『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 補佗落寺
●補佗落寺
補陀落寺は南向山歸命院と號す、材木座の東、民家の間(あひだ)にあり古義の眞言宗にて仁和寺の末寺なり、開山は文覺上人なり、文覺鎌倉へ下向の時、賴朝卿比來の恩を報せんとて此寺を立てらる、其後頽破せしを、鶴岡の供僧賴基中興せしとなり。
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「補陀落寺」は「ふだらくじ」、「南向山歸命院」は「なんかふざんきみやうゐん(なんこうざんきみょういん)」と読む。七堂伽藍を持つ大きな寺院であったらしいが、古えより竜巻・津波・火災にたびたび遭って、寺伝の文書類は消失してしまっている(別名「竜巻寺(たつまきでら)」という異称もある)。私はこの寺というと、文覚上人自刻と伝えられる真っ黒な裸像をあざやかに思い出すのだが、「新編鎌倉志卷之七の「補陀落寺」にも「鎌倉攬勝考卷之六」の「補陀落寺」にも記されていないのが残念でならない。一説に出家後の那智の滝での荒行の様を刻したとされる、思いっきり奇体なデフォルメで、不敵にして人間離れした面相がとっても好きなのに! 三十八年前の二十の時に訪れた際には、勝手におられた婦人から「お好きなように、何でもどうぞ、ゆるりとご覧下さい」と言われ、今では考えられないことだが(当時は、この寺自体に観光客が来ることはまずなかった。されば――正直、言い難いのだが――驚くべきバッタバタ状態であったのである)、目の前の棚に無造作に置かれた埃を被った虫食いの文覚像を、私は不遜にも「お好きなように」むんずと手に摑んで手に取って見た。真黒な塊で見た目は重そうなのだが、これが意想外に異様に軽かったことをよく覚えている。
さても、二〇一一年九月二十七日の「紀伊民報」によれば、その直前に紀伊半島を襲った台風十二号によって熊野那智大社とその周辺部は激しい被害に見舞われ、『本殿裏手の石垣が崩れ、建物にも被害が及んだ。落差日本一を誇り、勇壮な姿を見せていた那智大滝の滝つぼも変形した。その下流、文覚上人が荒行をしたという故事に由来する文覚の滝も消失。有史以来の景観が一変した』という。
――文覚よ……君の打たれた古えの瀧は……もう、ないそうだ……]
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