日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 壬午事変のこと
第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし
我々の瀬戸内海に於る経験は珍しいものであり、また汽船を除いては、この上もないものであった。今や我々は、紀伊の国の都会へ向けて出発せんとしつつある。それから奈良と京都とへ行くのであるから、私の紀行の覚書や写生図は、順序正しく書く機会無しに、どんどん集って行く。私はまた、陶器紀要に関する資料を沢山手に入れたが、これは情無い程遅れている。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『神戸に戻ったのは』(明治一五(一八八二)年)『八月二十二日頃、その神戸で三日間過ごしたのちモースは大阪へ行き、ついで和歌山へ向った』とある。なお、既に記したが、モースは知らず、後に東京へ戻って知って驚愕することになるのであるが(第二十五章で記される)、この八月二十一日、モースの陶器師であった蜷川式胤は東京でコレラのために逝去していたのであった。]
朝鮮で恐るべき暴動が起り、数名の日本人が虐殺されてから、まだ一月にならぬ。日本の新聞がこの報道を受けた時、私は京都にいたが、この事件に関する興奮は、私に、南北戦争が勃発した後の数日を連想させた。大阪は兵士三連隊を徴募し、百万ドルを醵金することになり、北西海岸はるか遠くに位置する新潟は、兵士半個連隊を徴募し、十万ドルを寄附することになった。私は以下に述べる出来ごとの真価が、充分了解される為に、かかる詳細をかかげるのである。
[やぶちゃん注:これはこの前月末である一八八二年七月二十三日に起った壬午事変(じんごじへん)を指す。一八七三年十一月に失脚していた前政権担当者で守旧派筆頭であった興宣大院君(こうせんだいいんくん/フンソンデウォングン)らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(現在のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、当時の政権を担当していた閔妃(ミンぴ)一族の政府高官や日本人軍事顧問堀本工兵少尉ら数十名が死傷、日本公使館も包囲焼き討ちされて、花房義質(はなぶさよしもと)公使らは逃亡した。ウィキの「壬午事変」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『事変によって多数の日本人が殺傷された日本政府は花房公使を全権委員として、高島鞆之助陸軍少将及び仁礼景範海軍少将の指揮する、軍艦五隻、歩兵第十一連隊の一個歩兵大隊及び海軍陸戦隊を伴わせ、朝鮮に派遣』し、『日本と朝鮮は済物浦条約』(さいもっぽ/チェムルポじょうやく:一八八二年八月三十日に日本と李氏朝鮮の間で締結された条約。済物浦は現在の仁川の旧称)『を結び、日本軍による日本公使館の警備を約束し、日本は朝鮮に軍隊を置くことになった』。『このことは、朝鮮は清の冊封国であるという姿勢の清を牽制する意味もあった。こうして、朝鮮半島で対峙した日清両軍の軍事衝突を避けることができたが、朝鮮への影響力を確保したい日本と、冊封体制を維持したい清との対立が高まることになり、やがてこの対立が日清戦争へと結びつくことにな』ったとある。]
国中が朝鮮の高圧手段に憤慨し、日本の軍隊が鎮南裏まで退却することを余儀なくされた最中に、私は京都へ行く途中、二人の朝鮮人と同じ汽車に乗り合わした。私も、朝鮮人はめったに見たことが無いが、車室内の日本人達は、彼等がこの二人を凝視した有様から察すると、一度も朝鮮人を見たことが無いらしい。二人は大阪で下車した。私も、切符を犠牲に供して二人の後を追った。彼等は護衛を連れていず、巡査さえも一緒にいなかったが、事実護衛の必要は無かった。彼等の目立ちやすい白い服装や、奇妙な馬の毛の帽子や、靴やその他すべてが、私にとって珍しいと同様、日本人にも珍しいので、群衆が彼等を取りまいた。私は、あるいは敵意を含む身振か、嘲弄するような言葉かを発見することが出来るかと思って、草臥(くたび)れて了うまで彼等の後をつけた。だが日本人は、この二人が、彼等の故国に於て行われつつある暴行に、まるで無関係であることを理解せぬ程莫迦(ばか)ではなく、彼等は平素の通りの礼儀正しさを以て扱われた。自然私は、我国に於る戦の最中に、北方人が南方でどんな風に取扱われたかを思い浮べ、又しても私自身に、どっちの国民の方がより高く文明的であるかを訊ねるのであった。
[やぶちゃん注:モースの日本贔屓と現在までの立場の問題、更にモースに近しい日本人からの情報の伝わり方及び当時の日本国内での英字新聞の報道内容を勘案すれば、モースが日本が事実上の朝鮮半島や大陸の侵略を目論んでいるという深奥を慮ることが出来ず、日本側に立ってこの謀略としてのテロ行為を暴虐と捉えるのは無理もないことと私は思う。寧ろ、モースがここで見かけた二人の無防備な朝鮮人をストーカーのように執拗に追いかけること、そうして彼らに対する日本人の対応を調べ続けた結果、日本人が凝っと見つめながらも誰もが差別なき応対をし、敵意を示すことが全くないことに感激してしまい、南北戦争当時(一八六一年~一八六五年。モース一八三八年生まれであるから当時二十三~二十七歳であった)の南北両アメリカ人同士の扱われ方を回想比較して、日本人はアメリカ人なんぞよりも遙かに理性的であり、礼節に富んだ文明人であると称揚するオチの方に遙かに私は驚く。]
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