『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 播磨屋舖蹟/武田屋舖蹟/梅谷/綴喜原/假粧坂/六本松/葛原岡/鍛冶正宗屋敷跡/佛師運慶屋敷跡/巽荒神/人丸塚/千葉其他の邸址/天狗堂
●播磨屋舖蹟
假粧坂の北の方にあり。今は白田(はくでん)となれろり。土人播磨守其の屋舖なりと云ふ。按するに高播磨守師冬(かうのはりまのかみもろふゆ)は武藏守師直の猶子にして基氏の執事たり。威權(ゐけん)ありしか。後(のち)隱謀(ゐんぼう)の企(くはだて)發覺(はつかく)して誅せられぬ。其第蹟なるか。
[やぶちゃん注:「高播磨守師冬」守護大名で関東執事であった高師冬(こうのもろふゆ ?~正平六/観応二(一三五一)年)参照したウィキの「高師冬」によれば、『高師行(もろゆき)の子で』、足利尊氏の懐刀で後の作品では悉く「悪逆非道」の権化としてカリカチャライズされる『高師直の従兄弟にあたる(後に師直の猶子となる)』。『官位は播磨守、三河守』。『従兄弟の師直と同じく足利尊氏に仕えた。尊氏の命を受けて』延元三/暦応元(一三三八)年から『関東の平定に乗り出し、翌年に関東執事に就任、北畠親房・小田治久と戦い』、興国四/康永二(一三四三)年の『冬までに関東平定を成し遂げた。功績により武蔵、次いで伊賀の守護に任じられている』。翌年(一三四四年)には『関東執事職を従兄弟の高重茂に交代』したが、正平四/貞和五(一三四九)年に尊氏次男の『基氏が鎌倉公方として関東に派遣されると、上杉憲顕と協力して幼少の基氏の補佐に当たる。しかし都で師直と足利直義による対立が発生すると、師冬も直義派であった憲顕と対立することになる。敗れた師冬は』正平五/観応元(一三五〇)年)末、『鎌倉から没落して甲斐須沢城(山梨県南アルプス市白根町)に逃れたが、そこも諏訪氏(直義派の諏訪直頼)の軍勢に包囲されることとなり』、翌年一月、『逃げ切れないことを悟り、自害して果てた。享年は』三十代であったか、と推測されてある。]
●武田屋舖蹟
梅谷の南にあり。今は畠となる。東鑑に武田伊豆入道信光あり。其宅地ならんか。
[やぶちゃん注:「梅谷」次項に出るが、「むめがやつ/うめがやつ」と読む。扇ヶ谷から化粧坂に向う道筋に当たる谷戸。
「武田伊豆入道信光」武田信光(応保煮(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は新羅三郎源義光を始祖とする甲斐武田氏第五代当主で第四代当主武田信義五男。ウィキの「武田信光」によれば、伊豆守、甲斐国・安芸国守護で、『甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する』。『馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された』。「吾妻鏡」に拠れば、治承四(一一八〇)年の『頼朝が挙兵したことに呼応して父と共に挙兵し、駿河国にて平氏方の駿河国目代橘遠茂と戦い、これを生け捕りにするという軍功を挙げたという(鉢田の戦い)。甲斐源氏の一族は逸見山や信光の石和館で頼朝の使者を迎え挙兵への参加を合意し、治承・寿永の乱において活躍する。信光は頼朝の信任が篤く、源義仲とも仲が良かったことから、義仲の嫡男に娘を嫁がせようと考えていたが、後に信濃国の支配権を巡って義仲と不仲になってこの話は消滅した。後に頼朝が義仲の追討令を出したのは、この信光が義仲を恨んで讒訴したためであるとも言われている』。元暦元(一一八四)年、『義仲追討軍に従軍して功を挙げ、直後の一ノ谷の戦いにおいても戦功を挙げた』。『父の信義は駿河や甲斐の守護に任じられていたとする説もあるが、この時期には甲斐源氏の勢力拡大を警戒した頼朝による弾圧が行われており、一族の安田義定、一条忠頼、板垣兼信らが滅亡している。信光は武田有義(左兵衛尉、逸見氏の出自か)や加賀美遠光らの兄弟や従兄弟にあたる小笠原長清らとともに追求を免れているが、信義も謀反の疑いを掛けられており』、文治二(一一八六)年に父は隠居している(死没とも言われる)。『信光は家督を継いで当主となり、鎌倉で起こった梶原景時の変に乗じて有義を排斥する』。