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2015/09/01

生物學講話 丘淺次郎 第十三章 産卵と姙娠(9) 五 胎盤 / 第十三章~了

     五 胎盤

 

 人間も他の獸類と共に初め卵生の爬蟲類から起こつたものなることは、る羊膜の生ずる有樣からほゞ推察が出來るが、次に種々の獸類の胎盤の形狀を調べて見ると、人間は獸類中のいづれの仲間に屬するかが頗る明瞭にわかる。胎盤とは親の體から子の體へ滋養分を與へるための特殊の器官であるから、胎生をせぬ動物は素よりある筈はないが、胎生する動物でも胎内の子が親に養はれぬ場合には胎盤の必要はない。たゞ胎兒が長い間親から滋養分を得て大きく成長するやうな種類では、胎盤がよく發達しなければならぬ。

 

 獸類の胎兒は羊膜に包まれた上を更になほ一つの膜囊に包まれて居るが、この膜囊は母親の子宮の内面に密接して居るから、親の體から子の體へ、滋養分が移り行くには、是非ともこの膜を通過せねばならぬ。親から容易に滋養分を吸ひ取り得るために、この膜の外面からは、早くから無數の細い突起が生じ、親の子宮の粘膜に嵌り込むが、發生が稍々進むと、胎兒の身體から血管が延び出して、この細い突起の内までも達する。かくなると、子の血管は恰も樹木の根が地中で細かく分岐するやうに母の子宮粘膜の内に根を下して、そこから滋養分を吸收することが出來る。子の血管が母の子宮粘膜に根を下して居る處が、即ち胎盤であつて、その形狀は獸類の種族によつてさまざまに違ふ。また胎盤と胎兒の腹とを繫ぐ紐は所謂臍帶であるが、主として胎兒から胎盤まで血の往復する稍々太い動脈・靜脈が繩の如くに撚れて出來て居る。
 
 

Hitujinotaiban

[羊の胎盤]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難いので、こちらを採用した。]

 

 「カンガルー」の類は前にも述べた通り、極めて早く小さな子を産み出してしまふから、胎盤は全くない。子はたゞ暫く母の子宮内に場處を借り、その壁から滲み出る滋養液を少し吸ふだけに過ぎぬから、身體上からは親と子との關係は頗る簡單で、産まれることも至つて容易い。馬では胎兒を包む外囊の全表面から細い血管が澤山に出て、親の子宮粘膜に嵌り込んで居る。また牛・羊では同じく細い血管が出て居るが、恰も豹の皮の斑紋の如くに幾つもの塊となり、各の塊が總の如き形をなして子宮の粘膜内に埋れて居る。牛でも馬でも胎兒を包む囊の血管は、子宮の粘膜に差し込まれた體裁になつて居るが、兒が生まれるときには母の子宮の壁から子の血管だけが拔けて、兒の後から出で去るから、その際母親の身體は一部たりとも切れ失はれることはない。即ち今まで嵌つて居たものが、外れて離れ去るだけである。所が犬・猫・猿・人間などになると、胎兒を包む膜囊の表面から突出して居る無數の細い血管は、母の子宮の粘膜と固く結び附いて離れぬやうになり、子が生まれるときには、子の血管と親の子宮内面の粘膜の一部とは一塊となつて出てくる。これが即ち胎盤であるが、牛・馬のとは違うて、親の組織の一部が切れ離れて子を包む膜と共に出るから、そこの血管は當然破れて、出産の際には著しく出血する。犬・猫・「いたち」などの食肉獸では、胎盤は帽の廣い帶の形で胎兒の胴の處を緩く卷いて居るが、猿や人間では圓盤狀で、恰も蓮の葉を厚くした如くに見える。そして普通の猿類では蓮の葉を二枚ならべた如き形が常であるが、たゞ猩々〔オランウータン〕と手長猿の類と人間とだけは蓮の葉一枚の如くである。されば普通の猿と猩々と人間とを竝べ、胎盤の形に基づいて分類すれば、人間と猩々とを合せて一組とし、他の猿類と相對立せしめねばならぬが、このことは解剖上、發生上、竝に血淸反應の調査などの結果と實によく符合する。即ち、人間と猩々・手長猿などの如き高等の猿類との間の血緣の程度は、高等の猿と尾を有する普通の猿頬との間の血緣の程度に比して、更に一層近いことが明に知れる。

Tenagazarunotaijitotaiban

[手長猿の胎兒と胎盤]

[やぶちゃん注:本図も国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難いので、こちらを採用した。]

 

