二条院に女房として仕えており、「無双の歌人」であったという。惟宗広言と密かに通じて島津忠久を生み、離縁したのち関東へ下って安達盛長に嫁いだとしている。盛長は頼朝の流人時代からの側近であり、妻の縁で頼朝に仕えたと見られる。二条院には源頼政の娘二条院讃岐が女房として出仕している』。「吾妻鏡」によれば養和二(一一八二)年三月九日に『頼朝の妻、北条政子が嫡男・頼家を懐妊した際、着帯の儀式で給仕を務め』たとある。二人のいた『妹(次女・三女)は頼家の乳母となっている』。文治二(一一八六)年六月十日には、頼朝は丹後内侍の病気見舞に供の者二名のみを伴って、『盛長の屋敷を密かに訪れて見舞っている。頼朝は彼女のために願掛けをし、数日後に丹後内侍が回復するといくらか安堵したという』。『このように頼朝に近しい女性であった事から、後年、子の景盛が頼朝の子であるとする風説が出たり(『保暦間記』)、のちの島津氏が、祖の島津忠久を彼女と頼朝の子であると主張するなど、彼女を母とした二つの頼朝落胤説が見られるが、『吾妻鏡』をはじめとする当時の史料に丹後内侍が頼朝の子を産んだとする記録はない』とある。

「游燕」宴会を催すこと。

「二世」源頼家。

「太夫人北條氏〔政子〕命して政事を參决せしむ」前の「藤九郞盛長」の注の二番目の下線部を参照。

「儉約自奉」倹約することを以って何と日々の生活の楽しみとしていたことをいうのであろう。

「餅𩝐蒸飯舊」意味不明。識者の御教授を乞う。赤飯のようなものか?

「朴葉」「ほおば」。モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ Magnolia obovata の葉。大型の葉(生及び乾して使用)は芳香を持ち、しかも殺菌作用があるため、食材を包んで朴葉寿司・朴葉餅としたり、朴葉味噌や朴葉焼きの敷き具としてお馴染みである。

「楮葉」「ちよば(ちょば)」或いは「こうぞば」と読んでいるかは不明。イラクサ目クワ科コウゾ属雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × B. papyrifera の葉か? コウゾはヒメコウゾ Broussonetia kazinoki とカジノキ Broussonetia papyrifera の雑種で和紙の原料としても知られるが、しかし、あの葉は食物を盛るには如何に小さい気がするのだが? 識者の御教授を乞う。

「驕奢」奢侈(しゃし) に耽ること。驕(おご)って贅沢なこと。

「漸なり」「漸」は「きざし」と訓じているか? ある状態となる「兆し」の意である。]

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(4) 四 節の生ずること

     四 節の生ずること

 

 胎兒の身體が縱に延びて大分長くなつたかと思ふと、直にその中央部に若干の節が現れる。始は僅に三つ、四つの節が微に見えるだけであるが、忽ち節の數も殖え境界も頗る明になる。

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[兎の胎兒

(左)第九日目   (右)第八日目]

[やぶちゃん注:本図と次の「十六日乃至十八日目に於ける子宮内の胎兒」の図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した(講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難い)。]

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[十六日乃至十八日目に於ける子宮内の胎兒]

 

 圖に示したのは兎の第八日目と第九日目との胎兒であるが、體の中軸に當る處に脊髓があつて、その左右兩側に幾つかの節が見える。第八日目のものではその數が四つ、第九日目のものでは八つだけあるが、後には更にその數が殖える。人間の胎兒でも全くこれと同樣で、第十六日乃至第十八日位の胎兒を見ると、頭部を除いた外は全身に明な節が見えて居る。全體脊椎動物の身體は前後に竝んだ節から成るもので、魚類などではそれが最も明に見える。煮肴の皮を剝ぐと、その下の筋肉が恰も板を重ねた如くなつて居るのは、即ちかやうな節である。人間や獸類では、腕や腿を動かす筋肉が大きいために、胴の筋肉の節が十分に現れぬが、それでも腹の前面の筋肉、背骨の後の筋肉、肋骨の間の筋肉などには明に節がある。胎兒の若い時にはまだ手も足もなく、身體は單に棒の如くであるから、どこにも節が極めて明瞭に見える。

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[十四日頃の胎兒]

[やぶちゃん注:本図は前と異なり、講談社学術文庫版のものである。]

 

 節が生ずると同時に、身體の内部に體腔と稱する廣い空處が出來る。獸でも鳥でも魚類でも、腹面から切り開くと一つの廣い空處があつて、その内に肝・胃・腸・腎などすべての臟腑が藏つてあるのを見るが、この空處が即ち體腔であつて、これを圍む壁を體壁と名づける。腹の壁は體壁の一部であるが、これを切り開くと腸が現はれ、腸の壁を切り開くと初めて腸の内容物が見える。かやうに體壁と腸壁との間には一つの廣い空處があるが、これが即ち體腔である。しかるに動物の中には體腔の有るものとないものとがある。例へば「ヒドラ」とか珊瑚とかいふ類は、體の構造が簡單で、恰も湯呑か壺の如き形をして居るから、體壁を切り開けば、直に腹の内にある食物が現れるが、かやうな類には體腔はない。體腔のある動物と、ない動物とを比較すると、有る動物の方がすべての點で進んで居るから、體腔の有無によつて動物を高等と下等との二組に分けることが出來るが、人間の胎兒が十四五日頃から體内に體腔の生ずるのは、即ち下等の無體腔類から高等の有體腔類へ上りゆく所と見做すことが出來る。初めて體腔の出來る具合は動物の種類によつて多少異なるが、少しく進めば皆同樣になつてしまふ。最もわかり易い一例を擧げていへば、「なめくぢうを」では腸の壁から左右對をなした若干の袋の如きものが生じ後にこれが腸から離れ、互に相連絡し且擴がつて體腔となるのである。即ち體腔は初め腸の枝の如きものであつたのが、後に腸と緣が切れて獨立の空處となつたわけに當る。

 

 さて動物の中で體が長くて澤山の節があり、且體腔を具へた種類は如何なるものがあるかといふと、まづ「みみず」・「ごかい」などである。「みみず」は體が圓筒狀で、前端と後端との區別があり、頭から尾まで悉く同樣の節から成り、これを切り開いて見ると筋肉質の體壁の内には廣い體腔があつて、體腔の内を長い腸が縱に貫いて居るが、これだけの點は、大體に於て人間の第十六日乃至第十八日目の胎兒にも「みみず」にも共通である。されば人間も胎内發生の途中には一度「みみず」・「ごかい」の類とよく似た構造を有する時代があるというて差し支はない。

[やぶちゃん注:またしても私の好きなヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」である。]

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(3) 三 體の延びること

     三 體の延びること

 

 單一の細胞が分裂してまづ細胞の塊となり、次いで二重の細胞層よりなる胃狀の時代に達するまでは、變化が比較的に簡單であるが、これより先は構造が段々複雜になつて、詳しく書けばそれだけでも頗る大部な書物となる程であるから、こゝには素よりその一斑をも充分に述べることは出來ぬ。しかしながら、その中には人生を考へる人々のためによい參考となるであらうと思はれる點が幾らもあるから、その二三を擇んで要點だけを次に略述する。

[やぶちゃん注:ここまでの桑実胚が更に細胞分裂を行なって細胞数を増加させ、見ための胚の表面が滑らかになり、細胞数が数千から数万になる胞胚期までを初学者でも良く理解出来るように、実に易しく説明しておられる。所謂、小難しくなる「原口陥入」などの語は用いずに、以下原腸胚から神経胚の時期を語られてゆく。]

Kaerusinkeihai

[蛙の發生]

[やぶちゃん注:本図のみ国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した(講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難い)。同じく言わずもがな乍ら、左から右の順である。]

 

 胃狀の時代に達するまでは、子供の身體は茶碗・湯呑・壺等と同じく、たゞ裏と表があるばかりで前後左右の差別はないが、この時代を過ぎると、身體が追々前後に延びて頭と尾との區別が現れる。この變化は、蛙の卵で最も容易に見ることが出來るから、まづその圖を掲げてこれに人間の子供を比較して見よう。蛙の卵が分裂して桑實期を過ぎ、胃狀の時代に達するまでは外形は常に球の如くで、前後もなければ左右もないが、この時代を過ぎると、球形の上面に細長い溝が生じ、溝の兩側は恰も土手の如くに高まるから、溝が一層明になる。この溝の出來る場處は後に身體の背となる側で、溝の兩端の向つて居る方角は身體の前端と後端とに當る。溝の兩側の土手は、溝の一端を圍んで相連絡し、特に大きな土手をなして居るが、これが後に頭となる部分である。これらの土手は後に腦・脊髓となるもの故、神經の土手と名づけ、その間の土手を神經の溝と名づける。發生が進むに隨ひ、神經の土手は高くなり、神經の溝は深くなり、終に閉ぢて管となれば、體内に隱れて表面からは見えなくなる。神經の土手が現れてからは、今まで球形の蛙の子の身體に前後の方角が明に知れるが、それよりは身體が追々前後の方向に延びて長くなり、球形は變じて卵形となり、卵形が變じて瓜形となり、その内には、頭は頭、尾は尾として形が判然するやうになり、いつとはなしに「おたまじやくし」の形に似て來るのである。

[やぶちゃん注:「神經の土手」現行では、両側の「土手」と溝が形成される中央部分をひっくるめて神経板(ばん)と呼称する。

「神經の溝」神経溝(こう)のこと。

『「おたまじやくし」の形』現行では、特にここまで発達した段階を「尾芽胚(びがはい)」と呼び、丘先生が述べられているように体軸の前後及び上下方向が形成されてくるのである。]

2wtaiji

[第二週の胎兒]

[やぶちゃん注:本図のみ国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した(講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難い)。]

 

 人間の子も桑實期や胃狀の時代には、「ヒドラ」や珊瑚などと同樣で、いまだ身體に前後の區別がないが、第二週の終わり頃には既に著しく前後に延びて、恰も草履の如き形となる。前にも述べた通り、人間では他の獸類・鳥類・「とかげ」などと同じく、早くから胎兒を包む膜嚢が出來るから、蛙に比べると發生の模樣が幾分か複雜になるを免れぬが、これらの點を除いて身體だけを互に比べて見ると、第二週の人間の胎兒は、稍々長くなりかかつた蛙の子に頗るよく似て居る。即ち圖に示した通り、體の背面の中央には一本の縱溝があるが、これが神經の溝である。またその下に小さな穴が見えるのは、神經腸孔と名づけるもので、後に一時腦脊髓内の空處と腸内の空處とを連絡する管である。この管は蛙にもあれば鳥にも獸にもある。高尚な思想を産み出す腦髓の内の空處と、大便の溜り場處である大腸とが、發生中たとひ一時なりとも管によつて直接に連絡して居ることは、初めて聞く人には定めし奇怪な感じを與へるであらう。

[やぶちゃん注:「神經腸孔」現代の生物学でもこう呼称するようだが、高校の生物学ではこの名称は習った記憶がない。

「高尚な思想を産み出す腦髓の内の空處と、大便の溜り場處である大腸とが、發生中たとひ一時なりとも管によつて直接に連絡して居ることは、初めて聞く人には定めし奇怪な感じを與へるであらう」前章の末尾でピリッと利かした言い回しがここでも実に効果的に語られる、まさに「生物学的人生観」(本作が講談社学術文庫化される際に改題された書名)、丘流生物哲学の快刀乱麻と言える箇所である。]

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(2) 二 胃狀の時期

   二 胃狀の時期

Namekujiuwonohassei

[「なめくぢうを」の發生]

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、左上から右上へ、上・中・下段の順である。]

Kaerunorannobunretu

[蛙の卵の分裂]

 

[やぶちゃん注:本図のみ国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した(講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難い)。同じく言わずもがな乍ら、左上から右上へ、上・下段の順である。]

Sangonohassei

[珊瑚の發生]

[やぶちゃん注:同じく言わずもがな乍ら、左上から右上へ、上から下段への順である。上から二・三・四段目の右端は対象時期の卵子の状態を敢えて縦に割って細胞配置を分かり易く図示したものであるので注意されたい。]

 

 さて桑の實の如き形になつた子供は、次には如何に變ずるかといふに、細胞の數が相應に殖えると、これがみな一層に竝んで恰もゴム球の如き中空の球となり、更に球の一方が凹み入り内部の空處がなくなつて、終に二重の細胞層から成る茶碗の如きものとなる。これだけのことは如何なる動物の發生中にも必ずあるが、卵細胞が多量の黃身を含んで大きいか、または黃身を含まずして小さいかによつて、明白に見えるものと然らざるものとがある。なぜというに、黃身を含まぬ小さな卵は分裂するに當つても、全部分れて完全に二つの細胞となることが出來るが、黃身を含んだ大きな卵であると、黃身が邪魔になつて完全に分裂することが出來ぬ。雞の卵などは細胞が幾つに分かれても、最初の間は黃身の表面の一部に扁く竝んでいて桑の實の如き形にはならぬ。しかし他の小さな卵の發生に比較して調べて見ると、雞の發生にも、やはり桑實期があつて、たゞ黃身のために妨げられて桑の實の如き形にならぬだけであることが明に知れる。球形になり茶碗の形になるときもこれと同樣で、雞の發生では、この時代の變化がなかなかわからぬが、黃身のない小さな卵で調べると極めて明瞭になる。脊椎動物のなかで最も下等なものに「なめくぢうを」といふ長さ三糎餘の頭のない奇態な魚があるが、その卵からの發生を見ると、以上の茶碗の形になるまでの變化が頗る明であるから、脊椎動物の發生の見本として圖を掲げておく。受精の濟んだ卵細胞が分裂して忽ちの間に無數の小さな細胞の塊となることだけならば、蛙の卵に就いても容易く觀察することが出來る。獸類の卵は、恰も「なめくぢうを」の卵の如く黃身を含まず小さいが、その發生は少しく異なつた所がある。しかし大體に於てはこれと同樣で桑實期の次には、やはり二重の細胞層からなる茶碗形の時代が來る。茶碗はまた深くなつて湯呑や壺の形になるが、この時代に達すると、外の層の細胞と内の層の細胞との間に段々相違が現れ、外層のは小さくて數が多く、内層のは大きくて數が稍々少なく、その働きにも分業が始まり、外細胞は主として感覺を司どり、内細胞は專ら消化を務めるやうになる。獨立自營する動物でこれと同樣の構造を有するものは「ヒドラ」・珊瑚・「いそぎんちやく」の類であるが、これらはいずれも身體は湯呑みの如き筒形で、内外二枚の細胞層よりなり、一端には口があり、他端は閉ぢて居る。發生の途中とは違ひ、自ら餌を捕へて食はねばならぬから、そのための道具として口の周圍に若干の觸手を具へて居るが、これを取り除いて考へると、他の動物の湯呑狀の時期のものと構造が全く一致する。即ち珊瑚類は「なめくぢうを」などの發生の道を、湯呑狀の時期まで共に進み來り、そこで成長が止まつたものと見做すことが出來る。いひ換へれば、我々の發生の初期には、一度「ヒドラ」・珊瑚などと同樣な構造を有する時代を經過するのである。そして珊瑚類の體内にある空處は食物を消化する處故、胃と呼ぶのが適當であるが、高等動物の發生中の湯呑狀の時期も、これに比べて胃狀の時代と名づける。即ち我々人間も發生の初には他の諸動物と同じく、一度全身が胃囊のみである時代があつて、神經や骨の出來るのはそれより遙に後である。或る文士の文句に「筆は一本なり、箸は二本なり。衆寡敵せずと知るべし。」と、あったように覺えて居るが、發生を調べて見ても、食ふ器官がまづ最初に出來て、思想の器官は餘程後に現れる。人生第一の問題は何としてもパンの問題である。

[やぶちゃん注:「なめくぢうを」第七章 本能と智力 一 神經系に既出であるが、私の好きな脊索動物なれば注を再掲しておく。ナメクジウオは原始的な脊索動物で、脊椎動物の最も原始的な祖先に近い動物であると考えられる生きた化石である。脊索動物門脊椎動物亜門頭索動物亜門ナメクジウオ綱ナメクジウオ目ナメクジウオ科のナメクジウオ Branchiostoma(生殖腺は体幹の左右両側にある)及びカタナメクジウオ属 Epigonichthys(生殖腺は体幹の右側のみ)に属する生物の総称。日本近海には、

 ナメクジウオ     Branchiostoma belcheri

 カタナメクジウオ   Epigonichthys maldivense

 オナガナメクジウオ  Epigonichthys lucayanum

 ゲイコツナメクジウオ Asymmetron inferum

の四種が生息しており、愛知県蒲郡市三河大島と広島県三原市有竜島がナメクジウオの生息地として天然記念物に指定されているが激減しており、絶滅が危惧されている希少種である。主に参照したウィキの「ナメクジウオ」によれば、体長は三~五センチメートル程で、『魚のような形態をしている。体色は半透明。背側と腹側の出水口より後方の縁はひれ状にやや隆起してひれ小室と呼ばれる構造が並び、それぞれ背ひれ、腹ひれと呼ばれる。後方のひれ小室を伴わない部分は尾ひれとして区別される。神経索の先端には色素斑や層板細胞、ヨーゼフ細胞と呼ばれる光受容器をもつほか、神経索全体にわたってヘッセの杯状眼と呼ばれる光受容器がある。閉鎖血管系』(リンク先の模式図の7)『をもつが、心臓はもたず、一部の血管が脈動することで血液を循環させている。体の前半部にある鰓裂』(リンク先の模式図の10)によって『水中の酸素を取り込んでいる。鰓裂は水中の食物を濾こしとる役割も果たしている』。『頭部から尾部にかけて、筋肉組織でできた棒状組織である「脊索」をもつ。多くの脊椎動物では、発生過程において脊椎が形成されると「脊索」は消失するが、ナメクジウオ(頭索動物)は生涯にわたって「脊索」をもち続ける。また脊椎動物と異なり、頭骨や脊椎骨はもたない。脊索の背側に神経索』(リンク先の模式図の3)を持っており、神経索の先端は脳室(リンク先の模式図1)『と呼ばれ、若干ふくらんでいるが、脳として分化しているとは見なされない。かつては食用とされた』。『全世界の暖かい浅海に生息している。体全体を左右にくねらせて素早く泳ぐことができるが、通常は海底の砂のなかに潜って生活している。ホヤなどと同様、水中の食物を濾過することで摂食している。体内に緑色蛍光タンパク質を持ち、特に頭部が明るく発光する。雌雄異体であり、精子と卵を体外に放出し、体外受精を行う』。古生代カンブリア紀のバージェス動物群(五億一五〇〇万年前)の一種として発見されたgenus Pikaiaピカイアはナメクジウオによく似ていることから、これが脊椎動物のもっとも古い先祖と言われたこともある。しかし、それよりやや前の澄江(チェンジャン)動物群(約五億二五〇〇万年前から約五億二〇〇〇万年前のカンブリア紀前期中盤に生息していた、化石の発見地である中国雲南省澂江県の名を冠した動物群)から発見された、最古の魚類のルーツとされるミロクンミンギア genusMyllokunmingia(中文名は昆明魚)の仲間ハイコウイクチス Haikouichthys『が当初は頭索類ではないかと言われたが、頭に当たる構造が確認されたことで脊椎動物と考えられるに至った。したがって、それらの系統の分岐はさらに遡ると考えられる』とある。丘先生は発生実験の実験動物として最適などとおっしゃられているが、今や、天然記念物指定地でも見つけ出すのが困難とされており、かつては多量に棲息していた瀬戸内海などでも絶滅した地域が多数ある模様である。私も実はかなり昔、どこかの水族館の期間限定特別展示で一度現物を見たきりである。

『我々の發生の初期には、一度「ヒドラ」・珊瑚などと同樣な構造を有する時代を經過するのである』まさにヘッケルの言う、「個体発生は系統発生を繰り返す」である。
 
『或る文士の文句に「筆は一本なり、箸は二本なり。衆寡敵せずと知るべし。」と、あったように覺えて居る』(この部分、実は底本では『衆寡敵せずと知るべし」。と、』となっている。誤植と断じて例外的に訂した)明治の作家齋藤緑雨(慶応三(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年)の明治三三(一九〇〇)年刊の警句集「青眼白頭」に出るもの(正直、彼の小説は面白くないが、アフォリズムは頭抜けてよい)で、正確には、

 按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡(しうくわ)敵せずと知るべし。

である。「衆寡(しゅうか)敵せず」とは、多数と少数では相手や勝負にならない、多勢に無勢、多数と少数では多数に敵(かな)わぬの意である。筆一本で誠実に対象や世界と戦おうというのは圧倒的少数者である「真の文学者」を指し、箸二本を持ってひたすらオマンマを食う/食うために生きねばならぬ存在なのは圧倒的多数である大衆をいう。逐語的には、

――文芸の真実を訴えんと筆を執る作家と「生」を維持せんと箸を取る大衆とではおよそ作家側には勝ち目はない――

という意味ではある。一見、プロレタリア文学的な誤認をしそうになるが、これは緑雨御得意の多層的な意味を込めた強烈な皮肉、毒舌と読まねばなるまい。ここには、

――真実の思想なんぞを追及してた日にゃ、オマンマ食い上げで生きていけねえ、何より「生」の欲求たる食い気こそが普通の人にとってはまず人生最大の必要条件であって、それに対しては文学は到底、勝ち目はねえんだ――

といったニュアンスがまず一層目にあろう。いや、丘先生の引用目的を理解するには、まず、この程度の解釈と、後はエンディングが新約聖書の「マタイによる福音書」の第四章にある人口に膾炙した「人はパンのみにて生くる者に非ず」(人間は物質的満足だけを目的として生きるものではない)を引っ掛けている皮肉であることを念頭においておくだけで充分ではあろう。しかし昔から、真の芸術家は食っていけない、とも言う一方で、食っていけてる自称「芸術家」どもも現実にワンサといるわけで、この警句を作家・文学者自身の言葉としてさらに凝視してみるならば、

――芸術上の真実を捉えんと志した多くの芸術家も、結局は後の中島敦の「山月記」の李徴の如く、生活のため妻子のためと称しては、己れの思想信条節操理念をも、恥ずかしげもなくかなぐり捨て、似非(えせ)「作家」と化して成功し、タラフく食っている輩がゴマンといるじゃないか――

――真(まこと)の文筆家たるものは必然的に貧乏であり飯は食えぬ者となる覚悟をせよ――

という意味にも見えてくるのである。即ち、面白可笑しい浅薄軽薄猥雑なる作品を「喰らう」ことを好む愚劣な「大衆」に迎合した作品を書き散らしては、もて囃されている作家連中への批判も、ここには鋭く込められているということが見えてくる、と私は思うのである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 裁許橋/飢渴畠/甘繩神明宮

    ●裁許橋

裁許橋は鎌倉十橋の一にして佐介谷より流れ出る小川に架せる橋なり。舊問注所の前なるに因り。此の名あり。或人云ふ。西行橋なり。むかし西行鎌倉に來り。此の橋頭に踟蹰す。故に名く。按するに東鑑に文治二年八月十五日。賴朝鶴岡參詣の時。鳥居の邊に徘徊する老僧あり。名字を問はしめ給へは。佐藤兵衞尉憲淸法師也とあり。此の橋この鳥居に近し。蓋(けだ)し據なきにあらず。

[やぶちゃん注:現在の御成小学校の南東角二十メートルほど南に架るごく小さな橋である。文治二(一一八六)年の西行の頼朝との邂逅と面談は私も好きなシークエンスで事実と考えられるが(私の電子テクスト「北條九代記卷第一 西行法師談話」の原文及び私の詳細な注を参照されたい)、これは音の類似性から生まれた偽説として私は問題にさえしない。「此の橋この鳥居に近し」とか言っているが、どこが近いんや! 全然、近こうないわい!! だいたいやね! 当時の頼朝の屋敷の位置(大倉幕府直近)から見ても鶴岡八幡宮参詣のために、こないな場所は、絶対、通らへんで!!]

 

    ●飢渴畠

飢渴畠(きかつばたけ)は裁許橋の南。長谷路に出(いづ)る路傍にあり。此所昔よりの刑塲にて。後世も罪人をさらし斬戮(ざんりく)せし地なり、故に耕作せさるより飢渴畠と名くといふ。今は三界萬靈(くわいばんれい)なとの碑石建てり。

[やぶちゃん注:「けかちばたけ」と読む。現在の六地蔵附近の古称。この西側当たりに鎌倉時代の刑場の跡があり、後も場所柄、耕作されずに荒れ地となっていたことから、かくも不吉なる名となったとも言われる。

「三界萬靈なとの碑石」「三界」は「さんがい」で、心を持つものの存在する無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界の三つ、仏以外の全世界を指し、そこのありとある総ての精霊(しょうりょう)たる「萬靈」(まんりやう(まんりょう))を供養する、という意味の石碑である。実質的には無縁墓地を整理した際や、造成作業などで複数出土した遺骨群を納めたものをかく名付けて合葬用に建てた場合が意想外に多い。ここは事実、刑場でったから、人骨の出土はかなり古くからあって、同時にそうした供養塔や地蔵像が連綿と建てられ続けたとも考えられよう。]

 

    ●甘繩神明宮

甘繩明神は。佐佐目谷(ささめがやつ)の西長樂寺谷御輿嶽の隣(となり)に在り。長谷路の北に見ゆる茂林(もりん)なり。天照大神を祀り奉る。里俗は之を甘繩明神宮と稱す。祠後の山を見越嶽(みこしがたけ)といふ。東鑑に。文治二年正月二日。二品〔賴朝〕並びに御臺所甘繩神明の宮(みや)に御參とあり。又甘繩神明奉幣の事往々に散見す。祠内に八幡太郞義家の像あり。神事は毎年九月十六日なり。按するに。甘繩はあまのたぐなはの義にて。卽ち海士繩(あまなは)ならむが。甘繩と書(しる)しては恐らくは義を爲さず。

[やぶちゃん注:和銅三(七一〇)年八月に行基の草創とされ、鎌倉最古の神社と言われる。伝説の鎌倉の長者染谷太郎時忠が山上に神明宮を、山麓に神輿山円徳寺を建立したという。後に源頼義が相模守となって下向した際、平直方(彼は染谷時忠の娘婿という)の娘を娶り、当社に祈願して八幡太郎義家をこの地で生んだとされる。康平六年(一〇六三)には当社を修復、永保元年(一〇八一)には八幡太郎義家公が当社を修復したという。「吾妻鏡」によれば源頼朝はここを伊勢別宮として崇敬した。「相模国風土記稿」の「神明宮」の項では『里俗は甘繩明神と唱ふ』『神躰は義家の守護神と云傳へ秘して開扉を許さず』などとあり、『別當甘繩院 神輿山と號す、臨済宗〔京都妙心寺末〕本尊地藏を安ず』とあるが、明治のおぞましい廃仏毀釈により、別当甘繩院は廃絶している。私はこの裏山が好きだった。なお、私は「縄」という新字体を見ると虫唾が走る人間である。従って、ここでは注の中でも総て「繩」を用いている。悪しからず。

「御輿嶽」「見越嶽」後出。

「甘繩はあまのたぐなはの義にて。卽ち海士繩(あまなは)ならむが」この「甘」を海士(あま/漁師)、「繩」を漁の際に用いる引き繩の意味とする説は確かにある。由比ヶ浜近くの材木座の一画や、この甘繩神明神社(これが現在の正式名)附近の長谷から坂下(さかのした)にかけては近代まで鎌倉の漁業の中心地であった。

「文治二年」一一八六年。]

村ぐらし   立原道造

  村ぐらし

 

郵便函(ばこ)は荒物(あらもの)店の軒にゐた

手紙をいれに 眞晝の日傘をさして

別莊のお孃さんが來ると 彼は無精者(ぶしやうもの)らしく口をひらき

お孃さんは急にかなしくなり ひつそりした街道を歸つて行く

 

   *

 

道は何度ものぼりくだり

その果ての落葉松(からまつ)の林には

靑く山脈が透(す)いてゐる

僕はひとりで歩いたか さうぢやない

あの山脈の向うの雲を 小さな雲を指さした

 

   *

 

虹を見てゐる娘たちよ

もう洗濯(せんたく)はすみました

眞白い雲はおとなしく

船よりもゆつくりと

村の水たまりにさよならをする

 

   *

 

あの人は日が暮れると黃いろな帶をしめ

村外(はづ)れの追分(おひわ)け道で 村は落葉松の林に消え

あの人はそのまゝ黃いろなゆふすげの花となり

夏はすぎ……

 

   *

 

泡雲幻夢童女(はううんげんむどうじよ)の墓

 

   *

 

晝だからよく見えた 街道が

ひどい埃(ほこり)をあげる自動車が

淺間にかゝる煙雲(けむりぐも)が

晝だから丘に坐つた 倒れやすい草の上

御寺(みてら)の鐘がきこえてゐた

とほかつた

 

   *

 

 せかせか林道をのぼつたら、蟲捕り道具を持つた老人に會つた。彼は遠眼鏡(えんがんきやう)をあてて麓(ふもと)の高原を眺めてゐた。もつとのぼると峽(かひ)があつた。木の葉が、雲の形を透(す)いてゐた。その下の流れで足を洗つた。すると氣分がよかつた。草原に似た麓の林に、光る屋根が見えてゐた。またおなじ林道をくだつた。もう誰にも會はなかつた。しばらくすると村で鳴く鷄(にはとり)を聞いた。はるかな思ひがわき、すぐに消え、ただせかせかと道をくだつた。長かつた。

 

   *

 

村中でたつたひとつの水車小屋は

その靑い葡萄棚(ぶだうだな)の下に鷄の家族をあそばせた

うたひながら ゆるやかに

或るときは山羊の啼き聲にも節(ふし)をあはせ

まはつてばかりゐる水車を

僕はたびたび見に行つた ないしよで

村の人たちは崩(くづ)れかかつたこの家を忘れ

旅人たちは誰も氣がつかないやうに

さうすりやこれは僕の水車小屋になるだらう

 

 

[やぶちゃん注:底本は昭和六一(一九八六)年(改版三十版)角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」。「泡雲幻夢童女(はううんげんむどうじよ)の墓」のルビの「じよ」はママ。中村氏の注に本篇は昭和九(一九三四)年『七月堀辰雄とともに追分に滞在した体験に基づく』とある。

 第五連の「泡雲幻夢童女の墓」について、中村氏の注には『追分、泉洞寺の墓地に或江戸時代の遊女の墓碑に刻まれた法名の一つに「泡雲禅定尼」というものが実在し、これはそれによる彼の創作であろう。同書には廓春草童女の法名もある』とある。曹洞宗浅間山泉洞寺は「せんとうじ」と読み、現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分一二五九にある。同寺の公式サイト内の境内散策の頁の「歯痛地蔵尊(作家 堀辰雄の愛した石佛)」に『堀辰雄を慕って追分を訪れた文人は数多いが特に詩人である立原道造がいる、彼も堀と同様、泉洞寺にお参りしこの石佛にも手を合わせていったのだろう。「村ぐらし」の一節に泉洞寺墓地の一角にある「泡雲幻夢童女」という戒名が詠まれている』とある。いつか散策してみたい気がする。

 第七連の散文詩の冒頭一字下げはママ。]

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(1) プロローグ / 一 卵の分裂

    第十四章 身體の始め

 

 自分の身體は初め如何にして出來て、如何なる狀態の時代を順次經過し來たつたかを知ることは、人生に就いて考へるに當つて最も必要である。これを知ると知らぬとでは、人生に關する觀念に非常な相違を生じ、場合によつては正反對の結論に達せぬとも限らず、またこれを知つて居ても暫く忘れて居ると、やはり異なつた觀念を抱くに至り易い。されば苟しくも人生を論ぜんとする者は、一通り生物個體の發生特に人間の身體の出來始めの模樣を知つて置く必要があらう。實はこの知識の缺けた者は人生を論ずる資格がないやうにも考えられる。本章と次の章とで述べる所は、人類及び普通の獸類の個體發生の歷史の中から、最も重要なと思われる點を幾つか拾ひ出して、その大體を摘んだものである。

 

 身體の發生に就いて特に忘れてはならぬのは、その始の極めて判然たることである。まだ顯微鏡を用ゐなかつた頃には、精蟲はいふに及ばず、小さな卵も知られずにあつたから、人間その他の獸類の子の出來るのは恰も無中に有を生ずる如き感があつて、その間に餘程神祕的の事情が存するやうに思はれたが、今日では母の卵巣から離れた一個の卵細胞と、父の睾丸から出て母の體内に入り來つた無數の精蟲の中の一疋とが、喇叭管内で出遇ひ相合して一の細胞となるときが、即ち子の生涯の始めであることが明になつた。精蟲が卵細胞内に潜り込み、核と核とが相合して、二つの細胞が全く一つの細胞となり終るまでは、まだ子なる個體は存在せぬが、これだけのことが濟めば、既に子なる個體がそこに居るから、個體の生命には判然たる出發點がある。地球上に初めて人間なるものが現れてから今日に至るまでに、生まれては死に、生まれては死にした人間の數は、實に何千億とも何兆とも算へられぬ程の多數であらうが、これが皆一人一人必ず父の精蟲と母の卵細胞との組合するときに新たに出來たのであつて、その前には決してなかつた人間である。そしてこれらの人間の精神的の作用も毎囘身體の發生に伴うて現れ、腦の大きさが一定の度に達すれば意識が生じ、腦が健全ならばさまざまの工夫を凝し、腦に腫物が出來れば精神が狂ひ、心臟麻痺によつて血液の循環が止まれば、腦に酸素が來なくなつて、意識は消滅してしまふ。これらは、肉體は死んでも魂はいつまでも殘ると信ずる人等の宜しく參考すべき事實であらう。

 

    一 卵の分裂

 

 人間も他の動物と同じく、個體の始めは單一な細胞である。受精の濟んだ卵細胞も、受精前の卵細胞も大きさは少しも違はず、外見は同じやうであるが、生存上の價値には非常な相違がある。人間の卵は受精前も受精後も直徑僅に一粍の五分の一に過ぎぬ球形の細胞でであるが、受精する機會を獲られなかつたものは、たゞ母體の組織から離れた一の細胞として、その運命は皮膚の表面や頰の内面から取れ去る細胞と同じく、結局捨てられて死ぬの外はない。これに反して、受精の濟んだ卵は始め暫くは單一の細胞であるが、これが基となつて種々複雜な變化・發育を遂げて、終に赤子となり成人となるのであるから、已にその種族を代表する一の個體と見做さねばならぬ。法律では何箇月以上の胎兒は人間と見做すが、それ未滿の胎兒は物品と見做すといふ規定があるとか聞いたが、これは素より便宜上の必要から止むを得ず造つた勝手の定めで、學問上からは何の根柢もない。理窟からいへば、受精の濟んだ卵の時代まで遡つても、やはり一個の人間に違ないから、我々は誰でも出來始めには、「アメーバ」や「ざうりむし」と同格の一細胞であつたといはねばならぬ。たゞ「アメーバ」や「ざうりむし」が獨立自營の生活をして居るに反し、親の體内に保護せられ親から滋養分の供給を受けて、寄生的の生活を營んで居たといふだけである。

[やぶちゃん注:「人間の卵は受精前も受精後も直徑僅に一粍の五分の一に過ぎぬ」ヒトの卵子の大きさは〇・一~〇・二ミリメートル。

「法律では何箇月以上の胎兒は人間と見做すが、それ未滿の胎兒は物品と見做すといふ規定があるとか聞いたが、これは素より便宜上の必要から止むを得ず造つた勝手の定めで、學問上からは何の根柢もない。理窟からいへば、受精の濟んだ卵の時代まで遡つても、やはり一個の人間に違ない」「根柢」は「根底」に同じ。物事や考え方の大本となるところ。根本。以下、ウィキの「人工妊娠中絶」から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母体保護法の第二条第二項には、人工妊娠中絶を行う時期の基準は、「胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期」と定められており、妊娠二十二週未満とされた。以前は昭和五十一年までは通常二十八週未満、昭和五十一年~平成二年は通常二十四週未満、昭和五十三年に「妊娠満二十三週以前」の表現へ修正、平成二年以降に未熟児の生存可能性に関する医療水準の向上を受け、通常二十二週未満と基準期間が短縮された。また、個々の事例での生存可能性については、母体保護法指定医師が医学的観点から客観的に判断を加味すべきことも、付記および保健医療局精神保健課長からの同日通知で示された。厚生労働省の統計によれば、二〇〇八年に日本で行われた人工妊娠中絶は二十四万二千二百九十二件で、十五~四十九歳女子人口に対する比率は〇・八八%、出生百に対する中絶数の比率は二十二・二件(全妊娠のおよそ五人に一人弱)である。過去に遡ると、一九五五年に約百十七万件(全妊娠のおよそ二・五人に一人)、一九六五年に約八十四万件(全妊娠のおよそ三人に一人)、一九八〇年に約六十万件(全妊娠のおよそ三・五人に一人)、一九九〇年に約四十六万件(全妊娠のおよそ三・五人に一人)、二〇〇〇年に約三十四万件(全妊娠のおよそ四・五人に一人)となっている。一方、科学学術誌 Nature は、一九九六年に日本での中絶件数を年間四十一万件と報告されているが実際はその三倍程度の件数と推測されると報告した。一般に中絶というと未婚若年者のイメージが強いが、妊娠者が中絶を実施する割合は十歳代と並んで四十歳代が高くなっている。一九七五年頃には、十歳代の妊娠でも出産の割合が過半数なのに対し、四十歳代では九割近くが中絶している。ただし絶対数では、妊娠者自体の多さから二十~三十歳代が大半を占める。また、日本では他国に比べて中絶者に占める既婚者の割合が高い特徴があり、主流な避妊方法の違いとも相まって産児調節の一端を担ってきたことが窺える。近年は毎年一万件近く件数は減り続けており、二〇一二年は約十八万件である』。]

Usaginorannnobunretu

[兎の卵の分裂]

 

 さてかやうな單細胞のものが基となつて、如何にして無數の細胞からなる身體が出來上るかといふに、これまた「アメーバ」や「ざうりむし」の繁殖と違はぬ分裂法による。こゝに掲げた圖は兎の受精後の卵が順々に分裂して、細胞の數の殖えて行く有樣を示したもので、初め一個の球形の細胞は二分して楕圓形のもの二個となりこれがまた各々二分して都合四個となり、更に分裂して八個十六個三十二個六十四個といふやうに速に數が增すと同時に、各細胞の大きさは減じて忽にして小さな細胞の一塊となる。この時代には子の身體は恰も鹿の子餅か桑の實の如くに見えるから、桑實期と名づける。これと同じ狀態で獨立自營の生活をして居るものを求めると、水中に棲息する原始蟲類の群體が丁度その通りで、数十もしくは數百の同樣な細胞が一塊となり、相離れぬやうに透明な膠質のもので繫がつて居る。即ち「アメーバ」や「ざうりむし」に似たものが相集まり、一群體をなして水中に浮かんで居るのであるから、構造からいふと桑實期の幼兒と少しも違はぬ。

Gensityuruiguntai

[原始蟲類の群體]

 

 人間の受精した卵が分裂して細胞の數の殖える有樣を直接に見た者はまだ一人もない。その理由は説明するにも及ばぬ程明白なことで、人間の卵と精蟲とが出遇ふことは毎夜各處で行はれて居るが、受精後直に女を殺してその輸卵管内を調べることは一回も行はれぬからである。しかし人間のその後の發生が犬・猫・兎。鼠などとと全く同樣であり、且これらの獸類の桑實期に達するまでの變化が悉く一致して居る所から考へると、人間でも兎でもこの頃の發生狀態が全く同じであることは疑ない。これは類推ではあるが決して間違のない推察で、恰も明朝も太陽は東から出るであらうといふ推察と同じく、大地を打つ槌は外れても、こればかりは外れぬといふ位に確なものである。即ち人間の個體の出來始めは、前に述べた通り單一の細胞であるが、次には細胞の數が殖えて原始蟲類の群體と同樣の時代を經過する。そしてこの時代にはまだすべての細胞が同樣であつて、その間に少しも相違が見えず、また分業の行はれる樣子もない。或る人の計算によると、成人の身體は三十餘兆の細胞から成るとのことであるから、赤子の身體には約二兆の細胞があると見做して宜しからうが、これが皆最初の單一な細胞の分裂した結果である。一つから二つ、二つから四つといふやうに毎回二倍づつに殖えるとして、何回分裂すればこの數に達するかと算へて見ると、おおよそ四十囘ですむ。されば赤子の身體は細胞の數のみに就いていふと、恰も「アメーバ」が四十回も引き續いて分裂生殖を行うただけの細胞が一塊をなして居るものに相當する。たゞ「アメーバ」の方は何萬何億に殖えても皆同じやうな細胞であるが、人間の方は發生が進むに從うて、細胞間に分業が行はれ、追々複雜な組織や器官が出來るので、驚くほど違つた結果を生ずるのである。

[やぶちゃん注:「或る人の計算によると、成人の身體は三十餘兆の細胞から成るとのことであるから、赤子の身體には約二兆の細胞があると見做して宜しからう」ネット記載を見ると、まことしやかに幼児と成人の総細胞数は変わらないとうそぶいている発言をしばしば眼にするが、素人が考えてもヒトの人体を構成する細胞自体の大きさそのものは乳児だろうが成人だろうが基本、変わらないはずである(でなければ細胞は正常に機能せず、生存を維持出来ないはずである)。私の支持出来るとある現行のネット記載によれば、体重六十キログラムの大人で細胞数は六十兆程度、体重三キログラムの少し大きめの赤ん坊で細胞数は三兆程度とある。丘先生のこの記載の時代(初版大正五(一九一六)年)を考慮すれば、この齟齬は別段おかしくはなかろう。しかも、丘先生が数えた訳でもないのである。]

ゆふすげびと   立原道造

 

    ゆふすげびと

 

かなしみではなかつた日のながれる雲の下に

僕はあなたの口にする言葉をおぼえた

それはひとつの花の名であつた

それは黃いろの淡いあはい花だつた 

 

僕はなんにも知つてはゐなかつた

なにかを知りたく うつとりしてゐた

そしてときどき思ふのだが 一體なにを

だれを待つてゐるのだらうかと

 

昨日の風に鳴つてゐた 林を透いた靑空に

かうばしい さびしい光のまんなかに

あの叢に咲いてゐた‥‥さうしてけふもその花は 

 

思ひなしだか 悔ゐのやうに—――

しかし僕は老いすぎた 若い身空で

あなたを悔いなく去らせたほどに! 

 

[やぶちゃん注:ツイッターで女性の詩人の方が指し示して下さった詩。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『文芸汎論』昭和一一(一九三六)年十一月号に前に発表されたものである。同脚注は、この詩について、室生犀星の「我が愛する詩人の伝記」の以下の記述を想起させる、とする(最後の句点は私が補った)。

   《引用開始》

「追分村の旧家に一人の娘がいて、立原はこの娘さんを愛するようになっていた。(略)私はその娘さんを一度も見たことはないが、一緒に散歩くらいはしていたものらしく、その途上にあった雑草とか野の小径や、林のに顔を出している浅間山なぞが、娘さんのからだのほとぼりを取り入れて、匂って来るような彼の詩がいたるところにあった。娘さんとの交際は一、二年くらいのみじかさで終り、東京の人と結婚したらしい、いわば失恋という一等美しい、捜せばどこにでもあってしかもどこにもないこの愛情風景が、温和(おとな)しい立原に物の見方を教えてくれただろうし、心につながる追分村が、ただの村ざとでなくなっていたのであろう。

   《引用終了》

また、続けて同注は、最終行「あなたを悔いなく去らせたほどに!」は、道造が、

   《引用開始》

友人柴岡亥佐雄に送った手紙(昭和十一年七月下旬)にあるように、伊東静雄の詩集『わがひとに与ふる哀歌』中の「行つてお前のその憂愁の深さのほどに」と軌を一にする詩句である。

「君のおそれるような物語はなんにもないんだ。(略)ざらざらと、それは毎日している。高原バスなどに似た人の面影見るときには。しかしやっと心が一つのイマージュに向けられ、しずかに燃えているんだ。『わが去らしめし人は去り』という伊東静雄の一句を考えてみたまえ。そんな風だ」

   《引用終了》

とある。以下、私の電子テクスト伊東靜雄わがひとに與ふる哀歌初版本準拠復元から「行つてお前のその憂愁の深さのほどに」を私の注ごと引いておく。

   *

 

  行つて お前のその憂愁の

  深さのほどに

 

大いなる鶴夜のみ空を翔(かけ)り

あるひはわが微睡(まどろ)む家の暗き屋根を

月光のなかに踏みとどろかすなり

わが去らしめしひとはさり……

四月のまつ靑き麥は

はや後悔の糧(かて)にと收穫(とりい)れられぬ

 

魔王死に絕えし森の邊(へ)

遙かなる合歡花(がふくわんくわ)を咲かす庭に

群るる童子らはうち囃して

わがひとのかなしき聲をまねぶ……

(行つて お前のその憂愁の深さのほどに

明るくかし處(こ)を彩れ)と 

 

[やぶちゃん注:「はや後悔の糧にと收穫れられぬ」はここで見開き改頁となり、「魔王死に絕えし森の邊へ」は次頁の第一行から印刷されているようにしか見えない。暫く全集版の表記に従い、行空きを行ったが、少なくとも当初、この「わがひとに與ふる哀歌」を読んだ者は、この詩を一連の詩として読んだことは間違いないことを銘記しておきたい。]

 

   *

 また、角川文庫中村真一郎編「立原道造詩集」のこの詩篇の編者注には、道造から『鮎・アンリエットと呼ばれている少女。道造の詩集に『ゆふすげびとの歌』(昭和四〇・一書痴往来社)があるが内容的には『萱草に寄す』の別稿であり』、しかも『同作品は入っていない』とある。

 以上から、この「ゆふすげびと」とは、既注の関鮎子その人であることは疑いない。

【2025年6月18日追記】正字不全を修正した。]

2015/09/25

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鎌倉政事堂の舊蹟

    ●鎌倉政事堂の舊蹟

今小路より飢渇畠に出る所。即ち天狗堂に在り總て陸田にて見るべき者なし今懷古の情に堪(たへ)されは聊か政所、問注所の事をいふべし。

政所別當一人。章疏を議し教令(けいれい)を出すを掌る令一人教命を掌る。號して執事と曰ふ。其の餘號して寄人曰ふ。寄は猶ほ會(くわい)のごとし。府中の庶務皆會决す。後又局(くよく)を分て恩澤奉行一人を置く。案主一人。土地人民貢賦(くぶ)の差。錢穀出納(せんこくすいとう)の政。總て之を領するを掌る。知家事一人。財穀奉給(ざいこくほうきう)の制。軍人諸客の賜與。及び府中奴碑の衣服祿食(ろくしよく)を給するを掌る。凡そ管内の賦租。物産豐約の宜。水陸道塗の利。地を相(さう)し便(べん)に從ふ。穀(こく)熟(じゆく)せされば則ち案主 知家事、巡檢以税を減(げん)す。凡そ政府土を割き邑を賜ふことあれは。之(これ)か教文(きやうもん)を爲る。案主知家事名を署す。其の下に家司(かし)數員(すうゐん)あり。局(きよく)を分て以て内外の務に給す。以上を常參官とす。其の他政府に隷(れい)する者。儒學博士一人司天官三人なり。元曆元年十月始て公文所を置き。大江廣元を別當と爲し。中原親能、藤原行政、足立遠元、大中臣秋家藤原邦通を寄人(きにん)と爲す。建久二年改て政所と稱す。令、案主、知家事を置く。其の後(の)ち變更(へんかう)あり。而して北條泰時時賴の教禁大に觀るベしと云ふ。

問注とは公事(くじ)を聽く所以なり。公事とは訴訟なり。凡そ民事は私決(しけつ)する能はす。以て公に訴ふ。故に公事といふ。公人問ふて其の辭を注す故に問注といふなり。執事一人。聽訴決獄を掌る。公事奉行三人局を分ちて民訴を聽く。

元曆元年十月始て之を置き。三善康信を以て執事と爲す。執事の任は常に政所に參す。凡そ訟を聽くは小事は自ら決し。大事は卽ち政府に入り。共に之を決す。初め奉行二員を置きしが。尋(つい)て增して三員と爲せり。其の下に祐筆數員あり。

問注所は。初め營中に設けしが。熊谷直實、久下直光と地を爭ひ相訴へし際(さい)。直實詰せられて恨怒に勝へす。西侍に入り自(みづか)ら髻(もとゞり)を截(き)りしより。之を罷め。二世の時に及て更に郭外に造る。卽ち此所なりと云。三世の初令を下し。凡そ公事狀(くじぜう)を獻するの後(の)ち。三日斷せざれは。吏(り)に罪あり。承久以來公事漸く滋し。乃ち其の吏員を增す。建長元年に及て。改(あらため)て引付(ひきつけ)三番と爲す。引付とは卽ち公事奉行なり。而して評定を以て之か頭人(たうにむ)と爲す。毎番十餘員(よゐん)。頭人の邸に就き。訟者を引て聽斷す。時賴執權に及び。頗る民理(みんり)に勤む。局務を廢して游燕する者は籍を除く。文永元年更に越訴奉行を置く。三年執權時宗建議し。引付を罷め頭人をして。皆問注所に入りて訴を聽かしむ。五年復た引付五番を置く。時賴貞時晚年民間(みんかん)の疾苦(しつく)を訪(と)ひ。摘發(てきはつ)甚た多し其の後ち執權其の人に非(あら)す。而して家令事を用ゐ。皆賄を以て成る。北條氏の政(せい)是(これ)に於て乎衰ふといふ。

[やぶちゃん注:突如、歴史学的な鎌倉幕府の組織解説となる。馬鹿にしていた記者であったが、それでも少しは骨があった。いい子だ!

「飢渇畠」「けかちばたけ」と読む。現在の六地蔵附近の古称。この西側当たりに鎌倉時代の刑場の跡があり、後も場所柄、耕作されずに荒れ地となっていたことから、かくも不吉なる名となったとも言われる。

「天狗堂」既出

「政所」ウィキの「政所」より引く。『鎌倉幕府の統治機構のひとつ。前身は公文所である。これは幕府を開いた源頼朝が上記のものと同じく従三位以上の公卿に許される政所開設の権利を獲得したことにより、自らの統治機構が律令制に基づく公的性格を帯びる意義を持ったことによる。鎌倉幕府においては、一般政務・財政を司った』。『公文所から政所と改称された時期については様々な見解があ』って、建久二(一一九一)年に『公文所が政所と改称されたとされる説』(本文はそれを採っている)と、元暦二・文治元(一一八五)年の改称とする二説がある(この年に源頼朝が三位以上(従二位)へ昇叙したことによって政所設置の資格を得たという根拠に基づく説)。『また、公文所と政所の連続性を否定して、大江広元が機能に重複する部分があった公文所と政所の別当を兼務した結果として公文所の機能が政所の機能に吸収されたとする説(「鎌倉市史」)もある』。

「問注所」訴訟事務全般を管轄する機関で元暦元(一一八四)年十月二十日に設置された。ウィキの「問注所」から鎌倉期のそれのみを主に引く。『「問注」とは、訴訟等の当事者双方から審問・対決させること、あるいはその内容を文書記録することを意味する。つまり「問注所」とは問注を行う場所を意味する。平安期には問注を行うための特定の場所は定められていなかったが、鎌倉幕府においては問注を行う場所として問注所を設置したのである』。『当時、日本は国内を二分する大規模内乱(治承・寿永の乱)の真っ直中にあったが、この内乱の中でも(又は内乱に乗じて)訴訟事案は多数発生しており、非公式に発足した関東軍事政権(後の鎌倉幕府)にとって、これらの訴訟を迅速・円滑に処理していくことが、確固たる政権として認められる条件の一つとなっていた『初代問注所執事(長官)には、三善康信が任命された。三善氏は三善清行の子孫に当たり、代々算道を家業としていた』。『康信は有能な役人として知られていたが、親類に源頼朝の乳母がいた縁もあって、初代執事として京から鎌倉へ招かれたのである。以降、問注所執事は鎌倉・室町期を通じて三善氏が世襲することとなる』。『なお、『武家名目抄』には「問注所は政所の別庁にて、ともに政事を沙汰する中にも、訴訟の裁判を本務とする所なり」(職名部(ハ)上)と記され、更に』「吾妻鏡」の建久二(一一九一)年正月十五日条に『書かれた職制においても、政所と侍所については行を改めて別当以下を記載しているのに対して、問注所については政所の項目の最後に「問注所執事」と』ただ一行で『記されていることから、初期の問注所は政所に属する』一機関であり、後に政所から分離して独立した機関となったとする説もある『当初、問注所は訴訟に対する裁判事務は行わず、武家棟梁である源頼朝へ訴訟事案を進達することを任務としていた。『吾妻鏡』には、頼朝邸内の東西にある小さな建物を問注所と号したとある。頼朝邸内に多数の訴人が集まり、怒号・喧噪が飛び交ったため、頼朝はそれにうんざりし問注所の移転を命じた。その結果』、建久一〇(一一九九)年四月一日に『問注所は別の場所へ移転されたが、その直前に頼朝は死亡していた。なお現在、移転後の地(現御成小学校前)には「問注所旧蹟碑」が立てられている』。『問注所は当初、訴訟・裁判事務全般を所管したが、訴訟事案の増加に伴い、次第に事案が滞り始め、事務処理の迅速化が求められるようにな』り、建長元(一二五〇)年十二月九日に『引付衆が新設された。引付衆は御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を扱い、問注所ではその他の民事訴訟(雑務沙汰)及び訴訟雑務(主に訴状の受理)を扱うという役割分担がなされた。ちなみに刑事事件の取扱い(検断沙汰)は侍所が所管した』。『以上の引付衆・問注所・侍所の所管地域は東国に限られており、西国については京の六波羅探題等が所管していた。すなわち問注所は東国の一般民事訴訟を取り扱っていたということになるが、そのうち鎌倉市中の一般民事訴訟については問注所ではなく政所が所管していた』とある。

「章疏」本来は「章」(仏典)の「疏」(注釈)を意味するが、ここは既に出された命令や定めた法文を解釈し、適応範囲を検討することであろう。

「教令」教え戒めて命ずること。法文に即して対応や処理を命ずること。

「政所別當」政所の長官。初代は大江広元であったが、後には執権又は連署が兼任するようになった(ウィキの「政所」に拠る。以下「寄人」まで同じ)。

「執事」政所執事は政所の上級職。政務に参与して主に会計を担当した。二階堂氏が世襲した。政所ではこの上に次官級の文書署判役たる「令(れい)」があったが、初代令も二階堂行政(後注)で、後には彼も広元とともに別当に格上げになっている。

「寄人」「よりうど(よりゅうど)」と読み、政所の雑用官。当初は「政所公人(くにん)」とも呼んだ。

「局」部局・部署。

「恩澤奉行」後に庶務の部局から分離されて奉行職として独立した、御家人の勲功を調査して恩賞の施行を掌った職であろう。勲功奉行。

「案主」「あんじゆ(あんじゅ)」と読む。政所の下級職で文案作成事務を担当した。

「貢賦」下位階層から差し上げる貢物と上から取り立てる税。寄付と租税。

「錢穀」現金と穀物。金品。

「知家事」「ちけじ」と読む。政所の下級職で案主とともに同じく文案作成事務を担当した。

「財穀奉給」御家人の俸禄給与。

「諸客」公家方や招聘した僧その他を指すのであろう。

「府中奴碑」幕府内の最下級の使用人。

「物産豐約の宜」農業商業の奨励政策の意か。

「以税を減す」「もつて税を」で、出来高を検分して必要ならば減税措置をとることであろう。

「邑」音「イフ(ユウ)」、訓「むら」。村である。

「爲る」「つくる」と訓じていよう。

「家司(かし)」通常は「けし」或いは「けいし」(これが本来の読み)と読む。政所・問注所・侍所の職員を指す。

「常參官」幕府の常任官。常に参府する官吏。

「隷する者」幕府に直接隷属する者。

「司天官」天文・暦術を担当した者。実際上は陰陽師なども行ったものと私は推測するが、陰陽師の数はもっと多かった。

「中原親能」(康治二(一一四三)年~承元二(一二〇九)年)は公卿。大江維光の子。大江広元の兄。後に外祖父明法博士中原広季の養子となった。斎院次官・式部大輔・掃部頭・美濃権守。幕府草創期に源頼朝に招かれて鎌倉に下向、側近として軍事・行政を補佐した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「藤原行政」二階堂氏の祖二階堂行政(生没年未詳)のこと。大倉幕府直近の二階堂に居を構え、地名を名字とした。早くから頼朝に近侍して公文所寄人から政所令を経て、別当へと昇り、正治元(一一九九)年には評定衆の原形とされる幕府内合議制度たる十三衆の一人ともなった。

「足立遠元」(あだちとおもと 生没年未詳)は武蔵足立郡の在地武士。源氏の家人で平治の乱では頼朝の父義朝に従い、治承四(一一八〇)年には頼朝の平家追討軍に属した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「大中臣秋家」

「藤原邦通」(生没年未詳)下級公家の出身で大和判官代と称した。有職(ゆうそく)・諸芸に通じ、安達盛長の推挙によって伊豆配流中の源頼朝の右筆となった。治承四(一一八〇)年の頼朝の最初の蜂起である山木兼隆襲撃の際には、館の地形を探って絵図を認めたとされる(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「教禁」泰時に始まる本格的な武家法制である御成敗式目などの武家の職務権限の明文化や禁制の法整備化を指していよう。

「三善康信」(みよしやすのぶ 保延六(一一四〇)年~承久三(一二二一)年)は母の姉が源頼朝の乳母であった縁故から、伊豆に配流された頼朝にしばしば使者を使って京都の情勢を知らせた。頼朝の求めに応じて元暦元(一一八四)年京都から鎌倉に下って初代問注所執事となり、法律と京都の政治に関する知識をもとに幕府トップ・クラスの実務官僚として重要な役割を果した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「祐筆」ここは狭義の武家の職名で文書・記録を掌った書記担当官。

「熊谷直實、久下直光と地を爭ひ相訴へし際。直實詰せられて恨怒に勝へす。西侍に入り自ら髻を截りし」この事件については、私の電子テクスト北條九代記 問注所を移し立てらるの本文及び注に詳しく記してある。

「二世」源頼家。

「三世」源実朝。

「承久以來」一二一九年から一二二一年までであるが、承久三(一二二一年)年の承久の乱前後を境に、と言った方が頗る腑に落ちる。

「引付三番と爲す」引付(ひきつけ)は第五代執権北条時頼が御家人の領地訴訟裁判の迅速・正確性を目的として設置した訴訟機関の名称で、引付頭人(評定衆から北条一門三名が選ばれて兼帯)を頭に、引付衆(四~五名)及び個々の訴訟を分掌審理する実務担当の引付奉行人(引付右筆とも。四~五名)で構成されていた。「引付」は数方(「方」は「番」の意)に分れており、「一方」(一番)を単位として訴訟事件を一ヶ月の内で日数を分けて各訴訟を審理した。当初の方(番)数(規定審理訴訟数)は三方(三番)までであったことをここでは言っているものと思われる(後に五番まで増えた)。創設当時の「引付」の審理対象は御家人訴訟でのみあったが、後には土地・年貢などの処務沙汰をも対象とするようになり、本来の厳格性も薄れた上、次第に北条氏の若年者によって占められるようになって、評定衆への出世コースともなって、実質的な訴訟審理的な役割は薄らいだと言われている。

「民理」「理民(りみん)」のことか。民を治めること。治民。

「游燕」宴会にうつつをぬかすことか。

「文永元年」一二六四年。

「越訴奉行」「ゑつそぶぎやう(おっそぶぎょう)」と読む。新たに置かれた再審・越訴(判決の過誤に対する事後の救済手続きの中で、敗訴した者が判決に誤りがある旨を書面で訴え出て再審理を求めることを指す)に関する審理を担当した訴訟機関である「越訴方(おっそかた)」のこと。この文永元年にこれまで第一次審理担当の引付衆が担当していた中でも越訴を主に取り扱う部署として誕生した。ウィキ越訴方にこれば、『長である越訴頭人と引付衆の中から』二~三名の越訴奉行から『構成(越訴頭人も広義の越訴奉行に含む説もある(『関東評定伝』など))されていたが、越訴頭人は初代の頭人が金沢実時・安達泰盛であったように引付衆の中でも執権・連署を除く上首(最上位)もしくはそれに次ぐ御家人が任じられる慣例があった。一方、越訴奉行は実際の審理発生ごとに執権・連署・頭人以外の引付衆より選定され、頭人の指揮下で審理実務を担当した』。『その後、北条氏得宗による訴訟権限の掌握によって、判決に対する異議申立機関である越訴方の存在は疎外され、永仁の徳政令を機に廃止された。翌年の徳政令廃止とともに二階堂行藤・摂津道厳を頭人に任命して復置された。だが』、正安二(一三〇〇)年には、第九代執権で得宗の北条貞時の御内人五名が『越訴を担当するように命じられるなど、越訴を含めた得宗の訴訟権限支配が』顕著になった。これが以下の、しかし「其の後ち執權」が「其の人に非」ざる者になるや、「家令事を用ゐ」るようになり、しかも「皆」、「賄」(まひなひ/まいない」賄賂)を「以て」着任するようになって腐敗し、遂には「北條氏の政」(まつりごと)は、これ「に於て」か、「衰ふ」こととなったとか、と続くのであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 名越切通

    ●名越切通

名越切通は三浦へ行(ゆく)道也、此峠鎌倉と三浦との境也、甚だ嶮峻(けんしゆん)にして道狹し、左右より覆ひたる岸二所あり、里俗大空峒、小空峒と云ふ、峠より東を久野谷村と云、三浦の内なり、西は名越鎌倉の内なり

[やぶちゃん注:例によって「新編鎌倉志卷之七」から私の注ごと引く。

   *

〇名越切通 名越切通(なごやのきりどをし)は、三浦へ行く道也。此の峠、鎌倉と三浦との境(さかひ)也。甚だ嶮峻にして道狹(みちせば)し。左右より覆ひたる岸(きし)二所(ふたところ)あり。卑俗大空峒(ををほうとう)・小空峒(こをほうとう)と云ふ。峠より東を久野谷村(くのやむら)と云ふ。三浦の内也。西は名越(なごや)、鎌倉の内なり。

[やぶちゃん注:「大空峒(ををほうとう)・小空峒(こをほうとう)」の部分には幾つかの謎がある。まずルビであるが影印では、「大」にはカタカナで「ヲ」のみ、「小」には同じく「コ」のみが振られ、「空」の右には「ヲホウ」が振られる。これは「大」が「ヲヲ(おお)」なのではなく、「空」が「ヲホウ(オホウ)」という読みであることを示す。ところが「空」には「ヲホウ(オオウ)」や「ホウ」という読みは存在しない。訛りとも考えられるが奇異である。「峒」は山中の蛮人で、その種族の住む山の中の洞穴の意である。名越の切通しは岩塊や切岸の著しく迫った狹隘路であるが隧道箇所はないが、暗く狹いことからかく称したものであろう。

「久野谷村」現在の逗子市久木の一部。

現在はネット上で見ると美事に史跡整備がなされて、一般的なハイキング・コースにさえ指定されているようであるが、今から三十数年前は詳細な鎌倉市街地図でも「名越の切通」のルートは途中で点線になって最後には消えており、ガイドブックでも踏査は難易度が高いと記されていた。二十一の時、私はとある梅雨の晴れ間に、ここの踏査を試みたことがある。意を決して古い資料にある古道痕跡の横須賀線小坪トンネル左外側を登るには登ったものの、その先には一切の踏み分け道もなく、鬱蒼とした八重葎――むんむんする草いきれの中、汗と蜘蛛の巣だらけになって小一時間山中を彷徨った。それでも時々見え隠れする地面に露出した明らかな人工の石組みに励まされた。「空峒」と思しいスリットのような鎌倉石の狭隘や掘割に出て、最後はまんだら堂に導かれ、今は取り壊された妙行寺の、拡声器で呼び込まれた(人が通ると何らかの仕掛けで分かるようになっており、住職自らがマイクで呼び込むのである)。そこで今は亡き老師小山白哲の奇体なるブッ飛んだ説法(地球儀を用いつつ、実に何億劫も前の宇宙の誕生から始まる非常に迂遠なもの)を延々と一人で聞かされた。たっぷり四十分はかかったが、頻りに質問などもしたせいか、老師には痛く気に入られ――「思うところがあったら、是非この寺へ来なさい、来る者は拒みませんぞ」――と言われたのを思い出す。そうして――「菖蒲が綺麗に咲いておる。見て行きなさい」――と言われた。……凄かった……グローブ大の、袱紗のような厚みを持った紫の大輪の菖蒲の花が、海原のように広がった紫陽花の海浮いていた……弟子らしき作業服の老人が菖蒲畑の手入れをしていたが、僕を見て――「和尚の話は退屈でしょう。よく耐えたねえ」――と声をかけられた。……そうして私は、初めて見る美事な多層のやぐら群や、住職が勝手に纏めてしまったり動かしたりした結果、史料価値が優位に下がったと噂される五輪塔群を一つ一つ眺めては、また一時間余りを過ごした。最後に寺の山門への坂の上で、和尚とさっきの御弟子が話しているのにぶつかった。聴こえてきたのは、先程の説法とは打って変わった……「テレビの撮影の予定は……」……「雑誌の取材の件じゃが……」……というひそひそ話であった。老師は、僕がまだいたのにちょっとびっくりして「まだおられたか。どうじゃった?」と聞かれ、僕が「やぐらとたいそう立派な菖蒲に感服致しました」と答えると、「そうかそうか」と微笑まれて私に合掌され会釈された――僕は生まれて初めて人に合掌と会釈を返し――山を降りた……それからすぐのことである……『鎌倉の隠れた花の寺』と称してまんだら堂の菖蒲や紫陽花が一躍ブレイク、老若男女の大集団があそこを日参するようになったのは……あそこで僕が見たのは……仙境と俗世の境の幻だったのかも知れない……今はもう……遠い遠い、懐かしい思い出である……

   *

以下、リンク先では、私がその時に戴いた小山白哲老師直筆のブットビの宇宙創造説の解説メモの画像と電子テクストを示してある(探すのが面倒な方はブログの「小山白哲老師 藪野直史伝授宇宙創造之仏説(肉筆)」にも掲載してある)。未見の方は、是非是非、どうぞご覧あれかし!

「久野谷村」現在の逗子市久木の一部。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 安養院/佐竹屋敷/安國寺/長勝寺/日蓮乞水

    ●安養院

安養院は名越(なこし)の入口海道の北にあり、祇園山と號す、淨土宗知恩院の末寺なり、此寺初め律宗にて開山願行上人なり、其十五世昌譽和尚と云(いふ)より淨土宗となる、昌譽より前住(ぜんぢう)の牌は皆律僧なり、初長谷の前稻瀨川の邊に在(あり)しを、相摸入道滅亡の後(のち)此(こゝ)に移すと云傳ふ、本堂に阿彌陀坐像、客殿にも阿彌陀の坐像を安す、共に安阿彌か作なり。

[やぶちゃん注:先の「田代觀音堂」の項も必ず参照のこと。

「願行上人」(建保三(一二一五)年~永仁三(一二九五)年)は真言僧、憲靜大和尚のこと。号を圓満、字を願行と称した。賜号は宗燈律師。顕密浄律の諸宗に兼通し、画僧としても知られた。

「相摸入道」北条高時。

「安阿彌」運慶と並ぶ名仏師快慶の法号。]

 

    ●佐竹屋敷

佐竹屋敷は名越道の北、妙本寺の東の山に五木骨扇の如なる山の疇あり、其下を佐竹秀義か舊宅なりと稱す。

[やぶちゃん注:「疇」「うね」と読み、本来は長々と田畑の間を延びる畦道(あぜみち)のことであるが、ここは尾根と谷の意である。

「佐竹秀義」(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年)。佐竹家第三代当主。頼朝挙兵時は平家方につくが、後に許されて家臣となり、文治五(一一八九)年の奥州合戦で勲功を挙げて御家人となった。建久元(一一九〇)年の頼朝上洛に随行、承久三(一二二一)年の承久の乱では老齢のために自身は参戦しなかったものの、部下や子息を参戦させて幕府に忠義を尽くした。彼はこの名越の館で七十五歳で天寿を全うしている(以上はウィキの「佐竹秀義」を参照した)。]

 

    ●安國寺

安國寺は妙法山と號す、名越村の東にあり、妙本寺の末寺也、門額、安國論窟(あんこくろんくつ)、大永元年巳歳(みとし)十月十三日幽賢書とあり、門に入右方に岩窟あり、日蓮房州小湊より來、此窟中に居(をり)て安國論を編となり、内に日蓮の石塔あり。

[やぶちゃん注:「大永元年巳歳」一五二一年。

「幽賢」不詳。

「編」「あむ」或いは「あめる」と訓じていよう。]

 

    ●長勝寺

長勝寺は石井山と號す、名越坂へ通る道の南の谷にあり、寺内に岩を切拔たる井あり、鎌倉十井の一なり、故に俗に石井の長勝寺と云ふ、法華宗なり、當寺は洛陽本國寺の舊跡なり、今は却(かへつ)て末寺となる。

[やぶちゃん注:「本國寺」は、現在、大光山本圀寺(ほんこくじ)として京都府京都市山科区にある。同寺の当時の京での寺地は日静(にちじょう 永仁六(一二九八)年~正平二十四・応安二(一三六九)年)が貞和元(一三四五)年に光明天皇より寺地を賜って移った六条堀川であった(何故このようなまどろっこしい言い方をするかというと、第二次大戦後に経営難等の諸般の事情から堀川の寺地を売却し、現在の山科に移転しているからである)。日蓮が松葉ヶ谷草庵に創建した法華堂が第二祖日朗に譲られ、元応二(一三二〇)年に更に堂塔を建立したが、それがこの「本國寺」の濫觴となり、その建立地が現在の石井山長勝寺のある場所であったということである。これに後の妙法寺と啓運寺の錯綜が加わると、何が何だか分からなくなる。寺名問題は宗門の方にお任せしてこれくらいにしておく。]

 

    ●日蓮乞水

日蓮乞水は名越切通の坂より、鎌倉の方一町半許(ばかり)前道の南にある小井を云なり。日蓮安房國より鎌倉に出給ふ時、此坂にて水を求められしに、此水俄(にわか)に涌出(わきいで)けると也、水斗升に過(すぎ)されども大旱(たいかん)にも涸(かれ)すと云ふ、甚だ冷水(れいすい)なり。

[やぶちゃん注:「一町半」約百六十四メートル弱。]

夏花の歌   立原道造

  夏花の歌

 

 

    その一

 

空と牧場のあひだから ひとつの雲が湧きおこり

小川の水面に かげをおとす

水の底には ひとつの魚が

身をくねらせて 日に光る

 

それはあの日の夏のこと!

いつの日にか もう返らない夢のひととき

默つた僕らは 足に藻草をからませて

ふたつの影を ずるさうにながれにまかせ搖らせてゐた

 

‥‥小川の水のせせらぎは

けふもあの日とかはらずに

風にさやさや ささやいてゐる

 

あの日のをとめのほほゑみは

なぜだか 僕は知らないけれど

しかし かたくつめたく 横顏ばかり

 

    その二

 

あの日たち 羊飼ひと娘のやうに

たのしくばつかり過ぎつつあつた

何のかはつた出來事もなしに

何のあたらしい悔いもなしに

 

あの日たち とけない謎のやうな

ほほゑみが かはらぬ愛を誓つてゐた

薊の花やゆふすげにいりまじり

稚い いい夢がゐた――いつのことか!

 

どうぞ もう一度 歸つておくれ

靑い雲のながれてゐた日

あの晝の星のちらついてゐた日‥‥

 

あの日たち あの日たち 歸つておくれ

僕は 大きくなつた 溢れるまでに

僕は かなしみ顫へてゐる

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の処女詩集「萱草に寄す」のSONATINE No.1」と「SONATINE No.2の間に挟まる『小間奏曲風』(角川文庫版「立原道造詩集」の編者中村真一郎の評釈)の二部から成る詩篇である。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻の脚注では、この詩篇は『叙情挿曲(インテルメツッオ)としてはさまれ、明るいクラブサンとフリュートを響かせている』とある。同書よれば、この二部はもともとは別々に発表されているとあり、

「その一」は昭和一一(一九三六)年七月号『四季』初出/詩題「ながれ」/「薊(あざみ)の花のすきだつたひとに」という添え書き

を持ち、

「その二」は、それよりも前の、同年二月号『コギト』が初出/詩題は本篇と同じ「夏花の歌」

であるとし、さらに、詩中にも出る通り、

   《引用開始》

「夏花」とは、薊の花や夕すげの花のことであろう。作者が「僕の村ぐらしの日々はその花の影響下にあるのを好んだ」(「風信子」)という花は、詩集名の「萱草」である。作者の自解によると、「萱草はゆうすげである。それは高原の叢で夏のころ淡く黄(きいろ)く咲く花だった。そしてそれは夕ぐれの薄明りを愛する花だった」という。

   《引用終了》

とあり、私が今更ながら立原道造の詩集「萱草に寄す」の「萱草(わすれぐさ)」とは何か?で驚いてぐちゃぐちゃお喋りしたところの、彼にとっての「わすれぐさ」が、確信犯としての単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ワスレグサ属ユウスゲ Hemerocallis citrina var. vespertina であったことが既に明記されているのであった。また、同書の「萱草に寄す」の脚注の同詩集解説冒頭部分には、同詩集は『彼の愛する軽井沢高原に咲く夕すげの花に似た黄橙色の表紙で』あるとも記されてある。先の私の子供染みた独り仰天の物謂いは、どうか、笑ってお許しあれ。なお、「風信子」は「ヒアシンス」と読むと思われる。彼が自身の詩集「萱草に寄す」について解説した雑誌『四季』に載せた文章の表題である(私は未読)。

立原道造の詩集「萱草に寄す」の「萱草(わすれぐさ)」とは何か?

以下の内容を「のちのおもひに」の注に追加した。但し、この驚きは私ばかりの思い込みでアカデミズムでは周知の事実であったらしい。道造自身の自解にはっきりとユウスゲであることが記されており、何より詩集の楽譜様の表紙の色を黄橙色の選定も、どうもユウスゲの花の色を意識したものであったようだ。これより「夏の花」の注で、その辺を語る予定である。



角川文庫版の「立原道造詩集」の中村真一郎氏の注によると、道造は「萱草(わすれぐさ)」を「夕萱(ゆうすげ)」(底本のママ)と混同視していたらしい、という驚くべき記載があることに気づいたので一言述べおく(但し、この中村氏の「夕萱」は「夕菅」の方が区別し易く、その方が一般的な漢字表記であるのでそれで統一する)。

 

 実はまず大事なことは「萱草(わすれぐさ)」自体がワスレナグサではないということである。

 

 真正の「ワスレナグサ」(通常は「勿忘草」と漢字表記する)は

双子葉植物綱シソ目ムラサキ科ワスレナグサ属 Myosotis

に属する、

シンワスレナグサ(ワスレナグサ)Myosotis scorpioides

ノハラワスレナグサ Myosotis alpestris

エゾムラサキ(ミヤマワスレナグサ・ムラサキグサ)Myosotis sylvatica

三種が園芸界では同じく「ワスレナグサ」として流通しているものが真実の「ワスレナグサ」なのである。参照したウィキワスレナグサによれば、その呼称は『中世ドイツの悲恋伝説に登場する主人公の言葉に因む』もので、『昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ、„Vergiss-mein-nicht!“(僕を忘れないで)という言葉を残して死んだ。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした』とする。『このような伝説から、この花の名前は当地ドイツで Vergissmeinnicht と呼ばれ、英名もその直訳の forget-me-not である。日本では』、明治三八(一九〇五)年(年)に『植物学者の川上滝弥によって初めて「勿忘草」「忘れな草」と訳された。それ以外の多くの言語でも、同様の意味の名前が付けられて』おり、『花言葉の「真実の愛」「私を忘れないで下さい」も、この伝説に由来する』とある。

 

 ところが、本邦で通常、「萱草(わすれぐさ)」というと

単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ワスレグサ Hemerocallis fulva

を指し(ユリ科とする記載もある)、しかもこれは実は、本邦の亜種で、

ヤブカンゾウ(藪萱草) Hemerocallis fulva var. kwanso

ノカンゾウ(野萱草) Hemerocallis fulva var. longituba

ハマカンゾウ(浜萱草)学名 : Hemerocallis fulva var. littorea

(他に九州以南にニシノハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. auranntiaca・アキノワスレグサ Hemerocallis fulva var. sempervirens が植生する)を指すのである。(ここはウィキワスレグサに拠る)。因みに本種の和名の由来はウィキによれば、『花が一日限りで終わると考えられたため、英語ではDaylily、独語でもTaglilieと呼ばれる。実際には翌日または翌々日に閉花するものも多い。中国では萱草と呼ばれ、「金針」、「忘憂草」などとも呼ばれる』とある。

 

 さて、問題は中村氏の言うところの道造が混同していたという、「夕菅(ゆうすげ)」であるが、これは実はそのワスレグサ属に属する、

ワスレグサ属ユウスゲ(夕菅)Hemerocallis citrina var. vespertina

を指すのである。岡山理科大学生物地球学部生物地球学科植物生態研究室(波田研)公式サイト内の「植物雑学事典」のユウスゲ」(ここではユリ科となっている)によれば、夏、高さ三十~百五十センチメートル程の『花茎を出し、夕方から黄色の花を咲かせる。花の長さは』七センチメートル前後で、夕方の四時過ぎ頃から『咲き始め、翌朝にしぼむ』とあり、ワスレグサ属同様に花の咲いている時間が短く、このやや淡い黄色い儚いユウスゲの花を道造が「萱草(わすれぐさ)」と混同していたとしても、如何にもしっくりくるのである。

 

 以下にグーグル画像検索で、

シンワスレナグサ(ワスレナグサ)Myosotis scorpioides

ヤブカンゾウHemerocallis fulva var. kwanso

ノカンゾウHemerocallis fulva var. longituba

ユウスゲHemerocallis citrina var. vespertina

の三種をリンクしておくので、比較されたい。なお、中村氏はヤブカンゾウ及びノカンゾウの『花を持っていると憂を忘れるということから「わすれぐさ」の異称がある』と記しておられる。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 再び京都にて(1)

M687

687

 

 京都では、数日間田原氏と共に、有名な陶工を訪問するのに全時間を費し、彼等から家族の現代及び過去、各種の印の刷り、その他に関する知識を豊富に得た。六兵衛は私と再会してよろこんだらしく、すぐさま私が前に訪問した時つくった湯吞を持って来た。彼はそれを焼き、釉をつけたのである。私はそれ等の底にMと記号し、内側に貝を描いたが、六兵衛は外側に漢字で「六兵衛助力」と書いた。私はその一個を彼に与えた所が、彼は丁重にもよろこんだらしい様子をした。私は彼から、陶器づくりに使用する道具をひとそろい手に入れた。図687は庭から見た六兵衛の製陶場である。

[やぶちゃん注:「M」言わずもがな乍ら、Morse のイニシャルである。]

 

 六兵衛のところから、我々は楽の陶工吉左衛門のところへ行った。彼の家は質素なものであった。この老陶工は、三百年来「楽」といわれる一種独特な陶界をつくりつつある家族の第十二世にあたる。彼は我々を招き入れ、我々は六兵衛のところから来たといって、我々自身を紹介した。彼は、私の質問すベてに対して親切に返事をし、各代の作品を代表する楽の茶碗の完全な一組を見せてくれた。私は記号の輪郭と摩写とを取った。次に彼は仕事場を見せた。仕事をするのは家族の直接関係にある人々のみで、外来者は一向関係せぬらしい。窯は非常に小さく、殊に有名な茶碗を焼く窯は、窯碗一つを入れる丈の大きさしか無い。それ等の茶碗は旋盤(ろくろ)上でつくらず、手で形をつけ、両辺を削る。彼は我々に粉茶とお菓子とを出したが、我々がそれを飲んでいる間に、可愛らしい子供が出て来て私に抱かった。

[やぶちゃん注:「楽の陶工吉左衛門」千家十職の第十一代樂吉左衞門(らくきちざえもん文化一四(一八一七)年~明治三五(一九〇二)年/慶入(けいにゅう:「~入」は隠居した時に附される入道号)と思われる。ウィキの「樂吉左衞門によれば、『丹波国南桑田郡千歳村(現京都府亀岡市千歳町)の酒造業・小川直八三男。十代婿養子』。弘化二(一八四五)年に『家督相続。明治維新後、茶道低迷期の中、旧大名家の華族に作品を納めるなど家業維持に貢献』したとある。当時は既に後に「弘入」と名乗ることになる彼の長男(安政四(一八五七)年~昭和七(一九三二)年)が家督を継いではいる(明治四(一八七一)年)が、明治一五(一八八二)年当時の彼は未だ二十五歳で、図の人物とは到底、思われない。

「抱かった」私はこのような動詞を使ったことはないが、「だかった」或いは「いだかった」と読むのであろうか。抱きついた、の意であろう。]

 

M688

688

 

 彼の部屋には手紙を懸物(かけもの)にした物があった。これは太閤時代の有名な将軍で、拳固で一と撲りしたら虎が死んだという噂のある加藤清正から来たもので、初代の楽に、茶碗をつくることを依頼した手紙である。家族は代々、それを大切に保存して来た。彼はまた初代の楽がつくった陶器を見せた。それは神話的の獅子で、これもこの一家の創立者の大切な家宝として伝って来た。信長が俄に破れ、彼の邸宅が全焼した時、第一世の楽がその廃墟からこの品を救い出したものらしい。私は恭々しくその話をしている老人と「信長の獅子」とを急いで写生した(図688)。

[やぶちゃん注:「第一世の楽」楽焼の創始者で樂吉左衛門家の初代とされる長次郎(?~天正一七(一五八九)年)。

「信長の獅子」「樂美術館」公式サイトの長次郎」のページ現物の画像が見られる。『二彩獅子像(重要文化財) 樂家旧蔵』とあり、『腹部に「天正二年春 依(寵)命 長次良造之」と彫銘がある。緑釉、透明釉の二彩釉が掛かり、樂焼のルーツを物語る。桃山陶彫刻の優品』という解説が載る。ハーンのスケッチは頭部の描写にやや難があるものの、急場でスケッチしたものとしては、獅子の尾部の独特の造形などはしっかり押さえてある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その7)/朝鮮使節団一行との邂逅

 各種の寺院は、非常に興味が深い。ある場所で我我は、奇妙な服装をした四人の娘が、三人の神官の歌う伴奏につれて、珍しい宗教的舞踊をやるのを見た。

[やぶちゃん注:神楽と巫女舞である。位置や社名が特定されていないのが残念である。]

 

 奈良では鹿が、森から出て来て町々を歩き廻る。私は手から餌を与えようとした。彼等は宮島の鹿程馴れていず、すくなくとも私は、彼等から十フィート以内のところ迄行くことが出来なかった。私にいくつかの握飯を売った老婆は大きにがっかりし、一生懸命に鹿達を私に近づかせようとしたが、駄目だった。日本人だと何の困難もなしに餌を手からやるが、鹿は外国人を即座に識別する。

[やぶちゃん注:これ、不思議! 奈良公園の鹿は西洋人を識別する?!

「十フィート」三メートル。]

 

 私は和歌山を出た時と同じ人力車夫二人を連れていたが、彼等は実によく走った。彼等ほ二十九マイルの距離を、途中二回短時間休んだばかりで、走り続けた。我々が休んだある場所で、建物によっかかつていた高い木造の衝立が風で吹き倒され、梶棒を握っていた車夫が、それが人力車の上に倒れて来ることを防ごうとして均衡を失った為に、人力車は後方にひっくりかえり、私は鞄と、陶器を入れた箱もろ共、投り出されて了った。こんな時決して怪我をしない私は、無事に起き上ったが、二人は笑止な位、お互いを叱り合った。だが私が、事実この出来ごとを、笑っているのに気がつくと、彼等は私が久しく聞かなかった位気持よく、そして満足気に哄笑し、その後数マイルにわたって、私は彼等が思い出しては笑うのを聞くだけで、微笑することが出来た程である。

[やぶちゃん注:「二十九マイル」四十六・六七キロメートル。

「数マイル」一マイルは一・六キロメートルであるから、十キロメートル程か。]

M684

684

M685

685

 

 私が神戸から来た汽船には、東京へ行く数名の朝鮮使節がのっていた。彼等は愉快な、温情に富む人人で、私はすぐ彼等と知合いになった。私はひそかに彼等を写生した。彼等のある者が日本語を話すので私は非常に多くの質問を発し、そして返答を了解することが出来た。彼等の中の二人が大きな眼鏡をかけていたが、私はその鏡玉(レンズ)を色硝子(ガラス)だろうと思っていた。彼等の許しを受けてそれを調べると、驚いたことに、それ等は鼈甲のわくに澄明な煙水晶をはめ込んだ物であった。私はまた彼等に射道に於て如何に矢を外すかを質ねたところが、それは日本の方法と同じで、腕当てを使用するのと、弓と弦とを回転させることを許さぬ点とだけが違っていることを知った。朝鮮の煙管(きせる)には日本の煙管よりも余程大きな雁首がついている。政府の役人は、両側と、背面は肩まで、さけ目のある上衣を着、すべての朝鮮人と同じく衣服の色は白い。図684は、上衣を脱いだ一人の朝鮮人を写生したものである。股引は非常にダブダブで、膝のところで別れている。その下で足を、綿を一杯につめた靴下の中に押し込む。あまり沢山綿が入っているので、靴下は靴の上辺からはみ出す。夏には、この綿入りの品はやり切れぬことだろう。胴衣(ジャケット)は短く、前方にポケットが二つついていて、淡黄色の南京木綿に似た布で出来ている。肌着は無い。腕には手首から肘にまで達する袖がある。これ等は白い馬毛を編んだもので、布の袖を皮膚から離す目的で使用される。頭の周囲には、その直径が最も長い場所に、こまかく織った黒い馬毛の帯を、それを取り去ると額に深い線が残る位、きつくまきつける。これを身につけぬ時には、非常に注意深くまく。それは長さ約二フィート、幅二インチ半で両端に紐と、頭に結ぶ時紐を通す小さな黒い環とがついている。官吏帽の一つの型は二つの部分から出来ている。その一つは馬毛でつくった、簡単な袋みたいなもので、その内側にはてっぺんから、鼈甲製の留針(ピン)がぶら下り、これを頭上の短い丁髷(ちょんまげ)にさし込んで、帽子が飛ばぬようにする。この上からこれも馬毛でつくった、箱のような代物を重ねてかぶるのだが、それは両方とも図685に示す如く、外に張開している。もう一つ別の朝鮮人の絵から判断すると、最も普通な帽子は高帽で、山は幾分上の方が細く、辺は非常に広く、僅かにそつたものである。これは竹の最もこまかい繊維で出来、驚く程巧に織ってある。この帽子は高価で、十五円も二十円もする。図689はそれをかぶった老人である。

M686

689

 

[やぶちゃん注:ここで詳述される朝鮮半島地域の民族衣装についてはウィキの「服」(同衣裳の韓国での呼称なので注意)などを参照されたい。私自身、不案内なので個々の注は省略させて戴く。

「澄明な煙水晶」原文“clear smoky-quartz crystals”。「煙水晶」は「けむりずいしょう」と読み、水晶の一種であるスモーキー・クォーツ(smoky quartz)のことでで、石英のグループに属する鉱物の変種。ウィキスモーキークォーツによれば、通常は『茶色や黒っぽい煙がかったような色』をしており、このような『色彩に発色する原因は、はっきりとは分かっていないものの、地中で天然の放射能を浴びたり、内部にアルミニウム・イオンが含まれるためであるとされている』。『落ち着いた色合いから良質のものは、宝飾品や念珠として加工されたり、置物や印鑑などの素材としても幅広く用いられている』。『天然の煙水晶は、結晶(クラスター)の状態では見つかるものの、宝飾品になるほどの高品質のものは決して安価ではない。天然石ビーズとして流通しているものの中には、いわゆるエンハンスメント(改良)と呼ばれる処理が施されているものが多数ある。安ければ安いほど、その傾向は強い。白水晶に人工的に放射線を浴びせて煙水晶にしたものもあれば、着色したものもある。その逆で、煙水晶を加熱処理して黄水晶(シトリン)として販売しているケースも度々見受けられる』。『かつては、トパーズの一種と誤認され、スモーキー・トパーズという名称で、高価な宝石材料とされていたこともある』とある。

「射道」ウィキ朝鮮半島の武術一覧の弓道によれば、朝鮮の古武術としてのそれは、『本来は弓術(グンスル)やファルソギ等と呼ばれていたが、日本の影響により「弓道(グンド)」という言葉も使われるようになった。現在韓国では国弓(クックン)、ファルソギ、弓術、弓道など多様な用語が使われている』とある。幾つかのネット記載を見ると、朝鮮に於ける弓術は古えより日本よりも遙かに優秀だったとされている。

「約二フィート」約六十一センチメートル。

「二インチ半」六・三五センチメートル。

「短い丁髷」原文は“top of the head”。個人サイト「釜山でお昼を」の「昔の生活と文化」の「昔の風景」にある髷と断髪によれば、『朝鮮時代の男子は結婚して髷(まげ)を結う事で一人前の男としてみなされ』、『結婚前は総角(チョンガー)と呼ばれる髪を後ろで束ねてい』たとある。『結婚式前の吉日に元服として髷を結う儀式が行われ』、その際には占い師が『示した方角に向いて座り、父親またはそれに準ずる人が頭のてっぺんを』三寸(約十センチメートル)ほど『円形に剃り、そこに髪を結い上げ』た。そして網巾(マンゴン)『とよばれる鉢巻で頭を締め上げて出来上がり、その上に冠(帽子)をかぶ』ったと記されてある。

「十五円も二十円もする」今までと同様、原文は“fifteen or twenty dollars”である。あるネット情報では五年後の明治二〇(一八九〇)年で一ドルは現在の二万円程度とあるから、これは現在の三十万円から四十万円相当となろうか。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その6)

M683

683

 

 海岸に沿うた数個所で、農家へ通じる小径の入口に、細い杖の上にさかさまにした大きなきのこをのせた、奇妙な物があるのを見受けた(図683)。きのこの柄は紙につつまれ、また下方の杖にも紙がまきつけてある。これは家族に死人のあることを示すのだと聞いた。私はこんな物は他所で見たことが無いから、これは大和特有なのであろう。何を意味するのかは判らなかった。

[やぶちゃん注:「大和」底本では直下に石川氏の意味不明を示す『〔?〕』が割注で入っているのであるが、私はこれはモースの判断が正しいか正しくないかは分からぬものの、こうした、死穢を広告して人を遠ざけ、伝播を防ぐ風習は大和(奈良)地方特有の習慣なのであろうと考えたとして何ら、不思議でないと言えるが、問題は冒頭で、「海岸に沿うた数個所で」(原文は“At several places along the coast”で、河岸は通常“the coast”とは言わず、確かにこれは「海岸・沿岸(地方)」である)と言っている点で、こうなるとこれは五条から奈良(大和)へ向かう「紀の川」の流域での嘱目ではなく、和歌山から五条に到るずっと前の、和歌山の和歌浦湾沿岸域での嘱目ということになり、そこは「大和」とは言えないという気はする(それが石川氏の『?』であったのかも知れない)。にしても、このようなものは見たことがない。識者の御教授を乞うものである。]

2015/09/24

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 正覺寺

    ●正覺寺

正覺寺は小坪村海道の北にあり、住吉山と號す、光明寺の末寺なり、山上に住吉明神の社(やしろ)あり、此邊都(すべ)て住吉と云ふ。

三浦道寸城跡  寺の西南の山にあり、切拔(きりぬき)の洞(ほらあな)二十餘間ありて寺へ拔通なり、前に道あり、此(これ)を三浦道寸か城の跡と云ふ鎌倉九代記北條五代記等に、三浦陸奥守義同入道道寸永正九年八月に、北條新九部長氏に、相州住吉城をも攻落(せめをと)さるゝとあるは、此地なり。

數珠掛松 切拔の側にあり、里民夏(なつ)百日の間、住吉に參詣して數珠(ずゞ)を掛(かけ)るなり、因(よつ)て名つく。

[やぶちゃん注:「住吉明神の社」正覚寺の裏山に現存する。

「切拔の洞」手掘りの隧道。「鎌倉攬勝考卷之九」の所載する唯一の「古城址」の「三浦陸奧守義同人道道寸城跡」の冒頭がそれをはっきりと述べている。

   *

小坪正覺寺の東南、住吉の社あるゆへ、住吉の城とも唱へし由。城山は、光明寺の山より地つゞけり。此所を三浦道寸が城跡といふ。住吉の社地より山中を切拔たる洞口を、大手口なりといふ。入口の洞穴を、例の土人が方言に、くらがりやぐらと稱す。

   *

この隧道は現在、私は未確認である。ところがこれに関わってこの隧道を探索している方がいる。「山さ行がねが・ヨッキれん」の平沼義之氏で、その「隧道レポート 小坪のゲジ穴」後編にそれはある。私は長くこの「くらがりやぐら」をこの平沼氏踏査の隧道だと固く信じて来た。実は三十数年前に私はこの隧道を通り抜けているのだ(現在はリンク先でご覧の通り、出口が封鎖され通行出来なくなっている)が、その際、リンク先の画像でも分かる通り、隧道自体が上り坂となっている以上に、途中で大きく隧道が左へ湾曲しているため、中は真暗なのである(因みに私は照明器具を持たずに手探りでこの天井にゲジゲジの群生する中を抜けたわけであった)。従って「くらがりやぐら」という呼称が実感として落ちて、そう思い込んでいた訳である。この隧道の海側の口は正に住吉明神のすぐ右手にあって「鎌倉攬勝考」の「住吉の社地より山中を切拔たる洞口」という表現にもぴったり一致する点も手伝った。ところが、平沼氏がこの探査の折りに出逢った六十歳ほどの地元男性の証言では、この隧道は戦後になってから地元の人たちが自宅と農地とを往復するための近道として掘ったものとあり、更にその最後で平沼氏はデジタル地図ソフトの地図を示され、この隧道より有意に南側の位置に、この隧道よりも凡そ倍弱の長さ(百メートル弱か)の隧道が示されているのである。これが幻の「くらがりやぐら」であることは間違いない。ネット上を検索すると「三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡」という書物に「掘拔の穴 東の方は表門、北の方は裏門、住吉城双方へ掘拔也。裏門を出れば姥ヶ谷小坪の後也。」とあって、前者が幻の「くらがりやぐら」で、後者は現在の住吉隧道のプロトタイプか、消滅した別隧道を言うか。――しかし、今や、「くらがりやぐら」どころか、この無名の「ゲジ穴」さえも消滅させられようとしている。かつて歩いた場所がなくなることを痛烈に意識するということは――それは『私の病い』に基づくものなのだろうか、それともこの『現実世界そのものの病い』の現象なのだろうか?……

「二十餘間」二十間(けん)は三十六・三六メトールであるから、三十七メートル強か。

「三浦道寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年?~永正十三年(一五一六)年)は東相模の初期の戦国小大名。「導寸」は道寸とも書き、彼の出家後の法名。通常はこちらで呼ばれることの方が多い。平安から綿々と続いてきた相模三浦氏血脈の最後の当主にして、北条早雲に拮抗する最大勢力であったが、北条に攻められ、三浦の新井城で三年の籠城の末、討死した。

「鎌倉九代記」「鎌倉公方九代記」「鎌倉公方九代記」の巻五の「六 三浦道寸討死 付 新井城歿落 幷 怨霊」のことであろう。私の『風俗畫報』の臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 大崩に引用しておいた。

「北條五代記」後北条氏の五代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた書で全十巻。「北条五代実記」「北条盛衰記」「小田原北条記」などとという別名を持つ。参照したウィキ北条五代によれば、『後北条氏の旧臣で小田原合戦の篭城戦を体験したという三浦茂正(法名は三浦浄心)の著書である『慶長見聞集』から、後北条氏に関わる記事を後に茂正の旧友と称する人物が抄録したもの。後北条氏の盛衰を項目を立てて記載しているが、史料として使用するには検討が必要である。成立は元和年間とされているが、現在の刊本は寛永期のものと万治期のものがある』とある。

「永正九年」一五一二年。

「北條新九部長氏」戦国大名の嚆矢たる北條早雲(永享四(一四三二)年又は康正二(一四五六)年~永正十六(一五一九)年)のこと。「長氏」は彼の諱とされ、他の諱に氏茂も伝えられたが、現在は盛時が定説である。早雲というのは早雲庵宗瑞(そうずい)という彼の号に基づく。

「數珠掛松」正覚寺の公式HPには『境内には、良忠上人あるいは頼朝が数珠を掛けたと云われる「数珠掛松」があ』ったとあり、現存しないと判断される。]

唄   立原道造

   唄

 

林檎の木に 赤い實の

熟れてゐるのを 私は見た

高い高い空に 鳶が飛び

雲がながれるのを 私は見た

太陽が 樹木のあひだをてらしてゐた

 

そして 林の中で 一日中

私は うたをうたつてゐた

⦅ああ 私は生きられる

私は生きられる‥‥‥‥

私は よい時をえらんだ⦆

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、同人雑誌『こをとろ』昭和一三(一九三八)年十一月号に前に発表されたものである。]

逝く晝の歌   立原道造

    逝く晝の歌

 

私はあの日に信じてゐた――粗い草の上に

身を投げすてて あてなく眼をそそぎながら

秋を空にしづかに迎へるのだと

秋はすすきの風に白く光つてと

 

さうならうとは 夢にも思はなかつた

私は今ここにかうして立つてゐるのだ

岬のはづれの岩の上に あらぶ海の歌に耳をひらいて

海は 波は 單調などぎつい光のくりかへしだ

 

どうして生きながらへてゐられるのだらうか

死ぬのがただ私にはやさしくおそろしいからにすぎない

美しい空 うつくしい海 だれがそれを見てゐたいものか!

 

捨てて來たあの日々と 愛してゐたものたちを

私は憎むことを學ばねばならぬ さうして

私は今こそ激しく生きねばならぬ

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一一(一九三六)年十月号に前に示した「甘たるく感傷的な歌」とともに発表されたものである。]

甘たるく感傷的な歌   立原道造

    甘たるく感傷的な歌

 

その日は 明るい野の花であつた

まつむし草 桔梗 ぎぼうしゆ をみなへしと

名を呼びながら摘んでゐた

私たちの大きな腕の輪に

 

また或るときは名を知らない花ばかりの

花束を私はおまへにつくつてあげた

それが何かのしるしのやうに

おまへはそれを胸に抱いた

 

その日はすぎた あの道はこの道と

この道はあの道と 告げる人も もう

おまへではなくなつた!

 

私の今の悲しみのやうに 叢には

一むらの花もつけない草の葉が

さびしく 曇つて そよいでゐる

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一一(一九三六)年十月号に次に示す「逝く晝の歌」とともに発表されたものである。

月の光に與へて   立原道造

   月の光に與へて

 

おまへが 明るく てらしすぎた

水のやうな空に 僕の深い淵が

誘はれたとしても ながめたこの眼に

罪は あるのだ

 

信じてゐたひとから かへされた

あの つめたい くらい 言葉なら

古い泉の せせらぎをきくやうに

僕が きいてゐよう

 

やがて夜は明け おまへは消えるだらう

――あした すべてを わすれるだらう

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『新生』昭和一三(一九三八)年九月号に発表されたものである。]

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十六年(3) 奈良飛火野/山城棚倉/他

 奈良飛火野

 

藤の森日曜画家に妻のこゑ

 

わが頭上無視して藤の房盗む

 

藤盗む樹上少女の細脛よ

 

女を飾る木よりぬすみし藤をもて

 

藤盗み足をぬらして森を出る

 

いなびかり髪膚をもつて堪へてをり

 

臆病なとかげが走り瑠璃走る

 

[やぶちゃん注:「飛火野」「とぶひの」と読む。狭義には奈良の春日山の麓の春日野の一部であるが、広義には春日野の別名でもある。地名は元明天皇の頃、ここに烽火(のろし)台が置かれたことに由来するという。]

 

 山城棚倉

 

土中より筍老いたる夫婦の財

 

筍の穴が地軸の暗を見す

 

筍と老婆その影むらさきに

 

凭りて刻長し藤咲く野の一樹

 

[やぶちゃん注:「山城棚倉」京都府木津川市山城町のJR棚倉駅付近か。地名そのものは万葉以来の歌枕である。底本年譜の昭和三六(一九六一)年の項に、『初夏、山城の棚倉から筍を売りに来るお婆さんと親しくなり、美代子同伴、筍掘りを見せてもらう』とある。私などは筍掘りは初春のイメージであるが、夏の季語で、実際、三月下旬から五月下旬が筍狩りの季節だそうである。]

 

   *

 

   奈良白毫寺村

 

田を植ゑてあがるや泳ぎ着きし如

 

妻の紅眼にする田植づかれのとき

 

[やぶちゃん注:「白毫寺村」(びゃくごうじむら)は奈良市街地の東南部の、現在の奈良県奈良市白毫寺町。名は域内にある真言律宗高円山白毫寺に由来する。]

 

   *

 

男女入れ依然暗黒木下闇

 

仔の鹿と出会がしらのともはにかみ

 

梅壺の底の暗さよ祖母・母・われ

 

一粒一粒漬梅かさね壺口まで

 

漬梅を封ぜし壺を撫でいとしむ

 

漬梅と女の言葉壺に封ず

 

金銀を封ぜし如き梅壺よ

 

梅干を封ぜし壺のなぜ肩よ

 

透ける簾に草炎の崖へだつ

 

   稔、庭にDDTを撒く。

 

こがね虫千殺したり瑠璃の千

 

七月の光が重し蝶の翅

 

十代の手足熱砂に身を埋め

 

海昃りはつと影消す砂日傘

 

けふの果紅の峰雲海に立つ

 

乳母車帰る峰雲ばら色に

 

華麗なるたいくつ時間ばらの園

 

爛熟のばら園時間滞る

 

らん熟のばら園天へ蠅脱す

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その5)

 和歌山への旅は興味深々たるものであった。八月三十一日、我々は和歌山を立って奈良へ向った。最も美しい谷間を、二日にわたって人力車で行くのであった。我々の日本の旅で、ここ程魅力に富んだいい景色の多い所は他に無かった。晩方、我々は大和の国の五条という町へ着いた。川に沿う路の途中で、私はその外見はコネティカット河の上流に於る段丘とまったく同じだが、原因はまるで異る、正式な段丘構成を見た。

[やぶちゃん注:「八月三十一日、我々は和歌山を立って奈良へ向った。最も美しい谷間を、二日にわたって人力車で行くのであった」この記述からモースの奈良着は明治一五(一八八二)年九月一日夕刻六時(後述されてある)であったと推定出来る。「最も美しい谷間」「川に沿う路の途中」の渓谷や川は「紀の川」を指す(地図上表記では「紀ノ川」であるが河川法では「紀の川」と表記する)。

 

「原因はまるで異る、正式な段丘構成」小学館「日本大百科全書」の「紀ノ川」には『上流吉野川は峡谷の様相を示すが、中流粉河(こかわ)までの北岸には洪積段丘が、下流には複合扇状地がみられ』るとある。この洪積段丘とは洪積世(更新世)に堆積して出来た平野が隆起して台地化し、それが段丘を成している地形をいう。ウィキの「河岸段丘」を見ると、『地殻変動や、侵食基準面の変動がその形成原因となる。侵食力を失った河川が隆起や海面低下などにより再び下刻を行うと、それまでの谷底平野内に狭い川谷が形成される。谷底平野は階段状の地形として取り残され、河岸段丘が形成される。これとは逆に、山地からの土砂供給により、形成される堆積段丘というものもある』。『侵食が進んで河川勾配が侵食基準面に近付き侵食力が弱まると、段丘崖の下に新たな谷底平野が形成される。その後隆起などにより再び侵食力が強くなると新たな段丘崖が形成され、河岸段丘が多段になる。主に河岸段丘は内側に近づくにつれ、新しくなる』と形成過程を記す。ここには隆起や海面低下などの地殻変動によって形成されるタイプと、山地からの土砂供給によって形成される堆積段丘の二タイプがあると読める。或いは、前者の大きな地殻変動によって生ずる河岸段丘の中に於いて全く異なった現象を濫觴とする河岸段丘のタイプ、の意で述べているのかも知れない。「紀の川」は中央構造線の谷間を流れているため、隆起や海面低下といった地殻変動の影響を盛んに受けて河岸段丘が形成されたものであるが、コネチカット川上流域の河岸段丘の形成自体がよく分からないので何とも言い難い。地質学の専門家の御教授を乞うものである。]

 
 

M680

図―680

 

 五条では、一軒の家が建てられつつあって、恰も部屋の天井が如何に支持されるかが見られた。人は杉板ののっている細いたるきが、よしんば如何に杉板が薄いにせよ、それ等を支える可く余りに弱いことに気がつく。これ等の板の上側には長い桟が打たれ、この桟と、上方の屋根のたるきとに釘でとめた木が入れられる。天井の上と屋根の下の空間、即ち我国にあっては屋根裏部屋を構成する場所は、日本の家ではまるで利用されず、鼠の運動場になっている。五条で私は、消防小屋の写生(図680)をした。これは四年前、蝦夷の室蘭で写生した同様の家に似ている。喞筒(ポンプ)は屋根の下にぶら下っていて、乾燥してひびが入っているので、火事に際して使用すると、木に水がしみ込む迄は吃驚する位、水が各方面へほとばしり出る。

[やぶちゃん注:図680の上部には「噴水砲」と書かれているの分かり、その右手にはちょっと自信がないが英語で“jet water gun”と書かれているか? 中央に置かれた龍土水にも文字が書かれているようだが、これは読めない。

「五条」現在の奈良県南西部の南和地域の中心都市である五條市(ごじょうし)。表記についてはウィキの「五條市を参照されたい。ここではこの「五条」はこの表記で問題はないとのみ言っておく。

「四年前、蝦夷の室蘭で写生した同様の家に似ている」第十三章 アイヌ 22 雨の室蘭にての図415を参照。]

M681

図―681

 

 大和の八木という町で見たいくつかの葺屋根(図681)は、葺材の縁が重って現れている点で、蝦夷のアイヌ小舎の草屋根に似ているが、継続的な縁辺はアイヌの屋根に於るが如く、著しくつき出してはいない。

[やぶちゃん注:図681に添えられた英語はお手上げ。どなたか、解読をお願いモース!
 
「大和の八木」奈良県橿原(かしはら)市内膳町(ないぜんちょう)内の地名。次段の神武天皇陵よりも北、奈良寄りである。

M682

図―682

 

 我々は、朝五条を立ち、一日中気持よく人力車を走らせた後、六時奈良に着いた。大和の国へ入ってから私は路傍のそこここに、千年以上も経た青色の、釉をかけぬ、旋盤(ろくろ)で廻した陶器の破片を見た。古物学者はこの陶器を朝鮮のものとしているが、地面に沢山ちらばっていることからして、私はこれを、その製法は最初に朝鮮の陶工によって輸入されたが、日本のものであると考えた。これは墓や洞窟に関係があり、死を追念させる。奈良の近くで我々は最初の皇帝即ち神武天皇の墓所を通過した。それは大きな、四角い、上の平な塚で僅かに隆起し、清楚な、丈夫な石垣に取りかこまれている。それを見るべく主要路から入って行くと、恐しく暑く、私は写生を試みるべく余りにつかれていた。私はやっとのことで、奥の聖所の門を閉ざす南京錠を急いで写生した。これは大きな重重しい英銀製の品で、皇帝の命令が無くては絶対にあけることが出来ない(図682)。

[やぶちゃん注:「神武天皇の墓所」現在の神武天皇陵と治定されてある奈良県橿原市大久保町の「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」。公式の形式は円丘で、考古学名では「四条ミサンザイ古墳」「山本ミサンザイ古墳」「神武田古墳」などと呼称する(以上はウィキ神武天皇に拠った)。古墳羨道入口まで行けちゃったというのが今から考えると凄いし、南京錠のスケッチを残したモースも凄い。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (三)


            七月二十三日 杵築にて

 私の杵築に於ける最初の日の記憶の中には、幽靈の如く全然冷靜な顏を有し、奇異で、優美な音を立てない步み方をする、巫女(みこ)の美しい白い姿が、いつも通過して行く。

 巫女といふ名は、神々の寵兒といふ意味だ。

 親切な宮司は、私の懇請によつて、巫女の寫眞を買求めて――寧ろ私のために取つて吳れた。緋の袴を穿いた上へ、足まで垂る〻雪白の齋服を着けて、神祕的な鈴を高くあげた舞姿である。

 して、博學の神官、佐々氏が神々の寵兒と、その神聖な踊の巫女神樂に關して、つぎのことを話してくれた。 

 

 伊勢の如き他の大きな神社の習慣に反して、杵築の巫女の職はいつも世襲的だ。昔は杵築では、三十有餘戶の娘が、巫女として大社に仕へた。今日は二戶あるだけで、少女の神女の數は六名を超過しない――私が寫眞を獲たのは、第一の巫女のものである。伊勢やその他の處では、神官の娘は誰でも巫女になれる。しかし婚期に達してからは、その資格で仕へる譯には行かぬ。で、杵築以外では、すべて大きな神社の巫女は、十歲乃至十二歲の女兒である。が、杵築大社では、少女の神女は、十六歲乃至十九歲の美しい娘であつて、人氣ある巫女は結婚後でさへ奉仕を許されることもある。神聖は學ぶことが左程困難ではない。將來神社に仕へる兒女には、母親又は姉が敎〻へる。巫女は家庭に住んでゐて、ただ祭祀の日にのみその任務のため參殿する。彼女は何等の嚴重な規律に從つたり、制限を受けてゐるのでない。何等特別の誓約をするのでもない。少女で居ることむ止めたからといつて、恐ろしい罰に處せらる〻心配もない。しかしその地位は高い名譽であるし、家族に取つては一つの財源にもなつてゐるから、彼女の職務に對する束縛力は、古代西洋の巫女の神に對する誓約と殆ど同樣に强いのである。

 希臘デルフアイの神巫の如く、昔時巫女はまた卜女でもあつた――彼女の奉仕する神が憑移つた場合には、未來の祕密を語る、生ける神託であつた。今日は何れの神社に於ても、巫女が女豫言者として務めることはない。しかしまだ一種の巫婆があつて、死人と交通を行ひ未來のことを告げ得ると稱し、また自から巫女と名乘り、祕密にその業を行つてゐる。法律で禁じてあるから。

 種々の大きな神社に於て、巫女神樂の踊り方に差異がある。最も古い杵築では、踊りが最も簡單で、また最も原始的だ。その目的は神々を樂しませるといふのだから、宗敎的保守主義が信仰の初期以來、變はることなく、その傳說と步み方を維持してゐる。この踊の起原は古事記に載つてゐる天の宇受賣命の踊に見出される。この女神の感興と歌によつて、天照大神はその隱れ玉ふた岩洞から誘ひ出されて、復た世界を照らしたのであつた。して、鈴――巫女が舞に用ひる、鈴の簇生せる靑銅製の器具――は、天の宇受賣命が愉快な歌を始める前に、葦で小鈴を結び付けた笹の枝の形を保存してゐる。

[やぶちゃん注:この時にハーンが見たものとは異なるが、出雲大社三大祭の一つである「献穀祭(けんこくさい)」での古式の巫女舞をHitoshi Naora 氏出雲大社本殿での巫女舞の動画で見ることが出来る。
 
「希臘デルフアイの神巫」古代ギリシャのポリスであるデルフォイ(
Delphoi:英語表記 Delphi:日本語の音写は「デルポイ」「デルファイ」「デルフィ」(最後のものは現代ギリシア語発音に基づく)に於いて神託をもたらした巫女シビュッラ(英語表記:Sibyl )のこと。詳しくはウィキの「デルポイ」(ポリス及び神託の記載有り)及び同「シビュッラ」を参照されたい。

「昔時巫女はまた卜女でもあつた――彼女の奉仕する神が憑移つた場合には、未來の祕密を語る、生ける神託であつた」注するまでもないとは思うが、ウィキの「巫女」から引いておく。『古神道での、神を鎮める様々な行為のなかで特に、祈祷師や神職などが依り代となって、神を自らの身体に神を宿す、「神降し」や「神懸り」(かみがかり)の儀式を「巫」(かんなぎ)といった。これを掌る女性が巫女の発生と考えられる。男性でその様な祭祀に仕える者は覡』(読みは同じく「ふ/かんなぎ」と読む)『と称される』。ハーンも述べるように「古事記」「日本書紀」に記される日本神話の『天岩戸の前で舞ったとされる天鈿女命(アメノウズメ)の故事』がこの原型と考えてよく、また、「魏志倭人伝」によると、『卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)記述があり、この鬼道や惑の正確な意味・内容は不明だが、古代に呪術的な儀式が女性の手で行われた事がうかがえる』。平安期に入ると、『神祇官に御巫(みかんなぎ)や天鈿女命の子孫とされた猨女君』(さるめのきみ)『の官職が置かれ、神楽を舞っていたと推定されている。平安時代末期の藤原明衡の著である』「新猿楽記」には巫女に必要な四つの要素として『「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している』。『中世以後、各地の有力な神社では巫女による神楽の奉納が恒例となった。さらに神楽も旧来の神降ろしに加えて、現世利益を祈願するものや、必ずしも巫女によらない獅子舞や、曲独楽等の曲芸に変貌したとされ、そのためか、現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例がみられる』。また、『歌舞伎の元である「かぶきおどり」を生み出したとされる出雲阿国(いずものおくに)は出雲大社の巫女であったという説』もあり、『古代の呪術的な動作が神事芸能として洗練され、一般芸能として民間に広く伝播していった経過がうかがわれる』。また、これは「渡り巫女」別称、「歩き巫女」の濫觴ともなった。彼女らは『祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとされ』、『旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではない』ことから、『後に寺社の「お抱え」となる集団もあり、男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨をともにしたといわれる。また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいた』。『近世社会においては郷村から近世村落への変遷において、神社の庇護者であった在地土豪の消失や社地の縮小による経済的衰退、神主による神事の掌握などを事情に神子は減少し』、『また、近世社会においては名跡を継ぐことが許されるのは男性のみであったため、神子の多くは神子家を継承させるため夫を迎えていた』とある。

「しかしまだ一種の巫婆があつて、死人と交通を行ひ未來のことを告げ得ると稱し、また自から巫女と名乘り、祕密にその業を行つてゐる。法律で禁じてあるから」前注で引いたウィキの「巫女」の「近代」の項には、『明治維新を迎え、神社・祭祀制度の復古的な抜本的見直しが』なされ、明治四(一八七一)年には『神祇省に御巫(みかんなぎ)が置かれ、宮内省の元刀自が御巫の職務に当た』り、二年後の明治六年には『教部省によって、神霊の憑依などによって託宣を得る、民間習俗の巫女の行為が全面的に禁止された』(「梓巫市子並憑祈禱孤下ケ等ノ所業禁止ノ件」。これは我流で「あずさみこ/いちこ/ならびに/つきものきとう/きつねさげ/などのしょぎょうきんしのけん」と読んでおく)。『これは巫女禁断令と通称される。このような禁止措置の背景として、復古的な神道観による神社制度の組織化によるものである一方、文明開化による旧来の習俗文化を否定する動きもうかがえる』。『禁止措置によって神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女はほぼ廃業となったが、神社、或いは教派神道に所属し』、『姿・形を変えて活動を続ける者もいた。また、神職の補助的な立場で巫女を雇用する神社が出始めた。後、春日大社の富田光美らが、神道における巫女の重要性を唱えると同時に、八乙女と呼ばれる巫女達の舞をより洗練させて芸術性を高め、巫女及び巫女舞の復興に尽くした。また、宮内省の楽師であった多忠朝は、日本神話に基づく、神社祭祀に於ける神楽舞の重要性を主張して認められ、浦安の舞を制作した』とある。私は、この明治政府の行った行為こそ――まさに忌まわしい永く培ってきた民俗社会の恐るべき破壊行為の蛮行――であったと考える人種である。

「その目的は神々を樂しませるといふのだから、宗敎的保守主義が信仰の初期以來、變はることなく、その傳說と步み方を維持してゐる。この踊の起原は古事記に載つてゐる天の宇受賣命の踊に見出される」私はこのハーンの謂いには大いに違和感を感じる。ハーンの「この踊の起原は古事記に載つてゐる天の宇受賣命の踊に見出される」は無論、正しい。しかしだ、「天の宇受賣命」(あめのうずめのみこと)のそれはバストは勿論のこと、エキサイトして裳裾をからげ上げて陰部をさえちらちらと見せるという、本邦初のストリップ・ショーであった。それを中心に八百万の神々(男神ばかりではなくあまたの女神もである。古代日本に於いては男女の性の認識意識には今のような懸隔はなく、当時の女性は男と等しく「好色」であり、性に対しては大した位相の違いはなかったと私は考えている)が円座を組んでそれを囲んでは、やんや! やんや! の喝采や溜め息を挙げた、その過激にして強烈なエロティクさに八百万の神総てがエクスタシーの歓声嬌声を挙げ「神々を樂しませ」たのである(そのように神々が演じたとも言えるが、そうした作為と結果は神話構造では全く問題にならない瑣末なことである)。だからこそ、全女神の頂点に立つ絶世の美女神たる天照大神は私より「スゴイ! って、何よ?! どんな女よッツ!」と大いに嫉妬して覗き見したのである(その後の自らが鏡に映った顔を錯覚するという神々の企みも美事である)。であってみれば、近代以降の巫女の舞いや神楽が、「信仰の初期以來、變はることなく、その傳説と歩み方を維持してゐる」などとは私は全く思わない。敢えて言うなら、性意識を神経症的に隠蔽し、男女の道徳性を社会的権力的に束縛し変質させて操作しようとする「宗教的保守主義」によって、本来の神楽や巫女舞の本質的属性――自由奔放で極めて健全な性の謳歌――が完膚なきまでに殺菌されてしまい、陳腐に権威化されて、市井の民の笑いを遙か彼方へ遠ざけてしまったと私は断言するのである。大方の御叱正を俟つものではある。が、私は、そう簡単には退かないと断ってもおく。] 

 

Sec.4

   KITZUKI, July 23rd   

   Always, through the memory of my first day at Kitzuki, there will pass the beautiful white apparition of the Miko, with her perfect passionless face, and strange, gracious, soundless tread, as of a ghost.

   Her name signifies 'the Pet,' or 'The Darling of the Gods,'-Mi-ko.

   The kind Guji, at my earnest request, procured meor rather, had taken for mea photograph of the Miko, in the attitude of her dance, upholding the mystic suzu, and wearing, over her crimson hakama, the snowy priestess-robe descending to her feet.

   And the learned priest Sasa told me these things concerning the Pet of the Gods, and the Miko-kagurawhich is the name of her sacred dance. 

 

   Contrary to the custom at the other great Shinto temples of Japan, such as Ise, the office of miko at Kitzuki has always been hereditary. Formerly there were in
Kitzuki more than thirty families whose daughters served the Oho-yashiro as miko: to-day there are but two, and the number of virgin priestesses does not exceed six
the one whose portrait I obtained being the chief. At Ise and elsewhere the daughter of any Shinto priest may become a miko; but she cannot serve in that capacity after becoming nubile; so that, except in Kitzuki, the miko of all the greater temples are children from ten to twelve years of age. But at the Kitzuki Oho-yashiro the maiden-priestesses are beautiful girls of between sixteen and nineteen years of age; and sometimes a favourite miko is allowed to continue to serve the gods even after having been married. The sacred dance is not difficult to learn: the mother or sister teaches it to the child destined to serve in the temple. The miko lives at home, and visits the temple only upon festival days to perform her duties. She is not placed under any severe discipline or restrictions; she takes no special vows; she risks no dreadful penalties for ceasing to remain a virgin. But her position being one of high honour, and a source of revenue to her family, the ties which bind her to duty are scarcely less cogent than those vows taken by the priestesses of the antique Occident.

   Like the priestesses of Delphi, the miko was in ancient times also a divineressa living oracle, uttering the secrets of the future when possessed by the god whom she served. At no temple does the miko now act as sibyl, oracular priestess, or divineress. But there still exists a class of divining-women, who claim to hold communication with the dead, and to foretell the future, and who call themselves mikopractising their profession secretly; for it has been prohibited by law.

   In the various great Shinto shrines of the Empire the Mikokagura is differently danced. In Kitzuki, most ancient of all, the dance is the most simple and the 
most primitive. Its purpose being to give pleasure to the gods, religious conservatism has preserved its traditions and steps unchanged since the period of the beginning of the faith. The origin of this dance is to be found in the Kojiki legend of the dance of Ame-nouzume-no-mikoto
she by whose mirth and song the Sun-goddess was lured from the cavern into which she had retired, and brought back to illuminate the world. And the suzuthe strange bronze instrument with its cluster of bells which the miko uses in her dancestill preserves the form of that bamboo-spray to which Ame-no-uzume-no-mikoto fastened small bells with grass, ere beginning her mirthful song.

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 小坪村

    ●小坪村

小坪〔坪或作壷〕村は飯島の東の漁村なり、此浦を鷺(さぎ)が浦とも云となむ片濱(かたはま)にて多景の地なり、東鑑に、壽永元年六月、賴朝の愛妾龜前を小中太光家が小窪の宅に招置(めしおき)、此所御濱出(おはまで)の便宜の地りとあり。按するに小窪は小坪なり、後に光家が小坪の宅と出たり。又建久四年七月十日、海濱涼風に屬(ぞく)す、將軍家小坪の邊に出給(いでたま)ふとあり、又正治二年九月二日、將軍賴家小坪の海邊を歷覽し給ふ、海上に船を粧、盃酒を獻ず、而るに朝夷名三郞義秀水練の聞(きこえ)あり、此次てに其藝を顯すべきよし御命あらければ、義秀潮船より下(を)り海上に浮(うか)み、往還數十度、結句波の底に入暫不ㇾ見諸人恠(あやし)みをなす所に、生たる鮫三喉を提(さ)けて御船の前に浮み上、滿座感せすと云事なしとあり、其外代々の將軍遊覽の地なり、又盛衰記に三浦義盛、畠山重忠と此(この)小坪坂にて、相戰ふ事みへたり。

[やぶちゃん注:「坪或作壷」は『「坪」、或いは「壷」に作る。』と読む。

「壽永元年」一一八二年。

「建久四年」一一九三年。

「正治二年九月二日、將軍賴家小坪の海邊を歷覽し給ふ、海上に船を粧、盃酒を獻ず、而るに朝夷名三郞義秀水練の聞あり、此次てに其藝を顯すべきよし御命あらければ、義秀潮船より下り海上に浮み、往還數十度、結句波の底に入暫不ㇾ見諸人恠(あやし)みをなす所に、生たる鮫三喉を提けて御船の前に浮み上、滿座感せすと云事なしとあり」これは私の電子テクスト「鎌倉攬勝考の「小坪」を見るに若くはなし! この場面の後、怪力無双の義秀に兄和田常盛が相撲を挑むのだが……「和田新左衞門尉常盛ト舎弟義秀ト角觝」「和田義盛ハ弟義秀に賜ひし龍蹄に打跨り飛が如クに馳歸る」という挿絵も楽しい。是非、ご覧あれ!

