『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 延命寺
●延命寺
米町にあり、歸命山と號す、本尊彌陀、及び地藏を安す、此像は北條時賴の夫人あ念持佛(ねんじぶつ)にて、身代地藏と稱す、夫人此佛德にて、無實の難を遁れし事あり、故に身代(みがはり)の稱呼起れりと云ふ、是より北條氏代々の念持佛なりしが、正慶年中、更に一宇を建立して、安置せしと傳ふ。
[やぶちゃん注:現在の材木座一丁目、下馬四ツ角の近くに浄土宗寺院として現存する。以下、黄門さま大激怒の「新編鎌倉志卷之七」から、私の注ごと引いておく。この怒り用ようが実に面白いんである。
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〇延命寺 延命寺(えんめいじ)は、米町(こめまち)の西にあり、淨土宗。安養院の末寺なり。堂に立像の地藏を安ず。俗に裸(はだか)地藏と云ふ。又前出(まへだし)地藏とも云ふ。裸形(らぎやう)にて雙六局(すごろくばん)を蹈ませ、厨子に入れ、衣(きぬ)を著せてあり。參詣の人に裸にして見するなり。常(つね)の地藏にて、女根(によこん)を作り付けたり。昔し平の時賴、其の婦人との雙六を爭(あらそ)ひ、互ひに裸にならんことを賭(かけもの)にしけり。婦人負けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じ局(ばん)の上に立つと云ひ傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起こさしめん爲(ため)の佛を、何(なん)ぞ猥褻(わいせつ)の體(てい)に作るべけんや。
[やぶちゃん注:編者は珍しく、聖なる地蔵を女体に刻んで、あろうことか会陰まで施すなんどということは破廉恥極まりないと不快感を示し、吠えている。面白い。白井永二編「鎌倉事典」によれば、この本尊は江戸への出開帳も行ったとあり、恐らくこの秘所を参拝者に見せることが行われていたのではなかろうか。現在okado氏のブログ 「北条時頼夫人の身代わりとなったお地蔵さま~延命寺~」でかなり古い法衣着帯の写真を見ることが出来る。「總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ」とあるが、これは感情的な謂いで、正しくない。鎌倉期には仏像のリアルな写実性が追及され、また生き仏のニュアンスを与えるために裸形の仏像に実際の衣を着せることが一部で流行した。奈良小川町にある伝香寺の裸地蔵、同じく奈良高御門町の西光院の裸大師、西紀寺(にしきでら)町の璉城寺(れんじょうじ)の光明皇后をモデルとしたとされる裸形阿弥陀如来像、奈良国立博物館所蔵裸形阿弥陀如来立像等がそれで、実際に私は以前にある仏像展の図録で、そうした一体の裸形地蔵写真を見たことがあるが、その股間には同心円状の何重もの渦が彫り込まれていた。聖なる仏にあっては生殖器は正に異次元へと陥入して無限遠に開放されているといった感じを受けた。但し実はそれは私には、デュシャンの眩暈の「回転硝子盤(正確さの視覚)」を見るようで、デュシャン的な意味に於いて、逆にエロティクに見えたことを付け加えておく。]
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「米町」「鎌倉攬勝考卷之一」の「鎌倉中被定置町屋の名(鎌倉中、定め置かるる町屋の名)」にあるのがそれ。私の注ごと引く。
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穀町[米町同所] 大町の四辻より、西は琵琶橋へ達する横町をいふ。此邊は建曆三年五月六日和田亂の時、足利義氏町の大路にて陣を張とあり。又米町辻、大町の大路にて所々合戦とあるは此邊なり。
[やぶちゃん注:これは「吾妻鏡」の建暦三(一二一三)年五月小二日の和田合戦の記事中に「又於米町辻大町大路等之切處合戰。足利三郎義氏。筑後六郎知尚。波多野中務次郎經朝。潮田三郎實季等乘勝攻凶徒矣。」(又、米町の辻、大町大路等の切處(せつしよ)に於て合戰す。足利三郎義氏、筑後六郎知尚、波多野中務次郎經朝、潮田(うしほだ)三郎實季等、勝つに乘じて凶徒を攻む。)の箇所を言うか。「切處」は戦闘時の要所の謂いであるらしい。]
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ちなみに「穀町」は「こくまち」と読んだものと思われる(白井永二編「鎌倉事典」の「米町」ではそう読んでいる)。
「正慶年中」「しょうきょう」或いは「しょうけい」と読む。持明院統、後の北朝方に於いて使用された元号。幕府滅亡の前後で指示し難いが、元徳四/元弘二年四月二十八日(一三三二年五月二十三日)に正慶に改元されたが、翌正慶二/元弘三年に鎌倉幕府は滅亡して後醍醐天皇が還幸、同五月二十五日(一三三三年七月七日)に光厳天皇が退位して正慶の元号は廃されて建武へと改元されたから、物理的にはその期間を指すとは言える(が、しかし、後醍醐天皇はこの時に光厳天皇の即位と「正慶」の元号の無効を宣言してしまっている。以上はウィキの「正慶」を参照した)。]

