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2015/10/01

『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 極樂寺

    ●極樂寺

極樂寺は。極樂寺阪を登り。西折する路北に在り。陸奥守北條重時の建(たつ)る所。開山は忍性苦菩薩良觀上人なり。寺は靈山(りやうせん)山と稱し。眞言律たり。本尊は釋迦佛。興聖菩薩の作。京都嵯峨のを摸(も)す。左右に十六弟子。左に興聖菩薩。右に忍性菩薩の像。幷に文殊菩薩を安置す。昔は四十九院ありしといふ。今尙ほ千服茶臼とて大なる石臼あり。鶴岡一の鳥居よりこゝに至る凡そ二十三四町なり。

北條重時墓は。寺後の山麓に在り。重時は左京太夫北條義時の第三子。赤橋三郞と稱す。後ち髮を削(そ)りて觀覺と號す。弘長元年十一月三日卒す。歲六十四

[やぶちゃん注:「北條重時」(建久九(一一九八)年~弘長元(一二六一)年)。北条義時三男。極楽寺流北条氏始祖。六波羅探題北方・連署。「極楽寺縁起」(永禄四(一五六一)年成立)に依ると、重時が、元は深沢にあった浄土教系の寺院を正元元(一二五九)年、当時は地獄谷と呼ばれていた現在の地に移したものとされている(極楽という寺号は恐らく死体風葬や遺棄地域であった「地獄」という旧名に対応するもの)。重時は建長八(一二五六)年に出家してより極楽寺に住した。

「忍性苦菩薩良觀上人」忍性(にんしょう 建保五(一二一七)年~乾元二(一三〇三)年)は真言律宗の僧。「良觀」は房名(通称)。私は「新編鎌倉志卷之六」の「極樂寺」に出る「忍性菩薩行状略頌」の読釈をした際、詳細な事蹟解説を施したが、あまりに細か過ぎ厖大で一般の読者には読み難い。以下、ウィキの「忍性」より引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。父は伴貞行(後に叡尊教団の斎戒衆となり慈生敬法房と名乗った人物か?)。大和国城下郡屏風里(現奈良県磯城郡三宅町)に生まれた。『忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事に、深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識されており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。忍性はここに石の鳥居を築造しこれらの人々を真言の利益にあずからせようとしたのだろう』。『師の叡尊は民衆への布教を唱えながら、自分には不得手であることを自覚して当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念し、その役割を忍性に託した。忍性は非人救済のみでは、それが却って差別を助長しかねないと考えて非人を含めた全ての階層への救済に尽力した。その結果、叡尊と忍性の間に齟齬を来たし、叡尊は忍性が布教に力を入れすぎて学業が疎かになっている(「良観房ハ慈悲ガ過ギタ」(『聴聞集』))と苦言も呈している。真言律宗が真言宗とも律宗とも一線を画していくことになるのには、忍性の役割が大きいと言われている』。『「性公大徳譜」によると忍性が生涯で草創した伽藍八十三ヶ所(三村寺・多宝寺・極楽寺・称名寺など)、供養した堂百五十四ヶ所、結界した寺院七十九ヶ所、建立した塔婆二十基、供養した塔婆二十五基、書写させた一切経十四蔵、図絵した地蔵菩薩千三百五十五図、中国から取り寄せた律三大部百八十六組、僧尼に与えた戒本三千三百六十巻、非人(ハンセン氏病患者など)に与えた衣服三万三千領、架橋した橋百八十九所、修築した道七十一所、掘った井戸三十三所、築造した浴室・病屋・非人所五所にのぼるとされている』とある。リンク先の略年譜もよく出来ている。

「本尊は釋迦佛。興聖菩薩の作。京都嵯峨のを摸す。左右に十六弟子。左に興聖菩薩」この前者の「興聖菩薩」は誤り(後に出る本尊「左に」配置された「興聖菩薩」(これも漢字表記を誤っている。後述)像の元記載の誤読が強く疑われる)。一般には本尊は「京都嵯峨の」清涼寺の「三国伝来の釈迦如来」を模刻させたものとされ、仏師は不明である。この清凉寺の本尊の方は、平安中期の東大寺の僧奝然(ちょうねん天慶元(九三八)年~長和五(一〇一六)年)が渡宋(北宋)し、五台山(一名清凉山)を巡礼した際、雍熈二(九八五)年に台州の開元寺で現地の仏師に命じ、一体の釈迦如来像を謹刻させて持ち帰ったものである。仏師張延皎及び張延襲の作で、像高一六〇・〇センチメートル、伝承では古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像の模刻で、「赤栴檀(あかせんだん)」というインドの香木で造られたとされている(インド・中国・日本と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれ、釈迦に生き写しとされて「生きているお釈迦様」とも呼ばれる)ものの、実際には「魏氏桜桃」という中国産桜材で作られてあるという。参照したウィキの「清凉寺によれば、『この釈迦像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に』百体近く『あることが知られ、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれる』。まさにその一体である(下線やぶちゃん)。極楽寺のこれは、台座内に永仁五(一二九七)年の銘がある後者の「興聖菩薩」は忍性の師である叡尊の菩薩号「興正菩薩」の誤記である。

「十六弟子」、釈迦の弟子達の主たる高弟十人。たまにはちゃんと注しておこう。ウィキ十六弟子による。『経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるが、維摩経では出家順に以下の通り』。舎利弗(しゃりほつ/智慧第一)・摩訶目犍連(まかもっけんれん 一般に目連と略称。神通(じんずう)第一)・摩訶迦葉(まかかしょう 頭陀(ずだ)
第一)・須菩提(しゅぼだい 解空(げくう)第一)・富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし 説法第一)・摩訶迦旃延(まかかせんねん 論議第一)・阿那律(あなりつ 天眼(てんげん)第一)・優波離(うぱり 持律第一)・羅睺羅(らごら 密行(みつぎょう)第一。彼は釈迦の長男とされ、釈迦の帰郷に際して出家して最初の沙弥(少年僧)となったというところから、本邦では寺僧子弟のことを「羅子(らご)」と称する)・阿難陀(あなんだ 多聞(たもん)第一)十人を指す。

「千服茶臼とて大なる石臼あり」忍性が貧病者のために茶を挽いたと伝承される千服茶臼。現在、境内に薬草をすり潰した製薬鉢とともに現存する。

「鶴岡一の鳥居よりこゝに至る凡そ二十三四町なり」「二十三四町」凡そ二・六キロメートル。「長谷寺」の注で示したように、これも「新編鎌倉志卷之六」の無批判な引き写しによる致命的な誤りである。この「鶴岡一の鳥居」とは「卷之一」の「鶴岡八幡宮」の叙述や図を見て頂けば分かる通り、現在、三の鳥居と呼称されている一番、八幡宮に近い入口の鳥居を指しているのである。但し、実際には現在の三の鳥居からは三キロを越える。]

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