「三浦義盛、畠山重忠と此小坪坂にて、相戰ふ事みへたり」これは所謂、「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるもので、三浦義盛は和田義盛のことである。治承四(一一八〇)年八月十七日の頼朝の挙兵を受け、同月二十二日、三浦一族は頼朝方につくことを決し、頼朝と合流するために三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠三浦を出立、そこにこの和田義盛及び弟の小次郎義茂も参加した。ところが丸子川(現・酒匂川)で大雨の増水で渡渉に手間取っているうち、二十三日夜の石橋山合戦で大庭景親が頼朝軍を撃破してしまう。頼朝敗走の知らせを受けた三浦軍は引き返したが(以下はウィキの「石橋山の戦い」の「由比ヶ浜の戦い」の項から引用する)、その途中この小坪の辺りでこの時は未だ平家方についていた『畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来た事情を知らない義盛の弟の和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た』ものの、この場はとりあえず『停戦がなり、双方が兵を退いた』とある。但し、この後の二十六日には平家に組した畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの大軍勢が三浦氏を攻め、衣笠城に籠って応戦するも万事休し、一族は八十九歳の族長三浦義明の命で海上へと逃れ、義明は独り城に残って討死にしたのであった。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 和賀江島

    ●和賀江島

和賀江島は飯島崎ともいへり、飯島の西の出崎(でさき)にて屢(しばしば)汐(うしほ)に崩壞し、海際纔(わづ)か亂礁(らんしやう)を存せり、東鑑に貞永元年七月十二日、勸進上人阿彌陀佛申請(しんせい)に就て、舟船著岸の煩ひ無(なか)らしめんが爲に、和賀江島を築(きづく)へきの由、同八月九日其(その)功(かう)を終(おはる)とあり。

[やぶちゃん注:例によって「新編鎌倉志卷之七」から引く。

   *

〇和賀江島 和賀江島(わかえのしま)は、飯島(いひじま)の西の出崎を云なり。【東鑑】に、貞永元年七月十二日、勸進の上人往阿彌陀佛(わうあみだぶつ)申し請(こ)ふに就いて、舟船著岸の煩ひ無からしめんが爲(ため)に、和賀江島を築くべきの由、同八月九日、其の功を終(を)ふるとあり。今は里人飯島崎(いひじまがさき)と云ふ。元(もと)飯島と同所なり。

[やぶちゃん注:現存する日本最古の築港跡で、海上への丸石積み(これらの石材は相模川・酒匂川・伊豆海岸などから運搬されたと考えられている)によって作られた人工港湾施設である。以下、ウィキの「和賀江島」の「歴史」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『鎌倉幕府の開府以降、相模湾の交通量は増加していたが、付近の前浜では水深の浅い事から艀が必要であり、事故も少なくなかった。このため、一二三二年(貞永元年)に勧進聖の往阿弥陀仏が、相模湾東岸の飯島岬の先に港湾施設を築く許可を鎌倉幕府に願い出た。執権の北条泰時はこれを強く後援して泰時の家臣である尾藤景綱、平盛綱、諏訪兵衛尉らが協力している。海路運ばれてきた相模国西部や伊豆国の石を用いて工事は順調に進み、一二三二年八月一四日(旧七月十五日)に着工して一二三二年九月二日(旧八月九日)には竣工した。なお、発起人の往阿弥陀仏は筑前国葦屋津の新宮浜でも築島を行なっていた土木技術の専門家である。一二五四年五月二十四日(建長六年四月二十九日)には問注所と政所それぞれの執事宛に唐船は四艘以下にするよう通達があり、南宋などから船が来港していた可能性がある』。『鎌倉時代の半ば以降に忍性が極楽寺の長老となってからは、和賀江島の敷地の所有および維持・管理の権利と、その関所を出入りする商船から升米とよばれる関米を徴収する権利が極楽寺に与えられていた。一三〇七年七月二十六日(徳治二年六月十八日)には関米を巡る問題で訴訟を起こした記録があり、管理の一端がうかがえる』。『江戸時代には和賀江島は「石蔵」や「舟入石蔵」と呼ばれ、付近の材木座村や小坪村(現・逗子市)の漁船などの係留場として使われていた。一七五〇年(寛延三年)頃、小坪村が島の西南方に新たな出入口を切開き、被害を受けた坂之下村や材木座村との間で一七六四年(明和元年)に相論が起きた。翌年、出入口の幅を九尺とし、三月から九月まで七ヵ月間は口を塞ぎ、残りの十月から二月までの五ヵ月に使用するという条件で和解したという』。『また鶴岡八幡宮の修復工事の際には材木や石を運ぶ船が停泊しており、少なくとも一六九六年(元禄九年)から翌年と一七八一年(天明元年)には八幡宮とともに島の修復工事も実施された。一八二六年(文政九年)の八幡宮修理に際しては、満潮時には』一メートル以上『海中に隠れるようになってしまっているとして材木座村が島の修復を願い出ている』。私の父は戦前、よくここで小さなイイダコを採ったという。私は三十数年前、干潮時のここを訪れ、浜から二百メートル程の先端まで歩いたことがあったが、そこで見つけたのは丸石にへばりついたイイダコならぬコンドームだった。]

   *

「勸進上人阿彌陀佛」不詳であるが、鈴木かほる氏の「三浦半島の史跡みち 逗子・葉山・横須賀・三浦」(二〇〇七年かまくら春秋社刊)を読むに、この和賀江島を領していた三浦一族が実質的な築港推進者であったとあるから、この勧進僧も三浦氏と非常に深い関係があった人物と考えられ、出身自体が三浦氏であった可能性をも考慮すべきではないかと私は考える。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 六角井

    ●六角井

飯島の南に六角井と云(いふ)名水あり、鎌倉十井の一ツなり、石にて疊(たゝ)めり、里俗云、昔鎭西八郎源爲朝伊豆大島より、我(わが)弓(きう)勢(せい)昔にかはらすやとて、天照山(てんせうざん)をさして遠矢(とほや)を射る、其矢十八里を越(こえ)て此井中に落たり、里民矢を取上れば、鏃は井中に留(とま)る、今も井を掃除すれば、其鏃見るを云ふ、或時取上て明神に納ければ井水かはけり、又井中へ入れば、本の如く水涌出(わきいづ)るとなり、鏃の長四五寸有(あり)と云ふ

[やぶちゃん注:この井戸の形は六角形ではなく八角形であるが、六角が鎌倉持分で二角が小坪分であることから、かく言うと伝えられる。以前は井戸替えの際には為朝所縁の鏃(やじり)の入った竹筒を使用したが、本文とはやや異なるが、ある時これを怠ったがために悪疫が流行ったことから、それ以来今も鏃は竹筒に封じ込めて井戸の中に奉納してあると現在に伝承されている。その他にもありがちな弘法が掘った井であるとか、井戸側面にある龍頭まで水が減ると必ず雨が降るとか、妙本寺の蛇形の井とは地中で繋がっているとか、伝承の多い十井の一つではある。今は何だかものものしい櫓に覆われているようだが、私が二十の折りに見た時には、未だ世間の市井の井戸として機能していたのに、ちょっと淋しい。いやいや、それよりなにより、大島から「十八里」(約六八・四キロメートル)とは直線距離を美事に計測していることに「舌を卷く」ぞ! 本土に最も近い大島最南端の乳が崎から単純直線距離で測っても五八・三キロメートル、三原山の頂上からだと六五キロメートル、とんでもなく正確なんである。珍説(「ちんせつ」 いやさ! 「ちんぜい」)どころか真説、「鎭西(ちんぜい)」為朝も涙流して、アッ! 喜ぶ西(ぜい)! 因みに、私は鎭西為朝の大ファンなんである。

「四五寸」十二~十五センチメートル。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 飯島

    ●飯島

飯島は光明寺より南方、海中に突出して風景絶美なり、東鑑に壽永元年十一月十日、賴朝寵愛妾龜前、伏見冠者廣綱(ふしみくわんじやひろつな)か飯島の家に住す。しかるに此事隱密の所に、北條殿の室家牧御方、賴朝御臺所へ申されしかば憤り給ひて、牧三郎宗親が家を破却せしめらるとあり。

[やぶちゃん注:現在の鎌倉市と逗子市の堺、材木座海岸東南隅の岬を言う。この海に張り出した港和賀江ノ島ある浜は鎌倉時代には西浜とも呼称しており、関所が存在した。これは後の室町期まで続き、またこの徴税管理監督権を極楽寺が握っていた。日蓮が「聖愚問答抄」で忍性を批判する中に現れる『飯嶋の津にて六浦の關米を取る』というのがそれである。

「壽永元年」一一八二年。頼朝・政子の鎌倉入城(治承四年十月初旬)から二年後のこの年の八月十二日(一一八二年九月十一日)には頼家が誕生したばかりであった。

「賴朝寵愛妾龜前、伏見冠者廣綱か飯島の家に住す。しかるに此事隱密の所に、北條殿の室家牧御方、賴朝御臺所へ申されしかば憤り給ひて、牧三郎宗親が家を破却せしめらるとあり」この新興鎌倉幕府あわや転覆という女好きの頼朝の不倫スキャンダルの「事故の顛末」は、以前に「新編鎌倉志卷之七」の「飯島〔附六角井〕」で、「吾妻鏡」の関連記事を日を追って順に見つつ書いた渾身の注があるので、再掲しておく。

   *
《「もう、やってられないワ!」――頼朝不倫発覚! マタニティ・ブルーの政子大ギレ!――十一月十日附》

〇原文

十日丁丑。此間。御寵女〔龜前。〕住于伏見冠者廣綱飯嶋家也。而此事露顯。御臺所殊令憤給。是北條殿室家牧方密々令申之給故也。仍今日。仰牧三郎宗親。破却廣綱之宅。頗及耻辱。廣綱奉相伴彼人。希有而遁出。到于大多和五郎義久鐙摺宅云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十日丁丑。此の間、御寵女〔龜の前。〕伏見の冠者廣綱が飯嶋の家に住むなり。而るに此の事露顯して、御臺所殊に憤らしめ給ふ。是れ、北條殿室家の牧の御方、密々に之を申さしめ給ふの故なり。仍りて今日、牧の三郎宗親に仰せて、廣綱の宅(いへ)を破却し、頗る耻辱に及ぶ。廣綱、彼の人を相ひ伴ひ奉り、希有にして遁れ出で、大多和五郎義久の鐙摺(あぶずり)の宅に到ると云々。

〇やぶちゃん注

「龜の前」は頼朝の伊豆蛭ヶ小島での流人暮らしの頃からの女房の一人。頼朝はこの年の六月一日、後の頼家を妊娠中の政子には内密に(「吾妻鏡」に「外聞の憚りあるによつて」とある)亀の前を小窪(こくぼ:現在の小坪(こつぼ)で、飯島ヶ崎の逗子市側に当たる)の中原小忠太光家(頼朝側近の文官で後に政所知家事となる)の宅に呼び寄せていたが、通うのに不便なため、飯島(現在の逗子市小坪五丁目で飯島ヶ崎の鎌倉側)の「伏見冠者廣綱」(頼朝右筆)邸に移したのである(この頃の三浦方面へのルートは海路が主で、小坪への間道は不便であった)。「北條殿室牧の御方」時政の後妻、政子の継母。「牧の三郎宗親」姓でお分かりの通り、牧の方の父で時政の舅(一説には牧の方の兄とも)。出自は下級の貴族という。後の事蹟は不明であるが、彼の子の時親は元久二(一二〇五)年の牧氏事件(時政と牧の方が実朝を廃して娘婿平賀朝雅の新将軍擁立を企てたもので、政子と義時によって朝雅は誅殺、時政は執権を廃されて牧の方と共に出家させられた上、伊豆に幽閉)の際に出家しているから、一族、運には恵まれなかったというべきであろう。「大多和五郎義久」の「五郎」は誤りで「三郎」三浦義明三男。義澄の弟。現在の横須賀市大田和とここ鐙摺に城砦を持っていた。「鐙摺」現在の葉山町鐙摺。

 

《「やってやろうじゃネエか!」――頼朝逆ギレ! 宗親の髻がキられて宙に飛んだ!――十一月十二日附》

〇原文

十二日己卯。武衞寄事於御遊興。渡御義久鐙摺家。召出牧三郎宗親被具御共。於彼所召廣綱。被尋仰一昨日勝事。廣綱具令言上其次第。仍被召決宗親之處。陳謝卷舌。垂面於泥沙。武衞御欝念之餘。手自令切宗親之髻給。此間被仰含云。於奉重御臺所事者。尤神妙。但雖順彼御命。如此事者。内々盍告申哉。忽以與耻辱之條。所存企甚以奇恠云々。宗親泣逃亡。武衞今夜止宿給。

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日己卯。武衞、事を御遊興に寄せ、義久の鐙摺の家へ渡御す。牧の三郎宗親を召し出し、御共に具せらる。彼の所に於て廣綱を召し、一昨日の勝事(しようし)を尋ね仰せらる。廣綱、具に其の次第を言上せしむ。仍りて宗親召し決せらるるの處、陳謝舌を卷き、面を泥沙に垂る。武衞御欝念の餘り、手づから宗親の髻(もとどり)を切らしめ給ふ。此の間、仰せ含め含められて云く、「御臺所を重く奉る事に於ては、尤も神妙なり。但し、彼の御命に順ふと雖も、此の如き事は、内々に盍ぞ告げ申さざるや。忽ち以て耻辱を與ふるの條、所存の企(くはだて)て甚だ以て奇恠なり。」と云々。宗親泣きて逃亡す。武衞、今夜止宿し給ふ。

〇やぶちゃん注

「事を御遊興に寄せ」義久の手の者が宗親による破却と鐙摺避難についての一報を内々に頼朝に知らせたものであろう。遊覧にこと寄せて破砕実行者宗親を有無を言わさず引き連れて真相を確かめんとしている。「勝事」珍事。とんでもない怪事件。通常は「快挙」の意であるが逆の忌み言葉として用いた。「舌を卷き」通常は現在と同じく感嘆・賛辞を示すが、激しい恐怖を感じた際にも用い、ここはそれ。

 

《「ワシゃ、もう、やってられんね!」――温帯もキレた! 時政、無許可で伊豆へ進発!――十一月十四日附》

〇原文
十四日辛巳。晩景。武衞令還鎌倉給。而今晩。北條殿俄進發豆州給。是依被欝陶宗親御勘發事也。武衞令聞此事給。太有御氣色。召梶原源太。江間者有隱便存念。父縱插不義之恨。不申身暇雖下國。江間者不相從歟。在鎌倉哉否。慥可相尋之云々。片時之間。景季歸參。申江間不下國之由。仍重遣景季召江間。江間殿參給。以判官代邦通被仰云。宗親依現奇恠。加勘發之處。北條住欝念下國之條。殆所違御本意也。汝察吾命。不相從于彼下向。殊感思食者也。定可爲子孫之護歟。今賞追可被仰者。江間殿不被申是非。啓畏奉之由。退出給云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十四日辛巳。晩景、武衞鎌倉へ還らしめ給ふ。而るに今晩、北條殿俄かに豆州へ進發し給ふ。是れ、宗親御勘發(かんぼつ)の事を鬱陶せらるるに依てなり。武衞此の事を聞かしめ給ひ、太(はなはだ)だ御氣色有り。梶原源太を召し、「江間は穩便の存念有り。父縱ひ不義の恨を插(さしはさ)み、身の暇を申さずして下國すと雖も、江間は相ひ從はざるか。鎌倉に在るや、慥に之を相尋ぬるべし。」と云々。片時(へんし)の間に、景季歸參し、江間下國せざるの由を申す。仍りて重ねて景季を遣はして江間を召す。江間殿參り給ふ。判官代邦通を以て、仰せられて云く、「宗親、奇恠を現はすに依りて勘發を加へるの處、北條欝念を住(とど)めて下國の條、殆んど御本意に違ふ所なり。汝、吾が命を察し、彼の下向に相ひ從ざること、殊に感じ思し食(め)す者なり。定めて子孫の護りたるべきか。今の賞、追つて仰らるべし。」と。江間殿是非を申されず、畏れ奉るの由を啓して退出し給ふと云々。

〇やぶちゃん注

「勘發」命令の不履行を上位者が叱ること。譴責。「江間」は北条義時。この頃には伊豆北条の近隣である現在の静岡県伊豆の国市南江間を領していたことから、かく呼ぶ。「穩便の存念有り」事を荒立てることを好まぬ気性なれば、の意。「不義の」は頼朝に対する不義の、意である。

 

《「アンタ! 懲りないわね!」――亀ちゃん戦々恐々! されど強気の頼朝、再び小坪の愛の巣へトンボ返りを命ず――十二月十日附》

〇原文

十日丙午。御寵女遷住于小中太光家小坪之宅。頻雖被恐申御臺所御氣色。御寵愛追日興盛之間。憖以順仰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十日丙午。御寵女、小忠太光家が小坪の宅に遷り住む。頻りに御臺所の御氣色を恐れ申さると雖も、御寵愛、日を追ひて興盛の間、憖(なまじ)ひを以て仰せに順ふと云々。
〇やぶちゃん注

政子の嫉妬心への強迫的恐怖、「憖ひを以て仰せに順ふ」の部分も亀の前の心境に立って叙述している。筆者のドラマティクな創りが光る。

 

《「あたしだって、ヤルときゃヤルわよ!」――急展開! 伏見の冠者流罪さる!――十二月十六日附》

〇原文

十六日壬子。伏見冠者廣綱配遠江國。是依御臺所御憤也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十六日壬子。伏見の冠者廣綱を遠江國に配す。是れ、御臺所の御憤りに依りてなり。

〇やぶちゃん注

伏見の冠者広綱こそいい面の皮であるが、彼はこれ以前から頼朝の右筆として不倫のラブレターの代筆などもしていたらしく、何はともあれ、上司のスキャンダルの責任をとって断罪された気の弱い哀れな男ではある。……もう少し、どうなるか見たいよね……ところが、だ……実はこの記事が「吾妻鏡」亀の前スキャンダルの最後の記事なのである。翌年は野木宮合戦から木曾義仲の入京、平家都落、十月には後白河法皇の東国支配権を認める宣旨があって、義仲追討(後に平家追討)の範頼・義経両軍の鎌倉出陣、と……もうそれどころの騒ぎではなくなっちゃうんだな……というよりも、私の「新編鎌倉志」をここまでお読みになってこられたほどの方なら御存知の通り、翌寿永二(一一八三)年というのは「吾妻鏡」から脱落している(一部が二年前の養和元年閏二月に錯入)……それにしても、美貌で控えめな女性とされた亀の前……鈴木しづ子のように、その後の行方は遙として知れないのであります……ちょっと淋しいね……

   *

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光明寺

    ●光明寺

光明寺は補陀落寺の南鄰(なんりん)なり、天照山と號す、本は佐介谷に在りしを後に此地に移す、當寺開山の傳に、寬元元年五月三日、前武州太守平經時、佐介谷に於て淨刹を建立し蓮華寺と號し、良忠(開山)を導師として供養をのべらる、後に經時靈夢有て、光明寺と改め方丈を蓮華寺と名くとあり。

外門  昔佐介谷に有りし時平經時の弟時賴、外門に額を掛て佐介淨刹と號すと、今は額なし。

山門  額に天照山とあり、後花園帝の宸筆なり。

開山堂  開山木像を安す、自作なり。

客殿  三尊を安す。

方丈  蓮華院と號す、阿彌陀の像を安す、運慶が作にて、肚裏に運慶が骨を收むと云ふ。

祈禱堂  今は念佛堂と云ふ、昔は祈禱堂にて祈禱の額を掛しとなり、本尊阿彌陀は慧心の作なり、左方に辨財天の像あり。

開山石塔  山にあり、山を天照山と云ふ。

善導塚  總門の前松原にあり、善導金銅の像を安す。

内藤帶刀忠興一家菩提所  寺の南にあり、靈屋(れいおく)に阿彌陀如意輪の像を安す、阿彌陀は定朝(さだとも)か作。

蓮華院  總門を入右にあり。

專修院  總門を入左にあり、此二箇院共に光明寺の寺僧寮なり。

[やぶちゃん注:白井永二編「鎌倉事典」の三山進氏の「光明寺」の記載には、『仁和元年(一二四〇)鎌倉に入った良忠のため、経時が佐介ケ谷に一寺を開き蓮華寺と名づけたが、のち同寺を現在地に移し、寺名も光明寺と改めたと伝える』という本記載と同様の記事を掲げた後、『移建・改名の時期については寛元元年(一二四二)とする記録もみられるものの確証はな』く、『良忠のために大仏朝直が開創した悟真寺が蓮花寺と改名、さらに光明寺に発展した』という別説を掲げる。

「前武州太守平經時」北條経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年) 第四代執権。父時氏が早世したため、仁治三(一二四二)年に祖父泰時のあとを継いで十八歳で執権に就任、執権在任中に将軍頼経の関係が悪化、寛元二(一二四四)年に将軍職を子頼嗣に譲らされる将軍交代劇が起こるが、病いが悪化し、在任四年足らずで執権を弟の時頼に譲って出家、法名を安楽と号したが、出家後十日、二十二歳で夭折している。

「良忠」(正治元(一一九九)年~弘安十(一二八七)年)浄土僧。石見国三隅庄(現在の島根県那賀郡三隅村)出身。諡号記主禪師は示寂七年後の永仁元年(一二九三)年に伏見天皇より贈られた。

「後花園帝」(応永二六(一四一九)年~文明二(一四七〇)年)第百二代天皇。在位は正長元(一四二八)年~寛正五(一四六四)年。

「運慶が作にて、肚裏に運慶が骨を收むと云ふ」こんな伝承は私は聴いたことがない。現在の浄明寺公式サイトにもそんな記載はない。そもそもが鎌倉には一体として運慶作と否定された像はないことは既に述べたが、「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」にもこの奇体な記載はある。しかし、仏師が自分の骨を自分の墓でも何でもない寺の本尊の腹中に籠めるというのは私にはちょっと考え難いことである。因みに、運慶は慶派の菩提寺であったと思しい六波羅密寺に葬られた(或いは供養された)可能性が高く、他に宮崎県の宝満寺という寺に伝運慶墓があるとも聴く。

「善導」(六一三年~六八一年)は唐代の浄土教大成者。長安を中心に終生念仏者として暮らし、日本の浄土教に大きな影響を与えたが、勿論、渡日などはしていない。

「内藤帶刀忠興一家菩提所」私はかつてここが好きでたびたび訪れたものだった。初代日向延岡藩主内藤忠興が十七世紀中頃に内藤家菩提寺であった霊岸寺と衝突、光明寺大檀家となってここへ内藤家一族の墓所を移築したものである。実際には現在も光明寺によって供養管理されているが、巨大な法篋印塔数十基を始めとして二百基余りの墓石群が、鬱蒼と茂る雑草の中に朽ち果てつつある様は、三十数年前、初めてここを訪れた私には真に「棄景」というに相応しいものであったのである。

「定朝」(じょうちょう ?~天喜五(一〇五七)年)は平安中期最大の仏師。仏師康尚(こうしょう)の子又は弟子とされ、寛仁四(一〇二〇)年に康尚とともに法成寺無量寿院の丈六阿弥陀像九体を造立、万寿三(一〇二六)年には中宮安産祈禱のために釈迦三尊など二十七仏を、翌年には法成寺釈迦堂の百体釈迦像、長元九(一〇三六)年後一条天皇法事の三尊仏、長久元(一〇四〇) 年の後朱雀天皇念持仏、天喜元(一〇五三) 年唯一の遺品でとされる平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像などを造立している(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 補佗落寺

    ●補佗落寺

補陀落寺は南向山歸命院と號す、材木座の東、民家の間(あひだ)にあり古義の眞言宗にて仁和寺の末寺なり、開山は文覺上人なり、文覺鎌倉へ下向の時、賴朝卿比來の恩を報せんとて此寺を立てらる、其後頽破せしを、鶴岡の供僧賴基中興せしとなり。

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「補陀落寺」は「ふだらくじ」、「南向山歸命院」は「なんかふざんきみやうゐん(なんこうざんきみょういん)」と読む。七堂伽藍を持つ大きな寺院であったらしいが、古えより竜巻・津波・火災にたびたび遭って、寺伝の文書類は消失してしまっている(別名「竜巻寺(たつまきでら)」という異称もある)。私はこの寺というと、文覚上人自刻と伝えられる真っ黒な裸像をあざやかに思い出すのだが、「新編鎌倉志之七の「補陀落寺」にも鎌倉六」の「補陀落寺」にも記されていないのが残念でならない。一説に出家後の那智の滝での荒行の様を刻したとされる、思いっきり奇体なデフォルメで、不敵にして人間離れした面相がとっても好きなのに! 三十八年前の二十の時に訪れた際には、勝手におられた婦人から「お好きなように、何でもどうぞ、ゆるりとご覧下さい」と言われ、今では考えられないことだが(当時は、この寺自体に観光客が来ることはまずなかった。されば――正直、言い難いのだが――驚くべきバッタバタ状態であったのである)、目の前の棚に無造作に置かれた埃を被った虫食いの文覚像を、私は不遜にも「お好きなように」むんずと手に摑んで手に取って見た。真黒な塊で見た目は重そうなのだが、これが意想外に異様に軽かったことをよく覚えている。

 さても、二〇一一年九月二十七日の「紀伊民報」によれば、その直前に紀伊半島を襲った台風十二号によって熊野那智大社とその周辺部は激しい被害に見舞われ、『本殿裏手の石垣が崩れ、建物にも被害が及んだ。落差日本一を誇り、勇壮な姿を見せていた那智大滝の滝つぼも変形した。その下流、文覚上人が荒行をしたという故事に由来する文覚の滝も消失。有史以来の景観が一変した』という。

――文覚よ……君の打たれた古えの瀧は……もう、ないそうだ……]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 畠山重保石塔

    ●畠山重保石塔

畠山重保石塔は由井濱大鳥居の傍にある五輪塔を云、明德第四癸酉霜月日大願主道友と刻む、年號重保より遙後なり、按するに東鑑に元久二年六月廿二日、軍兵由比濱に競走て謀叛(ばうはん)の輩(はい)、畠山六郞重保を誅すとあり、或は後人重保か爲に建(たて)たるか。里俗咳の呪(まじな)ひにとて祈願する者多し、願滿(いち)ぬれば、細き竹筒に煎茶の煑端(にばな)を入れて奉納む。

[やぶちゃん注:記者がそのつもりならこちもそのつもりで新編鎌倉志七」から私の注ごと引く。

   *

〇畠山重保石塔 畠山重保(はたけやましげやす)が石塔は、由比の濵にある五輪を云ふ。明德第四、癸酉霜月日、大願主道友と切り付けてあり。年號、重保より遙か後(のち)なり。按ずるに【東鑑】に、元久二年六月廿二日、軍兵由比の濵に競ひ走つて、謀叛の軰(ともがら)畠山六郎重保を誅すとあり。或は後人重保が爲(ため)に建てたるか。萬里居士【無盡藏】に、壽福寺に入りて、人丸家(ひとまるづか)を山顚より望み、六郎が五輪を路傍に指すとあり。又此の石塔の西の方を畠山屋敷と云イふ。是も重保が舊宅ならん。里俗、或いは畠山重忠が石塔と指し示し、又重忠が屋敷なりと云傳ふ。恐らくは非(ひ)ならん。重忠が屋敷は、筋替橋の西北にあり。重忠は、重保と同日に、武藏國二俣川(二股かは)にて誅せらるとあり。父子なり。

[やぶちゃん注:「明德第四」は西暦一三九三年。畠山重保の誅殺(享年未詳。実際には謀反人征伐の報で出陣した彼を騙し討ちにするという謀殺以外の何ものでもない)は元久二(一二〇五)年六月二十二日であるから、実に百八十八年後の建立である。銘は正確には「明德第四癸酉霜月三日大願主比丘道友」で、この施主については不詳。現在のところは畠山重保との血族関係はない人物と考えられており、墓と伝えられるこの宝篋印塔も供養塔と考えるべきである。畠山重保は武勇に長けた人物であったが、この由比ヶ浜での戦闘中、持病の喘息の発作が起こったために本意ならず討たれたとされることから、後にこの塔は咳の神「六郎様」(重保の通称)と呼ばれて呼吸器の病気平癒を願う人々の信仰の対象となった。父重忠は重保謀殺の知らせを受け、是非に及ばずと同日、武蔵国二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区二俣川及び鶴ケ峰付近)で幕府軍と交戦、討死にした。享年四十二歳。]

   *

「煑端」「にばな」と読む。「煮花」とも書く。煎じたばかりの香りの高い茶をいう。]

詩は   立原道造

  詩は

 

その下に行つて、僕は名を呼んだ。詩は、だのに、いつも空ばかり眺めてゐた。

 

   *

 

こはい顏をしてゐることがある

爪(つめ)を切つてゐることがある

詩はイスの上で眠つてしまつたのだ

 

   *

 

あかりの下でひとりきりゐると

僕は ばかげたことをしたくなる

 

   *

 

 あゝ、傷のやうな僕、目をつむれ。風が林をとほりすぎる。お前はまたうそをついて、お前のものでない物語を盜(ぬす)む、それが詩だといひながら。

 

   *

 

言葉のなかで 僕の手足の小さいみにくさ

 

   *

 

或るときは柘榴(ざくろ)のやうに苦しめ 死ぬな

 

   *

 

詩は道の兩側でシツケイしてゐる

 

   *

 

僕は風と花と雲と小鳥をうたつてゐればたのしかつた。詩はそれをいやがつてゐた。

 

   *

 

夜の部屋のあかりのなかで詩は

目をパチパチさせながら小さい本をよんでゐた

それは僕の書いた小さい本だつたが

返してくれたのを見るとそれに詩が罰點(ばつてん)をつけてゐた

 

   *

 

小徑が、林のなかを行つたり來たりしてゐる、

落葉を踏みながら、暮れやすい一日を。

 

   *

 

 カーネーシヨンの花のしみついた鋪石(ほせき)を掘りおこすとその下で鼠がパンをかじつてゐた。パン屑はアスパラガスのやうな葉が茂つてゐるので、人は、水のコツプを手に持つてあちこちあわてて歩くことがあつた。

 

   *

 

詩は道をステツキでためしてゐた

長い道の向うまで日があたり

衰へた秋のかげが背中で死んだ

詩は背中をまるくして歩いてゐた

 

 

[やぶちゃん注:以下は総表題「詩は」に基づく「その下に行つて、僕は名を呼んだ。詩は、だのに、いつも空ばかり眺めてゐた。」から「詩は道をステッキでためしてゐた/長い道の向うまで日があたり/衰へた秋のかげが背中で死んだ/詩は背中をまるくして歩いてゐた」までのアフォリズム風の十二篇の短詩群。国立国会図書館近代デジタルライブラリー内の画像にもなく、私の所持する選集では昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」のみに載るのでそれを底本とした(この底本、昭和二七(一九五二)初版を改版したその三十版でありながら、この時代で文庫本であるにも拘わらず稀有なことに何と正字である。有り難きことこの上ない!)。ルビは編者中村氏が増補して打った可能性が濃厚なものが多いが確認出来ないので総てそのまま附した。

第四篇目「あゝ、傷のやうな僕……」の散文調断章の冒頭一字下げはママである。

第十一篇目「カーネーシヨンの花のしみついた鋪石(ほせき)を……」の散文調断章の冒頭一字下げもママである。附言すると、この「鋪石(ほせき)」は、個人的な韻律の趣味から言うと、断然、「しきいし」と読みたくなる。原稿を確認したいものである。]

2015/09/23

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (二)

 

       

 

 强健な宮司は、海の好きなことが杵築の誰人にも劣らない。しかし海濱の旅館へは決して來ない。況して共同の湯に入らない。稻佐の濱の上へ迫つてゐる絕崖の上に、特別な浴室が彼の專用として設けてある。そこへは一本の狹い道が松林の中に通じて、その前には鳥居と注連繩がある。海水浴の期間、この小さな家へ宮司は每日上つてくる。お伴の下男が海水浴服を準備し、また宮司が海から歸つてくると、宮司が憩ふために淸潔なる莚を擴げる。宮司はいつも衣を纒つて浴を取る。彼とその下男の外、誰もこの小さな家へ近寄らない。こ〻からは灣の眺望がよい。宮司の身體に對する一般の尊敬は、この休憩所をさヘも神聖な地にした。田舍の人々は、今も心身兩方で彼に崇敬の念を示す。昔の人達のやうに、國造の視線を浴びたものは、直ちに物を云ふことも、動くことも叶はぬやうになるとは信じなくなつたが、宮司が境內を通る折には、彼等は生き神として、路邊に平伏する。 

 

Ⅱ.

   The robust pontiff himself loves the sea quite as much as anyone in Kitzuki; yet he never enters a beach hotel, much less a public bathing house. For his use alone a special bathing house has been built upon a ledge of the cliff overhanging the little settlement of Inasa: it is approached by a narrow pathway shadowed by pine-trees; and there is a torii before it, and shimenawa. To this little house the Guji ascends daily during the bathing season, accompanied by a single attendant, who prepares his bathing dresses, and spreads the clean mats upon which he rests after returning from the sea. The Guji always bathes robed. No one but himself and his servant ever approaches the little house, which commands a charming view of the bay: public reverence for the pontiff's person has made even his resting-place holy ground. As for the country- folk, they still worship him with hearts and bodies. They have ceased to believe as they did in former times, that anyone upon whom the Kokuzo fixes his eye at once becomes unable to speak or move; but when he passes among them through the temple court they still prostrate themselves along his way, as before the Ikigami.

夏の弔ひ   立原道造

 

    夏の弔ひ

 

逝いた私の時たちが

私の心を金(きん)にした 傷つかぬやう傷は早く愎るやうにと

昨日と明日との間には

ふかい紺靑の溝がひかれて過ぎてゐる

 

投げて捨てたのは

淚のしみの目立つ小さい紙のきれはしだつた

泡立つ白い波のなかに 或る夕べ

何もがすべて消えてしまつた! 筋書どほりに 

 

それから 私は旅人になり いくつも過ぎた

月の光にてらされた岬々の村々を

暑い 涸いた野を 

 

おぼえてゐたら! 私はもう一度かへりたい

どこか? あの場所へ  (あの記憶がある

私が待ち それを しづかに諦めた――) 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の処女詩集「萱草に寄す」の知られた一篇で、「SONATINE No.2」の第二篇である。

冒頭の「逝いた」は後続の諸本のルビからも「ゆいた」と訓じてよいであろう。「逝(い)ってしまった」の意である。

「愎る」は「なほる(なおる)」。恢復する。

「紺靑」は「こんじやう(こんじょう)」で、ここはプルシアン・ブルー( Prussian blue の色合いと採ってよかろう。

「淚のしみの目立つ小さい紙のきれはし」角川文庫中村真一郎編「立原道造詩集」の編者注に、道造の『愛した少女鮎からの手紙を旅』(昭和一二(一八三七)年八月の関西旅行)『の途次、潮の岬の海上で破り捨てている』とある。「鮎」とは関鮎子のことで、道造二十、信濃追分で出逢った娘で、恐らくは彼が最も愛した女性であったと思われる。個人ブログ「Poema 詩をよむ」の立原道造「はじめてのものに」④によれば、当時十八歳(推定)、追分の本陣「永楽屋」の孫娘で、千葉で弁護士を開業していた関一二の娘であったとある。

「涸いた」は「かわいた」。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 教恩寺/長善寺/亂橋/材木座

   ●教恩寺

教恩寺は寳海山と號す、米町の内(うち)にあり、時宗藤澤道塲の末寺なり、以前は光明寺の境内にありしを、延寳六年に貴譽上人此地に移す、本尊阿彌陀は運慶の作なり。

[やぶちゃん注:大町一丁目にある。以下に見るように沿革ははっきりしない。

「時宗藤澤道塲」時宗総本山遊行寺のこと。ここにある「光明寺」は浄土宗であるから、これは単に移築したのではなく、移築されたもの(面倒なことに浄明寺末寺であった「善昌寺」と称したとも)が廃寺となり、新たに時宗寺院となったものと考えるのが自然であるが、しかし実は教恩寺自体が別に浄明寺境内の北の山際にあったともあり、移された寺院が時間を隔てて二つあった可能性も疑われる。いずれにせよ、浄土宗から時宗への改宗は特段、異例なことではない。

「延寳六年」一六七八年。]

 

   ●長善寺

辻町にあり、醫王山と號す、古義眞言宗、本尊藥師、十二神將日光月光等を安す、里俗辻藥師(つじやくし)と稱するは是なり、寺傳に由井の長者、染屋太郞大夫時忠の建立と云ふ。

[やぶちゃん注:廃寺。明治二二(一八八九)年の横須賀線敷設の際に本堂は取り払われ、現在は「辻の薬師堂」が信者によって管理されているだけである。本誌発行時には無論、存在していないから、ここは「長善寺跡」或いは「辻の薬師」と項立てして語らねばおかしなところである。貫・川副著「鎌倉廃寺事典」には、『もと名越松葉ヶ谷安国論寺の後山をこえたところ、現在国鉄名越隧道の西の谷、字御嶽に長善寺蹟というところがあるが、これがこの寺の旧地か』とあり、『それがいまの辻の薬師のところに移ったが、本堂は今の電車線路の通る位置にあったため取り払われた』とするから、鎌倉の廃寺の中でも極めて新しい明治期に物理的に廃されたことがはっきりと分かる。因みに、現在の辻の薬師の線路を渡ったところで芥川龍之介は新婚時代を過ごした。なお、その直近に私の藪野家の実家がある。

「辻町」「辻の薬師」のある一帯の旧町名(大町の魚町橋・逆川橋から材木座の「元八幡」辺りまで)であるが、現在も大町辻町として実際には認識されている。ウィキ辻の薬師堂によれば、『これは、「車大路」と「小町大路」との辻(交差点・四つ角)があったためであり、「辻の本興寺」、「辻の薬師堂」等の名称に、往時が偲ばれる』とある。このウィキ、なかなか侮れない優れた記載である。

「由井の長者、染屋太郞大夫時忠」鎌倉の始祖的な人物として伝承される人物で、由比長者とも呼称され、藤原鎌足四代の子孫に当たるとされる。華厳僧で東大寺開山の良弁(ろうべん)の父ともされるが、現在伝えられるものの中には逆転して、染屋時忠の父が良弁とするものが多々見受けられる。何れにせよ、全国に散在する長者伝説の域を出ない。原鎌倉地方を支配していた豪族がモデルであろう。]

 

    ●亂橋

亂(或作ㇾ濫)橋は、辻町(つぢまち)より材木座へ渡り行石橋にして、鎌倉十橋の内なり、東鑑に寶治二年六月十八日寅尅に、濫橋の邊一町許以下南に雪降如ㇾ霜とあり。

[やぶちゃん注:「或作ㇾ濫」は『或いは「濫(みだれ)」に作る』と読む。で、お分かりのように「亂橋」は「みだればし」と読む。

「寶治二年」一二四八年。

「寅尅」午前四時頃。

「一町」約百九メートル]

 

    ●材木座

材木屋は鎌倉の東南隅(とうなんぐう)にあり、北は天照山、辨ケ谷、大町を劃り、西は遠く稻村ケ崎を望み、東飯島崎に接し、南由井ケ濱に面す、貴顯の別莊多く、海水浴場の設けあり、波は沙を嚙むで海面穩やかなり、尤も避暑に適す、東鑑に和賀と見えたるは、即此地の古名なり。同書に西濱、小坪、和賀と列書するをもて、其地理のさま推(おし)て識るべし、其後貞永元年に至り、海灣(かいわん)に一島を築き、和賀江島と名つくるも、爰の地名に因る。又同書に其和賀の津口に材木を置き、奉行人として、其寸法を點定(てんてい)せしめし事見えたり、是に據れば當時木料の港たり、故に行年、材木座の名を負はせしならむ。

[やぶちゃん注:「天照山」光明寺の裏山。天照山(てんしょうざん)と音読みしておく。光明寺の山号も「天照山」である。

「辨ケ谷」光明寺北方の旧谷戸名。現在の材木座四丁目から六丁目附近。明治になると早くから別荘地化され、夏目漱石もここに避暑していた。「こゝろ」の冒頭の「三」で「私」が「先生」の宿を訪ねるシーンで、『宿と云つても普通の旅館と違つて、廣い寺の境内にある別莊のやうな建物であつた』というのはまさに浄明寺と、この実際の弁ヶ谷(べんがやつ)の別荘をモデルとしていると考えてよい。

「貞永元年」一二三二年。

「和賀江島」後出。

「又同書に其和賀の津口に材木を置き、奉行人として、其寸法を點定せしめし事見えたり」これは「吾妻鏡」の建長五(一二五三)年十月十一日の条の後半に出る(私が太字にした箇所)。

   *

○原文

十一日丙辰。被定利賣直法。其上押買事。同被固制。小野澤左近大夫入道。内嶋左近大夫將監盛經入道等爲奉行。

 薪馬蒭直法事

  炭一駄代百文         薪三十束〔三把別百文〕

  萱木一駄〔八束代五十文〕   藁一駄〔八束代五十文〕

  糠一駄〔俵一文代五十文〕

件雜物。近年高値過法。可下知商人者。又和賀江津材木事。近年不法之間。依難用造作。被定其寸法。所謂榑長分八尺。若七尺。令不足者令點定之。奉行人可申子細之由云々。以下略之。今日有被仰遣六波羅事。諸國庄保新地頭等所務事。任先々下知。不可致非法之旨云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十一日丙辰。利賣(りばい)の直法(ぢきはふ)を定めらる。其の上、押買(おしかひ)の事、同じく固く制せらる。小野澤左近大夫入道・内嶋左近大夫將監盛經入道等、奉行たり。

 薪(たきぎ)・馬蒭(まぐさ)の直法の事

  炭一駄代百文。

  薪三十束〔三把に別く。百文。〕。

  萱木(かやぎ)一駄〔八束。代五十文。〕。

  藁一駄〔八束。代五十文。〕。

  糠(ぬか)一駄〔俵一文。代五十文。〕。

 件の雜物、近年、高値(かうじき)、法に過

 ぐ。商人に下知すべしへり。

 又、和賀江津(わかえのつ)の材木の事、

 近年不法の間、造作(ゾウサク)に用ひ難き

 に依つて、其の寸法を定めらる。謂ふ所の、

 榑長(くれたけ)分八尺、若しくは七尺。不

 足せしめば、之れを點定(てんぢやう)せし

 め、 奉行人、子細を申すべきの由と云々。

 以下、 之を略す。

今日、六波羅へ仰せ遣はさるる事、有り。諸國の庄(しやう)・保(ほう)の新地頭等(ら)の所務の事、先々の下知に任せて、非法を致すべからざるの旨と云々。

   *

引用文中の「榑長(くれたけ)」の「榑(くれ)」とは、切り出したままで、まだ皮の附いている材木をいう。その全長であろう。「八尺」二・四二メートル、「七尺」は二・一二メートル。「點定」は 対象を一つ一つ調べて正すこと或いは指定すること。「てんてい」と読んでもよい(因みに中世、この語には別に、荘園領主などによる土地・家屋・農作物の没収・差押えの意もあるので注意されたい)。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)

 

     第十一章 杵築のことゞも

 

        一八九一年七月二十日 杵築にて

 晃は最早私と共には居ない。彼は佛敎雜誌を發行するため、神聖な佛敎の都なる京都ヘ行つた。それで私は迷ひ子になつたやうな氣がする――彼は神道のことを何も知らないから、出雲ではあまり役に立つまいと、彼が再三斷言したけれども。

 が、私が今夏休みの初めの期間を送つてゐる杵築では、當分澤山の伴侶を得られさうだ。この小さな町には、私を知つてゐる學生や敎師が多いのだから。杵築は山陰に於て最も神聖な場所であるのみならず、また最も繁盛なる海水浴場だ。稻佐の濱は日本中で最もよい濱の一つだ。海濱の旅館は廣く、風通しがよくて、心地よい。浴室には游泳後に鹽分を洗ひ落すため温浴と新鮮の冷水浴があつて、全く完備したものだ。それから、晴天の日、夏のひろびろとした海原を見渡す眺めは快絕だ。灣の右方を塞いで、町を蔽ふた山から、松樹の生えた、大きな、崎嶇たる岬――杵築岬――が延び出でてゐる。左方には低い長い山嶺が、濱傳ひの彼方の眼界に鋸齒狀をなして、その背後には靄然たる一巨形が蒼空へ聳えてゐる――三瓶山の截頭圓錐形の影法師。前面には日本海が天に建つてゐる。して、そこには晴夜、火の水平線が現れる――三四哩の沖に碇を卸した無數の漁船の松明――肉眼ではその火光が一帶の連續せる炎と思はる〻ほど夥しい。

 宮司は私と私の一友を、天神祭りの晩に、その邸で催される豐年踊の見物に招いた。この踊は出雲特有である。また宮司の命によつてのみ行はれるから、それをこ〻で見るのは稀有の好機會だ。

[やぶちゃん注:実は最初のクレジットは底本では「一八九二年七月二十日 杵築にて」となっているが、以下の原文を見て頂ければ分かる通り、「一八九一年」の誤訳であるので、例外的に訂した。来日(明治二三(一八九〇)年四月四日)から一年三ヶ月後の、

 明治二四(一八九一)年七月二十日

に始まる杵築での全一章であることが判る(本作の中で明白なクレジットを持つのはここが最初である)。ところが、である。「八雲会」の松江時代の略年譜を見ると、

 明治二四(一八九一)年

の条には、

 七月二十六日 『西田千太郎と杵築に出発。稲佐浜の養神館に投宿する。』

 八月  四日 『出雲大社で豊年踊りを見学する。』

とあって、このクレジット「七月二十日」とは全く合わないのである。それどころか、ここでハーンは「私が今夏休みの初めの期間を送つてゐる杵築」と述べ、「この小さな町」と言っていることからは――この七月二十日には私は杵築にいた――と述べていることになるのである。しかし、この「八雲会」年譜を見ると、事実は、どうも、そうではないらしい。書き間違いや記憶違いとはおよそ思われない。とすれば、これは、何のためかは不明であるが、このクレジットには文学的な虚構が施されている可能性が極めて高いということになるのである。この謎について、識者の御教授を乞うものである。

 そうして、そこにはもう、あの青年、真鍋晃は、いないのである。彼と別れた理由も述べられてある。以前にも注したが、ウィキの一九八四年放映の山田太一脚本になるNHKドラマ「日本の面影」の記載には、真鍋晃に就いては、『「西欧文化を学びたい」という理由でハーンの通約兼世話係となり、松江まで付き添うが、日本の伝統文化に関心を寄せるハーンと意識がすれ違い、半年で横浜に帰った。のちに海軍中尉となり、帝大講師となっていたハーンと東京で偶然再会する』という設定(あくまでドラマ上の設定であって、事実かどうかは不明である。実は彼に就いてはどうもあまり良く判っていないというのが本当らしい)となっている。なんとなく、この『日本の伝統文化に関心を寄せるハーンと意識がすれ違』ったというのは、ここまでの、「知られぬ日本の面影」での晃の発言から、かなり、腑に落ちるような気が個人的にはしていることを告白しておく。

「崎嶇」「きく」と読み、山道の険しいさまをいう。

「三四哩」凡そ四・九から六・四キロメートル。

「私の一友」既出既注の西田千太郎である。以上の通り、「八雲会」の松江時代の略年譜に明確に記されてある。] 

 

Chapter Eleven

 

Notes on Kitzuki

 

KITZUKI, July 20, 1891.     

   AKIRA is no longer with me. He has gone to Kyoto, the holy Buddhist city, to edit a Buddhist magazine; and I already feel without him like one who has lost his waydespite his reiterated assurances that he could never be of much service to me in Izumo, as he knew nothing about Shinto.

   But for the time being I am to have plenty of company at Kitzuki, where I am spending the first part of the summer holidays; for the little city is full  of students and teachers who know me. Kitzuki is not only the holiest place in the San-indo; it is also the most fashionable bathing resort. The beach at Inasa bay is one of the best in all Japan; the beach hotels are spacious, airy, and comfortable; and the bathing houses, with hot and cold freshwater baths in which to wash off the brine after a swim, are simply faultless. And in fair weather, the scenery is delightful, as you look out over the summer space of sea. Closing the bay on the right, there reaches out from the hills overshadowing the town a mighty, rugged, pine-clad spurthe Kitzuki promontory. On the left a low long range of mountains serrate the horizon beyond the shore-sweep, with one huge vapoury shape towering blue into the blue sky behind themthe truncated silhouette of Sanbeyama. Before you the Japanese Sea touches the sky. And there, upon still clear nights, there appears a horizon of firethe torches of hosts of fishing-boats riding at anchor three and four miles awayso numerous that their lights seem to the naked eye a band of unbroken flame.

   The Guji has invited me and one of my friends to see a great harvest dance at his residence on the evening of the festival of Tenjin. This danceHonen-odoriis peculiar to Izumo; and the opportunity to witness it in this city is a rare one, as it is going to be performed only by order of the Guji.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十章 美保の關にて (八) 第十章~了

 

        

 

 昨夕は舊日本の船頭を見た。今日は新日本の水夫を見ようとするのだ。沖に現れた帝國軍艦てふ怪物が、全港民を興奮させた。誰も彼も見物に行かうとしてゐる。路次に橫つてゐた、すべての長い小舟は、好奇心に滿ちた人々を載せて、鋼鐡の巨像――五百人の乘組員分積める一等級の巡洋艦――へと、既に急ぎつ〻ある。

 私は前に述べた喫驚するやうな舟に乘つて行く。尤も獨りで行くのではない。實際その舟には殆ど立つ餘地がない。老若さまざまの乘客、就中尋常の艀舟で海へ出るのをびくびくしてゐる婦人達で、非常に込合ふてゐる。今しも舟を出すといふ間際に、一人の藝妓が生命賭けて群集の中へ飛込んだ。飛込んだ時に私の葉卷煙草に腕が觸れて火傷した。私は非常に氣の毒に思つたが、女は私の心配に對して陽氣げに笑つた。それから漕手共は悲調を帶びた睡氣を催すやうな歌を始める。

 軍艦へ達するには長い距離を漕がねばならなかつた。假睡せる機關の大きな肺臟からは、薄い煙の渦卷さへも揚げないで、夏の海上に美しい怪物が靜と聳えて居る。而してあの水夫が眠を催させるやうな歌には、屹度何か太古の魔力が含まれてゐるに相違ない。何故といふに、軍艦の橫へ來るまでに最早、私は夢を眺やてゐるやうに感じたから。實際この光景は睡眠中の幻影のやうに奇異である。巨大な艦體の周圍に異樣な舟が群をなして徘徊戰慄してゐる。それからこの古風な港の、濶い袖の附いた長い着物をきた老若男女子供の群集は、蟻群の如くに一筋の絕間なき流れをなして、太い艦腹を徐々と上ぼりつ〻ある。しかも巢一杯の蜜蜂がぶんと唸るやうな口籠つた音を發するに過ぎない。低い笑聲と、小聲の喋々と、驚愕を抑へた囁きより成る音である。それは巨艦が人を威壓するからである。甲鐡の壁や砲塔や巨砲や太い鎖や、それから舷牆から微笑だもせずに、光景を見おろしてゐ數百の白い制服をつけた水兵の嚴肅な態度を、人々は赤ん坊の如く不思議がつて見てゐる。水兵も日本人ではあるが、一種の神祕的な作用で變化されて、宛然外國人のやうである。經驗を積んだ眼で以て始めて、その巖疊な水兵の國籍を見決めることが出來る。金で描いた帝國の紋章と、艦尾にちらつく日本字が見えなかつたら、褐色の拉丁人種が乘組んだ西班牙か伊大利の軍艦を眺めて居るのだと思ふ人があつても無理ではない。

 私は迚も乘船することは出來ない。鐡の梯子には縋りついた人々が、極限なき鎖をなしてゐる。紺色の着物の小學生徒、白毛交りの辨髮の老人、安心顏の赤兒を背負つて、帶で結んで、しつかりと綱につかまつてゐる勇敢な若い母達、百姓、漁師、藝妓、悉皆全くそこへ蠅が附着したやうだ。或人が十五分間待たねばならぬと云つたので、彼等は微笑を帶びた忍耐を以て待つてゐる。また彼等の背後に艦隊をなせる、艫の高い舟には、數百人が待つて、不思議がつて見てゐる。が、十五分間待たぬ内に、すべての人々の希望は、甲板から發せられた大聲の告知で、忽然破碎された。『もう、時間がないから、見せることは出來ません!』怪物は蒸汽發生させつ〻ある。將に去らうとしてゐる。最早誰も乘ることは許されない。すると、手綱に辛抱强くつかまつてゐた群集や、小舟の艦隊に辛抱强く待つてゐた人々から、『あ〻!』といふ一つの非常に悲しげな、長く引いた失望の聲が起こつて、續いてまた出雲訛で、無邪氣な罵倒の言葉が發せられた。『軍人は噓を云はぬかと思へば! 噓つきだな!あ〻、さうだな!』か〻る場面には慣れたものらしく、軍人は微笑だもしない。

[やぶちゃん字注:「小舟の艦隊に辛抱强く待つてゐた人々から」は、底本では「小舟の艦隊に辛抱强く待つて人々から」であるが、意味が通じない。脱字と断じて例外的に「ゐた」を挿入した。]

 

 しかし私共は巡洋艦の邊に低徊遊戈してゐて、見物人が小舟へ操てて下りるのや、錨鎖が緩慢で重さうな動作を以て上がつて行くのや、水兵が集まつて、舷側の何か判らぬものを解いたり結んだりするのを眺めた。一人の水兵が倒さまに屈んだので、白い帽子を落した。すると、それを拾ひ上げる名譽を得ようとして、小舟の競漕が始まつた。一人の水兵が舷牆に倚りかかり乍ら、仲間に云つてゐるのが明かに聞えた。『あ〻! 外國人だな! 何にしに來てゐるだらう?』仲間も思案に窮して、『耶蘇の宣敎師だらう』と云つた。私が日本服をきてゐるため、たとひ外國人たることは隱せなくても、宣敎師だといふ見當はつきかねて、依然私は謎として殘つた。それから、『あぶない!』といふ大きな叫が起こつた――もし今、巡洋艦が動いたならば、見物人達は水に浸されたり、壓し潰されたり、溺れたり、名狀し難い騷擾が起こるだらう。すべての小舟は散亂逃去した。

[やぶちゃん字注:「操てて」はママ。意味不明。原文から見ると「あわてて」(慌てて)と読む以外には考えられないが。]

 私共の十人の裸體の漕手は、またその丁字形の柄のついた橈に向つて、力を發揮し、またその古い哀しげな歌を始めた。舟が漕いで歸る間、私の心には、私共が見物に行つた、あの鐡や蒸汽やあらゆる複雜な殺戮の機關を備へた、壯麗な怖ろしい物の莫大な費用のことが浮んできた。その費用は、膝まで沒する泥濘の田の中で絕えず骨を折つて、しかし自分の作つ米が食べられない數百萬の貧民から出して居るのだ。彼等の生命を養ふ食料の方が遙かに安價なのに相違ない。而かも彼等が所有せる少許のものを保護せんが爲めに、こんな怖ろしいものを作らねばならぬ――破壞の目的に對して數學的に應用したる科學の咄々奇怪なる創造物だ。

 神聖な山の麓、藍色の瓦の下、遠方に眠れる美保の關が今度は非常に愉快なものに思はれてくる――石燈籠や唐獅子のある、卵の嫌ひな神樣の居玉ふ古い古い美保の關――學校を除けば一切のものが、今猶中世紀である夢幻的な美保の關――艫の高い船や、尖つた舳の舟があつて、船頭の悲しげな歌の聞える處。

    アラホーノサノサ、

    イヤホーエンヤ。

         ギイ、

         ギイ。

 また苔の生えた古い古い石の埠頭へ着いた。輝ける海を漕ぎ歸ること一哩にして、私共は飄然一千年の昔へ飛行したのだ。顧みてあの兇惡な幻の居つた所を見ると、何も居ない。たゞ蒼穹の下に平滑な靑い海があつて、岬の少し向うには、小さな一點の白いものが見えるだけだ。それは一隻の帆船の帆である。水平線上には何も無い。軍艦は去つたのだ。しかし音も立てないで、また實に早い。十九浬の速力が出るのだ。事代主命よ、あの艦内には多分雞卵があつたものを!

[やぶちゃん注:「帝國軍艦」「五百人の乘組員分積める一等級の巡洋艦」恐らく、お詳しい方ならば、本艦を同定することが出来るものと思われる。但し、ネット上のデータを見ると、本格的な装甲巡洋艦は当時(明治二四(一八九一)年)の日本海軍にはなく、防護巡洋艦(防護甲板という主機室上部甲板のみの装甲で舷側には装甲を持たない軽防御巡洋艦)しかなかったはずであり、しかも当時の防護巡洋艦は日本海軍では正式には二等巡洋艦に分類されていたともあるので、これでは素人ではとても比定出来ないことが判った。識者の御教授を切に俟つものである。明治二四(一八九一)年の八月に美保関沖を航行した日本海軍の巡洋艦である。なお、最後の私の注も参照されたい

「喫驚する」音は「キツキヤウ(キッキョウ)」であるが、「びっくりする」と訓じていよう。「吃驚する」と同じい。

「舷牆」海事用語。「げんしやう(げんしょう)」と読み、甲板の両舷側に設けた乗員の転落や波浪を防ぐための鋼板製の柵のこと。「舷墻」とも書く。

「巖疊」「がんじよう(がんじょう)」で丈夫・堅固の意。「岩乗」とも書く。「頑丈」と同じであろう。

「拉丁人種」「拉丁」は「ラテン」。ラテン系人種。厳密にはラテン語を起源とする言語(ロマンス語・イタリア語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語・ルーマニア語など)を母語とする人々の総称。ウィキの「ラテン系」によれば、『アメリカ合衆国では中南米からの移住者を、主にスペイン語話者であることからヒスパニックと呼んできたが、近年ラティーノ(Latino:ラテン系)とも称される。但し、ヒスパニックが文字通り「スペイン語圏(狭義では米国の隣国であるメキシコ)出身者」のみを指すのに対し、ラティーノはブラジルなど非スペイン語圏出身者も含んだ呼称である点に、注意を要する』とある。

「西班牙」スペイン。

「伊太利」イタリア。

「私は迚も乘船することは出來ない」この訳では、心情的に乗船することを許さない、拒否したくなった、という意味にも採れてしまうが(というか、実は今時のおぞましい日本を意識すると、私はそう積極的に読みたくなってしまうのであるが)、これは原文の表現から、単に、余りに乗艦希望者が多過ぎ、結果的に軍艦には乗れなかった、の意である。但し、前の日本人水兵を冷酷で非日本人的に見えるとする強烈な描出や、以下のハーンの冷徹に重ねられる群がって乗艦しようとやっきになる人々への批判的視点を読むと、そうしたものを見つめているハーンの意識が急速に冷めてゆく印象――このおぞましい――人殺しの道具でしかない軍艦への――強い拒絶感が彼の中に「ある」――ということは最早、疑いないと私は信ずるものである。

「白毛交りの辨髮の老人」原文は“old men with grey queues”。“queue”(キュウー)は、主に英国で順番を待つ人や乗り物の列(米国では“line”が普通)以外に、昔の男性が垂らした添え髪や、満州人の弁髪の意は確かにあるが、そもそもが、この単語は、ラテン語の「尻尾」の意であり、これは未だ髷(まげ)の跡を残しているか、薄くなった白髪交じりの少ない髪を、後頭部に束ねている老人のことと、私は採る。平井呈一氏は単に『ごま塩あたまの爺さん』と訳しておられる。

「悉皆」老婆心乍ら、「ことごとくみな」(無論、意味はそう)などと訓で読んではいけない。「シッカイ」である。

「また彼等の背後に艦隊をなせる、艫の高い舟には、數百人が待つて、不思議がつて見てゐる。」この「艫の高い舟」という訳が気になった。艫(とも:船の後部・船尾)が高いということは大型の和船であることを意味しようが、ここに美保関から来て集まっているのは、どうもそんなに大きな廻船のような和船とは思われないからである。そこで原文を見ると“and behind them in the fleet of high-prowed boats hundreds more wait and wonder.”であって、落合氏には悪いが、これは誤訳と私には思われる。“prow”は普通、船の舳(へさき)・船首の意である(ハーンは、この本文最後で、艫(或いは艫にある少し高くなっている部分)のことを“poope”(プープ)という単語で区別している)。中小型の和船の場合、一艘であっても海上では、艫ではなくて、尖った舳が目立つのが普通である。しかもここは一艘ではなく、“the fleet of high-prowed boats”、最後のそうした舳が、つんつんと目立って見えている、複数の“boats”なのであり、しかもそれが半端ない数の“the fleet”、まさに「船団」(落合氏の「艦隊」は目の前の本物の軍艦を皮肉って面白い訳ではある)を成しているというのである。因みに平井氏は『その連中のうしろには、へさきの高い船団に、まだまだ何百人という見物人がきょろきょしながら待っているという騒ぎだ』と如何にも自然に訳しておられる。

「もう、時間がないから、見せることは出來ません!」以下の台詞は原文では日本語のローマ字表記であることに注意されたい。平井氏は敢えてカタカナ表記で、それを匂わせて呉れている。

「軍人は噓を云はぬかと思へば! 噓つきだな! あ〻、さうだな!」「か〻る場面には慣れたものらしく、軍人は微笑だもしない」今も昔も、東西の軍人は嘘しか言わないし、鉄面皮(おんたんちん)なんですよね、ハーン先生!

「遊戈」「いうよく(ゆうよく)」と読む。原義は糸弓で鳥を捕る狩猟を言ったが(「弋」は獲物を獲(と)るの意である)、後には専ら軍事用語として、艦船が敵艦に備えて海上をあちこちと動き回ることをいう。ここも冷たく去ろうとする軍艦に対する軍事用語で落合氏の皮肉が炸裂していて面白い。

私の心には、私共が見物に行つた、あの鐡や蒸汽やあらゆる複雜な殺戮の機關を備へた、壯麗な怖ろしい物の莫大な費用のことが浮んできた。その費用は、膝まで沒する泥濘の田の中で絕えず骨を折つて、しかし自分の作つ米が食べられない數百萬の貧民から出して居るのだ。彼等の生命を養ふ食料の方が遙かに安價なのに相違ない。而かも彼等が所有せる少許のものを保護せんが爲めに、こんな怖ろしいものを作らねばならぬ――破壞の目的に對して數學的に應用したる科學の咄々奇怪なる創造物だ。」黙って引用し、太字下線を引いておく。愛すべき気骨の人たるハーン先生のために――

神聖な山の麓、藍色の瓦の下、遠方に眠れる美保の關が今度は非常に愉快なものに思はれてくる――石燈籠や唐獅子のある、卵の嫌ひな神樣の居玉ふ古い古い美保の關――學校を除けば一切のものが、今猶中世紀である夢幻的な美保の關――艫の高い船や、尖つた舳の舟があつて、船頭の悲しげな歌の聞える處。

    アラホーノサノサ、

    イヤホーエンヤ。

         ギイ、

         ギイ。

 また苔の生えた古い古い石の埠頭へ着いた。輝ける海を漕ぎ歸ること一哩にして、私共は飄然一千年の昔へ飛行したのだ。顧みてあの兇惡な幻の居つた所を見ると、何も居ない。たゞ蒼穹の下に平滑な靑い海があつて、岬の少し向うには、小さな一點の白いものが見えるだけだ。それは一隻の帆船の帆である。水平線上には何も無い。軍艦は去つたのだ。」同前。同じく――ナイス・ガイのハーン先生のために――

「十九浬の速力が出るのだ」「浬」は船舶の速度単位である「ノツト(ノット)」と読む。原文は“She makes nineteen knots.”。一ノットは一時間に一海里(約一八五二メートル)を進む速度であるから、凡そ時速三十五キロメートル。なお、船を女性名詞とすることについては、「一般社団法人日本船主協会」公式サイト内の「海運雑学ゼミナール」の202 船を「彼女」と呼ぶ理由が私には実に腑に落ちた(注意しておくが定説はない)。必読!

「事代主命よ、あの艦内には多分雞卵があつたものを!」かの軍艦への、驚くべきハーン先生の痛烈強烈な呪詛である! 平井氏は『そうだ、事代神よ、あの艦のなかには、おそらく、卵がありましたぞ!』と訳しておられる。私が。この巡洋艦をどうしても特定したいのは、実は、その後――この軍艦がどうなったか――を知りたいから、なのである。

 

Sec. 8

   Last night I saw the seamen of Old Japan: to-day I shall see those of New Japan. An apparition in the offing has filled all this little port with excitementan Imperial man-of-war. Everybody is going out to look at her; and all the long boats that were lying in the alleys are already hastening, full of curious folk, to the steel colossus. A cruiser of the first class, with a crew of five hundred.

   I take passage in one of those astounding craft I mentioned beforea sort of barge propelled by ten exceedingly strong naked men, wielding enormous oarsor rather, sweepswith cross-handles. But I do not go alone: indeed I can scarcely find room to stand, so crowded the boat is with passengers of all ages, especially women who are nervous about going to sea in an ordinary sampan. And a dancing-girl jumps into the crowd at the risk of her life, just as we push offand burns her arm against my cigar in the jump. I am very sorry for her; but she laughs merrily at my solicitude. And the rowers begin their melancholy somnolent song-

   A-ra-ho-no-san-no-sa,

    Iya-ho-en-ya!

                               Ghi!

                                Ghi!

It is a long pull to reach herthe beautiful monster, towering motionless there in the summer sea, with scarce a curling of thin smoke from the mighty lungs of her slumbering engines; and that somnolent song of our boatmen must surely have some ancient magic in it; for by the time we glide alongside I feel as if I were looking at a dream. Strange as a vision of sleep, indeed, this spectacle: the host of quaint craft hovering and trembling around that tremendous bulk; and all the long- robed, wide-sleeved multitude of the antique portmen, women, children -the grey and the young togethercrawling up those mighty flanks in one ceaseless stream, like a swarming of ants. And all this with a great humming like the humming of a hive,a sound made up of low laughter, and chattering in undertones, and subdued murmurs of amazement. For the colossus overawes themthis ship of the Tenshi-Sama, the Son of Heaven; and they wonder like babies at the walls and the turrets of steel, and the giant guns and the mighty chains, and the stern bearing of the white-uniformed hundreds looking down upon the scene without a smile, over the iron bulwarks. Japanese those alsoyet changed by some mysterious process into the semblance of strangers. Only the experienced eye could readily decide the nationality of those stalwart marines: but for the sight of the Imperial arms in gold, and the glimmering ideographs upon the stern, one might well suppose one's self gazing at some Spanish or Italian ship-of-war manned by brown Latin men.

   I cannot possibly get on board. The iron steps are occupied by an endless chain of clinging bodiesblue-robed boys from school, and old men with grey queues, and fearless young mothers holding fast to the ropes with over-confident babies strapped to their backs, and peasants, and fishers, and dancing-girls. They are now simply sticking there like flies: somebody-has told them they must wait fifteen minutes. So they wait with smiling patience, and behind them in the fleet of high-prowed boats hundreds more wait and wonder. But they do not wait for fifteen minutes! All hopes are suddenly shattered by a stentorian announcement from the deck: 'Mo jikan ga naikara, miseru koto dekimasen!' The monster is getting up steamgoing away: nobody else will be allowed to come on board. And from the patient swarm of clingers to the hand-ropes, and the patient waiters in the fleet of boats, there goes up one exceedingly plaintive and prolonged 'Aa!' of disappointment, followed by artless reproaches in Izumo dialect: 'Gun-jin wa uso iwanuka to omoya!- uso-tsuki dana!aa! so dana!' ('War-people-as-for-lies-never-say-that-we-thought!Aa-aa-aa!') Apparently the gunjin are accustomed to such scenes; for they do not even smile.

   But we linger near the cruiser to watch the hurried descent of the sightseers into their boats, and the slow ponderous motion of the chain- cables ascending, and the swarming of sailors down over the bows to fasten and unfasten mysterious things. One, bending head-downwards, drops his white cap; and there is a race of boats for the honour of picking it up. A marine leaning over the bulwarks audibly observes to a comrade: 'Aa! gwaikojn dana!nani ski ni kite iru daro?'The other vainly suggests: 'Yasu-no-senkyoshi daro.' My Japanese costume does not disguise the fact that I am an alien; but it saves me from the imputation of being a missionary. I remain an enigma. Then there are loud cries of 'Abunail'if the cruiser were to move now there would be swamping and crushing and drowning unspeakable. All the little boats scatter and flee away.

   Our ten naked oarsmen once more bend to their cross-handled oars, and recommence their ancient melancholy song. And as we glide back, there comes to me the idea of the prodigious cost of that which we went forth to see, the magnificent horror of steel and steam and all the multiple enginery of deathpaid for by those humble millions who toil for ever knee-deep in the slime of rice-fields, yet can never afford to eat their own rice! Far cheaper must be the food they live upon; and nevertheless, merely to protect the little that they own, such nightmares must be called into existencemonstrous creations of science mathematically applied to the ends of destruction.

   How delightful Mionoseki now seems, drowsing far off there under its blue tiles at the feet of the holy hills!immemorial Mionoseki, with its lamps and lions of stone, and its god who hates eggs!pretty fantastic Mionoseki, where all things, save the schools, are medieval still: the high-pooped junks, and the long-nosed boats, and the plaintive chants of oarsmen!

   A-ra-ho-no-san-no-sa,
   Iya-ho-en-ya!
                              Ghi!
                              Ghi!

   And we touch the mossed and ancient wharves of stone again: over one mile of lucent sea we have floated back a thousand years! I turn to look at the place of that sinister visionand lo!there is nothing there! Only the level blue of the flood under the hollow blue of the skyand, just beyond the promontory, one far, small white speck: the sail of a junk. The horizon is naked. Gone!but how soundlessly, how swiftly! She makes nineteen knots. And, oh! Koto-shiro-nushi-no-Kami, there probably existed eggs on board!

初夏   立原道造

     初夏

 

街の地平線に 灰色の雲が ある

私の まはりに 傷つきやすい

何かしら疲れた世界が ただよつて

ゐる 明るく 陽ざしが憩んでゐる

 

そして 一本のポプラの木が

白い壁のまへで 身もだへしてゐる

ああ 西風が吹いてゐる きらきらと

うすい陽ざしがちらついてゐる

 

しかし 屋根ばつかりの 街の

地平線に 灰色の雲が ふえてゆく

 

私を 生んだ 私の母の ちひさい顏を

私は 不意に おもひ出す

 

ああ 陽ざしがかくれる かげが

しづかにひろがる 風がやはり吹いてゐる

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇のかの名篇「草に寢て‥‥」の直前に配されてある。他の後続の選集でも同じように配置されているので、この二つの詩篇の共時性や親和性はすこぶる高いと考えてよいであろう。第一連四行目の「憩んで」は後続の諸本のルビからも「やすんで」と訓じてよいであろう。]

2015/09/22

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 延命寺

   ●延命寺

米町にあり、歸命山と號す、本尊彌陀、及び地藏を安す、此像は北條時賴の夫人あ念持佛(ねんじぶつ)にて、身代地藏と稱す、夫人此佛德にて、無實の難を遁れし事あり、故に身代(みがはり)の稱呼起れりと云ふ、是より北條氏代々の念持佛なりしが、正慶年中、更に一宇を建立して、安置せしと傳ふ。

[やぶちゃん注:現在の材木座一丁目、下馬四ツ角の近くに浄土宗寺院として現存する。以下、黄門さま大激怒の「新編鎌倉志卷之七から、私の注ごと引いておく。この怒り用ようが実に面白いんである。

   *

〇延命寺 延命寺(えんめいじ)は、米町(こめまち)の西にあり、淨土宗。安養院の末寺なり。堂に立像の地藏を安ず。俗に裸(はだか)地藏と云ふ。又前出(まへだし)地藏とも云ふ。裸形(らぎやう)にて雙六局(すごろくばん)を蹈ませ、厨子に入れ、衣(きぬ)を著せてあり。參詣の人に裸にして見するなり。常(つね)の地藏にて、女根(によこん)を作り付けたり。昔し平の時賴、其の婦人との雙六を爭(あらそ)ひ、互ひに裸にならんことを賭(かけもの)にしけり。婦人負けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じ局(ばん)の上に立つと云ひ傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起こさしめん爲(ため)の佛を、何(なん)ぞ猥褻(わいせつ)の體(てい)に作るべけんや。

[やぶちゃん注:編者は珍しく、聖なる地蔵を女体に刻んで、あろうことか会陰まで施すなんどということは破廉恥極まりないと不快感を示し、吠えている。面白い。白井永二編「鎌倉事典」によれば、この本尊は江戸への出開帳も行ったとあり、恐らくこの秘所を参拝者に見せることが行われていたのではなかろうか。現在okado氏のブログ 「北条時頼夫人の身代わりとなったお地蔵さま~延命寺~」でかなり古い法衣着帯の写真を見ることが出来る。「總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ」とあるが、これは感情的な謂いで、正しくない。鎌倉期には仏像のリアルな写実性が追及され、また生き仏のニュアンスを与えるために裸形の仏像に実際の衣を着せることが一部で流行した。奈良小川町にある伝香寺の裸地蔵、同じく奈良高御門町の西光院の裸大師、西紀寺(にしきでら)町の璉城寺(れんじょうじ)の光明皇后をモデルとしたとされる裸形阿弥陀如来像、奈良国立博物館所蔵裸形阿弥陀如来立像等がそれで、実際に私は以前にある仏像展の図録で、そうした一体の裸形地蔵写真を見たことがあるが、その股間には同心円状の何重もの渦が彫り込まれていた。聖なる仏にあっては生殖器は正に異次元へと陥入して無限遠に開放されているといった感じを受けた。但し実はそれは私には、デュシャンの眩暈の「回転硝子盤(正確さの視覚)」を見るようで、デュシャン的な意味に於いて、逆にエロティクに見えたことを付け加えておく。]

   *

「米町」鎌倉攬勝考卷之一の「鎌倉中被定置町屋の名(鎌倉中、定め置かるる町屋の名)」にあるのがそれ。私の注ごと引く。

   *

穀町[米町同所] 大町の四辻より、西は琵琶橋へ達する横町をいふ。此邊は建曆三年五月六日和田亂の時、足利義氏町の大路にて陣を張とあり。又米町辻、大町の大路にて所々合戦とあるは此邊なり。

[やぶちゃん注:これは「吾妻鏡」の建暦三(一二一三)年五月小二日の和田合戦の記事中に「又於米町辻大町大路等之切處合戰。足利三郎義氏。筑後六郎知尚。波多野中務次郎經朝。潮田三郎實季等乘勝攻凶徒矣。」(又、米町の辻、大町大路等の切處(せつしよ)に於て合戰す。足利三郎義氏、筑後六郎知尚、波多野中務次郎經朝、潮田(うしほだ)三郎實季等、勝つに乘じて凶徒を攻む。)の箇所を言うか。「切處」は戦闘時の要所の謂いであるらしい。]

   *

ちなみに「穀町」は「こくまち」と読んだものと思われる(白井永二編「鎌倉事典」の「米町」ではそう読んでいる)。
 
「正慶年中」「しょうきょう」或いは「しょうけい」と読む。持明院統、後の北朝方に於いて使用された元号。幕府滅亡の前後で指示し難いが、元徳四/元弘二年四月二十八日(一三三二年五月二十三日)に正慶に改元されたが、翌正慶二/元弘三年に鎌倉幕府は滅亡して後醍醐天皇が還幸、同五月二十五日(一三三三年七月七日)に光厳天皇が退位して正慶の元号は廃されて建武へと改元されたから、物理的にはその期間を指すとは言える(が、しかし、後醍醐天皇はこの時に光厳天皇の即位と「正慶」の元号の無効を宣言してしまっている。以上はウィキ正慶を参照した)。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 田代觀音堂

   ●田代觀音堂

田代觀音堂は普門寺と號す、妙本寺の東南なり、安養寺の末寺堂の額に白花山とあり、坂東巡禮札所の第三、本尊千手觀音なり、此西の方を田代屋敷と云、田代冠者(たしろくわんじや)信綱か舊跡、今は畠なり。

[やぶちゃん注:またしても「新編鎌倉志卷之七」の引き写しである。

   *

〇田代觀音堂〔附田代屋敷〕 田代(たしろ)の觀音堂は、普門寺と號す。妙本寺の東南なり。安養院の末寺、堂の額に、白花山(はくくはさん)と有り。坂東巡禮札所の第三なり。本尊、千手觀音なり。此の西の方を田代屋敷(たしろやしき)と云ふ。田代の冠者信綱が舊跡也。今は畠なり。

   *

この寺は永らく安養院と同位置或いは同一の寺とする誤った認識が一部にあった、或いはあったものと思われる。その証拠に、本『風俗画報』には、なくてはいけないはずの安養院の項がどこにいもない。これはまさしく、この記者が無批判に「新編鎌倉志」を引き写し、現地探索を怠った結果である。この寺、「新編鎌倉志卷之七」にある妙本寺の周辺を描いた絵図を見ても、妙本寺の東南東の一尾根越えた妙本寺の近在地に示されてある。これはどう見ても現在の安養院の位置ではない。現在、一部のガイドでさえ、この田代観音堂と安養院を同一に扱っているものが見受けられるが、リンク先の絵図を見ても分かる通り、位置的には安養院に近いものの、全く別個な寺院であって、そもそも「安養院」は「新編鎌倉志卷之七」でも、本『風俗画報』でも、この後に別に項立てして掲げられているのである。前にも述べたが、この雑誌片手に「田代觀音堂」を一所懸命探して汗だくになっている旅行者の徒労を考えると、記者の、あたかも現存するものとして無批判に引き写した罪は頗る重い。

 実はこの寺については『相模国風土記』に、

延宝八(一六八〇)年十月晦日の火事で安養院に移った

旨の記載がある。

 この年号に注目されたい。「新編鎌倉志」の元となった、

光圀自身の来鎌は延宝二(一六七四)年

で、その後に本書

「新編鎌倉志」の完成板行されたのは貞亨二(一六八五)年

であった。正に、

執筆途中に田代観音堂は移動してしまった

のであった。従ってこの「新編鎌倉志卷之七の絵図は辛くも残った、

本当の「田代觀音堂」の位置を伝えるもの

なのである。私は「新編鎌倉志」の編者らは、この全焼と観音像移動前に、この巻を校了してしまっており、こうしたアップ・トゥ・デイトに発生した鎌倉域内での大きな変異は全く反映されることがなかったものと推理するのである。

 因みに、幕末の文政十二(一八二九)年刊の植田孟縉(うえだもうしん)編の「鎌倉攬勝考卷之七」も、その事実を知らず、しかもここでも実地調査をせず、ご覧になれば分かる通り、ほぼそのままに書き写してしまった結果、あたかもその頃にも田代観音堂が実在したかのような、

   *

田代觀音堂 普門寺と班す。妙本寺の東南なり。安養院末、堂の額に白華山と有。本尊千手觀音、坂東第三番の札所。此の西の方を田代屋敷と唱ふ。田代冠者信綱が舊跡。今は畑なり。

   *

というとんでもない誤記載を犯しているのである。こうした無批判な引き写しが、遂には明治の近代最初の本格鎌倉ガイドブックにさえもおぞましくも引き継がれてしまったのである。無批判な引用をする記者はジャーナリズムの風上にも置けない。いやいや、未だに今日只今、同じようなことをして平然としている輩も、いるようだ。全く以って――危険がアブナいよ――

「田代信綱」(生没年不詳)は石橋山の戦で頼朝に従い、後、源義経の下で平家討伐に辣腕を振るった。後三条天皇後胤とも伝えられる人物である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その4)

M678

図―678

 

 寺院や道路には、過去に於る壮麗を物語るものが多かった。朽ちた鳥居が灌木類と草とのこんがらかった内に立ち、海水がその底部まで来たり(図678)、面白い形をした古い石橋が、そこへ行っている道路がまるで見えないのに、広い河にかかっていたりした。比較的近い時代に、陸地が低下したに相違なく、人間の仕事の痕跡は故にのみ込まれて了っている。我々が和歌山へ戻った時には、月が上り、空気は生き生きする程涼しくて、景色も実に気持よかった。翌日はドクタアも一緒に海岸へ行き、そこで我々は大いに泳いだ。

 

 私は、老婦人たちが著しくよい顔立をしているのに気がついた。非常に優しく、母性愛に満ち、そして利巧そうな顔である。事実私は、日本で私が訪れた多くの土地の中で、ここに於る程立派な、そして智的な老婦人が多い場所は無いともいい度い。子供達もまた非常に可愛らしく、一般的な文化と典雅の気分が、旅行者を直ちに印象づける。恰も三日にわたる先祖祭の時に当ったので、子供は皆美しくよそおい、夜になると奇麗な色の提灯を持って歩くのだった。街々には仮小屋が立ち並び、かかる叫び声と陽気さとの活躍は、それ等のすべてを支配するこの上なしの礼譲と丁重さとが無かったら、殆ど取りのぼせる位であったろう。一晩、我々は花火を見に行った。それは高さ二十フィートに近い、筵でつくった大きなかこいの内で行われた。花火はいずれも簡単だが非常に美しく、群衆が驚嘆して発する音は、我国の人々が同様の場合に出す音と、全く同じであった。

[やぶちゃん注:彼らの和歌山行は明治一五(一八八二)年の八月下旬、神戸を和歌山に向けて発ったのは八月二十五日か遅くとも二十六日と考えられる(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の叙述から推定)。一方、同明治一五(一八八二)年八月末の旧暦を見てみよう。

 新暦八月二十六日(土)  旧暦七月十三日

    同二十七日(日)  旧暦七月十四日

    同二十八日(月)  旧暦七月十五日

    同二十九日(火)  旧暦七月十六日

    同 三十日(水)  旧暦七月十七日

    同三十一日(木)  旧暦七月十八日

である。後のモースの叙述から、一行は和歌山を八月三十一日に発っていることが判っている。本文のここまでの叙述と本段落の謂いから、この美しい花火と上気するハーン一行の恍惚としたシークエンスは明治一五(一八八二)年八月の旧暦のお盆の中日に当たる二十八日か、盆踊りなどの後夜祭祭事が行われるケースが多い旧暦十六日相当の翌二十九日の情景ではないかと私は推定する。大方の御批判を俟つ。

「二十フィート」凡そ六・一メートル。]
 
 

M679

図―679

 

 和歌浦では、漁師が網に渋を引く為に、松の樹皮を煮ていた。何故舟の帆にも渋引きをしないのかと聞くと、帆は渋を引くとよくもたぬと答えた。図679は、その簡単な渋引場である。岸に引き上げられた漁船の形は、日本の他の場所に於るのと、多少異っていた。国々によって、舟に目立つ相違がある。もっとも、すべて著しく乾燥した舟で、荒い海に卵殻のように浮ぶ点は同一である。

 

 どこへ行っても、都会の町々の騒音の中に、律動的な物音があるのに気がつく。日本の労働者は、働く時は唸ったり歌ったりするが、その仕事が、叩いたり、棒や匙でかき廻したり、その他の一様の運動である時、それは音調と律動とを以て行われる。これ等の音は、呻きの連続であることもあり、本当の歌であることもある。金箔師や魚刻み人は、必ず一種独特の拍子で、叩いたり刻んだりする。生の魚を調理する奇妙な一方法は、それを石の臼で糊状になる迄こするのである。臼は地上に置かれ、杵は長い棒であるが、仕事をする者は立ったままで、素敵な勢で働く。かきまぜる動作には、一種異様な口笛を吹くような音が伴うが、これが長くかき廻すことと、短くかき廻すこととによって中断される動作と、完全に一致する。鍛冶屋の手伝が使用する金槌は、それぞれ異る音色を出すように出来ているので、気持のよい音が連続して聞え、四人の者が間拍子を取って叩くと、それは鐘の一組が鳴っているようである。労働の辛さを、気持のよい音か拍子かで軽めるとは、面白い国民性である。

 

 田舎の町で人々が、如何に目立たぬように、外国 人が来たことを、お互に知らせ合うかを見ることは興味がある。彼等は、彼が彼等の戸口の前を過ぎる余程前から、彼の近づくことを知るらしい。屢々子供が走って行ってお母さんに知らせたり、お母さんが子供達の注意をこの不思議な光景に向けたりするが、それをするのに彼等は決して大声を出したり、指さしたりしない。東京、京都その他の大都会では、外国人も注意を引く程珍しくはないが、而も東京のような大都会でも、片隅へ行くといくらか注意を引き、また都会へ出て来た田舎者は、外国人に興味を持つことでそれと知られる。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その3)

M675

図―675

M676

図―676

 

 街道のある場所で休んだ時、よくある種の吸物に入っている、一種の変った食物を製造していた。これは艶々した黄色で、紙のように薄く、味とては別に無い。大豆から奇妙な、且つ簡単な方法でつくり出す。先ず豆を非常にやわらかくなる迄、大きな釜で煮、臼にかけて細かく挽いて糊状になし、水をまぜ、外国から輸入する、ある種の染料で色をつける(図675)。そこでこれを四角く仕切られた浅い水槽へ入れるが、その下には炭火があり、常にとろとろと煮立て続ける。するとその表面が煮た牛乳か、ココアの一杯に於るが如く凝結するので、かくて構成される薄膜を、細い竹の箸で巧みに取り上げ、ひっかけて乾燥させる(図676)。別の薄膜も、出来るに従って、忙しく働きつつある娘に、すばやく取り上げられる。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、湯葉である。]

 

 和歌山に近い紀伊の平原に入った時の景色は、まことに奇麗であった。ひろびろとした稲田のあちらこちらには、褐色の葺屋根と白い壁とを交えた黒い瓦屋根の百姓家が数軒ずつかたまり、その上には深く暗色に茂る葉の、面白い形の木が聳えるのだが、それがすべて何マイルにわたる最も艶々した緑色の、完全に平坦な敷物の上に散在している。和歌山の位置は、地平線上に高くぬきんでて、周囲の景色の中での目立つ特徴をなすお城によって、遠方からでもそれと知られる。

M677

図―677

 

 ある国から他の国へ旅行すると、いろいろなことが違っているのに気がつく。瓦葺きの屋根の変種に就ては、この日記ですでに述べるところがあった。図677は紀伊で使用される犂(すき)の一種である。これは山城で用いられるものと同様であるが、それ程頑丈でもなければ、また優雅でもない。

 

 我々は夕方の六時に、和歌山へ着いた。この都会は低い丘陵の上に、大きな立木に取りかこまれて位置する。五万か六万の人口を持っているのだが、それにもかかわらず、簡素で静かである。町の内を、人力車を走らせて行くと、人々は熱心な有様で我々を凝視した。ある場所を訪れる外国人の数は、そこで我々が受ける凝視の量と質とによって推測することが出来る。我々は、外国人がめったに和歌山に行かぬことと判断した。我々は清潔な旅籠(はたご)屋を見つけた。何かを喰い、そして床につくことは、よいものである。翌朝我々は、例の如く陶器をさがしに出かけて沢山手に入れた。翌日も、最初の日と同じことをくり返した。

 

 その日の午後、田原氏と私とは、小漁村和歌浦へと人力車を走らせた。ここは海岸から一寸入った場所で、遠方には美しい山々が聳えている。その山の一つの中腹には、大きなお寺が落陽の光に輝いていた。我々が越した一つの小さな橋の上では、大人や子供の群が蜻蛉(とんぼ)を捕えて遊んでいた。彼等は正規的な捕虫網を持っていたが、ある一人は両手を自由にしておくために、四匹の蜻蛉を翅(はね)を後に廻して、口でくわえていた。また一人の男の子は、同じようにした蜻蛉数匹を、指の間にはさんでいた。子供達は、蜻蛉の胸と腹との間に糸を結びつけて遊ぶ。虫は飛びながら、軽い糸を数フィートぶら下げている。これは日本いたる所で見受ける子供の遊びである。

[やぶちゃん注:「和歌浦」(わかのうら)は和歌山県北部、現在の和歌山市南西部に位置する海浜を含む広域の景勝地で古来よりの歌枕でもある。ウィキ和歌浦によれば、現行の『住所表記での「和歌浦」は「わかうら」と読むために、地元住民は一帯を指して「わかうら」と呼ぶことが多い。狭義では玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を指すのに対し、広義ではそれらに加え、新和歌浦、雑賀山を隔てた漁業集落の田野、雑賀崎一帯を指す。名称は和歌の浦とも表記する』とあり、「万葉集」にも『詠まれた古からの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。近現代において東部は著しく地形が変わったため往時の面影は見られない』ともある。『和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が』、

 若の浦に 潮滿ち來れば 潟をなみ 葦邊をさして 鶴(たづ)鳴き渡る(「万葉集」巻第六(九一九番歌))

『と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載されている』。『平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる』とある。

「数フィート」一フィートは三十・四八センチメートルであるから、百九十センチメートルほどか。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その2)

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図―673

 

 紀伊のある所で、私は稲田の草を取るのに使用する、奇妙な道具を見た。それは底の無い箱で、その内側には二本の棒が横に渡してあり、それに木の留釘が打ってある。この箱から長い柄が出ていて、それで稲の列の間を押して行くのである。図673を見れば、その形がたいていは判るであろう。これは我我がそれを見た村の住人が発明したものである。

[やぶちゃん注:これは「手押し除草機」と呼ばれるもので、現在でも改良されたものが実際に使われている(グーグル画像検索「手押し除草機」を参照されたい)。幾つかのネット記載や古そうな画像を参考にする限りでは、明治以降に創出された農工具のように思われ、東北地方への伝搬は、写真では昭和も戦後のことのように記されてあるので、南の稲作農家に於いて創始されたものというのは正しいように思われる。]

 

 和泉と紀伊の国境をなす山脈を越える峠は、道路が完全で、見事な石の橋もあり、実に愉快だった。

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図―674

 

 人はいたる所で、山の洪水から道路を保護するために、念入りの努力が払われていることに気がつく。渓流の河床でさえも、激流が何等の害をしないように、道路同様に鋪石してある。図674を見る人は、朧気ながら、橋の迫持受(せりもちうけ)と河床とを保護する方法を知るであろう。水があまりに早く流れることを防ぐために、橋の下方には大きな堰が出来ている。ここに出した橋は、和泉を去って紀伊に入った所の峠にあるものの一つである。

[やぶちゃん注:「迫持受(せりもちうけ)」橋のアーチ状になった両岸に接合する両端部分を受ける箇所を指す。ここは図のその部分の石組を指していよう。]

 

 私は和泉で、屋根が奇妙な方法に処理してあるのを見た。先ず柿板(こけらいた)を薄く並べた上に、泥を薄く敷きつめ、その上から大きな木の槌で綿の種子を一層叩き込む。種子は油をしぼり取った残物であるが、油気があるので、泥が固くなり、太陽で焼かれる迄、防水上塗になるのである。

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十章 美保の關にて (七)

 

        

 

 美保の關は晝間は極めて靜かで眠さうだ。たゞ長い間を置いて、子供の笑聲や舟を漕ぐ水夫の歌が聞える。その舟は熱帶以外で私が見た中では、最も異常なもので、御座船のやうにどつしりとしてゐて、動かすに十人も要る。水夫は丁字形の柄が附いた橈(丁といふ字の下端を延長して橈身にしたと思へばよい)を用ひて、眞裸で仕事にかかる。一漕ぎ每に足を舷に押當てて力を橈に與へ、手を停める都度、奇異な繰り返しの文句を歌ふ。その柔かな哀調が、私をして西印度の海邊で聞いた、西班牙種のクリオール人の古曲を想ひ出させた。

    アラ、サーノ、サノサ、

    イヤ、ホー、エンヤ。

           ギイ、

           ギイ。

 歌は長く高い音で始まつて、極少々づゝ一字毎に低くなつて、終ひに殆ど不分明な微聲になつて消える。それからギイ、ギーと漕音が響く。

 しかし夜分は美保の關は、西部日本での最も騷がしく賑かな小港だ。灣の一角から他端まで宴會用の高い燭臺の燈光が水に映る。全體の空氣は酒宴の聲音で鼓動する。鼓の響、少女のうるはしい悲しげな歌、三味線の鳴る音、踊のとき拍子に合せて手を拍つ音、拳をうつ人が盛に叫び笑ふのが到る處に聞える。これは皆船頭達が道樂をする音に外ならない。いづこも同じ船員氣質で、美保の關へ人つた船は酒と舞妓のために、三百圓乃至五百圓の金を港へ殘しておくといふ話である。波を鎭め風を順にして期を違へず、無事に船を美保の關へ着かせるやう、水夫共はこの雞卵嫌ひの明神に祈るけれども、穩かな海上一路、和いだ順風に帆をあげてこゝへ來た揚句、神社に献ずる金品は僅少なもので、藝者や宿屋營業者に拂ふのは驚くべき巨額である。それでも神樣は御辛棒强い――卵の件を除いては。

 しかし日本の水夫は西洋の水夫に比べると温和なものである。而して一種の上品さと丁寧な風習さへ備へてゐる。暑いから腰まで裸で宴席に坐つて居るが、箸の使ひ振りの手際よく、酒の献酬の上品なことは、上流な人々に異らない。また女達を親切に遇してゐるらしい。町を隔てて彼等が宴を張つてゐるのを見るのは愉快である。その笑聲は普通の町人よりはや〻やかましく、身振もや〻猛烈であらうが、眞に無禮らしいやうな點は少しもない。況して亂暴の點はない。綺麗な藝妓が芝居風の踊を始め出すと、皆が像のやうにジツとして無言になる――十五個の立派な銅像が座敷の壁に並んだやうだ。この踊は西洋の客に取つては一見不可思議で、妖女の藝當のやうであるが、實は昔の物語を、活躍せる優美な言葉と、婦人の微笑といふ詩に飜譯したのである。而して酒が𢌞るにつれて賑ひは更に慇懃を加へ、酒がもたらす心地よい眠が終に皆の上に落ちかかると、客は一人づ〻笑顏で立つて行く。彼等の夜の賑ひほど愉快で温和なものはあるまい。しかも水夫は日本では特別荒々しいものと考へられてゐる。こんな國では西洋のあばれ者をどう思ふことだらう。

 さて、私は日本に來てから十四ケ月にもなるが、まだ怒罵の聲を聞かねば、喧嘩を見たこともない。男同志撲り合つたり、婦人がめられたり、子供が打たれたりするのをまだ一度も見ない。實際日本で眞の荒々しさといふものを開港場の外、何處へ行つても見たことがない。開港場では下等社會の者が歐洲人との接觸によつて、固有の丁寧さや、固有の風儀を失ひ、質素な快樂を樂しむといふ能力さへ無くしたやうに見える。

[やぶちゃん注:「西班牙」老婆心乍ら、「スペイン」と読む。

「クリオール人」“Creole”は植民地で生まれたネーティブ以外の人々を指す。本来はスペイン語の「クリオーリョ」で、新大陸生まれのスペイン系の人々を指した言葉であったが、後に「植民地生まれの白人」を指すようになり、やがてそうした人々の「混血の者」、更には「アフリカ系の者」をも含むようになって、意味が広範になった。「クレオール」「クリオール」「クリオーリョ」とも呼ぶ。アメリカ人の発音を聴く限りでは「クリヨォーオル」と聴こえる。

「三百圓乃至五百圓」以前に用いた、一円を今日の八千七百円と換算するなら、これは実に二百六十一万円乃至四百二十五万円に相当する。

「況して」老婆心乍ら、「まして」と読む。

「私は日本に來てから十四ケ月にもなる」原文では「日本」ではなく「出雲」である。ハーンが松江に来たのは、明治二三(一八九〇)年八月末である。この八月を入れても、「十四ケ月」後は翌年の九月になる。落合氏の訳の通り、訪日の明治二十三年四月四日からでは、翌年の五月となるが、美保の関の訪問は、翌明治二十四年の八月で、おかしい。ここは、やはり、「出雲」=「松江」の意である。とすると、この微妙な齟齬は、まさに本作が書かれている現時間を意味しているとは言えまいか? これは則ち、松江を拠点にハーンが杵築を始めとして旧出雲の聖霊の旧所を訪問したその翌月九月の、実際に本作を書き記しているという、その現時間に於ける感懐が、図らずも表出してしまったのだとは言えないだろうか? 大方の御批判を俟つものではある。]

 

Sec. 7

   Very sleepy and quiet by day is Mionoseki: only at long intervals one hears laughter of children, or the chant of oarsmen rowing the most extraordinary boats I ever saw outside of the tropics; boats heavy as barges, which require ten men to move them. These stand naked to the work, wielding oars with cross-handles (imagine a letter T with the lower end lengthened out into an oar-blade). And at every pull they push their feet against the gunwales to give more force to the stroke; intoning in every pause a strange refrain of which the soft melancholy calls back to me certain old Spanish Creole melodies heard in West Indian waters:

   A-ra-ho-no-san-no-sa, 
    Iya-ho-en-ya!
                             Ghi!
                             Ghi!

   The chant begins with a long high note, and descends by fractional tones with almost every syllable, and faints away a last into an almost indistinguishable hum. Then comes the stroke, 'Ghi!ghi!'

   But at night Mionoseki is one of the noisiest and merriest little havens of Western Japan. From one horn of its crescent to the other the fires of the shokudai, which are the tall light of banquets, mirror themselves in the water; and the whole air palpitates with sounds of revelry. Everywhere one hears the booming of the tsudzumi, the little hand-drums of the geisha, and sweet plaintive chants of girls, and tinkling of samisen, and the measured clapping of hands in the dance, and the wild cries and laughter of the players at ken. And all these are but echoes of the diversions of sailors. Verily, the nature of sailors differs but little the world over. Every good ship which visits Mionoseki leaves there, so I am assured, from three hundred to five hundred yen for sake and for dancing-girls. Much do these mariners pray the Great Deity who hates eggs to make calm the waters and favourable the winds, so that Mionoseki may be reached in good time without harm. But having come hither over an unruffled sea with fair soft breezes all the way, small indeed is the gift which they give to the temple of the god, and marvellously large the sums which they pay unto geisha and keepers of taverns. But the god is patient and longsufferingexcept in the matter of eggs.

   However, these Japanese seamen are very gentle compared with our own Jack Tars, and not without a certain refinement and politeness of their own. I see them sitting naked to the waist at their banquets; for it is very hot, but they use their chopsticks as daintily and pledge each other in sake almost as graciously as men of a better class. Likewise they seem to treat their girls very kindly. It is quite pleasant to watch them feasting across the street. Perhaps their laughter is somewhat more boisterous and their gesticulation a little more vehement than those of the common citizens; but there is nothing resembling real roughnessmuch less rudeness. All become motionless and silent as statuesfifteen fine bronzes ranged along the wall of the zashiki, [2] -when some pretty geisha begins one of those histrionic dances which, to the Western stranger, seem at first mysterious as a performance of witchcraftbut which really are charming translations of legend and story into the language of living grace and the poetry of woman's smile. And as the wine flows, the more urbane becomes the merrimentuntil there falls upon all that pleasant sleepiness which sake brings, and the guests, one by one, smilingly depart. Nothing could be happier or gentler than their evening's
joviality
yet sailors are considered in Japan an especially rough class. What would be thought of our own roughs in such a country?

   Well, I have been fourteen months in Izumo; and I have not yet heard voices raised in anger, or witnessed a quarrel: never have I seen one man strike another, or a woman bullied, or a child slapped. Indeed I have never seen any real roughness anywhere that I have been in Japan, except at the open ports, where the poorer classes seem, through contact with Europeans, to lose their natural politeness, their native morals even their capacity for simple happiness.

 

2
   Zashiki, the best and largest room of a Japanese dwelling
the guest- room of a private house, or the banquet-room of a public inn.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十章 美保の關にて (六)

 

       

 

 美保神社のお札よりも、もつと私に取つて興味あるのは、神社の上の美しい丘頭に立つ寶壽寺の瓔珞だ。日本の少女に於ける、あらゆる美はしく純なるものの理想を表した觀音の三十三の諸相、卽ち三十三觀音の像が並列せる壇の前に、數多の珍らしいものが集合して、異樣な輝いた色の一團塊となつたのが、天井から垂下してゐる。さまざまの色の毛絲や、綿絲の球が幾百もある。絹の束絲や、絹織及び綿絲織の模樣がある。雀や他の生物の形をした、刺繡を施せる袋がある。竹の編みものや、針仕事のいろいろの製作品がある。すべて是等は小學校の女兒が、一切の優美と慈悲の童貞母に對する泰納品だ。幼女が婦人の仕事――裁縫、織機、編物、刺繡など――を幾らか習ひ出すと、彼女はその初めて立派に出來た作品を、寺へ携へてきて、『美はしき眼』のやさしい神、祈願の聲を見おろし玉ふ』女神に捧げる。幼稚園の子供さへ、彼等の最初の作品――彼等の小さな、花の如く柔かな手で、いろいろの型に切り拔いたり、組んだりした、綺麗な紙片――をこ〻へ持つてくる。

[やぶちゃん注:「寶壽寺」曹洞宗。とある方のブログの訪問記事によれば、外観建物はすっかり新しいものに建て替えられ、ハーンの面影を偲ぶよすがは感じられなかったとある(この方は中までは拝観されいないようである)。ハーンが見たこの美しい女児や婦人らの創ったものの奉納の習慣は一体今はどうなったのだろうか?……それだけが私には気にかかる……] 

 

Sec. 6

   Much more interesting to me than the ofuda of the Miojinja are the yoraku, the pendent ex-votos in the Hojinji, a temple of the Zen sect which stands on the summit of the beautiful hill above the great Shinto shrine. Before an altar on which are ranged the images of the Thirty- three Kwannons, the thirty-three forms of that Goddess of Mercy who represents the ideal of all that is sweet and pure in the Japanese maiden, a strange, brightly coloured mass of curious things may be seen, suspended from the carven ceiling. There are hundreds of balls of worsted and balls of cotton thread of all colours; there are skeins of
silk and patterns of silk weaving and of cotton weaving; there are broidered purses in the shape of sparrows and other living creatures; there are samples of bamboo plaiting and countless specimens of needlework. All these are the votive offerings of school children, little girls only, to the Maid-mother of all grace and sweetness and pity. So soon as a baby girl learns something in the way of woman 's work
sewing, or weaving, or knitting, or broidering, she brings her first successful effort to the temple as an offering to the gentle divinity, 'whose eyes are beautiful,' she 'who looketh down above the sound of prayer.' Even the infants of the Japanese kindergarten bring their first work herepretty paper-cuttings, scissored out and plaited into divers patterns by their own tiny flower-soft hands.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十章 美保の關にて (五)

 

         

 

 この綺麗な小さな宿屋は、二階から海を見おろし、三ケ月形の美保灣の殆ど一方の端にあつて、神社は殆ど他端にある。それで神社へ詣るには、全町を通らねばならぬ。左もなくば舟で灣を渡らねばならぬ。しかし町は一見の價値がある。海と山麓の間にギツシリ詰つてゐて、一本筋の町だけの餘地がある。

しかもこの一本の町が非常に狹いから、どこでも灘側の家の二階から岡側の向うの家の二階へ飛べる。庇や磨いた緣側や風にひらひらしてゐる模樣のついた暖簾などで、狹いけれども亦綺麗である。この本通から數個の小路のある所には長い小舟が着いてゐて、舳を突込まんばかりに埠頭の端へ出だしてゐる。私は水の中へ入つて見たいといふ氣になつて堪まらないので、神社へ詣る前に宿の背後から、一丈二尺の深さの透明な水中ヘザンブと飛び込んで灣を横切つて一泳ぎをして身體が凉しくなつた。

 神社へ詣る途中、澤山の小さな店先に竹を編んで作つた籠や、器物の面白い陳列を目擊する。精巧な竹細工品がこ〻の名物である。大抵の參詣者は土產として、何か小さな品を買ひ求める。

 美保神社は建築からいふと、出雲の普通の神社より別段目立つたものではないし、又內部の裝飾も一々說明するほどの價値がない。たゞ花崗石の鳥居の下、大きな唐獅子と石燈籠の間にあって、平坦な敷石が一面に廣く傾斜した門路は壯麗である。境内に入つては堅い靑銅の華麗な手水鉢の外、左ほど見るべきものはない。これは數噸の重さを有し、費用は數千圓もかかつたに相違ないが、寄進に係るものである。もつと粗末な奉納品には、拜殿の右の社務所に珍奇な蒐集がある。暴風に出逢つた船が事代主命の威力に導かれ、又は救はれて港へ入る光景をかいた、異樣な意匠と彩色を施した繪がズラリと掛けてある。これはは船頭達が献上したのだ。

 お札は出雲の他の著名な神社のものほどに珍奇ではないが、頗る熱心に求められる。あの數厘で賣られる、神名と誓約の數語を書いた白い紙片は、竹竿に結んで、この近國のあらゆる田畠に立ててある。こ〻で賣られるもので、最も珍奇なのは稻の種子の小さな包だ。祈を唱へ乍ら、この種子を蒔けば、何で願ひのま〻のものが、その種子から生ずるとのことである。竹、綿、碗豆、蓮、又は西爪、何でも構はない。たゞその種子を蒔いて、信じてさへすれば、望みの作物が生える。

[やぶちゃん注:「一丈二尺の深さ」水深約三・六四メートル。彼は、これから、美保神社にお参りするのであるからして、これは何と! まさに伊弉諾の頃から続くところの、海水による禊という、正しき礼法ではないか!]

 

Sec. 5

   This pretty little hotel, whose upper chambers overlook the water, is situated at one end, or nearly at one end, of the crescent of Mionoseki, and the Miojinja almost at the other, so that one must walk through the whole town to visit the temple, or else cross the harbour by boat. But the whole town is well worth seeing. It is so tightly pressed between the sea and the bases of the hills that there is only room for one real street; and this is so narrow that a man could anywhere jump from the second story of a house upon the water-side into the second story of the opposite house upon the land-side. And it is as picturesque as it is narrow, with its awnings and polished balconies and fluttering figured draperies. From this main street several little ruelles slope to the water's edge, where they terminate in steps; and in all these miniature alleys long boats are lying, with their prows projecting over the edge of the wharves, as if eager to plunge in. The temptation to take to the water I find to be irresistible: before visiting the Miojinja I jump from the rear of our hotel into twelve feet of limpid sea, and cool myself by a swim across the harbour.

   On the way to Miojinja, I notice, in multitudes of little shops, fascinating displays of baskets and utensils made of woven bamboo. Fine bamboo-ware is indeed the meibutsu, the special product of Mionoseki; and almost every visitor buys some nice little specimen to carry home with him.

   The Miojinja is not in its architecture more remarkable than ordinary Shinto temples in Izumo; nor are its interior decorations worth describing in detail. Only the approach to it over the broad sloping space of level pavement, under the granite torii, and between the great lions and lamps of stone, is noble. Within the courts proper there is not much to be seen except a magnificent tank of solid bronze, weighing tons, which must have cost many thousands of yen. It is a votive offering. Of more humble ex-votos, there is a queer collection in the shamusho or business building on the right of the haiden: a series of quaintly designed and quaintly coloured pictures, representing ships in great storms, being guided or aided to port by the power of Koto-shiro- nushi-no-Kami. These are gifts from ships.

   The ofuda are not so curious as those of other famous Izumo temples; but they are most eagerly sought for. Those strips of white paper, bearing the deity's name, and a few words of promise, which are sold for a few rin, are tied to rods of bamboo, and planted in all the fields of the country roundabout. The most curious things sold are tiny packages of rice-seeds. It is alleged that whatever you desire will grow from these rice-seeds, if you plant them uttering a prayer. If you desire bamboos, cotton-plants, peas, lotus-plants, or watermelons, it matters not; only plant the seed and believe, and the desired crop will arise.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十章 美保の關にて (四)

 

        

 

 島屋といふ宿屋の可愛らしい給仕女に向って、私は素知らぬ顏をして、しかし心では濟まないと思ひ乍ら、こんな怪しからぬ問を發した。

 『あのね、卵はありますか』

 觀音さまのやうな微笑を含んで、女は答へた。

 『家鴨の卵が少しござります』

 私は驚嘆の至りであった。それでは卵がござりまするのだ――家鴨のが。

 しかし此處には家鴨は居ない。海水ばかりの町に住んでは、家鴨は生甲斐があるまい。また家鴨の卵は悉く境港から持つて來るのである。

[やぶちゃん注:「島屋」ESPER氏のブログ「流浪オヤジの探検日記」の「美保関」によって、残念ながら現存しないものの、跡地が「小泉八雲記念公園」となっていることが判った。豊富な現在の美保関の写真によってハーンの歩いた街並みの面影が伝わってくる。必見! 

「境港」現在の鳥取県西部の境港(さかいみなと)市。美保が関(ここから境港は西南西に当たる)から現行の境港の港までは海路で六キロメートル強ある。三方を海に囲まれており、古えより日本海海側の重要港湾として栄えてきた街である。参照したウィキの「境港によれば、前の段でハーンが描出したように、『白砂青松の続く弓ヶ浜半島は東南にそびえる大山を背景に風光明媚な景観を呈して』おり、『大砂州である弓ヶ浜半島の北端に位置し、三方を中海と日本海これらを繋ぐ境水道とに囲まれている。境水道を隔てて、または、江島(えしま)大橋を渡り、島根県松江市(旧美保関町)と接する。砂州上にある土地で、平均海抜』は二メートルと頗る平坦である、とある。]
 

 

Sec. 4

   Unto the pretty waiting maiden of the inn Shimaya I put this scandalous question, with an innocent face but a remorseful heart:

   'Ano ne! tamago wa arimasenka?'

   With the smile of a Kwannon she makes reply:-'He! Ahiru-no tamago-ga sukoshi gozarimasu.'

   Delicious surprise!

   There augustly exist eggsof ducks!

   But there exist no ducks. For ducks could not find life worth living in a city where there is only deep-sea water. And all the ducks' eggs come from Sakai.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十章 美保の關にて (三)

 

        

 

 汽船で松江から美保の關へ行くには、晴天ならば愉快な旅である。中海(なかうみ)の美しい潟から外海へ出ると小蒸汽船は左方に當る出雲の長い海岸に沿ふて行く。この海岸は高く聳えて、丘陵絕壁が海から屹立し、大槪山頂に至るまで綠色で、また層をなして耕作した所も澤山あつて、階段を疊んだ綠色のピラミツドのやうな崖下は岩がちで、而してこの海岸の珍奇な皺目は太古の火山作用を想はせる。遙かの右手、靑い靜かな海のかなたに、伯耆の長い低い濱が蜃氣樓のやうに見える。その遠く連る濱は、靑い水平線を無限の白い筋で緣を取つたやうだ。猶その先きに森や雲のやうな丘陵の漠とした輪廓がある。それから一切のものの上に超然として高い空にヌツと聳えてゐるのが、壯麗な幽靈のやうな大山(だいせん)の姿で、その頂上には雪の線條がある。

 かやうにして多分一時間位、出雲と伯耆の間を航行する。左方の峨々たる海岸には、折折谷間の小村落が隱見する。右方の茫乎たる海岸は始終變はらない。やがて突然小蒸汽船は汽笛を鳴らし、左舷の怖ろしげな岬に向って進路を取り、その裾の岩礁に沿ふて走ると、先刻までは眼界から遮られて見えなかつたが、何ともいへない立派な灣に入る。陸地へ喰込んだ貝殼形の罅隙――凸凹多き綠樹蒼欝たる丘陵で圍まれ、水が澄んで深い半圓形の灣。灣頭を囘つて並んでゐるのが、頗る異樣な小さな町、美保の關なのである。

 灣に濱はなく、たゞ石垣の埠頭が半圓形をして、その上が家屋、そのまた上が綠色の神聖な丘陵となつてゐる。森の蔭から社殿の屋根の角が見える。家々の裏口から石段が深い水へ下つてゐて、大抵小舟がつないである。私共の汽船は美保神社の沖へ碇をとめた。神社の石を敷いた大きな通路は水際まで傾斜して、そこの石段にも小舟が繫いである。廣い門路を見上げると、巍然たる石の鳥居、巨大なる石燈籠、それから高い臺に坐して一丈五尺ほどの高さから人を見おろしてゐる二頭の壯麗な彫刻の唐獅子などが見える。是等の向うの方に、外庭の塀と門が見え、その向うに大きな拜殿の屋根が見え、それからもつと高い本殿の千木が、綠色の山を背景としてクツキリと見える。大阪から來た新式の遠洋航海 の船も二艘泊まつてゐる。切石で築いた頗る面白い小さな防波堤があつて、先端には石燈籠が載つてゐる。突堤と小島とをつなぐ彎曲した可愛らしい橋があつて、島には水の女神、辨天の祠が見える。

 卵が手に入るかしらんと、私は考へた。

[やぶちゃん注:「茫乎」老婆心乍ら、「ばうこ(ぼうこ)」と読み、広々としているさま、或いはぼんやりとして摑みどころのないさまをいう。

「罅隙」既出であるが、再掲する。「かげき」と読む。裂け目。割れ目。亀裂。罅(ひび)割れた隙き間のことである。

「美保神社」について再掲しておく(私は行ったことがないので再掲する以外に語ることは基本的に出来ないからである。従って同様の理由から――鎌倉の地誌などとは異なり――細部の地誌上の注も附さない/附せないのである[やぶちゃん注:二〇二五年二月二十日追記】昨年末二〇二四年十二月初頭、念願であった出雲大社参拝とともに、この美保神社に連れ合いの計らいで参ることが出来た。何時か、そのお返しに、本作に特化した小泉八雲を巡る旅をしたいと強く思っている。])。現在の松江市美保関町美保関にある美保神社。ウィキの「美保神社」から引く。事代主神系えびす社三千余社の総本社と自称し(引用元には『えびす云々ではなく事代主神を祀る神社の総本宮の意と思われる』と注する)、『えびす神としての商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める。また、「鳴り物」の神様として楽器の奉納も多い』。『右殿に大国主神の子の事代主神、左殿に大国主神の后の三穂津姫』(みほつひめ)『を祀る』とし、補注で『(三穂津姫命は大国主神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である「大物主神」の后神。事代主命は神屋楯比売神(かむやたてひめ)と大国主神との間の子供なので義理の母親にあたる)』とある。「出雲国風土記」には、『大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものとみられる』。創建の由緒は不詳ながら、八世紀に編纂された「出雲国風土記」の『神社台帳に記載される古社である。延喜式神名帳では小社に列する』。『中世より横山氏が神職を世襲した。近世ごろから「大社(出雲大社)だけでは片詣り」と言われるようになり、出雲大社とともに参拝者が増えるようになった。出雲大社とあわせて「出雲のえびすだいこく」と総称される』とある。

「巍然」老婆心乍ら、「ぎぜん」と読み、山や建築物などが高く聳え立っているさま。また、抜きん出て偉大に感じられるさまをいう。

「一丈五尺」一・五四五メートル。ハーンは蒸気船のデッキ(或いは上陸した埠頭)という非常に低い位置から仰視している点に注意。

「卵が手に入るかしらんと、私は考へた。」原文“I wonder if I shall be able to get any eggs!”。欧米人とはいえ、結構、ハーン先生、お茶目!] 

 

Sec. 3

   From Matsue to Mionoseki by steamer is a charming journey in fair weather. After emerging from the beautiful lagoon of Naka-umi into the open sea, the little packet follows the long coast of Izumo to the left. Very lofty this coast is, all cliffs and hills rising from the sea, mostly green to their summits, and many cultivated in terraces, so as to look like green pyramids of steps. The bases of the cliffs are very rocky; and the curious wrinklings and corrugations of the coast suggest the work of ancient volcanic forces. Far away to the right, over blue still leagues of sea, appears the long low shore of Hoki, faint as a mirage, with its far beach like an endless white streak edging the blue level, and beyond it vapoury lines of woods and cloudy hills, and over everything, looming into the high sky, the magnificent ghostly shape of Daisen, snow-streaked at its summit.

   So for perhaps an hour we steam on, between Hoki and Izumo; the rugged and broken green coast on our left occasionally revealing some miniature hamlet sheltered in a wrinkle between two hills; the phantom coast on the right always unchanged. Then suddenly the little packet whistles, heads for a grim promontory to port, glides by its rocky foot, and enters one of the prettiest little bays imaginable, previously concealed from view. A shell-shaped gap in the coasta semicircular basin of clear deep water, framed in by high corrugated green hills, all wood- clad. Around the edge of the bay the quaintest of little Japanese cities, Mionoseki.

   There is no beach, only a semicircle of stone wharves, and above these the houses, and above these the beautiful green of the sacred hills, with a temple roof or two showing an angle through the foliage. From the rear of each house steps descend to deep water; and boats are moored at all the back-doors. We moor in front of the great temple, the Miojinja. Its great paved avenue slopes to the water's edge, where boats are also moored at steps of stone; and looking up the broad approach, one sees a grand stone torii, and colossal stone lanterns, and two magnificent sculptured lions, karashishi, seated upon lofty pedestals, and looking down upon the people from a height of fifteen feet or more. Beyond all this the walls and gate of the outer temple court appear, and beyond them, the roofs of the great haiden, and the pierced projecting cross- beams of the loftier Go-Miojin, the holy shrine itself, relieved against the green of the wooded hills. Picturesque junks are lying in ranks at anchor; there are two deep-sea vessels likewise, of modern build, ships from Osaka. And there is a most romantic little breakwater built of hewn stone, with a stone lantern perched at the end of it; and there is a pretty humped bridge connecting it with a tiny island on which I see a shrine of Benten, the Goddess of Waters.

   I wonder if I shall be able to get any eggs!

一日   立原道造

    一日

 

私をささへて 黑い花があつた

私は それを 摘みとつた

祕密な白い液の重い滴りが

莖の色を 蒼ざめさせた

 

私の眼ざしは 枯れはじめた

私の饒舌は 息切れはじめた

黄昏は あちらの方で 一日を

心にもなく美しく化粧する と 私にはおもはれた

 

それが なぜ なのだらう?

窓の内側に燈がともつてゐて

ひそかな聲が呼んでゐるとき

多くの人が家もなく 急いでゐるのは!

 

私らが ひとつの橋で 明日

あり得ること 空しい問ひは

いつまでものこり そのままにそれは

問ひただしてやまないのだ

 

贋貨が通用しない日々はない

凋んだ花が 夜のうちに 生きかへるだらう

しかし 私は それを摘みとつた

私をささへて 黑い花があつた‥‥

 

    *

 

雪が霽れて――空には 鳩らが低く

飛んでゐる 曇つた空に‥‥風景よ

ときに おまへは 忘却であり

おまへは 美しい追憶である

 

おまへの灰色は 鳩らと共に

灰色であり むしろ 慰め! だ

ためらひながら ひとつの情緒の

こころよく 訪れるときに――

 

おまへとの一日が たとひ無限を

あこがれないものであらうとも

僕らのフーゲが むしろくらく低く

寂寥のみの場所の あらうとも

 

風景よ おまへは自らの光をねがふ

雪のあとの夕べのしづかさに住んで

 

    *

 

かつて私は Lyra をとり奏で

一日を 黄昏まで

うたひくらした日があつた

みづからの歌に聞き恍れながら

 

私の咽喉は金屬の

笛のやうに澄んでゐた

夢多かつた むなしい弱年の一日よ

私はいまは 夢で夢を描かうとする

 

身ぶりにまで 高まつたこの界ひに

しつかりと土の上に 私はいまは

架けようとする もつと大きなものを

 

怒りと一層激しい諦めで

眺められる あのひとつのものを

私が 靜かな測定器であるやうに

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。第三部に配された未発表の未定稿詩篇五篇の最後に置かれたやや長い一篇である。途中の二箇所に配した「*」記号は底本では小さな「*」が三角状に配されたものである。

第三連二行目「燈」新潮社「日本詩人全集」第二十八巻は「あかり」とルビを振る。留保する。

第五連一行目「贋貨」後続の諸詩集は「にせがね」とルビする。私もそれを採る。

第七連三行目「情緒」中村真一郎編「立原道造詩集」(角川文庫)は「じょうちょ」とルビする。留保する。

第八連三行目「フーゲ」音楽用語の「フーガ」(英語“fugue”或いは。元はラテン語由来のイタリア語“fuga”で「遁走」の意)のドイツ語“Fuge”の音写「フーゲ」であろう。複数の声部に於いてある主題の反復及び模倣(応答)が交互に現れる対位法による多声音楽の書法形式で、特定の調に転調しながら展開される。

第十連一行目「Lyra」頭が大文字になっているところから、これもドイツ語と採る。音写は「リューラ」で、狭義には古代ギリシャに於いて用いられた竪琴(通常は七弦)のことである。共鳴胴に立てた二本の支柱に横木を渡して弦を張ったものである。リラ。同語が星座の琴座を指すことからもわかるように、あの、竪琴である。

同四行目「恍れながら」は「ほれながら」と訓じていよう。

第十二連一行目「界ひ」は老婆心乍ら、「さかひ」と訓じる。]

夜 泉のほとりに   立原道造

    夜 泉のほとりに

 

言葉には いつか意味がなく‥‥

たれこめたうすやみのなかで

おまへの白い顏が いつまで

ほほゑんでゐることが出来たのだらう?

 

夜 ざはめいてゐる 水のほとり

おまへの賢い耳は 聞きわける

あのチロチロとひとつの水がうたふのを

葉ずれや ながれの 囁きのみだれから

 

私らは いつまでも だまつて

ただひとつの あたらしい言葉が

深い意味と歡びとを告げるのを待つ

 

どこかとほくで 啼いてゐる 鳥

私らは 星の光の方に 眼を投げてゐる

あちらから すべての聲が來るやうに

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。第三部に配された未発表の未定稿詩篇五篇の第四篇目。]

夕映の中に   立原道造

    夕映の中に

 

私はいまは夕映の中に立つて

あたらしい希望だけを持つて

おまへのまはりをめぐつてゐる

不思議な とほい人生よ おまへの‥‥

 

だがしかしそれはやがて近く

私らのうへに花咲くだらう と

私はいまは身をふるはせて

あちらの あちらの方を見てゐる

 

しづかだつた それゆゑ力なかつた

昨日の そして今日の 私の一日よ

心にもなく化粧する夕映に飾られて

 

夜が火花を身のまはりに散らすとき

私は夢をわすれるだらう しかし

夢は私を抱くだらう

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。第三部に配された未発表の未定稿詩篇五篇の第三篇目。――私たちは容易に夢を忘れる……しかし……真実(まこと)は……《私たちが夢を抱く》のではない……《夢が私たちを抱く》のである――と、道造は私たちに教えて呉れる。……]

晩春   立原道造

    晩春

 

しづかだつた 一日が

をはらうとする 光は

何と さびしいのだらう

黄ばんだ うすい紙のやうに ふるへながら

 

私の部屋の まだ不確かな 隅の方の

くらがりの 上に 訪れる

私は 熱い眠りから 覺めた眼を

ちひさい蛾の飛びまはる そのあたりに さまよはす

 

私の心は 不意に呼ばれる いくつかの ちがつた

夕ぐれに‥‥雨がやさしい愛のやうにそそいでゐた

そして 濡れながら私が歩いてゐた街裏に‥‥

 

疲れたうすらあかりは まだランプをともさない

だれもが 私を見捨てたやうに

そして 何もが正しいのだと 私の心はあきらめる

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。第三部に配された未発表の未定稿詩篇五篇の第二篇目。]

私の貧しさは‥‥   立原道造

   私の貧しさは‥‥

 

私の 貧しさは 暗い涙をたれ

ひつそりと 建物の壁に沿つて 歩く

風が 私の髮を かきみだしてゐる

怒つたやうに‥‥

 

不意に 明るい場所へ 出るので

影は 濃く 風が にほひはじめる

日向の色に 私の心は耐へかねない

しづかに 聲を立て むせび泣く

 

そして どこからか 老いた

母の うたふ聲が 私を立ちどまらせる

眠らせようとでも するやうに

 

明るい晝なのに 何かしら眠りが

私のうちを ゆきすぎる‥‥ああ

この疲れに 私の歩みは すでに馴れはじめた

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。第三部に配された未発表の未定稿詩篇五篇の最初の一篇である。私には第三連が格別に響く。]

2015/09/21

ブログ720000アクセス突破記念テクスト 火野葦平 千軒岳にて

   千軒岳にて   火野葦平

 

[やぶちゃん注:表題に出る「千軒岳」は過去の「河童曼荼羅」諸篇にも何度も出るが、不詳である。しかし恐らくは阿蘇山をモデルとすると考えてよいであろう(後述の「火山灰(よな)」の注を参照)。

 「天に沖する」とは、天に高く昇る、の意である。

 「數千尺」千尺は三百三メートルであるから、千八百メートル以上を指すと理解してよい。

 「火山灰(よな)」火山の噴煙とともに噴き出される火山灰の、九州全般及び特に阿蘇地方での呼称である。

 「軒昂」老婆心乍ら、「けんかう(けんこう)」と読む。人の意気が高く上がるさま、奮い立つさまの意で、現行では「意気軒昂」の四字熟語での使用が殆んどである。

 なお、本篇によってまたしても新たな生物学上の驚愕の新知見が示されていることに注目されたい。それは「河童の眼玉」は「いかなる高熱をもつてしても熔けることのない」物質であるという事実である。

 本テクストは本日、2015年9月21日に2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログが720000アクセスを突破した記念として公開する。 藪野直史]

 

   千軒岳にて

 

 草の葉を廂(ひさし)にしてこころよい晝寢のまどろみに落ちてゐた河童たちは、突然自分たちのからだが土の上に投げだされ、はつとおどろいた耳におどろおどろしく鳴る山の音をきいて、方角もわかたず思ひ思ひの方向に向かつて飛びたつた。鋸(のこぎり)のやうにぎざぎざのある千軒岳(せんげんだけ)の絶頂からは、天に沖(ちゆう)するごとく噴煙がまきあがり、炬大な岩石が毬のごとく無數に飛び、煮えかへる轟音(がうおん)をとどろかして眞紅の焰が噴きあがつた。飴をとろかすやうに頂上の山形を崩し、いろいろの姿に變へながら溢れだして來た熔岩(ようがん)が、樹をたほし、草を燒き、眞紅のかがやきを長々と曳きながら、凹凸のある山腹の斜面をながれくだつて行つた。數千尺の高さに噴きあげられた煙の中に、嵐が生じ、雷鳴が起り、電光が靑白い焰のごとく間斷なく閃いた。この豪宕(がうたう)なる火山の圈外(けんがい)に逃げだした多くの河童たちは、もはやそのすさまじい物音もほとんどかすかにしかききとることができぬ堤のかげに來て、はじめてその馬鹿々々しく大仰の自然の振舞を嗤(わら)つた。爆發の刹那に起つたはげしい地震のために、背中の甲羅にひびが入つたり、皿を割つたりした河童たちは、自然の愚劣な行爲に對しておさへがたい輕侮の念を抱いたのである。夜になるとなほ火を噴く山のために、空は眞赤に染まり、河童たちが水をのみにおりて行つた溪谷(けいこく)の谷川は血のながれのやうに見えた。勇氣のあるものはその水をのんだが、さうでないものは、川のながれが赤いのは赤いのではなく、ただ火山の光を映じて赤く見えるだけで、水はなんともなつてゐないのだといふことを信ずることができず、からからに咽喉がかわいてゐたのにもかかはらず水をのむことができなかつた。千軒岳は數日ののちに火を噴くことをやめたが、その擴がつた火口から火山灰(よな)をふくことをやめなかつた。千軒岳の裾野をふくむ高原の靑草は火山衣のため萎(しを)れ、河童たちが夏の強い日ざしを避けて晝間のまどろみのときの廂にした叢(くさむら)の多くは枯れた。降りくる火山衣が眼にしみて、河童たちは顏を洗ふためにたびたび谷間におりて行かなければならなかつた。また、うかつにうたたねをして居ると、火山灰が頭の皿にたまつて水分を吸收し、氣分が惡くなり力が拔けてしまふやうなこともあつた。地上が灰でざらざらと坐り心地がわるくなると、河童たちは牧場にゐる多くの黃牛(あめうし)の背中に休んだ。黃牛は河童が背中に乘ると、蠅を追ふ時とおなじやうに尻尾を動かしてこれを追ふ。輕くあしらはれたことで甚だしく自尊心を傷つけられた河童たちは、牛の背中をひつかいて飛び立つ。牧場の人たちはときどき黃牛の背中についてゐる奇妙な搔き傷がどうしてできたものか理解することができない。さうして熔岩でも降つて來て牛の背に落ちたのでもあらうかと、さかんに噴煙をつづけてゐる千軒岳のいただきをはるかに望むのである。河童たちはつひに千軒岳の噴火口の上を飛びあるくやうになつた。いたづらに千軒岳を遠望してゐることが彼等の矜持(きようぢ)に添はず、勇氣ある一匹の河童が或る日干軒岳の頂上に飛んで行つて、はるか高いところからその絶頂の火口を見下し、或る程度の高度を保つて居れば絶對に危險はないといふことを冒險の果に證明してから、多くの河童たちはいづれも千軒岳の眞上を飛翔(ひしやう)するやうになつた。それはあたかも無數の蜻蛉(せいれい)の群のやうに見えた。火口からは見あぐる高さに火山灰(よな)を噴きあげ、火山灰は風のまにまに山脈の上を這ひながれて行つたが、河童たちの飛んでゐるところには一片の灰も來ず、河童たちは澄みきつた靑空の中を悠々と自由自在に飛び交うた。或るものは口笛を鳴らし、或るものは木の葉落しをやり、或るものは唄をうたひ、或ひは眼下に見える柘榴(ざくろ)のごとき噴火口の中に糞尿をたれおとし、自然を征服した軒昂(けんかう)の氣を負うて、自分たちの眼下に屈從し果てた大自然の意氣地なさをさんざんに嘲笑したのである。そのやうな輕快な飛翔のつづけられた數十日かの後に、千軒岳はふたたびすさまじい鳴動とともに爆發をした。おどろおどろしく鳴りひびいたとどろきとともに、天に沖した火煙は、そのとき天にあつて輕快な亂舞をつづけてゐた多くの河童たちをこともなげに卷きこみ、山脈の膚に向かつて落下して行つた。逃れんとして飛びたつた河童たらもその熱氣にあてられ、力つきて木の葉のやうにはらはらと火口の中へ落ちて行つた。鋸のやうにぎざぎざのある千軒岳の絶頂からは、天に沖するがごとく噴煙がまきあがり、巨大な岩石が毬のごとく無數に飛び、煮えかへる轟音(がうおん)をとどろかして眞紅の焰が噴きあがつた。飴をとろかすやうに頂上の山形を崩し、いろいろの姿に變へながら溢れだして來た熔岩が、樹をたふし、草を燒き、眞紅のかがやきを長々と曳きながら、凹凸のある山腹の斜面をながれくだつて行つた。數千尺の高さに噴きあげられた煙の中に、嵐が生じ、雷鳴が起り、電光が靑白い焰のごとく間斷なく閃いた。燒けおちた河童たちを熔かし含んだ熔岩は、火のながれとなつて山腹をくだり、高原によどみ、しばらくの間たぎる焰となつて消えなかつた。そのときから永い年月がながれた。千軒岳の高原にはいちめんに熔岩の間から不思議なかたちをした靑黑い花が吹きいでた。その花は誰も名前を知らないが、雨のときにはいつぱいにその花びらをひろげてゐるけれども、千軒岳から火山灰(よな)でも降るやうな天候の時には、たちまちにして花びらを閉ぢてしまふのである。また、夜になれば、千軒岳の高原は無數の星によつて滿たされる。それはしかし星ではない。また螢でもない。熔岩の中に身體は溶けてしまつたけれども、いかなる高熱をもつてしても熔けることのない河童の眼玉のみが、鏤(ちりば)められた寶石のごとく、今もなほ夜ともなれば熔岩の中に靑白い光を放つのである。

ハーンに入れ込んでいるうちにブログ720000アクセス突破してた……

早速、夜、記念テクストにとりかかります。……序でに。……只今、トイレ、ウォシュレット新品に完全総トッカエ中!