文治五(一一八九)年には『甲斐源氏の一党を率いて奥州合戦に参加し、このときに安芸国への軍勢催促を行っていることからこの時点で安芸国守護に任じられていたとも考えられている』(但しこれは承久三(一二二一)年とも言われる)。その後も幕府に仕えて、建久四(一一九三)年には『小笠原長清と、頼朝の富士の巻狩に供している。阿野全成の謀反鎮圧にも携わり、甲斐の御家人も分裂して争った建保元年』(一二一三年)『の和田合戦でも鎌倉へ参陣して義盛追討軍に加わっている。乱では都留郡を治めた古郡氏が和田方に属して滅ぼされており、信光は恩賞として同郡波加利荘(大月市初狩)などを与えられており(『吾妻鏡』)、甲斐源氏が都留郡へも勢力を及ぼしている』。承久三(一二二一)年に起った承久の乱においても長清とともに東山道大将軍として五万の兵を率い出陣、同年七月十二日には『都留郡加古坂(籠坂峠、南都留郡山中湖村)において藤原光親を処刑している(『吾妻鏡』)。安芸守護任命をこのときの恩賞とする説もあり、一時は安芸国へも在国している』。暦仁二・延応元(一二三九)年に『出家して鎌倉の名越に館を構え、家督を長子の信政に譲っている。このとき、伊豆入道光蓮と号した』。「吾妻鏡」によれば、仁治二(一二四一)年には『上野国三原荘をめぐり海野幸氏と境争論を起こして敗訴し、執権北条泰時に敵意を抱いたとする風説が流れているが』、同年十二月二十七日には『次男の信忠を義絶する形で服従』を示している(下線やぶちゃん)。ここから考えると彼の宅地説が正しいとしても幕府創成のごく初期のことのように思われる。]
●梅谷
假粧坂の下なる北の谷なり。古昔(こせき)假粧坂の麓に古刹あり。其庭前なる古梅の薰(かほ)り諸木に勝れし故。來往の人(ひと)足を留て香を慕ひしかは。自(おのづ)から梅谷と呼なせしと鎌倉根元記に見ゆ。
[やぶちゃん注:こう書かれており、「鎌倉廃寺事典」に附録する「鎌倉廃寺地図」(これは馬鹿に出来ない非常に有用な地図である)にもそうなっていて「新編鎌倉志」もそう記す(次項の注を参照)のであるが、「鎌倉事典」によると、少なくとも現在は『亀谷切通しの下、薬王寺のあたりをそうよんでいる』とあって、これは全く方向違いである。
「鎌倉根元記」書誌情報不詳。識者の御教授を乞う。]
●綴喜原
假粧坂の下南の方をいふ。陸田を開けり。今按するに此地山陰卑濕の小境にして原と稱すべき廣平の地にあらす。鎌倉志には此邊を綴喜(つゞき)の里と云とありて別に原の名を擧げず。
[やぶちゃん注:ここは「新編相模国風土記稿」に基づくが、もっとしっかり引用してもらいたかった。同書ではこの和歌の「綴喜原」とは『武州都筑ヶ原を詠ぜしなれば其地異なり』と退けているからである(なお、ここに出る「武州」の都筑ヶ原(つづきがはら)とは旧武蔵国都筑郡内の平原を指しており、現在、横浜市都筑区にその名を留めるてはいるものの区域は大幅に異なるので注意されたい。正確な旧郡域はウィキの「都筑郡」を参照のこと)。「新編鎌倉志卷之四」の梅谷(前項)の条には、
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◯梅谷〔附綴喜の里〕 梅谷(むめがやつ)は、假粧坂(けわひざか)の下の北の谷なり。此邊を綴喜里(つづきのさと)と云ふ。【夫木集】に、綴喜原(つづきのはら)を相模の名所として、家隆の歌あり。「誰(た)が里につゞきの原(はら)の夕霞(ゆふがすみ)、烟(煙)も見へず宿(やど)はわかまし」と。此の地を詠るならん。
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とあって、実はこの記述こそがありもしない「鎌倉の綴喜原」を繁殖させてしまった元凶ではないかと私は疑っている。この「夫木和歌集」の「つゞきの原」というのは私は凡そ鎌倉御府内ではないと思っており、かつてこれはロケーションから(全くの直感)もっと湘南寄り藤沢江ノ島よりも以西の平野部にあったのではないかと考えていたが、今回、「新編相模国風土記稿」の自信に満ちた断言を実見し、これを支持することとしたい。]
●假粧坂
