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2015/09/12

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (五)

       五

 

 夜は色を消し、距離を抹殺する。だから廣い場所の光景や、大きな物象の趣を、暗示の力によつて擴大するのが常だ。ぼんやりした燈光で見ると、大社の門路は雄大なる驚異だ。明日は、幻滅の感を與へる白晝の光で見ねばならぬと、思ふだけでも惜しいほどだ。並水路は巨樹が列を成して、大きな鳥居の連立せる下に、遠く續いてゐる。鳥居から垂れ下つた太い注連繩は天手力尊の象徴で、尊が握るのに適はしい太さだ。が、並木通りの朦朧たる莊嚴は、鳥居とその花彩象徴によつてよりも、巨大なる樹木のために一雁加つてゐる。多くは千年の齡を重ねて、錯節せる老木の繁つた梢頭は、暗い空に沒してゐる。幾つかの巨幹には、藁繩が卷いてある。これ等は神聖なのだ。大きな根は、四方に蜿蜒として、燈火に映じては、龍が噪がいて、匍匐するやうに見えた。

 並木路は一哩の四分の一位はある。道筋は二つの橋を渡り、二つの貴い森の間を通つてゐる。兩側の廣い地面は皆大社のものである。以前はいかなる西洋人も中の鳥居から先きへ行くことは許されなかつた。並木道の窮まる處に高い塀があつて、佛寺の山門のやうな、しかし頗るどつしりした門が通じてゐる。これは外苑への入口だ。まだ重い戸は開かれてゐて、影のやうな人の姿が、數多出入してゐた。

 境内は眞暗な中を、薄黃色の光りが無數の大きな螢のやうに、彼方此方に飛んでゐた。これは參拜者の提燈だ。私はたゞ巨材で造つた大きな建物が、左右に聳然たるを認めるのみであつた。案内者は大きな苑内を渡つて、第二の苑へ通り、して、まだ戸の開いてゐた、堂々たる建物の前で立佇つた。戸の上には、燈光で見ると、ある美材に名人の手で刻んだ、龍と水の驚くべき彫刻帶があつた。内部には、左方の傍祠に神倣の象徴のものが見えた。して、私共の直ぐ前面に、私が豫想したよりも遙かに廣い、疊を敷いた床が、燈光によつて現された。これによつて、私は社殿だらうと思はれる建物の大いさを推測したが、主人はこれは社殿でなく、たゞ拜殿であつて、この前で人々は祈禱を捧げるのだと云つた。晝間は開けられた戸口から、社殿は見えるのであるが、今夜は見えない。また内へ入ることを許さるものも誠に少いとのことであつた。『大概の人は此殿の苑内へさへも入りません、社殿の前を遠く離れた處から祈ります。あれをお聽きなさい!』と、晃が通辯した。

 私の周園の陰の中で、水を潑ねたり洒いだりする音が聞える。これは神道の式によつて澤山の人々が手を拍つ音なのだ。

 『しかしこれは何でもありません。今は極く僅かなものです。明日までお待ちなさい。祭禮日ですから』と、宿の主人が云つた。

 私共が鳥居と巨樹の下を、大きな並木路に沿つて、歸つて行く道すがら、晃は主人が神蛇についで語るのを私に通辯した。

[やぶちゃん字注:以上の段落の行頭(「私共が鳥居と……」)は一字下げがないが、誤植と断じて下げた。]

 彼は云つた。『その小蛇を人々は龍蛇樣と呼びます。神々の來給ふことを知らせるため、龍王から送られるからです。龍蛇樣の來る前に、海は暗くなり、波が立ち上つて荒れます。龍蛇と呼ぶのは、龍宮城の使者だからです。が、また白蛇とも呼びます』

 『小蛇は獨りで社殿へ來るのか?』

 『いえ、漁師が捕へるのです。して、唯一匹だけ遣されるのですから、一年に一匹捕れるだけです。誰でも、それを捕へて、杵築大社か、佐陀神社かへ持參すると、報酬として米一俵を受けます。捕へるには時間と骨折が要りますが、捕へたものはきつと後日富裕になります』