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十章 美保の關にて (二) 附 折口信夫「鷄鳴と神樂と」(附注)

 

        

 

 雄雞が美保の關の大明神にかくも嫉視され、土地から放逐されてゐる譯には諸說あるが、その要領はかうである。古事記にある通り、大國主命の子、事代主命は美保の岬に行つて鳥を追ひ魚を漁つてゐた。また他の理由もあつて夜間外出をしたが、夜の明けぬ內に家ヘ歸らねばならなかつた。信賴した召使の雄雞が、命の歸るべき時刻がくると、元氣よく鳴く任務を帶びてゐた。然るにある朝、雞がその務を忘れたので、命は慌てて舟に歸り、橈を取落し、兩手で水を搔いて、獰惡な魚に手を嚙まれた。

 美保の關へ行く途中に當る中海に沿ふた安來町の人民は、この事代主命を頗る崇敬してゐるが、安來には澤山雞も居れば卵もある。また安來の卵は大いさといひ質といひ無類である。それで安來の町民は、美保の關の人々のやり方よりも、卵を食べた方が一層よく明神に仕へ奉る所以であると主張してゐる。それは人が雞を一羽食べるか、卵を一個嚥めば、事代主命の敵を一つ滅すことになるから。

[やぶちゃん注:「古事記にある通り、大國主命の子、事代主命は美保の岬に行つて鳥を追ひ魚を漁つてゐた。また他の理由もあつて夜間外出をしたが、夜の明けぬ內に家ヘ歸らねばならなかつた。信賴した召使の雄雞が、命の歸るべき時刻がくると、元氣よく鳴く任務を帶びてゐた。然るにある朝、雞がその務を忘れたので、命は慌てて舟に舟に歸り、橈を取落し、兩手で水を搔いて、獰惡な魚に手を嚙まれた」私が前の章で注した伝承とは細部がやや異なるが、同話である。まず、注意しなければならないのは、「古事記にある通り、大國主命の子、事代主命は美保の岬に行つて鳥を追ひ魚を漁つてゐた。また他の理由もあつて夜間外出をした」の部分で、「古事記にある通り」なのは「大國主命の子、事代主命は美保の岬に行つて鳥を追ひ魚を漁つてゐた」の箇所だけで、以下の「また他の理由もあつて夜間外出をした」以下の続く鶏忌避伝承部分は「古事記」には載っていない(少なくとも私の知る限りでは載っていないと思う)という点である。これは実はハーンの原文でははっきりとそこが区別されているのが判るのであるが、落合氏の訳では、恐らくは多くの人が「古事記」にこの伝承が総て載っているものと勘違いしてしまうように思われる(落合氏は「また他の理由もあつて」でそれが伝わると考えたのかも知れないが、それはひどく誤った思い込みであるとしか言えないと私は思う)。則ち、ハーンはこの事代主命が美保の岬に行って「鳥を追ひ魚を漁」(すなど)りしているという箇所を“'to pursue birds and catch fish.'”と、アポストロフィーで囲っているからである。これは実は以前に注した、まさに「古事記」の「国譲り」神話の部分で、葦原の中つ国を譲れと天孫の御使いに迫られた際、大国主神が『僕(あ)はえ白(まう)さじ。我が子八重事代主(やへことしろのぬし)の神これ白すべし。然れども鳥の遊び漁(すなど)りして、御大(みほ)の前(さき)に往(ゆ)きて、いまだ還(かへ)り來ず』(武田祐吉先生の訓読を参考にしつつ、読み易く書き換えた)――私はそれにお答え申すことが出来ない。……それには、我らの子たる八重事代主の神(=事代主神)がお答え申すであろう。……しかし今は、鳥打ちや海釣りをしに、美保の岬へ行ったままで、未だ帰って来ておらぬ。――という父大国主神の言葉の『鳥の遊び漁(すなど)りして』の箇所を引いたに過ぎないのである。「また他の理由もあつて夜間外出をしたが、夜の明けぬ內に家ヘ歸らねばならなかつた」の箇所は妻問婚という特異な本邦の結婚形態を説明しないといけなくなり、ハーンは単にそれを注などで書くのも面倒と思ったものであろう。「然るにある朝、雞がその務を忘れたので」こちらの伝承では鳴かずに曙に至ったことに気づいて(真っ暗な暁では分からない)「命は慌てて舟に歸」ろうとしたという別なシチュエーションである。この方が大方の人々の映像上はくっきりと見えて面白いとは思う。私好みの映像では寧ろ、誤って早く鳴いてしまったという闇夜に鮫に喰いつかれるというヴァージョンの方が好きなホラー・イメージではある。しかし乍ら、神話学上の類型の伝承や、日輪(=天照大神)に照らされる(=見られる)こと、妻問婚で夜が明けて帰るというはあってはならない禁忌性を考えるならば、この鳴き忘れたの方が古形のようにも思われる。「橈を取落し」(「橈」は「かい」で「櫂」に同じい)この方が慌てて持ってくるのを忘れるというボケより遙かにマシである。「兩手で水を搔いて」巨体の神々ならばこれもありだろうが、私は何故か、足のイメージの方がしっくりくる(手で書くのは如何にも汗だくの必死で形相も変わる。神らしくないからかも知れぬ)。「獰惡な魚に手を嚙まれた」の原文は“the wicked fishesで、“wicked”は形容詞で、「道徳的に邪悪な」「不道徳な」「不正な」「悪意のある」「意地悪な」の意、しかも「魚」は複数形である。何故、ハーンはここで前の第九章「潜戶(くけど)」の“Sec. 4”で効果的に用いた、“SAME”或いは、そこで欧米読者向けに更に附したところの“Sharks”を用いなかったのだろう? 私はその効果は絶大だと思うのだが、すこぶる不審である。もしかするとハーンは欧米の読者に鮫と示すと、食いちぎられて手や足がなくなる、ということは片手或いは両手(ハーンの解説ではその可能性の方が実は高い。後述)が欠損しているのか? と思われるのを嫌ったのか? しかし、何処の神話にあっても神は容易に身体を元通りに蘇生させることが多いんだがなあ? それからもう一つ、何故、この原文の鮫、複数形なんだろう? 複数形である必要は櫂代わりにしている両手を喰われたと読むしかない。――鮫に食いちぎられて両腕のない恵比須……なかなか凄いぞ!……諸星大二郎の稗田礼二郎に調べさせたいもんだ。或いは、これは因幡の白兎の複数の鰐(鮫)のイメージの影響だろうか? 徒然なるままに妄想(もうぞう)すると、これ、実にとめどなく、妖しく楽しく「狂ほしく」なってくるではないか……

 閑話休題。因みに折口信夫(おりくちしのぶ/「おりくち」と濁らないのが正しい)は「鷄鳴と神樂と」(『やまと新聞』大正九(一九二〇)年一月発行)でこの伝承を解説している。それほど長くないので以下に引用する。底本は昭和五七(一九八二)年中公文庫版「折口信夫全集第二巻 古代研究(民俗學篇1)」を用いた。活字の大小があるが一部を除き、同ポイントで示した。なお、改行後の行頭一字空けがないのは折口(大学二年の日本文学演習(中古)で発表をした際に「折口が」と呼び捨てにしたら、教授から、その場で『「先生」をつけなさい!』と叱られた。私の後の連中が皆、「折口先生が」とわざとアクセントを「先生」に置いて発表し、教授が苦笑いをしていたのを思い出した。さればここは敢えて――総て「折口」で通す)癖である。拗音表記と、そうでない表記が混在しているのはママである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。場所によっては改行が分からなくなる虞れがあるので各段落の後は一行空けた。必要に応じて当該段落の後に禁欲的に注を挟んだ。

 

   ※   ※   ※ 

 

 鷄鳴と神樂と

 

 には鳥は かけろと鳴きぬなり。起きよ。おきよ。我がひと夜妻。人もこそ見れ(催馬樂)

此歌などが、わが國の戀歌に出て來る鷄の扱ひ方の、岐れ目であるらしい氣がする。平安朝以後の鷄に關聯したものは、どれもこれも「きつにはめなむ」(伊勢物語)と憎んだ東女を、權輿に仰いで來た樣である。其と言ふのが、刺戟のない宮廷生活に馴れた男女の官吏たちは、戀愛以外には、すべての感覺の窓を閉した樣な暮しをつゞけて居た。歌の主題と言へば、彼等の經驗を超越して居る事を條件とする歌枕に、僅かに驚異の心を寄せるばかりだつたからである。貧しい彼等の經驗には、一番鷄・二番鷄に、熟睡を破られる田舍人さへも、珍らしく思ひなされたのである。待つ宵の小侍從・ものかはの藏人の贈答なども、單に空想と空想との鉢合せに過ぎないのであつた。世は德川になり、明治・大正になつても、のどかな歌びとたちは、尙「曉別戀」といへば、鷄を引きあひに出すことは忘れないで居る。

[やぶちゃん注:「きつにはめなむ」「伊勢物語」第十四段に出る。彷徨して陸奥(みちのく)の国へ赴いた京の男に戀をした田舎娘が、

 なかなかに戀に死なずは桑子(くはこ)にぞ

    なるべかりける玉の緖(を)ばかり

(恋焦がれて死ぬぐらいなら束の間でも仲の好い蚕(かいこ)になればよかったわ!)

と歌を贈ってきたので抱いてやった。その後朝(きぬぎぬ)の別れの後、また、

 夜も明けばきつにはめなでくたかけの

    まだきに鳴きてせなをやりつる

(鳴いてあの人を帰してしまった、あん畜生! 夜が明けたら、早くも鳴きくさった、あの腐った鶏(とり)めを水桶(みずおけ)ん中にぶち嵌めて溺れ殺してやる!)

と詠んだ。しかし男は京に帰るとて、

 栗原のあねはの松の人ならば

    都のつとにいざといはましを

(栗原のあねはの松〔現在の宮城県栗原市金成姉歯(きんなりあねは/「金成」は旧町名)にあった著名な美松で歌枕〕が人であったなら――あなたがそれなりに美しい人だったなら、都の土産にと、いざ伴わん、と言ったであろうが……)

と皮肉に詠んだつもりが、女はえらく喜んで「あの人はあたいを思うていて呉れようじゃ!」と言った、という以下にも田舎娘を馬鹿にしたいやな一章である。「きつ」は丸太を一部刳り抜いた水を入れるための桶の意の東国方言であり、石田穣二訳注「伊勢物語」(和歌表記はこれを一部、参考にした)の補注によれば「はめなで」は『「嵌めなむ」の意の方言と解したい』(同一一六頁)とある。

「權輿」「けんよ」と読む。(ニワトリを憎むようになったその)始まりの意。権は「秤(はかり)の錘(おもり)」、輿は「車の底の部分」の意で、孰れもそれらを作製する際に最初に作る部分であるところから、「物事の始まり」「事の起こり」「発端」「濫觴」の意となった。

「待つ宵の小侍從・ものかはの藏人の贈答」「平家物語」「卷第五」の「月見」に基づく謂いであろう。「待つ宵の小侍從」(まつよいのこじじゅう 生没年未詳)は平安末期の女流歌人。紀光清の娘で二条天皇に出仕して崩御後は太皇太后多子(ますこ)に、その後は高倉天皇にも仕えた。「物かはの藏人」(ものかはのくろうど)は藤原経尹(つねただ 生没年未詳)のこと。同時期の歌人。上西門院(じょうさいもんいん)の蔵人で徳大寺実定(さねさだ)が福原から大宮御所に妹藤原多子(たし)を慰問したとき随従、翌朝、別れをおしむ小侍従(こじじゅう)に実定の命(めい)によって和歌を贈った、それを指す(因みにこれによって彼は「ものかはの藏人」と呼ばれるようになった)。面倒なのであるが、まず「待つ宵の小侍從」という渾名とその濫觴の和歌から説明が必要なので、簡単に「平家」の同箇所を荒っぽくダイジェストすると、

   *

藤原多子(たこ)の御所に仕えていた小侍従が、御前にて「待つ宵と、帰る朝(あした)では、孰れの哀れさがまさっているであろう?」と質され、

 待つ宵の更け行く鐘の聲聞けば

    歸る朝(あした)の鳥はものかは

(恋しい人を待つ宵の更け行く鐘の音を聞くと、帰る朝(あした)の鳥など、これ、ものの数では御座いませぬ)

と答えたことから、彼女は「待つ宵の小侍從」と呼ばれるようになった。

 さて、贈答の和歌のみ引く。まず、蔵人藤原経尹の贈った歌、

 物かはと君が云ひけむ鳥の音(ね)の

    今朝しもなどか悲しかるらむ

(「ものかは」と、かつてあなたが詠まれた鳥の音(ね)は、今朝はどうしてこんなにも哀しげに聴こえのでしょう?)

 待宵の小侍従は、即座に、

 待たばこそ更(ふ)け行く鐘もつらからめ

    歸る朝(あした)の鳥の音ぞうき

(思う人を待つ身なればこそ、更けゆく鐘も恋しくてつらいものですが、しかし、これを一期として、もしや今生これが、(こんじょう)の別れともなるかも知れぬと思えばこそ、朝の鳥の音の方が遙かに憂い沈んで哀しいので御座います。)

と返した、というのである。

   *

この小侍従、恐るべき才媛である。しかし確かに「才」走り過ぎて、私には愛おしくはなく、折口が「單に空想と空想との鉢合せに過ぎない」と言っているのも、そういう意味で大いに首肯出来る。

「曉別戀」歌題の一。一般には歌題は音読みするように思われるから、「ぎやうべつれん(ぎょうれつるれん)」と読んでおく。] 

 

催馬樂の中でも、右の歌などは、都に居ては到底、出來る筈のない歌であつた。同じく鷄・戀・曉を一首に結んでも、萬葉びとは、まだ固定せぬ歌ぐちを見せてゐる。

 もの思ふと 眠(イ)ねず起きたる朝明(アサケ)には わびて鳴くなり。庭つ鳥さへ (萬葉集卷十二)

[やぶちゃん注:三〇九四番歌。「庭つ鳥」が飼い鳥のニワトリ。]

さうしたはでな心持ちから、飛び離れた挽歌にさへ、鷄は現れて居る。

 庭つ鳥 かけの垂り尾の亂り尾の 長き心も思ほえぬかも (同、卷七)

[やぶちゃん注:一四一三番歌。「挽謌」のパートに入る。「かけ」は原文「可鷄」で「庭つ鳥」(家で飼う鳥)の「かけ」(ニワトリ)の意。言わずもがな乍ら、上句総てが「長き」を引き出す序詞に過ぎない。「長き心」とは永遠不変のゆったりした穏やかな心であり、それを持つことは最早、出来なくなってしまったなあ、という広義の生涯的感懐嘆息である。]

我々の祖先が、鷄から聯想したものは、必しも戀ばかりではなかつた。けれども此國の文藝生活の夜明けと共に、鷄の垂り尾ではないが、戀ひ心の纏綿して居るのも事實である。其は、彼らの生活が、どうしてもさうなくてはならぬやうになつて居たからである。彼ら男女のなからひには、必鷄が割り込んで來た爲である。一夜妻(ヒトヨヅマ)の樣に、向うからしかけるのは特別、普通は男から女の家に出向いて鷄鳴に催されて歸つて來るのが、婚約期間の習俗であつたとすれば、鷄の印象が長い長い古代の情史の上に、跡を牽くのも尤な事である。併しながら、きぬぎぬの別れを鷄のせゐにして、かさ怨みを無邪氣な家畜に投げつけるのは、よほど享樂態度を加へてからの話である。

隱國(コモリク)の泊瀨小(ヲ)國に、さ婚(ヨバ)ひに我(ア)が來れば、たな曇り 雪はふり來ぬ。さ曇り 雨はふり來ぬ。野(ヌ)つ鳥雉(キヾシ)はとよみ、家つ鳥鷄(カケ)も鳴き、さ夜は明け 此夜は明けぬ。入りて朝寢む。此戶開かせ(萬葉卷十三)

[やぶちゃん注:三三一〇番歌。作者未詳である。講談社文庫中中西進全訳注では(恣意的に正字化した)、

   *

 隱口(こもりく)の 泊瀨(はつせ)の國に さ結婚(よばひ)に わが來れば たな曇(くも)り 雪は降り來(く) さ曇(くも)り 雨は降り來(く) 野(の)つ鳥 雉(きぎし)はとよみ 家つ鳥 鷄も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寢む この戶開かせ

   *

と表記する。「隱國(コモリク)の泊瀨小(ヲ)國」とは現在の奈良県の長谷寺周辺桜井市初瀬に相当する。「隱國」は山に囲まれた国の意。前出の中西進氏によれば、これは「古事記」の『八千矛を主人公とした歌謡と原形は同じ』(「八千矛」は八千矛神(やちほこのかみ)大国主命の異称である。これは折口も次で述べている)であり、さればこれはプライベートな妻問いの、なかなか中に入れて呉れないリアルな描景などではなくて、以下で折口も解析しているように『泊瀨の神事歌物語』であると解読しておられる。]

答への歌から見ると、泊瀨天皇などの傳記に關係した短篇敍事詩の謠化したものらしい。後朝をわびるどころではない。入りて朝寢むとまで、感傷せずに言うて居る。鷄が入り込むと、どゞいつ・端唄の情歌色彩を帶びて來るものであるが、其がないのは、時代である。右の歌が離れて來た元の形と見える八千矛神の妻訪ひの歌なども、

[やぶちゃん注:「答への歌から見ると、泊瀨天皇などの傳記に關係した短篇敍事詩の謠化したもの」確かに前の三三一〇番歌に対する女からの反歌(三三一二番歌)の中には、ズバリ、「よばひ爲(せ)す わが天皇(すめろき)よ」と出る。「泊瀨天皇」第二十一代雄略天皇天皇をモデルとするか? 彼は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」「大長谷若建命」「大長谷王」等の異名を持ち、彼はこの現在の初瀬の辺りに「泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)」を置いたともされる(但し、考古学的論拠はない)。

「後朝をわびる」訪れが遅くなって本来の「後朝」(きぬぎぬ)の別れの時刻となってしまったこと「をわびる」の意であろう。]

 …處女の寢(ナ)すや板戶を 押(オソ)ぶ

 らひ、我が立たせれば、引(ヒコ)づらひ、

 我が立たせれば 靑山に鵺は鳴き、さ野つ鳥

 雉はとよむ。にはつどり鷄(カケ)は鳴く。

 慨(ウレタ)くも鳴くなる鳥か。此鳥も、う

 ち病めこせね。…(古事記上)

[やぶちゃん注:これは「古事記」の「上つ卷」の所謂、「八千矛(やちほこ)の神の物語」と通称される部分の一般に「古事記」歌謡の第二番歌とされる最初の方に出る長い歌である。冒頭とその歌までを引く(底本は武田祐吉氏の「古事記」に拠る)。

   *

 この八千矛の神、高志(こし)の國の沼河比賣(ぬなかはひめ)を婚(よば)はむとして幸行(い)でます時に、その沼河比賣の家に到りて歌よみしたまひしく、

  八千矛の 神の命は、

  八島國 妻求(ま)きかねて、

  遠遠し 高志の國に

  賢(さか)し女(め)を ありと聞かして、

  麗(くは)し女を ありと聞こして、

  さ婚ひに あり立たし

  婚ひに あり通はせ、

  大刀が緖も いまだ解かずて、

  襲(おすひ)をも いまだ解かね、

  孃子(をとめ)の 寢(な)すや板戶(いたと)を

  押(お)そぶらひ 吾(わ)が立たせれば、

  引こづらひ 吾が立たせれば、

  靑山に 鵼(ぬえ)は鳴きぬ。

  さ野(の)つ鳥 雉子(きぎし)は響(とよ)む。

  庭つ鳥 鷄(かけ)は鳴く。

  うれたくも 鳴くなる鳥か。

  この鳥も うち止(や)めこせね。

  いしたふや 天馳使(あまはせづかひ)、

  事の 語りごとも こをば。

 ここにその沼河日賣、いまだ戶を開かずて内より歌よみしたまひしく、

  八千矛の 神の命。

  ぬえくさの 女(め)にしあれば、

  ……[やぶちゃん注:以下略。当該箇所全文はウィキブックスの「古事記/上卷」(但し、「上つ卷」全体は未完)が注もついていてよい。]

   *

以上の歌の終りから終りから十行目の箇所から同じく終りから三行目までの、

  孃子(をとめ)の 寢(な)すや板戶(いたと)を

  押(お)そぶらひ 吾(わ)が立たせれば、

  引こづらひ 吾が立たせれば、

  靑山に 鵼(ぬえ)は鳴きぬ。

  さ野(の)つ鳥 雉子(きぎし)は響(とよ)む。

  庭つ鳥 鷄(かけ)は鳴く。

  うれたくも 鳴くなる鳥か。

  この鳥も うち止(や)めこせね。

の箇所が折口の引いた部分の相応する。は武田祐吉訳注中村啓信補訂の角川文庫版「古事記」では以下のように訳されてある。なお、訳中の敬語は自敬表現であるので注意。

   《引用開始》

  娘さんの眠っておられる板戸を

  押しゆすぶり立っていらっしゃると、

  引き試みて立っていらっしゃると、

  青い山では鵼(ぬえ)が鳴いている。

  野の鳥の雉(きじ)は叫んでいる。

  庭先で鶏も鳴いている。

  腹が立つさまに鳴く鳥だな。

  こんな鳥はたたいて鳴き止めさせてくれ。

   《引用終了》]

とあるのを見れば、まだ處女に會はないのである。鷄を咒うては居ても、東女の情癡の曲折あるのから見ると、ずつと單調な、言はゞ、がむしゃらのむしゃくしゃ腹を寓した迄の話である。鷄を以て、趣きある戀愛の一場面をこしらへて行かうとはして居ない。けれども、若し鷄の音が、古代の歌謠に、ちつとでも、きぬぎぬの怨みを含めて居るとすれば、其には、もつともつと大きな原因から來て居るのである。

[やぶちゃん注:「咒う」は「呪(のろ)う」に同じい。]

出雲美保關の美保神社に關聯して、八重事代主神の妻訪ひの物語がある。此神は、夜每に海を渡つて、對岸の姫神の處へ通うた。此二柱の間にも、鷄がもの言ひをつけて居る。海を隔てた揖夜(イフヤ)の里の美保津姬の處へ、夜每通はれた頃、寢おびれた鷄が、眞夜中に間違うたときをつくつた。事代主神はうろたへて、小舟に乘ることは乘つたが、櫂は岸に置き忘れて來た。據なく手で水を搔いて戻られると、鰐が神の手を嚙んだ。此も鷄のとがだと言ふので、美保の神は、鷄を憎む樣になられた。其にあやかつて、美保關では鷄は飼はぬ上に、參詣人すら卵を喰ふことを戒められて居る。喰へば必、祟りを蒙ると言ひ傳へて居る。

[やぶちゃん注:まさにハーンがここで語った箇所である。ここで寝ぼけて真夜中に鬨を挙げたことになっており、しかし、櫂は「手」である。本伝承には多様なヴァリエーションがあることがこれでも判る。

「寢おびれた」寝ぼけた。ラ行下二活用自動詞「寢(ね)おびる」である。「おびる」は自動詞で、多くはまさにこの「寝おびる」の形で「ぼける」「ぼんやりする」の意に用いる(「ねおびる」は別に、「恐ろしい夢などを見て怯えて目覚める」の意ともされる)。

「據なく」「よんどころなく」と読む。]

鷄を憎まれる神樣は、國中にちょくちょくある。名高いのは、河内道明寺の天滿宮である。

[やぶちゃん注:「河内道明寺の天滿宮」現在の大阪府藤井寺市道明寺にある道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)。ウィキの「道明寺天満宮」によれば、『祭神は菅原道真公、天穂日命』(あめのほひのみこと:天照大神と素戔嗚の誓約の際に天照大神の右の鬟(みずら)に巻いた勾玉(まがたま)から成った男神)『と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公』で、現在は『隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある』。『この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという』。『平安時代、土師寺には菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある』。延喜元(九〇一)年、『大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わ』る。『後に、道真自刻と伝える十一面観音像を祀り、土師寺を道明寺に改称した』(天暦元(九四七)年のこととされる)。『道真ゆかりの地ということで、道明寺は学問の神としての信仰を集めるようになった。明治の神仏分離の際、道明寺天満宮と道明寺を分け、道明寺は道を隔てた隣の敷地に移転した』とある。]

 鳴けばこそ 別れも急げ。鷄の音の 聞えぬ里の曉もがな

[やぶちゃん注:まさに前注で示した道真が左遷の別離に覚寿尼を訪れた際に詠んだものと伝えられる和歌である。実際にネット上の記載を見ると、この里では、ごく最近までニワトリを飼わなかった、と書かれている。この「學問の神樣にも似合はない妙な」和歌はしかし、道真伝説にありがちな一種の呪文風の偽物のように私には見える。]

と學問の神樣にも似合はない妙な歌を作つて、養女苅屋姬に別れて、筑紫へ下られてから、土師(ハジ)の村では、神に憚つて、鷄は飼はぬことになつた(名所圖會)。此などは、學德兼備の天神樣でさへなければ、苅屋姫をわざわざ娘は勿論、養女であつた、と言ふ樣な苦しい說明をする必要もなかつた筈である。

[やぶちゃん注:「名所圖會」「摂津名所図会」のことか。寛政八(一七九六)年から二年後の寛政十年に刊行された摂津国の通俗地誌で観光案内書。九巻十二冊。]

女の許へ通ふといふ事は、近代の人の考へでは、村の若衆を外にしては、眉を顰めてよい淫風であつた。天神樣が、隱し妻の家からの戾りに、鷄の音を怨まれたとあつては、あまりに示しのつかぬ話である。其處に家から來た娘と、別れを惜む事になつて來ねばならぬ訣がある。思ふに、土師の村の社には、いつの頃にか、美保式の神婚の民譚がついて居たのを、たつた一點を改造した爲に、辻褄の合うた樣な、合はぬ樣な話が出來上つたのであらう。事實、天神・苅屋親子關係を信じきつて居る今時の役者たちすら「手習鑑」の道明寺の段で、一番困るのは、右の子別れだ相である。女夫の別れと見えぬ樣との、喧しい口傳もあると聞いて居る。妙な處に、尻尾の殘つて居るものである。

[やぶちゃん注:「手習鑑」「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」。人形浄瑠璃及び歌舞伎の演目で五段続き。延享三(一七四六)年八月に大坂竹本座で初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳による合作で、文楽では人気の演目である。梗概その他はウィキの「菅原伝授手習鑑」を参照されたい。]

あの芝居で、今一つの中心は、東天紅の件であるが、目に見えぬ過去からの網の目が、淨瑠璃作者の頭にかぶさつて居た爲に、宿禰太郞夫婦の死と言ふ樣な大事件を以て解決せねばならなかつたのである。

[やぶちゃん注:「東天紅」「菅原傳授手習鑑」の二段目の内の三段目の「東天紅(とうてんこう)の段」のこと。ウィキの「菅原伝授手習鑑」によれば、その梗概は、『立田の夫である宿禰太郎と、その父の土師兵衛は時平の側に一味していた。太郎たちは鶏を通常よりも早く鳴かせて夜明けと思わせ、それによって丞相を館より連れ出したのちに殺そうとしていたのである。だがそれを立田に聞かれたので、太郎と兵衛は立田をだまし討ちにして殺し、その死骸を館の庭の池に投げ込んで隠す。そのとき兵衛は鶏を鳴かす工夫を思いつく。すなわち鶏は死骸を近づけても鳴くことから、鶏を挟箱の蓋に乗せて池に浮かべると、はたして鶏は鳴いて時を告げた』とある。]

今日でも、まだ到る處の宮々に、放ち飼ひの鷄を見かける。ときをつくらせたり、靑葉の杉の幹立の間に隱見する姿を、見榮(ハヤ)さうと言つた考へから飼うて置くのでない事は、言ふ迄もない。あれは實は、あゝして生けて置いて、いつ何時でも、神の御意の儘に調理してさし上げませう、とお目にかけて置く牲料(ニヘシロ)で、此が卽、眞の意味のいけにへなのである。

白い鷄が神饌に供へられる事は、其例多く見えて居るが、必しも白い物ばかりを飼うて居た訣ではなく、偶〻、民家の家畜の中にも、白い羽色のが生れると、獻るべき神意と信じ、御社へあげあげして來た事であらう。古風な江戶びとは、いまだに卵を產まなくなつた鷄を、淺草寺の境内へ放しに行く。内容は變つても、尠くとも、形式だけはまだ崩れないで居る一例である。喰べると癩病になると言はれる鳥に、燕・鷲竝びに、此鷄がある。前二者は、喰べろと言はれても遠慮する人が隨分とあり相である。が鷄を封ぜられては困る者、啻にかしは屋ばかりとは言はれまい。

[やぶちゃん注:太字「かしは屋」は底本では傍点「ヽ」。

「獻る」「たてまつる」と訓じていよう。

「喰べると癩病になると言はれる鳥に、燕・鷲竝びに、此鷄がある」非科学的な誤った俗信であることは言うまでもない。「癩病」(らいびやう(らいびょう))現行は使用すべきではなく、「ハンセン病」に読み換えられたい。但し、読みを変えるだけではなく、同病が、長く忌まれた「天刑病」として激しい差別を受けてきたことを認識することが、大切である。]

鷄には、特に白と言ふ修飾が加つて居るので、息をつく。豐後大野郡邊では、白い鷄を喰ふと、かったいになる(鄕土硏究第三卷)と言ひ習はして居る。白鷄が、神の牲料と信じて居たればこそ、其を橫どりする者は、極刑を受けると考へられたので、原因を振り落して、單に結果だけが言ひ傳へられたものと思ふ。考へ方によつては、白い鷄でなくても、鷄はすべて、ある神專用の牲料と思はれたであらう。美保關で卵を喰はぬと言ふのも、一つ起りから出た事は察せられる。山陽・畿內の二村の鷄を飼はぬのも、神の占め給うた家畜なるが故に、善い意味からは御遠慮申し、惡い意味からは不時の御用命を迷惑がつて、忌み憚つて來たものと言はれよう。併し此を以て直ちに、事代主神婚譚を構成した原因などゝはきめられない。畢竟は相當因緣を持つた民間傳承が、お互に別々に進んで來る中に、相合すべき狀態になると、他の一つは、其に引きよせられるものと見てさしつかへはない。お互に原因になり、結果になる事が出來るのである。

[やぶちゃん注:「豐後大野郡」大分県の南部にある豊後大野市(ぶんごおおのし)。

「かったい」ハンセン病の旧別名であり、これも差別用語として現行では使用するべき語ではない。この辺り、時代的背景を考慮しながらも、折口の中にある差別的意識をも批判的に読み解くべきである。

「山陽・畿內の二村」「二ヶ村」に同じい。美保関村と道明寺村と思われが、それなら「山陽」ではなく「山陰」のはずである。山陽地方にニワトリを飼わない村があって少しもおかしくないが(美保関の言代主のタブーの伝承の南下、道真の大宰府への下向ルートから)、しかし、前文には具体な山陽の鶏禁忌の村の記載がない。不審である。]

神妻訪ひの話に、鷄の參與するのも、田舍人の生活が、其儘幽界の方々の上にもあることゝ信じて、言ひ出したことは勿論であるが、今一つ、鷄がとんでもない憎まれ者になる訣は、責任を轉嫁したり、情癡趣味に浸つたりすることを知らなかつた萬葉びと以前の、古代の男女關係ばかりからは、何とも合點が行きかねる。今でも古風を存して居ると信ぜられて居る祭りの中心行事は、必、眞夜中に行はれる。鷄鳴がほゞ神事の終りと一致する樣に、適當に祭式をはこばねばならなかつたものと見えて、日の出にかつきり主要な部分をしまうて居なければ、今年の作物に祟ると信じてゐる地方が多い。

其例に、信州下伊那新野の伊豆權現の正月十五日の祭禮がある。東天紅なる時は、正に顯・幽兩界の境目で、祭りに招き降された神が社からあがられるのは、此時刻である。此刻限にぴつたり神あげをする事は、神にも人にも、都合のよいことである。鷄鳴以後迄、神を止めて置かうとしたら、神の迷惑はどの樣であらう。また若し其に先だつて、鳴き立てる鷄があつたら、神は事をへぬ中に、はふはふ退去にならねばならぬ。鷄をして、さやうな僞りを告げさせた責任者として、人間もとんだ罰を蒙らねばならなかつたであらう。時ならぬ鷄の宵鳴きを、色々の凶事の前兆に結びつけて居るのは、やはり此處に本のあるのを忘れての事と思はれる。

[やぶちゃん注:流石は折口である。「鷄鳴」と「神事」との接点、神界(ハーンの謂うところの「靈的」なる世界)との通路にニワトリは屹立しているのであり、そうした、本来は神聖のシンボルが、反則的に凶兆に結びつくおかしな現象は、神話や伝承の中に普通に見られることなのである。一度、提示された二対立の属性が、容易にそれが入れ替えられるのは、寧ろ、汎世界的な神話伝説の持つ通性なのである。]

鷄の音に驚かされて、爲すこと遂げずに退散した話、うろたへて身を傷けた話など、神・佛・妖怪などの上にかけられた例が、此國にも澤山ある。

大歌所のひるめの歌

さひのくま 檜隈川に駒とめて、しばし水かへ。かげをだに見む(古今卷二十)

[やぶちゃん注:「古今和歌集」の「卷第二十」の「大歌所御歌(おほうたどころのおほむうた)」(「大歌所」とは八世紀後半に設置された宮中の役所で、新嘗祭などの節会(せちえ)に供奉する令外の部署で、そこで管理・伝承するところの歌をかく言った)の一首(一〇八〇番歌)であるが、やや現行の読み方と異なる、というか、折口は「万葉集」によって補正している。小島憲之・新井栄蔵校注の岩波新日本古典文学大系「古今和歌集」(一九八九年刊)によれば(恣意的に正字化した。後に附した( )内の訳は同書からの引用である)、

   *

   日靈女(ひるめ)の歌(うた)

 さゝのくまひのくま河に駒(こま)とめてしばし水飼(あ)へかげをだにみむ

(『ささの隈(くま)の地の「檜隈川」、奥まった所ををいうその名の「陽(ひ)の隈」にちなむここで、馬を駐めてしばらくなりと水を飲ませよ。水に映る「陽」の光りをせめて大神のみ影として拝みたいのです』)

   *

「ひるめ」は日輪の神で天照大神のこと。「さゝのくまひのくま河に」大系の注によれば、「万葉集」の「卷第十二」の三〇九七番歌、

 さ檜隈(ひのくま)檜隈川に馬留(とど)め馬に水飼(か)へ我れ外(よそ)に見む

(どうか、檜隈(ひのくま)を流れる檜隈川に馬を留めて、馬に水を飲ませてやって下さい。そうして、あなたの姿をそっと、離れたところから垣間見ましょう)

の一句目と二句目を転じた表現か、とある。「さ檜隈(ひのくま)檜隈川」の「檜隈川」は現在の高松塚古墳の南方の奈良県高市郡明日香村大字檜前(ひのくま)を流れる川。頭の「さ」は美称の接頭語である。]

と言ふのは、元は大部分、萬葉集に見えた戀歌である。其が如何にもおなごり惜しいと言つた心持ちを湛へて居る處から、恐らくは、神あげの節に謠はれることになつて居たらうと言へる。暫くでも長く居て頂いて、完全に祭りの心を享けて貰はねばならぬ。神事いまだ終らざるに、神あがりあつては一大事である。常世の長鳴き鳥は、此時間の調節者として、必要であつたのである。なぜなら、鷄の鳴き止まぬ中は朝であつて、而もまだ夜であつたから、神事に與る役目の重さは如何ばかり强い印象を、昔びとの心から心へ、傳へて來たことであらう。人力に能ふ限りは、朝と夜の交叉點をうまく處理して行くが、ある程度以上は鳥賴みであつた。

[やぶちゃん注:「與る」老婆心乍ら、「あづかる(あずかる)」と訓ずる。]

こゝに人間の妻訪ひに於けるよりも、もつともつと色濃く、庭つ鳥の神婚譚に入り込んで來ねばならなかつた訣のある事が、既にしのゝめのほがらにあなた方の胸に這入つた事であらうか。

[やぶちゃん注:「ほがら」形容動詞「朗らか」の語幹だけを名詞として用いる、形容動詞語幹の用法の一つである。「明るく光ること」「空が曇りなく晴れやかなこと」「広く開放された状態」、ひいては、そこから見るものの側の「心が晴れ晴れとしていること」「拘りなく快活なこと」、所謂、「明朗」をも暗に含んだ語であり、ここでも折口は、そうした多層的意味を込めていると思われる。]

神事の終りに、唯一度拍子とるだけが役目の鷄を、合奏團の大事な一員と考へられて居る。此は、天の窟戶開きの條の誤解である。心を澄して御覽なさい。神道のほんとうの夜明けの光りは、今思はぬ方角からさしかゝつて居る。

[やぶちゃん注:「ほんとう」はママ。]

   ※   ※   ※]

 

Sec. 2

   Concerning the reason why the Cock is thus detested by the Great Deity of Mionoseki, and banished from his domain, divers legends are told; but the substance of all of them is about as follows: As we read in the Kojiki, Koto-shiro-nushi-no-Kami, Son of the Great Deity of Kitsuki, was wont to go to Cape Miho, [1] 'to pursue birds and catch fish.' And for other reasons also he used to absent himself from home at night, but had always to return before dawn. Now, in those days the Cock was his trusted servant, charged with the duty of crowing lustily when it was time for the god to return. But one morning the bird failed in its duty; and the god, hurrying back in his boat, lost his oars, and had to paddle with his hands; and his hands were bitten by the wicked fishes.

   Now the people of Yasugi, a pretty little town on the lagoon of Naka- umi, through which we pass upon our way to Mionoseki, most devoutly worship the same Koto-shiro-nushi-no-Kami; and nevertheless in Yasugi there are multitudes of cocks and hens and chickens; and the eggs of Yasugi cannot be excelled for size and quality. And the people of Yasugi aver that one may better serve the deity by eating eggs than by doing as the people of Mionoseki do; for whenever one eats a chicken or devours an egg, one destroys an enemy of Koto-shiro-nushi-no-Kami. 

 

1
   Mionoseki.

2015/09/20

今日うたれた台詞――浄瑠璃「鎌倉三代記」より――

緣の切れ目は蘭奢の薰、無常の聲や鬨の声、後に見捨てて出て行く……

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十章 美保の關にて (一)

 

      第十章 美保の關にて

 

        關はよい所、朝日をうけて、

        大山嵐が、そよそよと。――美保の關の歌

 

       

 

 美保の關の神樣は雞卵が嫌ひだ。だから雄雞や雌雞も嫌ひで、就中雄雞は大嫌ひだ。で、美保の關には雄雞も雌雞も雞も卵もない。卵の重さの二十倍ほど金貨を奮發しても雞卵は買へない。

 何んな小舟大船汽船も、雞の羽毛さへ美保の關へは積んで行かぬ。況して卵は猶更のことである。實際誰でも、もし朝食に卵を食べたならば、翌日まで美保の關へ行つてはならぬことになつてゐる。それは美保の關の神樣は、船頭の守護神、また暴風鎭定の神なので、卵の臭さへ神社へ持ち行く船も罰が當たる。

 松江から每日美保の關へ通ふ小蒸汽船が、甞て往航の際、今しも外海へ出でてから案外恐ろしい天候に出逢つた。水夫共は、何か事代主命の御機嫌を損ずるやうなものが、窃かに船中へ持込まれてゐるに相違ないと主張した。乘客一同に尋ねて見たが、何も分らなかつた。突然船頭は或る客の吸つてゐる眞鍮の煙管に、雄雞の鳴いてゐる圖の彫刻を認めた。その客はいかにも日本男兒らしく、死を犯して平然と喫煙してゐた譯であつた! 言ふまでもなく、その煙管は船の外へ擲げ棄てられた。すると、怒濤は鎭まつてきて、船は無事に神聖な港へ入り、神社の鳥居の前の沖へ投錨した!

[やぶちゃん注:以前にも述べたが、ハーンは原文で一貫して「美保」を「みお」と記している。実際に「美保(みほ)」は「みお」とも読まれた。美保神社の鶏を禁忌とする伝承については、美保関地域観光振興協議会公式ブログ「神々のいるまち美保関」の「えびす様とニワトリ」が非常に分かり易い。ハーンも次章で述べているが、フライングしてしまうと、本社の祭神事代主が対岸の東出雲の揖屋(いや)に居た溝杭姫(みぞぐいひめ)という女神のもとに妻問婚をしていたが、後朝(きぬぎぬ)の別れの合図としていた一番鶏が、ある時、誤って未だ深夜に鬨の声を挙げ、慌てて帰りの舟に乗った事代主が途中で櫂を流してしまい、仕方なく自身の足で漕いで行ったところが、運悪く、その足を鮫に喰われてしまった、それ以来、恨み骨髄となった事代主は大の鶏嫌いとなった、という伝承である。また、書かれておられるのは氏子になった方で、実際に氏子となって以来、鶏肉と卵を口にしていない、とある。

「況して」「まして」。]

 

Chapter Ten

 

 At Mionoseki

Seki wa yoi toko,
Asahi wo ukete;
O-Yama arashiga
Soyo-soyoto!

 

  SONG OF MIONOSEKI.    

 

   [Seki is a goodly place, facing the morning sun. There, from the holy mountains, the winds blow softly, softly—soyosoyoto.]

 

Sec. 1

   THE God of Mionoseki hates eggs, hen's eggs. Likewise he hates hens and chickens, and abhors the Cock above all living creatures. And in Mionoseki there are no cocks or hens or chickens or eggs. You could not buy a hen's egg in that place even for twenty times its weight in gold.

   And no boat or junk or steamer could be hired to convey to Mionoseki so much as the feather of a chicken, much less an egg. Indeed, it is even held that if you have eaten eggs in the morning you must not dare to visit Mionoseki until the following day. For the great deity of Mionoseki is the patron of mariners and the ruler of storms; and woe unto the vessel which bears unto his shrine even the odour of an egg.

   Once the tiny steamer which runs daily from Matsue to Mionoseki encountered some unexpectedly terrible weather on her outward journey, just after reaching the open sea. The crew insisted that something displeasing to Koto-shiro-nushi-no-Kami must have been surreptitiously brought on board. All the passengers were questioned in vain. Suddenly the captain discerned upon the stem of a little brass pipe which one of the men was smoking, smoking in the face of death, like a true Japanese, the figure of a crowing cock! Needless to say, that pipe was thrown overboard. Then the angry sea began to grow calm; and the little vessel safely steamed into the holy port, and cast anchor before the great torii of the shrine of the god!

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど) (八) 第九章~了

 

       

 

 御津浦と同じく、海際には漁船が澤山密集して列んで、舳を海の方へ向けてゐる。して、その後にもまた列んでゐるので、やつと無理にその間を通り拔け、濱を越えて、眠さうな、綺麗な異樣な小さな町へ出た。始めて上陸した時に、町の人は皆眠つてゐるやうに思はれた。船尾に坐つてゐる一匹の猫が、唯一の生物と見受けられた。しかもその猫も日本の信仰に從へば、眞正の猫でなくて、お怪け、または猫又かも知れぬ――それは長い尻尾を持つてゐたから。この町に一軒しか無い旅館を發見するのが、なかなか難事であつた。何れの家にも看板はなく、皆、漁師又は農夫の私宅のやうであつた。が、この狹い土地も逍遙の價値があつた。こ〻では、一種黃色の漆喰を用ひて、壁の外面が塗つてある。輝いた晴空の下に於けるこの明かるい黃色は、小さな町に頗る快活な趣を與ヘた。

 たうとう宿屋を見附けると、はいるまでに隨分待たなければならなかつた。障子や戶は皆開けてあるが、誰も寢てゐたり、他出してゐて何の用意もしてはない。たしかに加賀浦には窃盜はゐないのだ。この宿は小丘の上にあつて、本町通(他は唯だ小さな路次に過ぎない)から石段の小さな坂を二つ上つて行かれる。すぐ道の向うに禪寺と神社が殆ど相並んで見える。

[やぶちゃん注:本章は長いので、注を途中に挟み、その後は一行空きとした。

「すぐ道の向うに禪寺と神社が殆ど相並んで見える」これで宿の位置は槪ね比定出来ると思い、国土地理院の地図を見たが、これがだめだった。この「禪寺」というのは高い確率で「應海寺(おうかいじ)」という島根町加賀(かか)の臨済宗南禅寺派の寺であると思うのだが、この寺、現在の地図上では、加賀の港から東南東五百七十メートルほどの山麓に孤立してあり、「相並んで」いる神社は存在しない。同地区の神社は應海寺の真西の、遙か谷を挟んだ五百六十メートルも離れたところにある「木の山神社」と、西北に下って川を渡った向こう側の旧村社と思われる三百三十メートルも離れた「加賀神社」しか見当たらない。お手上げである。] 

 

 漸くのことに、腰に至るまで裸體の、泉の女神のやうな胸をした、若い綺麗な女が驚くほどの速さで宿屋へ戾つてきた。私共の傍を急いで家へ入るときに、笑顏をして低く禮をした。この小さな人物はお嘉代さんといふ給仕女だ。この名は『多年の幸福』といふ意味である。やがてお嘉代さんは立派な着物を全身に纏つて、敷居の處へまた現れ、愛嬌よく私共に入るやうに迎へてくれたので、私共は非常に欣んで入つて行つた。さつぱりした、廣い室であつた。杵築大社から戴いた神道の掛物が、床にも壁にも掛けてあつた。一隅に綺麗な禪宗の佛壇があつた。(厨子の形狀とその内部にある崇拜の像などは、宗派に隨つて異る)妙に室が暗くなるのに、俄かに氣が付いて、見𢌞はすと、戶口や窓や一切の隙間には、私を見ようと思つて、無言で笑顏を帶びた群集がぎつしり立塞がつてゐる。加賀浦にこんなに多くの人民があるとは案外であつた。

[やぶちゃん注:「泉の女神」原文は“a Naiad”。これはギリシャ・ローマ神話ニンフ(nymph)の中でも、川・泉・湖に棲むとされる若い女の姿をした水の精ナイアスのことである。ウィキの「ナーイアス」によれば、『各々の泉や川に別のナーイアス』(一人又は複数)『がいる。その泉や川の神の娘とされることが多いが、ホメーロスによればゼウスの娘。オーケアノスの娘とされることもある』。『ナーイアスがいる泉や川の水を飲むと、病気が治る。しかし、水に入ることは』冒瀆と見做され、呪われ、『病気になったり気が狂ったりする』とし、『地方の伝承には頻繁に現れる。また、人間の妻となることがあり、英雄の先祖や妻として系図に姿を現す』ともある。ハーンがこう形容した「お嘉代さん」の乳の形はしかし、どのようなものであったものか? ちょっと気になる……]

 

 日本の家屋は、熱暑の季節中、微風の通ふやうに一切開放したま〻だ。窓の役目をする障子も、また他の季節に於ては室と室を劃する不透明の屛障も、すべて取除けられて、建物の骨格の外は、床から天井に至る間に、何も殘つてゐない。住居の中は文字通りに障壁無しで、何れの方向へでも見通し得られる。宿屋の主人は群集がうるさいから表の方を閉めた。無言で笑顏を帶びた群集は背後へ行く。背後を閉めると、家の左右へ集まる。で、左右とも閉めねばならなくなつたから、暑さは堪へ難くなつた。すると、群集は穩和な抗議をした。

[やぶちゃん注:「屛障」「へいしやう(へいしょう)」と読み、広義には間仕切りや目隠しなどとして用いられる調度具類である、屏風・衝立・障子・几帳・壁代・幔幕など総てを指すが、ここでは「室と室を劃する不透明の」と述べており、何より、原文で「襖」のことと分かる。] 

 

 そこで主人は癪に障つて、議論と理窟で群集を叱つた。しかし大聲を立てない。(この邊の人は怒つても大聲を立てない)主人が云つたことを、語意を强めて飜譯すると、次のやうなことである。

『あなた方は、まあ非道いことなさる。何が珍らしいもんだ。

 『芝居だねし。

 『輕業だにやし。

 『角力だなし。

 『何が面白いもんか。

 『御客樣だぜ、こりや。

 『今御食べなさる時ね、見るのは惡いことだ。御歸へりなさる時ねは見てもえい』

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、原文を見て頂ければ分かる通り、「芝居だねし」以下、「だにやし」「だなし」は総て「~でなし!」という否定形の当地の方言である(訳者落合氏は松江生まれであるからいい加減なものではあるまい)。「御歸なさる時ねは見てもえい」は――お帰りなさる時にゃ、これ、見てもええ――と許諾して懐柔しているのである。]

 

 しかし戶外で、柔かな笑聲が懇願をつゞけてゐる。氣をきかして、宿の女達にばかり願つてゐる。亭主の方はなかなか感動されぬから。して、願ふ方もまた理窟を言つた――

 『おばさん!

 『お嘉代さん!

 『障子開けてごしやつしやい! 見せてごしやつしやい。

 『見たて〻も、見て減(へ)るもんだねわね。

 『だけん、見せんやうにせんでもえいわね。

 『早、だけん、開けて』

[やぶちゃん注:「見たて〻も」見たとしても。

「見て減るもんだねわね」見たからって言って減るもんじゃあ、ねえわね。] 

 

 この無邪氣な、おとなしい人達に見らる〻のが、私としては別に厭らしくも、煩さくもないから、家を閉ぢることは欣んで差止めたいが、主人自身に迷惑を感じてゐるらしいから、私は干渉することを欲しなかつた。しかし群集は立ち去らない。段々增加してきて、私の出て行くのを待つてゐる。後方の高い窓には、その障子紙に數個の孔があつた。すると、孔へ達しようと、小さな人影の上るのが映つた。やがて何れの孔にも、人の眼が覗いてゐた。

 私が窓に近寄ると、覗いてゐた者どもが、こつそりと地面へ下りて、きやつと弱い笑聲を立てて逃げる。が、また直ぐ戾つてくる。これほど面白い群集は、想像することも出來ないだらう。大抵男兒も女兒も暑いから半裸體であるが、蕾の如く新鮮で、淸潔だ。驚く許り綺麗な顏も澤山あつて、あまり快感を與へないやうな顏は極く僅かだ。が、大人や老婦人は何處に居るのか知らん。實際これは加賀浦の人達でなくて、賽ノ河原の者のやうだ。男兒は小さな地藏さんのやうだ。

[やぶちゃん注:このハーンの慈愛に満ちた描写は素晴らしい!] 

 

 食事の間、私は梨や大根の小片などを、障子の孔から外へつき出して面白がつた。初めは人々が大いに躊躇したり、銀聲の笑ひを洩してゐたが、やがて小さな手の影法師が、用心深げに屆いてきて、一つの梨は消失する。それからまた第二の梨も攫まないで、宛然幽靈がそれを我が物としたかの如く手柔かに、取られて了う。その後は、ある老婦が『魔法使ひ』といふ言葉を叫んで、恐慌を起こさうと務めたにも關らず、躊躇は止つた。食事が終つて、障子も取除けられる頃には、お互に仲の好い間柄となつた。群集はまた元の通り四隅から靜かに觀察を續けた。

[やぶちゃん注:「銀聲」「ぎんせい」であろうが、私は使ったことも見たこともない。甲高い賑やかな声ととっておく。]

 

 私は御津浦と加賀浦の若い人達ほど、二つの村民の容貌に顯著な差異を見たことはない。しかもたゞ一時間の航程を隔てるだけだ。日本の僻阪では、西印度のある島々に於ける如く、僅かばかり隔離せる住民間に、特種な容貌の發達を示してゐて、山の此側(こちら)の村民は極めて美しいのに、彼側の部落では、全然人好きのせぬ顏が多いこともある。が、この國の何處に於ても、私は加賀浦の一少女ほど綺麗なのを見たことはない。

[やぶちゃん注:この段落は特定の地域に対するハーン個人の好き嫌いに左右された面相上の差別的発言が含まれている。そうした意識への批判的視点を失わずに読まれたい。

「僻阪」見かけない熟語で、調べても出てこない。僻地と同義で既に使用例のある「僻陬」の誤植ではあるまいか? 大方の御批判を俟つ。

 なお、底本では次の段落との間は一行空きがあるので、二行空けを施しておく。]

 

 

 『お歸りの時ね、見てもえい』私共が灣へ下りると、村中のものが、久しく外出したこともない古老まで一緒になつてついてきた。下駄の音の外に聲を立てもしない。かやうにして私共は舟へ護送された。濱邊に引上げてあつた舟といふ舟には、若い者どもが輕く攀ぢ上つて、船首(へさき)や船緣(ふなべり)に坐つて、不思議な『見ても減るものでね者』を凝視した。して、皆、微笑してゐた。しかし、相互にさへも。言葉を發しない。兎も角、誰も寢てゐるといふ感じを私に與へた。柔かで、温和で、且つまた奇異で、恰も夢に見る光景であつた。して、舟が靑く光つた水の上を走つて去るとき、私が願望すると、半圓形に列んだ小舟の上に、村民が皆控へて、まだ見詰めてゐた。子供の細い褐色の脚は、舳からぶら下がり、天鵞絨の如く黑い頭はじつと日光を受け、男兒の顏は地藏さんの如き笑顏をして、黑い優しいすべての眼は、まだ倦きることなく、『見ても減るものでね者』を注視してゐた。この光景が、あまりにも迅速に段々と遠くなつて行つて、掛物の幅ほどに小さくなつたとき、私はこの最後の眺めを買つて、床の間へ掛けて、折々それを觀賞したいものだと、空望を描いた。が、次の瞬間に、舟は岩の岬を囘つて、加賀浦は永遠に私の眼から消えた。一切萬物は、このやうに失せ去るのだ。

[やぶちゃん注:「空望」音なら「くうばう(くうぼう)」だが、どうも気に入らない。「そらのぞみ」も私は嫌いだ。「からのぞみ」と訓じておく。]

 

 たしかに、最も長く記憶に殘り、いつまでも浮んでくる印象は、最も一時的なものだ。私共は分間よりは瞬間を、時間よりはは分間を遙かに數多く覺えてゐる。それから、全一日を記憶してゐる人があるだらう? 人の一生に於て、記憶されたる幸福の總量は、秒間が積んで作つたものだ。微笑ほど果敢ないものがある? しかも消え失せた微笑の記憶が、いつ減びる? またその記憶が喚び起す、やさしい恨が、いつ滅びる?

[やぶちゃん注:落合氏のハーンの感懐を伝えんとする訳は痛いほど分かる。分かるが、しかし、今や、古びた。平井氏の訳を示す。

   《引用開始》

 おもえば、人間の記憶に長くとどまる印象というものは、たしかにそれは刹那的なものが多いようである。なるほど、われわれは分よりも秒、時よりも分の方を多く記憶している。誰がまる一日のことを記憶しているものがあろう。一生のうちに憶えている幸福の総計も、すべてこの秒が積み上げたものなのだ。微笑ほどはかないものはない。しかも、いちど消えた微笑のその思い出は、いつになったら消えるのだろう。あるいはその思い出が呼び起す、あの惻々とした愛惜の思い、あれはいつになつたら消えるだろう。

   《引用終了》

老婆心乍ら、「惻々」とは、可愛そうに思うさま、憐れみ哀しむさまをいう。] 

 

 或る一個人の微笑に對する愛惜の念は、一般の人情に幾分共通である。が、ある地方民全體の微笑、抽象的性質として見たる微笑に對する愛惜の念は、たしかに稀有の感じであつて、それは心で人民が恰も彼等の拜する石地藏の如く、永久に微笑してゐる、この東洋に於てのみ經驗せられることだと、私は思ふ。して、この貴重な經驗は既に私のものとなつた。私は加賀浦の微笑を名殘惜しく感じてゐる。

 同時に、妙に凄い佛敎の傳說が思ひ出された。甞て佛陀が微笑んだ。すると、その微笑の不可思議な光りによつて、無限の世界が照らされた。しかし、そこへ或る聲が聞えた。『これは眞實ではない! これは永續する譯に行かない!』して、光りは消えた。

[やぶちゃん注:この最後の部分、所謂、「拈華微笑」(ねんげみしょう)の話をハーン流に皮肉に曲解したように思われてならないのだが、私の不勉強のせいだろうか? 私のトンデモ電子テクスト「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」の「第六則」を引いておく。

   ※

  六 世尊拈花

世尊、昔、在靈山會上拈花示衆。是時、衆皆默然。惟迦葉尊者破顏微笑。世尊云、吾有正法眼藏、涅槃妙心、實相無相、微妙法門、不立文字、敎外別傳、付囑摩訶迦葉。

無門曰、黃面瞿曇、傍若無人。壓良爲賤、懸羊頭賣狗肉。將謂、多少奇特。只如當時大衆都笑、正法眼藏、作麼生傳。設使迦葉不笑、正法眼藏又作麼生傳。若道正法眼藏有傳授、黃面老子、誑謼閭閻。若道無傳授、爲甚麼獨許迦葉。

頌曰

拈起花來

尾巴已露

迦葉破顏

人天罔措

 

淵藪野狐禪師書き下し文:

  六 世尊拈花(ねんげ)

 世尊、昔、靈山(りやうぜん)の會上(ゑじやう)に在りて、花を拈じて衆に示す。是の時、衆、皆、默然たり。

 惟だ迦葉尊者のみ、破顏微笑(みしやう)す。

 世尊云はく、

「吾に、正法眼藏(しやうぱふげんざう)、涅槃妙心、實相無相、微妙法門有り、不立文字、敎外別傳(きやうげべつでん)、摩訶迦葉(まかかせふ)に付囑(ふしよく)す。」

と。

 無門曰く、

「黃面(わうめん)の瞿曇(ぐどん)、傍若無人。良を壓して賤と爲し、羊頭を懸げて狗肉を賣る。將に謂はんとす、多少の奇特、と。只だ、當時の大衆、都てが笑ふごとくんば、正法眼藏、作麼生(そもさん)か傳へん。設(も)し迦葉をして笑はざらしめば、正法眼藏、又、作麼生(そもさん)か傳へん。若し正法眼藏に傳授有りと道(い)はば、黃面の老子、閭閻(りよえん)を誑謼(かうこ)す。若し傳授なしと道(い)はば、甚麼(なん)と爲(し)てか、獨り迦葉を許す。」

と。

 頌して曰く、

花を拈起して

尾巴(びは)已に露はる

迦葉破顏

人天措(お)く罔(な)し

 

淵藪野狐禪師訳: 

  六 世尊、蓮を捻(ひね)る

 世尊が、昔、霊鷲山(りょうしゅうざん)での説法の際、そこにあった一本の蓮の花を手にとると、黙ったまま、その茎を、そっと、捻って、面前に示した。この時、会衆は皆、理由(わけ)が分からず、ただ黙っているばかりであった。

 しかし、ただ迦葉尊者だけが、相好を崩して、にっこりと微笑んだ。

 それを見た世尊は、即座に言った。

「私には、深く秘められた不可思議不可得の真理(まこと)に透徹する眼、瞬時に迷いの火を吹き消す不可思議不可説の悟りの心、その実体実相が無体無相であるところの真実在、摩訶不思議の微妙玄妙なるまことの仏の道へと入る門が、確かに在(あ)るのだが――その不立文字、教外別傳のすべてを、この摩訶迦葉に委ねることとしよう。」

 無門、商量して言う。

「金色(きんじき)、ゴータマ、傍若無人。良民捕囚し、奴隷と成し、羊頭懸げて、狗肉を売る――そのありがたい悪どさを、褒めて言うなら、ご自身の、『あ、お釈迦様でも~、あ、御存知あるメエ~!』ほどの奇特殊勝じゃ!――

 閑話休題。

 だか、もし、世尊が拈花した際、当時の霊鷲山上の会衆全員が、一斉に破顔微笑(みしょう)したとしたら――世尊は、一体、その『正法眼蔵』を、どのように伝えたというのであろうか?

 逆に、もし、世尊が拈花した際、そこにいたあの、摩訶迦葉を破顔微笑させることが出来なかったとしたら――世尊は、一体、その『正法眼蔵』を、どのように伝えたというのであろうか?

 いや、そもそも、その『正法眼蔵』が、伝授可能なものであるとするならば、金色のゴーダマは衆生(しゅじょう)を誑(たぶら)かしたことになる。

 いや、また逆に、その『正法眼蔵』が伝授不可能なものであるとするならば、どうして迦葉だけに伝授することを許す、などということが出来るのであろうか?」

 次いで囃して言う。

flower クニャット ヒネッタラ

hipノアナマデ マルダシネ!

カショウニイサン smile good

nobody テダシハ サ・セ・ナ・イ・ワ!

[淵藪野狐禪師注:「頌」の起句の末にある「來」の字は、文末にあって語勢を強める助字=置字と判断して読まなかった。]

 

   ※

ハーン先生に怒られそうだ。大方の御叱正を俟つ。]

 

Sec. 8

   As at Mitsu-ura, the water's edge is occupied by a serried line of fishing-boats, each with its nose to the sea; and behind these are ranks of others; and it is only just barely possible to squeeze one's way between them over the beach to the drowsy, pretty, quaint little streets behind them. Everybody seems to be asleep when we first land: the only living creature visible is a cat, sitting on the stern of a boat; and even that cat, according to Japanese beliefs, might not be a real cat, but an o-bake or a nekomata—in short, a goblin-cat, for it has a long tail. It is hard work to discover the solitary hotel: there are no signs; and every house seems a rivate house, either a fisherman's or a farmer's. But the little place is worth wandering about in. A kind of yellow stucco is here employed to cover the exterior of walls; and this light warm tint under the bright blue day gives to the miniature streets a more than cheerful aspect. 

   When we do finally discover the hotel, we have to wait quite a good while before going in; for nothing is ready; everybody is asleep or away, though all the screens and sliding-doors are open. Evidently there are no thieves in Kaka-ura. The hotel is on a little hillock, and is approached from the main street (the rest are only miniature alleys) by two little flights of stone steps. Immediately across the way I see a Zen temple and a Shinto temple, almost side by side.

   At last a pretty young woman, naked to the waist, with a bosom like a Naiad, comes running down the street to the hotel at a surprising speed, bowing low with a smile as she hurries by us into the house. This little person is the waiting-maid of the inn, O-Kayo-San—name signifying 'Years of Bliss.' Presently she reappears at the threshold, fully robed in a nice kimono, and gracefully invites us to enter, which we are only too glad to do. The room is neat and spacious; Shinto kakemono from Kitzuki are suspended in the toko and upon the walls; and in one corner I see a very handsome Zen-but-sudan, or household shrine. (The form of the shrine, as well as the objects of worship therein, vary according to the sect of the worshippers.) Suddenly I become aware that it is growing strangely dark; and looking about me, perceive that all the doors and windows and other apertures of the inn are densely blocked up by a silent, smiling crowd which has gathered to look at me. I could not have believed there were so many people in Kaka-ura.

   In a Japanese house, during the hot season, everything is thrown open to the breeze. All the shoji or sliding paper-screens, which serve for windows; and all the opaque paper-screens (fusuma) used in other seasons to separate apartments, are removed. There is nothing left between floor and roof save the frame or skeleton of the building; the dwelling is literally unwalled, and may be seen through in any direction. The landlord, finding the crowd embarrassing, closes up the building in front. The silent, smiling crowd goes to the rear. The rear is also closed. Then the crowd masses to right and left of the house; and both sides have to be closed, which makes it insufferably hot. And the crowd make gentle protest.

   Wherefore our host, being displeased, rebukes the multitude with argument and reason, yet without lifting his voice. (Never do these people lift up their voices in anger.) And what he says I strive to translate, with emphasis, as follows:

   'You-as-for! outrageousness doing—what marvellous is?

   'Theatre is not!

   'Juggler is not!

   'Wrestler is not!

   'What amusing is?

   'Honourable-Guest this is!

   'Now august-to-eat-time-is; to-look-at evil matter is.

   Honourable-returning-time-in-to-look-at-as-for-is-good.'

   But outside, soft laughing voices continue to plead; pleading, shrewdly enough, only with the feminine portion of the family: the landlord's heart is less easily touched. And these, too, have their arguments:

   'Oba-San!

   'O-Kayo-San!

   'Shoji-to-open-condescend!—want to see! 'Though-we-look-at,

   Thing-that-by-looking-at-is-worn-out-it-is-not!

   'So that not-to-hinder looking-at is good.

   'Hasten therefore to open!'

   As for myself, I would gladly protest against this sealing-up, for there is nothing offensive nor even embarrassing in the gaze of these innocent, gentle people; but as the landlord seems to be personally annoyed, I do not like to interfere. The crowd, however, does not go away: it continues to increase, waiting for my exit. And there is one high window in the rear, of which the paper-panes contain some holes; and I see shadows of little people climbing up to get to the holes. Presently there is an eye at every hole.

   When I approach the window, the peepers drop noiselessly to the ground, with little timid bursts of laughter, and run away. But they soon come back again. A more charming crowd could hardly be imagined: nearly all boys and girls, half-naked because of the heat, but fresh and clean as flower-buds. Many of the faces are surprisingly pretty; there are but very few which are not extremely pleasing. But where are the men, and the old women? Truly, this population seems not of
Kaka-ura, but rather of the Sai-no-Kawara. The boys look like little Jizo. 

   During dinner, I amuse myself by poking pears and little pieces of radish through the holes in the shoji. At first there is much hesitation and silvery laughter; but in a little while the silhouette of a tiny hand reaches up cautiously, and a pear vanishes away. Then a second pear is taken, without snatching, as softly as if a ghost had appropriated it. Thereafter hesitation ceases, despite the effort of one elderly woman to create a panic by crying out the word Mahotsukai, 'wizard.' By the time the dinner is over and the shoji removed, we have all become good friends. Then the crowd resumes its silent observation from the four cardinal points.

   I never saw a more striking difference in the appearance of two village populations than that between the youth of Mitsu-ura and of Kaka. Yet the villages are but two hours' sailing distance apart. In remoter Japan, as in certain islands of the West Indies, particular physical types are developed apparently among communities but slightly isolated; on one side of a mountain a population may be remarkably attractive, while upon the other you may find a hamlet whose inhabitants are decidedly unprepossessing. But nowhere in this country have I seen a prettier jeunesse than that of Kaka-ura.

   'Returning-time-in-to-look-at-as-for-is-good.'

   As we descend to the bay, the whole of Kaka-ura, including even the long-invisible ancients of the village, accompanies us; making no sound except the pattering of geta. Thus we are escorted to our boat. Into all the other craft drawn up on the beach the younger folk clamber lightly, and seat themselves on the prows and the gunwales to gaze at the marvellous Thing-that-by-looking- at-worn-out-is-not. And all smile, but say nothing, even to each other: somehow the experience gives me the sensation of being asleep; it is so soft, so gentle, and so queer withal, just like things seen in dreams. And as we glide away over the blue lucent water I look back to see the people all waiting and gazing still from the great semicircle of boats; all the slender brown child-limbs dangling from the prows; all the velvety-black heads motionless in the sun; all the boy-faces smiling Jizo-smiles; all the black soft eyes still watching, tirelessly watching, the Thing-that-by-looking-at-worn-out-is-not. And as the scene, too swiftly receding, diminishes to the width of a kakemono, I vainly wish that I could buy this last vision of it, to place it in my toko, and delight my soul betimes with gazing thereon. Yet another moment, and we round a rocky point; and Kaka-ura vanishes from my sight for ever. So all things pass away.

   Assuredly those impressions which longest haunt recollection are the most transitory: we remember many more instants than minutes, more minutes than hours; and who remembers an entire day? The sum of the remembered happiness of a lifetime is the creation of seconds. 'What is more fugitive than a smile? yet when does the memory of a vanished smile expire? or the soft regret which that memory may evoke?

   Regret for a single individual smile is something common to normal human nature; but regret for the smile of a population, for a smile considered as an abstract quality, is certainly a rare sensation, and one to be obtained, I fancy, only in this Orient land whose people smile for ever like their own gods of stone. And this precious experience is already mine; I am regretting the smile of Kaka.

   Simultaneously there comes the recollection of a strangely grim Buddhist legend. Once the Buddha smiled; and by the wondrous radiance of that smile were countless worlds illuminated. But there came a Voice, saying: 'It is not real! It cannot last!' And the light passed.

2015/09/19

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど) (七)

 

        

 

 たゞ夜間にのみ子供の亡靈は出でてきて、地藏の足許へ小さな積石を築く。して、每夜その石は變はるのだといふ。何故晝間誰も見てゐない折に働かないだらうか、との私の質問に對して、『お日樣が御覽になるかも知れません。亡靈は餘程お日樣を怖れます』との答へを受けた。

 『何故、亡靈は海から來るか?』との私の問に對しては、滿足な答へが得られなかった。然し疑ひななく、この國民の奇異なる想像の中では、他の諸國民の想像に於けると同じく、海の世界と死人の世界の間には、神祕な怖ろしい連絡があるといふ、原始的な考へが依然殘存してゐる。盆の魂りの後、七月十六日に流される藁の小舟に乘つて、亡靈がその暗い國へ歸るのは、いつも海の上を通つて行くのだ。たとひ精靈舟が川へ流される場合も、或は亡靈の道を照らすため湖水や、運河へ燈籠を浮べるにしても、或は子供を失つた母親が、百枚の地藏像の刷り物を川の流れへ投ずるにしても、かやうな敬虔な所業の裏に潜む漠然たる思想は、一切の水は海に流れ、海はまた幽冥界へ流れて行くといふことである。

 

 今日の經驗――暗い洞窟、暗黑の中へ上つて行く灰色の石の群、小さな跣の微かな痕、微笑せる奇異な佛像、それから海水の途切れ途切れの音が、奧へ運ばれ、嗄れた反響によつて數が加はり、混じり合つて、賽の河原の低い群音のやうにひゞく、一つの大きな凄い囁き――か〻る光景と音響を伴へる今日の經驗が、他日何處かで、夜間復た私に現てくることがあるだらう。 

 

 それから舟は紺碧の灣を渡つて、加賀浦の岩石多き磯へ、水面を滑るが如く行つた。

[やぶちゃん注:よろしいか? これはゴシック・ロマンのホラー小説なんかではないのだ! 一人称のノンフィクションなのだ! だからこそハーンが『……今日の經驗――暗い洞窟、暗黑の中へ上つて行く灰色の石の群、小さな跣の微かな痕、微笑せる奇異な佛像、それから海水の途切れ途切れの音が、奧へ運ばれ、嗄れた反響によつて數が加はり、混じり合つて、賽の河原の低い群音のやうにひゞく、一つの大きな凄い囁き――か〻る光景と音響を伴へる今日の經驗が、他日何處かで、夜間復た私に現てくることがあるだらう……』と記した時――本当の慄然たる恐懼が読者を撃つ――のである……

「所業」悪しき訳である。「所業」(しよげふ(しょぎょう))は「所行」とともに、現行の日本語では悪しき行いにしか用いない。平井呈一氏は『行為』と訳されておられる。] 

 

Sec. 7

   Only at night do the shadowy children come to build their little stone- heaps at the feet of Jizo; and it is said that every night the stones are changed. When I ask why they do not work by day, when there is none to see them, I am answered: 'O-Hi-San [2] might see them; the dead exceedingly fear the Lady-Sun.'

   To the question, 'Why do they come from the sea?' I can get no satisfactory answer. But doubtless in the quaint imagination of this people, as also in that of many another, there lingers still the primitive idea of some communication, mysterious and awful, between the world of waters and the world of the dead. It is always over the sea, after the Feast of Souls, that the spirits pass murmuring back to their dim realm, in those elfish little ships of straw which are launched for them upon the sixteenth day of the seventh moon. Even when these are launched upon rivers, or when floating lanterns are set adrift upon lakes or canals to light the ghosts upon their way, or when a mother bereaved drops into some running stream one hundred little prints of Jizo for the sake of her lost darling, the vague idea behind the pious act is that all waters flow to the sea and the sea itself unto the 'Nether-distant Land.'

   Some time, somewhere, this day will come back to me at night, with its visions and sounds: the dusky cavern, and its grey hosts of stone climbing back into darkness, and the faint prints of little naked feet, and the weirdly smiling images, and the broken syllables of the waters inward-borne, multiplied by husky echoings, blending into one vast ghostly whispering, like the humming of the Sai-no-Kawara.

   And over the black-blue bay we glide to the rocky beach of Kaka-ura.

 

2
   August Fire-Lady'; or, 'the August Sun-Lady,' Amaterasu-oho-mi-Kami.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど) (六)

 

          

 

 神の窟から約四五丁引返へしてから、黑い絕壁の長い線に大きな垂直の皺が寄つた處ヘ眞直に進むと、すぐその前に黑い巨岩が海から屹立して、激浪の泡で撻られてゐる。それを廻つて背後へ出ると、水が穩かで、懸崖へ生じた奇怪な裂隙の陰だ。突然思ひもよらぬ一角に、別の洞孔が口を開けてゐる。直ちに舟はその石の敷居に觸れて、小さな激動が地獄の谷の如き處にひゞき渡つて、寺院の太鼓の如く長い朗かな音を起した。一目見てこ〻は何處だとわかる。暗い奧の方に靑白い石に笑を含んだ地藏さんの顏が見えて、その前やすべてそのぐるりには、形狀の崩れた灰色の恰好のものが、凄い光景を呈して集つてゐる。無數の奇々怪々の形のもので、墓地の頽れた跡かと怪しまれる。窟の畝立つた床はもつと奧の窟の黑い入口まで、海から奧へ段々暗くなる影の中を高い勾配をなして、無數の滅茶滅茶に壞れた墓のやうな形のもので、その斜面は蔽はれてゐる。然し眼が薄暗に馴れてくると、墓ではなかつたのだと判明してくる。たゞ長い間辛抱して、骨折つて器用に積上げた石や、小石の小さな塔なのだ。

 『死んだ子供の仕事』と、私の車夫が哀憐を含める微笑を浮べ乍ら囁いた。

 それから私共は舟から上つた。岩が非常に滑り易いから、私は注意によつて、靴を脫ぎ、私に準備してあつた草履を履いた。他の人々は跣で上陸した。しかしどうして進むべきか、直ぐそれに窮した。澤山の積み石が非常に密接してゐるので、足を容れる餘地もないやうだ。

 船頭の女房が案內に立つて、『まだ道があります』と云つた。

 女の後ついて、右の壁と二三の大きな岩の間へ身體を搾めてはいると、石塔の間に狹い通路を發見した。しかし子供の亡靈のために、注意を拂ふやう私共は警告を受けた。もし亡靈の作つた塔を顚覆すると、泣くだらうから、徐々と極めて用心をして、積み石のない地面へ渡つて行つた。崩れかかつた層の碎屑の砂が、薄く一面に岩床の上に推積してゐた。して、その砂中に僅か三四寸の長さで、子供の小さな跣の輕い痕がついてゐた――幼兒の亡靈の足痕なのだ。

[やぶちゃん字注:「薄く一面に岩床の上に堆積してゐた」の「堆積」は底本では「推積」である。誤植と断じて訂した。]

 

 もつと早く來なならば、もつと澤山あつたでせうと船頭の女が云つた。夜間、窟の地面が露や天井の滴で濕つてゐる時に、亡靈は足痕をつけるので、日が暖かくなつて砂や岩が乾いてくると、小さな足の印痕は消えてしまう。

 たゞ三つ足痕が見受けられた。しかしそれが異常に判然としてゐた。一つは洞壁の方ヘ向ひ、他の二つは、海の方へ向つてゐた。洞中の彼處此處に、岩の柵や突起の上に、小さな草履が橫つてゐた。子供の足が石のため傷を受けないやう、參詣者が献げたのだ。が、すべて亡靈の足痕は裸足の痕である。

[やぶちゃん字注:「橫つてゐた」老婆心乍ら、「よこたはつてゐた(よこたわっていた)」と読む。]

 

 それから用心して石塔の間の道を拾ひ拾いに、奧の窟の口の方へ行つて、その前にある地藏の像へ達した。花崗石に刻せる、坐つた地藏だ。片手には一切の願が叶ふ功德を有する神祕の玉を持ち、片手には錫杖を持つてゐる。その前へ小さな鳥居が建つてゐて、しか一對の御幣がある。神道が妙に謙遜してゐる。このやさしい佛は確かに敵を有たないのだ。兒童の亡靈を愛し玉ふ地藏の足許では、神佛相提携してやさしい敬意を捧げてゐる。

 地藏の足といつたもの〻、この窟中の地藏はたゞ片足しかない。地藏が安坐せる彫刻の蓮華は折れて壞れてゐて、二枚の大きな花瓣は失くなつて、そり一枚に載つてゐたに相違ない右足は、踝の處でこはれてゐる。これは訊いて分つたが、波のわざである。暴風の折、波は狂鬼の如く洞内へ突進し、あらゆる小さな石塔を一掃して礫にし、石像を岩に投げつける。しかしいつも暴風後始めての穩かな夜間に、元々通り再建される。

 『佛が心配して、泣き泣き積み直します』亡靈が悲しんで、泣き乍ら復た石を積み上げて、祈願の石塔を再築するのである。

[やぶちゃん字注:「踝」老婆心乍ら、「くるぶし」と読む。また「礫」も老婆心乍ら、ゆめゆめ「レキ」などと音で読んで欲しくない。「つぶて」である。]

 

 奥の小洞の黑い入口を繞つて、骨の色を帶びた岩が恰も一對の大きな口を開けた顎に似てゐる。この陰氣な門からは、洞床が段々深い暗い罅隙の中へと傾斜して行く。して、視力が暗黑に慣れてくるに隨つて、その中には更に大きな石塔が見え出した。塔の先きに當つて、窟の隅に、各一個の鳥居を供へた三體の地藏が、微笑してゐた。こ〻で私は前進しようとしたとき、不幸にも、先づ一ケ所の積石を覆へし、それからまた他の一ケ所のを倒した。私の車夫も殆ど同時に更に他のものを倒した。だから賠償として、私共は六個の新しい塔、卽ち私共が顚覆させた數の二倍のものを建てねばならない。私共がその仕事に忙殺されてゐるとき、船頭の女房は、終夜洞内に留つた二人の漁師が、目に見えぬ群集の遠い低い音や、子供の集まつて囁き合ふ如き言葉の聲を聞いたことを物語つた。

[やぶちゃん字注:「罅隙」既注であるが再掲しておく。「かげき」と読む。裂け目。割れ目。亀裂。罅(ひび)割れた隙き間である。]

[やぶちゃん注:「撻られてゐる」読み不詳。「撻」は訓で「打つ・鞭うつ」であるが、「られている」には繋がらない。音は「タツ・タチ」であるが、凡そ、無理である。熟語を見ると「撻辱(タツジョク)」「撻戮(タツリク)」というのがあり、「鞭打って辱(はずかし)める」という意であるが、かといって「激浪の泡で撻(はづかしめ)られてゐる」というのは如何にもで、私は採れない。因みに原文は“whipped by the foam of breaking swells”で――複数のうねりが砕けることで生じた泡によって激しく叩かれてある――という意であろう。平井呈一氏は『寄せては砕ける怒濤の泡に打たれている』と訳しておられる。ともかくも読めない。識者の御教授を乞うものである。【2015年9月21日追記】公開後、フェイスブックで教え子が以下のような読みの可能性を示唆して呉れた。一部を示す(改行を省略し、行頭を一字空けた)。

   《引用開始》

 「撻られてゐる」ですが、文脈から「えぐられている」と読みました。「けずられている」「ほられている」も考えましたが、「達」のイメージには「えぐる」方があっているかなと。

   《引用終了》

私が提示した「撻」の意味は「広漢和辞典」から引用で、これ以上の意味はないと思われるものの、「鞭で抉(えぐ)られる」というのは、自然な敷衍的当て読み(落合氏は、こうした、かなり個人的な当て読みを、しばしば行っておられる)としては充分あり得るように思われた。

「神祕の玉」如意宝珠(にょいほうじゅ)、梵語では「チンターマニ」と呼ぶ。仏教において様々な霊験を顕わすとされる架空の宝玉である。ウィキ如意宝珠によれば、「チンター」とは「思考」、「マニ」は『「珠」を指す言葉で、「意のままに様々な願いをかなえる宝」という意味である。如意宝、如意珠、または単に宝珠(ほうじゅ、ほうしゅ)とも呼ばれる』。『日本では一般的に、下部が球形で上部が円錐形に尖った形で表されるが、チベット仏教の宗教画などでは円柱形で上部が円錐形に尖った細長い形で描かれる。また』、三つの宝珠が積み重なり(一般には下に二個横に並んでその上に一個が乗った形)、『一つの火炎に包まれた物もあり、これは三弁宝珠と呼』ぶ。『仏や仏の教えの象徴とされ、地蔵菩薩や虚空蔵菩薩、如意輪観音をはじめとする仏の持物、三昧耶形』(さんまやぎょう)『とされる。無限の価値を持つものと信じられ、増益の現世利益を祈る対象となる』。『通常、仏塔の相輪の最上部に取り付けられ、そのほかの仏堂の頂上に置かれることもある。また、橋の欄干など寺院以外の建造物の装飾として取り付けられる擬宝珠はこれを模したものとする説がある』と記す。引用文中に出る「三昧耶形」は「さまやぎょう」とも読み、仏を表す象徴物を言い、単に「三形(さんぎょう)」とも略称する。「三昧耶」とは梵語で「約束」「契約」「取り決め」などを意味する「サマヤ」から転じた言葉であって、参照ウィキ三昧耶形によれば、まさに『どの仏をどの象徴物で表すかが経典によって予め「取り決められている」事に由来する』とあり、『伝統的には如来や菩薩などの仏の本誓、即ち衆生を救済するために起こした誓願を示したものと定義されている』。『多くの場合、各仏の持物がそのままその仏を象徴する三昧耶形となる。例えば不動明王なら利剣(倶利伽羅剣)、聖観音なら蓮華、虚空蔵菩薩なら如意宝珠など』である。また、通常、『持物を持たない如来の場合は特別の象徴物が三昧耶形とされる場合もあるが(大日如来が宝塔など)、印相を以て三昧耶形とする場合もある』。『曼荼羅などの仏画では、仏の絵姿の代わりに三昧耶形で描く事も多い。よく知られている例としては、金剛界曼荼羅の三昧耶会と降三世三昧耶会がある』とある。] 

 

Sec. 6

   From the caves of the Kami we retrace our course for about a quarter of a mile; then make directly for an immense perpendicular wrinkle in the long line of black cliffs. Immediately before it a huge dark rock towers from the sea, whipped by the foam of breaking swells. Rounding it, we glide behind it into still water and shadow, the shadow of a monstrous cleft in the precipice of the coast. And suddenly, at an unsuspected angle, the mouth of another cavern yawns before us; and in another moment our boat touches its threshold of stone with a little shock that sends a long sonorous echo, like the sound of a temple drum, booming through all the abysmal place. A single glance tells me whither we have come. Far within the dusk I see the face of a Jizo, smiling in pale stone, and before him, and all about him, a weird congregation of grey shapes without shape—a host of fantasticalities that strangely suggest the wreck of a cemetery. From the sea the ribbed floor of the cavern slopes high through deepening shadows hack to the black mouth of a farther grotto; and all that slope is covered with hundreds and thousands of forms like shattered haka. But as the eyes grow accustomed to the gloaming it becomes manifest that these were never haka; they are only little towers of stone and pebbles deftly piled up by long and patient labour.

   'Shinda kodomo no shigoto,' my kurumaya murmurs with a compassionate smile; 'all this is the work of the dead children.'

   And we disembark. By counsel, I take off my shoes and put on a pair of zori, or straw sandals provided for me, as the rock is extremely slippery. The others land barefoot. But how to proceed soon becomes a puzzle: the countless stone-piles stand so close together that no space for the foot seems to be left between them.

   'Mada michiga arimasu!' the boatwoman announces, leading the way. There is a path.

   Following after her, we squeeze ourselves between the wall of the cavern on the right and some large rocks, and discover a very, very narrow passage left open between the stone-towers. But we are warned to be careful for the sake of the little ghosts: if any of their work be overturned, they will cry. So we move very cautiously and slowly across the cave to a space bare of stone-heaps, where the rocky floor is covered with a thin layer of sand, detritus of a crumbling ledge above it. And in that sand I see light prints of little feet, children's feet, tiny naked feet, only three or four inches long—the footprints of the infant ghosts.

   Had we come earlier, the boatwoman says, we should have seen many more. For 'tis at night, when the soil of the cavern is moist with dews and drippings from the roof, that They leave Their footprints upon it; but when the heat of the day comes, and the sand and the rocks dry up, the prints of the little feet vanish
away.

   There are only three footprints visible, but these are singularly distinct. One points toward the wall of the cavern; the others toward the sea. Here and there, upon ledges or projections of the rock, all about the cavern, tiny straw sandals—children's zori—are lying: offerings of pilgrims to the little ones, that their feet may not be wounded by the stones. But all the ghostly footprints are prints of naked feet.

   Then we advance, picking our way very, very carefully between the stone- towers, toward the mouth of the inner grotto, and reach the statue of Jizo before it. A seated Jizo carven in granite, holding in one hand the mystic jewel by virtue of which all wishes may be fulfilled; in the other his shakujo, or pilgrim's staff. Before him (strange condescension of Shinto faith!) a little torii has been erected, and a pair of gohei! Evidently this gentle divinity has no enemies; at the feet of the lover of children's ghosts, both creeds unite in tender homage.

   I said feet. But this subterranean Jizo has only one foot. The carven lotus on which he reposes has been fractured and broken: two great petals are missing; and the right foot, which must have rested upon one of them, has been knocked off at the ankle. This, I learn upon inquiry, has been done by the waves. In times of great storm the billows rush into the cavern like raging Oni, and sweep all the little stone towers into shingle as they come, and dash the statues against the rocks. But always during the first still night after the tempest the work is reconstructed as before!

   Hotoke ga shimpai shite: naki-naki tsumi naoshi-masu.' They make mourning, the hotoke; weeping, they pile up the stones again, they rebuild their towers of prayer.

   All about the black mouth of the inner grotto the bone-coloured rock bears some resemblance to a vast pair of yawning jaws. Downward from this sinister portal the cavern-floor slopes into a deeper and darker aperture. And within it, as one's eyes become accustomed to the gloom, a still larger vision of stone towers is disclosed; and beyond them, in a nook of the grotto, three other statues of Jizo smile, each one with a torii before it. Here I have the misfortune to upset first one stone- pile and then another, while trying to proceed. My kurumaya, almost simultaneously, ruins a third. To atone therefore, we must build six new towers, or double the number of those which we have cast down. And while we are thus busied, the boatwoman tells of two fishermen who remained in the cavern through all one night, and heard the humming of the viewless gathering, and sounds of speech, like the speech of children murmuring in multitude.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど) (五)



         

 

 神の海についての戰慄すべき空想に對しては、鱶といふ言葉は滿足な說明を與へたのであつた。しかし何故に小石で長い間、船首を叩いて、高く凄い音をさせたのだらう? その石は正しくたゞそのために、船中に藏めてあるらしい。その所作には誇張的な熱心ぶりがあつた。そのために私は或る薄氣味のわるさ――夜間淋しい道を步いて、奇怪な影が滿ちてゐるとき、あらん限りの聲を立て、歌ひたくなるやうな氣分――を感じた。初め船頭の女は、叩くのは、たゞ奇異な反響を起すためだと明言した。が、私がもつと用心深く質問して見ると、その所作には更に不吉な理由のあることを發見した。またこの海岸のすべての男女水夫は、危險な場所、卽ち魔が棲むと信ぜらる〻處を通るとき、これと同じことを行ふのだと聞いた。魔とは何だ?

 妖怪なのだ!

[やぶちゃん注:この船端(舷側)を叩くという民俗は、広く海女などが海に入る際、磯がねで舷側を叩いて魔を遠ざける呪(まじな)いとして現在も行われている。また、古来、海人族(あまぞく)の間では、怪しい舟と遭遇した際には、自分の舟の船端を櫂(かい)で叩いて音を出してみて、それに相手の舟が応じる様子がないものは、魔の操る「幽霊船」として無視して通り過ぎるというのを、以前に何かで読んだ記憶がある。そもそもが、漁夫が怖れた「舟幽霊」や「海坊主」自体が、まず、船端を叩いて音を立て、船乗りの注意を引く、ともされているから、寧ろ、この婆(ばあ)さまが石を打ち叩き続けるのは、一種の魔物を擬似的に騙す行為――既にこの船は別な妖怪が襲っている――その領分なのであることを示して、真実の妖怪が手を出さないようにするための詐称的な行為であるともとれるように私には思われる。孰れにせよ、この婆さまの石を打ち鳴らす音、ほんに、聴こえて、もの凄きかな!] 

 

Sec. 5

   For the ghastly fancies about the Kami-no-umi, the word 'same' afforded a satisfactory explanation. But why that long, loud, weird rapping on the bow with a stone evidently kept on board for no other purpose? There was an exaggerated earnestness about the action which gave me an uncanny sensation—something like that which moves a man while walking at night upon a lonesome road, full of queer shadows, to sing at the top of his voice. The boatwoman at first declares that the rapping was made only for the sake of the singular echo. But after some cautious further questioning, I discover a much more sinister reason for the performance. Moreover, I learn that all the seamen and seawomen of this coast do the same thing when passing through perilous places, or places believed to be haunted by the Ma. What are the Ma?

   Goblins!

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど) (四)

 

        

 

 これより優れて立派な海の洞窟は、想像に描くことも殆ど出來ないだらう。海が高い岬の內部ヘトンネルを貫いて、また偉大な建築家の手腕を見せて、その堂々たる作品に肋材を施し、稜緣を附け、磨きをかけてゐる。入口の弓形門は慥かに海拔二丈、幅一丈五尺もある。數へきれぬほどの波の舌が、圓天井と側壁を砥めて、非常な滑らかさにしてゐる。進むに從つて岩の屋根は段々高くなり、且つ水路は廣くなる。すると、不意に頭上から滴つた淸水の大村雨の下を通つた。この泉を新潜戶さんの御手水鉢又は御滴水(みたらし)といふ。この邊の高い天井から大さな石が外づれて、惡心の者がこ〻へ入らうとする際に、落ちで來ると信ぜられてゐる。私は無事にその試錬を通過した!

 進行中、突然船頭の女が舟底から石を一つ取つて、强く船首を叩きだすと、洞聲の反響が窟中に雷鳴の如き震動を繰返した。それから、直ちに大きな光りが急に洩れて來る處ヘ出る。この光りは右の方にある高い壯麗な拱廊の入口から差しこむので、その口は直角に曲つて洞內へ開いてゐる。初めは光りが下方から發するやうに思はれたが、これで長い回天井の不思議な明るさが分つた。それは入口がまだ見えないのに、水面に光りが漲つた如く見えるからだ。この大きな弓形門を通して碧水數哩の彼方、離散せる礁の間に、一帶の綺麗な綠色のうねうねした海岸が見える。舟は入つてきた口とは反對に當る第三の入口の方に進んで、神や佛の住み給ふ處へ入つた。この洞窟は神道からも佛敎からも尊まれてゐるのだ。こ〻で潜戶は一番高く且つ廣くなつてゐて、天井は優に水上四丈、兩側は三丈も相隔つてゐる。右方遙かの上に天井に近く白い岩が突出してゐて、岩の上の孔口から岩の色と同じく白いやうな流が徐々と滴下する。

 これが傳說的な地藏さんの泉であつて、死んだ兒童の幽靈が吸ふ乳の泉である。流れやうの遲速はあつても、晝夜滾々と止むことがない。で、乳の不足に困まる母達が、こ〻ヘ參つて、乳を與へられるやう祈れば、その祈願が叶ふ。また自分の子供に對して有り餘る乳を持つた母達も、こ〻ヘ參つて、施し得るだけの量は死んだ兒童に取上げて下さいと地藏さんに祈る。すると、その祈願が叶つて、乳量が減じてくる。

 兎に角、出雲の百姓どもは、かやうにいつてゐる。 

 

 洞外の岩礁にぶつかるうねりの反響、潮流が洞壁に激してぺちやぺちやする音、滲じみ出でる水のぽたぽた落ちる重い雨、漣の舐る音、ごろごろする音、撥ねる音、何處から來るともわからぬ神祕な響などのため、お互の話聲も聽き難い。洞窟の中は聲音に滿ちて、恰も目に見えぬ群集が、騷々しい話をしてゐるやうに思はれた。

 私共の乘船の下では、深底の岩が悉く玻璃の中にある如く、よく眼に映ずる。私にはこの窟內を通つて泳いで、冷つこい陰の中を潮流と共に漂つて行つたならば、これほどの快事はあるまいと思はれた。しかし私が今しも飛込まうとすると、舟中の他の人々が、はげしく反抗の叫びを擧げた。死ぬるにきまつてゐる! 僅々六ケ月前、こ〻ヘ飛び込んだ數名の人達は、それつ切り紛失して了つた! こ〻は神の海だ! して、恰も私の誘惑を呪ひ拂はうとするかの如く、船頭の女は再び小石を捉へて、怖しく船首を叩いた。が、是等の不意の死亡と行衞不明の物語によつて、まだ私を全くは引留め得ないものと見て、彼女は突然私の耳へ魔力的な言葉、

 『鱶(ふか)!』と叫んだ。

 鱶! もはや私は轟々と響き渡る新潜戶の中を、泳いで通りぬけようといふ希望を止めた。

 私は熱帶地方にゐた經驗があるのだ!

 で、私共は直ちに舊潜戶へ向つた。

[やぶちゃん注:原注の「1」は訳されていないが、この「新潜戶のさんの御手水鉢」(「おてうづばち(ちょうずばち)」と読んでいるものと思われる)或いは「御滴水(みたらし)」につき、神道に於ける水の禊(みそぎ)の必須性についてハーンは述べている。最後の部分はすこぶる面白い。何と、ここ、この新潜戸の神でさえも海の水の中を潜って通って来た際には、この水で禊をすると言い伝えられている、と書いてあるのである。

「海拔二丈、幅一丈五尺」海抜六・〇六メートル、幅は約四・五五メートル。原文は“twenty feet above the deep water, and fifteen wide”で二十フィートは六・〇九六メートル、十五フィートは四・五七二メートルであるから、落合氏のそれはこきみよい響きを持っていながら、同時に正当な換算であって実に好ましい。

「稜緣を附け」「稜緣」は「りやうえん」と読むのであろうが、聴き馴れない。歯科学や工学でも自動車整備に用いる専門用語としてあったので、それらと字面の印象から類推して、岩の縁が稜角状に鋭い出っ張りを呈しているとか、筋(すじ)状に岩が紋様を描いているとかの意かと思いきや、原文を見ると、ここに相当するのは“groined”という単語で、この“groin”という動詞は、建築学用語で「穹稜(円形天井の相交わる線)に構築する」の意であることが判った。平井呈一氏は、自然が『天井を張り』と訳しておられる。失礼乍ら、落合氏の詰屈聱牙の悪い部分が出ていると私は思う。

「拱廊」「きようらう(きょうろう)」と読む。「アーケード」のことである。原文は“lofty archway”で、聳え立つアーチ附きの入口(或いはアーチの架けられた屋根附きの通路)の意であるからまっこと正しい訳ではある(例えば「拱橋」は「アーチ橋」のことである)。が、若い諸君にはこれ、なかなか厳しい難語となりつつあるのではなかろうか?

「數哩」一マイルは約一・六一キロメートルであるから、凡そ十キロメートルほどか。今まで毎回注してきたが、馬鹿馬鹿しくなってきたので向後はこれは原則、省略することにする。但し、新潜戸の位置からは直近の加賀の湾奧は二キロもなく、南西の現在の島根町大芦(おわし)の面する浜としても(というよりも「離散せる礁の間に、一帶の綺麗な綠色のうねうねした海岸」という描写は、行ったことのない私が地図上で見る限り、馬島や栗島を左右に挟んだ遙か彼方であるこちらの可能性が強いと思う)直線で二・五キロメートルほどしかない。これは地図で確認すれば間違わないことだから、この箇所はハーンの実際のその場での印象を綴ったものである。とすれば、その「間違い」がすこぶる納得がいくのである。暗い海食洞内から晴天の海を越えて見た風景の距離感は実際、現実の距離よりも遙かに遠く見えるものであるからである。しかも、ここは現実と冥界の境である潜戸である――ハーンの距離感の印象はそういう意味でも実は「正しい」と言えるのである。

「四丈」十二・一二メートル。

「三丈」九・〇九メートル。

 

「死ぬるにきまつてゐる! 僅々六ケ月前、こ〻ヘ飛び込んだ數名の人達は、それつ切り紛失して了つた!こ〻は神の海だ!」ここは平井氏のように翻案になっても直接話法で示すべき箇所である。平井氏の訳を見よう。

『死んでしまうに! 半年ほど前に、ここへ飛びこんだ人があったが、今に行き方知れずだ! ここは神様の海だでな!』

――この肉声の叫声を受けてこそ、婆(ばあ)さまが、石でもって舳を激しく打ち鳴らす音が効果的に響いてくるのだ! そうして――そうして……その石の打音が止んだ瞬間、ハーンが、ふと、見ると、真横に婆(ばあ)さまがいて、その深い皺を寄せた褐色の口から発せられた「鮫(さめ)!」の言葉がハーンの耳を劈(つんざ)くのである!

 

Sec. 4

   A more beautiful sea-cave could scarcely be imagined. The sea, tunnelling the tall promontory through and through, has also, like a great architect, ribbed and groined and polished its mighty work. The arch of the entrance is certainly twenty feet above the deep water, and fifteen wide; and trillions of wave tongues have licked the vault and walls into wondrous smoothness. As we proceed, the rock-roof steadily heightens and the way widens. Then we unexpectedly glide under a heavy shower of fresh water, dripping from overhead. This spring is called the o-chozubachi or mitarashi [1] of Shin-Kukedo-San.. From the high vault at this point it is believed that a great stone will detach itself and fall upon any evil-hearted person who should attempt to enter the cave. I safely pass through the ordeal!

   Suddenly as we advance the boatwoman takes a stone from the bottom of the boat, and with it begins to rap heavily on the bow; and the hollow echoing is reiterated with thundering repercussions through all the cave. And in another instant we pass into a great burst of light, coming from the mouth of a magnificent and lofty archway on the left, opening into the cavern at right angles. This explains the singular illumination of the long vault, which at first seemed to come from
beneath; for while the opening was still invisible all the water appeared to be suffused with light. Through this grand arch, between outlying rocks, a strip of beautiful green undulating coast appears, over miles of azure water. We glide on toward the third entrance to the Kukedo, opposite to that by which we came in; and enter the dwelling-place of the Kami and the Hotoke, for this grotto is sacred both to Shinto and to Buddhist faith. Here the Kukedo reaches its greatest altitude and breadth. Its vault is fully forty feet above the water, and its walls thirty feet apart. Far up on the right, near the roof, is a projecting white rock, and above the rock an orifice wherefrom a slow stream drips, seeming white as the rock itself.

   This is the legendary Fountain of Jizo, the fountain of milk at which the souls of dead children drink. Sometimes it flows more swiftly, sometimes more slowly; but it never ceases by night or day. And mothers suffering from want of milk come hither to pray that milk may be given unto them; and their prayer is heard. And mothers having more milk than their infants need come hither also, and pray to Jizo that so much as they can give may be taken for the dead children; and their prayer is heard, and their milk diminishes.

   At least thus the peasants of Izumo say.

   And the echoing of the swells leaping against the rocks without, the rushing and rippling of the tide against the walls, the heavy rain of percolating water, sounds of lapping and gurgling and plashing, and sounds of mysterious origin coming from no visible where, make it difficult for us to hear each other speak. The cavern seems full of voices, as if a host of invisible beings were holding tumultuous converse.

   Below us all the deeply lying rocks are naked to view as if seen through glass. It seems to me that nothing could be more delightful than to swim through this cave and let one's self drift with the sea-currents through all its cool shadows. But as I am on the point of jumping in, all the other occupants of the boat utter wild cries of protest. It is certain death! men who jumped in here only six months ago were never heard of again! this is sacred water, Kami-no-umi! And as if to conjure away my temptation, the boatwoman again seizes her little stone and raps fearfully upon the bow. On finding, however, that I am not sufficiently deterred by these stories of sudden death and disappearance, she suddenly screams into my ear the magical word,

   'SAME!'

   Sharks! I have no longer any desire whatever to swim through the many- sounding halls of Shin-Kukedo-San. I have lived in the tropics!

   And we start forthwith for Kyu-Kukedo-San, the Ancient Cavern. 

 

1
   Such are the names given to the water-vessels or cisterns at which Shinto worshippers must wash their hands and rinse their mouths ere praying to the Kami. A mitarashi or o-chozubachi is placed before every Shinto temple. The pilgrim to Shin-Kukedo-San should perform this ceremonial ablution at the little rock-spring above described, before entering the sacred cave. Here even the gods of the cave are said to wash after having passed through the seawater.

みまかれる美しきひとに   立原道造

    みまかれる美しきひとに

 

まなかひに幾たびか 立ちもとほつたかげは

うつし世に まぼろしとなつて 忘れられた

見知らぬ土地に 林檎の花のにほふ頃

見おぼえのない とほい晴夜の星空の下(もと)で

 

その空に夏と春の交代が慌しくはなかつたか

――嘗てあなたのほほゑみは 僕のためにはなかつた

――あなたの聲は 僕のためにはひびかなかつた

あなたのしづかな病と死は 夢のうちの歌のやうだ

 

こよひ湧くこの悲哀に灯をいれて

うちしほれた乏しい薔薇をささげ あなたのために

傷ついた月のひかりといつしよに これは僕の通夜だ

 

おそらくはあなたの記憶に何のしるしも持たなかつた

そしてまたこのかなしみさへゆるされてはゐない者の――

《林檎みどりに結ぶ樹の下におもかげはとはに眠るべし》

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部の初期詩篇抄出二十七篇の内の一篇。

「まなかひ」万葉以来の上代語で私の偏愛する語彙である。「眼間」「目交」(「目(め)の交(か)ひ」)とも書くが、目と目の間・目の辺り・目の前の意である。「ま」は「目(め)」に同じく、「な」は「つ」の意の古い連体修飾格の格助詞(但し、残念なことに奈良以降、格助詞としての自由な使用機能を全く喪失して単体では死語化しまった)、「かひ」はハ行四段活用の自動詞「交ふ」(双方が行き違う・交(まじ)る)が名詞化してさらに接尾語となったもので、本来は両眼の視線が重なり合って交差する箇所を表わすものである。則ち、この語は両眼の視線が交わって、そこでピントが一致してゆき、そこに鮮やかな対象の現像が現われる過程を、そこだけごく僅かなスローで動的に演出させるところの、極めてタルコフスキイ的な映像イメージを持つ稀有のものと私は勝手に捉えているのである。

「立ちもとほつた」ラ行四段活用の自動詞「たちもとほる」も上代以来の古語で、「立ち徘徊る」などと漢字を当てるが「徘徊」の字は生理的に好まぬ。しかし確かにこれは、あちらこちらそわそわと歩き廻る/心落ち着かず行きつ戻りつする/ただ意味もなくぶらつくで、即ち、徘徊(はいかい)するの意ではある。

「うつしよ」「現し世」で、この世。現世(げんせ)で、「世」がついて名詞化してしまうと圧倒的な仏教伝来以降の区分化された業としての「現世」になってしまうが、「うつし」という語自体は仏教伝来以前から存在したやはり上代語であり(「古事記」「万葉集」の判読例に出現する)、「うつし」(現し・顕し)というシク活用の形容詞の語幹が「世」に附いたものとして、矮小化された汚穢と因業に満ち満ちた低次の「無常」なる世界という呪縛的意味から解き放って味わうべき語と考える。少なくとも前に純化された儚くも(しかしそれは(仏教的な憐憫の無常観とは無縁の)美しい語が鏤められている本連では特にそう捉えるべきであると考える。「うつし」とは「うつつなること」であって、現に生きてある/現実である、の意、或いは意識上の問題として、正気である/真(まこと)である、というポジティヴとは言わずともフラットな要素をもっと含んだものであったことを我々は忘れている。寧ろ、「うつつ」がそういうものであればこそ、そこから永遠に去った者の影は我々を痛烈に哀しませるのである。

「晴夜」「せいや」と読む。さわやかに晴れ渡った夜の意で、さればこそ満天の星空なのである。月は出ていないがよい。月光は寧ろ、瞬く星の光源を隠してしまうから。]

2015/09/18

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 妙本寺

   ●妙本寺

妙本寺は長興山と號す、日蓮説法始の寺なり、相傳ふ日蓮の俗弟子、比企大學三郞と云し人建立す、日蓮在世の時日朗に附屬する故に日朗を開山とす、正月二十一日開山忌あり、此寺の住持池上本門寺を兼帶(けんたい)するなり、塔頭十六坊院家二個院ありて其昔一貫五百文の御朱印ありしなり、此地を比企谷と云、比企判官能員か舊跡なり。

本堂  此堂には本(もと)阿彌陀の像を安す、其像は大學三郎か持佛堂の佛なりしを其後盜み去られて、今は立像の釋迦鬼子母神(きしもじん)四菩薩を安す、釋迦は陳和卿か作と云ふ、日蓮伊豆へ配流の時、立像の釋迦を隨(ずゐしん)身す、後に日朗に付屬(ふぞく)、其像今は本國寺(ほんこくじ)にあり故に此にも又立像の釋迦を安ず。

御影堂  本堂の北にあり、祖師一尊を安置す、日蓮在世の間、弟子日法隨身して詳に容貌を寫すとなり、列祖の牌あり、又大學三郎か牌もあり、上に法華の題目を書、下に開基檀那日學位同廉中理芳位とあり、日學は比企大學三郎が法名なり、每年二月十五日爲に勤行あり、大學三郎は此企判官能員(ひきはんぐわんよしかづ)か末子なり、父能員誅せられし時、伯父伯耆法師と云人山内證菩提寺の住持にて、其時京の末寺に在しか、竊かに出家せしめ京に隱置、後に文士となり順德帝に奉仕、佐渡國へ御供申、賴經將軍の御臺所(みだいどころ)は能員か外孫なるゆへに、老後に御免を蒙り鎌倉へ下り、竹御所(たけごしよ)の御爲に比企谷にて法華堂を建立し僧を集す、持經(じきやう)して法名を日學と云、妙本と號す、故に當寺にも名くとなり。

竹御所舊跡  本堂へ上る道の左にあり、今卵塔場なり、竹御所とは源賴家の女子、比企能員か外孫、將軍賴經御臺所なり。

蛇苦止明神社  方丈の後(うしろ)にあり、是比企能員の女、讃岐局の靈を祀れるなり、文應元年其靈、北條時村の女(むすめ)に着し、大蛇(たいじや)となりて、常に苦を受(うく)る由、自託(じたく)せし事、東鑑に見えたり、故に此時其鬼崇を鎭(しづ)めんか爲、爰に崇祀し託言(たくげん)に因て、此神號を授けしなるベし。

[やぶちゃん注:「比企大學三郞」比企能本(ひきよしもと 建仁二(一二〇二)年~弘安九(一二八六)年)。以下に記されるように、建仁三(一二〇三)年の比企の乱で滅びた比企氏の当主比企能員の末子で、出家して日学と名乗ったとされる人物。比企高家とも。

「日朗」(寛元三(一二四五)年~元応二(一三二〇)年)は日蓮宗六老僧(日蓮門下の六人の高弟。日昭・日朗・日興(にっこう)・日向(にこう)・日頂・日持(にちじ))の一人。十二歳で日蓮の弟子となり、文永八(一二七一)年の日蓮流罪の際には現在の光則寺(後出)裏の土牢に押し込めとなった。文永一一(一二七四)年には佐渡に流罪となっていた日蓮を八度訪ね、最後には赦免状を携え、佐渡に渡っている。日蓮の没後は身延山に正法院を営み、池上本門寺にある後の照栄院に於いて没した。

「池上本門寺」現在の東京都大田区池上にある日蓮宗大本山長栄山大国院本門寺。古くより池上本門寺と呼称されてきた。ウィキの「」によれば、弘安五(一二八二)年九月、『病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向か』ったが、堂月十八日には『武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。生涯最後の』二十数日間をここに過ごす中で、同月中に『池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源という』。同年十月十三日に日蓮が没すると、宗仲は「法華経」の字数(六万九千三百八十四字)に合わせた『六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされている』。『その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した』とある。

「比企判官能員」比企能員(ひきよしかず ?~建仁三年九月二日(一二〇三年十月八日)。藤原秀郷流比企氏の一族。源頼朝の乳母比企尼(ひきのあま)の甥で、後に養子となった。比企尼の縁から鎌倉幕府二代将軍源頼家の乳母親となり、娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子一幡を産んで権勢を強めたものの、能員一族の台頭を恐れた北条時政との対立から、時政及び北条一族の謀略によって比企能員の変(比企の乱)が起こり、一族郎党滅亡させられた(概ねウィキの「比企能員」に拠った)。

「本國寺」京都府京都市山科区にある、日蓮宗の大本山大光山本圀寺のこと。

「同廉中理芳位」日学の妻の法号。普通は「理芳尼」と呼称する。

「伯父伯耆法師」不詳。

「山内證菩提寺」これは旧鎌倉「山ノ内(やまのうち)」内(現在は横浜市栄区)の「證菩提寺」のこと。以下、私の「新編鎌倉志卷之三」の「證菩提寺舊跡」から私の注ごと引く(「舊跡」となっている点は一緒に引いた後注を参照のこと)。

   *

◯證菩提寺舊跡 證菩提寺(しようぼだいじ)の舊跡は、本郷(ほんがう)上の村に無量寺と云ふ眞言寺(てら)あり。則ち是なり。證菩提寺を、五峯山(ごほうさん)と號す。此邊も山の内莊なり。【東鑑】に、建保四年八月廿四日、相州〔時賴。〕奉(うけたま)はつて山の内證菩提寺にて、故佐奈田餘一義忠(さなだよいちよしただ)が迫善を修す。又建長二年四月十六日、山の内證菩提寺修埋あり。是れ右大將家の御時、佐奈田の餘一が菩提の爲に、建久八年に建立と有。本尊阿彌陀なり。故に後に無量寺と改めたる歟。

[やぶちゃん注:この寺は現在、実は証菩提寺という名で横浜市栄区上郷町に現存する。山号は五峯山一心院で高野山真言宗である。ここでは旧跡と呼んでいるのであるが、一部の資料を見ると逆に本来、無量寺(無量壽寺とも)と呼ばれていた時代があって、後に岡崎義忠(佐奈田与一)の父義実の死後に、義実の法名であった証菩提を寺号とするようになったという記載もある。この寺は源頼朝が石橋山の合戦で頼朝に従って二十五歳で最期を遂げた岡崎義実(三浦大介義明弟)嫡男佐奈田(真田)与一義忠の菩提を弔うために建立したもので、寺地は幕府の鬼門に当たる。建立は本文では建久八(一一九七)年とあるが、現資料では文治五(一一八九)年に同定されている(後の鐘銘にもそう記されているのにあえてこう記す根拠はなんだったのか不審)。本文記載以外にも建保四(一二一六)年には実朝によって義忠追善法要を行っているが、政子没後は次第に衰微した。それを第三代執権北条泰時の娘小菅ヶ谷殿がここに新たに二つ目の阿弥陀堂を建立して再興、北条政子の十三回忌を行ったということが「鶴岡社務式次第」に見える。

「佐奈田餘一義忠」は岡崎義実嫡男岡崎(佐奈田)与一(余一)義忠(久寿二(一一五五)年~治承四年(一一八〇)年)のこと。相模国大住郡(現在の神奈川県平塚市真田)を領した武将。源頼朝の挙兵に加わり、石橋山の戦いで奮戦、討ち死にした人物として「平家物語」などで名を残し、江戸時代には夭折の武勇の美少年として錦絵で人気を集めた。以下、ウィキの「佐奈田義忠」の美事な記載から引用する(アラビア数字を漢数字に変更、一部に字空けを施した)。『父義実の推挙により、頼朝は武勇優れる与一に「大庭景親と俣野景久(景親の弟)の二人と組んで源氏の高名を立てよ」と先陣を命じ』、『与一は討ち死にを覚悟し、五十七歳になる老いた郎党の文三家安に母と妻子の後事を頼もうとするが、家安は与一が二歳の頃から親代わりにお育てしたのだから最後までお伴をして討ち死にすると言い張り、与一もこれを許した』。『頼朝は与一の装束が華美で目立ちすぎるだろうから着替えるよう助言するが、与一は「弓矢を取る身の晴れの場です。戦場に過ぎたることはありますまい」と言うと白葦毛の名馬にまたがり、十五騎を率いて進み出て名乗りを上げる。大庭勢はよき敵であると見て大庭景親、俣野景久、長尾新五、新六ら七十三騎が襲いかかった』。『この合戦は夜間に行われ、その上に大雨で敵味方の所在も分からず乱戦となった。与一は郎党の文三家安に自分は大庭景親か俣野景久と組まんと思っているから、組んだならば直ちに助けよと命じた。すると、敵一騎が組みかかってきた、与一はこれを組み伏せて首をかき切るが、景親や景久ではなく岡部弥次郎だった。義忠は残念に思い、首を谷に捨ててしまった』。『闇夜の乱戦の中、敵を探していると目当ての俣野景久と行き会った。両者は馬上組みうち、地面に落ちてころげ、泥まみれの格闘の末に与一が景久を組み伏せた。暗闇のためにどちらが上か下か分からず、家安も景久の郎党も手が出せない。敵わじと思った景久は叫び声を上げ、長尾新五が駆け付けるがどちらが上下か分らない。長尾新五は「上が敵ぞ? 下が敵ぞ?」と問うと、与一は咄嗟に「上が景久、下が与一」と言う。驚いた景久は「上ぞ与一、下ぞ景久、間違えるな」と言う。とまどった長尾新五は手探りで鎧の毛を触り、上が与一と見当をつけた。これまでと思った与一は長尾新五を蹴り飛ばし、短刀を抜いて景久の首をかこうとするが刺さらない。不覚にも鞘ごと抜き放ってしまった。鞘を抜こうとするが先ほどの岡部の首を切った時の血糊で鞘が抜けない。そうこうしているうちに長尾新五の弟の新六が背後から組みかかり、与一の首を掻き切ってしまった。享年二十五』。『主人を失った文三家安』も奮闘の末に『稲毛重成の手勢に討たれ』てしまう。後、晴れて政権を握った頼朝は『建久元年(一一九〇年)正月二十日、頼朝は三島、箱根、伊豆山参詣の帰りに、石橋山の与一と文三の墓に立ち寄り、哀傷を思い出し涙を流した』といわれる。『与一の戦死した地には佐奈田霊社』(現在の神奈川県小田原市石橋山)『が建てられている。与一が組み合っていたとき、痰がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、この神社は喉の痛みや喘息に霊験があると』され、今も信仰を集める。]

   *

「竹御所」(建仁二年(一二〇二)年~天福二(一二三四)年)は源頼家の娘、鞠子(または媄子(よしこ)とも)。母は比企能員の娘若狭局(「尊卑分脈」では木曽義仲の娘とする)。二歳で比企能員の変が起こり、父頼家は後、修善寺で暗殺されるが、建保四(一二一六)年に祖母政子の命によって、十四歳で叔父源実朝の正室信子の猶子となった。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の第四代将軍藤原頼経に嫁いでいる。ウィキの「竹御所」によれば、『他の頼家の子が、幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子死去後、その実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は幕府の権威の象徴として、御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした』とある。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の第四代将軍藤原頼経に嫁いだ。『夫婦仲は円満であったと伝えられる』。その四年後の天福二(一二三四)年三月に懐妊し、『頼朝の血を引く将軍後継者誕生の期待を周囲に抱かせるが、難産の末、男子を死産、』竹御所自身も、重い妊娠中毒症と思われる少症状で同時に亡くなってしまう(享年三十三。後掲する「吾妻鏡」では何故か「三十二」とある)。この『竹御所の死により源頼朝の血筋は完全に断絶』することになった。

「蛇苦止明神社」「蛇苦止」は「じやく(じゃくし)」と読む。妙本寺の境内(であるが参道左手東北の奥にあってお参りする観光客は少ない)にある。傍らに蛇苦止の井(蛇形の井)という井戸があり、頼家の妻で嫡男一幡の母が比企の乱の折りにここに身を投じとされ、彼女はその後、蛇身となってこの井戸の中で家宝を守っていると言い伝えられている。その霊を鎮めんがために祀ったのが当社であるとする。

「讃岐局」よく分からない人物である(北條時頼側室の讃岐局とは別人なので注意が必要)。岡戸事務所編「鎌倉手帳(寺社散策)」の「蛇苦止堂・蛇苦止ノ井」には、『若狭局を祀る社』とするが、この「若狭局」とは実は前に書いた通り、頼家の妻で嫡男一幡の母である。ところが白井永二編「鎌倉事典」ではこの女性の名を「讃岐局」とするからである。「鎌倉手帳(寺社散策)」も疑問を呈し、この「若狭局」と「讃岐局」は『同一人物であり、若狭局はのちに讃岐局と呼ばれた』という説と、『一幡の母が若狭局、政村の娘に祟ったのが讃岐局』とする別人説の二説があるらしいとし、さらに「若狭局」の最期についても、『一幡とともに比企の乱で焼け死んだとする『吾妻鏡』の説』と、『一幡とともに逃げ延び、2ヶ月あまり経った後、北条義時の郎党に捕らえられ、刺し殺された』とする「愚管抄」の別説があると記している。妙本寺自体、市中にあって妙に静かな寺であるが、この蛇苦止明神はその中でもこれまた、ずんと重い空気を持った場所のように私は感ずる。

「文應元年」一二六〇年。

「北條時村」(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は鎌倉幕府第七代執権北条政村(幼少の泰時の曾孫北条時宗の代理で彼は得宗家ではない)の嫡男。奇怪な暗殺事件によって無惨な最期を遂げた。ウィキの「北条時村(政村流)」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ、建治三年(一二七七年)十二月、六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した。弘安七年(一二八六年)、八代執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛。正安三年(一三〇一年)、甥の北条師時が十代執権に代わると連署に任じられて師時を補佐する後見的立場とな』った。『嘉元三年(一三〇五年)四月二十三日の夕刻、貞時』(元第九代執権。第八代執権北条時宗嫡男)『の「仰せ」とする得宗被官、御家人が当時連署であった北条時村の屋敷を襲い殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』した。『享年六十四』。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」(『実躬卿記』の四月二十七日条)、「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」(大外記中原師茂)と、「時村が誅された」とある』。『時村を「夜討」した十二人はそれぞれ有力御家人の屋敷などに預けられていたが、五月二日に「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首された。五月四日、一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死した』。『嘉元の乱と呼ばれるこの事件は、かつては『保暦間記』の記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので、同時代の『実躬卿記』の同年五月八日条にも「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である。生き残った孫の煕時は幕政に加わり、第十二代執権に就任した』とある。]

うたふやうにゆつくりと‥‥   立原道造

    うたふやうにゆつくりと‥‥

 

日なたには いつものやうに しづかな影が

こまかい模樣を編んでゐた 淡く しかしはつきりと

花びらと 枝と 梢と――何もかも‥‥

すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた

 

私は待ちうけてゐた 一心に 私は

見つめてゐた 山の向うの また

山の向うの空をみたしてゐるきらきらする靑を

ながされて行く浮雲を 煙を‥‥

 

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も

たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに

風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を

 

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど

待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを

私は 見つめてゐた――風と 影とを‥‥

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部の初期詩篇抄出二十七篇の内の一篇。]

2015/09/17

北條九代記 卷第七 春日の神木 付 興福寺の衆徒蜂起

      ○春日の神木  興福寺の衆徒蜂起

同二十九日、六波羅の飛脚到來し、申しけるは、「去ぬる廿四日、南都の衆徒、春日社(かすがのやしろ)の神木(しんぼく)を捧(さゝ)げて、入洛すと聞えしかば、勅定に依て、在京の武士等を差向けて、防がせらる。木津河の邊に行合(ゆきあ)うて、春日の神人(じんにん)等(ら)と挑戰(いどみたゝか)ふ、神人等多く疵(きず)を蒙る。この訴に依て、藤氏(ふじうぢ)の公家、執柄(しつぺい)、公卿、悉く門を閉ぢて參内せず。その起(おこり)を尋ぬるに、石淸水(いはしみづ)八幡宮寺と、興福寺と、薪御園(たきゞのみその)、大住(おほすみ)、兩莊の用水(ようすゐ)の相論(さうろん)によつて、鬪諍(とうじやう)に及ぶ。興福寺の神人等、刀傷(にんじやう)に罹(かゝ)り、死亡の者多し。南都の衆徒、是を怒(いかつ)て、薪莊(たきゞのしやう)に押寄(おしよ)せ、在家六十餘宇を燒拂(やきはら)ふ。石淸水の神人、俄に神輿(じんよ)を洛中に振(ふ)り奉らんとす。勅定を以て石淸水の別當、成淸(じやうせい)法印に仰せられ。因幡國を寄進せらる。是に依て、石淸水の神輿入洛(じゆらく)の義は留(とゞま)りぬ。自今以後、若(もし)輒(たやす)く神輿を動(どう)じ奉りて、非分(ひぶん)の濫訴(らんそ)を致すに於いては、別當職を改補(かいふ)せらるべき由、堅く制禁せられたり。興福寺の衆徒等、是を聞きて、愈(いよいよ)憤(いきどほり)を含み、今この騷動に及べり。この事、公家の重事(ぢうじ)なるを以て、關東に仰遣(おほせつかは)さる。後藤〔の〕大夫判官基綱、行向う(ゆきむか)て、使を神木の御座所に遣(つかは)し、衆徒を宥(なだ)め申しければ、問答往返(もんだふわうへん)の後に、承服して、神木、御歸座あり。是に依て、殿下公卿以下、藤氏の輩、皆、參内し給ひけり。南都の衆徒、上部(うはべ)は、暫く靜(しづま)るに似たりといへもども、内證(ないしよう)深く公家を恨み奉り、嘉禎二年十月に、又蜂起して、城廓を構へて、楯籠(たてこも)りけり。六波羅より、使節を以て宥めらるれども、耳にも聞入れず。使者を打殺(うちころ)して、首を手蹀(てんがい)の門(もん)に晒(さら)せなんど云ひければ、評定を經て、騒動、靜(しづま)らん程まで大和國に守護人を居(す)ゑられ、衆徒の知行莊園を沒收(もつしゆ)して、地頭に補預(ふしあづ)けらる。畿内近國の御家人等(ら)を催し、南都の道々(みちみち)を取切りて、人の往還を留(とゞ)め、印東(いんどうの)八郎、佐原(さはらの)七郎以下、武勇(ぶよう)大力の兵を遣し、「衆徒、若(も)し打出て、敵對せば、更に優恕(いうじよ)の思(おもひ)を致さず、悉(ことごと)く打殺(うちころ)すべし」と仰出(おほせいだ)だされ、關東より計(はからひ)上せられけり。かゝりければ、城中兵粮(ひやうらう)の運送に難義(なんぎ)して、僧綱以下、皆ともに城を出でて寺に歸り、寺門を閉(とぢ)て佛事を修す。衆徒の心、宥(なだま)りて、靜謐(せいひつ)するうへは、公家武家ともに、惡(にく)み給ふべきことなし、よろしく天下の長久を祈るべしとて、寺家の所領殘らず返付(かへしつ)けられ、大和國の守護、地頭職をぞ留(とゞめ)られける。同十二月、將軍家を民部卿に任ぜられ、武藏守泰時を、左京權大夫に兼任せらる。京都鎌倉静謐する事、偏(ひとへ)に泰時の政務に依ると、上下の諸人、稱嘆(しようたん)せり。

 

[やぶちゃん注:主たる春日大社神木騒動と興福寺の衆徒蜂起事件の部分は「吾妻鏡」巻三十の文暦二(一二三五)年五月二十三日、七月二十四日、及び嘉禎元(一二三五/文暦二年九月十九日に改元)年十二月二十九日、及び巻三十一の嘉禎二(一二三六)年二月二十八日、十月二日・十月五日、十一月十四日等に基づき、最後の将軍頼経の民部卿叙任、泰時の左京権大夫補任は同「吾妻鏡」巻三十一の嘉禎二年十二月三日と十二月二十六日の記事に基づく(文暦二年は二十九巻と三十巻との重出部であるから注意)。

「同二十九日」文暦二(一二三五)年の十二月二十九日。但し、この「同」は実は正しくない。何故なら、前章の最後のクレジット(頼経疱瘡発症の記事)は、精緻に読んでみると、文暦二(一二三五)年の十一月十八日の発症記事で終わっているからである。則ち、その通りならばここは文暦二(一二三五)年の十一月二十九日でなくてはならないが、以下の記事は間違いなく「吾妻鏡」の十二月二十九日の記事内容に基づく叙述だからである。実際の「吾妻鏡」では疱瘡という診断はまだ出ず、「將軍家御不例」とあり、「疱瘡」が発現したのが十二月十八日であった。しかし、前章では「翌月」とか「十二月」のクレジットは遂に出ないのである。恐らく筆者は、十一月十八日の発症記事を「吾妻鏡」見つけて前章を執筆していたのだが、同じ「十八日」であった翌十二月十八日の疱瘡発現の記事を読み進めて書き続けるうち、同じ日付であったことから、この十一月を途中から十二月と思い込み、本章にそのままなだれ込んでしまった結果の錯誤ではなかったかと私は推理するものである。

「南都の衆徒」これは具体的には奈良興福寺の僧兵である。ウィキの「衆徒」によれば、『摂関家とのつながりが強かった大和国の興福寺は鎌倉時代に入ると、南都奈良やがて大和一国の支配権を得るようになった。本来同寺の衆徒は太政官符によって』二十名と『定められ、別当や三綱の補佐にあたることになっていた(官符衆徒)が、次第に一乗院・大乗院などといった有力な門跡が自己の発言力の増大のために国内の武士や名主などを御家人などと称して自己の衆徒に組み入れ、自院の学侶に率いさせて寺内や奈良の町の検断などに従事させた。また、神仏習合によって興福寺と一体化していた春日社の神人に組み入れられて同様の役割を果たすこともあり、こうした春日社神人を「国民」と呼んだ』。即ち、『国内の武士を自寺の衆徒として組み入れたために同国の武士(大和武士(やまとぶし))を指して衆徒と呼ぶ場合もあ』ったとあり、以降の惨状を見ても、これは明らかに武装集団であって、ただの門信徒でないことは明白である。なお、以下に出るこの神木強訴のプレの対立派である石清水八幡宮の神人による神輿(しんよ)による強訴事件(本文から京中には入らず未遂で鎮静したとある)と混同されないよう、注意されたい。

「春日社」現在の奈良市春日野町にある、かの春日大社のことである。前注にも出ているが、ウィキの「春日大社」にも、もともと『藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く』、弘仁四(八一三)年に『藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった』とある。

「神木」前に引いたウィキの「春日大社」に、十一世紀末頃になると、『興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった』とある、その神木である。

「木津河」木津川。現在の三重県及び京都府を流れる淀川水系の支流。

「神人(じんにん)」確かに「じんにん」とも呼ぶが、私は「じにん」の呼び名の方がしっくりくる。神社に隷属して雑役などを行った下級神職で「寄人(よりゅうど)」とも呼んだ。彼等は神職とはいうものの、差別社会の底辺層に位置されており、社頭や祭祀の警備をも主業務としたことから日常的に武器を携帯していた。ウィキの「神人」にも『平安時代の院政期から室町時代まで、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった』と記されている。

「藤氏」藤原氏の門流。ここは本文で以下が読点であるが、実際には「藤氏」であるところの当時の摂政(「執柄」)であった藤原道家、及びそれを除いたところの藤原氏本流支流の「公卿」衆(摂政・関白以下の参議以上の現官及び三位以上の有位者(前官者をも含む)の総称)の意と思われる。

「執柄」摂政・関白の異称。別に漠然と政治上の実質的権力者をも指すこともあるが、ここは前者。

「その起を尋ぬるに……」以下、「吾妻鏡」を見てみよう。まずは文暦二(一二三五)年五月二十三日の条。

   *

○原文

廿三日乙夘。石淸水八幡宮寺與興福寺有確執。及喧嘩等之間。可計沙汰之旨。被下院宣之由。自六波羅被馳申之。是薪。大住兩庄用水相論之故也云々。仍被經其沙汰。差遣御使。遂實檢。就左右。可有議定之趣。今日所被仰遣也。

○やぶちゃんの書き下し文

廿三日乙夘。石淸水八幡宮寺と興福寺、確執(かくしふ)有りて、喧嘩等に及ぶの間、計(はから)ひ沙汰すべきの旨、院宣を下さるるの由、六波羅より之れを馳せ申さる。是れ、薪(たきぎ)・大住(おほずみ)の兩庄(しやう)、用水相論の故(ゆゑ)なりと云々。

仍つて其の沙汰を經(ふ)られ、御使を差し遣はして、實檢を遂げ、左右(さう)に就き、議定有るべきの趣き、今日、仰せ遣はさるる所なり。

   *

 次に「吾妻鏡」その二ヶ月後の文暦二(一二三五)年七月二十四日の興福寺衆徒薪荘襲撃事件を含む全記事を示す。当時の幕府の神経症的な宗教統制が判る。

   *

○原文

廿四日乙酉。稱念佛者。著黑衣之輩。近年充滿都鄙。横行所部。 宣旨雖及度々。未被對治。重可被 宣下之由。可被申京都云々。又石淸水神輿事。有其沙汰。是八幡宮寺與興福確執事。可遣御使之由。去五月被仰兩方之處。不奉待其左右。同六月四日。南都衆徒押寄薪庄。燒拂在家六十餘宇訖。宮寺可仰勅裁之處。同十九日。俄奉渡神輿於宿院之間。爲被尋問子細。雖被尋遣季繼宿禰。不及問答。剩神人等令浚礫史生爲末訖。然後捧解狀條々預勅許云々。仍宮寺嗷訴旁不可然之由。今日有沙汰。被仰遣別當成淸法印。倂被寄進因幡國。奉留神輿入洛畢。就無道之濫訴。浴非分之朝恩者。諸山諸寺濫行依不可斷絶。爲世爲人。始終不快事。自關東。爭不被計申哉。自今以後。若輙奉動神輿者。可被改補別當職之由。可被奏問。於餘所衆徒者。背貫首之所命。動蜂起事出來歟。至當宮神人者。非別當免許者。何致無道濫行哉。兼以可存知之由云々。

○やぶちゃんの書き下し文

小廿四日乙酉。念佛者と稱し、黑衣を著けるの輩、近年都鄙(とひ)に充滿し、所部に横行す。宣旨、度々に及ぶと雖も、未だ對治(たいぢ)せず。重ねて宣下せらるべきの由、京都へ申さるべしと云々。

又、石淸水の神輿(しんよ)の事、其の沙汰有り。是れ、八幡宮寺と興福寺の確執の事、御使を遣はすべきの由、去る五月兩方に仰せらるるの處、其の左右を待ち奉らず、同じき六月四日、南都の衆徒、薪庄(たきぎのしやう)へ押し寄せ、在家(ざいけ)六十餘宇(う)を燒き拂ひ訖んぬ。宮寺は勅裁を仰ぐべきの處、同十九日、俄かに神輿を宿院に渡し奉るの間、子細を尋ね問はられんが爲(ため)、季繼宿禰(すえつぐすくね)を尋ね遣はさると雖も、問答に及ず。剩(あまつ)さへ神人等、史生(ししやう)爲末(ためすゑ)を浚礫(りようりやく)せしめ訖んぬ。然る後、解狀(げじやう)を捧げ條々の勅許に預ると云々。

仍つて宮寺の嗷訴(がうそ)旁(かたが)た然るべからざるの由、今日、沙汰有り。別當成淸(じやうせい)法印に仰せ遣はさる。 倂(しかしなが)ら、因幡國を寄進せられ、神輿の入洛を留め奉り畢んぬ。無道(ぶだう)の濫訴(らんそ)に就き、非分(ひぶん)の朝恩に浴してへれば、諸山諸寺の濫行(らんぎやう)、断絶すべからざるに依つて、世の爲(ため)人の爲、始終不快の事、關東より、爭(いかで)か計(はから)ひ申されざらんや。今より以後、若(も)し輙(たやす)く神輿を動かし奉らば、別當職を改補せらるべきの由、奏問せらるるべし。餘所(よしよ)の衆徒に於ては、貫首(くわんじゆ)の命ずる所に背き、動(ややもす)れば蜂起の事、出來(しゆつたい)せんか。當宮の神人に至りては、別當免許するに非ずんば、何ぞ無道(ぶだう)の濫行(らんぎやう)を致さんや。兼て以つて存知すべきの由と云々。

   *

ここに出る「史生」は「しじやう(しじょう)」とも読み、下級官吏の一身分。律令制では中央諸官庁や諸国の主典(さかん)の下に属して公文書の書写や修理などに従った下級書記官である。「一分(いちぶ)の官」とか「ふみびと」「しせい」とも呼んだ。

 

本文注に戻る。

 

「薪御園(たきゞのみその)」現在の京都府の南西端に近い京田辺市薪里ノ内、旧薪村のこと。十世紀に石清水八幡宮に寄進され、ここで伐採乾燥させた薪を木津川を使って運び、石清水八幡宮の焚き物としたという。次の次の注も参照のこと。

「大住(おほすみ)」「薪御園」の西北直近(地図の地名上からは接触していた感じもする)にあった興福寺領大住荘(おおすみのしょう)。

「兩莊の用水の相論によつて、鬪諍に及ぶ」水争いから実際の戦闘行為に発展したというのであるが、この事件、相当に有名なものらしく、平凡社の「世界大百科事典」にはわざわざ「薪荘(たきぎのしょう)」の項が設けられており、それによれば(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点に変更した)、『山城国綴喜(つづき)郡にあった石清水八幡宮領の荘園。薪薗(たきぎのその)とも呼ばれた。保元三年(一一五八)十二月三日の官宣旨に宮寺領として現れるのが史料上の初見であるが、後の史料によると薪薗は十世紀に石清水八幡宮に寄進されたという』。(嘉禎元(一二三五)年に『当荘の西北にある興福寺領大住(おおすみ)荘との間で用水相論が起こり、興福寺による薪荘在家(ざいけ)六十宇の焼打ち、石清水八幡宮神人(じにん)二人の殺害の結果、両荘の相論は石清水八幡宮と興福寺の両権門(けんもん)間の相論に拡大した。両者ともに神輿・神木をおし立てて朝廷に強訴(ごうそ)する大相論に発展したこの事件は、翌年、鎌倉幕府がついに大和国に守護・地頭を設置しようとしたことにより、いったんは鎮静化する。しかしその後も両荘の堺相論は続き』、実に四十五年後の弘安四(一二八一)年、『院宣によって当荘と大住荘は』「関東一円之地」『とされた。その後の歴史は詳しくはわからないが、南北朝期にはすでに石清水八幡宮領に還付されている』とある。

「改補」通常は「かいほ」であるが、「北條九代記」では一貫して「かいふ」とルビを振る。地位や官職を強制的に解任してすげ替えること。

「後藤大夫判官基綱」後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)は藤原秀郷の系譜を引く京武者後藤基清の子。ウィキの「後藤基綱」によれば、但し、『その活躍は武士としてよりも、文官に近い実務官僚としてであり、また歌人としても有名で』あり、説話集「十訓抄」の著者とする説さえもある。『承久の乱では軍奉行を務めたと見られ、後鳥羽上皇方に付いた父基清を幕府の命令により斬首し』、嘉禄元(一二二五)年には新設された『評定衆の一員となり、恩賞奉行や地奉行となっている。その後藤基綱が記した記録は、かなりの量が『吾妻鏡』に利用されていると見られる。恩賞奉行として四代将軍藤原頼経の側近でもあった為か』、寛元四(一二四六)年六月七日、『宮騒動によって評定衆を解かれ頼経とともに京に同行。その』六年後に再び引付衆として返り咲くものの、既に七十二という『高齢に達しており、後藤氏の名誉回復に近いものであったとも見られる』とある。『その子後藤基政は引付衆から六波羅評定衆となり、以降後藤氏は六波羅評定衆を世襲』した、とある。

「嘉禎二年十月に、又蜂起して……」「吾妻鏡」を見よう。まずは嘉禎二 (一二三六) 年十月二日と続く五日の条。

   *

○原文

二日丙戌。霽。六波羅飛脚參着。申云。自去月中旬之比。南都蜂起。搆城郭巧合戰。六波羅遣使者雖相宥彌倍増云々。

五日己丑。被經評議。爲鎭南都騷動。暫大和國置守護人。没收衆徒知行庄園。悉被補地頭畢。又相催畿内近國御家人等。塞南都道路。可止人々之出入之由。有議定。被撰遣印東八郎。佐原七郎以下殊勝勇敢壯力之輩。衆徒若猶成敵對之儀者。更不可有優恕之思。悉可令討亡云々。且各可欲致死之由。於東士者。直被仰含。至京畿者。被仰其趣於六波羅。又南都領在所。悉不可被知食之處。武藏得業隆圓密々與其注文於佐渡守基綱。基綱就送進關東。被新補地頭云々。

○やぶちゃんの書き下し文

二日丙戌。霽(は)る。六波羅の飛脚、參着し、申して云はく、

「去ぬる月中旬の比(ころ)より、南都、蜂起す。城郭を搆(かま)へ合戰を巧(たく)む。六波羅、使者を遣はし相ひ宥(なだ)むと雖も彌(いよいよ)倍増す。」

と云々。

五日己丑。評議を經られ、南都の騷動を鎭めんが爲(ため)に、暫く大和國に守護人を置き、衆徒知行の庄園を没收し、悉く地頭を補せられ畢んぬ。又、畿内近國の御家人等を相ひ催し、南都の道路を塞ぎ、人々の出入を止(とど)むべきの由、議定(ぎぢやう)有り。 印東(いんとうの)八郎、佐原七郎以下、殊に勝れたる勇敢壯力の輩を撰び遣はさる。衆徒、若し猶ほ敵對の儀を成さば、更に優恕(いうじよ)の思ひ有るべからず。 悉く討ち亡ぼさしむべしと云々。

且は、各々死に致らんと欲すべしの由、東士に於ては、直(ぢか)に仰せ含めらる。京畿の者に至りては、其の趣きを六波羅へ仰せらる。又、南都領の在所、悉く知(しろ)し食(め)さるべからざるの處、武藏得業隆圓、密々に其の注文を佐渡守基綱に與(あた)へ、基綱、關東に送り進ずるに就きて、地頭を新補せらると云々。

   *

 

本文注に戻る。

 

「手蹀(てんがい)の門」不詳。増淵勝一氏は『天蓋の門』とされ、『天蓋』の下に割注されて『仏像などの上にかざすきぬがさ』とされるのであるが、晒し首とするには如何にも場違いな場所と私には思われ、肯んじ難い(それほど当時の僧の知的レベルがおぞましく愚劣であったというならばそれでよいが)。だいたい、「蹀」の字は「がい」とは読めない。これは音で「チョウ」「ジョウ」で訓では「ふむ」(踏む)の意である。識者の御教授を乞う。

「印東八郎」将軍頼経の近侍という説をネット上で発見した。

「佐原七郎」不詳。

「優恕」犯罪や非法行為などの有責行為を大目に見て減刑や赦免すること。「優如」とも表記する。

「僧綱」「そうがう(そうごう)」と読み、本来は僧尼の統轄や諸大寺の管理運営に当たる僧の上位役職の総称。僧正・僧都(そうず)・律師が「三綱」、他に「法務」「威儀師」「従儀師」を置いて補佐させたが、平安後期には形式化しているので、ここでの謂いも問題にする必要はないと思われる。

「兵粮」兵糧(ひょうろう)。

「かゝりければ、城中兵粮の運送に難義して、僧綱以下、皆ともに城を出でて寺に歸り、寺門を閉て佛事を修す……」「吾妻鏡」の嘉禎二(一二三六)年十一月一日と続く十三日の条を引く。

   *

○原文

一日甲寅。霽。未尅。六波羅飛脚參著。南都去月十七日夜破城※退散。是於所領。被補地頭。被塞關之間。失兵粮之計。難聚人勢之故也云々。

[やぶちゃん字注:「※」「土」+「郭」。]

十三日丙寅。小雨灌。六波羅飛脚到着。南都蜂起既落居。自去二日。僧綱已下歸寺。開寺門。行佛事云々。

○やぶちゃんの書き下し文

一日甲寅。霽。未尅、六波羅の飛脚、參著す。南都、去ぬる月、十七日夜、城※を破りて退散す。是れ、所領に於ては、地頭を補せられ、關を塞がるるの間、兵粮(ひやうらう)の計を失ひ、人勢を聚(あつ)め難きの故なりと云々。

[やぶちゃん字注:「※」「土」+「郭」。]

十三日丙寅。小雨、灌(そそ)ぐ。六波羅の飛脚、到著す。南都の蜂起、既に落居(らくきよ)す。去ぬる二日より、僧綱已下、寺に歸り、寺門を開きて、佛事を行ふと云々。

   *

「未尅」午後二時頃。

 

本文注に戻る。

 

「同十二月」「吾妻鏡」によれば、十二月三日。

「左京權大夫に兼任せらる」「吾妻鏡」によれば、十二月十八日。]

俺は大いに不快だ!!!!!!!!

