日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 再び京都にて(2)
翌日は、日本有数の陶工の一人である永楽を訪問した。我々はここでも、他の製陶場に於ると同様、懇(ねんごろ)にもてなされた。挽茶と菓子とが供され、永楽は非常に注意深く私の質問に耳を傾けた後、彼が十三代目にあたるその家族の歴史をすっかり話して聞かせた。田原氏がこの会話――それは私の陶器紀要に出ることになっている――を記録している間に、私は我々のいる部屋を写生した。天井にはめた驚く可き四角い樫の鏡板は、私が見た物の中で最も美しいものであった。永楽の家で私は、壁土の興味ある取扱いに気がついた。それは、壁を塗るとすぐに、鉄の鑢屑(やすりくず)を吹きかける。するとこの粉末が酸化して、あたたかみを帯びた褐色を呈するのである。
[やぶちゃん注:「永楽」京焼の家元の一つで千家十職の一つ善五郎で、モースは第十三代と言っているが、良く分からないのだが、十三代は何故か、永樂回全と永樂曲全の二人がいる。二人して切磋琢磨したととある記事にはある。さて、この時、彼が逢ったのにはどちらだったのか。陶器には一向、心惹かれないし、どうもこの探索には触手が動かない。悪しからず。【二〇一五年九月二十八日追記】昨日、ここの部分を公開したところ、私の尊敬する「姐さん」より、
モースが対面したのは十三代永樂曲全である
という御指摘を頂戴した。以下、メールを元にしつつ、ご紹介したい(誤解のないように申し上げておくが、「姐さん」というのは私の勝手な敬称であって、決して「その方面」のお方ではない)。下線は私、藪野直史が附した。
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永楽さんは確かに十一代保全さんによる十三代回全さんの養子縁組の件によって、十二代和全さん(保全さんの実子)と十三代回全さんとの間で不和が生じているようです。また、もう一人の十三代曲全さんも十一代保全さんの養子(「養われ」と表現)であったようです。曲全さんについては、保全さん及び和全さんに仕えて永楽家に尽力し、回全さんとともに十三代を名乗ったとあるだけで他の永楽さんに比べて、サラッとしすぎて、よくわかりません。
さて、それではモースさんがその十三代のどちらに会ったのかといえば、これは結論から言うと十三代曲全さんだと思います。なぜなら、
十三代回全さんの方はモースさんが京都に来た明治一五(一八八二)年には既に物故しているからです。
[藪野直史注:以下には姐さんよりお教え頂いた福岡県北九州市小倉北区魚町の「天平堂古美術店」公式サイト内の「永樂善五郎」を元にしたと思われる善五郎の十代以降の事蹟が綴られているが、ここではそこから、二人の十三代目永樂善五郎の生没年と簡単な事蹟のみを示す。しかし、リンク先を読んで戴ければお分かりになるように、姐さんが仰る通り、そこには各人の「何か」感情的な錯綜がある。それは詳細を極めるリンク先の叙述の字背にあって、我々の推理を、何処かで拒むような人間の愛憎が潜んでいるように私には思われてならない。]
○十三代永樂善五郎(回全) 天保五(一八三四)年~明治九(一八七六)年
塗師佐野長寛次男。十一代永樂善五郎(保全)の養子。
姓を佐野(後に永樂)・西村(分家後)。
名は善次郎・宗三郎。
弘化四(一八四七)年頃、十一代永樂善五郎保全の養子となる。
嘉永二(一八四九)年に、十二代永樂善五郎和全の養子となる。
後に分家して西村宗三郎と名乗る。
保全の代作や箱書の代筆、和全とともに御室窯や九谷焼の改良に従事する。
十四代永樂善五郎(得全)を補佐し、永樂家に尽力する。
その功により藤助(曲全)とともに十三代を名乗った。
○十三代永樂善五郎(曲全) 文政二(一八一九)年~明治一六(一八八三)年
幼少の頃より十一代永樂善五郎(保全)に養われる。
保全とともに十二代永樂善五郎(和全)に仕える。
名は藤助。
和全とともに御室窯や九谷焼の改良に従事する。
永樂家に尽力する。
その功により宗三郎(回全)とともに十三代を名乗った。
なにがあったのでしょう?
この事蹟から読み取れるのは、和全さんは、保全さんが回全さんを養子にすることで、保全さんと不和が生じたらしいということです。
が、その二年後に和全さんは回全さんを自分の正式な養子にすることで表面上は解決したと読み取れます。
自分の父保全さんが養子にした回全さんを二年後に自分の養子にするというのは、よくよくの事情があったのかも知れません。
さて、モースさんが十三代永樂善五郎曲全さんに会ったのが、明治一五(一八八二)年の夏ですから、十二代和全さんも健在、既に襲名していた十四代得全さんはといえば、これ、二十九歳の働き盛り……恐らくは同じ家の屋根の下で創作する十三代曲全さん……保全さんや回全さんはともに既に亡くなっていたとはいえ……曲全さんは保全さんの養子でありましたから、これ、立場は実に微妙だったではありますまいか……モースさんの「陶器紀要」なるものが手に入れば、もう少し事情が飲み込めるのかも知れません。
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全く以って――目から鱗――とはこのことである。姐さんに心より感謝申し上げるものである。]
永楽から我々は、もう一つ別の清水の陶工蔵六を訪れたが、ここで私ははじめて、仁清(にんせい)、朝日その他の有名な陶器の贋物が、どこで出来るかを発見した。この件に関する不思議な点は、蔵六と彼の弟とが、自分等が贋物をつくつていることを、一向に恥しがらぬらしいことである。彼等は父親の細工を見せたが、その中には仁清の記号をつけた茶碗がいくつか入っていた!
