橋本多佳子句集「命終」 昭和三十六年(1) 崖(1)
昭和三十六年
崖
臥す顔にちかぢか崖の霜の牙
今日も臥す立ちはだかりて枯れし崖
綿虫の綿の芯まで日が熱し
[やぶちゃん注:「綿虫」既注。]
冬日浴足の爪先より焼きて
髪洗ひ生き得たる身がしづくする
臥す平らつづき寒肥の穴ぽつかり
霜を踏み試歩の鼻緒をくひこます
枕辺に揚げざる凧と突かざる羽子
われとあり天を知らざるわが凧よ
凧・独楽・羽子寄りあふわれと遊ばずば
独楽とあそぶ壁に大きな影おいて
厚氷金魚をとぢて生かしめて
もがり笛枕くぐりて遁げ去りぬ
[やぶちゃん注:「もがり笛」既注。]
垂直に崖下る猫恋果し
[やぶちゃん注:晩年の多佳子の句の内でも特に私の偏愛する一句。]
崖下に臥て急雪にめをつぶる
養身や目鼻にからむ飯(めし)のゆげ
枯田圃日風雨風吹きまくり
回想
話しゆく体温の息万燈会
万燈の誘ひ佳き道岐れをり
鬼の闇一文字深く溝の黒
[やぶちゃん注:「万燈会」「万燈」万灯会(「まんどうゑ(まんどうえ)」と正確には濁るのが正しいようである)は東大寺・薬師寺・高野山のそれが有名であるが、これは単なる思い付き乍ら、この三年前の昭和三三(一九五八)年二月三日に誓子と一緒に奈良春日神社の万燈籠を見た際の「回想」ではあるまいか? 但し、春日神社のそれは通常は「万燈籠」と呼ぶ。]