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2015/09/24

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 正覺寺

    ●正覺寺

正覺寺は小坪村海道の北にあり、住吉山と號す、光明寺の末寺なり、山上に住吉明神の社(やしろ)あり、此邊都(すべ)て住吉と云ふ。

三浦道寸城跡  寺の西南の山にあり、切拔(きりぬき)の洞(ほらあな)二十餘間ありて寺へ拔通なり、前に道あり、此(これ)を三浦道寸か城の跡と云ふ鎌倉九代記北條五代記等に、三浦陸奥守義同入道道寸永正九年八月に、北條新九部長氏に、相州住吉城をも攻落(せめをと)さるゝとあるは、此地なり。

數珠掛松 切拔の側にあり、里民夏(なつ)百日の間、住吉に參詣して數珠(ずゞ)を掛(かけ)るなり、因(よつ)て名つく。

[やぶちゃん注:「住吉明神の社」正覚寺の裏山に現存する。

「切拔の洞」手掘りの隧道。「鎌倉攬勝考卷之九」の所載する唯一の「古城址」の「三浦陸奧守義同人道道寸城跡」の冒頭がそれをはっきりと述べている。

   *

小坪正覺寺の東南、住吉の社あるゆへ、住吉の城とも唱へし由。城山は、光明寺の山より地つゞけり。此所を三浦道寸が城跡といふ。住吉の社地より山中を切拔たる洞口を、大手口なりといふ。入口の洞穴を、例の土人が方言に、くらがりやぐらと稱す。

   *

この隧道は現在、私は未確認である。ところがこれに関わってこの隧道を探索している方がいる。「山さ行がねが・ヨッキれん」の平沼義之氏で、その「隧道レポート 小坪のゲジ穴」後編にそれはある。私は長くこの「くらがりやぐら」をこの平沼氏踏査の隧道だと固く信じて来た。実は三十数年前に私はこの隧道を通り抜けているのだ(現在はリンク先でご覧の通り、出口が封鎖され通行出来なくなっている)が、その際、リンク先の画像でも分かる通り、隧道自体が上り坂となっている以上に、途中で大きく隧道が左へ湾曲しているため、中は真暗なのである(因みに私は照明器具を持たずに手探りでこの天井にゲジゲジの群生する中を抜けたわけであった)。従って「くらがりやぐら」という呼称が実感として落ちて、そう思い込んでいた訳である。この隧道の海側の口は正に住吉明神のすぐ右手にあって「鎌倉攬勝考」の「住吉の社地より山中を切拔たる洞口」という表現にもぴったり一致する点も手伝った。ところが、平沼氏がこの探査の折りに出逢った六十歳ほどの地元男性の証言では、この隧道は戦後になってから地元の人たちが自宅と農地とを往復するための近道として掘ったものとあり、更にその最後で平沼氏はデジタル地図ソフトの地図を示され、この隧道より有意に南側の位置に、この隧道よりも凡そ倍弱の長さ(百メートル弱か)の隧道が示されているのである。これが幻の「くらがりやぐら」であることは間違いない。ネット上を検索すると「三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡」という書物に「掘拔の穴 東の方は表門、北の方は裏門、住吉城双方へ掘拔也。裏門を出れば姥ヶ谷小坪の後也。」とあって、前者が幻の「くらがりやぐら」で、後者は現在の住吉隧道のプロトタイプか、消滅した別隧道を言うか。――しかし、今や、「くらがりやぐら」どころか、この無名の「ゲジ穴」さえも消滅させられようとしている。かつて歩いた場所がなくなることを痛烈に意識するということは――それは『私の病い』に基づくものなのだろうか、それともこの『現実世界そのものの病い』の現象なのだろうか?……

「二十餘間」二十間(けん)は三十六・三六メトールであるから、三十七メートル強か。

「三浦道寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年?~永正十三年(一五一六)年)は東相模の初期の戦国小大名。「導寸」は道寸とも書き、彼の出家後の法名。通常はこちらで呼ばれることの方が多い。平安から綿々と続いてきた相模三浦氏血脈の最後の当主にして、北条早雲に拮抗する最大勢力であったが、北条に攻められ、三浦の新井城で三年の籠城の末、討死した。

「鎌倉九代記」「鎌倉公方九代記」「鎌倉公方九代記」の巻五の「六 三浦道寸討死 付 新井城歿落 幷 怨霊」のことであろう。私の『風俗畫報』の臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 大崩に引用しておいた。

「北條五代記」後北条氏の五代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた書で全十巻。「北条五代実記」「北条盛衰記」「小田原北条記」などとという別名を持つ。参照したウィキ北条五代によれば、『後北条氏の旧臣で小田原合戦の篭城戦を体験したという三浦茂正(法名は三浦浄心)の著書である『慶長見聞集』から、後北条氏に関わる記事を後に茂正の旧友と称する人物が抄録したもの。後北条氏の盛衰を項目を立てて記載しているが、史料として使用するには検討が必要である。成立は元和年間とされているが、現在の刊本は寛永期のものと万治期のものがある』とある。

「永正九年」一五一二年。

「北條新九部長氏」戦国大名の嚆矢たる北條早雲(永享四(一四三二)年又は康正二(一四五六)年~永正十六(一五一九)年)のこと。「長氏」は彼の諱とされ、他の諱に氏茂も伝えられたが、現在は盛時が定説である。早雲というのは早雲庵宗瑞(そうずい)という彼の号に基づく。

「數珠掛松」正覚寺の公式HPには『境内には、良忠上人あるいは頼朝が数珠を掛けたと云われる「数珠掛松」があ』ったとあり、現存しないと判断される。]

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