『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 壽福寺
●壽福寺
龜谷山金剛壽福禪寺と號す。五山の三にして開山榮西なり。抑當寺はもと左馬頭義朝の第跡なり。義朝死後岡崎四郞義實報恩の爲め此地に梵宇を創建す。養和元年三月一日。賴朝母儀の忌日たるにより。此堂に於て佛事を修せらる。正治二年閏二月十二日、夫人政子の願(ねがひ)として伽藍を建立せらる。此堂地を民部丞行光大夫房善信點檢せしむ。十三日。其地を葉上房律師榮西に寄せて淸淨結果の地となし。伽藍建立の事始あり。善信行光等奉行す。建保元年五月三日。和田の亂に。土屋大學助義淸討死す。郞從義淸か首級を當寺に埋葬す〔今其墳墓遺蹤なし〕三年六月五日。榮西當寺にて寂す。當寺は寳治元年十一月七日。正嘉二年正月十七日。應永二年十二月廿日の三度の火災に罹り。古書古器物等悉く烏有となり。寺寳什物等は今多く傳はらすといふ。
佛殿 本尊釋迦文殊普賢の像を安す。釋迦は陳和卿の作なり。祖師堂に達磨臨濟百丈開山像等を置き。土地堂に伽藍神幷前住の牌將軍家の尊牌あり。
鐘樓 開山榮西の時。宋朝よらり渡せる名鐘にてイホナシ鐘(かね)と稱せり。天正十八年の小田原陣に奪(うばつ)て鐡砲の玉に鑄たりと云ふ。今は慶安四年新鑄の鐘にて建長寺の仁叟碩寛の銘あるを掛く。
禪堂 地藏〔立像長六尺許運慶作〕鎌倉二十四所の一なり
總門 龜谷山の額を描く。黃檗僧卽非の書なり。
山門 持氏の筆にて扶桑興禪閣の額を掲く。
畫窟 佛殿の後背山麓にあり。土俗ヱカキヤクヲともカラクサヤクラとも云ふ。岩窟を一丈四方程に掘。内に牡丹唐草を胡粉にて厚く置上(おきあげ)て彩色したり。窟中に石塔二基あり。一は實朝の塔と傳へ。一は二位禪尼(ゐのぜんに)の塔と云ふ。東鑑に據るに實朝事ありし後。勝長壽院の側に葬ると見ゆ。さては當寺開山榮西二祖行勇みな實朝歸依の僧なれは。此には冥福の名に建しものにて遺骸を收めしにはあらさるべし。
歸雲洞 本堂の西南にあり。
石切山 本堂の南にあり。山中は石切塲なり。
觀音堂跡 石切山(いしきりやま)の東の方半腹にあり。
望夫石 石切山の上にあり畠山六郞重保由比の濱にて戰死す。其婦此山に登り。望み見て戀死(れんし)し。終に石に化せりと云ふ。こは海邊直立の石に因て松浦潟(まつらがた)の望夫石を附會せしものなるべし。
[やぶちゃん注:「養和元年」西暦一一八一年。
「賴朝母」源義朝正室で源頼朝の実母由良御前(ゆらごぜん ?~保元四年三月一日(一一五九年三月二十二日))。熱田大宮司藤原季範(寛治四(一〇九〇)年~久寿二(一一五五)年)を父として尾張国に生まれたとされる。
「民部丞行光」二階堂行光。
「大夫房善信」「吾妻鏡」によるが、「房」は「屬」の誤り。大夫属(たいふさかん)入道三善善信。
「建保元年」一二一三年。
「寳治元年」一二四七年。
「正嘉二年」一二五八年。この後、応仁元(一三六七)年にも火災に遭っている(「鎌倉市史 社寺編」の寿福寺に拠る)。
「應永二年」一三九五年。
「イホナシ鐘」「疣なし鐘」。梵鐘の上部を「乳の間」(ちのま)、下部を「池の間」と称するが、この「乳の間」には「乳」(鐘乳(しょうにゅう))と称する突起状の装飾を並べるのが一般的であるが、これがない、ということらしい。
「天正十八年」一五九〇年。
「小田原陣に奪て鐡砲の玉に鑄たり」四月五日の豊臣秀吉の小田原征伐の直前に後北条氏が奪ったとされる。
「慶安四年」一六五一年。
「仁叟碩寛の銘」私の「新編鎌倉志卷之四」の「壽福寺」の「鐘樓」に銘の全文と私の書き下しがあるので参照されたい。「仁叟碩寛」は詳細不詳。浄智寺の鐘の銘(慶安二年)も彼が撰している。識者の御教授を乞う。
「六尺」一・八一八メートル。この地蔵像は現在では伝運慶作であるが、優れた一木造で重要文化財に指定されている。
「鎌倉二十四所」鎌倉地蔵尊二十四所札所霊場。岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「鎌倉地蔵尊巡礼」に総てが載るので参照されたい。
「即非」江戸前期に明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧即非如一(そくひにょいつ 一六一六年~寛文一一(一六七一)年)。福建省福州府福清県出身。俗姓は林氏。即非は字(あざな)。参照したウィキ「即非如一」によれば、明暦三(一六五七)年に『隠元に招かれて来日し、長崎崇福寺に住して伽藍を整備し、その中興開山となった』。寛文三(一六六三)年には『山城国宇治の萬福寺に移り、法兄の木庵性瑫とともに萬福寺首座となった。最初の黄檗三壇戒では教授阿闍黎の任を務めた。翌』寛文四年に帰国しようとしたが、『豊前国小倉藩主小笠原忠真らに招かれ』、寛文五年、『福聚寺を創建してその開山となった。その後、崇福寺に隠居してそこで没した』とある。『能書家とし知られ、隠元隆琦、木庵性瑫とともに黄檗の三筆と称される。詩を善くし、禅味のある観音・羅漢・蘭竹を画いたが、これは日本の文人画のさきがけとされる』ともある。
