黃昏に 立原道造
黃昏に
FRAU R. KITA GEWIDMET
すべては 徒勞だつた と
告げる光のなかで 私は また
おまへの名を 言はねばならない
たそがれに
信じられたものは 美しかつた
だが傷ついた いくつかの
風景 それらは すでに
とほくに のこされるばかりだらう
私は 身を 木の幹に凭せてゐる
おまへは だまつて 背を向けてゐる
夕陽のなかに 鳩が 飛んでゐる
私らは 別れよう‥‥別れることが
私らの めぐりあひであつた あの日のやうに
いまも また雲が空の遠くを ながれてゐる
[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。本詩篇は先に掲げた「ひとり林に‥‥」と同じく、底本のたった二篇の「補遺」の中のもう一篇である。
副題「FRAU R. KITA GEWIDMET」は「ひとり林に‥‥」と同じ形式のドイツ語の献辞である。“FRAU”(フラウ)は「夫人」の意であるから、これは同様に“R”のイニシャルの名を持つ「北」或いは「喜多」「木田」「喜田」などの姓を持つところの「夫人へ捧げる(捧げたる)」という意という風に普通は読めると思う。ろくな立原道造の評論を読んだこともない私には、この女性が誰なのかはこれ以上、分からない。識者の御教授を乞うものではあるが、実際、誰なのかは分かっていないのかも知れない。
そして底本の堀辰雄の「後記」を見ると、本詩篇は『「優しき歌」の第二番の「落葉林で」の別稿であ』ると記されてある。これは現在知られている「優しき歌」の「Ⅱ 落葉林で」を指す。
さればこそ、ともかくもその堀らによって再現された未刊詩篇である「Ⅱ 落葉林で」を引こう。
*
Ⅱ 落葉林で
あのやうに
あの雲が 赤く
光のなかで
死に絶えて行つた
私は 身を凭もたせてゐる
おまへは だまつて 脊を向けてゐる
ごらん かへりおくれた
鳥が一羽 低く飛んでゐる
私らに 一日が
はてしなく 長かつたやうに
雲に 鳥に
そして あの夕ぐれの花たちに
私らの 短いいのちが
どれだけ ねたましく おもへるだらう か
*
こちらの詩篇については、中公文庫版「日本の詩歌」第二十四巻の脚注(注釈阪本越郎)では、『この詩の落葉林とは、信州の落葉松(からまつ)林のことを指す』とある(以下、本詩の鑑賞文が続くのであるが、私には誰でも書けそうな――従って何ら本詩の背景を解き明かすヒントだに与えない――凡庸にして退屈な(失礼)感傷主義の産物でしかなく、引用する気にもならない(再度、失礼)。ともかくも私が言い得ることは現時点では、これだけである。]