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2015/09/05

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (一一)

        一一

 

 私は今狹い小さな町へ歩を轉ずる。矮小な一階建の家々が、土地から生えたもののやうな觀を呈するほど、古い町ではあるが、名は新材木町と呼ぶ。百五十年前にこそ、材木が新らしかつたらうが、今では灰のやうにくすんだ色を帶びた造作といひ、また日本の屋根にしげる天鵞絨のやうな草や苔の、黃や赤がかつた柔かな綠色で、筋が立つたり、斑紋が出來たり、緣がとれたりして、毛皮の褐色をしてゐる古い草葺といひ、是等の建物の色合は、畫家を恍惚たらしむるだらうと思はれる。

 が、町の頽癈した家屋の部分々々よりも、更に驚くべき光景が、遠景の額枠の中に收まつて見える。屋根よりも高く聳え、町の兩側に並列した竹の高い柱から柱へ渡して、非常に黒い網が擴げられてゐるのが、沖天に向つて巨大な蜘蛛網を張つたやうである。日本の神話や、昔の繪草紙にある蜘妹の妖怪を忽然思出させる。しかしこれは絹絲で作つた漁網であつて、ここは漁師町である。私は更に大橋の方へ向ふ。

    譯者註。これは春期、白魚を漁するための網。

 

[やぶちゃん注:「新材木町」ハーンの富田屋があった、現在の松江大橋北詰は現在、末次本町というが、この大橋北詰から大橋館の前を六十二メートル程下った位置から下流は現在、東本町と称する。松江関連の情報を見ると、この東本町の少なくとも新大橋(松江大橋下流三百六十メートルに架橋されている。大正三(一九一四)年初代架橋で当時はなかった)の北詰左岸一帯は材木商人が軒を並べていた「新材木町」と呼ばれる町であった。以下の「一三」で初めてハーンは大橋を渡っており、ここまで町屋の実景描写は大橋川の左岸一帯の描出であることが判り、しかも最後の台詞から一回下流に向って歩き、また上流へ戻り始めるのである。

「蜘妹の妖怪」平井呈一氏は『土グモ』とされ、文脈から妖怪としての土蜘蛛と解釈出来るようになっている(そもそもが「ツチグモ」という和名を持つクモ類は本邦には存在しない)。以下、ウィキ土蜘蛛から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、注記号や記号の一部を省略・変更した)。『土蜘蛛(つちぐも)は、本来は、上古に天皇に恭順しなかった土豪たちである。日本各地に記録され、単一の勢力の名ではない。蜘蛛とも無関係である』。『しかし後代には、蜘蛛の妖怪とみなされるようになった。別名「八握脛・八束脛(やつかはぎ)」「大蜘蛛(おおぐも)」。八束脛はすねが長いという意味』である。『古代日本における、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称。『古事記』『日本書紀』に「土蜘蛛」または「都知久母(つちぐも)」の名が見られ、陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、各国の風土記などでも頻繁に用いられている』。『また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた。ツチグモの語は、「土隠(つちごもり)」からきたとされ、すなわち、穴に籠る様子から付けられたものであり、明確には虫の蜘蛛ではない(国語学の観点からは体形とは無縁である)』。『土蜘蛛の中でも、奈良県の大和葛城山にいたというものは特に知られている。大和葛城山の葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚があるが、これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる』。『大和国(現奈良県)の土蜘蛛の外見で特徴的なのは、他国の記述と違い、有尾人として描かれていることにもある。『日本書紀』では、吉野首(よしののおふと)らの始祖を「光りて尾あり」と記し、吉野の国樔(くず)らの始祖を「尾ありて磐石(いわ)をおしわけてきたれり」と述べ、大和の先住民を、人にして人に非ずとする表現を用いている。『古事記』においても、忍坂(おさか・現桜井市)の人々を「尾の生えた土雲」と記している点で共通している』。『『肥前国風土記』には、景行天皇が志式島(ししきしま 現在の平戸南部地域)に行幸した際(伝七十二年)、海の中に島があり、そこから煙が昇っているのを見て探らせてみると、小近島の方には大耳、大近島の方には垂耳という土蜘蛛が棲んでいるのがわかった。そこで両者を捕らえて殺そうとしたとき、大耳達は地面に額を下げて平伏し、「これからは天皇へ御贄を造り奉ります」と海産物を差し出して許しを請うたという記事がある』。『『豊後国風土記』にも、五馬山の五馬姫(いつまひめ)、禰宜野の打猴(うちさる)・頸猴(うなさる)・八田(やた)・國摩侶、網磯野(あみしの)の小竹鹿奥(しのかおさ)・小竹鹿臣(しのかおみ)、鼠の磐窟(いわや)の青・白などの多数の土蜘蛛が登場する。この他、土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)の話もあり、山に居構えて大和朝廷に抵抗したが、全滅させられたとある。八十(やそ)は大勢の意であり、多くの女性首長層が大和朝廷に反抗して壮絶な最期を遂げたと解釈されている。この土蜘蛛八十女の所在を大和側に伝えたのも、地元の女性首長であり、手柄をあげたとして生き残ることに成功している(抵抗した者と味方した者に分かれたことを伝えている)』。『『日本書紀』の記述でも景行天皇十二年(伝八十二年)冬十月景行天皇が碩田国(おおきたのくに、現大分県)の速見村に到着し、 この地の女王の速津媛(はやつひめ)から聞いたことは、山に大きな石窟があり、それを鼠の石窟と呼び、土蜘蛛が二人住む。名は白と青という。また、直入郡禰疑野(ねぎの)には土蜘蛛が三人おり、名をそれぞれの打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ・国麻呂)といい、彼ら五人は強く仲間の衆も多く、天皇の命令に従わないとしている』。その後、『時代を経るに従い、土蜘蛛は妖怪として定着して』ゆき、『人前に現われる姿は鬼の顔、虎の胴体に長いクモの手足の巨大ないでたちであるともいう。いずれも山に棲んでおり、旅人を糸で雁字搦めにして捕らえて喰ってしまうといわれ』るようになり、『十四世紀頃に書かれた『土蜘蛛草紙』では、京の都で大蜘蛛の怪物として登場する。酒呑童子討伐で知られる平安時代中期の武将・源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大なクモがおり、このクモがすべての怪異の正体だった。激しい戦いの末に頼光がクモの首を刎ねると、その腹からは千九百九十個もの死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに約二十個の小さな髑髏があったという』。『土蜘蛛の話は諸説あり、『平家物語』には以下のようにある(ここでは「山蜘蛛」と表記されている)。頼光が瘧(マラリア)を患って床についていたところ、身長七尺(約二・一メートル)の怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が病床にもかかわらず名刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げ去った。翌日、頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには全長四尺(約一・二メートル)の巨大グモがいた。頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒した。頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来「蜘蛛切り」と呼ばれた。この土蜘蛛の正体は、前述の神武天皇が討った土豪の土蜘蛛の怨霊だったという。この説話は能の五番目物の『土蜘蛛』でも知られる』。『一説では、頼光の父・源満仲は前述の土豪の鬼・土蜘蛛たちの一族と結託して藤原氏に反逆を企んだが、安和の変の際に一族を裏切って保身を図ったため、彼の息子である頼光と四天王が鬼、土蜘蛛といった妖怪たちから呪われるようになったともいう』。『京都市北区の上品蓮台寺には頼光を祀った源頼光朝臣塚があるが、これが土蜘蛛が巣くっていた塚だといい、かつて塚のそばの木を伐採しようとしたところ、その者が謎の病気を患って命を落としたという話がある。また、上京区一条通にも土蜘蛛が巣くっていたといわれる塚があり、ここからは灯籠が発掘されて蜘蛛灯籠といわれたが、これを貰い受けた人はたちまち家運が傾き、土蜘蛛の祟りかと恐れ、現在は上京区観音寺門前町の東向観音寺に蜘蛛灯籠が奉納されている』。『似た妖怪に海蜘蛛がある。口から糸を吐き人を襲うという。九州の沿岸に出るとされる』とある。

