『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 大佛
●大佛
大佛は長谷村の深澤に在り。二王門に林峯(りんぽう)の書せし大異山の額を掲(かゝ)く。門前に聖武帝艸創東三十三ケ國總國分寺大佛と刻せし石標(せきへう)あり。風土記に據れは此處は總國分寺にあらす。蓋し誤なり。門に榜示(ぼうじ)あり。左の如し。
[やぶちゃん注:底本では以下、「すへきもの也」まで全体が一字下げ。前後を一行空けた。]
當山は。數百年來勤行絶ざるの佛疆(ぶつきよう)なり。玆に詣(まふで)んとする善男善女は。何人を問はす。何の宗教を奉するに問はす。何の宗教を奉するに論なく。下示の意を遵守すべし。
之は彌陀の聖殿なり。是は如來の御門なり。宜しく敬禮を盡すへきもの也
門を入れは。右の方に鳥島古物店ありて。古器物(こきぶつ)を鬻(ひさ)く。石階五級。次に三級を登れば。鋼燈籠二基立てり。經案の左右銅蓮華あり。大佛は卽ち金銅の廬舍那佛にして。正面に在り南に面して露坐し給ふ。總高五丈。髮際(かみぎは)より趺坐に至るまて高四丈二尺。周圍十六間二尺。石座高四尺五寸。面長八尺五寸。橫一丈八尺。白毫周圍一尺五寸。眼大(がんだい)四尺。眉大四尺二寸。耳長六尺六寸。鼻(はな)縱(たて)三尺八寸。橫二尺三寸。口徑(こうけい)三尺二寸強。肉髻高八尺。徑(けい)二尺四寸。螺髮(らはつ)各高八寸。徑一尺。其數八百三十顆。膝徑六間餘。大指周三尺餘とす。大佛の右側に亭(てい)あり。此處にて腹内を周覽する者より各一錢を徵收し。又大佛の寫眞幷に由來記を賣る。大佛の腹内は三十席を容るゝといふ。西の方右に賴朝の護持佛。左に祐天(ゆうてん)の像を安置す。北方卽ち背部に向ひて架梯(かてい)あり。登れは窓穴(まどあな)ありて後庭を下瞰すベし。又面部の凹處に金色の佛像を安置せり。風土記に彌陀の木像長一尺二寸。天竺傳來と云ふ腹籠とすとあり。或は此か。抑(そもそも)當佛殿は。沙門淨光普(あまね)く募緣して營作を企て。曆仁元年三月遂に此の新造の事始あり。五月大佛の妙好相(めうかうさう)始て成る。仁治二年三月上棟の儀式あり寬元元年六月落成して供養を行ふ此の時造立の佛像は木像なり建長四年八月十七日。改(あらため)て金銅の佛像を鑄(ゐ)る。今現存の者即ち是なりといふ。其の後應安二年九月大風の爲めに堂宇顚倒す。明應四年八月由井濱の海水激騰(げきとう)して。佛殿亦破壞に及へり。夫より礎石のみを存して。佛像は永く露坐し給へり。萬里居士の詩にも。無二堂宇一而露坐突兀とあり。今に至りて再建(さいこん)に至らす。古は建長寺の所管なりしが。近世別當を置きて高德院といふ。
別當高德院は淨土宗なり。此の地は眞言宗淨泉寺の舊地にして。天平年中行基の開基なりしに。其の後ち明應年中廢寺となり。大佛のみありしを。正德年間增上寺主顯譽祐天(けんよゆうてん)再興の志を發しに。江戸神田の商賈野島新左衞門。祐天に歸依し、資財を捨てゝ。共に當寺を興立し。山號を獅子吼(しゝく)と改め。寺號は淸淨泉寺の舊に從ひ。宗旨を改て光明寺の末に屬す。故に祐天を中興の開祖とし。松參詮察を第二世とし。新左衞門を中興の開基とし。本尊〔木像長一尺五寸惠心作〕又同像〔同五寸五分〕及ひ愛染〔行基の作宗尊親王大佛殿前に一宇を建て安せし像なりき〕の像を置く。
大佛の背後に石碑あり。表面南無阿彌陀佛。側面に稻多野殿。裏面に建長五癸丑年五月二十三日とあり。庭園大樹多くして。綠陰濃(こまや)かに。夏日は凉(れう)を納(い)るゝに足る。且つ其の淸潔なることは鎌倉中他に其の比を見ず。
[やぶちゃん注:「鳥島古物店」現存しない模様。
「總高五丈……」以下、以下の数値をメートル換算しておく。
総高五丈 一五・一五 メートル
髪際より趺坐まで高四丈二尺
一二・七二 メートル
周囲十六間二尺 二九・六九 メートル
石座高四尺五寸 一・三六 メートル
面長八尺五寸 二・五七 メートル
橫一丈八尺 五・四五 メートル
白毫周囲一尺五寸 〇・四五 メートル
眼の大きさ四尺 一・二一 メートル
眉の大きさ四尺二寸 一・二七 メートル
耳の長さ六尺六寸 二 メートル
鼻縦三尺八寸 一・一五 メートル
鼻横二尺三寸 〇・六九 メートル
