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2015/09/28

柳田國男 蝸牛考 初版(10) 蛞蝓と蝸牛

       蛞蝓と蝸牛

 

 蝸牛の方言の新たに發達して居る土地の人には、是は或は意外な事實かも知らぬが、蛞蝓と蝸牛とが名を一つにして居ることは、決して珍らしい例でも何でもないのである。先づ九州では肥前・肥後・筑後の各地、壹岐の島にも蝸牛のナメクジあり、日向の島野浦でも雙方ともナメクジである。併しこれでは何れか一方のみを、特に珍重する者には不便である故に、やはり分化の法則に從うて、追々に其別を設けようとしたことは事實であって、乃ち肥前の諫早に於ては、蝸牛をツウノアルナメジと謂ひ、肥後の玉名郡では約してツウナメクジと謂つて居る。ツウは明らかにツブラの變化であるが、今は一般に甲良、若くは「かさぶた」といふやうな意味に解せられて居るらしい。肥後でも熊本以南、宇土八代球磨の諸郡では、蝸牛のナメクジは其儘にして置いて、却つて蛞蝓の方をばハダカナメタジと謂ふことになつて居る。

[やぶちゃん注:「日向の島野浦」宮崎県の北端日向灘北部に位置する島浦島(しまうらとう)。現在の宮崎県延岡市島浦町(しまうらまち)。ウィキの「島浦島」によれば、『延岡市北東部の浦城港から東へ約』六キロメートル、延岡市北浦町古江から約四キロメートルに位置する有人島で、『宮崎県内最大の島である。集落は北西部に集中する。日豊海岸国定公園に属している』。『黒潮が島の周囲に流れ、外海に面した海岸は切り立った岩壁の険しい海蝕崖をなし、海蝕洞も数多く変化に富む景観をつくっている』。『長い間、瀬戸内海~薩摩航路の中継地で『日向地誌』によると』一千石未満の船なら百四十から百五十艘もが係留出来たという。『島浦港は江戸時代、延岡藩主内藤氏が参勤交代の際、最初の寄港地としていた』。人の定住は元禄年間(一六八八年~一七〇四年)からで、『四国の徳島からの移住者が多かったといわれる』とあり、この最後の叙述は本文に関わって興味深い情報と思われる。

「玉名郡」有明海の諫早湾の東の対岸、福岡県大牟田市の南の、現在の熊本県玉名市及び玉名郡の旧郡名。

「ツウは明らかにツブラの變化であるが、今は一般に甲良、若くは「かさぶた」といふやうな意味に解せられて居るらしい。」この箇所は改訂版では『ツウはおそらくはツブラの變化だろうが、今は一般に甲良、若くは「かさぶた」といふやうな意味にしか解せられていない。』と前後で断定と推量が入れ替わっていて、少し不審がある。「甲良」は甲羅であろう。]

 

 國の他の一端にも同樣の例がある。たとへば青森縣でも津輕を始として、蛞蝸二つながらナメクジといふ名を持つ土地が弘い。さうして前に擧げたツノダシ、ツノべコの方言は、やはり亦蛞蝓にも適用して居るのである。それから縣境を越えて北秋田の比内地方に入ると、わずかに區別の必要を認めて、今では蝸牛の方だけをナメクジリ、蛞蝓はナメクジと謂つて居る。岩手縣でも盛岡の附近は、二つともにナメクジラの語によつて知られて居るが、特に蝸牛のことのみをいふ場合には、やはり肥前の諫早などと同じく、長たらしくカエンコノアルナメクジラと謂ふさうである。同じ一致は又丁度、津輕と島原との中程にも見出される。たとへば飛驒の北部に於ては蝸牛蛞蝓共にマメクジリ、又はマメクジラであり、中國では安藝の安佐郡北部なども、二つともにナマイクジリである。伊豆七島の神津島などでは、蝸牛の方言はカイナメラ、さうして蛞蝓の名はナメランジであつて、それがナメラ蟲から出たことは、相州の津久井又は媒ケ谷の山村に於て、後者をナメラ若くはナメラクジといふのからも類推せられる。如何なる事由に基づくかは知らず、伊豆海島の方言は、却つてやゝ相模の方に近いものが多い。是が行く行く又マイマイ小牛の名の起源の、曾てこの地方にも獨立してあつたことを、心付かせる端緒にならうも知れぬのである。ナメラ・ナメラックジの蛞蝓方言は、今尚横濱四周の海近くの村でも耳にすることがある。即ちマイマイツブロといふ蝸牛の名は、必ずしもさう古くから此の土地にあつたものと、考へることは出來ないのである。