正々堂々としないなどという傍観批判は聴き飽きた――では、あなたはどう「戦う」するんだ!?――デモに参加しないで反対する私らを民主主義が分かっていないと断罪するお前らは何だ?!――SNS自体がマスターベションでないことをあなたがたが証明してみたらどうだ?!――言ってやろう! 本気で、な!――議員も国民の独りも何も出来ないなら――「ゴジラ」が「国会」を潰すしか――ないじゃないか!

小譚詩   立原道造

  Ⅲ 小譚詩

 

一人はあかりをつけることが出來た

そのそばで 本をよむのは別の人だつた

しづかな部屋だから 低い聲が

それが隅の方にまで よく聞えた(みんなはきいてゐた)

 

一人はあかりを消すことが出來た

そのそばで 眠るのは別の人だつた

絲紡ぎの女が子守の唄をうたつてきかせた

それが窓の外にまで よく聞えた(みんなはきいてゐた)

 

幾夜も幾夜もおんなじやうに過ぎて行つた‥‥

風が叫んで 塔の上で 雄鷄が知らせた

――兵士(ジアツク)は旗を持て 驢馬は鈴を搔き鳴らせ!

 

それから 朝が來た ほんとうの朝が來た

また夜が來た また あたらしい夜が來た

その部屋は からつぽに のこされたままだつた

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前の既刊詩集「曉と夕の詩」の第三曲。同詩集は先の「萱草に寄す」と同じく楽譜を意識した造りとなっており、ⅠからⅩのナンバーを打った全十曲から成る。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一一(一九三六)年五月号に「小譚詩」ので発表されたものが初出である。

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど) (三)

 

          

 

 天空は世界の果てまでも靑く澄み渡つて、微かな東風がやつと海に皺を刻むほどではあるが、たしかに『髮の毛三本を動かす』だけ位ではない。然し船頭の男女とも心配さうな風に見えないので、私は有名な禁制も神話ではないかと疑ひ出した。透徹つた海水があまりに愉快さうだから、灣を出ない內に私は飛び込んで、舟の後方から泳いで行くといふ誘惑に從はざるを得なかつた。舟へまた攀ぢ上つた時には、右方の岬を𢌞はる處であつた。して、この小舟は搖ぎ出した。こんな弱い風でも、海は長いうねりをして動いて居る。陸が西の方へ走つてゐるのについて、外洋へ出ると、私が見た中で最も凄い海岸の一つの沖で、墨の如く黑い深海の上を走りつ〻あつた。

 暗黑で鐡色な絕壁のすさまじい線が、沙濱はなくて直ちに海となつてゐる處から聳えて、しかも頂上から下には一點の綠色も無い。この怖ろしい壁面に沿ふて、彼處此處に奇怪な突出や、罅隙や、地震の割れ目や、轉倒した處がある。すばらしい粉碎のために、天空ヘ向け擲げ上げられた地層が線を顯したり、或は地層が海中へ突入して、長さ數哩に亘つて立體形の絶壁が顚落してゐる。想像もつかぬ形の穴の前に、巨大な岩塊がすべて凶相猛狀を呈して、深淵から立上つてゐる。して、今日は風が息を抑へてゐるらしいが、白浪は絕壁の遙か上まで打ち上げて、碎けた岩面へ泡沫を投げつけてゐる。私共は沖に遠く離れてゐるから、磯浪の雷音を耳にしない。然しその凄い稻妻の光は、充分に髮の毛三本の話を說明する。成る程、荒天の日に於て、この妖怪の如き海岸一帶では、どんな强い游泳家でも、どんな堅牢な船でも、助かる見込はあるまい。何處にも足がかり、手がかりの場所はない。たゞ鐡壁に向つて暴ばれ狂ふ海があるばかりだ。今日でさへ、最も微弱な風の呼吸の下にも、大きなうねりがざんぶざんぶと舷側に當つては、私共に飛沫を浴びせる。して、二時間といふ長い間、この壁岩で睨めつけるやうな顏をした海岸が、舟の側に屹然としてゐて、進むにつれて、岩礁がぐるりに黑い齒の如くに現れる。して、始終遠い彼方には執念深き斷崖の脚下に碎けた浪の泡が光つてゐる。しかしうねりが通る際に漣を起したり、水を撥たりする音と、櫓杭の上で軌る單調な櫓の響の外、何等の音もない。

 たうとう大きな綺麗な灣が見えた。薄綠色の丘陵が半月形をして連つて、遙かに靑い山脈がその上に聳えてゐる。灣の最遠の一地點に小村があつて、その前面に多數の船が碇泊してゐる。これが加賀浦なのだ。

 が、私共はまだ加賀浦へは行かない。潜戶(くけど)は其處ではない。灣の廣い口を橫切つて、凄い懸崖は更に半哩ほどついて行つて、それから露出した閻王岩の高い岬に向つた。岬の威嚇する如き麓に沿ふて行つてその橫を通りぬけると、忽然、一角に何くべき洞孔の半圓形の目が開いてゐる。洞孔は廣く高く且つ充分明るく、床は無くて、海である。中へ入ると、二丈も下の岩礁が見える。海水が空氣の如く明澄だ。これを新潜戶といふのだ。しかも人間の歷史よりは十萬年も古いに相違ない。

    譯者註。ヘルン先生は夏を愛し、水
    泳を好み、水泳に巧みであつた。美
    保の關の海水浴場などでは、漁師達
    もその上手なのに感服してゐた。海
    豚さへ居ない海ならば、半日でも沖
    の方で游いで居ることが出來ると、
    譯者に語られたこともあつた。たし
    かに加賀浦への舟行には、海は幾多
    の誘惑を與へた。先づ舟が御津浦を
    出でると、飛び込んで舟について泳
    いで行つた。潜戶の洞内の蒼淵は非
    常な衝動を與へたが、舟人の諫止で
    思ひとゞまらざるを得なかつたのは、
    頗る御不平であつたと、當時同行さ
    れた小泉夫人は思ひ出話をされたこ
    とがある。

[やぶちゃん注:「透徹つた」老婆心乍ら、「すきとほつた(すきとおった)」と読む。

「灣」御津浦。

「彼處此處」通常は「此處彼處」(此処彼処)の順で「ここかしこ」と読むが、この語順ではそうは読めない。字をそのままに読もうとするなら、「かしこここ」はどう考えても変だから「ここあそこ」或いは「そこここ」とはなろうか。しかし、これは実は落合氏の書き癖で「ここかしこ」のつもりでこう書いてしまったものかも知れない。取り敢えず緊急避難として私は「ここかしこ」と訓じておく

「罅隙」「かげき」と読む。裂け目。割れ目。亀裂。罅(ひび)割れた隙き間である。例によってこの辺り、例の落合氏特有の佶屈聱牙な表現が畳み掛けられるのであるが、寧ろ、不思議にこのシークエンスでは、それがまさにハーンが述べる如く、もの「凄い」剥き出しの断崖絶壁、崩落ガレ場をリアルに描出して、美事に成功しているように感じられる。

「數哩」一マイルは約一・六一キロメートルであるから、凡そ十キロメートルほどか。試みに御津浦湾奧から加賀の潜戸までの海岸線を地図上で辿って計測してみると、十一キロメートルほどになるから、ハーンの描写からは御津浦の湾口付近(湾奥から一キロ強はある)から潜戸までのことをここでは述べていると考えられるから、非常に正確である。後に本箇所を書く際に地図上で確かめたものかとも思われる。

「凶相猛狀」原文は“nightmarish shapes”で、「悪夢のような形」「夢魔に魘されているかのような印象の形状」であるが、この一見、造語的に見える「凶相猛狀」と云う語句はこれまたその物凄さを伝えて慄っとするほど素敵な訳と感ずる。但し、これは凶悪な様子を意味する「凶相」と「猛狀」をたまたま繋げたものであって、「猛狀」はネットで調べて見ると、精神医学や内科学の用語で、広く、見た目の「激しい症状」や実際の「荒れのひどい状態」の意として用いらているようなので、造語というには当たらないと考えている。

「漣」老婆心乍ら、「さざなみ」と読む。

「撥たりする音」老婆心乍ら、「撥たり」は「はねたり」と読む。

「櫓杭」「ろぐひ(ろぐい)」と読む。「艪杭」とも書き、和船にあって艫(とも:船尾)の櫓床(ろどこ)に出っ張っている小突起のこと。櫓の入れ子(孔)をこれに嵌めて、櫓を漕ぐ際の支点とする。私には「櫓臍(ろべそ)」の方が馴染みが良い。

「軌る單調な櫓の響」「軌る」が読めない。「軌」には動詞として「したがう」「寄る」ぐらいの意味しかなく、「よる」ではおかしく、そもそもここの前後部分は原文が“and the monotonous creaking of the sculls upon their pegs of wood.”で、“creaking”が訳の相当箇所に当たるが、“creak”は自動詞で「きしる」「キーキーという音を出す」の意である。私はこれは正直、「軋る」(きしる)の誤植ではないかと疑っている。なお、平井呈一氏は『櫓べその上で櫓のきしる単調な音』と、まさに私好みの訳をなさっておられる。

「半哩」「はんマイル」。一マイルは千六百九メートルであるから、その半分で八百四メートル弱となる。地図上で見ると加賀浦の湾が湾として見え始めるのは沖の馬島(まじま)と陸地に近い栗島の間辺りではないかと思われ(馬島の沖を通ると明らかに波が荒くなると推定される)、その辺り(馬島と栗島の間)から加賀の潜戸までは凡そ八百十五メートルを計測するからハーンの謂いは正しいと言える。

「閻王岩の高い岬に向つた」潜戸の西北二百メートルほどのところにある潜戸鼻(くけどのはな)のことか。しかし「閻王岩」は不詳。ネット検索をする限り、少なくとも検索現在は潜戸の近くにこのような固有名詞の岩はないようである。しかしこれ、原文を見るとfinally make for a lofty promontory of naked Plutonic rock.となっていて、これは――最後に、裸の冥界の王(閻魔大王)みたような岩の高く抜きん出た鼻(岬)に向う――の意であって、単にハーンがその形及び潜戸の引き起こすイメージの影響下に於いて印象した表現であって固有名詞ではないと私は読む。実際、平井氏の訳を見ると、『やがて、裸の閻魔みたいな高い岩のはない着く』と訳しておられる。実際に現地に「閻王岩」或いは閻魔岩なるものがあるのであれば、是非とも御教授戴きたい。

「二丈」六・〇六メートル。

「新潜戶」「しんくけど」と読む。既注

「人間の歷史よりは十萬年も古いに相違ない」信頼出来る学術的資料によれば、島根半島は新生代中新世(約二千三百万年前から約五百万年前までの期間)の中頃である千四百万年前には総てが海底にあった。その後、この加賀の潜戸附近では、丁度そこあった巨大な海底火山が活発に活動し、島嶼化から陸繋島、そして半島状になったと推定されている。因みに加賀の潜戸は典型的な海食洞である。現在の知見では、人類の誕生は現時点で化石人類(猿人)中、最も古いとされているのがエチオピアに棲息していたアルディピテクス属(哺乳綱霊長(サル)目真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族アルディピテクス属Ardipithecus 。現在のところ同属には、アルディピテクス・ラミドゥス Ardipithecus ramidus 及び、それ以前に棲息していたと考えられる異種アルディピテクス・カダッバ Ardipithecus kadabba の二種がいる)で、アルディピテクス属の誕生は約五百八十万年前から約四百四十万年前(中新世末期のメッシニアン中期から鮮新世初期のザンクリアン初期)までしか遡れないから(ここまでのアルディピテクス属についてはウィキアルディピテクス属に拠った)、ハーン先生、ここはもっともっと気前よく――数百万年も古い――と言ってよかったのです!

「海豚さへ居ない海ならば、半日でも沖の方で游いで居ることが出來ると、譯者に語られたこともあつた」ハーン先生、意外や意外、イルカが嫌いだった!?! なお、紹介が遅れてしまったが、訳者について述べておく。

   *

落合貞三郎(おちあいていざぶろう 明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年:パブリック・ドメイン)は英文学者で郷里島根県の松江中学及び東京帝大に於いてラフカディオ・ハーン/小泉八雲に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

   *

則ち、落合氏はまさに純粋培養に近いハーン/八雲の教え子であったのである。

「潜戶の洞內の蒼淵は非常な衝動を與へたが、舟人の諫止で思ひとゞまらざるを得なかつたのは、頗る御不平であつたと、當時同行された小泉夫人は思ひ出話をされたことがある」このシークエンスは実際に次章でリアルに細かく描出されるが、これは漁師が海食洞に流入流出する海水の中深層での海水の激しい勢いを経験的に知っていること以外に、加賀の潜戸という冥界との境界域での民俗的な危うさや禁忌があってのことであろう。また、この落合氏の註があることによって、少なくともこの潜戸参りの折りは妻セツ(事実婚らしい。「八雲会」の「松江時代の略年譜」によれば、この半月程前の八月十四日に『セツと伯耆へ新婚旅行に出る』とある)が同行していたことがここで初めて判るのである。 

 

Sec. 3

   The day is clear blue to the end of the world, with a faint wind from the east, barely enough to wrinkle the sea, certainly more than enough to 'move three 
hairs.' Nevertheless the boatwoman and the boatman do not seem anxious; and I begin to wonder whether the famous prohibition is not a myth. So delightful the transparent water looks, that before we have left the bay I have to yield to its temptation by plunging in and swimming after the boat. When I climb back on board we are rounding the promontory on the right; and the little vessel begins to rock. Even under this thin wind the sea is moving in long swells. And as we pass into the open, following the westward trend of the land, we find ourselves gliding over an ink-black depth, in front of one of the very grimmest coasts I ever saw.

   A tremendous line of dark iron-coloured cliffs, towering sheer from the sea without a beach, and with never a speck of green below their summits; and here 
and there along this terrible front, monstrous beetlings, breaches, fissures, earthquake rendings, and topplings-down. Enormous fractures show lines of strata pitched up skyward, or plunging down into the ocean with the long fall of cubic miles of cliff. Before fantastic gaps, prodigious masses of rock, of all nightmarish shapes, rise from profundities unfathomed. And though the wind to-day seems trying to hold its breath, white breakers are reaching far up the 
cliffs, and dashing their foam into the faces of the splintered crags. We are too far to hear the thunder of them; but their ominous sheet- lightning fully explains to me the story of the three hairs. Along this goblin coast on a wild day there would be no possible chance for the strongest swimmer, or the stoutest boat; there is no place for the foot, no hold for the hand, nothing but the sea raving against a precipice of iron. Even to-day, under the feeblest breath imaginable, great swells deluge us with spray as they splash past. And for two long hours this jagged frowning coast towers by; and, as we toil on, rocks rise around us like black teeth; and always, far away, the foam-bursts gleam at the feet of the implacable cliffs. But there are no sounds save the lapping and plashing of passing swells, and the monotonous creaking of the sculls upon their pegs of wood.

   At last, at last, a bay—a beautiful large bay, with a demilune of soft green hills about it, overtopped by far blue mountains—and in the very farthest point of 
the bay a miniature village, in front of which many junks are riding at anchor: Kaka-ura.

   But we do not go to Kaka-ura yet; the Kukedo are not there. We cross the broad opening of the bay, journey along another half-mile of ghastly sea-precipice, 
and finally make for a lofty promontory of naked Plutonic rock. We pass by its menacing foot, slip along its side, and lo! at an angle opens the arched mouth 
of a wonderful cavern, broad, lofty, and full of light, with no floor but the sea. Beneath us, as we slip into it, I can see rocks fully twenty feet down. The water is clear as air. This is the Shin-Kukedo, called the New Cavern, though assuredly older than human record by a hundred thousand years.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど) (二)

 

       

 

 御津浦は山を背にして、斷崖に取卷かれた深い小灣の奥にある。山麓には狹い一帶の濱があるのみだ。して、此村の存在するのは、その事實に因る。それはこの邊の海岸には濱が稀れだから。人家は崖と海の間に集まつて、苦しげに壓搾された光景を呈して、且つ何となく大抵は船の破片で建てたやうな印象を與へる。小さな街、或は寧ろ小路は、小舟や小舟の髑髏といふべきものや、小舟の材木で滿ちてゐる。して、到る處に家屋よりも遙かに高い竹竿から、大きな、輝いた、褐色の漁網を吊るして乾してある。濱の曲線に沿ふて、また小舟が相並んでつゞいてゐるので、舟を越えねば水際には行かれまいと思はる〻ほどであつた。宿屋はないが、車夫が何處かで加賀浦へ行く舟を僦ひに行つた間、私は或る漁師の家で休憩した。

 十分も立たぬ內に、その家の周圍に、半裸の大人や、全裸の子供など、二三百人が集まつてきた。彼等は建物を閉塞した。彼等は外人を見るため、戶口に一杯に立つたり、窓ヘ上つたりして、室の光りを暗くした。漁家の老主人が抗辯しても駄目であつた。激語を吐いたが、群衆は夥しくなるばかりであつた。で、障子を悉く閉めた。が、紙に孔があつた。すると、すべて下方の孔では、好寄心に富める人々が交代して覗いて見る。上方の高い處の孔から、私は少々外を覗いて見た。群集は人好きのする相貌でなく、むさくるしく、愚鈍な、頗る醜い顏だ。しかし温和で無言だ。中に一人二人の綺麗な顏がある。他の槪して粗末な顏の間に伍しては、異彩を放つて見えた。

 車夫は遂に舟を雇ふことに成功した。して、私は車夫と私の包圍者全部に伴はれて、濱邊へ突貫を成し就げた。濱の上の小舟を取除けて私共に通路が開かれ、それから私共は何等の故障もなく舟に乘り込んだ。私共の船頭は、櫓を漕ぐ者が二人だ――腰に唯六尺を卷いた老人が艫に居り、舳には全身着物を纒つて、松蕈の如き笠を被つた老婦人が居る。無論二人とも漕ぎ出した。どちらの方が强いとも、どちらが一層上手に漕ぐとも言ひにくいだらう。私共乘客は舟の眞中の蓆の上に東洋風に坐る。眞赤に燃えた炭火を澤山備へた火鉢が、煙草を御吸ひなさいと云はんばかりに据ゑてある。

[やぶちゃん注:この章を読むと、なんだか無暗にぞくぞくしてくる自分を感じる。――その実景が実際に見える――と言ってもよいのだ。ハーンは名作「ゴジラ」の監督本多猪四郎(ほんだいしろう/「いのしろう」と呼ばれることが多いが、正しくは「いしろう」である)先生のように、こうしたモブ・シーンが実に上手い。ロケ地も、まさに、あの初代「ゴジラ」が最初に上陸する「大戸島」に設定した伊勢志摩のロケ地、石鏡(いじか)に似た漁村のように感じられ、故本多監督に、このシークエンスを撮ってもらいたかった気がしてくるぐらいなんである。因みに本多先生は日本初の本格水中撮影(先生の監督デビュー作である一九四九年の短編ドキュメンタリー「日本産業地理大系第一篇 国立公園伊勢志摩」に於いてで、それが先生の初劇映画である一九五一年の「青い真珠」でも遺憾なく発揮されている)をなさった監督としても知られる(私は初代一九五四「ゴジラ」をこよなく愛する真正ゴジラ・フリークなんである。どれくらいフリーキーかというと――まずは私のシナリオ分析で総合学習用の授業案でもあるメタファーとしてのゴジラをご覧あれかし――)。大いなる脱線で悪しからず。

「僦ひ」「やとひ」と読む。「僦ふ」は「雇ふ」に同じい。

「六尺」「六尺褌(ふんどし)」の略。但し、この場合の「尺」は一般に我々が耳にすることが多い「曲尺」(かねじゃく:大工が用いる直角に曲がった金属製の物差である「差し金」の計量単位に基づく一尺を約三十・三センチメートル相当とするもの)の「尺」ではなく、「鯨尺」(くじらじゃく:江戸時代から主に呉服の布地の長さを測るのに用いられていた尺。鯨尺一尺は三十七・八七九センチメートルほどで(明治の事後規定値)、普通の曲尺の凡そ一・二五倍で、曲尺一尺は鯨尺では八寸に相当した。呼称はその和裁用物差が当初は鯨の髭を用いていたことに由来すると伝える)の尺であるから、鯨尺六尺は約二百二十八センチメートル相当を意味する。通常の六尺褌の長さはウィキ六尺褌によれば約百八十から長いもので三百センチメートル程度(幅は約十六から三十四センチメートルほど)の晒(さら)しの布を用いることからほぼ平均値となる鯨尺六尺が愛称となった。赤のイメージが強いが、本来的には祭儀上の潔斎を意味す白を基調としていたと思われ、その後に呪術的な魔除けとしての対になる赤フン(対になる点で二軍を示してプラグマティクでもあった)が生まれたものであろう。しばしば赤フンは海の鮫除けとして効果があると言われるが、鮫が赤色を忌避するという事実は私は聴いたことがなく、これは海士(あま)が鮫に襲われた際に褌を解いて流してそれに鮫が気をとられているうちに逃げおおせることが出来るというのが事実であろうと考えている。閑話休題。無論、このシーンでも私は、この僻村の貧しい漁師には白のそれを穿かせる。

「松蕈」「まつたけ」と読む。但し、原文は“a mushroom”であるから、最早、異様な高価稀少価値概念を属性として保持してしまっている松茸は現代の読者には特異的感覚を引き起こすので、単に「蕈(きのこ)」の方がよい。平井呈一氏も『キノコ』とされている。] 

 

Sec. 2

   Mitsu-ura stands with its back to the mountains, at the end of a small deep bay hemmed in by very high cliffs. There is only one narrow strip of beach at the foot of the heights; and the village owes its existence to that fact, for beaches are rare on this part of the coast. Crowded between the cliffs and the sea, the houses have a painfully compressed aspect; and somehow the greater number give one the impression of things created out of wrecks of junks. The little streets, or rather alleys, are full of boats and skeletons of boats and boat timbers; and everywhere, suspended from bamboo poles much taller than the houses, immense bright brown fishing-nets are drying in the sun. The whole curve of the beach is also lined with boats, lying side by side so that I wonder how it will be possible to get to the water's edge without climbing over them. There is no hotel; but I find hospitality in a fisherman's dwelling, while my kurumaya goes somewhere to hire a boat for Kaka-ura.

   In less than ten minutes there is a crowd of several hundred people about the house, half-clad adults and perfectly naked boys. They blockade the building; they obscure the light by filling up the doorways and climbing into the windows to look at the foreigner. The aged proprietor of the cottage protests in vain, says harsh things; the crowd only thickens. Then all the sliding screens are closed. But in the paper panes there are holes; and at all the lower holes the curious take regular turns at peeping. At a higher hole I do some peeping myself. The crowd is not prepossessing: it is squalid, dull-featured, remarkably ugly. But it is gentle and silent; and there are one or two pretty faces in it which seem extraordinary by reason of the general homeliness of the rest.

   At last my kurumaya has succeeded in making arrangements for a boat; and I effect a sortie to the beach, followed by the kurumaya and by all my besiegers. Boats have been moved to make a passage for us, and we embark without trouble of any sort. Our crew consists of two scullers—an old man at the stem, wearing only a rokushaku about his loins, and an old woman at the bow, fully robed and wearing an immense straw hat shaped like a mushroom. Both of course stand to their work and it would be hard to say which is the stronger or more skilful sculler. We passengers squat Oriental fashion upon a mat in the centre of the boat, where a hibachi, well stocked with glowing charcoal, invites us to smoke.

2015/09/16

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 葛西谷/塔辻/妙隆寺/大巧寺/夷堂橋

    ●葛西谷

葛西谷は寳戒寺の境内(けいだい)川(かは)を越(こえ)て東南の谷なり、山の下に古への靑龍山東勝寺の舊跡あり、東勝寺は關東十刹の内にして、開山は西勇和尚退耕行勇の法嗣(ほふし)也(なり)と云ふ、今は寺亡(てらうせ)にして、太平記に相摸入道殿千餘騎にして葛西谷に引籠(ひきこも)り給へひければ、諸大將の兵共は東勝寺に充滿(みちみち)たり、是は父祖代々の墳墓の地なれば、爰にて兵共に防矢(ふせぎや)射させて心閒に自害せん爲也とあり、又相摸入道殿も腹切り給へば總(そう)して其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切、屋形(やかた)に火を懸(かけ)たれば猛火盛んに燃上り、黑煙(こくえん)天を翳たり、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者總(すべ)て八百七十餘人也鳴呼(あゝ)此日何なる日ぞや、元弘三年五月二十二日と申に平家九代の繁昌(はんじやう)一時に滅亡して、源氏多年の蟄懷(ちつくわい)一朝に開(ひらく)る事を得たりとあり、今山腹の巖窟(がんくつ)に一基の墳墓を存す、曰く北條一門主從腹切やぐらと、又昔此の山上に彈琴松(ことひきのまつ)と云あり、松風(まつかぜ)の音尋常にかはれりとなむ、梅花無盡藏にものせたれどいつしか枯れにき。

[やぶちゃん注:「東勝寺」宝戒寺の南西二〇〇メートルの葛西ヶ谷の山裾にあった。現在の北条高時腹切りやぐらのすぐ下方一帯。開山退耕行勇、開基北条泰時で、嘉禄元(一二二五)年に執権となった泰時が北条氏の私的な菩提寺として建立したものであるが、元来、有事の際の城砦としての機能を持っていたことは、ここに最後に高時以下、北条一門が籠って自刃したことからも分かる。

「元弘三年」一三三三年。

「源氏多年の蟄懷」「蟄懷」は「ちつくわい(ちっかい)」と読む。心中の不満。鎌倉幕府に於いて得宗政治を敷いた北条氏は平氏であり、幕府殲滅の実動勢力であった足利尊氏や新田義貞は孰れも源氏である。

「彈琴松」新編鎌倉七」にさえ「今はなし」とある。次注参照。

「梅花無盡藏」は室町時代の禅僧歌人で太田道灌の知己でもあった万里集九(ばんりしゅうく 正長元(一四二八)年~?)の東国紀行。「梅花無尽蔵」の文明十八(一四八六)年の記事には、この東勝寺旧跡に至って「彈琴松を看る」とあり、室町後期まではこの松が残っていたことが分かる。]

 

    ●塔辻

塔辻は、寳戒寺の南の方(かた)、路の傍に石塔あり、里俗北條屋敷の下馬(げば)なりと云傳ふ。按するに大平記に高時滅亡の時、安東左衛門入道聖秀、いさや人々とても死せんずる命(いのち)を御屋形(おんやかた)の燒跡にて心閒に自害して鎌倉殿の御耻(おんはぢ)を洗(そゝ)かんとて、討殘(うちのこ)されたる郎等(らうだう)百餘騎を相從へて小町口へ打蒞む、先々出仕の如く塔辻にて馬より下(おる)と有、寳戒寺は北條屋敷なれば、此邊下馬と見へたり。

[やぶちゃん注:「塔辻」「とうのつじ」と読む。
 
「安東左衛門入道聖秀」安東聖秀(あんどうしょうしゅう ?~正慶二・元弘三(一三三三)年)は北条高時の臣従した武将。鎌倉攻めの先鋒新田義貞の妻の伯父であった。「太平記」の「安東入道自害の事」には、稲村ケ崎で義貞軍と戦って敗れ、北条屋敷へ帰参した時には既に屋敷は焼け落ち、一門は東勝寺に落ちていた。聖秀は屋敷では誰一人として腹かっ切って自害した者はないと聞いて口惜しがり、本文引用の覚悟を述べた。その直後、義貞の妻から投降を勧める使いが来たが、聖秀は恥を恥とも思わぬ降伏を拒絶、『一度は恨み一度は怒って彼の使の見る前にて、其の文を刀に拳り加へて、腹掻切りてぞ失せ給ひける』とある。凄絶であるが、それだけに私の好きな「太平記」の一シークエンスでもある。]

 

    ●妙隆寺

妙隆寺は小町の西頰にあり、叡昌山と號す、法華宗、中山の末寺なり、開山は日英、二代目は日親、堂に像あり、寺の後(うしろ)に池あり行の池といふ、日親(につしん)此池に手を浸し、一日に一指つゝ十指の爪をはなし、百日の間に本(もと)の如く生復(はへかへ)らば、所願成就と誓ひ出る血を此池にて洗ひ、その水を滴で曼荼羅を書(かく)、爪切(つめきり)の曼荼羅と云て此寺に有しを、法理(はふり)の異論に依て、住持退院の時盜み去しとなり。

[やぶちゃん注:

「西頰」「にしがは」(西側)と読む。

「中山」とは正中山法華経寺。千葉県市川市中山にある文応元(一二六〇)年創立の日蓮宗大本山寺院で、中山法華経寺とも呼ばれる。

「日親」(応永十四年(一四〇七)年~長享二(一四八八)年)は日蓮宗のファンダメンタリズムである「不受不施義」を最初に唱えたとされる人物で、その経歴も一繩ではいかない。永享五(一四三三)年、中山門流総導師として肥前国で布教活動を展開するが、その折伏の激烈さから遂には同流から破門されてしまう。同九(一四三七)年には上洛して本法寺を開くが、六代将軍足利義教への直接説法に恵まれた際、「立正治国論」を建白して不受不施を説いて建言の禁止を申し渡されてしまう。永享十二(一四四〇)年にはその禁に背いたとして投獄、本法寺は破却される。その捕縛の際、焼けた鉄鍋を被せられるという拷問を受けて、その鍋が頭皮に癒着、生涯離れなくなったため、後、その鍋を被った奇態な姿のままに説法を説いたという伝説が誕生、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」と呼ばれるようになった。翌嘉吉元(一四四一)年、嘉吉の乱で義教が弑殺されて赦免、本法寺を再建している。寛正元(一四六〇)年、前歴から禁ぜられていた肥前での再布教を行ったために再び本法寺は破却、八代将軍足利義政の上洛命令を受けて京都に護送、細川持賢邸に禁錮となったが、翌年寛正四(一四六三)年に赦され、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建している(以上は主にウィキの「日親」を参照した)。折伏ガンガン、ファンダメンタル不受不施派、カンカンに熱した鉄鍋被り、自分で十指の爪を抜く――かなり危険がアブナイ、御人である。

「爪切の曼荼羅」「法理の異論に依て、住持退院の時盜み去しとなり」「鎌倉市史 社寺編」には『不受不施派の住職が持ち去ったのであろう』としている。不受不施派は江戸幕府が強烈に弾圧したことで知られ、それでも(いや、だからこそ)それを志向する日蓮僧や宗徒は思いの外、多かったようである。]

 

    ●大巧寺

大巧寺は小町の西頰にあり、相傳昔は長慶山正覺院大行寺と號し、眞言宗にて梶原屋敷の内(うち)にあり、後に大巧寺と改め此地に移すとなり、昔し日蓮妙本寺在世の時此寺法華宗となり、日澄上人を開山とし妙本寺の院家になれり。

[やぶちゃん注:「大巧寺」「だいぎやうじ(だいぎょうじ)」と読む。ここは我が藪野家の歴史の地である。僕の祖父が亡くなって四人の子を抱えた祖母はまず大巧寺おんめさまに落ち着いたのであった(後、大町に居を構えた)。

「梶原屋敷の内にあり」とあるのは「後に」「此の地に移す」で分かるように、この寺は元は十二所の梶原屋敷内にあった。寺伝によれば、源頼朝がこの十二所の大行寺で軍評定をして合戦に臨んだところ、勝利を得たことから寺号を大巧寺と改め、その後にこの地に移転したとある。

「院家」この場合は、本寺を補佐して諸種の法務を行う寺院をいう。]

 

    ●本覺寺

木覺寺は大巧寺の南鄰(なんりん)にあり、妙叡山と號す、身延山の末寺なり開山日出上人永享年中草創す、東國法華宗の小本寺にして、本尊は釋迦、文殊、普賢の三尊なり、本堂の傍に身延山分骨堂あり、又當寺内に五郞正宗の碑建てり。

[やぶちゃん注:現在の本覚寺の山門がある場所の前には当初、夷堂と呼ばれる堂があった(現在、昭和五十六(一九八一)年に再建されたものが山門内にある)が、これは頼朝が開幕の折り、幕府の鬼門にあたる方向の鎮守として建てたとされる天台宗系のものであった。文永十一(一二七四)年、佐渡配流から戻った日蓮がこの夷堂に一時期滞在し、目と鼻の先の小町大路で辻説法を展開した由縁から、後の永享八(一四三六)年、一乗院日出が夷堂を天台宗から日蓮宗に改めてこの本覚寺を創建したとされる。 後、身延山を再興した第二世行学院日朝は、身延山への参詣が困難な老人や女性のため、身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めた。そこから当寺は「東身延」とも呼称される。この夷堂は、本覚寺創建時には境内に移された模様であるが、明治の神仏分離令で寺と分離されてしまい、同地区の七面大明神・山王台権現を合祀して蛭子神社となったが、夷堂再建後に夷神は戻されたという(以上はウィキの「本覚寺」に拠った)。

「小本寺」「こほんじ」と読むと思われる(新編鎌倉七」の「本覺寺」ではそうルビを振っている)。本末制度の一寺格。寛文五(一六六五)年に第四代将軍徳川家綱により発布された「宗門改帳」及び「諸宗寺院法度」によって宗門支配が強化されたが、平安時代からあった本末制度も元禄五(一六九二)年に厳密な見直しが行われ、全ての下位の寺が本山の管理下に置かれた。上から順に本山・本寺・中本寺・小本寺・直末寺・孫末寺といった系統で纏められた。本記載以後に中本山となり、昭和四十九(一九七四)年に由緒寺院(日蓮宗系で日蓮や宗派の顕著な事蹟を持つ寺院を言う)として本山に昇格した。

「五郞正宗の碑」「鍛冶正宗屋敷跡」の項の注に記したように、本覚寺には現在も本伝岡崎五郎正宗墓や正宗顕彰の碑がある。]

 

    ●夷堂橋

夷堂橋は座禪川の下流、小町と大町との境に架す、昔は此邊に夷三郞社ありしとなり。

[やぶちゃん注:この叙述は新編鎌倉七」の「夷堂橋」をそのまま持って来たものなのであるが、どうも今回、不審を覚えた。ここでは昔、この辺に「夷三郞社」、そのお堂があったから橋をこう名付けたというニュアンスで書かれているからである。何故、それが疑問かというと、前の本覚寺の注で述べたように、この場所(現在の本覚寺の山門附近)には本覚寺が建つ前に、「夷堂(えびすどう)」と呼ばれる堂があった(現在、昭和五十六(一九八一)年に再建されたものが山門内にある)が、これは頼朝が開幕の折り、幕府の鬼門にあたる方向の鎮守として建てたとされる天台宗系のものであったとされるからである。ここから考えると、これは天台宗系の鬼門封じの堂であって、以下に述べるように神道及びそれに習合した非仏教系の土地神の由緒とは縁がないからである。いや、もしかすると、それらをみんな総て呑み込んで習合してしまった結果こそが夷堂であったのかも知れない。大方の御批判を俟つものではある。

「夷三郎」は現在でも夷神の別名として通用しているが、本来は「夷」と「三郎」は異なった神であったものと考えてよい。「三郎」はイサナキとイサナミの最初に産んだ奇形児蛭子とも、大国主命(大黒)の三番目に生まれた子の事代主命とも言われ、後者が出雲の美保崎で命が魚を釣ったという伝承から「三郎」は魚と釣竿を持った姿で描かれる祀られるようになったともされる。それに海神・漂着神・来訪神として複雑に習合を繰り返してきたらしい夷神に更に習合して夷三郎という一体神化が行われたらしい。後にここに建てられる蛭子神社は明治新政府の神仏分離と習合祭祀という極めて政治的行為であったが、偶然にも「蛭子」を神社名として、夷神のルーツを遠望させる形見となっているのは面白い。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 寳戒寺

    ●寳戒寺

寶戒寺は小町の北、若宮小路の東なり。金龍山(きんりうざん)と號す、圓頓寳戒寺と額あり、筆者不ㇾ知、此地は相摸入道崇鑑平高時が邸宅なり、故に源尊氏後醍醐天皇へ奏して高時が爲に、葛西谷の東勝寺を遷して北條家一族の骸骨を改め葬り、此寺を建立せり、開山は法勝寺の長老五代國師なり。

本堂  本尊地藏、左右に梵天、帝釋共に唐佛なり。五代(開山)並に普川像(二世)あり、地藏は行基作、尊氏の守本尊(まもりほんそん)と云ひ、不動大山の像と同作と云ふ、聖天像もあり。

[やぶちゃん注:「小町」前出の小町大路。

「若宮小路」現在の段葛のこと。現在は全体が若宮大路と呼称されているが、近世に於いては現在の北北東の鶴岡八幡宮寄りの、段葛に相当の部分をこう呼称し、そこから由比ヶ浜寄りの南南西半分は「琵琶小路」と呼んだ。但し、現行の若宮大路に相当する箇所を「大路」と記しているのは「吾妻鏡」だけで、他の資料では「若宮小路」と注するとあり(白井永二編「鎌倉事典」)、それ以外にも「七度小路」「千度小路」などの室町以降の呼称も存在し、厳密な区別は実際にはなかったものとも思われる。

「相摸入道崇鑑平高時」北条氏得宗家当主鎌倉幕府第十四代執権北条高時。「崇鑑」は執権辞任後に出家した後の法名。

「法勝寺」「ほつしようじ(ほっしょうじ)」と読む。平安から室町まで、平安京の東の郊外、白河(現在の岡崎公園及び京都市動物園周辺)にあった寺。白河天皇が承保三(一〇七六)年に建立、皇室から厚く保護された。嘉暦元(一三二六)年に後醍醐天皇の命を受けた円観(次注参照)が再勧進職となって同寺の再興に務め、その功績によってそのまま住持となっている。後の応仁の乱以後、衰微廃絶した(ウィキ法勝寺に拠る)。

「五代國師」天台宗僧円観(弘安四(一二八一)年~正平一一/延文元(一三五六)年)。字は慧鎮(えちん)。後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明天皇の五帝に戒を授けたことから「五國大師」の異名で呼ばれた。この「五代」はその意。

「普川の像」「普川」は惟賢(ゆいけん)。足利尊氏の弟とも子とも言われ、貞和三(一三四七)年に宝戒寺二世となっている。この木像は応安五(一三七二)年作の寿像(モデルの生前に作像したもの)である。

「不動大山の像と同作と云ふ」は現在の神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派雨降山(あぶりさん)大山寺で本尊は不動明王。因みに大山寺のものは文永十一(一二六四)年の願行上人による鋳造である。

「聖天像」とは木造歓喜天立像。現存するが秘仏として普段は非公開(私は未見)。歓喜天としては像高一五五センチに及ぶ異例の大型像で木造では本邦最古という。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど) (一)

 

 

      第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど)

 

 

       

 

 『髮の毛を三本動かす』ほどの風があつても、加賀(かが)へ行つてはいけない。

 が、全然無風の日といふのは、この荒い西海岸では減多に無い。朝鮮、支那、又は北方の西比利亞から、日本海を越えて、西風或は西北風が、大抵いつも吹いてゐる。だから私は加賀【譯者註】へ行く好機會を得るたのに、數ケ月も長いこと待たねばならなかつた。

 

 一番の近道によれば、先づ松江から車又は徒步で御津浦(みつのうら)へ行く。道路が出雲中で最も惡い一つであるから、距離は辛つと七哩のこの小旅行に、車で約二時間半ほどか〻る。松江の市を離れると、直ぐ湖水の如く小さな廣い野原へ出でる。一望田地で、樹木の生えた丘陵に圍繞されてゐる。道は一臺の車が漸く通るだけの幅で、この綠色の空寂の中を渡つてから、向うの小高い處を登つて、また丘陵に圍まれたる、以前よりも大きな田野へと下る。第二番目の丘陵を越える道は更に嶮しい。それから第三番目の野原を橫過して、して、山といふ名にふさはしいだけ高い、第三番目の綠色の高處を越えねばならぬ。勿論徒步で登らねばならぬ。車夫に取つては空車を頂上へ引上げることさへ、少からざる骨折だ。道は石だらけで、荒々しく、激流の河床のやうだから、彼がどうして小さな車を損じないで引上げ得たのか、全く不思議だ。私は登るのに困難を感じたが、絕頂からの景色は、報酬に餘りがあつた。

 それから下つて、まだ第四の廣い稻田を最後に橫切らねばならなかつた。丘陵と丘陵の間に全然平かな廣野があること、こんな奇異な風に、丘陵が地方に區劃を作つてゐることは、日本の如き驚異の國に於てさへ、驚異の現象である。第四番目の稲の谷の向うに、以前より低くて樹木の茂つた第四番目の丘嶺があつた。その麓へ達してから旅客はいよいよ車を棄てて徒步で山へかからねばならぬ。この山の背後に海があるのだが、これから道中の最難處となる。道は小さな祠とか、高い籬をめぐらした綺麗な民家などの前を過ぎて四五丁ばかり木蔭があつて、藪や小松や他の植物の生えた間をゆるく迂𢌞して上つて行く。すると、急に石段になつてくる。寧ろ石段の廢墟だ――一部分は岩を切り開いて、一部分は築き上げたもので、到る處破れて磨滅してゐる――この石段は稜角がとれて、驚くばかり嶮しく御津浦へ下つて行く。決して滑ることの無い草鞋を履いて、田舍の人達はこんな道を輕快に馳せて、昇つたり降つたりするが、外國の靴では、殆ど一步每に滑べる。やつと麓まで達してから、いくら忠實な車夫の助力によつたとは云へ、どうして下りたのかと驚かれて、既に御津浦に來てゐることを暫しは失念してゐた。

    譯者註。加賀浦は島根半島の脊梁山
    脈を越えて松江の北に當り、市の西
    北、ヘルン先生の舊宅のある邊より
    郊外に出で、最後に御津浦及び大蘆
    浦を經て陸路約四里。交通不便なる
    日本海岸の一小村である。今から三
    十八年前の昔に、かゝる僻陬の濱邊
    へ探討の足痕を印したことは、『知
    られぬ日本の面影』の著者が永遠の
    誇
りの一つであらねばならぬ。

[やぶちゃん注:「潜戶(くめど)」「加賀(かが)」既出既注。私は行ったことがない。既に注してあるが、ここは「かか」と清音で発音するのが正しく、ハーンも原文で「かか」と記しているのにも拘わらず、何故か、落合氏は訳では、わざわざ「かが」と振ってある。如何にも不審である。或いは校正者が勝手に「かが」と思い込んで植字した可能性もある。

「御津浦」現在の松江市鹿島町御津にある御津浦(みつうら)であるが、ここは「水野浦」とも書くので「みつのうら」という呼称は誤りではないように思われる。「島根半島四十二浦巡り再発見研究会」公式サイトの「御津浦」で当地の詳細及び地図が確認出来るので、参照されたい。ここは直線だと松江から八・五キロメートルほどしか離れていないことが判る。以下のハーンが述べるルートは地図を見ていると何となく判ったような気になるのだが、いい加減な推理はまずいので控えることにする。

「七哩」七マイルは約十一・七六キロメートル。

「橫過」「わうくわ(おうか)」と音読みしておく。横切る・横断すること。

「大蘆浦」現在の島根町大芦(おわし)の面する浦と思われる。現行の行政地名呼称からは、これも「おわしうら」と呼称するのかも知れない。御津浦からは突出した岬を隔てて東北二キロメートルほどのところにある。

「四里」十五・七一キロメートル。

「今から三十八年前」不審。本底本全集(第一書房版)は大正一五(一九二六)年刊であるから、一八八八年で明治二十一年となってしまい、ハーンはまだ日本に来ていない。おかしい。この潜戸訪問は「八雲会」公式サイトの松江時代の略年譜に明治二四(一八九一)年九月五日のこととあるから、三十四年前で、落合氏の勘違いによるものか、或いは「三十余年前」の誤植ではなかろうか。] 

 

 

Chapter Nine

 

In the Cave of the Children's Ghosts

 

 

Sec. 1

   IT is forbidden to go to Kaka if there be wind enough 'to move three hairs.'

   Now an absolutely windless day is rare on this wild western coast. Over the Japanese Sea, from Korea, or China, or boreal Siberia, some west or north-west breeze is nearly always blowing. So that I have had to wait many long months for a good chance to visit Kaka.
 

 

Taking the shortest route, one goes first to Mitsu-ura from Matsue, either by kuruma or on foot. By kuruma this little journey occupies nearly two hours and a half, though the distance is scarcely seven miles, the road being one of the worst in all Izumo. You leave Matsue to enter at once into a broad plain, level as a lake, all occupied by rice- fields and walled in by wooded hills. The path, barely wide enough for a single vehicle, traverses this green desolation, climbs the heights beyond it, and descends again into another and a larger level of rice- fields, surrounded also by hills. The path over the second line of hills is much steeper; then a third rice-plain must be crossed and a third chain of green altitudes, lofty enough to merit the name of mountains. Of course one must make the ascent on foot: it is no small labour for a kurumaya to pull even an empty kuruma up to the top; and how he manages to do so without breaking the little vehicle is a mystery, for the path is stony and rough as the bed of a torrent. A tiresome climb I find it; but the landscape view from the summit is more than compensation.

   Then descending, there remains a fourth and last wide level of rice- fields to traverse. The absolute flatness of the great plains between the ranges, and the singular way in which these latter 'fence off' the country into sections, are matters for surprise even in a land of surprises like Japan. Beyond the fourth rice-valley there is a fourth hill-chain, lower and richly wooded, on reaching the base of which the traveller must finally abandon his kuruma, and proceed over the hills on foot. Behind them lies the sea. But the very worst bit of the journey now begins. The path makes an easy winding ascent between bamboo growths and young pine and other vegetation for a shaded quarter of a mile, passing before various little shrines and pretty homesteads surrounded by high-hedged gardens. Then it suddenly breaks into steps, or rather ruins of steps—partly hewn in the rock, partly built, everywhere breached and worn which descend, all edgeless, in a manner amazingly precipitous, to the village of Mitsu-ura. With straw sandals, which never slip, the country folk can nimbly hurry up or down such a path; but with foreign footgear one slips at nearly every step; and when you reach the bottom at last, the wonder of how you managed to get there, even with the assistance of your faithful kurumaya, keeps you for a moment quite unconscious of the fact that you are already in Mitsu-ura.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一九) / 第八章~了

 

        一九 

 

 今一度私共はこの神聖な雲の國、傳說の國の靜かさの間を旅行して、熟せんとする稻が綠色數里に亘つて、祈禱の矢が白點々たる間や、神々の名を帶びた靑や靑綠の帶が遙かに列つた間を辿つて行つた。私共は杵築を遙かに後へ殘した。しかし大きな並木道、大きな注連繩のついた鳥居の長い列、宮司の莊嚴な顏、神官佐々氏の親切な微笑、雪の如き衣を着て美しい妖精のやうな踊をした巫女――それらがまだ夢にみる如くに見える。瀑布の碎けるやうな拍手の音が、まだ聞えるやうに思はれる。日本最古の宮の內觀といひ、人類學者及び進化論者の硏究に値する原始的禮拜の神聖なる器具や、異樣な儀式といひ、他の外人が、拜觀を許されなかつたものを見ることを得たのだと思ふと、私は幾分欣躍の情を抑へ難い。

 が、私が見た如くに杵築を見たといふことは、唯一個の驚くべき社殿以上の或るものを見たといふことにもなるのだ。杵築を見るのは、神道の生ける中心を見る譯である。今は最早話されぬ言葉で書いてある古事記【註】さへ、唯近代的記錄たるに過ぎないほど茫漠たる過去に於けると同樣に、この十九世紀に於ても强く鼓動を打ちつ〻ある、古代信仰の命脈に觸れるといふことになる。佛敎は幾世紀を經る內に、形式を變へ、又は徐々に衰頽して、初め單に外來の信仰として入つて來た日本の土地から、いよいよ失せて行きさうな運命にも見えるが、神道は變らないで、且つ活力も變らずに、依然としてその生まれた國で優勢を維持してゐる。して、時と共に力と威嚴を增して行きさうに見えるばかりだ。佛敎は浩澣なる敎理學、深遠なる哲學、渺茫として海の如き文學を有する。神道は哲學なく、倫理學も、心理學も持たない。しかしその實體がないために、西洋の宗敎思想の侵入を拒ぎ得ることは、他の如何なる東洋の信仰にも優つてゐる。神道は西洋の科學に對して歡迎の手を擴げるが、西洋の宗敎に對しては不可抗の敵となつてゐる。で、これと戰はんと欲する外國の熱狂者輩は、恰も磁力の如く說明し難く、空氣の如くに損傷されざる一種の力が、彼等の必死の努力をも打負かすのを見て驚いてゐる。實際西洋の極くえらい學者でさへ、神道はどんなものてあるといふ事を未だ說明し得ない。神道は或る人々に取つては單に祖先崇拜のやうに見え、他の人々には自然崇拜が加つたものと見え、また他の人々には全然宗敎とは見えないし、宣敎師の中の無智頑迷の輩には、極めて劣等なる異敎の形式と映ずるのである。慥かに神道解釋の困難は、全く西洋に於ける東洋學者が、その起原を書籍に求めたといふことに歸するのだ。古事記と日本紀は神道の歷史であり、祝詞はその祈禱であり、またその最大學者、本居、平田は註釋を書いて居る。しかし神道の心髓は書籍にも、儀式にも、誡律にも存しないで、國民の心情の中に生きて居るのだ。神道は卽ち國民心情の永遠不朽にして、しかも無限に若々しい最高の感情的宗敎的表現なのである。異樣な迷信とか、無邪氣な神話とか、奇怪なる魔術など、外部に露出せる鑛脈の遙かの裏面には、國民のあらゆる動機、能力、直觀を含める全部の魂、卽ち偉大なる靈力が潜在して慄へてゐるのである。神道の何たるかを知らんと欲する者は、その神祕なる魂を知るやうにせねばならない。美の感覺、藝術の力、壯烈の火、忠義の磁力、信仰の感情などは、この魂の中に遺傳して含まれ、無意識的本能的になつてゐる。

    註。古事記は書かれた本としては、
    唯だ西曆七百十二年に起原する。し
    かしその傳說と記錄が、口碑の形式
    で更に一層古い時代から存在してゐ
    たことは知られてゐる。

 自然を愛し人生を樂しむといふ點に於ては、日本人の魂は古代希臘人の魂と不思議にも似通つたものがある。これは左程學者でなくても認め得るほど明かである。私はこの日本人の魂について幾らか知らうと欲してゐると共に、また將來いつかは、現今神道と稱せられ、もつと昔は神の道と呼ばれてゐた、あの信仰の生ける偉力に就て、語ることが出來得るかとも思つてゐる。

[やぶちゃん注:「浩澣」「かうかん(こうかん)」と読み、「浩瀚」に同じいが、ここは単に「広大なこと」を指す。

「拒ぎ得る」「ふせぎうる」と読む。

「日本紀」云わずもがな乍ら、「日本書紀」であるが、学説の中では、この「日本紀」の方こそ、元の正称であるとする説が有利であるという。

「本居」云わずもがな乍ら、本居宣長。

「平田」云わずもがな乍ら、平田篤胤。

「古事記は書かれた本としては、唯だ西曆七百十二年に起原する」ウィキの「古事記」によれば、「古事記」の『原本は現存せず、幾つかの写本が伝わる。成立年代は、写本の序に記された年月日』である和銅五年正月二十八日(ユリウス暦七百十二年三月九日)により、八世紀初めに措定されている、とある。

「また將來いつかは、現今神道と稱せられ、もつと昔は神の道と呼ばれてゐた、あの信仰の生ける偉力に就て、語ることが出來得るかとも思つてゐる」ハーン、基、小泉八雲が最晩年に纏め上げ、亡くなった翌月(明治三七(一九〇四)年十月刊。八雲は九月二十六日に逝去。本書執筆は八雲の命を縮めたとされる)に刊行された“ Japan An Attempt at Interpretation ”(「日本 解明への一試論」。「神國日本」などとする訳本もある)に結実した。]

 

Sec. 19

   Once more we are journeying through the silence of this holy land of mists and of legends; wending our way between green leagues of ripening rice white-sprinkled with arrows of prayer between the far processions of blue and verdant peaks whose names are the names of gods. We have left Kitzuki far behind. But as in a dream I still see the mighty avenue, the long succession of torii with their colossal shimenawa, the majestic face of the Guji, the kindly smile of the priest Sasa, and the girl priestess in her snowy robes dancing her beautiful ghostly dance. It seems to me that I can still hear the sound of the clapping of hands, like the crashing of a torrent. I cannot suppress some slight exultation at the thought that I have been allowed to see what no other foreigner has been privileged to see—the interior of Japan's most ancient shrine, and those sacred utensils and quaint rites of primitive worship so well worthy the study of the anthropologist and the evolutionist.

   But to have seen Kitzuki as I saw it is also to have seen something much more than a single wonderful temple. To see Kitzuki is to see the living centre of Shinto, and to feel the life-pulse of the ancient faith, throbbing as mightily in this nineteenth century as ever in that unknown past whereof the Kojiki itself, though written in a tongue no longer spoken, is but a modern record. [23] Buddhism, changing form or slowly decaying through the centuries, might seem doomed to pass away at last from this Japan to which it came only as an alien faith; but Shinto, unchanging and vitally unchanged, still remains all dominant in the land of its birth, and only seems to gain in power and dignity with time.[24] Buddhism has a voluminous theology, a profound philosophy, a literature vast as the sea. Shinto has no philosophy, no code of ethics, no metaphysics; and yet, by its very immateriality, it can resist the invasion of Occidental religious thought as no other Orient faith can. Shinto extends a welcome to Western science, but remains the irresistible opponent of Western religion; and the foreign zealots who would strive against it are astounded to find the power that foils their uttermost efforts indefinable as magnetism and invulnerable as air. Indeed the best of our scholars have never been able to tell us what Shinto is. To some it appears to be merely ancestor-worship, to others ancestor-worship combined with nature-worship; to others, again, it seems to be no religion at all; to the missionary of the more ignorant class it is the worst form of heathenism. Doubtless the difficulty of explaining Shinto has been due simply to the fact that the sinologists have sought for the source of it in books: in the Kojiki and the Nihongi, which are its histories; in the Norito, which are its prayers; in the commentaries of Motowori and Hirata, who were its greatest scholars. But the reality of Shinto lives not in books, nor in rites, nor in commandments, but in the national heart, of which it is the highest emotional religious expression, immortal and ever young. Far underlying all the surface crop of quaint superstitions and artless myths and fantastic magic there thrills a mighty spiritual force, the whole soul of a race with all its impulses and powers and intuitions. He who would know what Shinto is must learn to know that mysterious soul in which the sense of beauty and the power of art and the fire of heroism and magnetism of loyalty and the emotion of faith have become inherent, immanent, unconscious, instinctive.

   Trusting to know something of that Oriental soul in whose joyous love of nature and of life even the unlearned may discern a strange likeness to the soul of the old Greek race, I trust also that I may presume some day to speak of the great living power of that faith now called Shinto, but more anciently Kami-no-michi, or 'The Way of the Gods.'

 

23
   The Kojiki dates back, as a Written work, only to A.D. 722. But its legends and records are known to have existed in the form of oral literature from a much more ancient time.

 

24
   In certain provinces of Japan Buddhism practically absorbed Shinto in other centuries, but in Izumo Shinto absorbed Buddhism; and now that Shinto is supported by the State there is a visible tendency to eliminate from its cult certain elements of Buddhist origin.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一八)

 

       一八

 

 僅々一つ時代を隔てた前までは、國造の宗敎的權力は出雲全國に及んでゐた。彼は名義上並に事實上、出雲の靈的支配者であつた。彼の管轄區域は今は杵築の範圍を越えない。して、彼の正常なる稱號は、最早國造でなく、宮司である。

    註。國造の稱は實際今も猶在してゐ
    るが、何等それに關聯せる職務は無
    い。千家尊紀氏の父で、東京に住居
    せる千家男爵が、その稱號を有して
    ゐる。『みつえしろ』の宗敎的實務
        は、
今は宮司の上に委ねられてゐる。

 しかし僻陬の質朴な人々に取つては、彼は依然神聖又は半ば神聖な人物であつて、神々の時代から彼の家系に傳來せる、古い稱號によつて呼ばれる。往昔いかに深い畏敬が彼に捧げられたかといふことは、出雲の田舍人民の間に長く住まなかつたものでは、殆ど想像が出來ない。日本以外で、西藏の駄賴拉麻を除けば、恐らくは誰人もかやうに恭しく尊敬され、かやうに宗敎的に愛されるものはあるまい。日本國內では、人民と太陽の間の仲介者として立てる天子樣が同樣の敬意を受けたのみである。が、御門(みかど)に捧げられた尊敬は、人物に對してよりは夢、實在に對してよりは名に向つて捧げられたのだ。といふのは、天子樣は隱れまします神の如く、いつも目で見られないで、一般民衆の信念では、誰人もその顏を眺めると、生きて居られぬと思つてゐたからである。

    註。一八九〇年頃でさへ、内地を多く
    旅行したことのある、或る在留外人か
    ら、ある地方では天皇の顏を拜すれば、
    死ぬると信じてゐる老人が隨分あると、
    私は聞いた。

 見えないことと、神祕が御門(みかど)の神々しい傳說を無限に强めた。が、出雲國內に於ける國造は、一般の目に映じ、また屢々民衆の間を往來し乍らも、殆ど同じほどの尊敬を受けた。だから、彼の實權は滅多に發揮しないまでも、出雲の大名の權力に殆ど劣らなかつた。實際それは將軍をして、彼に對して親善關係を有つのを得策と考へさせるほど大なるものであつた。宮司の或る祖先は、豐太閤をさへ物とも思はないで、平民から生れた人の命を奉じないと豪語して、軍勢を給することを拒んだ。この反抗が祟つて、領地を大部沒收されたが、國造の實力は新文明の時期に至るまで變らなかつた。

 幾多のか〻る話の中から、二つの小話を擧げて、國造が昔時、尊敬を受けてゐた實例としよう。

 こんな話がある『或る人が、杵築大黑樣の御蔭で富裕になったからといふので、謝恩のため國造に裝束を贈らうと思つた。國造は丁寧にその申出でを斷わつた。が、敬虔なる信者は素志を主張して、仕立屋に裝束を造ることを依賴した。それが出來上つてから、仕立屋は依賴者がびつくり仰天するほどの直段を要求した。どういふ理由かと尋ねられてから、仕立屋が答へた。『國造の裝束を仕立ててからは、今後他人の衣服を造ることは出來ませぬ。だから一生暮らせるだけの全額が必要です』

 次の話は百七十年ほど前のことだ。

 松平家第五代宣維(のぶかず)の時代に、松江の藩士に杉原喜戶次といふのが、軍事上の資格で杵築に駐在してゐた。國造の御氣に入つてゐたので、每度國造と碁を圍んだ。ある夜、對局の最中に、この士は不意に麻痺したやうになっで、動くことも、口をきくことも出來なくなった。暫く誰も心配と狼狽を極めたが、國造は云つた。『この譯は分つてゐる。私の友は喫煙してゐた。私は喫煙を好まないが、彼の興を殺ぐのを欲しないので、それか告げなかつた。しかし神樣は私の氣分がわるくなつたのを知つて、彼に對して怒を發し玉ふたのだ。では、私は彼を癒やして上げよう』そこで、國造が呪文を唱へると、その士は直ちに囘復した。

[やぶちゃん注:「千家尊紀氏の父で、東京に住居せる千家男爵」「千家尊紀氏の父」は第七十九代千家尊澄(せんげたかずみ 文化一三(一八一六)年~明治九(一八七八)年)で確かに男爵であるが、彼はご覧の通り、この十四年前に亡くなっている。「東京に住居せる千家男爵」とあるから、明治二三(一八九〇)年当時、男爵で東京に居住していたとすると、これは尊紀の兄の第八十代千家尊福の誤りではなかろうか? 尊福は明治一五(一八八二)年五月、国造職を弟の千家尊紀に譲る。「出雲大社敎会」を分立して「神道大社派」と改称し、管長職に就き、二年後の明治十七年七月に男爵となったが、明治二一(一八八八)年六月に伊藤博文の推挙によって元老院議官となって管長職を辞し、二年後のこの明治二三(一八九〇)年七月には貴族院議員となっているからである。大方の御批判を俟つ。但し、次注も参照のこと。

「みつえしろ」既出既注。ところが、古く出雲国造として千家家とともに国造職を継いできた北島(きたじま)家が、明治一五(一八八二)年に内務省の承認を経て創設した(北島家第七十六代出雲国造であった北島脩孝(ながのり)はこの当時は出雲大社少宮司であった)「出雲教」の公式サイトの「歴史」によれば、明治五年一月に『北島全孝(たけのり)国造は千家尊澄(たかすみ)国造とともに御杖代(みつえしろ)の世襲職を免ぜられ、改めて脩孝(ながのり)国造と千家尊福(たかとみ)氏とがともに出雲大社少宮司に任じられました。しかし、いかなるわけか、―おそらくいろいろと経緯があったと思われますが―明治6年3月、脩孝国造は再度明治政府の命により岡山県の吉備津神社宮司に転勤を命ぜられ、千家尊福氏が出雲大社宮司に任命されたのであります。ここに及んで脩孝国造の心中は察するに余りあるものといえましょう。いかに政府の命とはいえ、わが北島国造家の伝統を無視しての命令にどうして従うことができましょうか。脩孝国造は断固としてこの任命を拒まれました。(脩孝国造帰幽の際の誄詞には―同年3月吉備津神社の宮司に任じられ、願によりその職を免ぜられ―とある)』と記す(なかなか強烈な不満が記されてあるので前後を引いた。下線はやぶちゃん)。以上の下線部から見ると、「出雲國造」及び「みつえしろ」の称号は実質上、尊澄で絶えていることになるから、尊福がそれを形の上でも担っているといった感じを与えるハーンの叙述は明らかにおかしいことになると思うが、如何? 識者の御教授を乞うものである。

「僻陬」既注であるが再掲する。「へきすう」と読み、「僻地」に同じい。

「西藏の駄賴拉麻」チベットのダライ・ラマ。この当時は現在の十四世の先代であるダライ・ラマ十三世(一八七六年~一九三三年)で、法名「トゥプテン・ギャツォ」のこと。在位は一八七九年~一九三三年。ウィキの「ダライ・ラマ13世」によれば、彼は一八七八年、実に二歳の時にダライ・ラマの生まれ変わりと認定されており、当時は未だ十四歳であった。

「一八九〇年頃」本出雲初来訪の同時間である明治二十三年。

「死ぬる」原註では“'to become a Buddha'; that is, to die.”。――「仏になる」、つまり、死ぬ――である。

「豐太閤をさへ物とも思はないで、平民から生れた人の命を奉じないと豪語して、軍勢を給することを拒んだ。この反抗が祟つて、領地を大部沒收された」これは天正一九(一五九一)年に豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、出兵を要請、それを拒否、出雲大社の社領の半分以上が没収されたことを指す。この頃の千家家国造は千家義広かと思われる。

「松平家第五代宣維(のぶかず)」ルビの「のぶかず」は「のぶずみ」の誤りと思われる。出雲松江藩第五代藩主で直政系越前松平家宗家第五代の松平宣維(元禄一一(一六九八)年~享保一六(一七三一)年)。ウィキの「松平宣維によれば、第四代藩主松平吉透(よしとお)の次男で宝永二(一七〇五)年十月二十六日に、『父の死去により家督を継ぐ。初名は直郷(なおさと)。治世では災害による天災から財政難に悩まされ、継室との婚礼資金ですら窮する有様で、婚礼を延期したほどである。このため宣維は藩政改革に取り組む。税制を定免制度に改め、ハゼ・ウルシ・クワ・コウゾ・茶・オタネニンジンの栽培やロウ・蝋燭製造にも着手した。また、出雲の沿岸一帯に異国船が多く出没したため、その打払いにも務めている。その他、踏鞴製鉄を統制下に置き、同業組織である「蹈鞴株」を作らせて先納銀を徴収した。藩札も発行したが、これが原因で後に札騒動が起こった』。正徳二(一七一二)年二月には『将軍徳川家宣より偏諱を授かり、直郷から宣維(宣澄とも)に改名、従四位下に叙位、侍従に任官する。また出羽守を兼任』、出羽守のままで享保元(一七一六)年には左近衛権少将に転任している。享保五(一七二〇)年六月には、『隠岐国の治政を幕府より委ねられ、以後、歴代藩主が相伝』することとなった。享年三十四歳。本文には「百七十年ほど前」とあり、これだと一七二〇年となるから、彼の藩主在任中で問題ない。

「杉原喜戶次」原文から「すぎはらきとじ」と読むことは分かるが、彼の詳細は不詳。] 

 

Sec. 18

   Only a generation ago the religious power of the Kokuzo extended over the whole of the province of the gods; he was in fact as well as in name the Spiritual Governor of Izumo. His jurisdiction does not now extend beyond the limits of Kitzuki, and his correct title is no longer Kokuzo, but Guji. [20] Yet to the simple-hearted people of remoter districts he is still a divine or semi-divine being, and is mentioned by his ancient title, the inheritance of his race from the epoch of the gods. How profound a reverence was paid to him in former ages can scarcely be imagined by any who have not long lived among the country folk of Izumo. Outside of Japan perhaps no human being, except the Dalai Lama of Thibet, was so humbly venerated and so religiously beloved. Within Japan itself only the Son of Heaven, the 'Tenshi-Sama,' standing as mediator 'between his people and the Sun,' received like homage; but the worshipful reverence paid to the Mikado was paid to a dream rather than to a person, to a name rather than to a reality, for the Tenshi-Sama was ever invisible as a deity 'divinely retired,' and in popular belief no man could look upon his face and live. [21] Invisibility and mystery vastly enhanced the divine legend of the Mikado. But the Kokuzo, within his own province, though visible to the multitude and often journeying among the people, received almost equal devotion; so that his material power, though rarely, if ever, exercised, was scarcely less than that of the Daimyo of Izumo himself. It was indeed large enough to render him a person with whom the shogunate would have deemed it wise policy to remain upon good terms. An ancestor of the present Guji even defied the great Taiko Hideyoshi, refusing to obey his command to furnish troops with the haughty answer that he would receive no order from a man of common birth. [22]  This defiance cost the family the loss of a large part of its estates by confiscation, but the real power of the Kokuzo remained unchanged until the period of the new civilisation.

   Out of many hundreds of stories of a similar nature, two little traditions may be cited as illustrations of the reverence in which the Kokuzo was formerly held.

   It is related that there was a man who, believing himself to have become rich by favour of the Daikoku of Kitzuki, desired to express his gratitude by a gift of
robes to the Kokuzo.

   The Kokuzo courteously declined the proffer; but the pious worshipper persisted in his purpose, and ordered a tailor to make the robes. The tailor, having made them, demanded a price that almost took his patron's breath away. Being asked to give his reason for demanding such a price, he made answer: Having made robes for the Kokuzo, I cannot hereafter make garments for any other person. Therefore I must have money enough to support me for the rest of my life.'

   The second story dates back to about one hundred and seventy years ago.

   Among the samurai of the Matsue clan in the time of Nobukori, fifth daimyo of the Matsudaira family, there was one Sugihara Kitoji, who was stationed in some military capacity at Kitzuki. He was a great favourite with the Kokuzo, and used often to play at chess with him. During a game, one evening, this officer suddenly became as one paralysed, unable to move or speak. For a moment all was anxiety and confusion; but the Kokuzo said: 'I know the cause. My friend was smoking, and although smoking disagrees with me, I did not wish to spoil his pleasure by telling him so. But the Kami, seeing that I felt ill, became angry with him. Now I shall make him well.' Whereupon the Kokuzo uttered some magical word, and the officer was immediately as well as before. 

 

20
   The title of Kokuzo indeed, still exists, but it is now merely honorary, having no official duties connected with it. It is actually borne by Baron Senke, the father of Senke Takanori, residing in the capital. The active religious duties of the Mitsuye-shiro now devolve upon the Guji.

21
   As late as 1890 I was told by a foreign resident, who had travelled much in the interior of the country, that in certain districts many old people may be met with who still believe that to see the face of the emperor is 'to become a Buddha'; that is, to die.

22
   Hideyoshi, as is well known, was not of princely extraction.

のちのおもひに   立原道造

    のちのおもひに

 

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に

水引草に風が立ち

草ひばりのうたひやまない

しづまりかへつた午さがりの林道を

 

うららかに靑い空には陽がてり 火山は眠つてゐた

――そして私は

見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を

だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた‥‥

 

夢は そのさきには もうゆかない

なにもかも 忘れ果てようとおもひ

忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

 

夢は 眞冬の追憶のうちに凍るであらう

そして それは戸をあけて 寂寥のなかに

星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。生前刊行の楽譜様の処女詩集「萱草に寄す」(注意されたいが、これは「わすれぐさによす」と訓ずる)の冒頭の「SONATINE No.1」群の五篇目の知られた一篇。私にとっては「草に寢て‥‥とともに永遠に忘れられぬ道造の珠玉の一篇である。角川文庫版中村真一郎編「立原道造詩集」及び新潮社「日本詩人全集」第二十八巻ともに「日光月光」を菩薩名よろしく「につかうがつかう」と読むが、私は採らない。これは私には「につかうげつかう(にっこうげっこう)」でしか響かぬ。思い込みであろうとなかろうと、そうでなければこれは――ソナチネ――小ソナタとしては私には響いてはこぬからである。

 なお、角川文庫版の中村真一郎氏の注によると、道造は「萱草(わすれぐさ)」を「夕萱(ゆうすげ)」(底本のママ)と混同視していたらしい、という驚くべき記載があることに気づいたので一言述べおく(但し、この中村氏の「夕萱」は「夕菅」の方が区別し易く、その方が一般的な漢字表記であるのでそれで統一する)。

 

 実はまず大事なことは「萱草(わすれぐさ)」自体がワスレナグサではないということである。

 

 真正の「ワスレナグサ」(通常は「勿忘草」と漢字表記する)は

双子葉植物綱シソ目ムラサキ科ワスレナグサ属 Myosotis

に属する、

シンワスレナグサ(ワスレナグサ)Myosotis scorpioides

ノハラワスレナグサ Myosotis alpestris

エゾムラサキ(ミヤマワスレナグサ・ムラサキグサ)Myosotis sylvatica

三種が園芸界では同じく「ワスレナグサ」として流通しているものが真実の「ワスレナグサ」なのである。参照したウィキワスレナグサによれば、その呼称は『中世ドイツの悲恋伝説に登場する主人公の言葉に因む』もので、『昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ、„Vergiss-mein-nicht!“(僕を忘れないで)という言葉を残して死んだ。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした』とする。『このような伝説から、この花の名前は当地ドイツで Vergissmeinnicht と呼ばれ、英名もその直訳の forget-me-not である。日本では』、明治三八(一九〇五)年(年)に『植物学者の川上滝弥によって初めて「勿忘草」「忘れな草」と訳された。それ以外の多くの言語でも、同様の意味の名前が付けられて』おり、『花言葉の「真実の愛」「私を忘れないで下さい」も、この伝説に由来する』とある。

 

 ところが、本邦で通常、「萱草(わすれぐさ)」というと

単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ワスレグサ Hemerocallis fulva

を指し(ユリ科とする記載もある)、しかもこれは実は、本邦の亜種で、

ヤブカンゾウ(藪萱草) Hemerocallis fulva var. kwanso

ノカンゾウ(野萱草) Hemerocallis fulva var. longituba

ハマカンゾウ(浜萱草)学名 : Hemerocallis fulva var. littorea

(他に九州以南にニシノハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. auranntiaca・アキノワスレグサ Hemerocallis fulva var. sempervirens が植生する)を指すのである。(ここはウィキワスレグサに拠る)。因みに本種の和名の由来はウィキによれば、『花が一日限りで終わると考えられたため、英語ではDaylily、独語でもTaglilieと呼ばれる。実際には翌日または翌々日に閉花するものも多い。中国では萱草と呼ばれ、「金針」、「忘憂草」などとも呼ばれる』とある。

 

 さて、問題は中村氏の言うところの道造が混同していたという、「夕萱(ゆうすげ)」であるが、これは実はそのワスレグサ属に属する

ワスレグサ属ユウスゲ Hemerocallis citrina var. vespertina

を指すのである。岡山理科大学生物地球学部生物地球学科植物生態研究室(波田研)公式サイト内の「植物雑学事典」のユウスゲ」(ここではユリ科となっている)によれば、夏、高さ三十~百五十センチメートル程の『花茎を出し、夕方から黄色の花を咲かせる。花の長さは』七センチメートル前後で、夕方の四時過ぎ頃から『咲き始め、翌朝にしぼむ』とあり、ワスレグサ属同様に花の咲いている時間が短く、このやや淡い黄色い儚いユウスゲの花を道造が「萱草(わすれぐさ)」と混同していたとしても、如何にもしっくりくるのである。

 

 以下にグーグル画像検索で、

シンワスレナグサ(ワスレナグサ)Myosotis scorpioides

ヤブカンゾウHemerocallis fulva var. kwanso

ノカンゾウHemerocallis fulva var. longituba

ユウスゲHemerocallis citrina var. vespertina

 

の三種をリンクしておくので、比較されたい。なお、中村氏はヤブカンゾウ及びノカンゾウの『花を持っていると憂を忘れるということから「わすれぐさ」の異称がある』と記しておられる。]

わがまどろみは覺めがちに   立原道造

    わがまどろみは覺(さ)めがちに

      夢のうちに逢ふと見えつる寢覺こそ

      はかなきよりも袖はぬれけれ――新古今和歌集

 

窓に ひとすぢ さしそめた

星の光? 月のかげ?

いいえ いいえ! 夜の明けだ

斷れた 眠り 消えた 薔薇!

 

眠りのない 噴水が よつぴて

さざめいてゐた ひそかな愛の

ささやくやうに 思ひ出のほほゑみが

夢のうちにかへつて來たやうに‥‥

 

おまへだつたのか さうして 薔薇の

内側に 醒めてゐる 靜かな世界を

のこして行つたのは? さうして

噴水を 眠らせなかつたのは?

 

窓に ひとすぢ もうさしそめた?

いいえ いいえ あれはまぼろし!

夜はふかく 病む人の眠りのやうに

ひつそりと 過ぎて行く 暗く暗く

 

夜の明け? 斷れた眠り‥‥

見つめてゐる 光 耳のなかに

晝の鳥らの歌がして もう夜の明け?

いいえ あれは 星のかげ 夜のうた!

 

外の空に 溢れるものは 闇

答へるものもなく 見られずに‥‥

熱くされた悲哀が しづかにかへつて

長く長く 夜が續く――聲もなく!

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部(「Ⅱ」)、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の、前掲の「夜に詠める歌」とその「反歌」に続いて所収されているものである。

 副題の如く引用されている和歌は、「新古今和歌集」の「卷第十二」の「戀歌二」の大納言実宗(さねむね)の一首である(第一一二七番歌)、

 

  題知らず

 夢のうちに逢(あ)ふと見えつる寢覺(ねざめ)こそ

  はかなきよりも袖はぬれけれ

 

作者の西園寺(藤原)実宗(天養元(一一四四)年~建暦二(一二一三)年)は平安後期鎌倉にかけての公卿で歌人として知られた公卿西園寺公通(きんみち)の子。右近衛(うこんえの)中将・蔵人頭(くろうどのとう)を経て、安元二(一一七六)年に参議に進み、建久二(一一九一)年に大納言、元久二(一二〇五)年には西園寺家初の内大臣となった。正二位。藤原定家は娘婿であった(以上は主に講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 岩波新日本古典文学大系「新古今和歌集」(田中裕・赤瀬信吾校注一九九二年刊)の脚注によれば、これは「古今和歌六帖」「第四」の「戀」に載る凡河内躬恒の、

 

 夢にてもうれしとも見ばうつつにて

  わびしきよりはなほまさりなむ

 

をインスパイアしたものとする。一首は――夢の中で恋しいあの人と逢った――と見た――そこで――ふっと寝覚めた……それは……現実(うつつ)に現にあの人の冷たい眼に逢うよりも、遙かにまた、袖の涙に濡れそぼつことよ――の意であろう。]

夜に詠める歌   立原道造

     夜(よる)に詠(よ)める歌(うた)

 

 夜だ、すべてがやすんでゐる、ひとつのあかりの下に、湯沸しをうたはせてゐる炭火のほとりに――そのとき、不幸な「瞬間の追憶」すらが、かぎりない慰さめである。耳のなかでながくつづく木精のやうに、心のなかで、おそろしいまでに結晶した「あの瞬間」が、しかし任意の「あの瞬間」が、ありありとかへつて來る。あのとき、むしろ憎しみにかがやいた大氣のなかで、ひとつの歌のしらべが熱い涙に濡らされてゐた、そして限りない愛が、叫ぶやうに、呼んでゐた、感謝を、理解を。‥‥私は身を横たへる。私は決意する、おそれとおどろきとをののきにみちた期待で――日常の、消えてゆく動作に、微笑に、身をささげよう、と。さようなら、危機にすらメエルヘンを強ひられた心! さやうなら、私よ、見知らない友よ! ‥‥私は、出發する。限りのある土地に、私は、すべての人のとほつた道を、いそがう。人はどれだけ土地がいるか。身を以て――。夜だ、すべてがやすんでゐる。やがて燈が消される。部屋がとほくから異つた裝ひをして訪れる。私の身體はもう何も質問しない。恩寵も奇蹟も、ひそかなおしやべりもなしに。眠りと死とのにほひが、かすかに汚れたおもひをひろげはじめる。夢みる、愛する、そして旅する。それは幻想だらうか、さうであつてくれればいい、私が、鳥の翼と空氣との間に張られた一枚のあの膜のやうに、不確(かなやぶれやすい存在であるとは。誰が私に言ひ得ようか、物體は消え去ることがないといふ保證を――。それは嘗てメタフイジイクの幻滅だつた、ここを過ぎて、私はまた何をねがふのだらうか。私はしづかに死ぬ。そして死んでゐる。葦のやうになつた耳を立て、限りない愛に眼ざめる。すでにふたたび、裏切られもしないで、裏切りもしないで‥‥。闇のなかでは、かすかな希望や物質が微妙な影をうすく光らせる。夜だ、すべてがやすんでゐる。さうだ、だれが眼ざめてゐよう、私もまた、もう眠られなくなつた星ばかり、外の空に溢れてゐるだらう! 見られずに、信じられずに――。ただ答へるのは、かくされた泉ばかりだらう。すべてがやすんでゐる。私もまた、夜だ。眠りにひたされて、遺された子守唄! そして、すべてが失われてゆくだらう、やすみながら。闇に、つくりもせずつくられもしない闇に、そして光に、かへつてゆくだらう。夜だ!‥‥

 

 

     反歌
       
かへるさのものとやひとのながむらん
             
待つ夜ながらのありあけの月――定家

 

光に耐へないで

ほろんで行つた 草木らが

どうして 美しい

ことがあらう

 

晝を私らの手にかへす

つめたいありあけの光のなかで

私が どうして

否定しよう

 

鳥よ 鳥らの唄を天にかへせ

花よ 花らの光を野にかへせ

――たたへられた 水に

 

夜が去る その最後の

影よ ちひさい波のさざめきを

のこせ! あこがれられた瞳に

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部(「Ⅱ」)、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇に所収する。私が偏愛する道造の詩の一つである。なお「反歌」の第三連と第四連の箇所は改頁となっているのであるが、視認すると第三連は前頁の最終行まで第四連は次頁の冒頭行から印刷されているとしか思われない。従って、視認上はこの連は繋がっていて一連六行と読めるのであるが、道造の詩篇で四・四・六行という連構成を持つ詩篇は管見する限りではちょっとなく、私の持つ諸選集でもこの二つは別々な連として独立していることから(それらが底本としている各全集がそうなっていることを意味する)、以上のように表記した。

 「反歌」の副題のように添えられた藤原定家の和歌、

 

 歸るさの物とや人のながむらん

    待つ夜ながらのありあけの月

 

は「新古今和歌集」巻十三の「戀歌三」に載るもので(一二〇六番歌)、「拾遺愚草」の文治三(一一八七)年冬の「閑居百首」の内の一首である。「歸るさの物」の「物」は後朝の別れの後の暁方の残月を指す。但し、この和歌の複雑性はその帰って行く男は詠んでいる彼女の元からの帰りではない点である。「人」とは彼女が待つ男である。待って待ち尽くして来ずに暁の月を見ているのである。それは、この彼女が目視している有明月とその彼女の憂愁と恨みが「古今和歌集」巻十三の「戀歌三」に載る壬生忠岑の、

 

 有明のつれなくみえし別れより

    曉ばかりうきものはなし

 

を遠くインスパイアしているであろうことからも分かる。この関係性については岩波新日本古典文学大系「新古今和歌集」(田中裕・赤瀬信吾校注一九九二年刊)の脚注を参考にしたもので、同書では一首の訳を――他の女のところからの『帰り際のつれない月としてあの人は見入っていることでもあろうか。私が一夜待ち明かした揚句に見るこの有明の月を』――の意とし、『自分にもあの人にも等しくつれない月であるが、自分』の方は耐え難い『一夜の絶望を、あの人は』他の女としっぽりした『喜びを味わった果ての月で、この対照が一種の眼目』である、と評してある。自らの失恋の痛手と絶望を長歌としての「夜に詠める歌」で示した詩人は、その「反歌」の冒頭で、定家のこの和歌によって、かつての恋人と自分の極端な感情的落差を構造的にオーバー・ラップさせて、沈痛な命令形を畳み掛けて夜に呪詛しているのである。

 なお、ここで告白しておくと、実は私はここに示した、続く「反歌」が、「夜に詠める歌」とセットであることを、愚かにして今日の今日まで不覚にも全く認識していなかった(されば以前に単独で「夜に詠める歌」のみをテクスト化しているのである。なお、比較して戴くと分かるが、現行のそれとは微妙に表記が異なっている。特にルビは表題以外にはなく、特に私は最初の方の、「耳のなかでながくつづく木精のやうに」の箇所は現行の「もくせい」のルビがなければ、百%、「こだま」と読む)。ところが今回、参考に管見した新潮社の「日本詩人全集」第二十八巻(前の電子化はこの本文に拠るものである。なお、この選集の底本は角川書店版「立原道造全集」である)の立原道造のパートの目次の『Ⅲ 雑体』を見て仰天した。そこには『夜に詠める歌 並に反歌』とはっきり記してあったからである実は殆んどの立原道造の選詩集では、この「反歌」をこのような形で独立詩篇名として目次等の中に組み込んでいない(この「反歌」は一体の附属物として認識されていて目次自体に挙げられていないということである)。ところが実は諸本でこの「反歌」の後に続く独立した詩が、

   *

    わがまどろみは覺(さ)めがちに
      
夢のうちに逢ふと見えつる寢覺こそ
           
はかなきよりも袖はぬれけれ――新古今和歌集

   *

という標題と添え和歌を持つ、各四行全六連からなる極めて「反歌」と酷似した一詩篇であるため、この直前の「反歌」(「反歌」とあるのだから、当然、前とセットであると分かるだろうと言われれば、私は黙すしかない)が視覚上、こちらの詩篇に誘引されてしまい、独立して見えるのである(少なくとも今までの私にはそうであった)。この私の大いなる錯誤が本日只今、判明したのであった。さればこそかく正しく電子化して示すこととしたことを自白しておく。孰れにせよ、痴愚鈍愚の私の、弁解にならぬ懺悔の謂いではある。許されたい、道造よ――]

2015/09/15

黃昏に   立原道造

    黃昏に
       
FRAU R. KITA GEWIDMET

 

すべては 徒勞だつた と

告げる光のなかで 私は また

おまへの名を 言はねばならない

たそがれに

 

信じられたものは 美しかつた

だが傷ついた いくつかの

風景 それらは すでに

とほくに のこされるばかりだらう

 

私は 身を 木の幹に凭せてゐる

おまへは だまつて 背を向けてゐる

夕陽のなかに 鳩が 飛んでゐる

 

私らは 別れよう‥‥別れることが

私らの めぐりあひであつた あの日のやうに

いまも また雲が空の遠くを ながれてゐる

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。本詩篇は先に掲げた「ひとり林に‥‥」と同じく、底本のたった二篇の「補遺」の中のもう一篇である。

 副題「FRAU R. KITA GEWIDMET」は「ひとり林に‥‥」と同じ形式のドイツ語の献辞である。“FRAU”(フラウ)は「夫人」の意であるから、これは同様に“R”のイニシャルの名を持つ「北」或いは「喜多」「木田」「喜田」などの姓を持つところの「夫人へ捧げる(捧げたる)」という意という風に普通は読めると思う。ろくな立原道造の評論を読んだこともない私には、この女性が誰なのかはこれ以上、分からない。識者の御教授を乞うものではあるが、実際、誰なのかは分かっていないのかも知れない。

 そして底本の堀辰雄の「後記」を見ると、本詩篇は『「優しき歌」の第二番の「落葉林で」の別稿であ』ると記されてある。これは現在知られている「優しき歌」の「Ⅱ 落葉林で」を指す。

 さればこそ、ともかくもその堀らによって再現された未刊詩篇である「Ⅱ 落葉林で」を引こう。

   *

 

  Ⅱ 落葉林で

 

あのやうに

あの雲が 赤く

光のなかで

死に絶えて行つた

 

私は 身を凭もたせてゐる

おまへは だまつて 脊を向けてゐる

ごらん かへりおくれた

鳥が一羽 低く飛んでゐる

 

私らに 一日が

はてしなく 長かつたやうに

 

雲に 鳥に

そして あの夕ぐれの花たちに

 

私らの 短いいのちが

どれだけ ねたましく おもへるだらう か

 

   *

こちらの詩篇については、中公文庫版「日本の詩歌」第二十四巻の脚注(注釈阪本越郎)では、『この詩の落葉林とは、信州の落葉松(からまつ)林のことを指す』とある(以下、本詩の鑑賞文が続くのであるが、私には誰でも書けそうな――従って何ら本詩の背景を解き明かすヒントだに与えない――凡庸にして退屈な(失礼)感傷主義の産物でしかなく、引用する気にもならない(再度、失礼)。ともかくも私が言い得ることは現時点では、これだけである。]

草に寢て‥‥   立原道造

    草に寢て‥‥
            
 六月の或る日曜日に

 

それは 花にへりどられた 高原の

林のなかの草地であつた 小鳥らの

たのしい唄をくりかへす 美しい聲が

まどろんだ耳のそばに きこえてゐた

 

私たちは 山のあちらに

靑く 光つてゐる空を

淡く ながれてゆく雲を

ながめてゐた 言葉すくなく

 

――しあはせは どこにある?

山のあちらの あの靑い空に そして

その下の ちひさな 見知らない村に

 

私たちの 心は あたたかだつた

山は 優しく 陽にてらされてゐた

希望と夢と 小鳥と花と 私たちの友だちだつた

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇に所収する。私が最も偏愛する道造の詩である。以前に述べたが、この一、三連は過去形で、途中は総て、当時のフラッシュ・バックだ。……実際に同じ景観の中に彼は佇んでいる。……しかし、彼は今、ただ独りそこに立ち竦んでいる。……これは哀しい傷心の唄なのであった。……

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一七)

 

       一七

 

 親切な宮司一行に別れを告げてから、神官佐々氏と外一名に案内されて、町の後ろの小灣、稻佐の濱へ行つた。佐々氏は和歌に巧みで、神道の歷史と尊い古典に通曉せる人で、濱邊を逍遙し乍ら、種々の珍らしい傳說を語つてくれた。

 この濱は今は人氣の盛んな海水浴場で、風通しのよい小さな宿屋や、綺麗な茶店が海岸に並んでゐるが、稻佐と呼ばれるのは、こ〻で大國主神が始めて正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命に、その出雲の領土を讓るやうに請求されたといふ神道の傳說によるのだ。稻佐といふ語は『然か、否か?』の意だ。古事記第一卷第三十二章に、その昔譚が載せてある。私はその一部分を引用する。

 『この二柱の神(鳥船の神と健雷の神)出雲の國伊那佐の小濱に降り着きて、十掬劔を拔きて、浪の穗を逆に刺し立てて、その劔の前に跌み坐て、その大國主の神に問ひ給はく、『天照大御神高木の神の命もちて、問ひに使はせり。汝が領ける葦原の中つ國は、我が御子の知らさむ國と、言依し給へり。かれ汝が心奈何ぞ』と問ひ給ふ時に、答へまつらく、『僕は得申さじ、我が子八重言代主の神、これ申すべき』……かれこ〻に、その大國主のに問ひ給はく、『今汝が子、事代主の神、かく申しぬ。まだ申すべき子ありや』と問ひ給ふ折しも、こ〻にまた申しつらく、『また我が子、建御名方の神あり』……かく申し給ふ折しも、この建御名方の神、千引石を手末にさ〻げて來て、「然らば力競せん」と云ふ』

 こ〻の磯に稻佐宮といふ小祠が建つてゐて、力競に克つた武雷の神が祀つてある。して、濱邊に建御名方の神が指先きでもたげた大岩が、水から立上がつてゐるのが見える。それを千引の岩と呼ぶ。

 そよ吹く風に面した一軒の小亭へ神官達を招待して、私共は食事を共にした。色々の話を交へたが、特に杵築と國造に關してであつた。

[やぶちゃん注:「稻佐の濱」「いなさのはま」と読む。出雲市大社町の出雲大社社殿の真西凡そ一キロメートル強に位置する砂浜海岸。ウィキの「稲佐の浜」に、『国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名が見える。また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされている』とあり、出雲大社の神事である神幸祭(新暦八月十四日)と神迎祭(旧暦十月十日。今年二〇一五年の場合は十一月二十一日に相当し、実際に本年度例祭にはそう組まれてある)が行われる。浜の周辺には、

   《引用開始》

弁天島(べんてんじま) 稲佐の浜の中心にある。かつては弁才天を祀っていたが、現在は豊玉毘古命[やぶちゃん注:「とよたまひめ」と読む。]を祀る。

塩掻島(しおかきしま) 神幸祭においては塩掻島で塩を汲み、掻いた塩を出雲大社に供える。

屏風岩(びょうぶいわ) 大国主神と建御雷神[やぶちゃん注:後で注するが「たけみかづちのかみ」と読む。]がこの岩陰で国譲りの協議を行ったといわれる。

つぶて岩 国譲りの際、建御名方神[やぶちゃん注:後で注するが「たけみなかたのかみ」と読む。]と建御雷神が力比べをし、稲佐の浜から投げ合った岩が積み重なったといわれる。

   《引用終了》

があると記す。

「正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命」「まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと」と読む。天之忍穂耳命(あめのおしほみみ)の別名。ウィキの「アメノオシホミミ」によれば、「古事記」では『アマテラスとスサノオの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(『日本書紀』の一書では次男)で、勾玉の持ち主であるアマテラスの子とする』。『葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう』。『タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)』。『名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ(勝速日)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられ』『「オシホミミ(忍穂耳)」は威力(生命力)に満ちた稲穂の神の意』とし、合気道の開祖である『植芝盛平は正勝を「敵に屈せず、正しいことを行なって勝つ」、吾勝を「たゆまず修行し、己に勝つ」、勝速日を「相手と対峙した時にすでに勝っている」と解釈し、合気道の理念を表す用語とした』という。『稲穂の神、農業神として信仰されて』いる。

「然か、否か?」ここにハーンは注を附しているが、落合氏は省略している。平井呈一氏の訳を以下に引かさせて戴く。

   《引用開始》

 ここのことばは、註釈者本居によったのである。もっと簡単にいえば、「否か、然か」である。チェンバレン教授は、“No or Yes?”と訳して、変った語源だといっている。しかし、神道の信仰だと、本居のような解釈になるのであるから、その意味で、ここには、本居の釈語をあげておいた。

   《引用終了》

「古事記第一卷第三十二章に、その昔譚が載せてある」「古事記」の「上つ卷」の所謂、「国譲り」のシークエンスである。

「昔譚」「むかしばなし」と訓じていよう。

「鳥船の神」「とりふねのかみ」と読む。神が乗る船の名前、神名である。「船の鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)」「天鳥船神(あめのとりふねのかみ)」「天鳥船(あめのとりふね)」ともいう。ウィキの「鳥之石楠船神」によれば、『神産みの段でイザナギとイザナミの間に産まれた神で、鳥の様に空を飛べる。『古事記』の葦原中国平定の段では、天鳥船が建御雷神の副使として葦原中国に派遣された。『日本書紀』の同段では、事代主神の意見をきくために稲背脛を熊野諸手船、またの名を天鳩船という船に乗せて遣わしている』。『これとは別に、『日本書紀』の神産みの段本文で、イザナギ・イザナミが産んだ蛭児を鳥磐橡櫲樟船(とりのいわすふね)に乗せて流したとの記述がある。『先代旧事本紀』では、饒速日尊が天磐船(あめのいわふね)で天下ったとの記述がある』(このウィキの記載者はこれらも同一或いはごく同類の対象物と見做している感じである)。『神名の「鳥」は、船が進む様子を鳥が飛ぶ様に例えたとも、水鳥が水に浮かんで進む様に例えたともされる。「石」は船が堅固であることの意である。「楠」は、船は腐食しにくい楠の材で作られていたことによるものである』。『建御雷神が天鳥船とともに天下ったのは、雷神は船に乗って天地を行き来すると考えられていたためである』とある。

「健雷の神」雷神であると同時に剣の神とされ、相撲の元祖ともされる一神である。ウィキの「タケミカヅチ」によれば(記号の一部を変更・省略した)、『「古事記」では建御雷之男神・建御雷神、「日本書紀」では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。単に建雷命と書かれることもある』。別名を建布都神(たけふつ)、豊布都神(とよふつ)ともいう。『また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている』。『神産みにおいて伊弉諾尊(伊邪那岐・いざなぎ)が火神軻遇突智(カグツチ)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱である。剣のまたの名は伊都尾羽張(イツノオハバリ)という。「日本書紀」では、このとき甕速日神(ミカハヤヒノカミ)という建御雷の租が生まれたという伝承と、建御雷も生まれたという伝承を併記している』。『「出雲の国譲り」の段においては伊都之尾羽張(イツノオハバリ)の子と記述されるが、前述どおり伊都之尾羽張は天之尾羽張の別名である。アマテラスは、タケミカヅチかその父イツノオハバリを下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主は、国を朝廷に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)(諏訪の諏訪神社上社の祭神)は、建御雷に力比べをもちかけ、手づかみの試合で一捻りにされて恐懼して遁走し、国譲りがなった。このときの建御名方神との戦いは相撲の起源とされている』。『「日本書紀」では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、武甕槌とフツヌシである。(ちなみに、この武甕槌は鹿島神社の主神、フツヌシは香取神社の主神となっている。上代において、関東・東北の平定は、この二大軍神の加護に祈祷して行われたので、この地方にはこれらの神の分社が多く建立する。)「日本書紀」によれば、この二柱がやはり出雲の五十田狭小汀(いたさのおはま)に降り立って、十握の剣(とつかのつるぎ)を砂に突き立て、大己貴命(おおあなむち、オオクニヌシのこと)に国譲りをせまる。タケミナカタとの力比べの説話は欠落するが、結局、大己貴命は自分の征服に役立てた広矛を献上して恭順の意を示す。ところが、二神の前で大己貴命がふたたび懐疑心を示した(翻意した?)ため、天つ神は、国を皇孫に任せる見返りに、立派な宮を住まいとして建てるとして大己貴命を説得した』。『また同箇所に、二神が打ち負かすべく相手として天津甕星の名があげられ、これを征した神が、香取に座すると書かれている。ただし、少し前のくだりによれば、この星の神を服従させたのは建葉槌命(たけはづち)であった』とある(以下、「神武東征」での活躍の記事などが続くが省略する)。

「十掬劔」「とつかのつるぎ」(十握剣)と読む。十束(とつか:「束」は長さの単位で拳一つ分の幅を指す)の長さの剣という一般名詞で、通常は刀身の長さが約六十五~七十センチメートル程度の直刀(ちょくとう)と考えられる。

「浪の穗を逆に刺し立てて」「逆に」は「さかに」或いは「さかさに」と訓じておく。海の波に頂点に剣の先を上にして立てて。

「跌み坐て」「あぐみゐて」と読む。その剣の切っ先の上にやおら、胡坐をかいて坐って。

「高木の神の命」「たかぎのかみのみこと」と読む。「たかみむすび」のこと。「古事記」では別に「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」、「日本書紀」では「高皇産霊尊」と書かれているが「古事記」のこのソーンでは「高木神」という名で名指されているが、ウィキの「タカミムスビ」によれば、『別名の通り、本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神で』『女神的要素を持つ神皇産霊神と対になり、男女の「むすび」を象徴する神であるとも考えられる』という。「古事記」によると、『天地開闢の時、最初にアメノミナカヌシが現れ、その次にカミムスビと共に高天原に出現したとされるのがタカミムスビという神で』、『子にオモイカネ、タクハタチヂヒメがいる』とする。『アメノミナカヌシ・カミムスビ・タカミムスビは、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている』。『この造化三神のうち、カミムスビとタカミムスビは、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿で祀られた』。タカミムスビは、日本書紀」に於いては『天地初発条一書第四に「又曰く〜」という形式で登場しており、その他では巻十五の「顕宗紀」において阿閇臣事代が任那に派遣され壱岐及び対馬に立ち寄った際に名前が登場する』。なお、『アマテラスの御子神・アメノオシホミミがタカミムスビの娘タクハタチヂヒメと結婚して生まれたのが天孫ニニギであるので、タカミムスビは天孫ニニギの外祖父に相当する』。『アマツクニタマの子であるアメノワカヒコが、天孫降臨に先立って降ったが復命せず、問責の使者・雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を射殺した』『ためタカミムスビにその矢を射返されて死んだという』とするが、「古事記」では『即位前の神武天皇が熊野から大和に侵攻する場面で夢に登場し、さらにアマテラスより優位に立って天孫降臨を司令している伝も存在することから、この神が本来の皇祖神だとする説もある』とある。こりゃ、面白い!

「領ける」「うしはける」と読む。武田祐吉先生の解釈によれば、「うし」は「主」、「はく」は佩く」で、自分のものとして占有支配するの意とある。

「葦原の中つ國」「葦原中津國」で日本神話に於ける高天原と黄泉国の間にあるとされる、我が国の国土の別称である。

「我が御子」「我が」は「あが」と読む。先に出た天照大神の子である正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命(天之忍穂耳命)

「知らさむ」治めるべき。支配するのが当然の。

「言依し給へり」「ことよさしたまへり」と読む。ここでは天照大神の言葉を伝言しているため、「ことよす」(言寄す+使役の助動詞「す」)で、ことづけさせなさった、と言っているのであろう。

「かれ」老婆心乍ら、上代語の「かれ」は「彼」ではない。接続詞「故(かれ)」で、それで・そこでの意である。

「答へまつらく」「まつらく」は現行、「白(まう)さく」(「申(まう)さく」に同じい)と読む。「く」は接尾語で、申すことには、の意。お答え申し上げたことには。

「僕は得申さじ」「僕」は卑称の一人称。拙者は何とも申しようが御座らぬ。

「我が子八重言代主の神」「八重言代主」は「やへことしろぬし」と読み、事代主の別名。

「……かれこ〻に、その大國主のに」点線部に事代主が国譲りを受諾する部分が省略されている(ここで前に注したように事代主は威圧的強制譲渡要求に対し、呪詛を意味すると思われる逆手(さかで)の柏手を打って隠れてしまうのである)。「のに」は「の神に」の脱字と思われる。

「我が子、建御名方の神」ウィキの「建御名方神」より引く。まさにこの「古事記」の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神の御子神として初めて登場する。「延喜式神名帳』」などには『南方刀美神の表記も見られる。長野県諏訪市の諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する』。『神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る』。『建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある』。『建御雷神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し』、信濃国の『州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。この建御雷神と建御名方神の力くらべは古代における神事相撲からイメージされたものだと考えられている』。『なお、この神話は『古事記』にのみ残されており、『日本書紀』には見えない』。「諏訪大明神絵詞」などに『残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神』(もりやしん/もれやしん:現在の長野県諏訪地方を中心に信仰を集めた土着神の名)『を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある』。『長野県諏訪市の諏訪大社を始め、全国の諏訪神社に祀られている。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように軍神として知られ、また農耕神、狩猟神として信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられる。ただし、宗像(むなかた)と関連があるとする説』や、『冶金、製鉄の神であるとする説もある』。また、『建御名方神は様々な形で多くの信仰を受けているので、『古事記』に記された敗残する神という姿は、中臣鎌足を家祖とする藤原氏が鹿島神宮の祭祀に関する家の出であり、同神宮の祭神である建御雷神を氏神として篤く信仰していたため、藤原氏が氏神の武威を高めるために、建御名方神を貶めたという説もある』とある。私はこの「たけみなかた」という響きが、慄っとするほど好きである。

「千引石」「千引の岩」伊弉諾の呪的逃走の最後で黄泉比良坂に「引き塞(そ)へ」た岩の名として知られるが、ここは一般名詞で、千人もの多人数で引くほどの巨大の岩の意である。

「手末にさ〻げて」「手末」は「たなすゑ」で、後でハーンは「指先きでもたげた」と記すが、武田祐吉先生は『手の上にさし上げて』と訳しておられる。先の波の穂先の上に立てた剣の切っ先に胡坐をかくのに対するなら、独楽のようにそれを手の上に軽々と載せてさし上げて登場するのが、よい。

「力競」「ちからくらべ」と読む。] 

 

Sec. 17

   Having taken our leave of the kind Guji and his suite, we are guided to Inasa-no-hama, a little sea-bay at the rear of the town, by the priest Sasa, and another kannushi. This priest Sasa is a skilled poet and a man of deep learning in Shinto history and the archaic texts of the sacred books. He relates to us many curious legends as we stroll along the shore.

   This shore, now a popular bathing resort—bordered with airy little inns and pretty tea-houses—is called Inasa because of a Shinto tradition that here the god Oho-kuni-nushi-noKami, the Master-of-the- Great-Land, was first asked to resign his dominion over the land of Izumo in favour of Masa-ka-a-katsu-kachi-hayabi-ame-no-oshi-ho-mimi-no- mikoto; the word Inasa signifying 'Will you consent or not?' [19] In the thirty-second section of the first volume of the Kojiki the legend is written: I cite a part thereof:

   'The two deities (Tori-bune-no-Kami and Take-mika-dzuchi-no-wo-no-Kami), descending to the little shore of Inasa in the land of Izumo, drew their swords ten handbreadths long, and stuck them upside down on the crest of a wave, and seated themselves cross-legged upon the points of the swords, and asked the Deity Master-of-the-Great-Land, saying: "The Heaven-Shining-Great-August-Deity and the High-Integrating-Deity have charged us and sent us to ask, saying: 'We have deigned to charge our august child with thy dominion, as the land which he should govern. So how is thy heart?'" He replied, saying: "I am unable to say. My son Ya- he-koto-shiro-nushi-no-Kami will be the one to tell you." . . . So they asked the Deity again, saying: "Thy son Koto-shiro-nushi-no-Kami has now spoken thus. Hast thou other sons who should speak?" He spoke again, saying: "There is my other son, Take-mi-na-gata-no-Kami." . . . While he was thus speaking the Deity Take-mi-na-gata-no-Kami came up [from the sea], bearing on the tips of his fingers a rock which it would take a thousand men to lift, and said, "I should like to have a trial of strength."'

   Here, close to the beach, stands a little miya called Inasa-no-kami-no- yashiro, or, the Temple of the God of Inasa; and therein Take-mika-dzu- chi-no-Kami, who conquered in the trial of strength, is enshrined. And near the shore the great rock which Take-mi-na-gata-no-Kami lifted upon the tips of his fingers, may be seen rising from the water. And it is called Chihiki-noiha.

   We invite the priests to dine with us at one of the little inns facing the breezy sea; and there we talk about many things, but particularly about Kitzuki and
the Kokuzo.
 

 

19
   That is, according to Motoori, the commentator. Or more briefly: 'No or yes?' This is, according to Professor Chamberlain, a mere fanciful etymology; but it is accepted by Shinto faith, and for that reason only is here given.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一五)・(一六)

 

       一五 

 

 宮司が指圖をすると、廣間の向うの端から不意に奇異なる奇異なる音樂が起つた――太鼓や竹の笛の音だ。振向いてみると、伶人がゐる。三人の男は座敷に坐し、一人の少女もこれに加つてゐる。宮司が更に合圖を與へると、少女が立つた。素足に、雪白の衣裳をつけた處女の巫女だ。白衣の裾の下からは、緋の絹の袴が光つてみえる。室の中央の小さな机に進み、下に垂れた小枝に、一々小鈴の附着せる木の枝の如き、異樣な器が載せてあるのを兩手で取つて、私が未だ見たことのないやうな神聖の踊を始めた。巫女の一擧一動は詩だ。それは彼女が非常に優美だからである。しかしその所作は、西洋でいふ意味の舞踏とは殆ど云へない。これは寧ろ圓の内を輕快敏速に歩行するやうなもので、その間一定の時間を置いては、器具を振つて鈴を悉く鳴らす。顏は綺麗な假面の如く凝然動かない。夢みる觀音の顏のやうに平靜で、うるはしく、白い足の線は大理石で刻んだ水精の像の如く淸らかだ。要するに、その雪のやうな衣、白い筋肉、冷靜な顏は大和少女と云はんよりは、寧ろ生きた美麗なる彫像のやうだ。して、始終不思議な笛は嗚咽したり、銳い音を發したりして、太鼓の囁く音は呪文のやうであつた。

 私が見たのは、巫女の舞と呼ばれてゐる。

[やぶちゃん注:「伶人」老婆心乍ら、「れいじん」と読み、楽人(がくじん)、雅楽を奏する人をいう。

「小鈴の附着せる木の枝の如き、異樣な器」これは神楽舞(かぐらまい/後注参照)を舞う際、概ね巫女が手に持って鳴らすことから「巫女鈴(みこすず)」「神楽鈴(かぐらすず)」と呼ばれるものである。この鈴の音(ね)は強力な祓いの呪力を持つとともに神々を招き寄せる呪力を持つとされる。ウィキの「によれば、『中心となる棒に取っ手とその上部に』三段に分けて小さな鈴を十五個(上から各段に三個・五五・七個)を『付けた「七五三鈴」等が使われる』とある。三番叟でもお馴染みの鈴である。

「巫女の舞」ウィキの「巫女舞」より引く。巫女舞(みこまい)は「神子舞」とも書き、『巫女によって舞われる神楽の舞の一つ。巫女神楽(みこかぐら)・八乙女舞(やおとめまい)とも』呼ぶ。『古代日本において、祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神がかりの儀式のために行われた舞がもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となった。前者(「神がかり系」)においては古来の神がかりや託宣の儀式の形式に則って回っては回り返すという動作を繰り返しながら舞うことなどでその身を清めてからその身に神を降すという、その古態を残すところもあるが、現在では優雅な神楽歌にあわせた舞の優美さを重んじた後者(「八乙女系」)がほとんどである。千早・水干・緋袴・白足袋の装いに身を包んだ巫女が太鼓や笛、銅拍子などの囃子にあわせて鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を手にした巫女が舞い踊る。また、関東地方の一部などでは巫女が仮面を嵌める場合もある。処女が巫女(八乙女)として舞を務める例が多いが、近年では神職の妻女や老女が舞う場合もある』。『巫女舞の原点は、降神巫(こうしんふ)による神がかりの儀式にあったといわれている。採物を手にした巫女がまず身を清めるための舞を舞い、続いて右回り左回りと順逆双方に交互に回りながら舞う。やがてその旋回運動は激しくなり、しだいに巫女は一種のトランス状態に突入して神がかり(憑依)、跳躍するに至って、神託を下すことになる。舞という言葉はこの旋舞の動きが語源であり、跳躍を主とする踊りもここから生まれたとされる。中国の巫覡の舞の基本を示した『八卦舞譜』には「陰陽を以て綱紀と為す」とあり、舞踏の動作は陰陽を意味する左旋と右盤を必須とすることが記されている。それは太極図が表現する天地がいまだ別れる以前の陰陽混然の姿を示しているとされる』。既に「古事記」「日本書紀」に於いて、『天岩屋戸の前で舞ったとされる天鈿女命の故事にその原型が見られ、その子孫とされた「猨女君」の女性達は代々神祇官の女官として神楽を奉納したとされている。平安時代の宮廷で舞われたとされる「猨女」・「御巫」(『貞観儀式』)はいずれも巫女舞であったと推定されている。『拾遺集』によれば』、延喜二〇(九二〇)年に『奈良の春日大社で「八乙女」と呼ばれる巫女達による神楽が舞われたと記録されている。平安時代末期の藤原明衡の著である『新猿楽記』には、巫女に必要な』四要素として『「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している。また、少し後の時代に属する『梁塵秘抄』にある「鈴はさや振る藤太巫女」にも鈴を持ちながら舞い踊る巫女が登場する』。『中世以後各地の有力な神社では巫女舞が恒例となった。当時の巫女舞は旧来の神がかり的要素に加えて依頼者の現世利益を追求するための祈願を併せて目的としていたとされている。また、地方では修験者と巫女が結びついて祈祷や鎮魂を目的とする民間習俗の色彩が濃い巫女舞も行われるようになった。現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例があるのも、このことが基であると考えられる』。『中世の巫女舞に関する多くの史料が残されている備前国(岡山県)一宮の吉備津彦神社の例では』、康永元/興国三(一三四二)年作成の「一宮社法」によれば、十二名の『巫女からなる「神子座」があり、一宮の行事以外でも村々の招きに応じて神楽を舞い、逆に村々の巫女が一宮で舞う事があった。だが』、文明三(一四七一)年に作成された『「総社家社僧中神前御祈念之事等注文」によれば、巫女にも宮神子から選抜される一神子と一般の宮神子、村方の神子に分類され、一神子のみが本社で神楽を無言で舞うことが許され(託宣などの禁止)、宮神子は祈祷のみを許され、占い・託宣・湯立は脇殿で宮神子以外の者が行うことなどが定められて、神事に携わるものと託宣などを行うものが分離されるようになった』。『ところが、江戸時代後期に勃興した国学の中には、神霊の憑依などの霊的現象を淫祠邪教として否定的に捉える学説が現れるようになり、そのような民間習俗と結びつきやすい巫女そのものに対しても否定的な動きが出始め』、『明治維新を迎え、国学的な神道観を基に神社祭祀制度の抜本的な見直しが為されたが』、明治六(一八七三)年には『神霊の憑依などによって託宣を得る行為は教部省によって全面的に禁止された。これは巫女禁断令と通称される』。『禁止措置によって神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女は全面的に廃業となったが、中には神社に留まることによって活動を続ける者もいた。後、春日大社の富田光美らが、巫女の神道における重要性を唱えて巫女舞の存続を訴えると同時に同社ゆかりの「八乙女」による舞をより洗練させて芸術性を高める事によって巫女及び巫女舞の復興に尽くしたのである。これが今日見られるような巫女舞になっていくのであるが、依然として「神がかり」の系統を受け継いだ古い形の巫女舞を残している神社も僅かながら存在している』。『その一方で、島根県松江市の佐太神社のように男性神職が女装して姫面を付けて巫女舞を踊る神社も存在している』とある。] 

 

Sec. 15

   The Guji waves his hand, and from the farther end of the huge apartment there comes a sudden burst of strange music—a sound of drums and bamboo flutes; and turning to look, I see the musicians, three men, seated upon the matting, and a young girl with them. At another sign from the Guji the girl rises. She is barefooted and robed in snowy white, a virgin priestess. But below the hem of the white robe I see the gleam of hakama of crimson silk. She advances to a little table in the middle of the apartment, upon which a queer instrument is lying, shaped somewhat like a branch with twigs bent downward, from each of which hangs a little bell. Taking this curious object in both hands, she begins a sacred dance, unlike anything I ever saw before. Her every movement is a poem, because she is very graceful; and yet her performance could scarcely be called a dance, as we understand the word; it is rather a light swift walk within a circle, during which she shakes the instrument at regular intervals, making all the little bells ring. Her face remains impassive as a beautiful mask, placid and sweet as the face of a dreaming Kwannon; and her white feet are pure of line as the feet of a marble nymph. Altogether, with her snowy raiment and white flesh and passionless face, she seems rather a beautiful living statue than a Japanese maiden. And all the while the weird flutes sob and shrill, and the muttering of the drums is like an incantation.

   What I have seen is called the Dance of the Miko, the Divineress.

 

 

        一六 

 

 それから私共は大社に屬する他の建物――寳庫、書庫、集會所――を巡覽した。集會所は二階建の堅固な構造で、三十六歌仙の繪があつた。土佐光起の筆で、數百年後の今日猶立派に保存されてゐる。こ〻で私共はまた、大社から每月發行する珍らしい雜誌を示された――神道に關する時報で、また古典に關する質疑應答の機關である。

 私共が社殿の一切の珍什を見てから、宮司は此に近い彼の私邸へ私共を招いて、他の寳物を見せた。賴朝や秀吉や家康の書簡、昔の天皇の御宸翰、大將軍の直筆のもの、かやうな貴重文所が、夥しく杉の櫃に收めてある。火事の際は、直ぐさまこの櫃を安全の地に遷すことが召使どもの第一の任務であるだらう。

 自宅でたゞ普通の日本式正服を着てゐる宮司は、一個の紳士としても、始め宮司として、その大きな白袍を着たのに劣ることなく莊嚴に見えた。が、いかなる主人公もこれほど親切で、丁寧且つ寬大なるは稀れだらう。私はまた今は宮司と同じく日本服に着更へた、若い神官達の立派な姿なのに感心した。普通人と異つて、美はしい、鼻の高い、貴族的な顏――神官よりは寧ろ軍人の如き顏であつた。一靑年は日本で滅多に見られない、堂々たる繁つや黑鬚を持つてゐた。

 別れるに臨んで、親切なる主人公は御符――杵築の主神の二つの美しい畫像――と、社殿並に寳物の歷史に關する數個の書類を私に與へた。

[やぶちゃん注:「土佐光起の筆」「三十六歌仙の繪」不審である。実はこの出雲大社が蔵していた土佐光起筆とされる「三十六歌仙図」は、何と、長い間、秘蔵されていたもので、三年前の二〇一二年になって初めて実物が公開されて、専門家にもそこで初めて存在が明らかになったものだからである。以下にその秘蔵が厳しいものであったは、「島根県立古代出雲歴史博物館」公式サイト内の『特別展 平成の大遷宮 出雲大社展 展示替え(三十六歌仙図額について)というニュース(特別展からこれは二〇一三年のものと思われる)に、『土佐光起』『の新出作品。これほどの出来の優品が秘蔵されていたのだから出雲大社は懐が深い』と述べていることからも分かる。即ち、公立の専門機関でさえ存在を知らなかったということになるのである。所蔵を出雲大社として物は『三十六歌仙図額
三十六面/土佐光起筆』、大きさは全三十六完備(但し、後で引用するように手が加えられている)で面各縦五十九・二センチメートル/横三十七・八センチメートルで、江戸時代十七世紀の成立とし、この図では『十八歌仙は向かって右側(神様からみれば左)に、右十八歌仙は左側に配して奉納され、その順番は、左右の接する中央から外側に向かって並』んでおり、『一部作品の裏面に「土佐左近衛将監光起図」の落款がある。筆跡は土佐光起の手になるものとみてよい』とほぼ断定している。『各図は、板に白色顔料で下地を作った上に濃彩で描かれ、上部の和歌は、金泥による細やかな装飾をほどこした料紙にしたためられ、板に貼り付けられて』おり、『歌仙像の均整のとれた身体の造形、丹念に描きこまれた衣裳の繊細な文様描写、優美な配色、深みのある表情を表現しえた繊細精緻な面貌描写など、画面は本格的な大和絵技法と画家のすぐれた造形感覚に支えられている』が、『残念ながら多くの図で和歌部分が意図的に切り取られており(別に仕立てられたか)、賛者の検討は難しい』とあるのである。このハーンの言う「集會所」なるものが、何処にあった如何なる施設であったかは今一つ定かでないのであるが、“
the hall of assembly”という英訳といい、出雲大社が初めて迎えた初めての西洋の異人であるにも拘わらず、彼が普通に入れて普通に見れたというのは、どう考えてみても秘蔵中の秘蔵品扱いのそれには見えないではないか!? そもそもハーンがここでそれを見たと書いているのに、今頃になって「新発見!」などと騒いでいるというのはどういうことか? ハーンのこの記載を専門家の誰一人として問題にせず、出雲大社に本図があることを照会してこなかったというのは、信じ難いことではないか!? いや! ハーンが見ても、ただの「集會所」にしか見えないような普通の場所に本図が飾ってあったのなら、何らかの機会にその存在は早くに広く知られることとなり、専門家の間にあっても周知の事実としてあったはずである。この私の不振と疑問にお答え戴ける識者を是非とも乞うものである。「土佐光起」(とさのみつおき 元和三(一六一七)年~元禄四(一六九一)年)は江戸時代の土佐派を代表する絵師で和泉国堺生まれ。以下、ウィキ土佐光起によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、寛永一一(一六三四)年十数え八歳の時、『父に従い京都に移り、承応三(一六五四年)三月十日、三十八歳で従五位下左近衛将監に叙され、この時、永禄十二年(一五六九年)土佐光元の戦死以来失われた宮廷の絵所預』(えどころあずかり)の『職に八十五年ぶりに復帰したと考えられる。この職を取り戻すのは土佐家の悲願であり、光起を「土佐家中興の祖」と呼ぶのもこれ故である。同年からの京都御所造営では如慶と共に参加し、襖絵、杉戸絵を制作した。後水尾天皇の覚えが厚く、光起は改めて自邸に絵所の称号を勅許され、「勅許画院」の印象を用いるのを許可された。のちの延宝九年(一六八一年)息子光成に宮廷絵所預の地位を譲り、五月二十九日法橋となり剃髪、法名を常昭とし、春可軒と号す。貞享二年(一六八五年)四月十二日には法眼に叙した』。『大和絵の主流だった土佐派にあきたらず、ライバルの狩野派や宋元画を学び、従来の温雅なやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、江戸時代の土佐派様式を確立した。特に南宋の院体画家李安忠の「鶉図」(国宝。現在は根津美術館蔵)を父譲りの細密描法を用いてしばしば描き、後の土佐派の絵師たちに描き継がれている。江戸中期の国学者、有職故実家である橋本経亮は著書『梅窓筆記』(享和元年(一八〇一年))で、光起の鶉の絵に猫が飛びかかったという伝承を記している。また画題の面でも、風俗画や草木図などそれまで土佐派が描かなかった題材を取り上げ、清新な画風を作り出し、土佐派の再興に成功した』とある。

「大社から每月發行する珍らしい雜誌」思うにこれは、千家尊紀の兄尊福(たかとみ)が起こした出雲大社教(いずもおおやしろきょう)の刊行物ではなかろうか。同教団は現在も出雲大社社務所が本部であり、管長職も千家家が代々世襲している。

「白袍」「はくはう(はくほう)」と音読みしておく。本邦に於いて衣冠束帯などの正式な制服に於いて着用する盤領(まるえり)の上衣を「袍」という。「うえのきぬ」とも称し、身分・位階・職掌、文官・武官、年齢などによって色や生地などの細かな定めや別がある。

「御符――杵築の主神の二つの美しい畫像――」事代主神(恵比寿様(よう))及び大国主命(大黒様(よう))の神像を描いた御札であるが、これは現行では、一枚に描いた(刷った)ものではなく、別々のもののように思われ、また、現行では少なくとも港区六本木にある「出雲大社東京分祠」公式サイトの御札・御守を見ても表立って販売をしていないように見える(但し、出雲大社では見当たらず、この東京分祠(とても小さいらしい)で手に入れた、という神像画像が個人ブログ「WoodySnow」の六本木 出雲大社東京分祠で見られるので、手には入るようである)。]

 

Sec. 16

   Then we visit the other edifices belonging to the temple: the storehouse; the library; the hall of assembly, a massive structure two stories high, where may be seen the portraits of the Thirty-Six Great Poets, painted by Tosano Mitsu Oki more than a thousand years ago, and still in an excellent state of preservation. Here we are also shown a curious magazine, published monthly by the temple—a record of Shinto news, and a medium for the discussion of questions relating to the archaic texts.

   After we have seen all the curiosities of the temple, the Guji invites us to his private residence near the temple to show us other treasures— letters of Yoritomo, of Hideyoshi, of Iyeyasu; documents in the handwriting of the ancient emperors and the great shoguns, hundreds of which precious manuscripts he keeps in a cedar chest. In case of fire the immediate removal of this chest to a place of safety would be the first duty of the servants of the household.

   Within his own house the Guji, attired in ordinary Japanese full dress only, appears no less dignified as a private gentleman than he first seemed as pontiff in his voluminous snowy robe. But no host could be more kindly or more courteous or more generous. I am also much impressed by the fine appearance of his suite of young priests, now dressed, like himself, in the national costume; by the handsome, aquiline, aristocratic faces, totally different from those of ordinary Japanese- faces suggesting the soldier rather than the priest. One young man has a superb pair of thick black moustaches, which is something rarely to be seen in Japan.