 『杵築には數多の神を祀つてあるのだらう?」と、私が尋ねた。

 『さうです。が、杵築の主神は大國主神で、普通に大黑と申します。こゝにはその御子も祀られて、惠比壽と申します。いつも二神は、繪に一處に畫いてあります。大黑は米俵の上に坐つて、片手で胸に赤い太陽を押し當て、片手には一と打ちで富を打出だす魔力の槌を握つてゐます。惠比壽は釣竿を持つて、大鯛を脇にかゝヘてゐるのです。二神ともいつも笑顏で現してあり、それから、大きな耳を持つてゐます。それは福壽の徴です』

 

    註一。白蛇はまた恋愛と美と雄辯と

    海の女神、辨財天の使者だ。白蛇は

    老翁の顏を有し、眉毛は自く、頭に

    冠を戴くと云はれる。この女神も蛇

    も古代印度の神話中に、これと符節

    を合するものがある。また佛教が始

    めに、これらを日本へ取入れたのだ。

    坊間に於ては、特に出雲では、佛教

    の佛が、屢々神と同一視され、また

    は寧ろ混同されてゐるのがある。

     本章を書いた後で、私は捕獲後一

    時間を經ない龍蛇か見る機會を得た。

    長さ二呎乃至二呎、圓さの最も太い

    處で直徑約一吋。體の上は深暗褐色

    で、腹は黄白を帶び、尾の方には美

    麗なる黄斑があつた。體は圓筒形で

    なく、妙に四角形で、恰も精細に編

    んで作れる、四つの稜角ある鞭のや

    うであつた。尾は扁平で三角形、或

    る種の魚類に似てゐた。松江師範學

    校の博物學の教師、渡部氏はこれが

    ペラミス・バイコラーといふ種に屬

    する海蛇だと認定した。が、その蛇

    は滅多に見られない。だから、この

    淺薄なる記述も、ある讀者に取つて

    は興味ないことはあるまいと思ふ。

    註二。杵築か、佐陀で、時としては

    蛇を買ふことが出來る。松江の家庭

    の神棚の上に、小蛇が見られること

    がある。私は一匹の古くなつて、脆

    く、黑くなつてゐたが、私の知らな

    い或る方法で、立派に保存されてゐ

    たのを見た。それは金網の小籠の中

    へ姿勢よく坐つて、白木の小祠に丁

    度嵌るやうになつてゐた。生きてゐ

    た時、長さ二尺四寸位であつたに相

    違ない。その所有主の貧しい家族は、

    毎日その前へ小さな燈明を點じ、神

    道の文句を誦してゐた。

    註三。大國主神は、通俗の信仰に於

    ては富の神、大黑と混ぜられてゐる。

    その子、事代主神も同樣に、正直な

    る勞動の保護者、惠比壽と混同され

    てゐる。或る日本の學者は、神道の

    拍子の習慣は、事代主神が用ひた合

    圖であつたと説いてゐる。

     兩神は日本の藝術では、いろいろ

    の形に現されてゐる。杵築で賣られ

    る、兩神の相並んだ形は、珍奇且つ

    美麗である。

 

[やぶちゃん注:「天手力尊」「あめのたぢからをのみこと」と読む(なお、私は本邦の神名や民俗学用語やアイヌ語及び沖縄方言を安易にカタカナ表記する一般的悪習を生理的に嫌悪しているので可能な限り、引用は例外として概ね平仮名で表記することをお許し戴きたい)。天照大神岩戸隠れの際に岩戸を引き開けた神として知られ、相撲取の濫觴ともされる。ウィキの「アメノタヂカラオ」によれば、『名前は「天の手の力の強い男神」の意であり、腕力・筋力を象徴する神で』、富山の立山の『雄山神社に祀られるタヂカラオは立山信仰の神で』山頂にある峰本社の本尊は二つあり、『本地垂迹によって 阿弥陀如来がイザナギ、不動明王がタヂカラオであるとされた。元々雄山神社と戸隠神社はどちらも山岳信仰を起源とする神社であり、この神が山岳信仰と関係のある神であることを示している。日本には、祖霊は山に帰り、田の神は山から降りてくるなど、山は異界であるという観念があった。これが仏教の地獄の思想と結びついて平安時代以降の山岳信仰となる。異界である山との境界から、タヂカラオが引き開けた天岩戸が連想され、タヂカラオが山と結びつけられたものと考えられている』。『怪力を持つというイメージのあるタヂカラオは、昔から人々に人気があり、各地にタヂカラオが登場する神楽が伝わる』とある。