[やぶちゃん注:「島原」津軽半島の根の五所川原の南に位置する青森県弘前市楢木島原を指すか。

「安佐郡」「あさ」と読み、現在の広島市の西部。旧高宮・沼田両郡が統合した旧郡名。

「カエンコ」文脈から言えば盛岡方言で角の意であろうが、現認出来ない。

「媒ケ谷」「すすがや」と読む。神奈川県北西の愛甲郡にあった村で、現在の愛甲郡清川村煤ヶ谷。]

 

 此等最も顯著なる五箇處の例の外に、尚この二つの動物の名が、曾て同じであつたといふ痕跡を、留めて居る土地は幾らもある。たとへば福島縣の石城郡で、蝸牛をツノベコのほかにカイナメクジといふのは、もと兩方ともにナメクジと呼ぶ習ひがあつた證據である。奧州南部領でも南端の遠野地方などは、蝸牛をヘビタマグリ又はタマクラといふ以外に、ナメクジラとも稱へて居て、しかも蛞蝓の方だけを差別してヤマヒルと謂ふ人が多いのである。方言は一つの土地に必ず一つしか無いものゝやうに、速斷して居る人には解しにくいことだらうが、言語は決して法令の如く、今日から別のものに改めるといふ區切りなどは立つものでは無い。寧ろ改まつて來たのは選擇があつたこと、即ち七分三分に併存したものゝ、二つ以上あつたといふことを推察せしめるのである。だからマイマイ領域の殆ど中心とも目せられた天龍川水域の兩側などにも、マメクジといふ語は相應に認められて居り、それを主として蝸牛の方に用ゐて、蛞蝓には別に名を付與した例さへ多いのである。たとへば遠州の掛川附近でオヒメサマまたはオジヨウロ、三河の長篠あたりでオンジヨロサマ、是が何れも蛞蝓の名であつた。これも別種の童詞を持ち、或はあの斑紋を伊達な衣裳、あの角を簪や笄に見立てたからでもあらうが、兎に角にさういふ名の入用になつた元はといふと、差別の必要、ことにマメクジといふ名を是非とも貝のある蝸牛の方に、持たせて置きたかつた希望からである。他に何等か今少し手輕な方法があるなら、それによつて差別しても良かつたのである。三河の南設樂郡及び尾張東春日井郡のある村では、マメクジといへば蝸牛、蛞蝓は之をメメクジと謂ふと、各々其郡誌には見えて居る。さうかと思ふと土地は忘れたが、ナメクジは蛞蝓のことであつて、マメクジは則蝸牛のことであると、教へてくれた人もあつた。併しさういふ紛れ易く移り易い二つの名を以て、最初から二者を差別したのでは無かつたらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「オジヨウロ」「オンジヨロサマ」改訂版では「オジョウロ」「オンジョロサマ」と表記。

「簪や笄」「簪(かんざし)や笄(かうがい(こうがい))」で、「笄」は元「髪搔(かみかき)」の転化した語とされ、本来は、結髪を整えるための道具として毛筋を立てたり、頭の痒いところをかいたりするために髪に挿した箸に似た細長い棒状のもので男女ともに用いた。象牙・銀などで作ったが、それが本邦の江戸時代には髷(まげ)などに挿すための、金・銀・鼈甲・水晶・瑪瑙などで作った女性用髪飾りの一つに変化したものである。現行では「笄」は広義の「簪」に含まれるようになってしまったが、本来の「笄」は昔の結髪の際、長い髪を巻きつけて固定させるために使用された、全くの棒状のもののみを指したのである。後にそれが装飾具へと変化し、江戸後期には「笄」の両端に装飾目的の「簪」をつけるようにり、江戸末期には「笄」本来の実用目的から離れて「簪」同様に「笄を」後差しするという純装飾具へと変化したのである(ここでは一部で katura_shige 氏のブログ「和装婚礼通信」の「簪・櫛・笄について調べてみました」を参考にさせて戴いた)。]

