『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 淨光明寺〔附綱引地藏〕
●淨光明寺〔附綱引地藏〕
淨光明寺は泉谷にあり。泉谷山と號す。眞言、天台、禪律の四宗兼學なり。建長三年。北條武藏守長時か剏造(べんざう)にして僧眞阿を延て開祖す〔永仁四年九月二十四日寂す〕應永六年十月。基氏氏滿の遺骨を滿兼當寺に納めらる。
佛殿 本尊彌陀〔座像長四尺五寸〕上品上生(じやうぼんじやうしやう)の彌陀と云ふ。土俗は寳冠の彌陀と稱す。左右に觀音、勢至〔各長二尺八寸〕を置く。又開山眞阿及ひ北條長時の像〔座像長一尺七寸〕を安す。
鐘樓 正保二年。鋳造の鐘を掛く。
網引地藏 佛殿の後山石窟の内に安す。石像〔長二尺五寸〕なり。右昔由比の海濱にて漁父か網にかけて引(ひき)あけしにより此唱あらりと云ふ。此像一説には藤原爲相か建立とも傳ふ。背に供養導師性仙長老正和(せいわ)元子年十一月日施主眞覺とあり。窟中(くつちう)に凹あり〔長五尺横三尺深五寸〕水(みづ)常に湛(たゝ)へて潮汐(うしほ)の候に從ひて增減(ざうげん)す云ふ。
不動堂 本堂の西にあり。座像なり。之を八坂不動といふ。淨藏貴所。八坂の塔の傾きたるを祈り直せし時の本尊なり。僧文覺鎌倉に負來りしを後當寺に安置すと傳ふ
多寳塔 僧忍性(にんしやう)の墓といふ〔忍性は郡中極樂寺の開山なり〕石の五輪にて經塚とも稱す〔長一丈一尺〕
冷泉爲相墓 網引地藏(あみひきぢざう)の後山頂上にあり。五輪塔なり〔高五尺五寸〕月巖寺殿玄國昌久と刻す。爲相倭歌所の事(こと)により兄爲氏と論爭あるて遂に母阿佛尼共に鎌倉に下り。遂に此他にて終れりと云ふ。
[やぶちゃん注:私が最も偏愛する鎌倉の寺である。「新編鎌倉志卷之四」の「淨光明寺」の注に記した私の言葉を再度、掲げておく。……私は大学生の時分、夏の夕暮れに、初めてこの寺を訪れた。庭を掃除なさっておられた先々代住職大三輪龍卿師から声を掛けて頂き、話をさせていただく内に、何故か師に痛く気に入られてしまい、特別にこの阿彌陀三尊像を拝観させて頂いたのを忘れない。収蔵庫のライトを総て点けて下さり、土紋も数センチの距離から実見させて頂いた。「重要文化財に指定されると、雨漏りのする本堂には置いておけない。管理も五月蠅くってね、金もかかる。信仰の対象だったものを秘仏のように蔵に入れておくのは、信仰とは違うね。」とおっしゃったのを今も忘れない。そうして――私はその時――直下から見上げたこの上品中生印のしなやかな指と――その先に透ける阿彌陀如来の静謐な尊顔に――曰く言い難い不思議なエクスタシーを感じたのであった――それは私の若き日の――忘れ難い鎌倉の稀有の美の一瞬――だったのだ。……
「建長三年」一二五二年。
「北條武藏守長時」(寛喜二(一二三〇)年~文永元(一二六四)年)は第六代執権(執権在任は康元元(一二五六)年~文永元(一二六四)年)であるが、極楽寺流北条重時嫡男で得宗ではなく、一時病がちとなって隠居した時頼が、その子時宗を継がせるために、中継ぎで名目上、執権としたに過ぎない存在で、実権は健康を回復した時頼に握られていた。なお、本寺創建当時(先の年号が正確とすれば)は彼は執権ではなく六波羅探題北方であった(但し、この年に帰鎌している模様)。この寺の創建も現在は事実上、時頼と長時二人の発願とされる。
「剏造(べんざう)」この読みは誤り。これは「さうざう(そうぞう)」と読むはずである。「剏」は始めるの意で創建と全く同じい。実際、「創建」は「剏建(そうけん)」とも書く。
「眞阿」(?~永仁四(一二九六)年)。注意したいのはこの僧は浄土宗であることで、本寺は創建当時、極めて浄土教系の強い寺であったことが判る。白井永二編「鎌倉事典」によれば三世性仙道空や四世如世高慧といった平安旧仏教系統を引いた長老が住持となるに及び、その後、永く真言・天台・禅・律の四宗兼学の道場となったのであった。但し、現在は古義真言宗泉涌寺派に属している。
「延て」「ひいて」と読む。招くの意。
「永仁四年」一二九六年。
「應永六年」一三九九年。
