小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (四)
四
長い橋を越え、高い鳥居の下を通って、勾配の上って行く町へ行った。江ノ島のやうに、杵築も町の門として、鳥居がある。しかし唐金のではない。それから、洋燈を默じた開放せる店肆。高く彎曲せる軒の下に續ける、兩側の明るい障子。唐獅子で護られた佛寺の門。寺の境内の灌木が踰え出でてゐる、長い低い瓦屋根の塀。社頭に他の高い鳥居の建てる神道の宮など、それらはちらと見えたが、大社は、面影さへ見えなかつた。それは町の背後に當つて、森の茂った山麓にあるのだ。しかも私共はあまりに疲れ、且つ空腹なので、今、參詣することを得ない。それで、私共は廣い心地よげな杵築一等の宿屋の前で車を止めた。して、休憩して食事をし、精巧な陶器の小杯で酒を汲んだ。この杯は或る美しい藝妓が宿屋へ贈つたのだ。それから後で、宮司を訪ねるのには、餘りに遲くなつたので、私は使の者に紹介狀を持たせて、明日午前伺候を許されたい旨を、晃の筆で認めた懸願と共に、宮司の邸へ遣した。
それから、親切らしい宿屋の主人が、點火せる提燈を携へてきて、私共を誘つて大社ヘ案内した。
大概の家は、夜に入りて既に木造の引戸を閉めたので、街頭は暗く、主人の提燈は是非必要であつた。月も無く、空に星もなかつたから、私共は本通りを六丁目ほどの處へ行つてから曲がると、大社の並木道の門、大きな靑銅の鳥居の前へ出でた。
[やぶちゃん注:今回、ネット検索によってハーンは出雲大社を記録にあるだけでも三度参拝しており、既に述べた通り、この最初の参拝については、「八雲会」の「松江時代の略年譜」によって、大社町に到着したのが明治二三(一八九〇)年九月十三日であり、「七」以下の千家尊紀宮司とともに西洋人として初めて大社に昇殿したのは翌九月十四日のことであることが判った。因みにこれらのリンク先には、以前にも記した通り、八月三十日午後四時に汽船(人力車ではなく)で松江に到着したこと、そのわずか三日後の九月二日には松江中学及び師範学校に初出勤しているという詳細も判明した。ここにリンクするとともに、細かな情報を与えてくれた謝意を表したい。私の所持する小泉八雲の関連書の年譜ではこうした日付まで記したものがないからである。
「江ノ島のやうに、杵築名町の門として、鳥居がある。しかし唐金のではない」「第四章 江ノ島巡禮」の「一五」を参照。現在もそうだが、江の島の島の正面参道の前(当時は海浜の直近であった)に建つ鳥居は「全部靑銅で、上には靑銅の七五三繩が附いてゐて、また『江島辨天宮』と書いた眞鍮の額が掛つてゐ」たのである。老婆心乍ら、「唐金」は「からかね」と読み、青銅のことである。この鳥居がどこにある鳥居なのか、調べ得なかった。識者の御教授を乞うものである。
「踰え」老婆心乍ら、「こえ」(越え)と読む。
「廣い心地よげな杵築一等の宿屋」住吉神社公式サイト内の月刊『すみよし』のこちらの風呂鞏氏の『出雲大社「平成の大遷宮」』」の中に、大社の鳥居近く(南南西)にある老舗旅館「いなばや」(住所は杵築東七百二十一か。但し、引用先にも書かれているが、残念乍ら、数年前に廃業解体されて現存しないようである)が『ハーンが出雲大社訪問の際常宿としていた』とある。後の「第十一章 杵築のことゞも」の原注に「因幡屋」(原文“Inaba-ya”)と確かに出る。但し、初回の折りのこの宿が、この「いなばや」(因幡屋)であったかどうかは調べ得なかったが、一応、記しておく。
「月も無く」当日明治二三(一八九〇)年九月十三日の島根県日御碕での月の入り(但し、新月)は十八時九分、日没は十八時二十一分であった(いつも大変御厄介になっている「こよみのページ」に拠った)。
「伺候」は「しこう」と読み、通常は貴人のお傍に奉仕すること、目上の人の御機嫌伺いをすることを指す。ここは出雲大社の宮司という神職に見(まみ)える謂いであろう。因みに以前に注したが、当時の宮司千家尊紀は満三十歳、ハーンは四十である。但し、ここはハーンの青年書生である晃が添え状を記しているのであるから、「伺候」が後者の意味として実際に晃によって記されたとしてもおかしくはないとは言える。
「六丁目」これを厳密な距離単位とすれば、六百五十四メートル。旧「いなばや」の推定位置から大鳥居までは直線実測で百八十メートルほどしかないが、これは原文が“about six squares”で、本邦の距離単位としての「町(丁)」を未だ認識していなかったと思われるハーンを考えると、漠然と――街の小路のあるのを六区画ほど行くと――述べているだけかも知れない。とすれば必ずしも、宿は「いなばや」ではなかった、とは言えないと思われる。「横へ曲がると」という表現も地図上で、正式な参拝路をとるために一度南東に曲がって、やおら北の大鳥居方向へ歩くとするルートに相応しい(実際、夜道ならば宿の主人は安全なそれを採るはずである)。因みにその場合は大鳥居まで二百五十メートルほどとなる。]
Sec.
4
Over
a long bridge and under a tall torii we roll into upward-sloping streets. Like
Enoshima, Kitzuki has a torii for its city gate; but the torii is not of
bronze. Then a flying vision of open lamp-lighted shop- fronts, and lines of luminous
shoji under high-tilted eaves, and Buddhist gateways guarded by lions of stone,
and long, low, tile-coped walls of temple courts overtopped by garden
shrubbery, and Shinto shrines prefaced by other tall torii; but no sign of the
great temple itself. It lies toward the rear of the city proper, at the foot of
the wooded mountains; and we are too tired and hungry to visit it now. So we
halt before a spacious and comfortable-seeming inn,—the best, indeed, in
Kitzuki—and rest ourselves and eat, and drink sake out of exquisite little
porcelain cups, the gift of some pretty singing-girl to the hotel. Thereafter,
as it has become much too late to visit the Guji, I send to his residence by a
messenger my letter of introduction, with an humble request in Akira's
handwriting, that I may be allowed to present myself at the house before noon
the next day.
Then
the landlord of the hotel, who seems to be a very kindly person, comes to us
with lighted paper lanterns, and invites us to accompany him to the Oho-yashiro.
Most
of the houses have already closed their wooden sliding doors for the night, so
that the streets are dark, and the lanterns of our landlord indispensable; for
there is no moon, and the night is starless. We walk along the main street for
a distance of about six squares, and then, making a tum, find ourselves before
a superb bronze torii, the gateway to the great temple avenue.
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