「躁がいて」「躁」は「うごく」「さわぐ」等の意を持つが、ここは落合氏は当て字で「もがいて」と訓じているように私には思われる。

「一哩の四分の一」一マイルは千六百九メートルであるから、四百二・二五メートル。大鳥居から大社本殿の前にある御仮殿(おかりど)の横に走る路までは地図実測では四百四十メートルほどであるが松並木のある参道は前後が少し減じるから、謂いとしてはおかしくあるまい。

「道筋は二つの橋を渡り、二つの貴い森の間を通つてゐる」「森」は川に隔てられた南北を指すとしても、「二つの橋」は不審。現在の地図上では一つしかない。

「外苑」原文は“the outer court”であるから訳としては間違っていないが、これは大社本殿の「外陣」或いはそれを含む本殿内陣域内への入口の謂いである。平井呈一氏は『内苑』と訳しておられる。逐語的には問題はあっても、訳を読む日本人にとってはこちらの方が躓かない(と私は思う)。

「許さるもの」はママ。

「水を潑ねたり洒いだりする」の「潑ねたり洒いだり」は「はねたりすすいだり」と読む。

「祭禮日」翌日は明治二三(一八九〇)年九月十四日で旧暦では七月二十九日であるが、現行の公式の出雲大社祭日表にはこれに一致する例祭日はない。識者の御教授を乞う。

「杵築大社か、佐陀神社かへ持參する」何故、この二社なのであろう? 出雲国三大社なら現在の松江市八雲町にある熊野大社でもよいはずである(但し、地図上で見ると熊野大社は海辺から運ぶには結構内陸で、正直、きつい感じはする)。ともかくも識者の御教授を乞うものである。

「米一俵」落合氏は訳しておられない(当時の日本人に分かり切った原注を訳さないのは以降の訳者も同じ)が、ハーンは以下の原文で見るように欧米人向けにちゃんと注を附している。そこでは“Ippyo, one hyo 2 1/2 hyo make one koku = 5.13 bushels.”とある。この“bushel” (ブッシェル)は主に米国で用いられる容量の乾量単位で約三十五リットルに相当するから、一石を説明する“5.13 bushels”は百七十九・五五リットルとなる。さて、米一斗は約十八リットル(重量にして約十五キログラム)で、米一石は十斗であるから百八十リットル相当となり、ハーンの換算が極めて正確であることがよく判る。