相傳ふ古(いにしへ)平家の大將の首(くび)討取(うちとつ)て假粧し。實檢に備へしより此名起ると云ひ。一説に昔遊女の居住せし地なれは此名を負(おは)せしとも云り。俊基朝臣葛原岡にて害せられし時此所を過く。元弘三年。新田義貞鎌倉へ攻入(せめいり)し時も此坂より押寄たり。文和元年。新田義興(よしおき)鎌倉を攻し時は。南遠江守當所を固(かた)む。應永二十三年、上杉禪秀の亂にも此坂にて合戰あり。准后道興此坂を越(こゆ)る時歌を詠す。坂上に松樹(しようじゆ)あり紅掛松と呼ふ。
[やぶちゃん注:「假粧坂」「けはひさか(けわいさか)」と読む。
「元弘三年」鎌倉幕府滅亡の一三三三年。
「文和元年」一三五二年。
「新田義興」新田義貞次男。観応の擾乱で鎌倉奪還を目指して上野国で北条時行らとともに挙兵、その後も宗良親王を奉じて弟義宗・従兄弟脇屋義治と挙兵して、鎌倉を一時占拠するが、尊氏の反撃にあって鎌倉を追われる。ここはその鎌倉攻めの際のこと。
「南遠江守」足利尊氏の家臣南(南部)宗継(みなみ/なんぶ むねつぐ 生没年未詳)のこと。足利氏代々の執事を務めた高氏の一族。知られた高師直・師泰兄弟と宗継の父惟宗とは従兄弟関係にある。伊勢南部氏の祖。
「應永二十三年」一四一六年
「准后道興此坂を越る時歌を詠す」「准后道興」道興准后は関白近衛房嗣の次男で、聖護院第二十四代門跡・新熊野検校などに任ぜられた。大僧正。後、職を辞して詩歌の道へ入り、足利義政・寛正六(一四六五)年、准三后に補任(准后は「じゅごう」と読み、公家(「后」とあるが女性に限らない)の最高称号の一つである)、それ以降、道興准后と呼ばれ、将軍足利義政の護持僧となり、義尚にも優遇された。ここで述べているのは彼が著した「廻國雜記」のことで、文明一八(一四八六)年の六月から北陸道を経て越後に至り、関東から甲斐、さらに奥州の松島に至る凡そ十ヶ月に亙る旅について記した紀行文である。漢詩・和歌・俳諧連歌を交えたそれは、その文学的価値もさることながら、当時の各地の修験者の動向を知る資料として貴重である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」の記載に補足を施してある)。当該の歌は、
へにがやつをとほりて、けはひ坂をこゆとて俳諧、
かほにぬるへにがやつよりうつりきてはやくもこゆるけはひさかかな
である。詳細は、本『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」の「胡桃谷/附 道興准后「廻国雑記」鎌倉パート翻刻」の私の注を参照されたい。
「紅掛松」現存しないものと思われる。少なくとも私は聴いたことがない。「六本松」の一つかと思ったら、次項に「六本松」が出るから違う。識者の御教授を乞う。]
●六本松
假粧坂の上に松二株あり。六本松と呼(よ)ふ。古は六本ありしにや。又里人の口碑に駿河次郞淸重此處に登り。鎌倉中を見おろしたり。故に物見松(ものみまつ)とも唱ふと云ふ。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之四」の「假粧坂(けわひざか)」の後に、
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〇六本松 六本松(ろくぼんまつ)は、假粧坂の上に二本ある松なり。古へは六本ありつる歟。里人の云、駿河次郞淸重、此處に立て鎌倉中を見おろしたりと。【上杉禪秀記】に、源の滿隆の兵(つはもの)共、拾萬騎にて、六本松に押し寄する。上杉彈正少弼氏定、扇が谷より出向て、爰を先途と防ぎ戰ひけりとあり。
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とある。
「駿河次郞淸重」(?~文治五(一一八九)年)は竹下次郎とも。元来は猟師であったとも言われ、当初は頼朝の家臣であったが、後に義経に従い、平泉衣川で戦死したと伝えられる。「義経記」では平宗盛の子清宗を六条河原で斬ったのは彼とするから、この鎌倉を見下ろしたのは、例の腰越状の、義経が入鎌を禁じられた折りに、秘かにここに来て、見渡したということか。なお、日野俊基(次項注参照)はこの六本松の下で処刑されたとも伝えられる。]
●葛原岡
假粧坂を起て北の野をいふなり。元弘の頃。右少辨俊基此所にて誅せらる。