   At parting our kind host presents me with the ofuda, or sacred charms given to pilgrimsh—two pretty images of the chief deities of Kitzuki— and a number of
documents relating to the history of the temple and of its treasures.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一三)・(一四)



        一三
 

 

 次の事實をも、私は聞いた――

 每年大社は新しい火鑽を受ける。が、それは杵築で作るのでなく、熊野で作る。そこではその作り方の慣例が、神代から傳つてゐる。最初の出雲國造は、宮司となつたとき、大社の火鑽を太陽の女神の弟で、今、熊野の宮に祀つてある神の手から受けた。で、その時代から大社の火鑽は唯だ熊野【譯者註一】で作られた。

 最近まで杵築の宮司に新しい火鑽を渡す式は、卯の日祭といふ祭の日に、大庭(おほば)の【譯者註二】神社で行はれた。卯の日祭といふ古式は十一月に何處でも行はれたものであつたが、維新後は廢絕して、たゞ神々と人間の母、伊弉册の神を祀れる出雲大庭にのみ行はれた。

 每年この祭にに當つて、國造は二枚重ねの餅を献品として大庭へ携へて行く。大庭で龜太夫といふ男が出迎へる。この男が熊野から火鑽を持つてきて、大庭の神官へ渡したのだ。傳記によれば、龜太夫の役目はや〻滑稽じみたもので、神官は誰もその役目を引受けることを欲しないから、人を雇つたのである。龜太夫の任務は、國造の献品に對して、文句を插むのだ。で、この地方では今でも兎角、謂はれもなく疵をつけたがる人のことを『龜太夫のやうだ』といふ。

 龜太夫は餅を調達して、批評を始める。『今年のは昨年のより餘程小さい』と言ふ。神官が答へて『いや、それは大變御見當違ひです。實際餘程大きいのです』といふ。『色が昨年のほど白くありません。また粉が細かく碾いてないやうです』とか、種々このやうな假想的缺點に對して、神官は懇到なる說明又は陳謝をする。

 この式が了つた後、式に用ひられた榊の枝は、人々がそれを競ひ求め、呪符の功驗があるといふので、高價で賣れる。

    譯者註一。八束郡熊野村にある、國幣中
    社熊野神社を指す。
    譯者註二。熊野の隣村、八束郡大庭村。

[やぶちゃん注:「大庭の神社」「八束郡大庭村」これは現在の島根県松江市大庭町にある神魂(かもす)神社のことと思われる。ウィキ神魂神社によれば、『本殿は現存する日本最古の大社造りで国宝』で、『現在は伊弉冊大神(イザナミ)を主祭神とし、伊弉諾大神(イザナギ)を配祀するとしているが、これは中世末期ごろからのもので、それ以前の祭神は不明である。時代が下って寛文年間ごろの新嘗会祝詞には、熊野大神・大己貴命などの神名が見えるが、現在では記録上わかる範囲内で、より古いほうの説に従っている』。『社伝によれば、天穂日命がこの地に天降って創建したものと伝えられるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社は記載されておらず、文献における初見は』承元二(一二〇八)年の鎌倉将軍下文(当時は第三代将軍実朝)であり、『実際の創建は平安時代中期以降とみられている』。『当社は出雲国府に近い古代出雲の中心地であり、社伝では、天穂日命の子孫が出雲国造として』第二十五代に至るまでは『当社に奉仕したという。出雲国造家は現在は出雲大社の宮司家であるが、国造家の代替わりのときの「神火相続式」「古伝新嘗祭」は、明治初年までは当社に参向して行われていた』(下線やぶちゃん)。因みに、本神社の神紋は『二重亀甲に「有」の文字』であるとある。「亀」に「有(ゆう)」――亀太夫……ただの偶然か?……

「八束郡熊野村にある、國幣中社熊野神社」現在は八束郡八雲村熊野になっている。「み熊野ねっと」内の雅子氏文になる「全国熊野神社参詣記」の同神社のページをリンクしておく。そこを見ると、現在は毎年十月十五日に「鑚火(さんか)祭」として行われており、『出雲国造の子孫である出雲大社宮司が古式に則り』、『熊野大社に出向き』、『神聖な火をおこす「ヒキリウス」と「ヒキリキネ」を拝受する「火継ぎ」の儀式が行われる。祭は「亀太夫神事」(かめだゆうしんじ)から始まり、この儀式は、出雲大社から熊野大神に供えられる長さ1メートルの細長い伸べ餅のできばえについて亀太夫といわれる神職が色や大きさなどをやかましく言い、ようやく承知して餅を熊野大神にお供えすると、新しい「ヒキリウス」「ヒキリキネ」が授けられ』、『「すめかみを よきひにまつりしあすよりは あけのころもをけころもにせむ
」』『という神楽歌と琴板の楽に合わせ百番の舞いが奉納される』とあってハーンの語ったほぼそのままの形が今も残っていることが判る(下線やぶちゃん)。中海・宍道湖・大山圏域観光連携事業推進協議会公式サイトである観光用の「山と海と湖のシンフォニー、神々のふるさと山陰」の熊野神社」も参照されたい。

「龜太夫」私は正直言うと、「ひきり」の神事よりも、このトリック・スター(明らかにその滑稽の底には怨念を持った零落した古い神の面影があるように私には思われるのである)のルーツの方に異常に興味が惹かれる。是非とも御存じの方の御教授を得たい。] 

 

Sec. 13

   These things I learn:

   Each year the temple receives a new fire-drill; but the fire-drill is never made in Kitzuki, but in Kumano, where the traditional regulations as to the manner of making it have been preserved from the time of the gods. For the first Kokuzo of Izumo, on becoming pontiff, received the fire-drill for the great temple from the hands of the deity who was the younger brother of the Sun-Goddess, and is now enshrined at Kumano. And from his time the fire-drills for the Oho-yashiro of Kitzuki have been made only at Kumano.

   Until very recent times the ceremony of delivering the new fire-drill to the Guji of Kitzuki always took place at the great temple of Oba, on the occasion of the festival called Unohimatauri. This ancient festival, which used to be held in the eleventh month, became obsolete after the Revolution everywhere except at Oba in Izumo, where Izanami-no-Kami, the mother of gods and men, is enshrined. 

   Once a year, on this festival, the Kokuzo always went to Oba, taking with him a gift of double rice-cakes. At Oba he was met by a personage called the Kame-da-yu, who brought the fire-drill from Kumano and delivered it to the priests at Oba. According to tradition, the Kame-da-yu had to act a somewhat ludicrous role so that no Shinto priest ever cared to perform the part, and a man was hired for it. The duty of the Kame-da-yu was to find fault with the gift presented to the temple by the Kokuzo; and in this district of Japan there is still a proverbial saying about one who is prone to find fault without reason, 'He is like the Kame-da-yu.'

   The Kame-da-yu would inspect the rice-cakes and begin to criticise them. 'They are much smaller this year,' he would observe, 'than they were last year.' The priests would reply: 'Oh, you are honourably mistaken; they are in truth very much larger.' 'The colour is not so white this year as it was last year; and the rice-flour is not finely ground.' For all these imaginary faults of the mochi the priests would offer elaborate explanations or apologies.

   At the conclusion of the ceremony, the sakaki branches used in it were eagerly bid for, and sold at high prices, being believed to possess talismanic virtues.

 

 

 

        一四 

 

 國造が大庭へ行つた日か、歸つた日に、殆どいつも天候が暴れた。この旅行は出雲では最も荒天の季節(新曆の十二月)に當るのであるが、民間の信仰に於ては、この暴風は、國造の尊嚴なる人格と妙に聯關せるものであつて、國造はや〻龍宮の王に似た性質を有つてゐる譯になる。それは兎に角、この季節の定期暴風は、この國では依然『國造荒れ』と呼ばれる。それで、出雲では大嵐の際に到着したり、出立する客に向つて、『まあ、國造さまのやうだ!』と、面白く挨拶する。 

 

Sec. 14

   It nearly always happened that there was a great storm either on the day the Kokuzo went to Oba, or upon the day he returned therefrom. The journey had to be made during what is in Izumo the most stormy season (December by the new calendar). But in popular belief these storms were in some tremendous way connected with the divine personality of the Kokuzo whose attributes would thus appear to present some curious analogy with those of the Dragon-God. Be that as it may, the great periodical storms of the season are still in this province called Kokuzo-are [18]; it is still the custom in Izumo to say merrily to the guest who arrives or departs in a time of tempest, 'Why, you are like the Kokuzo!' 

 

18
   The tempest of the Kokuzo.

カテゴリ「立原道造」創始 /「ひとり林に‥‥」(草稿) 及び その決定稿「眞冬のかたみに」 並びに 別篇「ひとり林に‥‥」

ある種の神経症的に駆られる、ある僕の内なる感情に基づいて、カテゴリ「立原道造」(大正三(一九一四)年七月三十日~昭和一四(一九三九)年三月二十九日)を創始する――

僕は彼の全集を持っておらず、彼の詩の総てに目を通した訳ではない(これが永く纏まった電子化を躊躇してきた主な理由である)――

しかし、僕は確かに――
密かに彼の詩篇を愛し続けてきた――

「ただ、それだけの、ことです‥‥」――

 

追記:但し無論、僕のサイトやブログの自己拘束としての節は保持する。則ち、自慰のために既に何処かで電子化されてしまったものと同じ見慣れた退屈なものを垂れ流すことはしない。それでいてしかし、それなりに意義のあると僕の考えるテクストをお示しするつもりである‥‥さても‥‥それが如何なるものか‥‥どうぞ――その眼で――ご覧あれ‥‥

 

   *   *   *

 

 

 

    ひとり林に‥‥

 

山のみねの いただきの ぎざぎざの上

あるのは 靑く淡い色 あれは空‥‥

空のかげに 輝く日 空のおくに

ながれる雲‥‥私はおもふ 空のあちらを

 

夏の日に咲いてゐた 百合の花も ゆふすげも

薊の花も 堅い雪の底に かくれてゐる

みどりの草も いまはなく 梢の影が

茜色の こまかい線を 編んでゐる

 

ふと過ぎる‥‥あれは頰白 あれは鶸!

透いた林のあちらには 山のみねのぎざぎざが

ながめてゐる 私を 私たちを 村を――

 

すべてに 休みがある ふかい息をつきながら

耳からとほく 風と風とが ささやきかはしてゐる

――ああ この眞白い野に 蝶を飛ばせよ!‥‥

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。太字「たち」は底本では傍点「ヽ」。

 この底本の書籍は標題等には全く示されていないが、最後の「後記」によって、堀辰雄が中心となって生前刊行された自選二詩集「萱草に寄す」(処女詩集。昭和一二(一九三七)年五月クレジット(実際には印刷遅延により七月)の「風信子(ヒヤシンス)叢書第一冊」として刊行された私家版で百十一部限定)「曉(あかつき)と夕(ゆふべ)の詩」(同昭和十二年十二月に「風信子叢書第二冊」として百六十五部限定刊行)に並べ、生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)を添え、更に第二部(「Ⅱ」)に初期詩篇二十七篇、第三部(「Ⅲ」)に未発表の未定稿詩篇五篇、「補遺」二篇を載せたものである。

 本詩篇はそのたった二篇の「補遺」の中の一篇である。

 なお、この底本で用いられているローマ数字は道造も多様したものであり、道造の打ったナンバーと誤解され易く、私は感心しない。また、それとは別に、本書で示された「優しき歌」が死後の堀らによる推定編集版詩集であることを理解せずに、「優しき歌」及びその詩を刊行された定稿詩篇と思い込んで読んでいる読者も少なくないものと私には思われる。例えば、教科書にも採られ、人口に膾炙し、私も教師時代に好んで朗読した「草に寢て‥‥」〔リンク先は私のブログの新字正仮名テクスト。本書の表記は以上のように二点リーダで四つ。後日、別に正確に電子化する。〕は、この死後編集になる新詩集の第二部に載ることで広く知られるようになったものであって、生前の刊行詩集には載らない詩篇であるという事実などは、意外の感を与えるかも知れない。

 さて本初回で電子化した詩篇「ひとり林に‥‥」は、全く同題のものが、本底本の第二部の中に以下のようにある。

   *

 

    ひとり林に‥‥

 

だれも 見てゐないのに

咲いてゐる 花と花

だれも きいてゐないのに

啼いてゐる 鳥と鳥

 

通りおくれた雲が 梢の

空たかく ながされて行く

靑い靑いあそこには 風が

さやさや すぎるのだらう

 

草の葉には 草の葉のかげ

うごかないそれの ふかみには

てんたうむしが ねむつてゐる

 

うたふやうな沈默に ひたり

私の胸は 溢れる泉! かたく

脈打つひびきが時を すすめる

 

   *

しかしこれは、どう見ても本詩を草稿とするものとは思われず、根本から全く別なシチュエーションであって、全く別な詩篇詩想であるが判る。しかして、底本の堀辰雄の「後記」を見ると、本詩篇は『第二部のなかの「眞冬のかたみに」の原形であると見なされる』と記されてある(既に述べた通り、「第二部」とは堀らが選んだ初期詩篇集である)。

 さればこそ「眞冬のかたみに」を引こう。

   *

 

    眞冬のかたみに
 
      
Heinrich Vogeler gewidmet

 

追ひもせずに 追はれもせずに 枯木のかげに

立つて 見つめてゐる まつ白い雪の

おもてに ながされた 私の影を――

(かなしく 靑い形は 見えて來る)

 

私はきいてゐる さう! たしかに

私は きいてゐる その影の うたつてゐるのを……

それは涙ぐんだ鼻聲に かへらない

昔の過ぎた夏花のしらべを うたふ

 

⦅あれは頰白 あれは鶸 あれは 樅の樹 あれは

私‥‥私は鶸 私は 樅の樹‥‥⦆ こたへもなしに

私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに

 

影は きいてゐる 私の心に うたふのを

ひとすぢの 古い小川のさやぎのやうに

溢れる泪の うたふのを‥‥雪のおもてに――

 

   *

Heinrich Vogeler gewidmet」「Heinrich Vogeler」はドイツブレーメン出身の画家・建築家であったヨハン・ハインリヒ・フォーゲラー(Johann Heinrich Vogeler 一八七二年~一九四二年)。港区南青山の画廊有限会社ワタヌキの公式ブログ「ときの忘れもの」のハインリッヒ・フォーゲラーに事蹟や絵が載る。「gewidmet」(ゲヴィッドメット)は“widmen”(ヴィトメン)の過去分詞形で「~に捧げる」(厳密には「捧げたる」)の意。ドイツ語ウィキ(これはウィキペデイアの中でも良質な記載として評価されており、彩色画も多く見られる)もリンクしておく。

 確かに堀の言うように詩想の類似性は強く、草稿の一つと考えて然るべきものではある。あるが、私はこれはこれで、全く独立した詩篇として味わうことが十全に可能なものと思う。というより、堀自身、そう思ったからこそ特に選んでこれを本底本の「補遺」に載せたものと思うのである。]

2015/09/14

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ

M670

670

 

 神戸では窓から数名の労働者が杙(くい)を打ち込んでいるのを見た。その方法は、この日記のはじめの方で、すでに述べた。我々は今、彼等の歌の意味を知った。図670は足代の上で、重い長い槌を持ち上げる人々を示している。下にいる二人は、打ち込まるべき伐を支え、その方向をきめる。その一人が短い歌を歌うと、足代の上にいる者達は僅に身体を振り勤し、槌をすこし持ち上げることによって、一種の振れるような拍手を取り、次に合唄(コーラス)に加り、それが終ると三、四回伐を叩き、次で下にいる男がまた歌を始める。歌は「何故こんなに固いのか」「もうすこし打てば伐が入る」「もうすぐだ」というような、質問、あるいは元気をつけるような文句で出来ている。この時数回続けて、素速く叩き下す。上にいる男達は屢屢、独唱家の変な言葉に哄笑し、一同愉快そうに、ニコニコしながら働く。彼等は一日に、かなりな量の仕事を仕上げるらしいが、如何にもノロノロと、考え深そうに働くのを見ては、失笑を禁じ得ない。

[やぶちゃん注:「日記のはじめの方で、すでに述べた」第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 1 モース来日早々「よいとまけ」の唄の洗礼を受くを参照。その後もこの「よいとまけ」はたびたび記しており、ホントにモースはヨイトマケの作業とその唄が大好きなんである。]
 
 

M671

671

 

 神戸で三日滞在した後、我々は大阪へ行き、そこから紀伊の国の和歌浦へ向った。私は田原氏と先発し、あらゆる町で陶器を求めて骨董店をあさった。大阪平野を横断して、向うの山まで行く路は、単調ではあったが、いろいろ興味があった。全地域にわたって、絵画的な四、五の群をなす、大きな藁の稲叢(いなむら)がある。これは高さの違う高い棒の周囲に集められ、各々その中心をなす棒の先端である所の、小さな尖塔を持っている。これ等の稲叢の多くには、瓢簞(ひょうたん)や南瓜(かぼちゃ)がからまり、又農夫達が休み場所にする小さな小舎をかけたのもある。図671はそれ等の外見である。近い距離をおいて、この土地の濯漑に使用する単式或は複式のはねつるべがある。重い方の端には円盤に似た形で、中央に穴のある荒削りの石があり、この穴の中に棒の末端がさし込んである。これ等が何千となく広い平原に散在し、その多くは使用されつつあった。灌漑が行われつつある範囲の広汎さは、恐らく支那を除いては他にあるまい。私はやがて支那へ行き度いと思っている。そこでは、はねつるべは、二千年も前からある。

[やぶちゃん注:「田原氏」田原栄。既注であるが、岩国を出て以降のモースの通訳で、かつてのモースの教え子である。後に東京専門学校(現早稲田大学)の理科教師となった。

「大きな藁の稲叢」これは「稲積(にお)」である。歴史的仮名遣では「にを」で民俗学的には古くは「にほ」と呼んだらしい。平凡社「世界大百科事典」によれば、刈った稲を円錐形に積み上げたものを称し、「にお」は新嘗(にひなめ)の「にひ」「にふ」の他に「贄(にえ)」の語彙とも関連すると考えられ、所謂、「神霊に捧げる供物」という意味であるという。刈ったばかりの稲穂のついたままの束を積み上げた場所は、そのまま「田の神」を祀る祭場と考えられていたという説もある(私は古えの稲の保存システムとしてのプラグマティクな効用と並行して、この説を強く支持するものである)。稲積の名称や形状は各地で少しずつ異なっており、この訳に出る「いなむら」やこの「にお」の他、「にご」「みご」「にゅう」「にょー」「つぶら」「ぐろ」「すずみ」「すすき」「ほづみ」「いなこづみ」などと呼ばれ、頂には「わらとべ」「とつわら」「とび」などと呼称する藁製の笠形の飾りや屋根を載せるのが特徴である、とある。

「私はやがて支那へ行き度いと思っている」この最後の来日の最後、明治一六(一八八三)年二月十四日離日してから、モースは中国及び東南アジアを経てヨーロッパへ向かい、マルセイユ(四月三十日着)からパリへ、そこからイギリスへ向かい、六月五日になってやっとアメリカに帰国している(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の年譜に拠る)。]

M672

672

[やぶちゃん注:この下の図にはそれぞれの部分を説明するキャプションがあるが、「達筆」のモース(晩年の秘書役だった幼馴染みの女性はよくぞ読み取ったと賞賛されるほどの悪筆であったことは有名)なれば、これ、なかなか手強い。それでも水車の上にあるのは文字通り“Water wheel”、その下部が浸かっているのは“River”、その右手の土手も文字通り“Bank of river”で、水車から土手上に渡されてある樋は“Trough”(トラフ。家畜の飼料・水等を入れる細長い「かいばおけ」「槽(ふね)或いは屋根の雨樋の意がある)と書いてあるように私には読めるが、如何?]

 

 川の流れを動力とする、非常に巧妙な水車(図672)があった。これは支部人が考えたもので、東京及びその以北には稀だが、南方諸国ではよく見受ける。車輪は径八フィート、あるいはそれ以上で、その外面の横側に、大きな竹の管が斜に取りつけてある。水流によって車が回転させられると、竹の管に水が充ち、それ等の管が上へ来ると水は流れ出して、車輪の中心に並行して置かれる深い箱型の水槽へ落ち込む。水はこの水槽から又別の水槽へ流れ込み、そこから渾漑溝へ行く。各々の竹が順番に水で充ち、車軸の上方へ来てはその水を水槽へこぼす、規則正しいやり方を見ていると、中々面白い。時に河岸に添うて、二、三個の水車が相接してあることもあり、一日中には多量の水が水田を灌漑する為に揚げられる。

[やぶちゃん注:「八フィート」約二メートル四四センチメートル。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一二)

 

        一二

 

 宮司はそれから、私共と相挾んで置かれた、白絹を蔽へる長い低い檯に載せてある、奇異な遺物に私の注意を促がした。數百年前改築の際、此殿の礎を造るに當つて發見された金属製の鏡、縞瑪瑙と碧玉の曲玉、硬玉製の支那の笛、天皇や將軍から献納の名剱數口、壯麗な古代製の兜、鋭い刄がついて、肉叉形をした、双股の箭の根など。

 これ等の遺物を拜觀し、その縁起を少々私が承つてから、宮司は立つて『これから尊い火を燃やす古い火鑽を御目にかけませう』といつた。

 石段を下り、また拜殿の前を通つて、境內の一方にある殆ど拜殿と同じ大いさの廣い館に入つた。私共が案内された室の一端に、立派な桃花心木製の長卓子を置き、その周圍に桃花心木裂の椅子を並べて、客の接待に備へてあるのを見て、私は愉快なる驚きを受えた。私も通辯人も、それそれ椅子に就くやう、指示された。して、宮司と神官達もまた卓子に向つて椅子に就いた。それから、侍者が三尺ほどの長さの綺麗な靑銅の臺を私の前へ据ゑた。雪白の布で入念に卷いて、何だか長方形のものが、その上に安置してある。宮司が卷いた布を取り除けると、東洋での最も原始的形狀の火錐を私は見たのだ。單に堅い白い厚板で、長さ約二尺五寸、その表の緣に沿つて錐で開けた孔が列んでゐて、孔の上部は板の側へ裂けてゐる。孔へ嵌めて置いて急に兩手の掌で揉むと火を起す木片は、もつと輕い白色の木で造つたもので、長さ二尺ばかり、普通の鉛筆位の太さである。

[やぶちゃん字注:最後の「普通の鉛筆位の太さである。」の末尾は底本では「太さでるあ。」である。誤植と断じて訂した。]

    註。伊勢神宮に用ひらるゝ火鑽は、
    構造が一層複雜で、たしかに杵築
    のが示すよりは、遙かに一層進步
    した機械的知識を現してゐる。

 傳說はこの珍しい簡單な器具の發明を神々に歸し、近代科學は人類の幼稺時代に歸してゐる。私がまだこの器具を調査してゐる間に、一人の神官が長さ約三尺、幅一尺八寸、兩側の高さ四寸、中央はや〻高くて、龜の甲の如く寫形をなせる、輕い、大きな木箱を卓へ載せた。これは錐と同一の扁柏の材で造られて、二本の細長い棒が傍に置いてある。私は始めは別の火錐かと思つた。しかし誰人もそれが、實際何であるかを想像し得ないだらう。それは琴板と呼ばる〻最も原始的樂器の一つだ。小さな棒は、それを彈ずるために用ひられる。宮司が一寸合圖をすると、二名の神官は床の上に笛を置き、その兩側に坐つて、小さな棒を取上げて交互に悠々と蓋を打ち始めた。同時に頗る奇異で單調な音を唱へる。甲はたゞあんあんといふ音を唱へ、乙はおんおんと、これに應ずる。琴板は棒がその上に落ちる毎に鋭く、單調で、空虛な音を發して、あんあんおんおんの聲に合する。

    註。この次に杵築へ行つた時、私
    は琴板が一種原始的な調子合せ機
    械としてのみ使用さるゝことを知
    つた。最初の訪問の節、私が聞か
    なかつた眞正の誦歌に對して、そ
    れは正しい調子を與へる。眞正の
    誦歌、卽ち古い神道の讃歌は、琴
    板を彈じて始められる。

[やぶちゃん注:「肉叉形をした、双股の箭の根など」「肉叉」は「にくさ」と読み、以下の原文を見ればわかる通り、フォークのこと。江戸後期から明治期にかけての語である。「双股の箭の根」は飛鳥や獣の足を射切るのに用いる先が二股に分かれていて内側に刃を持つ雁股(かりまた)の鏃やじり)のことか。

「桃花心木」「たうくわしんぼく(とうかしんぼく)」と音読みするが、これも原文で一目瞭然、高級家具用木材として輸入される、ムクロジ目センダン科マホガニー属 Swietenia のことである。中南米に分布する。ウィキの「マホガニー」によれば、現在では過剰伐採により減少傾向にあり、植林によって増やしているが、『近年、マフィアやギャングが私有地や国立公園に自生する樹木を違法に伐採し資金源にしていることから、一部ではワシントン条約の附属書IIに登録され、板材や原木を輸出入するには盗難品ではないという生産者の証明書類が必要である』とある。同属は現行の中国語でも、こう書く。

「三尺」約九十一センチメートル。

「火錐」「ひきり」と訓じているものと思われる。

「二尺五寸」七十五・七六センチメートル。

「二尺」六十・六センチメートル。

「幼稺」「えうち(ようち)」と読み、「幼稚」に同じい。「稺」も「幼(おさな)い・稚(いとけな)い」の意。

「長さ約三尺、幅一尺八寸、兩側の高さ四寸」長さ約九十一センチメートル、幅五十四・五センチメートル、両側高十二センチメートル。」

「扁柏」檜(ひのき)のこと。球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属 Chamaecyparis obtusa は中国語では「日本扁柏」と称する。因みに私は球果(きゅうか)植物門 Pinophyta(シノニム:Coniferophyta)というタクソンを今回始めて見たが、これは所謂、旧来の裸子植物門の中で、その種子の形状が傘状構造に包まれている類を指し、マツ門とも称し、スギ・ヒノキ・マツ類などの針葉樹植物はこのグループに含まれるという。即ち、現行では裸子植物門をソテツ門・イチョウ門・球果植物門の三群に分けるのであった。苦手な植物系とは言え、実に私の智は時代遅れなのであった。

「琴板」「こといた」と訓ずる。ハーンは楽器と読んでいるが、本来は恐らく神降ろしのための神器で、辞書では琴占(ことうら)に用いる長さ約七十五センチメートル、幅約三十センチメートル、厚さ約三センチメートル余りの檜(ひのき)の板とあり、笏(しゃく)で叩いて神降ろしを行うとある。琴占とは古代の占いの一つで、琴(この場合は実際の楽器としての古代の琴)を弾いて神霊を迎え、神が憑依した人の口から出る託宣によって吉凶を占うことをいう。辞書では後世になると実際の楽器の琴の代わりにこの琴板を笏で叩いて占うようになったとある。またここで「笏」とあるが、本来の笏は束帯の着用の際に右手に持つ細長い板を指すが、ウィキの「笏」を見ると、『饗宴の際に音楽に合わせて左に自己の笏、右に他者の笏を持って右の笏で左の笏を打ち付ける笏拍子(しゃくひょうし)という即席の打楽器として使われることがあったが、後世にはより分厚く作られた拍子専用の笏が作られることもあった』とあり、それのみ(というか笏一対)で打楽器としても用いられていたことが判る。不思議なことに、よほど神聖なものか、この叩くだけの琴板の画像をネット上に見ることは出来ない。見れないと見たくなる。どなたか画像をお示し戴けると助かる。

「眞正の誦歌」「古い神道の讃歌」神楽歌のこと。]

 

Sec. 12

   The Guji then calls my attention to the quaint relics lying upon the long low bench between us, which is covered with white silk: a metal mirror, found in preparing the foundation of the temple when rebuilt many hundred years ago; magatama jewels of onyx and jasper; a Chinese flute made of jade; a few superb swords, the gifts of shoguns and emperors; helmets of splendid antique workmanship; and a bundle of enormous arrows with double-pointed heads of brass, fork-shaped and keenly edged.

   After I have looked at these relics and learned something of their history, the Guji rises and says to me, 'Now we will show you the ancient fire-drill of Kitzuki, with which the sacred fire is kindled.'

   Descending the steps, we pass again before the Haiden, and enter a spacious edifice on one side of the court, of nearly equal size with the Hall of Prayer. Here I am agreeably surprised to find a long handsome mahogany table at one end of the main apartment into which we are ushered, and mahogany chairs placed all about it for the reception of guests. I am motioned to one chair, my interpreter to another; and the Guji and his priests take their seats also at the table. Then an attendant sets before me a handsome bronze stand about three feet long, on which rests an oblong something carefully wrapped in snow-white cloths. The Guji removes the wrappings; and I behold the most primitive form of fire-drill known to exist in the Orient. [16] It is simply a very thick piece of solid white plank, about two and a half feet long, with a line of holes drilled along its upper edge, so that the upper part of each hole breaks through the sides of the plank. The sticks which produce the fire, when fixed in the holes and rapidly rubbed between the palms of the hands, are made of a lighter kind of white wood; they are about two feet long, and as thick as a common lead pencil.

   While I am yet examining this curious simple utensil, the invention of which tradition ascribes to the gods, and modern science to the earliest childhood of the human race, a priest places upon the table a light, large wooden box, about three feet long, eighteen inches wide, and four inches high at the sides, but higher in the middle, as the top is arched like the shell of a tortoise. This object is made of the same hinoki wood as the drill; and two long slender sticks are laid beside it. I at first suppose it to be another fire-drill. But no human being could guess what it really is. It is called the koto-ita, and is one of the most primitive of musical instruments; the little sticks are used to strike it. At a sign from the Guji two priests place the box upon the floor, seat themselves on either side of it, and taking up the little sticks begin to strike the lid with them, alternately and slowly, at the same time uttering a most singular and monotonous chant. One intones only the sounds, 'Ang! ang!' and the other responds, 'Ong! ong!' The koto-ita gives out a sharp, dead, hollow sound as the sticks fall upon it in time to each utterance of 'Ang! ang!' 'Ong! ong!' [17] 

 

16
   The fire-drill used at the Shinto temples of Ise is far more complicated in construction, and certainly represents a much more advanced stage of mechanical
knowledge than the Kitzuki fire-drill indicates.

17
   During a subsequent visit to Kitzuki I learned that the koto-ita is used only as a sort of primitive 'tuning' instrument: it gives the right tone for the true chant which I did not hear during my first visit. The true chant, an ancient Shinto hymn, is always preceded by the performance above described.

2015/09/13

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一一)

 

        一一

 

 神官佐々氏はまた次の話をした――

 大家康の孫で、二百五十年間出雲を治めた、偉大なる松平家の始祖直政が、この國へ來たとき、杵築大社へ參詣して、殿內の宮を開いて、神體を見せるやうに命じた。これは不敬な要求だから、國造は兩人とも一致して反對した。が、彼等の諫止と辯解にも關らず、彼は憤然要求を主張したので、神官は止むなく宮を開いた。すると、直政は宮の中に九つ孔の開いた鮑貝――その背後のものを、すべて隱すほどに大きな――を發見した。もつと近寄つて視ると、不意に鮑貝は長さ十尋以上もある大蛇と變じた。して、それは宮の扉前で、黑く堆くとぐろを卷いて、荒れ狂ふ火のやうな叱音を立てて、非常に恐ろしかつたので、直政と從者達は逃げて行つた――他に何をも見ることは出來なかつた。爾來直政は大  社を畏敬した。

    註一。往古から國造に理論上二人と
    なつてゐる。尤も職に就くのは一人
    だけだ。同族の兩分家が、その職に
    對する傳來の權利を主張して、千家
    と北島の二家が競爭してゐる。政府
    はいつも前者に好意を有つた決定を
    してゐる。北鳥家の家長は普通次位
    の國造に任じてある。
    註二。國造といふ語は、正確に云へ
    ば、宗敎的でなく、寧ろ世間的の稱
    號である。國造はいつも杵築に對す
    る天皇の代理――天皇の代りに神を
    祀る任務の人である。が、かやうな
    代理の宗敎的稱號を、現在の宮司が
    矢張り帶びてゐる。『みつえしろ』
    が、それだ。

[やぶちゃん字注:「が、かやうな代理の宗敎的稱號を、現在の宮司が矢張り帶びてゐる。『みつえしろ』が、それだ」の部分、底本では「帶びてゐる」の後には句点がなく、そのまま『『みつえしろ』」が、それだ』に続いてしまっている。原文からも脱字と断じ、句点を挿入した。平井呈一氏の訳でも無論、句点がある。]

[やぶちゃん注:「松平家の始祖直政」既出既注。「二百五十年間」とあるが、彼が信濃国松本藩より転封されて出雲松江藩主となったのは寛永一五(一六三八)年、最後の第十代藩主松平定安は明治二(一八六九)年六月十七日に版籍奉還で知藩事となったが、二年後の明治四年七月十四日に廃藩置県で免官されているから、仮にそこまで引っ張ってたとししても二百三十一年にしかならない。実は寛永十五年から二百五十年後は西暦一八八八年で明治二十一年(数えなら明治二十二年)となり、ハーンはまさに、ほぼこの訪問時(明治二三(一八九〇)年九月十四日)までを計算に入れてしまっているということが、計算してみて初めて判るのである。こんな下らんことは私ぐらいしか注しないだろう。たかが/されどの私の注のマニアックな妙味と思われたい。

「九つ孔の開いた鮑貝――その背後のものを、すべて隱すほどに大きな――」やや不審である。腹足綱直腹足亜綱原始腹足目古腹足上目ミミガイ上科ミミガイ科アワビ属 Haliotis の殻上面には数個の貫通した孔があり。これは外套腔に吸い込んだ水や排泄物及び卵子や精子を放出するためのものであるが、殻の成長に従い、順次、形成された穴は古いものから塞がっていき、常時、一定の範囲の数の孔が貫通開口している。アワビの場合、この孔の数は四つから五つと決まっている(形態が酷似し、大きさの小さいミミガイ科トコブシ属フクトコブシ亜種トコブシ Sulculus diversicolor supertexta においてはこれが多く、六つから八つ必ず開いている。これは稚貝のアワビとトコブシの両種を識別する最も簡便にして確実な方法であっていい加減なものではない。因みに、アワビではこの孔の開孔部外周が有意に盛り上がって捲(めく)れ上がった形状を成しており、それぞれの開孔直径も大きいのに対して、トコブシでは穴の周囲は捲れずすっきりとしており、孔の大きさも比較上、有意に小さい)。このシークエンス自体が作り物であるから、どうでもいい話ではあろうが、この巨大なアワビの殻が大きさは誇張があるとして、実際にあったとするなら、この九つの孔は、人為的加工によって穿たれたものである。実際、内面の虹色の真珠光沢が好まれ、洋の東西を問わず、アワビの殻の加工土産品を数々見て来たが、こうした作為的に古い孔を穿ったことがはっきりと分かるそれを私も持っているからである。なお、巨大アワビの実例としては、アメリカ・カリフォルニア州沿岸に棲息するアワビ属アカネアワビHaliotis rufescens(英名:Red Abalone。既に本邦では輸入アワビの代表格となっている)の、一九九三年九月に採取された三十一センチメートル三十四ミリメートルという個体が現在までの世界最大記録とされているようである(桜真太郎氏のブログ「世界の謎と不思議」の「世界最大のあわび」に画像がある)。因みに、本邦には巨大なお化け鮑の伝説が数多あり、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 漢産無脊椎動物」の「アワビ」の「巨大アワビ」の項によれば、「常陸国風土記」(七一三年頃成立)に多珂郡(たかのこおり:概ね現在の茨城県多賀郡に相当する地域)の海には八尺(二メートル四十二センチメートル)ばかりの鮑がいると書かれおり、国学者で強力な考証家として知られた小山田与清(おやまだともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)の「松屋筆記」には、寛文五(一六六五)年のこと、安房国平群(へぐり)郡亀崎(現在の千葉県南房総市富浦町(とみうらまち))の海に潜った海士(あま)らが、海底に七、八間(十二・八~十四・五メートル)四方の鮑がいた、と記している。また「日本書紀」には第十九代允恭天皇(西暦四百年代前半とする)が淡路島に狩りに行幸された際、獲物が獲れず、卜占したところが、島の神が明石の海底に潜む真珠を欲して祟りをなしていることが判明、男狭械(おさき)という名の海士に命じて潜らせたところ、男狭械は六十尋(百九・七二八メートル)もの海底から大きな鮑を抱きかかえて浮かんできたものの、そこで息絶えた。その鮑を割いてみると、中から桃の実ほどの大きさの真珠が出てきたので、島の神に祀った、と記す。なお、ハーンが原注「14」で示している“Haliotis tuberculata”は残念ながら本邦産のアワビ類ではなく、カナリア諸島・地中海東アフリカに分布するアワビ属セイヨウトコブシの学名で、画像検索をかけると、流石に「トコブシ」を名にし負うているため、どうもこれなら九孔あってもおかしくなく、欧米の読者には腑に落ちたに違いない。

「十尋」十八・二八八メートル。但し、原文は“fifty feet in length”で「十尋」は原注のものを本文に転用したもの。五十フィートなら十五・二四メートルである。

「叱音」「しつおん」と音読みしておく。「シュウ!」「シャーッ!」といったおどろおどろしい蛇の喉笛の音であろう。

「千家と北島の二家」ウィキの「国造家の分裂の「国造家の分裂」の項によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は、南北朝時代に入るまで一子相伝であったが、康永年間(一三四〇年頃)以降、千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗るようになった『南北朝時代の第五十四代国造・出雲孝時(いずものりとき)は、子の六郎貞孝を寵愛し、国造を継がせようと考えていた。しかし、孝時の母である覚日尼(塩冶頼泰の娘)から「三郎清孝は病弱であるが兄であるので、後に貞孝に継がせるとしても、まず一時的にでも兄である清孝に継がせるべきだ」と説得を受け、清孝を後継者とした。その後、清孝が第五十五代国造となったが、やはり病弱であったため職務を全うできず、弟の五郎孝宗を代官として職務のほとんどを任せ、そのまま康永二年/興国三年(一三四三年)、国造職を孝宗に譲ることとした。これに対して貞孝は、自分に国造職を譲るのが本来であると猛烈に反発し、神事を中止し、軍勢を集めて社殿に立て篭もるなど、紛争状態となった』。『事態を重く見た守護代の吉田厳覚は、清孝・孝宗側と貞孝側の両者に働きかけ、年間の神事や所領、役職などを等分するという和与状を結ばせた。こうして康永三年/興国四(一三四四)年六月五日)以降、孝宗は千家氏、貞孝は北島氏と称して国造家が並立し、十九世紀後半の幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担していた』。『明治時代には、千家氏・北島氏ともに男爵として遇されたが、出雲大社自体は神社本庁の傘下(社格は官幣大社)となり、千家氏は出雲大社教(いずもおおやしろきょう)、北島氏は出雲教と、それぞれ宗教法人を主宰して分かれ、出雲大社の宮司は千家氏が担った。戦後、神社が国家管理を離れた後は、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となり、宗教法人出雲大社教の宗祠として、宮司は千家氏が担』って現在に至っている。

「みつえしろ」出雲国造の宗教上の使命及び信者の向うべき正しい道を導き指すところの神の御杖をシンボライズする「御杖代」、神の御杖の代わり、という意味であろう。出雲大社公式サイト内の、千家尊紀の兄で先代である千家尊福が起こした「出雲大社教」(第八章 杵築――日本最古の社殿 (プロローグ)の「千家尊紀」の私の注を参照)のページの「祭神の由来と祭祀」の条に、『大国主大神は、私たちの遠い祖先たちと喜びも悲しみも共にされて初めて国土を開拓され、農耕など諸産業を勧めて人々の暮らしの基礎を築いてくださり、さらに医薬・禁厭の法などを御教示になられて人々の病苦を救われるなど慈愛の御心を寄せられました』。『やがて、この国土を皇孫命(すめみまのみこと=御皇室の御祖先神)に捧げられて、「和譲」の道を御教示されて天日隅宮(出雲大社)に鎮られ、目には見えない世界を治められる幽冥主宰大神(かくりよしろしめすおおかみ)として、永遠に人々の生前死後を貫いて私どもをお護り下さるようになりました』。『ここに、天穂日命は皇祖の勅命により大国主大神の祭主となって、大神の御心を奉戴し、天穂日命の子孫は歴年、出雲国造(いずもこくそう)として代々その使命を享け嗣ぎ、真に大神の御神徳の現身なる具現者、すなわち御杖代(みつえしろ)として奉仕して世の人々を導いてきました』と解説する(下線やぶちゃん)。] 

 

Sec.11

The priest Sasa also tells me this: When Naomasu, grandson of the great Iyeyasu, and first daimyo of that mighty Matsudaira family who ruled Izumo for two hundred and fifty years, came to this province, he paid a visit to the Temple of Kitzuki, and demanded that the miya of the shrine within the shrine should be opened that he might look upon the sacred objects—upon the shintai or body of the deity. And this being an impious desire, both of the Kokuzo [13] unitedly protested against it. But despite their remonstrances and their pleadings, he persisted angrily in his demand, so that the priests found themselves compelled to open the shrine. And the miya being opened, Naomasu saw within it a great awabi [14] of nine holes—so large that it concealed everything behind it. And when he drew still nearer to look, suddenly the awabi changed itself into a huge serpent more than fifty feet in length; [15]—and it massed its black coils before the opening of the shrine, and hissed like the sound of raging fire, and looked so terrible, that Naomasu and those with him fled away -having been able to see naught else. And ever thereafter Naomasu feared and reverenced the god.

 

13
From a remote period there have been two Kokuzo in theory, although but one incumbent. Two branches of the same family claim ancestral right to the office,—the rival houses of Senke and Kitajima. The government has decided always in favour of the former; but the head of the Kitajima family has usually been appointed Vice-Kokuzo. A Kitajima to-day holds the lesser office. The term Kokuzo is not, correctly speaking, a spiritual, but rather a temporal title. The Kokuzo has always been the emperor's deputy to Kitzuki,—the person appointed to worship the deity in the emperor's stead; but the real spiritual title of such a deputy is that still borne by the present Guji,—'Mitsuye-Shiro.'

14
Haliotis tuberculata, or 'sea-ear.' The curious shell is pierced with a row of holes, which vary in number with the age and size of the animal it shields.

15
Literally, 'ten hiro,' or Japanese fathoms.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一〇)

 

        一〇 

 

 その他幾多の珍らしい事柄を、宮司と佐々氏は、それから私に話した。神苑や、栅や、森や、澤山の小祠と其祭神の尊稱や、殿內の九本の大きな柱の名を敎へた。中央の柱は眞中の心柱といふことであつた。すべて境內のものは、鳥居や橋に至るまで、尊號を有する。

 すべての神社と同じく、大社の社殿は東向きであるが、殿內の大國主神の宮は、西向きであることを、佐々氏が私に注意した。同じ殿內にある、東向きの他の二宮には、大國主神第十七代の裔なる最初の出雲の國造と、賢明な國主で、有名の力士なる野見宿禰の父が祀つてある。垂仁天皇の御代に、當麻の蹴速といふ者が、誰も力に於て彼に匹敵するものはないと豪語した。野見宿禰は天皇の命今により蹴速と角力して、强く投げて倒したので、蹴速は絕命した。これが日本に於ける角力の濫觴であつた。で、力士は今猶力と技倆を野見宿禰に向つて祈る。

 他にも多くの宮があつて、悉く名を列擧すれば、神道の慣習や傳說に不案内な讀者に倦怠を與へざるを得ない。が、大國主神の傳說に現る〻殆どすべての神は、こ〻に住み玉ふものと信ぜられてゐる。こ〻にそれらの宮がある。卽ち、太陽の女神の髮に着けた寶玉から不思議に生まれて、神多理毘賣の命と呼ばれた美しい神――それから、幽界の大神の娘で、大國主神を愛して、その妻となるために、黃泉比良坂まで追ひかけて出てきた女――また杵築に於ける神の宴會のために、火鑽と赤い粘土の盤を始めて造つた、水戶の神の孫、櫛八玉の神――その他幾多の神々。

[やぶちゃん注:「中央の柱は眞中の心柱といふ」正確には「心御柱(しんのみはしら)」と呼ぶのが正しい。井上筑前氏の個人サイト「邪馬台国大研究」の「古代出雲大社建造の謎」に千家尊紀氏蔵の「金輪廻造営差書」の写真と、分かりやすく図像化した「現在の出雲大社の本殿平面図」が載る。近年の発掘調査や考古学上の復元によって、古い心御柱の跡の発見、最初期の驚くべき高さを持つ原形の神殿の推定復元などが盛んに行われているが、とりあえずその中でもビジュアル的にも非常に分かり易いページでもあるので是非ご覧あれ。同サイト内には「再び出土!出雲大社境内遺跡(巨大心御柱出土)」もある。必見!

「すべての神社と同じく、大社の社殿は東向きである」多くの神社が東向き(本殿の正面位置の方向を言っているので注意)であることは事実のようであるが、南向きのものが多くあり(寧ろ、現行はその方が多いという記事が散見。北向きは稀ともいう)、ハーンの言うような絶対的なものでは決してない。管見した神道風の一説によれば、神武東征の際、生駒山付近で敵が太陽を背に戦って来たために天皇方が一度敗れたので、次は迂回して太陽を背に東から攻めた、という言い伝えによる、なんどというまことしやかな濫觴を記すが、信じ難い。寧ろ、神社に東向きが多いとすれば、それは単に神仏習合によるものであって、正面が東を向くのであるから参拝者は当然、西、西方浄土を拝むように設えられたに過ぎないのではないかと私は思っている。「殿内の大國主神の宮は、西向きであることを、佐々氏が私に注意した」のはだからこそではないか? おぞましき仏教の影響を受けた当時の社殿の向きはくやしくも西方浄土を拝むという仏教徒の集合を残していはするが、それ以前の古形の大国主神はそれに背を向けて参拝するようになっている、これこそが本邦の固有の信仰の古形態を保存している証左だと佐々氏は言いたいのではなかろうか?

「大國主神第十七代の裔なる最初の出雲の國造」ウィキの「出雲国造」によれば、第十七代は出雲宮向(みやむき)と称し、允恭天皇元年(四一二年)に始めて国造となり「出雲」の姓を最初に賜った人物とされる(一説によれば允恭天皇元年ではなく反正天皇四年とも)が、孰れにしても記紀には見えない、とある。最初の出雲姓の国造の祖とするのは千家家家伝でも、かくするという。なお原文でお分かりの通り、ハーンは「國造」を「くにのみやつこ」ではなく「こくぞう」と音読みしている(古えは正しくは「こくそう」と濁らなかったと思われる)。

「賢明な國主で、有名の力士なる野見宿禰の父」ウィキの「出雲国造」その他によれば、天照大神第二子である天穂日(あめのほひ)の十三世の子孫で第十二代出雲国造とされる氏祖命(うぢのおやのみこと 鵜濡渟/宇迦都久怒 孰れも「うかつくぬ」と読む)のことである。「先代旧事本紀」(国造本紀)よれば、この宇迦都久怒が最初の出雲国造とされているという。「野見宿禰」は「のみのすくね」と読み、彼の子で土師(はじ)氏の祖とされる出雲国の勇士。ウィキの「野見宿禰」によれば、垂仁天皇の命によって当麻蹴速(たいまのけはや/たぎまのけはや/たえまくえはや 次注参照)と『角力(相撲)(『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた』。『また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった』。『播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬された』とされている。『埴輪創出についての考古学的な知見からは、記紀が語る上述のような伝説は史実ではないとされている』ものの、『こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとの説があ』り、『それによると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないかとし、次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないかと見る。そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないかと見、最後に火葬の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る神話として大事に伝承したものであろうと説く。もっとも以上の説の当否はともかくとして、少なくとも野見宿禰が祖先として土師氏に崇められたことは確かである』とある。

「當麻の蹴速」(読みは前注を参照)はここに語られる勝負で垂仁天皇七年七月七日(「日本紀」に拠る)に死んだ勇士。ウィキの「当麻蹴速」によれば、「日本書紀」によると、『大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたため、これを聞いた垂仁天皇が出雲国から勇士であると評判の野見宿禰を召し寄せ、捔力(すまひ)で対戦させたところ、互いに蹴り合った後に、腰を踏み折られて死んだといい、蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰の土地となったという』。『「蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたと推測されて』おり、『また、葛城市當麻には蹴速の塚と伝わる蹴速塚がある』後世、『野見宿禰と共に相撲の神とされ、両者が相撲を取った地であると伝える奈良県桜井市の穴師坐兵主神社の摂社、相撲神社に野見宿禰とともに祀られて』おり、『地元の奈良県葛城市當麻町には、蹴速の屋敷跡があると言う地元伝承が残っている』とある。また後世、七月七日に行われるようになった相撲節会(すまいのせちえ)はこの二人の勝負の日に因むという(「類聚国史」歳時部相撲条)とある。

「太陽の女神の髮に着けた寶玉から不思議に生まれて、神多理毘賣の命と呼ばれた美しい神」「神多理毘賣の命」は平井呈一氏は『かみたきりひめ』の『みこと』とルビを振っておられる。これは所謂、「たきりひめ」のことで、天照大神と素戔嗚尊の神産み比べ、誓約(うけひ)の際に生まれた五男三女神の中で、天照大神が須佐之男命の持つ剣を譲り受けて三段に打ち折って産んだ宗像三女神の一柱である。ウィキの「タキリビメ」によれば、「古事記」では多紀理毘売命、「日本書紀」では田心姫(たごりひめ)・田霧姫と表記されるとし、『別名奥津島比売命(おきつしまひめ)だが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名としている』とある。『神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこととも、「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈される。日本書紀の「タゴリ」は「タギリ」が転じたものである』。『この女神を単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社などで』祀られている。ここでハーン彼女が天照の「の髮に着けた寶玉から不思議に生まれ」たと言っているのは一見、おかしい。彼女の幾つかの髪飾り他を素戔嗚が受け取って噛み砕いて生まれたのは五柱の男神であるからである。しかし「古事記」を読むと、天照が剣を折った後あと、それに神聖な水を振りかけて囓(か)み、ぷっと霧の如く噴き出して生まれたのが多紀理毘売命とする、その剣を折った直後の箇所に「ぬらとももゆらに」という語が入っている。角川文庫版「古事記」で武田祐吉氏(昭和五六(一九八一)年刊の中村啓信氏補訂版)はこれに『玉の音もさやかに。剣の表現に玉の響きをいうのはおかしい。文脈に混乱がある』と脚注しておられる。これは直後の神聖な水をそれに注ぎかける際の輝きや音を言ったとすれば、私はそれほど違和感は感じないが、この錯文の可能性指摘や、誓約で男神と女神がそれぞれの持ち物を交換して神産みをするという複雑性から、ハーンのこの部分を誤って読解したか、記憶していたのではあるまいか? 私はハーンが全面的に依拠した可能性が高いチェンバレンの「古事記」を読んだことがないので、その記述も気になるところである。識者の御教授を乞う。

「幽界の大神の娘で、大國主神を愛して、その妻となるために、黃泉比良坂まで追ひかけて出てきた女」大国主の正妻となる素戔嗚の娘「すせりひめ」のことであろう。ウィキの「スセリビメによれば、「古事記」では「須勢理毘賣命」・「須世理毘賣命」、「先代旧事本紀」では「須世理姬」と表記し、「出雲国風土記」では須佐能袁命(すさのをのみこと)の娘で大穴持命(おおあなもち)の妻の「和加須世理比賣命(わかすせりひめ)」が登場するが、これも同一の神と考えられる、とある。「古事記」には、『父の須佐乃男命とともに根の国に住んでいたが、葦原中国から八十神たちの追跡を逃れるために根の国を訪れた大穴牟遅命』(おおなむち:大国主の前の名)『と出会い、一目見てすぐに結婚した。須勢理毘売命が家に帰って大穴牟遅命を父に紹介したところ、父は大穴牟遅命を蛇のいる部屋や蜂とムカデのいる部屋に寝させた。須勢理毘売命は呪具である』「比礼」(ひれ:当時の女性が肩や腕に掛けた細長い布で、これを振ると呪的な力が発揮されるとされていた)『を大穴牟遅命に与えてこれを救った。また、須佐乃男命が頭の虱を取るよう命じ、実際にはムカデがいたのだが、須勢理毘売命は木の実と赤土を大穴牟遅命に与え、ムカデを噛み潰しているように見せかけるよう仕向けた。須佐乃男命は安心して眠ってしまい、その間に大穴牟遅命が須佐乃男命の髪を部屋の柱に縛りつけ、生大刀と生弓矢と天詔琴を持って須勢理毘売命を背負って逃げ出した。須佐乃男命は追いつけず、大穴牟遅命に大国主神の名を与え、須勢理毘売命を本妻とするよう告げた』(このシーンは既に注した)。『大国主は後から結婚した八上比売との間に、須勢理毘売命より先に子を得ていたが、八上比売は本妻の須勢理毘売命を畏れて子を置いて実家に帰ってしま』い、さらに大国主が越国(こしのくに:現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域にあった)の沼河比売(ぬなかわひめ)『のもとに妻問いに行ったことに対して、須勢理毘売命は激しく嫉妬し、困惑した大国主は『大和国に逃れようとするが、それを留める歌を贈り、二神は仲睦まじく出雲大社に鎮座することとなった』、めでたし、めでたし、とある。……「今の私」から言わせれば……ふ~ん、いやはや……である……。

「また杵築に於ける神の宴會のために、火鑽と赤い粘土の盤を始めて造つた、水戶の神の孫、櫛八玉の神」「火鑽」は「ひきり」と読み、よく見る古代の火起こし機のこと。よく乾燥させたタブやスギなどを台木、「火鑽り臼(うす)」として「火鑽り杵(ぎね)」という木の棒を当て、激しく揉み合わせることで火を起こす、例の道具のことである。「火切り」「燧」などとも書く。「櫛八玉の神」は「くしやたまのかみ」と読む。個人サイト「記録」の「櫛八玉神によれば、「古事記」の国譲り神話に於いて『大国主命が国を譲って遠くに隠れ控えるかわりに、天神御子の住むような住居を要求し』、『出雲国多芸志の小浜(杵築の地)に神殿(出雲大社)が造られ、水戸神の孫・櫛八玉神が膳夫(料理人)となった』。『櫛八玉は鵜に変身して海底の埴(粘土)をとり「天の八十平瓫」(平らな土器)を作り』、『海藻を刈って燧白・燧杵を作り、火を鑽り出して、大国主命に対して、火を使って調理した魚を献る詞章(火鑽りの詞)を述べた』。『燧臼・燧杵とは火を鑽る板と棒の象徴であり、これをこすりあわせることにより作られた火で調理したものを神に献げた』。『出雲国造家では、国造の交代時に、火継式という儀式が行なわれ、そこでは床下の御食焼所において、火切板を使って火を鑽り、食物を炊いたとされ』ており、「古事記」の詞章である「火鑽りの詞」も、『その儀式において唱えられた壽詞を採用したものだとする説がある』とあり、『詞章には、「さわさわに控き依せ騰げて、打き竹の、とををとををに」という語がみられ、出雲風土記風(意字郡)のヤツカミヅオミヅノの国引き神話中にある「霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに」という形容に相通じるものがあり、これが、口で語られていたものであったことを髣髴させる』と評しておられる。『なお、多芸志の小浜の神殿は、文脈上、オオクニヌシが造ったとする説がある。これによれば、「火鑽りの詞」は大国主命が服従の意をあらわすために天神を饗応したことになる』ともある(下線やぶちゃん)。さて、その祖父祖母とする「水戸の神」は、「はやあきつひこ」及び「はやあきつひめ」のことで、ウィキの「ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ」よれば、「古事記」では「速秋津比古神」と「速秋津比賣神」、「日本書紀」では「速秋津日命(はやあきつひのみこと)」と表記されている。ハーンは「古事記」でのこの二神(以下に見るように実際にはもっと複数対ある)の別名である「水戸神(みなとのかみ)」を用いているのである。『神産みの段でイザナギ・イザナミ二神の間に産まれた男女一対の神で、水戸神はその総称である。『日本書紀』の一書第六では「水門の神達を速秋津日命という」としている。『古事記』では、二神の間には以下の四対八柱の神が産まれたと記している。いずれも水に関係のある神で』、『沫那藝神(あはなぎのかみ)・沫那美神(あはなみのかみ)』、『頬那藝神(つらなぎのかみ)・頬那美神(つらなみのかみ)』、『天之水分神(あめのみくまりのかみ)・国之水分神(くにのみくまりのかみ)』、『天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)・国之久比奢母智神(くにのくひざもちのかみ)』と出る。『「水戸神」とはすなわち港の神の意味である。古代の港は河口に作られるものであったので、水戸神は河口の神でもある。川に穢を流す意味から、祓除の神ともされる。神名の「ハヤ」は川や潮の流れの速さを示し、かつ、河口の利用は潮の流れの速さに左右されることから出た神名とみられている。また、「アキツ」は「明津」で、禊によって速やかに明く清まるの意とする解釈もある』とある。] 

 

Sec. 10

   Many other curious things the Guji and his chief priest then related to me; telling me the sacred name of each of the courts, and of the fences and holy groves and the multitudinous shrines and their divinities; even the names of the great pillars of the temple, which are nine in number, the central pillar being called the august Heart-Pillar of the Middle. All things within the temple grounds have sacred names, even the torii and the bridges.

   The priest Sasa called my attention to the fact that the great shrine of Oho-kuni-nushi-no-Kami faces west, though the great temple faces east, like all Shinto temples. In the other two shrines of the same apartment, both facing east, are the first divine Kokuzo of Izumo, his seventeenth descendant, and the father of Nominosukune, wise prince and famous wrestler. For in the reign of the Emperor Sui-nin one Kehaya of Taima had boasted that no man alive was equal to himself in strength. Nominosukune, by the emperor's command, wrestled with Kehaya, and threw him down so mightily that Kehaya's ghost departed from him. This was the beginning of wrestling in Japan; and wrestlers still pray unto Nominosukune for power and skill.

   There are so many other shrines that I could not enumerate the names of all their deities without wearying those readers unfamiliar with the traditions and legends of Shinto. But nearly all those divinities who appear in the legend of the Master of the Great Land are still believed to dwell here with him, and here their shrines are: the beautiful one, magically born from the jewel worn in the tresses of the Goddess of the Sun, and called by men the Torrent-Mist Princess—and the daughter of the Lord of the World of Shadows, she who loved the Master of the Great Land, and followed him out of the place of ghosts to become his wife— and the deity called 'Wondrous-Eight-Spirits,' grandson of the 'Deity of Water-Gates,' who first made a fire-drill and platters of red clay for the august banquet of the god at Kitzuki—and many of the heavenly kindred of these.

(かなしみは……)   立原道造

 
かなしみは「氣を付け」をしてゐる少年だつた 銀貨色をしてゐた それはハアトの型であつた
 
かなしみはポケツトのある上衣を着て誰にもまけずに晴れやかな顏をしようとしてゐた

 

(立原道造)
[やぶちゃん注:二〇二六年二月十三日追記:私は、以上のデータを、どこで見出したのか、忘れてしまったが、記憶を辿ると、軽井沢に遊び、「軽井沢高原文庫」に行った際に入手した道造の詩篇の断片の画像を葉書にしたものの中で見出し、この詩篇に痛く感動し、図書館で全集で確認したものだったかと思う。今回、国立国会図書館デジタルコレクションの角川書店の「立原道造全集 第二卷」で前記草稿詩篇を電子化注しているが、ここで、本篇を確認した。私が、ブログ・カテゴリ「立原道造」を創始したきっかけであるので、このままにしておくこととする。]

2015/09/12

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (九)

 

        

 

 千家尊紀は若い、元氣のよい人だ。そこに私の眼前に、その古代埃及希臘の僧侶風な不動の姿勢、その奇異な高い冠、その豐富な捲毛の髯と、その彫像のやうな波形を打たせて身邊に擴がつてゐる、ゆつたりした、雪白の神官裝束で、彼が坐してゐるとき、彼は私に取つては、舊日本の繪畫によつて古代の王公貴人や、英雄の莊嚴なる風姿に就て、私が想像してゐた、一切の面目を代表したものであつた。彼の人物の威嚴だけでも、尊敬を禁ぜざらしめる。しかし、その尊敬の感情と伴つて、私の心中にはまだ、日本で最も古い國の民衆によつて彼に拂はれる深い恭敬、彼の掌中にある無限の靈的權能、彼の血統の宏遠なる尊貴といふ考が、突如閃過したのであつた。で、私の尊敬は進んで畏懼に近い感情となつた。たゞ一個の神聖なる彫像――神に祀られた彼の遠祖の一人の彫像と思はる〻ほど、彼は泰然不動である。が、初めの數瞬間の嚴肅は、彼の親切げな黑眼を依然凝乎と私の顏に注ぎ乍らも、彼の豐かな低音で發せられたる最初の言葉で愉快に破られた。それから私の通辯人が、彼の挨拶を譯した――その長い慇懃な文句に對するに、私は出來る限り立派な應答を以てし、私に與へられた特別の厚意に向つて感謝を表した。

 宮司は晃を通して答へた。『歐洲人で大社へ昇殿を許されたのは、貴下が最初です。杵築を訪ねた他の歐洲人で、境內へ入ることを許されたものは少々ありますが、貴下だけが神殿へ入ることを許されたのです。以前には、唯だ普通の好奇心から、こ〻を訪ねようとした者は、境內へさへも近寄ることを許されなかつたのです。しかし西田氏【譯者註】の書面に御來遊の趣旨が認めてありましたので、かやうに欣然御案內申上げる次第です」

    譯者註。當時松江中學校の敎頭たり
    し西田千太郞先生。今は故人。松江
    市の人、始め心理及敎育を專攻した
    る銳利の頭腦は、後轉じてまた英語
    の敎授に發揮せられ、全校推畏の中
    心であつた。ヘルン先生の在校中、
    最も親密の間柄であつた。

 私は謝意を述べた。して、第二回の敬禮の後、會話は晃の仲介を經て續いた。

 私は尋ねた。『杵築のこの大社が、伊勢の神宮よりは古いではありませんか?』

 宮司は答へていふ。『ずつと古いのです。實際年代がよくわからないほど、古いのです。天照大御神の御命令によつて、神々ばかり住んでゐられた時代に、初めて建築されたからです。その當時は、非常に壯大なもので、高さ三十二丈、梁や柱は今頃の材木では作れない位巨大なもので、全體の組立を長さ一千尋の栲の繩で括つてあつたのです。

 『始めて改築のあつたのは、垂仁天皇の時でした。柱は皆澤山の大きな木材を集めて、大きな鐡の輪でしつかり縛り合せたのでしたから、鐡輪の構造と呼ばれたのです。この社殿も壯麗ではありましたが、神々が御造營になつた最初の宮よりは餘程劣つて、高さは唯十六丈でした。

    註。チエムバリン氏譯、古事記所載
    の珍らしき傳說參照。

 『第三囘目には齊明天皇の御代に改築せられて、高さはただ八丈でした。それ以來、大社の構造は決して變りません。當時用ひられた設計圖案が、現在の社殿の建築に於て、最も些細の點に至るまで嚴密に保存されてゐます。

 『大社の改築は二十八囘に及んでゐます。六十一年目每に改築する習慣なのです。が、長く内亂の續いた時代には、百年間以上も修繕さへ出來なかつたのです。大永四年尼子經久が出雲の國守となつた時、大社を佛僧の管理に委ね、附近に堂塔を建立し、神聖なる傳說を汚しましたが、毛利元就が尼子氏に代つてから、社殿を淸め、荒廢してゐた儀式祭典を興したのです」

 私は尋ねた。『社殿が現在よりも、もつと大規模であつた時代に、建築用材は出雲の森林から獲られたのですか?』

 神官佐々氏が答へた。『天仁三年七月四日、百本の大きな樹木が杵築の海岸へ漂流してきて、潮のため濱へ乘上げたと錄されてあります。その材木で永久三年に改築が出來ました。その社殿は「流れてきた木の建築」と呼ばれました。また同年、長さ十五丈もある大木の幹が因幡國、宮ノ下村の宇部の社といふ宮に近い海濱へ漂着しました。人々がそれを切らうとして見ると、怖ろしげな大蛇がそれを卷いてゐたので、皆驚愕して、宇部の社の神に助けを求めました。すると、神が顯れて、「出雲大社の改築每に、何れの國からも、そこの神々の一人が材木を送るのだ。今囘わが番に當つてゐる。だからわがこの大木を以て造營を急いで吳れ」と云つたま〻、その姿は消えました。かやうな諸記錄に因つて、神神がいつも大社の建築を監督したり、助け玉ふたことがわかります』

 私は問ふた。『神有月の間、大社のどの邊に神々はお集まりになりますか?』

 佐々氏は答へた。『內苑の東西兩側に十九社と申す長い建物がありますが、その十九個の宮のいづれにも祭神がないのです。で、神々がお集まりに玉ふのは、その十九社だらうと思はれます』

 『それから、每年他國からの參拜者は、幾何でせうか?」と、私は問ふた。

 『約二十五萬人です。しかし農民階級の狀況如何に因つて、數に增減があります。豐年であれば、その數が增します。滅多に二十萬を下りません』と、宮司が答へた。

[やぶちゃん注:「千家尊紀は若い、元氣のよい人だ」既注であるが、当時の宮司千家尊紀は満三十歳、ハーンは四十であった。

「閃過」「せんくわ(せんか)」と音読みしておく。が閃光のようにぱっと過(よ)ぎること。

「畏懼」「ゐく(いく)」で、畏(おそ)れ憚ること。恐懼 (きょうく)に同じい

「西田千太郞」既出既注

「推畏」見かけない熟語であるが「すいゐ(すいい)」と読んでおく。「推」には「押し戴く・奉る・奉戴する」の意があるから、その人格と博識故に、当時の松江中学全校に於いて、真っ先に畏(かしこ)まって押し戴く一番の教師であった、という意であろう。

「杵築のこの大社が、伊勢の神宮よりは古いではありませんか?」「国立国会図書館レファレンス協同データベース」の島根県立図書館の事例「出雲大社の創建は何年か知りたい」の回答の情報によれば、出雲大社社務所編「出雲大社由緒略記」改訂二十三版・出雲大社社務所一九七二年刊に、「造営遷宮」では、神代に天照大神の勅命により諸神が参集して建築したとされ、人皇の世になってからは垂仁(すいにん)天皇二十三年(西暦では紀元前七年とする)に造営(日本書紀)、斉明天五(六五九)年に厳神宮を修造(日本書紀)などの記載あるとし、二〇〇五年学生社刊の椙山林継他共著「古代出雲大社の祭儀と神殿」の「社殿の創建はいつか」には、『社殿としての出雲大社の存在が、どの時期までさかのぼって確認できるか、は考古学的に裏付ける手がかりがない、とし』つつ、社殿は七世紀代に遡る可能性はあるとし、「キツキ」という地名が六百九十年代には『あるので、神殿を伴った建物として存在していた。日本書紀の記述より斉明天皇までに遡れるのではないか、としている』とある。一方、伊勢神宮の創建に関しては「堀貞雄の古代史・探訪館」の「伊勢神宮」に、『内宮の荒祭宮の境内では5~6世紀頃の遺物が出土し、「荒祭宮祭祀遺跡」と呼ばれる遺跡がある』。『一方、外宮では9世紀初頭の遺物が最古の例であることから、内宮の立地する場所が古くからの祭祀の場だったことは確実とされる』。『従来から内宮と外宮は距離的に離れすぎていることで、元は別の神の祭殿があったのを外宮に置き換えたのではないかとの説がある』。『皇大神宮の説明にも「古来の大祭、神御衣祭を受けられるのは、内宮と荒祭宮のみであることからも、この宮の特別な神位がうかがわれます」とあるが、瀬織律姫の名は公表されていない。今も皇大神宮の極秘とされている』。壬申の乱(六七二年)の『混乱が鎮まり、律令国家を目指していた時期に、中華王朝の皇帝が奉祭する祖霊廟と様式が異なるが、日本国の天皇家の祖霊廟としての風格を備えた神宮創建(あるいは大改造)に着手し』、六九〇年頃に伊勢神宮の内宮、六九八年頃には『外宮が完成したものと思われるが起源に関する史料がない』とある。『伊勢神宮の成立について確かなのは、現在地での成立が文武天皇』の六九八年『であること。彼は律令体制を築いた天武・持統両実力天皇の孫。伊勢神宮は『日本書紀』と同様に、日本国の体制固めのための歴史や祭祀整備の一環であるが、天武天皇は完成を待たずに死去した』とある(下線は総てやぶちゃん)。古代の神の祭儀場としての杵築(出雲)大社の前身の創建は確かに非常に古いには違いにないが、少なくとも、ここで細かな数値説として出るところの、斉明天五年の六五九年と、伊勢神宮の文武天皇の六九八年とでは、「ずつと古い」とはこれ、ちょっと言えない。

「三十二丈」約九十六・九七メートル。

「一千尋」約一・八三キロメートル。

「栲」原文によって「たく」と読んでいるが、この部分の原注によって、これは和紙の原料とされるイラクサ目クワ科コウゾ属交雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera のことを指していることが判る。ウィキの「コウゾ」によれば、『楮の皮の繊維は、麻に次いで長く繊維が絡み合う性質が強く、その紙は粘りが強く揉んでも丈夫な紙となる』とあるから、紙に加工す以前の状態のものを大木を引く繩としたものであろう。

「垂仁天皇」前注参照。第十一代天皇とする。第十代崇神天皇の第三皇子。存在が疑われてきたが、近年は実在説が高まっているとウィキの「垂仁天皇」にはある。

「鐡輪の構造」「鐡輪」は「かなわ」と読む。聳え立つ社殿を支える三本の柱材と補助材を大きな鉄の輪で締めて固定したもので、この宮大工の手法は後の松江城天守閣の特殊構造に応用されている(これは国立松江工業高等専門学校名誉教授島田成矩氏のこちらの記事拠った)。

「十六丈」四十八・四八メートル。

「古事記所載の珍らしき傳說」「中つ卷」の垂仁記の中の、垂仁天皇の第一皇子で永く言葉を話せなかった(それをそこでは出雲大神の祟りとするのであるが)「本牟智和氣(ほむちわけ)の御子(みこ)」に纏わる条々に出る、出雲の仮御殿造営、続く「肥長比賣(ひながひめ)」との同衾から覗き見による姫の蛇体露見、御子の逃走の物語を言うか。ハーンが、ここで指し示す具体的なターゲットとして、「古事記」どの部分の伝説を指してゐるのかが、私には今一つ、よく分からないのである。識者の御教授を乞うものである。

「齊明天皇」(五九四年~六六一年)は女帝。舒明天皇の皇后で中大兄・大海人両皇子(天智・天武両天皇)の母。六四二年に第三十五代天皇皇極天皇として即位し、大化改新で退位するも六百五十五年に重祚して第三十七代斉明天皇となった(第三十六代は孝徳天皇)。宮殿や饗宴施設の建設など飛鳥に於いて相次いで大土木工事事業を敢行した。六百六十一年に遠征先の九州で死去した。詳細はウィキの「斉明天皇」などを参照されたい。

「八丈」二十四・二四メートル。

「大永四年」一五二四年。

「尼子經久」(あまごつねひさ 長禄二(一四五八)年~天文一〇(一五四一)年)は戦国大名。出雲守護代清定の子。初め守護代、後に一時、流浪したものの、後に月山富田城(がっさんとだじょう:現在の島根県安来市広瀬町にあった)富田城主となって毛利元就と対抗、山陰に強大な勢力を伸長した。

「天仁三年」一一一〇年。

「永久三年」一一一五年。

「十五丈」四十五・四五メートル。

「因幡國、宮ノ下村の宇部の社」現在の鳥取県鳥取市国府町(こくふちょう)宮下(みやのした)にある宇倍(うべ)神社。鳥取砂丘の南東八・五キロメートルの内陸、現在の山陰本線鳥取駅からは東南東に四・二キロメートルの位置にある。祭神は武内宿禰命。同神社公式サイトウィキ宇倍神社リンクしておくが、孰れにも出雲大社との関係性の記載はない。

「十九社」本殿外周左右に配置されてある計二棟の建物。出雲大社公式サイト内の末社」の「十七社」には、『神在祭の間』(旧暦の十月十一日から十七日までの間)、『集われた全国各地の神々の宿所となる社です。通常は全国各地の神々の遙拝所です』とある。先日の「ブラタモリ」で見たが、かなり地味な建物で、下手をすると見過ごしてしまう感じがした。]

 

Sec. 9

   Senke Takanori is a youthful and powerful man. As he sits there before me in his immobile hieratic pose, with his strange lofty head-dress, his heavy curling beard, and his ample snowy sacerdotal robe broadly spreading about him in statuesque undulations, he realises for me all that I had imagined, from the suggestion of old Japanese pictures, about the personal majesty of the ancient princes and heroes. The dignity alone of the man would irresistibly compel respect; but with that feeling of respect there also flashes through me at once the thought of the profound reverence paid him by the population of the most ancient province of Japan, the idea of the immense spiritual power in his hands, the tradition of his divine descent, the sense of the immemorial nobility of his race—and my respect deepens into a feeling closely akin to awe. So motionless he is that he seems a sacred statue only— the temple image of one of his own deified ancestors. But the solemnity of the first few moments is agreeably broken by his first words, uttered in a low rich basso, while his dark, kindly eyes remain motionlessly fixed upon my face. Then my interpreter translates his greeting—large fine phrases of courtesy—to which I reply as I best know how, expressing my gratitude for the exceptional favour accorded me.

   'You are, indeed,' he responds through Akira, 'the first European ever permitted to enter into the Oho-yashiro. Other Europeans have visited Kitzuki and a few have been allowed to enter the temple court; but you only have been admitted into the dwelling of the god. In past years, some strangers who desired to visit the temple out of common curiosity only were not allowed to approach even the court; but the letter of Mr. Nishida, explaining the object of your visit, has made it a pleasure for us to receive you thus.'

   Again I express my thanks; and after a second exchange of courtesies the conversation continues through the medium of Akira.

   'Is not this great temple of Kitzuki,' I inquire, 'older than the temples of Ise?'

   'Older by far,' replies the Guji; 'so old, indeed, that we do not well know the age of it. For it was first built by order of the Goddess of the Sun, in the time when deities alone existed. Then it was exceedingly magnificent; it was three hundred and twenty feet high. The beams and the pillars were larger than any existing timber could furnish; and the framework was bound together firmly with a rope made of taku [11] fibre, one thousand fathoms long.

   'It was first rebuilt in the time of the Emperor Sui-nin. [12] The temple so rebuilt by order of the Emperor Sui-nin was called the Structure of the Iron Rings, because the pieces of the pillars, which were composed of the wood of many great trees, had been bound fast together with huge rings of iron. This temple was also splendid, but far less splendid than the first, which had been built by the gods, for its height was only one hundred and sixty feet.

   'A third time the temple was rebuilt, in the reign of the Empress Sai- mei; but this third edifice was only eighty feet high. Since then the structure of the temple has never varied; and the plan then followed has been strictly preserved to the least detail in the construction of the present temple.

   'The Oho-yashiro has been rebuilt twenty-eight times; and it has been the custom to rebuild it every sixty-one years. But in the long period of civil war it was not even repaired for more than a hundred years. In the fourth year of Tai-ei, one Amako Tsune Hisa, becoming Lord of Izumo, committed the great temple to the charge of a Buddhist priest, and even built pagodas about it, to the outrage of the holy traditions. But when the Amako family were succeeded by Moro Mototsugo, this latter purified the temple, and restored the ancient festivals and ceremonies which before had been neglected.'

   'In the period when the temple was built upon a larger scale,' I ask, 'were the timbers for its construction obtained from the forests of Izumo?'

   The priest Sasa, who guided us into the shrine, makes answer: 'It is recorded that on the fourth day of the seventh month of the third year of Ten-in one hundred large trees came floating to the sea coast of Kitzuki, and were stranded there by the tide. With these timbers the temple was rebuilt in the third year of Ei-kyu; and that structure was called the Building-of-the-Trees-which-came-floating. Also in the same third year of Ten-in, a great tree-trunk, one hundred and fifty feet long, was stranded on the seashore near a shrine called Ube-no-yashiro, at Miyanoshita-mura, which is in Inaba. Some people wanted to cut the tree; but they found a great serpent coiled around it, which looked so terrible that they became frightened, and prayed to the deity of Ube- noyashiro to protect them; and the deity revealed himself, and said: "Whensoever the great temple in Izumo is to be rebuilt, one of the gods of each province sends timber for the building of it, and this time it is my turn. Build quickly, therefore, with that great tree which is mine." And therewith the god disappeared. From these and from other records we learn that the deities have always superintended or aided the building of the great temple of Kitzuki.'

   'In what part of the Oho-yashiro,' I ask, 'do the august deities assemble during the Kami-ari-zuki?'

   'On the east and west sides of the inner court,' replies the priest Sasa, 'there are two long buildings called the Jiu-kusha. These contain nineteen shrines, no one of which is dedicated to any particular god; and we believe it is in the Jiu-ku-sha that the gods assemble.'

   'And how many pilgrims from other provinces visit the great shrine yearly?' Iinquire.

   'About two hundred and fifty thousand,' the Guji answers. 'But the number increases or diminishes according to the condition of the agricultural classes; the more prosperous the season, the larger the number of pilgrims. It rarely falls below two hundred thousand.' 

 

11
   Taku is the Japanese name for the paper mulberry.

12
   See the curious legend in Professor Chamberlain's translation of the Kojiki.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (八)

 

       

 

 階段を昇ると廣い廊下があつて、全部廊下へ向つて開ける、廣くて高い室へと、神官は先導して行く。私は隨いて行き乍ら、この室には兩側に凹間があつて、そこに三つの大きな宮のあることに、辛つと目についた。二つの宮には天井から疊まで白幕が蔽ふてある。この幕には金色の花を中心にした、直径四寸位の黑い平圓盤の形が上下に列つた裝飾を施してある。しかし奧の隅の第三の宮からは幕が引除けてある。これは金巾の幕で、これを掛けたのが主要の宮、卽ち大國主神の宮だ。宮の中は唯だ普通の神道の諸象徴と至聖所の外面が見えるのみで、至聖所の中は誰人も拜觀することを得ない。長い低いが一端を廊下の方へ、他端を凹間の方へ向けてこの宮の前に据ゑられ、奇異な寶物が載せてある。この檯の廊下に近い方の端に、鬚の生えた莊嚴な人物が、異樣に髮を結ひ、全身眞白な裝束をして、最高の神官らしい姿勢で、疊を敷いた床の上に坐つてゐた。案內者の神官は、私にその人の前に坐つて禮をするやう指圖した。これが杵築の宮司、千家尊紀で、この人に對しては、私宅に於てさへ誰も膝を折つてでなくば、言葉を發しないし、太陽の女神の後裔であつて、今猶人間以上に考へられて衆庶の尊敬を受けつ〻ある人である。私が日本の敬禮の習慣に隨つて平伏すると、初對面の者をも直ぐに寬ろがせるやうな、慇懃至らざるなき挨拶を受けた。私の案內を務めた神官は、今や宮司の左側の床の上に坐つた。同時にたゞこの聖殿の入口まで隨いて來た他の神官達は、外の廊下で、それぞれ座に着いた。

[やぶちゃん注:「辛つと目についた」前にも注したが、「辛つと」は「やつと(やっと)」と訓じていよう。辛うじて、の意である。しかし「やっと目についた」という日本語はそれでも「辛つと」→「目につく」という呼応が、どうにも気持ちが悪い。「目につく」は、「目にはっきりと付く」のであって、辞書的にも「目立つ」「目に焼きついて残る」の意を上げるものが多い。「見回してみても目につく程度だ」という謂い方はあるが、これにしても、明確に視界に入ってくるのはそれぐらいなものだ、の謂いであって、これははっきり識別認識出来ることを言う。されば「やっと目につく」というのは「程度だった」を附してやっと使用に耐えるものであり、しかも、ここでは、ハーンは――その実態をやっとこさっとこ――今頃になって気づいた――見て認識し得た――と言っているのだから、やはり落合氏の訳は私には承服出来ない。平井呈一氏は、ここを、『わたくしは辛うじて、その部屋の両側の入れこみになっているところに、大きなお宮が三つあるのを見てとった。』(下線やぶちゃん)と訳しておられる。これこそ正しい日本語訳の呼応であると私は思う。

「四寸」約十二センチメートル。

「列つた」「ならつた(ならった)」と訓じていよう。「列(なら)んだ」の意。

「金巾」これだと「かなきん」或いは「かねきん」で綿布の一つで固く縒(よ)った糸で目を細かく織った薄地の白い広幅の綿布を指すが、どうもおかしい。原文を見ると“gold brocade”とあって、これは「金襴(きんらん)」のことである。平井氏も、そう訳しておられる。失礼乍ら、落合氏は、「金帛」のつもりで、この熟語を用い、それがそのまま「金襴」の意味と同義だ、と思い込んでおられたのではあるまいか。大方の御批判を俟つ。

「長い低い檯」「だい」或いは「つくえ」と読んでいよう。原文は“a long low bench”で、落合氏は、そのまま訳すには、あまりに不敬過ぎると思われたのであろう。なお、“bench”には、そもそもが、「長椅子」以外に、「ベンチ状をした長い台・作業台・細工台」の意は、ある。落合氏は、「今はもう、まず使わられることのない長い卓・机」の意の、「これ」を用いること、それが、「神に供物を捧げるための特別な設え」という雰囲気を訳文に添えようとなさったのであろう。ここは、確かに、平井氏のように『低い台』では、無神論者で、神社で手を合わせたことの数少ない私でも、何となくぶっきら棒で不敬な印象を受けるのである。

「凹間」これで「ひくま」と読む。周りからへこんだ場所や部屋の意。因みに、出っ張った所という対義語は「凸間」で「でくま」と読む。「凸間凹間」で「でくまひくま」と読み、所謂、「でこぼこ」のことを言う四字熟語でもある。

「千家尊紀」既出既注。] 

 

Sec. 8

   The priest leads the way into a vast and lofty apartment opening for its entire length upon the broad gallery to which the stairway ascends. I have barely time to notice, while following him, that the chamber contains three immense shrines, forming alcoves on two sides of it. Of these, two are veiled by white curtains reaching from ceiling to matting -curtains decorated with perpendicular rows of black disks about four inches in diameter, each disk having in its centre a golden blossom. But from before the third shrine, in the farther angle of the chamber, the curtains have been withdrawn; and these are of gold brocade, and the shrine before which they hang is the chief shrine, that of Oho-kuni- nushi-no-Kami. Within are visible only some of the ordinary emblems of Shinto, and the exterior of that Holy of Holies into which none may look. Before it a long low bench, covered with strange objects, has been placed, with one end toward the gallery and one toward the alcove. At the end of this bench, near the gallery, I see a majestic bearded figure, strangely coifed and robed all in white, seated upon the matted floor in hierophantic attitude. Our priestly guide motions us to take our places in front of him and to bow down before him. For this is Senke Takanori, the Guji of Kitzuki, to whom even in his own dwelling none may speak save on bended knee, descendant of the Goddess of the Sun, and still by multitudes revered in thought as a being superhuman. Prostrating myself before him, according to the customary code of Japanese politeness, I am saluted in return with that exquisite courtesy which puts a stranger immediately at ease. The priest who acted as our guide now sits down on the floor at the Guji's left hand; while the other priests, who followed us to the entrance of the sanctuary only, take their places upon the gallery without.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (七)

 

        

 

 昨夕私が歎賞した華麗な靑銅の鳥居の下をまた通る時、大社へ達する門路が晝間見ても、その壯觀を左ほど減じないのには、愉快なる驚きを感じた。樹木の莊嚴は、依然として驚くべきものであつた。並木路の通景は壯大で、左右の廣い森や神域は、想像してゐたよりも一層强い印象を與へた。幾多の參詣者が往來してゐる。が、國中から人出があつても、か〻る並木道は押し合ふことなく通れるだらう。第一の苑の門前で、盛裝の齋服を着た神官が、私共を迎へた。愉快な親切らしい顏をした老人であつた。使者は私共をこの人に渡して置いて、門から去つて了ひ、佐々といふ、その老神官【譯者註】が私共を導いて行つた。

    譯者註。杵築の國學者佐々鶴城と
    いつた人。

[やぶちゃん注:「佐々鶴城」の「鶴」は底本では字の上半分弱が甚だしく欠損していて(活字の上に何らかの付着物があってそれを挟まれたまま印刷されたものか)、判読困難であった。四百倍に拡大して見ると(つくり)はその下部から高い確率で「鳥」であると思われ、(へん)は左側の欠損付近から左下に有意に払う画があること、それ以外の(つくり)全体は方形に規則正しい井桁状の影が見えることから「鶴」と仮に判読し、「佐々鶴城」でネット検索をかけた結果、当該人物として極めてよく合致する「佐々鶴城」なる国学者で出雲大社の神職でもあった人物(後注参照)を発見したため、「佐々鶴城」で採った。大方の御批判を俟つ。 

 

 社の境內では最早激浪の寄せるやうな重い音が聞える。進むに從つて音は銳く、分明になつた――一齊に鳴る拍子の響だ。それから大きな門を過ぎると、昨夜私が見た、あの大社殿の前には、幾千の參拜者が見えた。誰もその中へは入らない。すべて群龍の彫まれた門の前に立つて、敷居の前に据ゑられた賽錢凾の中へ、献金を投げる。それは大槪小錢だ。極貧のものは、唯だ一握の米を投げ込む。それから拍手稽首、恭しく邦殿を越えて向うの、更に高い建物、最も神聖な社段を凝視する。參拜者は銘々そこに霎時停まつて、四度拍手をするのみであるが、來たり往つたりするものが、非常に多いので、拍手の音は瀑布のやうだ。

    註。富豪は隨分多額の寄附をする。
    寄附者の人名と金額を記した拜殿の
    外にある木札には、最近千圓の寄附
    者が數人あつたことを示してゐた。
    五百圓の寄附額は左程珍らしくない。
    高等の官吏の寄附は、五十圓を下る
    のは稀れだ。

 多くの參拜者の側を過ぎて、社殿の向側へ出ると、至聖所へ通ずる鐡栅を施した廣い石段の下へ來た。私より以前に歐洲人は一人も、この石段に近寄ることは許されなかつたのだ。下段に正式の儀式服を着けた神官が數名私共を迎へてゐた。靑紫と紫色の絹に、金龍の模樣を織つた衣を着けた、丈の高い人々であつた。彼等の高い奇異な鳥帽子、ゆつたりした美しい裝束、また彼等が古代希臘に於ける敎僧の如くに、嚴肅不動な姿勢は、一見彼等を唯だ不思議な彫像と見えしめた。兎に角、私は子供の時に、いつも驚嘆し乍ら眺めた佛國の奇異なる版畫に、アツシリヤの占星者の一團が畫いてあつたのを、不意に想ひ起した。しかし彼等の眼は、私共が近寄ると共に動いた。私が石段に達すると、彼等は私に對して、一齊に最も丁寧な禮をした。何故となれば、私は彼等の主人――太陽の女神の後裔で、この古い國の僻陬に住む幾萬の賤しい崇拜者からは、今猶生き神と呼ばれてゐる、尊い祭司と、しかもこの神聖なる社殿に於て、面會の特權に與る始めての外國人の參拜者であるからだ。敬禮が終はると、彼等はまた全然彫像的の態度に返つた。

 靴を脫いで階段を登らうとすると、初めに門前で私共を迎へた長身の神官が、社殿へ昇る前には、宗敎の上からも舊慣の上からも、潔齋を行ふべきだといふことを、簡單な意味深い身振りで示した。私が手を差し出すと、神官が長い柄のついた竹製の杓子のやうな器から淸水を注いで、手を拭くために小さな靑色の手拭を吳れた。この手拭は寄進の品であつて、妙な白い文字が書いてあつた。それから私共は登つて行つたが、私は洋服の體裁の拙さに恐縮して、無作法な野蠻人のやうに自分が思はれた。

 階段の頂上で立佇つて、神官は私の社會的階級を質ねた。何となれば杵築に於ては、階級組織友び階級的儀式が、神代に於ける如く正確嚴重に維持されてゐて、また、社會各階級の參拜人の待遇に對して、特別な儀式や規則があるからだ。私は晃が私の身の上について、いかなるお世辭を、善良なる神官に陳べ立てたかを知らない。が、結局私はたゞ普通人民といふ階級に位することとなつた――疑もなく、この正直な事實のために、私は儀式作法の困惑を感じないで濟んだ。世界で日本人が最も得意な精細複雜の儀禮に就ては、私はまだ全く無智であつたから。

[やぶちゃん注:「佐々鶴城」(さつさたづき(さっさたずき) 天保九(一八三八)年~明治三八(一九〇五)年)は神職で国学者。名は寿忠・易直。通称、鉄之丞。別号は藤壺など。なお、本文内の私の字注も必ず参照のされたい。生家は出雲大社社家で、ここに出る宮司出雲大社第八十一代千家尊紀(せんげたかのり)の祖父である第七十八代出雲国造尊孫【・千家尊孫(たかひこ 寛政八(一七九六)年~明治五(一八七三)年)は歌学に秀で、香川景樹らと交わり、出雲付近の歌道の発達に尽力した。著書に「比奈の歌語」「八雲集」等がある(ここは思文閣「美術人名辞典」に拠った)。】

及び、

第七十九代出雲国造であった尊澄

【・千家尊澄(たかずみ 文化一三(一八一六)年~明治九(一八七八)年)は尊孫の子で、尊紀の父である。】

親子や、国学者で神道家であった大国隆正

【・大国隆正(おおくにたかまさ 寛政四(一七九三)年~明治四(一八七一)年)はウィキの「大国隆正」によれば、元石見津和野藩士であったが同僚の誹謗に憤って脱藩、後に播磨小野藩主一柳末延の招請を受けて藩校帰正館を開校したり、姫路藩に招かれて和学校好古堂で国典を講じたり、更に備後福山藩主阿部正弘からも招かれて藩校誠之館でも教えたりした。そのうちに皇道の復興を主張するとともに「尚武の国体」を講明する「倭魂(やまとごころ)」を著わすなどしたため、幕府からの処罰受けかねない事態となったが、知遇を得た徳川斉昭の庇護下、辛くも捕縛を免れた。嘉永三(一八五〇)年に関白鷹司政通に謁見、それを機に、宮中に於いて皇典を講じ、皇室の復興を説いた。翌嘉永四年には津和野藩主亀井茲監の命で藩籍が復され、藩黌養老館国学教師となっている。嘉永六(一八五三)年、ペリーの来航を耳にするや、「文武虚実論」六巻を上梓、その中で海防の要は虚文虚武を斥けて実文実武を努めるにあると主張、『和魂を鞏固にし以って我が国を宇内に冠絶させるべきであるとした』。安政二(一八五五)年には「本学学要」二巻を著わして、『我が国が宇内万国に卓絶する所以を述べ、天壤無窮の皇位は世界万国に君臨すべき神理があると説いた』。『明治元年に大国は徴士』(明治初期に政府に召し出された議事官で、諸藩士・庶民から有能な者が選ばれ、議事所で国政の審議を担当した官吏)『となり、明治維新を経て神祇事務局権判事になるも老齢故に職を辞し、神祇局の諮問役になった』とある。】

らに国学や歌学を学んだ。明治初期に教部省(宗教統制による国民教化の目的で設置された中央官庁組織)に勤務し、『島根県日御碕(ひのみさき)神社宮司などを歴任、晩年は出雲大社主典となった

【・「主典」しゅてん:官幣社・国幣社に於いて禰宜 (ねぎ) の下にあって祭儀や庶務を執行した判任官〔これは明治前期の官吏の身分の一つで、天皇の委任を受けた各大臣・各地方長官など行政官庁の長によって任命された官。高等官(親任官・勅任官・奏任官)の下に位した〕待遇の神職を指す。】

『著作に「梅舎大人略伝」「皇国名義考」など』がある(以上の佐々鶴城の事蹟は主に講談社「日本人名大辞典」に拠り、細部を別データで確認・補填したものである。読み易くするために補填注は改行し【 】で示した。下線はやぶちゃん)。なお万一、これが彼でない場合は至急、御教授を願うものである

「霎時」既注であるが、再掲する。「せふじ(しょうじ)」と読む。「暫時」に同じい。暫くの間。ちょっとの間。「霎」はさっと降っては直ぐ止む小雨、通り雨を原義とし、そこから瞬く間、しばしの意となった。

「千圓」多くの換算サイトや記載があるが、異様に幅があり過ぎ、また実際に計算してみてもその通りにならなかったりする。かなり確度が高いと私が判断したものは、明治二〇(一八八七)年の一円を今日の八千七百円と換算するもので、これだと当時の一〇〇〇円は八百七十万円になるから、「左程珍らしくない」「寄附額」という「五百圓」は、四百三十五万円。「高等の官吏の寄附」の下限とする「五十圓」は四十三万五千円という計算になる(但し、物価指数が現在とは著しく異なるから、印象的には「千圓」や「五百圓」という高額換算は、これよりも遙か下に見た方が現実的かも知れない)。

「至聖所」御本殿。

「古代希臘に於ける敎僧」この前後は原文では“the solemn immobility of their hierophantic attitudes”で(「彼等が古代希臘に於ける敎僧の如くに、嚴肅不動な姿勢」に相当)、この内の形容詞化されている、その元である名詞“hierophant”が、古代ギリシアに於ける秘儀の祭司を指す(他に、英和辞典には「秘儀の解説者」であるとか「日常の出来事の解釈・注釈者」という訳を載せる)。あまり聴き慣れない単語であるが、実はタロット・カードの五の「法王」或いは「司祭長」と呼ばれるカードには、まさに“HIEROPHANT”と記されているのである。

「佛國の奇異なる版畫に、アツシリヤの占星者の一團が畫いてあつたの」不詳。識者の御教授を乞う。少年ハーンがいつも見つめていたそれ。これ――大いに気になるではないか――。
 
「僻陬」「へきすう」と読み、「僻地」に同じい。「陬」は片隅・片田舎の意で、「陬遠」「西陬」「辺陬」等の熟語がある。但し、「スウ」という音は慣用音で、本来は「シュ/ス」が正しい。
 

 

Sec. 7

   I am agreeably surprised to find, as we pass again under a magnificent bronze torii which I admired the night before, that the approaches to the temple lose very little of their imposing character when seen for the first time by sunlight. The majesty of the trees remains astonishing; the vista of the avenue is grand; and the vast spaces of groves and grounds to right and left are even more impressive than I had imagined. Multitudes of pilgrims are going and coming; but the whole population of a province might move along such an avenue without jostling. Before the gate of the first court a Shinto priest in full sacerdotal costume waits to receive us: an elderly man, with a pleasant kindly face. The messenger commits us to his charge, and vanishes through the gateway, while the elderly priest, whose name is Sasa, leads the way.

   Already I can hear a heavy sound, as of surf, within the temple court; and as we advance the sound becomes sharper and recognisable—a volleying of handclaps. And passing the great gate, I see thousands of pilgrims before the Haiden, the same huge structure which I visited last night. None enter there: all stand before the dragon-swarming doorway, and cast their offerings into the money-chest placed before the threshold; many making contribution of small coin, the very poorest throwing only a handful of rice into the box. [10] Then they clap their hands and bow their heads before the threshold, and reverently gaze through the Hall of Prayer at the loftier edifice, the Holy of Holies, beyond it. Each pilgrim remains but a little while, and claps his hands but four times; yet so many are coming and going that the sound of the clapping is like the sound of a cataract.

   Passing by the multitude of worshippers to the other side of the Haiden, we find ourselves at the foot of a broad flight of iron-bound steps leading to the great sanctuary—steps which I am told no European before me was ever permitted to approach. On the lower steps the priests of the temple, in full ceremonial costume, are waiting to receive us. Tall men they are, robed in violet and purple silks shot through with dragon-patterns in gold. Their lofty fantastic head-dresses, their voluminous and beautiful costume, and the solemn immobility of their hierophantic attitudes make them at first sight seem marvellous statues only. Somehow or other there comes suddenly back to me the memory of a strange French print I used to wonder at when a child, representing a group of Assyrian astrologers. Only their eyes move as we approach. But as I reach the steps all simultaneously salute me with a most gracious bow, for I am the first foreign pilgrim to be honoured by the privilege of an interview in the holy shrine itself with the princely hierophant, their master, descendant of the Goddess of the Sun—he who is still called by myriads of humble worshippers in the remoter districts of this ancient province Ikigami, 'the living deity.' Then all become absolutely statuesque again.

   I remove my shoes, and am about to ascend the steps, when the tall priest who first received us before the outer gate indicates, by a single significant gesture, that religion and ancient custom require me, before ascending to the shrine of the god, to perform the ceremonial ablution. I hold out my hands; the priest pours the pure water over them thrice from a ladle-shaped vessel of bamboo with a long handle, and then gives me a little blue towel to wipe them upon, a Votive towel with mysterious white characters upon it. Then we all ascend; I feeling very much like a clumsy barbarian in my ungraceful foreign garb.

   Pausing at the head of the steps, the priest inquires my rank in society. For at Kitzuki hierarchy and hierarchical forms are maintained with a rigidity as precise as in the period of the gods; and there are special forms and regulations for the reception of visitors of every social grade. I do not know what flattering tatements Akira may have made about me to the good priest; but the result is that I can rank only as a common person—which veracious fact doubtless saves me from some formalities which would have proved embarrassing, all ignorant as I still am of that finer and more complex etiquette in which the Japanese are the world's masters.

 

10
   Very large donations are made to this temple by wealthy men. The wooden tablets without the Haiden, on which are recorded the number of gifts and the names of the donors, mention several recent presents of 1000 yen, or dollars; and donations of 500 yen are not uncommon. The gift of a high civil official is rarely less than 50 yen.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (六)

 

         

 

 一日の旅行でや〻疲れたので、早く床に就いて、夜明け頃に眼が醒めるまで、植物の如く夢も見ずに睡つた。すると、宿の綺麗な娘が室を開けて、山の新鮮な空氣と朝日の光りを入れる。廊下の後の戶袋の中へ木造の雨戶を皆轉ばして收める。褐色の蚊帳を卸す。私の朝の喫煙のために、新たに起こした炭火を入れた火鉢を持つて來る。それから朝食を運んでくるため小走りに去つた。

 まだ早朝であるのに、娘が室へ戾つてきた時、宮司から既に使者がきてゐると告げた。宮司は太陽の女神の尊い後裔、千家尊紀其人である。使者は私が進めた一椀の茶を受け、して、御主人が社殿で私共を待つて居られると告げた。

 これは愉快な通知であるが、私共は早速行くことが出來なかつた。晃の服裝に缺點があると、使者が注意した。神前へ出るのには、新しい白足袋と袴を着けねばならないのだ。幸ひ晃は宿の主人から袴を一着借りることを得た。して、出來うる限り淸潔端正に身を整へてから、私共は使者に案內せられて社殿へ向つた。

[やぶちゃん注:「一日の旅行でや〻疲れたので、早く床に就いて、夜明け頃に眼が醒めるまで、植物の如く夢も見ずに睡つた。」幾ら、前の第七章冒頭に酷似した描写が出るからと言って、河合先生、この甚だしい省略はあってはいけません! 原文は以下の通り、

A little wearied by the day's journeying, I get to bed early, and sleep as dreamlessly as a plant until I am awakened about daylight by a heavy, regular, bumping sound, shaking the wooden pillow on which my ear rests the sound of the katsu of the kometsuki beginning his eternal labour of rice-cleaning.”である。平井呈一氏の訳を示させて戴く。

   《引用開始》

 昼の旅ですこし疲れたので、わたくしは早目に床に就いた。そして夜明け方、耳をつけた木枕をゆする、重い、規則正しい、ドスン、ドスンという――米搗きが、米を白げる日々の労働をはじめる音だ――に目がさめるまで、わたくしは、草木のように、夢も見ずにぐったりと眠った。

   《引用終了》

私は、前のシーンでもそうだったが、この精米の踏み臼の音に耳傾けるハーンは、「源氏物語」の最も偏愛する「夕顔」の帖で、夕顔の宿の朝まだき、同じ音を聴いて何のそれだか分からず、「この喧しさ、やりきれないから、僕の別荘へ行ってしっぽりしようよ。」と、夕顔に猥雑に言いかける光源氏よりも、何万光年も離れた、より日本人らしい魂を持っている、と大真面目に思っているのである。] 

 

Sec. 6

   A little wearied by the day's journeying, I get to bed early, and sleep as dreamlessly as a plant until I am awakened about daylight by a heavy, regular, bumping sound, shaking the wooden pillow on which my ear rests the sound of the katsu of the kometsuki beginning his eternal labour of rice-cleaning. Then the pretty musume of the inn opens the chamber to the fresh mountain air and the early sun, rolls back all the wooden shutters into their casings behind the gallery, takes down the brown mosquito net, brings a hibachi with freshly kindled charcoal for my morning smoke, and trips away to get our breakfast.

   Early as it is when she returns, she brings word that a messenger has already arrived from the Guji, Senke Takanori, high descendant of the Goddess of the Sun. The messenger is a dignified young Shinto priest, clad in the ordinary Japanese full costume, but wearing also a superb pair of blue silken hakama, or Japanese ceremonial trousers, widening picturesquely towards the feet. He accepts my invitation to a cup of tea, and informs me that his august master is waiting for us at the temple.

   This is delightful news, but we cannot go at once. Akira's attire is pronounced by the messenger to be defective. Akira must don fresh white tabi and put on hakama before going into the august presence: no one may enter thereinto without hakama. Happily Akira is able to borrow a pair of hakama from the landlord; and, after having arranged ourselves as neatly as we can, we take our way to the temple, guided by the messenger.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (五)

 

        

 

 夜は色を消し、距離を抹殺する。だから廣い場所の光景や、大きな物象の趣を、暗示の力によつて擴大するのが常だ。ぼんやりした燈光で見ると、大社の門路は雄大なる驚異だ。明日は、幻滅の感を與へる白晝の光で見ねばならぬと、思ふだけでも惜しいほどだ。並水路は巨樹が列を成して、大きな鳥居の連立せる下に、遠く續いてゐる。鳥居から垂れ下つた太い注連繩は天手力尊の象徴で、尊が握るのに適はしい太さだ。が、並木通りの朦朧たる莊嚴は、鳥居とその花彩象徴によつてよりも、巨大なる樹木のために一層加つてゐる。多くは千年の齡を重ねて、錯節せる老木の繁つた梢頭は、暗い空に沒してゐる。幾つかの巨幹には、藁繩が卷いてある。これ等は神聖なのだ。大きな根は、四方に蜿蜒として、燈火に映じては、龍が噪がいて、匍匐するやうに見えた。

 並木路は一哩の四分の一位はある。道筋は二つの橋を渡り、二つの貴い森の間を通つてゐる。兩側の廣い地面は皆大社のものである。以前はいかなる西洋人も中の鳥居から先きへ行くことは許されなかつた。並木道の窮まる處に高い塀があつて、佛寺の山門のやうな、しかし頗るどつしりした門が通じてゐる。これは外苑への入口だ。まだ重い戶は開かれてゐて、影のやうな人の姿が、數多出入してゐた。

 境內は眞暗な中を、薄黃色の光りが無數の大きな螢のやうに、彼方此方に飛んでゐた。これは參拜者の提燈だ。私はたゞ巨材で造つた大きな建物が、左右に聳然たるを認めるのみであつた。案內者は大きな苑內を渡つて、第二の苑へ通り、して、まだ戶の開いてゐた、堂々たる建物の前で立佇つた。戶の上には、燈光で見ると、ある美材に名人の手で刻んだ、龍と水の驚くべき彫刻帶があつた。內部には、左方の傍祠に神道の象徴のものが見えた。して、私共の直ぐ前面に、私が豫想したよりも遙かに廣い、疊を敷いた床が、燈光によつて現された。これによつて、私は社殿だらうと思はれる建物の大いさを推測したが、主人はこれは社殿でなく、たゞ拜殿であつて、この前で人々は祈禱を捧げるのだと云つた。晝間は開けられた戶口から、社殿は見えるのであるが、今夜は見えない。また內へ入ることを許さるものも誠に少いとのことであつた。『大槪の人は此殿の苑內へさへも入りません、社殿の前を遠く離れた處から祈ります。あれをお聽きなさい!』と、晃が通辯した。

 私の周園の陰の中で、水を潑ねたり洒いだりする音が聞える。これは神道の式によつて澤山の人々が手を拍つ音なのだ。

 『しかしこれは何でもありません。今は極く僅かなものです。明日までお待ちなさい。祭禮日ですから』と、宿の主人が云つた。

 私共が鳥居と巨樹の下を、大きな並木路に沿つて、歸つて行く道すがら、晃は主人が神蛇についで語るのを私に通辯した。

[やぶちゃん字注:以上の段落の行頭(「私共が鳥居と……」)は一字下げがないが、誤植と断じて下げた。]

 彼は云つた。『その小蛇を人々は龍蛇樣と呼びます。神々の來給ふことを知らせるため、龍王から送られるからです。龍蛇樣の來る前に、海は暗くなり、波が立ち上つて荒れます。龍蛇と呼ぶのは、龍宮城の使者だからです。が、また白蛇とも呼びます』

 『小蛇は獨りで社殿へ來るのか?』

 『いえ、漁師が捕へるのです。して、唯一匹だけ遣されるのですから、一年に一匹捕れるだけです。誰でも、それを捕へて、杵築大社か、佐蛇神社かへ持參すると、報酬として米一俵を受けます。捕へるには時間と骨折が要りますが、捕へたものはきつと後日富裕になります』

 『杵築には數多の神を祀つてあるのだらう?」と、私が尋ねた。

 『さうです。が、杵築の主神は大國主神で、普通に大黑と申します。こ〻にはその御子も祀られて、惠比壽と申します。いつも二神は、繪に一處に畫いてあります。大黑は米俵の上に坐つて、片手で胸に赤い太陽を押し當て、片手には一と打ちで富を打出だす魔力の槌を握つてゐます。惠比壽は釣竿を持つて、大鯛を脇にか〻ヘてゐるのです。二神ともいつも笑顏で現してあり、それから、大きな耳を持つてゐます。それは福壽の徴です』

    註一。白蛇はまた戀愛と美と雄辯と
    海の女神、辨財天の使者だ。白蛇は
    老翁の顏を有し、眉毛は自く、頭に
    冠を戴くと云はれる。この女神も蛇
    も古代印度の神話中に、これと符節
    を合するものがある。また佛敎が始
    めに、これらを日本へ取入れたのだ。
    坊間に於ては、特に出雲では、佛敎
    の佛が、屢々神と同一視され、また
    は寧ろ混同されてゐるのがある。
     本章を書いた後で、私は捕獲後一
    時間を經ない龍蛇か見る機會を得た。
    長さ二呎乃至二呎、圓さの最も太い
    處で直徑約一吋。體の上は深暗褐色
    で、腹は黃白を帶び、尾の方には美
    麗なる黃斑があつた。體は圓筒形で
    なく、妙に四角形で、恰も精細に編
    んで作れる、四つの稜角ある鞭のや
    うであつた。尾は扁平で三角形、或
    る種の魚類に似てゐた。松江師範學
    校の博物學の敎師、渡部氏はこれが
    ペラミス・バイコラーといふ種に屬
    する海蛇だと認定した。が、その蛇
    は滅多に見られない。だから、この
    淺薄なる記述も、ある讀者に取つて
    は興味ないことはあるまいと思ふ。
    註二。杵築か、佐陀で、時としては
    蛇を買ふことが出來る。松江の家庭
    の神棚の上に、小蛇が見られること
    がある。私は一匹の古くなつて、脆
    く、黑くなつてゐたが、私の知らな
    い或る方法で、立派に保存されてゐ
    たのを見た。それは金網の小籠の中
    へ姿勢よく坐つて、白木の小祠に丁
    度嵌るやうになつてゐた。生きてゐ
    た時、長さ二尺四寸位であつたに相
    違ない。その所有主の貧しい家族は、
    每日その前へ小さな燈明を點じ、神
    道の文句を誦してゐた。
    註三。大國主神は、通俗の信仰に於
    ては富の神、大黑と混ぜられてゐる。
    その子、事代主神も同樣に、正直な
    る勞動の保護者、惠比壽と混同され
    てゐる。或る日本の學者は、神道の
    拍子の習慣は、事代主神が用ひた合
    圖であつたと說いてゐる。
     兩神は日本の藝術では、いろいろ
    の形に現されてゐる。杵築で賣られ
    る、兩神の相並んだ形は、珍奇且つ
    美麗である。

[やぶちゃん注:「天手力尊」「あめのたぢからをのみこと」と読む(なお、私は本邦の神名や民俗学用語やアイヌ語及び沖縄方言を安易にカタカナ表記する一般的悪習を生理的に嫌悪しているので可能な限り、引用は例外として概ね平仮名で表記することをお許し戴きたい)。天照大神岩戸隠れの際に岩戸を引き開けた神として知られ、相撲取の濫觴ともされる。ウィキの「アメノタヂカラオ」によれば、『名前は「天の手の力の強い男神」の意であり、腕力・筋力を象徴する神で』、富山の立山の『雄山神社に祀られるタヂカラオは立山信仰の神で』山頂にある峰本社の本尊は二つあり、『本地垂迹によって
阿弥陀如来がイザナギ、不動明王がタヂカラオであるとされた。元々雄山神社と戸隠神社はどちらも山岳信仰を起源とする神社であり、この神が山岳信仰と関係のある神であることを示している。日本には、祖霊は山に帰り、田の神は山から降りてくるなど、山は異界であるという観念があった。これが仏教の地獄の思想と結びついて平安時代以降の山岳信仰となる。異界である山との境界から、タヂカラオが引き開けた天岩戸が連想され、タヂカラオが山と結びつけられたものと考えられている』。『怪力を持つというイメージのあるタヂカラオは、昔から人々に人気があり、各地にタヂカラオが登場する神楽が伝わる』とある。

「躁がいて」「躁」は「うごく」「さわぐ」等の意を持つが、ここは落合氏は当て字で「もがいて」と訓じているように私には思われる。

「一哩の四分の一」一マイルは千六百九メートルであるから、四百二・二五メートル。大鳥居から大社本殿の前にある御仮殿(おかりど)の横に走る路までは地図実測では四百四十メートルほどであるが松並木のある参道は前後が少し減じるから、謂いとしてはおかしくあるまい。

「道筋は二つの橋を渡り、二つの貴い森の間を通つてゐる」「森」は川に隔てられた南北を指すとしても、「二つの橋」は不審。現在の地図上では一つしかない。

「外苑」原文は“the outer court”であるから訳としては間違っていないが、これは大社本殿の「外陣」或いはそれを含む本殿内陣域内への入口の謂いである。平井呈一氏は『内苑』と訳しておられる。逐語的には問題はあっても、訳を読む日本人にとってはこちらの方が躓かない(と私は思う)。

「許さるもの」はママ。

「水を潑ねたり洒いだりする」の「潑ねたり洒いだり」は「はねたりすすいだり」と読む。

「祭禮日」翌日は明治二三(一八九〇)年九月十四日で旧暦では七月二十九日であるが、現行の公式の出雲大社祭日表にはこれに一致する例祭日はない。識者の御教授を乞う。

「杵築大社か、佐陀神社かへ持參する」「佐陀神社」は「佐太神社」の誤訳であろう。何故、この二社なのであろう? 出雲国三大社なら現在の松江市八雲町にある熊野大社でもよいはずである(但し、地図上で見ると熊野大社は海辺から運ぶには結構内陸で、正直、きつい感じはする)。ともかくも識者の御教授を乞うものである。

「米一俵」落合氏は訳しておられない(当時の日本人に分かり切った原注を訳さないのは以降の訳者も同じ)が、ハーンは以下の原文で見るように欧米人向けにちゃんと注を附している。そこでは“Ippyo, one hyo 2 1/2 hyo make one koku = 5.13 bushels.”とある。この“bushel” (ブッシェル)は、主に米国で用いられる容量の乾量単位で約三十五リットルに相当するから、一石を説明する“5.13 bushels”は百七十九・五五リットルとなる。さて、米一斗は約十八リットル(重量にして約十五キログラム)で、米一石は十斗であるから百八十リットル相当となり、ハーンの換算が極めて正確であることがよく判る。

「大國主神」「おほくにぬしのかみ」と読む。以下、ウィキの「大国主」によれば、出雲大社の祭神。本来は国津神(くにつかみ:本邦に初めから土着していた地神)の代表的な神であったはずであるが、天孫降臨で天津神に国土を献上するという構造説話から「国譲りの神」とも呼ばれる』ようになった。『『日本書紀』本文によるとスサノオの息子。また『古事記』、『日本書紀』の一書や『新撰姓氏録』によると、スサノオの六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。スサノオの後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させる。だが、高天原からの使者に国譲りを要請され、幽冥界の主、幽事の主催者となった。国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建てて欲しいと条件を出したことに天津神が約束したことにより、このときの名を杵築大神ともいう』。『大国主を扱った話として、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に記載されている。『出雲国風土記』においても多くの説話に登場し、例えば意宇郡母里郷(現在の島根県安来市)の条には「越八口」を大穴持命が平定し、その帰りに国譲りの宣言をしたという説話がある』。『造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰される。縁結びの神としても知られるが、なぜ縁結びの神とされるのかについては諸説があり、大国主命が須勢理毘売命を始めとする多数の女神と結ばれたことによるといった俗説が一般的であるが、神社側は「祭神が幽世の神事の主催神となられ、人間関係の縁のみならず、この世のいっさいの縁を統率なさっているとして、男女の縁のみならず、広く人と人との根本的な縁を結ぶ神であるとしている。他にも、元々この信仰そのものが古くにはないものであり、民間信仰としての俗説が広まったためだとする説や、古くは因幡の白兎、迫害からの蘇生、死後の幽界の主催神へ、といった神話から呪術神としての性格を持ち合わせていたことから、これが転化したのではないかとする説もある』。『この他にも、中世には武士や刀鍛冶などから武神、軍神としても広く信仰されていた。記紀神話には直接的な武威の表現は見られないが、武を象徴する別名があることや、スサノオの元から手にした太刀や弓を用い国を広く平定したことなどから、そうした信仰になったと考えられる。このため武士政権が崩壊した明治以降現在も、武術家や武道家などから信仰されている。また江戸期には全国的な民間信仰の広まりにより、「大国」はダイコクとも読めることから同じ音である大黒天(大黒様)と習合していき、子のコトシロヌシがえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになった。このため比較的歴史の浅い神社などでは、大黒天が境内に祀られていることが多い』。『また前述の呪術的、あるいは武力的な神格を用いて、所出不明の神などが祀られていた神社などの祭神に勧誘される場合も多く散見される。小さな集落などでは時に氏子などが断絶するなどで廃社となった神社もあり、こうした場合に本来の祭神が誰なのか不明となることが多く、こうした神社を復興させる際に本来祀られていた神の祟りなどを鎮めるといった意味合いから、こうした神格を持つ大国主命が配されることがある』とある。

「大黑」大黒天。以下、ウィキの「大黒天」によれば、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラ(サンスクリット語:Mahaa-kaala/漢字音写「摩訶迦羅」など)を原型とする。『ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラは、インド密教に取り入れられた。“マハー”とは大(もしくは偉大なる)、“カーラ”とは時あるいは黒(暗黒)を意味するので大黒天と名づく。あるいは大暗黒天とも漢訳される。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした護法善神である』。『密教の伝来とともに、日本にも伝わった。日本で大黒天といえば一般的には神田明神の大黒天(大国天)像に代表されるように神道の大国主と神仏習合した日本独自の神をさすことが多い』。『日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される』。『袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためである。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話(大国主の神話#根の国訪問を参照)から、鼠が大黒天の使いであるとされる』。以下、「大黒と恵比寿」の項。『日本一大きいえびす、大黒の石像は舞子六神社にあり商売繁盛の神社とされている。大黒と恵比寿は各々七福神の一柱であるが、寿老人と福禄寿が二柱で一組で信仰される事と同様に、一組で信仰されることが多い。神楽などでも恵比寿舞と大黒舞が夙(つと)に知られ、このことは大黒が五穀豊穣の農業の神である面と恵比寿が大漁追福の漁業の神である面に起因すると考えられている。また商業においても農産物や水産物は主力であったことから商売の神としても信仰されるようになっていった』。以下、大黒天の「民間信仰」の項。『民間の神道において福徳神の能力の一つから子宝や子作り信仰と呼ばれるものがあり、大黒天の像が米俵に載っている(写真参照)のは実は男性器をあらわしている言われ、具体的には頭巾が男性器の先端部分をあらわし、体が男性器本体、そして米俵が陰嚢であるとの俗説がある。これは像の背後から観察すると容易に理解できるものであり、生殖器崇拝の影響が伺える』とある(なお、リンク先には日本の仏教や密教との集合についての一項もあるが、ここでは省略したので、関心のあられる向きはリンク先をお読みになられたい)。

「註一」には私は多くの疑義を感じる。それを含めて以下、注したい。

「白蛇はまた戀愛と美と雄辯と海の女神、辨財天の使者だ。白蛇は老翁の顏を有し、眉毛は自く、頭に冠を戴くと云はれる」白蛇(アルビノ(白化体)の蛇。山口県岩国市に生息する「岩国のシロヘビ」は有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora のアルビノであるが、ここの白蛇は通常の自然な生態系の中で(但し、当地の人々がこれを神の使い決して殺さずに保全してきたという点では作為的選択的な人為の強い影響下にはある)として遺伝によって白化現象を起こした突然変異体が、代々子孫に受け継がれている稀有な例で天然記念物に指定されている)は事実、本邦に限らず、神の使者或いは変化した存在であり、また特に弁財天の使いとされる伝承も正しい。「白蛇は老翁の顏を有し、眉毛は自く、頭に冠を戴くと云はれる」とあるのは、宇賀神(うがじん)のことである。宇賀神は日本で中世以降信仰されてきた神で、ウィキ宇賀神によれば(リンク先の画像も参照されたい)、『神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神』(うかのみたまのかみ:「うか」は穀物・食物の意味で穀物神・豊穣神)『に由来するものと一般的には考えられている(仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もある)』。『その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと一様ではない』。『元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されているが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明である。また、蛇神・龍神の化身とされることもあった』。『これが比叡山・延暦寺(天台宗)の教学に取り入れられ、仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体した。この合一神は、宇賀弁才天とも呼ばれ、宇賀神はしばしば弁才天の頭頂部に小さく乗る。その際、鳥居が添えられることも多い』。『出自が不明で、経典では穀霊神としての性格が見られないことなどから、宇賀神は、弁才天との神仏習合の中で造作され案出された神、との説もある』。『宇賀弁才天への信仰は、延暦寺に近い近江国・竹生島を中心に、安芸国・厳島、相模国・江ノ島など全国に広まった』が、『これらは、明治の神仏分離の際に市寸島比売命(いちきしまひめ)などを祭神とする神社となっている。鎌倉市の宇賀福神社』(「銭洗弁天」の現在の正式名称)『では、宇賀神をそのまま神道の神として祀っている』とある。問題はここでハーンが直後に「この」弁財天「も蛇も古代印度の神話中に、これと符節を合するものがある。また佛教が始めに、これらを日本へ取入れたのだ。坊間に於ては、特に出雲では、佛教の佛が、屢々神と同一視され、または寧ろ混同されてゐるのがある」と古代インド神話にその濫觴の総てを収斂させてしまい、弁財天だけでなく、この宇賀神も純粋な西方インド由来の混淆主義(シンクレティズム)と断じてしまっている点である。以上の宇賀神の叙述でも明らかなように、完全に本邦固有の土着神であったかどうかは断言できないものの、例えば前にも引いた日本参道狛犬研究会公式サイト内の「神使の館」に参考資料としてヘビ(1) 弁天・弁才天・弁財天の蛇の頁があって、そこで弁財天を解説した後、『一方で、弁天は日本神道古来の神である宇賀神とも習合して一体化し、弁天の頭上に宇賀神が載っている像や蛇身の弁天像もあ』り、『宇賀神は日本固有の神で、老人の頭を持ち身体は白蛇(人頭蛇身)の姿をしていて、農業・食物・財福の神とされる』として三体の宇賀神像が画像で示されてある。私が強い疑義を持つのは弁財天を古代インド由来とするのと十把一絡げに、宇賀神のルーツもそこ安易にほぼ断定するようなハーンの言い方には組し得ないからである。

「二呎乃至三呎」凡そ六十一~九十一センチメートル。

「圓さの最も太い處で直徑約一吋」体幹の最も太い部分の直径が凡そ二・五四センチメートル。

「松江師範學校の博物學の敎師、渡部氏」島根県のレッド・データ・ブックの「昆虫類」の項(こちらのPDF資料)に、明治二四(一八九一)年に『旧制松江中学の博物教師だった渡辺盈作』が『「動物学雑誌」に松江市のチョウ』十五種を『正確な学名入りで報告した。渡辺はラフカディオ・ハーンとも深い親交があった人物で、ハーンの著書「日本瞥見記」にも登場する興味深い人物である』と出ており、「渡部」とあるもののこれはこの渡辺盈作氏と考えてよいであろう。国立国会図書館「レファレンス協同データベース」の「大阪市立中央図書館」の「明治時代の教師、渡辺盈作(わたなべ・えいさく)の大阪での足取りと著作について調べたい」のデータを見ると、生没年は不詳としながら、その発表論文記事の中に、ズバリ!

『松江 渡邊,盈作 佐太神社ノ龍蛇 動物学雑誌 3(27),46-48,18910115(ISSN 00445118) (社団法人日本動物学会)

という記載を発見した。彼に間違いない。

「ペラミス・バイコラー」原文“Pela-mis bicalor”。これは、

爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科(ウミヘビ科とする説もある)セグロウミヘビ属セグロウミヘビ Pelamis platura (Linnaeus, 1766)

のことである( Pelamis bicolor Daudin, 1803 はシノニム英文ウィキの“Pelamis platuraを見よ)。一属一種。太平洋及びインド洋に分布する有毒の海蛇である。ウィキの「セグロウミヘビ」より引く。全長は六十から九十センチメートルで『体形は側偏する。斜めに列になった胴体背面の鱗の数(体列鱗数)は』四十六から六十八片。『名前の由来は、背が黒いことから。腹面は黄色や淡褐色。これは、主に沖合の海面付近に生息するために、外敵に見つかりにくい色になったためであり、サバやマグロなどの回遊魚と同様の進化である。本種は他のウミヘビ亜科の種と同様、卵胎生を獲得して産卵のための上陸が不必要となった完全な海洋生活者であり、その遊泳生活に応じて、他のヘビでは地上を進むのに使用されている腹面の鱗(腹板)は完全に退化している』。『頭部は小型で細長い』。『牙に毒を持つが、本種は肉にも毒があるので、食用にはならない。黄色と黒というその非常に特徴的な体色は肉が毒を持つことの警戒色の意味もあるのではないかと考えられている。ウミヘビの中では比較的性質が荒い種であり、動物園で飼育されていた本種は給水器に何度も噛み付くほど凶暴だったという』。『外洋に生息するが暖流に乗って日本近海にも現れ、北海道辺りまで北上することもある。完全水棲種で、腹板が退化しているため陸地に打ち上げられると全く身動きがとれずにそのまま死んでしまうことがある』が、反面、遊泳力は強いとある。『食性は動物食で、主に魚類を食べる』。『繁殖形態は卵胎生で』、十一月頃に海岸に近づいて、海中で二頭から三頭の幼蛇を産む。『本種は日本の出雲地方では「龍蛇様」と呼ばれて敬われており、出雲大社や佐太神社、日御碕神社では』旧暦十月に、『海辺に打ち上げられた本種を神の使いとして奉納する神在祭という儀式がある。これは暖流に乗って回遊してきた本種が、ちょうど同時期に出雲地方の沖合に達することに由来する』とある。「日御碕神社」は「ひのみさきじんじゃ」と読み、島根県出雲市の日御碕に鎮座する。出雲大社の「祖神(おやがみ)さま」として「みさきさん」の通称で今も崇敬を集める神社である。くどいが、以前にリンクした私の電子テクスト南方熊楠「ウガという魚のこと」を未読の方は、是非、こちらもお読み戴きたい。

「生きてゐた時、長さ二尺四寸位」七十二・七センチメートルであるが、私はこの貧しい敬虔な家族に悪いのだが、これらの多くは実物を模して作った人工物であって、本物の木乃伊(ミイラ)ではないように感じている。大方の御批判を俟つ。

「註三」以下は原注の頭が省略されている。原文では“Translated by Professor Chamberlain the 'Deity Master-of-the-Great-Land'-one of the most ancient
divinities of Japan, but in popular worship confounded with Daikoku,
”で――チェンバレン教授が「偉大な国の神の中の神の『達神』」と訳しているこの神(大国主神)は、日本の最も古い神の一柱であるが、しかし、民間の信仰の中にあっては大黒天とごっちゃにされている――とある。

「或る日本の學者は、神道の拍子の習慣は、事代主神が用ひた合圖であつたと說いてゐる」「或る學者」は不詳であるが、これは恐らく「日本書紀」の「出雲国譲り」の条に於いて、「国譲り」に対して事代主が――逆手を打って――海に入ったいう記述に基づくものかと思われるが、ここに出て来る「逆柏手」というのは、この場合、国譲りを強権発動されたことに対する事代主の呪詛の作法、合図と採れるものであって、現今の祈禱の柏手の濫觴であるとするというのは――私は面白いとは思うものの――ふ~ん、それでいいのかな? 神道家は? と訊き返したくはなる。

「杵築で賣られる、兩神の相並んだ形」出雲大社(杵築)ではないが、松江市美保関町美保関の旅館「美保館」の公式サイトのこちらのページに「大国主と恵比寿様」として『出雲大社の大国主命と、美保神社の恵比寿様は親子の関係にあります。大豪族であった大国主が海上交通の要所で大陸との貿易の一大港でもあった美保関をおさめるために自分の子を遣わせたのではないかといわれています。恵比寿大黒の両参りという風習はここから生まれました』。『出雲のシンボルでもある出雲大社は、“縁結びの神様”としても知られています。縁といっても、男女の仲だけなく、すべてのものが何かのご縁で結ばれており、様々な良縁に効果があると言われています』とあって載るところの木造二神の像のようなものか。]

 

Sec. 5

   Effacing colours and obliterating distances, night always magnifies by suggestion the aspect of large spaces and the effect of large objects. Viewed by the vague light of paper lanterns, the approach to the great shrine is an imposing surprise—such a surprise that I feel regret at the mere thought of having to see it to-morrow by disenchanting day: a superb avenue lined with colossal trees, and ranging away out of sight under a succession of giant torii, from which are suspended enormous shimenawa, well worthy the grasp of that Heavenly-Hand-Strength Deity whose symbols they are. But, more than by the torii and their festooned symbols, the dim majesty of the huge avenue is enhanced by the prodigious trees—many perhaps thousands of years old—gnarled pines whose shaggy summits are lost in darkness. Some of the mighty trunks are surrounded with a rope of straw: these trees are sacred. The vast roots, far-reaching in every direction, look in the lantern-light like a writhing and crawling of dragons.

   The avenue is certainly not less than a quarter of a mile in length; it crosses two bridges and passes between two sacred groves. All the broad lands on either side of it belong to the temple. Formerly no foreigner was permitted to pass beyond the middle torii The avenue terminates at a lofty wall pierced by a gateway resembling the gateways of Buddhist temple courts, but very massive. This is the entrance to the outer court; the ponderous doors are still open, and many shadowy figures are passing in or out.

   Within the court all is darkness, against which pale yellow lights are gliding to and fro like a multitude of enormous fireflies—the lanterns of pilgrims. I can distinguish only the looming of immense buildings to left and right, constructed with colossal timbers. Our guide traverses a very large court, passes into a second, and halts before an imposing structure whose doors are still open. Above them, by the lantern glow, I can see a marvellous frieze of dragons and water, carved in some rich wood by the hand of a master. Within I can see the symbols of Shinto, in a side shrine on the left; and directly before us the lanterns reveal a surface of matted floor vaster than anything I had expected to find. Therefrom I can divine the scale of the edifice which I suppose to be the temple. But the landlord tells us this is not the temple, but only the Haiden or Hall of Prayer, before which the people make their orisons, By day, through the open doors, the temple can be seen But we cannot see it to-night, and but few visitors are permitted to go in. 'The people do not enter even the court of the great shrine, for the most part,' interprets Akira; 'they pray before it at a distance. Listen!'

   All about me in the shadow I hear a sound like the plashing and dashing of water—the clapping of many hands in Shinto prayer.

   'But this is nothing,' says the landlord; 'there are but few here now.

   Wait until to-morrow, which is a festival day.'

   As we wend our way back along the great avenue, under the torii and the giant trees, Akira interprets for me what our landlord tells him about the sacred
serpent.

   'The little serpent,' he says, 'is called by the people the august Dragon-Serpent; for it is sent by the Dragon-King to announce the coming of the gods. The sea
darkens and rises and roars before the coming of Ryu-ja-Sama. Ryu-ja. Sama we call it because it is the messenger of Ryugu-jo, the palace of the dragons; but it is also called Hakuja, or the 'White Serpent.' [6]

   'Does the little serpent come to the temple of its own accord?'

   'Oh, no. It is caught by the fishermen. And only one can be caught in a year, because only one is sent; and whoever catches it and brings it either to the Kitzuki-no-oho-yashiro, or to the temple Sadajinja, where the gods hold their second assembly during the Kami-ari-zuki, receives one hyo [7] of rice in recompense. It costs much labour and time to catch a serpent; but whoever captures one is sure to become rich in after time.' [8]

   'There are many deities enshrined at Kitzuki, are there not?' I ask.