「大國主神」「おほくにぬしのかみ」と読む。以下、ウィキの「大国主」によれば、出雲大社の祭神。本来は国津神(くにつかみ:本邦に初めから土着していた地神)の代表的な神であったはずであるが、天孫降臨で天津神に国土を献上するという構造説話から「国譲りの神」とも呼ばれる』ようになった。『『日本書紀』本文によるとスサノオの息子。また『古事記』、『日本書紀』の一書や『新撰姓氏録』によると、スサノオの六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。スサノオの後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させる。だが、高天原からの使者に国譲りを要請され、幽冥界の主、幽事の主催者となった。国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建てて欲しいと条件を出したことに天津神が約束したことにより、このときの名を杵築大神ともいう』。『大国主を扱った話として、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に記載されている。『出雲国風土記』においても多くの説話に登場し、例えば意宇郡母里郷(現在の島根県安来市)の条には「越八口」を大穴持命が平定し、その帰りに国譲りの宣言をしたという説話がある』。『造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰される。縁結びの神としても知られるが、なぜ縁結びの神とされるのかについては諸説があり、大国主命が須勢理毘売命を始めとする多数の女神と結ばれたことによるといった俗説が一般的であるが、神社側は「祭神が幽世の神事の主催神となられ、人間関係の縁のみならず、この世のいっさいの縁を統率なさっているとして、男女の縁のみならず、広く人と人との根本的な縁を結ぶ神であるとしている。他にも、元々この信仰そのものが古くにはないものであり、民間信仰としての俗説が広まったためだとする説や、古くは因幡の白兎、迫害からの蘇生、死後の幽界の主催神へ、といった神話から呪術神としての性格を持ち合わせていたことから、これが転化したのではないかとする説もある』。『この他にも、中世には武士や刀鍛冶などから武神、軍神としても広く信仰されていた。記紀神話には直接的な武威の表現は見られないが、武を象徴する別名があることや、スサノオの元から手にした太刀や弓を用い国を広く平定したことなどから、そうした信仰になったと考えられる。このため武士政権が崩壊した明治以降現在も、武術家や武道家などから信仰されている。また江戸期には全国的な民間信仰の広まりにより、「大国」はダイコクとも読めることから同じ音である大黒天(大黒様)と習合していき、子のコトシロヌシがえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになった。このため比較的歴史の浅い神社などでは、大黒天が境内に祀られていることが多い』。『また前述の呪術的、あるいは武力的な神格を用いて、所出不明の神などが祀られていた神社などの祭神に勧誘される場合も多く散見される。小さな集落などでは時に氏子などが断絶するなどで廃社となった神社もあり、こうした場合に本来の祭神が誰なのか不明となることが多く、こうした神社を復興させる際に本来祀られていた神の祟りなどを鎮めるといった意味合いから、こうした神格を持つ大国主命が配されることがある』とある。

「大黑」大黒天。以下、ウィキの「大黒天」によれば、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラ(サンスクリット語:Mahaa-kaala/漢字音写「摩訶迦羅」など)を原型とする。『ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラは、インド密教に取り入れられた。“マハー”とは大(もしくは偉大なる)、“カーラ”とは時あるいは黒(暗黒)を意味するので大黒天と名づく。あるいは大暗黒天とも漢訳される。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした護法善神である』。『密教の伝来とともに、日本にも伝わった。日本で大黒天といえば一般的には神田明神の大黒天(大国天)像に代表されるように神道の大国主と神仏習合した日本独自の神をさすことが多い』。『日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される』。『袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためである。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話(大国主の神話#根の国訪問を参照)から、鼠が大黒天の使いであるとされる』。以下、「大黒と恵比寿」の項。『日本一大きいえびす、大黒の石像は舞子六神社にあり商売繁盛の神社とされている。 大黒と恵比寿は各々七福神の一柱であるが、寿老人と福禄寿が二柱で一組で信仰される事と同様に、一組で信仰されることが多い。神楽などでも恵比寿舞と大黒舞が夙(つと)に知られ、このことは大黒が五穀豊穣の農業の神である面と恵比寿が大漁追福の漁業の神である面に起因すると考えられている。また商業においても農産物や水産物は主力であったことから商売の神としても信仰されるようになっていった』。以下、大黒天の「民間信仰」の項。『民間の神道において福徳神の能力の一つから子宝や子作り信仰と呼ばれるものがあり、大黒天の像が米俵に載っている(写真参照)のは実は男性器をあらわしている言われ、具体的には頭巾が男性器の先端部分をあらわし、体が男性器本体、そして米俵が陰嚢であるとの俗説がある。これは像の背後から観察すると容易に理解できるものであり、生殖器崇拝の影響が伺える』とある(なお、リンク先には日本の仏教や密教との集合についての一項もあるが、ここでは省略したので、関心のあられる向きはリンク先をお読みになられたい)。