口径三尺二寸強 〇・九七 メートル強
肉髻高八尺 二・四二 メートル
肉髻直径二尺四寸 〇・七二 メートル
螺髪各高八寸 〇・二四 メートル
螺髪径一尺 〇・三〇 メートル
螺髪数 八三〇 個
膝の径六間餘 一〇・九一 メートル余り
親指周囲三尺餘 〇・九一 メートル余り
因みに、現在の高徳院の公式サイトのデータを示しておく。かなり違う。
総高(台座を含む) 一三・三五 メートル
仏身高 一一・三一二 メートル
面長 二・三五 メートル
眼長 一・〇〇 メートル
口幅 〇・八二 メートル
耳長 一・九〇 メートル
眉間白毫直径 〇・一八 メートル
螺髪(頭髪)高 〇・一八 メートル
螺髪直径 〇・二四 メートル
螺髪数 六五六 個
仏体重量 一二一 トン
因みに、本誌の十五年後の明治末年である明治四五(一九一二)年七月十五日に鎌倉町小町の通友社から発行された左狂大橋良平の「現在の鎌倉」の「長谷の大佛」に載る数値は概ね本誌に同じい(リンク先は私の電子テクスト)。恐らくはかつては荘厳さを誇大に示すために実際よりも大きめに広告されていたものと考えられる。
「祐天」浄土宗大本山増上寺第三十六世法主でゴーストバスターとしても知られた祐天(寛永一四(一六三七)年~享保三(一七一八)年)。ウィキの「高徳院」から引いておく。本寺は、現在は正式には大異山高徳院清浄泉寺と号し、『鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間』(一七一一年~一七一六年)に、『江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである』。「吾妻鏡」には暦仁元(一二三八)年、『深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ』、五年後の寛元元(一二四三)年に『開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は』、仁治三(一二四二)年に『完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が』三分の二ほど『完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方で「吾妻鏡」には建長四(一二五二)年から『「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し』、この年から造立が開始された大仏が『現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である』。なお、前述の一二四三年に開眼供養された木造の大仏と、「吾妻鏡」で一二五二年に起工したとする銅造の大仏との関係については、『木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている』。「吾妻鏡」によれば、『大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である』。『鎌倉時代末期には鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船)。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかはこれも史料がないため、不明である』。『大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは』、二〇〇〇年から二〇〇一年にかけて『実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている』。「太平記」には、建武二(一三三五)年に『大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり』、「鎌倉大日記」によれば大仏殿は』応安二(一三六九)年にも倒壊している。