[やぶちゃん注:「右少辨俊基」倒幕を目指して滅亡を直前に命を散らした廷臣日野俊基(?~元弘二/正慶元年六月三日(一三三二年六月二十六日)。官位は従四位下・右中弁。ウィキの「日野俊基」より引く。文保二(一三一八)年)に『即位した後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となる。後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。諸国を巡り反幕府勢力を募るが六波羅探題に察知され』、正中(しょうちゅう))元(一三二四)年の『正中の変で日野資朝らと逮捕されるが処罰は逃れ』た。その後、『京都へ戻るが』、元徳三/元弘元(一三三一)年に発覚した二度目の『討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、得宗被官諏訪左衛門尉に預けられた』後、ここ『葛原岡で処刑された』。辞世は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に殘るらん」であった。『明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされると俊基は倒幕の功労者として評価されるようになり』、明治二〇(一八八七)年には『俊基を主祭神とする葛原岡神社が神奈川県鎌倉市梶原に創建され、俊基自身にも従三位が追贈され』ている。]
●鍛冶正宗屋敷跡
鍛冶正宗屋敷跡は。今小路の西側に在り。一叢(むら)の竹林を存し。内に燒刄渡と稱する稻荷の小祠を祀る。鎌倉志には正宗がまつりたる神なりと云傳ふとあり。現在の者は石製(せきせい)にて。僅かに二尺許り。臺石に江戶淺草御見附外石工文藏、善藏、源七、天明二壬寅歲九月吉日と刻せり。
先進繡像玉石雜誌に云。岡崎五郞正宗入道は相撲國鎌倉の人なり。父を藤三郎行光と云。文永元年甲子歲鎌倉今小路に生る。〔中畧〕康永三年八十一歲にて歿す。比企谷妙本寺の山に葬れり。」古今鍛冶備考に云。相州住正宗或二字銘多し。相摸國鎌倉に住し。五郞入道と號す。同所行光の男也。新藤五國光か門と云。宇内(うだい)を周行(しうかう)して。其の薀奧(うんおう)を究め。本邦鍛冶中興の祖神(そしん)と仰(あふ)かる。十の妙所(めうしよ)に十三種の沸(にゑ)あり。正應建武の間。」正宗に就ては近時議論紛出(ふんしゆつ)せり。今贅(ぜい)せす。
[やぶちゃん注:引用の鍵括弧の始まりがないのはママ。「新編鎌倉志卷之五」の「鍛冶正宗(たんやまさむね)屋敷跡」から私の注とともに引く。
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◯鍛冶正宗屋敷跡 鍛冶正宗が屋敷の跡は、勝橋(かつがはし)の南みの町、西頰(にしがは)也。今は町屋となる。正宗は、行光が子なり。行光、貞應の比、鎌倉に來り爰に住すと云ふ。今も此の所に刃(やきば)の稻荷と云小祠あり。正宗がまつりたる神なりと云傳ふ。
「貞応」は年間は西暦一二二二年から一二二四年。「刃稻荷」は本文の「燒刄渡と稱する稻荷の小祠」と同一物で、鎌倉駅から寿福寺へ向かう手前の西の尾根に現存する。
「鍛冶正宗」「岡崎五郞正宗入道」岡崎五郎正宗について「鎌倉志」は「行光が子」とするが、鎌倉に在住した相模鍛冶国光の実子とも、国光の弟子とも(そうすると行光は兄弟弟子となる)、ここに記されるように、その国光を継いだ行光の子とも、行光の弟で後に養子となったともする。岡崎正宗の生没年は不詳であるが、現在の研究では、その活動時期を鎌倉末期から南北朝期(十三世紀末から十四世紀初頭まで)と推定しているから、その息子ならば、あり得ない話ではない。本覚寺には伝岡崎五郎正宗墓や正宗顕彰の碑があり、他にも錢洗弁天に向かう路傍の個人宅地内に正宗が鍛冶打ちをする際に沐浴したという正宗の井戸が残る。
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「今小路」白井永二編「鎌倉事典」によれば、寿福寺門前にある「勝ヶ橋」から、南に走る道の内、現在の鎌倉市役所より手前(北)の巽荒神(後出)前までの間をいう。
「二尺」六十・六センチメートル。