 胎盤の發達は胎生を益々完全ならしめるものであるが、親と子との結合が密接になるだけ、出産の際に相離れることが困難になるを免れぬ。たゞ子宮内に子を留めて措くだけならば出産は極めて容易であるが、その代りに子を長く十分に養ふことができず、胎盤が完全に發達すれば、子を長く養ふに當つて不足のない代りに、出産の際にはこれが母體から離れるための臨時の苦痛が生ずる。子を包む膜の表面から出て居る血管の突起が、簡單に子宮の粘膜に差し入つただけならば、恰も地から杭を拔く如くに、それだけを拔き取ることが出來るが、血管が細く分れて子宮粘膜内に根を下したやうになると、これを離すのは容易でない。恰も根の張つた樹を力まかせに引き拔けば、多量の土が取れて大きな穴が明く如くに、その取れた跡には大きな傷が殘る。分娩の際の出血は、この傷から出るのである。また完全な胎盤によつて子が十分に養はれ、大きくなればこれを狹い産道から産み出すときの苦しみは一通りではなくなる。されば胎生にも便と不便とが附いて廻り、一程度まで達した以上は最早その先へは進まれぬ。人間の如きも、現在よりもなほ一層の發達した頭の大きな赤子を産むことは到底望まれぬであらう。

Ringetunotaiji

[臨月の胎兒]

[やぶちゃん注:これは講談社学術文庫版の図である。]

 

 胎盤における親子の血管の關係を見るに、如何に密接しても直に連絡する處は決してない。即ち同一の血が、親の體と子の體とを循環する如きことは決してなく、たゞ子の血管が親の血管の多い組織内に根の如くに擴がつて居るだけである。子は血管を親の組織内に延し擴げて親から滋養分を吸ひ取るのであるから、この點からいふと、獸類の胎兒は一種の寄生蟲とも見做すべきもので、母親は種族維持の目的のために一身を犧牲に供し、大きな寄生蟲の宿主となつて居る次第である。卵巣内にある卵細胞は慥に母の身體の一部であるが、已に卵巣を離れ受精した後は、最早新たな一個體であつて、たゞ母の體内に場處を借りているに過ぎず、更に血管を延して母の身體から滋養を吸ひ取るやうになれば、純然たる寄生生活に移つたわけで、産まれ出るまでは一種の内部寄生蟲である。また産まれてからは、宿主の皮膚の一部に吸ひ著いて滋養分を取るから、一種の外部寄生蟲となり、乳を飮まなくなつてからは蟻の巣の内に寄生して居る甲蟲などと同樣な巣内寄生蟲となる。親が毒を食へば胎兒もその毒を蒙り、親が病に罹れば胎兒にもその病が傳はりなどして、その間の關係は頗る密接ではあるが、胎兒は決して母の身體の一部を成すものではないから、姙娠中に母に起つた變化がその通りに子にも現れるといふことはない。日の出の夢を見て孕んだら英雄豪傑が生まれたとか、姙娠中に火事を見て驚いたら、生まれた子の額に火の形の赤い痣があつたとかいふ話は屢々聞かされるが、これは恐らく造り話か思ひ違ひかであらう。素より肉體と精神との間には密接の關係があるから、母が姙娠中に心配をしたために虛弱な兒が生まれたといふ如きことならば、あり得べきやうに思はれるが、姙娠中に論語の講釋を聽いたら聖人が生まれ、ジゴマの活動寫眞を見たら泥棒が生まれるといふ如きことはまづなからう。母親が姙娠中に鮮郵に攝生に意を用ゐることは、種族維持の上に最も大切なことであるから大に努めなければならぬが、胎教にいふ如き胎兒の品性の陶冶が姙婦の心掛けによつて出來るや否やは頗る疑はしいといはざるを得ない。