「註一」には私は多くの疑義を感じる。それを含めて以下、注したい。

「白蛇はまた恋愛と美と雄辯と海の女神、辨財天の使者だ。白蛇は老翁の顏を有し、眉毛は自く、頭に冠を戴くと云はれる」白蛇(アルビノ(白化体)の蛇。山口県岩国市に生息する「岩国のシロヘビ」は有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora のアルビノであるが、ここの白蛇は通常の自然な生態系の中で(但し、当地の人々がこれを神の使い決して殺さずに保全してきたという点では作為的選択的な人為の強い影響下にはある)として遺伝によって白化現象を起こした突然変異体が代々子孫に受け継がれている稀有な例で天然記念物に指定されている)は事実、本邦に限らず、神の使者或いは変化した存在であり、また特に弁財天の使いとされる伝承も正しい。「白蛇は老翁の顏を有し、眉毛は自く、頭に冠を戴くと云はれる」とあるのは、宇賀神(うがじん)のことである。宇賀神は日本で中世以降信仰されてきた神で、ウィキ宇賀神によれば(リンク先の画像も参照されたい)、『神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神』(うかのみたまのかみ:「うか」は穀物・食物の意味で穀物神・豊穣神)『に由来するものと一般的には考えられている(仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もある)』。『その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと一様ではない』。『元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されているが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明である。また、蛇神・龍神の化身とされることもあった』。『これが比叡山・延暦寺(天台宗)の教学に取り入れられ、仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体した。この合一神は、宇賀弁才天とも呼ばれ、宇賀神はしばしば弁才天の頭頂部に小さく乗る。その際、鳥居が添えられることも多い』。『出自が不明で、経典では穀霊神としての性格が見られないことなどから、宇賀神は、弁才天との神仏習合の中で造作され案出された神、との説もある』。『宇賀弁才天への信仰は、延暦寺に近い近江国・竹生島を中心に、安芸国・厳島、相模国・江ノ島など全国に広まった』が、『これらは、明治の神仏分離の際に市寸島比売命(いちきしまひめ)などを祭神とする神社となっている。鎌倉市の宇賀福神社』(錢洗弁天の現在の正式名称)『では、宇賀神をそのまま神道の神として祀っている』とある。問題はここでハーンが直後に「この」弁財天「も蛇も古代印度の神話中に、これと符節を合するものがある。また佛教が始めに、これらを日本へ取入れたのだ。坊間に於ては、特に出雲では、佛教の佛が、屢々神と同一視され、または寧ろ混同されてゐるのがある」と古代インド神話にその濫觴の総てを収斂させてしまい、弁財天だけでなく、この宇賀神も純粋な西方インド由来の混淆主義(シンクレティズム)と断じてしまっている点である。以上の宇賀神の叙述でも明らかなように、完全に本邦固有の土着神であったかどうかは断言できないものの、例えば前にも引いた日本参道狛犬研究会公式サイト内の「神使の館」に参考資料としてヘビ(1) 弁天・弁才天・弁財天の蛇の頁があって、そこで弁財天を解説した後、『一方で、弁天は日本神道古来の神である宇賀神とも習合して一体化し、弁天の頭上に宇賀神が載っている像や蛇身の弁天像もあ』り、『宇賀神は日本固有の神で、老人の頭を持ち身体は白蛇(人頭蛇身)の姿をしていて、農業・食物・財福の神とされる』として三体の宇賀神像が画像で示されてある。私が強い疑義を持つのは弁財天を古代インド由来とするのと十把一絡げに、宇賀神のルーツもそこ安易にほぼ断定するようなハーンの言い方には組し得ないからである。

「二呎乃至三呎」凡そ六十一~九十一センチメートル。

「圓さの最も太い處で直徑約一吋」体幹の最も太い部分の直径が凡そ二・五四センチメートル。

「松江師範學校の博物學の教師、渡部氏」島根県のレッド・データ・ブックの「昆虫類」の項(こちらのPDF資料)に、明治二四(一八九一)年に『旧制松江中学の博物教師だった渡辺盈作』が『「動物学雑誌」に松江市のチョウ』十五種を『正確な学名入りで報告した。渡辺はラフカディオ・ハーンとも深い親交があった人物で、ハーンの著書「日本瞥見記」にも登場する興味深い人物である』と出ており、「渡部」とあるもののこれはこの渡辺盈作氏と考えてよいであろう。国立国会図書館「レファレンス協同データベース」の「大阪市立中央図書館」の「明治時代の教師、渡辺盈作(わたなべ・えいさく)の大阪での足取りと著作について調べたい」のデータを見ると、生没年は不詳としながら、その発表論文記事の中に、ズバリ!

