『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光則寺
●光則寺
光則寺は、行時山と號す。長谷寺の北隣(ほくりん)に在り。長谷町より北折(ほくせつ)して到るベし。此庭は時賴の家臣宿屋左衞門光則入道西信の宅地なりといふ。昔者日蓮將さに刑せられむとせしとき。弟子日朗、日心二人。檀那四條金吾父子四人。安國寺にて捕縛せられ。光則之を保監して土牢に投す。適々(たまたま)日蓮刑を免かる。因て光則信を起し。宅地に草菴を結ひ。日朗を開山とす。光則の父の名を行時と云。故に父の名を山號とし。余名を寺號とすと云當寺其の後(のち)衰頽(すゐたい)せしに。古田兵部少輔重恒の後室大梅院再興す。故に或は大梅寺とも稱す。堂に日蓮以下の像あり。
日朗の土牢は。寺後の山上に在り。
四條金吾賴基の舊跡は。長谷町より南折(なんせつ)して阪の下に出る路傍に在り。寺を收玄菴(しうげんあん)といひ。四條金吾舊跡と標示せり。
[やぶちゃん注:「宿屋左衞門光則入道西信」北条氏得宗家被官である御内人宿屋光則(やどや/しゅくしゃみつのり 生没年不詳)。法名は「最信」或は「※信」(「㝡」の(うかんむり)を(わかんむり)にしたもの。白井永二編「鎌倉事典」の記載)が正しい。「吾妻鏡」では弘長三(一二六三)年十一月十九日及び二十日の条で、臨終近かった北条時頼の看病を許された得宗被官七名の内の一人に挙げられており、この時には既に出家していた。参照したウィキの「宿屋光則」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『光則は日蓮との関わりが深く、文応元年七月十六日(一二六〇年八月二十四日)、日蓮が「立正安国論」を時頼に提出した際、寺社奉行として日蓮の手から時頼に渡す取次ぎを担当している。また、日蓮の書状には文永五年八月二十一日(一二六八年九月二十九日)、十月十一日
(一二六八年十一月十六日)にも北条時宗への取次ぎを依頼する書状を送るなど、宿屋入道の名前で度々登場している。同八年(一二七一年)、日蓮が捕縛されると、日朗、日真、四条頼基の身柄を預かり、自身の屋敷の裏山にある土牢に幽閉した。日蓮との関わりのなかで光則はその思想に感化され、日蓮が助命されると深く彼に帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として光則寺を建立した』。
「日蓮將さに刑せられむとせしとき」龍ノ口の法難。
「日朗」既注。
「日心」不詳。ところが高橋俊隆氏のこちらのページを見てみると、「御書略註」には、こ日朗の一緒に押し込められた『日心は中老身延三世日進であり、曽谷教信の次男とあ』ると記されているという。これが正しいとすると、幕府滅亡直後まで生きた日進(正元元(一二五九)年~建武元一二(一三三五)年)で、日蓮の高弟日向(にこう)に師事、正和二(一三一三)年に師の跡を継いで甲斐身延山久遠寺三世となった人物ということになる。
「四條金吾父子」後に出る「四條金吾賴基」四条頼基(寛喜元年(一二二九)年~永仁四年(一二九六)年)。名越流北条氏江間光時の家臣で日蓮の有力檀越であった。官位が左衛門尉であったことから、その唐名の金吾で称された。最後に出るように彼の屋敷跡が長谷の光則寺近くに現存する収玄寺である。
「安國寺」既出。
「光則の父」「行時」同じく、北条時頼側近であった。
「古田兵部少輔重恒」江戸前期の大名で石見浜田藩第二代藩主古田重恒(慶長八(一六〇三)年~慶安元(一六四八)年)。ウィキの「古田重恒」によれば、死の二年前の正保三(一六四六)年六月に江戸にある藩邸において古田騒動なる事件を起こしている。重恒は四十歳を『過ぎても子に恵まれなかった。跡継ぎがないために改易されることを恐れた江戸家老の加藤治兵衛と黒田作兵衛は、古田一族の古田左京の孫に当たる万吉を重恒の養子にしようと画策した。その計画を、加藤らから打ち明けられたことで知った重恒の側近・富島五郎左衛門が重恒に伝えた。重恒は自分に無断でそのような計画を立てていた加藤や左京らに対して激怒し、その一派全てを殺した』という一件で、重恒の死去後は『跡継ぎがなく、古田氏は改易された』とある。但し、『この古田騒動には異説が多く、他の説では山田十右衛門という重恒の寵臣が』三名いた『家老の権勢を疎んじて重恒にこの』家老らを讒言、それを信じた重恒が三名の家老を殺害するも、『しかし重恒自身もまもなく狂気で自殺したと』も言われているらしい。『いずれにしろ、重恒に実子も養子もなかったことは確からしく、そのため重恒の死去により、無嗣断絶で古田氏は改易となった』とある。さればその「後室」とあるこの「大梅院」という女性も相応に苦労されたものと推察する。
「收玄菴」白井永二編「鎌倉事典」によれば、この後の大正一二(一九二三)年に光則寺日慈が本堂を建立し、「收玄寺」となったのは第二次世界大戦後のこととある。]
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