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2015/09/04

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一〇)

 

          一〇

 

 大槪の家の引戶や、玄關のすぐ上に、漢字を書いた長方形の白紙が貼りつけてあるのが、私の目につく。それから、どこの入口にも吊つてあるのは、神道の尊い象徴で、細い藁繩に數條の草の長い總がぶらさがつてゐる。白紙の方が立つに私の興味を惹く。それはお札であつて、私はその熱誠なる蒐集者なのだ。大抵松江の市内や、郊外の神社佛閣から頒布したものである。佛敎のお札は、その文句によつて、その家の宗旨が讀まれる――それは、こ〻の社會に於ては、誰人も最も優勢、且つ淵源古き神道を信ずると同時に、また佛敎の或る宗派にも屬してゐるからだ。日本の表意文字を全然知らぬ人でも一見して日蓮宗の法式は識別が出來る――一行の文字に、銳い鋒先きが密立し、小銘旗が鋸齒の如く附いてゐて、軍勢の如き形を呈してゐる。書かれた文字は、有名な南無妙法蓮華經といふ經句で、その昔、西班牙から入つた耶蘇敎を退治した人で、ゼズイツト敎徒からは、名譽なことにも呪詛を受けた、かの加藤淸正が、その軍旗に記してゐたのは、この經句である。この宗派の巡禮者は、この種のお札が貼つてある家へ訪ねて、布施を受ける權利がある。

 しかしお札の大多數は神道だ。殆ど何處の戶の上にも、一枚特に目立つのがある。文字の行の下に二匹の小狐が描いてあるからだ。一匹は黑、今一匹は白、相對坐してゐて、普通に見受けらる〻象徴的な鍵ではなく、これは藁束を口に啣へてゐる。このお札は、城內に鎭座せる御城山の稻荷神社の火災除けの呪符なのだ。實際これらのお札が、從來松江に於いは、唯一の防火設備だ――少くとも木造家屋に關しては。而して火花程の火にも大風が伴へば、一日で更に大きな都會さへ拭ひ去るのは何でもないが、松江には大火事の例がなく、また小火事さへ稀である。

 この呪魔の御利益は松江の市街だけに限る。して、この稻荷に就ては、こんな傳說がある――

 家康公の曾孫直政公、この國を領せんとて、始めて松江へ御入城の折、一美少年御前に出でて言上しけるは、われは殿の御身を護らんため、越前に在ます殿の御父君の許より罷出たる者なるが、住所を得ずして普門院に滯留す。若しわがために御城內に住所を設け玉はば御城内の諸建築と市中の家屋、並にまた江戶表の御屋敷を護り火難を防ぎ奉らむ。われは稻荷新右衞門にて候へばと。斯く言ひて少年は消え失せぬ。公則ち   社祠を立てて、これを祀り玉ひ、今猶城內に存す。石造の狐一千匹、社祠を繞れり。

[やぶちゃん注:「白紙の方が立つに私の興味を惹く」「立つに」原文は“The white papers at once interest me”であるから、これはすぐに・早速・直ちに・即座に、の意で、平井呈一氏は『さっそく』と訳しておられる。そこから考えても、これは私には、そのままでは読めない。これは恐らく「つ」は「ろ」の誤植で、「立」は「たちどころ」と当て読みしているのではないかと疑う。大方の御批判を俟つ。

「ゼズイツト敎徒」“the Jesuits”。ジェスイット(Jesuitはイエズス会士のことで、ジェズイット教団、即ち、イエズス会の異称である。

「加藤淸正」は熱心な日蓮宗信者で、白地に朱字で書いた題目旗を戦場で翻らせ、家臣らにも、この旗印を用いさせたとされる。その領地であった肥後の旧小西行長領主分に於ける苛烈なキリシタン弾圧について、『当時の宣教師、レオン・パジェスは清正を、「道徳観念に欠けた人」と評し』たとある(個人サイト「犬と武士」の「武士の館」内の「加藤清正」の「日蓮宗を信仰し、キリスト教を弾圧」より引用した)。

「鍵」matapon氏の「人文研究見聞録」の「伏見稲荷大社:狐がくわえている物とは? [京都府]」によれば(全国に約三万社はあるとされる稲荷神社の総本社であるから以下の叙述は敷衍してよかろう)、伏見稲荷の狐が銜えている物は「玉(宝珠)」・「鍵」・「稲穂」・「巻物」の四種とあり、それぞれ、