「畫窟 佛殿の後背山麓にあり。土俗ヱカキヤクヲともカラクサヤクラとも云ふ」「鎌倉攬勝考卷之四」には以下の如く載り(「えがきやぐら」はママ)、
*
洞窟 二所。開山塔の後の方なる山麓の南寄にあり。一ケ所は土人例の方言に、畫窟(えがきやぐら)といふ。窟内を丈四方許に穿ちて、唐草摸樣を彩色にしたり。石塔有りて、其奧に石函あり。これを右府實朝將軍の御廟なりといひ、相並べて一ケ所は.二位禪尼の御廟なりといふ。又【東鑑】に、二君ともに勝長壽院に葬り奉れる事あり。されば當寺も、兩君御歸依なるゆへ、御分骨を葬りしことにやあらん。
*
(但し、「石函」の「函」は植字ミスで判読が不能で推定で補ったものである)さらに以下のように、やぐらの絵とキャプションが載る。
右に、「右府實朝㰏庿塔」(庿」は「廟」の異体字)、左に、
*
繪かきやぐら又ハから草屋ぐらと唱ふ窟中石凾の上の方に
角なる横に長き孔あり此内へ何を納置たるものにや石を
もて塡たるゆへ内の子細わ住僧もむかしより是を知
れる者なき由又此窟に相並びて南旁にも岩屋あり
是を二位禪尼政子御庿なりといふ窟中に何もなくまた
此窟より狹く造りしさまも疎なり 二位尼の庿といふをば
用ひがたし 仍て考ふる事もあれば古墳の條に其事
をしるせり
*
とある(判読の誤りがあれば御教授をお願いしたい。そのために解説部の汚損は一切除去していない。)。なお、これは分骨ではなく、孰れも南北朝期の寿福寺復興期に造立された供養塔であって、納骨はされていないと考えられる。
「一丈」約三メートル。
「二位禪尼」北条政子。
「歸雲洞」「石切山」(=「石切塲」)は「新編鎌倉志卷之四」に載る以下の境内図で位置が判る。
「觀音堂跡」「新編鎌倉志卷之四」に以下のように載る。
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觀音堂の跡 石切山の東の方半腹にあり。今は堂なし。【元亨釋書】に、宋の佛源禪師、禪興寺に住する時、夢に觀音大士告げて曰く、逢強則止れと(強(あなが)ちに逢ふ時は則ち止(とど)まれ)。後十年にして、建長寺より龜谷山に移る。額を見れば金剛の字あり。始めて聖讖(せいしん)を明(あき)らむ。則ち西南の一巖を鑿(うが)つて壽塔を剏(はじ)め、補陀(ふだ)の像を刻(きざ)んで指方に酬(むく)ふとあるは、此觀音堂ならん。
*
引用文中の「大士」は菩薩と同義。「讖」は予言。「補陀」は補陀大士(補陀落山に住む菩薩)で、観世音菩薩の異称である。
「望夫石」は「新編鎌倉志卷之四」に以下のように載る。
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望夫石(もうふせき) 石切山の上にあり。畠山(はたけやま)の六郎重保(しげやす)、由比の濱にて戰死す。其婦此山に登り、望(のぞ)み見て戀死にす。終に石(いし)と化すと云ひ傳ふ。重保戰死の事、後の重保が石塔の下に記す。按ずるに、望夫石と云ふもの、異國にも又本朝にも、西國邊の海岸に往々にあり。程伊川(ていいせん)の云く、望夫石は、只だ是れ、江山を望んで、石人の形(かたち)の如くなるものあり。今、天下凡そ江邊に石の立てる者あれば、皆呼(よ)むで望夫石とす。爰にあるものも此類なり。
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現在、寿福寺の西南の奥の山は「観音山」と呼称している。伝承ではここに観音が祀られていたとも言われるのだが、私はこれはこの望夫石を観音に見立てたものではあるまいかと考えている。かつてはこの山頂に直径五メートル程の岩が由比ガ浜方向に突き出ていたが地震で崩れたと伝えられているからである。現在は現認不能である。引用文中の「程伊川」は北宋の儒学者程頤(ていい 一〇三三年~一一〇七年)のこと。伊川先生と称された。朱子学や陽明学を生み出した遡源の一人。この鋭い観察に基づく見解は美事である。]
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