『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 安養院/佐竹屋敷/安國寺/長勝寺/日蓮乞水
●安養院
安養院は名越(なこし)の入口海道の北にあり、祇園山と號す、淨土宗知恩院の末寺なり、此寺初め律宗にて開山願行上人なり、其十五世昌譽和尚と云(いふ)より淨土宗となる、昌譽より前住(ぜんぢう)の牌は皆律僧なり、初長谷の前稻瀨川の邊に在(あり)しを、相摸入道滅亡の後(のち)此(こゝ)に移すと云傳ふ、本堂に阿彌陀坐像、客殿にも阿彌陀の坐像を安す、共に安阿彌か作なり。
[やぶちゃん注:先の「田代觀音堂」の項も必ず参照のこと。
「願行上人」(建保三(一二一五)年~永仁三(一二九五)年)は真言僧、憲靜大和尚のこと。号を圓満、字を願行と称した。賜号は宗燈律師。顕密浄律の諸宗に兼通し、画僧としても知られた。
「相摸入道」北条高時。
「安阿彌」運慶と並ぶ名仏師快慶の法号。]
●佐竹屋敷
佐竹屋敷は名越道の北、妙本寺の東の山に五木骨扇の如なる山の疇あり、其下を佐竹秀義か舊宅なりと稱す。
[やぶちゃん注:「疇」「うね」と読み、本来は長々と田畑の間を延びる畦道(あぜみち)のことであるが、ここは尾根と谷の意である。
「佐竹秀義」(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年)。佐竹家第三代当主。頼朝挙兵時は平家方につくが、後に許されて家臣となり、文治五(一一八九)年の奥州合戦で勲功を挙げて御家人となった。建久元(一一九〇)年の頼朝上洛に随行、承久三(一二二一)年の承久の乱では老齢のために自身は参戦しなかったものの、部下や子息を参戦させて幕府に忠義を尽くした。彼はこの名越の館で七十五歳で天寿を全うしている(以上はウィキの「佐竹秀義」を参照した)。]
●安國寺
安國寺は妙法山と號す、名越村の東にあり、妙本寺の末寺也、門額、安國論窟(あんこくろんくつ)、大永元年巳歳(みとし)十月十三日幽賢書とあり、門に入右方に岩窟あり、日蓮房州小湊より來、此窟中に居(をり)て安國論を編となり、内に日蓮の石塔あり。
[やぶちゃん注:「大永元年巳歳」一五二一年。
「幽賢」不詳。
「編」「あむ」或いは「あめる」と訓じていよう。]
●長勝寺
長勝寺は石井山と號す、名越坂へ通る道の南の谷にあり、寺内に岩を切拔たる井あり、鎌倉十井の一なり、故に俗に石井の長勝寺と云ふ、法華宗なり、當寺は洛陽本國寺の舊跡なり、今は却(かへつ)て末寺となる。
[やぶちゃん注:「本國寺」は、現在、大光山本圀寺(ほんこくじ)として京都府京都市山科区にある。同寺の当時の京での寺地は日静(にちじょう 永仁六(一二九八)年~正平二十四・応安二(一三六九)年)が貞和元(一三四五)年に光明天皇より寺地を賜って移った六条堀川であった(何故このようなまどろっこしい言い方をするかというと、第二次大戦後に経営難等の諸般の事情から堀川の寺地を売却し、現在の山科に移転しているからである)。日蓮が松葉ヶ谷草庵に創建した法華堂が第二祖日朗に譲られ、元応二(一三二〇)年に更に堂塔を建立したが、それがこの「本國寺」の濫觴となり、その建立地が現在の石井山長勝寺のある場所であったということである。これに後の妙法寺と啓運寺の錯綜が加わると、何が何だか分からなくなる。寺名問題は宗門の方にお任せしてこれくらいにしておく。]
●日蓮乞水
日蓮乞水は名越切通の坂より、鎌倉の方一町半許(ばかり)前道の南にある小井を云なり。日蓮安房國より鎌倉に出給ふ時、此坂にて水を求められしに、此水俄(にわか)に涌出(わきいで)けると也、水斗升に過(すぎ)されども大旱(たいかん)にも涸(かれ)すと云ふ、甚だ冷水(れいすい)なり。
[やぶちゃん注:「一町半」約百六十四メートル弱。]