「天明二壬寅歲」「壬寅」は「みづのえとら」で一七八二年。
「先進繡像玉石雜誌」「せんしんしゅうぞうぎょくせきざっし」(面倒なので現代仮名遣で示した)と読む。国学者栗原信充編になる元弘以来の歴史上の二十四人の人物小伝。天保一四(一八四三)序。同書の「卷之三」の冒頭を飾るのが「岡崎五郎正宗眞影幷傳」である。幸いにして同書を所持していたので確認したところ、まさに以下の通りに書かれてある。
「文永元年甲子歲」一二六四年。
「康永三年八十一年歲にて歿す」一三四四年。
「古今鍛冶備考」江戸幕府御試御用首斬役山田浅右衛門著(柘植平助方理作という説もある)になる刀剣名物の評価本で増補再版されたものが文政一三(一八三〇)年に出ている(柄佐部氏の個人サイト「こちら第三艦橋」の「幻想書館」内の「武具雑考」を参照した)。
「妙所」個々の刀剣の非常に優れた箇所。言うに言われぬ絶妙の味わいどころ。
「沸(にゑ)」「錵」とも書く。日本刀の重要な見所の一つで、地肌及び地肌と刃部との境目に沿って銀砂を撒いた如く細かくきらきらと輝いているものを指す。地肌に生ずるものは特に地沸(じにえ)と称する。ウィキの「正宗」によれば、『正宗の真髄は「沸の妙味」といわれているが、単なる沸出来は新刀』(安土桃山時代の慶長以後の刀工の作刀)『以降の最上作でも出来る技であって、総体に地鉄の変化、地刃尋常ならざる金筋(文字通り筋状に複数現れている金線)=筋金(「筋金入」の語源)・稲妻(平地に現れている細長い地景が刄の中へ入り込んでパッとした光の強いS字状に變化した金筋)と映りを透明感のある「極光」の如く、「曜変の妙味」(千変万化の働きを「自然」に現す技)は中古刀期における相州伝の最も得意とする領域で、これが正宗の「神髓」であるといっても過言ではないとある。
「正應建武」一二八八年から一三三八年。
「贅」せず、というのは、近頃は正宗に就いては有象無象の「議論」噴出状態であるから「今」ここでは贅(ぜい)=適切でない余計なことは言わないこととしてここまでとする、という意味であろう。本誌の発行は明治三〇(一八九七)年であるが、ウィキの「正宗」によると、『明治時代には「正宗は存在しなかった。あるいは存在したとしても凡工にすぎなかった」とする、いわゆる「正宗抹殺論」が唱えられたこともあった』とし、まさにこの前年の明治二十九年には、『当時刀剣鑑識家として名高く、宮内省の御剣掛を務めていた今村長賀は、「読売新聞」に連載した談話記事の中でおおむね次のように主張した』。それは『古来、正宗には在銘正真の作刀を見たことがなく、もし在銘の正宗があれば、それはまがい物である』。『正宗が名工と言われ出したのは豊臣秀吉の時代以後のことで、それ以前の文献では名工とはされていないし、それ以前の武将が正宗の作刀を差料としていたという話も聞かない』。『足利義満の時代に、当時の目利きであった宇都宮三河入道に選ばせた』名工百八十二工の中にも『正宗という名前は入っていない』。『正宗というものは、秀吉が政略的意図から本阿弥家(代々刀剣研磨と目利きを業とした家)に指示してでっち上げたものであろう』というものであった。しかし『以上の主張については、本阿弥家をはじめ、各方面からさまざまな反論が寄せられた。南北朝時代から室町時代の文献にも名工として正宗の名が挙げられていること、刀剣書ではない』「新札往来」(貞治六(一三六七)年成立)『にも日本刀の名工の一人として「五郎入道」の名があることなど文献の面からも、「正宗抹殺論」は今日では否定されている』とある。記者のこの謂いにはまさにこの正宗非在説への皮肉が込められている感じが私にはする。]
●佛師運慶屋敷跡
佛師運慶屋敷跡は。正宗屋敷の西隣なり。鎌倉志に云。東寳紀に運慶東寺の大佛師となるとあり。湛慶、康運、康辨、康勝、運賀、運助は運慶が子なり。東鑑にも運慶の事往々出たり。
運慶の血統を嗣く者。今猶ほ後藤齋宮〔博古堂〕三橋榮助〔一陽堂〕あり。世々壽福寺門前に住し。彫刻を以て世に鳴る。所謂鎌倉彫是なり。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之五」の「佛師運慶屋敷跡」から私の注とともに引く。
