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2015/09/18

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 妙本寺

   ●妙本寺

妙本寺は長興山と號す、日蓮説法始の寺なり、相傳ふ日蓮の俗弟子、比企大學三郞と云し人建立す、日蓮在世の時日朗に附屬する故に日朗を開山とす、正月二十一日開山忌あり、此寺の住持池上本門寺を兼帶(けんたい)するなり、塔頭十六坊院家二個院ありて其昔一貫五百文の御朱印ありしなり、此地を比企谷と云、比企判官能員か舊跡なり。

本堂  此堂には本(もと)阿彌陀の像を安す、其像は大學三郎か持佛堂の佛なりしを其後盜み去られて、今は立像の釋迦鬼子母神(きしもじん)四菩薩を安す、釋迦は陳和卿か作と云ふ、日蓮伊豆へ配流の時、立像の釋迦を隨(ずゐしん)身す、後に日朗に付屬(ふぞく)、其像今は本國寺(ほんこくじ)にあり故に此にも又立像の釋迦を安ず。

御影堂  本堂の北にあり、祖師一尊を安置す、日蓮在世の間、弟子日法隨身して詳に容貌を寫すとなり、列祖の牌あり、又大學三郎か牌もあり、上に法華の題目を書、下に開基檀那日學位同廉中理芳位とあり、日學は比企大學三郎が法名なり、每年二月十五日爲に勤行あり、大學三郎は此企判官能員(ひきはんぐわんよしかづ)か末子なり、父能員誅せられし時、伯父伯耆法師と云人山内證菩提寺の住持にて、其時京の末寺に在しか、竊かに出家せしめ京に隱置、後に文士となり順德帝に奉仕、佐渡國へ御供申、賴經將軍の御臺所(みだいどころ)は能員か外孫なるゆへに、老後に御免を蒙り鎌倉へ下り、竹御所(たけごしよ)の御爲に比企谷にて法華堂を建立し僧を集す、持經(じきやう)して法名を日學と云、妙本と號す、故に當寺にも名くとなり。

竹御所舊跡  本堂へ上る道の左にあり、今卵塔場なり、竹御所とは源賴家の女子、比企能員か外孫、將軍賴經御臺所なり。

蛇苦止明神社  方丈の後(うしろ)にあり、是比企能員の女、讃岐局の靈を祀れるなり、文應元年其靈、北條時村の女(むすめ)に着し、大蛇(たいじや)となりて、常に苦を受(うく)る由、自託(じたく)せし事、東鑑に見えたり、故に此時其鬼崇を鎭(しづ)めんか爲、爰に崇祀し託言(たくげん)に因て、此神號を授けしなるベし。

[やぶちゃん注:「比企大學三郞」比企能本(ひきよしもと 建仁二(一二〇二)年~弘安九(一二八六)年)。以下に記されるように、建仁三(一二〇三)年の比企の乱で滅びた比企氏の当主比企能員の末子で、出家して日学と名乗ったとされる人物。比企高家とも。

「日朗」(寛元三(一二四五)年~元応二(一三二〇)年)は日蓮宗六老僧(日蓮門下の六人の高弟。日昭・日朗・日興(にっこう)・日向(にこう)・日頂・日持(にちじ))の一人。十二歳で日蓮の弟子となり、文永八(一二七一)年の日蓮流罪の際には現在の光則寺(後出)裏の土牢に押し込めとなった。文永一一(一二七四)年には佐渡に流罪となっていた日蓮を八度訪ね、最後には赦免状を携え、佐渡に渡っている。日蓮の没後は身延山に正法院を営み、池上本門寺にある後の照栄院に於いて没した。

「池上本門寺」現在の東京都大田区池上にある日蓮宗大本山長栄山大国院本門寺。古くより池上本門寺と呼称されてきた。ウィキの「」によれば、弘安五(一二八二)年九月、『病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向か』ったが、堂月十八日には『武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。生涯最後の』二十数日間をここに過ごす中で、同月中に『池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源という』。同年十月十三日に日蓮が没すると、宗仲は「法華経」の字数(六万九千三百八十四字)に合わせた『六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされている』。『その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した』とある。

「比企判官能員」比企能員(ひきよしかず ?~建仁三年九月二日(一二〇三年十月八日)。藤原秀郷流比企氏の一族。源頼朝の乳母比企尼(ひきのあま)の甥で、後に養子となった。比企尼の縁から鎌倉幕府二代将軍源頼家の乳母親となり、娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子一幡を産んで権勢を強めたものの、能員一族の台頭を恐れた北条時政との対立から、時政及び北条一族の謀略によって比企能員の変(比企の乱)が起こり、一族郎党滅亡させられた(概ねウィキの「比企能員」に拠った)。

「本國寺」京都府京都市山科区にある、日蓮宗の大本山大光山本圀寺のこと。

「同廉中理芳位」日学の妻の法号。普通は「理芳尼」と呼称する。

「伯父伯耆法師」不詳。

「山内證菩提寺」これは旧鎌倉「山ノ内(やまのうち)」内(現在は横浜市栄区)の「證菩提寺」のこと。以下、私の「新編鎌倉志卷之三」の「證菩提寺舊跡」から私の注ごと引く(「舊跡」となっている点は一緒に引いた後注を参照のこと)。