   'Yes; but the great deity of Kitzuki is Oho-kuni-nushi-no-Kami, [9] whom the people more commonly call Daikoku. Here also is worshipped his son, whom many call Ebisu. These deities are usually pictured together: Daikoku seated upon bales of rice, holding the Red Sun against his breast with one hand, and in the other grasping the magical mallet of which a single stroke gives wealth; and Ebisu bearing a fishing-rod, and holding under his arm a great tai-fish. These gods are always represented with smiling faces; and both have great ears, which are the sign of wealth and fortune.'

 

6
   The Hakuja, or White Serpent, is also the servant of Benten, 01 Ben- zai-ten, Goddess of Love, of Beauty, of Eloquence, and of the Sea. 'The Hakuja has the face of an ancient man, with white eyebrows and wears upon its head a crown.' Both goddess and serpent can be identified with ancient Indian mythological beings, and Buddhism first introduced both into Japan. Among the people, especially perhaps in Izumo, certain divinities of Buddhism are often identified, or rather confused, with certain Kami, in popular worship and parlance.

   Since this sketch was written, I have had opportunity of seeing a Ryu-ja within a few hours after its capture. It was between two and three feet long, and about one inch in diameter at its thickest girth The upper part of the body was a very dark brown, and the belly yellowish white; toward the tail there were some beautiful yellowish mottlings. The body was not cylindrical, but curiously four-sided—like those elaborately woven whip-lashes which have four edges. The tail was flat and triangular, like that of certain fish. A Japanese teacher, Mr. Watanabe, of the Normal School of Matsue, identified the little creature as a hydrophid of the species called Pela-mis bicalor. It is so seldom seen, however, that I think the foregoing superficial description of it may not be without interest to some readers.

7
   Ippyo, one hyo 2 1/2 hyo make one koku = 5.13 bushels. The word hyo means also the bag made to contain one hyo.

8
Either at Kitzuki or at Sada it is possible sometimes to buy a serpent. On many a 'household-god-shelf' in Matsue the little serpent may be seen. I saw one that had become brittle and black with age, but was excellently preserved by some process of which I did not learn the nature. It had been admirably posed in a tiny wire cage, made to fit exactly into a small shrine of white wood, and must have been, when alive, about two feet four inches in length. A little lamp was lighted daily before it, and some Shinto formula recited by the poor family to whom it belonged.

9
   Translated by Professor Chamberlain the 'Deity Master-of-the-Great-Land'-one of the most ancient divinities of Japan, but in popular worship confounded with Daikoku, God of Wealth. His son, Koto-shiro- nushi-no-Kami, is similarly confounded with Ebisu, or Yebisu, the patron of honest labour. The origin of the Shinto custom of clapping the hands in prayer is said by some Japanese writers to have been a sign given by Koto-shiro-nushi-no-Kami.

   Both deities are represented by Japanese art in a variety of ways, Some of the twin images of them sold at Kitzuki are extremely pretty as well as curious.

2015/09/11

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (四)

 

        

 

 長い橋を越え、高い鳥居の下を通って、勾配の上つて行く町へ行つた。江ノ島のやうに、杵築も町の門として、鳥居がある。しかし唐金のではない。それから、洋燈を默じた開放せる店肆。高く彎曲せる軒の下に續ける、兩側の明るい障子。唐獅子で護られた佛寺の門。寺の境內の灌木が踰え出でてゐる、長い低い瓦屋根の塀。社頭に他の高い鳥居の建てる神道の宮など、それらはちらと見えたが、大社は、面影さへ見えなかつた。それは町の背後に當つて、森の茂つた山麓にあるのだ。しかも私共はあまりに疲れ、且つ空腹なので、今、參詣することを得ない。それで、私共は廣い心地よげな杵築一等の宿屋の前で車を止めた。して、休憩して食事をし、精巧な陶器の小杯で酒を汲んだ。この杯は或る美しい藝妓が宿屋へ贈つたのだ。それから後で、宮司を訪ねるのには、餘りに遲くなつたので、私は使の者に紹介狀を持たせて、明日午前伺候を許されたい旨を、晃の筆で認めた懸願と共に、宮司の邸へ遣した。

 それから、親切らしい宿屋の主人が、點火せる提燈を携へてきて、私共を誘つて大社ヘ案內した。

 大槪の家は、夜に入りて既に木造の引戶を閉めたので、街頭は暗く、主人の提燈は是非必要であつた。月も無く、空に星もなかつたから、私共は本通りを六丁目ほどの處へ行つてから曲がると、大社の並木道の門、大きな靑銅の鳥居の前へ出でた。

[やぶちゃん注:今回、ネット検索によって、ハーンは、出雲大社を、記録にあるだけでも、三度、参拝しており、既に述べた通り、この最初の参拝については、「八雲会」の松江時代の略年譜によって、大社町に到着したのが、明治二三(一八九〇)年九月十三日であり、「七」以下の千家尊紀宮司とともに西洋人として初めて大社に昇殿したのは翌九月十四日のことであることが判った。因みに、このリンク先には、以前にも記した通り、八月三十日午後四時に汽船(人力車ではなく)で松江に到着したこと、そのわずか三日後の九月二日には松江中学及び師範学校に初出勤しているという詳細も判明した。ここにリンクするとともに、細かな情報を与えてくれた謝意を表したい。私の所持する小泉八雲の関連書の年譜では、こうした日付まで記したものがないからである。

「江ノ島のやうに、杵築名町の門として、鳥居がある。しかし唐金のではない」「第四章 江ノ島巡禮」の「一五」を参照。現在もそうだが、江の島の島の正面参道の前(当時は海浜の直近であった)に建つ鳥居は「全部靑銅で、上には靑銅の七五三繩が附いてゐて、また『江島辨天宮』と書いた眞鍮の額が掛つてゐ」たのである。老婆心乍ら、「唐金」は「からかね」と読み、青銅のことである。この鳥居がどこにある鳥居なのか、調べ得なかった。識者の御教授を乞うものである。個人的には、参道の手前、当時は海岸に接していた最初のそれであると思っているのだが。

「踰え」老婆心乍ら、「こえ」(越え)と読む。

「廣い心地よげな杵築一等の宿屋」住吉神社公式サイト内の月刊『すみよし』のこちらの風呂鞏氏の『出雲大社「平成の大遷宮」』」の中に、大社の鳥居近く(南南西)にある老舗旅館「いなばや」(住所は杵築東七百二十一か。但し、引用先にも書かれているが、残念乍ら、数年前に廃業解体されて現存しないようである)が『ハーンが出雲大社訪問の際常宿としていた』とある。後の「第十一章 杵築のことゞも」の原注に「因幡屋」(原文“Inaba-ya”)と確かに出る。但し、初回の折りのこの宿が、この「いなばや」(因幡屋)であったかどうかは調べ得なかったが、一応、記しておく。

「懸願」これで「ぐわんかけ」(「願懸」)と読む。ここは、本文にあり通り、正式な正殿参拝の時刻の確認の申し出の願書である。

「月も無く」当日、明治二三(一八九〇)年九月十三日の島根県日御碕での月の入り(但し、新月)は十八時九分、日没は十八時二十一分であった(いつも大変御厄介になっている「こよみのページ」に拠った)。

「伺候」は「しこう」と読み、通常は貴人のお傍に奉仕すること、目上の人の御機嫌伺いをすることを指す。ここは出雲大社の宮司という神職に見(まみ)える謂いであろう。因みに、以前に注したが、当時の宮司千家尊紀は満三十歳、ハーンは四十である。但し、ここはハーンの青年書生である晃が、添え状を記しているのであるから、「伺候」が、後者の意味として実際に晃によって記されたとしてもおかしくはないとは言える。

「六丁目」これを厳密な距離単位とすれば、六百五十四メートル。旧「いなばや」の推定位置から大鳥居までは直線実測で百八十メートルほどしかないが、これは原文が“about six squares”で、本邦の距離単位としての「町(丁)」を未だ認識していなかったと思われるハーンを考えると、漠然と――街の小路のあるのを六区画ほど行くと――述べているだけかも知れない。とすれば、必ずしも、宿は「いなばや」ではなかった、とは言えないと思われる。「橫へ曲がると」という表現も、地図上で、正式な参拝路をとるために、一度、南東に曲がって、やおら、北の大鳥居方向へ歩くとするルートに相応しい(実際、夜道ならば、宿の主人は安全なそれを採るはずである)。因みにその場合は、大鳥居まで二百五十メートルほどとなる。] 

 

Sec. 4

   Over a long bridge and under a tall torii we roll into upward-sloping streets. Like Enoshima, Kitzuki has a torii for its city gate; but the torii is not of bronze. Then a flying vision of open lamp-lighted shop- fronts, and lines of luminous shoji under high-tilted eaves, and Buddhist gateways guarded by lions of stone, and long, low, tile-coped walls of temple courts overtopped by garden shrubbery, and Shinto shrines prefaced by other tall torii; but no sign of the great temple itself. It lies toward the rear of the city proper, at the foot of the wooded mountains; and we are too tired and hungry to visit it now. So we halt before a spacious and comfortable-seeming inn,—the best, indeed, in Kitzuki—and rest ourselves and eat, and drink sake out of exquisite little porcelain cups, the gift of some pretty singing-girl to the hotel. Thereafter, as it has become much too late to visit the Guji, I send to his residence by a messenger my letter of introduction, with an humble request in Akira's handwriting, that I may be allowed to present myself at the house before noon the next day.

   Then the landlord of the hotel, who seems to be a very kindly person, comes to us with lighted paper lanterns, and invites us to accompany him to the Oho-yashiro.

   Most of the houses have already closed their wooden sliding doors for the night, so that the streets are dark, and the lanterns of our landlord indispensable; for there is no moon, and the night is starless. We walk along the main street for a distance of about six squares, and then, making a tum, find ourselves before a superb bronze torii, the gateway to the great temple avenue.

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 小町

    ●小町

小町は若宮小路の東より南へ折れて行、夷堂橋までの間を云、東鑑に建久二年三月四日、小町大路の邊失火、江間殿相摸守等人屋敷十宇燒亡、南風烈餘煙如ㇾ飛、鶴岡若宮回廊、經所、幕府等悉灰燼となるとあり、鎌府盛なりし頃は、此地に群臣の邸宅を賜はり、其間市鄽(してん)駢羅(べんら)して、頗る饒富(げうふ)の地なりしとぞ。

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、現在の「小町通り」とは若宮大路を挟んだ反対側、東側の通りであることを説明していることを御理解戴いているであろうか? 現在の「小町通り」は近世末か近代以降のかなり新しい時期に、観光用土産屋の通りとして新たに生まれた通りであってこの「小町通り」自体が中世まで遡ることの出来る小路大路の類いではない。「小町通り」という名が剽窃された由来も明らかではないが、この反側(はんそく)側のゆかしい「小町」の名を観光宣伝にうってつけとして体(てい)よく奪い取ったものと考えてよかろう。

「建久二年三月四日」「吾妻鏡」の建久二(一一九一)年三月四日の条を引く。

   *

○原文

四日壬子。陰。南風烈。丑剋小町大路邊失火。江間殿。相摸守。村上判官代。比企右衞門尉。同藤内。佐々木三郎。昌寛法橋。新田四郎。工藤小次郎。佐貫四郎已下人屋數十宇燒亡。餘炎如飛而移于鶴岡馬場本之塔婆。此間幕府同災。則亦若宮神殿廻廊經所等悉以化灰燼。供僧宿房等少々同不遁此災云々。凡邦房之言如指掌歟。寅剋。入御藤九郎盛長甘繩宅。依炎上事也。

○やぶちゃんの書き下し文

四日壬子。陰(くも)る。南風烈し。丑の剋、小町大路邊から失火す。江間殿・相摸守・村上判官代・比企右衞門尉・同藤内・佐々木三郎・昌寛法橋(ほつきやう)・新田(につた)四郎・工藤小次郎・佐貫四郎已下の人屋數十宇燒亡す。餘炎飛ぶが如くして、鶴岳馬場(ばばもと)の塔婆(たふば)に移る。此の間、幕府、同じく災す。則ち亦、若宮神殿・廻廊・經所(きやうじよ)等、悉く以つて灰燼(くわいじん)と化す。供僧の宿坊等少々、同じく此の災を遁(のが)れずと云々。

凡そ邦房(くにふさ)の言、 掌(たなごころ)を指すがごときか。寅の剋、藤九郎盛長が甘繩の宅に入御。炎上の事に依つてなり。

   *

引用中の「江間殿」は北条義時、「相摸守」は大内惟義、「村上判官代」村上基国、「比企右衞門尉」比企能員(よしかず)、「同藤内」は比企朝宗、「佐々木三郎」は佐々木盛綱、「新田四郎」新田忠常、「工藤小次郎」は工藤行光、「佐貫四郎」は佐貫広綱で、皆、幕閣の重臣らで、「此地に群臣の邸宅を賜は」ったというこの叙述は正しい。なお、最後の「邦房の言、 掌(たなごころ)を指すがごときか」というのは、実は「吾妻鏡」のこの前日の条に、侍所に伺候した人々の中の。儒者大和守維業(これなり)の子である広田次郎邦房という者が周りの傍輩らに、「明日、鎌倉に大火災出來(しゆつたい)せん。若宮、幕府殆んど其の難を免(まぬか)るべからず。」と奇体な予言をし、聴いた者どもは「是れ、大和守維業が男なり。然らば、家業を繼がば、儒道の號(な)有ると雖も、天眼を得難たからんかの由、人、之れを咲(わら)ふ」という事実が記されていることを受け、彼が予言した通りの事態となったというべきであろうか、と呆れ懼れているのである。因みに私は、この事件は放火であって、広田次郎邦房という人物を実は深く疑っている。しかし、不思議なことに「吾妻鏡」は彼を疑るどころか、その記載ぶりは寧ろ、邦房の予知能力を称讃する形で終わっているのがこれまた何とも不審の極みなのである。

「市鄽」「してん」と読む。市(いち)とそれを形成する「鄽」=店(みせ)のこと。

「駢羅」沢山の物が並ぶこと。並び連なること。

「饒富」読みは「ぜうふ(じょうふ)」が正しい。豊かなこと。豊饒(ほうじょう)。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 佐佐目谷長樂寺谷

    ●佐佐目谷長樂寺谷

佐佐〔或は笹に作る〕目谷は。佐助谷の西隣にあり。長樂寺谷は。又其の西隣なり。こゝには昔者長樂寺と稱する寺ありて。法然の弟子隆觀住居せしといふ。

[やぶちゃん注:「佐佐目谷」笹目ヶ谷(ささめがやつ)は佐介ヶ谷と長谷の間、現在、鎌倉市笹目町の北西、市立御成中学校の西側の谷戸をいう。

「長樂寺谷」長楽寺という地名は現在、乱橋材木座(妙長寺の少し海寄り)辺りと、若宮大路を越えてずっと西の由比ヶ浜寄りの長谷・坂ノ下辺りの旧字(あざ)地名として残っているものの、まず使われることはないが、限定的な「長樂寺谷」は現在の鎌倉文学館の建っている谷戸を指す。「新編鎌倉志卷之五」には以下のように載る。

   *

「〇佐佐目谷〔附經時墓〕 佐佐(ささ)〔或作笹(或は笹に作る)。〕目谷(めがやつ)は、飢渇畠(けかちばたけ)の西の方の谷(やつ)なり。此の谷に昔し寺有り、長樂寺と號す。法然の弟子隆觀(りうくはん)住せしとなり。又武藏の守平の經時、寛元四年閏四月朔日に卒し、佐佐目(ささめ)の山の麓(ふもと)に葬る。後(のち)に梵宇を建てらる。又賴嗣(よりつぐ)將軍の御臺所(みだいどころ)をも、經時の墓の傍(かたはら)に立つと、【東鑑】に見へたり。今共に其の所を知る人なし。

   *

「隆観」(久安四(一一四八)年~安貞元(一二二八)年)は浄土宗長楽寺流の祖であった隆寛のことか。藤原資隆の子で、当初は天台宗の学僧であったが、後に法然の高弟子となり、洛東の長楽寺に住した。元久元(一二〇四)年、法然から「選択本願念仏集」を授受したが、嘉禄三(一二二七)年の専修念仏停止の綸旨による嘉禄の法難で法然らと共に遠国追放となり、隆寛は陸奥国配流とされた。ところが護送役の毛利季光(西阿。大江広元四男で関東評定衆であったが、宝治元(一二四七)年の宝治合戦で妻の実家である三浦方に付いて法華堂で息子らと共に自刃した。因みに彼は後の毛利元就の先祖)が帰依、配流地へは八十歳の高齢であった隆寛の身代わりとして弟子が赴き、隆寛は鎌倉で北条朝直(初代連署北条時房四男。後に幕府評定衆)を教化した後、八月に毛利の領地相模国飯山(現・神奈川県厚木市)に入って、同年十二月(没年の安貞元年を西暦一二二七年としなかったのは、この月は既に一二二八年に入っているから)にこの地で没している。寺号といい、ほんの一時とは思われるが、鎌倉での北条朝直教化の折り、ここに住したか。

引用文中、「頼嗣將軍の御臺所」の墓が北条経時と一緒にあるというのは、彼女が経時の妹檜皮姫(ひはだひめ 寛喜二(一二三〇)年~宝治元(一二四七)年)であったからである。寛元二(一二四四)年に経時に命で頼嗣の御台所となったが、兄の死去の翌年、十八歳で夭折している。]

2015/09/10

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (三)

 

       

 

 一時間半の間、左右の山脈は交互に船に近寄つたり、遠退いたりする。綺麗な靑い山々が船の方へ走つてくる。綠色に變はる。やがで徐々と船の後方へ流れ去つて、またすべて靑くなる。だが眞正面の遠山は不動不變、始終幽靈のやうだ。突然船は眞直に陸地へ方向を轉じた。陸地は非常に低いので、全く不意に見えてきたのであつた。して、田地の間の狹い川をぷつぷつと煙を吐き乍ら、運河の堤畔にある風變りな、舊式の小綺麗な莊原村ヘ上ぼつて行つた。こ〻で杵築まで車を雇はねばならぬ。

 就寢前に杵築へ着かうと思へば、莊原をあまり見る時間がないので、たゞ一筋の長い廣い町を通りがけに見ただけで(綺麗な町だから、一日こゝで暮し度く思ふ程だ)、車は小さな町から、開豁な田舍の一望田地の廣い平地を突進した。道路は唯廣い堤防で、二臺の車がその上で辛つと互に代はり合つて越せるだけの幅だ。道の兩側には壯大な平野が、白い水平線を遮つた山脈で限られてゐる。私共が久木村から上直江の田舍道へ出ると、雄大な靜かさ、夢の如き平和といふ大きな感じや、輝いた柔かな蒸汽のやうな光りが一切の物を被ふてゐる。左方の鋸齒狀の山脈は「しゆさい【譯者註一】」山で、際立つた綠色を呈し、其上には大黑山の巨峯が蔽ひかぶさつてゐる。大黑山は神の名から來たのだ。もつと遠く、右に當つて、草の紫色を帶びた北山(きたやま)の、大きな峻嶺が、日沒の方へ盛んな列をなして、綿々連旦し、西へ伸びるに從つて、微かになり、最後にいかにも幽靈のやうに、ぱつたり遠い空ヘ消え失せてしまう。

 この眺めは綺麗ではあるが、數時間立つても、景色に變化がない。始終道路は紙の羽をつけた祈願の矢が白く點綴せる、數哩に亘つた田圃の間を曲つて行く。始終際涯なきぶつぶつの音の如く、蛙の鳴聲がする。始終左の綠色の山、右の紫色の山は、色彩を帶びた妖怪の丈高い行列となつて、西方へ去るに從つて色褪せて、恰も空氣であつたかの如く、たうとう無に歸してしまう。風物の單調が破られるのは、たゞをりをり綺麗な日本の村の中を通つたり、路傍に地藏や、道の曲がり角に珍らしい像が現れたり、または簸の川の堤上にあつた、『出雲松菊助』と刻せる花崗石の大きな扁額のやうな、力士の墓があるためであつた。

 しかし神門郡に達して、幅は廣くても、淺い川を越えると、新しい點が景色に現れた。左方の山嶺の上に、その輸廓から推せば、嘗て大きな火山であつたのと認めらるゝ、丁度鞍狀をなせる、靑い大影法師が、ぬつと屹立してゐる。これは種々の名を帶びてゐるが、昔は佐比賣(さひめ)山と呼ばれたのであつた。して、この山には神道の傳說【譯者註二】がある。

 創世の時代に、出雲の神が、國を見渡して、『出雲の國は狹布(さぬ)の稚國(わかくに)なるかも。初國小さく作らせり。故(かれ)、作り縫はむ』といつたといふことである。それから、彼はあたりを見𢌞して、朝鮮の方を眺めると、適當な土地を發見した。彼は大きな綱を以て、そこから四つの島を引きよせて、それを出雲に附け加へた。第一の島は八百丹(やほに)と呼ばれて、現今杵築のある土地を成した。第二の島は狹田(さだ)の國【譯者註三】と呼ばれて、現今すべての神々が每年最初杵築に集まつてから、第二回目の會合をする社殿のある土地である。第三の島は闇見(くらみ)の國と呼ばれて、現今島根郡【譯者註四】を成してゐる。第四の島は稻の田の護符を信徒に授ける社殿【譯者註五】の建ってゐる土地となつた。

 さて、海を越えて是等の島をそれぞれの場所へ引きよせるのに、その神は綱の弶を大山と佐比賣山にかけた。で、兩方とも今日まで、その驚くべき綱の痕を印してゐる。またその綱は、一部は夜見(よみ)ケ濱といふ古代の長い島となり、また一部は薗(その)の長濱となつた。

    註。夜見ケ濱は今では、しつかり本
    土と合した。地文學者や地質學者に
    取つて珍らしい興味ある、澤山の異
    常なる變化が、出雲海岸並に湖水附
    近に實際起つた。今でも每年、ある
    變化が發生する。私も數囘珍らしい
    のを見た。

 堀河を過ぎてからは、道が狹くなり、また段々凸凹が多くなつた。が、北山の山脈へ次第に近寄つた。日沒頃には、林相の詳細が認めらるゝほど、その山に迫まつた。道が昇り始めた。私共は暮れ行く中を徐々と登つて行った。たうとう前面にきらきら輝く燈火の群が見えた。私共は神都杵築に達した。

    譯者註一。この山の名に就いては、
    疑を附しおく。
    譯者註二。現今の三瓶山。
    譯者註三。佐陀神社は松江の西北二
    里、佐陀村にある。
    譯者註四。島根郡は郡の併合の結果、
    現今は八束郡の東北全郡。
    譯者註五。美保神社。出雲國の最東
    北端。

[やぶちゃん注:二個所ある「しまう」はママ(以降、この注は略す)。

「莊原村」「しやうばらむら(しょうばらむら)」と読む。現在の出雲市斐川町荘原(しょうばら:グーグル・マップ・データ)。現在は宍道湖の西南端の新建川(しんたてがわ)を少し遡ったところにある(現在、この新建川河口左岸には出雲空港がある)。

「開豁」「かいくわつ(かいかつ)」と読み、広々として眺めのよいさま。

「辛つと」「やつと(やっと)」と訓じておく。

「白い水平線」原文“the white horizong”。水平線とすると宍道湖しか考えられないが、進行方向の真後ろで、おかしい。これは平井呈一氏のように、靄った「地平線」の誤りであろう。

「久木村」旧荘原村の西北に接した旧村であるが、現在の地図上の地名では現認出来なかった。しかし、「ひなたGPS」の戦前の地図で確認出来た。

「上直江」直江村は旧荘原村の西、旧久木村の南に接していた村で、南北にやや長いから、ルート上からも現在の斐川町直江附近と思われる。丁度、斐伊川を挟んで、現在の出雲市とほぼ対称位置にあった村である。これも、「ひなたGPS」の戦前の地図で確認出来た。

『「しゆさい」山』落合氏も疑問を呈しておられるが、不詳である。現在の地図上では、ハーンの言うように大黒山(グーグル・マップ・データ)の北には、そのような名前の山は見当たらないし、その周囲にも、この発音と類似する山はない。可能性として、位置的には、「出雲空港カントリー倶楽部」(グーグル・マップ・データ)辺りが怪しい感じはするが、出雲の古地図でも見ない限りは何とも言えない。

「大黑山」現在の斐川町の南東部に位置する標高三百十五メートルの山。八ヶ岳原人氏の個人サイト内の「大黒山と大国主命」によれば、『神代の昔、大黒さんと言われている大国主命がスクナビコナの神とこの山に登り、出雲の国に稲作を広めたり、海のものを多く取ったりして国を豊かにしよう、と平野や内海を眺めて相談をなさったところ、といわれています』。『頂上近くには大きな岩がありますが、その岩が二神がお立ちになって国内を眺められたところ、といわれています』とある。

「北山」これは幾つかの山屋の方の記載を見るに、「出雲北山」で、北方部の出雲大社の方へ東から西方向に連なっている旅伏山(たぶしさん)・鼻高山(はなたかせん)・弥山(みせん)の峰々(孰れも「ひなたGPS」)」の包括呼称と思われる。

「連旦」「連担(れんたん)」か。それぞれが拡大することによって連なって相互に融合することをいう。

「數哩に亘つた田圃の間を曲つて行く」くどいが「哩」はマイルで一マイルは約一・六一キロメートル。後に斐伊川以西の旧郡「神門郡」(かんどぐん/かんどのこほり)が出てくるから、試みに斐伊川までの荘原からの距離を実測してみると、八~九キロメートルはある。

「簸の川」斐伊川。因みにこの川は「古事記」の「肥の川」、「日本書紀」の「簸の川」に比定される川で「国引き」や「八岐大蛇」と関係するとされる日本神話に彩られた川である。

「出雲松菊助」不詳。識者の御教授を乞う。

「神門郡」前の注で示した通り、「神門」は「かんど」と読む。ウィキの「神門郡」によれば、古代に於いては、『律令制の施行により制定されたと考えられる。『出雲国風土記』によれば、伊加曾然(いかそね)という者がこの地に神門を奉ったことにより神門臣の姓を賜り、その神門臣が定住したのでその地を「神門」と呼ぶようになったとされる。郡家は古志郷にあった』とあり、明治一二(一八七九)年に行政区画として発足した際の、『当時の郡域は、出雲市の一部(西谷町・佐田町須佐・佐田町朝原・佐田町原田・佐田町反邊・佐田町大呂・多伎町神原を除く斐伊川以西かつ武志町、稲岡町、里方町、日下町、矢尾町、大社町各町以東)、大田市の一部(山口町佐津目・山口町山口)にあたる』とある。

「佐比賣(さひめ)山」落合氏も注されておられる通り、これは現在の島根県のほぼ中央部の大田市及び飯南町に跨って聳える三瓶山(さんべさん:グーグル・マップ・データ)の古名である。標高千百二十六メートルで、周囲を囲むピーク群は溶岩円頂丘である。参照したウィキの「三瓶山」によれば、『石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、『出雲国風土記』が伝える「国引き神話」に登場』し、ハーンが以下に述べるように、『三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている』とあり、「出雲国風土記」では「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている、とある。事実、この「佐比売」の名は、昭和二九(一九五四)年に『大田市に合併するまでの地名「佐比売村」として残っていた』ともある。因みに斐伊川を渡った現在の出雲市駅附近からだと、南西約二十八キロメートルに位置している。以下、ウィキ国引き神話を引いておく。国引き神話は『出雲国に伝わる神話の一つである』が、「古事記」「日本書紀」には『記載されておらず』、「出雲国風土記」冒頭の「意宇郡」の最初の部分に書かれている神話である。『当初、作られた出雲国は「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」によれば「狭布(さの)の稚国なるかも、初国小さく作らせり、故(かれ)、作り縫はな」という失敗作であったという』。『「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであった』ため、『八束水臣津野命は、遠く「志羅紀(新羅)」「北門佐岐(隠岐道前)」「北門裏波(隠岐道後)」』「高志(越)」の『余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であると』し、この時、『国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという』。

「狹布(さぬ)の稚國(わかくに)」細長い布切れのような、如何にも小さな国の意か。

「弶」「くひち(くいち)」或いは「くびち」「わな」などと訓ずる。原義は網を張る・罠を掛けるの意であるが、ここは繩を固定するために端を輪状にした部分を指すものと考えられる。

「夜見ケ濱」現在の鳥取県西部の米子市と境港市に連なる弓ヶ浜(ゆみがはま)と、その半島であろう。ウィキ弓ヶ浜半島には、『弓浜(きゅうひん)半島、夜見ヶ浜半島、五里ヶ浜ともいわれる』とし、『古くは島であったと考えられている。『出雲国風土記』には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」とあり、『伯耆国風土記』逸文には「夜見島」の北西部に「余戸里」(現在の境港市外江町付近)が存在したと記されている』とあり、また、『半島の形成は平安時代頃であるとされ、これを裏付けるように半島全域から平安期の土器片が発見されている』。応永五(一三九八)年に『成立した『大山寺縁起絵巻』には弓ヶ浜半島が描かれており、『境港市史』ではこれを鎌倉時代の様子ではないかと指摘している』とある。

「薗の長濱」現在の出雲市大社町にある砂浜海岸「稲佐の浜」(いなさのはま:グーグル・マップ・データ)附近。ウィキ「稲佐の浜」によれば、『国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名が見える。また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされている』とある。

「澤山の異常なる變化が、出雲海岸並に湖水附近に實際起つた。今でも毎年、ある變化が發生する。私も數囘珍らしいのを見た」どのような変化であったものか? 落盤や隆起や液状化現象か? 具体に示さないところが、これまた、「怪奇幻想ハーン流」と言うべきか。

「堀河」現在の出雲市大社町堀川で、高浜川の下流河口付近を指すものと思われる。南南西一・八キロメートル圏内である。

「佐陀神社」現在の島根県松江市鹿島町佐陀宮内にある佐太(さだ)神社(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「佐太神社」に『正殿の主祭神である佐太御子大神は『出雲国風土記』に登場する佐太大神と考えられる。佐太大神は神魂命』(かみむすび)『の子の枳佐加比売命』(きさがひひめ/蛤貝比売(うむぎひめ)とも呼ぶ)『を母とし、加賀の潜戸』(かかのくけど:前出既出で後掲される)『で生まれた。神名の「サダ」の意味には「狭田、すなわち狭く細長い水田」という説と「岬」という説とがある』とある。

「島根郡」ウィキの「島根郡」によれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した当時の郡域は、松江市の一部(大根島・江島を除く大橋川以北かつ浜佐田町、薦津町、下佐陀町、上佐陀町、鹿島町名分、鹿島町御津以東)にあたる』とあり、古えには『律令制の施行により制定されたと考えられる。『出雲国風土記』では、国引き神話の八束水臣津野命(やつかみずおみつの)が発した言葉による命名としている』とある。

「八束郡」「やつかぐん」と読む。ウィキの「八束郡によれば、明治二九(一八九六)年に『行政区画として発足した当時の郡域は、松江市の大部分』(但し、市街地の一部を除く)『および出雲市の一部(美野町・野郷町・地合町)にあたる』とある。これも結局、松江市となり最後まで残っていた東出雲町が二〇一一年に松江市に編入されて八束郡も消滅した。

「美保神社」現在の松江市美保関町美保関にある美保神社(グーグル・マップ・データ)。最後も、ウィキの「美保神社から引く。事代主神系えびす社三千余社の総本社と自称し(引用元には『えびす云々ではなく事代主神を祀る神社の総本宮の意と思われる』と注する)、『えびす神としての商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める。また、「鳴り物」の神様として楽器の奉納も多い』。『右殿に大国主神の子の事代主神、左殿に大国主神の后の三穂津姫』(みほつひめ)『を祀る』とし、補注で『(三穂津姫命は大国主神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である「大物主神」の后神。事代主命は神屋楯比売神(かむやたてひめ)と大国主神との間の子供なので義理の母親にあたる)』とある。「出雲国風土記」には、『大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものとみられる』。創建の由緒は不詳ながら、八世紀に編纂された「出雲国風土記」の『神社台帳に記載される古社である。延喜式神名帳では小社に列する』。『中世より横山氏が神職を世襲した。近世ごろから「大社(出雲大社)だけでは片詣り」と言われるようになり、出雲大社とともに参拝者が増えるようになった。出雲大社とあわせて「出雲のえびすだいこく」と総称される』とある。なお、原注では“Mionoseki”となっているが、ハーンには「みほ」が「みお」と聴こえたものか?] 

 

Sec.3

   For an hour and a half the ranges to left and right alternately recede and approach. Beautiful blue shapes glide toward us, change to green, and then, slowly drifting behind us, are all blue again. But the far mountains immediately before us—immovable, unchanging—always remain ghosts. Suddenly the little steamer turns straight into the land—a land so low that it came into sight quite unexpectedly—and we puff up a narrow stream between rice-fields to a queer, quaint, pretty village on the canal bank—Shobara. Here I must hire jinricksha to take us to Kitzuki.

   There is not time to see much of Shobara if I hope to reach Kitzuki before bedtime, and I have only a flying vision of one long wide street (so picturesque that I wish I could pass a day in it), as our kuruma rush through the little town into the open country, into a vast plain covered with rice-fields. The road itself is only a broad dike, barely wide enough for two jinricksha to pass each other upon it. On each side the superb plain is bounded by a mountain range shutting off the white horizon. There is a vast silence, an immense sense of dreamy peace, and a glorious soft vapoury light over everything, as we roll into the country of Hyasugi to Kaminawoe. The jagged range on the left is Shusai- yama, all sharply green, with the giant Daikoku-yama overtopping all; and its peaks bear the names of gods. Much more remote, upon our right, enormous, pansy-purple, tower the shapes of the Kita-yama, or northern range; filing away in tremendous procession toward the sunset, fading more and more as they stretch west, to vanish suddenly at last, after the ghostliest conceivable manner, into the uttermost day.

 

   All this is beautiful; yet there is no change while hours pass. Always the way winds on through miles of rice-fields, white-speckled with paper-winged shafts 
which are arrows of prayer. Always the voice of frogs—a sound as of infinite bubbling. Always the green range on the left, the purple on the right, fading 
westward into a tall file of tinted spectres which always melt into nothing at last, as if they were made of air. The monotony of the scene is broken only by our occasional passing through some pretty Japanese village, or by the appearance of a curious statue or monument at an angle of the path, a roadside Jizo, or the grave of a wrestler, such as may be seen on the bank of the Hiagawa, a huge slab of granite sculptured with the words, 'Ikumo Matsu kikusuki.'

   But after reaching Kandogori, and passing over a broad but shallow river, a fresh detail appears in the landscape. Above the mountain chain on our left looms a 
colossal blue silhouette, almost saddle-shaped, recognisable by its outline as a once mighty volcano. It is now known by various names, but it was called in 
ancient times Sa-hime-yama; and it has its Shinto legend. 

   It is said that in the beginning the God of Izumo, gazing over the land, said, 'This new land of Izumo is a land of but small extent, so I will make it a larger land by adding unto it.' Having so said, he looked about him over to Korea, and there he saw land which was good for the purpose. With a great rope he dragged therefrom four islands, and added the land of them to Izumo. The first island was called Ya-o-yo-ne, and it formed the land where Kitzuki now is. The second island was called Sada-no-kuni, and is at this day the site of the holy temple where all the gods do yearly hold their second assembly, after having first gathered together at Kitzuki. The third island was called in its new place Kurami-no-kuni, which now forms Shimane-gori. The fourth island became that place where stands the temple of the great god at whose shrine are delivered unto the faithful the charms which protect the rice-fields. [4]

   Now in drawing these islands across the sea into their several places the god looped his rope over the mighty mountain of Daisen and over the mountain 
Sa-hime-yama; and they both bear the marks of that wondrous rope even unto this day. As for the rope itself, part of it was changed into the long island of 
ancient times [5] called Yomi-ga-hama, and a part into the Long Beach of Sono. 

   After we pass the Hori-kawa the road narrows and becomes rougher and rougher, but always draws nearer to the Kitayama range. Toward sundown we have come close enough to the great hills to discern the details of their foliage. The path begins to rise; we ascend slowly through the gathering dusk. At last there 
appears before us a great multitude of twinkling lights. We have reached Kitzuki, the holy city.
 

 

4
Mionoseki.

5
Now solidly united with the mainland. Many extraordinary changes, of rare interest to the physiographer and geologist, have actually taken place along the 
coast of Izumo and in the neighbourhood of the great lake. Even now, each year some change occurs. I have seen several very strange ones. 

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (二)

 

        

 

 右方の丘陵は、船の進むに從つて段々高くなって、いつも次第に私共の方に近寄つてきて、その豐富な森の一切細部を見せ始めた。見れば、森に蔽はれた大きな峯の頂上、晴れた空の下に、一大佛寺の稜角多き屋根が歷然現れた。それは一畑山にある一畑寺で、靈魂の醫者、藥師如來の伽藍だ。が、一畑に於て、如來は比較的特別に肉體の醫者として、盲者に明を與ヘる佛陀として示現してゐる。誰でも眼病のものは、その大寺院に向って熱禱すれば、快癒を得るものと信ぜられてゐる。で、そこへ幾多の遠國から數千の患者が、長い退屈な山路を辿り、絕頂の見晴らしのよい境內へ通ずる六百四十の石段を蹈んで、參詣する。そこで巡禮者は神聖な泉の水で眼を洗ひ、御堂の前へ脆いて、一畑の神聖な信條、『おんころころせんだい、まとーき、そわか』といふ句を低唱する。多くの佛敎の願文と同じく、この意味は永く忘れられてしまつてゐる。梵語から漢語へ、更に日本語へと轉譯したので、その意味はたゞ博學の僧侶が知るのみであるが、全國の人に諳誦され、非常に熱心を籠めて唱へられる。

 私は船室の屋根から降つて、庇の下で甲板に坐して、晃と共に喫煙した。して、私は問ふた――

 『佛陀の數は幾つあるのだらう。悟者の數はわかつてゐる?』

 『佛陀は無數です』と、晃は答へた。『しかし實際は唯だ一つの佛陀あるのみです。數の多いのは、形相だけです。私共は各自に未來の佛陀を藏してゐます。私共は悟る處多かつたり、少かったつたりするといふことを除いては、一切平等ですが、俗人はこれを知らずに象徴や形式に救ひを求めてゐるのです』

 『それから神――神道の神々は?』

 『神道に就ては私はあまり存じませぬ。が、高天ケ原に八百萬の神ましますと、古い書物に書いてあります。その中、三千百三十二神は、日本の初國二千八百六十一社に祀られてゐます。して、日本の十月は神無月と申します。その月には、日本國中の神々が、社殿を去つて、出雲の國、杵築大社に集り玉ふからです。で、同じ道理で、その月が出雲に於てだけは、神在月と呼ばれます。が、教育を受けた人々は、漢語を使つて、『神有祭【譯者註】』といふこともあります。それから、蛇が海から陸へ上つて來て、神々の食卓なる三寶の上ヘとぐろを卷くと信ぜられてゐます。蛇は到着を知らせるのです。で、龍王は神々と人間の先祖なる伊弉諾、伊弉册の社殿へ使者を遣はすのです』

    譯者註。通辯人のこの說明については、疑を附しおく。

 『記憶力には限りがあるから、數百萬の神々のことは、私はいつまでもわからず了ひになるより、外に仕方がない。が、最も滅多に名の呼ばれない神々、珍らしい土地や、不思議な事柄の神々のことを少し話して下さい』

 晃が答へた。『私からは、彼等についてあまりお學びになることは出來ません。他のもっと一層學問ある人達にお質ねにならねばいけませぬ。が、あまりお知り合ひにならぬ方が望ましい神々もあります。貧之の神、飢餓の神、吝嗇の神、妨害や邪魔の神などです。是等は欝陶しい日の雲のやうに、暗い色をして、餓鬼のやうな顏をしてゐます』

[やぶちゃん字注:「お質ねにならねばいけませぬ」の箇所は底本では実は「お質ねにならばいけませぬ」である。例外的に脱字と断じて「ね」を挿入した。]

    註。餓鬼は梵語の薜茘哆(プレータ)、
    地獄に於けゐ呵責界の飢ゑた亡靈で、
    その懺悔は飢餓である。ある餓鬼の
    口は『針の穴よりも細い』

 『妨害や邪魔の神とは、私は一面識どころの知り合ひではない。どうか他の神のことを話して下さい』

 『私は貧乏神の外は、どの神のこともあまり知りません』と、晃は答へた。『世の中には、いつも相伴ふ二神があると申します。福の神と貧乏神です。一方は白他方は黑です』

[やぶちゃん字注:末尾は原文では実は「で黑はす」であるが、意味が通じない。錯字と断じて例外的に「で」と「は」を入れ替えた。]

 私は口を插んで言つた、『その譯は、後者はたゞ前者の影に過ぎないから。福の神は影を投ずるもので、貧乏神は影です。私もこの世を遍歷して、どこでも一方のものが行く處に、絕えず他方のものがついて來ることを觀察したのです』

 晃はこの解釋に同意をしないで、また續けて言つた。『貧乏神が一たびつき纒ひ出すと、彼から脱することは非常に困難です。京都から遠くない、近江の國の海津村に住んでゐた僧が、多年貧乏神に惱まされてゐました。每度彼を追う拂はうとしても駄目でした。で、彼を欺かうとして、自分は京都に行くのだと。大聲で人々に宣言して、京都には行かずに、越前の國、敦賀へ行きました。敦賀の宿へ着いた時に、餓鬼のやうに、瘠せて靑ざめた少年が出で、彼に逢つて云ひました。「私はあなたをお待ち申してゐました」――して、その少年は貧乏神でありました。

 『またある僧は六十年間、貧乏神から脫しようとして、駄目でしたから、たうとう遠國へ行かうと決心しました。決心をしたその晩、奇妙な夢を見ました。非常に瘠せ衰へて、裸で、垢じみた少年が、巡禮や車夫の履くやうな草鞋を造つてゐます。しかも、その少年があまり澤山造りますので、僧うが怪しんで「何故そんなに多くの草鞋を造るか?」と尋ねると、少年は答へました。「私はあなたと御一緖に旅をしようと思つてゐますから。私は貧乏神ですよ」』

 『では、貧乏神を追拂ふ方法はないのか?』

 『地藏經古粹といふ本に書いてありす』と、晃が答へた。『尾張の國に住んでゐた圓城坊といふ老僧は呪(まじな)ひの手段で貧乏神を退けることが出來たさうです。大晦日に老僧はその弟子や眞言宗の他の僧と共に、桃の枝を持つて、呪文を誦し、枝を以て寺から人を追拂ふ所作の眞似をして、それから一切の門戶を閉鎖し、また他の呪文を誦しました。その夜圓城坊は或る壞はれた寺で、骸骨の僧が獨り泣いてゐる夢を見ました。して、その骸骨の僧は彼に謂ひました。「かくも多年あなたと共にゐたものを、どうして追拂ふのです?」しかし、それから後、死する日までも圓城坊は常に繁昌榮華の暮しをしました』

[やぶちゃん注:「一畑寺」「いちばたじ」と読む。既に複数回既出既注。公式サイトの「お寺の紹介」によれば、草創は寛平六(八九四)年で、『一畑山の麓、日本海の赤浦海中から漁師の与市(よいち)が引き上げた薬師如来をご本尊としておまつりしたのが始まりで、与市
の母親の目が開いたり、戦国の世に小さな幼児が助かったことから、「目のやくし」「子供の無事成長の仏さま」として広く信仰されて』いるとある。「め」と大書した眼病平癒祈願の札の画像は、なかなかクるものがある。

「六百四十の石段」現在の上記公式サイトには一畑寺は標高二百メートルの一畑山の山上にあり、千三百段余りの石段があるとある。倍以上で、これは当時は単なる坂道であった部分を、その後に歩き易く石段に改良したのであろうか? それともハーンの聞き間違いか、情報提供者がいい加減だったのか? 識者の御教授を乞う。

「おんころころせんだい、まとーき、そわか」薬師如来の小咒(しょうしゅ)・一字咒(いちじしゅ)と称する最も短い真言(マントラ(梵語:mantra)密教に於いて如来菩薩の誓願や教え及びその衆生に与える功徳などを秘めているとされる呪文的語句。原語をそのまま音写して用いる)。ウィキの「薬師如来」によれば、「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」(oṃ huru huru caṇḍāli mātaṅgi svāhā)である。

「譯者註。通辯人のこの說明については、疑を附しおく」落合氏のこの注は恐らく、「『神有祭』といふ」呼称は「敎育を受けた人々」が「漢語を使つて」如何にもそれらしく、言っているに過ぎない、神無月という語から陳腐な発想で対義語として捻り出した語に過ぎない的な、如何にも批判的なニュアンスに対する疑義と思われる。但し、例えばウィキの「神無月」には、『「神無月」の語源は不詳である。有力な説として、神無月の「無・な」が「の」にあたる連体助詞「な」で「神の月」というものがあり、日本国語大辞典もこの説を採っている』とし、『出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなるとという説は、中世以降の後付けで、出雲大社の御師が全国に広めた語源俗解である。高島俊男は、「「かみな月」の意味がわからなくなり、神さまがいないんだろうとこんな字をあてたのである。「大言海」は醸成月(かみなしづき)つまり新酒をつくる月の意だろうと言っている。これも憶測にすぎないが、神さまのいない月よりはマシだろう。」と評している』『日本国語大辞典は、語義の冒頭に、「「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。」とし、語源説として』十一に及ぶ説を列挙している(省略。リンク先を参照されたい)。これから考えれば「無」は音を当てたに過ぎず、「無し」の意ではないというのが有力であることになり、必ずしも晃の謂いを批難は出来ないと私は思う。なお更に、『「神無」の解釈』という項では、『平安時代には国土と諸神の母神である伊邪那美神の供養月なので行われるという記述がある。出雲大社に神が集まるのは、一般には縁結びの相談のためとされている。そのため、かつて佐渡には』十月の『縁談を避ける風習が、北九州では神が出雲に向かう日と帰ってくる日には未婚の男女がお籠りをする風習があった』。『出雲に行くのは大国主神系の国津神だけであるという説や、天照大神を始めとする天津神も出雲に行くという説もあり、この考えと一致するような、「出雲に出向きはするが、対馬の天照神社の天照大神は、神無月に出雲に参集する諸神の最後に参上し、最初に退出する」と言う伝承もある』。『出雲に祭神(さいじん)が出向いてしまっては、その地域を鎮護(ちんご)するものがいなくなるということから、「留守神」と呼ばれる留守番をする神も考え出されるようになった。一般に留守神には恵比須神が宛てられ』、十月に『恵比須を祀る恵比須講を行う地方もある』。『鹿島神宮の祭神は、地震を起こす原因と考えられた「地中に棲む大鯰(おおなまず)」を、押さえつける「要石」を鎮護するものであり、過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島の神が出雲に出向いて留守だったために起きたと伝承されている』とあって、私などは神が居ない代わりに各地方で十月だけ限定的に祀られるという神の方に関心が向く。それこそは大和朝廷にまつろわずに隠蔽されてしまった神々、権力によって妖怪変化に零落させられた本来のそれぞれの地の地神や精霊の末裔ではないかと想像したくなるからである。

「蛇」日本参道狛犬研究会公式サイト内の「神使の館」に参考資料として「蛇~ヘビ(4) 出雲大社(祭神:大国主命)の龍蛇の頁があり、それによれば出雲大社に於いては十月の神在月に出雲に集まる神々を先導する役として海蛇が神使とされ、陰暦十月十日の『夜に全国から出雲に集まる八百万の神々を「龍蛇」が稲佐の浜(出雲大社の西海岸)へ先導してくる』とある。同頁は出雲大社の発行する「出雲大社龍蛇神のお札」が画像で示されてあるが、これは見た途端、私は南方熊楠の「ウガという魚のこと」と(リンク先は私の古い電子テクスト)、実見したことがあるその液浸標本が直ちに頭に浮かんだ。これはまさに熊楠が述べるウミヘビ類の尾に、甲殻類のフジツボの仲間である蔓脚類の仲間、節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目エボシガイ亜目エボシガイ科エボシガイLepas anatifera の仲間(この仲間は異常に着生対象に特化しているので種を同定するのは至難の業である)が付着しているのを図像化したものではあるまいか? 海蛇が先導し、そこに烏帽子を被った神々が附くという私の空想は、どうであろうか? 大方の御批判を俟つものではある。

「餓鬼は梵語の薜茘哆(プレータ)」以下、ウィキの「餓鬼」より引く。梵語で“preta”、漢字音写では一般には「薜茘多(へいれいた)」と記す。『仏教において、亡者のうち餓鬼道に生まれ変わったものをいう。preta とは元来、死者を意味する言葉であったが、後に強欲な死者を指すようになった』。『俗に、生前に贅沢をした者が餓鬼道に落ちるとされている。ただし仏教の立場から正確にいえば、生前において強欲で嫉妬深く、物惜しく、常に貪りの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界とされる。しかし大乗仏教では、後々に死後に生まれ変わるだけではなく、今生においてそのような行状をする人の精神境涯をも指して言われるようになった』。『餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる。長期的な飢餓状態の人間が発症するクワシオルコル』(kwashiorkor:「クワシオコア」とも呼ぶ栄養失調症の一病態を指す語で、一般にはタンパク質の摂取量が十分でないために起こる症状を指すとされる。症状の特徴は足の浮腫・腹部膨満・脂肪性浸潤物による肝臓肥大・歯の脱落・肌の脱色及び皮膚炎・脱毛・下痢・体重減少などで、重症化すると死亡することもあり得る。ここはウィキの「クワシオルコル」に拠った)『の特徴である、痩せ細って腹部のみが丸く膨れ上り、足の甲が浮腫んだ姿が描かれることが多い』。「正法念処経」巻十六には餓鬼の住処む場所は二所あるとし、『人中の餓鬼。この餓鬼はその業因によって行くべき道の故に、これを餓鬼道(界)という。夜に起きて昼に寝るといった、人間と正反対の行動をとる』。今一つは文字通り、六道の餓鬼道で、閻浮提(えんぶだい:須弥山の周囲にある四つの大陸である四大洲の一つで人間の住む地)の下、五百由旬(ゆじゅん:古代インドにおける長さの単位であるが一定しない。仏教では通常、一由旬を約七キロメートルに換算することが多い)の地下にあり、その広さは三万六千由旬とされる。『しかして人間で最初に死んだとされる閻魔王(えんまおう)は、劫初に冥土の道を開き、その世界を閻魔王界といい、餓鬼の本住所とし、あるいは餓鬼所住の世界の意で、薜茘多世界といい、閻魔をその主とする。余の餓鬼、悪道眷属として、その数は無量で悪業は甚だ多い』とある。以下では「正法念処経」に説かれている三十六種の餓鬼が「餓鬼の種類」として詳述されているが、その三番目に、『針口(しんこう)』という餓鬼が挙げられており、『貪欲や物惜しみの心から、布施をすることもなく、困っている人に衣食を施すこともなく、仏法を信じることもなかった者がなる。口は針穴の如くであるが腹は大山のように膨れている。食べたものが炎になって吹き出す。蚊や蜂などの毒虫にたかられ、常に火で焼かれている』(下線やぶちゃん)とある。これこそがハーンが注で述べている「ある餓鬼の口は『針の穴よりも細い』」の引用元であろう。

「貧乏神」ウィキの「貧乏神」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。『取りついた人間やその家族を貧困にする神』として、『日本各地の昔話、随筆、落語などに名が見られる』。『基本的には薄汚れた老人の姿で、痩せこけた体で顔色は青ざめ、手に渋団扇を持って悲しそうな表情で現れるが、どんな姿でも怠け者が好きなことには変わりないとされる。家に憑く際には、押入れに好んで住み着くという。詩人・中村光行によれば、貧乏神は味噌が好物で、団扇を手にしているのはこの味噌の芳香を扇いで楽しむためとされている』。『仮にも神なので倒すことはできないが、追い払う方法はないわけではない。新潟では、大晦日の夜に囲炉裏で火を焚くと、貧乏神が熱がって逃げていくが、代わりに暖かさを喜んで福の神がやって来るとされる。囲炉裏にまつわる貧乏神の俗信は多く、愛媛県北宇和郡津島町(現・宇和島市)では囲炉裏の火をやたらと掘ると貧乏神が出るといわれる』。曲亭馬琴らによる江戸時代の奇談集「兎園小説」には「窮鬼(きゅうき)」というのが載り、文政四(一八二一)年、『江戸番町に年中災い続きの家があり、その武家に仕える男があるときに用事で草加へ出かけ、一人の僧と知り合った。男が僧に、どこから来たのかと尋ねると、今まで男の仕えていた屋敷にいたとのことだった。男はその僧を屋敷で見たことがないと告げると、僧は笑いながら「あの家には病人が続出しているが、すべて貧乏神である私の仕業だ。あの家は貧窮極まった状態なので、ほかの家へ行く。今後、あなたの主人の運は上を向く」と言って姿を消した。その言葉通り、その後、男の仕える家は次第に運が向いてきたという』とあり、電子化開始てい津村淙庵には、『昔ある者が家で昼寝していると、ぼろぼろの服の老人が座敷に入って来る夢を見て、それ以来何をやってもうまくいかなくなった。四年後、夢の中にあの老人が現れ、家を去ることを告げ、貧乏神を送る儀式として「少しの焼き飯と焼き味噌を作り、おしき(薄い板の四方を折り曲げて縁にした角盆)に乗せ、裏口から持ち出し川へ流す」、今後貧乏神を招かないための手段として「貧乏神は味噌が好きなので、決して焼き味噌を作らない。また生味噌を食べるのはさらに良くないことで、食べると味噌を焼くための火すら燃やせなくなる」と教えた。その通りにして以来、家は窮迫することがなくなったという』とあるとする。また、井原西鶴の「日本永代蔵」の「祈る印の神の折敷」には、『嫌われ者の貧乏神を祭った男が、七草の夜に亭主の枕元にゆるぎ出た貧乏神から「お膳の前に座って食べたのは初めてだ」と大感激されて、そのお礼に金持ちにしてもらったという話である。また、かつて江戸の小石川で、年中貧乏暮しをしていた旗本が年越しの日、これまでずっと貧乏だったが特に悪いことも無かったのは貧乏神の加護によるものだとし、酒や米などを供えて貧乏神を祀り、多少は貧窮を免れて福を分けてもらうよう言ったところ、多少はその利益があったという』話が載る。以下、「信仰」の項には、『前述の『日本永代蔵』の貧乏神は貧乏を福に転じる神とされ、現在では東京都文京区春日北野神社の牛天神の脇に「太田神社」として祠が祀られている、祠に願掛けをして貧乏神を一旦家に招きいれ、満願の二十一日目に丁寧に祀って送り出すと、貧乏神と縁が切れるといわれている』とある。(以下、中略)『貧乏神が焼き味噌を好むという説に関連し、大阪の船場には明治十年頃まで貧乏神送りの行事があった。毎月末、船場の商人の家で味噌を焼き、それを皿状にしたものを番頭が持って家々を回り、香ばしい匂いがあちこちに満ちる。頃合を見計らい、その焼き味噌を二つに折る。こうすることで、好物の焼き味噌の匂いに誘われて家から出てきた貧乏神が焼き味噌の中に閉じ込められるといい、番頭はそのまま焼き味噌を川へ流し、さらに自分も貧乏神を招かないように味噌の匂いをしっかりと落としてから帰ったという』ともある。

「地藏經古粹」書誌不詳。識者の御教授を乞う。「圓城坊」も不詳。ここに出る複数の貧乏神の話の原話を御存じの方は是非とも御教授願いたい。可能ならば原話を電子化してみたい。] 

 

Sec. 2

   The great range on the right grows loftier as we steam on; and its hills, always slowly advancing toward us, begin to reveal all the rich details of their foliage. And lo! on the tip of one grand wood-clad peak is visible against the pure sky the many-angled roof of a great Buddhist temple. That is the temple of Ichibata, upon the mountain Ichibata-yama, the temple of Yakushi-Nyorai, the Physician of Souls. But at Ichibata he reveals himself more specially as the healer of bodies, the Buddha who giveth sight unto the blind. It is believed that whosoever has an affection of the eyes will be made well by praying earnestly at that great shrine; and thither from many distant provinces do afflicted thousands make pilgrimage, ascending the long weary mountain path and the six hundred and forty steps of stone leading to the windy temple court upon the summit, whence may be seen one of the loveliest landscapes in Japan. There the pilgrims wash their eyes with the water of the sacred spring, and kneel before the shrine and murmur the holy formula of Ichibata: 'On-koro-koro-sendai-matoki-sowaka'—words of which the meaning has long been forgotten, like that of many a Buddhist invocation; Sanscrit words transliterated into Chinese, and thence into Japanese, which are understood by learned priests alone, yet are known by heart throughout the land, and uttered with the utmost fervour of devotion.

   I descend from the cabin roof, and squat upon the deck, under the awnings, to have a smoke with Akira. And I ask:

   'How many Buddhas are there, O Akira? Is the number of the Enlightened known?'

   'Countless the Buddhas are,' makes answer Akira; 'yet there is truly but one Buddha; the many are forms only. Each of us contains a future Buddha. Alike we all are except in that we are more or less unconscious of the truth. But the vulgar may not understand these things, and so seek refuge in symbols and in forms.'

   'And the Kami,—the deities of Shinto?'

   'Of Shinto I know little. But there are eight hundred myriads of Kami in the Plain of High Heaven—so says the Ancient Book. Of these, three thousand one hundred and thirty and two dwell in the various provinces of the land; being enshrined in two thousand eight hundred and sixty-one temples. And the tenth month of our year is called the "No-God-month," because in that month all the deities leave their temples to assemble in the province of Izumo, at the great temple of Kitzuki; and for the same reason that month is called in Izumo, and only in Izumo, the "God-is- month." But educated persons sometimes call it the "God-resent- festival," using Chinese words. Then it is believed the serpents come from the sea to the land, and coil upon the sambo, which is the table of the gods, for the serpents announce the coming; and the Dragon-King sends messengers to the temples of Izanagi and Izanami, the parents of gods and men.'

   'O Akira, many millions of Kami there must be of whom I shall always remain ignorant, for there is a limit to the power of memory; but tell me something of
the gods whose names are most seldom uttered, the deities of strange places and of strange things, the most extraordinary gods.'

   'You cannot learn much about them from me,' replies Akira. 'You will have to ask others more learned than I. But there are gods with whom it is not desirable to become acquainted. Such are the God of Poverty, and the God of Hunger, and the God of Penuriousness, and the God of Hindrances and Obstacles. These are of dark colour, like the clouds of gloomy days, and their faces are like the faces of gaki.' [3]

   'With the God of Hindrances and Obstacles, O Akira I have had more than a passing acquaintance. Tell me of the others.'

   'I know little about any of them,' answers Akira, 'excepting Bimbogami. It is said there are two gods who always go together,—Fuku-no-Kami, who is the God of Luck, and Bimbogami, who is the God of Poverty. The first is white, and the second is black.'

   'Because the last,' I venture to interrupt, 'is only the shadow of the first. Fuku-no-Kami is the Shadow-caster, and Bimbogami the Shadow; and I have observed, in wandering about this world, that wherever the one goeth, eternally followeth after him the other.'

   Akira refuses his assent to this interpretation, and resumes:

   'When Bimbogami once begins to follow anyone it is extremely difficult to be free from him again. In the village of Umitsu, which is in the province of Omi, and not far from Kyoto, there once lived a Buddhist priest who during many years was grievously tormented by Bimbogami. He tried oftentimes without avail to drive him away; then he strove to deceive him by proclaiming aloud to all the people that he was going to Kyoto. But instead of going to Kyoto he went to Tsuruga, in the province of Echizen; and when he reached the inn at Tsuruga there came forth to meet him a boy lean and wan like a gaki. The boy said to him, "I have been waiting for you"—and the boy was Bimbogami.

   'There was another priest who for sixty years had tried in vain to get rid of Bimbogami, and who resolved at last to go to a distant province. On the night after he had formed this resolve he had a strange dream, in which he saw a very much emaciated boy, naked and dirty, weaving sandals of straw (waraji), such as pilgrims and runners wear; and he made so many that the priest wondered, and asked him, "For what purpose are you making so many sandals?" And the boy answered, "I am going to travel with you. I am Bimbogami."'

   'Then is there no way, Akira, by which Bimbogami may be driven away?'

   'It is written,' replies Akira, 'in the book called Jizo-Kyo-Kosui that the aged Enjobo, a priest dwelling in the province of Owari, was able to get rid of Bimbogami by means of a charm. On the last day of the last month of the year he and his disciples and other priests of the Shingon sect took branches of peach-trees and recited a formula, and then, with the branches, imitated the action of driving a person out of the temple, after which they shut all the gates and recited other formulas. The same night Enjobo dreamed of a skeleton priest in a broken temple weeping alone, and the skeleton priest said to him, "After I had been with you for so many years, how could you drive me away?" But always thereafter until the day of his death, Enjobo lived in prosperity.'

 

3
   In Sanscrit pretas. The gaki are the famished ghosts of that Circle of Torment in hell whereof the penance is hunger; and the mouths of some are 'smaller than
the points of needles.'

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一)

 

       

 

 私は九月の或る好い天氣の午後早く、松江を立つて、小蒸汽船に乘つて杵築に向つた。この船は機關から庇にがるまで、すべて一寸法師的で、船室に於ては跪坐せねばならぬ。また庇の下では直立し難かつた。が、この小型の船は玩具の見本の如く、さつぱりして小綺麗で、案外速力は早く、しつかりした進み方をした。立派な裸のまゝの少年が忙しさうに客に茶菓を供したり、喫煙しようと思ふものの前に小さな木炭の爐を備へたりする。すべてそんなことに對して一仙の四分の三ほどを拂ふことになつてゐる。

 庇の下から脫して船室の屋根へ上つてみると、何とも云へぬ立派な景色だ。日本の空氣の中で、すべて遠方を隈どつてゐる、あの不思議に纎細な靑色を帶びた、美しい恰好の峯や岬が、陶器のやうに白い眼界へ向つて、湖の端から浮上つて遙かに重疊してゐる方ヘと、汽船は澄明な湖面を進んで行く。山々は細部を少しも見せない。たゞ影怯師だ――全く澄んだ色の團塊がだ。左にも右にも、宍道湖を繞つて、森に蔽はれた、美しい綠の小山が波動を打つてゐる。前面、西北に當つて八雲山が最も高い。背後の東南には松江の市街は消えて見えないが、その向うには、大きく、幽靈の如く靑く、白く、斷えざる雪の領域へ、その死火山口の尖端を上げた大山が、傲然と聳えてゐる。夢の如くぼんやりした色が、すべての景物の上空を漲つてゐる。

 空氣の中にさへ、滿面の霞める土地の上、靑い水の上に亘つて、一種の神々しい魔力を帶びたやうな、神道の感じがあるやうに思はれた。古事記の物語に滿ちた私の空想に取つでは、蒸汽機關の律動的な響さへ、

 『事代主の神、大國主の神』

といふ、神々の名の混つた神道式典の拍子と聞えた。

[やぶちゃん注:ハーン先生、ラストのシーンでは殆んど完全にキョーレツにキちゃってます。

「一仙」一セント。「一仙の四分の三」は現在の貨幣価値換算すると、七十五円から百五十円の間という感じか。

「前面、西北に當つて八雲山が最も高い」この叙述からは出雲大社本殿の裏、北側に聳える八雲山としか考えられないのであるが、本当にそうか? 八雲山は現在の国土地理院の地図では百七十六メートルしかない。宍道湖湖上から西北を見た場合、地図上では遙かに高い山やピークが手前に無数にあり、八雲山がこのように一際目立って聳えて見えるとは私にはどう考えても思われないのである。現地を知らない私であるが、この山名はハーンの認識違いであって、何処か別の山或いは山塊を誤認しているのではあるまいか? 「八雲」という彼の日本名にも関わる重要なことである(少なくとも歌語としても「八雲立つ」とはまた別に彼の中にあるイメージとダイレクトに結びつくはずのものだからである)。是非とも郷土史研究家の方や識者の御教授を乞うものである。

「事代主神」「ことしろぬしのかみ」と読む。大国主命の子で、国譲りに際し、父に国土の献上を勧めたとするが、ウィキの「事代主によれば、『元々は出雲ではなく大和の神とされ、国譲り神話の中で出雲の神とされるようになったとされる。元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神の格も持つようになった』とある。] 

 

Sec. 1

   I leave Matsue for Kitzuki early in the afternoon of a beautiful September day; taking passage upon a tiny steamer in which everything, from engines to awnings, is Lilliputian. In the cabin one must kneel. Under the awnings one cannot possibly stand upright. But the miniature craft is neat and pretty as a toy model, and moves with surprising swiftness and steadiness. A handsome naked boy is busy serving the passengers with cups of tea and with cakes, and setting little charcoal furnaces before those who desire to smoke: for all of which a payment of about three-quarters of a cent is expected.

   I escape from the awnings to climb upon the cabin roof for a view; and the view is indescribably lovely. Over the lucent level of the lake we are steaming  toward a far-away heaping of beautiful shapes, coloured with that strangely delicate blue which tints all distances in the Japanese atmosphere—shapes of peaks and headlands looming up from the lake verge against a porcelain-white horizon. They show no details, whatever. Silhouettes only they are—masses of
absolutely pure colour. To left and right, framing in the Shinjiko, are superb green surgings of wooded hills. Great Yakuno-San is the loftiest mountain before us, north-west. South-east, behind us, the city has vanished; but proudly towering beyond looms Daisen—enormous, ghostly blue and ghostly white, lifting the cusps of its dead crater into the region of eternal snow. Over all arches a sky of colour faint as a dream.

   There seems to be a sense of divine magic in the very atmosphere, through all the luminous day, brooding over the vapoury land, over the ghostly blue of the
flood—a sense of Shinto. With my fancy full of the legends of the Kojiki, the rhythmic chant of the engines comes to my ears as the rhythm of a Shinto ritual
mingled with the names of gods:

Koto-shiro-nushi-no-Kami,
Oho-kuni-nushi-no-Kami.

2015/09/09

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 佐助谷

    ●佐助谷

佐助〔助もと介に作る〕谷は。源氏山の西南に在り。谷内甚た濶大(くわつだい)にして。小谷多し。字御所入と云所に。平經時の舊跡あり。光明寺記主傳に。平經時佐介谷に隱居し。專修念佛して卒(そつ)すと見ゆ。其の奧に越後守時盛の舊跡あり。東鑑に寬元四年六月廿七日入道大納言家〔賴家〕越後守時盛が佐介の第に渡御し給ふとあり。證とすべし。又寺の内と云ふ所あり。國淸寺の跡といふ。俗に光明寺畠といふ所あり。こゝは蓮華寺〔光明寺もとこゝに在りて蓮華寺といふ〕の跡なり。藥師堂の跡もありといひ傳ふ。

隱れ里は谷の奧右手の路(みち)窮(きはま)り所に在る大岩窟(だいがんんくつ)なり。中に錢洗水あり。福神(ふくじん)錢(ぜに)を洗ひ給ふとの俗説を傳ふ。鎌倉五水の一たり。

佐助稻荷社左の方谷の最奧に在り。鳥居を過ること六所。阪路の上に鎭祀(ちんし)す。每年二月の初午(はつうま)の日には。鎌倉中の男女こゝに參詣する者甚た多し。

[やぶちゃん注:「御所入」「新編鎌倉志卷之五」には以下のようにある。私の注と一緒に引く。

   *

御所入(ごしよのいり) 此の谷(やつ)[やぶちゃん注:佐介谷を指す。]の内にあり。古老の云、平の經時(つねとき)の住せし所也と。按ずるに、【光明寺記主の傳】に、平の經時、佐介が谷に隠居し、專修念佛して卒(そつ)すとあり。經時の墓、佐々目の山の麓(ふもと)にあり。此の所より遠からず。

[やぶちゃん注:付図を見る限りでは、現在の銭洗弁天への登り道の下方南の平地であるが、「御所入」とは如何にも奇妙な地名である。通常「御所」は大臣・将軍、親王以上の皇族の居所や本人を指すが、そのような人物が当地に居を構えた記録はない。「鎌倉攬勝考卷之一」の「地名」にある「御所入」の項では、先の「佐介谷」に引用されている北条時盛の屋敷をこことし、寛元四年に、ここに前将軍頼経が入御したことと、更にやはり同所「入道勝圓」の屋敷に文永三年七月、宗尊親王が渡御されたという「吾妻鏡」の記事を引き合いに出して「御所入」を説明しているのだが、どうも説得力に欠くように思われる。これでは市内には無数の「御所入」が出現することになろう。東京堂出版の「鎌倉事典」の「御所入」では、『常盤にある「殿ノ入」「御所之内」などという地名は、執権北条政村邸、浄明寺の「御所ノ内」は足利氏に由来するものであろう』とし、『鎌倉には、ほかにも御所谷などの地名が残されていて、いずれもが有力武将の屋敷跡とされている』と記すのだが、やはり私には目から鱗とはいかない。もっと説得力のある見解を求む。

「佐々目の山の麓」とは、甘縄神明社の東の尾根を隔てた佐々目ヶ谷の奥の峰を言うか。そこならば確かにこの御所入からは一キロもなく、遠くない。また、そこに北条経時の墳墓があったことは、「鎌倉攬勝考卷之九」の「北條武藏守平經時墳墓」の記載に明らかである。以下に引用する。

 

經時は、兼て別業を佐々目谷へ構へ、寛元四年四月十九日、病に依て職を辭し、執權を弟時賴に讓り、落髮し、同年閏四月朔日に卒す。佐々目山の麓に葬り、後此所に梵字を營み、長樂寺と號すとあり。今は其墳墓しれず。

 

第四代執権北条経時の墓は現在、彼が開基である海岸に近い光明寺のやや高台にある。ところが「新編鎌倉志卷之七」の光明寺の項には経時墓の記載がない。これは一体、何を意味するのであろう。按ずるに、この卷之五の記載によって、「新編鎌倉志」の時代には「攬勝考」の言う長楽寺の跡さえ既になかったが、辛うじて経時の墓はそこにあったことが分かる(『經時の墓、佐々目の山の麓にあり。此の所より遠からず』)。しかし、「攬勝考」の頃にはその墳墓が消失していた(『今は其墳墓しれず』)。しかしそれ以前の何時の頃にか、彼の墓石の一部はこの佐々目ヶ谷から光明寺に移されていた。ところが光明寺開山塔と一緒にそれを置いたがために、「攬勝考」の頃には、少なくとも一般には、それが経時の墓との認識がなされていなかったのではなかろうか。識者の御教授を乞うものである。]

   *

「平經時」北条経時(元仁元(一二二四)年~寛元四年閏四月一日(一二四六年五月十七日))は第四代執権(在任は仁治三年六月十五日(一二四二年七月十四日)~寛元四年三月二十三日(一二四六年四月十日)で第三代執権泰時の嫡男北条時氏の長男。前の引用にも記したが、ウィキの「北条経時」によれば、第五代執権となる北条時頼の同母兄で、『父の時氏』も『早世し、その他の北条泰時の子である北条時実も暗殺されていたため』(家人高橋次郎によって殺害されたのであるが、理由は極めてプライベートなもので殺された時実側にも責任があったものと推定されている)、早くから『嫡孫の経時が泰時の後継者と目されていた』。但し、若死にしていることからも分かるように、後年は執権の激務に加えて病気が重なり、四月十九日に『出家して安楽と号し』て直ぐ、凡そ十日後に死去している。「吾妻鏡」を見る限り、『佐介谷に隱居し。專修念佛して卒す』というような穏やかな死とは凡そ読めず、ここには「光明寺記主傳」自体の作為が窺われる。ウィキを読まれると分かるように、彼から時頼への執権交替には何やらん極めて胡散臭いものが感じられることと無縁ではあるまいと私は思っている。

「光明寺記主傳」光明寺開山の良忠の伝記と思われるが、詳細書誌は不詳。

「越後守時盛」北条時盛(建久八(一一九七)年~建治三(一二七七)年)。連署北条時房嫡男。佐介流北条氏祖で佐介時盛とも称した。異母弟朝直の大仏流との政争に敗れて、人生の後半は幕政からも離れ、不遇であったと推定される。

「寬元四年」一二四六年。

「寺の内と云ふ所あり。國淸寺の跡といふ」「新編鎌倉志卷之五」には以下のようにある。

   *

國淸寺(こくしやうじ)の跡 此内に寺(てら)の内(うち)と云ふ処あり。國淸寺の跡と云ふ。「鎌倉大草子」幷に「上杉禪秀記」に、上杉憲顯(うへすぎのりあき)の建立也とあり。今按ずるに、「扶桑禪林諸祖傳」に、松嶺秀和尚の傳に、上杉大全居士長基(うへすぎだいぜんこじちやうき)、豆州の國淸寺を遷(うつ)して、湘江の佐谷(さこく)に鼎建(ていけん)すとあり。大全(だいぜん)居士は、安房の守憲定(のりさだ)なり。長基(ちやうき)は其の法名なり。明月院道合憲方(だうかふのりかた)が子にて、憲基が父なり。憲顯がためには孫なり。【空華集】に豆州の國淸寺は、昔し律院にて、高雄(たかを)の文覺上人の舊宅也。上杉憲顯、律を革(あらた)めて禪とし、佛國禪師の弟子無礙謙公を開山祖とすとあり。【鎌倉九代記】に、憲顯を、伊豆の國淸寺に葬る。法名は國淸寺殿桂山道昌(けいざんだうしやう)と云ふ。然るときは、憲顯は伊豆の國淸寺を再興せられ、其の孫憲定が時に、伊豆の國淸寺を此所に遷したるを。【大草子】【禪秀記】には、憲顯が建立とかきたり。又滿隆、禪秀が亂の時、持氏は憲基の亭(てい)に居せられしを、岩松(いはまつ)治部大夫・澁川(しぶかは)左馬の介が手の兵(つはもの)、國淸寺に火をかけゝれば、餘煙佐介(さすけ)の亭に、もへかゝるとあり。其の後は絶へたり。本尊は、今伊豆の國淸寺に在りと云ふ。

   *

この「國淸寺の跡」は「鎌倉廃寺事典」附録の「鎌倉廃寺地図」では、佐助ヶ谷の前の法住寺の北の尾根を越えた位置に指示されてある。伊豆の国清寺は弘安二(一三六二)年、鎌倉公方足利基氏の執事を務めた畠山国清が創建したと言われ、後に慶安元(一三六八)年、関東管領上杉憲顯が亡父憲房の菩提のために中興したと伝えられている。「鎌倉廃寺事典」によれば、この佐介ヶ谷の国清寺も上杉憲顯が亡父憲房の菩提のために建立したものと考えられ、両寺院には何らかの関係があることは推測されるとあり、ここに記されるような同一寺院の移築再建といった解釈はしていない。なお、現在の伊豆の国清寺は公式には本尊を観音菩薩としながら、釈迦堂と称する仏殿があってそこに釈迦如来像があり、これを本尊とするネット上の記載もある。もしかすると、これが「本尊は、今伊豆の國淸寺に在りと云ふ」というここの記載と関連するものだろうか。識者の御教授を乞うものである。

「光明寺畠といふ所あり。こゝは蓮華寺〔光明寺もとこゝに在りて蓮華寺といふ〕の跡なり」やはり「新編鎌倉志卷之五」には以下のようにある。

   *

蓮花寺(れんげじ)の跡 今、俗に光明寺畠(くはうみやうじはたけ)と云ふ。光明寺、本(もと)此の地にあつて、蓮華寺と號す。後に光明寺と改む。「鎌倉大(をほ)日記」に、建長三年、經時の爲に、佐介に於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠、此の谷(やつ)に居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。光明寺の條下及び「記主上人の傳」に詳か也。

   *

以上の場所は現行、現在の鎌倉市佐助二丁目(トンネルを越えた法務局前の四つ角の西南地域)に比定されている。「鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝」には、『然阿良忠が仁治元年(一二四〇)二月、鎌倉に入り、住吉谷悟真寺に住して浄土宗を弘めていた。時の執権経時は良忠を尊崇し、佐介谷に蓮華寺を建立して開山とし、ついで光明寺とその名を改め、前の名蓮華の二字を残して方丈を蓮華院となづけた。寛元元年(一二四三)五月三日、吉日を卜して良忠を導師として供養した』と記されてあり(「鎌倉廃寺事典」より引用)、更に「風土記稿」によれば、この時に現在の材木座の位置に移転したように記しているが、この記載には多くの疑問がある、と記す。推測としては佐介の現在地で、悟真寺→蓮花寺→光明寺(その時、方丈を蓮華院とし、現在位置に移転)という過程が浮かび上がるのだが、「鎌倉廃寺事典」の蓮花寺の項では、この「蓮花寺」とは違う同名異寺が存在した可能性をも示唆している。

「藥師堂の跡」同じく「新編鎌倉志卷之五」には以下のようにある。

   *

藥師堂の跡 里老の云、此の谷(やつ)の入口(いりくち)の東南に、昔は藥師堂有りと云ひ傳ふ。然れども今、其の所分明ならず。按ずるに「東鑑」に、正嘉二年正月十七日、秋田の城の介泰盛が甘繩(あまなは)の宅より火出てゝ、南風頻りに吹て、藥師堂の後(うしろ)の山を越へて、壽福寺等燒失すとあり。泰盛は盛長が孫なり。盛長が屋敷、甘繩明神の東にあれば、藥師堂其の北にあたれり。「鎌倉大草子」に、禪秀亂の時、持氏は憲基の亭(てい)に取り籠(こも)られしが、藥師堂表(をもて)へは、結城(ゆうき)彈正の少弼、二百騎にて向へらるとあり。持氏の時まで有りつる歟。

   *

この「藥師堂」は「鎌倉廃寺事典」でも位置が特定されておらず、また本文の記載の殆どが、この「新編鎌倉志」の記述に依拠している。但し、この「盛長が屋敷、甘繩明神の東にあれば、藥師堂其の北にあたれり」という記述からすると、現在同定されている長楽寺若しくはその東の万寿寺(いずれも廃寺)の何れかとほぼ同位置にあったものと考えられる。

「隱れ里」「新編鎌倉志卷之五」からそのまま私の注も併せて示す。

   *

隱里(かくれざと) 稻荷の近所にある。大巖窟を云ふなり。

[やぶちゃん注:「ある」は影印でもママ。現在の銭洗弁財天宇賀福神社の由緒によれば、頼朝が巳年であった元暦二・文治元(一一八五)年の巳の月(旧暦四月)巳の日に、ここの宇賀福神が翁となって立ち、西北の仙境に湧く福水で神仏を供養すれば天下は泰平に治まるという夢告に従い、ここに霊水を発見、洞を穿って社を建立し宇賀神を祀ったと伝承されている。次項に記される「錢洗水」の信仰は、下ること七十二年後の同じ巳年であった正嘉元(一二五七)年の仲秋に、時の執権北条時頼が、頼朝の遺徳に加えて、五行で「金」の「辛巳かのとみ」(=金富)「成る」「かね(=金)の日」なればこそ民草に福徳が授けられる日であるとして参詣を勧めたことに始まるとされ、同時に、祀られた弁財天を信仰し、この霊水で洗い清めるならば、元来が不浄である金銭をも清浄なる福銭と化すという習慣も生まれたようである。時期的に鎌倉新仏教である日蓮の法華経による現世利益思想とシンクロナイズしているのが面白い。]

   *

次いで『錢洗水(ぜにあらひみづ) 隠里の巖窟の中にあり。福神錢を洗ふと云ふ。鎌倉五水の一つ也』と続く。既にお分かりのように現在の銭洗弁財天である。

「佐助稻荷社」最後も「新編鎌倉志卷之五」から引く。単に「稻荷社」と項立てする。

   *

稻荷社 此の谷の内にあり。山林茂りたる地なり。扇が谷華光院の持分(もちぶん)なり。毎年二月の初午(はつむま)の日、鎌倉中の男女參詣多し。雪の下等覺院に、尊氏の證文一通あり。其の文に、凶徒對治祈禱の事、殊可被致精誠之状如件(殊に精誠を致さらるべきの状、件のごとし)、延文四年十二月十一日、佐介が谷の稻荷社別當三位僧都の御房とあり。尊氏の判あり。

   *

現在の銭洗弁財天に付随して見える佐介稲荷である。「鎌倉攬勝考卷之三」でも『佐介谷稻荷社』とあり、現在のように「佐介稲荷」と呼称されるようになったのは比較的新しいか。但し、本社はこの地の地名の由来の淵源に関わるものともされる。伊豆蛭ヶ小島に配流の身となっていた頼朝の夢枕にここの稲荷神が翁となって立ち、天下統一を予兆して平家討伐を慫慂、蜂起して開幕に至った。建久年間(一一九〇年~一一九八年)、頼朝は夢告成就を以て本社を見出し、畠山重忠に命じ、ここを霊地と定め、社殿を造営させたとする。かつて頼朝が兵衛の佐であったことから、一般に彼を佐殿すけどのと呼称するが、その「佐」殿を「助」けた神ということで「佐助稲荷」と言われたとするものである。しかし、「新編鎌倉志」の先行する箇所にも記載がある通り、古くは「佐介」という表記ばかりが残っている。神聖なる故事に於いて表記を変えることはしばしば見られることであるが、ならばこそ「新編鎌倉志」の編者がこの超弩級に大切な地名由来譚を見落とすはずがないと私は思う。「鎌倉攬勝考」でも語られないということは、実は本社の頼朝由来の縁起自身の伝承が決して古いものではないということを意味しているように感じられるのであるが、如何であろう?]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (プロローグ)

 

      第八章 杵築――日本最古の社殿

 

 神國といふのは日本の尊稱である。しかも神國の中で、最も神聖な土地は出雲の國である。こ〻へ高天ケ原の靑い空から、諸神と人間の祖先で、國土を造り玉ふた、伊弉諾、伊弉册の兩神が始めて來て、暫く住んだ。何處か、この國の境上の成る場處へ伊弉册命が葬られ、して、國から夜見の國へと、伊弉諾命は彼女の跡を追つて行つたが、伴ひ歸ることを得なかった。して、この不思議な冥界へ彼が降つたこと、それから彼が冥界で遭遇した事柄は、古事記に載つてゐるではないか? して、あらゆる冥府に關する原始的の傳說の中で、この話は最も怪異なものの一つである――アツシリヤのイシユター冥府降りの傳說に比してさへ、遙かに凄いものである。

 出雲が特に神々の國であり、また今日その子孫によって崇敬される伊弉諾、伊弉册の民族の搖籃地であつたと同樣に、出雲の中でも、杵築は特に神々の都會であつて、且つその古い社殿は古代の信仰、神道といふ偉大な宗敎の本家本元である。

    註。古事記は日本の古語で書かれた
    現在の最も古い書だ。チエムバレン
    敎授によつて、譯註を澤山加へて立
    派に譯してある。

 さて、杵築を訪ねることは、私が杵築に關する傳說を知つてから以來、私の最も熱心なる願望であつた。して、歐洲人で杵築を訪ねたものは甚だ乏しいことと、またその大社殿へ昇殿が許されたのは一人もないといふことを發見して、その願望は一層强くなつた。實際、大社の境內へ近寄ることさへ許されなかつたものもある。が、私は私の親友で、また杵築の宮司を親しく知つてゐる西田千太郞氏からの紹介狀を有つてゐるから、幾らか、もつと幸運だらうと信ずる。假令私が昇殿――日本人の中でも少數にのみ與へらる〻特權――を許されないにしても、少くとも宮司、卽ち太陽の女神から系統を引いた家柄の千家尊紀氏に面會の光榮を有つこととなるだらう。

    註。千家氏の系圖に、私が杵築で贈
    られた珍らしい小册に錄してある。
    千家尊紀氏は杵築の第八十一代目の
    國造に當る。その家系は國造六十五
    代と地神十六代を遡つて、天照大神
    及びその弟素戔嗚尊に達する。

[やぶちゃん注:「杵築」既注であるが再掲しておくと、ハーンは「きづき」と読んでいるが、正しくは「きつき」と清音で読む。島根県出雲市大社町杵築(きづき)東にある出雲大社の別称。

「アツシリヤのイシユター冥府降りの傳說」「イシユター」は現在のイラク一帯にあった古代メソポタミア(「アツシリヤ」=アッシリアはメソポタミア北部を占める地域或いはそこにあった王国の名)の神話に於いて広く尊崇された性愛・戦争・金星の女神である「イシュタル」のこと。イシュタルは新アッシリア語名で、シュメール神話におけるシュメール語の「イナンナ」に相当するとウィキの「イシュタル」にある。彼女は恐らく「ギルガメシュ叙事詩」の登場人物の一人として人口に膾炙するが、その「冥府降りの傳説」というのは、本邦の「伊弉諾の黄泉国下り」やギリシャ神話の「オルフェウスの冥府下り」と似たもので、例えば個人サイト「a by-road」内の「イシュタルの冥界くだりの記載では、夫(であると同時に息子であったとする記載もある。近親相姦は神話中ではごく普通である)タンムーズが亡くなり、彼を復活させるために不老不死の「命の水」を求めて下界へ降りていくとあり、西川魯介氏のサイト「うたたねチャーリー」内の「冥府下り」には「イナンナの冥府下り」と「イシュタルの冥府下り」に異型の二話が示されてある。孰れも読ませて戴いたが、ハーンではないが、私も偏愛する本邦の伊弉諾の黄泉国来訪と呪的逃走神話の話の方が、遙かにずっと確かに「凄い」。

「チエムバレン敎授によつて、譯註を澤山加へて立派に譯してある」「古事記」既出既注

「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。郷里島根県で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郎日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「千家尊紀」(安政六~七・万延元(一八六〇)年〔誕生月日を特定出来なかったのでやむなくかく記した〕~明治四四(一九一一)年)は「せんげたかのり」と読み、第八十一代出雲国造(いずものくにのみやつこ)で出雲大社宮司・従三位。出雲郡生まれ。通称、福千代麿。第七十九代千家尊澄の三男で先代第八十代千家尊福(たかとみ)の弟あったが、この代替わりは少し複雑な理由がある。当時、神道派が設立した神道事務局(新政府の教部省内に置かれた尊皇愛国思想と国家神道の教化を主目的とした宗教統制機関である大教院内に生まれた神道派の内組織)は「伊勢派」と千家の属する「出雲派」が激しく対立し、結果的には伊勢派が勝利してしまう(この尊福関連の記載は以下の引用を含め、ウィキ千家尊福に拠る)。尊福はこの時、彼の考える神道の在り方と政府の推し進める国家神道とが、宗教的見解に於いて基本的な相違点を持っていることを痛感、『神道事務局から独立した形での教化活動を進めねばならないと考えた』。明治一五(一八八二)年に『神官が教導職に就くことを禁ずる通達が出たこともあり、尊福は出雲大社教会』(いずもおおやしろきょうかい)『を独立して「神道大社派」を設立。国造職を弟の尊紀に譲り、自らは管長として精力的に全国を歴訪し、布教に専念した』ことによるものであった。尊紀は父尊澄に師事して宮司職に就いた。ウィキ出雲国造によれば、『出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は、南北朝時代に入るまで一子相伝であったが』、康永年間(一三四〇年頃)以降、『千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗るようになった』とあり、『明治時代には、千家氏・北島氏ともに男爵として遇されたが、出雲大社自体は神社本庁の傘下(社格は官幣大社)となり、千家氏は出雲大社教』、『北島氏は出雲教と、それぞれ宗教法人を主宰して分かれ、出雲大社の宮司は千家氏が担った。戦後、神社が国家管理を離れた後は、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となり、宗教法人出雲大社教の宗祠として、宮司は千家氏が担』っているとある(なお、千家家系図及び当主その他の情報は近現代・系図ワールド」に異様に詳しい。興味のある方はどうぞ)。ハーンの以下の出雲大社以下の参拝は「八雲会」公式サイトの松江時代の略年譜によって明治二四(一八九〇)年九月十三日と十四日であることが判った。当時、尊紀は宮司となって八年目、未だ満三十歳であった。ハーンは四十。因みに、この翌十月には富田屋旅館を出て末次本町の借家に移り、翌年初めには後に妻となる元士族の娘小泉セツが住み込み女中となって(その後の結婚は事実婚らしく、同会年譜では月日を附さずに同明治二十五年中に結婚とある)、翌年五月には松江城の見える北堀町塩見繩手に転居している。

 

        Chapter Eight Kitzuki: The Most

          Ancient Shrine of Japan

 

   SHINKOKU is the sacred name of Japan—Shinkoku, 'The Country of the Gods'; and of all Shinkoku the most holy ground is the land of Izumo. Hither from the blue Plain of High Heaven first came to dwell awhile the Earth-makers, Izanagi and Izanami, the parents of gods and of men; somewhere upon the border of this land was Izanami buried; and out of this land into the black realm of the dead did Izanagi follow after her, and seek in vain to bring her back again. And the tale of his descent into that strange nether world, and of what there befell him, is it not written in the Kojiki? [1] And of all legends primeval concerning the Underworld this story is one of the weirdest—more weird than even the Assyrian legend of the Descent of Ishtar. 

   Even as Izumo is especially the province of the gods, and the place of the childhood of the race by whom Izanagi and Izanami are yet worshiped, so is Kitzuki of Izumo especially the city of the gods, and its immemorial temple the earliest home of the ancient faith, the great religion of Shinto.

   Now to visit Kitzuki has been my most earnest ambition since I learned the legends of the Kojiki concerning it; and this ambition has been stimulated by the discovery that very few Europeans have visited Kitzuki, and that none have been admitted into the great temple itself. Some, indeed, were not allowed even to approach the temple court. But I trust that I shall be somewhat more fortunate; for I have a letter of introduction from my dear friend Nishida Sentaro, who is also a personal friend of the high pontiff of Kitzuki. I am thus assured that even should I not be permitted to enter the temple—a privilege accorded to but few among the Japanese themselves—I shall at least have the honour of an interview with the Guji, or Spiritual Governor of Kitzuki, Senke Takanori, whose princely family trace back their descent to the Goddess of the Sun. [2]

 

1
   The most ancient book extant in the archaic tongue of Japan. It is the most sacred scripture of Shinto. It has been admirably translated, with copious notes and commentaries, by Professor Basil Hall Chamberlain, of Tokyo.

2
   The genealogy of the family is published in a curious little book with which I was presented at Kitzuki. Senke Takanori is the eighty- first Pontiff Governor (formerly called Kokuzo) of Kitzuki. His lineage is traced back through sixty-five generations of Kokuzo and sixteen generations of earthly deities to Ama-terasu and her brother Susanoo-no- mikoto.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (二二) / 第七章~了

 

       二二

 

 家へ歸つてから、私は今一度小さな障子を開けて、外の夜景を眺める。螢が長く光るやうに、橋の上を提燈がちらちらする。黑ずんだ流れの上に澤山の燈影が慄へてゐる。對岸の家の廣い障子が、外からは見えぬランプの薄黃色の光を浴びて、その明るい面に優美な婦人の影法師の動くのが見える。私は日本でガラスが一般に採用されるやうなことのないのを熱望に堪へない――面白い映像がなくなるから。

 暫く市街の聲に耳を澄ませる。暗黑を渡つて洞光寺の大きな鐘が、その柔味のある佛敎的な。雷聲を轟かすや、一杯機嫌で散步に出た人々の歌や、夜の行商人の長い朗かな呼聲が聞える。

 『温飩やい、蕎麥やい』是は熱い蕎麥を賣る者が最後に巡るのである。

 『占判斷、待人緣談、矢せ物、人相、家相、吉凶の占』これは賣卜者の聲。

 『飴湯』子供が好いてゐて、琥珀色をした、旨い糖液の水飴を賣る者の音樂的な聲。

 『甘粥』米で作つた甘酒をうる者の金切聲。

 『河内國瓢丹山戀の辻占』小さなぼんやりした繪がついて、美しい色をした戀占の紙片を賣りあるくのである。この紙片を火か、ランプの近くで持つてゐると、目に見えないインキで書いてある文字が現れてくる。その文字はいるも戀人に關したことで、時には常人が知りたくないことも知らせる。幸運者によい文句が當ると、尙一層幸運の自信を增し、不運な人は斷然絕望し、嫉妬を抱いてゐる者には、猶その念が募ってくるのである。

 全市から夜の空へ、沼の大きな蛙が發するぶつぶつの音や、遠雷のやうな音が立上ぼる――舞妓の小さな太鼓の響である。橋の上に澤山の下駄の音が瀑布のやうに絶えず響く。新しい光が東の空に上ぼる。白い水煙を隔てて非常に大きく、物すごく、靑ざめた月が、峯々の背後から輪轉して上ぼる。すると、また多くの拍手が聞える。橋から通行人が『お月さま』を拜むのである。

 何處かの苔むした癈寺の境内で、影ごつこや、鬼子つこの遊戯をしてゐる子供等の夢をみやうと思って、私は寢に就く。

    註。古事記の神話によると、『月の神』
    は男神である。然し學者だけが讀みう
    る古代日本文で書かれた古事記のこと
    を、一般人民は毫も知らない。だから
    彼等は丁度古代希臘の牧歌作者と同樣、
    月に向つて「お月さま」と呼ぶ。

[やぶちゃん注:「洞光寺」「とうこうじ」と濁らずに読まれたい。既出既注

「温飩」「うどん」。「饂飩」に同じい。

「賣卜者」「ばいぼくしや」。報酬を得て占いをする占い師のこと。

「甘粥」甘酒の別称。「あまがゆ」以外に、これで「あまがい」とも読むようである。

「河内國瓢丹山戀の辻占」東大阪市近鉄瓢箪山駅前ジンジャモール瓢箪山のブログの「ひょこタンヒストリー53 恋の辻占盛衰記」に驚くほど詳しい解説が記されてある! 必見! またこの記事やその他の情報から「瓢丹山」は瓢箪山で、現在の大阪府東大阪市瓢箪山町にある、まさに恋占(こいうら)知られる瓢箪山稲荷神社を指すことが判った。ウィキの「瓢箪山稲荷神社」を見ると、この瓢箪山というのは自然の丘陵ではなく、『社本殿の背後にある小丘は、通称「瓢箪山古墳」とよばれる、古墳時代後期』の六世紀末頃に『作られた双円墳で、山畑古墳群の中で最大・最古のもの』とあり、『そのヒョウタンに似た形状から、古墳および一帯の地名が「瓢箪山」と呼ばれるようになった』とある。創建は天正一一(一五八四)年で、『豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる』。恋占については、『江戸時代から近くの東高野街道において辻占いの風習があったが、明治時代初めごろに宮司が「辻占」を創始し、「淡路島かよふ千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」として日本全国に知られるようになった』とある。

「全市から夜の空へ、沼の大きな蛙が發するぶつぶつの音や、遠雷のやうな音が立上ぼる――舞妓の小さな太鼓の響である。」この訳では、明らかに蛙の声と、芸妓の打つ小太鼓の音の両方が聴こえることになのであるが(少なくとも私はそのようにしか読めない)、原文を見ると、“From all over the city there rises into the night a sound like the bubbling and booming of great frogs in a marsh—the echoing of the tiny drums of the dancing-girls, of the charming geisha.”で(実は原文引用の底本としている gutenberg のHTML版では、この“marsh”の綴りが“march”となっており、原本画像を調べたところ、誤植であることが判ったので訂してある)、これは私のような英語の苦手な人間が読んでも、「沼の大きな蛙が發するぶつぶつの音」が「舞妓の小さな太鼓の響」の直喩であることが分かり、また、「遠雷のやうな音」に相当するのが、どうも“the echoing”の箇所らしいことぐらいは分かる。そもそもこの日本語、「全市」中に、「沼」が、そこたらじゅうにあるということになって、どうもこの訳、しっくりこないのである(運河様(よう)の川は、多く走っているが、それを「沼」とは呼ばない。なお、宍道湖は周辺は浅いものの、最深部は六・四メートルあって、「宍道沼」――一般的に水深五メートル以内のものを「沼」と呼称する――とは絶対に呼ばない)平井呈一氏は『町の中心地から夜の空へと、なにか沼にでも住む大きな蛙でも鳴くような音がのぼる、これは町の舞妓や芸者がたたく小さな太鼓のひびきだ。』とあって、実にすんなりと読めるのである。

「お月さま」原注原文を見て頂くと分かるように“O-Tsuki-San, or 'Lady Moon,'”であって、ハーンは、日本人は「お月さん」或いは「月婦人」と月を女性名で呼ぶ、日本人は月を女だと思っている、と述べているのである。これは恐らく、ハーンが「おつきさま」の対(つい)として「おてんとうさま」があって、太陽は神道の神の天照大神で女性であるから、全く同様の敬称を前後につける月も「女性」と日本人は認識していると理解したものであろう。そこに「古事記」の月の男神である月讀(つくよみ:「古事記」では伊弉諾(いさなぎ)が黄泉国から逃げ帰ることに成功して日向の海岸で禊(みそぎ)をした際、右目から生まれたとされる。言わずもがな乍ら、左目からは天照大神、鼻からは建速須佐之男(はやすさのを=すさのを)が生まれたとする)、ところが「日本書紀」では、伊弉諾と伊弉冉(いさなみ)の間に生まれたという説、「古事記」は逆に左目から生まれたという説、右手に持った白銅鏡から生成したとする話などとあって、一定しない。以上は一部、ウィキの「ツクヨミ」を参考にした)を男神の証拠として引くのであるが、実は月讀を男神(天照大神の弟ともされる)で天照大神の弟などとするのは後世の国学者などによる解釈説であって、実際にはその性別は記紀の孰れにも述べられていない。加えて「お~さん」の敬語表現を以って本邦での絶対的限定女性呼称とする訳にはいかないようにも思われ、やや、このハーンの謂いには違和感を覚える。寧ろ、彼は、ここでギリシャ神話を引き合いに出しているように(ハーンの母はギリシャ人である)、同神話で太陽がヘリオス、或いは、アポロンという男神であり、月の女神がアルテミス(アポロンの姉ともされる)であるという事実との強い共時性を感じ取っているとは言えまいか?(なおウィキの「太陽神」には、『太陽神といえばギリシア神話やエジプト神話に登場する男神が想像されるが、ブライアン・ブランストンを始めとする神話学者の中には、太陽神は男神よりも女神の方が主流であると論ずる向きがある。男神がギリシア神話やエジプト神話などの著名な神話に登場することが原因となり、太陽神=男神という解釈が生まれたというのである。「太陽=男=光」と「月=女=闇」の二元性は、オルペウス教やグノーシス主義の思想を源とするヨーロッパ地方の説話に少なからず見受けられるが、例外として、太陽が女神で月が男神となっている北欧神話、バルト神話の存在は注目に値するものである。日本神話の天照大神も太陽神・女神であるが、対をなす月神の月読命は性別が明らかでない(一般には男神)』とある) そうしてまた、そこには、背後に、ハーンの母親に対する強い思慕の念(父像を殊更に排除拒否した)が隠れていることが強く感じられるのである。因みにラテン語では、「太陽」は“sol”で男性名詞、「月」は“lūna”で女性名詞であり、当然の如く、現代フランス語でも“le soleil”(太陽)は男性名詞、“la lune”(月)は女性名詞である。] 

 

Sec. 22

   At home again, I slide open once more my little paper window, and look out upon the night. I see the paper lanterns flitting over the bridge, like a long shimmering of fireflies. I see the spectres of a hundred lights trembling upon the black flood. I see the broad shoji of dwellings beyond the river suffused with the soft yellow radiance of invisible lamps; and upon those lighted spaces I can discern slender moving shadows, silhouettes of graceful women. Devoutly do I pray that glass may never become universally adopted in Japan—there would be no more delicious shadows.

   I listen to the voices of the city awhile. I hear the great bell of Tokoji rolling its soft Buddhist thunder across the dark, and the songs of the night-walkers whose hearts have been made merry with wine, and the long sonorous chanting of the night-peddlers.

   'U-mu-don-yai-soba-yai!'

   It is the seller of hot soba, Japanese buckwheat, making his last round.

   'Umai handan, machibito endan, usemono ninso kaso kichikyo no urainai!'

   The cry of the itinerant fortune-teller.

   'Ame-yu!'

   The musical cry of the seller of midzu-ame, the sweet amber syrup which children love.

   'Amail'

   The shrilling call of the seller of amazake, sweet rice wine.

   'Kawachi-no-kuni-hiotan-yama-koi-no-tsuji-ura!'

   The peddler of love- papers, of divining-papers, pretty tinted things with little shadowy pictures upon them. When held near a fire or a lamp, words written upon them with invisible ink begin to appear. These are always about sweethearts, and sometimes tell one what he does not wish to know. The fortunate ones who read them believe themselves still more fortunate; the unlucky abandon all hope; the jealous become even more jealous than they were before.

   From all over the city there rises into the night a sound like the bubbling and booming of great frogs in a marsh—the echoing of the tiny drums of the dancing-girls, of the charming geisha. Like the rolling of a waterfall continually reverberates the multitudinous pattering of geta upon the bridge. A new light rises in the east; the moon is wheeling up from behind the peaks, very large and weird and wan through the white vapours. Again I hear the sounds of the clapping of many hands. For the wayfarers are paying obeisance to O-Tsuki-San: from the long bridge they are saluting the coming of the White Moon-Lady.[10]

   I sleep, to dream of little children, in some mouldering mossy temple court, playing at the game of Shadows and of Demons.

 

10
   According to the mythology of the Kojiki the Moon-Deity is a male divinity. But the common people know nothing of the Kojiki, written in an archaic Japanese which only the learned can read; and they address the moon as O-Tsuki-San, or 'Lady Moon,' just as the old Greek idyllists did.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (二一)

 

       二一

 

 八雲立つと太古に稱した此國で、季節が今はまだ霧の頃だので、薄暮の移るにつれて、湖や陸の上に幽靈のやうな微かな濛氣が立騰つて、場面を包み遠近を消了する。私は歸途に、天神橋の欄干に凭れかかつて、今日の眺めの見收めに、東の方を眺めると、山々は最早見えなくなつてゐる。前面にはたゞ陰影のやうな流れが、無邊の茫漠裡へ消え去るのみである――海の幻である。すると忽然氣が付いたのは、橋上で私の側に立つて低いやさしい聲で何か囁いてゐる女の手の指から、小さな白いものが、下の流へ徐々と散らばつてゆくのだ。女は亡くなつた兒のために祈つてゐるのである。川へおとしてゐる小さな紙は、一枚每に地藏の小さな繪が畫いてあつて、細い文字もあるらしい。これは子供が死ぬると、母は地藏の版木を求めて、百枚の小紙片にその像を印刷する。時には何某菩提のためといふ文字をもかく――俗名でなく、戒名をかく。これは僧侶が死者に與へたので、佛壇に安置してある位牌にも記してある。而して一定の日に(大抵葬後四十九日目に)母は何處かの川へ行つて、一枚宛その紙をおとす。それが指からすべり行く都度、尊い呪文の南無地藏大菩薩を唱へる。

 薄暮私の側で祈つてゐるこの信念深い小さな歸人は、極めて貧しいに相違ない。さもなければ、舟を雇ふて湖上遙かの沖へ小さな紙を撒くだらふ。(現今は夜分になつてからだけこんなことが出來る。巡査が――どんなわけか知らん――このうるはしい儀式を制するやうに訓令を受けてゐるからである。丁度開港場で精靈舟を流すことが禁じてあるやうに)

 だが、紙片を流水に投ずるのは何の譯だらう。天台宗の一老僧の謂ふ所によると、もとこれは唯溺死者の冥福を祈るためであつたが、今では優しい母達が、一切の川は流れて冥途に落ちて、地藏さまの居ます賽ノ河原を通るのだと信じてゐるのである。

[やぶちゃん注:ここで描かれているのは、現在も各地に辛うじて残る(但し、必ずしも亡児に限らず、先祖であったり、水死した人々の霊を鎮めるためであったりする)千体流し或いは千体供養(ここでは百枚であるが)と呼ばれるものである。ただ、印刷される像が地蔵である点を考えると、その古形はここでハーンが語るように夭折した子への供養であったと私は思うし、思いたい。孰れにせよ、この章の、このシークエンスは第七章の、いや、本作全体の白眉と私は感じている

「天神橋」既出既注。]

 

Sec. 21

   It is still the season of mists in this land whose most ancient name signifies the Place of the Issuing of Clouds. With the passing of twilight a faint ghostly brume rises over lake and landscape, spectrally veiling surfaces, slowly obliterating distances. As I lean over the parapet of the Tenjin-bashi, on my homeward way, to take one last look eastward, I find that the mountains have already been effaced. Before me there is only a shadowy flood far vanishing into vagueness without a horizon—the phantom of a sea. And I become suddenly aware that little white things are fluttering slowly down into it from the fingers of a woman standing upon the bridge beside me, and murmuring something in a low sweet voice. She is praying for her dead child. Each of those little papers she is dropping into the current bears a tiny picture of Jizo and perhaps a little inscription. For when a child dies the mother buys a small woodcut (hanko) of Jizo, and with it prints the image of the divinity upon one hundred little papers. And she sometimes also writes upon the papers words signifying 'For the sake of . .'—inscribing never the living, but the kaimyo or soul-name only, which the Buddhist priest has given to the dead, and which is written also upon the little commemorative tablet kept within the Buddhist household shrine, or butsuma. Then, upon a fixed day (most commonly the forty-ninth day after the burial), she goes to some place of running water and drops the little papers therein one by one; repeating, as each slips through her fingers, the holy invocation, 'Namu Jizo, Dai Bosatsu!'

   Doubtless this pious little woman, praying beside me in the dusk, is very poor. Were she not, she would hire a boat and scatter her tiny papers far away upon the bosom of the lake. (It is now only after dark that this may be done; for the police — I know not why — have been instructed to prevent the pretty rite, just as in the open ports they have been instructed to prohibit the launching of the little straw boats of the dead, the shoryobune.)

   But why should the papers be cast into running water?  A good old Tendai priest tells me that originally the rite was only for the souls of the drowned. But now these gentle hearts believe that all waters flow downward to the Shadow-world and through the Sai-no-Kawara, where Jizo is.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (二〇)

 

       二〇 

 

 屢々夜の街頭で、特に祭禮の夜、ある小さな小屋掛けの前を、全然無言で鑑賞し乍ら通つて行く群集の光景に、私共の注意は引かれるだらう。その小屋掛けを覗いて見る機會を得るや否や、私共はそこには唯だ敷個の花瓶に花の小莖、或は花樹から新たに剪つた、輕い優美な枝を插したのがあるばかりのことを發見する。それは單に小さな花の展覽會だ。或は一層正確に云へば、活花に於ける巧妙なる技倆の自由なる展覽だ。何となれば日本人は私共野蠻人がする如く、花だけを亂暴に切り取つて、それを集めて無意味な團塊にするのでない。彼等は自然を熱愛するから、そんなことをしない。彼等は花の自然の美は、いかに多くその背景と裝置如何に因り、その葉や幹に對する關係如何に因るものであるかを知つて居る。して、彼等は自然が作つたま〻の一本の優美な枝や莖を選擇する。門外漢なる外國人諸君は、最初は毫もか〻る展覽を理解しないだらう。か〻る點に關しては、諸君の周圍に立つて見てゐる日本の最も平凡な人夫に比してさへ、諸君はまだ野蠻人だ。が、諸君が未だこの簡單な小展覽會に對する一般的興味を不思議と思つて見てゐる內に、その美が諸君の上にも生じてくるだらう。一種の天啓となつてくるだらう。して、諸君の西洋的自己優越感にも關らず、諸君が從來西洋で見た一切の花瓣展覽會は、是等の簡素なる數莖の自然美と比すれば、怪醜畸形に過ぎなかつたといふことを悟つて、屈辱を感ずるだらう。諸君はまたいかに花の背後にある、白又は薄靑の屛風が、洋燈又は提燈の光によつて、花の效果を增してゐるかに氣が付くだらう。何故と云へば、屛風は植物の影の美しさを見せるといふ特別の目的を以て排列してあるからだ。して、その上に投ぜられた莖や花の影法師は、いかなる西洋の粧飾藝術家の想像よりも遙かに美しい。

[やぶちゃん注:このシークエンスも美しい。ここを読むと私は直ちにかつて二十三の時に訪れた神津島の墓地を思い出す。……神津島では誰の墓とも分からなくなった壊えた墓石に至るまで、毎日、美しい色とりどりの花を老婆たちが供えていた。……私は深夜に独り、その瑞々しい花々に包まれた墓地を訪ねた。……それは……不思議な……あの世の楽園……そのものであったのである……。閑話休題。ここで大事なことは、ハーンが、自らを含めた――というよりハーンはこの語り出す時にもう「西洋人」であることをやめて「既にして心から日本人」になっているのである――文明的に優勢に進化したと自負している西洋人――特に欧米列強諸国の白人――を――あろうことか――「野蠻人」“barbarians”と呼称している――点を見逃してはならない。それが、落合氏の、盛んに出て来る「諸君」の二人称が、そうした皮肉を、暗によく示している、と、私は強く感ずるのである。

「粧飾藝術家」原文は“decorative artist”。「粧飾」は「しやうしよく(しょうしょく)」と読み、美しく装(よそお)うこと、飾ることで「装飾」に同じい。平井呈一氏は『装飾美術家』と訳しておられる。“decorative”(デコラティヴ)自体は元来、実用性よりも美的な要素を重視して飾るという意で、現行でも肯定的好意的或いはフラットな表現としても頻繁に用いるが、ここは無論、ごちゃごちゃがちゃがちゃと、けばけばしく五月蠅く、猥雑に飾り立てる、自称芸術家ども、という過激なアイロニーとしてハーンは用いている。] 

 

Sec. 20

   Often in the streets at night, especially on the nights of sacred festivals (matsuri), one's attention will be attracted to some small booth by the spectacle of an admiring and perfectly silent crowd pressing before it. As soon as one can get a chance to look one finds there is nothing to look at but a few vases containing sprays of flowers, or perhaps some light gracious branches freshly cut from a blossoming tree. It is simply a little flower-show, or, more correctly, a free exhibition of master skill in the arrangement of flowers. For the Japanese do not brutally chop off flower-heads to work them up into meaningless masses of colour, as we barbarians do: they love nature too well for that; they know how much the natural charm of the flower depends upon its setting and mounting, its relation to leaf and stem, and they select a single graceful branch or spray just as nature made it. At first you will not, as a Western stranger, comprehend such an exhibition at all: you are yet a savage in such matters compared with the commonest coolies about you. But even while you are still wondering at popular interest in this simple little show, the charm of it will begin to grow upon you, will become a revelation to you; and, despite your Occidental idea of self-superiority, you will feel humbled by the discovery that all flower displays you have ever seen abroad were only monstrosities in comparison with the natural beauty of those few simple sprays. You will also observe how much the white or pale blue screen behind the flowers enhances the effect by lamp or lantern light. For the screen has been arranged with the special purpose of showing the exquisiteness of plant shadows; and the sharp silhouettes of sprays and blossoms cast thereon are beautiful beyond the imagining of any Western decorative artist.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一九)

 

       一九 

 

 天神橋を越え、人口稠密な區の小さな町や狹い町を通り、荒れ果てた家中屋敷どもを過ぎて、湖に面した小さな蕎麥屋から日沒の景を眺めようと思つて、私は市の最西南端へ足を運ぶ。この蕎麥屋から夕日を眺めるのは、松江の行樂の一つであるから。

 日本には熱帶地方で見るやうな日沒の光景はない。光景が夢の如く柔らかだ。色の矯激がない。東洋の自然界には色彩的の猛烈がない。海も空も滿目、色彩と云はんよりは色味を帶びてゐて、それも濛氣がかかつてゐる。かの驚くべき織物類の染色に顯る〻通りの、色彩や色味の點に於ける日本人の優美なる好尙は、日本の自然界に於ては、何物もぴかぴかしないで、中庸を得てゐて、一切の調子が地味で纖細な美であるのに大いに因ることと私は思ふ。

 見渡せば、綺麗な大きな湖水が、柔かな明るさを帶びて眠つてゐる。靑い火山性丘陵の鎖が鋸齒狀に連つて圍んでゐる。右手に當つて湖東に、市の最も古い區が靑灰色の丸屋根を擴げて、軒々水崖を壓し、建物の足元が水にひたひたになつてゐる。望遠鏡を取つて看ると、私の家の窓や、更に遠くに續いてゐる屋根や、就中綠色の城山に奇怪に尖つた陰欝な天守閣が見える。太陽が沒し始めるにつれて、水に空に色合の不思議な變化が現れる。

 藍黑色は鋸齒狀連山の背と上空とを、廣々と光澤の消えた深紫の色が隈どる――霞がかつた紫が、上の方へ弱い朱色と鈍い金色になつて、次第に煙の如く薄らぐ。それがまた幽かな綠色の層を經てから、終には靑色に沒する。湖の沖の方の水が、深い所は柔かな、何とも云へないすみれ色を帶びる。すると、松に蔽はれた小島の影法師が、そのうるはしい色した水面に、浮いたやうに見える。しかし、磯近い淺瀨は、水の深い方と一道の潮流で、線を引いた如くくつきりと區別されて、その線から手前の水面は、靑銅のやうに微光を放つて、全く濃赤の黃金がかつた古い靑銅である。

 薄い方のいろいろの色は、五分間每に變つて行く――纎麗な甲斐絹の明暗のやうに出沒變幻を極める。

[やぶちゃん注:「天神橋」既出既注

「湖に面した小さな蕎麥屋」松江市観光公式サイト「水の都 松江」内の小泉八雲お気に入りのそば屋によれば、この蕎麦屋は『袖師(県立美術館の近く)にあった「そば処栗原屋」をとても好んでいたようである。まだ宍道湖が埋め立てもされておらず、現在の鉄道のあたりまで水が来ていて大小白帆の和船が出入りする入江で美しい景色を誇っていた』。『湖岸に位置する「栗原屋」は、宍道湖に沈む夕日を眺める絶好の場所であり、八雲は、友人の西田千太郎とともに、そばと酒をゆっくりとたしなんだという。残念ながら現在は「そば処栗原屋」はなく、当時をしのぶのみである』とある。新土手川の右岸河口付近(現在の祖師町附近)。ここ、行ってみたいなぁ……。

「矯激」は「けうげき(きょうげき)」と読み、言動や様態などが並外れて激しいさまをいう。

「濛氣」は「もうき」で「朦気」に同じい。もうもうと立ちこめる霧や靄(もや)をいう。

「松に蔽はれた小島」嫁ヶ島。前注の祖師町附近からは直線で五百~六百メートル前後南西に当たる。

「甲斐絹」これで「かいき」と読む。厳密には、経糸と緯糸を一対二の割合にして製織した本練り絹織物を指す。特有の布面・光沢・絹鳴りを持ち、羽織の裏地や夜具地。座布団地・風呂敷などに用いられる。山梨県富士工業技術センター企画・製作になる「甲斐絹ミュージアム」でその素敵な織りを見ることが出来る。必見!] 

 

Sec. 19

   Over the Tenjin-bashi, or Bridge of Tenjin, and through small streets and narrow of densely populated districts, and past many a tenantless and mouldering feudal homestead, I make my way to the extreme south- western end of the city, to watch the sunset from a little sobaya [9] facing the lake. For to see the sun sink from this sobaya is one of the delights of Matsue.

   There are no such sunsets in Japan as in the tropics: the light is gentle as a light of dreams; there are no furies of colour; there are no chromatic violences in nature in this Orient. All in sea or sky is tint rather than colour, and tint vapour-toned. I think that the exquisite taste of the race in the matter of colours and of tints, as exemplified in the dyes of their wonderful textures, is largely attributable to the sober and delicate beauty of nature's tones in this all-temperate world where nothing is garish.

   Before me the fair vast lake sleeps, softly luminous, far-ringed with chains of blue volcanic hills shaped like a sierra. On my right, at its eastern end, the most ancient quarter of the city spreads its roofs of blue-grey tile; the houses crowd thickly down to the shore, to dip their wooden feet into the flood. With a glass I can see my own windows and the far-spreading of the roofs beyond, and above all else the green citadel with its grim castle, grotesquely peaked. The sun begins to set, and exquisite astonishments of tinting appear in water and sky.

   Dead rich purples cloud broadly behind and above the indigo blackness of the serrated hills—mist purples, fading upward smokily into faint vermilions and dim gold, which again melt up through ghostliest greens into the blue. The deeper waters of the lake, far away, take a tender violet indescribable, and the silhouette of the pine-shadowed island seems to float in that sea of soft sweet colour. But the shallower and nearer is cut from the deeper water by the current as sharply as by a line drawn, and all the surface on this side of that line is a shimmering bronze—old rich ruddy gold-bronze.

   All the fainter colours change every five minutes,—wondrously change and shift like tones and shades of fine shot-silks. 

 

9
   An inn where soba is sold.

2015/09/08

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一八)

 

       一八 

 

 今でも猶折々街頭で、松江の七不思議を歌つた可笑しい歌を耳にすることがある。昔は誰もこの歌を暗誦したさうだ。以前、松江は七區に分れてゐて、各區に特異のものや、人物が居たのだ。今は五つの宗敎的區劃が出來て、各區に神道の社がある。その區内に住む、ものを氏子と稱し、社を氏神といふ。(各村各町、少くとも一個の氏神を有する)

 松江の澤山の寺には、何か驚くべき傳說が纏つてゐないのはあるまい。各區には幾多の緣起譚がある。三十三の町々にも、それぞれ妖怪譚があると思ふ。その例を二つ擧げる。これは日本の民間傳說の一種を優に代表するものだ。

 市の東北にある普門院の附近に、小豆磨ぎ橋といふのがある。昔、夜每に女の幽靈が橋の下へ出て、小豆を洗つたさうだ。日本の綺麗な草花に、虹の紫色を呈した杜若といふのがあつて、その花に關して杜若の歌といふ歌がある、この歌は決して小豆磨ぎ橋の邊で謠ふてはならぬ。どういふわけか分つてゐないが、そこへ現れる幽靈は、それを聞くと大變に怒るので、もし其處でそれを謠ふ人があれば、怖ろしい災難に罹るのである。或る時何事にも恐れぬ侍があつて、夜その橋へ行つて聲高らかにその歌をうたつたが、幽靈が現れないから笑つて家に歸つてみると、門前で見覺のない丈の高い綺麗な女に逢つた。女が會釋をして文箱を差出した。侍も武士らしい禮をした。『妾は唯下婢であります。これは妾の女主人からの進物であります』といつて、女は消え失せた。箱を開けると血の附いら幼兒の顏が出た。家へ入ると、客座敷に頭のちぎれた自分の幼兒の死體があつた。

 中原町にある大雄寺の墓地に就て、こんな話がある。――

 中原町に飴屋があつて、水飴を賣つてゐた。これは麥芽から製した琥珀色の糖液で、乳のない子供に飮ませるものである。每度親切に訊いてみたが、女は何も答へなかつた。遂に或夜好奇心に驅られて、跡を追けて見ると、女は墓地へ行つたので、こわくなつて引き返した。

 翌夜女はまた來たが、水飴を買はないで、唯隨いてこいと手招きをしたので、飴賣は數人つれ合つて行つた。女はある墓へ行つて消えた。地下には幼兒の泣き聲がした。墓を發いてみると、每晩飴屋へ來た女の死骸があつて、それから生れた赤ん坊がゐて、提燈の光りをみて笑つてゐる。その側には水飴の小さな椀が置いてあつた。これは母のまだ眞實に死んでゐないのが早まつて葬られ、墓中で子が生れたので、母の幽靈がかやうに子を養つてやつたのである――母の愛は死より强いから。

[やぶちゃん注:「松江の七不思議を歌つた可笑しい歌」調べ当たらなかった。少なくともここに記された「小豆研ぎ」(これはハーンの「幽霊滝」の恐怖構造と類似する)と「飴を買う女」、そして先の大橋の人柱「源助柱」及び前話の松江城の「少女の人柱」の四話はまず含まれると考えてよいのではなかろうか? 識者の御教授を乞う。

「普門院」既出既注

「小豆磨ぎ橋」この橋は現在は存在しない模様である。

「大雄寺」原文を見て頂くとわかるようにこれで「だいおうじ」と読む(現行も同じ)。松江城の南西一キロメートルほどの宍道湖の東北岸の松江しんじ湖温泉駅に近い、現在も中原町にある法華宗の寺である。

「こわくなつて」はママ。]

 

Sec. 18

   One may still sometimes hear in the streets a very humorous song, which every one in town formerly knew by heart, celebrating the Seven Wonders of Matsue. For Matsue was formerly divided into seven quarters, in each of which some extraordinary object or person was to be seen. It is now divided into five religious districts, each containing a temple of the State religion. People living within those districts are called ujiko, and the temple the ujigami, or dwelling-place of the tutelary god. The ujiko must support the ujigami. (Every village and town has at least one ujigami.)

   There is probably not one of the multitudinous temples of Matsue which has not some marvellous tradition attached to it; each of the districts has many legends; 
and I think that each of the thirty-three streets has its own special ghost story. Of these ghost stories I cite two specimens: they are quite representative of one variety of Japanese folk-lore.

   Near to the Fu-mon-in temple, which is in the north-eastern quarter, there is a bridge called Adzuki-togi-bashi, or The Bridge of the Washing of Peas. For it was said in other years that nightly a phantom woman sat beneath that bridge washing phantom peas. There is an exquisite Japanese iris-flower, of rainbow-violet colour, which flower is named kaki- tsubata; and there is a song about that flower called kaki-tsubata-no- uta. Now this song must never be sung near the Adzuki-togi-bashi, because, for some strange reason which seems to have been forgotten, the ghosts haunting that place become so angry upon hearing it that to sing it there is to expose one's self to the most frightful calamities. There was once a samurai who feared nothing, who one night went to that bridge and loudly sang the song. No ghost appearing, he laughed and went home. At the gate of his house he met a beautiful tall woman whom he had never seen before, and who, bowing, presented him with a lacquered box-fumi-bako—such as women keep their letters in. He bowed to her in his knightly way; but she said, 'I am only the servant—this is my mistress's gift,' and vanished out of his sight. Opening the box, he saw the bleeding head of a young child. Entering his house, he found upon the floor of the guest-room the dead body of his own infant son with the head torn off.

   Of the cemetery Dai-Oji, which is in the street called Nakabaramachi, this story is told-In Nakabaramachi there is an ameya, or little shop in which midzu-ame is sold—the amber-tinted syrup, made of malt, which is given to children when milk cannot be obtained for them. Every night at a late hour there came to that shop a very pale woman, all in white, to buy one rin [8] worth of midzu-ame. The ame-seller wondered that she was so thin and pale, and often questioned her kindly; but she answered nothing. At last one night he followed her, out of curiosity. She went to the cemetery; and he became afraid and returned.

   The next night the woman came again, but bought no midzu-ame, and only beckoned to the man to go with her. He followed her, with friends, into the cemetery. She walked to a certain tomb, and there disappeared; and they heard, under the ground, the crying of a child. Opening the tomb, they saw within it the corpse of the woman who nightly visited the ameya, with a living infant, laughing to see the lantern light, and beside the infant a little cup of midzu-ame. For the mother had been prematurely buried; the child was born in the tomb, and the ghost of the mother had thus provided for it—love being stronger than death.

 

8
   Rin, one tenth of one cent. A small round copper coin with a square hole in the middle.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一七)

 

       一七

 

 この陰氣な城には、因緣話がある。

 丁度『スカドラの礎』と稱する塞比亞の哀れな俗謠に、怖ろしい形見を留めてゐると同樣な、一種の原始的蠻習のために、築城の際、何とかいふ神に犧牲として、ある松江の少女が城壁の下ヘ生埋にされたといふことだ。少女の名は傳はらなかつた。美しくて、踊りが好きでつたことの外は、何も記憶されてゐない。

 さて、城が出來上つてから、松江の娘は城の附近の街頭では盆踊をすること、一切相成らぬといふ法度が出ねばならなかつた。それは、いつも娘の踊るものがあると、御城山が動いて、大きな城が礎から頂まで搖れるからであつた。

[やぶちゃん注:「『スカドラの礎』と稱する塞比亞の哀れな俗謠」「塞比亞」は原文の綴りから「セルビア」のことで、“The Foundation of Skadra”“The Building of Skadar”というセルビアの叙事詩を指し(平井呈一氏は『シベリアの民謡』と訳されているが、これは何かの勘違いであろう)、そこに語られた、城塞を築くために若い女性が人柱に捧げられるという内容との酷似性をハーンは述べているらしい。英文ウィキっと“The Building of Skadar”からの半可通の分かったような分からぬような注で失礼する。詳細な情報を御存じの方は是非、御教授あれかし。

「築城の際……ある松江の少女が城壁の下ヘ生埋にされた」ウィキの「松江城」の「人柱伝説」には、『天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た。そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る。また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった。(「小泉八雲/人柱にされた娘」など)』とある。但し、人柱伝承には別話もあり、『天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘らせたところ槍の刺さった髑髏が出てきたので虚無僧が祈祷したが、まだ危ういところがあるというと虚無僧は「祈祷では無理だ。」というのである。どうすればいいのかたずねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう。」というので、虚無僧に人柱になってもらい工事を再開させることができたが、堀尾家は普請の途中に』第二代『忠晴で絶え改易となった、という』とし、更に『これには別に、虚無僧の尺八が聞こえてきたので捕まえて人柱にしたところ、尺八の音が聞こえるようになった、というものもある』とする。別な記述では、築城期間の毎年の盆踊りの際に娘を攫っては三年で都合、三人も人柱にし、だから三代目で滅んだという説もあり、それが天守閣に出現する女の妖怪談にまで大発展しているものもあるのだが、ここはハーンの少女への憐みを大切にするため、ここまでとしておく。 

 

Sec. 17

   The grim castle has its legend.

   It is related that, in accordance with some primitive and barbarous custom, precisely like that of which so terrible a souvenir has been preserved for us in the most pathetic of Servian ballads, 'The Foundation of Skadra,' a maiden of Matsue was interred alive under the walls of the castle at the time of its erection, as a sacrifice to some forgotten gods. Her name has never been recorded; nothing concerning her is remembered except that she was beautiful and very fond of dancing.

   Now after the castle had been built, it is said that a law had to be passed forbidding that any girl should dance in the streets of Matsue. For whenever any maiden danced the hill Oshiroyama would shudder, and the great castle quiver from basement to summit.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一六)

 

        一六

 

 市街區域はテーブルの如く平坦であるが、常綠の森に蔽はれた寺や社が建つてゐる低い半月形の可愛らしい丘陵で、市の兩端は圍まれてゐる。一萬の戶數で、三十三の主要なる町と、多くの更に小さな町を形成して、二萬五千の人口がある。して、殆ど何れの町の片端からでも、丘陵や湖や東方にある稻田を隔てて、遠さにつれて綠や靑や、鼠色の山巓がいつも見える。市のどの方面へも騎行、步行、舟行勝手次第だ。市は二つの川で區分された計りでなく、よく引いた弓の如くに曲つた奇異な小橋を架した澤山の運河が交叉してゐるからだ。建築の點から云へば(師範學校、中學校、縣廳、新しい郵便局の如き歐風建築があるに關らず)松江は日本の他の奇異な諸都會と大槪同樣である。寺院も、家屋も、店肆も、私人の住宅も他の西海岸諸市に於けると同じい。が、今猶生存せる幾千の人々が覺えてゐる頃までも、松江は封建の城下であつたため、昔劃然としてゐた階級の差別が、區域に從つて異る建築で以て、まだ珍らしくも判然と示されてゐる。市は建築の點から三區に劃することが出來る。町家は市の中心をなして皆二階造りである。寺院の區域は殆ど市の全東南部を含んでゐる。して、士族(昔は侍)の區域には、ゆつたりした庭園を繞らした平屋建の邸宅が澤山ある。封建時代には是等雅趣ある屋敷から、一令の下に大小を差した五千人の武士が、武具を着けた家來を從へて召集さる〻ことが出來た。畢竟城下だけに、少くとも一萬三千の軍勢が出來るのであつた。市の戶數の三分の一以上は、その當時武士の屋敷であつた。それは松江は出雲の軍事的中心であつたからだ。市の兩端の湖に沿ふて三日月形に彎曲せる處に、主要な武士の住居區域が二つあつた。しかし最も重要の寺院が寺町以外に建つてゐる如く、武士階級の人々の最も立派な屋敷も、他の場所にあるのが多くあつた。が、最も密集してゐるのは、城の邊であつた。城は御城山の上に今日猶依然として數百年前創築の頃の如く、儼然としてゐて、全然鐡じみた灰色の、巍然たる凶相が、大きい不規則な石で築いた石垣の土臺から、沖天へと聳えてゐる。全體の恰好は異樣にも陰欝で、細部に亘つては複雜の怪奇を極めてゐる。大きな佛塔の二階三階四階が、その重さで壓潰され、互に疊込んだやうである。封建時代の兜の如く、頂には大きな唐金の鯱が屋根の兩端からその彎曲した體を空へ揚げてゐる。して、角を具へた破風や、鬼瓦を敷いた檐や、判じ物のやうな恰好をした、反を打つた瓦屋根などが、各階每に簇生してゐるので、華麗な怪物を集めて造つた建物の龍そつくりだ――加之、上方下方各側のあらゆる稜角に眼睛を點じた龍なのだ。佛壇面をした黑い最上の屋根の下から東と南を眺めると、空翔ける鷹となつた如くに、一眸全市がみおろされる。して、北の隅から三百尺の直下に、城內の通路の行人が、蠅ほどの大いさに見える。

[やぶちゃん注:「簇生」「そうせい」が正しい読み(「ぞくせい」は誤った慣用読み)「叢生」に同じい。草木などが群がり生えること、或いは茎や花茎などが根の際から束(たば)のようになって集まって生ずる束生(そくせい)の謂いもあるが、ここは、「各種の屋根装飾が生えるように突き出ている」という比喩である。

「三百尺」九十・九メートル。原文は“three hundred feet”であるから「三百呎」と表記すべきところだが、三百フィートは九十一・四四メートルだから、ここではあまり変わりがない。しかし松江城は本丸地上(ハーンは城内の地上の人々を見ている)からは約三十メートルで、これはあまりにも誇張表現ではある(仮に見下ろす視線の斜辺の長さとしても六十メートルもないはずである)。それでもハーンの、「第三の男」ハリー・ライム風の気持ちと映像はよく伝わってくる。] 

 

Sec. 16

   The city proper is as level as a table, but is bounded on two sides by low demilunes of charming hills shadowed with evergreen foliage and crowned with temples or shrines. There are thirty-five thousand souls dwelling in ten thousand houses forming thirty-three principal and many smaller streets; and from each end of almost every street, beyond the hills, the lake, or the eastern rice-fields, a mountain summit is always visible—green, blue, or grey according to distance. One may ride, walk, or go by boat to any quarter of the town; for it is not only divided by two rivers, but is also intersected by numbers of canals crossed by queer little bridges curved like a well-bent bow. Architecturally (despite such constructions in European style as the College of Teachers, the great public school, the Kencho, the new post- office), it is much like other quaint Japanese towns; the structure of its temples, taverns, shops, and private dwellings is the same as in other cities of the western coast. But doubtless owing to the fact that Matsue remained a feudal stronghold until a time within the memory of thousands still living, those feudal distinctions of caste so sharply drawn in ancient times are yet indicated with singular exactness by the varying architecture of different districts. The city can be definitely divided into three architectural quarters: the district of the merchants and shop-keepers, forming the heart of the settlement, where all the houses are two stories high; the district of the temples, including nearly the whole south-eastern part of the town; and the district or districts of the shizoku (formerly called samurai), comprising a vast number of large, roomy, garden-girt, one-story dwellings. From these elegant homes, in feudal days, could be summoned at a moment's notice five thousand 'two-sworded men' with their armed retainers, making a fighting total for the city alone of probably not less than thirteen thousand warriors. More than one-third of all the city buildings were then samurai homes; for Matsue was the military centre of the most ancient province of Japan. At both ends of the town, which curves in a crescent along the lake shore, were the two main settlements of samurai; but just as some of the most important temples are situated outside of the temple district, so were many of the finest homesteads of this knightly caste situated in other quarters. They mustered most thickly, however, about the castle, which stands to-day on the summit of its citadel hill—the Oshiroyama—solid as when first built long centuries ago, a vast and sinister shape, all iron-grey, rising against the sky from a cyclopean foundation of stone. Fantastically grim the thing is, and grotesquely complex in detail; looking somewhat like a huge pagoda, of which the second, third, and fourth stories have been squeezed down and telescoped into one another by their own weight. Crested at its summit, like a feudal helmet, with two colossal fishes of bronze lifting their curved bodies skyward from either angle of the roof, and bristling with horned gables and gargoyled eaves and tilted puzzles of tiled roofing at every story, the creation is a veritable architectural dragon, made up of magnificent monstrosities—a dragon, moreover, full of eyes set at all conceivable angles, above below, and on every side. From under the black scowl of the loftiest eaves, looking east and south, the whole city can be seen at a single glance, as in the vision of a soaring hawk; and from the northern angle the view plunges down three hundred feet to the castle road, where walking figures of men appear no larger than flies.