『松江 渡邊,盈作 佐太神社ノ龍蛇 動物学雑誌 3(27),46-48,18910115(ISSN 00445118) (社団法人日本動物学会)

という記載を発見した。彼に間違いない。

「ペラミス・バイコラー」原文“Pela-mis bicalor”。これは、

爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科(ウミヘビ科とする説もある)セグロウミヘビ属セグロウミヘビ Pelamis platura (Linnaeus, 1766)

のことである( Pelamis bicolor Daudin, 1803 はシノニム。英文ウィキの“Pelamis platuraを見よ)。一属一種。太平洋及びインド洋に分布する有毒の海蛇である。ウィキの「セグロウミヘビ」より引く。全長は六十から九十センチメートルで『体形は側偏する。斜めに列になった胴体背面の鱗の数(体列鱗数)は』四十六から六十八片。『名前の由来は、背が黒いことから。腹面は黄色や淡褐色。これは、主に沖合の海面付近に生息するために、外敵に見つかりにくい色になったためであり、サバやマグロなどの回遊魚と同様の進化である。本種は他のウミヘビ亜科の種と同様、卵胎生を獲得して産卵のための上陸が不必要となった完全な海洋生活者であり、その遊泳生活に応じて、他のヘビでは地上を進むのに使用されている腹面の鱗(腹板)は完全に退化している』。『頭部は小型で細長い』。『牙に毒を持つが、本種は肉にも毒があるので、食用にはならない。黄色と黒というその非常に特徴的な体色は肉が毒を持つことの警戒色の意味もあるのではないかと考えられている。ウミヘビの中では比較的性質が荒い種であり、動物園で飼育されていた本種は給水器に何度も噛み付くほど凶暴だったという』。『外洋に生息するが暖流に乗って日本近海にも現れ、北海道辺りまで北上することもある。完全水棲種で、腹板が退化しているため陸地に打ち上げられると全く身動きがとれずにそのまま死んでしまうことがある』が、反面、遊泳力は強いとある。『食性は動物食で、主に魚類を食べる』。『繁殖形態は卵胎生で』、十一月頃に海岸に近づいて、海中で二頭から三頭の幼蛇を産む。『本種は日本の出雲地方では「龍蛇様」と呼ばれて敬われており、出雲大社や佐太神社、日御碕神社では』旧暦十月に、『海辺に打ち上げられた本種を神の使いとして奉納する神在祭という儀式がある。これは暖流に乗って回遊してきた本種が、ちょうど同時期に出雲地方の沖合に達することに由来する』とある。「日御碕神社」は「ひのみさきじんじゃ」と読み、島根県出雲市の日御碕に鎮座する。出雲大社の「祖神(おやがみ)さま」として「みさきさん」の通称で今も崇敬を集める神社である。くどいが、以前にリンクした私の電子テクスト南方熊楠「ウガという魚のこと」を未読の方は、是非、こちらもお読み戴きたい。

「生きてゐた時、長さ二尺四寸位」七十二・七センチメートルであるが、私はこの貧しい敬虔な家族に悪いのだが、これらの多くは実物を模して作った人工物であって、本物の木乃伊(ミイラ)ではないように感じている。大方の御批判を俟つ。

「註三」以下は原注の頭が省略されている。原文では“Translated by Professor Chamberlain the 'Deity Master-of-the-Great-Land'-one of the most ancient divinities of Japan, but in popular worship confounded with Daikoku,”で――チェンバレン教授が「偉大な国の神の中の神の『達神』」と訳しているこの神(大国主神)は、日本の最も古い神の一柱であるが、しかし、民間の信仰の中にあっては大黒天とごっちゃにされている――とある。

