みまかれる美しきひとに 立原道造
みまかれる美しきひとに
まなかひに幾たびか 立ちもとほつたかげは
うつし世に まぼろしとなつて 忘れられた
見知らぬ土地に 林檎の花のにほふ頃
見おぼえのない とほい晴夜の星空の下(もと)で
その空に夏と春の交代が慌しくはなかつたか
――嘗てあなたのほほゑみは 僕のためにはなかつた
――あなたの聲は 僕のためにはひびかなかつた
あなたのしづかな病と死は 夢のうちの歌のやうだ
こよひ湧くこの悲哀に灯をいれて
うちしほれた乏しい薔薇をささげ あなたのために
傷ついた月のひかりといつしよに これは僕の通夜だ
おそらくはあなたの記憶に何のしるしも持たなかつた
そしてまたこのかなしみさへゆるされてはゐない者の――
《林檎みどりに結ぶ樹の下におもかげはとはに眠るべし》
[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部の初期詩篇抄出二十七篇の内の一篇。
「まなかひ」万葉以来の上代語で私の偏愛する語彙である。「眼間」「目交」(「目(め)の交(か)ひ」)とも書くが、目と目の間・目の辺り・目の前の意である。「ま」は「目(め)」に同じく、「な」は「つ」の意の古い連体修飾格の格助詞(但し、残念なことに奈良以降、格助詞としての自由な使用機能を全く喪失して単体では死語化しまった)、「かひ」はハ行四段活用の自動詞「交ふ」(双方が行き違う・交(まじ)る)が名詞化してさらに接尾語となったもので、本来は両眼の視線が重なり合って交差する箇所を表わすものである。則ち、この語は両眼の視線が交わって、そこでピントが一致してゆき、そこに鮮やかな対象の現像が現われる過程を、そこだけごく僅かなスローで動的に演出させるところの、極めてタルコフスキイ的な映像イメージを持つ稀有のものと私は勝手に捉えているのである。
「立ちもとほつた」ラ行四段活用の自動詞「たちもとほる」も上代以来の古語で、「立ち徘徊る」などと漢字を当てるが「徘徊」の字は生理的に好まぬ。しかし確かにこれは、あちらこちらそわそわと歩き廻る/心落ち着かず行きつ戻りつする/ただ意味もなくぶらつくで、即ち、徘徊(はいかい)するの意ではある。
「うつしよ」「現し世」で、この世。現世(げんせ)で、「世」がついて名詞化してしまうと圧倒的な仏教伝来以降の区分化された業としての「現世」になってしまうが、「うつし」という語自体は仏教伝来以前から存在したやはり上代語であり(「古事記」「万葉集」の判読例に出現する)、「うつし」(現し・顕し)というシク活用の形容詞の語幹が「世」に附いたものとして、矮小化された汚穢と因業に満ち満ちた低次の「無常」なる世界という呪縛的意味から解き放って味わうべき語と考える。少なくとも前に純化された儚くも(しかしそれは(仏教的な憐憫の無常観とは無縁の)美しい語が鏤められている本連では特にそう捉えるべきであると考える。「うつし」とは「うつつなること」であって、現に生きてある/現実である、の意、或いは意識上の問題として、正気である/真(まこと)である、というポジティヴとは言わずともフラットな要素をもっと含んだものであったことを我々は忘れている。寧ろ、「うつつ」がそういうものであればこそ、そこから永遠に去った者の影は我々を痛烈に哀しませるのである。
「晴夜」「せいや」と読む。さわやかに晴れ渡った夜の意で、さればこそ満天の星空なのである。月は出ていないがよい。月光は寧ろ、瞬く星の光源を隠してしまうから。]
« 『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 妙本寺 | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど) (四) »