ゆふすげびと 立原道造
ゆふすげびと
かなしみではなかつた日のながれる雲の下に
僕はあなたの口にする言葉をおぼえた
それはひとつの花の名であつた
それは黄いろの淡いあはい花だつた
僕はなんにも知つてはゐなかつた
なにかを知りたく うつとりしてゐた
そしてときどき思ふのだが 一體なにを
だれを待つてゐるのだらうかと
昨日の風に鳴つてゐた 林を透いた靑空に
かうばしい さびしい光のまんなかに
あの叢に咲いてゐた‥‥さうしてけふもその花は
思ひなしだか 悔ゐのやうに—――
しかし僕は老いすぎた 若い身空で
あなたを悔いなく去らせたほどに!
[やぶちゃん注:ツイッターで女性の詩人の方が指し示して下さった詩。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『文芸汎論』昭和一一(一九三六)年十一月号に前に発表されたものである。同脚注は、この詩について、室生犀星の「我が愛する詩人の伝記」の以下の記述を想起させる、とする(最後の句点は私が補った)。
《引用の引用開始》
「追分村の旧家に一人の娘がいて、立原はこの娘さんを愛するようになっていた。(略)私はその娘さんを一度も見たことはないが、一緒に散歩くらいはしていたものらしく、その途上にあった雑草とか野の小径や、林のに顔を出している浅間山なぞが、娘さんのからだのほとぼりを取り入れて、匂って来るような彼の詩がいたるところにあった。娘さんとの交際は一、二年くらいのみじかさで終り、東京の人と結婚したらしい、いわば失恋という一等美しい、捜せばどこにでもあってしかもどこにもないこの愛情風景が、温和(おとな)しい立原に物の見方を教えてくれただろうし、心につながる追分村が、ただの村ざとでなくなっていたのであろう。
《引用の引用終了》
また、続けて同注は、最終行「あなたを悔いなく去らせたほどに!」は、道造が、
《引用開始》
友人柴岡亥佐雄に送った手紙(昭和十一年七月下旬)にあるように、伊東静雄の詩集『わがひとに与ふる哀歌』中の「行つてお前のその憂愁の深さのほどに」と軌を一にする詩句である。
「君のおそれるような物語はなんにもないんだ。(略)ざらざらと、それは毎日している。高原バスなどに似た人の面影見るときには。しかしやっと心が一つのイマージュに向けられ、しずかに燃えているんだ。『わが去らしめし人は去り』という伊東静雄の一句を考えてみたまえ。そんな風だ」
《引用終了》
とある。以下、私の電子テクスト伊東靜雄「わがひとに與ふる哀歌」初版本準拠復元版から「行つて
お前のその憂愁の深さのほどに」を私の注ごと引いておく。
*
行つて お前のその憂愁の
深さのほどに
大いなる鶴夜のみ空を翔(かけ)り
あるひはわが微睡(まどろ)む家の暗き屋根を
月光のなかに踏みとどろかすなり
わが去らしめしひとはさり……
四月のまつ靑き麥は
はや後悔の糧(かて)にと收穫(とりい)れられぬ
魔王死に絶えし森の邊(へ)
遙かなる合歡花(がふくわんくわ)を咲かす庭に
群るる童子らはうち囃して
わがひとのかなしき聲をまねぶ……
(行つて お前のその憂愁の深さのほどに
明るくかし處(こ)を彩れ)と
[やぶちゃん注:「はや後悔の糧にと收穫れられぬ」はここで見開き改頁となり、「魔王死に絶えし森の邊へ」は次頁の第一行から印刷されているようにしか見えない。暫く全集版の表記に従い、行空きを行ったが、少なくとも当初、この「わがひとに與ふる哀歌」を読んだ者は、この詩を一連の詩として読んだことは間違いないことを銘記しておきたい。]
*
また、角川文庫中村真一郎編「立原道造詩集」のこの詩篇の編者注には、道造から『鮎・アンリエットと呼ばれている少女。道造の詩集に『ゆふすげびとの歌』(昭和四〇・一書痴往来社)があるが内容的には『萱草に寄す』の別稿であり』、しかも『同作品は入っていない』とある。
以上から、この「ゆふすげびと」とは、既注の関鮎子その人であることは疑いない。]
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