『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 和賀江島
●和賀江島
和賀江島は飯島崎ともいへり、飯島の西の出崎(でさき)にて屢(しばしば)汐(うしほ)に崩壞し、海際纔(わづ)か亂礁(らんしやう)を存せり、東鑑に貞永元年七月十二日、勸進上人阿彌陀佛申請(しんせい)に就て、舟船著岸の煩ひ無(なか)らしめんが爲に、和賀江島を築(きづく)へきの由、同八月九日其(その)功(かう)を終(おはる)とあり。
[やぶちゃん注:例によって「新編鎌倉志卷之七」から引く。
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〇和賀江島 和賀江島(わかえのしま)は、飯島(いひじま)の西の出崎を云なり。【東鑑】に、貞永元年七月十二日、勸進の上人往阿彌陀佛(わうあみだぶつ)申し請(こ)ふに就いて、舟船著岸の煩ひ無からしめんが爲(ため)に、和賀江島を築くべきの由、同八月九日、其の功を終(を)ふるとあり。今は里人飯島崎(いひじまがさき)と云ふ。元(もと)飯島と同所なり。
[やぶちゃん注:現存する日本最古の築港跡で、海上への丸石積み(これらの石材は相模川・酒匂川・伊豆海岸などから運搬されたと考えられている)によって作られた人工港湾施設である。以下、ウィキの「和賀江島」の「歴史」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『鎌倉幕府の開府以降、相模湾の交通量は増加していたが、付近の前浜では水深の浅い事から艀が必要であり、事故も少なくなかった。このため、一二三二年(貞永元年)に勧進聖の往阿弥陀仏が、相模湾東岸の飯島岬の先に港湾施設を築く許可を鎌倉幕府に願い出た。執権の北条泰時はこれを強く後援して泰時の家臣である尾藤景綱、平盛綱、諏訪兵衛尉らが協力している。海路運ばれてきた相模国西部や伊豆国の石を用いて工事は順調に進み、一二三二年八月一四日(旧七月十五日)に着工して一二三二年九月二日(旧八月九日)には竣工した。なお、発起人の往阿弥陀仏は筑前国葦屋津の新宮浜でも築島を行なっていた土木技術の専門家である。一二五四年五月二十四日(建長六年四月二十九日)には問注所と政所それぞれの執事宛に唐船は四艘以下にするよう通達があり、南宋などから船が来港していた可能性がある』。『鎌倉時代の半ば以降に忍性が極楽寺の長老となってからは、和賀江島の敷地の所有および維持・管理の権利と、その関所を出入りする商船から升米とよばれる関米を徴収する権利が極楽寺に与えられていた。一三〇七年七月二十六日(徳治二年六月十八日)には関米を巡る問題で訴訟を起こした記録があり、管理の一端がうかがえる』。『江戸時代には和賀江島は「石蔵」や「舟入石蔵」と呼ばれ、付近の材木座村や小坪村(現・逗子市)の漁船などの係留場として使われていた。一七五〇年(寛延三年)頃、小坪村が島の西南方に新たな出入口を切開き、被害を受けた坂之下村や材木座村との間で一七六四年(明和元年)に相論が起きた。翌年、出入口の幅を九尺とし、三月から九月まで七ヵ月間は口を塞ぎ、残りの十月から二月までの五ヵ月に使用するという条件で和解したという』。『また鶴岡八幡宮の修復工事の際には材木や石を運ぶ船が停泊しており、少なくとも一六九六年(元禄九年)から翌年と一七八一年(天明元年)には八幡宮とともに島の修復工事も実施された。一八二六年(文政九年)の八幡宮修理に際しては、満潮時には』一メートル以上『海中に隠れるようになってしまっているとして材木座村が島の修復を願い出ている』。私の父は戦前、よくここで小さなイイダコを採ったという。私は三十数年前、干潮時のここを訪れ、浜から二百メートル程の先端まで歩いたことがあったが、そこで見つけたのは丸石にへばりついたイイダコならぬコンドームだった。]
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「勸進上人阿彌陀佛」不詳であるが、鈴木かほる氏の「三浦半島の史跡みち 逗子・葉山・横須賀・三浦」(二〇〇七年かまくら春秋社刊)を読むに、この和賀江島を領していた三浦一族が実質的な築港推進者であったとあるから、この勧進僧も三浦氏と非常に深い関係があった人物と考えられ、出身自体が三浦氏であった可能性をも考慮すべきではないかと私は考える。]
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