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2015/09/27

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 稻瀨川

    ●稻瀨川

稻瀨川は御輿嶽より出てゝ。長谷の前を流れて海に入る。本名は水無能瀨(みなのせ)川なり。土俗稻瀨川と訛稱せしより。今專ら其の名を唱ふ古よりの一名所なり。

[やぶちゃん注:以下、和歌の前後を行空けし、改行も本文を無視して、読み易く上句/下句とした。]

 

  万葉 眞かなしみさねにははゆくかまくらの

     水なの勢川に潮みつなんか

 

  夫木 東路や水なの勢川にみつしほの

     しるまも見えぬ五月雨のころ

               野宮左大臣

 

  家集 潮よりも霞やさきにみちぬらん

     水無能勢川のあくる湊は

               藤原爲相

 

  仝  さしのほる水なのせ川の夕しほに

     湊の月のかけそちかつく

 

     立まかふ波のしほ路もへたゝりぬ

     水無能勢川の 秋のゆふきり

               從三位爲實

 

  紀行 水淺き濱のまさこを越波も

     水なのせ川に春雨そふる

               法印堯惠

 

  名寄 鎌倉やみこしがたけに雪きえて

     みなのせ川に水まさるなり

               左京太夫顯仲

 

東鑑に。治承四年十月十一日。御臺所〔政子〕伊豆國阿岐戸(あきの)郷より鎌倉に入御し給ふ。日攻不ㇾ宜に依て。稻瀨河の邊民屋に止宿し給ふ。又元曆元年八月八日。三河守範賴平家追討使として進發の時。扈從(こしよう)の輩一千餘騎。賴朝卿稻瀨河の邊に棧敷(さじき)を搆(かま)へ見物し給ふとあるは。卽ち此の處なり。元弘の役(えき)に濱の手の大將犬舘宗氏の戰死せしも。此河邊なりといふ。

[やぶちゃん注:現在の稲瀬(いなせ)川。水源は深沢の奥で大仏の東方を過ぎた辺りで屈曲して坂ノ下の東で由比ヶ浜に注ぐ。歌舞伎「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」通称「白浪五人男」(二代目河竹新七(黙阿弥)作・文久二(一八六二)年江戸市村座初演)の知られた二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」はこの河口をロケーションとする。

「万葉 眞かなしみさねにははゆくかまくらの水なの勢川に潮みつなんか」「万葉集」巻十四の「相聞」にある(三三六四番歌。先の「鎌倉の見越の崎の」の和歌の次)、

 ま愛しみさ寢(ね)に吾(あ)は行く鎌倉の美奈(みな)の瀨川(せがは)に潮(しほ)滿つなむか

で、

――お前のことを、私は心からいとおしく思って共寝するために向かっている――鎌倉の美奈の瀬川は、今頃、潮が満ちてしまっているだろうか――たとえそれでも私はお前のもとに行かずにはおられぬのだ――

と言った意味である。

「夫木 東路や水なの勢川にみつしほのしるまも見えぬ五月雨のころ 野宮左大臣」は「しるまも見えぬ」とあるが、

 東路(あづまぢ)や水無能瀨川(みなのせがは)に滿つ潮(しほ)の干(ひ)る間(ま)も見えね五月雨(さみだれ)のころ

が正しい表記かと思う。「野宮左大臣」徳大寺公継(とくだいじきんつぐ 安元元(一一七五)年~嘉禄三(一二二七)年)のこと。左大臣実定三男。新古今集に五首入集、代々の勅撰集に計十七首が採歌されている。

「家集 潮よりも霞やさきにみちぬらん水無能勢川のあくる湊は 藤原爲相」は、

 潮(しほ)よりも霞(かすみ)やさきに滿(み)ちぬらん水無能瀨川(みなのせがは)のあくる湊(みなと)は

である。

「仝  さしのほる水なのせ川の夕しほに湊の月のかけそちかつく」老婆心乍ら、「仝」は「同」の古字とされるもの。同じく藤原為相の一首で、

 さしのぼる水無能瀨川(みなのせがは)の夕潮(ゆふしほ)に、湊(みなと)の月の影(かげ)ぞ近づく

である。

「立まかふ波のしほ路もへたゝりぬ水無能勢川の 秋のゆふきり 從三位爲實」は、

 立(た)ちまがふ波の潮路も(しほぢ)隔(へだた)りぬ水無能瀨川(みなのせがは)の秋の夕霧(ゆふぎり)

である。「從三位爲實」は五条為実(文永三(一二六六)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)のこと。二条為氏四男。参議。「新後撰和歌集」などに入集。因みに彼の父二条為氏は、藤原北家御子左家嫡流で、権大納言藤原為家長男。和歌の名家二条家祖であるが、正に前掲される異母弟冷泉為相が相続争いの相手であった。

「紀行 水淺き濱のまさこを越波も水なのせ川に春雨そふる 法印堯惠」は、

 「水(みづ)淺(あさ)き濱(はま)の眞砂(まさご)を越(こ)す波も水無能瀨川(みなのせがは)に春雨(はるさめ)ぞ降る

である。「堯慧」(大永七(一五二七)年~天正二(一六〇九)年)は戦国は江戸初期の真宗僧。権大納言飛鳥井雅綱三男で室町幕府将軍足利義晴猶子であったが出家、現在の三重県津にある専修せんじゅ寺第十二世として真宗高田派を興隆させた。大僧正。

「名寄 鎌倉やみこしがたけに雪きえてみなのせ川に水まさるなり 左京太夫顯仲」御輿嶽」に既出既注。ここでも「大夫」が「太夫」となってしまっている。

「東鑑に。治承四年十月十一日。御臺所〔政子〕伊豆國阿岐戸(あきの)郷より鎌倉に入御し給ふ。日攻不ㇾ宜に依て。稻瀨河の邊民屋に止宿し給ふ」「吾妻鏡」治承四(一一八〇)年十月十一日の条の当該箇所だけを引く。

   *

○原文

十一日庚寅。卯尅。御臺所入御鎌倉。景義奉迎之。去夜自伊豆國阿岐戸郷。雖令到着給。依日次不宜。止宿稻瀬河邊民居給云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十一日庚寅。卯の尅、御臺所、鎌倉に入御す。景義、之を迎へ奉る。去ぬる夜、伊豆國阿岐戸郷(あきとのがう)より到着せしめ給ふと雖も、日次(ひなみ)、宜(よろ)しからざるに依つて、稻瀨河の邊の民居(みんきよ)に止宿し給ふと云々。

   *

この「日次(ひなみ)」とは暦の上での日の吉凶のこと。

「元曆元年八月八日。三河守範賴平家追討使として進發の時。扈從(こしよう)の輩一千餘騎。賴朝卿稻瀨河の邊に棧敷(さじき)を搆(かま)へ見物し給ふ」「吾妻鏡」には、進発する面々を列記した後に『武衞搆御棧敷於稻瀨河邊。令見物之給云々。』(武衞、御棧敷を稻瀨河の邊に搆へて、之れを見物せしめ給ふと云々。)とある。

「元弘の役」ここは元弘三(一三三三)年五月の鎌倉幕府総攻撃を指す。

「犬舘宗氏」(おおだてむねうじ 正応元(一二八八)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)は上野新田荘大館郷領主。新田義貞の鎌倉攻めに従い、鎌倉極楽寺切通口突破の大将として幕府軍の大仏貞直(おさらぎさだなお)軍と戦闘の末、五月十九日に壮絶な討死をした。]

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