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◯佛師運慶屋敷跡 佛師運慶が屋敷の跡は、正宗屋敷の西なり。佛師運慶が宅地と云傳ふ。【東寶記】に、運慶、東寺の大佛師となるとあり。湛慶・康運・康辨・康勝・運賀・運助は運慶が子なり。【東鑑】にも、運慶往々出たり。
鎌倉には「新編鎌倉志」の記載を見ても散見するように運慶作とする仏像が多くあるが、残念ながら真作として現認されているものは一体もない。但し、寄せ木造りが飛躍的に発達したこの時期には、既に製作は集団組織化され、体躯を別々な複数の仏師が分業製作し、一種の運慶工房のような中で造立が行われていたものとは思われる。なお、ウィキの「運慶」には、『最晩年の運慶の仕事は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で』、建保四(一二一六)年には、『実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院に現存する大威徳明王像を造った。更に、源実朝の持仏堂、北条義時の大倉薬師堂、北条政子の勝長寿院五大尊像などの諸像を手がけている』とあり、作像中の滞在型であったろうが、鎌倉に屋敷を構えていた可能性は必ずしも否定は出来ない。
「東寳記」は「とうぼうき」と読み、東寺学衆杲宝(ごうほう)の編纂した東寺の沿革を記した史書。仏宝・法宝・僧宝の三編八巻に分かれ、東寺の歴史・堂塔・仏像・法具・聖教・法会・僧職について文書・記録等を豊富に引用しつつ、明らかにしたもの。正平七/文和元(一三五二)年の草稿本は六巻であったが、その後、南北朝末期から室町初期にかけて杲宝の弟子賢宝が増補を加えた。現在は国宝(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
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「後藤齋宮〔博古堂〕」「後藤齋宮」(天保九(一八三八)年~明治四一(一九〇八)年)は元仏師で鎌倉彫師。「ごとういつき」と読む。「博古堂」は鶴岡八幡宮三の鳥居脇に現在も鎌倉彫の店として営業している。同公式サイト内の「博古堂のこと」に詳しい。
「三橋榮助〔一陽堂〕」「三橋榮助」は不詳であるが、三橋式彫の正統派を称する「鎌倉彫一陽会」という会の公式サイトがあり、その「鎌倉彫一陽会のご紹介―三橋式彫の正統派」の解説に、『明治から大正にかけて仏師の中心的家系である』二十六世『三橋鎌山(けんざん)とその長男』二十七世『鎌岳(けんがく)により考案された独特の彫り様式で、三橋式彫りの基礎をつく』ったとし、『鎌山は明治中頃、後藤斎宮(いつき)と共に近代鎌倉彫の基礎を築いた人で、近代鎌倉彫中興の祖と云われてい』るとあるから、この『風俗画報』の記載からは、「榮助」は、この三橋鎌山の本名である可能性が高いように思われる。この公式サイト内の記載によって「一陽堂」は鎌倉彫三橋家の屋号であったことが判明し、現在はこの分家その他が鎌倉彫の店を市内で営業している。KKA 氏の個人ブログ「人生楽しく ガンバロー!」の「TT鎌倉、第22回 あるものさがし ”鎌倉仏師と 鎌倉彫り”…」の下から四枚目のレジュメに、旧鎌倉の仏師町の位置と「一陽堂三橋」の位置その他が地図上に記されている。必見。]
●巽荒神
巽荒神は今小路の南。鐡道線路の傍に在り。壽福寺の巽位にあるを以て名く。もと壽福寺の鎭守なりといふ。
[やぶちゃん注:「巽荒神」は「たつみかうじん(たつみこうじん)」荒神とは民俗信仰の神の一つで、竈神(かまどがみ)として祀られる三宝(さんぽう)荒神、屋外に屋敷神・同族神・部落神として祀る地荒神、牛馬の守護神としての荒神に大別されるが、ここは地荒神である。この巽荒神の創建は伝承では延暦二〇(八〇一)年に蝦夷征伐に向かう途中の坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したものを、頼朝の祖父源頼義が永承四(一〇四九)年に修理したものと伝えられている。鎌倉初期には現在地に移築されていることが判っている。
「鐡道線路の傍に在り」記者さん、ここはちゃんと見に行きましたね! よろしいでしょう!