   *

◯證菩提寺舊跡 證菩提寺(しようぼだいじ)の舊跡は、本郷(ほんがう)上の村に無量寺と云ふ眞言寺(てら)あり。則ち是なり。證菩提寺を、五峯山(ごほうさん)と號す。此邊も山の内莊なり。【東鑑】に、建保四年八月廿四日、相州〔時賴。〕奉(うけたま)はつて山の内證菩提寺にて、故佐奈田餘一義忠(さなだよいちよしただ)が迫善を修す。又建長二年四月十六日、山の内證菩提寺修埋あり。是れ右大將家の御時、佐奈田の餘一が菩提の爲に、建久八年に建立と有。本尊阿彌陀なり。故に後に無量寺と改めたる歟。

[やぶちゃん注:この寺は現在、実は証菩提寺という名で横浜市栄区上郷町に現存する。山号は五峯山一心院で高野山真言宗である。ここでは旧跡と呼んでいるのであるが、一部の資料を見ると逆に本来、無量寺(無量壽寺とも)と呼ばれていた時代があって、後に岡崎義忠(佐奈田与一)の父義実の死後に、義実の法名であった証菩提を寺号とするようになったという記載もある。この寺は源頼朝が石橋山の合戦で頼朝に従って二十五歳で最期を遂げた岡崎義実(三浦大介義明弟)嫡男佐奈田(真田)与一義忠の菩提を弔うために建立したもので、寺地は幕府の鬼門に当たる。建立は本文では建久八(一一九七)年とあるが、現資料では文治五(一一八九)年に同定されている(後の鐘銘にもそう記されているのにあえてこう記す根拠はなんだったのか不審)。本文記載以外にも建保四(一二一六)年には実朝によって義忠追善法要を行っているが、政子没後は次第に衰微した。それを第三代執権北条泰時の娘小菅ヶ谷殿がここに新たに二つ目の阿弥陀堂を建立して再興、北条政子の十三回忌を行ったということが「鶴岡社務式次第」に見える。

「佐奈田餘一義忠」は岡崎義実嫡男岡崎(佐奈田)与一(余一)義忠(久寿二(一一五五)年~治承四年(一一八〇)年)のこと。相模国大住郡(現在の神奈川県平塚市真田)を領した武将。源頼朝の挙兵に加わり、石橋山の戦いで奮戦、討ち死にした人物として「平家物語」などで名を残し、江戸時代には夭折の武勇の美少年として錦絵で人気を集めた。以下、ウィキの「佐奈田義忠」の美事な記載から引用する(アラビア数字を漢数字に変更、一部に字空けを施した)。『父義実の推挙により、頼朝は武勇優れる与一に「大庭景親と俣野景久(景親の弟)の二人と組んで源氏の高名を立てよ」と先陣を命じ』、『与一は討ち死にを覚悟し、五十七歳になる老いた郎党の文三家安に母と妻子の後事を頼もうとするが、家安は与一が二歳の頃から親代わりにお育てしたのだから最後までお伴をして討ち死にすると言い張り、与一もこれを許した』。『頼朝は与一の装束が華美で目立ちすぎるだろうから着替えるよう助言するが、与一は「弓矢を取る身の晴れの場です。戦場に過ぎたることはありますまい」と言うと白葦毛の名馬にまたがり、十五騎を率いて進み出て名乗りを上げる。大庭勢はよき敵であると見て大庭景親、俣野景久、長尾新五、新六ら七十三騎が襲いかかった』。『この合戦は夜間に行われ、その上に大雨で敵味方の所在も分からず乱戦となった。与一は郎党の文三家安に自分は大庭景親か俣野景久と組まんと思っているから、組んだならば直ちに助けよと命じた。すると、敵一騎が組みかかってきた、与一はこれを組み伏せて首をかき切るが、景親や景久ではなく岡部弥次郎だった。義忠は残念に思い、首を谷に捨ててしまった』。『闇夜の乱戦の中、敵を探していると目当ての俣野景久と行き会った。両者は馬上組みうち、地面に落ちてころげ、泥まみれの格闘の末に与一が景久を組み伏せた。暗闇のためにどちらが上か下か分からず、家安も景久の郎党も手が出せない。敵わじと思った景久は叫び声を上げ、長尾新五が駆け付けるがどちらが上下か分らない。長尾新五は「上が敵ぞ? 下が敵ぞ?」と問うと、与一は咄嗟に「上が景久、下が与一」と言う。驚いた景久は「上ぞ与一、下ぞ景久、間違えるな」と言う。とまどった長尾新五は手探りで鎧の毛を触り、上が与一と見当をつけた。これまでと思った与一は長尾新五を蹴り飛ばし、短刀を抜いて景久の首をかこうとするが刺さらない。不覚にも鞘ごと抜き放ってしまった。鞘を抜こうとするが先ほどの岡部の首を切った時の血糊で鞘が抜けない。そうこうしているうちに長尾新五の弟の新六が背後から組みかかり、与一の首を掻き切ってしまった。享年二十五』。『主人を失った文三家安』も奮闘の末に『稲毛重成の手勢に討たれ』てしまう。後、晴れて政権を握った頼朝は『建久元年(一一九〇年)正月二十日、頼朝は三島、箱根、伊豆山参詣の帰りに、石橋山の与一と文三の墓に立ち寄り、哀傷を思い出し涙を流した』といわれる。『与一の戦死した地には佐奈田霊社』(現在の神奈川県小田原市石橋山)『が建てられている。与一が組み合っていたとき、痰がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、この神社は喉の痛みや喘息に霊験があると』され、今も信仰を集める。]