『大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について』は、「鎌倉大日記」が明応四(一四九五)年とするものの、「塔寺八幡宮長帳」などの他の史料から明応七(一四九八)年九月二十日(明応地震)が正しいと考証されている。一方、室町時代の禅僧万里集九の「梅花無尽蔵」には文明一八(一四八六)年に『彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている』。先に記した境内発掘調査の結果、応安二(一三六九)年の倒壊以後には『大仏殿が再建された形跡は見出され』ていないとある。白井永二編「鎌倉事典」(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊)では『もと光明寺奥院』と断定し、その後さらに、その清浄泉寺の『支院であった高徳院のみが残ったもの。祐天再興の時、山号を獅子吼山と改めたというが、今は大異山に復している』とある。
「架梯」架けられた梯子。底本にある山本松谷の絵には手すりの附いたちゃんとした木製と思しい階段が描かれている。
「下瞰」「かかん」と読み、見下ろすこと・俯瞰の意。
「一尺二寸」三十六・三六センチメートル。
「妙好相」これは「妙相好」(めうさうがう(みょうそうごう)」とあるべきところと思う。「相好(そうごう)」で仏の身体に備わっている「三十二相八十種好」、三十二の「相」(現世に於いて認識される姿)と八十種に及ぶ「好」(三十二相をさらに細分化した荘厳にして清浄なる美形の細かな部分)の総称である。細かくはウィキの「三十二相八十種好」(但し、「好き」の方は総ては載っていない)を参照されたい。
「仁治二年」一二四一年。但し、先の「祐天」の注で示したように、「東関紀行」の筆者が翌仁治三(一二四二)年に完成前の大仏殿を訪れ、その時点では大仏と大仏殿が三分の二ほどしか完成していないとあるのと齟齬する。ともかくもあれだけの大きな大仏でありがなら、実は沿革は未だによく分かっていないのが実情である。
「萬里居士の詩にも。無二堂宇一而露坐突兀とあり」先の「祐天」の注を参照。
「松參詮察」これは増上寺法主祐天(第三十六世)を継いだ第三十七世法主「松譽詮察」の誤植と思われる。彼についてはサイト「千葉一族」の「僧侶になった千葉一族(浄土宗)」に詳しい。
「一尺五寸」四十五・一五センチメートル。
「稻多野殿」源頼朝の侍女だったされる稲多野局(いなだのつぼね)。岡戸事務所編「鎌倉手帳(寺社散策)」の「高徳院(鎌倉大仏)」に、彼女の卒塔婆の写真とともに、『伝えられている話では、鎌倉大仏は、源頼朝の侍女だった稲多野局が発起し、僧浄光が勧進して造立した』という伝承があり、もともと『大仏を造ろうと思い立ったのは源頼朝だった』が、『頼朝はそれを果たすことなくこの世を去ってしま』ったことから、その『志を受け継いだのが侍女の稲多野局』で、『北条政子が助力したともいわれている』とある。
「建長五癸丑年」一二五三年。]
【2016年1月11日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】
山本松谷「鎌倉江島名所圖會」挿絵 大仏の図(三枚組見開き)
[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)の挿絵七枚目。私のスキャン機器のサイズの関係上、体内図を重視し、左側を三・五ミリメートル分、カットしてある。合成では私のフォト・ソフトと未熟な技術では必ずしも上手くいかないし、完全に三分割単体で表示すると原本のパワーが減少するので、かくトリミングした。
右の画中左上に「大佛」(改行一字下げ)「腹内の圖」
中央上部欄外に(画像ではカット)「鎌倉大佛前面の圖」
左の画中右上に「背面の圖」
と手書き文字でキャプションが記されてある。右の胎内の当時の構造、背部の物見窓の木造の櫓と、恐らくは、やはり木製と思われる昇降階段の様子、解説する者、参詣人のざわめき、その反響、そうした賑わいがよく伝わってくる気がする。]
« Wait and hope. ――待て、しかして希望せよ。―― | トップページ | 『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 長谷町 »