「巽位」音では「そんゐ」と読み、辰と未の間、東南の方角であるが、ここはこれで「たつみ」と当て読みさせているように思われる。]
●人丸塚
人丸塚は。巽荒神の東の方。千度小路の傍の畠中(はたなか)に在り。高六尺ばかり。上に碑あり〔寛政四年建つ〕惡七兵衞景淸の女人丸里と云者の墓なりと傳唱すれとも詳ならず。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之五」に、
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○人丸塚 人丸塚(ひとまるづか)は、巽(たつみ)の荒神の東の方、畠の中にあり。惡七兵衞景淸が女(むす)め、人丸と云いし者の墓也と云傳ふ。景淸が女(むすめ)を龜谷(かめがやつ)の長に預けしとなり。此の邊龜が谷の内なり。景淸が籠(ろう)の下と、照らし見るべし。
「鎌倉攬勝考卷之九」には異なった考証が語られている。該当箇所を引用する。
※
人丸塚 巽荒神の東の方、畠中にあり。土人いふ、惡七兵衞景淸が娘、人丸姬といふものゝ塚なりといふは、【平家物語】に、景淸が女を、龜ケ谷の長に預しなどあるより、此塚の名を人丸姬が塚なりと、土人等いひ傳へけり。實はさにはあらず、古へ宗尊親王、敷しまの道を御執心ありしより、此邊に歌塚を築かせ給ひ、人丸堂をも御建立の地曳せられしが、世上の變異に仍て、急に御歸洛ゆへに、其事ならずして廢せり。夫ゆへ後に、景淸が女の塚と唱へ誤れる由。
※
「惡七兵衞景淸」については「景淸牢蹟」で既注。但し、現在、安養院に「人丸塚」と呼ばれる塚があり、これについて、景清の娘であった人丸姫が捕えられた父に会うために京都から鎌倉に下向したものの、遂に面会は許されず、景清の死後、尼となって景清の守本尊であった十一面観音を祀って先の土牢に供養したとも伝えられている。数年後に人丸姫は亡くなって扇ヶ谷(巽荒神は扇谷地内)に葬られ、そこを土地に人々が「人丸塚」と呼んだが、後に荒廃、その石塔が安養院に預けられたとも伝承されている。
「千度小路」室町以降に現在の段葛を指す語ではあるが、それでは巽荒神と相対距離があまりに離れ過ぎていておかしい。さらに調べてみると現行で置石千度小路を繁華街の「小町通り」と若宮大路を東西に結ぶ短い横道をそう呼んでいることがネット上からは分かった。が、単にそうなるとこれは固有名詞ではなく、そうした複数の小路を指す一般名詞ということになってしまい、記載としては何だか不自然である。そこで本『風俗画報』の折り込み地図を確認したところ、目から鱗で、これは巽荒神の九十七メートルほど北北東から東に折れ、鎌倉聖ミカエル教会の北側を通って小五月蠅い「小町通り」を突っ切り、鶴ヶ岡会館の北側の若宮大路に出る、やや東が南に下がりつつ横切る小路の固有名詞であることが判った。
「六尺」約一メートル八十二センチメートル。
「寛政四年」一七九二年。]
●千葉其他の邸址
千葉介常胤、上總介直方幷に諏訪氏の第趾は。共に天狗堂の東に在り。今は禾黍秀てゝ漸々たり。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之五」には以下のようにある。私の注ごと連続して二項目を引く。
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〇千葉屋敷 千葉屋敷は、天狗堂の東の畠(はたけ)を云ふ。相ひ傳ふ千葉介常胤(ちばのすけつねたね)が舊宅なりと。【東鑑】に、阿靜房安念、司馬の甘繩(あまなは)の家に向ふと云は是なり。司馬とは、千葉の成胤(なりたね)を云なり。成胤は、常胤が嫡孫にて、胤正(なりまさ)が子なり。