 玉(宝珠)――稲荷大神の霊徳の象徴。「穀物の倉庫」とする説もある。

 鍵――その「みたま」(玉・御魂・霊徳)を身につけようとする願望の象徴。

    「倉庫の鍵」とする説もある。

 稲穂――稲荷神が五穀豊穣の神(食糧神)に由来するためとされる。

 巻物――知恵を象徴しているとされる。

とある。なお、解説中では、繰り返し、『「玉鍵信仰」に由来する』という言葉が出るが、この「玉鍵信仰」とは、別に、T氏の個人ブログ「京都観光旅行のあれこれ」の「伏見稲荷大社の狐がくわえている物は4種類」に、二〇〇九年明治書院刊佐々木昇「タイムトラベル
もうひとつの京都 (学びやぶっく)」に、『「玉は稲荷神の霊徳の象徴で、鍵はその御霊を身につけようとする願望である」とか、「この玉と鍵は、陽と陰、天と地を示すもので、萬物は、この二つの働きによって、生成し化育する理を表している」と意味づけられているとのこと』とあるとし、『江戸時代の花火や「鍵屋」と「玉屋」の屋号』も『稲荷信仰と関係している』ことある。

「御城山の稻荷神社」松江城の西北端に位置する城山稲荷神社。以前にリンクさせて戴いたサイト「松江城と周辺観光地案内」の中の、「城山稲荷神社」を参照されたい。画像や動画(私は隠岐へ渡る際に松江は通っただけで、実際に現地を知らない。従って以降の注も自ずから禁欲的にならざるを得ない。悪しからず)。それによれば、『当時二千以上を数える石狐があったのを、八雲は大変珍しがっていた』とあり、また彼がここに書いた内容を記した上、『その神札を大英博物館に送っている』ともある。

「松江には大火事の例がなく、また小火事さへ稀である」事実とは相違する。島根大学教育学部林正久教授の「松江周辺の自然災害と環境改変史」を縦覧するに、例えば(下線やぶちゃん)、

寛文一三(一六七三)年六月十五日   白潟大火。寺町・和多見の大半焼失。

延宝 元(一六七三)年九月      白潟中町出火。寺町・和多見延焼。

延宝 四(一六七七)年        白潟大火。百一軒焼失。

元禄 元(一六八八)年十一月三日   白潟大火。町屋二百軒焼失。

文化一三(一八一六)年        白潟中町出火。百二十四軒焼失。

文政 六(一八二四)年        本庄町火災。百五十六軒焼失。

文政 八(一八二五)年二月二十二日  石橋町出火。類焼百四十二戸。

天保 七(一八三六)年四月      白潟本町出火。寺町延焼三十七軒。

天保 八(一八三七)年十二月二六日  白潟灘町出火。

                   延焼商家七百五十一軒、寺院十五焼失

嘉永 五(一八五二)年十一月九日   横浜町出火。大風。

                   町屋五百三十七軒類焼、雑賀町七百軒ほど

明治 元(一八六八)年四月      雑賀町大火。

明治 七(一八七四)年六月八日    雑賀町出火。七百十二戸焼失

 因みにこれは、以下に記される伝承の、寛永一五(一六三八)年松平直政入城以後の回禄である。その後も、

昭和 二(一九二七)年一二月二十九日 白潟大火。灘町出火。

                   和多見川(新大橋通り)まで二百三十六戸焼失。

昭和 六(一九三一)年五月十六日   末次本町大火。六百二十八戸焼失。

とあって、特に下線部は、ハーンが松江に来た遠い古えの回禄ではない。御札の霊験を語る余り、事実を枉(ま)げるのはハーンらしくない。と言うより寧ろ、松江の人々が火伏せのお稲荷さまのためにハーンに敢えて語らなかったと考えるべきであろうか。