「或る日本の學者は、神道の拍子の習慣は、事代主神が用ひた合圖であつたと説いてゐる」「或る學者」は不詳であるが、これは恐らく「日本書紀」の「出雲国譲り」の条に於いて国譲りに対して事代主が――逆手を打って――海に入ったいう記述に基づくものかと思われが、ここに出て来る逆柏手というのはこの場合、国譲りを強権発動されたことに対する事代主の呪詛の作法、合図と採れるものであって、現今の祈禱の柏手の濫觴であるとするというのは――私は面白いとは思うものの――ふ~ん、それでいいのかな? 神道家は? と訊き返したくはなる。

「杵築で賣られる、兩神の相並んだ形」出雲大社(杵築)ではないが、松江市美保関町美保関の旅館「美保館」の公式サイトのこちらのページに「大国主と恵比寿様」として『出雲大社の大国主命と、美保神社の恵比寿様は親子の関係にあります。大豪族であった大国主が海上交通の要所で大陸との貿易の一大港でもあった美保関をおさめるために自分の子を遣わせたのではないかといわれています。恵比寿大黒の両参りという風習はここから生まれました』。『出雲のシンボルでもある出雲大社は、“縁結びの神様”としても知られています。縁といっても、男女の仲だけなく、すべてのものが何かのご縁で結ばれており、様々な良縁に効果があると言われています』とあって載るところの木造二神の像のようなものか。]

 

 

Sec. 5

Effacing colours and obliterating distances, night always magnifies by suggestion the aspect of large spaces and the effect of large objects. Viewed by the vague light of paper lanterns, the approach to the great shrine is an imposing surprise—such a surprise that I feel regret at the mere thought of having to see it to-morrow by disenchanting day: a superb avenue lined with colossal trees, and ranging away out of sight under a succession of giant torii, from which are suspended enormous shimenawa, well worthy the grasp of that Heavenly-Hand-Strength Deity whose symbols they are. But, more than by the torii and their festooned symbols, the dim majesty of the huge avenue is enhanced by the prodigious trees—many perhaps thousands of years old—gnarled pines whose shaggy summits are lost in darkness. Some of the mighty trunks are surrounded with a rope of straw: these trees are sacred. The vast roots, far-reaching in every direction, look in the lantern-light like a writhing and crawling of dragons.

The avenue is certainly not less than a quarter of a mile in length; it crosses two bridges and passes between two sacred groves. All the broad lands on either side of it belong to the temple. Formerly no foreigner was permitted to pass beyond the middle torii The avenue terminates at a lofty wall pierced by a gateway resembling the gateways of Buddhist temple courts, but very massive. This is the entrance to the outer court; the ponderous doors are still open, and many shadowy figures are passing in or out.

Within the court all is darkness, against which pale yellow lights are gliding to and fro like a multitude of enormous fireflies—the lanterns of pilgrims. I can distinguish only the looming of immense buildings to left and right, constructed with colossal timbers. Our guide traverses a very large court, passes into a second, and halts before an imposing structure whose doors are still open. Above them, by the lantern glow, I can see a marvellous frieze of dragons and water, carved in some rich wood by the hand of a master. Within I can see the symbols of Shinto, in a side shrine on the left; and directly before us the lanterns reveal a surface of matted floor vaster than anything I had expected to find. Therefrom I can divine the scale of the edifice which I suppose to be the temple. But the landlord tells us this is not the temple, but only the Haiden or Hall of Prayer, before which the people make their orisons, By day, through the open doors, the temple can be seen But we cannot see it to-night, and but few visitors are permitted to go in. 'The people do not enter even the court of the great shrine, for the most part,' interprets Akira; 'they pray before it at a distance. Listen!'

All about me in the shadow I hear a sound like the plashing and dashing of water—the clapping of many hands in Shinto prayer.

'But this is nothing,' says the landlord; 'there are but few here now.