「白魚」現在、宍道湖七珍(しんじこしっちん)の一つに挙げられるシラウオ。宍道湖七珍は現行では、

・スズキ(条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus 

・モロゲエビ(=甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目根鰓(クルマエビ)亜目クルマエビ上科クルマエビ科ヨシエビ Metapenaeus ensis 

・ウナギ(=条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica

・アマサギ(=条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ科ワカサギ Hypomesus nipponensis

・シラウオ(後述)

・コイ(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科コイ Cyprinus carpio

・シジミ(=斧足綱マルスダレガイ目シジミ科シジミ属ヤマトシジミ Corbicula japonica

を指す。参照したウィキの「宍道湖七珍によれば、『それぞれの頭一文字を取り「スモウアシコシ」と覚えられる』とある。但し、同ウィキによれば、これは昭和五(一九三〇)年に『島根新聞社の記者であった松井柏軒が中国西湖十景に倣って松陽新聞(現:山陰中央新報)に起稿した「宍道湖十景八珍」が始まりとされる』とあるから、ハーン来訪時にはこの名数はなかった。宍道湖のシラウオは条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科の標準種であるシラウオ Salangichthys microdon と考えられるが、本邦固有種であり、「シラウオ」として区別されずに流通しているイシカワシラウオ Salangichthys ishikawae も含まれていないかどうかは確認が出来なかったので併記しておく。]

 

 

Sec. 11

I now turn into a narrow little street, which, although so ancient that its dwarfed two-story houses have the look of things grown up from the ground, is called the Street of the New Timber. New the timber may have been one hundred and fifty years ago; but the tints of the structures would ravish an artist—the sombre ashen tones of the woodwork, the furry browns of old thatch, ribbed and patched and edged with the warm soft green of those velvety herbs and mosses which flourish upon Japanesese roofs.

However, the perspective of the street frames in a vision more surprising than any details of its mouldering homes. Between very lofty bamboo poles, higher than any of the dwellings, and planted on both sides of the street in lines, extraordinary black nets are stretched, like prodigious cobwebs against the sky, evoking sudden memories of those monster spiders which figure in Japanese mythology and in the picture-books of the old artists. But these are only fishing-nets of silken thread; and this is the street of the fishermen. I take my way to the great bridge.

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