 

 或は又肥前の島原半島でも、深江といふ村などは蝸牛はナメクジ、蛞蝓はミナクジといふと報ぜられてゐる。今一度問ひたゞしてみたいと思ふわけは、これが逆さまであつたなら私などにはよく分かるので、一方は即ちミナナメクジ、蜷のあるナメクジと解せられるからである。それから尚一つ伊豆の八丈島で蛞蝓をダイロメ、對馬の豐崎村でも蛞蝓をダイリヨウといふのは、前に私の假定したダイロは貝から「出ろ」の意味だといふ説と、兩立せぬやうにも思はれるが、これもハダカダイロなどの元の意味を忘れ、ただその語の前半を省略したものと解すれば、格別の不思議は無いのである。蛞蝓を裸ダイロといふ例は、上州の邑樂郡又武藏の秩父郡にもある。安房では蝸牛が單にメャメャアであつて、蛞蝓の方はハダカメャメャアと謂つて居る。常陸の蛞蝓は小野氏の本草啓蒙に依れば、ハダカマイボロと呼ばれた土地もあるらしいが、近年下野河内郡の富屋村で採集した例では、これをナイボロまたはネヤポロと謂つて、たゞ蝸牛のみをダイロと謂つて居るとある。即ち玆も一つの邊疆であるが故に、一方は北から來た大勢に順應し、他方は即ち南隣の形を移したのである。ナイボロ・ネヤボロは前にも述べた如く、本來マイマイツブロの轉訛に過ぎなかつた。是も頭にハダカといふ語を附けなければ、蛞蝓の名になる筈は無いのであつた。しかも人は二者混亂の虞が無い限り、かゝる理由無き略稱にも從はうとしたのである。蛞蝓は又同じ下野でも芳賀郡などはエナシメ、常陸は西茨城郡其他でイナシと謂つて居る。話主は却つてもう忘れて居るか知らぬが、これは疑ひも無く「家無し蝸牛」の上略であつた。上總も西岸の舊望陀地方では、蝸牛はメエメツポで、蛞蝓はエーナシまたはイエナシである。或は又エーナシゲゲポといふ例もあることは、上總國誌稿に見えて居るが、ゲゲポは即ち亦一つ前の蝸牛の方言で、是はマイマイボウにデデムシの影響のあつた例だである。「家無し」といふ限定詞は此の如く、多くの蛞蝓方言の上に附けられたのであつた。美濃の舊方縣地方はデンデンムシ領であるが、玆でも蛞蝓はエナシと謂ひ、尾張の葉栗村はメエメエコウジの飛地であるが、玆でも亦其方をイエナシと謂つて居る。寛延年間の「尾張方言」にも、また蛞蝓をヤドナシといふ語が錄せられて居るのである。

[やぶちゃん注:「小野氏の本草啓蒙」江戸後期の享和三(一八〇三)年に刊行された本邦に於ける本格的な本草学研究書の一つである「本草綱目啓蒙」のこと。全四十八巻。本草学者小野蘭山(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年:二十五歳で京都丸太町に私塾衆芳軒を開塾、多くの門人を教え、七十一歳にして幕命により江戸に移って医学校教授方となった。享和元(一八〇一)年~文化二(一八〇五)年にかけ、諸国を巡って植物採集を行い、享和三(一八〇三)年七十五歳の時に自己の研究を纏めた「本草綱目啓蒙」を脱稿した。本草一八八二種を掲げた大著で三年かけて全四十八巻を刊行、日本最大の本草学書になった。衰退していた医学館薬品会を再興、栗本丹洲とともにその鑑定役ともなっており、親しい間柄であった。後にこの本を入手したシーボルトは、蘭山を『東洋のリンネ』と賞讃した。以上はウィキの「小野蘭山」に拠る)が、明の本草学者李時珍の著になる本草学の大著「本草綱目」について口授した「本草紀聞」を、孫と門人が整理したものである。引用に自説を加えて方言名なども記されてある。