[やぶちゃん注:これ、何か、とんでもないことが書いてある! 注を憚る!
「蔵六」二代目真清水蔵六(ましみずぞうろく 万延二・文久元(一八六一)年~昭和一一(一九三六)年)かと思われる。思文閣の「美術人名辞典」によれば、『陶工。初代蔵六の長男。京都の人。幼名は寿太郎、名は春太郎、号を春泉・泥中庵。国内はもとより中国・朝鮮にも渡って調査研究を重ね、京都山科に開窯、のち西山の松尾村で製作した。古陶の鑑識に優れ、『陶寄』『古陶録』等の著がある』とある。
「仁清」野々村仁清(ののむらにんせい 生没年不詳)は江戸前期の陶工。ウィキの「野々村仁清」によれば、『京焼色絵陶器を完成と言われている。丹波国桑田郡野々村(現在の京都府南丹市美山町大野)の生まれ。若い頃は粟田口や瀬戸で陶芸の修業をしたといわれ、のち京都に戻り』、正保年間(一六四四年~一六四八年)頃、『仁和寺の門前に御室窯(おむろがま)を開いた』。『中世以前の陶工は無名の職人にすぎなかったが、仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺し、これが自分の作品であることを宣言した。そうした意味で、仁清は近代的な意味での「作家」「芸術家」としての意識をもった最初期の陶工であるといえよう。仁清の号は、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」の字を一字取り門跡より拝領したと伝えられている。仁清は特に轆轤(ろくろ)の技に優れたと言われ、現存する茶壺などを見ても、大振りの作品を破綻なく均一な薄さに挽きあげる轆轤技には感嘆させられる。また、有名な「色絵雉香炉」や「法螺貝形香炉」のような彫塑的な作品にも優れている。現存する仁清作の茶壺は、立体的な器面という画面を生かし、金彩・銀彩を交えた色絵で華麗な絵画的装飾を施している』とある。
「朝日」京都府宇治市で焼かれる陶器朝日焼のことか。『江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられた』。『朝日焼という名前の由来については、朝日山という山の麓で窯が開かれていたという説と、朝日焼独特の赤い斑点(御本手)が旭光を思わせるという説がある』。『宇治地方は古くから良質の粘土が採れ、須恵器などを焼いていた窯場跡が見られていた。室町時代、朝日焼が興る前には、経歴も全く不詳な宇治焼という焼き物が焼かれ、今も名器だけが残されている』。『今日、最古の朝日焼の刻印があるのは慶長年間のものである。しかし、桃山時代には茶の湯が興隆したため、初代、奥村次郎衛門藤作が太閤豊臣秀吉より絶賛され、陶作と名を改めたというエピソードも残っていることから、当時から朝日焼は高い評判を得ていたことになる。後に二代目陶作の頃、小堀遠江守政一(小堀遠州)が朝日焼を庇護、そして指導したため、名を一躍高めることとなった。同時に遠州は朝日焼の窯場で数多くの名器を生み出している』。『三代目陶作の頃になると、茶の湯が一般武士から堂上、公家、町衆に広まっていき、宇治茶栽培もますます盛んになり、宇治茶は高値で取引されるようになった。それに並行して朝日焼も隆盛を極め、宇治茶の志向に合わせて、高級な茶器を中心に焼かれるようになっていった』。『朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴である。そして、それぞれの特徴によって呼び名が決まっている』とウィキの「朝日焼」にはある。
【二〇一五年九月二十八日追記】これについても先の「姐さん」から読んで『想像』しましたというメールを頂戴した。以下に藪野直史が少し手を加えて示す。
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永楽さんの後に訪れた蔵六さんのところで、「仁清」の贋作があったとのことですが、実は、永楽(西村)さんは代々、土風炉(どぶろ/とふと)を作ってきましたが、十一代保全さんは文化一四(一八一七)年の二十二歳頃であったか、三井家の秘蔵の名品の見たことを契機として、そうした名品の「写し」を制作するようになったようです。色々なところに出かけては、古物の作風の技術を習得していったようです。同時期以降の永楽さんも「仁清」の「写し」などをよくしていたようです。
で、どうして「写し」を作るようになったかということですが、ここからは私の想像なのですが……
本物は隠しておいて、茶会などには、「写し」を出すのがごく当たり前のことだったのでは
……と思うのです。
……どこかで聞いた話ですけれども……ティファニーなどの高級な宝石店の宝石(ネックレスや指輪)は、すぐ目の前に全く同じデザインの贋物を売っている店があって、本物を買った人は必ず、贋物も買っていく……ということです。
本物は滅多なことで、出さないということなんでしょうね。
で、永楽さんも、蔵六さんも、本物を持っている大名に請われて、如何に本物と比べてみても分からぬような贋作を作るか……寧ろ、それが、大名にとっても、陶工にとってもステータスみたいになっていたのでは……と思うのです。
そのために、窯を開いたり、育成したり……これはまた……贅沢なことですね……う~~む?……果たして、本当にそうだったのでしょうか?……加藤唐九郎さんの「仁清の壷」を思い出しました(^^)♪
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これもまたしても目から鱗! まさしく! 陶磁器は奥が深い!]
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