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2015/09/07

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 東林寺跡/相馬天王社/藤谷/扇谷/飯盛山〔附扇井〕/大友屋敷/藥王寺/法泉寺蹟/御前谷/淸涼寺蹟/興禪寺/勝因寺蹟/無量寺蹟

    ●東林寺跡

淨光明寺の向(むかふ)にあり。開山眞聖國師。昔し律宗の寺にて淨光明寺と共に盛んなり

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之四」には、

   *

東林寺の跡 淨光明寺の向(むかふ)にあり。開山は眞聖國師、昔し律宗の寺にて、淨光明寺と共に盛んなり。尊氏の請文壹通、觀應三年とあり。淨光明寺の寶物と成る。此の地今は武士屋敷となるなり。

   *

とある。「觀應三年」/正平七年は一三五二年。後の「鎌倉攬勝考卷之七」の「東林寺廢跡」には、

   *

淨光明寺の向なり。開山眞聖國師。古へは律宗なる由。尊氏將軍の文書一通有。觀應三年と有り。今は淨光明寺の什物のうちに入。此地は村民の居地となれり。

   *

となっている。幕府が滅亡した元弘三・正慶二(一三三三)年から二年の間に作成されたと伝えられる浄光明寺蔵「浄光明寺敷地絵図」を見ると、浄光明寺の正面、道を隔てた真向いの小さな谷へ向かって(東南方向)、泉ヶ谷の奥へ少し行った場所から細い小路が描かれており、その谷戸の奥に「東林寺」の表記がある。「鎌倉攬勝考卷之七」の「此地は村民の居地となれり」が、先行する本書では「此の地今は武士屋敷となるなり」と微妙に謂いが異なる。「浄光明寺敷地絵図」を見る限り、鎌倉時代末期に於いては、この浄光明寺と東林寺の間を抜ける通りの東林寺側には、沢山の『民家』が軒を連ねて描かれているのが分かる。この絵図の建物は藁葺きで、『武家屋敷』ではない。光圀の時代には、もしかするとある新たに鎌倉に赴任した下級武士がここに屋敷を構えていたものが、幕末には廃して、再び村民の居住地となっていたのかも知れない。

 

    ●相馬天王社

壽福寺の南にあり。村の鎭守とす。もとは相馬次郎師常己(おのれ)が宅地の鎭守に勸請けるするところなり。故に相馬天王と號す。此所に移せし年代を傳へす。例祭六月五日よら十二日に至る。

[やぶちゃん注:現在の扇ガ谷一丁目にある八坂神社の旧称。

「相馬次郎師常」(保延五(一一三九)年~元久二(一二〇五)年)は千葉常胤の子で千葉氏庶流相馬氏初代当主。参照したウィキの「相馬師常」によれば、初名は師胤と考えられており、『伝承によると、師常は平将門の子孫である信田師国(胤国の子)の養子となり、その遺領を相続したと伝わる』とある。『父と共に源頼朝の挙兵に参加し、頼朝の弟・源範頼の軍勢に従って各地を転戦』、文治五(一一八九)年九月には『奥州合戦に参加し、その功により頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜ったという』。建仁元(一二〇一)年に父『常胤が亡くなったために出家し、家督を嫡男の相馬義胤に譲る。出家後は法然の弟子になったと言われて』おり、元久二年十一月十五日、自邸(但し、本文にもあるようにその頃は後掲される巽荒神の辺りにあったものらしい)にて『端座し、念仏を唱えながら臨終したという。その信心厚い性格から信望の厚かった師常の最期は、鎌倉の民衆たちから見取られたと言われている』とある。]

 

    ●藤谷

淨光明寺の側にあり。中納言藤原爲相鎌倉に下りし時、暫く此に栖たりし跡なり。故に此名(このな)ありといふ。

[やぶちゃん注:「藤谷」「ふじがやつ」と読む。
 
「藤原爲相」既注。]

 

    ●扇谷

扇谷は龜谷阪(かめがやつさか)を越(こえ)て南の方西北は海藏寺。東南は華光院。上杉定正の舊宅。英勝寺の地を扇谷といふ。龜谷の内なり。村中飯盛山の麓(ふもと)に扇の井と稱する淸泉あり。地名もやかて是(これ)に本(もと)つけるならん。此邊(こんへん)古は總(すべ)て龜谷と唱へ。扇谷は其中なる一所の小名なり。されど管領(くわんれい)上杉定正此(こゝ)に住(ぢう)し。世に扇谷殿と稱せられしより。龜谷の稱は漸く廢れ。專扇谷と稱しならへるなるなり。

