『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光明寺
●光明寺
光明寺は補陀落寺の南鄰(なんりん)なり、天照山と號す、本は佐介カ谷に在りしを後に此地に移す、當寺開山の傳に、寬元元年五月三日、前武州太守平經時、佐介カ谷に於て淨刹を建立し蓮華寺と號し、良忠(開山)を導師として供養をのべらる、後に經時靈夢有て、光明寺と改め方丈を蓮華寺と名くとあり。
外門 昔佐介谷に有りし時平經時の弟時賴、外門に額を掛て佐介淨刹と號すと、今は額なし。
山門 額に天照山とあり、後花園帝の宸筆なり。
開山堂 開山木像を安す、自作なり。
客殿 三尊を安す。
方丈 蓮華院と號す、阿彌陀の像を安す、運慶が作にて、肚裏に運慶が骨を收むと云ふ。
祈禱堂 今は念佛堂と云ふ、昔は祈禱堂にて祈禱の額を掛しとなり、本尊阿彌陀は慧心の作なり、左方に辨財天の像あり。
開山石塔 山にあり、山を天照山と云ふ。
善導塚 總門の前松原にあり、善導金銅の像を安す。
内藤帶刀忠興一家菩提所 寺の南にあり、靈屋(れいおく)に阿彌陀如意輪の像を安す、阿彌陀は定朝(さだとも)か作。
蓮華院 總門を入右にあり。
專修院 總門を入左にあり、此二箇院共に光明寺の寺僧寮なり。
[やぶちゃん注:白井永二編「鎌倉事典」の三山進氏の「光明寺」の記載には、『仁和元年(一二四〇)鎌倉に入った良忠のため、経時が佐介ケ谷に一寺を開き蓮華寺と名づけたが、のち同寺を現在地に移し、寺名も光明寺と改めたと伝える』という本記載と同様の記事を掲げた後、『移建・改名の時期については寛元元年(一二四二)とする記録もみられるものの確証はな』く、『良忠のために大仏朝直が開創した悟真寺が蓮花寺と改名、さらに光明寺に発展した』という別説を掲げる。
「前武州太守平經時」北條経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年)
第四代執権。父時氏が早世したため、仁治三(一二四二)年に祖父泰時のあとを継いで十八歳で執権に就任、執権在任中に将軍頼経の関係が悪化、寛元二(一二四四)年に将軍職を子頼嗣に譲らされる将軍交代劇が起こるが、病いが悪化し、在任四年足らずで執権を弟の時頼に譲って出家、法名を安楽と号したが、出家後十日、二十二歳で夭折している。
「良忠」(正治元(一一九九)年~弘安十(一二八七)年)浄土僧。石見国三隅庄(現在の島根県那賀郡三隅村)出身。諡号記主禪師は示寂七年後の永仁元年(一二九三)年に伏見天皇より贈られた。
「後花園帝」(応永二六(一四一九)年~文明二(一四七〇)年)第百二代天皇。在位は正長元(一四二八)年~寛正五(一四六四)年。
「運慶が作にて、肚裏に運慶が骨を收むと云ふ」こんな伝承は私は聴いたことがない。現在の浄明寺公式サイトにもそんな記載はない。そもそもが鎌倉には一体として運慶作と否定された像はないことは既に述べたが、「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」にもこの奇体な記載はある。しかし、仏師が自分の骨を自分の墓でも何でもない寺の本尊の腹中に籠めるというのは私にはちょっと考え難いことである。因みに、運慶は慶派の菩提寺であったと思しい六波羅密寺に葬られた(或いは供養された)可能性が高く、他に宮崎県の宝満寺という寺に伝運慶墓があるとも聴く。
「善導」(六一三年~六八一年)は唐代の浄土教大成者。長安を中心に終生念仏者として暮らし、日本の浄土教に大きな影響を与えたが、勿論、渡日などはしていない。
「内藤帶刀忠興一家菩提所」私はかつてここが好きでたびたび訪れたものだった。初代日向延岡藩主内藤忠興が十七世紀中頃に内藤家菩提寺であった霊岸寺と衝突、光明寺大檀家となってここへ内藤家一族の墓所を移築したものである。実際には現在も光明寺によって供養管理されているが、巨大な法篋印塔数十基を始めとして二百基余りの墓石群が、鬱蒼と茂る雑草の中に朽ち果てつつある様は、三十数年前、初めてここを訪れた私には真に「棄景」というに相応しいものであったのである。
「定朝」(じょうちょう ?~天喜五(一〇五七)年)は平安中期最大の仏師。仏師康尚(こうしょう)の子又は弟子とされ、寛仁四(一〇二〇)年に康尚とともに法成寺無量寿院の丈六阿弥陀像九体を造立、万寿三(一〇二六)年には中宮安産祈禱のために釈迦三尊など二十七仏を、翌年には法成寺釈迦堂の百体釈迦像、長元九(一〇三六)年後一条天皇法事の三尊仏、長久元(一〇四〇)
年の後朱雀天皇念持仏、天喜元(一〇五三) 年唯一の遺品でとされる平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像などを造立している(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]
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