「家康公の曾孫直政」徳川家康の孫(平井呈一氏も「曾孫」と訳しているが、原文の“grandson”は男の孫の意であって「曾孫」は誤訳である)松平直政(慶長六(一六〇一)年~寛文六(一六六六)年)。上総姉ヶ崎藩主・越前大野藩主・信濃松本藩主を経て、出雲松江藩初代藩主として寛永一五(一六三八)年二月十一日、出雲松江十八万六千石及び隠岐一万四千石を代理統治へ加増移封されて国持大名となった。参照したウィキ松平直政によれば、『直政は領内のキリシタンを厳しく弾圧し、これはかつての領主・堀尾氏や京極忠高らを上回るほど厳しいものであったらしい』とある。キリスト教嫌いのハーンには必ずしも嫌悪の対象ではなかったであろう。寧ろ、前の加藤清正の叙述を見ても分かる通り、キリスト教嫌いのハーンは、過去の日本のキリシタン弾圧への嫌悪感を、殆んど、持っていない、と私には思われる。

「越前に在ます殿の御父君」徳川家康次男結城秀康(天正二(一五七四)年~慶長一二(一六〇七)年)。越前北ノ庄藩初代藩主で越前松平家宗家初代。ここで狐は「越前に在ます殿の御父君」(「在ます」は「おはします」と訓じていよう)と言っているが、これは秀康の御霊(みたま)ということになる。この時既に死後三十一年が経過しているからである。

「普門院」天台宗松高山普門院。既に出た松江藩初代藩主の隠居した父親堀尾吉晴が松江城を築き、城下町を造成した当時に開創された寺で、その後、城内から移転して松江市北田町内に現存する。同寺公式サイト内の普門院についてページの『「新左衛門稲荷さん」のお話』で、ここで語られる狐の伝承及び白黒の向き合った狐を描いた御札を見ることが出来る。そこではこの新左衛門は見た目は普通の武士で、信州の浪人と称し、普門院に日参する囲碁の達人として最初に登場している。]

 

Sec. 10

   I perceive that upon the sliding doors, or immediately above the principal entrance of nearly every house, are pasted oblong white papers bearing ideographic inscriptions; and overhanging every threshold I see the sacred emblem of Shinto, the little rice-straw rope with its long fringe of pendent stalks. The white papers at once interest me; for they are ofuda, or holy texts and charms, of which I am a devout collector. Nearly all are from temples in Matsue or its vicinity; and the Buddhist ones indicate by the sacred words upon them to what particular shu or sect, the family belong - for nearly every soul in this community professes some form of Buddhism as well as the all-dominant and more ancient faith of Shinto. And even one quite ignorant of Japanese ideographs can nearly always distinguish at a glance the formula of the great Nichiren sect from the peculiar appearance of the column of characters composing it, all bristling with long sharp points and banneret zigzags, like an army; the famous text Namu-myo-ho-ren-gekyo inscribed of old upon the flag of the great captain Kato Kiyomasa, the extirpator of Spanish Christianity, the glorious vir ter execrandus of the Jesuits. Any pilgrim belonging to this sect has the right to call at whatever door bears the above formula and ask for alms or food.

   But by far the greater number of the ofuda are Shinto Upon almost every door there is one ofuda especially likely to attract the attention of a stranger, because at the foot of the column of ideographs composing its text there are two small figures of foxes, a black and a white fox, facing each other in a sitting posture, each with a little bunch of rice-straw in its mouth, instead of the more usual emblematic key. These ofuda are from the great Inari temple of Oshiroyama, [6] within the castle grounds, and are charms against fire. They represent, indeed, the only form of assurance against fire yet known in Matsue, so far, at least, as wooden dwellings are concerned. And although a single spark and a high wind are sufficient in combination to obliterate a larger city in one day, great fires are unknown in Matsue, and small ones are of rare occurrence.

   The charm is peculiar to the city; and of the Inari in question this tradition exists:

  When Naomasu, the grandson of Iyeyasu, first came to Matsue to rule the province, there entered into his presence a beautiful boy, who said: 'I came hither from the home of your august father in Echizen, to protect you from all harm. But I have no dwelling-place, and am staying therefore at the Buddhist temple of Fu-mon-in. Now if you will make for me a dwelling within the castle grounds, I will protect from fire the buildings there and the houses of the city, and your other residence likewise which is in the capital. For I am Inari Shinyemon.' With these words he vanished from sight. Therefore Naomasu dedicated to him the great temple which still stands in the castle grounds, surrounded by one thousand foxes of stone.

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