[やぶちゃん注:「ジゴマ」怪盗ジゴマ。これ本書の初版(大正五(一九一六)年東京開成館刊)の出る五、六年前に本邦で爆発的人気を誇った悪漢映画の主人公の名である。以下、ウィキの「ジゴマ」から引く。「ジゴマ」(Zigomar)は、元はフランスの作家レオン・サジイ(Léon Sazie 一八六二年~一九三九年)の書いたピカレスク・ロマン、怪盗小説シリーズで、ここでのそれは、それを原作とした映画の方の主人公で、明治末から大正初期の『日本で爆発的なブームとなり、多くの独自の映画・小説も作られ、子供への影響から映画の上映禁止にまで及んだ』。一九〇九年に『ル・マタン』紙に新聞連載小説(ロマン・フィユトン Roman- feuilleton)として掲載、連載後に単行本化されて全二十八冊が刊行された。『パリを舞台に変装の怪人ジゴマが、殺人、強盗などの犯罪を繰り返す』もので、早くも二年後の一九一一年には『映画化され、また同年に日本でも公開された。小説の邦訳は』後の、昭和一二(一九三七)年の久生十蘭訳『新青年』四月号別冊付録(『長篇探偵小説』と銘打って掲載された)が嚆矢らしいが、これは翻訳と言うものの、『ストーリーが原作とは変えられている部分も多い』とある。映画化は一九一一年エクレール社製作、ヴィクトラン・ジャッセ監督・脚色の「ジゴマ」(Zigomar)であったが、ストーリーは原作と大きく異なる。続編として同監督で翌年に「ジゴマ/後編」(Zigomar contre Nick Carter)が、翌々年に「ジゴマ/探偵の勝利」(Zigomar, peau d'anguille)が製作されている。『豊富なアクションシーンで、後に作られた「ファントマ」とともに、アメリカで流行する連続活劇の原形と言われる。また撮影トリックによる瞬間的な変装シーンなども先駆的な表現だった』。本邦では、映画「ジゴマ」が「探偵奇譚ジゴマ」の邦題で明治四四(一九一一)年十一月に福宝堂が買い付け、『浅草の金龍館で封切られ(弁士加藤貞利)、封切り当初から大評判となる。劇場には観衆が殺到し、客を舞台に上げるほどだった。これは日本における洋画の最初のヒットともなった』。気をよくした福宝堂は続いて「シリーズ第二弾」と称して、何と『女賊の活躍するまったくの別作品を『女ジゴマ』の題で』同年十二月から『公開、これも大ヒットとな』って、翌年(明治末年)三月まで上映された。第三弾は正規の『ジゴマ後編』(公開時は『ジゴマ続編』)を同五月より公開、「ジゴマ」「女ジゴマ」も再映し、続いて「第四弾」と謳って同六月(翌月大正に改元)にはまたしても類似の凶賊と探偵の対決物である「悪魔バトラ」を、第五弾として十月(既に大正元年)には女賊ソニヤの活躍する「ソニヤ」を公開した。以下、「和製ジゴマ登場」の項。『福宝堂のヒットに続こうと他の興行会社はジゴマ映画を日本』での製作にいち早く乗り出し、大正元年(一九一二)年八月には『吉澤商店製作の『日本ジゴマ』が公開、これは千人の手下を持ち日本ジゴマと呼ばれる怪賊荒島大五郎と探偵の追走・対決劇で、房総半島での当時としては珍しい大掛かりな実地ロケを行い、また外国映画の手法も取り入れたものだった。さらに続編として『ジゴマ改心録』、『大悪魔』を』九月に公開、エム・パテー商会も「新ジゴマ大探偵」なる作品をを同月に公開、『いずれも連日大入りの大ヒットとなった』。『東京でのヒットに続き、福宝堂の全国の上映館でもジゴマを公開。また弁士駒田好洋の巡業隊がジゴマのフィルムを番組に加えて』、同時に『地方巡業を行い、「頗る非常大博士」の名で知れ渡っていた駒田の人気も相まって、これも大入り満員続きとなった』。『映画のヒットに続き』、同年中に『映画の翻案や、独自ストーリーによる、舞台がフランスのもの、日本のものなど様々なジゴマの小説化も相次』ぎ(リンク先に類書二十三冊のリストが載る)、『これらは映画の人気に加え』、七月の『明治天皇崩御による演劇興行自粛による読書ブームの影響もあって多くの版を重ね、また他にも探偵ものバトラ、ソニヤ、大悪魔などのシリーズも刊行された。読者は主に小中学生で、書店、図書館、貸本屋を通じて読まれた』とある。ところが、こうした『ジゴマブームの中、少年層に犯罪を誘発するという説や、ジゴマの影響を受けたという犯罪の報道、泥棒を真似たジゴマごっこの流行などがあり、東京朝日新聞では』同大正元年十月上旬、『ブームの分析や影響』が八回連載で『取り上げられた。こういった世論の高まりの中』、同十月九日には、『警視庁により、犯罪を誘致助成する、公安風俗を害するとして、ジゴマ映画及び類似映画の上映禁止処分がなされた。これは内務省警保局も決定に関わっており、続いて各府県に対しても警保局から同様の通牒が送られ、上映禁止は次第に全国に広まっていった。この件を機に、それまで各警察署が行っていた映画等の興行の検閲が、制度的に整えられていくこととなった』。『しかしジゴマブームによって』、大正元(一九一二)年の映画を含めた東京市内の観物場入場者数は前年の三倍の千二百万人に達し(そのうち映画は八百五十一万人)、『活動写真界の大きな成長をもたらした。また探偵小説についても禁止処分を訴える論調が新聞などに出たが、これには処分は下されなかった』。『その後は、ジゴマの名を隠したジゴマ映画が散発的に上映されることはあったが、ブームは下火になり』、大正二(一九一三)年には『ジゴマ探偵小説の出版も無くなる。類似書としては、ジゴマの残党が登場する』、押川春浪「恐怖塔」(大正三(一九一四)年刊)や同年刊の江見水蔭「三怪人」などがあった。『また当時出版された探偵小説は、貸本屋、古本屋などを通じて読まれ続けた。』一方、この上映禁止は大正一三(一九二四)年になってやっと『解禁となったと、吉山旭光『日本映画史年表』には記載されている』とある。更に、『ジゴマは当時「ジゴマ式」「ジゴマル」(横暴、出没自在の意)などの新語も生み出し』た。大正四(一九一五)年には『「ヂゴマ団」を称する犯罪事件なども起きた』。なお、その後では、一九八八年の『映画『怪盗ジゴマ 音楽篇』(寺山修司脚本)や、同年の怪盗ジゴマの登場するテレビドラマ『じゃあまん探偵団 魔隣組』(石ノ森章太郎原作)などがある。江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズにも、ジゴマの影響があると言われている』とある。]

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