『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 寳戒寺
●寳戒寺
寶戒寺は小町の北、若宮小路の東なり。金龍山(きんりうざん)と號す、圓頓寳戒寺と額あり、筆者不ㇾ知、此地は相摸入道崇鑑平高時が邸宅なり、故に源尊氏後醍醐天皇へ奏して高時が爲に、葛西谷の東勝寺を遷して北條家一族の骸骨を改め葬り、此寺を建立せり、開山は法勝寺の長老五代國師なり。
本堂 本尊地藏、左右に梵天、帝釋共に唐佛なり。五代(開山)並に普川像(二世)あり、地藏は行基作、尊氏の守本尊(まもりほんそん)と云ひ、不動大山の像と同作と云ふ、聖天像もあり。
[やぶちゃん注:「小町」前出の小町大路。
「若宮小路」現在の段葛のこと。現在は全体が若宮大路と呼称されているが、近世に於いては現在の北北東の鶴岡八幡宮寄りの、段葛に相当の部分をこう呼称し、そこから由比ヶ浜寄りの南南西半分は「琵琶小路」と呼んだ。但し、現行の若宮大路に相当する箇所を「大路」と記しているのは「吾妻鏡」だけで、他の資料では「若宮小路」と注するとあり(白井永二編「鎌倉事典」)、それ以外にも「七度小路」「千度小路」などの室町以降の呼称も存在し、厳密な区別は実際にはなかったものとも思われる。
「相摸入道崇鑑平高時」北条氏得宗家当主鎌倉幕府第十四代執権北条高時。「崇鑑」は執権辞任後に出家した後の法名。
「法勝寺」「ほつしようじ(ほっしょうじ)」と読む。平安から室町まで、平安京の東の郊外、白河(現在の岡崎公園及び京都市動物園周辺)にあった寺。白河天皇が承保三(一〇七六)年に建立、皇室から厚く保護された。嘉暦元(一三二六)年に後醍醐天皇の命を受けた円観(次注参照)が再勧進職となって同寺の再興に務め、その功績によってそのまま住持となっている。後の応仁の乱以後、衰微廃絶した(ウィキの「法勝寺」に拠る)。
「五代國師」天台宗僧円観(弘安四(一二八一)年~正平一一/延文元(一三五六)年)。字は慧鎮(えちん)。後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明天皇の五帝に戒を授けたことから「五國大師」の異名で呼ばれた。この「五代」はその意。
「普川の像」「普川」は惟賢(ゆいけん)。足利尊氏の弟とも子とも言われ、貞和三(一三四七)年に宝戒寺二世となっている。この木像は応安五(一三七二)年作の寿像(モデルの生前に作像したもの)である。
「不動大山の像と同作と云ふ」は現在の神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派雨降山(あぶりさん)大山寺で本尊は不動明王。因みに大山寺のものは文永十一(一二六四)年の願行上人による鋳造である。
「聖天像」とは木造歓喜天立像。現存するが秘仏として普段は非公開(私は未見)。歓喜天としては像高一五五センチに及ぶ異例の大型像で木造では本邦最古という。]
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