   *

「竹御所」(建仁二年(一二〇二)年~天福二(一二三四)年)は源頼家の娘、鞠子(または媄子(よしこ)とも)。母は比企能員の娘若狭局(「尊卑分脈」では木曽義仲の娘とする)。二歳で比企能員の変が起こり、父頼家は後、修善寺で暗殺されるが、建保四(一二一六)年に祖母政子の命によって、十四歳で叔父源実朝の正室信子の猶子となった。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の第四代将軍藤原頼経に嫁いでいる。ウィキの「竹御所」によれば、『他の頼家の子が、幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子死去後、その実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は幕府の権威の象徴として、御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした』とある。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の第四代将軍藤原頼経に嫁いだ。『夫婦仲は円満であったと伝えられる』。その四年後の天福二(一二三四)年三月に懐妊し、『頼朝の血を引く将軍後継者誕生の期待を周囲に抱かせるが、難産の末、男子を死産、』竹御所自身も、重い妊娠中毒症と思われる少症状で同時に亡くなってしまう(享年三十三。後掲する「吾妻鏡」では何故か「三十二」とある)。この『竹御所の死により源頼朝の血筋は完全に断絶』することになった。

「蛇苦止明神社」「蛇苦止」は「じやく(じゃくし)」と読む。妙本寺の境内(であるが参道左手東北の奥にあってお参りする観光客は少ない)にある。傍らに蛇苦止の井(蛇形の井)という井戸があり、頼家の妻で嫡男一幡の母が比企の乱の折りにここに身を投じとされ、彼女はその後、蛇身となってこの井戸の中で家宝を守っていると言い伝えられている。その霊を鎮めんがために祀ったのが当社であるとする。

「讃岐局」よく分からない人物である(北條時頼側室の讃岐局とは別人なので注意が必要)。岡戸事務所編「鎌倉手帳(寺社散策)」の「蛇苦止堂・蛇苦止ノ井」には、『若狭局を祀る社』とするが、この「若狭局」とは実は前に書いた通り、頼家の妻で嫡男一幡の母である。ところが白井永二編「鎌倉事典」ではこの女性の名を「讃岐局」とするからである。「鎌倉手帳(寺社散策)」も疑問を呈し、この「若狭局」と「讃岐局」は『同一人物であり、若狭局はのちに讃岐局と呼ばれた』という説と、『一幡の母が若狭局、政村の娘に祟ったのが讃岐局』とする別人説の二説があるらしいとし、さらに「若狭局」の最期についても、『一幡とともに比企の乱で焼け死んだとする『吾妻鏡』の説』と、『一幡とともに逃げ延び、2ヶ月あまり経った後、北条義時の郎党に捕らえられ、刺し殺された』とする「愚管抄」の別説があると記している。妙本寺自体、市中にあって妙に静かな寺であるが、この蛇苦止明神はその中でもこれまた、ずんと重い空気を持った場所のように私は感ずる。

「文應元年」一二六〇年。

「北條時村」(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は鎌倉幕府第七代執権北条政村(幼少の泰時の曾孫北条時宗の代理で彼は得宗家ではない)の嫡男。奇怪な暗殺事件によって無惨な最期を遂げた。ウィキの「北条時村(政村流)」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ、建治三年(一二七七年)十二月、六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した。弘安七年(一二八六年)、八代執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛。正安三年(一三〇一年)、甥の北条師時が十代執権に代わると連署に任じられて師時を補佐する後見的立場とな』った。『嘉元三年(一三〇五年)四月二十三日の夕刻、貞時』(元第九代執権。第八代執権北条時宗嫡男)『の「仰せ」とする得宗被官、御家人が当時連署であった北条時村の屋敷を襲い殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』した。『享年六十四』。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」(『実躬卿記』の四月二十七日条)、「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」(大外記中原師茂)と、「時村が誅された」とある』。『時村を「夜討」した十二人はそれぞれ有力御家人の屋敷などに預けられていたが、五月二日に「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首された。五月四日、一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死した』。『嘉元の乱と呼ばれるこの事件は、かつては『保暦間記』の記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので、同時代の『実躬卿記』の同年五月八日条にも「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である。生き残った孫の煕時は幕政に加わり、第十二代執権に就任した』とある。]

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