『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 裁許橋/飢渴畠/甘繩神明宮
●裁許橋
裁許橋は鎌倉十橋の一にして佐介谷より流れ出る小川に架せる橋なり。舊問注所の前なるに因り。此の名あり。或人云ふ。西行橋なり。むかし西行鎌倉に來り。此の橋頭に踟蹰す。故に名く。按するに東鑑に文治二年八月十五日。賴朝鶴岡參詣の時。鳥居の邊に徘徊する老僧あり。名字を問はしめ給へは。佐藤兵衞尉憲淸法師也とあり。此の橋この鳥居に近し。蓋(けだ)し據なきにあらず。
[やぶちゃん注:現在の御成小学校の南東角二十メートルほど南に架るごく小さな橋である。文治二(一一八六)年の西行の頼朝との邂逅と面談は私も好きなシークエンスで事実と考えられるが(私の電子テクスト「北條九代記卷第一 西行法師談話」の原文及び私の詳細な注を参照されたい)、これは音の類似性から生まれた偽説として私は問題にさえしない。「此の橋この鳥居に近し」とか言っているが、どこが近いんや! 全然、近こうないわい!! だいたいやね! 当時の頼朝の屋敷の位置(大倉幕府直近)から見ても鶴岡八幡宮参詣のために、こないな場所は、絶対、通らへんで!!]
●飢渴畠
飢渴畠(きかつばたけ)は裁許橋の南。長谷路に出(いづ)る路傍にあり。此所昔よりの刑塲にて。後世も罪人をさらし斬戮(ざんりく)せし地なり、故に耕作せさるより飢渴畠と名くといふ。今は三界萬靈(くわいばんれい)なとの碑石建てり。
[やぶちゃん注:「けかちばたけ」と読む。現在の六地蔵附近の古称。この西側当たりに鎌倉時代の刑場の跡があり、後も場所柄、耕作されずに荒れ地となっていたことから、かくも不吉なる名となったとも言われる。
「三界萬靈なとの碑石」「三界」は「さんがい」で、心を持つものの存在する無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界の三つ、仏以外の全世界を指し、そこのありとある総ての精霊(しょうりょう)たる「萬靈」(まんりやう(まんりょう))を供養する、という意味の石碑である。実質的には無縁墓地を整理した際や、造成作業などで複数出土した遺骨群を納めたものをかく名付けて合葬用に建てた場合が意想外に多い。ここは事実、刑場でったから、人骨の出土はかなり古くからあって、同時にそうした供養塔や地蔵像が連綿と建てられ続けたとも考えられよう。]
●甘繩神明宮
甘繩明神は。佐佐目谷(ささめがやつ)の西長樂寺谷御輿嶽の隣(となり)に在り。長谷路の北に見ゆる茂林(もりん)なり。天照大神を祀り奉る。里俗は之を甘繩明神宮と稱す。祠後の山を見越嶽(みこしがたけ)といふ。東鑑に。文治二年正月二日。二品〔賴朝〕並びに御臺所甘繩神明の宮(みや)に御參とあり。又甘繩神明奉幣の事往々に散見す。祠内に八幡太郞義家の像あり。神事は毎年九月十六日なり。按するに。甘繩はあまのたぐなはの義にて。卽ち海士繩(あまなは)ならむが。甘繩と書(しる)しては恐らくは義を爲さず。
[やぶちゃん注:和銅三(七一〇)年八月に行基の草創とされ、鎌倉最古の神社と言われる。伝説の鎌倉の長者染谷太郎時忠が山上に神明宮を、山麓に神輿山円徳寺を建立したという。後に源頼義が相模守となって下向した際、平直方(彼は染谷時忠の娘婿という)の娘を娶り、当社に祈願して八幡太郎義家をこの地で生んだとされる。康平六年(一〇六三)には当社を修復、永保元年(一〇八一)には八幡太郎義家公が当社を修復したという。「吾妻鏡」によれば源頼朝はここを伊勢別宮として崇敬した。「相模国風土記稿」の「神明宮」の項では『里俗は甘繩明神と唱ふ』『神躰は義家の守護神と云傳へ秘して開扉を許さず』などとあり、『別當甘繩院 神輿山と號す、臨済宗〔京都妙心寺末〕本尊地藏を安ず』とあるが、明治のおぞましい廃仏毀釈により、別当甘繩院は廃絶している。私はこの裏山が好きだった。なお、私は「縄」という新字体を見ると虫唾が走る人間である。従って、ここでは注の中でも総て「繩」を用いている。悪しからず。
「御輿嶽」「見越嶽」後出。
「甘繩はあまのたぐなはの義にて。卽ち海士繩(あまなは)ならむが」この「甘」を海士(あま/漁師)、「繩」を漁の際に用いる引き繩の意味とする説は確かにある。由比ヶ浜近くの材木座の一画や、この甘繩神明神社(これが現在の正式名)附近の長谷から坂下(さかのした)にかけては近代まで鎌倉の漁業の中心地であった。
「文治二年」一一八六年。]