「邑樂」は「おふら(おうら)」と読む。群馬県に現存する郡であり、所謂「平成の大合併」に於いても群馬県内の郡では唯一、全町が独立を保っている郡でもある。

「邑樂」は「おふら(おうら)」と読む。群馬県に現存する郡であり、所謂「平成の大合併」に於いても群馬県内の郡では唯一、全町が独立を保っている郡でもある。

「メャメャア」「ハダカメャメャア」は何故か改訂版では「メャメャ」「ハダカメャメャ」と表記を変えてある。

「下野河内郡の富屋村」現在の栃木県宇都宮市の富屋地区。現在の東北自動車道の日光道の分岐の宇都宮インター附近である。

「舊望陀地方」旧望陀郡(もうだぐん)。千葉県にあった郡で、小櫃川流域を中心とする地域。現在の袖ケ浦市全域及び、木更津市・君津市・鴨川市の各一部に相当する。

「メエメツポ」改訂版では「メェメッポ」。

「舊方縣地方」旧方県郡(かたがたぐん)域。同郡は美濃国にかつて存在した郡で現在は岐阜市の一部。

「尾張の葉栗村」旧葉栗(はぐり)郡葉栗村。現在の愛知県一宮市葉栗地区。

「メエメエコウジ」改訂版では「メェメェコウジ」。

「寛延年間」一七四八年から一七五〇年.

 

 ナメクジといふ語の初の半分が、あの粘液を意味して居たことは想像することが出來る。現に其異名を沖繩諸島ではアブラムシ・ヨダレムシ・ナメムシ等、近江の東部ではハナクレムシ、熊野の海岸ではヤネヒキ、大和の十津川ではヤネクヂラなどゝ謂つて居る。是がもし此蟲の第一の特徴であつたとすれば、蝸牛にもそれは共通のものであつた。だから鹿兒島縣の一地には、又ユダレクイミナ(涎くり蜷)の方言が行はれて居るのみならず、中部日本の蝸牛の童詞にも、火事があるから出て水をかけろだの、湯屋に喧嘩があるから棒を持つて出て來いだのといふ、をかしな文句が多いので、何れもその體がぬれぬれと滑らかなるを見て、興を催した結果に他ならぬと思ふが、しかも其ナメクジの本意が少しでも不可解になると、やがては次に生れたるマイマイの名と複合して、いつと無くマイマイ小牛の歌を生ずるに至つたのである。けだしナメムシ・ナメラといふ語の今でも各地にあるのを見ると、クジといふ下半分は後から附いたに相違ないが、其意味はなほ一段と察し難い。倭名鈔や本草和名などの古訓は奈女久知であつて、少なくとも記錄者は之を小牛や小蛆と認めなかつたのであるが、蛆をゴウジと謂ひ小牛をクウジといふ地方語も、相應に弘く分布して居たので、それを其積りで使用する風は、既にナメクジ共用の時代からあつたのかも知れない。角を面白がる小兒たちには、單なる有り來たりの音符號として、奈女久知のクチを取り扱ふことが出來なかつたのは自然である。さうして之を小牛の音の如く解したのは、必ずしもマイマイといふ新語の出現に伴なふことを要しなかつたらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「本草和名」「ほんざうわみやう(ほんぞうわみょう)」と読み、深根輔仁(ふかねすけひと)の著になる平安時代の本草書で二巻。延喜一八(九一八)年頃の成立で、本草約千二十五種の漢名に別名・出典・音注・産地を附して万葉仮名で和名を注記したものである。]

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