[やぶちゃん注:「扇谷」「あふぎがやつ(おうぎがやつ)」と読む。
 
「華光院」既出。寿福寺の向かいにあった真言宗の寺。廃寺。

「上杉定正の舊宅」既出。上杉定正についてもそれを参照されたい。]

 

    ●飯盛山〔附扇井〕

村の艮方にあり。山根に岩を扇地紙の形に鑿り。内より淸水涌出(わきいだ)す。之を扇の井と名(なづ)く。鎌倉十井の一なり。

[やぶちゃん注:「飯盛山」「いひもりやま(いいもりやま)」と読む。
 
「扇井」については、静御前が舞扇を納めたことに由来するという伝承もあり、また、この井戸の名が扇ヶ谷という地名の由来であるともされるが信じ難い。なお、この井戸は現在は個人の宅地内にある。

「艮方」「うしとらのかた」と訓じておく。

「鑿り」は「うがてり」と訓じていよう。]

 

    ●大友屋敷

飯盛山の前の田圃をいふ。大友とは何人(なにびと)にや。今考ふへからす。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之四」の「扇谷」の項の中に、

   *

今此飯盛山の前の畠を、大友屋敷(をほどもやしき)と云。中岩月和尚自歷の譜に、大友吏部乃祖の墳(つか)、藤が谷に請て住せしむとあれば、此の山藤が谷の内なれば、藤が谷に、昔し大友(をほども)某(それがし)の菩提所有て、中岩、住持したる也。此の所は大友の舊宅と見へたり。藤が谷の西なり。【東鑑】には、扇が谷は見へず。

   *

とある。この「大友屋敷」の「大友」は大友能直(承安二(一一七二)年~貞応二(一二二三)年)か。彼は大友氏初代当主で頼朝近習である。「中岩月和尚自歷の譜」は「仏種慧済禅師中岩月和尚自歴譜」のことで、臨済宗大恵派の禅僧中巌円月(正安二(一三〇〇)年~文中四/応安八(一三七五)年)の自撰年譜である。円月は鎌倉出身で、若くして鎌倉寿福寺に入山、後、醍醐寺で密教を学び、曹洞宗の東明慧日に師事、正中二(一三二五)年に渡元して元弘二(一三三二)年に帰国した。その後は建仁寺や建長寺住持などを歴任して臨済禪の一派を成した。「【東鑑】には、扇が谷は見へず」とあるように、「吾妻鏡」には「亀谷」のみで「扇谷」という記載はない。扇ヶ谷の地名は室町期時代にここに居を定めた管領上杉定正が「扇谷殿」と称されて以降のことで、逆に亀ヶ谷という呼称がその頃には廃れ始めたものと思われる。]

 

    ●藥王寺

大乘山で號す。日蓮宗九本尊釋賀多寳〔座像長一尺餘〕開山を日像といふ。中興を日達といふ。

[やぶちゃん注:この寺は、「新編鎌倉志卷之四」では「梅立寺」という寺名で出る。

   *

○梅立寺〔附熱田社〕 梅立寺は、海藏寺へ行けば右なり。江戸大乘寺の末寺也。寛永年中に、不受不施の僧建立す。其の後の住僧、國法を懼(をそ)れて、新義の悲田と號し、寺を藥王寺と改む。此地に、昔し此の地に、夜光寺と云寺有しと也。又山に熱田の社あり。寛文年中に、金像の神體を掘り出したりとて今にあり。

