日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし 風景スケッチ
図―670
神戸では窓から数名の労働者が杙(くい)を打ち込んでいるのを見た。その方法は、この日記のはじめの方で、すでに述べた。我々は今、彼等の歌の意味を知った。図670は足代の上で、重い長い槌を持ち上げる人々を示している。下にいる二人は、打ち込まるべき伐を支え、その方向をきめる。その一人が短い歌を歌うと、足代の上にいる者達は僅に身体を振り勤し、槌をすこし持ち上げることによって、一種の振れるような拍手を取り、次に合唄(コーラス)に加り、それが終ると三、四回伐を叩き、次で下にいる男がまた歌を始める。歌は「何故こんなに固いのか」「もうすこし打てば伐が入る」「もうすぐだ」というような、質問、あるいは元気をつけるような文句で出来ている。この時数回続けて、素速く叩き下す。上にいる男達は屢屢、独唱家の変な言葉に哄笑し、一同愉快そうに、ニコニコしながら働く。彼等は一日に、かなりな量の仕事を仕上げるらしいが、如何にもノロノロと、考え深そうに働くのを見ては、失笑を禁じ得ない。
[やぶちゃん注:「日記のはじめの方で、すでに述べた」「第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 1 モース来日早々「よいとまけ」の唄の洗礼を受く」を参照。その後もこの「よいとまけ」はたびたび記しており、ホントにモースはヨイトマケの作業とその唄が大好きなんである。]
図―671
神戸で三日滞在した後、我々は大阪へ行き、そこから紀伊の国の和歌浦へ向った。私は田原氏と先発し、あらゆる町で陶器を求めて骨董店をあさった。大阪平野を横断して、向うの山まで行く路は、単調ではあったが、いろいろ興味があった。全地域にわたって、絵画的な四、五の群をなす、大きな藁の稲叢(いなむら)がある。これは高さの違う高い棒の周囲に集められ、各々その中心をなす棒の先端である所の、小さな尖塔を持っている。これ等の稲叢の多くには、瓢簞(ひょうたん)や南瓜(かぼちゃ)がからまり、又農夫達が休み場所にする小さな小舎をかけたのもある。図671はそれ等の外見である。近い距離をおいて、この土地の濯漑に使用する単式或は複式のはねつるべがある。重い方の端には円盤に似た形で、中央に穴のある荒削りの石があり、この穴の中に棒の末端がさし込んである。これ等が何千となく広い平原に散在し、その多くは使用されつつあった。灌漑が行われつつある範囲の広汎さは、恐らく支那を除いては他にあるまい。私はやがて支那へ行き度いと思っている。そこでは、はねつるべは、二千年も前からある。
[やぶちゃん注:「田原氏」田原栄。既注であるが、岩国を出て以降のモースの通訳で、かつてのモースの教え子である。後に東京専門学校(現早稲田大学)の理科教師となった。
「大きな藁の稲叢」これは「稲積(にお)」である。歴史的仮名遣では「にを」で民俗学的には古くは「にほ」と呼んだらしい。平凡社「世界大百科事典」によれば、刈った稲を円錐形に積み上げたものを称し、「にお」は新嘗(にひなめ)の「にひ」「にふ」の他に「贄(にえ)」の語彙とも関連すると考えられ、所謂、「神霊に捧げる供物」という意味であるという。刈ったばかりの稲穂のついたままの束を積み上げた場所は、そのまま「田の神」を祀る祭場と考えられていたという説もある(私は古えの稲の保存システムとしてのプラグマティクな効用と並行して、この説を強く支持するものである)。稲積の名称や形状は各地で少しずつ異なっており、この訳に出る「いなむら」やこの「にお」の他、「にご」「みご」「にゅう」「にょー」「つぶら」「ぐろ」「すずみ」「すすき」「ほづみ」「いなこづみ」などと呼ばれ、頂には「わらとべ」「とつわら」「とび」などと呼称する藁製の笠形の飾りや屋根を載せるのが特徴である、とある。
「私はやがて支那へ行き度いと思っている」この最後の来日の最後、明治一六(一八八三)年二月十四日離日してから、モースは中国及び東南アジアを経てヨーロッパへ向かい、マルセイユ(四月三十日着)からパリへ、そこからイギリスへ向かい、六月五日になってやっとアメリカに帰国している(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の年譜に拠る)。]
図―672
[やぶちゃん注:この下の図にはそれぞれの部分を説明するキャプションがあるが、「達筆」のモース(晩年の秘書役だった幼馴染みの女性はよくぞ読み取ったと賞賛されるほどの悪筆であったことは有名)なれば、これ、なかなか手強い。それでも水車の上にあるのは文字通り“Water wheel”、その下部が浸かっているのは“River”、その右手の土手も文字通り“Bank of river”で、水車から土手上に渡されてある樋は“Trough”(トラフ。家畜の飼料・水等を入れる細長い「かいばおけ」「槽(ふね)或いは屋根の雨樋の意がある)と書いてあるように私には読めるが、如何?]
川の流れを動力とする、非常に巧妙な水車(図672)があった。これは支部人が考えたもので、東京及びその以北には稀だが、南方諸国ではよく見受ける。車輪は径八フィート、あるいはそれ以上で、その外面の横側に、大きな竹の管が斜に取りつけてある。水流によって車が回転させられると、竹の管に水が充ち、それ等の管が上へ来ると水は流れ出して、車輪の中心に並行して置かれる深い箱型の水槽へ落ち込む。水はこの水槽から又別の水槽へ流れ込み、そこから渾漑溝へ行く。各々の竹が順番に水で充ち、車軸の上方へ来てはその水を水槽へこぼす、規則正しいやり方を見ていると、中々面白い。時に河岸に添うて、二、三個の水車が相接してあることもあり、一日中には多量の水が水田を灌漑する為に揚げられる。
[やぶちゃん注:「八フィート」約二メートル四四センチメートル。]
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