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 播磨屋舖蹟/武田屋舖蹟/梅谷/綴喜原/假粧坂/六本松/葛原岡/鍛冶正宗屋敷跡/佛師運慶屋敷跡/巽荒神/人丸塚/千葉其他の邸址/天狗堂

 

    ●播磨屋舖蹟

假粧坂の北の方にあり。今は白田(はくでん)となれろり。土人播磨守其の屋舖なりと云ふ。按するに高播磨守師冬(かうのはりまのかみもろふゆ)は武藏守師直の猶子にして基氏の執事たり。威權(ゐけん)ありしか。後(のち)隱謀(ゐんぼう)の企(くはだて)發覺(はつかく)して誅せられぬ。其第蹟なるか。

[やぶちゃん注:「高播磨守師冬」守護大名で関東執事であった高師冬(こうのもろふゆ ?~正平六/観応二(一三五一)年)参照したウィキの「高師冬」によれば、『高師行(もろゆき)の子で』、足利尊氏の懐刀で後の作品では悉く「悪逆非道」の権化としてカリカチャライズされる『高師直の従兄弟にあたる(後に師直の猶子となる)』。『官位は播磨守、三河守』。『従兄弟の師直と同じく足利尊氏に仕えた。尊氏の命を受けて』延元三/暦応元(一三三八)年から『関東の平定に乗り出し、翌年に関東執事に就任、北畠親房・小田治久と戦い』、興国四/康永二(一三四三)年の『冬までに関東平定を成し遂げた。功績により武蔵、次いで伊賀の守護に任じられている』。翌年(一三四四年)には『関東執事職を従兄弟の高重茂に交代』したが、正平四/貞和五(一三四九)年に尊氏次男の『基氏が鎌倉公方として関東に派遣されると、上杉憲顕と協力して幼少の基氏の補佐に当たる。しかし都で師直と足利直義による対立が発生すると、師冬も直義派であった憲顕と対立することになる。敗れた師冬は』正平五/観応元(一三五〇)年)末、『鎌倉から没落して甲斐須沢城(山梨県南アルプス市白根町)に逃れたが、そこも諏訪氏(直義派の諏訪直頼)の軍勢に包囲されることとなり』、翌年一月、『逃げ切れないことを悟り、自害して果てた。享年は』三十代であったか、と推測されてある。] 

 

    ●武田屋舖蹟

梅谷の南にあり。今は畠となる。東鑑に武田伊豆入道信光あり。其宅地ならんか。

 

[やぶちゃん注:「梅谷」次項に出るが、「むめがやつ/うめがやつ」と読む。扇ヶ谷から化粧坂に向う道筋に当たる谷戸。

「武田伊豆入道信光」武田信光(応保煮(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は新羅三郎源義光を始祖とする甲斐武田氏第五代当主で第四代当主武田信義五男。ウィキの「武田信光」によれば、伊豆守、甲斐国・安芸国守護で、『甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する』。『馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された』。「吾妻鏡」に拠れば、治承四(一一八〇)年の『頼朝が挙兵したことに呼応して父と共に挙兵し、駿河国にて平氏方の駿河国目代橘遠茂と戦い、これを生け捕りにするという軍功を挙げたという(鉢田の戦い)。甲斐源氏の一族は逸見山や信光の石和館で頼朝の使者を迎え挙兵への参加を合意し、治承・寿永の乱において活躍する。信光は頼朝の信任が篤く、源義仲とも仲が良かったことから、義仲の嫡男に娘を嫁がせようと考えていたが、後に信濃国の支配権を巡って義仲と不仲になってこの話は消滅した。後に頼朝が義仲の追討令を出したのは、この信光が義仲を恨んで讒訴したためであるとも言われている』。元暦元(一一八四)年、『義仲追討軍に従軍して功を挙げ、直後の一ノ谷の戦いにおいても戦功を挙げた』。『父の信義は駿河や甲斐の守護に任じられていたとする説もあるが、この時期には甲斐源氏の勢力拡大を警戒した頼朝による弾圧が行われており、一族の安田義定、一条忠頼、板垣兼信らが滅亡している。信光は武田有義(左兵衛尉、逸見氏の出自か)や加賀美遠光らの兄弟や従兄弟にあたる小笠原長清らとともに追求を免れているが、信義も謀反の疑いを掛けられており』、文治二(一一八六)年に父は隠居している(死没とも言われる)。『信光は家督を継いで当主となり、鎌倉で起こった梶原景時の変に乗じて有義を排斥する』。文治五(一一八九)年には『甲斐源氏の一党を率いて奥州合戦に参加し、このときに安芸国への軍勢催促を行っていることからこの時点で安芸国守護に任じられていたとも考えられている』(但しこれは承久三(一二二一)年とも言われる)。その後も幕府に仕えて、建久四(一一九三)年には『小笠原長清と、頼朝の富士の巻狩に供している。阿野全成の謀反鎮圧にも携わり、甲斐の御家人も分裂して争った建保元年』(一二一三年)『の和田合戦でも鎌倉へ参陣して義盛追討軍に加わっている。乱では都留郡を治めた古郡氏が和田方に属して滅ぼされており、信光は恩賞として同郡波加利荘(大月市初狩)などを与えられており(『吾妻鏡』)、甲斐源氏が都留郡へも勢力を及ぼしている』。承久三(一二二一)年に起った承久の乱においても長清とともに東山道大将軍として五万の兵を率い出陣、同年七月十二日には『都留郡加古坂(籠坂峠、南都留郡山中湖村)において藤原光親を処刑している(『吾妻鏡』)。安芸守護任命をこのときの恩賞とする説もあり、一時は安芸国へも在国している』。暦仁二・延応元(一二三九)年に『出家して鎌倉の名越に館を構え、家督を長子の信政に譲っている。このとき、伊豆入道光蓮と号した』。「吾妻鏡」によれば、仁治二(一二四一)年には『上野国三原荘をめぐり海野幸氏と境争論を起こして敗訴し、執権北条泰時に敵意を抱いたとする風説が流れているが』、同年十二月二十七日には『次男の信忠を義絶する形で服従』を示している(下線やぶちゃん)。ここから考えると彼の宅地説が正しいとしても幕府創成のごく初期のことのように思われる。]

 

    ●梅谷

假粧坂の下なる北の谷なり。古昔(こせき)假粧坂の麓に古刹あり。其庭前なる古梅の薰(かほ)り諸木に勝れし故。來往の人(ひと)足を留て香を慕ひしかは。自(おのづ)から梅谷と呼なせしと鎌倉根元記に見ゆ。

[やぶちゃん注:こう書かれており、「鎌倉廃寺事典」に附録する「鎌倉廃寺地図」(これは馬鹿に出来ない非常に有用な地図である)にもそうなっていて「新編鎌倉志」もそう記す(次項の注を参照)のであるが、「鎌倉事典」によると、少なくとも現在は『亀谷切通しの下、薬王寺のあたりをそうよんでいる』とあって、これは全く方向違いである。

「鎌倉根元記」書誌情報不詳。識者の御教授を乞う。] 

 

   ●綴喜原

假粧坂の下南の方をいふ。陸田を開けり。今按するに此地山陰卑濕の小境にして原と稱すべき廣平の地にあらす。鎌倉志には此邊を綴喜(つゞき)の里と云とありて別に原の名を擧げず。

[やぶちゃん注:ここは「新編相模国風土記稿」に基づくが、もっとしっかり引用してもらいたかった。同書ではこの和歌の「綴喜原」とは『武州都筑ヶ原を詠ぜしなれば其地異なり』と退けているからである(なお、ここに出る「武州」の都筑ヶ原(つづきがはら)とは旧武蔵国都筑郡内の平原を指しており、現在、横浜市都筑区にその名を留めるてはいるものの区域は大幅に異なるので注意されたい。正確な旧郡域はウィキの「都筑郡」を参照のこと)。「新編鎌倉志卷之四」の梅谷(前項)の条には、

   *

◯梅谷〔附綴喜の里〕 梅谷(むめがやつ)は、假粧坂(けわひざか)の下の北の谷なり。此邊を綴喜里(つづきのさと)と云ふ。【夫木集】に、綴喜原(つづきのはら)を相模の名所として、家隆の歌あり。「誰(た)が里につゞきの原(はら)の夕霞(ゆふがすみ)、烟(煙)も見へず宿(やど)はわかまし」と。此の地を詠るならん。

   *

とあって、実はこの記述こそがありもしない「鎌倉の綴喜原」を繁殖させてしまった元凶ではないかと私は疑っている。この「夫木和歌集」の「つゞきの原」というのは私は凡そ鎌倉御府内ではないと思っており、かつてこれはロケーションから(全くの直感)もっと湘南寄り藤沢江ノ島よりも以西の平野部にあったのではないかと考えていたが、今回、「新編相模国風土記稿」の自信に満ちた断言を実見し、これを支持することとしたい。] 

 

    ●假粧坂

相傳ふ古(いにしへ)平家の大將の首(くび)討取(うちとつ)て假粧し。實檢に備へしより此名起ると云ひ。一説に昔遊女の居住せし地なれは此名を負(おは)せしとも云り。俊基朝臣葛原岡にて害せられし時此所を過く。元弘三年。新田義貞鎌倉へ攻入(せめいり)し時も此坂より押寄たり。文和元年。新田義興(よしおき)鎌倉を攻し時は。南遠江守當所を固(かた)む。應永二十三年、上杉禪秀の亂にも此坂にて合戰あり。准后道興此坂を越(こゆ)る時歌を詠す。坂上に松樹(しようじゆ)あり紅掛松と呼ふ。

[やぶちゃん注:「假粧坂」「けはひさか(けわいさか)」と読む。

「元弘三年」鎌倉幕府滅亡の一三三三年。

「文和元年」一三五二年。

「新田義興」新田義貞次男。観応の擾乱で鎌倉奪還を目指して上野国で北条時行らとともに挙兵、その後も宗良親王を奉じて弟義宗・従兄弟脇屋義治と挙兵して、鎌倉を一時占拠するが、尊氏の反撃にあって鎌倉を追われる。ここはその鎌倉攻めの際のこと。

「南遠江守」足利尊氏の家臣南(南部)宗継(みなみ/なんぶ むねつぐ 生没年未詳)のこと。足利氏代々の執事を務めた高氏の一族。知られた高師直・師泰兄弟と宗継の父惟宗とは従兄弟関係にある。伊勢南部氏の祖。

「應永二十三年」一四一六年

「准后道興此坂を越る時歌を詠す」「准后道興」道興准后は関白近衛房嗣の次男で、聖護院第二十四代門跡・新熊野検校などに任ぜられた。大僧正。後、職を辞して詩歌の道へ入り、足利義政・寛正六(一四六五)年、准三后に補任(准后は「じゅごう」と読み、公家(「后」とあるが女性に限らない)の最高称号の一つである)、それ以降、道興准后と呼ばれ、将軍足利義政の護持僧となり、義尚にも優遇された。ここで述べているのは彼が著した「廻國雜記」のことで、文明一八(一四八六)年の六月から北陸道を経て越後に至り、関東から甲斐、さらに奥州の松島に至る凡そ十ヶ月に亙る旅について記した紀行文である。漢詩・和歌・俳諧連歌を交えたそれは、その文学的価値もさることながら、当時の各地の修験者の動向を知る資料として貴重である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」の記載に補足を施してある)。当該の歌は、

   へにがやつをとほりて、けはひ坂をこゆとて俳諧、

かほにぬるへにがやつよりうつりきてはやくもこゆるけはひさかかな

である。詳細は、本『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」の「胡桃谷/附 道興准后「廻国雑記」鎌倉パート翻刻」の私の注を参照されたい。

「紅掛松」現存しないものと思われる。少なくとも私は聴いたことがない。「六本松」の一つかと思ったら、次項に「六本松」が出るから違う。識者の御教授を乞う。] 

 

    ●六本松

假粧坂の上に松二株あり。六本松と呼(よ)ふ。古は六本ありしにや。又里人の口碑に駿河次郞淸重此處に登り。鎌倉中を見おろしたり。故に物見松(ものみまつ)とも唱ふと云ふ。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之四」の「假粧坂(けわひざか)」の後に、

   *

〇六本松 六本松(ろくぼんまつ)は、假粧坂の上に二本ある松なり。古へは六本ありつる歟。里人の云、駿河次郞淸重、此處に立て鎌倉中を見おろしたりと。【上杉禪秀記】に、源の滿隆の兵(つはもの)共、拾萬騎にて、六本松に押し寄する。上杉彈正少弼氏定、扇が谷より出向て、爰を先途と防ぎ戰ひけりとあり。

   *

とある。

「駿河次郞淸重」(?~文治五(一一八九)年)は竹下次郎とも。元来は猟師であったとも言われ、当初は頼朝の家臣であったが、後に義経に従い、平泉衣川で戦死したと伝えられる。「義経記」では平宗盛の子清宗を六条河原で斬ったのは彼とするから、この鎌倉を見下ろしたのは、例の腰越状の、義経が入鎌を禁じられた折りに、秘かにここに来て、見渡したということか。なお、日野俊基(次項注参照)はこの六本松の下で処刑されたとも伝えられる。] 

 

    ●葛原岡

假粧坂を起て北の野をいふなり。元弘の頃。右少辨俊基此所にて誅せらる。

[やぶちゃん注:「右少辨俊基」倒幕を目指して滅亡を直前に命を散らした廷臣日野俊基(?~元弘二/正慶元年六月三日(一三三二年六月二十六日)。官位は従四位下・右中弁。ウィキの「日野俊基」より引く。文保二(一三一八)年)に『即位した後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となる。後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。諸国を巡り反幕府勢力を募るが六波羅探題に察知され』、正中(しょうちゅう))元(一三二四)年の『正中の変で日野資朝らと逮捕されるが処罰は逃れ』た。その後、『京都へ戻るが』、元徳三/元弘元(一三三一)年に発覚した二度目の『討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、得宗被官諏訪左衛門尉に預けられた』後、ここ『葛原岡で処刑された』。辞世は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に殘るらん」であった。『明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされると俊基は倒幕の功労者として評価されるようになり』、明治二〇(一八八七)年には『俊基を主祭神とする葛原岡神社が神奈川県鎌倉市梶原に創建され、俊基自身にも従三位が追贈され』ている。]

 

    ●鍛冶正宗屋敷跡

鍛冶正宗屋敷跡は。今小路の西側に在り。一叢(むら)の竹林を存し。内に燒刄渡と稱する稻荷の小祠を祀る。鎌倉志には正宗がまつりたる神なりと云傳ふとあり。現在の者は石製(せきせい)にて。僅かに二尺許り。臺石に江戶淺草御見附外石工文藏、善藏、源七、天明二壬寅歲九月吉日と刻せり。

先進繡像玉石雜誌に云。岡崎五郞正宗入道は相撲國鎌倉の人なり。父を藤三郎行光と云。文永元年甲子歲鎌倉今小路に生る。〔中畧〕康永三年八十一歲にて歿す。比企谷妙本寺の山に葬れり。」古今鍛冶備考に云。相州住正宗或二字銘多し。相摸國鎌倉に住し。五郞入道と號す。同所行光の男也。新藤五國光か門と云。宇内(うだい)を周行(しうかう)して。其の薀奧(うんおう)を究め。本邦鍛冶中興の祖神(そしん)と仰(あふ)かる。十の妙所(めうしよ)に十三種の沸(にゑ)あり。正應建武の間。」正宗に就ては近時議論紛出(ふんしゆつ)せり。今贅(ぜい)せす。

[やぶちゃん注:引用の鍵括弧の始まりがないのはママ。「新編鎌倉志卷之五」の「鍛冶正宗(たんやまさむね)屋敷跡」から私の注とともに引く。

   *

◯鍛冶正宗屋敷跡 鍛冶正宗が屋敷の跡は、勝橋(かつがはし)の南みの町、西頰(にしがは)也。今は町屋となる。正宗は、行光が子なり。行光、貞應の比、鎌倉に來り爰に住すと云ふ。今も此の所に刃(やきば)の稻荷と云小祠あり。正宗がまつりたる神なりと云傳ふ。

「貞応」は年間は西暦一二二二年から一二二四年。「刃稻荷」は本文の「燒刄渡と稱する稻荷の小祠」と同一物で、鎌倉駅から寿福寺へ向かう手前の西の尾根に現存する。

「鍛冶正宗」「岡崎五郞正宗入道」岡崎五郎正宗について「鎌倉志」は「行光が子」とするが、鎌倉に在住した相模鍛冶国光の実子とも、国光の弟子とも(そうすると行光は兄弟弟子となる)、ここに記されるように、その国光を継いだ行光の子とも、行光の弟で後に養子となったともする。岡崎正宗の生没年は不詳であるが、現在の研究では、その活動時期を鎌倉末期から南北朝期(十三世紀末から十四世紀初頭まで)と推定しているから、その息子ならば、あり得ない話ではない。本覚寺には伝岡崎五郎正宗墓や正宗顕彰の碑があり、他にも錢洗弁天に向かう路傍の個人宅地内に正宗が鍛冶打ちをする際に沐浴したという正宗の井戸が残る。

   *

「今小路」白井永二編「鎌倉事典」によれば、寿福寺門前にある「勝ヶ橋」から、南に走る道の内、現在の鎌倉市役所より手前(北)の巽荒神(後出)前までの間をいう。
 
「二尺」六十・六センチメートル。

「天明二壬寅歲」「壬寅」は「みづのえとら」で一七八二年。

「先進繡像玉石雜誌」「せんしんしゅうぞうぎょくせきざっし」(面倒なので現代仮名遣で示した)と読む。国学者栗原信充編になる元弘以来の歴史上の二十四人の人物小伝。天保一四(一八四三)序。同書の「卷之三」の冒頭を飾るのが「岡崎五郎正宗眞影幷傳」である。幸いにして同書を所持していたので確認したところ、まさに以下の通りに書かれてある。

「文永元年甲子歲」一二六四年。

「康永三年八十一年歲にて歿す」一三四四年。

「古今鍛冶備考」江戸幕府御試御用首斬役山田浅右衛門著(柘植平助方理作という説もある)になる刀剣名物の評価本で増補再版されたものが文政一三(一八三〇)年に出ている(柄佐部氏の個人サイト「こちら第三艦橋」の「幻想書館」内の武具雑考」を参照した)。

「妙所」個々の刀剣の非常に優れた箇所。言うに言われぬ絶妙の味わいどころ。

「沸(にゑ)」「錵」とも書く。日本刀の重要な見所の一つで、地肌及び地肌と刃部との境目に沿って銀砂を撒いた如く細かくきらきらと輝いているものを指す。地肌に生ずるものは特に地沸(じにえ)と称する。ウィキの「正宗」によれば、『正宗の真髄は「沸の妙味」といわれているが、単なる沸出来は新刀』(安土桃山時代の慶長以後の刀工の作刀)『以降の最上作でも出来る技であって、総体に地鉄の変化、地刃尋常ならざる金筋(文字通り筋状に複数現れている金線)=筋金(「筋金入」の語源)・稲妻(平地に現れている細長い地景が刄の中へ入り込んでパッとした光の強いS字状に變化した金筋)と映りを透明感のある「極光」の如く、「曜変の妙味」(千変万化の働きを「自然」に現す技)は中古刀期における相州伝の最も得意とする領域で、これが正宗の「神髓」であるといっても過言ではないとある。

「正應建武」一二八八年から一三三八年。

「贅」せず、というのは、近頃は正宗に就いては有象無象の「議論」噴出状態であるから「今」ここでは贅(ぜい)=適切でない余計なことは言わないこととしてここまでとする、という意味であろう。本誌の発行は明治三〇(一八九七)年であるが、ウィキの「正宗」によると、『明治時代には「正宗は存在しなかった。あるいは存在したとしても凡工にすぎなかった」とする、いわゆる「正宗抹殺論」が唱えられたこともあった』とし、まさにこの前年の明治二十九年には、『当時刀剣鑑識家として名高く、宮内省の御剣掛を務めていた今村長賀は、「読売新聞」に連載した談話記事の中でおおむね次のように主張した』。それは『古来、正宗には在銘正真の作刀を見たことがなく、もし在銘の正宗があれば、それはまがい物である』。『正宗が名工と言われ出したのは豊臣秀吉の時代以後のことで、それ以前の文献では名工とはされていないし、それ以前の武将が正宗の作刀を差料としていたという話も聞かない』。『足利義満の時代に、当時の目利きであった宇都宮三河入道に選ばせた』名工百八十二工の中にも『正宗という名前は入っていない』。『正宗というものは、秀吉が政略的意図から本阿弥家(代々刀剣研磨と目利きを業とした家)に指示してでっち上げたものであろう』というものであった。しかし『以上の主張については、本阿弥家をはじめ、各方面からさまざまな反論が寄せられた。南北朝時代から室町時代の文献にも名工として正宗の名が挙げられていること、刀剣書ではない』「新札往来」(貞治六(一三六七)年成立)『にも日本刀の名工の一人として「五郎入道」の名があることなど文献の面からも、「正宗抹殺論」は今日では否定されている』とある。記者のこの謂いにはまさにこの正宗非在説への皮肉が込められている感じが私にはする。] 

 

    ●佛師運慶屋敷跡

佛師運慶屋敷跡は。正宗屋敷の西隣なり。鎌倉志に云。東寳紀に運慶東寺の大佛師となるとあり。湛慶、康運、康辨、康勝、運賀、運助は運慶が子なり。東鑑にも運慶の事往々出たり。

運慶の血統を嗣く者。今猶ほ後藤齋宮〔博古堂〕三橋榮助〔一陽堂〕あり。世々壽福寺門前に住し。彫刻を以て世に鳴る。所謂鎌倉彫是なり。

 

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之五」の「佛師運慶屋敷跡」から私の注とともに引く。

   *

◯佛師運慶屋敷跡 佛師運慶が屋敷の跡は、正宗屋敷の西なり。佛師運慶が宅地と云傳ふ。【東寶記】に、運慶、東寺の大佛師となるとあり。湛慶・康運・康辨・康勝・運賀・運助は運慶が子なり。【東鑑】にも、運慶往々出たり。

鎌倉には「新編鎌倉志」の記載を見ても散見するように運慶作とする仏像が多くあるが、残念ながら真作として現認されているものは一体もない。但し、寄せ木造りが飛躍的に発達したこの時期には、既に製作は集団組織化され、体躯を別々な複数の仏師が分業製作し、一種の運慶工房のような中で造立が行われていたものとは思われる。なお、ウィキの「運慶」には、『最晩年の運慶の仕事は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で』、建保四(一二一六)年には、『実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院に現存する大威徳明王像を造った。更に、源実朝の持仏堂、北条義時の大倉薬師堂、北条政子の勝長寿院五大尊像などの諸像を手がけている』とあり、作像中の滞在型であったろうが、鎌倉に屋敷を構えていた可能性は必ずしも否定は出来ない。

「東寳記」は「とうぼうき」と読み、東寺学衆杲宝(ごうほう)の編纂した東寺の沿革を記した史書。仏宝・法宝・僧宝の三編八巻に分かれ、東寺の歴史・堂塔・仏像・法具・聖教・法会・僧職について文書・記録等を豊富に引用しつつ、明らかにしたもの。正平七/文和元(一三五二)年の草稿本は六巻であったが、その後、南北朝末期から室町初期にかけて杲宝の弟子賢宝が増補を加えた。現在は国宝(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
 
   *

「後藤齋宮〔博古堂〕」「後藤齋宮」(天保九(一八三八)年~明治四一(一九〇八)年)は元仏師で鎌倉彫師。「ごとういつき」と読む。「博古堂」は鶴岡八幡宮三の鳥居脇に現在も鎌倉彫の店として営業している。同公式サイト内の「博古堂のこと」に詳しい。

「三橋榮助〔一陽堂〕」「三橋榮助」は不詳であるが、三橋式彫の正統派を称する「鎌倉彫一陽会」という会の公式サイトがあり、その「鎌倉彫一陽会のご紹介―三橋式彫の正統派」の解説に、『明治から大正にかけて仏師の中心的家系である』二十六世『三橋鎌山(けんざん)とその長男』二十七世『鎌岳(けんがく)により考案された独特の彫り様式で、三橋式彫りの基礎をつく』ったとし、『鎌山は明治中頃、後藤斎宮(いつき)と共に近代鎌倉彫の基礎を築いた人で、近代鎌倉彫中興の祖と云われてい』るとあるから、この『風俗画報』の記載からは、「榮助」は、この三橋鎌山の本名である可能性が高いように思われる。この公式サイト内の記載によって「一陽堂」は鎌倉彫三橋家の屋号であったことが判明し、現在はこの分家その他が鎌倉彫の店を市内で営業している。KKA 氏の個人ブログ「人生楽しく ガンバロー!」の「TT鎌倉、第22 あるものさがし ”鎌倉仏師と 鎌倉彫り”の下から四枚目のレジュメに、旧鎌倉の仏師町の位置と「一陽堂三橋」の位置その他が地図上に記されている。必見。 

 

    ●巽荒神

巽荒神は今小路の南。鐡道線路の傍に在り。壽福寺の巽位にあるを以て名く。もと壽福寺の鎭守なりといふ。

[やぶちゃん注:「巽荒神」は「たつみかうじん(たつみこうじん)」荒神とは民俗信仰の神の一つで、竈神(かまどがみ)として祀られる三宝(さんぽう)荒神、屋外に屋敷神・同族神・部落神として祀る地荒神、牛馬の守護神としての荒神に大別されるが、ここは地荒神である。この巽荒神の創建は伝承では延暦二〇(八〇一)年に蝦夷征伐に向かう途中の坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したものを、頼朝の祖父源頼義が永承四(一〇四九)年に修理したものと伝えられている。鎌倉初期には現在地に移築されていることが判っている。

「鐡道線路の傍に在り」記者さん、ここはちゃんと見に行きましたね! よろしいでしょう!

「巽位」音では「そんゐ」と読み、辰と未の間、東南の方角であるが、ここはこれで「たつみ」と当て読みさせているように思われる。]

 

    ●人丸塚

人丸塚は。巽荒神の東の方。千度小路の傍の畠中(はたなか)に在り。高六尺ばかり。上に碑あり〔寛政四年建つ〕惡七兵衞景淸の女人丸里と云者の墓なりと傳唱すれとも詳ならず。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之五」に、

   *

○人丸塚 人丸塚(ひとまるづか)は、巽(たつみ)の荒神の東の方、畠の中にあり。惡七兵衞景淸が女(むす)め、人丸と云いし者の墓也と云傳ふ。景淸が女(むすめ)を龜谷(かめがやつ)の長に預けしとなり。此の邊龜が谷の内なり。景淸が籠(ろう)の下と、照らし見るべし。

「鎌倉攬勝考卷之九」には異なった考証が語られている。該当箇所を引用する。

   ※

人丸塚 巽荒神の東の方、畠中にあり。土人いふ、惡七兵衞景淸が娘、人丸姬といふものゝ塚なりといふは、【平家物語】に、景淸が女を、龜ケ谷の長に預しなどあるより、此塚の名を人丸姬が塚なりと、土人等いひ傳へけり。實はさにはあらず、古へ宗尊親王、敷しまの道を御執心ありしより、此邊に歌塚を築かせ給ひ、人丸堂をも御建立の地曳せられしが、世上の變異に仍て、急に御歸洛ゆへに、其事ならずして廢せり。夫ゆへ後に、景淸が女の塚と唱へ誤れる由。

   ※

「惡七兵衞景淸」については景淸牢蹟で既注。但し、現在、安養院に「人丸塚」と呼ばれる塚があり、これについて、景清の娘であった人丸姫が捕えられた父に会うために京都から鎌倉に下向したものの、遂に面会は許されず、景清の死後、尼となって景清の守本尊であった十一面観音を祀って先の土牢に供養したとも伝えられている。数年後に人丸姫は亡くなって扇ヶ谷(巽荒神は扇谷地内)に葬られ、そこを土地に人々が「人丸塚」と呼んだが、後に荒廃、その石塔が安養院に預けられたとも伝承されている。

「千度小路」室町以降に現在の段葛を指す語ではあるが、それでは巽荒神と相対距離があまりに離れ過ぎていておかしい。さらに調べてみると現行で置石千度小路を繁華街の「小町通り」と若宮大路を東西に結ぶ短い横道をそう呼んでいることがネット上からは分かった。が、単にそうなるとこれは固有名詞ではなく、そうした複数の小路を指す一般名詞ということになってしまい、記載としては何だか不自然である。そこで本『風俗画報』の折り込み地図を確認したところ、目から鱗で、これは巽荒神の九十七メートルほど北北東から東に折れ、鎌倉聖ミカエル教会の北側を通って小五月蠅い「小町通り」を突っ切り、鶴ヶ岡会館の北側の若宮大路に出る、やや東が南に下がりつつ横切る小路の固有名詞であることが判った。

「六尺」約一メートル八十二センチメートル。

「寛政四年」一七九二年。] 

 

    ●千葉其他の邸址

千葉介常胤、上總介直方幷に諏訪氏の第趾は。共に天狗堂の東に在り。今は禾黍秀てゝ漸々たり。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之五」には以下のようにある。私の注ごと連続して二項目を引く。

   *

〇千葉屋敷 千葉屋敷は、天狗堂の東の畠(はたけ)を云ふ。相ひ傳ふ千葉介常胤(ちばのすけつねたね)が舊宅なりと。【東鑑】に、阿靜房安念、司馬の甘繩(あまなは)の家に向ふと云は是なり。司馬とは、千葉の成胤(なりたね)を云なり。成胤は、常胤が嫡孫にて、胤正(なりまさ)が子なり。

[やぶちゃん注:現在、鎌倉で千葉屋敷跡というと、ここに現れた第五代当主成胤の玄孫第九代宗胤の嫡男胤貞(但し、彼は叔父胤宗に家督を横領されて千葉氏当主とはなっていない)の別邸があったという妙隆寺一帯を指すが、これでは位置がおかしい。ここで言っている「天狗堂の東」(=天狗堂山の東)に近いのは、現在の鎌倉駅西北、正宗の井戸の辺りにあった正に千葉常胤屋敷跡と伝承されている場所である。各種遺構からもここと同定して間違いない。ここなら次の「甘繩」の呼称も肯んずることが出来る範囲である。

「【東鑑】に、阿靜房安念、司馬の甘繩の家に向ふ」とは建暦三(一二一三)年二月十五日の記事を指す。以下に引用する。

二月大十五日丙戌。天霽。千葉介成胤生虜法師一人進相州。是叛逆之輩中使也。〔信濃國住人靑栗七郎弟。阿靜房安念云々。〕爲望合力之奉。向彼司馬甘繩家處。依存忠直。召進之云々。相州即被上啓此子細。如前大膳大夫有評議。被渡山城判官行村之方。可糺問其實否之旨被仰出。仍被相副金窪兵衛尉行親云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

二月大十五日丙戌。天霽。千葉介成胤、法師一人を生け虜り、相州に進ず。是れ、叛逆の輩の中使(なかつかひ)なり〔信濃國住人、靑栗(あをぐり)七郞が弟、阿靜房安念と云々。〕合力(かふりよく)の奉(うけたまはり)を望まん爲に、彼の司馬の甘繩の家へ向ふ處、忠直を存ずるに依りて、之を召進ずと云々。相州、即ち此の子細を上啓せらる。前大膳大夫のごときと評議有りて、山城判官行村の方へ渡され、其の實否(じつぷ)を糺し問ふべきの旨、仰せ出さる。仍りて、金窪(かなくぼ)兵衛尉行親を相ひ副へあると云々。

「中使ひ」は手先、使い走りの意。これは信濃の泉親衡が頼家遺児千寿を将軍に擁立して、北条氏を打倒せんとする謀議発覚の端緒となった出来事で、そこに和田一族の者が含まれていたことが後の和田合戦の引き金となる。

「司馬」千葉成胤は千葉介(下総国の次官級)で、司馬はその唐名。]

 

○諏訪屋敷 諏訪屋敷(すはやしき)は、千葉屋敷の東南の畠を云ふ。昔し諏訪氏の宅宇(たくう)ありしとなり。

[やぶちゃん注:「諏訪氏」は得宗被官で北条泰時の側近として活躍した諏訪盛重(生没年不詳)のことである。現在の鎌倉市役所駐車場付近がその屋敷跡に比定されている。]

   *

「天狗堂」次項参照。

「禾黍」「くわしよ(かしょ)」稲と黍(きび)。

「秀てゝ」「ひいでて」。禾(のぎ)がぴんぴんと突き出ること。

「漸々たり」順々に、だんだんに。ここでは、穂芒(ほすぎ)がずっと同じように広がっているさまを言っていよう。]

 

    ●天狗堂

天狗堂は。大町小路より佐助谷に入る右手の山角(さんかく)をいふ。昔者愛宕の社ありしに因り名く。太平記に天狗堂と扇谷に軍ありと云は。此の處なり。

[やぶちゃん注:同じく、「新編鎌倉志卷之五」から引く。

   *

〇天狗堂 天狗堂(てんぐだう)は、長谷小路より、佐介谷(さすけがやつ)へ入手(いりて)の右の山の出前(でさき)なり。昔し愛宕(あたご)の社(やしろ)ありけるとなり。【太平記】に、天狗堂と、扇が谷に軍ありと云は、此所の事なり。

[やぶちゃん注:「天狗堂」佐介ヶ谷の東側丘陵の南端に天狗堂山という名が残る。ここには愛宕神社があったと伝えられ、祭神の愛宕権現が天狗に仮託されたことから、こう呼ばれたものと思われる。但し、私は「太平記」の天狗堂が現在の窟不動の東にあった愛宕社(最近、堂が大破してしまい地面に石組みのみが残るようである)で、これとは別な天狗堂であった可能性も考えている。識者の御教授を乞うものである。]

「昔者」この二字で「むかし」と読む。もう、高校時代にさんざんならったこれをお忘れか?]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 景淸牢蹟

    ●景淸牢蹟

假粧坂へ登る道左に大なる巖窟あり。土人上總七郞兵衞景淸〔景淸は淸盛が侍所の別當上總介忠淸が三男にして身の丈長大にして勇猛なり源平鬪爭の際戰勝功を顯し世に惡七兵衛と呼る〕か牢と傳ふ。景淸は平家滅亡の後。建久六年三月。將軍賴朝南都東大寺の大佛供養として上洛せし時。出て降人となりしかは。和田義盛に預らる。義盛倶して鎌倉に下り。其家に召籠(めしこめ)て置しか。屢(しばしば)不遜の擧ありしかは。義盛辭し申すに任せ。改て八田知家か許に置かる。かくて數月(すうげつ)を經(ふ)れと。恩免の沙汰なかりしかは。景淸躬から漿水を斷て翌七年三月七日に死せりと云ふ。かゝれは只召預られしのみ。牢中に籠(こめ)られしにはあらし。或は云。景淸鎌倉に下らは籠置(こめおか)んが爲豫て作り設しかと。遂に下らさりしなりとも云へと。東鑑に賴朝建久六年二月十四日。上洛有て同年七月八日。鎌倉に著御(ちやくぎよ)。時に義盛知家も供奉す。しかれは景淸か死。建久七年とあれは。鎌倉にて死せしなるベし。此土牢(つちらう)に在しと云は信し難し。洞窟は土人か作爲して人を誑(あざむ)けるものか。

土牢を少し離れて海藏寺に至る道の左側(さそく)に奧深(おくふか)き巖窟(がんくつ)あり。中に景淸の爲に建る碑(ひ)あり。是れ前の土牢の缺落(かけお)ちて舊形を存せさるより近頃新に故に碑を建てたるものなりと云ふ。

[やぶちゃん注:私の電子テクスト鎌倉九」より引く。

    *

景淸牢跡 扇ケ谷より假粧坂へ登る道端の左に、洞窟あり。上總七兵衞尉景淸が牢なりといふ。或は云、景淸は鎌倉へ來らず。【東鑑】にも景淸が事見へず。【長門本平家物語】に、建久六年三月十三日、右大將家東大寺供奉の時、上總ノ惡七兵衞景淸、鎌倉殿へ降人と成て參りければ、和田義盛に預けらる。然るに無體我儘なること多ければ、義盛もてあまし、餘人に預け給ふべしと申けるゆへ、其後八田知家に預給ふといふ。或はいふ、景淸も、預り人は替れども、宥免の沙汰もなければ、助けられまじきことを知て、其後は醤水を斷て、同七年三月七日に死けるといふ。右大將家、建久六年二月十四日御上洛、同年七月八日鎌倉へ還御とあり。義盛・知家も供奉せり。景淸が死去は翌年なれば、鎌倉へ知家が具して來り、鎌倉にて死せし事は、【日本史】等にも載たり。土の牢に入たるといふはなき事にて、洞窟は、土人が設て人をあざむけるものなり。偖景清が事は、古くよりつくり物語、又は戯作の僻名本などに事たるは、皆僞ごとにて、淸水觀音を信じ、冥助を得たる事は、主馬の盛久が事によそへ、鄙人の姿にやつし、右大將家を伺ひねらひしことは、兄忠光が義烈に似せ、或は賴朝卿の御服を乞得て、短刀をもて悉く裂切て、存念散ぜりとて、眼をつき潰し、盲人となりしなどいふ事は、豫讓が行ひにやつせり。是等の事、景淸が仕業には一つもなき事にして、忠光が義烈の事を、景淸なりと世人思へる者多し。又云、平氏家人、降人と成て出たるもの多けれど、大抵御ゆるしを得て、御家人に召仕はれけるゆへ、景淸も降人と成て出たるならん。御者免の御沙汰なき内は、囚人なれば、夫々に預け置れしが、年月を經ても御沙汰なきは、右大將家も思慮を廻らされ、景淸が親は、平家武者所別當上總介忠淸が子なり。景淸が兄忠光も、義烈を顯し誅殺せられ、景淸も容貌身體長大にして、力量人に超へ、武勇勝れるものなれば、容易に御者免なきも故ある事にて、且降人と成て出たれば、其疑ひありといへども、させる凶惡をなせしにもあらねば、刑にも處しがたく、日數經し内には、彼ももと常人ならねば、終には何事をか計りけんと、兼て思慮をめぐらされし事なるべし。

   *

この引用文中の「醤水を斷て」は「醤」は最低限の口にするものとしての舐め味噌を指して、食物や水といった口にするものを一切断つことを言っているのであろう。この植田の推理は、細かい部分に拘った(それは私に似ているのだが)かなりねちっこい(故に好きなのだが)ものである。

「建久六年」一一九五年。

「豫て」「かねて」と読む。あらかじめ、の意。

「設しか」「まうけ(もうけ)しか」と読む。

「此土牢に在しと云は信し難し。洞窟は土人か件爲して人を誑けるものか」私にはこの時代、一般に降人に対する処遇は想像に反して屋敷内の座敷牢のような場所や、屋敷内ではかなり自由な行動が許された軟禁が多かったように感ぜられる。まことしやかに復元されている護良親王土牢のような噴飯物同様、私もこの記者の疑義には大いに賛同する。この手の話は八割方、眉に唾つけておいた方が良い。

「漿水」恐らくは「こんず」と読んでおり、引用の「醤水」と似たような言いである。「漿」「濃漿」とも書き、「濃水(こみず)」からの転で、米を煮た汁、重湯(おもゆ)のことである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 山王堂

    ●山王堂

源氏山の西北にあり。東鑑に龜谷の山王と見ゆ今は畠となる。

[やぶちゃん注:貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、『宗旨未詳。扇ケ谷、山王堂谷』とある。山王堂谷(さんのうどうがやつ)は現在の源氏山公園の西側を北から陥入する住宅地が比定される(私の記憶では個々の宅地開発は非常に速かった。小学校二年(一九六四年)の遠足でここに行った時、既に異様に住宅が広がっていた。そこに向って悪餓鬼――私は毎日その子にイジメを受けていた――の投げたオムスビが勢いよく転がって行った光景を私は何故か今も忘れない。同書にもここの宅地開発は昭和三六(一九六一)年に始まったとある)。閑話休題。同書には更に、『寛元三年(一二四五)三月十九日、頼経が参詣した記事がある。「亀谷山王宝前」とみえている(『吾妻鏡』)』とあって、先に私も述べた通り、宅地開発によって完膚なきまでに様相が一変したものの、『しかし祠は道路の右側、崖の中腹にのこっている』とある。私は実はこの谷には降りたことがない。鎌倉でも私が足を踏み入れていない稀有の場所なのである。実は源氏山公園も嫌いである。そうしてその理由は無論、そのイジメられた男の子の映像がフラッシュ・バックするからに他ならないのである。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 底脱井

    ●底脱井

海藏寺の總門の右にあり。十井の一なり。昔上杉家の尼參禪して此井水を汲み。投機せし詠歌あり〔曰賤の女が戴く桶の底ぬけてひた身にかゝる有明の月〕此歌に依て底脱井(そこぬけゐど)と云傳ふとなり〔上杉の尼何人と云ふ事を知らず〕又一説に金澤越後守顯時か室落飾して無著と號し。佛光禪師に參して悟徹(ごてつ)す。時に投機の詠歌あり。〔曰ちよのうがいたゝくをけのそこぬけてそこぬけて水たまらねば月もやとらすちよのうは無著が幼名なりとぞ〕已上の二詠大同小異なり。前の傳は恐らくは無著か事をあやまり傳へしならんか。

[やぶちゃん注:これは「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の項の「底脱井」に手を加えて剽窃したものである。以下に引いておく。

   *

底脱井(そこぬけのゐ) 總門の外、右手の方にあり。相傳ふ、昔し上杉家の尼、參禪して、此井の水を汲むで投機す。歌あり。「賤(しづ)の女(め)が戴(いたゞ)く桶の底ぬけて、ひた身にかゝる有明の月」。此因縁に依て、底脱井と云傳ふとなり〔按ずるに、城の陸奧の守平の泰盛が女(むすめ)、金澤越後の守平顯時が室となる。後に比丘尼となり、無着と號す。法名如大と云。佛光禪師に參して悟徹す。投機の和歌あり。「ちよのうがいたゞくをけのそこぬけて、水たまらねば、月もやどらず」と云云。ちよのうは無着がをさな名也。此底脱井の事、無着が事をあやまりて傳へたるか。上杉の尼、何人と云事しらず。〕。
   *

この「ちよのう」は安達千代野(ちよの 生没年未詳)と伝えられ、安達泰盛の娘、北条顕時正室。千代能とも書く。ウィキの「安達千代野」に『父泰盛と安達一族は霜月騒動で滅ぼされ、夫である顕時は騒動に連座して失脚し、下野国に蟄居の身となる。千代野は出家して無学祖元の弟子となり、法名無着と号』したとあり、更に「仏光国師語録」に『「越州太守夫人」(千代野)が無学祖元に対して釈迦像と楞厳経を求めた記録がある』とする。更に、『同じ無学祖元の弟子で、京都景愛寺開山となった無外如大』という人物がおり、この僧が同じく無着という別号を用いたこと、加えて上杉氏の関係者でもあったことを記し、足利氏との関連から千代野と無外如大が『混同されたものと見られる』という錯誤を解明した記載がある。

「無著」「むぢやく(むじゃく)」と濁るのが普通。「無着」に同じい。この名を持つ有名な人物としては、ガンダーラ出身でインドの大乗仏教の論師と知られ、瑜伽唯識 (ゆがゆいしき) 思想家世親の兄でもあった無著(三一〇年?~三九〇年?)がいる。彼の名は梵語名“Asaṅga”の漢訳である。]

私は是で大變執念深い男なんだから……

……君には何う見えるか知らないが、私は是で大變執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから……
 
(漱石「こゝろ」より)

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 海藏寺

    ●海藏寺

海藏寺は扇谷山と號す。建長寺の塔頭に屬す。開山を源翁と云ふ。翁初は洞家なりしか。後建長寺の大覺禪師に嗣法して濟派(さいは)となり。當寺を創立すと云ふ永享の亂に。海老名上野介戰利なくして當寺に引籠り自殺せし事東亂記に見えたり。

佛殿 本尊藥師を安す。里俗是を啼藥師(なきやくし)

鐘樓 元は應永二年の鑄鐘あり。其鐘は建長寺中西來庵に在りと云ふ。今貞享五年新鑄の鐘を懸く。

辨天社 方丈の西方(さいほう)岩窟にあり。雨寳殿と號す。

開山塔頭 佛超庵と號せしが今廢せり。

道智塚 或は阿古耶尼の塚とも云ふ。來由(らいゆ)詳(つまびらか)ならす。

寂外庵蹟 寂外は當寺の第二世にて源翁の法嗣なる。木像は本寺にあり。此邊を寂外谷とも蛇居谷(じやくがや)とも稱す。昔賴朝此處を切通(きりとほ)さんとて半は掘けるに。蛇の栖む石有て。血流るゝ故。其事を果さす。故に此稱ありと傳ふ。

十六井 境内の左山麓の巖窟の中にあり。深五六寸。徑二尺許の瀦水十六箇並列す。弘法大師加治の水と稱すれど疑ふべし且つ鎌倉志相摸風土記等にも載せざれば。或は是より後に土人の作爲して人を誑(あざむ)けるものならんか。

[やぶちゃん注:「扇谷山」これは「せんこくざん」と読む。私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の附図をここに示して参考に供しておく。

Kaizouji

「建長寺の塔頭に屬す」「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の条に、

   *

昔は別山なり。天正の比(ころ)より建長寺の塔頭(たつちう)に屬す。建長寺領の内一貫二百文附す。

   *

とあるのを無批判に引いたもの。海蔵寺は古くは真言宗であったが、建長五(一二五三)年に第六代将軍宗尊の命で藤原仲能が禅宗に改宗させて伽藍を再建したとも言われる。但し、鎌倉幕府滅亡に際に悉く焼失、その後の応永元(一三九四)年に、鎌倉公方足利氏満の命で上杉氏定が大覚禪師五世の孫とされる心昭空外を招いて再び開山したと伝えられる。以後は扇ヶ谷上杉氏の保護で栄え、天正五(一五七七)年に臨済宗建長寺に属した。現在も建長寺派であるが、ここでは「塔頭」と記しているのが特異で、白井永二編の「鎌倉事典」(東京堂出版昭和五十一(一九七六)年刊)にも『寺は五山・十刹・諸山のどれにも列せず、はやくから建長寺の塔頭のようになっていた』とある。現在でも臨済宗建長寺派ではある。次注も参照。

「翁初は洞家なりしか。後建長寺の大覺禪師に嗣法して濟派となり。當寺を創立すと云ふ」同じく「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の条にも、

   *

開山は源翁禪師なり。源翁、初めは曹洞宗なり。後に大覺禪師に嗣法して、臨濟宗となる。

   *

とあり、これがひいては本寺が建長寺の塔頭扱いにされてしまう遠因とも思われる。但し、禅宗では曹洞宗の僧が臨済宗の寺院の塔頭に庵を組むのは勿論、住持にさえなることは決して稀ではなかった。例えば私藪野家の菩提寺である臨済宗円覚寺白雲庵は渡来僧で円覚寺第十世となった東明慧日(とうみんえにち)の塔所で彼は同じく臨済宗の寿福寺・建長寺の住持も歴任しているが、慧日は元々曹洞宗の禅僧である。因みに現行、鎌倉市内で曹洞宗の寺院は少なく、私の知る限りでは、新井白石の玉縄学校で知られる大船の龍宝寺(玉縄城主北条綱成(永正一二(一五一五)年~天正一五(一五八七)年)が城域の東向かいの植木村小名山居(さんきょ)、現在の栄光学園附近に前身を創建、天正三(一五七五)年に彼の孫北条氏勝(永禄二(一五五九)年~慶長一六(一六一一)年)が麓の現在地に移した龍宝寺及び大船駅西口の大船観音を管理する黙仙寺(明治四二(一九〇九)年に静岡より移転)があるばかりである。

「海老名上野介」足利持氏の側近上杉憲直の家臣。

「東亂記」小田原北条氏の台頭から滅亡に至る五代の歴史を鎌倉幕府滅亡(元弘三(一三三三)年)頃から天正八(一五九〇)年まで東国隣接諸大名との関係を中心に記述した軍記物「北条記」(「小田原記」)の異本中の内

「應永二年」一三九五年。

「建長寺中西來庵に在り」「西來庵」は「せいらいあん」と読む。入って三門の右手にある嵩山(すうざん)門が入口であるが、現在は修行道場たる僧堂とされているため、通常は非公開で入れない。但し、鐘が移された経緯も不明で、そもそもがこの鐘、最早、現存しない。辛うじて「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の条に、

   *

鐘樓跡 當寺の鐘は、今西來菴にあり。其銘に、大檀那常繼(じやうけい)とあり。常繼は上杉彈正少弼氏定(うぢさだ)が法名なり。氏定は、禪秀亂の時、藤澤道場にて、應永廿三年十月八日に自害す。普恩院常繼仙嚴と號す。當寺の檀那なりと云ふ。鐘の銘、左のごとし。

  海藏寺鐘銘

相州扇谷山海藏寺常住鑄鐘、勸進聖正南上座、大檀那沙彌常繼、應永念二年十一月念二日、

   *

鐘銘を以下、影印本の訓点に従って書き下したものを示す。

   ※

相州、扇谷山海藏寺の常住、鐘を鑄る。勸進の聖、正南上座、大檀那、沙彌常繼、應永念二年十一月念二日

   ※

銘の中の「念」は「廿」のこと。「念」と「廿」の中国音は共に“niàn”で音通することに依る。応永二十二年は西暦一四一五年。上杉氏定(文中三・応安七(一三七四)年~応永二十三(一四一六)年)は扇谷上杉家当主。関東管領上杉顕定の養子で、実父は小山田上杉家の上杉頼顕。鎌倉公方足利氏満・満兼・足利持氏三代に仕えた。

「貞享五年」一六八八年。老婆心乍ら、「貞享」は「じょうきょう」と読む。

「道智塚」「阿古耶尼の塚」「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の条に、

   *

道智塚(だうちつか)  蛇居谷(じやくがや)の西南にあり。或は阿古耶尼(あこやのあま)の塚とも云ふ。共に未だ考へず。

   *

とある。一般に「道智塚」というと、養老年間の千日修行(七一七年から七二〇年とされる)で城崎温泉を開いたことで知られる、地蔵菩薩の化身と呼ばれた道智上人の遺徳を顕彰する塚を意味し、各地に見られる。「阿古耶尼」は阿古耶の松に纏わる伝説上の女性。右大臣藤原豊成の娘とも陸奥信夫領主藤原豊充の娘ともされ、詩歌管弦に優れ、松の精との悲恋で知られる。但し、現在の葛原岡神社の鳥居の傍に建つ鎌倉青年団の「藤原仲能之墓」の碑によれば、本海蔵寺の伝によって道智禅師藤原仲能の墓所と推察されている(則ち「道智」は同法名異人である)。仲能は鎌倉幕府評定衆、後に海蔵寺中興の檀家長となっている。位牌が海蔵寺に現存する。

「寂外庵蹟」「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の条の、

   *

寂外菴の跡 寺の西南にあり。寂外(じやくぐはい)は當寺の弟二世にて源翁の法嗣なり。木像、寺に有。此邊を寂外が谷と云ふ。又は蛇居谷(じやくがや)と云ふ。賴朝、此の處を切り通(とを)さんとて、半ば掘りけるに、蛇のすむ石有て、血流る。故に止(やめ)られけると也。之に因て蛇居谷(じやくがや)と云と也。其の跡今あり。其の外、棲雲菴・照用菴・崇德菴・翠藤菴・龍雲菴・龍溪菴・福田菴・龍隠菴等の塔頭の跡あり。

   *

とある。私は何を隠そう、この「蛇居谷(じゃくがや)」という字と呼称が何とも言えず好きなのである。

「十六井」ウィキの「寺」には、『「十六井戸」とも。薬師堂裏手の岩窟内にある。岩窟の床面に縦横』各四列・計十六の丸い穴がありており、『水が湧き出している。井戸ではなく、納骨穴とも、十六菩薩になぞらえたものとも言うが、正確なことは不詳である。岩窟の正面奥壁には観音菩薩像と弘法大師像を祀る』。他に嘉元四(一三〇六)年銘の『阿弥陀三尊像板碑が壁面に安置されていたが、鎌倉国宝館に寄託されている』とあるが、私は原形は明らかにやぐらであると考えている。但し、大三輪竜彦氏も支持される有力な説の一つであるやぐらの納骨穴に水が溜まったに過ぎないという説(白井永二編「鎌倉事典」の解説でも大三輪氏はそう記しておられる)であるが、まず、私はこうした形で掘られた納骨穴を持つやぐら(再掲するが、「やぐら」は鎌倉御府内及び鎌倉御府内の寺領のみで見られる特殊な墳墓形態である)を他に見たことがなく、四度ばかり実見した感じでは特殊な真言の呪法を行うために加持祈禱を修するための護摩壇のように見えた。しかし普段、「新編鎌倉志」や「新編相模国風土記稿」の剽窃ばかりしているいい加減な『風俗画報』の記者が(似たようにネット上で私の電子テクストを自分が作ったように剽窃して知らん顔している鎌倉の「記者」、ジャーナリストを詐称するとんでもない輩が今も現にいるのだが)、珍しく素顔を出して「弘法大師加治の水と稱すれど疑ふべし且つ鎌倉志相摸風土記等にも載せざれば。或は是より後に土人の作爲して人を誑けるものならんか」(「加治」はママである)という肉声を聴くと、何だか、そうかも! と思ってしまう私がいるのである。

「五六寸」十五・二~十八・二センチメートル。

「二尺」六十・六センチメートル。

「瀦水」音「チヨスイ(チョスイ)」、訓ずれば「たまりみづ(たまりみず)」(溜まり水)。]

2015/09/07

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 東林寺跡/相馬天王社/藤谷/扇谷/飯盛山〔附扇井〕/大友屋敷/藥王寺/法泉寺蹟/御前谷/淸涼寺蹟/興禪寺/勝因寺蹟/無量寺蹟

    ●東林寺跡

淨光明寺の向(むかふ)にあり。開山眞聖國師。昔し律宗の寺にて淨光明寺と共に盛んなり

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之四」には、

   *

東林寺の跡 淨光明寺の向(むかふ)にあり。開山は眞聖國師、昔し律宗の寺にて、淨光明寺と共に盛んなり。尊氏の請文壹通、觀應三年とあり。淨光明寺の寶物と成る。此の地今は武士屋敷となるなり。

   *

とある。「觀應三年」/正平七年は一三五二年。後の「鎌倉攬勝考卷之七」の「東林寺廢跡」には、

   *

淨光明寺の向なり。開山眞聖國師。古へは律宗なる由。尊氏將軍の文書一通有。觀應三年と有り。今は淨光明寺の什物のうちに入。此地は村民の居地となれり。

   *

となっている。幕府が滅亡した元弘三・正慶二(一三三三)年から二年の間に作成されたと伝えられる浄光明寺蔵「浄光明寺敷地絵図」を見ると、浄光明寺の正面、道を隔てた真向いの小さな谷へ向かって(東南方向)、泉ヶ谷の奥へ少し行った場所から細い小路が描かれており、その谷戸の奥に「東林寺」の表記がある。「鎌倉攬勝考卷之七」の「此地は村民の居地となれり」が、先行する本書では「此の地今は武士屋敷となるなり」と微妙に謂いが異なる。「浄光明寺敷地絵図」を見る限り、鎌倉時代末期に於いては、この浄光明寺と東林寺の間を抜ける通りの東林寺側には、沢山の『民家』が軒を連ねて描かれているのが分かる。この絵図の建物は藁葺きで、『武家屋敷』ではない。光圀の時代には、もしかするとある新たに鎌倉に赴任した下級武士がここに屋敷を構えていたものが、幕末には廃して、再び村民の居住地となっていたのかも知れない。

 

    ●相馬天王社

壽福寺の南にあり。村の鎭守とす。もとは相馬次郎師常己(おのれ)が宅地の鎭守に勸請けるするところなり。故に相馬天王と號す。此所に移せし年代を傳へす。例祭六月五日よら十二日に至る。

[やぶちゃん注:現在の扇ガ谷一丁目にある八坂神社の旧称。

「相馬次郎師常」(保延五(一一三九)年~元久二(一二〇五)年)は千葉常胤の子で千葉氏庶流相馬氏初代当主。参照したウィキの「相馬師常」によれば、初名は師胤と考えられており、『伝承によると、師常は平将門の子孫である信田師国(胤国の子)の養子となり、その遺領を相続したと伝わる』とある。『父と共に源頼朝の挙兵に参加し、頼朝の弟・源範頼の軍勢に従って各地を転戦』、文治五(一一八九)年九月には『奥州合戦に参加し、その功により頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜ったという』。建仁元(一二〇一)年に父『常胤が亡くなったために出家し、家督を嫡男の相馬義胤に譲る。出家後は法然の弟子になったと言われて』おり、元久二年十一月十五日、自邸(但し、本文にもあるようにその頃は後掲される巽荒神の辺りにあったものらしい)にて『端座し、念仏を唱えながら臨終したという。その信心厚い性格から信望の厚かった師常の最期は、鎌倉の民衆たちから見取られたと言われている』とある。]

 

    ●藤谷

淨光明寺の側にあり。中納言藤原爲相鎌倉に下りし時、暫く此に栖たりし跡なり。故に此名(このな)ありといふ。

[やぶちゃん注:「藤谷」「ふじがやつ」と読む。
 
「藤原爲相」既注。]

 

    ●扇谷

扇谷は龜谷阪(かめがやつさか)を越(こえ)て南の方西北は海藏寺。東南は華光院。上杉定正の舊宅。英勝寺の地を扇谷といふ。龜谷の内なり。村中飯盛山の麓(ふもと)に扇の井と稱する淸泉あり。地名もやかて是(これ)に本(もと)つけるならん。此邊(こんへん)古は總(すべ)て龜谷と唱へ。扇谷は其中なる一所の小名なり。されど管領(くわんれい)上杉定正此(こゝ)に住(ぢう)し。世に扇谷殿と稱せられしより。龜谷の稱は漸く廢れ。專扇谷と稱しならへるなるなり。

[やぶちゃん注:「扇谷」「あふぎがやつ(おうぎがやつ)」と読む。
 
「華光院」既出。寿福寺の向かいにあった真言宗の寺。廃寺。

「上杉定正の舊宅」既出。上杉定正についてもそれを参照されたい。]

 

    ●飯盛山〔附扇井〕

村の艮方にあり。山根に岩を扇地紙の形に鑿り。内より淸水涌出(わきいだ)す。之を扇の井と名(なづ)く。鎌倉十井の一なり。

[やぶちゃん注:「飯盛山」「いひもりやま(いいもりやま)」と読む。
 
「扇井」については、静御前が舞扇を納めたことに由来するという伝承もあり、また、この井戸の名が扇ヶ谷という地名の由来であるともされるが信じ難い。なお、この井戸は現在は個人の宅地内にある。

「艮方」「うしとらのかた」と訓じておく。

「鑿り」は「うがてり」と訓じていよう。]

 

    ●大友屋敷

飯盛山の前の田圃をいふ。大友とは何人(なにびと)にや。今考ふへからす。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之四」の「扇谷」の項の中に、

   *

今此飯盛山の前の畠を、大友屋敷(をほどもやしき)と云。中岩月和尚自歷の譜に、大友吏部乃祖の墳(つか)、藤が谷に請て住せしむとあれば、此の山藤が谷の内なれば、藤が谷に、昔し大友(をほども)某(それがし)の菩提所有て、中岩、住持したる也。此の所は大友の舊宅と見へたり。藤が谷の西なり。【東鑑】には、扇が谷は見へず。

   *

とある。この「大友屋敷」の「大友」は大友能直(承安二(一一七二)年~貞応二(一二二三)年)か。彼は大友氏初代当主で頼朝近習である。「中岩月和尚自歷の譜」は「仏種慧済禅師中岩月和尚自歴譜」のことで、臨済宗大恵派の禅僧中巌円月(正安二(一三〇〇)年~文中四/応安八(一三七五)年)の自撰年譜である。円月は鎌倉出身で、若くして鎌倉寿福寺に入山、後、醍醐寺で密教を学び、曹洞宗の東明慧日に師事、正中二(一三二五)年に渡元して元弘二(一三三二)年に帰国した。その後は建仁寺や建長寺住持などを歴任して臨済禪の一派を成した。「【東鑑】には、扇が谷は見へず」とあるように、「吾妻鏡」には「亀谷」のみで「扇谷」という記載はない。扇ヶ谷の地名は室町期時代にここに居を定めた管領上杉定正が「扇谷殿」と称されて以降のことで、逆に亀ヶ谷という呼称がその頃には廃れ始めたものと思われる。]

 

    ●藥王寺

大乘山で號す。日蓮宗九本尊釋賀多寳〔座像長一尺餘〕開山を日像といふ。中興を日達といふ。

[やぶちゃん注:この寺は、「新編鎌倉志卷之四」では「梅立寺」という寺名で出る。

   *

○梅立寺〔附熱田社〕 梅立寺は、海藏寺へ行けば右なり。江戸大乘寺の末寺也。寛永年中に、不受不施の僧建立す。其の後の住僧、國法を懼(をそ)れて、新義の悲田と號し、寺を藥王寺と改む。此地に、昔し此の地に、夜光寺と云寺有しと也。又山に熱田の社あり。寛文年中に、金像の神體を掘り出したりとて今にあり。

   *

ここでの記載は変則的で、「新編鎌倉志」執筆当時の寺号である「藥王寺」を見出し項目として出していない。また、「鎌倉攬勝考卷之六」では、本寺はかつて真言宗であり、旧寺名を夜光山梅嶺寺と言ったと記す。実はこれらの「寛永年中に、不受不施」となる以前については、この二書のみによって知られるもので確認の仕様がないのである。現在、公称では、真言宗に属した梅嶺山夜光寺が前身、永仁元(一二九三)年に日蓮の直弟子であった日像が時の住持と宗論して改宗させ、大乗山薬王寺と改称した、とされる。日蓮宗の一種のファンダメンタリズムである不受不施派は、寛文九(一六六九)年の江戸幕府による「土水供養令」(寺領・行脚は国主・将軍への供養と規定)や「不受不施派寺請禁止令」などによって、禁制宗派となった。元禄四(一六九一)年、日蓮出生地の誕生寺などにいた一部の不受不施派は、寺領は貧者に対する慈悲と解釈して、一見、幕府と妥協し、禁制策を掻い潜る「悲田派」を自称したが、幕府はこれも新義異流として禁止した(以上、はウィキの「不受不施派」を参照した)。にも拘わらず、本寺が江戸末期まで存続し得、現在も存続している(但し、明治期はずっと無住状態が続いた)のは、江戸初期に織田信長の孫信良の娘で、二代将軍徳川秀忠三男であった徳川忠長の正室松孝院が、夫の追善供養のため本寺に帰依、これによって徳川家所縁の寺として寺紋を三葉葵とし、幕府には格別に格式高い寺として認知されていたからかと思われる。また、「熱田の社あり。寛文年中に、金像の神體を掘り出したりとて今にあり」これは薬王寺に木造熱田大明神立像として現存する。寺伝には、夜間にこの頭部が光り、そこから夜光寺と別称されたとも言う。寛文年間(一六六一~一六七三)に掘り出されたとするのは頭部のみで、目鼻立ちから中国製と推定される。現在の体部は、その後に当山第五世日教(一七一八年寂)が補塡造立したものと推定されている(以上は「薬王寺公式ホームページ」の記載を参考にさせて頂いた)。因みに、若き日の私はこの寺が好きだった。お目当ては裏のやぐらにある、風化して仏身を骨のように削ぎ落とされた石造四菩薩像だった。これは当時の私にとって「奇形中の棄景」であったからである。

 

    ●法泉寺蹟

御前谷の東向にあり。今(いま)白田(はくでん)たり。字して法泉寺谷といふ。法泉寺は竹園山と號し。臨濟宗にて關東十刹の一なり。開山は素安といふ。其後(そのゝち)廢せし年代詳ならす。

[やぶちゃん注:「法泉寺」は実質的な創立も廃寺年代も未詳の寺である。白井永二編「鎌倉事典」によれば、現在の『東京都港区麻布の阿弥陀堂の鐘は、当寺の鐘である』とある。

「法泉寺谷」「はふせんじがやつ(ほうせんじがやつ)」と読む。
 
「御前谷」
「ごぜんがやつ」と読む。現在の横須賀線の北鎌倉と鎌倉間のトンネルの鎌倉側の谷の旧称である。

「白田」は雑穀類を植えた畠(はたけ)のこと。「白」は水がなく乾いている意で、我々がしばしば目にし、普通に畑の意味で用いている「畠(はた/はたけ)」という字自体が「白」と「田」を合わせて作った国字である。]

 

    ●御前谷

智岸寺蹟の西にあり。此前の並ひを尼屋敷といふ。もとは二所共に尼御前の屋敷にて一所なるを。土俗誤つて二名に分ち唱ふさて尼御前と稱するは。二位尼(ゐのあま)政子なりといへると。政子は後に大御所とて賴朝屋敷に住し。又勝長壽院の奧に伽藍及び亭を立て移住し。南新御堂御所と號す。此地に住せし事は所見なし。東鑑建長三年十一月の條に。禪定二位家龜谷新造の御亭に御移徙とあるに據れば。此二位を土俗誤て政子と傳ふるならん。又鶴岡古文書に龜谷禪尼の名見ゆ。是は上野國淵名與一實秀か女にて。北條實泰か室なり。後(のち)尼となりて慈香(じかう)と稱し。此に住するをもて龜谷禪尼といひしとなり。又一説に天野屋敷なりともいふ。何(いづ)れか是非決し難し。

[やぶちゃん注:なお、前の「法泉寺蹟」の私の冒頭注を参照されたい。

「智岸寺」前出の智岸寺谷を参照のこと。]

 

    ●淸涼寺蹟

法泉寺谷の北海藏寺の外(そと)門前の東なり。土人此邊を淸涼寺谷と唱ふ。弘長の項。僧忍性當寺に在りし事元亨釋書に見えたり。京泉涌寺の末なりしと傳ふ。詳ならす。

[やぶちゃん注:「淸涼寺」は厳密には「しやうりやうじ(しょうりょうじ)」と読むのが正しいと私は思う。「新編鎌倉志卷之四」には「淸涼寺谷」の項がある。以下に示す。

   *

〇淸涼寺谷 淸涼寺谷(しやうりやうじがやつ)は、法泉寺が谷(やつ)の北、海藏寺の外門前の東なり。淸涼寺は忍性の開基なり。今は絶へたり。【元亨釋書】忍性の傳に、弘長の初、相陽に入り、淸涼寺に止る。平副帥時賴、道譽を郷ふ。光泉寺を創(はじ)めて居らしむとあり。淸涼寺は是なり。光泉寺今舊跡分明ならず。淸涼寺は、泉涌寺の末寺帳にも見へたり。

   *

「法泉寺が谷の北」とあるが、厳密に言うと尾根を隔てた西側というのが正しい。この谷戸は現在も清涼寺ヶ谷と呼ばれている。本寺は現在の廃寺研究に於いては「新清涼寺」「新清涼寺釈迦堂」と呼ばれ、読み方も「しんせいりょうじ」ではある。京都嵯峨の清涼寺にある釈迦如来像を模した本尊を安置したことに由来するとされる。「弘長の初」というのは、「忍性菩薩行略記」に、この所在地不詳の光泉寺の創建を弘長三(一二六三)年としているのを踏まえたものであろうが、これには現在の研究では疑問が投げかけられており、光泉寺自体が建立されなかった可能性もあるとされている。「副帥」は副将に同じい。執権のこと。「郷ふ」は「むかふ」(迎ふ)と訓じているか。但し、「郷」の「むかふ」という読みは元来「向かふ」で、迎えるの意はない。]

 

    ●興禪寺

汾陽山と號す。曹洞宗〔京都妙心寺末〕當寺は朝倉甚十郞正世其父筑後守宣正か追福(ついふく)の爲に創建し父か法名(ほうめい)を寺號となし。僧雲居を延て開祖とす。釋迦を本尊とす。寺後山上に座禪巖と云あり。雲居の修法(しゆはふ)せし處と云ふ

[やぶちゃん注:この旧跡は現在の寿福寺の南側、三菱銀行重役の荘清次郎の別荘として建てられた瀟洒な洋館のある場所に相当する。山号の「汾陽山」(「ふんようざん」と読んでおく)は宋代の臨済僧汾陽善昭(臨済義玄第六世)に由来するものか。白井永二編「鎌倉事典」によれば、宣正の没年から考えて(後注参照)、『寛永十四(一六三七)以降と考えられ』、『本尊は釈迦で、その他阿難・迦葉像を安置』していたとし、『当寺は江戸末期まで存在したらしい』とある。無論、廃寺であって、標題は正しくない。

「朝倉甚十郞正世」以下の宣正の次男。それ以外は不詳。

「宣正」(天正元(一五七三)年~寛永一四(一六三七)年)ウィキ朝倉宣正によれば、安土桃山から江戸前期の武将で徳川氏家臣、家康の孫徳川忠長の御附家老であったとする。『遠江掛川城主であったが、あくまで忠長の家老という立場であったため、幕府からは正式な大名として認められていなかった』。『朝倉在重の長男として駿河国安倍郡柿島で生まれ』、『天正一八(一五九〇)年の小田原征伐で徳川家康に従って参加し、このときに家康の命令で徳川秀忠付の家臣となり』、二百石を与えられて『大番に任じられた』。慶長五(一六〇〇)年の『上田合戦で、鎮目惟明、戸田光正、斎藤信吉らとともに上田七本槍の』一人に挙げられる活躍をしている。その後、着々と加増されて元和三(一六一七)年には『従五位下・筑後守に叙位・任官』、元和七(一六二一)年に四千石を加増されて合計一万石の『大名となり、同時に秀忠の命令で忠長の附家老に任じられ』て、元和一〇(一六二四)年には更に一万石を加増され、二万六千石の掛川城主となっている。ところが寛永八(一六三一)年五月に忠長が不行跡(家臣を正当な理由なく手討ちにしたとされる)によって蟄居となると同時に、『宣正も忠長に諫言しなかったとして、上野板鼻藩主酒井忠行にお預けとなる。この時、徳川頼宣らに忠長の赦免の斡旋を願い一旦は許されて、忠長とともに駿河に戻ったが』、寛永九(一六三二)年、『主君である忠長が幕命により改易されると、連座により大和郡山藩主松平忠明にお預けの上、改易となった。その後、許されて妻の兄である土井利勝に招かれた』とある。]

 

    ●勝因寺蹟

龜谷坂下にあり。今隴畝たり。當寺は北條氏創建する所にして至一開山たりし事高僧傳に見えたり。

[やぶちゃん注:鎌倉時代の創建は正しいと思わるが、廃寺年は不詳。

「高僧傳」「本朝高僧伝」。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、元禄一五(一七〇二)年に成立した本邦の僧侶の伝記。師蛮著。七十五巻。千六百六十四人の僧その他についての伝記が記されている。三論・法相・倶舎・成実(成実宗(じょうじつしゅう)。「成実論」を研究する論宗で中国十三宗・日本の南都六宗の一つ)・華厳・律・顕・密・禅・浄土に関する高僧の伝記の他、明神・仙人・高徳な人物の伝記も載せているものの、親鸞と日蓮については触れていない、とある。

「隴畝」は畦(あぜ)と畝(うね)で田畑のこと。]

 

    ●無量寺蹟

興禪寺の西にあり。今字して無量寺谷(むりやうじがやつ)と唱ふ。高僧傳に僧眞空寺主たりし事所見あり。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之五」に「無量寺谷」の項がある。

   *

◯無量寺谷 無量寺谷(むりやうじがやつ)は、興禪寺の西の方の谷(やつ)なり。昔し此處に無量寺と云寺有。泉涌寺の末寺也しと云。今は亡(な)し。按ずるに「東鑑」に、文永二年六月三日、故秋田の城の介義景が十三年の佛事を無量壽院にて修すとあり。義景は、藤九郎盛長が子にて、居宅甘繩なり。此邊まで甘繩の内なれば、此の寺歟。後に無量寺と云傳る歟。又「鎌倉九代記」に、禪秀亂の時、持氏方より、無量寺口(くち)へは上杉藏人憲長、百七十騎にて向へらるとあるは此所なり。今鍛冶(たんや)綱廣(つなひろ)が宅有り。

   *

現在の鎌倉駅から北西に向かったところに佐助隧道があるが、その手前の崖下に旧岩崎邸跡地があり、扇ヶ谷一丁目この辺り一帯を「無量寺跡」と通称する。二〇〇三年に、この旧岩崎邸跡地から比較的規模の大きい寺院庭園の遺構が発見されたことから、この辺りに比定してよいであろう。この庭園発掘調査により、庭園内の池が一気に埋められていること、埋めた土の中より一三二五年から一三五〇年頃の土器片が大量に出土していること、園内建物遺構の安山岩の礎石に焼けた跡があること等から、庭園の造成年代は永仁元(一二九三)年の大震災以後、幕府が滅亡した元弘三・正慶二(一三三三)年前後に火災があり、庭園は人為的に埋められたと推定されている。私には一気に庭園を埋めている点から、同時に廃寺となったと考えても不自然ではないように思われる(庭園発掘調査のデータはゆみ氏の「発掘された鎌倉末期の寺院庭園遺構を見る」を参照させて頂いた)。「秋田の城の介義景」は安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)のこと。執権北条泰時・経時・時頼に仕え、評定衆の一人として幕政に大きな影響力を持った御家人。「義景は、藤九郎盛長が子にて」は誤りで、安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)は義景の祖父。彼の父は安達景盛(?~宝治二(一二四八)年)で、彼と義景が安達氏の磐石の権勢を創り上げた。「上杉藏人憲長」は系図から見ると、上杉禅秀の乱の際の関東管領であった上杉憲基の祖父憲方の弟である上杉憲英の孫に当たる。「鍛冶綱廣」は現在も相州正宗(後述)第二十四代刀匠として御成町の山村綱廣氏に継承されている。

 

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 淨光明寺〔附綱引地藏〕

    ●淨光明寺〔附綱引地藏〕

淨光明寺は泉谷にあり。泉谷山と號す。眞言、天台、禪律の四宗兼學なり。建長三年。北條武藏守長時か剏造(べんざう)にして僧眞阿を延て開祖す〔永仁四年九月二十四日寂す〕應永六年十月。基氏氏滿の遺骨を滿兼當寺に納めらる。

佛殿 本尊彌陀〔座像長四尺五寸〕上品上生(じやうぼんじやうしやう)の彌陀と云ふ。土俗は寳冠の彌陀と稱す。左右に觀音、勢至〔各長二尺八寸〕を置く。又開山眞阿及ひ北條長時の像〔座像長一尺七寸〕を安す。

鐘樓 正保二年。鋳造の鐘を掛く。

網引地藏 佛殿の後山石窟の内に安す。石像〔長二尺五寸〕なり。右昔由比の海濱にて漁父か網にかけて引(ひき)あけしにより此唱あらりと云ふ。此像一説には藤原爲相か建立とも傳ふ。背に供養導師性仙長老正和(せいわ)元子年十一月日施主眞覺とあり。窟中(くつちう)に凹あり〔長五尺横三尺深五寸〕水(みづ)常に湛(たゝ)へて潮汐(うしほ)の候に從ひて增減(ざうげん)す云ふ。

不動堂 本堂の西にあり。座像なり。之を八坂不動といふ。淨藏貴所。八坂の塔の傾きたるを祈り直せし時の本尊なり。僧文覺鎌倉に負來りしを後當寺に安置すと傳ふ

多寳塔 僧忍性(にんしやう)の墓といふ〔忍性は郡中極樂寺の開山なり〕石の五輪にて經塚とも稱す〔長一丈一尺〕

冷泉爲相墓 網引地藏(あみひきぢざう)の後山頂上にあり。五輪塔なり〔高五尺五寸〕月巖寺殿玄國昌久と刻す。爲相倭歌所の事(こと)により兄爲氏と論爭あるて遂に母阿佛尼共に鎌倉に下り。遂に此他にて終れりと云ふ。

[やぶちゃん注:私が最も偏愛する鎌倉の寺である。新編鎌倉四」の「淨光明寺」の注に記した私の言葉を再度、掲げておく。……私は大学生の時分、夏の夕暮れに、初めてこの寺を訪れた。庭を掃除なさっておられた先々代住職大三輪龍卿師から声を掛けて頂き、話をさせていただく内に、何故か師に痛く気に入られてしまい、特別にこの阿彌陀三尊像を拝観させて頂いたのを忘れない。収蔵庫のライトを総て点けて下さり、土紋も数センチの距離から実見させて頂いた。「重要文化財に指定されると、雨漏りのする本堂には置いておけない。管理も五月蠅くってね、金もかかる。信仰の対象だったものを秘仏のように蔵に入れておくのは、信仰とは違うね。」とおっしゃったのを今も忘れない。そうして――私はその時――直下から見上げたこの上品中生印のしなやかな指と――その先に透ける阿彌陀如来の静謐な尊顔に――曰く言い難い不思議なエクスタシーを感じたのであった――それは私の若き日の――忘れ難い鎌倉の稀有の美の一瞬――だったのだ。……

「建長三年」一二五二年。

「北條武藏守長時」(寛喜二(一二三〇)年~文永元(一二六四)年)は第六代執権(執権在任は康元元(一二五六)年~文永元(一二六四)年)であるが、極楽寺流北条重時嫡男で得宗ではなく、一時病がちとなって隠居した時頼が、その子時宗を継がせるために、中継ぎで名目上、執権としたに過ぎない存在で、実権は健康を回復した時頼に握られていた。なお、本寺創建当時(先の年号が正確とすれば)は彼は執権ではなく六波羅探題北方であった(但し、この年に帰鎌している模様)。この寺の創建も現在は事実上、時頼と長時二人の発願とされる。

「剏造(べんざう)」この読みは誤り。これは「さうざう(そうぞう)」と読むはずである。「剏」は始めるの意で創建と全く同じい。実際、「創建」は「剏建(そうけん)」とも書く。

「眞阿」(?~永仁四(一二九六)年)。注意したいのはこの僧は浄土宗であることで、本寺は創建当時、極めて浄土教系の強い寺であったことが判る。白井永二編「鎌倉事典」によれば三世性仙道空や四世如世高慧といった平安旧仏教系統を引いた長老が住持となるに及び、その後、永く真言・天台・禅・律の四宗兼学の道場となったのであった。但し、現在は古義真言宗泉涌寺派に属している。

「延て」「ひいて」と読む。招くの意。

「永仁四年」一二九六年。

「應永六年」一三九九年。

「滿兼」天授四/永和四(一三七八)年~応永一六年(一四〇九)年)第三代鎌倉公方で基氏は祖父で初代の、氏満は父で第二代鎌倉公方である。

「四尺五寸」一・三六メートル。

「上品上生の彌陀」上品中生の誤り。私が鎌倉で最も偏愛する仏像である本像は胸前に両手を挙げてそれぞれ左右、親指と人差指を接触させた説法印――上品中生印――である(この印形が何とも謂えず素敵なのである!)。更に言わせて貰えば、この説明本像の鎌倉地方の仏像に特有の技法である土紋(どもん:粘土や漆などを混ぜたものを花などの文様を彫った木型に入れ、それを型抜きして仏像の衣部分に押し付けて接着し、極めて立体的な衣紋を表したもので、本像では肩・袖・脚部などに現在でもはっきりと見られる)に言及していないのは頗る不満である。

「二尺八寸」約八十四・八五センチメートル。

「一尺七寸」約五十一・五二センチメートル。

「正保二年。鋳造の鐘を掛く。

「二尺五寸」約七十五・七六センチメートル。

「正和元子年十一月」一三一二年。壬子(みずのえね)年である。なお、この年は三月二十日に応長二年(ユリウス暦一三一二年四月二十七日)に正和に改元されている。

「長五尺横三尺深五寸」長辺一・一五メートル、短辺九十・九センチメートル、深さ約十五センチメートル。

「藤原爲相」は歌道の冷泉家始祖である冷泉為相(弘長三(一二六三)年~嘉暦三(一三二八)年)。ウィキの「冷泉為相」によれば、建治元(一二七五)年の父為家死去後、父親の所領『播磨国細川庄』(現在の兵庫県三木市)『や文書の相続の問題で』正妻の子である『異母兄為氏と争い、為相の実母である平度繁の娘(養女)阿仏尼が鎌倉へ下って幕府に訴え』、『為相も度々鎌倉へ下って幕府に訴え』て結果的に勝訴する。その中で、『鎌倉における歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして鎌倉連歌の発展に貢献』し、『娘の一人は鎌倉幕府八代将軍である久明親王に嫁ぎ久良親王を儲け』るなど、公家でありながら幕府との親密な関係を終始持った。『晩年は鎌倉に移住して将軍を補佐し、同地で薨去している』。『冷泉家の分家に藤谷家があるが、藤谷家の家名は為相が鎌倉の藤ヶ谷』に『別宅を構えたことに由来』し、『為相は山城国の他の公家からは、藤谷黄門と呼ば』れた、とある。なお、彼の母で歌人でもあった阿仏尼(貞応元(一二二二)年~弘安六(一二八三)年)は、「十六夜日記」によって弘安二(一二七九)年に訴訟のため入鎌していることが分かるが、勝訴を得る以前に鎌倉で没したとも、帰洛後に没したとも言われる。現存する阿仏尼墓と称するものが近くの英勝寺墓地の崖下にあり、台座に「阿佛」の刻印があるが怪しい。後代の供養塔の可能性はあるにしても、そもそもここに記されるように尼である彼女の墓ならそれは卵塔でなくてはならないのに、現存するものは多層塔で如何にも新しいからである。この藤ヶ谷の峰上の息子為相の墓と近いとはいえ、逆に有意に離れているというのも私には気になるのである。

「淨藏貴所」(寛平三(八九一)年~康保元(九六四)年)は平安中期の天台僧。文章博士三善清行八男。平将門の調伏や多くの霊験・呪術で知られたゴーストバスターである。

「八坂の塔」は現在の東山区八坂通にある霊応山法観寺の五重塔のこと。本寺は八坂寺とも呼称し、塔も八坂の塔とも呼ばれる。天暦二(九四八)年に、この塔が西に傾いた際、東隣の雲居うご寺の僧であった浄蔵がこの不動像に加持祈禱して元に戻したという伝承があることから、「八坂不動」と呼ぶとされる。後、この不動は京の高雄山に祀られてあったようだが、文覚が以仁王の令旨を本像胎内に隠し、伊豆に配流されていた頼朝に渡したともされる。

「一丈一尺」一・三三三メートル。

「五尺五寸」一・六六六メートル。

「倭歌所」「わかどころ」と読み、勅撰和歌集の撰述などを行うために宮中に臨時に設置された役所である和歌所のこと。但し、先の藤原為相で注した通り、実際には親族内の生臭い争いが核心にあった。]

2015/09/06

橋本多佳子句集「命終」 昭和三十六年(2) 崖(2)

   *

 

我ら来て人気(ひとけ)枯山三時頃

 

降る雨が浸まず流れて二月の地

 

風花の大勢小勢待つ時間

 

昆虫の肢節焼野の灰ぼこり

 

土に憩ひ眼にひろがれる野焼黒

 

恋負け猫ずつぷり濡れて吾に帰る

 

山中に恋猫のわが猫のこゑ

 

土筆の頭(づ)遠くに人も円光負ふ

 

[やぶちゃん注:パースの効いた夢幻的な佳句である。]

 

近くして静かな修羅場昼山火

 

北天の春星の粗に北斗の鉾

 

[やぶちゃん注:個人サイト「宇宙(太陽系・スタートレック)」の「春の星座」を参照されたい。冒頭で『春の星は、全体的に明るい星が少ないのが特徴ですが、そのためかえって大きな星座が目につきます。まず北の方角を見ると、ひしゃく型に並んだおおくま座、北極星をもつこぐま座があります』とあり、「粗」(「まばら」と訓じているものと思う)の意味が判る。]

 

桜吹雪ござ一枚の上に踊る

 

疲れ知らぬ韓鼓どどどど桜の山

 

[やぶちゃん注:「韓鼓」「どどどど」というオノマトペイアからは「チョアゴ(座鼓)」「ヨンゴ(龍鼓)」「プク」等の和太鼓に似た形状のものが想起されるが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

青き踏む試歩よ大きく輪を描いて

 

いくらでもあるよひとりのわらび採り

 

風吹いて帰路の白道わらび採り

 

誕生仏立つ一本の黒き杭

 

[やぶちゃん注:寺院に於いて通常、四月八日に行なう釈迦の誕生を祝う仏生会(ぶっしょうえ=灌仏会(かんぶつえ))の甘茶をそそぐ誕生仏の像が年を経て「黒き杭」の如く見える景か。]

 

熱灰の焼野日輪直射して

 

とび出せし犬麦畑の瘦地帯

 

崖山吹倉暗黒の覗き窓

 

[やぶちゃん注:「倉」とは崖にある穴、時代的に見て防空壕の跡か。私(昭和三二(一九五七)年生)の経験上、しばしば防空壕跡は当時、民家や農家の貯蔵庫や倉庫に転用されていた。]

 

罪障のごとしその根の落椿

 

[やぶちゃん注:やや難解に見えるが、映像的に私の偏愛する一句である。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一五)

 

        一五

 

 私もまた種々巡禮をせねばならぬ。それはこの市の周圍に、湖水の向ひに、或は山を越えて、非常に古い神聖な場所があるから。

 杵築大社――『底津石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷木たかしりて』古代の神によつて建てられた、聖所中の至聖所――その祭司は太陽の女神から系統を引いたと云はれる場處。それから一畑の寺、盲者に明を與へ玉ふ藥師如來の有名な堂――その高い山の上ヘは、六百四十の石段を踏んで、達せられる一畑藥師。それから、淸水寺、千年來、壇前の神聖なる火が絕えず燃えてゐる、十一面觀音の寺。それから神聖な蛇が三寳の上に永久にとぐろを卷いて橫はれる佐陀神社。それから、世界の造り主、神々と人問の父母なる伊弉諾、伊弉册の宮のある大庭村。それから戀人達が結婚を祈りに行く八重垣神社。それから加賀浦、加賀の潛戶さま――すべてこれ等を私は見物に行かうと思ふ。

 が、就中加賀浦へ! 是非とも私は加賀浦へ行かねばならぬ。

 そこへは滅多に舟で詣る者がない。また船頭ももし『髮毛三本を動かす』ほどの風があつたなら、行つではならぬ。だから加賀へ遊ばうと思ふものは、極めて靜穩の季節――日本海岸では頗る稀れな――を待つか、或は陸で行かねばならぬ。しかも陸路は困難だ。が、私は加賀を見ねばならぬ。何故といふに、加賀浦には、海岸の巨窟に有名な石地藏の像があるからだ。每夜子供の亡靈が高い洞窟へ攀ぢ上つてきて、像の前へ小石を積み重ね、それで每朝柔かな砂濱に小さな跣の新しい痕――幼兒の亡魂の痕を見受けるとのことだ。また洞内に婦人の胸から出るやうに、乳の流れる一つの岩があつて、その白い流れは絕えることなく、まぼろしの子供達が、それを吸ふのだといはれてゐる。參詣者は子供の履く小さな草履を持參して、洞の前へ献げておく。それは小さな亡靈が嶮しい岩角によつて足を傷けないためだ。また參詣者は疊んである小石が倒れないやうに、地を踏むのに注意する。もしそれが倒れると子供等が泣くから。

[やぶちゃん注:以下、実際に以後でハーンが赴く場所なので禁欲的に注する。

「杵築大社」出雲大社の別名。なお、出雲大社は「いづもおおやしろ」と読むのが正しい。

「底津石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷木たかしりて」「古事記」の「上つ卷」の大国主の神話に出る、彼の根の堅州国(かたすくに)訪問の終りの方に出る、素盞嗚(すさのを)が自身の娘の須勢理毘売(すせりひめ)を大国主(厳密にはこの言上げによって大国主の名を称することとなる)に与える言上げの台詞の殆んど最後の文句である。原文は、

「於底津石根宮柱布刀斯理於高天原氷椽多迦斯理而居」

で。一般に、

「底津石根(そこついはね)に宮柱(みやばしら)布刀斯理(ふとしり)、高天(たかま)の原(はら)に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て居(を)れ。」

と読む。意味を採り易く漢字を変えると、

「底津石根(そこついはね)に宮柱(みやばしら)太(ふと)しり、高天(たかま)の原(はら)に氷椽(ひぎ)高(たか)しりて居(を)れ。」

で、これは――私の娘の須勢理毘売を正妻とし、宇迦能(うかの:出雲郡宇迦郷)山の麓に、

 

「地の底の大磐石(だいばんじゃく)の上に突き届くよう、太い宮柱を掘り立てて、高天原(たかまがはら)に届かんばかりの棟木(むなぎ)を高々と大空へと挙げて、そこへ住め!」

 

この野郎!――といった意味である。

「一畑の寺」「盲者に明を與へ玉ふ藥師如來の有名な堂」「一畑藥師」「一畑」は「いちばた」と読む。既注。薬師瑠璃光如来本尊を本尊とする島根県出雲市小境町にある醫王山(いおうざん)一畑寺(いちばたじ)。

「淸水寺」「千年來、壇前の神聖なる火が絕えず燃えてゐる、十一面觀音の寺」島根県安来市清水町にある天台宗瑞光山清水寺(きよみずでら)であろう。本尊十一面観世音菩薩。

「神聖な蛇が三寳の上に永久にとぐろを卷いて橫はれる佐陀神社」島根県松江市鹿島町佐陀宮内にある佐太神社(さだじんじゃ)のことであろう。

「伊弉諾、伊弉册の宮のある大庭村」「伊弉諾」は「いさなき」(私は当時の濁音発音を疑っている)、「伊弉册」は「いさなき」(同前)と読む。後者は「伊弉冉」「伊邪那美」「伊耶那美」「伊弉弥」などが一般的であるが、こうも書く(以下の引用を参照)。「宮」とは現在の松江市大庭町(おおばちょう)にある神魂神社(かもすじんじゃ)。ウィキ神魂神社によれば、『現在は伊弉冊大神(イザナミ)を主祭神とし、伊弉諾大神(イザナギ)を配祀するとしているが、これは中世末期ごろからのもので、それ以前の祭神は不明である。時代が下って寛文年間ごろの新嘗会祝詞には、熊野大神・大己貴命などの神名が見えるが、現在では記録上わかる範囲内で、より古いほうの説に従っている』。『社伝によれば、天穂日命がこの地に天降って創建したものと伝えられるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社は記載されておらず、文献における初見は』承元二(一二〇八)年の『鎌倉将軍下文であり、実際の創建は平安時代中期以降とみられている』。『当社は出雲国府に近い古代出雲の中心地であり、社伝では、天穂日命の子孫が出雲国造として』二十五代まで『当社に奉仕したという。出雲国造家は現在は出雲大社の宮司家であるが、国造家の代替わりのときの「神火相続式」「古伝新嘗祭」は、明治初年までは当社に参向して行われていた』とある。また、ここの本殿は現存する日本最古の大社造で国宝である、とある。

「八重垣神社」現在の松江市佐草町にある素盞嗚(すさのを)と櫛稲田姫(くしなだひめ)を主祭神とする神社で、二神の故事から縁結びの神社として信仰を集める。先の大庭町に馬蹄形に囲まれた中心部、神魂神社の西北西約一キロメートルに位置する。

「加賀浦」これは「かかうら」と濁らない(以下の通り、現在の行政上の地名でも清音)。松江市島根町加賀(かか)にある湾。

「加賀の潛戶」これは「かかのくけど」と読む(「加賀」の清音は前注参照)。松江市北部の旧島根町に属した日本海に面する潜戸鼻(くけどのはな)の先端部にある。ウィキ加賀の潜戸によれば、『佐太大神(佐太神社の祭神)の出生地といわれる』とある。『潜戸とは洞窟のことであり、安山岩、凝灰岩の岩盤が地殻変動に伴って断層や亀裂を発生させ、その割れ目に沿って日本海の荒波や強風が岩盤を長い歳月をかけて浸食していったことによって形成されたものである。海寄りの新潜戸と陸寄りの旧潜戸があり、自然的な特徴だけでなく、文化的価値観も全く異なるのが特徴である』とし、新潜戸(しんくけど)は三つの入り口があり、『中がトンネルのように連結された』全長二百メートルにも及ぶ『海中洞窟となっている。洞内は広』い。この新潜戸は「出雲国風土記」によれば、『佐太大神の生誕地と記されている。そのため、古くは加賀神社が鎮座し、神域となっていた。現在でもこの洞窟の中に旧社地を示す祠が設けられている。洞門は大神誕生の際、母神が金の矢を射通して作ったと語り継がれている』。一方、旧潜戸(きゅうくけど)の方は幅五・五メートルというかなり狭い入口の洞穴であるものの、『内部が広大なのが特徴で』、ハーンが述べる如く、『中には仏になった子供らが親を慕い小石を積み上げたと伝えられる賽の河原があり、独特の無常観を呈する。堤防から内部へ潜入するための遊歩道、トンネルが設けられている』とある。島根半島四十二浦巡り再発見研究会公式サイト「島根半島四十二浦巡り」内の加賀浦も詳しく必見である。ここの地図を見て頂ければ、陸路での訪問が極めて困難であることが判る。現在でも潜戸観光遊覧船による訪問が唯一の手段であるらしい。]

 

Sec. 15

   I too must make divers pilgrimages, for all about the city, beyond the waters or beyond the hills, lie holy places immemorially old.

   Kitzuki, founded by the ancient gods, who 'made stout the pillars upon the nethermost rock bottom, and made high the cross-beams to the Plain of High Heaven'—Kitzuki, the Holy of Holies, whose high-priest claims descent from the Goddess of the Sun; and Ichibata, famed shrine of Yakushi-Nyorai, who giveth sight to the blind—Ichibata-no-Yakushi, whose lofty temple is approached by six hundred and forty steps of stone; and Kiomidzu, shrine of Kwannon of the Eleven Faces, before whose altar the sacred fire has burned without ceasing for a thousand years; and Sada, where the Sacred Snake lies coiled for ever on the sambo of the gods; and Oba, with its temples of Izanami and Izanagi, parents of gods and men, the makers of the world; and Yaegaki, whither lovers go to pray for unions with the beloved; and Kaka, Kaka-ura, Kaka-noKukedo San -all these I hope to see.

   But of all places, Kaka-ura! Assuredly I must go to Kaka. Few pilgrims go thither by sea, and boatmen are forbidden to go there if there be even wind enough 'to move three hairs.' So that whosoever wishes to visit Kaka must either wait for a period of dead calm—very rare upon the coast of the Japanese Sea—or journey thereunto by land; and by land the way is difficult and wearisome. But I must see Kaka. For at Kaka, in a great cavern by the sea, there is a famous Jizo of stone; and each night, it is said, the ghosts of little children climb to the high cavern and pile up before the statue small heaps of pebbles; and every morning, in the soft sand, there may be seen the fresh prints of tiny naked feet, the feet of the infant ghosts. It is also said that in the cavern there is a rock out of which comes a stream of milk, as from a woman's breast; and the white stream flows for ever, and the phantom children drink of it. Pilgrims bring with them gifts of small straw sandals—the zori that children wear—and leave them before the cavern, that the feet of the little ghosts may not be wounded by the sharp rocks. And the pilgrim treads with caution, lest he should overturn any of the many heaps of stones; for if this be done the children cry.

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 壬午事変のこと

 

 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし

 

 我々の瀬戸内海に於る経験は珍しいものであり、また汽船を除いては、この上もないものであった。今や我々は、紀伊の国の都会へ向けて出発せんとしつつある。それから奈良と京都とへ行くのであるから、私の紀行の覚書や写生図は、順序正しく書く機会無しに、どんどん集って行く。私はまた、陶器紀要に関する資料を沢山手に入れたが、これは情無い程遅れている。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『神戸に戻ったのは』(明治一五(一八八二)年)『八月二十二日頃、その神戸で三日間過ごしたのちモースは大阪へ行き、ついで和歌山へ向った』とある。なお、が、モースは知らず、後に東京へ戻って知って驚愕することになるのであるが(第二十五章で記される)、この八月二十一日、モースの陶器師であった蜷川式胤は東京でコレラのために逝去していたのであった。]

 

 朝鮮で恐るべき暴動が起り、数名の日本人が虐殺されてから、まだ一月にならぬ。日本の新聞がこの報道を受けた時、私は京都にいたが、この事件に関する興奮は、私に、南北戦争が勃発した後の数日を連想させた。大阪は兵士三連隊を徴募し、百万ドルを醵金することになり、北西海岸はるか遠くに位置する新潟は、兵士半個連隊を徴募し、十万ドルを寄附することになった。私は以下に述べる出来ごとの真価が、充分了解される為に、かかる詳細をかかげるのである。

[やぶちゃん注:これはこの前月末である一八八二年七月二十三日に起った壬午事変(じんごじへん)を指す。一八七三年十一月に失脚していた前政権担当者で守旧派筆頭であった興宣大院君(こうせんだいいんくん/フンソンデウォングン)らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(現在のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、当時の政権を担当していた閔妃(ミンぴ)一族の政府高官や日本人軍事顧問堀本工兵少尉ら数十名が死傷、日本公使館も包囲焼き討ちされて、花房義質(はなぶさよしもと)公使らは逃亡した。ウィキ壬午事変によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『事変によって多数の日本人が殺傷された日本政府は花房公使を全権委員として、高島鞆之助陸軍少将及び仁礼景範海軍少将の指揮する、軍艦五隻、歩兵第十一連隊の一個歩兵大隊及び海軍陸戦隊を伴わせ、朝鮮に派遣』し、『日本と朝鮮は済物浦条約』(さいもっぽ/チェムルポじょうやく:一八八二年八月三十日に日本と李氏朝鮮の間で締結された条約。済物浦は現在の仁川の旧称)『を結び、日本軍による日本公使館の警備を約束し、日本は朝鮮に軍隊を置くことになった』。『このことは、朝鮮は清の冊封国であるという姿勢の清を牽制する意味もあった。こうして、朝鮮半島で対峙した日清両軍の軍事衝突を避けることができたが、朝鮮への影響力を確保したい日本と、冊封体制を維持したい清との対立が高まることになり、やがてこの対立が日清戦争へと結びつくことにな』ったとある。]

 

 国中が朝鮮の高圧手段に憤慨し、日本の軍隊が鎮南裏まで退却することを余儀なくされた最中に、私は京都へ行く途中、二人の朝鮮人と同じ汽車に乗り合わした。私も、朝鮮人はめったに見たことが無いが、車室内の日本人達は、彼等がこの二人を凝視した有様から察すると、一度も朝鮮人を見たことが無いらしい。二人は大阪で下車した。私も、切符を犠牲に供して二人の後を追った。彼等は護衛を連れていず、巡査さえも一緒にいなかったが、事実護衛の必要は無かった。彼等の目立ちやすい白い服装や、奇妙な馬の毛の帽子や、靴やその他すべてが、私にとって珍しいと同様、日本人にも珍しいので、群衆が彼等を取りまいた。私は、あるいは敵意を含む身振か、嘲弄するような言葉かを発見することが出来るかと思って、草臥(くたび)れて了うまで彼等の後をつけた。だが日本人は、この二人が、彼等の故国に於て行われつつある暴行に、まるで無関係であることを理解せぬ程莫迦(ばか)ではなく、彼等は平素の通りの礼儀正しさを以て扱われた。自然私は、我国に於る戦の最中に、北方人が南方でどんな風に取扱われたかを思い浮べ、又しても私自身に、どっちの国民の方がより高く文明的であるかを訊ねるのであった。

[やぶちゃん注:モースの日本贔屓と現在までの立場の問題、更にモースに近しい日本人からの情報の伝わり方及び当時の日本国内での英字新聞の報道内容を勘案すれば、モースが日本が事実上の朝鮮半島や大陸の侵略を目論んでいるという深奥を慮ることが出来ず、日本側に立ってこの謀略としてのテロ行為を暴虐と捉えるのは無理もないことと私は思う。寧ろ、モースがここで見かけた二人の無防備な朝鮮人をストーカーのように執拗に追いかけること、そうして彼らに対する日本人の対応を調べ続けた結果、日本人が凝っと見つめながらも誰もが差別なき応対をし、敵意を示すことが全くないことに感激してしまい、南北戦争当時(一八六一年~一八六五年。モース一八三八年生まれであるから当時二十三~二十七歳であった)の南北両アメリカ人同士の扱われ方を回想比較して、日本人はアメリカ人なんぞよりも遙かに理性的であり、礼節に富んだ文明人であると称揚するオチの方に遙かに私は驚く。]

2015/09/05

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一四)

 

        一四

 

 一隊の巡禮者がやつてくる。黃色な藁の蓑かさをきて、松蕈の狀をした大きな黃色な藁の笠を被つて、下方へ曲つた笠の緣が半ば顏を隱してる。皆金剛杖を突いてゐる。下肢を自由にするため、着物を十分捲くり上げて居る。上肢は一種名狀し難い恰好の白木綿の脚絆で包んである。數世紀前にも、この種の服裝をこの種の旅人が着てゐたのである。而して、今この全家相携へて漂浪し、子供は父の手に縋りながら、彼等が列をなして過ぎるのを諸君が見る通りに、百年も經た日本の繪本の色褪せた紙面に、彼等が奇異な列をなして通るのを諸君は見るでせう。

 折々彼等は店頭に立止つて、珍しい物どもを眺める。眺めるのは面白いが、買ふ金錢はない。

 私は驚異すべき事實や、面白いとか、並外づれたとかの光景に接し慣れたので、もし別段變つたことの起らぬ日には、何となく不滿足を感ずるほどである。――しかし、そんな空虛の日は稀である。それは私の場合では、天氣があまり惡くて、外出の出來ない日に限る。その譯はいつも極く僅の金錢で、珍品異物を眺める快樂が得られるからである。この快樂は昔から長い間の日本に於て、一般人民の主要な快樂の一となつてをつた。それは國民が代々珍々な物を作り、又求めることに一生を過ごしたからである。實際面白く娯んでくらすといふのが、赤ん坊時代に驚嘆の眼を開くから始まつて、日本人の一生涯の主眼であると思はれる。人々の顏に靜と堪へ忍んで期待するやうな、一種の何ともいへない樣子がある。――何か面白いものが出てくるのを待つてゐるやうな風情。もし出て來ねば旅行して求める。彼等は驚くべき健脚で倦むことを知らざる巡禮者である。そして神々を喜ばせると同樣に、立派な珍らしい物を見て、自ら楽しむために巡禮に出るのだと私は思ふ。それは神社佛閣は皆一個の博物館である。して、國中の山といふ山、谷といふ谷には社寺や奇觀があるからである。

 自作の米さへ食べられぬ極貧の農夫でも、一ケ月ほどの巡禮が出來る。稻にまだ左程世話の要らない季節中、數千の貧乏百姓が巡禮に出掛ける。これは、昔から誰でも少しづ〻巡禮者を助けるのが、習慣となつてゐるから、出來得るのだ。で、彼等は巡禮者ばかりを泊めて、單に彼等の食物を煮る薪の代だけを求める、木賃宿といふ特別の宿に就て、雨露を凌ぎ安眠を得ることが出來る。

 が、澤山の貧民共は、一ケ月以上、更に長い時日のかかる巡禮、例へば三十三ケ所の觀音へ、又は八十八ケ所の弘法大師へ巡禮に𢌞はる。それらは多くの月日を要するのであるが、それでも、日蓮宗の大袈裟な千ケ寺巡禮に比べると、何でも無い。それには二三十年かかることもある。若い頃から始めて、靑春が疾くの昔に過ぎてから、やつと終はることもある。しかし松江に男や女の中に幾名も、この素晴らしい巡禮を成就して、日本全國を見物し、しかも單に乞食をしたばかりでなく、一種の行商を營みつ〻、旅費を拂つて行つたものがある。

 この巡禮を行はんとするものは、御厨子の形の小さな箱を肩に負つて、その中へ豫備の衣類と食料を貯へておく。彼はまた小さな眞鍮の銅鑼を持ち、町や村を通る折、絕えず南無妙法蓮華經と誦へながら、それを鳴らして行く。彼はまた一卷白紙の書册を携帶し、それに彼が訪問する寺々の僧が、朱色の寺印を捺す。巡禮が終はつてから、この千ケ寺の印譜は、當人の家に取つて、代々の什物となる。

[やぶちゃん注:「松蕈の狀」は「まつたけのなり」と訓じたい。

「隱してる」はママ。

「娯んで」老婆心乍ら、「たのしんで」(楽しんで)と読む。

「木賃宿」ウィキの「木賃宿」より引用しておく。木賃宿(きちんやど)は『日本の宿泊施設の種類の一つ』で、『本来の意味は、江戸時代以前の街道筋で、燃料代程度もしくは相応の宿賃で旅人を宿泊させた最下層の旅籠の意味である。宿泊者は大部屋で、寝具も自己負担が珍しくなく、棒鼻と呼ばれた宿場町の外縁部に位置した。食事は宿泊客が米など食材を持ち込み、薪代相当分を払って料理してもらうのが原則であった。木賃の「木」とはこの「薪」すなわち木の代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれた。木銭宿(きせんやど)ともいう。また、商人宿、職人宿などを含む場合もある』。『宿場制度のなくなった明治以後は単に安価で粗末な宿泊施設や安宿を意味する言葉となった』。明治二〇(一八八七)年に公布された『「宿屋営業取締規則」においては、木賃宿を宿泊施設の一形態として、「賄(まかない)を為さず木賃その他の諸費を受けて人を宿泊せしむるもの」と定義している。場所も街道から都市部のいわゆる貧民街に増加し、労働者や無宿人を畳一枚程度で雑魚寝させる貧民の巣窟となった。明治末期に横山源之助、幸徳秋水などが調査を行い、体験記録を残しているが、「見るにも聞くにもただただ驚き恐るるのほかなき別世界、黄泉にもかかる生き地獄のあるべきや」と表現されるものであった。「やど」を逆にした「ドヤ」という言葉ができるのもこの頃である。この形態の木賃宿は現代まで存続し、簡易宿所となった』とある。「ブリタニカ国際大百科事典」では慶長一九(一六一四)年の令から「旅人、驛家に投じて、その柴薪を用ふれば、木賃鐚錢(びたせん)三文を出し」と引いている。現在の五十円程度か。個人ブログかと思われる「懐かしの別府ものがたり」のNo1150 旅籠専業はわずか6軒 明治35年新撰豊後温泉誌を読む木賃が多かった当時の宿」を見ると、十二年後の温泉の木賃宿のケースであるが、『木賃料は上等―下等が12銭―8銭、ほかに蒲団・敷蒲団の料金などもあった』とある。現在で換算すると二千四百円から千六百円になる。因みに現在の簡易宿泊所は表示では一泊千円というのをよく見かける。

「三十三ケ所の觀音」不勉強で知らなかったが、これは「西国三十三ヶ所(さいごくさんじゅうさんしょ/さいこくさんじゅうさんしょ)」で、近畿二府四県と岐阜県に点在する三十三箇所の観音の霊場を巡礼する本邦では最も古い巡礼行の一つである。詳しくは、ウィキの「西国三十三所」を参照されたい。

「千ケ寺巡禮」当初から強い権力志向とファンダメンタリズムを持つ日蓮宗には個人的に興味も関心もあまり起ったことがないのでよく知らなかったが、これは「千箇寺参り」と呼ばれるもので、「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、日蓮宗信者が祖先追善や自己の罪障消滅のために、手に団扇太鼓 (うちわだいこ) 、首に頭陀袋(ずだぶくろ)、背に十界曼荼羅(じっかいまんだら:日蓮宗の本尊とされる日蓮が創始した曼荼羅図で、中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に十界を描き込んで、それを「法華経」の真実を図示したものとしたもの。中央と周囲との関係は久遠成仏の本仏と迹門〔しゃくもん:天台宗・日蓮宗に於いて法華経二十八品の前半である序品(じょぼん)から安楽行品にまでの十四品を指し、この世に垂迹した仏(釈尊)が一切衆生それぞれに対応して様々に説いた部分とされ、ここで言う「本仏」=「本門」の対語〕としての世界の一体不二の妙理を示すものという)の木札をつけた箱という姿で、題目を称えつつ、身延山をはじめとして同宗の寺院千ヶ寺を選んで巡拝する行事を指すという。但し、これは日蓮宗で特に知られるようになったもので、他宗でも誓願を以って選んだ千ヶ寺を巡礼するという難行は、それ以前(日蓮宗誕生以前)にも存在したように思われる。交通手段の発達しかけた当時に於いてはそれを果たしたという若者がいたとしても、必ずしも不思議ではなく、宗派教団内に於いてもそうした事実(かどうかは不詳であるが)は何より格好の宣伝効果を持ったであろうことは想像に難くない。]

 

Sec. 14

   Here come a band of pilgrims, with yellow straw overcoats, 'rain-coats' (mino), and enormous yellow straw hats, mushroom-shaped, of which the down-urving rim partly hides the face. All carry staffs, and wear their robes well girded up so as to leave free the lower limbs, which are inclosed in white cotton leggings of a peculiar and indescribable kind. Precisely the same sort of costume was worn by the same class of travellers many centuries ago; and just as you now see them trooping by -whole families wandering together, the pilgrim child clinging to the father's hands—so may you see them pass in quaint procession across the faded pages of Japanese picture-books a hundred years old.

   At intervals they halt before some shop-front to look at the many curious things which they greatly enjoy seeing, but which they have no money to buy.

   I myself have become so accustomed to surprises, to interesting or extraordinary sights, that when a day happens to pass during which nothing remarkable has been heard or seen I feel vaguely discontented. But such blank days are rare: they occur in my own case only when the weather is too detestable to permit of going out-of-doors. For with ever so little money one can always obtain the pleasure of looking at curious things. And this has been one of the chief pleasures of the people in Japan for centuries and centuries, for the nation has passed its generations of lives in making or seeking such things. To divert one's self seems, indeed, the main purpose of Japanese existence, beginning with the opening of the baby's wondering eyes. The faces of the people have an indescribable look of patient expectancy—the air of waiting for something interesting to make its appearance. If it fail to appear, they will travel to find it: they are astonishing pedestrians and tireless pilgrims, and I think they make pilgrimages not more for the sake of pleasing the gods than of pleasing themselves by the sight of rare and pretty things. For every temple is a museum, and every hill and valley throughout the land has its temple and its wonders.

   Even the poorest farmer, one so poor that he cannot afford to eat a grain of his own rice, can afford to make a pilgrimage of a month's duration; and during that season when the growing rice needs least attention hundreds of thousands of the poorest go on pilgrimages. This is possible, because from ancient times it has been the custom for everybody to help pilgrims a little; and they can always find rest and shelter at particular inns (kichinyado) which receive pilgrims only, and where they are charged merely the cost of the wood used to cook their food.

   But multitudes of the poor undertake pilgrimages requiring much more than a month to perform, such as the pilgrimage to the thirty-three great temples of Kwannon, or that to the eighty-eight temples of Kobodaishi; and these, though years be needed to accomplish them, are as nothing compared to the enormous Sengaji, the pilgrimage to the thousand temples of the Nichiren sect. The time of a generation may pass ere this can be made. One may begin it in early youth, and complete it only when youth is long past. Yet there are several in Matsue, men and women, who have made this tremendous pilgrimage, seeing all Japan, and supporting themselves not merely by begging, but by some kinds of itinerant peddling.

   The pilgrim who desires to perform this pilgrimage carries on his shoulders a small box, shaped like a Buddhist shrine, in which he keeps his spare clothes and food. He also carries a little brazen gong, which he constantly sounds while passing through a city or village, at the same time chanting the Namu-myo-ho-ren-ge-kyo; and he always bears with him a little blank book, in which the priest of every temple visited stamps the temple seal in red ink. The pilgrimage over, this book with its one thousand seal impressions becomes an heirloom in the family of the pilgrim.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一三)

 

       一三 

 

 大橋を渡り盡すと、小蒸汽船の着く埠頭の近所に、極小さな地藏堂がある。こ〻に唐金の曳網が澤山藏してある。溺死者の死骸が揚らないとき、これを借りて川を曳く。死骸が見附かると、新しい網を寄進せねばならぬ。

 こ〻から南へ半哩の間、學間と手習の神なる天滿宮へまで、天神町が延びてゐる。これは富商の町で、兩側の家々に紺暖簾が垂れて、白く染め拔いた屋號や看板の妙な文字が、湖水から吹く風每に波動してゐる。廣い通をずつと向うへ、電柱の長い列が、白い遠景の中に小さくなつて行く。

 天神の社を越えてから、市はまた新土手川によつて區分されてゐる。この川に天神橋が架つてゐる。橋から向うの方に、また市街區域が丘陵の下まで伸び、且つ湖岸に沿つて曲つてゐる。しかし大橋川と新土手川に挾まれた部分が、市の最も富んだ、且つ繁華な區域であつて、澤山寺院の集つた所もある。この島になつてゐる區に、また劇場もあれば、角力場もあるし、遊樂の場所も大抵こ〻にある。

 天神町と並行に寺町が走つてゐる。この町の東側には寺院がずらりと並んでゐる――瓦を戴ける御所風の土塀で固めた表側に、一定の間隔を置いては、堂々人を驚かすやうな山門がある。この長く續いた塀の上へ高く聳えてゐるのは、立派な反(そり)を打つた、重々しい輪廓をしてゐる灰靑色の屋根である。こ〻では凡ての宗派が仲よくして隣合つてゐる――日蓮宗、眞言宗、禪宗、天台宗、それから眞宗までも。眞宗は神さまを拜ませないので、出雲ではあまり行はれない。寺の境內の後には墓地があつて、その東にまた他の寺々があり、その先きにもまたある――佛敎建築の集團が、小園細屋と交つて、廢巷斷路の迷宮をなしてゐる。

[やぶちゃん注:「小園細屋」平井呈一氏も、ここで、この四字熟語を用いているが、私は、このような四字熟語を見たことがないし、「こぞのほそや」と読んではおくが、ネット検索でも見出せない。町屋の「小っぽけな庭と、細く狭い長屋」の意であろう。]

 今日も寺院を訪ねたり、金の後光を負ふて金蓮華の夢中に安坐せる古い佛像を眺めたり、珍らしい御守を買つたり、墓地の彫像を調べたりして、例の通り數時間を有益に費した。墓地では來てみる價値のある、夢をみてゐるやうな觀音や、徴笑を含んだ地藏を殆どいつも發見する。

 寺の廣い境內は、大昔から子供の遊び場であるから、民衆の生活を視ようと思ふ人には、興味深い場所である。代々世々幸福な幼兒が、そこて面白く遊んだものである。天氣のよい日には、每朝乳母がやつでくる。弟妹分おんぶした娘がくる。澤山の子供が加はる。而して奇異な面白い遊戱をする。――鬼子つこ、蔭鬼、目くさんごつこなど。また、夏の長い夕方には、こ〻は角力場となつて、角力の好かなものは勝手に人つて來るので、土俵場を築いた處もある。元氣な若い勞働者や、筋肉逞しい職人などが、一日の仕事がすんでから、力を試めしにこ〻ヘ來る。現今有名な角力取で、こ〻で初土俵の名を揚げたものが一人ならずある。若者が自分の土地で、他の者に皆勝ちうる力量を示すと、今度は他地方の優勝者から挑戰を受ける。それに勝つた擧句には、技倆ある專門の人氣角力になれるのである。

 踊の催や、演說會もまた寺の境內でする。緣日にはまた極く珍しい玩具が賣られる――多くは宗敎的の意味を持つてゐる。こ〻には大きな老木もあり、人馴れた魚の滿ちた池もある。人影が水に落ちると、魚は餌を貰はうとして頭を擡げる。貴い蓮がその池に植わつてゐる。

 『泥中に生ずれども、淸らかなる花はその汚れに染まず。かくて誘惑の中にありても、心常に淸き人は蓮に譬へらる。されば蓮は佛具に刻まれ、或は畫かる。また釋迦如來の形を現すには必らず之を用ふ。極樂に行く者は金の蓮の萼に安坐せん』(ある生徒の英作文より)

 喇叭の音が奇異な町を通つて響く。すると、最後の寺の角を曲つて、一隊の若い立派な銃兵が行進してくる。佛國の輕裝步兵に稍似た制服を着て、四人宛よく揃つて並んで、ゲートルをつけた脚が、すべて單獨の身體に附いてゐるやうである。列がぐるりとこちらヘ𢌞るときに、一本一本の銃劍が皆同一の角度をなして日光に映ずる。これは師範學校の生徒が每日の兵式操練をするのである。師範の先生は細胞組織の分離、スペクトラム分析、色覺の發達、グリスリン浸剤にバクテリヤを培養することなどに就て講義をする。しかし、生徒はそんな近代的知識があるからとて、決して謙遜な武士風の態度を失はないし、又封建時代の思想に陶冶された彼等の親しい老父母に對する恭敬を減じはしない。

[やぶちゃん注:「地藏堂」出雲市今市町北本町及び松江市寺町に店舗を持つ「仏壇の原田」公式サイト内のスタッフ・ブログ内の小汀泰久氏の『「えきて もどおー大橋川」その3』に(他サイトで調べると「えきてもどおー」とは出雲弁で「一寸行ってくる」の意味らしい)、『松江大橋の西灘は、湖上気船桟橋があり明治・大正の頃は、平田、宍道、荘原方面との水上交通の拠点であったようです。また、現在は龍覚寺の安置されている「松江六地蔵」の地蔵堂は、この場所に安置してあったようです』とあり、まず、ハーンの言う「小蒸汽船の着く埠頭」は大橋南詰よりも上流の西の宍道湖側、即ち、ハーンの泊った旅館の一候補の後である現存する皆美館の対岸附近にあったことが判る。また、この望湖山龍覚(りゅうかく)寺は大橋南詰から南東に二百メートル弱の位置、松江市寺町にある曹洞宗の寺院と思われる。リンク先その他に、ここには前出の松江大橋の人柱となった源助を供養する源助地蔵も安置されているとある。

「半哩」既注であるが、「はんマイル」で、一マイルは千六百九メートルであるから、その半分で八百四メートル弱となる。大橋南詰から白潟(しらかた)天満宮(後注)は実測(途中で少し道が曲がる)六百六十メートルほどであるが、目算としては問題ない。

「天滿宮」白潟天満宮。天神町(てんじんまち:後注)の南端にある。松江天神町商店街公式サイト内の天神さんによれば、由緒は保元年間(一一五六年頃)に平景清(藤原(伊藤)景清 ?~建久七(一一九六)年:悪七兵衛の通称で知られた勇猛果敢な武士で、ウィキの「藤原景清」によれば、『壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、一説には預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれる』(彼がかく自死したと伝えるものが鎌倉の扇ヶ谷に「景清の土牢」として現存するが私は信ずるに足らない偽物と考えている)。また彼の兄上総五郎兵衛尉忠光も『鎌倉二階堂の永福寺の造営中、源頼朝を暗殺しようと』した人物としてしても頓に知られている)、が『出雲に赴任し、お城を島根県能義郡の富田山に築こうとした時、眼病にかかり日を追って重くなった』ので、天神たる菅公(菅原道真)に『一心に祈っていたところ、夢の中でお告げがあり、まもなく全快した』ことから、その『お礼のために城内に鎮守として社殿を建立し、以後、富田城内に長くまつられていた』。その後の慶長年間(一六〇〇年頃)に、城を松江に移して松江城を建設した初代藩主忠氏の父(既に隠居していた息子と実質的な二頭政治を行っていたことは既注)『堀尾吉晴が、天満宮をこの白潟の地に奉還した』。『それ以後、歴代松江藩主の尊崇を受け、庶民の間でも学問の神様として広く信仰されてきた』とある。

「天神町」「てんじんまち」と読む。先にリンクした天神町商店街公式サイトの「商店街のあゆみ 記憶の向こうの天神町」には、『天神町商店街は、戦国時代の終わりに松江城や天満宮が造営されると共に生まれ、天満宮の門前町として栄え』、『明治の頃も、天神町に隣接し宍道湖に面する灘町や魚町には、多くの船が着き』、『各地からの物資を運んでき』たとあり、この頃までは『天神様も宍道湖沿岸や大橋川の各地から船で参るのが普通だった』とある。『宍道湖を来待(宍道町)からは来待石や中国山地からの物資、平田からは特産の木綿や海産物などが荷揚げされ、その豊かな物資を背景に天神町の商売は栄え、『商店街の人も船で行商や仕入れに出かけた』というとあって、まさしくハーンの「富商の町」というのが、合点がゆく。但し、現在の町域は天満宮を右下角にした鈎型を成す変型的なものである。

「新土手川」天満宮の南直近(南方五十五メートル)に流れる川で、現在の地図で見ると、下流約四キロの地点で大川に合流しているから、この天神町を含む部分は西を宍道湖とし、北の大川本流とこの新土手川の中州のように見える(但し、自然状態でそう形成されたものかどうかは分からない。新土手川という呼称やそのほぼ直線に近い流れ方からは、或いは古い時代に水運のために人工的に形成された運河であったものかも知れない。識者の御教授を乞うものである)。

「天神橋」天満宮の東九十六メートルの新土手川に架かる。

「寺町」天神橋の東側に、南北五百十数メートル、東西に三百メートルほどのやや歪んだ長方形で位置し(北端は和多見町があって大川には接していない)、現在の地図を見ても寺院が軒を並べるように並んでいる。

「眞宗は神さまを拜ませない」親鸞は別に神道を否定していない(かのファンダメンタルな日蓮でさえも否定していない。日本の近世までの宗教史の中で、外来のキリスト教を除いて、神道を全否定した教祖は恐らく皆無であろうと私は思う)。寧ろ、永い神仏習合時代に於いては各宗派は神祇信仰を積極的に方便として取り入れ、本地垂迹説を主張して大いに布教に活用して来た事実は腐るほどある。ここでハーンが特に浄土真宗を名指しにして特異点として記しているのは、明治維新以後、国家神道として権威化されたこと(加えておぞましき廃仏毀釈によって真宗に限らず習合していた寺院仏像仏典仏具が悉く完膚なきまでに分離され、有意な数のそれらが破壊破棄されたことなども遺恨としてある)、それと、浄土真宗宗派内各派がかなり激しく対立した(無論、現在も続いている)こと、その過程の中で有力な宗派集団が「神祇不拝」を親鸞が唱えた絶対真理のようにぶち上げたこと(「浄土真宗 神祇不拝」で検索すれば、まことしやかな解説が幾らも見つかる)、或いは出雲での真宗の布教者が、個人的に反神道色を強く出して布教した人物であった可能性(実際に真宗の神道批判は現在の真宗僧によっても、かなり激しい温度差がある)などに由来するものであろうと私は推測する。また、もしかするとハーンは、親鸞の悪人正機のような逆説の中に、近代以降、しばしば識者の間で言われるようになった、ハーンの嫌いなキリスト教と似たような臭さ(胡散臭さ)を嗅ぎ取っていた可能性も捨てきれないようにも思われる。なお、私は、神も仏も信じないが、苦渋にして孤独な思想家としての親鸞には大いに興味を持っている。以上、大方の御批判を俟つ。

「蔭鬼」「影踏(かげふ)み鬼(おに)」「影踏み」のことか? ウィキの「影踏み鬼」によれば、(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『古くから存在する遊戯で、日本では明治三十年代まで月明かりの夜に行われることが多く、「影や唐禄神(道陸神、道禄神)、十三夜の牡丹餅」などと囃しながら行われたという』。『二つの方式があ』り、日中の場合は『日影を利用するため日照が十分にある屋外などで行われる』。『全員一斉に行う』ゲームでは、『開始の合図で一斉に他の者の影を踏むことを競』い、『鬼役を決めて行うもの』では、『まず、参加者の一名を鬼役として選び、他の者は建物など何らかの物体の日陰に入る。日陰に隠れていた者は開始と同時に一斉に日向に飛び出す。あるいは日向で一定時間経過後、開始の合図とともに鬼役が影踏みを開始する。鬼役の者が他の者の影を踏んだ場合には、その影を踏まれた者が新たに鬼役となり立場を交換する。影に入っていることのできる時間について制限を設けることも多い』とある。

「目くさんごつこ」不詳。全くの直感だか、前の二つが鬼ごっこの変種であるから、「目隠し鬼」或いは「だるまさんがころんだ」などが頭に浮かぶ。或いは、穿って考えると、「目くさん」とは「目暗(めくら)まし」のことかとも思われるので、鬼に見つかった場合、危険性のない、何か(それを受けた場合、鬼はその相手を捕まえることが出来ない決まりになっているアイテム)を投げることで、呪的逃走に成功するというものだろうか? 識者の御教授を乞うものである。

「こ〻には大きな老木もあり、人馴れた魚の滿ちた池もある。人影が水に落ちると、魚は餌を貰はうとして頭を擡げる。貴い蓮がその池に植わつてゐる」寺は実際にどの寺であったかを同定出来る(少なくとも限定出来る)方が郷土史研究家の方には、必ず、おられるはずである。これは最終段落の中の「最後の寺」というのも同様である。是非とも御教授の程、お願い申し上げるものである。

「萼」老婆心乍ら、この英文を書いた少年は、この落合氏の訳のこれを「うてな」と訓じて欲しいと感じていると確信する。

「すると、最後の寺の角を曲つて、一隊の若い立派な銃兵が行進してくる。佛國の輕裝步兵に稍似た制服を着て、四人宛よく揃つて並んで、ゲートルをつけた脚が、すべて單獨の身體に附いてゐるやうである。列がぐるりとこちらヘ𢌞るときに、一本一本の銃劍が皆同一の角度をなして日光に映ずる。」「ゲートルをつけた脚が、すべて單獨の身體に附いてゐるやうである」が、やや日本語として硬い。平井呈一氏は『どこやらフランスの軽歩兵に似た制服を着た、年若い、一隊のりっぱな銃兵が、四列縦隊になって行進してくる。ゲートルを固く巻いた全隊の足が、まるでひとりの人間の五体についている足のように動き、寺の角をこちらへ曲がってくる時には、銃剣がいっせいに同じ角度で日の光りにキラリと光る。』と、実に美事に訳出描写しておられる(敢えて贅沢を言うと、「まるでひとりの人間の五つの胴体についている同一人物の十本の足」とすると、実にハーン的平井的怪異を醸し出していいように感ずるものである)。

「師範の先生は細胞組織の分離、スペクトラム分析、色覺の發達、グリスリン浸剤にバクテリヤを培養することなどに就て講義をする。」原文は“Their professors give them lectures upon the microscopic study of cellular tissues, upon the segregation of developing nerve structure, upon spectrum analysis, upon the evolution of the colour sense, and upon the cultivation of bacteria in glycerine infusions.”であるが、ど素人(と言っても、私は生物学には、素人よりは詳しい自信――高校の旧「生物Ⅱ」の知識というレベルで――がある。高校時代は「演劇部」と「生物部」に所属し、イモリの再生実験や、カエルの脳下垂体をミクロトームで切り出す実験等を行った)の私が見てもどうもこの邦訳は怪しい感じがする。

「細胞組織の分離」、“the microscopic study of cellular tissues”は、寧ろ、

――細胞組織の顕微鏡学的観察或いは所見――

の意であり、以下の“upon the segregation of developing nerve structure”に至っては、

――発生過程にある神経細胞の鏡検による解剖――

ごっそり省略されてしまっている。

「スペクトラム分析」“spectrum analysis”は。前の生物学と続く「色覺の發達」から考えるなら、物理学や化学上の広義なスペクトル分析などではなく、

――プリズムによる光のスペクトル分析――

で、当の「色覺の發達」“the evolution of the coloursense”は、

――視覚細胞に於ける色覚の進化過程――

といった意味ではあるまいか?