   *

ここでの記載は変則的で、「新編鎌倉志」執筆当時の寺号である「藥王寺」を見出し項目として出していない。また、「鎌倉攬勝考卷之六」では、本寺はかつて真言宗であり、旧寺名を夜光山梅嶺寺と言ったと記す。実はこれらの「寛永年中に、不受不施」となる以前については、この二書のみによって知られるもので確認の仕様がないのである。現在、公称では、真言宗に属した梅嶺山夜光寺が前身、永仁元(一二九三)年に日蓮の直弟子であった日像が時の住持と宗論して改宗させ、大乗山薬王寺と改称した、とされる。日蓮宗の一種のファンダメンタリズムである不受不施派は、寛文九(一六六九)年の江戸幕府による「土水供養令」(寺領・行脚は国主・将軍への供養と規定)や「不受不施派寺請禁止令」などによって、禁制宗派となった。元禄四(一六九一)年、日蓮出生地の誕生寺などにいた一部の不受不施派は、寺領は貧者に対する慈悲と解釈して、一見、幕府と妥協し、禁制策を掻い潜る「悲田派」を自称したが、幕府はこれも新義異流として禁止した(以上、はウィキの「不受不施派」を参照した)。にも拘わらず、本寺が江戸末期まで存続し得、現在も存続している(但し、明治期はずっと無住状態が続いた)のは、江戸初期に織田信長の孫信良の娘で、二代将軍徳川秀忠三男であった徳川忠長の正室松孝院が、夫の追善供養のため本寺に帰依、これによって徳川家所縁の寺として寺紋を三葉葵とし、幕府には格別に格式高い寺として認知されていたからかと思われる。また、「熱田の社あり。寛文年中に、金像の神體を掘り出したりとて今にあり」これは薬王寺に木造熱田大明神立像として現存する。寺伝には、夜間にこの頭部が光り、そこから夜光寺と別称されたとも言う。寛文年間(一六六一~一六七三)に掘り出されたとするのは頭部のみで、目鼻立ちから中国製と推定される。現在の体部は、その後に当山第五世日教(一七一八年寂)が補塡造立したものと推定されている(以上は「薬王寺公式ホームページ」の記載を参考にさせて頂いた)。因みに、若き日の私はこの寺が好きだった。お目当ては裏のやぐらにある、風化して仏身を骨のように削ぎ落とされた石造四菩薩像だった。これは当時の私にとって「奇形中の棄景」であったからである。

 

    ●法泉寺蹟

御前谷の東向にあり。今(いま)白田(はくでん)たり。字して法泉寺谷といふ。法泉寺は竹園山と號し。臨濟宗にて關東十刹の一なり。開山は素安といふ。其後(そのゝち)廢せし年代詳ならす。

[やぶちゃん注:「法泉寺」は実質的な創立も廃寺年代も未詳の寺である。白井永二編「鎌倉事典」によれば、現在の『東京都港区麻布の阿弥陀堂の鐘は、当寺の鐘である』とある。

「法泉寺谷」「はふせんじがやつ(ほうせんじがやつ)」と読む。
 
「御前谷」
「ごぜんがやつ」と読む。現在の横須賀線の北鎌倉と鎌倉間のトンネルの鎌倉側の谷の旧称である。

「白田」は雑穀類を植えた畠(はたけ)のこと。「白」は水がなく乾いている意で、我々がしばしば目にし、普通に畑の意味で用いている「畠(はた/はたけ)」という字自体が「白」と「田」を合わせて作った国字である。]

 

    ●御前谷

智岸寺蹟の西にあり。此前の並ひを尼屋敷といふ。もとは二所共に尼御前の屋敷にて一所なるを。土俗誤つて二名に分ち唱ふさて尼御前と稱するは。二位尼(ゐのあま)政子なりといへると。政子は後に大御所とて賴朝屋敷に住し。又勝長壽院の奧に伽藍及び亭を立て移住し。南新御堂御所と號す。此地に住せし事は所見なし。東鑑建長三年十一月の條に。禪定二位家龜谷新造の御亭に御移徙とあるに據れば。此二位を土俗誤て政子と傳ふるならん。又鶴岡古文書に龜谷禪尼の名見ゆ。是は上野國淵名與一實秀か女にて。北條實泰か室なり。後(のち)尼となりて慈香(じかう)と稱し。此に住するをもて龜谷禪尼といひしとなり。又一説に天野屋敷なりともいふ。何(いづ)れか是非決し難し。

[やぶちゃん注:なお、前の「法泉寺蹟」の私の冒頭注を参照されたい。

「智岸寺」前出の智岸寺谷を参照のこと。]

 

