村ぐらし 立原道造
村ぐらし
郵便函(ばこ)は荒物(あらもの)店の軒にゐた
手紙をいれに 眞晝の日傘をさして
別莊のお孃さんが來ると 彼は無精者(ぶしやうもの)らしく口をひらき
お孃さんは急にかなしくなり ひつそりした街道を歸つて行く
*
道は何度ものぼりくだり
その果ての落葉松(からまつ)の林には
靑く山脈が透(す)いてゐる
僕はひとりで歩いたか さうぢやない
あの山脈の向うの雲を 小さな雲を指さした
*
虹を見てゐる娘たちよ
もう洗濯(せんたく)はすみました
眞白い雲はおとなしく
船よりもゆつくりと
村の水たまりにさよならをする
*
あの人は日が暮れると黃いろな帶をしめ
村外(はづ)れの追分(おひわ)け道で 村は落葉松の林に消え
あの人はそのまゝ黃いろなゆふすげの花となり
夏はすぎ……
*
泡雲幻夢童女(はううんげんむどうじよ)の墓
*
晝だからよく見えた 街道が
ひどい埃(ほこり)をあげる自動車が
淺間にかゝる煙雲(けむりぐも)が
晝だから丘に坐つた 倒れやすい草の上
御寺(みてら)の鐘がきこえてゐた
とほかつた
*
せかせか林道をのぼつたら、蟲捕り道具を持つた老人に會つた。彼は遠眼鏡(えんがんきやう)をあてて麓(ふもと)の高原を眺めてゐた。もつとのぼると峽(かひ)があつた。木の葉が、雲の形を透(す)いてゐた。その下の流れで足を洗つた。すると氣分がよかつた。草原に似た麓の林に、光る屋根が見えてゐた。またおなじ林道をくだつた。もう誰にも會はなかつた。しばらくすると村で鳴く鷄(にはとり)を聞いた。はるかな思ひがわき、すぐに消え、ただせかせかと道をくだつた。長かつた。
*
村中でたつたひとつの水車小屋は
その靑い葡萄棚(ぶだうだな)の下に鷄の家族をあそばせた
うたひながら ゆるやかに
或るときは山羊の啼き聲にも節(ふし)をあはせ
まはつてばかりゐる水車を
僕はたびたび見に行つた ないしよで
村の人たちは崩(くづ)れかかつたこの家を忘れ
旅人たちは誰も氣がつかないやうに
さうすりやこれは僕の水車小屋になるだらう
[やぶちゃん注:底本は昭和六一(一九八六)年(改版三十版)角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」。「泡雲幻夢童女(はううんげんむどうじよ)の墓」のルビの「じよ」はママ。中村氏の注に本篇は昭和九(一九三四)年『七月堀辰雄とともに追分に滞在した体験に基づく』とある。
第五連の「泡雲幻夢童女の墓」について、中村氏の注には『追分、泉洞寺の墓地に或江戸時代の遊女の墓碑に刻まれた法名の一つに「泡雲禅定尼」というものが実在し、これはそれによる彼の創作であろう。同書には廓春草童女の法名もある』とある。曹洞宗浅間山泉洞寺は「せんとうじ」と読み、現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分一二五九にある。同寺の公式サイト内の「境内散策」の頁の「歯痛地蔵尊(作家 堀辰雄の愛した石佛)」に『堀辰雄を慕って追分を訪れた文人は数多いが特に詩人である立原道造がいる、彼も堀と同様、泉洞寺にお参りしこの石佛にも手を合わせていったのだろう。「村ぐらし」の一節に泉洞寺墓地の一角にある「泡雲幻夢童女」という戒名が詠まれている』とある。いつか散策してみたい気がする。
第七連の散文詩の冒頭一字下げはママ。]
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