『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 佐佐目谷長樂寺谷
●佐佐目谷長樂寺谷
佐佐〔或は笹に作る〕目谷は。佐助谷の西隣にあり。長樂寺谷は。又其の西隣なり。こゝには昔者長樂寺と稱する寺ありて。法然の弟子隆觀住居せしといふ。
[やぶちゃん注:「佐佐目谷」笹目ヶ谷(ささめがやつ)は佐介ヶ谷と長谷の間、現在、鎌倉市笹目町の北西、市立御成中学校の西側の谷戸をいう。
「長樂寺谷」長楽寺という地名は現在、乱橋材木座(妙長寺の少し海寄り)辺りと、若宮大路を越えてずっと西の由比ヶ浜寄りの長谷・坂ノ下辺りの旧字(あざ)地名として残っているものの、まず使われることはないが、限定的な「長樂寺谷」は現在の鎌倉文学館の建っている谷戸を指す。「新編鎌倉志卷之五」には以下のように載る。
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「〇佐佐目谷〔附經時墓〕 佐佐(ささ)〔或作笹(或は笹に作る)。〕目谷(めがやつ)は、飢渇畠(けかちばたけ)の西の方の谷(やつ)なり。此の谷に昔し寺有り、長樂寺と號す。法然の弟子隆觀(りうくはん)住せしとなり。又武藏の守平の經時、寛元四年閏四月朔日に卒し、佐佐目(ささめ)の山の麓(ふもと)に葬る。後(のち)に梵宇を建てらる。又賴嗣(よりつぐ)將軍の御臺所(みだいどころ)をも、經時の墓の傍(かたはら)に立つと、【東鑑】に見へたり。今共に其の所を知る人なし。
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「隆観」(久安四(一一四八)年~安貞元(一二二八)年)は浄土宗長楽寺流の祖であった隆寛のことか。藤原資隆の子で、当初は天台宗の学僧であったが、後に法然の高弟子となり、洛東の長楽寺に住した。元久元(一二〇四)年、法然から「選択本願念仏集」を授受したが、嘉禄三(一二二七)年の専修念仏停止の綸旨による嘉禄の法難で法然らと共に遠国追放となり、隆寛は陸奥国配流とされた。ところが護送役の毛利季光(西阿。大江広元四男で関東評定衆であったが、宝治元(一二四七)年の宝治合戦で妻の実家である三浦方に付いて法華堂で息子らと共に自刃した。因みに彼は後の毛利元就の先祖)が帰依、配流地へは八十歳の高齢であった隆寛の身代わりとして弟子が赴き、隆寛は鎌倉で北条朝直(初代連署北条時房四男。後に幕府評定衆)を教化した後、八月に毛利の領地相模国飯山(現・神奈川県厚木市)に入って、同年十二月(没年の安貞元年を西暦一二二七年としなかったのは、この月は既に一二二八年に入っているから)にこの地で没している。寺号といい、ほんの一時とは思われるが、鎌倉での北条朝直教化の折り、ここに住したか。
引用文中、「頼嗣將軍の御臺所」の墓が北条経時と一緒にあるというのは、彼女が経時の妹檜皮姫(ひはだひめ 寛喜二(一二三〇)年~宝治元(一二四七)年)であったからである。寛元二(一二四四)年に経時に命で頼嗣の御台所となったが、兄の死去の翌年、十八歳で夭折している。]
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