Wait until to-morrow, which is a festival day.'

As we wend our way back along the great avenue, under the torii and the giant trees, Akira interprets for me what our landlord tells him about the sacred serpent.

'The little serpent,' he says, 'is called by the people the august Dragon-Serpent; for it is sent by the Dragon-King to announce the coming of the gods. The sea darkens and rises and roars before the coming of Ryu-ja-Sama. Ryu-ja. Sama we call it because it is the messenger of Ryugu-jo, the palace of the dragons; but it is also called Hakuja, or the 'White Serpent.' [6]

'Does the little serpent come to the temple of its own accord?'

'Oh, no. It is caught by the fishermen. And only one can be caught in a year, because only one is sent; and whoever catches it and brings it either to the Kitzuki-no-oho-yashiro, or to the temple Sadajinja, where the gods hold their second assembly during the Kami-ari-zuki, receives one hyo [7] of rice in recompense. It costs much labour and time to catch a serpent; but whoever captures one is sure to become rich in after time.' [8]

'There are many deities enshrined at Kitzuki, are there not?' I ask.

'Yes; but the great deity of Kitzuki is Oho-kuni-nushi-no-Kami, [9] whom the people more commonly call Daikoku. Here also is worshipped his son, whom many call Ebisu. These deities are usually pictured together: Daikoku seated upon bales of rice, holding the Red Sun against his breast with one hand, and in the other grasping the magical mallet of which a single stroke gives wealth; and Ebisu bearing a fishing-rod, and holding under his arm a great tai-fish. These gods are always represented with smiling faces; and both have great ears, which are the sign of wealth and fortune.'

 

6 The Hakuja, or White Serpent, is also the servant of Benten, 01 Ben- zai-ten, Goddess of Love, of Beauty, of Eloquence, and of the Sea. 'The Hakuja has the face of an ancient man, with white eyebrows and wears upon its head a crown.' Both goddess and serpent can be identified with ancient Indian mythological beings, and Buddhism first introduced both into Japan. Among the people, especially perhaps in Izumo, certain divinities of Buddhism are often identified, or rather confused, with certain Kami, in popular worship and parlance.

Since this sketch was written, I have had opportunity of seeing a Ryu-ja within a few hours after its capture. It was between two and three feet long, and about one inch in diameter at its thickest girth The upper part of the body was a very dark brown, and the belly yellowish white; toward the tail there were some beautiful yellowish mottlings. The body was not cylindrical, but curiously four-sided—like those elaborately woven whip-lashes which have four edges. The tail was flat and triangular, like that of certain fish. A Japanese teacher, Mr. Watanabe, of the Normal School of Matsue, identified the little creature as a hydrophid of the species called Pela-mis bicalor. It is so seldom seen, however, that I think the foregoing superficial description of it may not be without interest to some readers.

 

7 Ippyo, one hyo 2 1/2 hyo make one koku = 5.13 bushels. The word hyo means also the bag made to contain one hyo.

 

8 Either at Kitzuki or at Sada it is possible sometimes to buy a serpent. On many a 'household-god-shelf' in Matsue the little serpent may be seen. I saw one that had become brittle and black with age, but was excellently preserved by some process of which I did not learn the nature. It had been admirably posed in a tiny wire cage, made to fit exactly into a small shrine of white wood, and must have been, when alive, about two feet four inches in length. A little lamp was lighted daily before it, and some Shinto formula recited by the poor family to whom it belonged.

 

9 Translated by Professor Chamberlain the 'Deity Master-of-the-Great-Land'-one of the most ancient divinities of Japan, but in popular worship confounded with Daikoku, God of Wealth. His son, Koto-shiro- nushi-no-Kami, is similarly confounded with Ebisu, or Yebisu, the patron of honest labour. The origin of the Shinto custom of clapping the hands in prayer is said by some Japanese writers to have been a sign given by Koto-shiro-nushi-no-Kami.

Both deities are represented by Japanese art in a variety of ways, Some of the twin images of them sold at Kitzuki are extremely pretty as well as curious.

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