    ●淸涼寺蹟

法泉寺谷の北海藏寺の外(そと)門前の東なり。土人此邊を淸涼寺谷と唱ふ。弘長の項。僧忍性當寺に在りし事元亨釋書に見えたり。京泉涌寺の末なりしと傳ふ。詳ならす。

[やぶちゃん注:「淸涼寺」は厳密には「しやうりやうじ(しょうりょうじ)」と読むのが正しいと私は思う。「新編鎌倉志卷之四」には「淸涼寺谷」の項がある。以下に示す。

   *

〇淸涼寺谷 淸涼寺谷(しやうりやうじがやつ)は、法泉寺が谷(やつ)の北、海藏寺の外門前の東なり。淸涼寺は忍性の開基なり。今は絶へたり。【元亨釋書】忍性の傳に、弘長の初、相陽に入り、淸涼寺に止る。平副帥時賴、道譽を郷ふ。光泉寺を創(はじ)めて居らしむとあり。淸涼寺は是なり。光泉寺今舊跡分明ならず。淸涼寺は、泉涌寺の末寺帳にも見へたり。

   *

「法泉寺が谷の北」とあるが、厳密に言うと尾根を隔てた西側というのが正しい。この谷戸は現在も清涼寺ヶ谷と呼ばれている。本寺は現在の廃寺研究に於いては「新清涼寺」「新清涼寺釈迦堂」と呼ばれ、読み方も「しんせいりょうじ」ではある。京都嵯峨の清涼寺にある釈迦如来像を模した本尊を安置したことに由来するとされる。「弘長の初」というのは、「忍性菩薩行略記」に、この所在地不詳の光泉寺の創建を弘長三(一二六三)年としているのを踏まえたものであろうが、これには現在の研究では疑問が投げかけられており、光泉寺自体が建立されなかった可能性もあるとされている。「副帥」は副将に同じい。執権のこと。「郷ふ」は「むかふ」(迎ふ)と訓じているか。但し、「郷」の「むかふ」という読みは元来「向かふ」で、迎えるの意はない。]

 

    ●興禪寺

汾陽山と號す。曹洞宗〔京都妙心寺末〕當寺は朝倉甚十郞正世其父筑後守宣正か追福(ついふく)の爲に創建し父か法名(ほうめい)を寺號となし。僧雲居を延て開祖とす。釋迦を本尊とす。寺後山上に座禪巖と云あり。雲居の修法(しゆはふ)せし處と云ふ

[やぶちゃん注:この旧跡は現在の寿福寺の南側、三菱銀行重役の荘清次郎の別荘として建てられた瀟洒な洋館のある場所に相当する。山号の「汾陽山」(「ふんようざん」と読んでおく)は宋代の臨済僧汾陽善昭(臨済義玄第六世)に由来するものか。白井永二編「鎌倉事典」によれば、宣正の没年から考えて(後注参照)、『寛永十四(一六三七)以降と考えられ』、『本尊は釈迦で、その他阿難・迦葉像を安置』していたとし、『当寺は江戸末期まで存在したらしい』とある。無論、廃寺であって、標題は正しくない。

「朝倉甚十郞正世」以下の宣正の次男。それ以外は不詳。

「宣正」(天正元(一五七三)年~寛永一四(一六三七)年)ウィキ朝倉宣正によれば、安土桃山から江戸前期の武将で徳川氏家臣、家康の孫徳川忠長の御附家老であったとする。『遠江掛川城主であったが、あくまで忠長の家老という立場であったため、幕府からは正式な大名として認められていなかった』。『朝倉在重の長男として駿河国安倍郡柿島で生まれ』、『天正一八(一五九〇)年の小田原征伐で徳川家康に従って参加し、このときに家康の命令で徳川秀忠付の家臣となり』、二百石を与えられて『大番に任じられた』。慶長五(一六〇〇)年の『上田合戦で、鎮目惟明、戸田光正、斎藤信吉らとともに上田七本槍の』一人に挙げられる活躍をしている。その後、着々と加増されて元和三(一六一七)年には『従五位下・筑後守に叙位・任官』、元和七(一六二一)年に四千石を加増されて合計一万石の『大名となり、同時に秀忠の命令で忠長の附家老に任じられ』て、元和一〇(一六二四)年には更に一万石を加増され、二万六千石の掛川城主となっている。ところが寛永八(一六三一)年五月に忠長が不行跡(家臣を正当な理由なく手討ちにしたとされる)によって蟄居となると同時に、『宣正も忠長に諫言しなかったとして、上野板鼻藩主酒井忠行にお預けとなる。この時、徳川頼宣らに忠長の赦免の斡旋を願い一旦は許されて、忠長とともに駿河に戻ったが』、寛永九(一六三二)年、『主君である忠長が幕命により改易されると、連座により大和郡山藩主松平忠明にお預けの上、改易となった。その後、許されて妻の兄である土井利勝に招かれた』とある。]

