『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 小町
●小町
小町は若宮小路の東より南へ折れて行、夷堂橋までの間を云、東鑑に建久二年三月四日、小町大路の邊失火、江間殿相摸ノ守等人屋敷十宇燒亡、南風烈ク餘煙如ㇾ飛、鶴岡若宮ノ回廊、經所、幕府等悉ク灰燼となるとあり、鎌府盛なりし頃は、此地に群臣の邸宅を賜はり、其間市鄽(してん)駢羅(べんら)して、頗る饒富(げうふ)の地なりしとぞ。
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、現在の「小町通り」とは若宮大路を挟んだ反対側、東側の通りであることを説明していることを御理解戴いているであろうか? 現在の「小町通り」は近世末か近代以降のかなり新しい時期に、観光用土産屋の通りとして新たに生まれた通りであってこの「小町通り」自体が中世まで遡ることの出来る小路大路の類いではない。「小町通り」という名が剽窃された由来も明らかではないが、この反側(はんそく)側のゆかしい「小町」の名を観光宣伝にうってつけとして体(てい)よく奪い取ったものと考えてよかろう。
「建久二年三月四日」「吾妻鏡」の建久二(一一九一)年三月四日の条を引く。
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○原文
四日壬子。陰。南風烈。丑剋小町大路邊失火。江間殿。相摸守。村上判官代。比企右衞門尉。同藤内。佐々木三郎。昌寛法橋。新田四郎。工藤小次郎。佐貫四郎已下人屋數十宇燒亡。餘炎如飛而移于鶴岡馬場本之塔婆。此間幕府同災。則亦若宮神殿廻廊經所等悉以化灰燼。供僧宿房等少々同不遁此災云々。凡邦房之言如指掌歟。寅剋。入御藤九郎盛長甘繩宅。依炎上事也。
○やぶちゃんの書き下し文
四日壬子。陰(くも)る。南風烈し。丑の剋、小町大路邊から失火す。江間殿・相摸守・村上判官代・比企右衞門尉・同藤内・佐々木三郎・昌寛法橋(ほつきやう)・新田(につた)四郎・工藤小次郎・佐貫四郎已下の人屋數十宇燒亡す。餘炎飛ぶが如くして、鶴岳馬場(ばばもと)の塔婆(たふば)に移る。此の間、幕府、同じく災す。則ち亦、若宮神殿・廻廊・經所(きやうじよ)等、悉く以つて灰燼(くわいじん)と化す。供僧の宿坊等少々、同じく此の災を遁(のが)れずと云々。
凡そ邦房(くにふさ)の言、
掌(たなごころ)を指すがごときか。寅の剋、藤九郎盛長が甘繩の宅に入御。炎上の事に依つてなり。
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引用中の「江間殿」は北条義時、「相摸守」は大内惟義、「村上判官代」村上基国、「比企右衞門尉」比企能員(よしかず)、「同藤内」は比企朝宗、「佐々木三郎」は佐々木盛綱、「新田四郎」新田忠常、「工藤小次郎」は工藤行光、「佐貫四郎」は佐貫広綱で、皆、幕閣の重臣らで、「此地に群臣の邸宅を賜は」ったというこの叙述は正しい。なお、最後の「邦房の言、
掌(たなごころ)を指すがごときか」というのは、実は「吾妻鏡」のこの前日の条に、侍所に伺候した人々の中の。儒者大和守維業(これなり)の子である広田次郎邦房という者が周りの傍輩らに、「明日、鎌倉に大火災出來(しゆつたい)せん。若宮、幕府殆んど其の難を免(まぬか)るべからず。」と奇体な予言をし、聴いた者どもは「是れ、大和守維業が男なり。然らば、家業を繼がば、儒道の號(な)有ると雖も、天眼を得難たからんかの由、人、之れを咲(わら)ふ」という事実が記されていることを受け、彼が予言した通りの事態となったというべきであろうか、と呆れ懼れているのである。因みに私は、この事件は放火であって、広田次郎邦房という人物を実は深く疑っている。しかし、不思議なことに「吾妻鏡」は彼を疑るどころか、その記載ぶりは寧ろ、邦房の予知能力を称讃する形で終わっているのがこれまた何とも不審の極みなのである。
「市鄽」「してん」と読む。市(いち)とそれを形成する「鄽」=店(みせ)のこと。
「駢羅」沢山の物が並ぶこと。並び連なること。
「饒富」読みは「ぜうふ(じょうふ)」が正しい。豊かなこと。豊饒(ほうじょう)。]
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