「リスリン浸剤にバクテリヤを培養すること」“the cultivation of bacteria in glycerine infusions”なんぞは、如何にも分かったようで分からない(少なくとも私にはそうである)不親切な逐語訳である。これは、

――グリセリンに栄養素を少し含ませた培地(寒天様の培養液)でのバクテリア、即ち、細菌(厳密には真正細菌類)の培養

――のことであろう。

 

Sec. 13

   At the farther end of the bridge, close to the wharf where the little steamboats are, is a very small Jizo temple (Jizo-do). Here are kept many bronze drags; and whenever anyone has been drowned and the body not recovered, these are borrowed from the little temple and the river is dragged. If the body be thus found, a new drag must be presented to the temple. 

   From here, half a mile southward to the great Shinto temple of Tenjin, deity of scholarship and calligraphy, broadly stretches Tenjinmachi, the Street of the Rich Merchants, all draped on either side with dark blue hangings, over which undulate with every windy palpitation from the lake white wondrous ideographs, which are names and signs, while down the wide way, in white perspective, diminishes a long line of telegraph poles.

   Beyond the temple of Tenjin the city is again divided by a river, the Shindotegawa, over which arches the bridge Tenjin-bashi. Again beyond this other large quarters extend to the hills and curve along the lake shore. But in the space between the two rivers is the richest and busiest life of the city, and also the vast and curious quarter of the temples. In this islanded district are likewise the theatres, and the place where wrestling-matches are held, and most of the resorts of pleasure.

   Parallel with Tenjinmachi runs the great street of the Buddhist temples, or Teramachi, of which the eastern side is one unbroken succession of temples—a solid front of court walls tile-capped, with imposing gateways at regular intervals. Above this long stretch of tile-capped wall rise the beautiful tilted massive lines of grey-blue temple roofs against the sky. Here all the sects dwell side by side in harmony— Nichirenshu, Shingon-shu, Zen-shu, Tendai-shu, even that Shin-shu, unpopular in Izumo because those who follow its teaching strictly must not worship the Kami. Behind each temple court there is a cemetery, or hakaba; and eastward beyond these are other temples, and beyond them yet others—masses of Buddhist architecture mixed with shreds of gardens and miniature homesteads, a huge labyrinth of mouldering courts and fragments of streets.

   To-day, as usual, I find I can pass a few hours very profitably in visiting the temples; in looking at the ancient images seated within the cups of golden lotus-flowers under their aureoles of gold; in buying curious mamori; in examining the sculptures of the cemeteries, where I can nearly always find some dreaming Kwannon or smiling Jizo well worth the visit.

   The great courts of Buddhist temples are places of rare interest for one who loves to watch the life of the people; for these have been for unremembered centuries the playing-places of the children. Generations of happy infants have been amused in them. All the nurses, and little girls who carry tiny brothers or sisters upon their backs, go thither every morning that the sun shines; hundreds of children join them; and they play at strange, funny games—'Onigokko,' or the game of Devil, 'Kage-Oni,' which signifies the Shadow and the Demon, and 'Mekusangokko,' which is a sort of 'blindman's buff.'

   Also, during the long summer evenings, these temples are wrestling- grounds, free to all who love wrestling; and in many of them there is a dohyo-ba, or wrestling-ring. Robust young labourers and sinewy artisans come to these courts to test their strength after the day's tasks are done, and here the fame of more than one now noted wrestler was first made. When a youth has shown himself able to overmatch at wrestling all others in his own district, he is challenged by champions of other districts; and if he can overcome these also, he may hope eventually to become a skilled and popular professional wrestler.

   It is also in the temple courts that the sacred dances are performed and that public speeches are made. It is in the temple courts, too, that the most curious toys are sold, on the occasion of the great holidays—toys most of which have a religious signification. There are grand old trees, and ponds full of tame fish, which put up their heads to beg for food when your shadow falls upon the water. The holy lotus is cultivated therein.

   'Though growing in the foulest slime, the flower remains pure and undefiled. 'And the soul of him who remains ever pure in the midst of temptation is likened
unto the lotus.’

   'Therefore is the lotus carven or painted upon the furniture of temples; therefore also does it appear in allthe representations of our Lord Buddha.’

   'In Paradise the blessed shall sit at ease enthroned upon the cups of golden lotus-flowers.' [7]

   A bugle-call rings through the quaint street; and round the corner of the last temple come marching a troop of handsome young riflemen, uniformed somewhat like French light infantry, marching by fours so perfectly that all the gaitered legs move as if belonging to a single body, and every sword-bayonet catches the sun at exactly the same angle, as the column wheels into view. These are the students of the Shihan- Gakko, the College of Teachers, performing their daily military exercises. Their professors give them lectures upon the microscopic study of cellular tissues, upon the segregation of developing nerve structure, upon spectrum analysis, upon the evolution of the colour sense, and upon the cultivation of bacteria in glycerine infusions. And they are none the less modest and knightly in manner for all their modern knowledge, nor the less reverentially devoted to their dear old fathers and mothers whose ideas were shaped in the era of feudalism. 

 

7
   From an English composition by one of my Japanese pupils.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一二)

 

       一二 

 

 素晴らしい妖精!

 大橋から東に向つて、眼界の線銳く齒のやうに刻める、綠や靑の美しい山々を見渡すと、かなたにぬつと偉大な怪物が沖天に聳えてゐる。下の方は遠霞に良沒して、宛然空の方から形が出來始まつた如くに見える――下は蒲鼠色、上は虛空の白さ、夢のやうに淡い不盡の雪を戴いた圓錐形の幻影――是は大山の雄峯。

 冬になると、一夜の中に麓から頂上まで眞白くなる。すると、倒まに懸る半開の白扇に詩人が譬へる富士の靈山に彷彿するので、出雲富士の名がある。しかしこの山は出雲でなく、伯耆の國にある。尤も伯耆に於ては、出雲から眺望するほど、恰好よく見えない。これがこの侵美な土地に於ける唯一の雄大な光景だ。但し晴れた日和にのみ見える。この山には不思議な傳說が澤山ある。して、神祕な頂上には、天狗が住んでゐると信ぜられてゐる。

[やぶちゃん注:大山(だいせん)は、当時、既に「伯耆の國」ではなく、鳥取県である。ウィキ大山」によれば、標高千七百二十九メートル、鳥取県及び中国地方に於ける最高峰である。『角盤山(かくばんざん)とも呼ばれるほか、鳥取県西部の旧国名が伯耆国であったことから伯耆大山(ほうきだいせん)、あるいはその山容から郷土富士』(きょうどふじ:日本各地にある「富士」と呼称愛称される山のこと)として「伯耆富士」とも呼ばれ、ハーンの言うように、島根では「出雲富士」とも呼ばれるようである。『周辺の地域では古来からの大山信仰が根強』く、『現存する最古の記述は『出雲国風土記』の国引き神話で、三瓶山と同様に縄を引っ掛けて島根半島を引き寄せたとある。『出雲国風土記』では「火神岳」(ほのかみだけ)または「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ』(但し、この箇所には要検証要請がかけられてある)、『奈良時代の養老年間に山岳信仰の山として開かれたとされる。山腹には大神山神社奥宮や大山寺阿弥陀堂があり、明治の廃仏毀釈まで大山寺の寺領とされ』(この箇所には要出典要請がかけられている)、『一般人の登山は禁止されていた』、まさにハーンの言う霊山であったのである。

「天狗」日本八代天狗の一人とされる伯耆坊(ほうきぼう)であるが、後に相模大山(おおやま)の相模坊が四国白峰に移ったことから転任し、相模大山伯耆坊(さがみだいせんほうきぼう)と呼ばれたとも言われる。] 

 

Sec. 12

   A stupendous ghost!

   Looking eastward from the great bridge over those sharply beautiful mountains, green and blue, which tooth the horizon, I see a glorious spectre towering to the sky. Its base is effaced by far mists: out of the air the thing would seem to have shaped itself—a phantom cone, diaphanously grey below, vaporously white
above, with a dream of perpetual snow—the mighty mountain of Daisen.

   At the first approach of winter it will in one night become all blanched from foot to crest; and then its snowy pyramid so much resembles that Sacred Mountain, often compared by poets to a white inverted fan, half opened, hanging in the sky, that it is called Izumo-Fuji, 'the Fuji of Izumo.' But it is really in Hoki, not in Izumo, though it cannot be seen from any part of Hoki to such advantage as from here. It is the one sublime spectacle of this charming land; but it is visible only when the air is very pure. Many are the marvellous legends related concerning it, and somewhere upon its mysterious summit the Tengu are believed to dwell.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一一)

 

        一一

 

 私は今狹い小さな町へ步を轉ずる。矮小な一階建の家々が、土地から生えたもののやうな觀を呈するほど、古い町ではあるが、名は新材木町と呼ぶ。百五十年前にこそ、材木が新らしかつたらうが、今では灰のやうにくすんだ色を帶びた造作といひ、また日本の屋根にしげる天鵞絨のやうな草や苔の、黃や赤がかつた柔かな綠色で、筋が立つたり、斑紋が出來たり、緣がとれたりして、毛皮の褐色をしてゐる古い草葺といひ、是等の建物の色合は、畫家を恍惚たらしむるだらうと思はれる。

 が、町の頽癈した家屋の部分々々よりも、更に驚くべき光景が、遠景の額枠の中に收まつて見える。屋根よりも高く聳え、町の兩側に並列した竹の高い柱から柱へ渡して、非常に黑い網が擴げられてゐるのが、沖天に向つて巨大な蜘蛛網を張つたやうである。日本の神話や、昔の繪草紙にある蜘蛛の妖怪を忽然思出させる。しかしこれは絹絲で作つた漁網であつて、ここは漁師町である。私は更に大橋の方へ向ふ。

    譯者註。これは春期、白魚を漁するための網。

[やぶちゃん注:「新材木町」ハーンの富田屋があった、現在の松江大橋北詰は現在、末次本町というが、この大橋北詰から大橋館の前を六十二メートル程下った位置から下流は現在、東本町と称する。松江関連の情報を見ると、この東本町の少なくとも新大橋(松江大橋下流三百六十メートルに架橋されている。大正三(一九一四)年初代架橋で当時はなかった)の北詰左岸一帯は材木商人が軒を並べていた「新材木町」と呼ばれる町であった。以下の「一三」で初めてハーンは大橋を渡っており、ここまで町屋の実景描写は大橋川の左岸一帯の描出であることが判り、しかも最後の台詞から一回下流に向って歩き、また上流へ戻り始めるのである。

「蜘蛛の妖怪」平井呈一氏は『土グモ』とされ、文脈から妖怪としての土蜘蛛と解釈出来るようになっている(そもそもが「ツチグモ」という和名を持つクモ類は本邦には存在しない)。以下、ウィキ土蜘蛛から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、注記号や記号の一部を省略・変更した)。『土蜘蛛(つちぐも)は、本来は、上古に天皇に恭順しなかった土豪たちである。日本各地に記録され、単一の勢力の名ではない。蜘蛛とも無関係である』。『しかし後代には、蜘蛛の妖怪とみなされるようになった。別名「八握脛・八束脛(やつかはぎ)」「大蜘蛛(おおぐも)」。八束脛はすねが長いという意味』である。『古代日本における、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称。『古事記』『日本書紀』に「土蜘蛛」または「都知久母(つちぐも)」の名が見られ、陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、各国の風土記などでも頻繁に用いられている』。『また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた。ツチグモの語は、「土隠(つちごもり)」からきたとされ、すなわち、穴に籠る様子から付けられたものであり、明確には虫の蜘蛛ではない(国語学の観点からは体形とは無縁である)』。『土蜘蛛の中でも、奈良県の大和葛城山にいたというものは特に知られている。大和葛城山の葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚があるが、これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる』。『大和国(現奈良県)の土蜘蛛の外見で特徴的なのは、他国の記述と違い、有尾人として描かれていることにもある。『日本書紀』では、吉野首(よしののおふと)らの始祖を「光りて尾あり」と記し、吉野の国樔(くず)らの始祖を「尾ありて磐石(いわ)をおしわけてきたれり」と述べ、大和の先住民を、人にして人に非ずとする表現を用いている。『古事記』においても、忍坂(おさか・現桜井市)の人々を「尾の生えた土雲」と記している点で共通している』。『『肥前国風土記』には、景行天皇が志式島(ししきしま 現在の平戸南部地域)に行幸した際(伝七十二年)、海の中に島があり、そこから煙が昇っているのを見て探らせてみると、小近島の方には大耳、大近島の方には垂耳という土蜘蛛が棲んでいるのがわかった。そこで両者を捕らえて殺そうとしたとき、大耳達は地面に額を下げて平伏し、「これからは天皇へ御贄を造り奉ります」と海産物を差し出して許しを請うたという記事がある』。『『豊後国風土記』にも、五馬山の五馬姫(いつまひめ)、禰宜野の打猴(うちさる)・頸猴(うなさる)・八田(やた)・國摩侶、網磯野(あみしの)の小竹鹿奥(しのかおさ)・小竹鹿臣(しのかおみ)、鼠の磐窟(いわや)の青・白などの多数の土蜘蛛が登場する。この他、土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)の話もあり、山に居構えて大和朝廷に抵抗したが、全滅させられたとある。八十(やそ)は大勢の意であり、多くの女性首長層が大和朝廷に反抗して壮絶な最期を遂げたと解釈されている。この土蜘蛛八十女の所在を大和側に伝えたのも、地元の女性首長であり、手柄をあげたとして生き残ることに成功している(抵抗した者と味方した者に分かれたことを伝えている)』。『『日本書紀』の記述でも景行天皇十二年(伝八十二年)冬十月景行天皇が碩田国(おおきたのくに、現大分県)の速見村に到着し、 この地の女王の速津媛(はやつひめ)から聞いたことは、山に大きな石窟があり、それを鼠の石窟と呼び、土蜘蛛が二人住む。名は白と青という。また、直入郡禰疑野(ねぎの)には土蜘蛛が三人おり、名をそれぞれの打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ・国麻呂)といい、彼ら五人は強く仲間の衆も多く、天皇の命令に従わないとしている』。その後、『時代を経るに従い、土蜘蛛は妖怪として定着して』ゆき、『人前に現われる姿は鬼の顔、虎の胴体に長いクモの手足の巨大ないでたちであるともいう。いずれも山に棲んでおり、旅人を糸で雁字搦めにして捕らえて喰ってしまうといわれ』るようになり、『十四世紀頃に書かれた『土蜘蛛草紙』では、京の都で大蜘蛛の怪物として登場する。酒呑童子討伐で知られる平安時代中期の武将・源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大なクモがおり、このクモがすべての怪異の正体だった。激しい戦いの末に頼光がクモの首を刎ねると、その腹からは千九百九十個もの死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに約二十個の小さな髑髏があったという』。『土蜘蛛の話は諸説あり、『平家物語』には以下のようにある(ここでは「山蜘蛛」と表記されている)。頼光が瘧(マラリア)を患って床についていたところ、身長七尺(約二・一メートル)の怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が病床にもかかわらず名刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げ去った。翌日、頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには全長四尺(約一・二メートル)の巨大グモがいた。頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒した。頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来「蜘蛛切り」と呼ばれた。この土蜘蛛の正体は、前述の神武天皇が討った土豪の土蜘蛛の怨霊だったという。この説話は能の五番目物の『土蜘蛛』でも知られる』。『一説では、頼光の父・源満仲は前述の土豪の鬼・土蜘蛛たちの一族と結託して藤原氏に反逆を企んだが、安和の変の際に一族を裏切って保身を図ったため、彼の息子である頼光と四天王が鬼、土蜘蛛といった妖怪たちから呪われるようになったともいう』。『京都市北区の上品蓮台寺には頼光を祀った源頼光朝臣塚があるが、これが土蜘蛛が巣くっていた塚だといい、かつて塚のそばの木を伐採しようとしたところ、その者が謎の病気を患って命を落としたという話がある。また、上京区一条通にも土蜘蛛が巣くっていたといわれる塚があり、ここからは灯籠が発掘されて蜘蛛灯籠といわれたが、これを貰い受けた人はたちまち家運が傾き、土蜘蛛の祟りかと恐れ、現在は上京区観音寺門前町の東向観音寺に蜘蛛灯籠が奉納されている』。『似た妖怪に海蜘蛛がある。口から糸を吐き人を襲うという。九州の沿岸に出るとされる』とある。

「白魚」現在、「宍道湖七珍」(しんじこしっちん)の一つに挙げられるシラウオ。「宍道湖七珍」は、現行では、

 

○スズキ(条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus 

○モロゲエビ(=甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目根鰓(クルマエビ)亜目クルマエビ上科クルマエビ科ヨシエビ Metapenaeus ensis 

○ ウナギ(=条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica

○ アマサギ(=条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ科ワカサギ Hypomesus nipponensis

○ シラウオ(後述)

○ コイ(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科コイ Cyprinus carpio

○ シジミ(=斧足綱マルスダレガイ目シジミ科シジミ属ヤマトシジミ Corbicula japonica

 

を指す。参照したウィキの「宍道湖七珍によれば、『それぞれの頭一文字を取り「スモウアシコシ」と覚えられる』とある。但し、同ウィキによれば、これは昭和五(一九三〇)年に『島根新聞社の記者であった松井柏軒が中国西湖十景に倣って松陽新聞(現:山陰中央新報)に起稿した「宍道湖十景八珍」が始まりとされる』とあるから、ハーン来訪時にはこの名数はなかった。宍道湖のシラウオは、

条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科の標準種であるシラウオ Salangichthys microdon

と考えられるが、本邦固有種であり、「シラウオ」として区別されずに流通している

イシカワシラウオ Salangichthys ishikawae

も含まれていないかどうかは、宍道湖に棲息しない確認が出来なかったので、併記しておく。]

 

Sec. 11

   I now turn into a narrow little street, which, although so ancient that its dwarfed two-story houses have the look of things grown up from the ground, is called the Street of the New Timber. New the timber may have been one hundred and fifty years ago; but the tints of the structures would ravish an artist—the sombre ashen tones of the woodwork, the furry browns of old thatch, ribbed and patched and edged with the warm soft green of those velvety herbs and mosses which flourish upon Japanesese roofs.

   However, the perspective of the street frames in a vision more surprising than any details of its mouldering homes. Between very lofty bamboo poles, higher than any of the dwellings, and planted on both sides of the street in lines, extraordinary black nets are stretched, like prodigious cobwebs against the sky, evoking sudden memories of those monster spiders which figure in Japanese mythology and in the picture-books of the old artists. But these are only fishing-nets of silken thread; and this is the street of the fishermen. I take my way to the great bridge.

2015/09/04

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一〇)

 

          一〇

 

 大槪の家の引戶や、玄關のすぐ上に、漢字を書いた長方形の白紙が貼りつけてあるのが、私の目につく。それから、どこの入口にも吊つてあるのは、神道の尊い象徴で、細い藁繩に數條の草の長い總がぶらさがつてゐる。白紙の方が立つに私の興味を惹く。それはお札であつて、私はその熱誠なる蒐集者なのだ。大抵松江の市内や、郊外の神社佛閣から頒布したものである。佛敎のお札は、その文句によつて、その家の宗旨が讀まれる――それは、こ〻の社會に於ては、誰人も最も優勢、且つ淵源古き神道を信ずると同時に、また佛敎の或る宗派にも屬してゐるからだ。日本の表意文字を全然知らぬ人でも一見して日蓮宗の法式は識別が出來る――一行の文字に、銳い鋒先きが密立し、小銘旗が鋸齒の如く附いてゐて、軍勢の如き形を呈してゐる。書かれた文字は、有名な南無妙法蓮華經といふ經句で、その昔、西班牙から入つた耶蘇敎を退治した人で、ゼズイツト敎徒からは、名譽なことにも呪詛を受けた、かの加藤淸正が、その軍旗に記してゐたのは、この經句である。この宗派の巡禮者は、この種のお札が貼つてある家へ訪ねて、布施を受ける權利がある。

 しかしお札の大多數は神道だ。殆ど何處の戶の上にも、一枚特に目立つのがある。文字の行の下に二匹の小狐が描いてあるからだ。一匹は黑、今一匹は白、相對坐してゐて、普通に見受けらる〻象徴的な鍵ではなく、これは藁束を口に啣へてゐる。このお札は、城內に鎭座せる御城山の稻荷神社の火災除けの呪符なのだ。實際これらのお札が、從來松江に於いは、唯一の防火設備だ――少くとも木造家屋に關しては。而して火花程の火にも大風が伴へば、一日で更に大きな都會さへ拭ひ去るのは何でもないが、松江には大火事の例がなく、また小火事さへ稀である。

 この呪魔の御利益は松江の市街だけに限る。して、この稻荷に就ては、こんな傳說がある――

 家康公の曾孫直政公、この國を領せんとて、始めて松江へ御入城の折、一美少年御前に出でて言上しけるは、われは殿の御身を護らんため、越前に在ます殿の御父君の許より罷出たる者なるが、住所を得ずして普門院に滯留す。若しわがために御城內に住所を設け玉はば御城内の諸建築と市中の家屋、並にまた江戶表の御屋敷を護り火難を防ぎ奉らむ。われは稻荷新右衞門にて候へばと。斯く言ひて少年は消え失せぬ。公則ち   社祠を立てて、これを祀り玉ひ、今猶城內に存す。石造の狐一千匹、社祠を繞れり。

[やぶちゃん注:「白紙の方が立つに私の興味を惹く」「立つに」原文は“The white papers at once interest me”であるから、これはすぐに・早速・直ちに・即座に、の意で、平井呈一氏は『さっそく』と訳しておられる。そこから考えても、これは私には、そのままでは読めない。これは恐らく「つ」は「ろ」の誤植で、「立」は「たちどころ」と当て読みしているのではないかと疑う。大方の御批判を俟つ。

「ゼズイツト敎徒」“the Jesuits”。ジェスイット(Jesuitはイエズス会士のことで、ジェズイット教団、即ち、イエズス会の異称である。

「加藤淸正」は熱心な日蓮宗信者で、白地に朱字で書いた題目旗を戦場で翻らせ、家臣らにも、この旗印を用いさせたとされる。その領地であった肥後の旧小西行長領主分に於ける苛烈なキリシタン弾圧について、『当時の宣教師、レオン・パジェスは清正を、「道徳観念に欠けた人」と評し』たとある(個人サイト「犬と武士」の「武士の館」内の「加藤清正」の「日蓮宗を信仰し、キリスト教を弾圧」より引用した)。

「鍵」matapon氏の「人文研究見聞録」の「伏見稲荷大社:狐がくわえている物とは? [京都府]」によれば(全国に約三万社はあるとされる稲荷神社の総本社であるから以下の叙述は敷衍してよかろう)、伏見稲荷の狐が銜えている物は「玉(宝珠)」・「鍵」・「稲穂」・「巻物」の四種とあり、それぞれ、

 玉(宝珠)――稲荷大神の霊徳の象徴。「穀物の倉庫」とする説もある。

 鍵――その「みたま」(玉・御魂・霊徳)を身につけようとする願望の象徴。

    「倉庫の鍵」とする説もある。

 稲穂――稲荷神が五穀豊穣の神(食糧神)に由来するためとされる。

 巻物――知恵を象徴しているとされる。

とある。なお、解説中では、繰り返し、『「玉鍵信仰」に由来する』という言葉が出るが、この「玉鍵信仰」とは、別に、T氏の個人ブログ「京都観光旅行のあれこれ」の「伏見稲荷大社の狐がくわえている物は4種類」に、二〇〇九年明治書院刊佐々木昇「タイムトラベル
もうひとつの京都 (学びやぶっく)」に、『「玉は稲荷神の霊徳の象徴で、鍵はその御霊を身につけようとする願望である」とか、「この玉と鍵は、陽と陰、天と地を示すもので、萬物は、この二つの働きによって、生成し化育する理を表している」と意味づけられているとのこと』とあるとし、『江戸時代の花火や「鍵屋」と「玉屋」の屋号』も『稲荷信仰と関係している』ことある。

「御城山の稻荷神社」松江城の西北端に位置する城山稲荷神社。以前にリンクさせて戴いたサイト「松江城と周辺観光地案内」の中の、「城山稲荷神社」を参照されたい。画像や動画(私は隠岐へ渡る際に松江は通っただけで、実際に現地を知らない。従って以降の注も自ずから禁欲的にならざるを得ない。悪しからず)。それによれば、『当時二千以上を数える石狐があったのを、八雲は大変珍しがっていた』とあり、また彼がここに書いた内容を記した上、『その神札を大英博物館に送っている』ともある。

「松江には大火事の例がなく、また小火事さへ稀である」事実とは相違する。島根大学教育学部林正久教授の「松江周辺の自然災害と環境改変史」を縦覧するに、例えば(下線やぶちゃん)、

寛文一三(一六七三)年六月十五日   白潟大火。寺町・和多見の大半焼失。

延宝 元(一六七三)年九月      白潟中町出火。寺町・和多見延焼。

延宝 四(一六七七)年        白潟大火。百一軒焼失。

元禄 元(一六八八)年十一月三日   白潟大火。町屋二百軒焼失。

文化一三(一八一六)年        白潟中町出火。百二十四軒焼失。

文政 六(一八二四)年        本庄町火災。百五十六軒焼失。

文政 八(一八二五)年二月二十二日  石橋町出火。類焼百四十二戸。

天保 七(一八三六)年四月      白潟本町出火。寺町延焼三十七軒。

天保 八(一八三七)年十二月二六日  白潟灘町出火。

                   延焼商家七百五十一軒、寺院十五焼失

嘉永 五(一八五二)年十一月九日   横浜町出火。大風。

                   町屋五百三十七軒類焼、雑賀町七百軒ほど

明治 元(一八六八)年四月      雑賀町大火。

明治 七(一八七四)年六月八日    雑賀町出火。七百十二戸焼失

 因みにこれは、以下に記される伝承の、寛永一五(一六三八)年松平直政入城以後の回禄である。その後も、

昭和 二(一九二七)年一二月二十九日 白潟大火。灘町出火。

                   和多見川(新大橋通り)まで二百三十六戸焼失。

昭和 六(一九三一)年五月十六日   末次本町大火。六百二十八戸焼失。

とあって、特に下線部は、ハーンが松江に来た遠い古えの回禄ではない。御札の霊験を語る余り、事実を枉(ま)げるのはハーンらしくない。と言うより寧ろ、松江の人々が火伏せのお稲荷さまのためにハーンに敢えて語らなかったと考えるべきであろうか。

「家康公の曾孫直政」徳川家康の孫(平井呈一氏も「曾孫」と訳しているが、原文の“grandson”は男の孫の意であって「曾孫」は誤訳である)松平直政(慶長六(一六〇一)年~寛文六(一六六六)年)。上総姉ヶ崎藩主・越前大野藩主・信濃松本藩主を経て、出雲松江藩初代藩主として寛永一五(一六三八)年二月十一日、出雲松江十八万六千石及び隠岐一万四千石を代理統治へ加増移封されて国持大名となった。参照したウィキ松平直政によれば、『直政は領内のキリシタンを厳しく弾圧し、これはかつての領主・堀尾氏や京極忠高らを上回るほど厳しいものであったらしい』とある。キリスト教嫌いのハーンには必ずしも嫌悪の対象ではなかったであろう。寧ろ、前の加藤清正の叙述を見ても分かる通り、キリスト教嫌いのハーンは、過去の日本のキリシタン弾圧への嫌悪感を、殆んど、持っていない、と私には思われる。

「越前に在ます殿の御父君」徳川家康次男結城秀康(天正二(一五七四)年~慶長一二(一六〇七)年)。越前北ノ庄藩初代藩主で越前松平家宗家初代。ここで狐は「越前に在ます殿の御父君」(「在ます」は「おはします」と訓じていよう)と言っているが、これは秀康の御霊(みたま)ということになる。この時既に死後三十一年が経過しているからである。

「普門院」天台宗松高山普門院。既に出た松江藩初代藩主の隠居した父親堀尾吉晴が松江城を築き、城下町を造成した当時に開創された寺で、その後、城内から移転して松江市北田町内に現存する。同寺公式サイト内の普門院についてページの『「新左衛門稲荷さん」のお話』で、ここで語られる狐の伝承及び白黒の向き合った狐を描いた御札を見ることが出来る。そこではこの新左衛門は見た目は普通の武士で、信州の浪人と称し、普門院に日参する囲碁の達人として最初に登場している。]

 

Sec. 10

   I perceive that upon the sliding doors, or immediately above the principal entrance of nearly every house, are pasted oblong white papers bearing ideographic inscriptions; and overhanging every threshold I see the sacred emblem of Shinto, the little rice-straw rope with its long fringe of pendent stalks. The white papers at once interest me; for they are ofuda, or holy texts and charms, of which I am a devout collector. Nearly all are from temples in Matsue or its vicinity; and the Buddhist ones indicate by the sacred words upon them to what particular shu or sect, the family belong - for nearly every soul in this community professes some form of Buddhism as well as the all-dominant and more ancient faith of Shinto. And even one quite ignorant of Japanese ideographs can nearly always distinguish at a glance the formula of the great Nichiren sect from the peculiar appearance of the column of characters composing it, all bristling with long sharp points and banneret zigzags, like an army; the famous text Namu-myo-ho-ren-gekyo inscribed of old upon the flag of the great captain Kato Kiyomasa, the extirpator of Spanish Christianity, the glorious vir ter execrandus of the Jesuits. Any pilgrim belonging to this sect has the right to call at whatever door bears the above formula and ask for alms or food.

   But by far the greater number of the ofuda are Shinto Upon almost every door there is one ofuda especially likely to attract the attention of a stranger, because at the foot of the column of ideographs composing its text there are two small figures of foxes, a black and a white fox, facing each other in a sitting posture, each with a little bunch of rice-straw in its mouth, instead of the more usual emblematic key. These ofuda are from the great Inari temple of Oshiroyama, [6] within the castle grounds, and are charms against fire. They represent, indeed, the only form of assurance against fire yet known in Matsue, so far, at least, as wooden dwellings are concerned. And although a single spark and a high wind are sufficient in combination to obliterate a larger city in one day, great fires are unknown in Matsue, and small ones are of rare occurrence.

   The charm is peculiar to the city; and of the Inari in question this tradition exists:

  When Naomasu, the grandson of Iyeyasu, first came to Matsue to rule the province, there entered into his presence a beautiful boy, who said: 'I came hither from the home of your august father in Echizen, to protect you from all harm. But I have no dwelling-place, and am staying therefore at the Buddhist temple of Fu-mon-in. Now if you will make for me a dwelling within the castle grounds, I will protect from fire the buildings there and the houses of the city, and your other residence likewise which is in the capital. For I am Inari Shinyemon.' With these words he vanished from sight. Therefore Naomasu dedicated to him the great temple which still stands in the castle grounds, surrounded by one thousand foxes of stone.

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 源氏山/智岸寺谷/泉谷〔附泉井〕

    ●源氏山

壽福寺の後背にあり。或は旗立山又御旗山とも稱ふ。古昔(こせき)八幡太郞義家朝敵阿倍貞任宗任等を征伐の路次。鎌倉を過りて此山に旗を立つ。今猶旗竿の蹟(せき)存せりと鎌倉九代記に見えたり。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之四」の「源氏山」の項にも「今に旗竿(はたさお)の跡とてあり」とあるが、私は不詳。

「鎌倉九代記」「北条九代記」のことと思われるが、私が手掛けた箇所(既に第七巻に入っている)には見当たらない。]

 

    ●智岸寺谷

智岸寺谷は英勝寺の境内にて。阿佛尼塔屋敷の西北にあり。古へは寺ありけれども頽敗(たいはい)せり。

[やぶちゃん注:智岸寺は禅宗で古くは尼寺であったが、一度廃れ、その後、後北条氏の支配した時代に東慶寺の尼の隠居所のような役割を果たしていたものと推定されている。廃寺年代は不詳乍ら、ここに尼寺である英勝寺が建っているには偶然ではなく、そうした鎌倉の尼寺の勢力とその力関係と大いに連関すると考えるべきである。

 

    ●泉谷〔附泉井〕

英勝寺の東北の谷なり。東鑑に建長四年五月。宗尊親王方違の本所として當所右兵衛教定か亭を改め造りし事見ゆ。今亭跡を傳へす。路端に井あり。泉井と云ふ。清水涌出す。鎌倉十井の一なり。

[やぶちゃん注:泉谷は「いづみがやつ(いずみがやつ)」と読む。

「建長四年」一二五二年。以下は、「吾妻鏡」の以下の五月十九日の条に出る。

   *

○原文

十九日壬寅。天晴。御本所事。長村宿所聊依有其煩。亦被問陰陽道之處。晴賢以下申云。龜谷泉谷右兵衞督教定朝臣亭。自當時御所北方也。被用御本所之條。可宜云云。仍治定云云。

○やぶちゃんの書き下し文

十九日壬寅(みみすのえとら)。天、晴る。御本所の事、長村が宿所は聊か其の煩ひ有るに依つて、亦、陰陽道に問はるるの處、晴賢以下、申して云はく、

「龜谷(かめがやつ)の泉谷の右兵衞督教定朝臣(あそん)の亭、當時の御所より北方なり。御本所に用ゐらるるの條、宜しかるべし。」

と云云。

仍つて治定(ぢじやう)すと云云。

   *

文中の「長村」は下野国の有力豪族であった小山氏の第四代当主小山長村(建保五(一二一七)年~文永六(一二六九)年)。「吾妻鏡」を見ると弓矢に優れていて将軍宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣供奉人を頻繁に務めていることが判る。「右兵衞督教定」は藤原(二条/飛鳥井)教定。Jmpostjp 氏のブログ「鶴見寺尾図逍遥」の「亀谷」)二条/飛鳥井/教定の亭によれば、彼は『「関東祗候雲客諸大夫(御所に昇殿を許された貴族官人)」の一員として、鎌倉幕府に信用され、京都と鎌倉で活動した。妻は、北条実時』(金沢実時/亀谷殿)の娘で、この『「亀谷」に居を構える者は、中原親能』『あれ、二条教定であれ、「藤原」姓を名乗ることが通例であったようで、そのために』「藤谷殿(ふじがやつどの/とうこくどの)」『とも称された』とある。

「泉井」は数少ない「十井」の中でも現在でも清らかな清水を湧出している井戸である。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 英勝寺

    ●英勝寺

英勝寺は壽福寺の北隣なり。東光山と號す。淨土宗尼寺なり。寺域は太田道灌の舊址にして。水戸中納言賴房卿の母堂英勝院禪尼〔太田新六郎康資の女なり寛永十九年八月廿三日逝す〕の創立なり。禪尼初東照公に仕へ。恩寵を蒙る。薨御の後薙髮して尼となり。寛永十一年六月。此地を賜はり。禪尼自菩提の爲に念佛の道塲を創し。賴房卿の息女を染薙せしめ。開山第一祖とす〔玉峰淸因と號す〕同二十年八月。大猷公執奏し給ひて勅額を下し。且常紫衣の宣旨を賜ふ。

佛殿 寳珠殿の額を扁す〔良恕法親王筆〕本尊阿彌陀〔運慶作〕左右に善導。法然の像を置く。梁牌の銘を掲く。

鐘樓 寛永二十年鑄造の鐘を懸く。

石盤 方丈の前にあり。澤庵宗彭の銘あり。

英勝院太夫人墓幷祠堂 佛殿の西にあり、墓後(ぼご)の岩に三尊を彫刻す。碑面に英勝院長譽淸春とあり。裏に墓誌を刻す。

阿佛尼塔跡 境内北の方にあり。阿佛は藤原爲相か母なり。極樂寺村月影谷は阿佛此地(このち)に下らし時住ける地なり。

總門 東光山の額を掛く。寛永廿年良恕法親王の書する所なり

山門 額は英勝寺と題す〔後水尾天皇宸筆なり〕裏に寛永二十一甲申年八月日臨寫之とあり

[やぶちゃん注:本寺については所縁の水戸光圀が生涯唯一の旅であった鎌倉来訪の際の拠点とし(その時の鎌倉日記(德川光圀歴覽記)電子化てい)、それが後に最初の鎌倉地誌「新編鎌倉志」と成った。されば新編鎌倉志卷之四の「英勝寺〔附太田道灌舊跡〕」の項は異様に細かく、力が入っている。必見。この寺は現在最後の鎌倉の尼寺で、私は二十代の頃より、何度も足を運んだものの、遂に一般の立ち入れる場所以外には入ることが出来ず、実見に基づく注が殆んど附せない数少ない鎌倉市街の寺の一つである。

「水戸中納言賴房」常陸水戸藩初代藩主で水戸徳川家祖である徳川家康十一男の徳川頼房(慶長八(一六〇三)年~寛文元(一六六一)年)。

「母堂英勝院禪尼」お梶の方(天正五(一五七八)年~寛永一九(一六四二)年)。徳川家康の側室。英勝院は法号。「母堂」とあるが実母ではなく養母である(頼房の実母は家康側室の萬(まん 天正八(一五八〇)年~承応二(一六五三)年)で彼女の方の法号は養珠院。日蓮宗の信者となり、夫家康からは後年、煙たがられた)。

「太田新六郎康資」ウィキ英勝院によれば、彼女の『父は里見氏の旧臣で太田道灌の曾孫にあたる太田康資とする説と、江戸城代の遠山直景(遠山政景の子)とする説、常陸国の戦国大名で豊臣秀吉により支配地を失い、結城氏の元に身をよせていた江戸重通の娘が太田康資の養女になったという説などがある』とある。

「寛永十九年」一六四二年。

「東照公」徳川家康の諡号。

「大猷公」第三代将軍で、家康三男秀忠の次男家光の諡号。]

2015/09/03

ヤク入手のための本日の戦況報告

午前8時前に出陣――

看護師からいろいろ聴かれて待つこと2時間――

「CTを撮ります」と来た――

CTがまた長蛇の列で待つこと20分――

また戻って待つこと30分――

看護婦が来て曰く「先生がCT画像から見て緊急性がないので午後1時にお出でください」――

……(心内語)『お出で下さい、だぁ?』……

すかさず、看護師曰く「お住まい、お近くですよね?」――

……(心内語)『住所とか近いとか俺、言ってないし! 飯食って出直せってっか!?……』

[やぶちゃん注:表向き僕は、素直に「分かりました。では1時に」と答えて妻と自分の分の昼食を買い求め、家に戻って食事をし、蜻蛉返りでまた病院に戻った――

[やぶちゃん注:要するにここは天下に知れ渡った(悪名でも。と言えば分る)急性期病院であって、勝手に外来患者をトリアージして後に回したのであることが、その妙に持って回った論理的に一見見える冷静な喋り方からよく理解した。それでも正直、ここまでで3時間余り待っていた患者に対し、「お住まい、お近くですよね?」は僕は正当な言い方だとは全く思わない。僕なら、トリアージしたことを正直に言って、「すみませんが、お昼をお食べになられて1時にまたお出で下さいませんか?」と看護師なら言うし、医師ならそう鄭重に言うように看護師に指示する。]

ともかく帰って昼を食った(毎日の妻と二人の昼食作りは私が担当)が……実はこれ、病院のランチ・バーで食べた方が正解だった。この時間、カンカン照りで湿度振り切れ、十数分後に自宅に帰れば汗で骨までびしょ濡れだっ!(「七人の侍」の博労の台詞風に)

でもって、12:45にまたまた汗べとべとになって病院に戻って、待つこと、また35分――

呼ばれて「脳前頭葉中央の出血も収まっており問題ありません」――
例の薬について問えば「では次回検査分まで出しましょう」――

診察時間は3分――

院外処方で薬局へ向う――

やれやれこれでやっと……と思って待っている……やけに時間がかかる……ふと別な不吉な気がして来る……一日二錠で次回検査十二月までで105日×2=210錠……この小さな薬局……なかったりして…………

いつもの通り……僕の不吉は大当たりさ……目の前に出された薬袋には……

「100錠足りません」と記してあった……

(しかし流石に昨日の一件の人物であることを知っている向こうも恐縮して――非常によくしてくれた昨日の薬剤師はいなかったが――宅配便(無論、送料は薬局持ち)で土曜に送って呉れることにはなった)

自宅へ帰還したのは2時半過ぎ――

飯に食いに帰ったものの、通しで6時半――

ただ一つの薬を得るために、昨夜予測した通り、「半日」がかりとなったのであった――




橋本多佳子句集「命終」 昭和三十六年(1) 崖(1)

 

 昭和三十六年

 

 崖

 

臥す顔にちかぢか崖の霜の牙

 

今日も臥す立ちはだかりて枯れし崖

 

綿虫の綿の芯まで日が熱し

 

[やぶちゃん注:「綿虫」既注。]

 

冬日浴足の爪先より焼きて

 

髪洗ひ生き得たる身がしづくする

 

臥す平らつづき寒肥の穴ぽつかり

 

霜を踏み試歩の鼻緒をくひこます

 

枕辺に揚げざる凧と突かざる羽子

 

われとあり天を知らざるわが凧よ

 

凧・独楽・羽子寄りあふわれと遊ばずば

 

独楽とあそぶ壁に大きな影おいて

 

厚氷金魚をとぢて生かしめて

 

もがり笛枕くぐりて遁げ去りぬ

 

[やぶちゃん注:「もがり笛」既注。]

 

垂直に崖下る猫恋果し

 

[やぶちゃん注:晩年の多佳子の句の内でも特に私の偏愛する一句。]

 

崖下に臥て急雪にめをつぶる

 

養身や目鼻にからむ飯(めし)のゆげ

 

枯田圃日風雨風吹きまくり

 

   回想

 

話しゆく体温の息万燈会

 

万燈の誘ひ佳き道岐れをり

 

鬼の闇一文字深く溝の黒

 

[やぶちゃん注:「万燈会」「万燈」万灯会(「まんどうゑ(まんどうえ)」と正確には濁るのが正しいようである)は東大寺・薬師寺・高野山のそれが有名であるが、これは単なる思い付き乍ら、この三年前の昭和三三(一九五八)年二月三日誓子と一緒奈良春日神社の万燈籠を見の「回想」ではあるまいか? 但し、春日神社のそれは通常は「万燈籠」と呼ぶ。]

2015/09/02

紹介通院

今日は三種類の薬を貰うためだけに紹介された病院の耳鼻咽喉科に4時間――診察は5分――院外処方で開けて見れば――さても――肝心の脳神経障害治療薬が含まれていない――薬剤師が気の毒がって医師に電話して呉れたが答えはそれは脳外科でないと出せない薬物だという――僕はそれを事前に看護師にも当該医師にも丁寧に説明したのだが――如何にも出せるような雰囲気で、何のアドバイスも、処方出来ないという説明も全くになかったのにだ――前頭葉挫滅と聴いたら薬剤師でさえ「それは……早急に脳外科の診察を受けて処方して貰った方がよろしいのでは?」と哀れがって言って呉れる始末だ――勿論さ(今日は脳神経外科は手術日で休診)――明日もまた行こうじゃねえか、朝からよ――しかし――きっと半日以上かかる――それもたった一種類の薬を貰うためだけに――それに――はっきり言ってどれも効く可能性の怪しい薬ばかりなんだな、これが――ALSの母が飲んでいた馴染みの薬ばかりだもの――まあ、身から出た錆だからな……しゃあねえな……

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (九)

 

       

 

 河霧が消えると、湖上半哩足らずの沖に浮べる美しい小島が、際立つて現れた――低い、幅の狹い、一帶の地面で、數株の大きな松の蔭に祠がある。松は西洋のと異つて、巨大な、節だらけの、むしやくしやした、捩ぢくれた恰好をして、年古りた樫の木のやうに、枝を張つて聳えてゐる。望遠鏡で見ると、よく鳥居がわかる。鳥居の前に石で刻んだ二個の唐獅子がある。一個の頭は取れてゐるが、いつかの大嵐の際、顚倒して大波に撲られたのに相違ない。この島は辯舌と美貌の女神、辨財天の靈地であるから、辨天島と名が附いてゐるが、普通は傳說に因んで嫁ケ島と呼んでゐる、この島は、溺死した女の骸を載せて、湖水の底から一夜の中に、音も立てずに夢の如く湧上つたのだ。その女は非常に美しい、信心深い女で、しかも頗る薄命な身の上であつた。土地の人々は、何か神慮のあることと思つて、この島を辨財天に寄進し奉つて、祠宇を造營し、鳥居を建て、島の周圍には、大きな妙な形をした石で、壁を築いて固めた。して、こ〻へその溺死した佳人を葬つたのである。

 

 空は今や見渡す限り靑々と、春風は肌を撫でてくれる。私は奇異な古い都會の中へ、逍遙に出でて行く。

[やぶちゃん注:くどいけれども、前の大橋で述べた如く、私たちは知らず知らずのうちに、ハーンの印象記の操作された時間の中に誘い込まれている。ここで彼と我々が眺める嫁ヶ島の景色も、まわ彼と我々を誘って松江の市街へと歩ませんとするのも――「春の」早朝の宍道湖に浮かぶ嫁ヶ島であり、「春風」なのであるのである。決して、松江に到着して落ち着いた九月という初秋ではないのである。

「辯舌と美貌の女神、辨財天」この上述に疑義のある向きはウィキ弁財天を読まれるとよい。弁財天は元『ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)』が『仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である』が、『経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い。弁天(べんてん)とも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多』く、さらに面倒なことに『仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と』も『同一視される』ケースがある。『「サラスヴァティー」の漢訳は「辯才天」であるが、既述の理由により日本ではのちに「辨財天」とも書かれるようになった』。但し、細かいことを言えば、『「辯」と「辨」とは音は同じであるが』、本来は全く『異なる意味を持つ漢字であり、意味の上では「辯才(言語の才能)」を「辨財(財産をおさめる、財産をつぐなう)」で代用することはできない』のである。ところが、あらゆる宗教信仰を自在に習合してきた本邦ではハーンの言うように「辯才」(「辯舌)と財宝神としての「辯財」を共有する「美貌の女神」として普通に広く認識されるようになったのである。

「辨天島」「嫁ヶ島」現行の地図では「嫁ヶ島」と記す。宍道湖東岸の祖師ケ浦の海岸線から約二百メートル西に浮かぶ東西に長く延びた、小さなソーセージのような形をした島である。松江大橋北詰からは南西に一・六キロメートルに位置する。サイト「松江城と周辺観光地案内」の中の「宍道湖」の嫁が島(よめがしま)によれば、全長約百十メートル・幅約三十メートル・周囲二百四十メートルの島で、面積は約二千六百五十七平方メートルとあり、『島の西側に弁天さまを祭る竹生島神社の小祠があり、東の端には鳥居もある』とある(ここの記載から見ると現在のこの小祠は島の東南一・一キロメートルの内陸、松江市浜乃木町の能代神社の境内社として位置づけられているらしい)。島には約三十本の『松があり風情を添え』るが、『大水害の折などこの松が完全に宍道湖に没』とあって、しかも、『小泉八雲も暇さえあれば、浜乃木の側に人力車を走らせてこのあたりからの夕日を堪能したといわれ』ているとある。なお、「湖上半哩足らずの沖」(「半哩」は「半マイル」)とあるが、一マイルは千六百九メートルであるから、その半分で八百四メートル弱となるが、どう考えてもこの距離感はおかしい。現在はその四分の一である。当時の湖岸がもっと内陸にあったと好意的に考え、現在の山陽本線直近が湖岸であったとしても三百五十メートル強はある。しかもその内陸側には寺社が確認出来るから、それより内側ではあり得ないと私は思う。これはもしかすると、この嫁ヶ島に通う船着き場からの距離ではあるまいか?(但し、現在は特定の神事の時以外は渡島出来ない) そしてこの距離に見合ったその渡し場の場所は、後に出る天神町の西南直近の湖岸の現在の大橋川河口の分岐した南側の河口左岸の灘町或いは右岸の祖師町辺りであったとするならば、極めてこの数値一致することになるのである。現地の識者の御教授を乞うものである(なお、一九七五年恒文社版平井呈一氏訳ではここは何と『三マイル』となっている。これは恐らく『半マイル』と書いた自筆原稿の判読を誤り、校正でも見落とされたものであろう)。

「普通は傳說に因んで嫁ケ島と呼んでゐる、この島は、溺死した女の骸を載せて、湖水の底から一夜の中に、音も立てずに夢の如く湧上つたのだ。その女は非常に美しい、信心深い女で、しかも頗る薄命な身の上であつた。土地の人々は、何か神慮のあることと思つて、この島を辨財天に寄進し奉つて、祠宇を造營し、鳥居を建て、島の周圍には、大きな妙な形をした石で、壁を築いて固めた。して、こ〻へその溺死した佳人を葬つたのである」これについては、「国立国会図書館レファレンス協同データベース」の島根県立図書館事例宍道湖に浮かぶ嫁が島の名前の由来や、元となった伝説について知りたいの回答とデータに、「日本歴史地名大系 第三十三巻 島根県の地名」(一九九五年平凡社刊)に『「嫁ヶ島」には、「出雲国風土記」に「蚊島」とあり。また「雲陽誌」や「出雲鍬」では蚊島が嫁島と同じ読みのため、いつのまにか「よめ」というようになったと』している(「この場合は「蚊島」も「嫁島」も「かしま」と読んでいることを示す)とあり、また、島根県大百科事典編集委員会企画編集「島根県大百科事典」下巻(一九八二年山陰中央新報社刊)の「嫁ヶ島伝説」の項には二つ話を紹介しており、一つは『姑にいじめられた嫁が湖で水死したところ、一夜のうちにその嫁を乗せて島ができあがった、というもの。「嫁ヶ島」の名前の由来になったとする』とし、二つ目は、『姑にいじめられた嫁が湖に氷が張り詰めた寒中に、氷の上を渡って島の弁財天にお参りしたところ、小用を催し仕方なく氷の上で用を足したところ、氷が割れて湖中へ落ちて水死してしまった。人々は嫁を哀れみ、以後この島を嫁ヶ島とよぶようになった、とするもの』が載るとある。更に、石塚尊俊編著「出雲隠岐の伝説」(一九七七年第一法規出版刊)の「嫁が死んだ嫁が島」には、まさにこの二番目の伝承の異伝型と目される、『氷の張った湖の島の近くで嫁入り行列の嫁が用を足したくなったので、篭をとめて用を足したところ氷の穴から落ちて沈んでしまった、とする』伝承を載せるとある(最後にはまさにハーンの児童物からここでハーンが述べている伝説も併せて紹介されてある)。この伝承、何か隠れた重大な意味が潜んでいるように私には思われてならない。向後も意識して追跡してみようと思っている。] 

 

Sec. 9

   The vapours have vanished, sharply revealing a beautiful little islet in the lake, lying scarcely half a mile away—a low, narrow strip of land with a Shinto shrine upon it, shadowed by giant pines; not pines like ours, but huge, gnarled, shaggy, tortuous shapes, vast-reaching like ancient oaks. Through a glass one can easily discern a torii, and before it two symbolic lions of stone (Kara-shishi), one with its head broken off, doubtless by its having been overturned and dashed about by heavy waves during some great storm. This islet is sacred to Benten, the Goddess of Eloquence and Beauty, wherefore it is called Benten-no-shima. But it is more commonly called Yomega-shima, or 'The Island of the Young Wife,' by reason of a legend. It is said that it arose in one night, noiselessly as a dream, bearing up from the depths of the lake the body of a drowned woman who had been very lovely, very pious, and very unhappy. The people, deeming this a sign from heaven, consecrated the islet to Benten, and thereon built a shrine unto her, planted trees about it, set a torii before it, and made a rampart about it with great curiously-shaped stones; and there they buried the drowned woman.

 

   Now the sky is blue down to the horizon, the air is a caress of spring. I go forth to wander through the queer old city.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (七)・(八)

 

          

 

 鐡柱の長い、白い橋は如何にも近代式である。實際この春盛大な開通式を擧げたばかりだ。極く古い習慣によれば、新橋の落成した場合、界隈での一番果報者が渡初めをする。それで松江の役所で搜し出したのは、二名の高齡者であつた。二人とも妻を持つてから半世紀以上にもなるし、十二人も子を有つて、それが一人缺けてゐなかつた。この老人達が妻女共を伴れ、後からは成人した子や孫や曾孫が附隨つて、渡初めをした。歡呼の聲がどよめき、煙火が揚げられ、祝砲が鳴つたのであつた。

 しかし古い橋は、水の上に彎形に架かつて、數多き橋柱に支へられ、無茶な種類の長肢の百足虫のやうで、今度の新しい橋梁よりも遙かに美觀であつた。三百年間も儼然と河に跨り、且つ獨特の傳說を有つてゐた。

 慶長時代に出雲の大名となった堀尾吉晴が、始めてこの河口へ橋を架けようとした時、大工が幾ら骨折つても駄目であつた。柱を支へる堅固な河底が無いやうであつた。澤山巨石を投げ込んで見たが、何の甲斐も無かつた。晝間の作業は夜の間に流されたり、丸呑みにのみこまれたからである。しかし畢竟、橋は架つた。が、直ぐに柱が沈み出した。それから洪水のために半數の柱が流された。修復をすれば、また壞はれる。そこで人身御供をして、水神の怒を宥めることとなつた。水流の最も意地惡い、中央の柱の根元へ、一人の男を生きながらに埋めた。それから橋は三百年間びくとも動かなかつた。

 犧牲になつた男は、雜賀町に住んでゐた男源助といふ者であつた。それはまちのない袴を着けて橋を渡る者があれば、それを埋めることに決めてあつた。すると、まちのない袴を穿いてゐた源助が、渡らうとしたので、犧牲になつた。その譯で、最中央の橋柱は源助柱と名が附いてゐた。月の出ない宵には――いつも二時から三時までの深更に――その柱の邊を鬼火が飛んださうである。して、諸外國に於けると同じく、幽靈の火は日本に於ても大槪靑いものと聞いてゐるが、この火の色は赤であつたさうだ。

    註。まちは袴の腰に縫ひつけた厚紙、
    又はその他の材料の堅い片で、袴の
    折目を正しくするためのものである。

[やぶちゃん注:ここで語られるのは、大橋川に架かる「大橋」或いは「松江大橋」とも呼ばれるものである。ウィキの「大橋 (大橋川)によれば、ハーンがここで描写しているのは明らかに近代的な鉄製トラス橋となった第十五代目のそれで、ハーンが松江に来た翌年の明治二四(一八九一)年の竣工とある(ハーンは明治二十三年の八月末に松江の大橋そばの富田屋に入っているのにも拘わらず「この春」と言っているのに注意されたい)。第十四代目の橋は弘化四(一八四七)年の竣工であるから、ハーンの描写とは全く合わない。即ち、この部分は実は時間差で語られている一種の文学的虚構であることが判るのである。だからこそハーンが「しかし古い橋は、水の上に彎形に架かつて、數多き橋柱に支へられ、無茶な種類の長肢の百足虫のやうで、今度の新しい橋梁よりも遙かに美觀であつた」と断言しているのは、当時の前の橋の最後の美しい原風景の最後を(既に架け替え工事中ではあったと思われるものの)、辛くも松江到来の折りに視認していたのだということを暗に示している、と私は読む。なお更に言えば、この橋のさらに前身は「白潟橋(しらかたはし)」或いは「カラカラ橋」などと呼ばれる竹製の人しか通れないような橋であったという。ハーンが先の「五」の冒頭をまさに「カラカラ」と聴こえてくる下駄の音から始めたのは偶然と思うが、私は何か、不思議にハーンの持つ集合的無意識の霊性を感じてしまうのである。

「儼然」老婆心乍ら、「嚴然(厳然)」に同じい。厳(いか)めしく厳(おごそ)かな、動かし難い威厳のあるさまの意。

「堀尾吉晴」(天文一三(一五四四)年~慶長一六(一六一一)年)は大名ではあったが、当時は藩主ではなく、出雲松江藩初代藩主忠氏の実父で既に隠居の身であった(詳しくはウィキの「堀尾吉晴」を参照)。忠氏は慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いで家康方の東軍に与して山内一豊と城提供の策を謀議、父に代わって東軍側として関ヶ原前哨戦に武功を立て、その論功行賞で出雲松江二十四万石に加増転封(当時、数え二十三)、父とともに協力して藩政を行なった。慶長十六年に松江城を建造したものの、吉晴は同年六月十七日に死去している。但し、吉晴のウィキの記載には、『吉晴は実際には藩主になっていないが、忠氏時代には忠氏と二元政治を行ない、忠晴時代には若年の忠晴に代わって政務を代行していたことから、松江藩の初代藩主として見なされることが多い』とあるから、ハーンの謂いは決しておかしくない。ウィキの「堀尾忠氏」(それによれば吉晴の次男とも長男――兄金助養子(吉晴弟の実子)説による――とも伝える)もリンクさせておく。

「三百年間」ウィキの「大橋 (大橋川)には、慶長一二(一六〇七)年に『堀尾吉晴が松江城建築のために架橋工事を始め、翌年、初代にあたる』百五十三メートルの『木の橋が完成する。北の末次と南の白潟の間にある唯一の橋として使われ、他の所属の船は南詰の渡海場(船着き場周辺)で必ず荷物を降ろさなければならなかった』とある。ハーンの来訪は明治二三(一八九〇)年であるから厳密には起工からは数えで二百八十四年ではある。

「雜賀町」現在の松江市雑賀町(さいかまち)。大橋南詰から南及び南南東に凡そ一キロメートル圏内にある。

「源助」ネット上の複数の情報では足軽人足であったとする。彼に就いての伝説はネット上でも多く見られるが、取り敢えず松愛会・山陰支部公式サイト内の「松江大橋と源助」及び逸匠冥帝氏の「日本伝承大鑑」の「松江大橋 源助柱」をリンクさせておく。前者のリンク先によれば、マチのない袴ではなく、『横縞の継ぎをした袴という説もある』と補説されてある。

まちのない袴」袴の中に襠(まち/中仕切り)がない「行灯袴(あんどんばかま)」(見た感じが行灯に似ているからと呼ばれる。なお、襠のあるキュロット状のものは「馬乗袴(うまのりばかま)」と称する)。行灯袴は袴が町人の間でも穿かれることの多くなった江戸後期に発案されたものとウィキの「袴」にはあり(しかし、だとすると、江戸前期のシークエンスと齟齬する。これはウィキの記載が正しいとすれば、頗る不審で、寧ろ、前注にある通り実は『横縞の継ぎをした袴』であった可能性が浮上して来るように私には思われる)、一種のスカートのような袴である(但し、純和袴(わばかま)であって、大正期に誕生するスカートを確信犯で真似た女袴(おんなばかま)とは外見上は似て見えるものの本質的に異なる)。ただやはり当初は専ら婦人用であったらしいが、後には男も穿くようになった。] 

 

Sec. 7

   The long white bridge with its pillars of iron is recognisably modern. It was, in fact, opened to the public only last spring with great ceremony. According to some most ancient custom, when a new bridge has been built the first persons to pass over it must be the happiest of the community. So the authorities of Matsue sought for the happiest folk, and selected two aged men who had both been married for more than half a century, and who had had not less than twelve children, and had never lost any of them. These good patriarchs first crossed the bridge, accompanied by their venerable wives, and followed by their grown-up children, grandchildren, and great-grandchildren, amidst a great clamour of rejoicing, the showering of fireworks, and the firing of cannon.

   But the ancient bridge so recently replaced by this structure was much more picturesque, curving across the flood and supported upon multitudinous feet, like a long-legged centipede of the innocuous kind. For three hundred years it had stood over the stream firmly and well, and it had its particular tradition.

   When Horio Yoshiharu, the great general who became daimyo of Izumo in the Keicho era, first undertook to put a bridge over the mouth of this river, the builders laboured in vain; for there appeared to be no solid bottom for the pillars of the bridge to rest upon. Millions of great stones were cast into the river to no purpose, for the work constructed by day was swept away or swallowed up by night. Nevertheless, at last the bridge was built, but the pillars began to sink soon after it was finished; then a flood carried half of it away and as often as it was repaired so often it was wrecked. Then a human sacrifice was made to appease the vexed spirits of the flood. A man was buried alive in the river-bed below the place of the middle pillar, where the current is most treacherous, and thereafter the bridge remained immovable for three hundred years.

   This victim was one Gensuke, who had lived in the street Saikamachi; for it had been determined that the first man who should cross the bridge wearing hakama without a machi [5] should be put under the bridge; and Gensuke sought to pass over not having a machi in his hakama, so they sacrificed him Wherefore the midmost pillar of the bridge was for three hundred years called by his name—Gensuke-bashira. It is averred that upon moonless nights a ghostly fire flitted about that pillar—always in the dead watch hour between two and three; and the colour of the light was red, though I am assured that in Japan, as in other lands, the fires of the dead are most often blue. 

 

5
   Machi, a stiff piece of pasteboard or other material sewn into the waist of the hakama at the back, so as to keep the folds of the garment perpendicular and
neat-looking.

 

 

       

 

 或人の話によると、源助は人の名でなく、年號の名を訛つたのだといふ。が、この傳說は非常に深く信ぜられてゐて、この新橋の建築中、幾千の田舍者が市へ出るのを怖れてゐた。といふのは、新しい犧牲が必要で、田舍者からそれを選ぶといふこと、また依然昔風を守つて髷に結つてゐるものから選ぶといふことの噂がたつたからである。それが爲めに數百の老人が髷を切り捨てた。すると、また初日に新しい橋を通行するものの内で、千人目のものを捕へて、源助のやうに處する旨、警察に祕密の命今が下つてゐるといふ噂が傳はつた。で、いつも百姓で賑ふ稻荷祭にも、今年はあまり人出が無かつた。して、この地方の商賣に取つては、數千圓の損失だといふことであつた。

[やぶちゃん注:私は、この源助の話を読むと……前に「第三章 お地藏さま 六」で注した……ハーンが人力車で渡ったかもしれない横浜の弁天橋に……明治六(一八七三)年……ラシャメンの産んだ混血の少年四人が……人柱となって埋められたという事実を知ったら……ハーンはどう思っただろう……と……ついつい考え込んでしまうのである……。

「源助は人の名でなく、年號の名を訛つたのだ」ネット上で元号誤認説を探してみたが、見当たらない。識者の御教授を乞う。]

 

Sec. 8

   Now some say that Gensuke was not the name of a man, but the name of an era, corrupted by local dialect into the semblance of a personal appellation. Yet so profoundly is the legend believed, that when the new bridge was being built thousands of country folk were afraid to come to town; for a rumour arose that a new victim was needed, who was to be chosen from among them, and that it had been determined to make the choice from those who still wore their hair in queues after the ancient manner. Wherefore hundreds of aged men cut off their queues. Then another rumour was circulated to the effect that the police had been secretly instructed to seize the one-thousandth person of those who crossed the new bridge the first day, and to treat him after the manner of Gensuke. And at the time of the great festival of the Rice-God, when the city is usually thronged by farmers coming to worship at the many shrines of Inari this year there came but few; and the loss to local commerce was estimated at several thousand yen.

2015/09/01

生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(9) 五 胎盤 / 第十三章~了

     五 胎盤

 

 人間も他の獸類と共に初め卵生の爬蟲類から起こつたものなることは、る羊膜の生ずる有樣からほゞ推察が出來るが、次に種々の獸類の胎盤の形狀を調べて見ると、人間は獸類中のいづれの仲間に屬するかが頗る明瞭にわかる。胎盤とは親の體から子の體へ滋養分を與へるための特殊の器官であるから、胎生をせぬ動物は素よりある筈はないが、胎生する動物でも胎内の子が親に養はれぬ場合には胎盤の必要はない。たゞ胎兒が長い間親から滋養分を得て大きく成長するやうな種類では、胎盤がよく發達しなければならぬ。

 

 獸類の胎兒は羊膜に包まれた上を更になほ一つの膜囊に包まれて居るが、この膜囊は母親の子宮の内面に密接して居るから、親の體から子の體へ、滋養分が移り行くには、是非ともこの膜を通過せねばならぬ。親から容易に滋養分を吸ひ取り得るために、この膜の外面からは、早くから無數の細い突起が生じ、親の子宮の粘膜に嵌り込むが、發生が稍々進むと、胎兒の身體から血管が延び出して、この細い突起の内までも達する。かくなると、子の血管は恰も樹木の根が地中で細かく分岐するやうに母の子宮粘膜の内に根を下して、そこから滋養分を吸收することが出來る。子の血管が母の子宮粘膜に根を下して居る處が、即ち胎盤であつて、その形狀は獸類の種族によつてさまざまに違ふ。また胎盤と胎兒の腹とを繫ぐ紐は所謂臍帶であるが、主として胎兒から胎盤まで血の往復する稍々太い動脈・靜脈が繩の如くに撚れて出來て居る。
 
 

Hitujinotaiban

[羊の胎盤]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難いので、こちらを採用した。]

 

 「カンガルー」の類は前にも述べた通り、極めて早く小さな子を産み出してしまふから、胎盤は全くない。子はたゞ暫く母の子宮内に場處を借り、その壁から滲み出る滋養液を少し吸ふだけに過ぎぬから、身體上からは親と子との關係は頗る簡單で、産まれることも至つて容易い。馬では胎兒を包む外囊の全表面から細い血管が澤山に出て、親の子宮粘膜に嵌り込んで居る。また牛・羊では同じく細い血管が出て居るが、恰も豹の皮の斑紋の如くに幾つもの塊となり、各の塊が總の如き形をなして子宮の粘膜内に埋れて居る。牛でも馬でも胎兒を包む囊の血管は、子宮の粘膜に差し込まれた體裁になつて居るが、兒が生まれるときには母の子宮の壁から子の血管だけが拔けて、兒の後から出で去るから、その際母親の身體は一部たりとも切れ失はれることはない。即ち今まで嵌つて居たものが、外れて離れ去るだけである。所が犬・猫・猿・人間などになると、胎兒を包む膜囊の表面から突出して居る無數の細い血管は、母の子宮の粘膜と固く結び附いて離れぬやうになり、子が生まれるときには、子の血管と親の子宮内面の粘膜の一部とは一塊となつて出てくる。これが即ち胎盤であるが、牛・馬のとは違うて、親の組織の一部が切れ離れて子を包む膜と共に出るから、そこの血管は當然破れて、出産の際には著しく出血する。犬・猫・「いたち」などの食肉獸では、胎盤は帽の廣い帶の形で胎兒の胴の處を緩く卷いて居るが、猿や人間では圓盤狀で、恰も蓮の葉を厚くした如くに見える。そして普通の猿類では蓮の葉を二枚ならべた如き形が常であるが、たゞ猩々〔オランウータン〕と手長猿の類と人間とだけは蓮の葉一枚の如くである。されば普通の猿と猩々と人間とを竝べ、胎盤の形に基づいて分類すれば、人間と猩々とを合せて一組とし、他の猿類と相對立せしめねばならぬが、このことは解剖上、發生上、竝に血淸反應の調査などの結果と實によく符合する。即ち、人間と猩々・手長猿などの如き高等の猿類との間の血緣の程度は、高等の猿と尾を有する普通の猿頬との間の血緣の程度に比して、更に一層近いことが明に知れる。

Tenagazarunotaijitotaiban

[手長猿の胎兒と胎盤]

[やぶちゃん注:本図も国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難いので、こちらを採用した。]

 

 胎盤の發達は胎生を益々完全ならしめるものであるが、親と子との結合が密接になるだけ、出産の際に相離れることが困難になるを免れぬ。たゞ子宮内に子を留めて措くだけならば出産は極めて容易であるが、その代りに子を長く十分に養ふことができず、胎盤が完全に發達すれば、子を長く養ふに當つて不足のない代りに、出産の際にはこれが母體から離れるための臨時の苦痛が生ずる。子を包む膜の表面から出て居る血管の突起が、簡單に子宮の粘膜に差し入つただけならば、恰も地から杭を拔く如くに、それだけを拔き取ることが出來るが、血管が細く分れて子宮粘膜内に根を下したやうになると、これを離すのは容易でない。恰も根の張つた樹を力まかせに引き拔けば、多量の土が取れて大きな穴が明く如くに、その取れた跡には大きな傷が殘る。分娩の際の出血は、この傷から出るのである。また完全な胎盤によつて子が十分に養はれ、大きくなればこれを狹い産道から産み出すときの苦しみは一通りではなくなる。されば胎生にも便と不便とが附いて廻り、一程度まで達した以上は最早その先へは進まれぬ。人間の如きも、現在よりもなほ一層の發達した頭の大きな赤子を産むことは到底望まれぬであらう。

Ringetunotaiji

[臨月の胎兒]

[やぶちゃん注:これは講談社学術文庫版の図である。]

 

 胎盤における親子の血管の關係を見るに、如何に密接しても直に連絡する處は決してない。即ち同一の血が、親の體と子の體とを循環する如きことは決してなく、たゞ子の血管が親の血管の多い組織内に根の如くに擴がつて居るだけである。子は血管を親の組織内に延し擴げて親から滋養分を吸ひ取るのであるから、この點からいふと、獸類の胎兒は一種の寄生蟲とも見做すべきもので、母親は種族維持の目的のために一身を犧牲に供し、大きな寄生蟲の宿主となつて居る次第である。卵巣内にある卵細胞は慥に母の身體の一部であるが、已に卵巣を離れ受精した後は、最早新たな一個體であつて、たゞ母の體内に場處を借りているに過ぎず、更に血管を延して母の身體から滋養を吸ひ取るやうになれば、純然たる寄生生活に移つたわけで、産まれ出るまでは一種の内部寄生蟲である。また産まれてからは、宿主の皮膚の一部に吸ひ著いて滋養分を取るから、一種の外部寄生蟲となり、乳を飮まなくなつてからは蟻の巣の内に寄生して居る甲蟲などと同樣な巣内寄生蟲となる。親が毒を食へば胎兒もその毒を蒙り、親が病に罹れば胎兒にもその病が傳はりなどして、その間の關係は頗る密接ではあるが、胎兒は決して母の身體の一部を成すものではないから、姙娠中に母に起つた變化がその通りに子にも現れるといふことはない。日の出の夢を見て孕んだら英雄豪傑が生まれたとか、姙娠中に火事を見て驚いたら、生まれた子の額に火の形の赤い痣があつたとかいふ話は屢々聞かされるが、これは恐らく造り話か思ひ違ひかであらう。素より肉體と精神との間には密接の關係があるから、母が姙娠中に心配をしたために虛弱な兒が生まれたといふ如きことならば、あり得べきやうに思はれるが、姙娠中に論語の講釋を聽いたら聖人が生まれ、ジゴマの活動寫眞を見たら泥棒が生まれるといふ如きことはまづなからう。母親が姙娠中に鮮郵に攝生に意を用ゐることは、種族維持の上に最も大切なことであるから大に努めなければならぬが、胎教にいふ如き胎兒の品性の陶冶が姙婦の心掛けによつて出來るや否やは頗る疑はしいといはざるを得ない。

[やぶちゃん注:「ジゴマ」怪盗ジゴマ。これ本書の初版(大正五(一九一六)年東京開成館刊)の出る五、六年前に本邦で爆発的人気を誇った悪漢映画の主人公の名である。以下、ウィキの「ジゴマ」から引く。「ジゴマ」(Zigomar)は、元はフランスの作家レオン・サジイ(Léon Sazie 一八六二年~一九三九年)の書いたピカレスク・ロマン、怪盗小説シリーズで、ここでのそれは、それを原作とした映画の方の主人公で、明治末から大正初期の『日本で爆発的なブームとなり、多くの独自の映画・小説も作られ、子供への影響から映画の上映禁止にまで及んだ』。一九〇九年に『ル・マタン』紙に新聞連載小説(ロマン・フィユトン Roman- feuilleton)として掲載、連載後に単行本化されて全二十八冊が刊行された。『パリを舞台に変装の怪人ジゴマが、殺人、強盗などの犯罪を繰り返す』もので、早くも二年後の一九一一年には『映画化され、また同年に日本でも公開された。小説の邦訳は』後の、昭和一二(一九三七)年の久生十蘭訳『新青年』四月号別冊付録(『長篇探偵小説』と銘打って掲載された)が嚆矢らしいが、これは翻訳と言うものの、『ストーリーが原作とは変えられている部分も多い』とある。映画化は一九一一年エクレール社製作、ヴィクトラン・ジャッセ監督・脚色の「ジゴマ」(Zigomar)であったが、ストーリーは原作と大きく異なる。続編として同監督で翌年に「ジゴマ/後編」(Zigomar contre Nick Carter)が、翌々年に「ジゴマ/探偵の勝利」(Zigomar, peau d'anguille)が製作されている。『豊富なアクションシーンで、後に作られた「ファントマ」とともに、アメリカで流行する連続活劇の原形と言われる。また撮影トリックによる瞬間的な変装シーンなども先駆的な表現だった』。本邦では、映画「ジゴマ」が「探偵奇譚ジゴマ」の邦題で明治四四(一九一一)年十一月に福宝堂が買い付け、『浅草の金龍館で封切られ(弁士加藤貞利)、封切り当初から大評判となる。劇場には観衆が殺到し、客を舞台に上げるほどだった。これは日本における洋画の最初のヒットともなった』。気をよくした福宝堂は続いて「シリーズ第二弾」と称して、何と『女賊の活躍するまったくの別作品を『女ジゴマ』の題で』同年十二月から『公開、これも大ヒットとな』って、翌年(明治末年)三月まで上映された。第三弾は正規の『ジゴマ後編』(公開時は『ジゴマ続編』)を同五月より公開、「ジゴマ」「女ジゴマ」も再映し、続いて「第四弾」と謳って同六月(翌月大正に改元)にはまたしても類似の凶賊と探偵の対決物である「悪魔バトラ」を、第五弾として十月(既に大正元年)には女賊ソニヤの活躍する「ソニヤ」を公開した。以下、「和製ジゴマ登場」の項。『福宝堂のヒットに続こうと他の興行会社はジゴマ映画を日本』での製作にいち早く乗り出し、大正元年(一九一二)年八月には『吉澤商店製作の『日本ジゴマ』が公開、これは千人の手下を持ち日本ジゴマと呼ばれる怪賊荒島大五郎と探偵の追走・対決劇で、房総半島での当時としては珍しい大掛かりな実地ロケを行い、また外国映画の手法も取り入れたものだった。さらに続編として『ジゴマ改心録』、『大悪魔』を』九月に公開、エム・パテー商会も「新ジゴマ大探偵」なる作品をを同月に公開、『いずれも連日大入りの大ヒットとなった』。『東京でのヒットに続き、福宝堂の全国の上映館でもジゴマを公開。また弁士駒田好洋の巡業隊がジゴマのフィルムを番組に加えて』、同時に『地方巡業を行い、「頗る非常大博士」の名で知れ渡っていた駒田の人気も相まって、これも大入り満員続きとなった』。『映画のヒットに続き』、同年中に『映画の翻案や、独自ストーリーによる、舞台がフランスのもの、日本のものなど様々なジゴマの小説化も相次』ぎ(リンク先に類書二十三冊のリストが載る)、『これらは映画の人気に加え』、七月の『明治天皇崩御による演劇興行自粛による読書ブームの影響もあって多くの版を重ね、また他にも探偵ものバトラ、ソニヤ、大悪魔などのシリーズも刊行された。読者は主に小中学生で、書店、図書館、貸本屋を通じて読まれた』とある。ところが、こうした『ジゴマブームの中、少年層に犯罪を誘発するという説や、ジゴマの影響を受けたという犯罪の報道、泥棒を真似たジゴマごっこの流行などがあり、東京朝日新聞では』同大正元年十月上旬、『ブームの分析や影響』が八回連載で『取り上げられた。こういった世論の高まりの中』、同十月九日には、『警視庁により、犯罪を誘致助成する、公安風俗を害するとして、ジゴマ映画及び類似映画の上映禁止処分がなされた。これは内務省警保局も決定に関わっており、続いて各府県に対しても警保局から同様の通牒が送られ、上映禁止は次第に全国に広まっていった。この件を機に、それまで各警察署が行っていた映画等の興行の検閲が、制度的に整えられていくこととなった』。『しかしジゴマブームによって』、大正元(一九一二)年の映画を含めた東京市内の観物場入場者数は前年の三倍の千二百万人に達し(そのうち映画は八百五十一万人)、『活動写真界の大きな成長をもたらした。また探偵小説についても禁止処分を訴える論調が新聞などに出たが、これには処分は下されなかった』。『その後は、ジゴマの名を隠したジゴマ映画が散発的に上映されることはあったが、ブームは下火になり』、大正二(一九一三)年には『ジゴマ探偵小説の出版も無くなる。類似書としては、ジゴマの残党が登場する』、押川春浪「恐怖塔」(大正三(一九一四)年刊)や同年刊の江見水蔭「三怪人」などがあった。『また当時出版された探偵小説は、貸本屋、古本屋などを通じて読まれ続けた。』一方、この上映禁止は大正一三(一九二四)年になってやっと『解禁となったと、吉山旭光『日本映画史年表』には記載されている』とある。更に、『ジゴマは当時「ジゴマ式」「ジゴマル」(横暴、出没自在の意)などの新語も生み出し』た。大正四(一九一五)年には『「ヂゴマ団」を称する犯罪事件なども起きた』。なお、その後では、一九八八年の『映画『怪盗ジゴマ 音楽篇』(寺山修司脚本)や、同年の怪盗ジゴマの登場するテレビドラマ『じゃあまん探偵団 魔隣組』(石ノ森章太郎原作)などがある。江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズにも、ジゴマの影響があると言われている』とある。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (六)

 

        

 

 極めて珍異な小さな物が、今徐々と河に浮んで下つてくる。讀者が恐らくは想像がつきまいと思ふ。

 佛と仁慈の神が貧民階級の日本人に拜せられる唯一の神ではない。惡の神、少くともその幾つかに向つて、或る場合には程よく和解を求める。して、その神が救ひ救ひ難き災害を加へないで、唯一時的の不幸を施すに止め給ふときには、御禮の献納品をする。(要するに、これは西印度諸島で、大暴風のため二萬二千人の生命が滅ぼされた後、颱風季の終りになつて感謝祭を營むのと同じい道理だ)だから、疫病の神、風邪の神、痘瘡の神、その他種種の惡神に祈禱を捧げることがある。

 さて、ある人が痘瘡から囘復の見込充分になつた場合、痘瘡の神に御馳走を捧げる。また狐に憑かれた場合、狐が立退くと誓つたならば、お狐樣に御馳走を捧げる。三度藁、卽ち米俵の一端を塞ぐため用ひる藁の小さな席の上に、土器を載せる。土器には稻荷樣と痘瘡の神が、非常に好いてゐると云はれる赤豆飯を盛る。御幣をつけた小さな竹條を、藁席か、赤豆飯の中に插しておく。して、御幣の色は赤でなくてはならぬ。(他の神々の御幣はいつも白いことを注意せねばならぬ)それから、この献品を樹木に懸けたり、または囘復した人の家から、可なり隔てた川へ流す。これを神流しといふ。

    註。 『災をなす神に對しては、その
    怒を和らげることを求めて、神怒に觸
    れた者が、罰を受けぬやうにすべきで
    ある』これは神道の大家平田篤胤の語
    である。『純粹なる神道の復興』と題
    するサトウ氏の論文に見えた。

[やぶちゃん注:「想像がつきまいと思ふ」はママ。

「痘瘡の神」「痘瘡」は疱瘡、天然痘のこと。明治になって一回目の大流行は明治一八(一八八五)年から翌々年の二〇年で死者三万二千人、第二回目の大流行はこのハーン来日から二年後の明治二五(一八九二)年から翌々年の明治二七で死者二万四千人であった。因みにこの後も大正期や戦後の引き上げの際に大流行を起しており、本邦の天然痘患者はやっと昭和三〇(一九五五)年の天然痘患者一人を最後にゼロとなり、WHOによる「世界天然痘根絶」宣言が行われたのは一九八〇年のことであった。以上はエドワード・ジェンナーの牛痘種痘法成功よりも六年も前に既に種痘による予防接種を行っていた種痘の真の創始者(彼のそれは牛痘ではなく天然痘患者から採取した膿(痘痂)を使った人痘法であった)である秋月藩医緒方春朔の顕彰サイトの「天然痘関係歴史略年表」に拠った。「痘瘡の神」はウィキ疱瘡神(ほうそうがみ/ほうそうしん)によれば(注記号を省略した。下線はやぶちゃん)、『疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種で』、『疱瘡神は犬や赤色を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として張子の犬人形を飾ったり、赤い御幣や赤一色で描いた鍾馗の絵をお守りにしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。疱瘡を患った患者の周りには赤い品物を置き、未患の子供には赤い玩具、下着、置物を与えて疱瘡除けのまじないとする風習もあった。赤い物として、鯛に車を付けた「鯛車」という玩具や、猩々の人形も疱瘡神よけとして用いられた。疱瘡神除けに赤い物を用いるのは、疱瘡のときの赤い発疹は予後が良いということや、健康のシンボルである赤が病魔を払うという俗信に由来するほか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあると考えられている。江戸時代には赤色だけで描いた「赤絵」と呼ばれるお守りもあり、絵柄には源為朝、鍾馗、金太郎、獅子舞、達磨など、子供の成育にかかわるものが多く描かれた。為朝が描かれたのは、かつて八丈島に配流された為朝が疱瘡神を抑えたことで島に疱瘡が流行しなかったという伝説にも由来する。「もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり」といった和歌もが赤絵に書かれることもあったが、これは前述のように疱瘡神が犬を苦手とするという伝承に由来する』。『江戸時代の読本『椿説弓張月』においては、源為朝が八丈島から痘鬼(疱瘡神)を追い払った際、「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」という証書に痘鬼の手形を押させたという話があるため、この手形の貼り紙も疱瘡除けとして家の門口に貼られた。浮世絵師・月岡芳年による『新形三十六怪撰』に「為朝の武威痘鬼神を退く図」と題し、為朝が疱瘡神を追い払っている画があるが、これは疱瘡を患った子を持つ親たちの、強い為朝に疱瘡神を倒してほしいという願望を表現したものと見られている』(引用先に画像有り)。『貼り紙の事例としては「子供不在」と書かれた紙の例もあるが、これは子供が疱瘡を患いやすかったことから「ここには子供はいないので他の家へ行ってくれ」と疱瘡神へアピールしていたものとされる』。『疱瘡は伝染病であり、発病すれば個人のみならず周囲にも蔓延する恐れがあるため、単に物を飾るだけでなく、土地の人々が総出で疱瘡神を鎮めて外へ送り出す「疱瘡神送り」と呼ばれる行事も、各地で盛んに行われた。鐘や太鼓や笛を奏でながら村中を練り歩く「疱瘡囃子」「疱瘡踊り」を行う土地も多かった』。『また、地方によっては疱瘡神を悪神と見なさず、疱瘡のことを人間の悪い要素を体外に追い出す通過儀礼とし、疱瘡神はそれを助ける神とする信仰もあった。この例として新潟県中頚城郡では、子供が疱瘡にかかると藁や笹でサンバイシというものを作り』、発病の一週間後に『それを子供の頭に乗せ、母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えながらお湯をかける「ハライ」という風習があった』。『医学の発達していない時代においては、人々は病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることで、病状が軽く済むように祈ることも多く、疱瘡神に対しても同様の信仰があった。疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とすることが多かった。疫病神は異境から入り込むと考えられたため、これらの塔は村の入口、神社の境内などに祀られた。これらは前述のような疱瘡神送りを行う場所ともなった』(民俗社会に於いては「川」は異界・冥界との境・通路であったことに注意されたい)。『昔の沖縄では痘瘡のことをチュラガサ(清ら瘡)といい、痘瘡神のご機嫌をとることに専念した。病人には赤い着物を着せ、男たちは夜中、歌・三線を奏で痘瘡神をほめたたえ、その怒りをやわらげようと夜伽をした。地域によっては蘭の花を飾ったり、加羅を焚いたり、獅子舞をくりだした。また、琉歌の分類の中に疱瘡歌があり、これは疱瘡神を賛美し、祈願することで天然痘が軽くすむこと、治癒を歌った歌である。形式的には琉歌形式であるが、その発想は呪術的心性といえよう』。『幕末期に種痘が実施された際には、外来による新たな予防医療を人々に認知させるため、「牛痘児」と呼ばれる子供が牛の背に乗って疱瘡神を退治する様が引札に描かれ、牛痘による種痘の効果のアピールが行われた。種痘による疱瘡の予防が一般化した後も、地方によっては民間伝承における疱瘡神除けの習俗が継承されていた。例として兵庫県多紀郡篠山町(現・篠山市)では、予防接種から』一週間ほど後、『御幣を立てた桟俵に笹の葉、赤飯、水引などを備え、道端に送る風習があった大阪府豊能郡能勢町でも「湯がけ」といって、同様に種痘から』十二日目に『紐を通した桟俵に赤い紙と赤飯を備えて疱瘡神を送った。千葉県印旛郡では疱瘡流行時、子女が万灯を肩に鼓を打ちながら村を囃して歩くことが』明治一〇(一八七七)年頃まで『続けられていた。接種の際に赤い御幣、赤飯、食紅の印を付けた饅頭などが供えられることも多かった』。二十一世紀に『入っても、赤い御幣などの疱瘡神を家庭で祀っている例があり、疱瘡神の加護によって疱瘡を患うことのなかったことの感謝の念が今なお残っているものと見られている。前述の疱瘡囃子や疱瘡踊りが伝統行事として行われている土地も多く、茨城県では土浦市田宮地区の疱瘡囃子が、鹿児島県では薩摩郡入来町(現・薩摩川内市)や大浦町(現・南さつま市)などで行われていた疱瘡踊りが、それぞれ県の無形民俗文化財に指定されている』とある。私はここにあるように、疱瘡神は赤を嫌うと認識していたが、ハーンは赤を好むと述べている。ここでは生血のシンボルとする興味深い説も示されているが、やや疑問な気がする。私は寧ろ、ここでハーンが稲荷神と疱瘡神を一緒に述べていることからみて、「赤」飯を好む「赤い」鳥居のお稲荷様と習合した結果ではないかと想像するのであるが、如何? 大方の御批判を俟つものではある。

「註。『災をなす神に對しては、その怒を和らげることを求めて、神怒に觸れた者が、罰を受けぬやうにすべきである』これは神道の大家平田篤胤の語である。『純粹なる神道の復興』と題するサトウ氏の論文に見えた。」平井呈一氏はこの注を以下のように訳しておられる。

   《引用開始》

「禍津日神(まがびかみ)は和め奉りて、蔑如(ないがしろ)にし奉れるものの神罰を逃(のが)れしむべし。」これは神道の大家、平田篤胤のことばである。サトー氏の論文「神道の復活」による。

   《引用終了》

平田篤胤の、どの著作中の言葉かは、私には不明であるが、彼は本居宣長との論争の中で、災厄の神とされる禍津日神(まがつひのかみ)は実は善神であるとしているとウィキ禍津日神にあり、『篤胤によると、禍津日神は須佐之男命の荒魂であると』し、『全ての人間は、その心に禍津日神の分霊と直毘神(篤胤は天照大神の和魂としている)の分霊を授かっているのだと』主張、『人間が悪やケガレに直面したとき、それらに対して怒り、憎しみ、荒々しく反応するのは、自らの心の中に禍津日神の分霊の働きによるものだとした』。『つまり、悪を悪だと判断する人の心の働きを司る神だというのであ』り、『またその怒りは直毘神』(なおびのかみ/なほびのかみ:穢れを払って禍(まが)を直す神)『の分霊の働きにより、やがて鎮められるとした』とある。私は個人的には平田の説に大いに賛成である。「『純粹なる神道の復興』と題するサトウ氏の論文」「サトウ氏」はイギリスの外交官でイギリスに於ける日本学の基礎を築いたサー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow)で既注。「純粹なる神道の復興」は、祝詞(のりと)の英訳を含む、彼の日本滞在中(三度目の明治一〇(一八七七)年一月から明治十三年まで。駐日特命全権公使としての来日は、その後の明治二八(一八九五)年のことであった)の著作である‘ Ancient Japanese rituals and the revival of pure Shinto  1878–1881)と思われる。] 

 

 

Sec. 6

   A very curious little object now comes slowly floating down the river, and I do not think that you could possibly guess what it is.

   The Hotoke, or Buddhas, and the beneficent Kami are not the only divinities worshipped by the Japanese of the poorer classes. The deities of evil, or at least some of them, are duly propitiated upon certain occasions, and requited by offerings whenever they graciously vouchsafe to inflict a temporary ill instead of an irremediable misfortune. [4] (After all, this is no more irrational than the thanksgiving prayer at the close of the hurricane season in the West Indies, after the destruction by storm of twenty-two thousand lives.) So men sometimes pray to Ekibiogami, the God of Pestilence, and to Kaze-no-Kami, the God of Wind and of Bad Colds, and to Hoso-no-Kami, the God of Smallpox, and to divers evil genii.

   Now when a person is certainly going to get well of smallpox a feast is given to the Hoso-no-Kami, much as a feast is given to the Fox-God when a possessing fox has promised to allow himself to be cast out. Upon a sando-wara, or small straw mat, such as is used to close the end of a rice-bale, one or more kawarake, or small earthenware vessels, are placed. These are filled with a preparation of rice and red beans, called adzukimeshi, whereof both Inari-Sama and Hoso-no-Kami are supposed to be very fond. Little bamboo wands with gohei (paper cuttings) fastened to them are then planted either in the mat or in the adzukimeshi, and the colour of these gohei must be red. (Be it observed that the gohei of other Kami are always white.) This offering is then either suspended to a tree, or set afloat in some running stream at a considerable distance from the home of the convalescent. This is called 'seeing the God off.'

 

4
   'The gods who do harm are to be appeased, so that they may not punish those who have offended them.' Such are the words of the great Shinto teacher, Hirata, as translated by Mr. Satow in his article, ~ The Revival of Pure Shintau.

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 壽福寺

    ●壽福寺

龜谷山金剛壽福禪寺と號す。五山の三にして開山榮西なり。抑當寺はもと左馬頭義朝の第跡なり。義朝死後岡崎四郞義實報恩の爲め此地に梵宇を創建す。養和元年三月一日。賴朝母儀の忌日たるにより。此堂に於て佛事を修せらる。正治二年閏二月十二日、夫人政子の願(ねがひ)として伽藍を建立せらる。此堂地を民部丞行光大夫房善信點檢せしむ。十三日。其地を葉上房律師榮西に寄せて淸淨結果の地となし。伽藍建立の事始あり。善信行光等奉行す。建保元年五月三日。和田の亂に。土屋大學助義淸討死す。郞從義淸か首級を當寺に埋葬す〔今其墳墓遺蹤なし〕三年六月五日。榮西當寺にて寂す。當寺は寳治元年十一月七日。正嘉二年正月十七日。應永二年十二月廿日の三度の火災に罹り。古書古器物等悉く烏有となり。寺寳什物等は今多く傳はらすといふ。

佛殿 本尊釋迦文殊普賢の像を安す。釋迦は陳和卿の作なり。祖師堂に達磨臨濟百丈開山像等を置き。土地堂に伽藍神幷前住の牌將軍家の尊牌あり。

鐘樓 開山榮西の時。宋朝よらり渡せる名鐘にてイホナシ鐘(かね)と稱せり。天正十八年の小田原陣に奪(うばつ)て鐡砲の玉に鑄たりと云ふ。今は慶安四年新鑄の鐘にて建長寺の仁叟碩寛の銘あるを掛く。

禪堂 地藏〔立像長六尺許運慶作〕鎌倉二十四所の一なり

總門 龜谷山の額を描く。黃檗僧卽非の書なり。

山門 持氏の筆にて扶桑興禪閣の額を掲く。

畫窟 佛殿の後背山麓にあり。土俗ヱカキヤクヲともカラクサヤクラとも云ふ。岩窟を一丈四方程に掘。内に牡丹唐草を胡粉にて厚く置上(おきあげ)て彩色したり。窟中に石塔二基あり。一は實朝の塔と傳へ。一は二位禪尼(ゐのぜんに)の塔と云ふ。東鑑に據るに實朝事ありし後。勝長壽院の側に葬ると見ゆ。さては當寺開山榮西二祖行勇みな實朝歸依の僧なれは。此には冥福の名に建しものにて遺骸を收めしにはあらさるべし。

歸雲洞 本堂の西南にあり。

石切山 本堂の南にあり。山中は石切塲なり。

觀音堂跡 石切山(いしきりやま)の東の方半腹にあり。

望夫石 石切山の上にあり畠山六郞重保由比の濱にて戰死す。其婦此山に登り。望み見て戀死(れんし)し。終に石に化せりと云ふ。こは海邊直立の石に因て松浦潟(まつらがた)の望夫石を附會せしものなるべし。

[やぶちゃん注:「養和元年」西暦一一八一年。

「賴朝母」源義朝正室で源頼朝の実母由良御前(ゆらごぜん ?~保元四年三月一日(一一五九年三月二十二日))。熱田大宮司藤原季範(寛治四(一〇九〇)年~久寿二(一一五五)年)を父として尾張国に生まれたとされる。

「民部丞行光」二階堂行光。

「大夫房善信」「吾妻鏡」によるが、「房」は「屬」の誤り。大夫属(たいふさかん)入道三善善信。

「建保元年」一二一三年。

「寳治元年」一二四七年。

「正嘉二年」一二五八年。この後、応仁元(一三六七)年にも火災に遭っている(「鎌倉市史 社寺編」の寿福寺に拠る)。

「應永二年」一三九五年。

「イホナシ鐘」「疣なし鐘」。梵鐘の上部を「乳の間」(ちのま)、下部を「池の間」と称するが、この「乳の間」には「乳」(鐘乳(しょうにゅう))と称する突起状の装飾を並べるのが一般的であるが、これがない、ということらしい。

「天正十八年」一五九〇年。

「小田原陣に奪て鐡砲の玉に鑄たり」四月五日の豊臣秀吉の小田原征伐の直前に後北条氏が奪ったとされる。

「慶安四年」一六五一年。

「仁叟碩寛の銘」私の「新編鎌倉志卷之四」の「壽福寺」の「鐘樓」に銘の全文と私の書き下しがあるので参照されたい。「仁叟碩寛」は詳細不詳。浄智寺の鐘の銘(慶安二年)も彼が撰している。識者の御教授を乞う。

「六尺」一・八一八メートル。この地蔵像は現在では伝運慶作であるが、優れた一木造で重要文化財に指定されている。

「鎌倉二十四所」鎌倉地蔵尊二十四所札所霊場。岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「鎌倉地蔵尊巡礼」に総てが載るので参照されたい。

「即非」江戸前期に明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧即非如一(そくひにょいつ 一六一六年~寛文一一(一六七一)年)。福建省福州府福清県出身。俗姓は林氏。即非は字(あざな)。参照したウィキ「即非如一」によれば、明暦三(一六五七)年に『隠元に招かれて来日し、長崎崇福寺に住して伽藍を整備し、その中興開山となった』。寛文三(一六六三)年には『山城国宇治の萬福寺に移り、法兄の木庵性瑫とともに萬福寺首座となった。最初の黄檗三壇戒では教授阿闍黎の任を務めた。翌』寛文四年に帰国しようとしたが、『豊前国小倉藩主小笠原忠真らに招かれ』、寛文五年、『福聚寺を創建してその開山となった。その後、崇福寺に隠居してそこで没した』とある。『能書家とし知られ、隠元隆琦、木庵性瑫とともに黄檗の三筆と称される。詩を善くし、禅味のある観音・羅漢・蘭竹を画いたが、これは日本の文人画のさきがけとされる』ともある。

「畫窟 佛殿の後背山麓にあり。土俗ヱカキヤクヲともカラクサヤクラとも云ふ」「鎌倉攬勝考卷之四」には以下の如く載り(「えがきやぐら」はママ)、

   *

洞窟 二所。開山塔の後の方なる山麓の南寄にあり。一ケ所は土人例の方言に、畫窟(えがきやぐら)といふ。窟内を丈四方許に穿ちて、唐草摸樣を彩色にしたり。石塔有りて、其奧に石函あり。これを右府實朝將軍の御廟なりといひ、相並べて一ケ所は.二位禪尼の御廟なりといふ。又【東鑑】に、二君ともに勝長壽院に葬り奉れる事あり。されば當寺も、兩君御歸依なるゆへ、御分骨を葬りしことにやあらん。

    *

(但し、「石函」の「函」は植字ミスで判読が不能で推定で補ったものである)さらに以下のように、やぐらの絵とキャプションが載る。

Sanetomohaka

右に、「右府實朝㰏庿塔」(庿」は「廟」の異体字)、左に、

   *

繪かきやぐら又ハから草屋ぐらと唱ふ窟中石凾の上の方に

角なる横に長き孔あり此内へ何を納置たるものにや石を

もて塡たるゆへ内の子細わ住僧もむかしより是を知

れる者なき由又此窟に相並びて南旁にも岩屋あり

是を二位禪尼政子御庿なりといふ窟中に何もなくまた

此窟より狹く造りしさまも疎なり 二位尼の庿といふをば

用ひがたし 仍て考ふる事もあれば古墳の條に其事

をしるせり

   *

とある(判読の誤りがあれば御教授をお願いしたい。そのために解説部の汚損は一切除去していない。)。なお、これは分骨ではなく、孰れも南北朝期の寿福寺復興期に造立された供養塔であって、納骨はされていないと考えられる。

「一丈」約三メートル。

「二位禪尼」北条政子。

「歸雲洞」「石切山」(=「石切塲」)は新編鎌倉四」に載る以下の境内図で位置が判る。

Jyuhu

「觀音堂跡」新編鎌倉四」に以下のように載る。

   *

觀音堂の跡 石切山の東の方半腹にあり。今は堂なし。【元亨釋書】に、宋の佛源禪師、禪興寺に住する時、夢に觀音大士告げて曰く、逢強則止れと(強(あなが)ちに逢ふ時は則ち止(とど)まれ)。後十年にして、建長寺より龜谷山に移る。額を見れば金剛の字あり。始めて聖讖(せいしん)を明(あき)らむ。則ち西南の一巖を鑿(うが)つて壽塔を剏(はじ)め、補陀(ふだ)の像を刻(きざ)んで指方に酬(むく)ふとあるは、此觀音堂ならん。

   *

引用文中の「大士」は菩薩と同義。「讖」は予言。「補陀」は補陀大士(補陀落山に住む菩薩)で、観世音菩薩の異称である。

「望夫石」は新編鎌倉四」に以下のように載る。

   *

望夫石(もうふせき) 石切山の上にあり。畠山(はたけやま)の六郎重保(しげやす)、由比の濱にて戰死す。其婦此山に登り、望(のぞ)み見て戀死にす。終に石(いし)と化すと云ひ傳ふ。重保戰死の事、後の重保が石塔の下に記す。按ずるに、望夫石と云ふもの、異國にも又本朝にも、西國邊の海岸に往々にあり。程伊川(ていいせん)の云く、望夫石は、只だ是れ、江山を望んで、石人の形(かたち)の如くなるものあり。今、天下凡そ江邊に石の立てる者あれば、皆呼(よ)むで望夫石とす。爰にあるものも此類なり。

   *

現在、寿福寺の西南の奥の山は「観音山」と呼称している。伝承ではここに観音が祀られていたとも言われるのだが、私はこれはこの望夫石を観音に見立てたものではあるまいかと考えている。かつてはこの山頂に直径五メートル程の岩が由比ガ浜方向に突き出ていたが地震で崩れたと伝えられているからである。現在は現認不能である。引用文中の「程伊川」は北宋の儒学者程頤(ていい 一〇三三年~一一〇七年)のこと。伊川先生と称された。朱子学や陽明学を生み出した遡源の一人。この鋭い観察に基づく見解は美事である。]

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (五)

 

        

 

 手を拍つ音が歇んで、一日の仕事が始まり出だす。からからと下駄の音が、漸次高く響いてくる。大橋の上で下駄の鳴る音は、何うしても忘れられない――速くて、陽氣で音樂的で、盛んな舞踏のやうだ。實際また舞踏だ。みんなが爪先で歩んで行く。朝日の射した橋上を通る數へきれぬ人の足が、ちらちらするのは驚くべき光景だ。その足は皆細くて、恰好が均齊を得て、希臘の古甕に描いた人物の足のやうに輕やかで、して、足を運ぶとき、指を先きに下ろす。實際下駄では外に仕樣がない――それは腫は下駄にも着かねば、地にも着かないし、足は楔形の木の臺を前に傾けては進むのだから。單に一足の下駄の上に立つだけでも、慣れぬ者に取つては困難であるのに、日本の子供は三寸もある臺の下駄を履いて、拇指と他の四本の指の間に挾んだる前緖だけで足に固定させて、全速力を出して馳せて行く。しかも躓きもしないし、下駄もまた外づれない。更に珍らしいのは、大人が木履で步行く光景である。これは木のに高さ五寸もある齒が附いて、全體の構造は木製長椅子の漆塗りの標本かと思はれるほどだ。それでも、そのものを履いた人は、全く何も足に着けてゐないかのやうに、樂々と濶步する。

 やがて學校へ急ぐ子供達が出でてくる。彼等の駈るとき、綺麗な飛白の着物の澗い袖が波動すると、大きな蝶が羽搏をするやうに見える。親船は白色や黃色の大きな翼を擴げるし、埠頭の側で夜中睡つてゐた小蒸汽船は煙筒から煙を吐き始める。

 對岸の埠頭に繫げる湖水通ひの小蒸汽船が、今しもその汽笛を開いて、最も異樣な、耳を劈くやうに猛烈な叫聲を發した。その聲を聞くと、誰も笑ふ。他の小蒸汽船は、皆たゞ悲しげな吼音を發するのみである。この船に限つて――反對派の會社の新造船で、近頃進水したもの――最も激しい敵意と挑戰を表した音を立てる。善良なる松江の人々は、始めてその音を聞いたとき、狼丸といふ適當な新名を附して、それを言ひ觸らした。

[やぶちゃん注:「歇んで」ここは状況から「やんで」と読んでいよう。

「三寸」九・〇九センチメートル。

「木履」これは下駄の意もあるが、ハーンは前に出した下駄と区別して出しており、実は原文はbokkuri or takagetaとなっているから、所謂、足駄(あしだ)である。雨の日などに履く高い歯の下駄で、歯は差し歯になっていて磨り減ると差し替える高下駄(たかげた)のことである。男物は歯が厚く、女物は薄い。雨、雪の日は爪革 (つまかわ) を掛ける。かつては旧制の高校生が好んで履き、「守貞漫稿」によると近世の上方には「足駄」の語がなく「高下駄」を使ったというと「大辞泉」にはある。それとは別に、この「木履」現行では「ぽくり」「ぽっくり」と読むと、女児用の駒下駄 (こまげた) の一つで、厚い台の底を刳り抜き、後ろを丸くして前部を前のめりにして漆を塗ったものをも限定的に指すが、ここでハーンはこれを総て「大人」が使用するとしているから、ここはこれではない。但し、読みは原文音写にある通り、「ぼくり」或いは「ぼっくり」と読みたい(平井氏は『木履(ぽくり』とルビするが従わない)。

「五寸」十五・一五センチメートル。

「飛白」老婆心乍ら、「かすり」と読む。

「親船は白色や黃色の大きな翼を擴げるし、埠頭の側で夜中睡つてゐた小蒸汽船は煙筒から煙を吐き始める」平井氏は『川では、そろそろ船が大きな白帆を上げはじめる。船着き場では、ひと晩眠っていた小蒸気船が煙突からけむりを吐きはじめる』とあって、平井氏の方が達意の訳と言える。大川の小さな渡し場専用の渡船と(後に、その中の大型の例外の宍道湖通いの――これは観光船も兼ねたものであろう――蒸気船をハーンは如何にもにがにがし気に語るのであるが、それはまず語らずに)、宍道湖に出漁せんとするそれらよりも相対的に大きな漁船(原文は“The junks”で実際に大型なのではなく、小蒸気に比べると大きいのである)を「親船」と称して(というより落合氏は訳して)対比しているのである。

「劈く」老婆心乍ら、「つんざく」と読む。「擘く」とも書く。

「他の小蒸汽船は、皆たゞ悲しげな吼音を發するのみである」「吼音」は音読みで「こうおん」と読むしかないが(「吠え声」の意)、例によって如何にも佶屈聱牙である。原文は“plaintive mooings”で「哀しげな鳴き声」であるが、平井氏はここを『ほかの小蒸汽船は、どれもみな、ただ悲しそうな汽笛を鳴らすだけなのに』と実に平易に訳しておられる。「吼音」という訳語は寧ろ、この場違いな近代資本主義の金儲けの権化を象徴する大型蒸気船の「最も異樣な、耳を劈くやうに猛烈な叫聲」たる耳を塞ぎたくなる汽笛の音にこそ、相応しいとは言えまいか? 平井氏はこの章の最後を『おとなしい松江の人たちは、この叫び声を聞いたときに、「オオカミ丸」という、いかにもその船に打ってつけの仇名をつけて、いいはやしたものだ』という美事な訳で締めくくっておられる。私はこれこそハーンの感性が松江の人々とシンクロしていることがよく感じられる名訳と思うのである。] 

 

Sec. 5

   The clapping of hands has ceased; the toil of the day begins; continually louder and louder the pattering of geta over the bridge. It is a sound never to be forgotten, this pattering of geta over the Ohashi -rapid, merry, musical, like the sound of an enormous dance; and a dance it veritably is. The whole population is moving on tiptoe, and the multitudinous twinkling of feet over the verge of the sunlit roadway is an astonishment. All those feet are small, symmetrical—light as the feet of figures painted on Greek vases—and the step is always taken toes first; indeed, with geta it could be taken no other way, for the heel touches neither the geta nor the ground, and the foot is tilted forward by the wedge-shaped wooden sole. Merely to stand upon a pair of geta is difficult for one unaccustomed to their use, yet you see Japanese children running at full speed in geta with soles at least three inches high, held to the foot only by a forestrap fastened between the great toe and the other toes, and they never trip and the geta never falls off. Still more curious is the spectacle of men walking in bokkuri or takageta, a wooden sole with wooden supports at least five inches high fitted underneath it so as to make the whole structure seem the lacquered model of a wooden bench. But the wearers stride as freely as if they had nothing upon their feet.

   Now children begin to appear, hurrying to school. The undulation of the wide sleeves of their pretty speckled robes, as they run, looks precisely like a fluttering of extraordinary butterflies. The junks spread their great white or yellow wings, and the funnels of the little steamers which have been slumbering all night by the wharves begin to smoke.

   One of the tiny lake steamers lying at the opposite wharf has just opened its steam-throat to utter the most unimaginable, piercing, desperate, furious howl. When that cry is heard everybody laughs. The other little steamboats utter only plaintive mooings, but unto this particular vessel—newly built and launched by a rival company—there has been given a voice expressive to the most amazing degree of reckless hostility and savage defiance. The good people of Matsue, upon hearing its voice for the first time, gave it forthwith a new and just name— Okami-Maru. 'Maru' signifies a steamship. 'Okami' signifies a wolf.

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (四)

 

       

 

 『ほー、け、けう!』

 私の鶯がいよいよ眼を醒まして朝の祈を唱へた。讀者は鶯を知らないだらうか? それは神聖な小鳥で、佛敎の信仰を告白する。一切の鶯は邈乎たる古代から佛敎を名乘つてゐて、皆悉く世人に經文の貴さを說法する。

 『ほー、け、けう!』

 日本語では法華經、梵語でサダルマ・プンダリカ。日蓮宗の聖典法華經である。私の小さな、翼を持つた佛敎信者の信仰の告白は頗る簡單だ。たゞ神聖な名を再三連禱(リタニー)の如くに繰返へしては、合間に、滑かな囀り聲を轉ばせる。

 『ほー、け、けう!』

 たゞこれだけの句だ。が、その歌ひやうの美しさ! いかにも悠然、惚れ(ほ)惚(ぼ)れと有頂天になつて、その美妙至極な一音一音を玩味しつ〻歌ふ。

 經に書いてある。『この經を持ち、讀み、敎へ、又は寫す者は、必ず眼の八百善德を得て、三界を見渡して、下は阿鼻喚地獄に到り、上は宇宙の際涯までに及ぶ。耳の千二百善德を得て、三界一切――神、鬼、惡魔、人間以外の者までも――の諸音を聽く』

 『ほー、け、けう!』

 簡單の一語である。が、經にかう書いてある。『この經より唯一語なりとも欣んで受くる人は、その功德は四十萬阿僧企耶(アサンケーヤ 譯者註一)世界の一切の者に、すべて幸福に必要なるものを供するよりも無限に大なるべし』

 『ほー、け、けう!』

 いつも彼はそれを歌つた後と、彼の歡喜の囀り聲――鳥の讚歌――を放つ前に、敬虔なる少刻の休みをする。初めに囀りの聲、次に約五秒の休憩、それから神聖なる名の緩い、美しい、莊嚴な唱聲を、冥想的驚異の裡にゐるやうな音調で發する。次にまた歇んで、更にまた盛に豐富熱烈なる囀聲を發する。讀者がもし彼を見たならば、何うしてか〻る細い咽喉から、かくも强く銳いソプラノが迸り出でるだらうと驚くだらう。何故となれば、彼は歌ひ鳥の中では最も小さなものの一つだから。しかも、彼の歌は遙かに廣い河を越えても聞えるので、通學の子供が一町も離れた橋の上で、每日それを聽くため立佇まる。それから、彼の形姿は貧弱なのだ。漠然たる色を帶びた小さな體は、檜の木で造つた大かな箱の鳥籠の中で、殆ど見え難いほどだ。籠の針金格子の小窓の上には、紙を蔽ふてある。暗いのが好きだから。

 彼は纎弱で暴虐的までに氣むづかしい性質である。食事は一切細かに碎いて、秤で重さを量つて、每日精確に同時刻に給與せねばならない。たゞ生かして置くだけにも、有らんかぎりの注意を要する。けれども、彼は貴重なものだ。遠い處を探がし、隅々を求めて漸つと得らる〻稀有な高價のものだ。實際、私の力では買ふことは出來なかつたらう。日本の最良なる淑女の一人なる、出雲の知事の令孃が、外人敎師が一寸した病氣の間、淋しく感ずるだらうと思つて、この珍奇な小鳥を見舞品として贈つてくれたのだ。

    譯者註一。阿蔵僧企耶又は阿僧祇(劫)
    は無數を意味す。

    譯者註二。縣知事籠手田安定氏令孃を
    指す。

[やぶちゃん注:「邈乎」は既注であるが、再掲しておく。「ばくこ」と読み、遠く遙かなさまを言う(参考までに、別に、人を軽んずるさまの意もあるので注意されたい)。

「法華經、梵語でサダルマ・プンダリカ」ウィキの「法華経」によれば、法華経(ほけきょう、ほっけきょうとも)は、初期大乗仏教経典の一つである「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」( Saddharma Puṇḍarīka Sūtra 、『「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意)の漢訳での総称』で、『梵語(サンスクリット)原題の意味は、「サッ」sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīkaが「清浄な白い蓮華」、「スートラ」sūtraが「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什訳では『妙法蓮華経』となった』(鳩摩羅什(くまらじゅう/くもらじゅう/サンスクリット語でクマーラジーバ 三四四年~四一三年/一説に三五〇年~四〇九年とも)は亀茲国(きじこく:現在の新疆ウイグル自治区クチャ県)の西域僧で、後秦の時代に長安に来て約三百巻もの仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した訳経僧。最初の三蔵法師――仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)、また転じて訳経僧を指す一般名詞―で、後の玄奘など多くの三蔵が現れた。時に後の玄奘と共に「二大訳聖」と称される)。『さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である。「法華経」が「妙法蓮華経」の略称として用いられる場合が多い』。漢訳は、部分訳・異本を含めて十六種が現在まで伝わっているが、完訳で残存するものは「正法華経」(十巻二十六品・竺法護(じくほうご)訳・二百八十六年)と「妙法蓮華経」(八巻二十八品・鳩摩羅什訳、四百年)、そして「添品妙法蓮華経」(七巻二十七品・闍那崛多(じゃなくった)と
達磨笈多(だるまぎった)の共訳・六〇一年)の三種で、「漢訳三本」と称されている。『漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、「最も優れた翻訳」』『として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている』。『天台宗、日蓮宗系の宗派には、『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする見方があり、「法華三部経」と呼ばれている。日本ではまた護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた』。『なお、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五は『観音経』として多くの宗派に普及している。また日蓮宗では、方便品第二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一をまとめて日蓮宗三品経と呼ぶ』とある。内容や成立などの詳細はリンク先を参照されたい。

「連禱(リタニー)」原文“a litany”は英語でキリスト教に於ける聖職者の唱える祈願に会衆が唱和する連祷(れんとう)・リタニアを指す。英国国教会では祈祷書中の嘆願の意。但し、皮肉に転じて、長々とした繰り返しの多い説明、くどくて退屈な話、の意もあるので注意されたい。

「惚れ(ほ)惚(ぼ)れ」この部分、底本には読みのルビは実はなく、「惚れ惚れ」の後半は踊り字「〲」になっているこれは「ほれぼれ」と読んでいることを明確に示すものであるが、踊り字「〱」「〲」を使用しないという私のポリシーから、特例的に読みを配する仕儀としたものである。

「この經を持ち、讀み、敎へ、又は寫す者は、必ず眼の八百善德を得て、三界を見渡して、下は阿鼻喚地獄に到り、上は宇宙の際涯までに及ぶ。耳の千二百善德を得て、三界一切――神、鬼、惡魔、人間以外の者までも――の諸音を聽く」は、「法華経」巻六の「法師功德品第十九」の冒頭に出る部分をかなり省略して述べている。神奈川県横浜市保土ヶ谷区西谷の日蓮宗妙福寺公式サイト内の「妙法蓮華経」のページの旧字体版から引用させて戴く(一部を恣意的に正字化した)。

   《引用開始》

妙法蓮華經。法師功德品。第十九

爾時佛告。常精進菩薩摩訶薩。若善男子。善女人。受持是法華經。若讀。若誦。若解說。若書寫。是人當得。八百眼功德。千二百耳功德。八百鼻功德。千二百舌功德。八百身功德。千二百意功德。以是功德。莊嚴六根。皆令淸淨。是善男子。善女人。父母所生。淸淨肉眼。見於三千大千世界。內外所有。山林河海。下至阿鼻地獄。上至有頂。亦見其中。一切衆生。及業因緣。果報生處悉見悉知。爾時世尊。欲重宣此義。而說偈言

 若於大衆中 以無所畏心 說是法華經 汝聽其功德

 是人得八百 功德殊勝眼 以是莊嚴故 其目甚淸淨

 父母所生眼 悉見三千界 內外彌樓山 須彌及鐵圍

 幷諸餘山林 大海江河水 下至阿鼻獄 上至有頂天

 其中諸衆生 一切皆悉見 雖未得天眼 肉眼力如是

   《引用終了》

 この部分、平井呈一氏(一九七五年恒文社刊「日本瞥見記(上)」「第七章 神々の首都」)では、かなり法華経原典に忠実な形で訳文を作っておられるので、以下に引用させて戴く。ルビはすべて現代仮名遣であるため、一部を拗音表記に換えたことをお断りしておく(但し、「受持」のルビ「ぢ」はママ)。

   《引用開始》

「若(もし)善男子(ぜんなんし)、善女人(ぜんにょにん)、是(こ)の法華経(ほけきょう)を受持(じゅぢ)し、若(もし)は読み、若(もし)は讃(じゅ)し、若(もし)は解説(げせつ)し、若(もし)は書写(しょしゃ)せん。是(こ)の人(ひと)は、当(まさ)に八百の眼(まなこ)の功徳(くどく)、千二百の耳(みみ)の功徳(くどく)、八百の鼻(はな)の功徳(くどく)、千二百の舌(した)の功徳(くどく)、八百の身(み)の功徳(くどく)、千二百の意(こころ)の功徳を(くどく)得べし。是(こ)の功徳(くどく)を以て、六根(こん)を荘厳(しょうごん)し、皆(みな)清浄(しょうじょう)ならしめん。是(こ)の善男子(ぜんなんし)、善女人(ぜんにょにん)は、父母所生(ふもしょしょう)の清浄肉眼(しょうじょうにくげん)をもって、三千大千世界(せかい)の、内外(ないげ)の有(あ)らゆる山林(せんりん)、河海(かかい)を見ること、下(しも)阿鼻地獄(あびじごく)に至(いた)り、上(かみ)有頂天(うちょうてん)に至らん。亦(また)其(そ)の中(なか)の一切(いっさい)の衆生(しゅじょう)を見(み)、及(およ)び業(ごう)の因縁(いんねん)、果報(かほう)の生処(しょうじょ)を悉(ことごと)く見(み)悉(ことごと)く知(し)らん。」

   《引用終了》

「阿鼻喚地獄」「あびくわんじごく(あびかんじごく)」と読むが、他に阿鼻地獄・阿鼻叫喚地獄・無間地獄・阿鼻焦熱地獄などとも呼称する八大地獄の第八の地獄。梵語の音訳「阿鼻旨」の略で「無間(むげん)」と訳すのが一般的。原義は「間断なく」の意である。地下の最深部にある最悪の地獄とされ、五逆(小乗では殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血(仏身を傷つけること)・破和合僧(教団を乱すこと)を指し、大乗では寺塔や経像などの破壊・三乗の教法を謗(そし)ること・出家者の修行を妨げること・小乗で言う五逆の一つを犯すこと・業報を無視して悪行をなすことを指すとする)などの大悪を犯した者が落ちて火の車・剣の山などで絶え間なく苦しみを受ける場所とされる。

「この經より唯一語なりとも欣んで受くる人は、その功德は四十萬阿僧企耶(アサンケーヤ)世界の一切の者に、すべて幸福に必要なるものを供するよりも無限に大なるべし」これは前の引用の「法華経」巻六の「法師功徳品第十九」の前の章(同巻六)の「随喜功徳品第十八」の初めの法の部分を、やはりかなり略して述べたものである。同じサイトから引用させて戴く(一部を恣意的に正字化した)。

   《引用開始》

妙法蓮華經。隨喜功德品。第十八

爾時彌勒菩薩摩訶薩。白佛言。世尊。若有善男子。善女人。聞是法華經。隨喜者。得幾所福。而說偈言

 世尊滅度後 其有聞是經 若能隨喜者 爲得幾所福

爾時佛告。彌勒菩薩摩訶薩。阿逸多。如來滅後。若比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。及餘智者。若長若幼。聞是經。隨喜已。從法會出。至於餘處。若僧坊。若空閑地。若城邑巷陌。聚落田里。如其所聞。爲父母宗親。善友知識。隨力演說。是諸人等。聞已隨喜。復行轉敎。餘人聞已。亦隨喜轉敎。如是展轉。至第五十。阿逸多。其第五十。善男子。善女人。隨喜功德。我今說之。汝當善聽。若四百萬億。阿僧祇世界。六趣四生衆生。卵生。胎生。濕生。化生。若有形。無形。有想。無想。非有想。非無想。無足。二足。四足。多足。如是等在。衆生數者。有人求福。隨其所欲。娯樂之具。皆給與之。

   《引用終了》

 この部分、やはり平井氏のものでは、かなり法華経原典に忠実な形で訳文を作っておられるので、以下に引用させて戴く。ルビはすべて現代仮名遣であるため、一部を拗音表記に換えたことをお断りしておく(但し、「受持」のルビ「ぢ」はママ)。

   《引用開始》

「‥‥是(こ)の経(きょう)の一偈(いちげ)を聞きて、随喜(ずいき)せん功徳(くどく)、尚(なお)無量無辺(むりょうむへん)なり。……四百万億(おく)阿僧祇(あそうぎ)の世界(せかい)の六趣(ろくしゅ)、四生(ししょう)の衆生(しゅじょう)……是(かく)の如(ごと)き等(ら)の衆生(しゅじょう)の数(かず)に在(あ)らん者(もの)に、人(ひと)有(あ)りて福(ふく)を求(もと)めて、其(そ)の所欲(しょよく)に随(したが)ひて、娯楽(ごらく)の具(ぐ)、皆(みな)之(これ)に給与(きゅうよ)せん‥‥。」

   《引用終了》

 なお、この内、原文は『四百萬億。阿僧祇世界』(平井氏も『四百万億阿僧祇の世界』)とあって、ハーンの『四十萬阿僧企耶(アサンケーヤ)』とは桁が違うのであるが、そもそもが漢字文化圏に於ける数の単位の一つである阿僧祇(あそうぎ/サンスクリット語 asaṃkhyeya )の数値は時代や地域によって異なり、また、現在でも人により解釈が分かれている。日本では一般的に10の56乗を指すが、10の64乗とする人もあり、はっきりしない。日本の数単位は一・十・百・千・万・億・兆・京・垓・𥝱(=秭:じょ)・穣・溝・澗・正・載・極・恒河沙(ごうがしゃ)・阿僧祇・那由他(なゆた)・不可思議・無量大数の計二十一単位で知られているのであるが、参照したウィキの「阿僧祇」に、この「京」以上の数については、『指数表記が用いられるのが普通であって実用ではまず用いられないので』、「極」(これのみ仏典以外から作られた単位らしい)以降の値が『どうなっていてもそれほど問題にはならない』とあり、そもそもが落合氏が「無數を意味す」と述べている通り、『阿僧祇は元は仏教用語で』、梵語では「数えることができない」の意味である、とあるから、正確な実数を確定することには事実上意味がないと私は思っている。数学的にマニアックな興味のある方はウィキをお読みあれ。私ははっきり言ってこれ以上ディグする気は起らない。悪しからず。

   *

「歇んで」「やすんで」(休んで)と読む。

「迸り」「ほとばしり」と読む。

「彼は歌ひ鳥の中では最も小さなものの一つだから」鳥綱スズメ目ウグイス科ウグイス Horornis diphone  の♂は十六センチメートル(♀より小さく十四センチメートルであるが鳴くのは♂)で、スズメとほぼ同じ大きさである。

「彼は纎弱で暴虐的までに氣むづかしい性質である。食事は一切細かに碎いて、秤で重さを量つて、每日精確に同時刻に給與せねばならない。たゞ生かして置くだけにも、有らんかぎりの注意を要する」ウィキの「ウグイス」によると、『その飼養は、古くから行なわれ、足利義政の頃に流行し、その弊害の大きさから法度において禁じられたが、江戸時代、とくに文化から弘化にかけて、流行し、徳川家治、徳川家斉もこれを愛し、小納戸役にお鳥掛という職を置いたほどであった』とあり、その「飼育法」の項には、『一番子の雛を巣ごと持ち帰り、藁製の畚(ふご)に入れ、巣口を綿で覆い、その畚を小蒲団で包み、温かい室内に置き、雛がピピピと鳴いて餌を求めたらすり餌を与え、夜は暖房して寒さを防ぐ。羽翼が整って離巣するようになれば』、一羽ずつ『籠に移す。籠には親籠、雛籠、付籠、袖籠(付子の雛を持ち運ぶ)、旅籠(遠方に携行する)、水籠(水浴びさせる)などの種類がある。籠にいれたウグイスはさらに籠桶(こおけ)に入れる。籠桶はキリ製で』、高さ四十五センチメートル、幅三十センチメートル、長さ八十センチメートルほどで、『正面は障子のけんどん』(上から蓋や扉が嵌め込むようになっている構造を指す)『になっている。キリ製なのは、それ以外では、琴と同じく、鳴く音と調和しないからであるという。餌はすり餌が中心で、活き餌も用いる。すり餌は、玄米、米ぬか、青葉で作る。活き餌は、アオガエル、ヤナギの虫(ボクトウガの幼虫)、クサギの虫(コウモリガの幼虫)、エビヅルの虫(ブドウスカシバの幼虫)、イナゴなどである。その他、シンクイムシ、ミールワーム、ヨーロッパイエコオロギ、ヒメツメガエルなど入手しやすい活き餌がある。時期的に早く鳴かせるには、夜飼法などの方法がある。これは夜、籠桶の障子をはずして燈火に向けるもので、これを鳥をあぶるという』。九月中旬から『始めて、冬から春にかけて鳴かせる。付子といって、親鳥が鳴く音を練習させる方法もある。親鳥の籠桶から』約二メートル『離れたところに雛の籠桶を置き、自然に鳴方を習得させるものである』とある。

「秤」老婆心乍ら、「はかり」と読む。

「縣知事籠手田安定氏」元平戸藩士で剣術家としても知られた籠手田安定(こてだ やすさだ 天保一一(一八四〇)年~明治三二(一八九九)年)。維新後は明治元(一八六八)年の大津県判事試補就任に始まり、大津県大参事・滋賀県権令・滋賀県令・元老院議官を経て、明治一八(一八八五)年九月四日に島根県令(県知事)となっている(翌明治十九年七月十九日に「県令」から「知事」に呼称が変更された)。島根県知事の退任は明治二四(一八九一)年四月九日であるから、ハーンと彼の令嬢の接点は退任の前年であるこの明治二三(一八九〇)年九月以降の、たった七ヶ月の間であったということが判る。但し、籠手田とハーンの接触はもっと早く、同年の六月頃であることが、個人サイト「わにの昼寝」の「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」(リンク先の少し下の記事)の以下の記載で判明した。ハーンは日本到着(四月四日)の『3ヶ月後には東京で当時島根県知事であった籠手田安定(こてだやすさだ)と、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となる契約を結んだ。当時としては破格の月給100円だった。ハーンを雇い入れた知事の籠手田安定は、殖産や教育に力を入れ、わらじ履きで県内を巡視し、人情味豊かな知事として知られていた』とあるからである(なお、ここには松江までのルートを『東京から汽車で姫路まで行き、そこから人力車で米子まで出て、汽船で松江に入った』としている(下線やぶちゃん))。続いて籠手田は新潟県知事・滋賀県知事を歴任、最後は貴族院議員となっている。なお、参照したウィキの「籠手田安定」によれば、彼には少なくとも三女までいたことが判った。] 

 

Sec. 4

   'Ho—ke-kyo!'

   My uguisu is awake at last, and utters his morning prayer. You do not know what an uguisu is? An uguisu is a holy little bird that professes Buddhism. All uguisu have professed Buddhism from time immemorial; all uguisu preach alike to men the excellence of the divine Sutra.

   'Ho—ke-kyo!'

   In the Japanese tongue, Ho-ke-kyo; in Sanscrit, Saddharma Pundarika: 'The Sutra of the Lotus of the Good Law,' the divine book of the Nichiren sect. Very brief, indeed, is my little feathered Buddhist's confession of faith—only the sacred name reiterated over and over again like a litany, with liquid bursts of twittering between.

   'Ho—ke-kyo!'

   Only this one phrase, but how deliciously he utters it! With what slow amorous ecstasy he dwells upon its golden syllables! It hath been written: 'He who shall keep, read, teach, or write this Sutra shall obtain eight hundred good qualities of the Eye. He shall see the whole Triple Universe down to the great hell Aviki, and up to the extremity of existence. He shall obtain twelve hundred good qualities of the Ear. He shall hear all sounds in the Triple Universe,—sounds of gods, goblins, demons, and beings not human.'

   'Ho—ke-kyo!'

   A single word only. But it is also written: 'He who shall joyfully accept but a single word from this Sutra, incalculably greater shall be his merit than the merit of one who should supply all beings in the four hundred thousand Asankhyeyas of worlds with all the necessaries for happiness.'

   'Ho—ke-kyo!'

   Always he makes a reverent little pause after uttering it and before shrilling out his ecstatic warble—his bird-hymn of praise. First the warble; then a pause of about five seconds; then a slow, sweet, solemn utterance of the holy name in a tone as of meditative wonder; then another pause; then another wild, rich, passionate warble. Could you see him, you would marvel how so powerful and penetrating a soprano could ripple from so minute a throat; for he is one of the very tiniest of all feathered singers, yet his chant can be heard far across the broad river, and children going to school pause daily on the bridge, a whole cho away, to listen to his song. And uncomely withal: a neutral-tinted mite, almost lost in his immense box-cage of hinoki wood, darkened with paper screens over its little wire-grated windows, for he loves the gloom.

   Delicate he is and exacting even to tyranny. All his diet must be laboriously triturated and weighed in scales, and measured out to him at precisely the same hour each day. It demands all possible care and attention merely to keep him alive. He is precious, nevertheless. 'Far and from the uttermost coasts is the price of him,' so rare he is. Indeed, I could not have afforded to buy him. He was sent to me by one of the sweetest ladies in Japan, daughter of the governor of Izumo, who, thinking the foreign teacher might feel lonesome during a brief illness, made him the exquisite gift of this dainty creature.

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