『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御輿嶽
●御輿嶽
御輿嶽今多く見越嶽に作る。高さ五十間餘。舊くは左京太夫顯仲(あきなか)の詠歌に此名見えたり。
鎌倉や御輿か嶽に雪消てみなのせ川に水增るなり
又御輿か崎の唱あり。其の名萬葉集に顯はる。
可麻外良乃美胡之能佐吉能伊波久部叡乃伎美我久由倍伎巳許呂波母多自(かまくらのみこしのさきのいはくゑのきみがくゆべきこゝろはもたじ)。
歌枕名寄にも。此所の詠歌見え。宗尊親王の集にも所見あり。
[やぶちゃん注:なお、私は小学校の一、二年の記憶の中に、この御輿ヶ嶽に義理の叔父の自転車の荷台に乗せてもらって登った記憶がある。今見るとそんなことは出来そうもない山なのだが、スキー一級の指導員の叔父はサドルの前に赤ん坊の従妹を載せ、僕を後ろに載せてうんうん言いながら確かに登って行った不思議な記憶があるのである。
「五十間」九〇・九メートル。国土地理院の地図上のレーザー測定では現在、最も高い部分でも六十五メートルほどしかない。
「左京太夫顯仲」「大夫」が正しい。平安後期の公卿源顕仲(康平元(一〇五八)年~保延四(一一三八)年)。堀河院歌壇で活躍した歌人。以下の一首も「堀川院御時百首」に所収するものである。
「鎌倉や御輿か嶽に雪消てみなのせ川に水增るなり」「かまくらや/みこしがたけに/ゆききえて/みなのせがはに/みづまさるなり」と読む。「鎌倉攬勝考卷之一」の「御輿ケ嶽」にある「御輿ヶ嵩」の山の絵の脇には、この和歌が記されてある(本文解説には出ないので注意)。ご覧あれ。
「「可麻外良乃美胡之能佐吉能伊波久部叡乃伎美我久由倍伎巳許呂波母多自(かまくらのみこしのさきのいはくゑのきみがくゆべきこゝろはもたじ)」は「万葉集」巻第十四の「相聞」に載る(第三三六五番歌)、
鎌倉の見越(みごし)の崎の石崩(いはくえ)の君が悔(く)ゆべき心はもたじ
で、意味は、
……鎌倉の御越が崎の波で崩れた岩……その、岩くえ――くえ――くい――悔い……貴方が悔いるようなひどい仕打ちをするようなふたごこころは、私めは決して持ちますまいよ……
といった女性の側の誓い歌とされるものである。
「歌枕名寄」「うたまくらなよせ」と読む。中世の歌学書で全国を五畿七道六十八ヶ国に区分して当該国の歌枕を掲出、その地の歌枕を詠みこんだ証歌を「万葉集」・勅撰集・私家集・私撰集から広く引用して列挙したもの。成立年代は「新後撰和歌集」成立の、嘉元元(一三〇三)年前後と考えられており、編者は「乞食活計之客澄月」と署名があるが「澄月」その人の伝は伝わらない。中世には歌枕とその証歌(しょうか:修辞・語句・用語法などの証左とする根拠として引用される和歌)を類聚(るいじゅう)して作歌の便を図った所謂、歌枕撰書が幾つも編纂されているが、本書はその中でも最大の全三十八巻六千余首を拾う(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
「宗尊親王の集にも所見あり」「新編鎌倉志卷之五」の「御輿嶽」に、『中務卿〔宗尊新王。〕の歌に』として、
都(みやこ)にははや吹きぬらん鎌倉や御輿崎(みこしがさき)の秋の初風(はつかせ)
と引かれてある。]
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