『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 源氏山/智岸寺谷/泉谷〔附泉井〕
●源氏山
壽福寺の後背にあり。或は旗立山又御旗山とも稱ふ。古昔(こせき)八幡太郞義家朝敵阿倍貞任宗任等を征伐の路次。鎌倉を過りて此山に旗を立つ。今猶旗竿の蹟(せき)存せりと鎌倉九代記に見えたり。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之四」の「源氏山」の項にも「今に旗竿(はたさお)の跡とてあり」とあるが、私は不詳。
「鎌倉九代記」「北条九代記」のことと思われるが、私が手掛けた箇所(既に第七巻に入っている)には見当たらない。]
●智岸寺谷
智岸寺谷は英勝寺の境内にて。阿佛尼塔屋敷の西北にあり。古へは寺ありけれども頽敗(たいはい)せり。
[やぶちゃん注:智岸寺は禅宗で古くは尼寺であったが、一度廃れ、その後、後北条氏の支配した時代に東慶寺の尼の隠居所のような役割を果たしていたものと推定されている。廃寺年代は不詳乍ら、ここに尼寺である英勝寺が建っているには偶然ではなく、そうした鎌倉の尼寺の勢力とその力関係と大いに連関すると考えるべきである。]
●泉谷〔附泉井〕
英勝寺の東北の谷なり。東鑑に建長四年五月。宗尊親王方違の本所として當所右兵衛教定か亭を改め造りし事見ゆ。今亭跡を傳へす。路端に井あり。泉井と云ふ。清水涌出す。鎌倉十井の一なり。
[やぶちゃん注:泉谷は「いづみがやつ(いずみがやつ)」と読む。
「建長四年」一二五二年。以下は、「吾妻鏡」の以下の五月十九日の条に出る。
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○原文
十九日壬寅。天晴。御本所事。長村宿所聊依有其煩。亦被問陰陽道之處。晴賢以下申云。龜谷泉谷右兵衞督教定朝臣亭。自當時御所北方也。被用御本所之條。可宜云云。仍治定云云。
○やぶちゃんの書き下し文
十九日壬寅(みみすのえとら)。天、晴る。御本所の事、長村が宿所は聊か其の煩ひ有るに依つて、亦、陰陽道に問はるるの處、晴賢以下、申して云はく、
「龜谷(かめがやつ)の泉谷の右兵衞督教定朝臣(あそん)の亭、當時の御所より北方なり。御本所に用ゐらるるの條、宜しかるべし。」
と云云。
仍つて治定(ぢじやう)すと云云。
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文中の「長村」は下野国の有力豪族であった小山氏の第四代当主小山長村(建保五(一二一七)年~文永六(一二六九)年)。「吾妻鏡」を見ると弓矢に優れていて将軍宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣供奉人を頻繁に務めていることが判る。「右兵衞督教定」は藤原(二条/飛鳥井)教定。Jmpostjp 氏のブログ「鶴見寺尾図逍遥」の『「亀谷」(7)二条/飛鳥井/教定の亭』によれば、彼は『「関東祗候雲客諸大夫(御所に昇殿を許された貴族官人)」の一員として、鎌倉幕府に信用され、京都と鎌倉で活動した。妻は、北条実時』(金沢実時/亀谷殿)の娘で、この『「亀谷」に居を構える者は、中原親能』『あれ、二条教定であれ、「藤原」姓を名乗ることが通例であったようで、そのために』「藤谷殿(ふじがやつどの/とうこくどの)」『とも称された』とある。
「泉井」は数少ない「十井」の中でも現在でも清らかな清水を湧出している井戸である。]
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