 

    ●勝因寺蹟

龜谷坂下にあり。今隴畝たり。當寺は北條氏創建する所にして至一開山たりし事高僧傳に見えたり。

[やぶちゃん注:鎌倉時代の創建は正しいと思わるが、廃寺年は不詳。

「高僧傳」「本朝高僧伝」。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、元禄一五(一七〇二)年に成立した本邦の僧侶の伝記。師蛮著。七十五巻。千六百六十四人の僧その他についての伝記が記されている。三論・法相・倶舎・成実(成実宗(じょうじつしゅう)。「成実論」を研究する論宗で中国十三宗・日本の南都六宗の一つ)・華厳・律・顕・密・禅・浄土に関する高僧の伝記の他、明神・仙人・高徳な人物の伝記も載せているものの、親鸞と日蓮については触れていない、とある。

「隴畝」は畦(あぜ)と畝(うね)で田畑のこと。]

 

    ●無量寺蹟

興禪寺の西にあり。今字して無量寺谷(むりやうじがやつ)と唱ふ。高僧傳に僧眞空寺主たりし事所見あり。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之五」に「無量寺谷」の項がある。

   *

◯無量寺谷 無量寺谷(むりやうじがやつ)は、興禪寺の西の方の谷(やつ)なり。昔し此處に無量寺と云寺有。泉涌寺の末寺也しと云。今は亡(な)し。按ずるに「東鑑」に、文永二年六月三日、故秋田の城の介義景が十三年の佛事を無量壽院にて修すとあり。義景は、藤九郎盛長が子にて、居宅甘繩なり。此邊まで甘繩の内なれば、此の寺歟。後に無量寺と云傳る歟。又「鎌倉九代記」に、禪秀亂の時、持氏方より、無量寺口(くち)へは上杉藏人憲長、百七十騎にて向へらるとあるは此所なり。今鍛冶(たんや)綱廣(つなひろ)が宅有り。

   *

現在の鎌倉駅から北西に向かったところに佐助隧道があるが、その手前の崖下に旧岩崎邸跡地があり、扇ヶ谷一丁目この辺り一帯を「無量寺跡」と通称する。二〇〇三年に、この旧岩崎邸跡地から比較的規模の大きい寺院庭園の遺構が発見されたことから、この辺りに比定してよいであろう。この庭園発掘調査により、庭園内の池が一気に埋められていること、埋めた土の中より一三二五年から一三五〇年頃の土器片が大量に出土していること、園内建物遺構の安山岩の礎石に焼けた跡があること等から、庭園の造成年代は永仁元(一二九三)年の大震災以後、幕府が滅亡した元弘三・正慶二(一三三三)年前後に火災があり、庭園は人為的に埋められたと推定されている。私には一気に庭園を埋めている点から、同時に廃寺となったと考えても不自然ではないように思われる(庭園発掘調査のデータはゆみ氏の「発掘された鎌倉末期の寺院庭園遺構を見る」を参照させて頂いた)。「秋田の城の介義景」は安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)のこと。執権北条泰時・経時・時頼に仕え、評定衆の一人として幕政に大きな影響力を持った御家人。「義景は、藤九郎盛長が子にて」は誤りで、安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)は義景の祖父。彼の父は安達景盛(?~宝治二(一二四八)年)で、彼と義景が安達氏の磐石の権勢を創り上げた。「上杉藏人憲長」は系図から見ると、上杉禅秀の乱の際の関東管領であった上杉憲基の祖父憲方の弟である上杉憲英の孫に当たる。「鍛冶綱廣」は現在も相州正宗(後述)第二十四代刀匠として御成町の山村綱廣氏に継承されている。

 

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