日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 再び京都にて(1)
図―687
京都では、数日間田原氏と共に、有名な陶工を訪問するのに全時間を費し、彼等から家族の現代及び過去、各種の印の刷り、その他に関する知識を豊富に得た。六兵衛は私と再会してよろこんだらしく、すぐさま私が前に訪問した時つくった湯吞を持って来た。彼はそれを焼き、釉をつけたのである。私はそれ等の底にMと記号し、内側に貝を描いたが、六兵衛は外側に漢字で「六兵衛助力」と書いた。私はその一個を彼に与えた所が、彼は丁重にもよろこんだらしい様子をした。私は彼から、陶器づくりに使用する道具をひとそろい手に入れた。図687は庭から見た六兵衛の製陶場である。
[やぶちゃん注:「M」言わずもがな乍ら、Morse のイニシャルである。]
六兵衛のところから、我々は楽の陶工吉左衛門のところへ行った。彼の家は質素なものであった。この老陶工は、三百年来「楽」といわれる一種独特な陶界をつくりつつある家族の第十二世にあたる。彼は我々を招き入れ、我々は六兵衛のところから来たといって、我々自身を紹介した。彼は、私の質問すベてに対して親切に返事をし、各代の作品を代表する楽の茶碗の完全な一組を見せてくれた。私は記号の輪郭と摩写とを取った。次に彼は仕事場を見せた。仕事をするのは家族の直接関係にある人々のみで、外来者は一向関係せぬらしい。窯は非常に小さく、殊に有名な茶碗を焼く窯は、窯碗一つを入れる丈の大きさしか無い。それ等の茶碗は旋盤(ろくろ)上でつくらず、手で形をつけ、両辺を削る。彼は我々に粉茶とお菓子とを出したが、我々がそれを飲んでいる間に、可愛らしい子供が出て来て私に抱かった。
[やぶちゃん注:「楽の陶工吉左衛門」千家十職の第十一代樂吉左衞門(らくきちざえもん文化一四(一八一七)年~明治三五(一九〇二)年/慶入(けいにゅう:「~入」は隠居した時に附される入道号)と思われる。ウィキの「樂吉左衞門」によれば、『丹波国南桑田郡千歳村(現京都府亀岡市千歳町)の酒造業・小川直八三男。十代婿養子』。弘化二(一八四五)年に『家督相続。明治維新後、茶道低迷期の中、旧大名家の華族に作品を納めるなど家業維持に貢献』したとある。当時は既に後に「弘入」と名乗ることになる彼の長男(安政四(一八五七)年~昭和七(一九三二)年)が家督を継いではいる(明治四(一八七一)年)が、明治一五(一八八二)年当時の彼は未だ二十五歳で、図の人物とは到底、思われない。
「抱かった」私はこのような動詞を使ったことはないが、「だかった」或いは「いだかった」と読むのであろうか。抱きついた、の意であろう。]
図―688
彼の部屋には手紙を懸物(かけもの)にした物があった。これは太閤時代の有名な将軍で、拳固で一と撲りしたら虎が死んだという噂のある加藤清正から来たもので、初代の楽に、茶碗をつくることを依頼した手紙である。家族は代々、それを大切に保存して来た。彼はまた初代の楽がつくった陶器を見せた。それは神話的の獅子で、これもこの一家の創立者の大切な家宝として伝って来た。信長が俄に破れ、彼の邸宅が全焼した時、第一世の楽がその廃墟からこの品を救い出したものらしい。私は恭々しくその話をしている老人と「信長の獅子」とを急いで写生した(図688)。
[やぶちゃん注:「第一世の楽」楽焼の創始者で樂吉左衛門家の初代とされる長次郎(?~天正一七(一五八九)年)。
「信長の獅子」「樂美術館」公式サイトの「長次郎」のページ現物の画像が見られる。『二彩獅子像(重要文化財) 樂家旧蔵』とあり、『腹部に「天正二年春 依(寵)命 長次良造之」と彫銘がある。緑釉、透明釉の二彩釉が掛かり、樂焼のルーツを物語る。桃山陶彫刻の優品』という解説が載る。ハーンのスケッチは頭部の描写にやや難があるものの、急場でスケッチしたものとしては、獅子の尾部の独特の造形などはしっかり押さえてある。]
« 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ(その7)/朝鮮使節団一行との邂逅 | トップページ | 立原道造の詩集「萱草に寄す」の「萱草(わすれぐさ)」とは何か? »