「滿兼」天授四/永和四(一三七八)年~応永一六年(一四〇九)年)第三代鎌倉公方で基氏は祖父で初代の、氏満は父で第二代鎌倉公方である。
「四尺五寸」一・三六メートル。
「上品上生の彌陀」上品中生の誤り。私が鎌倉で最も偏愛する仏像である本像は胸前に両手を挙げてそれぞれ左右、親指と人差指を接触させた説法印――上品中生印――である(この印形が何とも謂えず素敵なのである!)。更に言わせて貰えば、この説明本像の鎌倉地方の仏像に特有の技法である土紋(どもん:粘土や漆などを混ぜたものを花などの文様を彫った木型に入れ、それを型抜きして仏像の衣部分に押し付けて接着し、極めて立体的な衣紋を表したもので、本像では肩・袖・脚部などに現在でもはっきりと見られる)に言及していないのは頗る不満である。
「二尺八寸」約八十四・八五センチメートル。
「一尺七寸」約五十一・五二センチメートル。
「正保二年。鋳造の鐘を掛く。
「二尺五寸」約七十五・七六センチメートル。
「正和元子年十一月」一三一二年。壬子(みずのえね)年である。なお、この年は三月二十日に応長二年(ユリウス暦一三一二年四月二十七日)に正和に改元されている。
「長五尺横三尺深五寸」長辺一・一五メートル、短辺九十・九センチメートル、深さ約十五センチメートル。
「藤原爲相」は歌道の冷泉家始祖である冷泉為相(弘長三(一二六三)年~嘉暦三(一三二八)年)。ウィキの「冷泉為相」によれば、建治元(一二七五)年の父為家死去後、父親の所領『播磨国細川庄』(現在の兵庫県三木市)『や文書の相続の問題で』正妻の子である『異母兄為氏と争い、為相の実母である平度繁の娘(養女)阿仏尼が鎌倉へ下って幕府に訴え』、『為相も度々鎌倉へ下って幕府に訴え』て結果的に勝訴する。その中で、『鎌倉における歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして鎌倉連歌の発展に貢献』し、『娘の一人は鎌倉幕府八代将軍である久明親王に嫁ぎ久良親王を儲け』るなど、公家でありながら幕府との親密な関係を終始持った。『晩年は鎌倉に移住して将軍を補佐し、同地で薨去している』。『冷泉家の分家に藤谷家があるが、藤谷家の家名は為相が鎌倉の藤ヶ谷』に『別宅を構えたことに由来』し、『為相は山城国の他の公家からは、藤谷黄門と呼ば』れた、とある。なお、彼の母で歌人でもあった阿仏尼(貞応元(一二二二)年~弘安六(一二八三)年)は、「十六夜日記」によって弘安二(一二七九)年に訴訟のため入鎌していることが分かるが、勝訴を得る以前に鎌倉で没したとも、帰洛後に没したとも言われる。現存する阿仏尼墓と称するものが近くの英勝寺墓地の崖下にあり、台座に「阿佛」の刻印があるが怪しい。後代の供養塔の可能性はあるにしても、そもそもここに記されるように尼である彼女の墓ならそれは卵塔でなくてはならないのに、現存するものは多層塔で如何にも新しいからである。この藤ヶ谷の峰上の息子為相の墓と近いとはいえ、逆に有意に離れているというのも私には気になるのである。
「淨藏貴所」(寛平三(八九一)年~康保元(九六四)年)は平安中期の天台僧。文章博士三善清行八男。平将門の調伏や多くの霊験・呪術で知られたゴーストバスターである。
「八坂の塔」は現在の東山区八坂通にある霊応山法観寺の五重塔のこと。本寺は八坂寺とも呼称し、塔も八坂の塔とも呼ばれる。天暦二(九四八)年に、この塔が西に傾いた際、東隣の雲居うご寺の僧であった浄蔵がこの不動像に加持祈禱して元に戻したという伝承があることから、「八坂不動」と呼ぶとされる。後、この不動は京の高雄山に祀られてあったようだが、文覚が以仁王の令旨を本像胎内に隠し、伊豆に配流されていた頼朝に渡したともされる。
「一丈一尺」一・三三三メートル。
「五尺五寸」一・六六六メートル。
「倭歌所」「わかどころ」と読み、勅撰和歌集の撰述などを行うために宮中に臨時に設置された役所である和歌所のこと。但し、先の藤原為相で注した通り、実際には親族内の生臭い争いが核心にあった。]
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