[やぶちゃん注:現在、鎌倉で千葉屋敷跡というと、ここに現れた第五代当主成胤の玄孫第九代宗胤の嫡男胤貞(但し、彼は叔父胤宗に家督を横領されて千葉氏当主とはなっていない)の別邸があったという妙隆寺一帯を指すが、これでは位置がおかしい。ここで言っている「天狗堂の東」(=天狗堂山の東)に近いのは、現在の鎌倉駅西北、正宗の井戸の辺りにあった正に千葉常胤屋敷跡と伝承されている場所である。各種遺構からもここと同定して間違いない。ここなら次の「甘繩」の呼称も肯んずることが出来る範囲である。
「【東鑑】に、阿靜房安念、司馬の甘繩の家に向ふ」とは建暦三(一二一三)年二月十五日の記事を指す。以下に引用する。
二月大十五日丙戌。天霽。千葉介成胤生虜法師一人進相州。是叛逆之輩中使也。〔信濃國住人靑栗七郎弟。阿靜房安念云々。〕爲望合力之奉。向彼司馬甘繩家處。依存忠直。召進之云々。相州即被上啓此子細。如前大膳大夫有評議。被渡山城判官行村之方。可糺問其實否之旨被仰出。仍被相副金窪兵衛尉行親云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
二月大十五日丙戌。天霽。千葉介成胤、法師一人を生け虜り、相州に進ず。是れ、叛逆の輩の中使(なかつかひ)なり〔信濃國住人、靑栗(あをぐり)七郞が弟、阿靜房安念と云々。〕合力(かふりよく)の奉(うけたまはり)を望まん爲に、彼の司馬の甘繩の家へ向ふ處、忠直を存ずるに依りて、之を召進ずと云々。相州、即ち此の子細を上啓せらる。前大膳大夫のごときと評議有りて、山城判官行村の方へ渡され、其の實否(じつぷ)を糺し問ふべきの旨、仰せ出さる。仍りて、金窪(かなくぼ)兵衛尉行親を相ひ副へあると云々。
「中使ひ」は手先、使い走りの意。これは信濃の泉親衡が頼家遺児千寿を将軍に擁立して、北条氏を打倒せんとする謀議発覚の端緒となった出来事で、そこに和田一族の者が含まれていたことが後の和田合戦の引き金となる。
「司馬」千葉成胤は千葉介(下総国の次官級)で、司馬はその唐名。]
○諏訪屋敷 諏訪屋敷(すはやしき)は、千葉屋敷の東南の畠を云ふ。昔し諏訪氏の宅宇(たくう)ありしとなり。
[やぶちゃん注:「諏訪氏」は得宗被官で北条泰時の側近として活躍した諏訪盛重(生没年不詳)のことである。現在の鎌倉市役所駐車場付近がその屋敷跡に比定されている。]
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「天狗堂」次項参照。
「禾黍」「くわしよ(かしょ)」稲と黍(きび)。
「秀てゝ」「ひいでて」。禾(のぎ)がぴんぴんと突き出ること。
「漸々たり」順々に、だんだんに。ここでは、穂芒(ほすぎ)がずっと同じように広がっているさまを言っていよう。]
●天狗堂
天狗堂は。大町小路より佐助谷に入る右手の山角(さんかく)をいふ。昔者愛宕の社ありしに因り名く。太平記に天狗堂と扇谷に軍ありと云は。此の處なり。
[やぶちゃん注:同じく、「新編鎌倉志卷之五」から引く。
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〇天狗堂 天狗堂(てんぐだう)は、長谷小路より、佐介谷(さすけがやつ)へ入手(いりて)の右の山の出前(でさき)なり。昔し愛宕(あたご)の社(やしろ)ありけるとなり。【太平記】に、天狗堂と、扇が谷に軍ありと云は、此所の事なり。
[やぶちゃん注:「天狗堂」佐介ヶ谷の東側丘陵の南端に天狗堂山という名が残る。ここには愛宕神社があったと伝えられ、祭神の愛宕権現が天狗に仮託されたことから、こう呼ばれたものと思われる。但し、私は「太平記」の天狗堂が現在の窟不動の東にあった愛宕社(最近、堂が大破してしまい地面に石組みのみが残るようである)で、これとは別な天狗堂であった可能性も考えている。識者の御教授を乞うものである。]
「昔者」この二字で「むかし」と読む。もう、高校時代にさんざんならったこれをお忘れか?]
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